【はじめに】
今回のブログでは、元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』(小学館、2012年)を紹介してみたい。
まず、目次と執筆項目を記しておき、内容要約をしてみたい。
元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年
目次
はじめに
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
第二章 イエス・キリストの笑い
第三章 フェルメールの笑う女たち
第四章 笑いの裏側
第五章 絵を見て笑う
あとがき
主要参考文献
さらに第一章は次のような節に分かれる。
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
「笑顔」の付加価値
ゴシックの笑顔
肖像画の成立
婚活のための肖像画
道化師と子どもの笑顔
≪モナ・リザ≫は笑っているのか?
※≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』はこちらから≫
元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎 』
元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎』 (小学館101ビジュアル新書)
執筆項目は次のようになる。
(章立てに沿って紹介するが、ただし節の名称は変更したことをお断りしておきたい)
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
・肖像画の歴史と笑顔
・ゴシックの肖像彫刻の笑顔
・肖像画の成立
・肖像画の顔の向きによる形式
・四分の三観面像の優勢――ヤン・ファン・エイク
・婚活のための肖像画
・ヤン・ファン・エイクとハンス・ホルバインの肖像画の違い
・道化師と子どもの笑顔
・≪モナ・リザ≫は笑っているのか?という問い
・レオナルド作品の微笑
・ルネサンスにおける女性美の考え方
・《モナ・リザ》という絵画について
第二章 イエス・キリストの笑い
・笑うマリアと笑わぬキリスト
・禁じられた笑い
・イエスの反撥
・ペストという分岐点とイエス像の二つのタイプ
・恩恵へと誘う笑い
・育児のための絵
・ラファエロが描いた幼子イエスの笑顔
第三章 フェルメールの笑う女たち
・フェルメールが愛される理由
・笑顔に潜む謎
・「幸福な家族」という神話
・フェルメールの絵に見える召使いの笑顔
・マースの絵に見られる笑顔
・ルネサンスの絵画と17世紀オランダの絵画の違い
・フェルメールの≪手紙を書く女≫の笑顔
・フェルメールの≪2人の紳士と女≫の笑顔
・フェルメールの風俗画の特徴
・フェルメールの絵の謎
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
肖像画の歴史と笑顔
西洋絵画における笑顔といえば、「モナ・リザ」の微笑(ほほえみ)が思い出される。一般に「謎の微笑」と呼ばれている。元木氏は、もともと微笑というのはほとんどつねに謎めいているといい、「モナ・リザ」の微笑には、はたして謎などというものがあるだろうか、というところを出発点として、第一章の筆を進めている。
「モナ・リザ」は肖像画であるから、肖像画の歴史をたどることで、笑顔がいつどのようにして登場したかを解き明かしている。
キリスト教社会のヨーロッパ絵画で、現世の生きた人物の肖像が描かれ始めるのは、教会に置かれた宗教画の寄進者像であったようだ。キリスト教会では、宗教画を寄進した人の像を画面に描き込んだ。
よくある例のひとつは、三連祭壇画である。中央画に、イエスの物語場面や聖母子像が描かれ、その左右両脇の翼画に、祈りを捧げる姿で寄進者像が描かれる。この場合、神への祈りの最中に、まさか笑いを浮かべるわけにはいかないので、寄進者像に笑顔はない。
さて、宗教画から独立した単独の肖像画が誕生するのは、14世紀中ごろである。しかし、初期の独立肖像画に、すぐに笑顔が登場するわけではない。というのは、肖像画には用途があり、初期の用途は笑顔を必要としなかったからである。肖像画に笑顔を加えることによる付加価値が生まれてはじめて、笑顔が登場することになると元木氏はみている。
ゴシックの肖像彫刻の笑顔
中世以降のヨーロッパ美術における肖像表現の歴史は、絵画よりも彫刻の方が古くまで遡ることができ、肖像画より100年近くも早い13世紀半ばには出現する。
草創期の肖像彫刻のひとつ、ドイツ中部ナウムブルク大聖堂の西内陣にある寄進者肖像に早くも笑顔が登場する(1250年頃、砂岩、175~185㎝、ナウムブルク大聖堂[ドイツ])。
その≪辺境伯ヘルマンと伯妃レクリンディスの像≫のうち、妃レクリンディスは、艶(あで)やかな笑いを浮かべている。彼女は胸元に手をやって、あっけらかんと笑い、おおらかな性格が偲ばれる。
また、西内陣のもっとも有名な寄進者肖像彫刻は、≪辺境伯エッケハルト2世と伯妃ウータの像≫であるとされる。ゴシック肖像彫刻(ゴシックとは、12世紀半ば~15世紀の美術様式)の白眉といえるほど美しいウータ像であるが、こちらは笑顔ではなく、内気で恥ずかしそうな表情である。
ただ、これらの寄進者たちは、像が制作された13世紀半ばの人物ではない。つまり、生きているモデルを前にして写すという意味での肖像ではない。1249年、ナウムブルク司教の嘆願書によれば、これらの像は、この大聖堂の最初の寄進者たちで、2世紀ほど以前の11世紀の寄進者たちであるという。すなわち、これらの像は過去の偉大な寄進者たちを顕彰した像であり、彼らに負けずに寄進してほしいと嘆願するための像であるそうだ。レクリンディス像のおおらかな笑顔は、過去の人物を鮮やかに思い浮かべるための仕掛けだったと元木氏は説明している。
肖像画の成立
絵画が肖像画から誕生したという由来については、古代ローマの博物学者プリニウスが伝えている。恋人が遠方へと赴任することになった時、壁に投影された恋人の影の輪郭をなぞって描いたという。これが絵画誕生のひとつだった。実際の人物の代用品としての肖像画である。独立肖像画が成立した14世紀中ごろの文学には、遠く離れた人物の肖像画をもって本人の代用とした例があるそうだ。
例えば、イタリア・ルネサンスの詩人ペトラルカは、1335年頃に同時代の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)が描いた恋人ラウラの肖像画についての詩をつくっている。また、1363年から64年頃に、フランスの詩人ギョーム・ド・マショーは、恋人ぺロンヌにあなたの肖像画を送ってもらい、それをベッドの傍らに置いたという。
さて、現存する最古の肖像画は、ほぼ同時期に描かれたものである。
・一つは、ルーヴル美術館蔵のフランス国王を描いた作者不詳≪ジャン・ル・ボン像≫
(1350年頃、55.6×34㎝、ルーヴル美術館[パリ])
・もう一つは、ウィーンにある作者不詳≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫(1365年頃、48.5×31㎝、大聖堂司教区美術館[ウィーン])
ともに、14世紀中ごろ(1350年頃から1365年頃)に制作された。ただ、この2点は形式が異なる。
肖像画の顔の向きによる形式
肖像画は、顔の向きによって、大きく3つに分類できる。
① 真横の「プロフィール像」
② 斜め横を向いた「四分の三観面像」
③ 真正面を向いた「正面像」
先の「ジャン・ル・ボン像≫はプロフィール像、≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は四分の三観面像ということになる。これ以降50年以上にわたって、プロフィール像が一般的な形式となる。だから、≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は当時唯一のきわめて異質な作例である。
プロフィール像と四分の三観面像の違いについて、元木氏は次のように説明している。
人の特徴をとらえるとき、一般には真横より斜め横顔の方が明示しやすい。つまり、両眼、両頬の方がその人の特徴が現れやすい。
また、絵を見る人に視線を向けるのが横顔では難しいので、画中の人物と絵を見る人との心理的な交流は、横顔ではかなり困難であるという(逆に言えば、人物がそっくりかどうかをそれほど問題にしない場合や、見る人との交流を想定しない絵では、横顔でもよいということになる)。
さて、最初期の二つの絵は、どちらも君主像である。≪ジャン・ル・ボン像≫は、画面上部に彼の名が明記しているので、モデルの正体がはっきりする。そして≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫で額縁に銘が入っている上に、冠をかぶっていることで、正体が明らかである。
二人とも正体が明示されるが、絵を見る人との交流を想定していることに元木氏は注意を促している。≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は四分の三観面像だが、視線がこちらを向いてないことからすれば、やはり見る人との交流は意図していないという。
この二作品以降、しばらくの期間、肖像画は支配者層がモデルである。支配者像は、絵を見る人との交流を意図するよりも、支配者の力を誇示することが意図される。≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫を除いてプロフィール像が半世紀以上も支配的な形式として続くのは、制作意図の観点から、四分の三観面像である必要がなかったからであろうと元木氏は推測している。
(元木、2012年、22頁~26頁)
四分の三観面像の優勢――ヤン・ファン・エイク
四分の三観面像が優勢になるのは、1420年から30年頃のフランドル(現在のベルギー)においてであった。ロベール・カンパン(1370年代後半~1445)やヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441)の肖像画にみられる。
この種の肖像画で画中に制作年が記されている最古の作品は、1432年のヤン・ファン・エイクによる≪ティモテオスの肖像≫(1432年、33.3×18.9㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])である。石の胸壁の向こうに画面左斜め方向を向いて、緑のターバンを巻いている男性が描かれている。モデルは不明である。ただ、その衣装から判断して、貴族ではなく市民階級の人物とみられている。
胸壁には、大きな文字で、「誠実なる思い出」という意味のフランス語の銘文が書かれている。肖像の本質を適切に言い当てている言葉である。肖像画誕生にまつわるプリニウスの伝説をひとことで表せば、「誠実なる思い出」となる。
ヤン・ファン・エイクは、7年後に妻の肖像≪マルガレーテ・ファン・エイク像≫(1439年、32.6×25.8㎝、フルーニンゲ美術館[ベルギーのブリュージュ])を描いた。
額縁に「わが夫ヨハンネス、これを完成せり」と書かれていることから、画家ヤンが妻を描いた肖像であるということがわかる(「ヨハンネス」とは「ヤン」のことである)。
この作品の視線が注目に値するという。奥方は、こちら(絵を見るわれわれの方)を見ている。制作中、モデルである妻が見つめている相手は、画家である夫ヤンであることになる。
その視線が本来は画家である夫を見つめている妻の視線であることを理解し、そのような夫婦間の視線の交流を想像して、この作品を見るということになる。しかし、この絵では、妻の顔に何らかの表情を読み取るのは難しい。ヤンは何ら感情を描写していない理由を考えてみることが大切だと元木氏はいう。
そのことによって、逆に笑いなどの表情が生れてくる要因があきらかにされると考えている。そのためヤン・ファン・エイクが宮廷画家として肖像画制作に関わった記録を検討している。
(元木、2012年、26頁~30頁)
婚活のための肖像画
ヤン・ファン・エイクは、ヨーロッパでは強国のひとつとされたブルゴーニュ公国(現在のオランダ、ベルギー、フランス東部を支配)の宮廷画家だった。
君主フィリップ善良公(在位1419~67年)は、1425年、公妃を病で失ったので、ヨーロッパじゅうから新しい公妃を求めた。縁談交渉外交を繰り広げ、宮廷画家ヤンをその外交団に随行させた。
画家の随行理由は、1428年から29年にかけてのポルトガル派遣使節団の記録から判断する。つまりフィリップ公はポルトガル王女イザベラとの縁談を進めようとしており、ヤンはその肖像画を描くために随行させられた。ヤンは一か月余で2枚の王女の肖像画を描き、フィリップ公に送った。
ヤンの役割は、今日風にいうと、お見合い写真にあたる婚活用の肖像画を描いて、判断材料を提供することであった。
大げさに言えば、ヨーロッパの国際政治を左右しかねないほど、重大な任務であった。そのような肖像画では、似ていることが必要条件になる。フィリップ善良公とイザベラとの結婚はうまくいったが、不幸な例もある。つまり肖像画に基づいて婚約したけれど、実際に会ってみたら全然似ていなくて、君主はがっかりして、妃との関係もうまくいかない場合である。
元木氏もこの例として、1539年、イングランド国王ヘンリー8世(在位1509~47年)と、クレーフェ公(現在のオランダとドイツにまたがるライン川沿岸地域)の娘アンナとの結婚で、公女の肖像画を描いたハンス・ホルバイン(子)(1497/98~1543)の件を挙げている。
ホルバインが描いた≪アンナ・ファン・クレーフェの肖像≫(1539年、テンペラ、羊皮紙(カンヴァスに貼付)、65×48㎝、ルーヴル美術館[パリ])を見て結婚を決めたヘンリー8世の事例である。
(川島ルミ子氏もこのハンス・ホルバインを例に挙げていた。川島、2015年、94頁~95頁。アン・オブ・クレーヴズの項参照のこと)。
このような事例を見ると、肖像画が本人に似ているかどうか(肖似性)は、画家の運命をも左右するほど重要な要素だった。そのため、そこに表情が介入する余地はなかったと元木氏は考えている。例えば、笑顔は美化と受け取られかねないからであるという。
(元木、2012年、30頁~31頁)
ヤン・ファン・エイクとハンス・ホルバインの肖像画の違い
ヤン・ファン・エイクが描いた肖像画は、すべて斜め横顔の四分の三観面像であるそうだ。1420年代から30年代は、四分の三観面像の肖像画が優勢になりはじめた時期だった。そうすると、プロフィール像から四分の三観面像への変化には、肖似性への要求が関係していると元木氏はみている。
一方、ホルバインのアンナ像は正面向きだった。正面観像は、神の像がしばしばそうであるように、その像に威厳を与える意図のもとで選択されたそうだ。
加えて、肖似性という点では、四分の三観面像に比べると、顔貌の立体感、ことに鼻の形状などが不鮮明となり、不利である(とすると、ヘンリー8世が似ていないと怒ったのは、正面観像だったことにも関係するとみる。つまり、ホルバインは威厳ある存在として王侯を描く際に使用すべき顔の向きを、縁談用の肖像画に採用して描いてしまったというのである。この点に、プロフェショナルな宮廷画家としての大きなミスがあったのではないかともいう。
道化師と子どもの笑顔
肖像画に表情が誕生するのは、ヤン・ファン・エイクよりあとの時期で、しかもフランドルではない地域である。
道化師の肖像画として、15世紀フランスの画家ジャン・フーケ(1420頃~80頃)(あるいはその周辺の画家)≪ゴネッラ≫(1440年代、油彩、36×24㎝、美術史美術館[ウィーン])という絵を挙げている。ゴネッラは、イタリア北部のフェラーラ宮廷に仕えた道化師だそうだ。彼は腕を組み、口には薄ら笑いを浮かべている。
この場合の笑いは、そのときの感情というよりも、道化師という生業を指示する目印かもしれないと元木氏は解釈している。この笑いは、絵を見る人を明るくする笑いではなく、絵を見る人を挑発しているようなアイロニーに満ちた笑いとする。
ところで、イタリア・ルネサンスの≪モナ・リザ≫をみる前に、セッティニャーノ(1430頃~64)の≪笑う少年の胸像≫(1463年頃、大理石、高さ33㎝、美術史美術館[ウィーン])という肖像彫刻を取り上げて紹介している。
この時代、これほど大きな口を開けて笑っている顔は、他にはほとんど例がないそうだ。それは、無邪気さを余すところなく描写している。笑顔は今日では幸せの表徴と見なされるが、この少年の笑顔もそれに近い笑いである。
これらのルネサンス肖像2点の笑顔を比べると、共通の性格に気づく。道化師も子どもも、自ら肖像画を注文するような人たちではなかった点である。この時代、通常、肖像画の依頼主は、君主・妃・貴族・裕福な市民層であった。だから、これらの肖像を注文したのはモデルとは別の依頼主であり、笑顔を描かせたのは依頼主であろう。つまり、依頼主が肖像画にある種の表情を期待するようになったとみることができる。その「期待される表情」が笑顔だったとき、笑顔の肖像画が誕生すると元木氏はみる。
≪モナ・リザ≫は笑っているのか?という問い
それでは、あの≪モナ・リザ≫は、誰が、どのような内容の笑顔を期待したものなのだろうかという問いを元木氏は発する。
まず、≪モナ・リザ≫が笑っているかどうかを検討する。
微笑はえてして笑っているかどうか、はっきりしない。この≪モナ・リザ≫という絵こそ、そのような不可解さをもっている。
≪モナ・リザ≫が笑っていると早い時期に記述したのは、ヴァザーリの『芸術家列伝』(第1版1550年、第2版1568年)の「レオナルド・ダ・ヴィンチ伝」においてである(レオナルドが亡くなって、半世紀もたたずに出版された)。
その列伝によると、レオナルドは、モナ・リザ(リザ夫人の意)の微笑を得るために、音楽を聴かせたり、道化師を呼んで、楽しい雰囲気を作らせたりしたという。なぜなら、肖像画は「憂鬱な気分を絵に与えてしまう」ことが多いので、それを避けるためで、その結果、「人間的というより、神的なもの」が見えるようになり、この絵は生き生きしたものになったという(道化師の演技で笑わせて「神的」なものが生まれるとは、いささか奇妙であると元木氏は記している)。
≪モナ・リザ≫は笑っていると当時の人が見て取ったことがわかる。また、当時の肖像画が、一般に「憂鬱な気分」をもっていると見なされていたことも注目に値するとしている。16世紀初頭に至っても、まだ多くの肖像画は真面目な顔をして、無表情に描かれていたようだ。
(元木、2012年、38頁~40頁)
レオナルド作品の微笑
ところで、どうして≪モナ・リザ≫は微笑んでいるのだろうか。
レオナルドの作品では、≪モナ・リザ≫だけが微笑んでいるわけではないと元木氏はいう。例えば、
・≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫(1500年頃、黒チョーク、紙(カンヴァスに移行)、141.5×104.6㎝、ナショナルギャラリー[ロンドン])
この聖母と聖アンナも、魅力的な微笑を浮かべている
・≪岩窟の聖母≫(1483~86年頃、油彩、199×122㎝、ルーヴル美術館[パリ])
この画面右側の天使の微笑
・≪ブノワの聖母≫(1478~80年頃、油彩、カンヴァス(板より移行)、49.5×31㎝、エルミタージュ美術館[サンクト・ペテルブルク])
この聖母が微笑するのも魅力的である。
このように、微笑はレオナルドの手で描かれる人物像のチャームポイントのひとつである。
しかも、≪モナ・リザ≫以外は、聖母、聖人、天使と、すべて神聖な存在である。
ヴァザーリが微笑に「神的」なものを読み取れるといったのは、そのような背景があってのことであろうと元木氏はみている。
また、≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫の画面中央上、聖アンナの微笑は、神秘的な表情を、人間離れした魔的な魅力を発散している。ヴァザーリが≪モナ・リザ≫の微笑にも「神的」と表現したのは、そのような微笑を念頭に置いたからであろうという。
また、妻リザの肖像画を依頼した夫ジョコンドも、レオナルド作品の神秘的な微笑に魅せられていたと推測している。
(元木、2012年、40頁~42頁)
ルネサンスにおける女性美の考え方
ここで元木氏は、ルネサンスにおける女性美についての考え方という、別の側面から考えている。
ルネサンス期のイタリアでは、多彩な論評が現われ、美人論のその例の一つである(美人について論ずるなどというのは、よほど暇でないとそんなこと考えないであろうから、爛熟した文化の証拠ともいえる)。
その美人論の中で、女性の微笑について、16世紀イタリアの文人フィレンツォーラは、『女性の美しさについて』(1548年)で触れている。
女性の口元は微笑を浮かべると、「天国のごときもの」へと変貌すると述べているが、ルネサンス期の人々は、微笑に神秘的な雰囲気を感じられる。
さらに、女性の微笑というものは、「心の平静さと安らぎ」を伝える甘美な使者だと述べ、微笑は安らかな心を示すだけでなく、何かしら甘美なものをもたらしてくれるという。加えて、微笑は「晴朗な魂の輝き」であるとも、礼賛している。
そのように、当時の上流社会で女性の微笑が礼賛されていた。リザの夫はこうしたことを知っていたであろう。微笑を浮かべる女性が美人の典型とされていたから、《モナ・リザ》に微笑が描きこまれたのかもしれないとも元木氏は考えている。
《モナ・リザ》という絵画について
さて、近年、《モナ・リザ》のモデルが、モナ・リザ(リザ夫人)であることがほぼ確定した。フィレンツェの裕福な市民フランチェスコ・デル・ジョコンドが、14歳下の妻リザを描かせたというヴァザーリの記録が真実であると確認されたと元木氏は明記している。
ジョコンドは30歳で、2度目の結婚だった。一方、リザはジョコンドに比べると貧しい家の生まれだったが、16歳の時に、いわば「玉の輿」に乗った。つまり、リザは「高貴」な家の女性ではなかった。
先述したように、ルネサンスの肖像画で笑顔を浮かべているのは、肖像画のモデルが依頼者自身ではない場合が多いのではないかとみたが、この《モナ・リザ》という作品にも当てはまると元木氏はする。この肖像画の依頼者は、リザの夫ジョコンドであるが、≪モナ・リザ≫の微笑がもっている諸要素は、夫の妻に対する願望の反映と理解することができると元木氏は考えている。つまり、モナ・リザは、おそらくその若さと美貌のゆえに、ジョコンドと結婚できたであろうが、とすれば、「神的」な美しさをもつ高貴な女性というのは、夫ジョコンドの願望、期待だったとみる。
実像がけっして「高貴」ではなく、年齢的にかなり若い妻であったからこそ、本来の姿より、ずっとハイクラスな女性として描かせようと微笑の得意な大画家レオナルドに肖像画を描かせたかったと推断している。
元木氏は、ルネサンスに至って、微笑が「高貴」な女性の付加価値になったからこそ、肖像画にも加えられるようになったと主張している。
(元木、2012年、42頁~46頁)
第二章 イエス・キリストの笑い
笑うマリアと笑わぬキリスト
描かれた微笑という点から、≪モナ・リザ≫の次に、ラファエロ(1483~1520)の聖母の微笑を元木氏は考察している。
ラファエロの≪テンピの聖母子≫(1508年、油彩、75×51㎝、アルテ・ピナコテーク[ミュンヘン])は、微笑む聖母マリア像の典型である。
半身像の若い聖母が、愛情あふれる表情で、幼子イエスを抱き、頬ずりをしている。一方、イエスはいかにも幼子らしいふくよかな肉体に比して、顔は意外に冷静な表情をしている(見ようによっては、マリアの過剰な愛情をうるさいと感じているようですらあると元木氏は記している)。
(元木、2012年、48頁~49頁)
禁じられた笑い
西洋絵画では、多くの場合、笑顔ひとつ描くにも理由と意味があり、そう単純ではないと断りつつ、元木氏は次のように問いかける。
「さて、あなたは笑顔のイエス像を見たことがあるだろうか」と。
幼子イエスではなく、大人のイエスが口を開けて笑っている姿を、元木氏は見たことがないと答えている。
その理由は、どうも聖書に基づくらしい。新約聖書の「ルカによる福音書」に次のようにある。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。(中略)
「今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
(第6章20~25節)
この句は、今は幸福な人も将来不幸になることもあるという、運命の変わりやすさを語った句であるといわれる。言葉が一人歩きをして、この句を根拠にして、笑いと不幸を結びつけて、笑いの否定へと論理を飛躍させてしまう。
特に、中世の修道院では、笑いが厳しく禁止された。例えば、バシレイオスは、東ローマ帝国のビザンティン教会(ギリシャ正教)における修道院制を確立したが、その著『修道士大規定』において、笑いを禁止している。それによれば、福音書ではイエスは笑ったことがないとされ、それゆえ笑いをこらえられない人は不幸なのだという。先の「ルカによる福音書」の箇所から、イエスは笑ったことがない、とまで言われるようになる。
それは、ローマ・カトリック教会側で、修道院制を創始したベネディクトゥスも同様だった。修道士たちに「大笑いや高笑いを愛さぬこと」と命じた。そのときの根拠は、旧約聖書の「シラ書(集会の書)」であった。そこには「愚か者は、大声で笑い、賢い人は、笑っても、もの静かにほほ笑む」(第21章20節)と述べ、さらに笑う者は愚か者だとし、極論へと導いた。
こうして、聖書に基づいて、笑わないイエス像が定着していったと元木氏は解説している。
(元木、2012年、50頁~52頁)
イエスの反撥
笑わないイエスの典型的な画像として、きつい表情をした少年イエスの絵がある。14世紀イタリアの画家シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)の≪聖家族≫(1342年、テンペラ、49.5×35㎝、ウォーカー・アート・ギャラリー[イギリスのリヴァプール])がそれである。
14世紀のイタリア絵画の中心はイタリア中部トスカーナ地方の都市フィレンツェとシエナであったが、マルティーニはシエナ派の画家だった。「聖家族」という主題は、聖母子に地上の父であるヨセフが加わり、いかにも幸せそうな家族として描かれるのが常であるが、この絵は幸せな雰囲気はない。
母は子に優しい素振りをしながら口うるさく説教し、息子はそれにつよく反撥し、きつい目で腕組みをしている。父ヨセフはなんとか仲を取り持とうとしている場面である。この絵の典拠は、「ルカによる福音書」(第2章42~49節)であり、「学者たちと議論する少年イエス」と呼ばれる場面であるそうだ。それは、聖書に少年期のイエスが登場する唯一の物語である。
聖書におけるこの場面のテーマは、イエスの超越的な能力であるので、多くの絵では、神殿の中で学者たちと議論して論破している少年イエスの姿で表されるようだ。
しかし、マルティーニの絵では、このような場面ではない。元木氏によれば、イエスが神の子だときっぱり宣言した場面が描かれているという。この絵の冷徹な表情は、神の子にふさわしい表情であるとみている。そして少年イエスのこの厳しい顔だちは、将来、十字架の上で犠牲になり、人類を救済する運命にあることの自覚を物語る表情であるとする。
そして、このことは、先に見たラファエロの≪テンピの聖母子≫における幼子イエスが冷淡な表情をしている理由でもあると解説している。そう考えてみると、笑わないイエスは、神の子として当然のことともいう。
(元木、2012年、52頁~56頁)
ペストという分岐点とイエス像の二つのタイプ
キリスト教美術は、シモーネ・マルティーニの絵が描かれた14世紀中ごろ以降大きく変わるが、それはペスト(黒死病)の流行[1348~49年]と関係があるといわれる。
その中で、イエス・キリストの表現も大きく分けて、二つの方向に変わる。
① イエス像は今まで以上に苦悩に満ちた表情を帯びるようになる。人類の救済のために十字架にかけられて亡くなる過程を描いた「受難のキリスト像」が、そのもっとも主要なテーマであろう。
② その正反対で、キリストの受難は承知しながらも、喜びへの共感を演出するタイプ。その典型として「聖母マリアの七つの喜び」というテーマがある。
まず、前者の「受難のキリスト像」は、逮捕され、鞭打たれ、荊冠を頭にかぶせられ、重い十字架を担いで、裸足で丘を登らされ、石を投げられ、手足に釘を打たれるといった具合に苦痛の場面である。
14世紀半ば以降、ペストをはじめ、疫病がヨーロッパを襲い、10年に1度は多いときで都市人口の3分の1の死者を出した。さらに英仏百年戦争(1337~1453年)などの戦争があり、人生は苦痛・苦悩に満ちていた。
このような日常の中で、キリストの受難物語が、心の底から共感を呼び、一体化する対象となったようだ。自らの苦悩の人生がキリストの人生に重なることに気づいたとき、この苦悩の道を耐えて歩むことによって、キリストと同様に救済されると信じるようになったようだ。
こうした信仰は、14世紀のフランドル(現在のベルギー)に始まり、16世紀初めにかけてヨーロッパじゅうに広まった「キリストのまねび(キリストの模倣)」という教えであるという。キリストの受難の地である聖地エルサレムへの巡礼も、そのような信仰に基づいていた。
そして、苦痛に満ちたキリスト像は、人を救いへと導く像として崇拝された。したがって、ここには笑いはなく、むしろその対極に位置するイメージであると元木氏は解説している。
ドイツ・ルネサンスの大画家マティアス・グリューネヴァルト(1470/80頃~1528)の≪イーゼンハイムの祭壇画≫「磔刑」(1512~16年、油彩、269×307㎝、ウンターリンデル美術館[フランスのコルマール])は、その典型的な例で、人を救いへと導く装置だった。
もうひとつの方向である、喜びへの共感を演出するタイプには、その典型として「聖母マリアの七つの喜び」というテーマがある。マリアはイエスの将来の運命を知りながら、それでもイエスの生のいくつもの場面で喜びを感じたというもので、それは日常的な人生の喜びと共通する。
疫病が流行し、死と隣り合わせになった人生だからこそ、日常のささやかな歓喜を味わい尽くしたいという欲求がむしろ強まったと元木氏は解釈している。
そこでは、生は笑顔に包まれ、幼子イエスもマリアも、そして父ヨセフも笑いに包まれている。笑顔は日常のささやかな喜びを示している。幼きイエスの絵を見るとき、イエスの運命が受難であると知っているからこそ、その笑顔はひときわ、いとおしいとする。
このような背景のもとに、中世末期に笑顔の幼子イエスが登場したと元木氏はとらえている。笑顔のイエスと、苦悩のキリストは、苦痛に満ちた人生と救済への強い希求を共通の背景にして、表裏をなすものだったとみている。
そのことを示す作品として、「ベルトラムの画家」(14世紀末ドイツの逸名の画家)による≪ブクステフーデ祭壇画≫「天使の訪問」(1410年頃、テンペラ、108.5×93㎝、ハンブルク美術館)を挙げている。
聖母が室内で編み物をし、外で幼子イエスが寝転がって本を読んでいる。そこに2人の天使が現れるが、天使は十字架、3本の釘、槍と荊冠を持っている。いずれも受難の道具である。この絵は、幼い時期の喜びに満ちた暮らしを細かく描写しながら、一方で将来の苦痛、犠牲を暗示している。
また、「ライン川上流地方の画家」による≪楽園の庭≫(1410年頃、テンペラ、26.3×33.4㎝、シュテーデル美術館[フランクフルト])では、楽園のイエスが描かれている。緑の庭で、聖母は本を読み、その傍らで幼子イエスはハープのような楽器を弾いて、楽しそうに遊んでいる。
楽園の喜びを描いたこの絵は、疫病などで幼い子を失った親が悲しみに身を震わせながら、楽園にいるイエスにわが子を重ね合わせ、その子の天国での幸せを祈願し、想像するための媒介となったと元木氏は推測している。笑顔のイエスは、このような役割をもっていたと考えている。
そして、この時期には、教会内での儀式用の宗教画ではなく、世俗の邸宅を飾る宗教画も誕生したそうだ。中世とはいえ、日常生活では、修道院におけるような厳しい笑いの禁止などは、ありえなかった。つまり、市民の生活まで戒律が支配したではなかったので、宗教画に笑顔のイエスが入り込む余地が生まれた。
(元木、2012年、56頁~63頁)
恩恵へと誘う笑い
世俗の邸宅に宗教画が置かれるようになると、宗教画のなかに日常が入り込んでくる。
例えば、15世紀フランドル絵画では、聖母子も、受胎告知などのイエスの生涯を描いた絵も、市民家庭の設定で描かれるようになる。
代表的な作品として、初期フランドル絵画草創期の画家ロベール・カンパン(1370年代後半~1445)の工房作≪火よけの前の聖母子≫(1440年頃、油彩、テンペラ、63.4×48.5㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])を取り上げている。
聖母子が高い玉座ではなく、低い長椅子に腰を下ろしているとき、「謙遜の聖母子」と呼ぶそうだ。これは、聖母が偉そうな存在から、親しみやすい存在へと変化したことを示す。この絵では、聖母に抱かれている幼子イエスは、左手を挙げてこちらを向き、明るく微笑んでいる。聖母は幼子イエスに母乳を与えようとしており、「授乳の聖母」タイプの絵である。
ところで、聖母の授乳には、12世紀頃に興味深い解釈が加えられたようだ。
それは、12世紀前半、中世盛期に、シトー会修道院のベルナルドゥスによる幻視に基づいている。彼は祈りを捧げているとき、唇が乾いてしまったが、そこに聖母が現れ、聖母が授乳してくれたという幻視を体験した。
神秘主義者ベルナルドゥスの幻視は、美術にも示唆を与え、その場面を絵画化した作品すら出現した。
16世紀前半のフランドルの画家ヨース・ファン・クレーフェ(1485頃~1540/41)の≪聖母子とクレルヴォーの聖ベルナルドゥス≫(1510年頃、油彩、29×29㎝、ルーヴル美術館[パリ])がそれである。
これらの絵が示すように、聖母の乳は信仰の篤い人の祈りの唇を潤すことができると考えられたようだ。それは、幼子のためだけではなく、この絵を見る人々をも潤すことができ、聖母の恩恵に与ることができるとされた。
そして幼子イエスの微笑は、聖母の乳の甘美さを味わったがゆえの微笑である。見る人を乳へと誘導する微笑ではないかと元木氏は解釈している。
(元木、2012年、63頁~67頁)
育児のための絵
宗教画に生き生きとした表情が導入されて笑顔が描かれるようになる動機や背景には、上記のように、信仰の問題があった。その他に、より現実的な理由もあった。つまり、宗教画が世俗の家の中に置かれるようになったため、家庭教育という新しい用途が加わることになる。
たとえば、ドミニコ会の修道士だったイタリア人のドミニチの著書『家族管理の書』(1403年)では。家庭内に宗教画を飾ることの効用が述べられている。幼子イエスを抱いた聖母子図、イエスが乳を飲んでいるところ、眠っているところを描いた絵などを家の中に置くと、それらを見ることによって、幼い子どもはつられて喜び、顔をほころばせ、良い子に育つと説く。
ドミニチの教えに相応しい絵として、フランドル(現在のベルギー)の画家ヘラルト・ダフィト(1460頃~1523)による≪ミルクスープを飲む聖母≫(1510~15年頃、油彩、41×32㎝、パラッツォ・ビアンコ[イタリアのジェノヴァ])を挙げている。
当時、フランドル絵画はイタリア諸都市に多数輸出され、イタリア人家庭でも購入された。
この絵で、聖母は、左手で幼子イエスの体を支えながら、右手でミルクスープをすくおうとしており、柔和な表情である。幼子イエスは、右手にスプーンを裏表逆に持ち、自分で飲もうとしている。イエスは、微笑を浮かべているとも、好奇心にかられているともとれる微妙な表情だが、生気あふれる表情になっている。
机上の食物や窓のそばの本なども描かれており、この絵は、市民家庭の母子の姿を写実的に描写したような聖母子像となっている。
このような愛情あふれる聖母子図を家庭内で見て、子どもはすくすくと良い子に育つと、ドミニチは教育論で述べているが、この用途からすれば、幼子イエスの表情は、絵を見る子どもに優しい笑顔を誘導するようなものであったと解説している。
(元木、2012年、68頁~70頁)
ラファエロが描いた幼子イエスの笑顔
ドミニチの記述から100年余り経って、ラファエロは幼子イエスの笑顔をその絵に残している。
① その1枚は、≪聖家族と聖エリザベツと幼児ヨハネ(カニジャーニの聖家族)≫(1507年、油彩、131×107㎝、アルテ・ピナコテーク[ミュンヘン])
② もう1枚は、≪ニッコリーニ=カウパーの聖母子≫(1508年、油彩、80.7×57.5㎝、ナショナルギャラリー[ワシントン])
前者の絵では、画面手前で幼子イエスが生き生きとした目を輝かせて、洗礼者ヨハネに微笑んでいる。画面右側の聖母は、優しさに満ちた視線で、幼子たちを見守っている。この絵は、「まさにラファエロの真骨頂の笑み」が描かれていると元木氏は評している。
また、このテーマこそドミニチの言葉を反映していると解説している。
ドミニチは、子どもが洗礼者ヨハネを自分のモデルにするように、幼児ヨハネが登場する絵を子どもに見せることを勧めている。その理由は、洗礼者ヨハネは、小さいうちから荒野に行き、自然に親しんで暮らしたのだからと記している。つまり。子どもは自然のなかで成長するのがよい。さらに、幼子イエスと洗礼者ヨハネが仲よく描かれた絵を見るのは、とてもよいことであるという。
