京都龍安寺の庭は、日本が誇るべき、日本の精神文化の
象徴として世界に広く知られているが、
これはかつて、彫刻家イサム・ノグチが、
「無を表現するにはこれだけの石が必要なのです」
という、ある仏教哲学者の言葉に感銘を受け、
この庭を外国(特にアメリカ)に広く紹介したためである。
実は、この仏教哲学者は、
西洋哲学に非常に大きな影響を受けていた。
西洋の思想を「有」の思想、東洋の思想を「無」の思想と
二元化して対立させるという、
極めて西欧合理主義的な解釈で龍安寺の庭を説明した。
つまり龍安寺の庭は、初めから、日本人の手によって
西洋的解釈を施されて紹介されていたのである。
禅宗の教えには、「不立文字」というものがある。
早い話、ことばというものは意味をひとつに決められない
多義的であいまいなものだから、
ことばで教義を説明することなどしない、というものだ。
だから、禅問答という、決して答えのない質問を繰り返す。
そして、やり取りのなかから不意に立ち上る「感じ」を
(クオリアといってもいいだろうか)
体得し、座禅によって自問自答しながら、それを邪念として
消していく、という作業を行う。
仏教においては、「山川草木悉有仏性」をいう。
この宇宙を構成するものすべてが同じ生命を共有していて、
われわれは、太陽から地球、人間、動物、草木一本まで、
すべて、宇宙という大生命の一部である、という考え方だ。
この生命観は、宇宙を形作るものすべての物質は原子で出来て
いること(生命はすべて、地球と同じものから出来ている)、
すべての生命に、遺伝子というものが共有されていることが
科学の検証によってはっきりとしてきた20世紀に、
西洋の知識人階級を大きく揺さぶった。
かのシュレディンガーや湯川秀樹といった物理学者が
その晩年、仏教思想に傾倒したことは有名だけれども、
一神教を頂く西洋文明により、世界への一義的な解釈や
分類が、自然破壊や核の脅威、世界大戦の惨禍によって
自省を要求されるに至ったとき、
禅の教えのように、一義的な答えを求めないという態度は
新鮮なものとして海外に受けとられた。
それは、世界を構成する物質に対して常にひとつの
秩序を与え、意味づけをし、分類をしてきた西洋文明とは
真っ向から衝突するものだったからだ。
もっとも、クレーやカンディンスキーなどの抽象絵画には
こうした例は多い。
作品にタイトルを付けることで、観客の意識の働く方向に
レールを敷くことはあれ、
観客の自由な文脈による自由な解釈が、作品から立ち上る
形而上的な意味の世界を、無限に押し広げることによって
作品に生命力が与えられる。
それは、誤読を許す、ということである。
それゆえ、龍安寺の庭は、どのようにも解釈を許し、
多種多様な形而上的意味世界の成立を可能とするような
理想的な抽象芸術として、
それが500年も前に作られていた、という驚きと共に
「前衛芸術」として、捉えられるに至った。
ジョン・ケージやジョン・ゾーンといったひとびとが
龍安寺から大きく影響を受けたのも、それが理由だろう。
それは、龍安寺の庭に、自らが背負っている西欧文明への
恨みにも似た衝撃を与えられるだけの「概念」の存在を
見出したから、かもしれない。
***************************
ところが、本来の禅の教えというものは、
なんだかよくわからないものに対して、
何か深い意味が込められているに違いない、という態度で
ものを外から眺めるのを、そもそも拒絶している。
なんだかよくわからないものにまで意味を見出して
解釈しようとすることこそを、邪念である、とするのだ。
つまり、禅はそもそも「有」と「無」の対比によって
解釈されるものではない。
それは、禅のある一面を言い当てているが、
すべてではない。
西洋思想によって概念化されることは結構だが、
禅はそれ自体でそこに屹立していて、
せっかくつけてもらった概念や意味付けに感謝しつつも、
「さあ、どうでしょう?」と、にこやかに首をかしげる。
受け入れつつ、拒むような、どうにでもとれるやりとり。
そのことにこそ、禅の本義があるのだ。
小難しいことをいくら考えても、結局答えは出ない。
そもそも、一義的な解釈で以って、
あるものに対して意味をつけるということこそが、
人間の思い上がりである、というのが
仏教の考え方である。
一義的な意味づけを、世界を構成するものに対して
人間が優越的に行うということは、
自然における人間の優位と、自然に対する人間の支配、
世界を人間が統べようとする欲求の表れではないか、
ということだ。
地球環境を、大きな生命体ととらえ、
