死者の魂が還る、とされる日を前にして、
86歳となった祖母は座敷に盆提灯を掛けた。
僕は納戸の奥に納められた先祖代々伝わる日本刀を磨き、
清めの酒を吹きつけ、鞘に収める。
生きていれば88歳である祖父の遺影の前に
冷の天狗舞の杯を置き、一献。
*********************
中学3年の夏、盆過ぎの、
父親が出張で不在の暑い日の夜のこと。
祖母が、我が家の庭の樹高8メートルの黒松の異変に気付いた。
その呼び声に、母、妹とともに駆けつけると、
こちらからの家の灯に照らされて浮かび、向こう側の暗闇にやがて
包み吸い込まれるようにして窓越しに見えている黒松の幹が、
まるで鉈で一気に削ぎ取られたようにして裂けているように見えた。
幅は5~6センチほど、幹の根元から先まで、
雪舟の筆致のごとく、一閃という言葉でしか表せぬような鮮やかな
裂け目だった。
あきらかな生木の色とにおい、質感が立ち昇っていた。
木が何かで傷んだのか、木の病で樹皮が剥がれ落ちたのか。
そのあまりに生々しい視覚は気味悪さや背筋の寒さすら
忘れさせて、ただただ不可思議な心持を家族4人に残した。
黒松が裂けた、という電話を出張先の父に掛けてから
家族は眠った。
不思議な一晩が明けて、再び松を眺め見ると、
裂けていたはずの幹はまったくの樹皮に覆われていた。
なんら変わった事も無く、その痕跡も物理的事象に残っていない。
何事も無かったように、現実だったはずのことが立ち消えてしまった。
************************
祖母、妹、母、僕の4人は今もそのことを鮮明に覚えていて、
そのことをたまに父に話すのだが、頑として信じようとしない。
そこで、昔、亡くなった祖父が毎晩酒を飲んで帰って来るので
祖母が怒って一度祖父を締め出したところ、翌朝庭を見てみると
壁と井戸屋形と黒松を伝って家に入り込んだ祖父がそこに寝ていた、
というエピソードを使い、
あれは、祖父が松を伝ってこの世に戻ろうとして誤って滑り落ちた
痕跡だろう、ということにして、一応解決させている。
************************
不思議なことは、いろいろある。
父が一番慕っていた長兄が亡くなったとき、
火葬場から戻る車中で、父の数珠はまるで溶けるようにして
何の前触れもなく、するりとほどけ落ちたという。
その日、長兄の家の屋根裏を整理しているとき、
アルビノ個体としか思えないような銀白の猫が死んでいるのが
みつかったそうだ。
長兄は、無類の猫好きであったという。
*************************
蝋燭をともし、香を焚き、ほろよいの僕の眼の前の
祖父の遺影は、僕の酔いのせいだろうか、ほんのすこし
頬を緩めたように見えた。
86歳となった祖母は座敷に盆提灯を掛けた。
僕は納戸の奥に納められた先祖代々伝わる日本刀を磨き、
清めの酒を吹きつけ、鞘に収める。
生きていれば88歳である祖父の遺影の前に
冷の天狗舞の杯を置き、一献。
*********************
中学3年の夏、盆過ぎの、
父親が出張で不在の暑い日の夜のこと。
祖母が、我が家の庭の樹高8メートルの黒松の異変に気付いた。
その呼び声に、母、妹とともに駆けつけると、
こちらからの家の灯に照らされて浮かび、向こう側の暗闇にやがて
包み吸い込まれるようにして窓越しに見えている黒松の幹が、
まるで鉈で一気に削ぎ取られたようにして裂けているように見えた。
幅は5~6センチほど、幹の根元から先まで、
雪舟の筆致のごとく、一閃という言葉でしか表せぬような鮮やかな
裂け目だった。
あきらかな生木の色とにおい、質感が立ち昇っていた。
木が何かで傷んだのか、木の病で樹皮が剥がれ落ちたのか。
そのあまりに生々しい視覚は気味悪さや背筋の寒さすら
忘れさせて、ただただ不可思議な心持を家族4人に残した。
黒松が裂けた、という電話を出張先の父に掛けてから
家族は眠った。
不思議な一晩が明けて、再び松を眺め見ると、
裂けていたはずの幹はまったくの樹皮に覆われていた。
なんら変わった事も無く、その痕跡も物理的事象に残っていない。
何事も無かったように、現実だったはずのことが立ち消えてしまった。
************************
祖母、妹、母、僕の4人は今もそのことを鮮明に覚えていて、
そのことをたまに父に話すのだが、頑として信じようとしない。
そこで、昔、亡くなった祖父が毎晩酒を飲んで帰って来るので
祖母が怒って一度祖父を締め出したところ、翌朝庭を見てみると
壁と井戸屋形と黒松を伝って家に入り込んだ祖父がそこに寝ていた、
というエピソードを使い、
あれは、祖父が松を伝ってこの世に戻ろうとして誤って滑り落ちた
痕跡だろう、ということにして、一応解決させている。
************************
不思議なことは、いろいろある。
父が一番慕っていた長兄が亡くなったとき、
火葬場から戻る車中で、父の数珠はまるで溶けるようにして
何の前触れもなく、するりとほどけ落ちたという。
その日、長兄の家の屋根裏を整理しているとき、
アルビノ個体としか思えないような銀白の猫が死んでいるのが
みつかったそうだ。
長兄は、無類の猫好きであったという。
*************************
蝋燭をともし、香を焚き、ほろよいの僕の眼の前の
祖父の遺影は、僕の酔いのせいだろうか、ほんのすこし
頬を緩めたように見えた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます