真昼の長い季節は、どうにも苦しい。
かつて最も好む時刻だった午前4時、5時、を、やむにやまれず
眠りの中に落とし込まざるを得ない生活をはじめてから
既に6年近くにもなるというのに、
いっこうに、身体の奥底の微弱な部分が現在の生活にどうしても
馴致しない。
深更、闇の中に眼を開くという行為が愛おしく懐かしくて、時折、
闇への渇望に伴う禁断症状ともいうべき心性が痺れとなって、
四肢の末端で跳ねまわる。
それが月光へののっぴきならぬ傾斜のせいであると自覚したのは
決して、このところの話ではない。
*****************************
晩秋に、しばしば大学の一室で夜明かししていた頃のことである。
午前4時、腹を空かせて帰途につく銀杏並木の大通りで、
葉を散らして吹き抜ける冷風に身を後ろから煽り押されて思わず
コートの襟を立てて歩きだすとき、
向かう西の方角から徐々に天を仰ぎ見ることが習慣となっていた。
ある夜、薄明の空の天頂の、朱と青の友禅色のあわいにぽつり、
細々と垂れてきた釣り針のような細くて鋭くて妖しくて冷たい
糸月があって、
あ、喰らいついてしまえばこのまま天蓋の外へ行けやせぬか、と、
引力の池に留め置かれた自身を呪わしく思ったのが始まりである。
音の海に遊ぶ魚のここちに身を沈めている漆黒の闇夜を過ぎると、
あり得ぬことがさもあり得るように思える時刻が来るものなのだ。
明けきらぬ夜には、冴えている眼は論理の明晰の崩落を防げない。
脳髄がひとりでに眠り始めて、心身の恒常性も破れはじめる。
身体の重みと意識の軽みが不均衡へ陥ろうとする瀬戸際でぎりぎり
鬩ぎ合っているうちに、
やがて、意識と身体の位置関係の捕捉すらも怪しくなってきた。
午前5時、僕は膝の裏や肩の後ろで考え、眼で歩いて、太腿で聞き、
指で舐めるような感覚のなかで生きていた。
心身において特定の機能を果たす部位が、勝手に持ち場を逃走し
さながら遊星が群れ飛躍するようにしてあちこちで引斥しあって
放埓な振る舞いでもって僕の身体を混然とさせたものらしい。
あのとき、たとえ、かくもいかがわしい風体で針月に釣られても、
雑魚として、地上へちゃぽん、と、投げ返されたことだろう。
実にその早暁、身体を2,3メートル後ろに引き摺りながら
箕面の下宿に辿り着いて、
先に帰って眠った振りをしていた相手の身体を弄ったのだから、
実に業罪、甚だ深い。
僕を使って月が織りなした「レダと白鳥」のお伽話だと嘯いても、
いったい誰がそれを信じようか。
***************************
昨夜の月は、地と硝子戸を震わせる雷鳴を伴って空に昇った。
今夏の太陽は甚だしい光熱で都市と生活を煮込んでいて、
夕闇から宵の口にかけてさえ、どっかりと炎熱が胡坐をかいて、
どろどろの地上のスープを啜っているような有様だから、
積乱雲が漆黒の闇の鍋底から湧き上がるのは、午後9時を過ぎ
そろそろ眠りの花がひとびとの頭蓋のうちに咲き始めて麻酔を
掛けようとする、丁度その頃合いである。
炎暑が漸く鎮まり始めて、ひとびとが疲れて漸く放熱を許され、
東の地平から糸月がするすると天頂から曳かれて昇る頃に、
北西方向から宵闇へと夥しい閃光が放たれて、天蓋の重厚な黒幕を
轟音を伴って裂き破った。
目も眩む強烈な光線の残照は、地から湧き上がる積乱雲の影像を
闇夜に映じた。
それは醜く盛り上がった紫黒色の巨大な肉塊の姿をして、
さながら大地が熱線で負ったケロイド状の火傷の痕跡のように
痛ましくも恐ろしく、惨たらしいものだった。
一方で、雷雲に飲まれることなく、東の空に留まる糸月は、
雷光の残影が宇宙を割ったひび割れのようであり、また、
引き裂かれた漆黒の闇を縫い合わせる施術の針のようでもあった。
****************************
満ちた月の、橙と輝白を往還する色調の薄気味悪さもさりながら、
糸月の姿に僕の見た「傷自体」と「施術具」の両義性のイメージは
それが「欠けている」姿であるがゆえに、起こったものか。
そしてそれが「復して満ちる」ことを知っているがゆえのことか。
謡曲「松風」の水桶に映じる月も、李白が湖面に拾おうとした月も
決して欠けてはおらぬものだったことだろうと思う。
水面の糸月に触れようものならば、きっと指を切って血色になって
しまったはずだからだ。
月に対して観照的であり得るうちは風流のなかに暮せよう。
しかし、月に喰らいついてどこかへ、などという、魔に憑かれた
願いをもって、いつしか月を見るようになってしまった者には、
欠けた月を拾うような、血で金銀砂子を汚しかねぬ行為に及んでは
いけない、という戒めをいくら自らの審美のうちに誓っても、
狼が満月の夜に吠えるように、狂わしく傷を求める情が巻いて
胸腔の内壁に銅版画のように蒸着して緑青に燃え出だすのを、
もはやどうにも鎮めがたいのである。
怜悧で蒼白くて不健康でありながら、触れば怪我をするような月の
危うさに魅かれてしまう自分の心情を認めてやっと、
僕は女心なる不可思議な両義性の素性に少し触れ得た思いがした。
月に生きていたかぐや姫のほうが、原始太陽であったという雷鳥の
宣言よりもずっと生々しい。
原始満ち欠けて変容する月の神は女であった。
*****************************
雷鳴が地平を打って巻き起こしたと思しき冷気の疾風が激しく
庭の木立を揺らして、午前0時、部屋の中へと吹き込んできた。
糸月は閃光に掻き消されることもなく、逆巻く雲流の動乱のなかで
男の背中に突き立てられた女の爪痕のように鮮明だった。
闇の発火現象のことを雷光というのなら、ノヴァーリスが詠った
「太陽の夢」という言葉は月よりも積乱雲にこそふさわしい。
月は夢ほどにぼんやりとはしていない。
もしかすると、糸月が地上に触れた部分に傷が出来て、瘡蓋となり、
それが地熱に蒸されて膿み、肉塊となって盛り上がったものが
雷雲であるのかもしれない。
そして、どうにも我々は太陽の恵みに感謝をし過ぎるので、月は
ずいぶんと我々を気づかれぬように傷つけてきたのではないかと
思われてならないのだ。
闇に浮かぶ変幻無限の光球はその色彩を蒼い幻想のなかに瞑せしめ
我々を蠱惑して、巧妙に自ら傷を望んだように錯視させたに違いない。
そうでなければ、芸術が月をモティーフにして、あれほどに数多くの
珠玉の品を、月の前に差し出してきたはずがないのだ。
死滅の彼方にある、とか、あるいは自らの葬礼を行っている、または、
水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできている、という月はやはり、
詩人の血を啜って輝いている、というほかにない。
芸術は、詩人の傷口から吸い出されるものではないかと思う。
******************************
「月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空に憧れて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。」
(エドガー・アラン・ポオ)
僕は本当はこの心性のあたりで留まっておきたかったのに、
鴉が「最早ない」というのを聞いてしまっていたのだった。
うつらうつらとまどろみながら夜を過ごして、
午前4時、雷鳴俄かに地底に反響して地上を鳴動させ
驚いて寝床から跳ね上がると、
糸月ははや西方に陥落しつつあった。
「星もなく赤き弦月ただひとり 空を落ちゆくは只ごとならず」
(宮沢賢治)
空恐ろしさに慄然として、眠りから醒めきらぬ重たい四肢に
布団を整えて掛け直して、強く眼を閉じていると、
どうもかそけき声が、微弱に太腿のあたりを撫でているようにして
聞こえてくる。
「ほら、起きて、おねがい、今からいきたいから。」
僕は眠いよ、またにして、と呟いて、どうやら本当の眠りに落ちた。
身体のあちこちが、ひとりでに微弱に震えているのを感じた。
******************************
起きて食堂に行くと、母に、背中に血が滲んでいると言われた。
鏡台の前で背を向けると、白のシャツのちょうど肩甲骨付近の
両側に、ぽつ、ぽつ、と血斑が数か所あった。
シャツをめくりあげると、糸月の形をした傷が爪痕のように
くっきりと、左右の背に穿たれていた。
陽光を浴びていた眼が突然暗くなった。
突如耳の底で苛烈な爆音が轟いた。
***************************
目を開けると、午前5時、日光は闇を消していた。
かつて最も好む時刻だった午前4時、5時、を、やむにやまれず
眠りの中に落とし込まざるを得ない生活をはじめてから