そこに存在する人間を含めたすべての動植物、
あるいは有機・無機を問わず、存在している物質も、
それを構成する材料の一部である、ととらえれば、
原子で出来ている限り、人間も石も、
「存在する」限りにおいて、対等・平等な存在ではないか、
というのが、仏教の立場である。
あらゆるものが、同等の価値を持ち、
平等であるという考え方は、
他者に対する、限りない寛容に結びつく。
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も、許容される、ということだ。
音楽でいえば、どのような音を用いてもいい、となり、
文学でいえば、どのような言葉を用いてもいい、となる。
そうやって眺めているうちに、龍安寺の庭が、
先人の残した、いたずらなのではないかと思えてくる。
小難しいことを考えて、首をひねりながら庭を見つめる
多くの人の姿を、この庭の作者は笑っているのではないか。
そもそもこんな庭には何の表現も意味も与えていないのに、
それでも何かを読み取ろうとしてしまう、
悲しき人間の我執、意味への執着に気付くことが出来るか、
それを、われわれに試しているのではないか。
龍安寺の庭に、宇宙観や虚無、空、といった哲学的な
概念を見出そうとする解釈は、世の中にありふれている。
こうした見方は、なんだかよくわからないものに
「抽象的で難解ではあるが実に深い意味の込められた
真の芸術である」
という評論を加え、取るに足らない素人芸を持ち上げ、
落書きに何千万円という値段をつけるのを助けている。
そのようないかさまが横行するのは、
人間が、ものごとに価値を見出そうとしすぎるが故の
悪弊であろう、ということだ。
外国人が大挙して訪れるようになった龍安寺の庭を、
かのデーブ・スペクターは
「あんなもん猫のトイレじゃねえか」
と評している。
実はぼくは、このデーブ・スペクターの見方がもっとも
正しいと思っている。
なんだかわけのわからないものに対して
小難しい顔をして、何が表現されているのかを
必死に意味づけることよりも、
見たままの印象を、そのままに言い表すことが出来ること、
わけのわからないものをわけのわからないものだと
言い切ることが出来ることが、禅においては
重要なのではないか。
そのように考えれば、龍安寺の庭を見て、
まったく何の深い意味を見出すことなく、
猫のトイレだと看破できる精神は、
本人が自覚しているかどうかはわからないとはいえ
ひとつの卓見だといわざるを得ないのだ。
*************************
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も許容される、というような理想郷は、
決して実現されないものとはいえ、その不可能性にこそ、
人間の未来が賭けられるのではないだろうか。
このこんにゃく問答の話は、互いが全くすれ違うにも
かかわらず、
両者が共に満足して別れるという、人間同士の関係の
ひとつの理想的な形をあらわしている。
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も、許容されるどころか、
誤読・誤りが、世の中をうまく運ぶという、いわば
逆説的な真理めいたものが、ほのめかされてもいる。
もっといえば、このこんにゃく問答の話は、
誤り、誤読が、一義的な価値観による世界の解釈によって
排除されてしまえば、
世界はとたんに窮屈でぎすぎすとして、衝突や軋轢の
絶えない、殺伐とした世界になることをも示唆している。
もし旅の僧が、相手の正体をこんにゃく屋だと見破り、
互いが自分の文脈で対話を解釈していなければ、
落語のなかの世界は崩壊し、
寺は乗っ取られ、こんにゃく屋はののしられ、
インチキ坊主もろとも路頭に迷うことになったかも
しれなかったのだ。
こうした、人間の力・意識や知性の働きによって
統御しきれないようなものの存在を知り、
誤読の余地、誤りを許容できるゆとりをもつことこそ、
この現代社会に必要なことなのではないか。
誤読や誤りが、人間にとって大きな利益をもたらすこと、
このことを、忘れてはいけないような気がする。
この成果主義・市場原理の社会では、
たった一度の誤りがその人の命取りとなり、
成功者は没落し、負け組となり、2度と這い上がれない。
それゆえに、誰もが過ちを犯さぬように恐々とし、
自己責任のリスクを回避し、冒険をせず、
常に社会の形勢を見て、風見鶏のように
優位なほうばかりにつき、
節度なく、理想なく、信念も倫理もなく
行動するという風潮が出てくる。
彼らは総じて冒険をせず、創造性を重んじない。
他人を思いやることは自分にとって不利であり、
自分のためだけに、私利私欲のために行動する。
周囲の人間を蹴落とし、裏切る。
権力者に媚び、イエスマンとして大手を振る。
勝つためには卑怯でも何でもする。
未来的展望を持たず、目先の利益に集中する。
信念を持つ人間、敗者に同情する人間、
哀れみの心を持ち誰かを助けようとする人間を、
利益に結びつかないものとして冷笑し、嘲る。
倫理観を持つもの、体制を疑うものを排除する。
敗者を、永遠に敗者であり続けるように、
徹底的にいじめ抜き、滅ぼす。
敗者を、あざけり笑う。
みんな負けるとは思っていない。
だからいつまでたっても、自分が負けたと認めない・・・
自分が誤っていたのだと、認めない・・・。
田中耕一氏のノーベル化学賞は実験ミスから生まれ、
チャイコフスキーの悲愴交響曲は採譜ミスが名曲を生んだ。
レントゲンのX線の発見も、源頼朝の富士川の戦いも、
そして多くの恋愛も、勘違いから生まれてきた。
遺伝学上の突然変異も、遺伝子の複写ミスである。
誤読の余地がなければ、人類の文明は発展してこなかった。
ミスを許さないという現代の風潮が、
現代文明の活力・創造力を根こそぎ奪い去るかも
しれないことに、注意すべきなのではないだろうか。
確かに歴史上、誤読・誤解によって
戦争が引き起こされ、多くの惨劇が繰り返された。
だが、誤読・誤解によって、人間の文明が多くのものを
生み出してきたことも事実なのである。
そうした面を認めず、誤りをただ封じこめ、排除するのは、
人類史の正しい反省に立った行動ではない、と言えるだろう。
*************************
このこんにゃく問答の話は、本当にたくさんの示唆を
与えてくれる。
ついでに言えば、こうしたぼくの見方も、我執であると
いうことが出来るかもしれない。
誤読かもしれない。
ちなみに藤原正彦は、市場原理至上主義の導入がもたらした
この殺伐とした成果主義・格差社会を非難し、
哀れみの情・武士道精神の復興を言っているが、
僕はむしろ、日本精神の根幹を仏教に置く梅原猛のような
立場から、昨今の風潮は論じられるべきだと思っている。
象徴として世界に広く知られているが、
これはかつて、彫刻家イサム・ノグチが、
「無を表現するにはこれだけの石が必要なのです」
という、ある仏教哲学者の言葉に感銘を受け、
この庭を外国(特にアメリカ)に広く紹介したためである。
実は、この仏教哲学者は、
西洋哲学に非常に大きな影響を受けていた。
西洋の思想を「有」の思想、東洋の思想を「無」の思想と
二元化して対立させるという、
極めて西欧合理主義的な解釈で龍安寺の庭を説明した。
つまり龍安寺の庭は、初めから、日本人の手によって
西洋的解釈を施されて紹介されていたのである。
禅宗の教えには、「不立文字」というものがある。
早い話、ことばというものは意味をひとつに決められない
多義的であいまいなものだから、
ことばで教義を説明することなどしない、というものだ。
だから、禅問答という、決して答えのない質問を繰り返す。
そして、やり取りのなかから不意に立ち上る「感じ」を
(クオリアといってもいいだろうか)
体得し、座禅によって自問自答しながら、それを邪念として
消していく、という作業を行う。
仏教においては、「山川草木悉有仏性」をいう。
この宇宙を構成するものすべてが同じ生命を共有していて、
われわれは、太陽から地球、人間、動物、草木一本まで、
すべて、宇宙という大生命の一部である、という考え方だ。
この生命観は、宇宙を形作るものすべての物質は原子で出来て
いること(生命はすべて、地球と同じものから出来ている)、
すべての生命に、遺伝子というものが共有されていることが
科学の検証によってはっきりとしてきた20世紀に、
西洋の知識人階級を大きく揺さぶった。
かのシュレディンガーや湯川秀樹といった物理学者が
その晩年、仏教思想に傾倒したことは有名だけれども、
一神教を頂く西洋文明により、世界への一義的な解釈や
分類が、自然破壊や核の脅威、世界大戦の惨禍によって
自省を要求されるに至ったとき、
禅の教えのように、一義的な答えを求めないという態度は
新鮮なものとして海外に受けとられた。
それは、世界を構成する物質に対して常にひとつの
秩序を与え、意味づけをし、分類をしてきた西洋文明とは
真っ向から衝突するものだったからだ。
もっとも、クレーやカンディンスキーなどの抽象絵画には
こうした例は多い。
