白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

absinthe et suits

2007-10-27 | 日常、思うこと
身長179.4cm、体重77.1kg、
上から104cm―89cm―103cm、
腰までの高さ111cm、足の長さ85.5cm、
右足の長さと左足の長さの差が2cm、
肩幅57cm、肩から指先までの長さ80cm、
と、ここまでくどくどと記述した数値が何かといえば、
2007年10月27日現在の、僕の身体の寸法である。
今日はこれ以外にも、首周り、腰部から股上までの長さ、
背中から両肩までのそれぞれの長さ、腹囲などの数値を
隈なく調べた。





何ゆえかを明かせば、スーツを誂えたからである。
今日、名古屋のテーラーに赴いて、2時間ほどをかけて
下打ち合わせから採寸までを行ってきた。





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今回のスーツのカスタムメイドにあたっては、父親が
30年ほど前に誂えた、見事な深い青錆色をベースとして
幅広の茶と黒の模様柄をストライプに織りこんだ生地と、
裏地は今や高級品となったアルパカの毛織を用いたスーツを
イメージに置いていた。
しかしながら、日本のスーツの主流が20数年ほど前に
既製服になったのとほぼ時期を同じくして、海外の生地の
品質やデザインも二極分化してしまったようで、
店員に聞いてみると、そのようなスーツを誂えるにはもはや
現在では生地から特別注文しなければならず、価格はおそらく
数十万円を下らないだろう、とのことだった。
僕は今回のオーダーの方向を変更せざるを得なかった。





そこで、今回は生地代と縫製代を合わせて給与一ヶ月分を予算とし、
生地の素材はイギリス製のものにすることとした。
その耐久性と、しっかりとした織りを考えてのことである。
イタリアの素材、例えばゼニアなどは、確かにデザイン性には
優れているが、生地としての耐久性はイギリス製に比べて弱いという。
これは、そもそもスーツというものが、オフィシャルな場所での
典礼、あるいは儀礼、社交を念頭においているからだそうだ。
だから、日に数時間も外回りを行う営業マンがゼニアのスーツを
着たところで、日光や雨風に晒され、満員電車に乗って何度も擦れて
いるうちに、国産の安価な既製服よりも早く傷んでしまい、
ふとしゃがんだときに尻の部分がびりりと真っ二つ、ということも
ざらにあるらしい。





高級素材というものは、一般的にいって耐久性に乏しい。
それならば、イタリア製の生地で伊達を決め込むのではなく、
それに比較すれば多少は鈍重に見えたとしても、しっかりと
編み込まれ、皺になりにくく、耐久性にも比較的優れた生地を
選んだほうが賢いのである。
それはつまり、仕立てる際の縫製作業においても、リスクが
低い、ということになる。





通常、スーツを誂えるとき、その代金は、生地の料金に
縫製料金を加えたものとなる。
その比率は大体、4:6、5:5、あるいは6:4あたりに
落ち着くのだそうだ。
しかし、現在全国各地の中小のテーラーが、高級生地を用いて
スーツをお値打ちに仕立て上げます、という広告を謳い、
百貨店で誂えれば最低でも30万円近い価格となるはずの
ゼニアのスーツを、15万円を切る価格で提供している。
そのからくりは、百貨店が12万円の生地を15万円の工賃で
仕立て上げているのに対し、
こうしたテーラーは、12万円の生地を2万円ほどの工賃で
仕上げているからに他ならない。





工賃を安くするということは、百貨店ならばするはずの仕事を
省いて、その分の価格を浮かせている、ということになる。
工賃が安いということは、仕事の質を落とし、仕事の量も減らして
いるはずで、当然、仕立て上がりの質も低下するということになる。
だから、15万円のゼニアのスーツを買ったところで、
生地は良くとも、縫製に手抜きが生じている以上、その品質は
推して知るべし、ということになる。
東京では、3万円の生地に12万円の工賃をかける人も
いるという。
それに対し、大阪では10万円の生地に2万円の工賃程度で
済ます人も多いらしい。
こういったところにも、土地柄というものが現れるようだ。





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数百枚の生地のサンプルを綴じた見本台帳をめくり、
そうして僕が選んだのは、イギリスのスキャバル社の扱う
オールウール、青錆色とはいかないが、深海に幽かな青い光が
仄かに差したかのような、濃紺と黒のあわさいの色の織り布に、
1mm幅で配された2本の青錆色の糸と、1mm幅で配された
3本糸のベージュ色の糸が、7mmおきに交互に配されて
ストライプを成す、光沢を抑えた起毛の生地である。
これだけで、6桁の価格である。しかしながら、こうした生地と
いうものは、良いものになれば価格は青天井だそうだ。
思い出せば、大学時代の友人から、仕立て職人である彼の父親が、
1mで3000ドルするという生地を持ち込まれて仕立てを
依頼されたとき、生地を見ながら数時間恍惚の表情を浮かべて
いたという話を聞いたことがあった。





工賃は、生地の価格とほぼ同等のものになった。
今は疎遠になってしまったYUKIが、成人式で700万円の
着物を着ている自分の写真を見ながら、それが西陣で織られた
最高級の生地であること、
そそれを反物から着物に仕立てられる職人がいなくなるまえに
振袖に仕立てられて良かった、と、まるでおいしいものでも
ゆっくりと味わうような笑みを浮かべて話してくれたことを
思い出して、どうせならしっかりとした縫製で、と
決めていたからである。





