脳の中に、松果体という部位がある。
いわゆる第三の眼として語られることの多いものである。
デカルトが「共通感覚=コモン・センス≒常識」として
心身の結節のよりどころとして求めた部位であり、
バタイユをはじめ、数多くの人々に論じられてきた事柄である。
古くアリストテレスは、すべての思考は
感覚を源泉としているということを述べている。
以降、人間の五感の統合としての「共通感覚」こそが、
人間の感性と理性をつなぐもの、
直観と論理をつなぐものであるとして、
その意義を大きく認められてきたのである。
「共通感覚」とは、自明性、問うまでもなく明らか、と
いうことである。
ところが、その「共通感覚」そのものの存立は、
感性によって感知せられ、保存された経験としての記憶が
あまりに不確かであいまいであったことで、
まずデカルトにより「理性的に」疑われはじめる。
盲目的に受け入れられてきた常識というものが疑われたと
いうことに近い。
それは、並外れた記憶というものはあてにならず、
厳密に蓄積された知の源泉を利用する方法の追求こそが
人間を進化させるという、合理主義の根本的態度を
如実に示している。
これに対し、パスカルは『パンセ(瞑想録)』において
「考える」ということこそが人間の尊厳の源泉であるとして、
悟性という働きを提出し、根源と究極を見ることの出来ない
中間者であるとして、「人間の限界」の存在を提示した。
百科全書が編まれたことも、記憶から導かれる
「知」の不確かさゆえに要請された、真なる知を求めての
ことだった。
そしてカントによって、直観によって認知されたものを
論理を用いて分類し、考察によって概念としてから
理解・認識するという、
感性・理性・悟性の統合としての働きに基づいた認識論が
提出されたことにより、
「共通感覚」の概念は完全に解体され、再構築されて、
「方法」による世界解釈、自然科学の発達がもたらされるに至った。
ある一つの型をきめてから、世界を解釈するという演繹法と、
世界を経験し、そこから実証的に一つの型を導き出す帰納法を
「考える」という力のもとに統合したのがカントであり、
論理=理性の世界を自然科学に与え、実践=経験の世界を哲学に与え、
これを「知」という人間の営為のもと、
人間の限界を謙虚に踏まえたうえで統合したのである。
へーゲルは、カントのこうした姿勢にまわりくどさを感じて、
理性という唯一絶対者を復権させることによる
世界の手早い弁証的統一を企図したから、
合理性に依拠していれば、「崇高な目的のためには」
何をしてもよいという態度を取ることになる。
「知」が人間の血と肉を離れて、それ自体で権威化していく嚆矢こそ
ヘーゲルが放ったものだった。
これに対する実存主義、あるいは現象学の反論は省略するが、
こうした過程において捨て去られた「共通感覚」の概念は、
20世紀の戦争の惨禍の中から、デカルト以降の近代哲学を
再検証しようとする流れの中で、
現象学者により、再び掘り起こされて日の目を見ることとなる。
そして、デカルトによって「共通感覚のよすが」とされた松果体が
にわかに注目され始めた。
さて、近代西洋史上、検証の対象としては
無視・抹殺をされてきた松果体であるが、
松果体は人間で言えば間脳の視床下部、脳構造の奥底にあり、
メラトニンというホルモンを分泌している。
これは体内時計をつかさどる物質として知られている。
しかし、このメラトニンの作用は他にもある。
たとえばLSDのような、幻覚作用を持つ薬に対する
阻害剤として働くというのである。
LSDは一過性の精神症状をもたらす薬として知られているが、
その中でも有名なカラーヴィジョンという症状は、種種の色彩が
渦を巻いて現れる幻覚であり、
チベットに伝わる「死者の書」に書かれているような
「死後の世界の光景」に非常に類似する例が多いという。
人間は自己の記憶や精神の束縛を免れることはできないから、
幻覚とて、自らの記憶の拡大であろうけれども、
LSDを用いた解脱体験によれば、仏教徒は仏、キリスト者は
キリストを見るという。
ブッダがその下で悟りを開いたという菩提樹の実には、
セロトニンという物質が含まれているそうだ。
セロトニンはメラトニンによって阻害される物質である。
ブッダは実はLSDのようななにかをきめた状態で
解脱をしたともいわれており、
新興宗教がよくイニシエーションの場で薬物を使うのも、
そうした理由によるという。
古代ギリシアの秘儀でのまれた飲料はライ麦で作られていたというが、
LSDは寄生性の麦角菌に感染したライ麦から抽出される。
また、LSDのような幻覚作用を催す物質であるブホテニンは、
がまの油に含まれている。
ちなみに日本の忍者は科学者の役目を担っていて、
火薬の調製とともに、こうした幻覚物質を含むがまの油を
利用していたとされる。
つまり松果体は脳生理学上、それ自体が人間の幻覚幻聴、妄想といった
精神性疾患症状を抑制し、正気を保つ役目を果たしているとも
考えられる。
とすれば、人間を人間たらしめるのが松果体であり、
脳の奥底からその人間の活動をじっと監視しているものが、
松果体なのかもしれない。
見方を変えれば、近代的理性は松果体を超克しようとして、
絶えず「狂気」の歴史を要請してきたともいえるのである。
ちなみに爬虫類において、松果体は頭蓋骨直下にあり、
トカゲの一部には松果体の一部が発達して、角膜やレンズを持つ
第三の眼となったものを持つものがいる。
古代エジプトにおいては、ファラオのマスクに
コブラがあしらわれている例があり、
これはいわゆる創造主の持つ第三の眼として、
頭脳に蓄積された知識を昇華し、形而上化する作用を
果たすとされていた。
また、シヴァ神の額には光線を放つ第三の眼がある。
仏陀の額にあるほくろのようなものは白毫という。
白い巻き毛であり、光を放つとされている。
このように、松果体についても、世界各地の宗教は
古にすでに言及し、一つの像として確かに結んでいるのである。
さらにつづく。
いわゆる第三の眼として語られることの多いものである。
デカルトが「共通感覚=コモン・センス≒常識」として
心身の結節のよりどころとして求めた部位であり、
バタイユをはじめ、数多くの人々に論じられてきた事柄である。
古くアリストテレスは、すべての思考は
感覚を源泉としているということを述べている。
以降、人間の五感の統合としての「共通感覚」こそが、
人間の感性と理性をつなぐもの、
直観と論理をつなぐものであるとして、
その意義を大きく認められてきたのである。
「共通感覚」とは、自明性、問うまでもなく明らか、と
いうことである。
ところが、その「共通感覚」そのものの存立は、
感性によって感知せられ、保存された経験としての記憶が
あまりに不確かであいまいであったことで、
まずデカルトにより「理性的に」疑われはじめる。
盲目的に受け入れられてきた常識というものが疑われたと
いうことに近い。
それは、並外れた記憶というものはあてにならず、
厳密に蓄積された知の源泉を利用する方法の追求こそが
人間を進化させるという、合理主義の根本的態度を
如実に示している。
これに対し、パスカルは『パンセ(瞑想録)』において
「考える」ということこそが人間の尊厳の源泉であるとして、
悟性という働きを提出し、根源と究極を見ることの出来ない
中間者であるとして、「人間の限界」の存在を提示した。
百科全書が編まれたことも、記憶から導かれる
「知」の不確かさゆえに要請された、真なる知を求めての
ことだった。
そしてカントによって、直観によって認知されたものを
論理を用いて分類し、考察によって概念としてから
理解・認識するという、
感性・理性・悟性の統合としての働きに基づいた認識論が
提出されたことにより、
「共通感覚」の概念は完全に解体され、再構築されて、
「方法」による世界解釈、自然科学の発達がもたらされるに至った。
ある一つの型をきめてから、世界を解釈するという演繹法と、
世界を経験し、そこから実証的に一つの型を導き出す帰納法を
