白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

BACK TO THE APPLE

2009-11-15 | 日常、思うこと
金曜、仕事相手と銀座の文壇バー、西麻布の会員制ラウンジと
飲み歩いて、新宿二丁目に着くころには鳥が囀っていた、云々
明確に書いてしまいたいのだが、
実はすっかり酔い潰れていて、途中からの記憶がない。
土曜、目を覚ましたとき、本郷の我が家に眠っていたこと、
財布も、その中身も、あるべきかたちで手元にあったこと、
そして、隣に男も女も眠っていないことに安心して、
時折ぐるぐる回る視界と、心臓の鼓動と同期してくる頭痛とを
荷物に一緒くたにまとめて、身支度もほどほどに家を出た。





上野駅で新幹線に飛び乗って、向かった先は長野の片田舎の
小さな町で行われたシンポジウムで、
そこでは、その土地の人々が、その土地の風土を守りながら
決して無理をしない程度に、大学やよそ者と一緒になって
まちづくりを進めている。
今回は、その主催者の大学教授や学生のひとびとに招かれて
旅をしてきたわけなのだが、
何せ前日の深酒がたたって、町にたどり着くまではほとんど
眠り通しだった。






比較研究事例の紹介と、住民協働によるアイデアについて
まちのひとびと自身が披歴しあい、議論するという場所に
仙台のメディアテークや金沢の21世紀美術館などの
構造設計を手掛けた、日本を代表する建築構造家の方や
国土交通省のキャリアの方など、著名人が列席して、
それぞれの発表に賛意や助言を寄せるという、
少し風変りなシンポジウムだった。





まちづくりには持続性が必要だと思う。
決して無理をせず、生活を脅かすような過剰な投資に
陥ることなく、あくまでも自由意思の発露によって
まちに住まうひとびとの手によって進められるべき
事柄であるからこそのことである。
理念が受け継がれること、進んでそれを引き受けること、
これは、そう易々と達成されるようなことではない。





地域の再生のために、風土も文化も異なる地域の
「成功事例」と呼ばれるものに安易に飛びついて、
さながら臓器移植のようにして、事業や計画を
実行に移したとしても、
地域の拒絶反応などによってそれがうまく根付かず
中止されるようなことになれば、
その時にはもはや、まち自身が致命的なダメージを
受けてしまって、まちの命が縮んでしまいかねない。





そうした賭けを選ぶか、身の丈に合ったまちを作るか。
サステナビリティという言葉がクローズアップされても、
例えば50年以上も、ダムなどの大型公共工事を前提に
まちづくりを進めてきた場所にとっては、
サステナビリティの概念そのものが、異種の臓器かも
しれないのだから、問題の本質は深く、暗い。
そうこうしているうちに、美しい棚田は耕作放棄されて
荒廃し、山に戻っていく。
その代わりに、食べものが生まれる場所が失われる。





シンポジウムの後、交流会場にはピアノがあって、
ぜひ弾いてくれというリクエストを学生の皆さんから
頂いたこともあって、
相手が求めるイメージを言葉にしてもらい、
それを音にするやり方で、10曲ほど弾いた。
学生さんからは、ありがとうございます、と言われた。
感謝されることに慣れていないせいか気恥ずかしく、
進められるままにワインを飲みながら、即興曲ばかり
気楽に弾いたからか、イップス的な症状は出なかった。
その後、シンポジウムに列席していた著名人の方々と
お話をさせていただき、帰途の新幹線でも二次会と
歓談、議論、風発と相成った。






帰途、林檎をもらった。
セザンヌよろしく腐らせるまで窓辺に、とも思ったが
不器用な包丁さばきでもって皮を剥いて口に入れると、
歯触りは清々しく香りは高く蜜も豊かで実に美味しい。
思わず、冷蔵庫から生ハムを出して巻いた。





果実のある場所に戻りたい。
そういう場所がなければ、僕は作ることにした。
豊饒なる文化を宿すところには、必ず豊饒な基盤がある。
物理的規模や経済的規模において、おのずと自制された
風土のなかから、適切な文化が生まれてくる。
cultureと、cultivateの起源的同義性を、
各地の田舎を訪れるたびに実感する。
そして、東京の膨れ上がった、すかすかの文脈に気づく。
その、すかすかの文脈が、地域の平準化に大いに役立ち
均質な、空洞化したまちが全国に出来上がった。
それを、費用対効果という、これまたすかすかの原理で
今後、文化さえも仕分けられていくのだろうか。





林檎はまだ、1個残っている。
この林檎が出来る風土は、日本に残っていくのだろうか。

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