東大構内の銀杏の群れは、東京が冷涼な空気の層に
ひたされる寸前の、ただ一日の穏やかな小春日和の
雲ひとつ見当たらない、紺碧の空に黄金に照り映え、
正門の、格子の鉄扉から安田講堂の塔屋までの、
緩やかな上昇線を、
まだ、ひとが追いつける速度で風が吹き抜けるたび、
舞い散るさくら花びらのごとく、
葉を石畳へと、そおっと降り落として層を為し、
群れ建つ古色蒼然たるゴシック建築の影の上へと
百億の線条で織りなされたかのような黄色の絨毯を
敷き詰めては幾重にも重ねていくかのようにして、
訪れる者のための絵を描いていた。
多くのひとびとが群れ集っていた。
水彩画、写真、コンテ、眼、瞼、耳、肌をつかって、
造形や記憶、かたちにする試みを行ったり、
幼子と、雪遊びでもするようにして、落葉をかき集めて
撒きあってみたり、
ずっと路傍にしゃがみこんだまま、ここよりももっと
美しい場所へ向かおうと囁きあってみたりしている
そのあたまの上に、落葉が小さな黄金の傘をつくる。
雪踏みの、地を固める音ではなく、
乾き、蹴られて巻き上がる音が、歩みに伴う。
さくらの花びらが、その湿度によって
振り落ちるみずからを「重み」をもって座礁させて
薄紅色を薄墨に変えて朽ちていくのに比べれば、
銀杏の葉は煌びやかで軽く、少しばかり、あっけない。
日本画の画題に、銀杏は主流の位置にあるのだろうか。
日本画に銀杏の絵を観ることが少ないように思うのは、
僕の見識の浅薄によるものだろうか。
*************************
東大正門前の喫茶店「ルオー」で昼食をとった。
40年前、本郷に住んでいた父がよく通ったそうで、
実家には、当時の「ルオー」オリジナルのマッチが
残っている。
昔は、喫茶店一軒一軒のそれぞれが、オリジナルの
マッチを用意してあったそうだ。
喫煙者が屋外の寒風吹きすさぶ路面へと追いやられ、
あるいは、硝子越しに隔離され、換気扇が唸っている
大資本系列のカフェ・チェーンの繁盛ぶりを見ると、
さすがに、わずかばかりの郷愁と寂寞を感じてしまう。
「ルオー」の昼食と言えば、カレーということになる。
セイロン風カレー、950円、デミダスコーヒー付き、
クラシック音楽の流れる店内の、古びた席に座って
往来の影を瞳の端に感じつつ、スパイスの効いたカレーを
汗を拭きながら食べた。
しっかりと煮込まれて、匙を差し込めばすぐにほろほろ
身が解れるほどの肉と、形をとどめた馬鈴薯とが、
皿の真ん中に、どん、と鎮座していて、少し微笑ましい。
次週、12月3日の夜10時、NHKにて、タモリ氏の番組
「ブラタモリ」で、本郷界隈が取り上げられるらしい。
先週、テレビ東京の「レディス4」でも、我が家の近所が
映っているのを、偶然、目にしたところである。
ここのところ、本郷界隈のメディア露出が高いと思って、
知人のTV局関係者に聞いてみたところ、
いわゆる「街番組」は、順繰りに制作しているのだそうだ。
そのため、同じ地域を取り上げた番組が、局は異なれど
同じ時期に集中して放送されることになりやすいという。
*************************
「出来の悪いコンサート・ホールと同じで、
情動的空間には死角がある。
そこに来ると音が伝わらなくなるのだ―
完璧な対話者としての友人とは、したがって、
あなたの周囲に最高の共鳴効果を作り出してくれる者の
ことではないか。
友情とは完全な音響空間のことだと言えないだろうか」
(ロラン・バルト)
本当にそうだろうか。
最高の共鳴効果を、周囲に作り出そうとするならば、
それは外部との融通や浸透からいったん引きはがされ、
切り取られ、閉じられ、それ自体で成立する関係から、
出発しなければならない。
必然的に、そこに集うひとびとは個的な性格を失くして
平準化され、匿名化されているはずで、
逆にいえば、みずからを進んで匿名化することにより、
「個」を埋葬して、「関係性」に対して
無名の信奉を表明する、ということでもある。
その宗教性を批判すること自体も、宗教の特質である
信仰、という概念によって、予め除かれるのだろう。
完全な音響空間とは、おそらく子宮の意味に近い。
互いが信頼しあい、何があろうとも全能性の海のなかを
ともに泳いでいけるのだと、いう、
おそらく誰にも証明できない、しかし決して揺るがない
告白を共にしてから、
