7月31日は、早朝より酷暑の中、大阪と津を一日で巡る
強行日程の出張をして、その合間にポオ、観世寿夫などの
書籍を購った。
8月1日、ひととおりの仕事を片付けて、18時58分発
のぞみ193号15-9Aに乗車し、
車中、鯖寿司とプレミアムモルツで安易な食事を済ませ、
新大阪に19時50分に到着し、タクシーで堂島ホテル。
チェックインの後、1018号室、コーナーダブルの部屋に
入ってみれば、ベッドルームとバスルームとの仕切りは、
壁ではなく、全面の一枚ガラス。
ラブホテルのようなその構造に戸惑った。
備え付けのCDプレーヤーにエグベルト・ジスモンチを挿入し
窓から外を眺め見れば、サントリー本社の屋上ビアガーデンに
集う会社人の、群れ、群れ、群れ。
省みて独り身の僕、冷蔵庫を開け、全てが瓶入りの備え付けの
ドリンクを飲もうとして、栓抜きが部屋のどこにも見当たらず、
フロントに電話して、氷とともに届けてもらった。
一献ののち、疲れもあり、いつのまにか、就寝。
***************************
8月2日午前9時起床、部屋でうつらうつら、ぼんやりと
午前の情報番組を見、シャワーを浴びて身支度を整え、
正午、もうもうと湯気立ち上る蒸籠の底のような街へ出て、
アヴァンザ地下のインデアンカレーに入り、
ルー・ライス大盛り・卵、1030円を汗だくで食した後に
エスカレーターを上がり、ジュンク堂書店にて書籍を漁った。
この年齢になって初めて、スタンダード・ブックというものを
購っただけで、他にさしたる収穫もなく、というよりは
別の日には触手が伸びそうな書物に触手が伸びなかった。
1時間ほどを過ごしたあと、鞄を取りに一旦ホテルに戻り、
国立国際美術館にモディリアーニ展を観るために、中之島へと
赴いた。
思い返せばフェスティバルホールには何度か足を運んでいるが、
国際美術館へは開館記念のデュシャン展以来、実に4年振りの
訪問となった。
中途、前職時代の仕事場の前を通り、何とも嫌な心地がした。
中之島近辺の風景は随分と変わっていた。
大阪を去る時には出来上がっていなかった住友ビルは三井物産を
見下ろすかのように伸びあがっていた。
戦後建築の名作のひとつでもあった関西電力ビルは取り壊されて
高層ビルになり、大阪中之島合同庁舎の西に朝日放送が移転して
ほたるまち、という、気の抜けるような名前のビル群が出来ていた。
今後、朝日新聞ビルと新朝日ビルも取り壊されてツインタワーとなり、
大正期近代建築の代表例でもあるダイビルにも建て替え計画が
あるという。
伊勢神宮が、「常なる新しさ」の維持と技術伝承の実現のために
わずか20年で遷宮し、「朽ちる」ということを過剰に忌避する
心性がなせるものでもなく、ただ単にキャッシュフローを生む
経済の動きに過ぎないのだろうが、
アメリカが自国の歴史を作り上げようと必死であることとは
見事な対比で、日本は近代以降の自国の歴史すら壊しつつある。
美術館に入ると、酷暑を避けてきた夥しい人の群れに出くわした。
混雑の中、地下の展示室へと降りた。
展示されている作品は確かに名品がそろっていた。
貧窮の中で、モディリアーニは油絵具を多く購えなかったためか、
その作品は押し並べて薄塗りである。
さりながら、あの赤茶の背景や衣服には、細かな粒子の重く暖かな
土の質感がある。
同じ構図、同じ題材の作品を見比べて、モディリアーニはモデルを
雇う金もなく、仕方なく、売れ残った自分の絵を「モデル」にして
描いていたのではと思えるほど相似しているのを見出して、
胸が苦しくもなった。
綺麗な目、綺麗な肌、良い作品を見ていると、自分の眼が画家の眼に
転生していく。
ただ、人波の大半を占める初老女性群のふるまいには辟易した。
キュリエーターの作為の過ぎた壁面背景色や展示法もいただけない。
図録の出来も酷いもので、津市出張の折に観た佐伯祐三の展覧会の
図録の出来のほうがよほど素晴らしかった。
******************************
午後3時、ホテルに戻り、ひと休みした後で、
午後4時、ハービスエントでトランペッターと待ち合わせて
JEUGIAのスタインウェイサロンに赴き、3時間、音を遊んだ。
互いの音を呼吸しているうちに、今までに弾いたことのない音が
生まれてくるのを楽しめた。
途中から、僕がピアノで即興するのを彼女が聴く、という事態に
なったのだが、突如として楽興の湧くのを感じて、
完全即興のなかで曲を作り上げてしまった。
彼女がそこにいたことに感謝して、never comingなるタイトルを
気恥ずかしくも冠した。
時間の流れるのが本当に早く、ほぼ3時間、ノンストップで演奏し
即興していたにもかかわらず、不思議なことに全く疲れはなかった。
スタインウェイという楽器が導いてくれたものか、彼女が導いて
くれたものか、こうしよう、と思う間もなく、指が正確な鍵盤に
辿り着いて、やまなかった。
演奏後の帰り際、彼女は僕の手を両手で握った。
ハービスエントの南側、「一芯」で軽めの食事をして、
リッツ・カールトンのバーに入り、ヘミングウェイとモヒートを
飲みながら、ピアノの演奏に聴き入った。
シンセサイザーを膝元において、左手でベースラインを弾きつつ
右手でブロックコードを弾き、そこに歌を乗せていた彼に、
MY ONE AND ONLY LOVE をリクエストして、
さらにマティーニを飲み、11時に店を出た。
ハービスエントの前まで戻り、それじゃ、と、握手して別れようと
したとき、思ったよりも、距離が近すぎた。
******************************
8月3日午前9時起床、赤塚不二夫の訃報をテレビで知った。
身支度を整え、11時にホテルをチェックアウトし、
北新地からJR東西線を経由して甲子園口の妹の家を訪ねた。
8畳の部屋に、ボーナスで買ったという37インチのプラズマ
ハイビジョンテレビが鎮座ましまして、なんともとんちんかんな
様相を呈していた。
妹手製の焼きそばとみそ汁をごちそうになり、暫く休んだあと、
兄妹で阪神甲子園球場へ向かった。
生まれて一度も甲子園球場に足を踏み入れたことがなかったから
高校野球を見に行こうと思いついてのことである。
日射病を避けるために銀傘の下の席への入場券を購って、
リニューアルされたという内野席へ入った瞬間に、
眼の前に巨大なグランドとスタンド、鮮やかな緑の芝生が現れた。
満員の客席が生み出す歓声が地鳴りのように響き、
アルプス席の応援が銀傘のなかで木霊して渦を巻いた。
なるほど、日本最高の球場である。
智弁学園-近江、報徳学園-新潟中央工の試合を観戦して、
妹の家に戻り、手製のカレーを食べたあと、
19時45分発普通電車を乗り継いで新大阪に向かい、
混雑のため、20時17分発のぞみ98号8-11Aに乗り
帰着した。
****************************
TASPO導入に伴う混乱と売り上げの減少に伴う心労、
一向に治癒せぬ足の怪我、そして猛暑のせいで、
祖母が体調を崩した。
ほぼ寝たきりの状態になりつつある。
歩くこともままならず、食事ものどを通らない状態で、
ずっと微熱が続いている。
肺、心臓のレントゲンでも、血液検査でも、特段の異常は
見られない。
つまるところ、老衰である。これは、どうしようもない。
脳髄は明晰を保っている。身体が脳髄を置いて先に衰えた。
たばこ店をやめて、ひと休みしなければ死ねないという。
仕事辞めたらどうする、と聞くと、
男連中はそうやって心配するが、女というのはいくらでも
仕事があるものだ、と答える。
今日、夜、帳面をつけるために起きだして、椅子にすわり、
すっかり肉の落ちてしまった足を前後に振り出して伸縮し
リハビリのように動かしている祖母の姿があった。
これ以上は、とても、書けない。
書かねばならない気もするが、今は、書けない。