「考える」という力のもとに統合したのがカントであり、
論理=理性の世界を自然科学に与え、実践=経験の世界を哲学に与え、
これを「知」という人間の営為のもと、
人間の限界を謙虚に踏まえたうえで統合したのである。
へーゲルは、カントのこうした姿勢にまわりくどさを感じて、
理性という唯一絶対者を復権させることによる
世界の手早い弁証的統一を企図したから、
合理性に依拠していれば、「崇高な目的のためには」
何をしてもよいという態度を取ることになる。
「知」が人間の血と肉を離れて、それ自体で権威化していく嚆矢こそ
ヘーゲルが放ったものだった。
これに対する実存主義、あるいは現象学の反論は省略するが、
こうした過程において捨て去られた「共通感覚」の概念は、
20世紀の戦争の惨禍の中から、デカルト以降の近代哲学を
再検証しようとする流れの中で、
現象学者により、再び掘り起こされて日の目を見ることとなる。
そして、デカルトによって「共通感覚のよすが」とされた松果体が
にわかに注目され始めた。
さて、近代西洋史上、検証の対象としては
無視・抹殺をされてきた松果体であるが、
松果体は人間で言えば間脳の視床下部、脳構造の奥底にあり、
メラトニンというホルモンを分泌している。
これは体内時計をつかさどる物質として知られている。
しかし、このメラトニンの作用は他にもある。
たとえばLSDのような、幻覚作用を持つ薬に対する
阻害剤として働くというのである。
LSDは一過性の精神症状をもたらす薬として知られているが、
その中でも有名なカラーヴィジョンという症状は、種種の色彩が
渦を巻いて現れる幻覚であり、
チベットに伝わる「死者の書」に書かれているような
「死後の世界の光景」に非常に類似する例が多いという。
人間は自己の記憶や精神の束縛を免れることはできないから、
幻覚とて、自らの記憶の拡大であろうけれども、
LSDを用いた解脱体験によれば、仏教徒は仏、キリスト者は
キリストを見るという。
ブッダがその下で悟りを開いたという菩提樹の実には、
セロトニンという物質が含まれているそうだ。
セロトニンはメラトニンによって阻害される物質である。
ブッダは実はLSDのようななにかをきめた状態で
解脱をしたともいわれており、
新興宗教がよくイニシエーションの場で薬物を使うのも、
そうした理由によるという。
古代ギリシアの秘儀でのまれた飲料はライ麦で作られていたというが、
LSDは寄生性の麦角菌に感染したライ麦から抽出される。
また、LSDのような幻覚作用を催す物質であるブホテニンは、
がまの油に含まれている。
ちなみに日本の忍者は科学者の役目を担っていて、
火薬の調製とともに、こうした幻覚物質を含むがまの油を
利用していたとされる。
つまり松果体は脳生理学上、それ自体が人間の幻覚幻聴、妄想といった
精神性疾患症状を抑制し、正気を保つ役目を果たしているとも
考えられる。
とすれば、人間を人間たらしめるのが松果体であり、
脳の奥底からその人間の活動をじっと監視しているものが、
松果体なのかもしれない。
見方を変えれば、近代的理性は松果体を超克しようとして、
絶えず「狂気」の歴史を要請してきたともいえるのである。
ちなみに爬虫類において、松果体は頭蓋骨直下にあり、
トカゲの一部には松果体の一部が発達して、角膜やレンズを持つ
第三の眼となったものを持つものがいる。
古代エジプトにおいては、ファラオのマスクに
コブラがあしらわれている例があり、
これはいわゆる創造主の持つ第三の眼として、
頭脳に蓄積された知識を昇華し、形而上化する作用を
果たすとされていた。
また、シヴァ神の額には光線を放つ第三の眼がある。
仏陀の額にあるほくろのようなものは白毫という。
白い巻き毛であり、光を放つとされている。
このように、松果体についても、世界各地の宗教は
古にすでに言及し、一つの像として確かに結んでいるのである。
さらにつづく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます