白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

As a foreigner

2009-11-10 | 日常、思うこと
1年4か月ぶりの大阪は、すっかり変わってしまっていた。





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11月7日。
羽田を発ってすぐ、富士の秀麗な山容を見下ろす贅沢を
味わうことができた。
雪を頂いていたのはまだ、8合目までといったところか。
しばらくして、伊勢湾上空、中部国際空港を見下ろすと
あれあれ、もう降下態勢である。
実は、東京から大阪へのフライトは、初めてだったから
所要時間の感覚がわからなかった。
そうこうするうちに、都島区上空から新大阪駅の真上、
庄内、ときて、あっという間の着陸だった。





伊丹空港は、僕が大学生活を送った街にほど近い。
久しぶりに、母校を歩こうかとも思ったところで、
不意に動悸がして、やめた。
去年、僕はある理由があって大阪という街を捨てた。
持病の大発作を起こしたのも、一度目は阪急梅田駅、
二度目は阪急蛍池駅付近の列車内でのこと。
悲しいかな、正直にいえば、阪急電車に乗ること自体、
かなりの負担になってしまっている。
付言すれば、自動車を運転することもつらく、怖い。





石橋にも、箕面にも、豊中キャンパスにも向かわずに
リムジンバスで向かった先は、西宮北口だった。
そこには、コーナーポケットというJAZZ喫茶がある。
まだ、大阪で働いていたころのことだったと思う。
先輩であり戦友でもある、トランペッターのF氏に
連れられて、ある秋の日に訪れた。
白髪に髭を蓄えたマスターが、自慢のJBLパラゴンで
カウント・ベイシーの「Breakfast&Barbeque」を
掛けてくれた。
サックスセクションがそこにいる、と思うような音の
その臨場感に圧倒された記憶がある。





大阪を離れてしばらくした頃、F氏を通じてだったか、
マスターの訃報を聞いた。
急死だったそうだ。
お別れをと思った僕は、当時、失業保険で食べていた
身の上だったこともあって、あきらめた。
もう一度、あの店に行きたいなあ、と思っていて、
結局果たせないままだったから、この旅で、是非にと
思っていたのに、
開店時間をいくら過ぎても店のシャッターが開かない。





やっぱり、おいらはいろいろなことがらやものごとや
ひとびとに拒まれているのかなあ、と、
悪い考えがふとよぎったりして、なんだか心細いのを
追い打ちをかけるように、
再開発の進んだ西宮北口の街並みのそれは、
僕の知っているそれではなく、
高層の複合施設が幾つも立ち並ぶ、まったく別のもの。
バスの車窓から見た甲子園も、とてもあの「甲子園」に
思われなかった。





結局、コーナー・ポケットをあきらめて、不安と動悸を
抱えたままに、近くの喫茶店に入った。
何だか秋葉原で見かけるような人種が店の一角を占めて
何だか違和感を感じながら珈琲を一気飲みした後、
JR西ノ宮駅までタクシーに乗り、久しぶりの神戸線で
大阪に入った。





久し振りのリッツ・カールトンは、ややアメニティが
ダウン・グレードされていた気がした
バス・ソルトと、マウス・ウォッシュがなくなり、
歯ブラシも変わっていたし、
ドリンク・ブースからは、キャンディを入れた器が
なくなっていた。
それでも、ホスピタリティ溢れるスタッフのサービスは
なお健在で、
エレベーターの中で交わした何気ない雑談の内容が、
その後の滞在のあいだ、ずっと、当たり障りのない程度に
スタッフに共有されていた。
僕の行程、予定を告げてあったからかもしれないが、
気配りの言葉を、スタッフとたまたま出くわしたときに
ずいぶんもらったおかげで、
動悸や心細さは幾分か、やわらいでくれた。





36階から大阪の街を眺めると、ずいぶんと新しい
高層ビルが増えた代わりに、
フェスティバルホールのあった場所がまったくの更地に
なっていて、虚しさや憤りがこみあげてきた。
キース・ジャレットやジョアン・ジルベルトを、
もう会うことはないだろう大切なひとと見にいったこと、
そして、素晴らしい音を聴いたこと、
そうした場所が、もはや、ないということ。
ベルリンの、旧フィルハーモニー跡地の寂寞感に近い。





街へ出て、多くの建物の写真を撮った。
サンケイホールはブリーゼタワーになっていた。
阪急百貨店は超高層化され、フコク生命も高層化され、
大阪駅北口には伊勢丹・三越の巨大な構造体が出来、
大丸は増床して、大阪駅は迷路のよう、
もはや、僕の知っている梅田の街はなくなっていた。
完全なエトランゼとして、歩くよりほかはない。





夜、結婚を決めた妹とヒルトンプラザの懐石料理で
食事をしながら、式に至るまでに片付けるべき課題や
もろもろの事情についてを整理し、一緒に悩んだ。
要約すれば、おそらく、こちら側からは僕と両親しか、
結婚式には出られないだろうな、ということ。
一緒にリッツのバーに移動して、生演奏を聞いたあと
終電に送った。





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11月8日。
遅く起きて、大阪にいた頃によく通った土佐料理店で
昼食を取った後、茶屋町のNUの楽器店で指弾を装い
指ならしをした。
夕刻、京都でピアノを弾くことになっていたからだった。





最近、人前で演奏することに極度の緊張を感じるあまり、
不随意に指がこわばって動かなくなってしまうことがある。
スポーツ選手のイップスに近い状況と言えばいいだろうか。
指が動かないゆえに、楽器のコントロールが出来ず、
他人の音に注意がいかないために、拍節や進行を見失うなど
今までにはあり得なかったことが起こってしまっている。
もともと、実はある程度準備をしてからでないと、
納得のいく演奏が出来るほうではないのだが、
そのせいで、11月6日のライブは惨たらしい出来になって
共演者、お客様には本当に申し訳ないことをした。





練習中や、気楽に人の眼を意識しない場面では平気なために、
指弾を装っての指ならしに、リズムのオートトラックに
合わせながら好き勝手に弾きまくっていたところ、
店員、というよりもむしろ、ローランドのスタッフが
つかつかと近づいてきて、名刺を渡され、名を聞かれた。
無論、名前は名乗らなかった。
彼が、僕をプロだと勘違いしていたからである。





いったんホテルに戻り、身だしなみを整えてから新快速、
京都から四条、烏丸の大丸でF氏と合流して、
LIVING BARへと向かった。
大学時代の楽友にして、1年間、レギュラーバンドで
ピアノとベースの関係で共演していたばかりでなく、
大学生活の4年間、事あるごとに共演していたH君の
結婚パーティに招かれていたためである。





H君はアメリカの大学院に進学し、その後、ドイツに移り
今はスイスのチューリヒで環境問題の専門家として
活躍している。
僕は、今回、彼から、余興での演奏のオファーをもらった。





万座の拍手の中、姿を現した彼は、相変わらずの格好よさを
純白のタキシードに包んでいた。
H君には、双子の兄がいるのだが、年を追うごとに似てきて
今ではもうどちらがどちらなのか、見分けが難しい。
H君の兄と隣り合わせて、いろいろな話をしたのだが、
H君より少しだけ声が高いというところ以外、
顔、口調、相槌の打ち方、語彙、リアクション、振る舞いの
そのどれもがH君とまるきり同じで、
時間を追ううちに、もう区別がつかなくなってしまった。





H君からのオファーは、「All of me」だったが、
ただの一度も、リハーサルをすることはなかった。
それどころか、彼と共演するのは大学卒業以来のこと、
実に6年半ぶりのことだった。
イントロを弾くように頼まれていたのだが、
その場に至るまでどのように弾こうか決めていなかった。
ふ、と思い付いて、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」、
結婚行進曲を弾いてから、コーラスに入った。
6年半ぶりに演奏している感覚はなかった。
時間が戻った、というのでもない。
まるで、今の今まで、一緒に演奏し続けてきたような、
不思議な安心感があった。
こんな感覚を覚えるとは思わなかったのに、驚くことも
感極まることもなく、まるで日々の暮らしのように、
穏やかな陽光を浴びたように、風もない湖水のように、
その後の時間は流れて行った。





アウトロで再び結婚行進曲を奏でて、拍手が万雷のように
思われたとき、H君のほうを振りかえると、
彼はやさしい笑顔をたたえて、「ありがとう」と言った。
笑って、握手して、それ以上には、何も言わなかった。
何も言う必要を感じなかったせいでもある。





F氏、そして、軽音時代の先輩のT氏とともに
烏丸から阪急に乗り、
ホワイティにある、軽音時代の先輩トロンボーン吹きが
若旦那として働く寿司店に行き、軽く飲んでから、
若旦那と合流して鍋をつついた。
終電間際、桜橋口まで戻ったところで、F氏カップルに
弾きとめられて、コンコースで琥珀エビスを飲みながら、
F氏の相方であるピアノ弾きと、内藤廣の建築について
少しの時間、話をしてから、別れた。





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11月9日。
遅くまで眠り、リッツのスタッフに強行日程を気遣われつつ
チェックアウトした後、インデアンカレーを食してから
南海高野線で橋本へ向かった。
昔、交際していたひとが大阪狭山市に住んでいたのだが、
そちらの方向へむかうのは今回が初めてだった。
こんな遠くから、高槻にまで来てくれていたのか、と思って
思わず、少し遠くの空を眺めた。





当地での仕事を終え、当地の古刹を訪れた後、
和歌山線・阪和線を経由して、関空から羽田へ飛んだ。
スターフライヤーの設備は素晴らしいが、CAの質は
やはり、JALのほうがよい。





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東京へ戻ったところ、地元の両親から電話が掛って、
案の定、身を固めろだの何だの、と、云々。








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