既に6年近くにもなるというのに、
いっこうに、身体の奥底の微弱な部分が現在の生活にどうしても
馴致しない。
深更、闇の中に眼を開くという行為が愛おしく懐かしくて、時折、
闇への渇望に伴う禁断症状ともいうべき心性が痺れとなって、
四肢の末端で跳ねまわる。
それが月光へののっぴきならぬ傾斜のせいであると自覚したのは
決して、このところの話ではない。
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晩秋に、しばしば大学の一室で夜明かししていた頃のことである。
午前4時、腹を空かせて帰途につく銀杏並木の大通りで、
葉を散らして吹き抜ける冷風に身を後ろから煽り押されて思わず
コートの襟を立てて歩きだすとき、
向かう西の方角から徐々に天を仰ぎ見ることが習慣となっていた。
ある夜、薄明の空の天頂の、朱と青の友禅色のあわいにぽつり、
細々と垂れてきた釣り針のような細くて鋭くて妖しくて冷たい
糸月があって、
あ、喰らいついてしまえばこのまま天蓋の外へ行けやせぬか、と、
引力の池に留め置かれた自身を呪わしく思ったのが始まりである。
音の海に遊ぶ魚のここちに身を沈めている漆黒の闇夜を過ぎると、
あり得ぬことがさもあり得るように思える時刻が来るものなのだ。
明けきらぬ夜には、冴えている眼は論理の明晰の崩落を防げない。
脳髄がひとりでに眠り始めて、心身の恒常性も破れはじめる。
身体の重みと意識の軽みが不均衡へ陥ろうとする瀬戸際でぎりぎり
鬩ぎ合っているうちに、
やがて、意識と身体の位置関係の捕捉すらも怪しくなってきた。
午前5時、僕は膝の裏や肩の後ろで考え、眼で歩いて、太腿で聞き、
指で舐めるような感覚のなかで生きていた。
心身において特定の機能を果たす部位が、勝手に持ち場を逃走し
さながら遊星が群れ飛躍するようにしてあちこちで引斥しあって
放埓な振る舞いでもって僕の身体を混然とさせたものらしい。
あのとき、たとえ、かくもいかがわしい風体で針月に釣られても、
雑魚として、地上へちゃぽん、と、投げ返されたことだろう。
実にその早暁、身体を2,3メートル後ろに引き摺りながら
箕面の下宿に辿り着いて、
先に帰って眠った振りをしていた相手の身体を弄ったのだから、
実に業罪、甚だ深い。
僕を使って月が織りなした「レダと白鳥」のお伽話だと嘯いても、
いったい誰がそれを信じようか。
***************************
昨夜の月は、地と硝子戸を震わせる雷鳴を伴って空に昇った。
今夏の太陽は甚だしい光熱で都市と生活を煮込んでいて、
夕闇から宵の口にかけてさえ、どっかりと炎熱が胡坐をかいて、
どろどろの地上のスープを啜っているような有様だから、
積乱雲が漆黒の闇の鍋底から湧き上がるのは、午後9時を過ぎ
そろそろ眠りの花がひとびとの頭蓋のうちに咲き始めて麻酔を
掛けようとする、丁度その頃合いである。
炎暑が漸く鎮まり始めて、ひとびとが疲れて漸く放熱を許され、
東の地平から糸月がするすると天頂から曳かれて昇る頃に、
北西方向から宵闇へと夥しい閃光が放たれて、天蓋の重厚な黒幕を
轟音を伴って裂き破った。
目も眩む強烈な光線の残照は、地から湧き上がる積乱雲の影像を
闇夜に映じた。
それは醜く盛り上がった紫黒色の巨大な肉塊の姿をして、
さながら大地が熱線で負ったケロイド状の火傷の痕跡のように
痛ましくも恐ろしく、惨たらしいものだった。
一方で、雷雲に飲まれることなく、東の空に留まる糸月は、
雷光の残影が宇宙を割ったひび割れのようであり、また、
引き裂かれた漆黒の闇を縫い合わせる施術の針のようでもあった。
****************************
満ちた月の、橙と輝白を往還する色調の薄気味悪さもさりながら、
糸月の姿に僕の見た「傷自体」と「施術具」の両義性のイメージは
それが「欠けている」姿であるがゆえに、起こったものか。
そしてそれが「復して満ちる」ことを知っているがゆえのことか。
謡曲「松風」の水桶に映じる月も、李白が湖面に拾おうとした月も
決して欠けてはおらぬものだったことだろうと思う。
水面の糸月に触れようものならば、きっと指を切って血色になって
しまったはずだからだ。
月に対して観照的であり得るうちは風流のなかに暮せよう。
しかし、月に喰らいついてどこかへ、などという、魔に憑かれた
