白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

影絵の世界 0

2006-07-09 | 哲学・評論的に、思うこと
精密なる描写が出来ていることが、いい絵の条件ではない。
写真のような絵が、上手な絵ではない。
絵画とは、その画家にとってものごとがどう見えていたか、
その内面の世界が、次元を異にし、絵筆や色彩を用いて
形象や筆致を与えられることであり、
鑑賞者が、それを自らの感覚と想像力によって追体験しつつ
画家との言語によらぬ皮膚的な対話を同時的に試み、それを
反芻する作業ではないか。




いま、この眼に見える絵画ではなく、
その裏側に描かれた、作者自身の視線、心理、筆致を
「影絵」として思い巡らすこと、
鑑賞者が、想像力によって、目の前の絵画を再制作し、
自分自身の内側から外側に折り返し、再創造していくこと。




その文学性において、音楽は絵画と住み分けを迫られる。
音を試みるものに、音との同時的な対話を試みることなど、
時間が許しはしないのだから。
音を試みるものには、発音と共に生じる残像と余韻、摩滅、
減衰のみが許される。
その連関の有無を、感覚と想像力が辛うじて快苦にのみ
引きずり込むことで確かめようとする。
音を通過することはあれ、遡上することはできない。
絵画を前にしたときように、幾たびも往還することもできない。
立ち止まることもできない。
確かに、レコードは演奏を絵画化することにある程度成功した。
しかし、絵画化されずに消えていく、無名の音のかそけき震えを
終いまで感じていられるほど、我々は暇ではなくなってしまった。





ピカソには、女の横顔の向こう側にある別の横顔が見えていた。
クレーには、運動する人間の、その骨格の軋み、麻痺が見えた。
カンディンスキーには、激しく流転する運動の一瞬の停止が見え、
シャガールには、無垢にして稚拙な夢が100年間も見え続けた。





忙しい我々の眼には、けたたましく点滅する各種の看板と
エクセルのなかのフォントMS明朝体12、数値の羅列、
張り巡らされた電線以上のものがどれだけ見えているか。
巨大な画面に映じる女優の目じりの皺の奥に住むダニや
流れる血液、汗を、「可視化して聴くこと」はできるか?





なんとまあ、狡猾な質問であることか・・・。






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