それぞれが自らの心音しか聞こえない無響室を出て、
恐るべき量のノイズに絶えず錐揉みされる外部から逃れ、
「世界はわれわれのためにあるのだ」という言葉で
「ふたり以外は世界ではない」と告白してしまうような
不用意さと危うさを、軽々と「克服」してしまえるのは、
それ以外の詩性の言葉によっては、おそらく困難だろう。
確かに、グレゴリオ聖歌が、巨大な聖堂の地の底から
沸きあがるように空間に響くとき、
または、キース・ジャレットの発したピアノの音が、
透徹したクリスタルのような余韻をもって消えていくとき、
あるいは、ジョアン・ジルベルトの呟くような歌声が、
微かな空気の揺らぎに微温をもって耳を円やかに覆うとき、
ひとびとの呼吸が同調するのを身体経験として持ってしまうと、
それに美しいと名付けざるを得ない自らの判断力について
容易に呪うことなど出来なくなる。
ゆえに、完全なる音響空間のような関係、という詩性や、
完全なる共鳴効果が、この身にも実現してくれたら、という
甘く、危うい憧憬を、容易に断ち切りがたいのも確かである。
だからこそ、詩性を詩性のままに扱い、踏みとどまる自由を
持ち続けること、
憧憬を無理に断ち切ることなく、関係性の問題について、
閉鎖と解放といった対立軸上に置かないこと、
さながら子宮から「出産され続ける」ようにして
自らの内部の心音と、無数の外部のノイズとを共鳴できる
やわらかでしなやかな「構え」をもつこと、
そして、他者との「共鳴」の準備を超えることを望まぬこと、
こうしたことに、より重きを置くべきなのではないかと思う。
たとえ聞こえずとも、震えることまで止めてはいけない。
*************************
行きつけのジャズバーで、ライブを聴いた。
僕と同世代のピアノトリオを聴くのは初めてだった。
ピアニストは、東京では気鋭の若手として注目されて
J-POPシーンでも、アリーナ公演のサポートを務める
ひとだという。
MCで、彼は自分の原点をキース・ジャレットだと言った。
しかしこれ以上、感想を書くのはよしておこうと思う。
書くべき内容がないときには、書かないほうがよい。
ひたされる寸前の、ただ一日の穏やかな小春日和の
雲ひとつ見当たらない、紺碧の空に黄金に照り映え、
正門の、格子の鉄扉から安田講堂の塔屋までの、
緩やかな上昇線を、
まだ、ひとが追いつける速度で風が吹き抜けるたび、
舞い散るさくら花びらのごとく、
葉を石畳へと、そおっと降り落として層を為し、
群れ建つ古色蒼然たるゴシック建築の影の上へと
百億の線条で織りなされたかのような黄色の絨毯を
敷き詰めては幾重にも重ねていくかのようにして、
訪れる者のための絵を描いていた。
多くのひとびとが群れ集っていた。
水彩画、写真、コンテ、眼、瞼、耳、肌をつかって、
造形や記憶、かたちにする試みを行ったり、
幼子と、雪遊びでもするようにして、落葉をかき集めて
撒きあってみたり、
ずっと路傍にしゃがみこんだまま、ここよりももっと
美しい場所へ向かおうと囁きあってみたりしている
そのあたまの上に、落葉が小さな黄金の傘をつくる。
雪踏みの、地を固める音ではなく、
乾き、蹴られて巻き上がる音が、歩みに伴う。
さくらの花びらが、その湿度によって
振り落ちるみずからを「重み」をもって座礁させて
薄紅色を薄墨に変えて朽ちていくのに比べれば、
銀杏の葉は煌びやかで軽く、少しばかり、あっけない。
日本画の画題に、銀杏は主流の位置にあるのだろうか。
日本画に銀杏の絵を観ることが少ないように思うのは、
僕の見識の浅薄によるものだろうか。
*************************
東大正門前の喫茶店「ルオー」で昼食をとった。
40年前、本郷に住んでいた父がよく通ったそうで、
実家には、当時の「ルオー」オリジナルのマッチが
残っている。
昔は、喫茶店一軒一軒のそれぞれが、オリジナルの
マッチを用意してあったそうだ。
喫煙者が屋外の寒風吹きすさぶ路面へと追いやられ、
あるいは、硝子越しに隔離され、換気扇が唸っている
大資本系列のカフェ・チェーンの繁盛ぶりを見ると、
さすがに、わずかばかりの郷愁と寂寞を感じてしまう。
「ルオー」の昼食と言えば、カレーということになる。
セイロン風カレー、950円、デミダスコーヒー付き、
クラシック音楽の流れる店内の、古びた席に座って