デザインにあたっては、生地自体が派手な意匠を好まぬよう
織られていたこともあって、
あくまでも控えめにありながら、そこはかとなく気品を
感じられるようなデザインを目指すこととした。
まず、ジャケットの部分からオーダーを始める。
全体のシルエットは、冒頭に記した僕の身体の寸法から判断して
やや高めの位置でウェストを絞ったブリティッシュスタイルとし、
3つボタンに飽きたことと、ネクタイとシャツで遊べることを
考えて、敢えてシングルの2つボタンを選んだ。





次に、ジャケットの後ろ側の切れ込み、バックベントである。
ブリティッシュスタイルが乗馬の際の美しいシルエットを
前提にしていることから、
腰の両側に切れ込みのある、サイドベンツを選択した。
これにあわせ、ジャケット正面のポケットも水平方向ではなく
斜めに切れ込みの入ったハッキングタイプとした。
右ポケット上に、チェンジポケットと呼ばれる小銭入れ用の
小さなポケットを設えるのがブリティッシュの正統であると
アドバイスされたのだが、
意匠上必要に思わなかったため、付けないこととした。





胸襟は、選んだ生地からして大きすぎても滑稽であるので
通常仕様のノッチタイプを選び、おさまりを考慮して
生地と同色のステッチをあしらった。
胸ポケットも、標準仕様である。
袖口は通常、既製品では縫い合わされているのだが、
今回は少し洒落を効かせて、袖口を開閉できる本切羽という
仕様にし、4つのボタンを配した。





ここまで事細かに決めて、ようやく、ジャケットの裏側に
とりかかる。






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裏地は、今回念頭に置いていた父親のスーツと同じく
アルパカにしようと考えていたのだが、
予算上の問題もあり、キュプラとよばれる植物由来の
化学繊維とすることにした。
近年では、その耐久性と滑らかさに優れた品質をもって、
これを裏地とすることが増えているという。
滑りをよく、かつ、スーツ自体の皺を軽減するために、
背抜きではなく、総裏地とした。
また、内ポケットの配置は通常仕様としたのだが、
眼鏡をしまい込めるように、ペンポケットを通常よりも
幅広く、かつ奥行き深くするように依頼し、
これを、表地を延長してポケット自体を補強するという
台場仕立てとし、ネームを入れることとした。





ようやく、パンツである。





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パンツの意匠は、まず、一番使用頻度の高いサイドポケットの
切り込み方から始まる。
通常は斜めに、人間工学的にみて合理的なように切り込むが、
上着を脱いだときのシルエットにスマートさを出すために、
地面に対して鉛直に切り込む、ストレートタイプとした。
胴回りのゆとりを確保するためのタックは、1つにするように
依頼して、次は、尻側にあるビスポケットの選択である。
僕はここのポケットをほとんど使うことがなく、
ふたをつければカジュアルな要素が強くなるので、標準仕様の
ふたのないものを選んだ。
そして、裾の折り返しをシングルとした。





最後に、全てのボタンを水牛の角で出来たものに選び、
冒頭細かく記した数値を採寸により割り出して、
今回のオーダーは終了した。
これでも、見る人が見れば簡略なオーダーであるはずだ。
こだわれば、ジッパーや金具、ボタンの縫い糸といった
本当に細かいところまで、注文を出せばきりがない。
何度も注文しているうちに、自分の好みを的確かつ簡略に
伝え、思うような服を仕立てることが出来るようになる。
注文の相手は一応はプロなのだから、その意見に耳を傾けつつ
理想とするイメージを作り、時には修正しつつ、
自分にとっての一着を作っていく。





こうした作業は、自分自身にもある程度の知識を備え、
センスを磨き、勉強をしておかなければうまくいかない。
けれど、そうした勉強を苦としなければ、これほどに
面白いことはない。
思いがけず自己分析を迫られたり、先入観を剥ぎ取られたり、
自分自身や社会についてもさまざまな発見が出来る。
人間というものは服装や靴を見て人を判断する。
足元を見られないようにするには、馬鹿らしいけれども
自分の外的印象に対して投資をしておくのもよいのだろう。
時には衣装の側が、着ている人間の洗練を心身に要求してくる。





衣装はこころの皮膚とでもいうべきもので、そのひとの内面を
はからずもはだかのまま、衆目の下に置く。
こころの裸体が行き交う場所で、ひとはさらに、その裸体を
ことばで、あるいは手で、脱がしにかかる。
スーツというものは制服と同様に、基本的には拘身具として
人間の行動を規範的慣習の中に取り入れる作用を持つから、
こころの皮膚の表出を抑制するけれども、
自らのいまそこに現れている姿が規範的であるがゆえに、
それは着ている主体のこころを、はだかではなく理知による
武装だと思い込ませる作用も併せ持つ。
ゆえに、その武装が過剰な排他性と攻撃性を主体に誘発して
外的なエネルギーを一点に放とうとする危うさがある。





規範に束縛された衣装を抜け出ようとする攻撃性の増幅は
過剰化してボンテージとして結晶する。
倫理を犯す、背くということばにはそれ自体にエロティックな
響きがある。
女性がスーツを着た男性の姿に魅力を感じるというのは、
社会的規範に拘束されつつも、シルエットの外的な美のなかに
充填されている男性自身に内在するエネルギーの放出の予兆を
感じ、その志向自体に備わった一種の危うさをエロティックに
受け止めてしまう素地が女性の側にあるからではなかろうか。





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仕上がりは、一ヶ月弱先になるとのことで、
カード決済を済ませ、店を後にした。






問題は、それを着る主体たる僕自身がなんぼのもので
あるか、という自覚と、
誰もそれほど自分のことを見てなどいない、ということで、
まあ、スーツを着ている当人が、スーツの中の人、という
目で見られることがないように、心するだけである。


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