白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

空へ墜落する

2007-02-12 | 日常、思うこと
「歓びは日に日に遠ざかる
 おまえが一生のあいだに見た歓びをかぞえあげてみるがよい
 歓びはとうてい誤解と見あやまりのかげに咲く花であった
 どす黒くなった畳の上で
 一個のドンブリの縁をそっとさすりながら
 見も知らぬ神の横顔を予想したりして
 数年が過ぎさり
 無数の言葉の集積に過ぎない私の形影は出来あがったようだ
 人々は野菊のように私を見てくれることはない」


              (吉増剛造「帰ろうよ」)




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老朽化する未来が、歴史へと転換しつつある
千里ニュータウンという街、
その中心地にあるホテルを、ダブルをシングルユースで
予約して、静養することとした。





連日、日跨ぎ近くまで、コンサルタントまがいの
情報収集やデータ分析、経済産業省との調整に追われ、
鍵盤にも触れられず、
鴎外を読めばいつしか睡眠導入剤としての効能を発揮する
日常から、つかの間はなれる。





セルシーの書店で、夢野久作「少女地獄」、吉増剛造詩集を
購い、阪急ホテルの西日差し込む部屋にピースを燻らせて読む。
静養にはもっとふさわしい書籍があろうに。





久作の小説に、女を知らぬ肺病病みの貧しいピアニストが
死に行く様が描かれているものがある。
大地に引き伸ばされて、次第に空虚と無力に襲われていくなかで
彼が聴く、大地と大空と都市が織り成す音響空間。
アンビエント・ミュージックを予言するかのような描写、
自らの才能への絶望が、自分が死んでも本物の音楽は永遠に
地上に繰り返されていくのだと感じる中に幸福に転化される
その、滑稽な真実。
それを読むときの、既視感。





・・・3年半ほど前、阪急梅田駅前で行き倒れた僕が、
日干し蛙のように仰向けに歩道に磔にされたとき、
灼熱に沸騰せしめられるかのように、呼吸の不全と心拍の発狂、
激しい全身の痙攣と感覚の麻痺のなかで網膜に蒸着された
今も忘れ得ぬ光景は、
炎天、僕を砂塵へと砕ききるような鮮烈な光度で眼を透過していく
青空へと、伸び上がりつつ陥落していく阪急の砂色の煉瓦壁。





あの日僕を襲ったのは地軸の狂歌だったのか。
壁は大地となり、浮遊する僕はそれが空へと落ち込むのを見た。
やがて歩道に嵌めこまれて意識を失った。
久作の描いたピアニストの死と、安部公房の「壁」において
砂塵の嵐のなかに壁となってひび割れつつ硬化して無機質化する
とある無名者のモティーフへの、肉感としての近しさ。




久作の小説では、死にいくピアニストにくちづけた女が
そのあまりの汚らわしさに咽返り、
這いずって逃げ出し、嘔吐して去っていく。
美しく恋したはずの女は醜怪な容貌でピアニストを見る。
それと同質の視線を、僕は知っている。





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一日目の夜、パトリシアと待ち合わせて、鳥料理を食し、
その後ピアノのある場所へと移り、チョコレートと
マデラワイン、ショパンとペトルチアーニで過ごす。
一週間弾かなければ、一週間弾いていない音になる。
パトリシアと別れ、界隈を彷徨して、知人の群れに会い、
夜中1時半、戦友をたたき起こして、部屋に押し入り、
朝方まで飲む。




二日目、午後3時まで眠り、千里の街を1時間半ほど
散歩した後、部屋に戻り、鴎外「渋江抽斎」を読み、
吉増剛造を音読して過ごす。
その後、りりりりんと待ち合わせ、酒宴とするが、
日曜の繁忙により店の品が切れたため、店を変え、
フランス狂のピアノ弾きと合流し、飲みなおす。
戦友が到着し、一巡りしたところで、戦友宅に移る。
ピアノ弾きが眠り、りりりりんの眠さを慮って帰る。
石橋から柴原を歩き、送る。
戦友より、襲うなよ、とのメールが届く。




三日目、起床、チェックアウト、一路帰宅し、午睡。




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「もはや 言葉にたのむのはやめよう
 真に荒野と呼べる単純なひろがりを見わたすことなど
 出来ようはずもない
 人間という文明物に火を貸してくれといっても
 とうてい無駄なことだ
 もしも帰ることが出来るならば
 もうとうにくたびれはてた魂の中から丸太棒をさがしだして
 荒海を横断し 夜空に吊られた星々をかき分けて進む
 一本の櫂にけずりあげて
 帰ろうよ
 獅子やメダカが生身をよせあってささやきあう
 遠い天空へ
 帰ろうよ」

(吉増剛造「帰ろうよ」)





人間、どうしようもなくなって、仕方がなければ、
言葉の集積ですらなくなれば、抱きしめることか。
ピナ・バウシュは舞踏のなかで、抱きしめて突き放すことを
ただ繰り返していたな。




私信。一緒に、空へ墜落しよう。

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