往来の影を瞳の端に感じつつ、スパイスの効いたカレーを
汗を拭きながら食べた。
しっかりと煮込まれて、匙を差し込めばすぐにほろほろ
身が解れるほどの肉と、形をとどめた馬鈴薯とが、
皿の真ん中に、どん、と鎮座していて、少し微笑ましい。
次週、12月3日の夜10時、NHKにて、タモリ氏の番組
「ブラタモリ」で、本郷界隈が取り上げられるらしい。
先週、テレビ東京の「レディス4」でも、我が家の近所が
映っているのを、偶然、目にしたところである。
ここのところ、本郷界隈のメディア露出が高いと思って、
知人のTV局関係者に聞いてみたところ、
いわゆる「街番組」は、順繰りに制作しているのだそうだ。
そのため、同じ地域を取り上げた番組が、局は異なれど
同じ時期に集中して放送されることになりやすいという。
*************************
「出来の悪いコンサート・ホールと同じで、
情動的空間には死角がある。
そこに来ると音が伝わらなくなるのだ―
完璧な対話者としての友人とは、したがって、
あなたの周囲に最高の共鳴効果を作り出してくれる者の
ことではないか。
友情とは完全な音響空間のことだと言えないだろうか」
(ロラン・バルト)
本当にそうだろうか。
最高の共鳴効果を、周囲に作り出そうとするならば、
それは外部との融通や浸透からいったん引きはがされ、
切り取られ、閉じられ、それ自体で成立する関係から、
出発しなければならない。
必然的に、そこに集うひとびとは個的な性格を失くして
平準化され、匿名化されているはずで、
逆にいえば、みずからを進んで匿名化することにより、
「個」を埋葬して、「関係性」に対して
無名の信奉を表明する、ということでもある。
その宗教性を批判すること自体も、宗教の特質である
信仰、という概念によって、予め除かれるのだろう。
完全な音響空間とは、おそらく子宮の意味に近い。
互いが信頼しあい、何があろうとも全能性の海のなかを
ともに泳いでいけるのだと、いう、
おそらく誰にも証明できない、しかし決して揺るがない
告白を共にしてから、
それぞれが自らの心音しか聞こえない無響室を出て、
恐るべき量のノイズに絶えず錐揉みされる外部から逃れ、
「世界はわれわれのためにあるのだ」という言葉で
「ふたり以外は世界ではない」と告白してしまうような
不用意さと危うさを、軽々と「克服」してしまえるのは、
それ以外の詩性の言葉によっては、おそらく困難だろう。
確かに、グレゴリオ聖歌が、巨大な聖堂の地の底から
沸きあがるように空間に響くとき、
または、キース・ジャレットの発したピアノの音が、
透徹したクリスタルのような余韻をもって消えていくとき、
あるいは、ジョアン・ジルベルトの呟くような歌声が、
微かな空気の揺らぎに微温をもって耳を円やかに覆うとき、
ひとびとの呼吸が同調するのを身体経験として持ってしまうと、
それに美しいと名付けざるを得ない自らの判断力について
容易に呪うことなど出来なくなる。
ゆえに、完全なる音響空間のような関係、という詩性や、
完全なる共鳴効果が、この身にも実現してくれたら、という
甘く、危うい憧憬を、容易に断ち切りがたいのも確かである。
だからこそ、詩性を詩性のままに扱い、踏みとどまる自由を
持ち続けること、
憧憬を無理に断ち切ることなく、関係性の問題について、
閉鎖と解放といった対立軸上に置かないこと、
さながら子宮から「出産され続ける」ようにして
自らの内部の心音と、無数の外部のノイズとを共鳴できる
やわらかでしなやかな「構え」をもつこと、
そして、他者との「共鳴」の準備を超えることを望まぬこと、
こうしたことに、より重きを置くべきなのではないかと思う。
たとえ聞こえずとも、震えることまで止めてはいけない。
*************************
行きつけのジャズバーで、ライブを聴いた。
僕と同世代のピアノトリオを聴くのは初めてだった。
ピアニストは、東京では気鋭の若手として注目されて
J-POPシーンでも、アリーナ公演のサポートを務める
ひとだという。
MCで、彼は自分の原点をキース・ジャレットだと言った。
しかしこれ以上、感想を書くのはよしておこうと思う。
書くべき内容がないときには、書かないほうがよい。
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