作品にタイトルを付けることで、観客の意識の働く方向に
レールを敷くことはあれ、
観客の自由な文脈による自由な解釈が、作品から立ち上る
形而上的な意味の世界を、無限に押し広げることによって
作品に生命力が与えられる。
それは、誤読を許す、ということである。
それゆえ、龍安寺の庭は、どのようにも解釈を許し、
多種多様な形而上的意味世界の成立を可能とするような
理想的な抽象芸術として、
それが500年も前に作られていた、という驚きと共に
「前衛芸術」として、捉えられるに至った。
ジョン・ケージやジョン・ゾーンといったひとびとが
龍安寺から大きく影響を受けたのも、それが理由だろう。
それは、龍安寺の庭に、自らが背負っている西欧文明への
恨みにも似た衝撃を与えられるだけの「概念」の存在を
見出したから、かもしれない。
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ところが、本来の禅の教えというものは、
なんだかよくわからないものに対して、
何か深い意味が込められているに違いない、という態度で
ものを外から眺めるのを、そもそも拒絶している。
なんだかよくわからないものにまで意味を見出して
解釈しようとすることこそを、邪念である、とするのだ。
つまり、禅はそもそも「有」と「無」の対比によって
解釈されるものではない。
それは、禅のある一面を言い当てているが、
すべてではない。
西洋思想によって概念化されることは結構だが、
禅はそれ自体でそこに屹立していて、
せっかくつけてもらった概念や意味付けに感謝しつつも、
「さあ、どうでしょう?」と、にこやかに首をかしげる。
受け入れつつ、拒むような、どうにでもとれるやりとり。
そのことにこそ、禅の本義があるのだ。
小難しいことをいくら考えても、結局答えは出ない。
そもそも、一義的な解釈で以って、
あるものに対して意味をつけるということこそが、
人間の思い上がりである、というのが
仏教の考え方である。
一義的な意味づけを、世界を構成するものに対して
人間が優越的に行うということは、
自然における人間の優位と、自然に対する人間の支配、
世界を人間が統べようとする欲求の表れではないか、
ということだ。
地球環境を、大きな生命体ととらえ、
そこに存在する人間を含めたすべての動植物、
あるいは有機・無機を問わず、存在している物質も、
それを構成する材料の一部である、ととらえれば、
原子で出来ている限り、人間も石も、
「存在する」限りにおいて、対等・平等な存在ではないか、
というのが、仏教の立場である。
あらゆるものが、同等の価値を持ち、
平等であるという考え方は、
他者に対する、限りない寛容に結びつく。
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も、許容される、ということだ。
音楽でいえば、どのような音を用いてもいい、となり、
文学でいえば、どのような言葉を用いてもいい、となる。
そうやって眺めているうちに、龍安寺の庭が、
先人の残した、いたずらなのではないかと思えてくる。
小難しいことを考えて、首をひねりながら庭を見つめる
多くの人の姿を、この庭の作者は笑っているのではないか。
そもそもこんな庭には何の表現も意味も与えていないのに、
それでも何かを読み取ろうとしてしまう、
悲しき人間の我執、意味への執着に気付くことが出来るか、
それを、われわれに試しているのではないか。
龍安寺の庭に、宇宙観や虚無、空、といった哲学的な
概念を見出そうとする解釈は、世の中にありふれている。
こうした見方は、なんだかよくわからないものに
「抽象的で難解ではあるが実に深い意味の込められた
真の芸術である」
という評論を加え、取るに足らない素人芸を持ち上げ、
落書きに何千万円という値段をつけるのを助けている。
そのようないかさまが横行するのは、
人間が、ものごとに価値を見出そうとしすぎるが故の
悪弊であろう、ということだ。
外国人が大挙して訪れるようになった龍安寺の庭を、
かのデーブ・スペクターは
「あんなもん猫のトイレじゃねえか」
と評している。
実はぼくは、このデーブ・スペクターの見方がもっとも
正しいと思っている。
なんだかわけのわからないものに対して
小難しい顔をして、何が表現されているのかを
必死に意味づけることよりも、
見たままの印象を、そのままに言い表すことが出来ること、
わけのわからないものをわけのわからないものだと
言い切ることが出来ることが、禅においては
重要なのではないか。
そのように考えれば、龍安寺の庭を見て、
まったく何の深い意味を見出すことなく、
猫のトイレだと看破できる精神は、
本人が自覚しているかどうかはわからないとはいえ
ひとつの卓見だといわざるを得ないのだ。
*************************
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も許容される、というような理想郷は、
決して実現されないものとはいえ、その不可能性にこそ、
人間の未来が賭けられるのではないだろうか。
このこんにゃく問答の話は、互いが全くすれ違うにも
かかわらず、
両者が共に満足して別れるという、人間同士の関係の
ひとつの理想的な形をあらわしている。
どのような存在の仕方も、どのような意味づけも、
どのような読み方も、許容されるどころか、
誤読・誤りが、世の中をうまく運ぶという、いわば
逆説的な真理めいたものが、ほのめかされてもいる。
もっといえば、このこんにゃく問答の話は、
誤り、誤読が、一義的な価値観による世界の解釈によって
排除されてしまえば、
世界はとたんに窮屈でぎすぎすとして、衝突や軋轢の
絶えない、殺伐とした世界になることをも示唆している。
もし旅の僧が、相手の正体をこんにゃく屋だと見破り、
互いが自分の文脈で対話を解釈していなければ、
落語のなかの世界は崩壊し、
寺は乗っ取られ、こんにゃく屋はののしられ、
インチキ坊主もろとも路頭に迷うことになったかも
しれなかったのだ。
こうした、人間の力・意識や知性の働きによって
統御しきれないようなものの存在を知り、
誤読の余地、誤りを許容できるゆとりをもつことこそ、
この現代社会に必要なことなのではないか。
誤読や誤りが、人間にとって大きな利益をもたらすこと、
このことを、忘れてはいけないような気がする。
この成果主義・市場原理の社会では、
たった一度の誤りがその人の命取りとなり、
成功者は没落し、負け組となり、2度と這い上がれない。
それゆえに、誰もが過ちを犯さぬように恐々とし、
自己責任のリスクを回避し、冒険をせず、
常に社会の形勢を見て、風見鶏のように
優位なほうばかりにつき、
節度なく、理想なく、信念も倫理もなく
行動するという風潮が出てくる。
彼らは総じて冒険をせず、創造性を重んじない。
他人を思いやることは自分にとって不利であり、
自分のためだけに、私利私欲のために行動する。
周囲の人間を蹴落とし、裏切る。
権力者に媚び、イエスマンとして大手を振る。
勝つためには卑怯でも何でもする。
未来的展望を持たず、目先の利益に集中する。
信念を持つ人間、敗者に同情する人間、
哀れみの心を持ち誰かを助けようとする人間を、
利益に結びつかないものとして冷笑し、嘲る。
倫理観を持つもの、体制を疑うものを排除する。
敗者を、永遠に敗者であり続けるように、
徹底的にいじめ抜き、滅ぼす。
敗者を、あざけり笑う。
みんな負けるとは思っていない。
だからいつまでたっても、自分が負けたと認めない・・・
自分が誤っていたのだと、認めない・・・。
田中耕一氏のノーベル化学賞は実験ミスから生まれ、
チャイコフスキーの悲愴交響曲は採譜ミスが名曲を生んだ。
レントゲンのX線の発見も、源頼朝の富士川の戦いも、
そして多くの恋愛も、勘違いから生まれてきた。
遺伝学上の突然変異も、遺伝子の複写ミスである。
誤読の余地がなければ、人類の文明は発展してこなかった。
ミスを許さないという現代の風潮が、
現代文明の活力・創造力を根こそぎ奪い去るかも
しれないことに、注意すべきなのではないだろうか。
確かに歴史上、誤読・誤解によって
戦争が引き起こされ、多くの惨劇が繰り返された。
だが、誤読・誤解によって、人間の文明が多くのものを
生み出してきたことも事実なのである。
そうした面を認めず、誤りをただ封じこめ、排除するのは、
人類史の正しい反省に立った行動ではない、と言えるだろう。
*************************
このこんにゃく問答の話は、本当にたくさんの示唆を
与えてくれる。
ついでに言えば、こうしたぼくの見方も、我執であると
いうことが出来るかもしれない。
誤読かもしれない。
ちなみに藤原正彦は、市場原理至上主義の導入がもたらした
この殺伐とした成果主義・格差社会を非難し、
哀れみの情・武士道精神の復興を言っているが、
僕はむしろ、日本精神の根幹を仏教に置く梅原猛のような
立場から、昨今の風潮は論じられるべきだと思っている。
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