歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【本の紹介】石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書≫

2022-08-31 19:01:07 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【本の紹介】石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書≫
(2022年8月31日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、石原千秋氏の著作石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]をもとに、大学受験国語の国語力を考えてみた。
 今回のブログでは、石原千秋氏の次の著作をもとに、具体的に大学受験国語の問題を解いてみたい。
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
(この著作は、次のような内容が含まれている。大学受験国語の評論問題を解きながら、日本語の教養を身につけよう。また現状の受験教育制度を内在批判もしている。大学生・社会人にも必読の書ともされる)

 さて、大学受験国語の問題を解くにあたり、目次を見てもわかるように、過去問⑨⑩を選択した。
過去問⑨⑩については、問題文を掲載した。出典は、前回のブログでも出てきた次の著作である。
〇上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)
〇岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)

【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。





【石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)はこちらから】
石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)





〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]

【目次】
・はじめに
・序章 たった一つの方法
・第一章 世界を覆うシステム――近代
     過去問① 抑圧する近代合理主義
     過去問② 自然と共同体からの解放
・第二章 あれかこれか――二元論
     過去問③ 脱構築という方法
     過去問④ 子どもの発見と二項対立
・第三章 視線の戯れ――自己
     過去問⑤ 自我を癒す
     過去問⑥ 近代的自我からの脱却
・第四章 鏡だけが知っている――身体
     過去問⑦ 「身体をもつ」ことと「身体である」こと
     過去問⑧ 私の欲望は他者の欲望である
・第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆
     過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威
     過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」
     過去問⑪ 都市が大衆を生み出した
・第六章 その価値は誰が決めるのか――情報
     過去問⑫ 弱者のふりをした権力
     過去問⑬ 感性の変革の語り方
・第七章 引き裂かれた言葉――日本社会
     過去問⑭ 共同性と公共性
     過去問⑮ 個人(ホンネ①)と世間(ホンネ②)と社会(タテマエ)
・第八章 吉里吉里人になろう――国民国家
     過去問⑯ 方言は言語に憧れる
     過去問⑰ 日本語と想像の共同体
・おわりに




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・過去問① 抑圧する近代合理主義~第一章より
・現在の評論のあり方
・大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのか?
・過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威~第五章より
・過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」~第五章より






はじめに


・この本は、大学受験国語の参考書の形をとった教養書であるという。
 (あるいは、教養書の形をとった大学受験国語の参考書であるともいう)
大学へはこれだけのことは身につけて入学してほしいという、石原氏の願いが書かせた本であるらしい。
 そして、石原氏の考える教養は、すでに社会人になっている人にもきっと役立つだろうと強調している。

・ここでいう教養とは、「思考の方法」を指すとする。
 それは、ある文章を読むときの距離の取り方を学ぶことである。
 いま、なぜ大学受験国語にそれが必要なのか。本書では、分量の問題もあって、評論だけを扱うことにしたと断っている。
・ふつう、受験国語の現代文の読解では、批評意識を持つことは許されない。
 その文章で語られていることが、あたかも絶対に「正しい」かのように読解することが求められている。(あるいは、読解の向こうにたった一つの「真実」があるかのように。)
 だが、この本の読者には、批評意識を持ってもらいたいと、石原氏は主張している。
 批評意識を持つことを実践するためには、現代文を信じすぎないことが大切だという。
 そこに書いてあるのは、一つの思想にすぎないからである。
 では、どうすれば現代文を信じすぎないですむのか。
それは、現代文に対して自意識を持つことであるという。自意識を持つということは、ある文章を読解しながら、もう一方でその文章を相対化することである。
では、どうすればそのような自意識を持てるのか。
思考のための座標軸をもつことであるとする。そして、その座標軸の中に文章を位置づけることである。それを「思考の方法」と、石原氏は呼んでいる。

・例を挙げている。たとえば、「自己」ということについて考えるとする。そのとき、「自己」とは反対の概念を思い浮かべる。それは「他者」である。すると、「自己」という概念は、この「他者」という概念との関係の中で考えればいいことになる。こういう方法を、二項対立とか二元論と呼ぶ。
 両極端を考えてみる。一つの極には、「自己とはかけがえのない個別なもの」という考えがくる。もう一つの極には、「自己とは他者である」という考えがくる(この考え方はわかりづらいが、「自己」の価値観や世界観や人生観や感じ方までもを、「他者」から学んだことだとする考え方である)。
 そして、この二つの考え方の中間には、「自己とは他者との関係によって成り立つもの」という考え方がくる。

 これで、「自己」をめぐる座標軸はできたことになる。
⇒自分の「自己」についての考えは、この座標軸の中のどこに位置するのか。
 また、いま読んでいる文章の言っている「自己」は、この座標軸のどこに位置するのか。
 そういう位置づけができることが、石原氏の言う「思考の方法」であるという。
 そして、この座標軸をできるだけたくさん持つこと、それが石原氏の言う「教養」なのだという(その意味で、「教養とは知の遠近法のことだ」ともいう)。
⇒この教養は、大学受験国語読解法そのものであると石原氏はみる。

・この教養は、大学受験国語を解くのに大きな威力を発揮するようだ。
現在、大学受験国語に出題される現代文の多くは「近代」を問い直すテーマを持った文章である。それらには、まだ十分には顔を見せていない未来形の思想が語られている。未来形の思想を理解するためにこそ、「思考の方法」、つまり、新しい思想を位置づける遠近法を身につけておくことが求められていると主張している。

(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、7頁~15頁)

過去問① 抑圧する近代合理主義~第一章より


「第一章 世界を覆うシステム――近代」の「過去問① 抑圧する近代合理主義」は、立教大学経済学部(1999年度)から出題し、出典は竹内啓『近代合理主義の光と影』(新曜社、1979年)である。
(問題文省略)
・「近代」というシステムについて、これほどシンプルかつ的確に説明した文章を、石原氏はほかに知らないという。文章も設問も素直な良問であると評している。
(ということは、実際の入試問題としてはかなりやさしい部類に属すると断っている)
・「近代」とは歴史上ある区切られた「時代」であると同時に、「近代合理主義」をその中心的な性質とするシステムだということがわかる。
 時代区分についてだけ言えば、「16、7世紀」以降ということになるが、「近代」というシステムに注目するなら、「16、7世紀」以降のみを指すものではないことになる。
・ある辞書によれば、「近代とは、一般的にはルネサンスおよび宗教改革に始まり、絶対主義からフランス革命を経て現在に至る時代の総称として古代および中世と区別される」とある。
 ルネサンスとは、ヨーロッパ史上14世紀から16世紀まで続いたいわゆる文芸復興と呼ばれる文芸の革新運動である。「近代」をシステムと考えるならば、「近代」はこの時期まで遡れることになる。
・日本では明治維新以後を「近代」と呼ぶために、この感覚はわかりにくい。
 また、日本においても、最近の江戸研究によって、江戸の後期には、限定された条件の下ではあるけれども、「近代」が成立していたと考えるようになってきた。逆に言えば、明治維新以後にも「前近代」が見いだせるということでもある。明治維新を区切りに「近世」と「近代」とにはっきり分けられるわけではない、というのが最近の研究動向である。
 もっとも、古代文学の「万葉集」歌人である大伴家持の歌は「個人の悲しみが歌われているから近代的である」というようなことが言われたことがあったから、「近代」という性質のみを取り出すと、無限定になってしまうおそれがある。
・そこで、「近代」という言葉を限定的に使うなら、産業革命(イギリス)とフランス革命が起こった18世紀を一応の区切りとしてもよさそうである。
 産業革命は資本主義制を準備し、フランス革命は「自由」と「平等」という理念(イデオロギー)を用意した。それ以降が「近代」の「確立期」である。

〇さて、問題文に戻って、「近代」の性質を考える場合、一つだけ注意すべき言葉がある。
 「世俗化」である。
 これは「世俗にまみれて」などというときの「世間のなわらし」といった意味の「世俗」とは違って、社会学の専門用語である。
 社会学者のウェーバーが深めた言葉で、「世俗化」とは、世界が宗教的価値観から離れることを言う。
 「世俗化」とは「近代」を特徴づける言葉の一つである。
(大学受験国語にもときおり出るので覚えておくといいという)
 キリスト教やイスラム教といった宗教が国家をつくる原理として機能していたのが「前近代」で、民主主義や社会主義といった政治思想(イデオロギー)がそれに取って代わったのが「近代」である、と言われることもある。
・竹内啓『近代合理主義の光と影』の主張のポイントは、<「合理主義」ならば同時代的に日本や中国など世界全体にもあったが、「近代合理主義」となると「非西欧社会」や「前近代社会」にはなく、たしかに「近代西欧社会」にしかなかった>という点にあると、石原氏は解説している。
 全体として、<合理主義=近代=西欧/非合理=前近代=非西欧>という二項対立の図式に異議申し立てを行ない、<合理主義=世界全体/近代合理=近代西欧>という新たな二項対立の図式を提出している。
 「合理主義」と「近代合理主義」との違いは、その「能動的、積極的、徹底的性格」にあると言う。
 <「近代合理主義」は、決して自己の限界を認めず、世界を「合理的」に説明し尽くそうとする>のである(主題文)。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、31頁~41頁)

現在の評論のあり方


・現在、われわれは「近代」的システムの中で暮らしている。
 日本が「近代」というシステムをそれなりに完成させたのは、1960年前後から1973年のオイルショックまで続いた高度経済成長期においてであろうと、石原氏はみている。
 敗戦後の日本にとって、「近代」は夢そのものであった。その一方、この高度経済成長期は、公害問題が「近代」の宿命としてはっきりと浮かび上がってきた時期でもあった。この公害問題を一つのきっかけとして、「近代」の問い直しが始まる。

・そこで、戦後日本の評論について、石原氏は次のようにまとめている。
①戦後日本においては、高度経済成長期までは、「近代」を支持する評論が進歩的であった。
②それに対して、高度経済成長期以後は、「近代」を批判する評論が進歩的になった。
 そして、現在の評論のあり方は、「近代」批判の延長線上にある。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、23頁)

【コメント】
・同じことは、石原氏の著作『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書、2007年[2008年版]、30頁)においても述べている。

大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのか?


〇大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのかについて、石原氏は5つのポイントを指摘している。

①トレンドの書き手の文章であること。
 大学教員は流行に敏感なのである。

②具体例が適度に入っていること。
 具体例がまったくないのは抽象的で退屈だし、多すぎると文章が長いわりには論の展開が平板で設問の数が作れない。

③論理の展開が適度にあること。
 何度も同じことをくりかえしているような文章は入試問題には不向きで、できれば起承転結がはっきりしていて、論の展開上同じことを別の論理や別の言葉で言い換えていたり、逆に違うことを同じ論理や同じ言葉で説明しているような文章だと、問題が作りやすい。

④適度の悪文であること。
 一読してすぐ意味の通じるような素直な文章は入試問題には向かない。
 本質的に難しいことを述べている文章や専門的に過ぎて難しい文章はもともと出題できない。
 とすれば、文章が下手なために、一読しただけでは文意がよく通じない程度の悪文を選ぶしかないという。

⑤出題者にとって意外に大切なのが、受験生の心に残る文章であること。
 入試問題は、受験者に真剣に読んでもらえる唯一の文章であるから、せめてこの大学の国語問題は面白かったとか、洒落ていたと思ってもらいたいという気持ちを、出題者は持っているらしい。
(そこで、学問の先端に少しでも触れている文章を選ぼうとすると、トレンドの書き手のものになるようだ)
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、129頁~131頁)

※上記の5つのポイントの中で、興味深いのは、④適度の悪文であることを挙げている点であろう。その理由が面白い。
「一読してすぐ意味の通じるような素直な文章は入試問題には向かない。本質的に難しいことを述べている文章や専門的に過ぎて難しい文章はもともと出題できない。とすれば、文章が下手なために、一読しただけでは文意がよく通じない程度の悪文を選ぶしかない」という。言われてみれば、納得がいく。

過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威~第五章より


「第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆」より、「過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威」という問題を解いてみよう。
出典は、上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)である。
この著作について、石原氏は次のように紹介している。
 常に時代と添い寝をしてきたフェミニストの社会学者上野千鶴子の現代社会論、というか大衆としての<私>論である。ポストモダンの消費社会のなかで自分を見失う<私>についてシニカルに語る。石原氏は、上野の本の中では一番好きだという(121頁)。

【過去問⑨】 いかなる権威をも否定する権威
次の文章を読んで、あとの問に答えなさい。

テレビのクイズ番組で「100人に聞きまし
た」というのがあった。この番組は、回答の基準
を「真・偽」から「妥当性」(もっともらしさ)
へと変えた点で、まったくエポックメーキングだ
った。
 回答者は、質問に対して自分の答えをではなく、
100人の人々の最大多数が答えそうな回答を与
えなければならない。しかもこの問いは、たとえ
ば「婚前交渉は是か非か?」という質問に対して
100人中の多数派がどう答えるか、という意見
に関するものだけでなく、「世界で一番長い川は、
ミシシッピ川かアマゾン川か?」といった真理性
に関するものをも含んでいた。回答者は、「真理」
を知っているだけでは不十分なのだ。彼もしくは
彼女は、平均的な100人が、まちがえそうな可
能性まで読んで、いちばん「もっともらしい」答
えを選ばなければならなかった。
 このクイズ番組では、勝者とは一体、誰だろ
う? かつての真偽を争うクイズ番組であれば、
正解者は知識の分野が何であれ、物知りという権
威と尊敬を獲得することができた。だが「誰もが
考えそうなこと」を全問正解した勝者は、ただ
「誰でもある一人」の大衆にすぎない。彼または
彼女は、権威や尊敬の対象ではなくなっている。
不可視な「大衆」というものの姿を、手にとるよ
うな(A)パラドクシカルなしかけで見せてくれた点で、
この番組は真に革新的だった。
 83年に流行した「いかにも一般大衆が喜びそ
うな……」というCMのコピーも、このパラドッ
クスを言説化した点で、画期的だった。コピーの
方法それ自体を言説の中に持ちこんだこのフレー
ズは、現代文学がどこまでも自己言及的になって
いくのと同じデコンストラクション(解体)過程
をたどっていて、いわば(B)解体というべきも
のだ。(C)だがクリエーターの側に自虐的自己解体の
つもりがあっても、事実上、このコピーは「一般
大衆」に受けた。
「一般大衆」と呼びかけられて、テレビを見てい
た「一般大衆」は、笑った。かつての「ちがいが
わかる男のコーヒー」の時のように、自分が「他
の誰でもない特別な私」だと考えて「一般大衆」
を笑ったのではなく、「他の誰にも似ている私」
に安堵して、笑ったのだ。「一般大衆」という言
葉は、彼らを映す(D)鏡の役割を果たした。
 しかし、この鏡は、他のすべての人々を映し出
すが、自分自身だけは映さないとくべつな鏡だっ
た。このメカニズムは、対人関係そのものだ。人
間は他人の顔は見えても自分の顔を見ることがで
きない。顔にスミがついていたら、それを笑って
教えてくれるのは、他人の反応だけである。「一
般大衆」という言葉は、大衆が大衆を認識するメ
カニズムを、目に見えるかたちで大衆自身に示し
て見せた。その自己言及性に、大衆は、自分自身
に回帰する笑いを、無抵抗に笑うしかなかったの
である。
 人気とは、妥当性の基準に支えられた、大衆社
会のリーダーシップのことである。「いかにも一
般大衆の好みそうな」人が、大衆社会のリーダー
になる。だから、大衆社会の人気者には、真理性
にもとづく権威は、ない。なぜ、ある人物に人気
があるかと言えば、「自分以外のすべての人々」
が支持しているからで、この堂々めぐりの中では、
なぜ人気があるかという理由は、誰にも説明でき
ない。伝統社会の住民が、ある民俗の由来をたず
ねられて「祖先がしていたから」と答えるように、
大衆社会の住人は「他のみんながしているから」
と答えるほかない。ただし、この大衆は、(E)大衆的
合意形成のメカニズムを自覚化するまでに爛熟し
ている大衆だ。彼らは、リーダーシップが人気と
いうえたいの知れないものによって支えられてお
り、自分たちがソッポを向けばそれまでだという
ことを承知している。
 人気者とカリスマの違いは、ここにある。カリ
スマには、権威の基盤があるが、人気者にはない。
今日のテレビの人気者たちには、かつてのような
オーラ(後光、香気)の輝くカリスマの要素はな
い。
 美空ひばりは天性のスターで、どんなに零落し
ても誰も彼女からその天稟を奪うことはできない。
だが、松田聖子は、他の誰もと同じくらい歌のう
まい一少女にすぎず、彼女が人気者なのは、「一
般大衆」が彼女を人気者だと思っている間だけな
のだ。人気がなくなれば、彼女は、あっというま
に「ふつうの女の子」に戻ってしまう。一般大衆
は、彼女のオーラは、自分たちが一時的に仮託し
たものにすぎないことを知っている、したたかな
大衆だ。権威の源泉が大衆自身にある点で、これ
は全く「民主」的なシステムである。
 大衆社会はそのリーダーを人気で選ぶ。漫才師
も、ベテラン党人政治家も、同じ土俵で選ばれる。
これをふまじめと、後者なら苦々しく思うかもし
れない。しかし、「たかが人気」のふまじめさの
中でこそ、逆説的に「民主」は保障されるのだ。
民主制とは、デカダンス(退廃)に耐える能力の
ことである。どんな(F)超越的な権威も認めない点で、
民主制は、それ自体パラドックスの中にある。
 アメリカは、1980年に、「たかがハリウッ
ドスター」のレーガンを大統領に選んだ。しかも、
「三流スター」を、である。しかし、「たかがハリ
ウッドスター」が、「強いレーガン」に変わるに
つれて、「グレート・アメリカ」の亡霊が、また
ぞろ浮かび上がる。
 アメリカ人が「たかがハリウッドスター」を大
統領に選んだことを、人気に左右される有権者の
愚昧さと、日本人は笑うだろうか。しかし、「た
かが人気者」を承知でスターを選ぶ有権者のデカ
ダンスの方が、私にはまだ健康に思われる。83
年は、ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺され
て20年目だった。アメリカでは、「ケネディ
――その神話と現実」といった特集があふれたり
して、ケネディ人気は異常な高まりを見せたが、
私には、きまじめなアメリカが、真の権威を求め
ている、と見えた。「真の権威」がないところに
それを仮想するのは、「真の権威」がはなからな
いと承知して権威を求めないデカダンスより、こ
とによってはかえってこわい。日本のふまじめな
「一般大衆」の方が、もしかしたら、正気かもし
れないのだ。
 だが同時に、デカダンスにまっ先にあきるのも
大衆である。デカダンスに耐えるには、知性とバ
ランス能力とが必要である。大衆社会の人気の構
造が、いわば民主制の運命だとしたら、それを否
定しないで、大衆が成熟しうる道こそ求められて
いる。   (上野千鶴子『<私>探しゲーム』)



問一 文中の――線A「パラドクシカルなしかけ」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「パラドクシカル」の訳語を、本文中から抜き出して答えなさい。
(Ⅱ)「100人に聞きました」における「パラドクシカルなしかけ」とは、具体的にはどのようなことか。次の中から適切なものを選び、記号で答えなさい。
ア まちがえそうな可能性を読んだ者が、カリスマ的権威を獲得できること。
イ 大衆社会では、「誰もが考えそうなこと」を知っている者が、実は物知りであること。
ウ 真理に基づかないまちがった答えが、正解になり得ること。
エ 最大多数の答えが、そのまま100人の答えと重なってしまうこと。

問二 文中の――線B「解体コピー」とあるが、「コピーの方法それ自体を言説の中に持ちこ」むことは、なぜコピーを「解体」することになるのか。その理由として適切なものを次の中から選び、符号で答えなさい。
ア CMのコピーは、本来、決して大衆を愚弄してはならないものだから。
イ CMのコピーは、本来、大衆の求めているものを、それとは気付かれずに示すものだから。
ウ CMのコピーは、本来、大衆を自分だけ特別な人間だと思わせるようにしむけるものだから。
 エ CMのコピーは、本来、大衆の意図にもっとも敏感であるべきものだから。

問三 文中の――線C「だがクリエーターの側に自虐的自己解体のつもりがあっても、事実上、このコピーは『一般大衆』に受けた」とあるが、なぜこのコピーは「受けた」のだろうか。その理由を、次の文に当てはまるように、本文中から十五字で抜き出して答えなさい。
 この「解体コピー」が、実は(      )そのものだったから。

問四 文中の――線D「鏡の役割」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「鏡の役割」の本質を、筆者は何と述べているか。本文中から五字以内で抜き出して答えなさい。
(Ⅱ)「鏡」の比喩で説明される「大衆」とは、どのような人のことか。次の中から適切なものを選び、符号で答えなさい。
ア 他人の生活をのぞき見る人
イ 鏡のように冷たい反応しかしない人
ウ 自分だけは他人と違うと思っている人
エ 他人の視線を内面化した人

問五 文中の――線E「大衆的合意形成のメカニズムを自覚化するまでに爛熟し
ている大衆だ」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「大衆的合意」を、別の言葉で何と述べているか。次の中から適切なものを選び、符号で答えなさい。
ア 基準 イ 妥当性 ウ 真理性 エ 権威 オ 民主制
(Ⅱ)「大衆的合意形成のメカニズム」が、端的に発揮される制度は何か。本文中に述べられている内容をふまえて、本文中にはない言葉(漢字二字)で答えなさい。
(Ⅲ)筆者は、このような「爛熟している大衆」は何を持つべきだと述べているか。本文中から、五字以上十字以内で抜き出して答えなさい。

問六 文中の――線F「超越的な権威」について、次の問に答えなさい。なお、(Ⅰ)(Ⅱ)ともに、あとの語群からもっとも適切なものを選び、符号で答えなさい。
 (Ⅰ)「超越的な権威」とは何か。
(Ⅱ)「民主制」における「超越的」でない「権威」とは何か。
ア 基準 イ 真理 ウ 勝者 エ 言説 オ 他人 カ 自分 キ スター 
ク 大衆自身

問七 本文中では、「大衆」を、カギカッコを用いて様々に言い換えたり、その具体例を示したりしている。次の中で、「大衆」ではないものを一つ選び、符号で答えさない。
ア 「誰でもある一人」
イ 「他の誰でもない特別な私」
ウ 「他の誰にも似ている私」
 エ 「自分以外のすべての人々」
 オ 「ふつうの女の子」
 カ 「たかがハリウッドスター」
 キ 「たかが人気者」



・出題は、東横学園女子短期大学(1988年度推薦入学基礎学力テスト)。
 これとほぼ同じ箇所が1996年度に上智大学経済学部で出題されている。
 出典は上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)
※古い本でも、文庫化されるとまた出題されることがあるから、マークしておく必要があると、石原氏はアドバイスしている。
 とくに、講談社学術文庫とちくま学芸文庫は要注意だという。
・上野千鶴子の言っていることは、「民主主義は「権威」ではなく「人気」に支えられている」(主題文)といったことであると、石原氏は要約している。
〇問題は全体に易しい部類に属すると評している。


【解答と解説】
問一 
(Ⅰ)答えは、93行目の「逆説的」
   パラドックスとは「一見間違っているように見えるけど、よく考えてみると正解」ということ。
 ※知っていれば有利だが、そうでなくとも民主制の仕掛けの意味がわかれば解ける設問。

(Ⅱ) 正解は(ウ)
 大衆による「真理(権威)」の否定である。
 大衆でしかない人が、まさにそれゆえに勝利する仕掛けを、上野はパラドックスと呼んだ。
 
問二 正解は(イ)
 ※自己言及がなぜ「解体コピー」になるのかを説明しているのは(イ)だけ。
 広告は、「ほら、これが一般大衆であるあなたですよ」などと大衆に向かって言ってはいけない。このタブーを破ったのが「解体コピー」である。
※技術的には、(エ)が大はずれ。(ア)と(ウ)が表と裏の関係にあることがわかれば、自動的に(イ)が選べるという。

問三 正解は「大衆が大衆を認識するメカニズム」(15字)
 ※「大衆が大衆を認識するメカニズム」(51行目~52行目)にある。
 「その自己言及性に、大衆は、自分自身に回帰する笑いを、無抵抗に笑うしかなかったの
である。」(53行目)とある。大衆は「自分自身だけは映さないとくべつな鏡」(46行目)を「あなたはこれですよ」と見せられて、顔のない自分を「これが自分だ」と思うしかなかった。
 そして、「解体コピー」によって、「一般大衆」を笑うことはとりもなおさず自分を笑うことだと知らされながら、笑うことでその事実を引き受けた。
(これが、ここで言う自己言及性の作用である)
 何も映っていない鏡を見る人、それが大衆である。つまり、大衆には顔がない。だから、この「解体コピー」は、顔のない自分を確認する、大衆の自己確認のプロセスそのものだったのである。自己確認は人を安堵(43行目)させる。

問四
(Ⅰ)正解は「自己言及」
 ※問三ができれば簡単な問題。
(Ⅱ)正解は(エ)
 ※(ウ)だけはかろうじてアヤシイ感じがするが。

問五
(Ⅰ)正解は(イ)
 ※56行目の記述を読めばすぐにわかる設問。
 引っかかるのは(オ)だが、「大衆的合意形成のメカニズム」なら(オ)でいいが、ここは「大衆的合意」の部分だけが聞かれている。

(Ⅱ)正解は「選挙」(「公選」でもいいはずという)
 ※これは自分で考えなくてはいけないが、本文の後半が「民主制」という政治の話なのだから、「選挙」という答えが出るだろう。

(Ⅲ)正解は「知性とバランス能力」(9字)
 ※「爛熟」の次に来るのはたいてい「退廃」だ。本文には、親切にも「デカダンス(退廃)」(94行目)とある。これ以降から探す。すると、「デカダンスに耐えるのは、知性とバランス能力とが必要」(120~121行目)とあるのに気づく。

問六
(Ⅰ)正解は(イ)
(Ⅱ)正解は(ク)
 ※大衆は「いかなる権威をも否定する権威」なのである。

問七 正解は(イ)
 ※イ「他の誰でもない特別な私」のこれだけが大衆ではない。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、121頁、153頁~165頁)



過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」~第五章より


「第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆」より、「過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」という問題を解いてみよう。石原氏は、この「過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」を良問と評価している(176頁)
出典は、岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)である。


【過去問⑩】 小さな差異を生きる「わたし」
次の文章を読んで、あとの問に答えなさい。

 マルクスはどこかで、商品世界のなかにおける
貨幣の存在は、動物世界のなかでライオンやトラ
やウサギやその他すべての現実の動物たちと相並
んで(1)「動物」なるものが闊歩しているように奇妙
なものだと書いている。貨幣とは、それによって
すべての商品の価値が表現される一般的な価値の
尺度でありながら、同時にそれらの商品とともに
それ自身人々の需要の対象にもなるという(2)二重の
存在なのである。
「広告の時代」とまで言われている現代において、
広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、
その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば
形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在な
のである。
 英語のどの受験参考書にも例文としてのってい
るように、“The proof of the pudding is in the
eating.”すなわちプディングであることの証明は
それを食べてみることである。( a )、分業によ
って作る人と食べる人とが分離してしまっている
資本主義社会においては、プディングは普通お金
で買わなければ食べられない。(買わずに食べて
しまったら、それは食い逃げか万引きである。)
プディングがプディングであることの証明、いや、
プディングがおいしいプディングであることの証
明は、お金と交換にしか得られない。
 たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを
買おうか考えているとき、あるいは喫茶店でプ
ディングを注文しようかどうか考えているとき、
人はプディングそのものを比較しているのではな
い。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの
中のプディングそのものを比較しているのではな
い。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの
中のプディングの外見であり、メニューの中のプ
ディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラ
ジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャ
ルである。これらはいずれも広い意味でプディン
グの「 甲 」にほかならない。
 すなわち、資本主義社会においては、人は消費
者としての商品そのものを比較することはできない。
人は広告という媒介を通じてはじめて商品を比較
することができるのである。
 資本主義社会とは、マルクスによれば「商品の
巨大なる集合」である。しかし、広告を媒介にし
てしか商品を知りえない消費者にとって、それは
まずなによりも「広告の巨大なる集合」として立
ち現れるはずである。そして、この広告の巨大な
る集合の中において、あらゆる広告は広告として
いやおうなしに同じ平面上に比較されおたがいに
競合する。
 もちろん、広告とはつねに商品についての広告
であり、その特徴や他の商品との差異について広
告しているように見える。だが、人がたとえばあ
る洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は
他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、
( b )ある製菓会社のプディングのコマーシャル
は別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、そ
れは広告されているプディング同士の差異を問題
にしているのではない。それは、プディングと
は独立して、「広告の巨大なる集合」の中におけ
る(3)広告それ自体のあいだの差異を問題にしている
のである。
 広告と広告とのあいだの差異――それは、広告
が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に
還元しえない、いわば「過剰な」差異である。そ
れゆえそれは、たとえばセンスの良し悪しとか迫
力の有る無しとかいうような、違うから違うとし
か言いようのない差異、すなわち(4)客観的対応物を
欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれ
る。
 だが、広告が広告であることから生まれるこの
過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業
の広告活動の拠って立つ基盤なのである。
 言語についてソシュールは、「すべては対立と
して用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み
出す」と述べているが、それはそのまま広告につ
いてもあてはまる。差異のないところに価値は存
在せず、差異こそ価値を生み出す。もし広告が単
に商品の媒介にすぎず、広告のあいだの差異がす
べて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業
にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企
業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み
出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、
広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつ
からではなく、逆にそれがそのような(5)客観的対応
物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出し
てしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそ
れ自身の価値をもつのである。
 ところで資本主義においては、いかなる価値も
お金で売り買いできる商品となるといえる。
( c )、当然広告も商品となる。いや、実際、広
告に関連する企業支出はGNPの一パーセント近
くも占めている。これは、現代ではあまりにも身
近な事実であり、人をことさら驚かせはしない。
だが、それはその実、本来商品について語る媒介
としての広告が、同時にそれ自体商品となって他
の商品とともに売り買いされてしまうという、ま
さにライオンやトラやウサギとともに動物なるも
のが生息している光景とその奇妙さにおいてなん
ら変わるところのない形而上学的な逆説なのであ
る。
 貨幣についての真の考察は、それが形而上学的
な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きか
ら始まった。広告が形而上学的な奇妙さに満ち満
ちた存在であることへの驚き――それは、広告に
ついての真の考察の第一歩である。いや、少なく
ともそれは、広告という現象の浅薄さをただ糾弾
したり、広告という現象の華やかさとただ戯れた
りする言説に溢れている現代において、いささか
なりとも差異性をもった言説を作り出すはずのも
のである。

問一 空欄a~cに入る最も適当な語を、次のイ~ホからそれぞれ一つずつ選び、マークせよ。
a イ だが ロ つまり ハ もとより ニ なぜなら ホ たとえば
b イ もちろん ロ あるいは ハ けれども ニ とりわけ ホ やはり
c イ いわば ロ もっとも ハ なぜなら ニ それゆえ ホ なるほど

問二 空欄(甲)に入る最も適当な語を、次のイ~ヘから一つ選び、マークせよ。
 イ 商品 ロ 証明 ハ 味覚 ニ 本質 ホ 広告 ヘ 虚像

問三 傍線部(1)「『動物』なるものが闊歩している」とあるが、筆者は動物にカギ括弧をつけることによってどのようなことを強調しているのか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
 イ 固有名詞と普通名詞とが混在していることを強調している。
 ロ 非現実的な生態系に分類していることを強調している。
ハ 概念的な存在として独立していることを強調している。
ニ 種類の異なる動物が現実社会にいることを強調している。
ホ 現実の動物と観念としての動物とが名辞を共有していることを強調している。

問四 傍線部(2)「二重の存在なのである」とあるが、これを広告についてどのように説明しているか。問題文中から五十五字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

問五 傍線部(3)「広告それ自体のあいだの差異」の本質を筆者はどのように理解しているのか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
イ 商品と商品とのあいだの差異
 ロ 客観的対応物を欠いた差異
ハ センスの良し悪しにかかわる差異
ニ 表面上で比較される差異
 ホ 広告の宿命としての差異

問六 傍線部(4)「客観的対応物を~あらわれる」とあるが、このことによって広告は何を得るといえるのか。問題文中から二十五字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

問七 傍線部(5)「客観的対応物」はどのように言い換えられているか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
 イ 価値の尺度 ロ 逆説的存在 ハ 巨大なる集合 ニ 商品という実体 
ホ 華やかな現象

問八 問題文において述べられている「広告」の意味として、次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
イ 広告と広告との差異には、違うから違うとしか言いようのない「過剰な」差異がある。
 ロ 広告は商品の価値を比較することに意味があり、それ以上の付加価値はほとんどない。
ハ 広告と広告との差異は本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に依拠するものであるといえる。
ニ 資本主義社会の中にあって消費者は広告という媒介だけでは商品そのものの比較が出来なくなっている。
 ホ 広告とはつねに商品についての広告であるとともに商品同士の差異性だけを問題にしている。

問九 問題文の内容と合致しているものを次のイ~ヘから二つ選び、マークせよ。
イ 形而上学的な現代は、広告の華やかさと戯れによって窒息状態に陥っている。
 ロ 資本主義社会においては、プディングは広告の媒介によって等価交換される。
ハ 商品同士の差異よりも広告同士の差異が、資本主義社会では問題にされる。
ニ 広告の巨大なる集合の中には、客観的な商品それ自体の過剰な差異がある。
 ホ 差異性こそが商品の過剰なる価値を生み出し、企業の広告活動をうながす。
 ヘ 商品世界における貨幣は、形而上学的な奇妙さに満ちた逆説的な存在である。

問十 問題文の表題として最も適当なものを次のイ~ホから一つ選び、マークせよ。
イ 広告の形而上学
 ロ 広告の付加価値
ハ 広告の比較検討
ニ 広告の経営戦略
 ホ 広告の商品価値

※岩井克人「ヴェニスの商品の資本論」<広告の形而上学>の一節。


〇出題は、関西学院大学商学部(1998年度)。
 出典は『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)
 1996年度に、専修大学経済学部でまったく同一の箇所が出題されているという。
 この本に収められている「ホンモノのおカネの作り方」はいくつかの高校国語の教科書にも収録されているから、見たことのある名前だと思った人も多いようだ。

<石原千秋氏のコメント>
・日本ではフランスの思想家リオタール『ポストモダン通信』(朝日出版社)も『ポスト・モダンの条件』(書肆風の薔薇、現在の水声社)も1986年の刊行で、このあたりがポストモダン思想の最盛期だった。
 『ヴェニスの商人の資本論』初版の刊行は1985年。
 ポストモダン思想の中心概念は「記号」。
 世界は記号の集成だと考えるのである。
 ⇒岩井克人の広告論はポストモダン思想の典型である。

・この文章の基本は、ソシュールの言語学にあるという。
 ソシュールによれば、言語は差異の体系である。
 ここで肝心なのは、言語は現実の事物を指し示すのではないということである。
 たとえば、「犬」という言葉は、現実の個々の犬を指し示さない。「犬」という言葉は、「猫」でも「狼」でもない、ある種の動物のグループが持つイメージを指すにすぎない。
 言語は現実から自立した差異の体系であるとする。



〇全体として、素直な良問だと、石原氏は評している。
【解答と解説】
問一 
aは、「だが」の(イ)
 ※「食べたいけど食べられない」状況だから
 bは、「あるいは」の(ロ)
 ※空欄の前後が並列関係だから
 cは、「それゆえ」の(ニ)
 ※空欄の前で理由を述べているから

問二 正解は「広告」の(ホ)
 ※36行目から39行目を読めば、すぐにわかる。直前の「コマーシャル」と同語反復。

問三 正解は(ハ)
 ※この文章では、この「動物的なるもの」は「貨幣」や「広告」と同じようなものと考えられている。「貨幣」も「広告」も商品から自立していた。

問四 正解は「本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他
の商品とともに売り買いされてしまう」(92~94行目、51字)
 ※「貨幣」は「一般的な価値の尺度」であり、同時にそれ自身が「商品」でもある。
 広告も同様だとすれば、「~であり、かつ商品でもある」と述べているところを探せばいいことになる。
 貨幣と広告とは、論理的に厳密な対応関係にはないから、構文で探すのであるという。
 
問五 正解は(ロ)
 ※岩井は、広告は言語のようだと言っている。言語は、現実に対応物を持たず、自立した差異の体系によって成立していた。したがって、(イ)のように商品について説明する選択肢は、これ以降の問いでも常に間違っている。
 (ホ)も気にかかるが、「『広告それ自体のあいだの差異』の本質」の説明になっていないから、排除できる。

問六 正解は「商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値」(84~85行目、19字)
  設問の指示は25字以内だったから、「をもつ」まで入れて22字にするほうが無難。
 ※傍線部(4)「客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異」とは、要するに、言語のように、現実の事物に頼らずにそれ自身で自立した「差異」のことである。
 広告の場合の「客観的対応物」とは商品のことである。
 したがって、「商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値」が正解。

問七 正解は(ニ)
 ※前の問いでもう答えは出ていた。

問八 正解は(イ)
 ※問五のところで述べたように、商品について説明した(ロ)から(ホ)まではすべて間違い。

問九 正解は(ハ)と(ヘ)
 ※(イ)は「窒息状態に陥っている」が間違い
  (ロ)は「等価交換される」のところが意味不明
  (ニ)は後半がだめ。
  (ホ)は「商品の過剰なる価値」のところが苦心の間違いだという。

問十 正解は(イ)
 ※本文に「形而上学」という言葉があふれているから、ごく自然に(イ)
 「形而上学」とは世界の根本原理を追究する学問のことを言う。
 「形而上」が「形のないもの」という意味なので、広告を形のない商品と考えて、「広告の形而上学」と呼んだのだろうと、石原氏は推測している。

<石原氏のコメント>
・岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」<広告の形而上学>の一節によって、大衆消費社会がなぜ広告を必要とするのかがわかったことだろうという。
・上野千鶴子が「真理」ではなく、「妥当性」を現代社会(民主制)の政治思想を支える基本原理と見なしたように、岩井克人は「商品」ではなく「広告」を現代社会(資本主義)の経済思想を支える基本原理と見なしたのである。
・「実体のあるものからふわふわした記号へ」という流れが、ポストモダン思想の特徴である。
・世の中は、いま情報という新たなモノに活路を見いだそうとしている。人文諸科学も、カルチュラル・スタディーズという情報産業に参入したところだという。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、167頁~178頁)


≪大学受験の国語力とは?~石原千秋氏の著作より≫

2022-08-28 19:20:35 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪大学受験の国語力とは?~石原千秋氏の著作より≫
(2022年8月28日投稿)

【はじめに】


 国語力、論理力とは何か?
 この疑問を抱きつつ、この夏は次のような著作に目を通してみた。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
〇小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年
〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]
〇渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]
〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年

 これらの本に目を通して、受験における国語力とは何か? また国語で試される論理力とはどのようなものか?について考えてみた(論理力はとりわけ国語の選択肢問題で問われることが多い)。
 今回のブログでは、大学受験の国語力とは何かをめぐって、上記の著作の中から、石原千秋氏の次の著作を参照しながら、考えてみたい。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]

【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。




【石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)はこちらから】
石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)





〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
【目次】
・はじめに
・第一章 大学受験国語は時代を映す
・第二章 近代の大学受験国語――教養主義の時代
・第三章 大学入試センターが求める国語力
・第四章 私立大学受験国語は二項対立整理能力
・第五章 国立大学受験国語は文脈要約能力
・あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・第一章 大学受験国語は時代を映す
・論理的思考とは何か――評論文の読解~第三章より
・想像力的読解とは何か――小説の読解~第三章より
・国立大学受験国語は文脈要約能力~第五章より





はじめに


・石原千秋氏は、この本の目的および対象とする読者について、次のようにいう。
①大学受験国語をきっかけに日本の国語教育について考えたいという読者に、その基本的な分析結果を提供すること。
②ただ、実際に大学受験国語の解き方を分析しているので、結果として受験生諸君にも有益な方法を提供することになった。

・石原千秋氏は、この本を執筆する前に、入試国語に関わる本を5冊書いている。
①『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書)
②『評論入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
③『小説入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
④『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)
⑤『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)

・このように、中学から大学までの受験国語について書き、結果として五部作になったという。
 その他、義務教育の国語教科書論(国語教育論ではない)としては、『国語教科書の思想』(ちくま新書)もある。
 主張は同じであるようだ。つまり、「日本の国語教育は道徳教育である」というものである。
・どの本もテーマ別の構成である。
(『大学受験のための小説講義』以外はすべてテーマ別)
 これは、国語教育が道徳教育である以上、学校空間で教えられるレパートリーは限られているのだから、紙の上の学校空間とも言える入試国語でも出題できるレパートリーは限られているという分析結果によっているという。
(ただ、大学受験国語はこの縛りが緩い。そして時代のトレンドにも敏感だから、変化が早くしてレパートリーも多少は豊富である)

・先の5冊で入試国語について書いた後、次のような問題意識がわいてきたという。
 つまり、入試国語が試している「国語力」とはいったいどういうものなのだろうかという問題意識である。
 日本の国語教育を究極のところで規定している大学受験国語の現代文に絞って、この問題を考えてみようと試みた。それが本書の正味のところである。

〇この本は、前半と後半とに分かれている。
・前半では、まず戦後の大学受験国語のトレンドをおさらいする。次に戦前から戦後期の大学受験国語を参照して、現在の大学受験国語との違いを明らかにしている。
⇒この二つの作業によって、現在の大学受験国語の特徴を浮かび上がらせている。
・後半では、実際に現在の大学受験国語を解いている。それまでの本との違いは、解き方に焦点を絞ったところにあるという。
(読解問題が中心となった現在の大学受験国語を考えれば、解き方の方により多く大学受験国語が求める「国語力」の特質が現れていると考えたようだ)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、7頁~9頁)

第一章 大学受験国語は時代を映す


「第一章 大学受験国語は時代を映す」の「小林秀雄と市民社会派の失墜」(25頁~28頁)以降では、戦後の大学受験国語の定番の変遷を振り返っている。

〇昭和40年代後半くらいまで、「高校受験の中村光夫、大学受験の小林秀雄」と言われていたようだ。
 つまり、高校受験の水準では中村光夫の「です、ます」体の、当時としては平易な文章が出題された。大学受験になると、何が書いてあるのかサッパリわからない小林秀雄の文章が出題されるという意味だそうだ。
 また、文学論では山本健吉の文章も多く出題された。
 エッセイという語感が持つ一種の「軽み」もないし、文字通りやや古風な「随筆」という語感がピッタリする。
 ところが、少なくとも昭和40年代までは小林秀雄の文章が評論の中心的存在だった。
 小林秀雄一流の非常に飛躍の多い、論理的には破綻しているとしか思えない文章が、大学受験国語にはちょうどよかったのだとみる。
これは、それまで長く続いた「文学主義」の尻尾だったのだろうという。


<コメント>
※現在の感覚では、小林秀雄の文章はどれも評論としては読めないと、石原氏はみなしている。
 小林秀雄の文章についての評価は、今でも見解が分かれるようである。
 なお、上記の著作のうち、高橋昌一郎氏の『小林秀雄の哲学』では、小林秀雄の文章を高く評価している。丸谷才一が亡くなった翌年の2013年、大学センター試験の国語の長文問題に小林秀雄の『鐔(つば)』が出題されたことはよく知られている。
この文章は、小林の骨董に関するエッセイの一部で、日本刀の鐔がどのようなものかを知らない現代の受験生に対して、問題文には21もの脚注が付けられている。
この問題のおかげで、この年の国語の平均点は、前年度から約17点も下回り、センター試験始まって以来の過去最低記録となったそうだ。
この件について、高橋氏は次のようなコメントを付している。
「なぜ膨大な数の小林の著作の中から、この特殊な作品が選ばれたのかは不明である。多くの高校教員から批判されているように、21もの脚注が必要とされる時点で、すでに「現代文」の出題として「不適当」だとみなされるのも当然かもしれない。もし小林が生きていたら、この問題を見て何と言ったか、想像してみるとおもしろい。」
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、23頁~25頁参照のこと)
この点、後日のブログで取り上げてみたい。




〇その次に、加藤周一や林達夫や丸山眞男など、比較的明晰な文章を書いていた評論家たちの時代が来る。
 彼らの文章が戦後民主主義を代表するリベラル派、市民社会派の文章として出題されていた時期があった。
しかし、現代の出題者は彼らの文章を積極的に選ばない。その理由は、いわゆる「過去問」とバッティングしてしまう可能性が高いかららしい。

 それ以外にも、民主主義の捉え方が変化してきたことも指摘している。
 たとえば、丸山眞男の世代にとっては、アメリカの民主主義が理想そのものだった。が、いまアメリカ型の民主主義を純粋に信頼した文章が入試に出題できるかと言えば、無理がある。

※まだ大学生が社会の中の少数派で、大学進学率が2割程度であった時代には、大学生は民主主義を担うエリートとして機能した。それが全国で5割、都市部では6割から7割に達している状況にあっては、大学生も民主主義の消費者にすぎなくなった。(大学生もただの一票、つまり大衆にすぎなくなった)
※入試問題において理念となる価値観は「私の社会化」であり、「社会化された私」であるという。
 これは小林秀雄以来連綿とつづく大テーマかもしれない。学校教育の目的が社会への適応にある以上、当然だと言える。「社会化された私」に最大の価値を置くという一点では、入試が学校教育のひとコマである以上、おそらく変わらないと石原氏はみている。

〇「山崎正和、そしてニュー・アカデミズム」
・1970年代以降の一時期には、文学論・芸術論の分野で詩人でもある大岡信と、劇作家でもある山崎正和が一時代を築いた。
 特に、山崎正和は、すぐれた芸術論のほかに、近代が到達した大衆社会の解説者として良質の文章を数多く書いた。産業社会が大衆消費社会に移っていく1970年代から80年代にかけた境目の社会状況を目配りよく解説した。つまり、この時代に起きた社会のパラダイム・チェンジをバランスよく解説した。
(現代でも山崎正和は大学受験国語のトップランナーの一人である)
・1970年代後半から1980年代は、ニュー・アカデミズムの全盛期となった。
 「近代知」よりも「情念」や「感性」を優先すべきだと説いてきた中村雄二郎が、「ニューアカ」でも先頭を切って走った。特に、『共通感覚論 知の組みかえのために』(岩波書店、1979年)は、ニューアカの基礎を築いた記念碑的な書物だった。中村雄二郎は、大学受験国語でもトップランナーとなった。
※ニューアカの最大の功績は、「哲学」を一部の思想家の「持ち物」ではなく、大衆に開放したことだと言われる。それは大衆消費社会に見合った出来事だった。戦後がサルトルが知識人のファッションだったと時代だとすれば、ニューアカは「哲学」を大衆のファッションに変えた。
※ニューアカの人々の文章が大学受験国語に向いていた理由について、石原氏は次のように考えている。
 それまで日本が目標としてきた近代的システムへの疑いをわかりやすい形で解説したところにあるとみる。山崎正和が近代的システム転換期における上質の解説者だったとすれば、ニューアカの人々は近代的システム転換期における上質の批判者だった。それは、時代状況とみごとにシンクロナイズしていた。

〇「ニューアカは新しい時代の象徴」
・ニューアカの人々とは次のような人々をさす。
 身体論の市川浩と滝浦静雄、権力論の野村雅一、言語論の池上嘉彦、貨幣論の岩井克人、大衆社会論の上野千鶴子、文化論の多木浩二、子供論の本田和子(ますこ)。

<補足>
※岩井克人の貨幣論、上野千鶴子の大衆社会論から出題された入試問題文については、次回のブログで、
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
 石原氏の別著を紹介する際に、取り上げてみることにする。



・ニュー・アカデミズムの評論が大学受験国語で好んで出題されたが、大学受験国語の素材としてちょうどいい、次のような5つの特徴があったという。
①適度に具体例があること。
数少ない具体例から議論を一気に抽象化する彼らの手法が、大学受験国語にはピッタリだった。
②自己を見直す契機となること。
 たとえば、市川浩の身体論は、身も心も成長期にある高校生が、変化する身体を見つめることで自己について思いをめぐらすことは難しい思考だったはずなので、大学受験国語にはうってつけだった。
③ふだん意識できない暗黙のルールを暴くニューアカのやり方が、知的興味をよびやすかったこと。
 たとえば、岩井克人の貨幣論は、「人はなぜある種の紙切れを「貨幣」と認識するのか」というような、虚を突く問が、高校生に知性を磨く機会を与えた。常識を問い直すことは難しいことだが、それだからこそ大学受験国語にはふさわしかった。
④刷り込まれた価値観の転倒をもくろんだこと。
 たとえば、滝浦静雄の身体論は、自分は自分だけで作られるのではないと主張し、自己と他者との重みの違いに気づかせ、ともすると自己中心的な思考にとらわれやすい高校生に刺激を与えることができる。大学受験国語が教育効果をも発揮できた。
⑤ニューアカの評論が、見えない権力をソフトな形で暴いたこと。
 たとえば、野村雅一は、身体に刻み込まれた「自然」な動作は、実は近代的な権力が教え込んだものだという指摘し、目に見えにくいソフトなイデオロギーを目に見える形にした。こういう身近なところから高校生に権力について考える機会を提供できた。それは大学受験国語がそれなりの社会性を試すいい機会となった。

〇「ニューアカからカルチュラル・スタディーズへ」
・入試問題文は抽象的な議論だけでも成立しないし、具体例だけでも成立しない。
 多少の飛躍を伴いながら、具体から抽象へと論旨が展開していなければならない。
⇒ニューアカの文章はそれが抜群にうまかったようだ。
 2000字から3000字程度の文章でそれができた。これが大学受験国語や国語教科書に採用しやすかった最大の理由だった。

・先に挙げた5つのもくろみを見てみると、新しい時代の大学生にふさわしい教養のありかたを思い浮かべることができると、石原氏はいう。
 教養が、単に知識の量や高級な趣味を指す時代は終わった。それは、高等教育がごく限られたエリートのものだった時代の話である。
 大衆教育社会のいま、教養は思考の柔軟性を意味するものでなければならないとする。
 (それは、思考の枠組の変更が自覚的にできるということである)
 ニューアカの評論は、高校国語の教材としてもうってつけであった。そして、大学受験国語でも彼らの評論から出題した。

・大学受験国語では、遅れてきたニューアカといった感のある身体論の鷲田清一の独壇場になった。
 その評論は、先に示した5つの特徴を過不足なく備えていた。

〇「鷲田清一、あるいは未来形の近代批判と過去形の近代批判」
・バブル崩壊後の1990年代にはいると、大学受験国語も近代批判一本鎗ではやっていけなくなった。(なにしろ近代そのものが壊れてしまったことが明白になったのだから)
・バブルが崩壊して、ますます新しいビジョンが描けなくなったとき、二つの傾向があらわれて来た。
①文章の中にブラックボックスのようなタームを仕掛ける評論の登場である。
 世の中が不透明になるとパラレルに、評論も不透明な部分を抱えているものがもてやはされるようになった。
 それをみごとに書いたのが、現在大学入試国語のトップランナーとなった鷲田清一であろう。
 鷲田清一は、もともとは現象学を専門とする哲学者である。
 現象学の得意とするジャンルに身体論があるが、それを応用して『モードの迷宮』(中央公論社、1989年)という秀抜なファッション論を書いたことから、一般にも名前が知られるようになったそうだ。ニューアカの旗手の一人で身体論を切り開いた市川浩の後継者といえる。
(市川が提示した「錯綜体としての身体」というブラックボックス的な身体概念を発展させたのが、鷲田清一である)
 また、鷲田清一の文章には、過去形の近代批判と未来形の近代批判とが、バランスよく混在していると、石原氏はみている。

②もう一つの傾向は、大学受験国語にも使われ始めた、斎藤孝の言説に顕著に表れている。
 斎藤孝の議論は「後ろ向きのビジョン」と石原氏は呼んでいる。斎藤は「コシ・ハラの文化」を重視し、肚や腰が据わるということが大切だと説く。そのときに戦前の身体(と斎藤が想定するもの)をモデルにしているからである。
(これは、臍下丹田(せいかたんでん)に気をためてという保守的な身体像である。斎藤の論調には、昔に帰ればすべて解決するかのような趣があると、石原氏は批判している。つまり、後ろ向きの近代批判であり、過去形の近代批判であるという。)

※先の見えない日本の状況のなかで、ブラックボックスに逃げ込むか、それとも後ろ向きになるか、どちらかしかないというのが現状だったという。

〇「国語」は「道徳」である
・多くの人は、合格答案作成のためのテクニックがあたかも「国語力」であるかのように錯覚している。あるいは、その錯覚が「国語力」というものの現実である。この点について、石原氏はコメントしている。

・適切そうな選択肢を選ぶとか、文章の趣旨らしきものを読み取るとか、傍線部を別のレベルの表現に言い換えるといった、ごく限定された能力が「国語力」であるという半ば無意識の「合意」ができあがってしまっている。
 しかし、正解を正解たらしめる構造、つまりどういう枠組みから問題文が選ばれて、それがどういう設問によって答えへと誘導されるのかという、ある種のイデオロギーのようなものが見えなくなっていると、石原氏はいう。
 
※入試問題を解く側からはそれでいいかもしれないが、作る側から見れば、少し事情が違ってくるという。
 実際には問題文を選ぶ段階ですでにある種の道徳的な(社会的な)自己規制が働き、設問はさらにそれが強く働くように作られる。
 設問とは、受験生に読みのコードを与えて、このとおり読んで下さいという指示を出すことにほかならない。その読みのコードを与える段階で、まさに道徳というイデオロギーが強化されていく。(だから、「国語は修身の代用品である」という。)
・「あるべき姿」を説き、刷り込む役割が「国語」に背負い込まされて、次第しだいに道徳教育の側面を強くしていった。「国語は道徳である」と石原氏はいう。

〇答案を書くということ
・最後に、中学入試国語に触れながら、大学受験国語のあり方について、石原氏は提案している。
 中学入試国語は6年後の大学受験を視野に入れて作られるので、そこには大学受験国語の特質が凝縮されて現れているものらしい。
 最近の中学入試国語においては、評論重視の傾向が顕著になってきているそうだ。
 これは近年の大学受験国語の傾向に直結している。大学受験国語が評論重視であったのはかなり以前からだったが、その評論文の基準が変わってきている。

・大学受験国語においては、ふた昔前は小林秀雄の文章が「評論」であり、一昔前は中村雄二郎の文章が「評論」であり、現在は鷲田清一の文章が「評論」とされる。
 論理性の重視と難易度上昇の傾向はあまりにも顕著である。
 かなりごつい文章を読みこなせないと、現在の大学受験国語には対応できない。その訓練を中学入試国語の段階から積ませようという志向が、近年の評論重視の傾向を作り出しているようだ。

・学校で教える国語が、読解力の養成に加えて、文章の訓練や思考の訓練に多くの時間を費やすべきだという。
 読解力といういわば人の言葉を真似る訓練だけでなく、自己表現という個性を養成する領域にも重きを置くべきである。現在の国語教育に最も欠けているのは、文章による自己表現の訓練であると、石原氏は主張している。

(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、25頁~46頁)

論理的思考とは何か――評論文の読解~第三章より


 「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「論理的思考とは何か――評論文の読解」と題して、評論文について、石原氏は、次のように章立てして解説している。

一 論理的思考とは何か――評論文の読解
1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
2 「消去法」という魔術――「抽象化能力」を眠らせる方法

1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
・2006年、今後の国語教育に関する中央教育審議会(中教審)が、これまでの教育内容を見直す検討を始めた。
 その中で、国語を学習の基本に位置づけること、わけても「論理的思考力」を育てなければならないという趣旨のことが語られている。
(これは、日本人は感情に流されやすく論理的思考力に欠けるという、いつの時代にも流通している日本人論を踏まえた検討だろうと、石原氏はみている)
・大学受験の評論問題は、どのような質の「論理的思考力」を試すように作られているだろうか、という問の立て方で、石原氏は論じている。
 その際に、大学受験国語の選択肢問題の雛形(ひながた)とも典型とも言われる大学入試センター試験を分析することで、この問に答えようとしている。
・分析の対象としているのは、2005年に実施された「国語Ⅰ・Ⅱ」の「本試験」である。
 問題文は、映画監督の吉田喜重の映画論、『小津安二郎の反映画』(岩波書店、1998年)によっている。
⇒映画監督小津安二郎の魅力を、吉田喜重が語った文章である。
 小津映画の不思議な時間感覚の魅力と意味を伝えている。
 しかし、文章はいたって平明であるという。
 というのは、全体がすっきりした二項対立の記述によって組み立てられているからである。
・だから、本文と選択肢との対応関係を「正確」に把握することが大学受験国語における「国語力」ということになるとする。

〇この文章の論理的構成を把握するために、この文章で用いられている二項対立を挙げている。
<人間の眼/カメラのレンズ>
<見る/見ることの死>
<連続する総体としての世界/(切断された世界)>
<運動/停止>
<空間の拡がり/選び=排除=無視>
<視線を滑らせ=さまざまな視点から自由に眺め/あくまで特定の視点を強要>
<浮遊感=軽やか=移ろいゆく/見入っている時間に至るまできびしく制限>
<剰余の眼の動き=眼の無用な動き/集中=抑圧>
<静止して動くことのない/一方通行的に早い速度で流れる時間>
<(多様な意味)/ひとつの意味>
<見られる/見せる>
<反映画/映画>

※入試国語に出題される評論文は「論理的」であることが求められるが、現在一般的に「論理的」と言われている思考は、単純化すれば<善/悪>という根源的な二項対立によって世界が成り立っていると考えるような世界観によっている。
(これは、特にキリスト教文化圏に特徴的な思考方法だが、近代日本でもこういう思考方法以外の思考方法は、極端に言えば「論理的」とは見なされていないようなところがあると、石原氏はコメントしている)

⇒そこで、入試国語に出題される評論文も二項対立によって整理することができるとする。
 したがって、こういう具合に二項対立によって適度に図式化して理解することは、入試国語の基本となる。
(その図式化のために入試国語でキーワードになりそうな言葉を解説した受験参考書も刊行されている。受験生は、そのキーワードを中心にして二項対立の図式を組み上げていく)
※この段階で躓(つまず)くようだと、「論理的思考力が欠けている」ということになる。

〇「読解」の最終的な目的は、最も適切なキーワードを使って問題文を要約することである。
 日常的にも、私たちは読書をしたときにはその全文を覚えていられるわけではないので、それを要約して頭の中に収める。
⇒それが読書が身に付いたということの意味である。要約が日常生活で実際に役立つ場合である。だからこそ、「読解力」の最終目的は要約であるという。

・では、この問題文を適切に要約するには、先のキーワード群からどれを選びだせばよいのだろうか。この作業のためには、二つの能力が試されるという。
①大学受験国語ではどういうキーワード群が重要なセットなのかを知っていることである。
(基本的にはかなり抽象化されたキーワードが重要であることが多い)
②どのキーワードが本文の要約にふさわしいかを見分ける能力である。
(キーワード群から、どのキーワードが最も一般的でかつ抽象度が高いかを見分け、そしてそれを使うかが重要)

・この問題文を要約すれば、<一般的な「映画」が見る人を抑圧するのに対して、小津安二郎の「反映画」は見る人を解放する>ということになるとする。
 「抑圧」と「解放」の対句仕立てである。
(ただし、この場合、「抑圧」は本文に使われているが、「解放」は使われていないので注意。
 二項対立において使われていないもう一つのキーワードを思い浮かばせてセット化する作業を行った結果が、この要約文である)

・記述問題ならば、このようなやり方で、設問に設定された字数制限の8割以上の字数にまでふくらませればいい。
 そのときにキーワードの配置を間違えないのが、国語で言う「論理的思考力」ということになるという。

・選択肢問題においては、問うことができる「国語力」はごく限られたものとなる。
 ①その一つは、前後の文脈を正確に二項対立に図式化する二項対立整理能力である。
 ②もう一つは、本文の言葉を別のレベルの言葉に置き換える翻訳能力である。
※一般的には、①は「論理的思考力」に近似している。②は「抽象化能力」とでも呼ばれるべき能力に近似している。
 ここで言う「抽象化能力」とは、複数の具体的な事例から共通する性質を読み取り、それらを抽象化して一つの言葉にまとめ上げる能力のことである。
 現実には、「論理的思考力」と「抽象化能力」とを合わせて、「読解力」と呼んでいると理解してよいようだ。

・ただ、解答の技法から言えば、どちらの問であっても、選択肢問題の宿命として「消去法」を用いざるを得ない。
 したがって、評論問題においては、「消去法」を正しく使えることが、選択肢問題における「国語力」であると、石原氏は結論づけている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、111頁~128頁)

想像力的読解とは何か――小説の読解~第三章より


 「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「想像力的読解とは何か――小説の読解」と題して、小説について、石原氏は解説している。

二 想像力的読解とは何か――小説の読解

・評論文の読解の基本が要約にあるとするなら、小説の読解の基本は「物語」を作ることにあると、石原氏は主張している。
 この場合の「物語」とはストーリーというほどの意味である。
・意味や物語は読者には見えない。見えているのは活字である。見えている活字から見えない意味や物語を読むのが文学的想像力の仕事なのである。
 これは小説問題の出題原理でもあるという。

〇実際に大学受験国語の小説問題を解くには、二段階の作業が求められるそうだ。
①第一段階は本文を一つの文章にまとめることである。
 この文章を「物語文」と呼んでいる。
 (中学入試国語では、「物語文」を作る能力がまず試されている)
②次の第二段階の「読解力」が主に大学受験国語では求められる。
 それは、「物語文」を基準として「読んだだけではわからない」部分を「読み込む」ことである。いわば「深読み」の能力である。
 その「読み込む」ことは、「書かれてはいないが隠されている意味」を「読む」ことではなく、「物語文」(読みの枠組み)に沿って「意味を作る」(=生成する)ことであるという。
(これは文学理論ではもはや常識に属することである)

※これには文学的想像力が深く関わるので、訓練で簡単に身に付くようなものではないらしい。
 もし対策があるとすれば、できるだけ多く小説を読み、物語のパターンを身につけるしかない。
※評論文に必要とされる二項対立整理能力が一般的な受験勉強である程度は身に付くのに対して、小説問題が一般的な受験勉強ではなかなか点が上がらないのには、こういう事情があるとする。

〇では、どうすれば小説問題でコンスタントに高得点がとれるようになるのか。
・それは、技術的には先に選択肢を読み、選択肢に示されたキーワードを上手に「物語文」に織り込むことである。
・さらに、そういう訓練を積み重ねて、学校空間で好まれる「物語文」の種類(パターン)を身につけてしまうことである。
(学校空間で好まれる「物語文」とは、道徳的で、主人公が成長し、予定調和的な(つまり、悲劇的でない)物語である)
⇒これを意識しながら繰り返し訓練すれば、小説問題の得点は高いところで安定するはずだという。

☆つぎに、選択肢の問題文を掲載して、具体的に検討している。
 問題文は、日本を代表する小説家遠藤周作の『肉親再会』からである。
 次の文章は、遠藤周作の小説『肉親再会』の一節で、主人公の「私」が七年ぶりに妹に会いパリを訪れた場面である。
 (省略)
・この本文を「物語文」にまとめれば、<かつて生活のために芸術を諦めた兄が、まだ俳優になる希望を捨てていない妹に会うことで、かつての自分を見つめ直す物語>となるという。
⇒「自己発見の物語」か「自己を再認識する物語」として読めばいい。

※小説では、書かれていないことはいくらでも自由に読んでいい。それにもかかわらず「正解」が一つに決められるのは、入試小説問題にはある決まりがあるからであるという。
 この小説に即していうならば、こういう予定調和的な物語として読まない限り、「正解」は一つには決められない。それが、入試小説問題の鉄則であるらしい。
・この鉄則を身につけるのには、少し手間がかかる。
①まず、小説を「自由」に読みたい自分を殺さなければならない。
②次に、「学校空間」にふさわしい物語がどういうものかを身につけなければならないという

〇この小説では、芸術への情熱を失わない妹を見て、主人公の「私」はしだいにかつて自分がそれを諦めたことを後悔し始める。しかし、その「後悔」という言葉は書き込まれない。小説の言葉はその周辺を巡るだけである。
 一番言いたいことだけを言わないことが、この小説の最大の美点であるとみる。
 (文学理論では、「黙説法」と呼ぶ技法であるそうだ)
 この問題はなぜ「「後悔」という言葉を語っていないこと」が読者にはわかるのかという点にあると、石原氏は解説している。
〇それは、読者がそれまでの読書体験や人生体験から、「この小説はこうなるだろう」という小説の全体像をどこかに持っていて(文学理論では「期待の地平」という)、それを規範として小説の結末を予想して読むからである。

※入試国語では「正解」は一つに決められてしまう。すなわち、読み方が一つに決められてしまう。(入試国語とはそういう暴力的なものであるともいう)
 それを避けて通れないとしたら、「自分の読み方」をとりあえず括弧に括って、入試国語ではどういう原理で読み方が一つに決められてしまうのかを、受験技術として覚えてしまうしかないとする。
(その原理こそが、「学校空間にふさわしいように読むこと」であると石原氏は捉えている)

・この小説の場合は、<経済的な豊かさよりも、貧しくても芸術の方が尊い>という、学校空間的なモラルが入試国語としての読み方を規定している。
 (それは、世間一般の「建前的常識」でもある)
 それが、入試国語で言う「国語力」というものの正体なのであると、石原氏はいう。

・「物語文」をもっと短くまとめれば、<妹を鏡として、かつての自分を自覚する物語>となる。
 ただし、小説の場合はここまで抽象化してしまうと、設問を解くためには役立たないことが多いらしい。入試国語のほとんどは日常を模倣したリアリズム小説からの出題なので、ある程度の具体性を含んだ、適切なレベルの抽象化が求められるからである。

〇小説問題においては、あくまで「物語文」を参照することが基本である。
 「消去法」はあまり役に立たないそうだ。だからこそ、小説問題は受験技術を学んだ程度ではなかなか点数が上がらないという。
 入試国語においては、評論文からの出題よりも小説からの出題の方が、受験生が持っている能力(国語力)を選別する機能が高いようだ。
※ただし、この場合の「能力」とは広い意味での「学校空間への適応力」のことであると、石原氏は捉えている。
大学受験国語も「学校空間」内部での「試験」の一つである以上、「学校空間への適応力」を早い段階で身につけた子供を確保することは、偏差値の高い大学への進学率が経営上の正否を決める中高一貫校にとっては死活問題であるともいう。
<小説問題についての石原氏の見解>
・小説問題においては、具体性を保持しながらも適度に抽象化された「物語文」を作り、それを参照することが最良の「読解」方法となる。
・また、自由に読むことができる小説問題では、消去法はあまり有効ではない。
・したがって、受験技術で得点が飛躍的に伸びることは期待できないので、「読解力」を試す入試国語としては評論文よりも有効であると、石原氏は判断している。
・さらに言えば、学校空間への適応力を計る入試国語としても、評論問題よりもすぐれているとする。
(ただし、それが果たして小説にとって幸福なことかどうか、あるいは受験生にとって好ましいことかどうかは、別の問題であると断っている)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、134頁~150頁)

国立大学受験国語は文脈要約能力~第五章より


 石原氏は、入試国語で試される能力について、次のようにまとめている。

〇大学入試センター試験や私立型の選択肢問題で求められ能力
①文脈参照能力
 選択肢の言っていることが本文のどこと対応しているのかがわからなければ、出発もできない。
②二項対立整理能力
 その上で、二項対立に図式化する二項対立整理能力が試される
③翻訳能力
 さらにそれを前提として、本文の言葉を選択肢の言葉と対照する翻訳能力が試される

〇入試国語で試されそうな能力【評論の場合】
①そこが前後の文脈の簡潔なまとめになっている場合。これは文脈要約能力とでも呼べる「能力」としていることになる。
②そこが、論の転回点になっている場合。これは、構成把握能力を試そうとしていることになる。
③そこが全体の中で難解な表現や気取ったわかりにくい表現になっている場合。これは、構成把握能力を前提として、やさしく言い換える翻訳能力を試そうとしていることになる。
④そこが全体のキーワードや決めゼリフや結論になっている場合。これは、テーマ把握能力を試そうとしていることになる。
※【評論の場合】は、大体この4パターンに収まるという。

【小説の場合】は、さらにいくつかの要素が加わる。
⑤行為を中心に書かれているリアリズム小説において(入試国語に出るのはほとんどリアリズム小説)、そのときの登場人物の「気持ち」を問う場合。これは、感情移入能力を試そうとしていることになる。
⑥登場人物の言動の意味を問う場合。これは、意味付け能力を試そうとしていることになる。
※小説問題の場合は、これらが中心である。
(要するに、言葉にできないことを言葉にせよと言っている)

【評論の場合】


【評論の場合】について、具体的に2題ほど検討している。(ここでは本文・問題文省略)
〇「言葉の残余」と題して、東北大学の問題(2006年施行)
出典は、長谷川宏『ことばへの道 言語意識の存在論』(勁草書房、1978年)から。
長谷川宏は、その後ヘーゲルなどの難解と言われていた哲学書を実にわかりやすい日本語に翻訳した翻訳者として勇名を馳せただけあって、読書の量と質が半端ではないという。現在でも通用する議論を展開している。
本文の全体を見渡して、ひねりやねじれがあるところ、つまり論が展開しているところを見つけ出し、まずは二項対立の図式にまとめることからはじめることになる。
(二項対立の図式をとりあえずの手がかりとして、それに修正を加えながら全体を理解するようにしなければならないという)
この文章の展開は、3回ある。
①<個人の意識=体験/社会的共同的なもの>
②<体験/記号=表現/共同の場>
③<沈黙の体験の秩序/記号=表現の秩序>
④<体験/表現行為の反作用/沈黙の秩序>
 【要約】
<体験は個人的なものだが、それを表現したとき社会性を帯びることになる。しかし、表現する必要のない「沈黙の体験」もある。その「沈黙の体験」とそれを表現したものとは別次元にあるが、表現行為それ自体が一つの体験である以上、表現は体験を新たに組み替えていくものとなる>
【さらに短い要約】
<体験とその表現は別次元のものだが、表現行為は一つの体験として体験する主体を変えることができる>
【この文章のテーマ】
・「言語の牢獄」から抜け出す仕組みの解明、その可能性を探ること

※<まとめ>
・記述問題が求めている「国語力」は、記述力を前提として、「情報処理能力」と「文脈要約能力」が中心である。
 (下手に「解釈」を入れない方が減点のおそれがない)
・よく、記述問題や小論文の答案に個性がないと嘆く声が聞かれるが、そもそも制限字数が「解釈」を排除しているようでは、個性など求めようがない。
(受験生が「受かる答案」ではなく、「落ちない答案」を書くのはことの必然であるという)

〇「死者は生きている」と題して、東京大学の問題(2006年施行)
出典は、宇都宮輝夫「死と宗教――来世観の歴史性と不変性」(『岩波講座 宗教3 宗教史の可能性』岩波書店、2004年)による。
本文は特にこれといったひねりやねじれもなく、素直な展開を持った文章であるようだ。
二項対立の図式もシンプルなもの。
①<死者/消滅>
②<死者=実在/無>
③<他者の命=自分の命/執着>
 【要約】
<宗教の来世観は、死者は消滅しないと考えるところから来ている。したがって、生者と死者は連続していることになるが、この連続性は伝統を形成し社会を安定させるだけでなく、若い他者に道を譲るために死を受け入れる勇気と諦めを支えている。>

 【解法】
・問(一)~(四)は、要するに文脈要約能力が試されている。
 ただし、それがかなりの広範囲に及ぶところが、高度なのである。逆に言えば、それだけが高度なのであるという。
 文脈要約能力が必要とされる記述問題では、問われている傍線部の直前の傍線部から直後の傍線部までの本文を「要約」すれば「正解」となるのがふつうである。
 (問題を作る側からすれば、その傍線部の守備範囲が終ったと判断したから次の傍線を引くのだから、当然と言えば当然だろうと、石原氏は付記している)

・問(五)はこれまでの問題と少し違い、本文にはきちんと述べられていない。
 それに、二項対立の図式も使えない。ここまで来てはじめて、本文から発展した「解釈」を含んだ解答を求める設問が設定されたとする。


※記述式の評論問題を2題見てわかること。
・試される能力はごく限られたものであることがわかる。これが「国語力」と呼ばれているものの実態なのであるという。
・選択肢問題の方が解くのには複雑な操作が必要かもしれないが、それはかなり特別な能力である。はっきり言えば、受験を終えればほとんど必要がなくなる能力であるという。
・記述問題を解く能力の方が大学に入学してから役立つという事実は厳然としてある。それがいかに没個性的な文章であったとしても、文章力であることには変わりはないからであると、石原氏はコメントしている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、209頁~234頁)

【小説の場合】


・小説問題の基本は、登場人物の「気持ち」を問うことにある。
 そこで、入試国語に採用されている小説のほとんどはリアリズム小説となっている。
 しかも、人の心の内面にはあまり触れず、主に外面から人物が書かれている小説である。
 (外側から心を読めというわけである)
・どうして小説問題が解けるのか。それは、学校空間では小説の読み方はパターン化されてしまっているからであるという。
 大学受験国語でも最も重要なことは、小説を自由に読むことではなく、そのパターンを身につけてしまうことであると石原氏は言い切っている。それができてはじめて、「気持ち」を言葉にすることができるとする。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、234頁)



≪【参考書の紹介】安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』≫

2022-08-15 18:05:47 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【参考書の紹介】安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』≫
(2022年8月15日投稿)

【はじめに】


 今の高校生は、オリビア・ニュートン=ジョンの曲を聴いたことがあるのだろうか。
 私の高校生の時代に流行したのが、オリビア・ニュートン=ジョンの曲であった。
 中でも印象に残っているのは、「そよ風の誘惑(Have You Never Been Mellow)」(1975年)というヒット曲である。チャーミングな容姿で、美しいハイトーン・ヴォイスとポップ・カントリー風な作品でヒットを連発した。
オリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John, 1948~2022)は、イギリスに生まれ、オーストラリア育ちのポピュラー歌手である。父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授で、5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族と共に移住したようだ。その後、1975年にアメリカに移住し、活躍した。 先日8月8日、彼女の訃報が伝えられたのはショックであった。73歳だったという。
 ところで、「そよ風の誘惑(Have You Never Been Mellow)」という曲は、邦題からはラブ・ソングを連想させるが、歌詞の内容はそうではない。 
 歌詞の出だしは次のようなものである。
♫ There was a time
  When I was in a hurry as you are
  I was like you
  There was a day
  When I just had to tell my point of view 
  I was like you
 焦りやイライラをしずめ、肩の力を抜いてというメッセージ・ソングと解される。
 肩ひじを張って、いつも神経をとんがらせている人。何事をするのにもあくせくしていて、見ている方まで気疲れしてしまいそう。でも、そんな人を見ていると、かつての自分自身を思い出さずにはいられない。そんな人に声をかけたくなってしまう。肩の力を抜いて歩んでみてと。
 泉山真奈美さんはこのように曲の要旨をまとめている。
(泉山真奈美「歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌物語 第21回 Have You Been Mellow」、三省堂「ことばのコラム」(2012年2月29日付)参照)

 あの時代、オリビア・ニュートン=ジョンは輝いていた。また、尾崎亜美さんがオリビアに敬意を表して作った曲が、杏里の「オリビアを聴きながら」(1978年)であった。
 サビの箇所で “making good things better”というフレーズが登場するが、これはオリビアが1977年に発表した楽曲「MAKING A GOOD THING BETTER」(邦題「きらめく光のように」)に由来しているそうだ。杏里がオリビア・ニュートン=ジョンが好きという話を聞いて、尾崎亜美さんがこの楽曲を制作したという逸話がある。

 話が横にそれたが、英語の歌を聞く場合は、邦題に惑わされず、歌詞の意味を考えてみることが大切だということが言いたかった。

 さて、今回のブログでは、高校生が英語長文を読む場合の参考書を紹介したい。
 それは、安河内哲也氏による次の著作である。
〇安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング レベル2 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]
 安河内哲也氏のプロフィールを簡単に記しておく。

【安河内哲也(やすこうち てつや)氏のプロフィール】
・上智大学外国語学部英語学科卒業
・東進ハイスクール・東進衛星予備校講師
・衛星放送を通じ、基礎レベルから難関レベルまで、ていねいでわかりやすい授業で全国の受験生に大人気。特に、英語が苦手な人を超基礎レベルから偏差値60台にまで引き上げる、基礎力養成の講義には定評があるという。
・資格取得:国連英検特A級、通訳案内業、TOEICテストリスニング・リーディング・スピーキング・ライティングすべて満点、韓国語能力試験1級など多数。
・趣味:乗り物の操縦と映画を観ること。



【安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』(桐原書店)はこちらから】
安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』(桐原書店)






安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング レベル2 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]
【もくじ】
はじめに
本書の利用法
「私は音読をすすめます」
センスグループの分け方
英文精読記号システム
本書で使用している記号について

UNIT 1 ●地球の環境について
UNIT 2 ●人類の進化の歴史
UNIT 3 ●日米の意見の述べ方の違い
UNIT 4 ●アメリカの自動車産業
UNIT 5 ●「悪いことは重なる」という話
UNIT 6 ●警察官の仕事
UNIT 7 ●俳優業とは?
UNIT 8 ●点字の歴史
UNIT 9 ●詩人と科学者の知恵比べ
UNIT 10 ●イギリス人の習慣
UNIT 11 ●もし私が独裁者になったなら
UNIT 12 ●バッグをなくした外国人の話

付属CDの使い方
問題英文と全訳
テーマ解説とリーディングガイド
出題校一覧




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「はじめに」
・本書の利用法
・「私は音読をすすめます」
・問題の例~「UNIT 1●地球の環境について」より






「はじめに」


 安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング レベル2 標準編』(桐原書店、2020年[2004年初版])の「はじめに」において、安河内哲也氏は次のようなことを述べている。

・大学入試の英語は長文読解力で決まる。
 「長文」を制するものが入試英語を制す、と言っても過言ではない。
・英文読解に必要な技能は、文法力・単語力・熟語力・速読力・大意把握力・設問解法と多岐にわたる。
⇒これらをすべてバランスよく、ていねいにトレーニングするしかない。

〇本書は、今までバラバラだった精読・速読・設問解法・単語・熟語・文法・構文・パラグラフリーディングが、レベル別にまとめて勉強できる画期的な問題集であるという。
⇒すべての受験生が「使いやすく」「わかりやすく」「力がつく」作りになっていると、著者は強調している。

例えば、すべての英文に構造図解があり、すべての設問に解答の根拠が示されている。
・単語・熟語は細かにリストアップされる(単語集・熟語集の機能)
・何度も音読を繰り返し、速読力を身につけるための「速読トレーニング」により、速く長文を読むトレーニングができるようになっている。
⇒本書には、速読トレーニングのためのCDが付録としてついている。

※英語は野球などのスポーツにたとえられる。
 語彙力は筋力で、文法力はルールの理解のようなもの。英文読解こそが一番大切な「試合」である。
⇒皆さんは、英文読解という最高に刺激的なゲームを始めるところであると、著者は励ましている。
(安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]、3頁)

本書の利用法


☆本書を使った英文読解の勉強法として、次のような効果的な使用法を紹介している。
 解いて、答え合わせをするだけの無意味な学習から、将来も役に立つ“本物”の英文読解力が身につく学習へとやり方を変えることを勧めている。

①問題にチャレンジ! 
・目標時間をめやすに別冊の問題を解いてみる。
②設問解法を学ぼう!
・解答を見て赤ペンで答え合わせをする。
・解答と解読を読んで、選択肢や答えがどうして正解なのか、また不正解なのかをよく確認する。
③精読とテーマ読解を学ぼう!
・「徹底精読」のページで、英文の読み方や文法のポイントを学び、英文の構造のとらえ方を学ぶ。
・また、パラグラフごとの要旨を確認し、英文のテーマを把握する練習もする。
・「精読記号」のついた英文を読み、英文の構造を見抜く訓練もする。
※「精読記号」には、名詞の働きをするもの(名詞、名詞句、名詞節)
          形容詞の働きをするもの(形容詞、形容詞句、形容詞節)
          副詞の働きをするもの(副詞、副詞句、副詞節)
  などで区別されている(14頁~19頁)。
④音読で速く読む訓練をしよう!
◎「速読トレーニング」を使って、左から右へと英文を読む訓練をする。
・まず、英語→日本語、英語→日本語、というふうに、“同時通訳風”の音読で、速度を上げていく。
・さらに日本語が必要なくなった段階で、英語のみを音読し、意味を理解する訓練をする。
※何度も繰り返すことが重要。
⑤ネイティブレベルにチャレンジ!
・巻末の白文の問題英文を音読し、それと同時に明快に意味を把握することに何度もチャレンジする!
(この段階で100パーセント英文が理解できることが本書の長文学習のゴールだという)

※なお、このシリーズは、個人のレベルに合わせて長文読解の学習が始められるレベル別問題集であるという。
 各レベルの構成は次のようになっている。


※本書は、『大学入試 英語長文ハイパートレーニング レベル2 センターレベル編』のレベルの名称を『標準編』と改題し、新々装版として刊行したものであると、付記されている。

(安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]、2頁、6頁~9頁)

「私は音読をすすめます」


 安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング レベル2 標準編』(桐原書店、2020年[2004年初版])の「私は音読をすすめます」において、安河内哲也氏は次のようなことを述べている。

・日本人の英語学習書は諸外国の学習者と比較して、しばしば英語の運用能力が劣っていると言われる。
 その理由の1つは、言語学習の基本である音読訓練を軽視していることにあると、著者は考えている。
 そして、英文読解力の基礎を築くための最高の訓練は、「英文の音読」であると、強調している。つまり、音読は文法や語彙の習得など、あらゆる言語能力の習得に威力を発揮するが、特に英文読解力の育成において重要であるという。

【英文読解の学習において音読が重要な理由】として、次の4点を挙げている。
①音読で脳が活性化する。
②左から右へと考える習慣がつく。
③直読直解を可能にする。
④動作記憶と言語感覚が身につく。

(安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]、10頁~11頁)


問題の例~「UNIT 1●地球の環境について」より


 安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング レベル2 標準編』(桐原書店、2020年[2004年初版])では、目次を見てもわかるように、UNIT 1~12まで、12のテーマについて問題が出されている。すべてを紹介することはできないので、この中で、「UNIT 1 ●地球の環境について」のおおよその内容を紹介しておきたい。
(「徹底精読」などにおいて、英文の構造について詳しく解説しているが、省略していることをお断りしておく)

UNIT 1 ●地球の環境について
UNIT 2 ●人類の進化の歴史
UNIT 3 ●日米の意見の述べ方の違い
UNIT 4 ●アメリカの自動車産業
UNIT 5 ●「悪いことは重なる」という話
UNIT 6 ●警察官の仕事
UNIT 7 ●俳優業とは?
UNIT 8 ●点字の歴史
UNIT 9 ●詩人と科学者の知恵比べ
UNIT 10 ●イギリス人の習慣
UNIT 11 ●もし私が独裁者になったなら
UNIT 12 ●バッグをなくした外国人の話

 「UNIT 1 ●地球の環境について」は、地球の環境の複雑さと精密さを述べる英文である。
 温室効果、オゾン層の破壊など地球環境の悪化が続いている現在、環境に関する英文の出題は急増しているそうだ。
 この種の英文を読破するために、地球が抱えている様々な環境問題を知っておきたい。

本文では、地球の様々な部分は相互に関係していることを、時計にたとえて説明している。文意を正しく読みとり、どのような設問がなされているかを参考にしてほしい。



◇次の英文を読み、後の問いに答えなさい。

Why is our earth the kind of planet it is? Not only because it is
full of a number of things. Not only because some parts are more
full of things than others. But also because the things in it are
related. The earth is like a watch. (ア) (1)about (2)of (3)acci
dental (4)the mechanism (5)nothing (6)there’s (7)a
watch. Each part is a working part and each is absolutely necessary
to make the watch go. Furthermore, the watch can go only when
each part is ( イ ) connected with other parts.
All the parts of the earth are ( ウ ) working parts, and are
necessary to make it “go.” Consider physical features such as the
Grand Canyon of the Colorado River and Mt. Fuji, in Japan. They
are the result of relationships between the land, the water, and the
air. These relationships started millions of years ago and have
continued ( エ ) this very day.
There’s another (オ) way in which the earth resembles a watch.
It’s a precision instrument. Unlike a watch, it shows no sign of
( カ ) down or stopping. “Seed time and harvest, and cold and
heat, and summer and winter, and day and night” continue to arrive,
( キ ) time.
How do we understand how a watch works? Only by knowing
what use each spring, gear, and wheel serves, and how the parts
hang together. (ク) In the same way, we can understand how our
world works only by getting to know the parts and the relationships
between them.
This, however, is not easy, even if it could be done ( ケ ).
For there are far more working parts to the earth than to a watch or
( コ ). Nobody yet knows exactly how many working parts there
are. After all, some parts of the world are still barely known. Large
areas of Antarctica remain unexplored. So are large areas of the
atmosphere and the oceans, (サ) (1)are (2)both (3)at work
(4)which (5)of all the time cooling and warming, drying and
moistening the land surfaces of the earth. Then again, some of the
relationships between the ( シ ) working parts are not fully
understood.


【設問】
1. (エ) 、(キ)に入る最も適切な前置詞を、①~④の中から1つ選びなさい。
 (エ) ①after  ②by   ③on   ④to
 (キ) ①at   ②by   ③with  ④on

2. 本文の内容に合うように(イ) 、(ウ) 、(カ) 、(ケ) 、(シ)に入る最も適切な語を、①~④の中から1つ選びなさい。
(イ) ①accidentally  ②directly   ③normally   ④properly
(ウ) ①frequently   ②likewise   ③otherwise   ④reasonably
(カ) ①coming   ②going   ③letting   ④running
(ケ) ①at last   ②at most   ③at all   ④at that
(シ) ①completed   ②known   ③uncompleted ④unknown

3. (コ)に入る適切な句を、①~④の中から1つ選びなさい。
 ① all other precision instruments
 ② any other precision instrument
 ③ no other precision instruments
 ④ some other precision instrument

4. 下線部(ア)を並べ換えて正しい文を作ったとき、3番目にくる語(句)と5番目にくる語(句)の番号を答えなさい。ただし、文頭にくる語(句)も小文字になっている。

5. 下線部(サ)を並べ換えて正しい文を作ったとき、2番目にくる語(句)と4番目にくる語(句)の番号を答えなさい。

6. 下線部(オ)の単語wayと同じ意味で使われているものを、①~④の中から1つ選びなさい。
 ① Do you know the way to the station?
 ② In some ways, it’s quite a good idea, but the high cost makes it impossible.
 ③ There are many ways of solving the problem.
 ④ Which way is the library from here?

7. 下線部(ク)を日本語に訳しなさい。

8. 本文の内容と一致しないものを、①~⑤の中から1つ選びなさい。
 ① The earth is a complicated machine consisting of countless parts working together.
 ② All of the various parts of the earth are necessary for it to continue as it is today.
 ③ Unlike a watch, the earth is slowly approaching its end.
 ④ We need to learn how the different parts of the earth interact.
 ⑤ It is difficult to understand how the earth works because it has
many complicated parts.



【解答と解説】
1. (エ)④to
 ※ to this very dayは、「今日に至るまで」という意味のイディオム
 (キ) ④on
 ※ on time は、「時間通りに」という意味のイディオム
  (cf.) in time は、「間に合って」「やがて」という意味

2.
(イ)④properly
※時計の機能の正確さを述べている箇所なので、「適切に」という意味のproperly
(ウ)②likewise
※時計と地球を比較して、その類似点を述べているので、「同様に」という意味のlikewise
(カ)④running
※ run down は時計などの機械が「故障して止まる」という意味のイディオム
(ケ)③at all
※ at allはif節の中で使われると「そもそも[少しでも](…するにしても)」という意味になる。not …at allという否定文で使われる場合は「まったく[少しも]…ない」という意味になる。
(シ)②known
 ※直前の文では、地球にはまだ未知の部分が多いということが論じられている。
  これに対して、この文は、「既知の」部分の関係もまだ解明されていないということを論じている。
 ⇒「既知の」という意味の単語known

3.
 ② any other precision instrument
 ※<比較級+than any other +名詞>は「他のどんな~よりも…」という意味の比較の重要表現(名詞の部分には普通、単数形)

4.  3番目にくる語(句)は(3)、5番目にくる語(句)は(4)
 ※正解文:There’s nothing accidental about the mechanism of a watch.
  <there is something +形容詞+about~>は、「~には何か…なところがある」という意味の重要構文。この文はnothing を使った否定文になっている。

5.  2番目にくる語(句)は(5)、4番目にくる語(句)は(1)
 ※正解文:both of which are at work
  <先行詞+数量を表す代名詞+of+which[whom]>は、先行詞の数や量を限定して直後で説明する場合に使う関係詞の構文。(非制限用法で使われる)

6. 
 ② In some ways, it’s quite a good idea, but the high cost makes it impossible.
 ※①の文では「道筋」、②の文では「点、面」、③の文では「方法」、④の文では「方向」という意味で使われている。本文では「点、面」の意味で使われている。

7.
 同様に、各部品とそれらの間の関係を知ることができるようになってはじめて、私たちは私たちの地球がどのように動くのかを理解できる。
※ in …wayは「…な方法で」という意味の重要表現。
⇒ in the same wayで「同様に」と訳せばよい
※ how S Vは「どのようにSがVするか」「SがVする方法」という意味の名詞節を作り、この文ではunderstand の目的語になっている。
※ onlyが副詞句の前に置かれると、この文のように、しばしば「…になってはじめて、ようやく」という意味になる。
※ get to Vは「Vするようになる」という意味。
※ the partsとthe relationshipsがand という接続詞で並べられている。

8. 
③ Unlike a watch, the earth is slowly approaching its end.
 ※選択肢の和訳
 ①地球が一体となって動く無数の部分で成り立っている複雑な機械である。
 ②地球の様々な部分はすべて地球が今日の状態であり続けるために必要である。
③時計とは違って、地球はゆっくりとその終わりに近づいている。
④私たちは地球の異なる部分がどのように互いに影響し合っているのかを学ぶ必要がある。
 ⑤複雑な部分が多いので、地球がどのようにして動くのかを理解するのは難しい。
 注意すべき点は、第3パラグラフでは地球は「止まることがない」と述べられている点。



※参考までに語句を抜き出しておく。
 また「問題英文と全訳」(196頁~197頁)には、上記の「UNIT 1 ●地球の環境について」の問題英文と全訳が載せてある。白文を見ながら音読し、スラスラ意味がわかるようになるまで、CDを聞きながら練習することを、安河内先生は勧めている。

【語句】
・related   (形)関連のある
・accidental (形)偶然の
・connect A with B (熟)AをBと連結する
・physical feature (名)地形的特徴
・relationship   (名)関係
・precision instrument (名)精密機械
・run down    (熟)(時計などが)動かなくなる
・seed time   (名)種まきの時期
・on time     (熟)時間通りに
・spring     (名)バネ
・hang together  (熟)くっつく
・Antarctica    (名)南極大陸
・unexplored    (形)未調査の
・at work     (熟)活動中で

(安河内哲也『英語長文ハイパートレーニング 標準編』桐原書店、2020年[2004年初版]、2頁~4頁、20頁~31頁、196頁~197頁、220頁)