強行日程の出張をして、その合間にポオ、観世寿夫などの
書籍を購った。
8月1日、ひととおりの仕事を片付けて、18時58分発
のぞみ193号15-9Aに乗車し、
車中、鯖寿司とプレミアムモルツで安易な食事を済ませ、
新大阪に19時50分に到着し、タクシーで堂島ホテル。
チェックインの後、1018号室、コーナーダブルの部屋に
入ってみれば、ベッドルームとバスルームとの仕切りは、
壁ではなく、全面の一枚ガラス。
ラブホテルのようなその構造に戸惑った。
備え付けのCDプレーヤーにエグベルト・ジスモンチを挿入し
窓から外を眺め見れば、サントリー本社の屋上ビアガーデンに
集う会社人の、群れ、群れ、群れ。
省みて独り身の僕、冷蔵庫を開け、全てが瓶入りの備え付けの
ドリンクを飲もうとして、栓抜きが部屋のどこにも見当たらず、
フロントに電話して、氷とともに届けてもらった。
一献ののち、疲れもあり、いつのまにか、就寝。
***************************
8月2日午前9時起床、部屋でうつらうつら、ぼんやりと
午前の情報番組を見、シャワーを浴びて身支度を整え、
正午、もうもうと湯気立ち上る蒸籠の底のような街へ出て、
アヴァンザ地下のインデアンカレーに入り、
ルー・ライス大盛り・卵、1030円を汗だくで食した後に
エスカレーターを上がり、ジュンク堂書店にて書籍を漁った。
この年齢になって初めて、スタンダード・ブックというものを
購っただけで、他にさしたる収穫もなく、というよりは
別の日には触手が伸びそうな書物に触手が伸びなかった。
1時間ほどを過ごしたあと、鞄を取りに一旦ホテルに戻り、
国立国際美術館にモディリアーニ展を観るために、中之島へと
赴いた。
思い返せばフェスティバルホールには何度か足を運んでいるが、
国際美術館へは開館記念のデュシャン展以来、実に4年振りの
訪問となった。
中途、前職時代の仕事場の前を通り、何とも嫌な心地がした。
中之島近辺の風景は随分と変わっていた。
大阪を去る時には出来上がっていなかった住友ビルは三井物産を
見下ろすかのように伸びあがっていた。
戦後建築の名作のひとつでもあった関西電力ビルは取り壊されて
高層ビルになり、大阪中之島合同庁舎の西に朝日放送が移転して
ほたるまち、という、気の抜けるような名前のビル群が出来ていた。
今後、朝日新聞ビルと新朝日ビルも取り壊されてツインタワーとなり、
大正期近代建築の代表例でもあるダイビルにも建て替え計画が
あるという。
伊勢神宮が、「常なる新しさ」の維持と技術伝承の実現のために
わずか20年で遷宮し、「朽ちる」ということを過剰に忌避する
心性がなせるものでもなく、ただ単にキャッシュフローを生む
経済の動きに過ぎないのだろうが、
アメリカが自国の歴史を作り上げようと必死であることとは
見事な対比で、日本は近代以降の自国の歴史すら壊しつつある。
美術館に入ると、酷暑を避けてきた夥しい人の群れに出くわした。
混雑の中、地下の展示室へと降りた。
展示されている作品は確かに名品がそろっていた。
貧窮の中で、モディリアーニは油絵具を多く購えなかったためか、
その作品は押し並べて薄塗りである。
さりながら、あの赤茶の背景や衣服には、細かな粒子の重く暖かな
土の質感がある。
同じ構図、同じ題材の作品を見比べて、モディリアーニはモデルを
雇う金もなく、仕方なく、売れ残った自分の絵を「モデル」にして
描いていたのではと思えるほど相似しているのを見出して、
胸が苦しくもなった。
綺麗な目、綺麗な肌、良い作品を見ていると、自分の眼が画家の眼に
転生していく。
ただ、人波の大半を占める初老女性群のふるまいには辟易した。
キュリエーターの作為の過ぎた壁面背景色や展示法もいただけない。
図録の出来も酷いもので、津市出張の折に観た佐伯祐三の展覧会の
図録の出来のほうがよほど素晴らしかった。
******************************
午後3時、ホテルに戻り、ひと休みした後で、
午後4時、ハービスエントでトランペッターと待ち合わせて
JEUGIAのスタインウェイサロンに赴き、3時間、音を遊んだ。
互いの音を呼吸しているうちに、今までに弾いたことのない音が
生まれてくるのを楽しめた。
途中から、僕がピアノで即興するのを彼女が聴く、という事態に
なったのだが、突如として楽興の湧くのを感じて、
完全即興のなかで曲を作り上げてしまった。
彼女がそこにいたことに感謝して、never comingなるタイトルを
気恥ずかしくも冠した。
時間の流れるのが本当に早く、ほぼ3時間、ノンストップで演奏し
即興していたにもかかわらず、不思議なことに全く疲れはなかった。
スタインウェイという楽器が導いてくれたものか、彼女が導いて
くれたものか、こうしよう、と思う間もなく、指が正確な鍵盤に
辿り着いて、やまなかった。
演奏後の帰り際、彼女は僕の手を両手で握った。
ハービスエントの南側、「一芯」で軽めの食事をして、
リッツ・カールトンのバーに入り、ヘミングウェイとモヒートを
飲みながら、ピアノの演奏に聴き入った。
シンセサイザーを膝元において、左手でベースラインを弾きつつ
右手でブロックコードを弾き、そこに歌を乗せていた彼に、
MY ONE AND ONLY LOVE をリクエストして、
さらにマティーニを飲み、11時に店を出た。
ハービスエントの前まで戻り、それじゃ、と、握手して別れようと
したとき、思ったよりも、距離が近すぎた。
******************************
8月3日午前9時起床、赤塚不二夫の訃報をテレビで知った。
身支度を整え、11時にホテルをチェックアウトし、
北新地からJR東西線を経由して甲子園口の妹の家を訪ねた。
8畳の部屋に、ボーナスで買ったという37インチのプラズマ
ハイビジョンテレビが鎮座ましまして、なんともとんちんかんな
様相を呈していた。
妹手製の焼きそばとみそ汁をごちそうになり、暫く休んだあと、
兄妹で阪神甲子園球場へ向かった。
生まれて一度も甲子園球場に足を踏み入れたことがなかったから
高校野球を見に行こうと思いついてのことである。
日射病を避けるために銀傘の下の席への入場券を購って、
リニューアルされたという内野席へ入った瞬間に、
眼の前に巨大なグランドとスタンド、鮮やかな緑の芝生が現れた。
満員の客席が生み出す歓声が地鳴りのように響き、
アルプス席の応援が銀傘のなかで木霊して渦を巻いた。
なるほど、日本最高の球場である。
智弁学園-近江、報徳学園-新潟中央工の試合を観戦して、
妹の家に戻り、手製のカレーを食べたあと、
19時45分発普通電車を乗り継いで新大阪に向かい、
混雑のため、20時17分発のぞみ98号8-11Aに乗り
帰着した。
****************************
TASPO導入に伴う混乱と売り上げの減少に伴う心労、
一向に治癒せぬ足の怪我、そして猛暑のせいで、
祖母が体調を崩した。
ほぼ寝たきりの状態になりつつある。
歩くこともままならず、食事ものどを通らない状態で、
ずっと微熱が続いている。
肺、心臓のレントゲンでも、血液検査でも、特段の異常は
見られない。
つまるところ、老衰である。これは、どうしようもない。
脳髄は明晰を保っている。身体が脳髄を置いて先に衰えた。
たばこ店をやめて、ひと休みしなければ死ねないという。
仕事辞めたらどうする、と聞くと、
男連中はそうやって心配するが、女というのはいくらでも
仕事があるものだ、と答える。
今日、夜、帳面をつけるために起きだして、椅子にすわり、
すっかり肉の落ちてしまった足を前後に振り出して伸縮し
リハビリのように動かしている祖母の姿があった。
これ以上は、とても、書けない。
書かねばならない気もするが、今は、書けない。
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