願いをもって、いつしか月を見るようになってしまった者には、
欠けた月を拾うような、血で金銀砂子を汚しかねぬ行為に及んでは
いけない、という戒めをいくら自らの審美のうちに誓っても、
狼が満月の夜に吠えるように、狂わしく傷を求める情が巻いて
胸腔の内壁に銅版画のように蒸着して緑青に燃え出だすのを、
もはやどうにも鎮めがたいのである。
怜悧で蒼白くて不健康でありながら、触れば怪我をするような月の
危うさに魅かれてしまう自分の心情を認めてやっと、
僕は女心なる不可思議な両義性の素性に少し触れ得た思いがした。
月に生きていたかぐや姫のほうが、原始太陽であったという雷鳥の
宣言よりもずっと生々しい。
原始満ち欠けて変容する月の神は女であった。
*****************************
雷鳴が地平を打って巻き起こしたと思しき冷気の疾風が激しく
庭の木立を揺らして、午前0時、部屋の中へと吹き込んできた。
糸月は閃光に掻き消されることもなく、逆巻く雲流の動乱のなかで
男の背中に突き立てられた女の爪痕のように鮮明だった。
闇の発火現象のことを雷光というのなら、ノヴァーリスが詠った
「太陽の夢」という言葉は月よりも積乱雲にこそふさわしい。
月は夢ほどにぼんやりとはしていない。
もしかすると、糸月が地上に触れた部分に傷が出来て、瘡蓋となり、
それが地熱に蒸されて膿み、肉塊となって盛り上がったものが
雷雲であるのかもしれない。
そして、どうにも我々は太陽の恵みに感謝をし過ぎるので、月は
ずいぶんと我々を気づかれぬように傷つけてきたのではないかと
思われてならないのだ。
闇に浮かぶ変幻無限の光球はその色彩を蒼い幻想のなかに瞑せしめ
我々を蠱惑して、巧妙に自ら傷を望んだように錯視させたに違いない。
そうでなければ、芸術が月をモティーフにして、あれほどに数多くの
珠玉の品を、月の前に差し出してきたはずがないのだ。
死滅の彼方にある、とか、あるいは自らの葬礼を行っている、または、
水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできている、という月はやはり、
詩人の血を啜って輝いている、というほかにない。
芸術は、詩人の傷口から吸い出されるものではないかと思う。
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「月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空に憧れて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。」
(エドガー・アラン・ポオ)
僕は本当はこの心性のあたりで留まっておきたかったのに、
鴉が「最早ない」というのを聞いてしまっていたのだった。
うつらうつらとまどろみながら夜を過ごして、
午前4時、雷鳴俄かに地底に反響して地上を鳴動させ
驚いて寝床から跳ね上がると、
糸月ははや西方に陥落しつつあった。
「星もなく赤き弦月ただひとり 空を落ちゆくは只ごとならず」
(宮沢賢治)
空恐ろしさに慄然として、眠りから醒めきらぬ重たい四肢に
布団を整えて掛け直して、強く眼を閉じていると、
どうもかそけき声が、微弱に太腿のあたりを撫でているようにして
聞こえてくる。
「ほら、起きて、おねがい、今からいきたいから。」
僕は眠いよ、またにして、と呟いて、どうやら本当の眠りに落ちた。
身体のあちこちが、ひとりでに微弱に震えているのを感じた。
******************************
起きて食堂に行くと、母に、背中に血が滲んでいると言われた。
鏡台の前で背を向けると、白のシャツのちょうど肩甲骨付近の
両側に、ぽつ、ぽつ、と血斑が数か所あった。
シャツをめくりあげると、糸月の形をした傷が爪痕のように
くっきりと、左右の背に穿たれていた。
陽光を浴びていた眼が突然暗くなった。
突如耳の底で苛烈な爆音が轟いた。
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目を開けると、午前5時、日光は闇を消していた。
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