ラファエロのこの絵は、まさしく二人が一緒にいる絵である。幼子イエスと仲良くしているヨハネを見ることで、家庭の幼子にキリストへの信仰を涵養し、子ども同士の友情を育むことになると考えたようだ。
ところで、この作品は、フィレンツェの裕福なカニジャーニ家により注文された。ルネサンス期の市民により、理想的な家族として聖家族が描かれていた。イエスやマリアの微笑は、幸せを表明し、市民家族の幸せを祈願するものとされた。
後者のラファエロの絵では、幼子イエスが母の膝上に載せられたクッションに座し、歯を見せて笑っている。これほどはっきりとした笑顔のイエスはラファエロですら珍しいそうだ。
また、この絵では、幼子イエスがこちらを見つめている(ラファエロの場合、半身像聖母子であることが多い)。明るく笑っている幼子イエスの視線に誘導されて、絵を見る子どもも笑うだろうとドミニチは述べているようだ。
さて、ルネサンスに入るころ、ドミニチが語ったように、宗教美術による家庭教育を考えるようになった。そして、ルネサンスの典型的な知的芸術家アルベルティも、ヒューマニスト(人文主義者)として、『家族論』(1432~34年、1441年)を著わし、家庭の暮らしこそがいちばんの幸せと語り、子どもの笑顔が喜ばれるようになった。アルベルティ自身が描いた絵は残っていないが、ラファエロの絵の笑顔には、そのようなヒューマニズムに裏打ちされた生への讃歌を読み取ることができると元木氏は解説している。イエスは笑わないと主張したキリスト教は、ルネサンスという時代を経て、このような人生を肯定する明るい笑顔を受け入れることができたという。
(元木、2012年、71頁~76頁)
第三章 フェルメールの笑う女たち
フェルメールが愛される理由
近年、フェルメール熱は恐ろしいくらいで、大ブームに至っている。
日本におけるフェルメール熱は、美術展の観客の中心が男性から女性に移ったことと関連していると元木氏は理解している。日本の女性たちの趣味に、フェルメールという画家の絵がぴったりと合っているからとみる。
フェルメールの画題は、家庭の日常であることが多いし、ほとんどの絵に女性が、しかも今日の女性の目からも魅力的な女性たちが描き込まれている。
このフェルメール人気の上昇は、フェルメールの最初の「発見」の時期、つまり19世紀中ごろのある種の傾向と奇妙に一致するという。フェルメールはもともとオランダの一都市デルフトで活躍した画家にすぎない。それがヨーロッパ的に評価されるようになったのは、1830年頃からである。そして、1866年、フランス人批評家テオフィール・トレの論文で決定的となる。
この時期は、産業革命の結果、パリなど大都市に新しい有産階級が誕生し、ダイナミックに新しい文化を生み出していた時期だった。そうした有産階級は美術の新しい受容層となった。また、この時期は、リアリズム(写実主義)の画家クールベ(1819~77)や近代絵画の父マネ(1832~83)など、現実そのものを写実的に描く絵画(リアルな具象画)が台頭した時期でもあった。
新しい観客層とリアリズムの台頭というのは、今日の日本の美術状況と似ていると元木氏はいう。
日本の戦後からバブル崩壊までの主要な潮流だった抽象芸術志向は、今や衰えている。抽象絵画には、教養主義的な背景があったとする。そして、西洋美術が具象から抽象へと進んでいるという知識をもち、その知識ゆえに、抽象絵画を愛好していた。
一方、今日の日本の一般市民は、以前の教養主義や西洋への憧れよりも、「日常の価(日常の面白さ、日常の謎)を重視する。フェルメールの絵には日常があり、しかもその日常には謎がある。
その意味では、フェルメールというのは、日本では一部の知識階層ではなく、一般市民が自らの嗜好で選びとった画家であると元木氏は理解している。
(元木、2012年、78頁~81頁)
笑顔に潜む謎
フェルメールの≪恋文≫(1669~70年頃、油彩、44×38.5㎝、国立美術館[アムステルダム])という絵は、日常に見え隠れしている謎を描いた代表作であるそうだ。
印象的なのは、画面左の女性の笑顔である。召使いである彼女は、楽器を手にした女主人に手紙を渡して、にっこりと微笑んでいる。ここでは、力関係が逆転しており、笑顔が召使いを女主人よりも優位に押し上げていると元木氏は解釈している。しかも、なぜ笑っているかは謎である。
ところで、フェルメールの絵を全体的に見渡すと、実は笑顔が多いそうだ。
例えば、
・≪取り持ち女≫(1656年、国立絵画館[ドイツのドレスデン])
・≪士官と笑う女≫(1658~59年頃、フリックコレクション[ニューヨーク])
・≪2人の紳士と女≫(1659~60年頃、ヘルツォーク・アントン・ウルリヒ美術館[ドイツのブラウンシュヴァイク])
・≪リュートを弾く女≫(1662~63年頃、メトロポリタン美術館[ニューヨーク])
・≪真珠の首飾りの少女≫(1662~64年頃、絵画館[ベルリン])
・≪天秤を持つ女≫(1663~64年頃、ナショナル・ギャラリー[ワシントン])
・≪手紙を書く女≫(1665年頃、ナショナル・ギャラリー[ワシントン])
・≪手紙を書く女と召使い≫(1670~72年頃、アイルランド・ナショナル・ギャラリー[ダブリン])
・≪ギターを弾く女≫(1672~75年頃、ケンウッドハウス[ロンドン])
など、合計10点に笑顔が登場する。
フェルメールの現存する全作品数は30点余りであるから、ざっと3分の1に笑顔が登場することになる。そして、これらの笑顔はほとんどが女性の笑顔で、男性の笑顔はわずか2点だけである(≪取り持ち女≫と≪2人の紳士と女≫のみ)
フェルメールの絵は独特の魅力をもっているといわれるが、オーソドックスな美術史からすれば、それほどユニークなわけではないと元木氏は指摘して、次のように解説している。17世紀オランダでは主要なジャンル(絵の種類)の風俗画に属する。風俗画とは、多彩な日常生活を教訓的な意味を込めながら、あたかも現実であるかのように描いた絵というジャンルである。
17世紀オランダは、同時代のヨーロッパでも、最も裕福な社会であった。だから、その社会の日常を描いた風俗画に笑顔が登場するのは、ある意味で当然のことかもしれない。風俗画こそ、「笑顔の王国」であった。ただし、その笑顔は多彩であると付言している。
さて、第三章では、風俗画がいかに多彩な笑顔が登場したかをたどっている。その中で、フェルメールの笑顔がどのような独自性を有しているかについて考察している。
(元木、2012年、82頁~85頁)
「幸福な家族」という神話
風俗画の笑顔といえば、子どもの笑顔が主役となることが多い。風俗画が本格的に登場した17世紀オランダでも同じである。
フェルメールとほぼ同じ世代で、同じくデルフトでも活動した風俗画家ピーテル・デ・ホーホ(1629~84)を元木氏は取り上げている。
その絵画≪幼児に授乳する女性と子どもと犬≫(1658~60年頃、油彩、67.9×55.6㎝、サンフランシスコ美術館[アメリカ])では、暖炉の前で、母親が幼子に授乳し、その傍らで女の子が犬に餌を与えている場面が描かれている。あどけない笑顔を浮かべており、子どものいる家庭の幸せを十分に描き出している。
また、ホーホの影響を受けて描かれた、ヤーコプ・オホテルフェルト(1634~82)の≪玄関先の辻音楽士たち≫(1665年、油彩、68.6×57.2㎝、セント・ルイス美術館[アメリカ])を取り上げている。
玄関先で、音楽士が、ハーディガーディと呼ばれる楽器とヴァイオリンを弾きながら、家の中の人たちに追従(ついしょう)の笑顔を浮かべている。家の中では、子どもが召使いの手を取って、天真爛漫な表情で笑いかけている。17世紀オランダ市民家庭においては、子どもの相手をするのは、召使いの役目だった。この時期のオランダでは家の使用人は女性であり、たいていは女主人に雇われていた。この絵でも、子どもの手を引いているのは、母親ではなく召使いである。母親はゆったりと椅子に座って、その光景を見つめている。
家の内外の子どもは、着ている衣装や笑顔も対照的である点に元木氏は注目している。楽士の子どもは、暗い褐色系の色調の衣装を身につけて、卑屈な笑いを浮かべている。それに対して、家の中の幼児は、青い鮮やかな服を身につけ、無邪気な笑いである。否が応でも目立たせる。
この絵に描かれているのは、当時の現実そのままというより、むしろ「豊かなオランダ社会」という、意図的に描かれた神話のようなものであると、元木氏は解釈している。
絵画は、必ずしもありのままの現実を描くわけではない。市民家庭の部屋に飾られることを前提として描かれたとすれば、望まれるのは現実よりもいっそう豊かで幸福そうな生活であったであろう。その幸せを演出する、最も効果的な道具立てのひとつが、幼子の笑いであり、鮮やかに際立たせるのが楽士の笑いだったと元木氏はみている。
(元木、2012年、86頁~91頁)
フェルメールの絵に見える召使いの笑顔
17世紀オランダの市民家庭では、使用人は召使いの女性ただ一人であることが多い。召使いは、女主人と一緒に家事を仕切り、子どもを世話する重要な存在だった。だから有能な召使いは、女主人が最も頼りにする同性となったそうだ。そのような状況を頭に入れて、フェルメールの絵を見てみると、よいという。
フェルメールの≪恋文≫では、黄色い衣装を身に着けている女主人がもの問いたげに召使いを見上げ、召使いは微笑を浮かべながら主人を見下ろしている。女主人がシターンという弦楽器を抱え、演奏しているところへ、突然、召使いが手紙を持って入ってきた場面である。手紙にはまだ封がしてある。二人の間には、誰からの手紙か想像がついているような秘密めいた雰囲気が漂っている。
フェルメールの≪手紙を書く女と召使い≫(1670~72年頃、油彩、71.1×60.5㎝、アイルランド・ナショナル・ギャラリー[ダブリン])も、同じように、召使いが微笑を浮かべている絵であった。
この絵は、さきの≪恋文≫の謎めいた雰囲気を解明するための鍵かもしれないと元木氏はみている。この絵は、あたかも≪恋文≫に連続した場面であるかのように、女主人は返事を書きはじめている。机の前の床には、手紙らしき紙の束と封蝋(ふうろう、手紙を封印するための蜜蝋)が落ちている。この落ちた手紙はすでに読まれ、女主人は返事を書いているらしい。この手紙は乱雑に扱われており、内容はあまり芳しいものではなかったであろう。
一方、召使いは窓の外を見ており、薄笑いを浮かべた素っ気ない表情である。召使いはその芳しくない手紙の内容を察知し、返信の中身すら想像がついていると、元木氏は解釈している。
この2枚のフェルメールに描かれた召使いの笑顔は対照的である。≪恋文≫では、吉報をもってきたと思っている召使いは、明るく、女主人と幸せを共有しているような笑顔である。それに対して、≪手紙を書く女と召使い≫では、女主人が硬い表情をして返事を書いているのに、どこか冷めた気分を漂わせた笑顔を召使いは浮かべている。
これが連続する物語だとすれば、≪恋文≫は吉報を期待している明るい二人で、その期待に反して凶報だったときの反応が≪手紙を書く女と召使い≫ということになるかもしれないと元木氏はとらえている。後者の召使いは女主人の反応から、手紙の中身を推測し、冷たい笑顔を浮かべており、ふてぶてしささえ感じさせる。顔を伏せている女主人よりも、召使いは窓からの陽光に照らされて、より目立っている。
これはオランダ社会における召使いの存在の大きさを反映している。それ以上に、召使いが画面で、いわば狂言回し(陰に回って、物事の進行をつかさどる人物)を演じていると元木氏は解説している。
(元木、2012年、91頁~94頁)
マースの絵に見られる笑顔
フェルメールの作品以外にも、そうした召使いの存在感を端的に示すような絵がある。フェルメールとほぼ同時代で、オランダ南西部のドルドレヒトで活動したニコラース・マース(1634~93)という画家である。彼は、17世紀オランダ絵画の巨匠レンブラントのもとで修業した。マースはフェルメール作品とはいささか味付けの異なる召使いの笑顔を描いている。
例えば、≪怠惰な召使い≫(1655年、油彩、70×53.3㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])がそれである。若い召使いは台所で居眠りをしており、その怠惰な様を年長の召使いが苦笑(薄笑い)を浮かべて、こちらを向き、指し示している。この絵では、珍しく一家に二人の召使いがいるが、ここでは、召使いはとうとう絵の主役になっている。
マースのもう一つの作品≪立ち聞き≫(1656年、油彩、92.5×122㎝、ドルドレヒト美術館[オランダ])の女性は、階段の最下段でこちらを見てシーッと指を唇の前にもってきて、笑みを浮かべている。
この女性は、左手にフルートグラスを持ち、豪華なビロード風の上着を身につけていることから判断して、元木氏は女主人であろうと推測している。
一方、酒を補給する役目を担う召使いは、男の誘惑を受けている最中である。だから女性は愛の言葉を立ち聞きして、われわれ絵を見る人たちに「静かに!」と沈黙を促している場面である。
この絵では、女主人と召使いの立場が逆転している。この逆転は、いかにこの時代の女主人と召使いの関係が対等に近いかを暗示しているものと元木氏は推察している。
マースのこの2枚の絵で笑われているのは、居眠りをしてさぼっている召使いと、客人相手に恋愛ごっこを繰り広げている召使いである。それを相棒の召使いや女主人が絵を見る人に語りかける形で、笑いかけ、示している。
ただ、その表情は厳しいものではなく、むしろ仲間のいたずらを見つけてしまったときのような、愛嬌のある表情である。あるいは、見てはいけない場面をのぞいてしまったという共犯関係に、見る人を引きずり込んでいるかのようであると元木氏は解説している。
(元木、2012年、95頁~99頁)
ルネサンスの絵画と17世紀オランダの絵画の違い
ニコラース・マースの絵にも、≪モナ・リザ≫のような肖像画にも、こちらを見る視線が登場しているが、それは同じなのか。違うとしたら、どう違うのかという問いを、元木氏は投げかけている。
まず、物語的な要素があるかないかが、両者の違いであることに気づく。マースが描く笑顔は、画中の人物の心理的動向を多様に考えさせる物語にあふれている(過剰な物語性ともいえる)。
次に≪モナ・リザ≫の笑顔は、第一義的には注文主である夫ジョコンドに向けられている。つまり肖像画の場合、笑顔を向ける対象が元来ある程度想定されている。
ところが、マースが描く視線は、絵を見る不特定多数の人に向けられている。マースの絵は、その絵を見る人一般の反応を想定して描かれている。
ここで元木氏は、ルネサンスの絵画と、17世紀オランダの絵画の違いに目を向けている。
ルネサンスまでの絵画は、依頼されて描く注文画が中心だった。肖像画のほとんどすべてが注文画で、そこでは絵を見る人があらかじめ想定されることが多い。宗教画から、聖堂の聖職者、信者であり、宮廷のための絵なら宮廷人や貴族である。それらの画中の笑顔では、笑顔を向けるべき人がある程度特定されていた。
一方、17世紀オランダでは注文画が減り、既製品としての絵画が増加し、美術品がオープンな市場の原理に支配されるようになった。もっとも多いのは、市民家庭内の壁面に掛けられる絵で、その絵を見る人は市民一般であったそうだ。
そうすると、笑顔を向けるべき人も多様で、特定の人ではありえない。このような
絵の笑顔は誰にでも向けられる(現代の日本人ですら、巻き込まれてしまうほどである)。
(元木、2012年、99頁~100頁)
フェルメールの≪手紙を書く女≫の笑顔
フェルメールの絵画にも、そのような笑顔をもつ作品が何点かある。
先に挙げた≪手紙を書く女≫(1665年頃)では、フェルメール作品になじみの黄色に、アーミン(白貂[しろてん])毛皮の縁取りのついた上着を着た若い女性が、手紙を書きながらふっとこちらを見ている。背後の壁に掛けられた絵には楽器が描かれている。当時、楽器や音楽は愛や官能の象徴として用いられることが多かったようだ。このことから、女性が書いている手紙は愛の手紙、すなわち恋文だと元木氏は推測している。
そうすると、こちらを見ているその視線と笑顔は、恥ずかしい瞬間をのぞき見られた羞恥(しゅうち)の意味合いが込められていると解釈している。愛の手紙を書いている自分を見られたがゆえに、見返している視線だと理解している。
(元木、2012年、101頁~102頁)
フェルメールの≪2人の紳士と女≫の笑顔
フェルメールの≪2人の紳士と女≫(1659~60年頃)の笑顔と視線は、マースの作品のそれに、もっとも似ているという。
手前の椅子に座っている若い女性の眼差しこそ、マース作品の登場人物とよく似た印象を与え、見る人に共犯関係を強いるような視線である。
男性に言い寄られたとき、女性はワイングラスを手にして、こちらを見て笑っている。この場面は、マースの絵で居眠りを見つけた召使いや、召使いへの愛の告白シーンを見つけた女主人のように、いたずらを見かけてしまったときののぞきの共犯へと誘い込む笑いであると元木氏は解説している。
フェルメールの絵では、いたずらをされているのは、女性本人であり、この本人はいたずらを嫌がってはいない。つまりここでは、笑う女は、絵を見る人に笑いかけていると同時に、絵を見る人からのぞかれる人でもあるという。
この笑顔を浮かべながら、こちらに向けた女性の視線は、見る人をのぞきの共犯関係へ導くと同時に、のぞきの対象が女性自身であることによって、絵を見る人をのぞきの単純犯へと転換する装置でもあると解説している。その意味で、この笑顔は二重の意味をもち、それゆえに物語をいっそう豊かにするという。
そして、元木氏は、肩肘をつくポーズ、牡蠣、ステンドグラスの図柄の象徴的意味合いを解説している。
(元木、2012年、102頁~105頁)
フェルメールの風俗画の特徴
ピーテル・デ・ホーホの風俗画には、しばしば子どもが登場し、その笑顔が幸せな家庭の道具立てになっていた。
しかし、フェルメールが描く風俗画には、子どもはほとんど登場しない。
ただし、」例外が、次の2点の絵画である。
・≪デルフトの小路≫(1658~60年頃、アムステルダム国立美術館)
この絵画では、2人の子どもが、道端でむこう向きに腰を下ろして遊んでいる
・≪デルフト眺望≫(1660~61年頃、マウリッツハイス美術館[オランダのハーグ])
手前左に描かれている女性に、幼子が抱かれている。それですら、ほんの小さく描かれ、一見、子どもかどうかさえも判然としない。
このように、フェルメールの風俗画では、親子の愛とか夫婦の愛のような家庭的な幸せは、無縁かもしれないと元木氏は理解している。その代わり、危なっかしい男女の愛か、愛を期待して待っている若い女性ひとりの絵が多い。
画中に描かれた手紙や楽器が愛と深い関連をもっているということからすれば、愛と無関係な日常を描いた絵は、フェルメールの場合、次の3枚の絵である。
・≪牛乳を注ぐ女≫(1658~59年頃、国立美術館[アムステルダム])
・≪窓辺で水差しを持つ女≫(1663~65年頃、メトロポリタン美術館[ニューヨーク])
・≪レースを編む女≫(1669~70年頃、ルーヴル美術館[パリ])
これらの絵の中の女性たちはいずれも笑ってはいない。真剣に仕事に集中している。
逆に言うと、フェルメールの絵に登場する笑顔の女性は、ほとんどが愛に関連しているといってよいと元木氏は指摘している。
一方、フェルメールの風俗画に出てくる男性の絵はどうか?
次の2枚を除けば、ほとんど遊び人である。
・≪天文学者≫(1668年、ルーヴル美術館[パリ])
・≪地理学者≫(1669年、シュテーデル美術館[フランクフルト])
フェルメールが風俗画家に大きく転換した画期的な作品とされる≪取り持ち女≫(1656年、国立絵画館[ドイツのドレスデン])では、画面左端の男の笑いがきわめて印象的である。
≪取り持ち女≫は、ドレスデンの美術館では、≪窓辺で手紙を読む女≫の隣に展示されているそうだ。
前者のサイズは、143×130㎝、後者は83×64.5㎝なので、≪取り持ち女≫は迫力を感じ、頬を赤く染めた女性の可憐さ、そして画面左の2人の謎の表情など、まことに魅力的な作品であると元木氏は評している。
この≪取り持ち女≫という絵のテーマは、16世紀初めからしばしば描かれていた「不釣り合いなカップル」というテーマによく似ているという。若い女性の色香に惑わされる年長の男性を描いた絵である。例えば、ルーカス・ファン・レイデン(1494~1533)の木版画≪愛の三角関係≫(1518~20年頃、木版画、67×48.5㎝、国立図書館[パリ])を例として挙げている。若い女性を取り持った老婆などが描かれ、誘惑された愚かな男を笑い飛ばす絵である。
フェルメールの絵では、男女の位置関係が逆だが、男が右手で金貨を女に渡そうとしている。その背後では取り持ちの老婆が、ちょっと微笑み、「しめしめ」と嬉しそうな表情を浮かべている。画面左端の男性は、薄笑いを浮かべてこちらを見ている。目の前の情景にシニカルな視線を投げかけ、陰湿な思惑を含んだ笑いをしていると元木氏は解説している。
このように、フェルメール作品に描かれた笑顔は、ピーテル・デ・ホーホ作品に描かれた子どもの笑顔とは性格を異にする。家庭の幸せをうたいあげるような単純な笑顔ではなく、もっと錯綜した心理的な動きを示す笑顔であると元木氏は主張している。
それは、絵を見る人との関係を複雑に生み出す笑いである。そして、それらの笑顔に込められたストーリーや意味は曖昧であり、絵を見る人に解釈が委ねられている側面があるともいう。
(元木、2012年、105頁~110頁)
フェルメールの絵の謎
フェルメールの絵の謎は、このような曖昧性、絵を見る人にその解釈が託されていることから生じており、正解がいくつもある謎であると元木氏は捉えている。
絵を見る人に物語の進行を委ねるような絵なので、注文画では描くことが難しい。なぜなら注文画の場合、依頼主からその絵の意味を指定されていることが多いから。
このように考えると、フェルメールのような曖昧さを残した絵は、自由でオープンな絵画市場だからこそ生まれてきたと元木氏は理解している。絵を見る人も多様であれば、その絵の解釈も、絵に見える笑顔も多様である。
フェルメールの絵が現代のわれわれにこれほど訴えかけてくるのは、単なる日常の平和な幸せを描いているからではなく、日常の価値の多様な側面を描いているから、複雑な社会で生を営む現代人の共感も呼ぶのかもしれないと元木氏は推察している。
(元木、2012年、110頁)
元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎』 (小学館101ビジュアル新書)