白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

この手の中に

2007-02-06 | 音について、思うこと
高齢者福祉・介護実習のため、この2日を研修に費やした。
送迎、話し相手、歩行・入浴の介助、遊び相手、配膳など、
介護を必要とする高齢者のあらゆる身の回りの世話をする。




認知症、脳梗塞の後遺症などによって日常生活が困難な
ひとびとがそこに集う。
レクリエーションの時間になり、僕はキーボードを用いて
急遽、音楽の伴奏をすることになった。




春の小川、花、荒城の月、りんごの歌、青い山脈、
ふるさと、といった曲を、
歌いやすいように、簡潔明瞭な音使いをこころがけ、
また、合いの手をいれながら、
左手に分散和音とリズム、右手に主旋律と装飾和音を
担わせて、ゆっくりと弾き進める。




はじめは戸惑い気味だったひとびとも、次第に体を
揺らし始め、大きな声で歌い始めた。
すると、最重度の要介護認定を受けている、重い脳梗塞の
後遺症を患っているひとが、突然大きな声で泣きはじめた。
脳梗塞者の涙は、感動なのだそうだ。
すでに表情や感情の一切を失っていたと誰もが思っていた
そのひとが、感情をほとばしらせたさまに、ヘルパーのひとが
涙していた。




また、認知症がすすみ、まったく自制も聞かず前後不覚と
なっていたひとが、音楽のさなか、じっとおとなしく手拍子を
打っていた。
こんなこともはじめてなのだと、別のヘルパーが僕に耳打ちした。




明日になれば、かれらも僕のことなど覚えていまい。
けれど、言葉や意味の何を通さずとも、こころを共振させて
そこに通い合えたかもしれないと、見果てぬ夢や希望を、
幻でもいいから、たったの一瞬でも焔たたせることのできる
音楽の持つ力を感じた。




ぼくはなにもしていない。
ただ、そこには確かに、音楽があったのだと思う。
それは音楽の、ひとつの確たるありかたではないだろうか。




数年前、僕の後輩たちが特別養護老人ホームを訪れて
慰問演奏を行ったとき、
それまで、何の意欲も示さずに塞ぎこんでいた入所者が、
家族の手を取って一緒に立ち上がり、
音楽にあわせて踊り始める、というできごとがあった。
その光景を目の当たりにして、家族、ヘルパー、
居合わせた多くのひとびとが、涙していた。





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3 コメント

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Unknown (はしもと)
2007-02-07 09:19:57
ひとの心を少しでも動かしたい、
その一心でずっと鍵盤に向かってきたけれど・・・

音楽とはひとにとって、
一体なにものなんでしょうか。
私たちが意識の中で、どんなにがんばっても出来ないことを、
さらりとやってのけてしまうのですね。

恐ろしいほどの宇宙的なちからをそこに見てしまう。
私なんかの手の中に、
おさまるはずもないようなちから。

その端っこを、やっとの思いで掴むことすら、
まだ出来ないけど、それでも、
挑み続けたい。とおもうのです。。
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Unknown ()
2007-02-07 12:43:03
なんか素敵ですね。

やっぱ音楽っていいっす!

自分も音楽のそういう力をフルに引き出せるプレイヤーになりたいです。
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Unknown (lanonymat)
2007-02-09 23:00:17
一生試みて、たたかうことしかないんだろうね。
音楽を生きる、っていうか。
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