歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【囲碁】本因坊算砂について≫

2024-04-30 19:00:03 | 囲碁の話
≪【囲碁】本因坊算砂について≫
(2024年4月30日投稿)

【はじめに】


  今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊算砂について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇岩本薫・林裕『日本囲碁大系第一巻 算砂・道碩』筑摩書房、1975年



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・堺の繁栄、囲碁文化の発展
・初代本因坊算砂の師とされる仙也
・信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂
・算砂と信長に関する新説
・徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄
・朝鮮の名手と対局
〇三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より







≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫


堺の繁栄、囲碁文化の発展


・イエズス会『日本通信』に「日本全国この堺の町より安全な所はなく、みな平和に生活し、敵味方の差別なくみな大なる愛情と礼儀をもって応対する」と記された堺は、15世紀後半から百年の間、納屋衆(なやしゅう)または会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが運営した自治都市であった。
・堺は遣明船の発着する貿易商業都市として繁栄し、文化・芸能が著しく発展した。
 茶道の千利休や能楽喜多(きた)流の喜多七大夫(しちだゆう)など数多くの芸能者が活躍し、書籍の出版も盛んに行なわれている。
 そのような堺で、碁を好んだ富裕な人々が碁の発展を支えた。
・「意雲老人は後土御門帝の世(1464-1500)囲碁の良手なり。庵を泉南に結びて居す。みずから可竹と号し」という伝承が『爛柯堂棋話』に記され、「意雲は碁者にして可竹の称宜(うべ)なり」と『本朝遯史』(ほんちょうとんし)にある。
(林裕「人とその時代」『算砂・道碩』1975年)。
・泉南は堺のすぐ南。実在した名手とすると、意雲は堺で活躍した碁の専門家であろう。

※千利休(宗易)1522-91
・信長・秀吉の茶頭(さどう)。堺の納屋衆の子。
※喜多流
・能楽シテ方の一流。堺の医師の子喜多七大夫が祖。
 女流碁界の母、喜多文子(ふみこ)八段(1875-1950)は14代目六平太の妻。
※『本朝遯史』
・林靖(読耕斎)著。1664年刊。隠遁者の伝記。
※会合衆(納屋衆)
・堺や伊勢宇治などで自治を営んだ特権的商人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)

初代本因坊算砂の師とされる仙也


・実在が確実な重阿に続く名手は仙也(せんや)で、堺の人といわれる。
 厳島明神の神官の手記に、吉田神社の神主吉田兼右(かねみぎ)が神道伝授のため厳島に向かったとき「碁打専哉」を同道した(1570)とある。
・増川は「旅の途中で山口に立ち寄ったときに、そこの長岡という者と専哉が碁を打っている。長岡は専哉に二目置いて三番共負けている。専哉は仙也のことであろう。この頃には碁の上手として知られていたとみなされる」と述べている。
・山科言継(やましなときつぐ)『言継卿記』は碁の記事が多く、天正4年(1576)7月2日徳大寺公維邸の碁会に「碁打仙也」が呼ばれたと記されている。
 「碁打」とあるので碁の専業者といえると、増川は書いている。
・仙也は本因坊算砂の師とされているが、確実な文献に拠るものではない。
 算砂の好敵手で6歳年少の利玄(りげん)も堺の生まれである。
・著者は、裕福な文化都市の堺で、打った碁の棋譜を紙に記す名手が現れたのではないかと推測している。
 高い技術が次代に継承されるようになり、名手が続いたのではないだろうかという。

※仙也 生没年不詳
・日記類には1576-98年に登場する(増川)。
※利玄(利賢) 生没年不詳
・日蓮宗の僧。鹿塩は別人とされる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)

4近世(安土桃山時代・江戸時代—260年の平和、囲碁文化の発展―


信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂


・初代本因坊算砂は日蓮宗の僧日海(にっかい)。
 本因坊は日海が住んだ寂光寺の塔頭(たっちゅう)である。
 京都に生まれ、8歳で寂光寺開祖の日淵(にちえん)に入門した。
・以下は、算砂に関する通説である。
 日蓮宗には碁を打つ僧が多く、日海は碁を覚えて上達した。
 師匠は堺の碁打ち仙也である。
 織田信長が上洛したとき碁の名手として聞こえていた若き日海を引見し(1578)、その碁を観て「名人」と嘆称したのが碁の名人の初めという。
 本能寺の変(1582)の前夜、信長公が、
  本因坊と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。子(ね)の刻過ぐる頃、両僧暇(いとま)給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こる。
 
※このように『爛柯堂棋話』にある。
 
・その日の碁という棋譜が載る。
 ただし三劫が生じたのはその日の別の碁とみられる。
 信長の寵遇を受けていた日海は盛大な法要を営み、喪に服した。
 天正16年(1588)に秀吉の御前試合で日海が優勝。
 他の名手たちは本因坊に定先(じょうせん)とする、ただし仙也は師匠であるから互先と書いた朱印状を秀吉が与えた。
 徳川家康は碁を好み、駿河へ隠居の後は不断に碁を楽しんだ。家康は算砂に五子で打ち、信長、秀吉も算砂に五子で打ったという。

・このような通説が江戸時代から今日まで広く流布している。
 それに対して、増川は本因坊家や他の碁家の家伝や伝承を信用せず、信長や秀吉は「碁・将棋にあまり関心がなかったようである」と述べた。
 しかし、秀吉が碁を打ったことは間違いないと著者はいう

※算砂と利玄の棋譜
 (伝承では)天正10年6月1日 本能寺
 信長公御前
 中押し勝ち 白 本因坊 算砂
       先     利玄

※本局は『御城碁譜・巻之一』(日本棋院、1951年)に128手終の棋譜が収められている。
 白の巧手で左下の黒が死に、白の勝勢は明らか。
 本邦初の版本棋書である『本因坊定石作物』(本因坊算砂著、1607年)に、本局の左下と同じ筋の詰碁が収められていることから、この棋譜は実譜とみられている。
 ただし本能寺で打たれた碁とされてることには疑問がある。
 この頃の棋譜は年月日が記されていないが、この棋譜が実局であれば日本最古の棋譜の一つといえる。
 また、利玄は鹿塩利玄と記されてきたが、利玄と鹿塩は別人である、というのが近年の定説。

※本因坊算砂(1559-1623)
・日蓮宗の僧日海(にっかい)。初代本因坊。名人。
 本因坊は戦前まで「ほんにんぼう」であった。
 算砂も当時は「さんしゃ」であったという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、218頁~219頁)

算砂と信長に関する新説


・囲碁史研究家の林裕は『日本囲碁大系(第一巻)算砂・道碩』(1975年)に
「坊主嫌いの信長ではあったが、彼は碁の名手ゆえに、この青年僧(日海)を愛した」
と書いた。
 その2年後に出版の第二巻『算悦・算知・道悦』で、林は
「本因坊算砂に関して従来の定説を洗い直さなければならぬ重要な資料が出てきた」と記し、寂光寺の開基日淵は日海の叔父であると『本山寂光寺誌』(1937年)をもとに新発見を述べている。
・さらに林は「信長が碁を打ったこと自体に疑問符をつけ、算砂を寵愛したなどというのは作り話ではないかと疑ってきた」と書いた。

※林が言うように『信長公記』に碁のことはない。
 信長は碁を打たなかった、と著者も考えている。
 碁を打てば負けることがあり、かといってご機嫌取りは好まない信長だったから。
 しかし信長は碁を理解し、観戦した、と著者はいう。
 碁が役立つことを知っていたのだろう。

・日淵(1529-1609)は堺の妙国寺で日珖(にっこう)らと講学に努めた日詮(にっせん、?-1579)の高弟で、信長が法華宗(日蓮宗)弾圧のために命じた安土宗論(あづちしゅうろん、1579)では、法華宗の代表として日珖らとともに浄土宗と対決した。
 法華宗は一方的に敗北を認めさせられ、布教を制限される。

・熱心な折伏(しゃくぶく)で勢力を拡げた日蓮宗は、叡山僧徒に京都の多くの寺院が破壊される(1536)など他宗に攻撃されたため、寺院の防備を固めていた。
 上洛した信長が日蓮宗の本能寺を宿所としたのは、土塁などがある寺だったからである。
 算砂と並ぶ名手利玄は本能寺の若い僧であったから、信長は本能寺に算砂を招き、利玄との対局を観戦したことは十分にあり得る、と著者はいう。

※算砂に関する通説には、いくつも疑問があるという。
 その一つは、算砂が信長の法要を盛大に営み、喪に服して秀吉の招きにも応じなかったというものである。
 このとき日海は24歳の青年僧。
 師であり叔父の日淵は安土宗論で信長に弾圧された当人である。

※算砂と信長の関係について、著者は新たな視点に立つ説を提示している。
 その視点は碁が遊戯や消閑のためだけでないということである。
 信長、秀吉、家康にとって碁はそれぞれの目的達成に役立つものであった。
 その第一が、長年にわたって力を振るい権力者を苦しめた仏教勢力の懐柔、支配である。
 天下を制するために、権力に妥協しない宗教勢力は容赦なく弾圧した。
 京都や堺で折伏により勢力を強めた法華宗の指導者である日淵の弟子ながら碁で権力者に接する日海は、法華宗の懐柔に役立つ存在であったのである。

・弾圧を避けて教団の存続発展を願う法華宗においても、碁打ち日海は貴重な存在だった。
 日淵は堺の日詮のもとで学んだ頃、堺の納屋衆が好む碁は堺や京都で布教に役立つことを知ったのだろう。
 京都に帰った日淵は碁才がある日海を入門させ(出家は1年後)、堺から名手の仙也を招いて師事させた。
 京都の権力者や富裕層に法華宗を広めようとする日淵は、そのために日海を碁打ちとして育てたのではないか、と著者はみている。
 日淵が日海に信長の法要を営ませたとすると、信長を継ぐ秀吉や家康の弾圧を避けるためであった、と推測している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、220頁~221頁)

秀吉の朝鮮出兵


・日本と朝鮮は長い間にわたり対等な善隣関係を築き、室町時代には使節が度々往来した。
 しかし国内を制覇した秀吉は明の征服を野望し、朝鮮を経由するため朝鮮国王に臣従と入朝を求める。
 それに応じない朝鮮に、秀吉は十数万の大軍を2度にわたり出兵した。
 文禄の役(1592)と慶長の役(1597)である。
 儒教による文治国家であった李朝は武力が弱く、日本軍は朝鮮全土と民衆を蹂躙した。
 明の援軍に敗れ、冬の寒さと飢えに苦しんだ日本軍の死者は5万人を数えたが、日本軍による虐殺、捕虜、略奪、放火など朝鮮の被害は甚大だった。
 農村は荒廃し、その後も悲惨な飢饉が続いた。
 そのため、朝鮮の人々にとって、「韓国併合の立役者とされる伊藤博文と並んで、秀吉は最も悪い日本人」なのである。(上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書、1989年)
 日本の農村も重税と人的負担により疲弊し、豊臣政権の崩壊、関ヶ原の戦につながった。

・秀吉に仕えて茶坊主の筆頭となった千利休が切腹させられた(1591)のは、朝鮮出兵に反対したためとする説がある。
 しかし、徳川家康、浅野長政、小西行長、宗義智(そうよしとし)なども反対しており、「処罰された者は一人もいない」ということである。
(桑田忠親『千利休』中公新書、1981年)
・利休が秀吉から拝受した碁盤が現存する。
 利休の父は堺の納屋衆。
 算砂に五子という秀吉より利休は強かったかもしれない。
 利休の「囲碁の文」があり、利玄が対局した碁会に参加したことがわかる。
 千家茶道を再興した千宗旦(そうたん、利休の孫)も碁を打ったということである。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、222頁、252頁)

家康が朝鮮撤兵


・秀吉や家康にとって僧であり碁の名手である日海は重要だった。
 法華宗の側でも、刀狩り(1588)で僧兵や民衆の武器を取り上げ、方広寺の千僧供養会(せんそうくようえ、1596)により仏教勢力全体の支配を目指す秀吉の圧力を避けて勢力を維持する上で、秀吉や家康に近い日海は貴重な存在だった。
 大局を見て、すべてを承知していた本因坊(日海)だからこそ、家康は厚遇したのである。
・信頼のおける公家の日記を中心に論じる増川は、「信憑性の高い本因坊の初出」は、茶人の広野了頓宅で「終日碁や将棋に興じた」ときに「江戸亜相(徳川家康)、予(山科言経)……碁打の本胤坊(ほんいんぼう)、そのほか七、八人」(1594.5.11)が集まったと記す『言経卿記』としている。

・朝鮮に一兵も出さなかった家康は、この頃京都で頻繁に碁会に顔を出している。
 京都の有力者と親交を深め、情報収集に努めたのであろう。
 碁好きの有力者を招くために、本因坊はじめ碁の名手が毎回召し出されている。
 朝鮮に再征した慶長2年(1597)家康が訪れた南禅寺の碁会には仙也も招かれ、これが仙也の最後の記録ということである。
・慶長3年朝鮮で悲惨な戦争が続くなかで醍醐寺の花見を楽しんだ秀吉は、8月家康をはじめ五大老に秀頼を託して病没した。
 家康はただちに朝鮮撤兵を命ずる。
 和議を結ばず退却した日本軍は明軍の追撃を受けながら、多数の捕虜や文物を載せて帰国する。
 亀甲船で日本水軍を打ち破った朝鮮の英雄李舜臣(イスンシン)は、このとき小西軍の退路を断とうとして戦死した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、223頁)

徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄


・関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。
 「日海が本因坊を氏とし、算砂と名乗ったのは慶長8年とする説がある。家康が征夷大将軍となり、江戸帰府に日海を伴った時点」である、と林裕が述べている。
・慶長17年(1612)家康が碁将棋衆に俸禄を支給した。
 本因坊、利玄、宗桂(そうけい、将棋)、道碩に各50石をはじめ、8名に合計290石が与えられているが、これは一代限りである。
 50石は多いとはいえないが、算砂は裕福だった。
 後援者からの収入が多かったのであろう。

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)

朝鮮の名手と対局


・家康は朝鮮と国交回復を指示し、対馬藩主宗義智らが懸命の努力を重ねる。
 数万人といわれる連行された朝鮮人の帰還を目的に、朝鮮通信使が慶長12年(1607)に来日した。
・「大阪夏の陣」で秀頼と淀殿が自害し(1615.5.8)、豊臣家を滅ぼした幕府は、家康の大坂平定は朝鮮のために報復したものと主張して、大坂平定慶賀の使節派遣を朝鮮に求める。
・元和2年(1616)に家康が75歳で没した。
 元和3年第2回朝鮮通信使(総勢428名)が来日する。
 このとき李礿史(りやくし)という朝鮮の名手が算砂と対局し、三子置いて敗れた李礿史は帰国後に、扁額と盤石を算砂に贈った。
 寂光寺に扁額と碁石・碁笥が保存されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)

三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より


〇プロ棋士の岩本薫氏は、先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、「1三劫不吉?」と題して、次のような解説をしている。
・囲碁史によれば、この碁は天正十年(1582)6月1日、本能寺において、信長の御前で打たれた、と記されている。
 譜が未完のため、判然としないのはまことに残念だが、この碁には三劫が生じたと伝えられている。
・ところで、この夜は歴史上有名な“本能寺の変”のあった日である。
 このことから、“三劫不吉の前兆”といわれるようになった。
 が、譜を見る限りどこにも三劫の出来そうな個所はなく、何局か打たれた中の他の局ではないかともいわれている。
・前置きはこれくらいにして、前局はお互いに高目や目外しの打ち合いで、勇壮活潑な碁風だったのに対し、この碁は趣きをがらりと変えて、小目にケイマ掛りの、どちらかといえば腰を落した、秀策流に似た碁といえよう。
 このことから想像するに、草創期でもあり、研究しながら打たれていたものと思われる。
 それと、こんな総掛りの碁も珍しいのではないか。
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁)

〇先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、128手まで示せば、次のようになる。
≪棋譜≫
(伝)於信長公御前
 中押勝 本因坊算砂
 先   鹿鹽利玄



≪棋譜の部分図≫(123手~128手目)(百番台省略)

(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁~38頁)

〇You Tubeでプロ棋士の桑本晋平氏が、この謎の「三劫の棋譜」について、解説しておられる。興味のある方はご覧になられたらと思う。

〇You Tubeイフウ・チャンネル(囲碁棋士・桑本晋平)
「本能寺の変 三コウの真実に迫る」(約11分)
(2023年7月23日付)
・1582年6月1日の対局したとされる算砂と利玄の、いわゆる「三コウ無勝負の碁」は、平本弥星氏も指摘していたように、128手で終わっている。
 その棋譜には三コウが記されていないが、桑本晋平氏は、信長の御前であったかどうかは別にして、三コウの想定図を提示している。
 左上の一合マスに注目し、左上には両コウ、左下には一手ヨセコウが生じ、これらの2箇所のコウを組み合わせた三コウが想定できるという。
 



≪【囲碁】事前置石制と自由布石≫

2024-04-29 19:00:12 | 囲碁の話
≪【囲碁】事前置石制と自由布石≫
(2024年4月29日投稿)

【はじめに】


 『玄玄碁経』などで昔の中国の棋譜をみていると、変わった布石を見かける。今日の日本の置碁とは違った布石である。
 調べてみると、事前置石制というようだ。
 今回のブログでは、次の参考文献を参照して、この事前置石制と自由布石の歴史について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]

 なお、平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書、2001年、101頁)には、事前置石制と自由布石について、次のような注釈を付している。
※事前置石制
・置碁の置石と区別して「互先(たがいせん)置石制」ともいう。
 日本に中国・朝鮮から伝来した碁は事前置石制とみられる。

※自由布石
・互先の碁で白紙の碁盤に初手から自由に打つ碁のこと。
 日本の碁がいつから自由布石になったかは、大きな謎。
と平本弥星氏は記している(101頁)。



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇事前置石と自由布石~平本弥星『囲碁の知・入門編』
・碁の芸能者重阿
・自由布石に完全移行
〇三国時代の囲碁~中山典之『囲碁の世界』より
・名手・王積薪、老女に学ぶ
〇対局之部の第一局目~橋本宇太郎『玄玄碁経』より






事前置石と自由布石~平本弥星『囲碁の知・入門編』


・中国の碁盤は星が五つであった。
 中国の碁は清朝末期の20世紀初めまで「事前置石制」で、図1のように、まず隅の星に白二子と黒二子を置き、それから打ち始めていた。

【図1】中国の事前置石制


・朝鮮の碁も事前置石制であった。
 「巡将碁(スンジャン・バドゥク)」という朝鮮の碁は、古代から日本が韓国を併合した20世紀初め頃まで、あらかじめ白八子と黒八子を図2のように置いてから、打ち始めていたのである。朝鮮の碁盤の星は17であった。

【図2】朝鮮の事前置石制


・正倉院の宝物「木画紫檀棊局」は、朝鮮の碁盤と同様に、17星である。
 それは、7世紀半ばに百済王が藤原鎌足に贈った碁盤であることを裏付けるものであろう。
・正倉院には、他に二面の「桑木木画棊局」があり、9星の碁盤である。
 9星の碁盤は中国、朝鮮にみられず、作りや装飾も日本的なので、「桑木木画棊局」は日本製とみられる。
 奈良時代の9星盤は、当時すでに日本独自の碁が生まれていたことを示すものではないだろうか。
・棋力差に応じてハンデを設定する置碁(おきご)という方法は、たいへん優れている。
 事前置石の置碁では五子まで5星に置き、置き方は自由布石と異なって四子は図3である。
【図3】事前置石制(中国)の置碁・四子

・九子では印のない所に置くことになる。
 日本の9星の碁盤は、九子まで置くのに適している。
・5星盤の星は主に事前置石の目印であるが、9星盤の星は置石の場所の印である。
 すると、日本では奈良時代に自由布石の碁があったという水口藤雄の説が有力になる。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)

※事前置石制
・置碁の置石と区別して「互先(たがいせん)置石制」ともいう。
 日本に中国・朝鮮から伝来した碁は事前置石制とみられる。
※置碁(おきご)
・二子から九子。それ以上はあまり打たれない。
 アマどうしでは一子一段差が多い。プロにアマ初段は七~九子くらい。
※自由布石
・互先の碁で白紙の碁盤に初手から自由に打つ碁のこと。
 日本の碁がいつから自由布石になったかは、大きな謎。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、100頁~101頁)

大乱の終焉


・三条西実隆(さんじょうにしさねたか、1455-1537)の日記『実隆公記』文明7年(1475)9月14日の記事である。
  夜に入り、御前に於て囲碁五盤(中略)管絃和歌等これあり。深更に及び大飲あり。
各地で戦が続き、京都市街は焼け野原だったが、御所の宴で後土御門天皇は碁に興じている。
 文明9年(1477)畠山義就、大内政弘らが帰国して西軍が解体。
 大乱はようやく終焉する。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、208頁)

碁の芸能者重阿


・『実隆公記』に「参内し小御所に於て東馬道の重阿(ちゅうあ)や(中略)等が碁を打っていて、親王御方は簾中からそれを叡覧になっていた」(1489.6.4)とあり、
 重阿は時宗の者と記されている。

・一遍(いっぺん、1239-89)が開いた時宗は踊りながら、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗の一派である。
 時宗の僧は阿弥(あみ)または阿と名乗り、津々浦々を巡って遊行(ゆぎょう)を行なった。
 武士について戦場に行った陣僧は念仏を唱えて死者を弔い、負傷者を助けた。
 時宗は社会の隅々に影響を与え、民衆の支持を得て勢力を拡大する。
 中世に民衆芸能が開花するなかで時宗の人々が果たした役割は大きく、能の世阿弥や立花(たてばな)の立阿弥(りうあみ)など芸能者が阿弥と称するようになった。

・碁の名手重阿は碁会だけでなく、庭の花を賞翫(しょうがん)する会に大勢の公家と二人の武家に加えて、「連歌宗匠の宗祇と碁の上手の重阿」(『宣胤卿記(のぶたねきょうき)』も招かれている。
 増川宏一は重阿に注目し、石見(いわみ、島根県)城主の家訓に
「天下一の上手(じょうず)といふは…重阿といふ碁打なり」
とあると書いている。
(増川宏一『碁』法政大学出版局、1987年。
 増川宏一『碁打ち・将棋指しの誕生』平凡社ライブラリー、1995年)

・足利義満が没した後、義持が北山殿の舎利殿(しゃりでん、金閣)を中心とする一部を臨済宗の禅寺とし、義満の法号鹿苑(ろくおん)院に因んで、鹿苑寺(通称金閣寺)とした。
 鹿苑院の『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』に、
  棊者重阿弥を招き、碁を二番。栗田は石を三つ置き勝つ。また三つ置きまた勝つ
  (1491.4.29)
とある。
 関白、太政大臣を務めた近衛政家の日記『後法興院記(ごほうこういんき)』にも重阿が登場する。
  雅俊朝臣(あそん)が碁の上手な重阿弥ならびに如西などを連れてくる。予の前で碁を打つ。如西は重阿弥に三目置いて三番打った。次に雅俊朝臣が重阿に四目置いて一番打った(1493.4.18)
 「翌々年にも雅俊朝臣は重阿を連れて近衛家を訪れ、終日碁を打っている」(1495.8.21)と増川は記している。(前書)
・重阿は置碁ばかり打っている。
 勝負の碁でなく指導碁や接待碁である。重阿の芸は当時の碁打ちを卓絶し、碁のプロとして立派に身を立てていた、と著者は推測している。

・大納言山科言国(やましなときくに)の日記『言国卿記』には、碁をたいへん愛好した内大臣の西園寺公藤(きんふじ)が重阿に二つ置いて五番打ち、見事な碁だったと記されている。
 五番も打っていることから明らかに接待碁で、二子という近い手合割も、そういう事情からであろう。
 たくさん打たれている置碁の記述を読むと、今日と同様の置碁を打っているとしか思えないという。事前置石制の置碁ではないだろう、と著者は推察している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、208頁~209頁、250頁)

自由布石に完全移行


・著者は重阿が自由布石で碁を打っていたという。
 その理由はつぎの通りである。
①大乱が続いて名手の碁技が受け継がれず、事前置石制を継承する名手が存在しなかった。
②重阿は、伝統的権威や過去の慣習にとらわれない民間信仰の時宗出身者である。
③公家にとって中国渡来の教養であった碁が、大乱を経て純粋に技芸を楽しむものとなった。
④重阿が当時に卓絶した棋力であるのは、過去の知識や伝承にとらわれていないからである。
⑤大幅な棋力向上には自由な発想が必要であり、初手から工夫する自由布石の所産であろう。

・中世の民衆に広まった碁は自由布石であり、自由布石の碁が重阿に始まったのではない、とも著者はいう。
 応仁・文明の乱の後に公家社会で再び碁が盛んになったとき、公家たちは伝統にとらわれず、時宗の僧であり自由布石の名手である重阿を歓迎した。
 重阿の登場によって事前置石の碁が全く廃れ、碁といえば自由布石になったのかもしれないという。

・碁では、先代を大きく凌駕する天才が出現することがある。
 革命的に碁の技術を発展させた江戸時代中期の道策がその代表であるが、重阿もそういう天才であったかと推測している。
 「碁の上手の重阿、弟子の小法師の十歳を連れて参上」(1502.2.18)
と、甘露寺元長(かんろじもとなが)の日記にあり、同年の『実隆公記』にも、碁打の小法師10歳と16歳の二人に打たせて観戦したとある。
 重阿は公家や高僧に支援されて碁で身を立て、弟子を育ててプロの芸を伝えた。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、210頁)

ここから中山典之『囲碁の世界』岩波新書

三国時代の囲碁~中山典之『囲碁の世界』より


・中国の古書を見ると、碁に関する記述は2600年ほども昔の歴史書に出てきて以来、まさに山ほども見られるが、面白いからといっていちいち引用していては、とても紙幅が足りない。
 この際は西暦200年ごろ、中国が魏、呉、蜀の三国に分立していたころから始めることとしよう。
・当時の中国には、もちろん碁が存在し、しかも大いに盛んだった。
 魏の曹操は有名な兵法家であり、詩人であり、書家でありというすごい大人物であるが、囲碁の腕前も一流だったということだ。
・『三国志・魏書一』という書物の武帝紀注に、
「馮翊(ヒョウヨク)ノ山子道・王九真・郭凱等、囲棊ヲ善クス。太祖(曹操)皆與(トモ)ニ能ヲ埒(ヒト)シクス……(後略)」
 ※馮翊=郡の名。今の陝西省大茘縣)
とあるが、山子道、王九真、郭凱らと肩を並べる高手であったとは驚きである。

≪棋譜≫43手まで
 先 呂範(白)
   孫策(黒)


※古代中国では、貴人または技倆の上の者が黒石を持ったという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、31頁)

・どちらが先であるかは分らないが、古書に書かれていることが確かなら、本局は呂範の先番と推定されるらしい。
・なお、中国では、近代まで四隅に置石を置きあってから、一局が始まった。

・呉の英主、孫策もかなりの打ち手であったらしく、その謀臣、呂範との一局が、中国最古の棋譜として今に伝えられているほどだ。
 中国最古の棋譜は、すなわち世界最古の棋譜ということになるが、この棋譜が、はたして孫策が実際に打ったものかどうかは誰にも分らない。
 ただ、その後、ずっと時代を降って、唐代に現れた王積薪、滑能などという「名手」の棋譜が一枚も残されていないことから見ると、『忘憂清楽集』(北宋の時代、11世紀ごろの棋譜が載っている書物)に突然現れたこの孫策・呂範局は、後世の何者かがこしらえたものだろうという説が多い。

・ただし、著者が面白いと思うのは、日本でも歴史に残る棋聖といえば、元禄時代の道策と幕末の秀策だが、孫策とはいかにも碁の強そうな名前であり、願わくばこの棋譜が本ものであってくれたらと祈りたい心境になるから、妙なものだという。
 事実、この碁に見せた孫策・呂範両雄の腕前はなかなかのもので、たぶん現代のプロ低段者に近い実力はあるようだ。
 鬼才、梶原武雄九段に並べて見せたところ、なかなかのものだと感心しておられたから、これは技術上では折紙付きだが、いよいよもって後人の仮託という気配が濃厚であると記す。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、30頁~32頁)

名手・王積薪、老女に学ぶ


「第2章 二千年の昔、既にプロ級?」の「名手・王積薪、老女に学ぶ」(43頁~51頁)
に面白い話が載っている。

・唐の時代、玄宗皇帝の天宝14年(755)、安禄山の乱が起り、玄宗が都から追い落としをくらい、文武百官をひきいて、はるか西南の蜀の国、今の成都に都落ちを余儀なくされた。
 白楽天の詩、長恨歌にもあるが、けわしい山々の奥深く逃げこむこの軍旅は、さんたんたるものであったに違いない。

・唐代の囲碁の名手、王積薪も、翰林院(名儒、学者などが、皇帝の詔勅などを文章にする役所)の役人であったから、この一行の中にあった。
 碁は強くても武術で鍛えていたとも思えない文部省か宮内庁といったあたりの下っ端役人には、下役もつき添っているわけがないし、乗馬などはもちろんなかったろう。
・蜀の山道はいよいよけわしく、道中にある宿場や民宿(?)は政府高官の占有するところとあって、王積薪は泊るべきところもなかった。

・王先生、痛む足を引きずり引きずり、渓谷を深く分け入って行くと、オンボロの小屋があって、老婆と嫁が二人で暮しているところに出くわした。
 もう、一歩も歩けそうもないので、深々と頭を下げて一夜の宿を頼むと、飲料水と燈火を持ってきてくれたが、折しも夕暮れであり、二人の婦人は錠を下して寝てしまった。
 王先生の方は、やむなく軒下で横になったが、体のふしぶしが痛んで、夜が更けても眠れなかった。

・突然、姑が嫁に言う声が聞こえてきた。
 「良い晩ですね。でも、何の楽しみもなくて残念ですわね。碁でも一局打ちましょうか」
「はい、教えていただきましょう」
と嫁の声。
 しかし、不思議なことではある。
 家の中には燈火がないし、第一、二人は別々の部屋に寝ている筈である。
 おかしなことがあるものだと思って、王先生はオンボロ小屋の壁のすき間に耳を当てた。
 「東の五・南の九に打ちました」
 嫁の声が聞こえてきた。嫁の先手番とみえる。
 「東の五・南の十二に打ちましたよ」
 声に応じて姑が答える。 
 「西の八・南の十にいたしました」
少考した後の嫁の声。
 「では西の九・南の十にしましょう」
とおだやかに響く姑の声。

・さてさて、これはどうした棋譜になるであろうか。
 東だの南だのと麻雀みたいなことを言ってサッパリ分らないが、当時の中国の碁は四隅の星(第四線と第四線の交叉点)にお互いに置石を配置して打ったとされ、現代と違って、白が先手だったというから、仮に東西南北と盤端に書き込み、「東の五」は盤端から数えて第五線、「南の九」は盤端から数えて第九線とした棋譜をこしらえてみれば、図示したような布石となるという。
 もちろん、これは仮定の棋譜であり、本ものがどうだったかは分る筈がないけれど、中国の人はもっともらしく話を仕立てるものではある。


≪棋譜≫
西暦755年
 弈於蜀山中
  九目勝 姑(黒)
      嫁(白)
 立会人 唐 王積薪
 記録員 和 中山典之

※対局者が横になり、天を仰いで打ったので、左辺が東になり、右辺が西となった。
※【梶原武雄九段感想】
・白3、黒4はともに感度がすばらしく、特に黒は強い。
 ことによると碁の神様かも知れんな。


(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、46頁)

・ところで、この棋譜だが、白1、黒2は、かつての本因坊武宮正樹九段の宇宙流の傾向があって、なかなかの手であると著者は記す。
・また、白3と嫁が中央に打って出たのに対し、黒4とツケた姑の手は白1に対して分断攻撃の気配を示した一着。
 これまたなかなかの味わいがあり、あるいは名人の打った手かも知れない。
 著者としては、この棋譜の続きをもう少し見たい気分であるという。
 これだけでは、決して弱いとは思えぬが、どれくらい強いか測りようがない。

・さて、この深夜の一局、双方とも一子(し)を下すごとに少考を重ね、ほどよい間合いで進行して行く。
 腕時計、いや腹時計を見たら、もう夜中の二時を回っている。
 36手目、姑が言った。
 「もう、あなたの負けよ。わたしの九枰(へい、九目[もく]のことか)勝ちでしょう」
 嫁もこれに同意し、この一局は終了。
 しばらくすると、スヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくるばかりだった。

・王積薪、この35手(ママ)を、しっかりと頭に刻みこんだ。
 夜が明けると、王積薪は衣冠を整え、老婆を拝して、指南を仰ぎたいと申し入れたのである。
 すると老婆は、
 「あなたの思い通りに一局を並べてごらんなさい」
という。王積薪、いつも肌身離さず持っている袋の中から碁盤を取り出すと、考えられる限りの秘術をつくして打ち進めて行く。
 打ち進めること十数手。老婆は嫁をかえり見て、
 「この人には常勢(定石、原則的な模範的進行例)を教えてあげれば充分ですね」
という。
 そこで嫁は、攻、守、殺、奪、救、急、防、拒の手法を教えてくれたが、それは何とも簡単、あっけないほどのものであった。
 よって王積薪、更に教えを乞うと、老婆は笑いながら答える。
 「いやいや、これだけ知れば、人間界では天下無敵でありましょうよ」
 王積薪、恭々しく礼拝して感謝の意をあらわし、では、と別れを告げる。
 十数歩も歩いたろうか。もう一度礼拝しようと振り返ってみると、さきほどまで確かにあった、あのオンボロ小屋は影も形もなくなっていた。

・王積薪は、その後、老婆の予言の如く、誰にも負けぬほどの腕前になったという、めでたしめでたしの怪奇物語である。

・さて、この伝説だが、プロ的に考察すれば、これは何とも難しい物語ではある、という。
 だいたいにおいて、碁盤なしで碁を最後まで完全に打てるのは、現在のプロ棋士の中には一人もいないと断言してよいそうだ。
 まあ、二子(もく)くらい弱くなってもよければ、時間さえかければ何とかなるだろうとも。
・然るに、蜀の山中の老婆たるや、僅か35手で一方の九目勝を読み切った。
 もしこれが事実なら、この老婆はまさしく棋神。
 著者よりも聖目(せいもく)くらい(想像を絶するくらい)強いのは間違いないという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、43頁~48頁)

対局之部~第一局目~橋本宇太郎『玄玄碁経』より


橋本宇太郎『玄玄碁経』(山海堂、1979年[1985年版])には、中国の元代の棋譜として、次のような対局を紹介している。事前置石制の例として興味深い対局である。

第一局目
萬壽圖(まんじゅず)
萬壽観(道教の廟)で対局時の図
東京於州北萬寿観
  郭範 
 饒 李伯祥
 黒先共一百三十著


郭、李、共に元代の人。
饒は勝った事を意味する。
李が先番で勝っているのですが白手で止めてある所が腑に落ちません。
戦端は左下辺から始まり、黒63まで白を皆殺しにしています。
碁はこれで終りなのですが、あと黒が右上隅で失敗します。
白88、90が巧い手順。
碁はこれで細かくなりましたが、序盤の損がひどいので最後は黒の勝ちとなったのでしょう。

【万寿図】(1~130)手
白42 34の所にホウリコむ
黒43 取る(38の所)
白48 34に五子を取る


(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、91頁)



≪田中阿里子『源氏物語の舞台』を読んで≫

2024-04-14 18:00:32 | 私のブック・レポート
≪田中阿里子『源氏物語の舞台』を読んで≫
(2024年4月14日投稿)


【はじめに】


今回のブログでは、紫式部と『源氏物語』について考える上で、次の著作を読んでみたので、紹介してみたい。
〇田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年
「『源氏物語』の舞台になった場所をたずねて、京の町のところどころを歩こうというのが、この本の試みである」と「初刊本まえがき」(5頁)に記してあることからもわかるように、『源氏物語』の舞台となっている場所を訪れて、解説を加えている本である。章立てからも推察できるように、光源氏、薫の生涯にそって、述べている。
 『源氏物語』の登場人物の中で、六条御息所、薫について、著者の深い洞察が加えられている点、紫式部の生きた時代の社会的背景などにも考察が及んでいる点など、教えられるところがあった。



【田中阿里子『源氏物語の舞台』(徳間文庫)はこちらから】
田中阿里子『源氏物語の舞台』(徳間文庫)





〇田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年
【目次】
初刊本まえがき
第一章(光源氏の誕生~十七歳)
第二章(光源氏十八歳~二十歳)
第三章(光源氏二十一歳~二十五歳)
第四章(光源氏二十六歳~三十五歳)
第五章(光源氏三十六歳~三十八歳)
第六章(光源氏三十九歳~四十七歳)
第七章(光源氏四十八歳~死)
第八章(薫君十四歳~十九歳)
第九章(薫君二十歳~二十八歳迄、源氏存命ならば七十五歳で終る)
第十章――『紫式部日記』より――
解説 百瀬明治




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


■六条御息所(第三章より)について
■加持祈禱
■貴族間の対立(『源氏物語』のもう一つの側面)~第五章より
■王朝の文化人
■『栄華物語』について
■三千院
■人々の死
■墓所と葬場
■宇治陵  
■物語後半の主題(第八章より)
■薫の思想(第九章より)
■宇治十帖の社会的背景
〇第十章―『紫式部日記』より
■紫式部の略歴について
■日記
■邸宅の跡(廬山寺)






六条御息所について


「第三章(光源氏二十一歳~二十五歳)」の冒頭において、「葵」の巻の「物語の梗概」について、百瀬明治氏の文章(『日本古典文学大系』岩波書店刊行)を引用して、次のような梗概を載せている。(なお、百瀬明治氏は本書の解説[215頁~219頁]の執筆者でもある)

【葵】
・源氏の父桐壺帝が退位し、春宮(とうぐう)が即位して朱雀(すざく)帝となった。
 これにともない、新たに春宮に選ばれたのは、源氏と藤壺の間の不義の子であった。
 源氏は、新春宮の後見役に任じられた。
・しかし、この頃から、源氏の周囲の情勢は、ようやく厳しくなってくる。
 朱雀帝の生母弘徽殿(こきでん)皇太后とその実家右大臣の一派が、政治の実権を掌握し、源氏と左大臣系の勢力は退潮の兆をみせはじめる。

・ところで、当時は、天皇が即位するたびに、伊勢の斎宮、賀茂の斎院も新任されるのが習わしであった。選任される資格は、未婚の王女、内親王であることで、このたびは、源氏の最初の愛人六条御息所の娘が斎宮に、弘徽殿の女三宮(おんなさんのみや)が斎院にそれぞれ選ばれた。

・賀茂の斎院の御禊(みそぎ)が行われた日のことである。
 葵上は妊娠中で気分がすぐれなかったが、源氏が斎院の御ともにまいることでもあり、母の宮のすすめもあったので、急に外出の仕度をととのえた。折りから一条通りは、御禊行列を一目見んとする人々で雑踏をきわめていた。
 遅れてきた葵上一行は、車をとどめる場を見出せず、従者が強引に割りこもうとして、その人と知りながら、六条御息所の網代(あじろ)車を押しのけてしまった。
 ほどなくこの事件を知った源氏は、貴女としての条件は十分備えているのに、どうして情味だけが欠けているのだろうと、葵上の行為を苦々しく思う。
 しかし、この事件は、思いがけぬ結果を後にひき起こすことになる。

※『源氏物語』において、六条御息所は、強烈な嫉妬心と自恃(じじ)の持主として描かれている。
 彼女は大臣家に生れ、故先坊(桐壺帝の弟)の妃でもあった。
 出身と経歴に関しては、葵上に少しも遜色ない。しかも、彼女は源氏の最初の愛人なのである。
 これまでに積りつもった恨みが、屈辱的な車争いの一件によって爆発したのだろう。彼女の魂は物怪(もののけ)となって、葵上に取り憑いた。
・葵上は、危篤状態に陥る。
 左大臣家では、叡山の座主をはじめ高僧を多く招いて、祈禱を行わせた。
 そんなある夜、葵上の姿は急に六条御息所に変じて、涙ながらにつれない仕打ちの続いたことを、源氏になじるのであった。夕顔をとり殺した怨霊も彼女であったことがこの時判明した。
・僧達の祈りがきいたのか、やがて物怪は去り、葵上は美しい男児(のちの夕霧)を無事出産した。けれども結局、葵上自身は生きながらえることができなかった。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、47頁~48頁)

・作者の田中阿里子氏は、六条御息所に深い関心をよせている。
 次の点に注意している。

・源氏の最初の愛人であること
・年上の既婚女性であること
・高貴な身分で教養の高い女人であること
・そのほかに、深い情念を湛(たた)えていること

※葵上にしても紫上にしても、あるいは夕顔、花散里、朧月夜君にしても、それぞれに特徴のある美しさと可憐さを備え、源氏との出逢い方も色々に工夫があって面白い。
 しかし、六条御息所ほどに強い個性を作者からあたえられたものはなく、生霊となってまでも、主人公とその女達の上につきまとう怨念の強さは、作者紫式部が無意識に仮託した、自己の情念そのものである、と田中阿里子氏はみている。

※この時代では、まだ霊の存在が固く信じられ、恨みをのんで死んだ人の魂が、生きている人間に祟って病を起すところから、霊は仏の力によって退散せしめられたり、あるいは神として祀られた。

※神話においる素盞嗚命(すさのおみこと)は天照大神によって追放された荒神だが、牛頭天王(ごずてんのう)といって祇園社をはじめ方々に祀られている。
 今宮(いまみや)神社にもこれを祀った宮があるが、もともと今宮神社は、民衆が悪鬼をはらうためにまつった社で、一条天皇の時にも天下に疫病が流行したために、この地で疫神をまつって、大いに御霊会(ごりょうえ)をいとなまれた。

(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、53頁~54頁)


■加持祈禱について
・密教では、護摩をたいて、怨霊退散の祈り、加持祈禱を行った。
 物怪に対しては、これを「よりましの巫女(みこ)」にのりうつらせて、病者から離し、その後呪文によって調伏した。
 「葵」の巻にも、
  「……いとゞしき御祈りの、数をつくしてせさせ給へれど、例の執念(しゅうね)き御物の怪(け)一つ、さらに動かず、……加持の僧ども、声しづめて法花経をよみたる。いみじう、尊し」
とある。
 また、『紫式部日記』の中でも、中宮彰子(しょうし)の土御門殿(つちみかどでん)における御産の時には、
  「日ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をばさらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなくまゐりつどひ、三世の仏も、いかに聞き給ふらむと思ひやらる。陰陽師とて、世にあるかぎり召し集めて、八百万(やおよろず)の神も耳ふりたてぬはあらじと見えきこゆ」
と描写している。

※六条御息所の怨念が、いかに物語の中に効果的に使われていることか。
 葵上をとり殺した怨霊は、この後も紫上にとりついて彼女を気絶させ、そして源氏が紫上につきそって看護している暇に、正夫人の女三宮が他の男性と姦通して妊娠するという事件を起すが、それもみな自分を愛さなかった源氏への仕返しだと、御息所の霊が嘲笑する。
 この物怪によって、光りかがやく源氏の物語には深い影が添うこととなる。
 そこに、田中阿里子氏は文学性が高まっているとみる。
 そして一方には、当時の貴族達の一夫多妻生活の中で、愛し、憎み、哀しみ苦しんだ女性達の真実の声を、御息所一人にしぼって、作者が代表させたのではないか、と考えている。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、55頁~56頁)

■貴族間の対立(『源氏物語』のもう一つの側面)~第五章より
・玉鬘が発見されて、源氏に養われ、さらに本当の父親と対面してから結婚にいたるまでの章ほど、華やかでダイナミックな趣きをそえるものはない。
 実は『源氏物語』は、光君(ひかるのきみ)の様々な恋愛遍歴の話にみえながら、その底にきびしい政治権力の対立を描き切っているのである。
 その筋書を追って行くと、桐壺院の御代では、左大臣系と右大臣系の対立がある上へ、光君という皇子(みこ)が源氏としてあらわれる。
 王氏の源氏は左大臣系の方と結ぶが、やがて朱雀帝の御代になって右大臣系の方が台頭し、源氏は左遷される。しかし冷泉帝の御代に及んで再び源氏と左大臣系が復活してくるという順序である。
 とは言いながら、左大臣家の長男も、王氏の源氏とは若い時からのよきライバルで、ことごとに競争があった。
 たとえば、梅壺と弘徽殿女御のいどみ合い、あるいは夕霧と雲井雁の結婚問題についてのもつれ等だが、夕顔の遺児玉鬘をめぐっても、源氏は相手に優越しようとし、ついに成功するのである。
 そして最後に彼が六条院として上皇に準ずる位に上ると、圧倒的な王氏の勝利で、右大臣側の太后(おおきさき)も、左大臣側の長者も今さらに源氏の運命が、他に異っていたことを納得する。

・しかし式部がこういう経過を書き上げたについては、心中に複雑なものがあっただろうと、著者は推測している。
 藤原氏というのは同じ一族の間でも栄達の争いが激しかったから、式部は自らも藤原氏の一員でありながら、中心の摂関家に対する不満を抱いていたに違いないし、また摂関家の権力によって圧迫される、王氏の子孫達に対しては同情や、かくあれかしという希望があって、源氏を理想の人物に描いたという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、102頁~104頁)

■王朝の文化人
・紫式部たちの生きた時代は、中国の文化はずい分日本化されてきている時代だが、貴族の生活も公的には中国風、私的には敷島の大和心を尊ぶ風が強くなっている。
 たとえば、村上天皇の御世の天徳4年には、清涼殿に於て女房歌合せが行われ、それは男性の詩合せに対抗して、大流行の先がけをつくった。
 だから『源氏物語』の中にも、「絵合」で女性が二派にわかれて争うというような風俗が描かれたのであろう。

・中国風から日本風への、文化の変り目の一つに書道がある。
 「梅枝」の巻でも、源氏が書について批評しているが、「近頃の源氏は書道といっても、仮名の方を重んじて、世の中に上手とよばれる人があれば、身分をとわずに書かせている」のであった。

・一条帝の時代には才人が多くて、書道の方にも人があったが、中でも藤原行成(ゆきなり)は漢字、かなともにうまく、小野道風、藤原佐理(すけたか)とともに三蹟とうたわれた。
 しかし行成が才人だといっても、この時代には各方面にすぐれた人材がそろっていて、例をあげれば次のようになる。

一、政治 
藤原道長、伊周(これちか)、実資(さねすけ)、斉信(ただのぶ)、
 公任(きんとう)、行成、源俊賢(としかた)、頼定、相方
二、漢詩文
 大江匡衡(まさひら)、以言(よしとき)
三、和歌
 藤原実方(さねかた)、和泉式部、赤染衛門
四、管弦
 源道方、済政(なりまさ)
五、絵画
 巨勢(こせ)弘高
六、儒学
 清原善澄、広澄
七、仏教
 源信、覚運、院源、寛朝、慶円
八、陰陽道
 安倍晴明
九、武士
 下野公時(しもつけきんとき)、尾張兼時、源頼光、源満仲、平維衡(これひら)

このように多士済々である。
 そして、これらの人々の中心に、道長が居たのであるが、その才略にとんだ道長の様子が、六条院における源氏の描写にモデルとして使用されているらしいという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、124頁~126頁)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の妻の源倫子(黒木華)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・道長の子の頼通(渡邊圭祐)
・紫式部の父(岸谷五朗)
・紫式部の弟の惟規(高杉真宙)
・紫式部の夫(佐々木蔵之介)
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・詮子(吉田羊)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
・藤原実資(秋山竜次)
・藤原斉信(金田哲)
・藤原公任(町田啓太)
・藤原行成(渡辺大知)
・赤染衛門(凰稀かなめ)
・安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)

■『栄華物語』 について
・さて『源氏物語』「若菜」からは、源氏夫妻の運命の凋落がはじまる。
 まず紫上が、朱雀院の女三宮に、正夫人の地位をおびやかされる立場になって、ついに病気にかかる。源氏の方は、女三宮の姦通によって、コキュの憂目を味わうという、二人の悲運が、表面上は源氏の四十賀と朱雀院の五十賀という華やかな催しの裏側に進行するのである。
 この四十賀の儀式のモデルを、『栄華物語』 の中から著者は拾っている。

・『栄華物語』 の巻第三に、摂政兼家の六十の賀が、東三条の院で行われた記述がある。
 永祚2年10月のことで、一条天皇の行幸もあった。
 また、巻第七には、東三条院詮子の四十の賀をくわしくのべている。
 長保3年のことだが、この年は疫病が流行したり、女院(にょういん)が法華八講会を催されたり、石山詣(もうで)があったりして賀宴が遅れ、10月になった。
 土御門殿で行われ、この時も行幸があった。
 屏風の歌は上手な歌人達が仕ったが、絵の方は八月十五夜に男女の語らう姿であった。
 賀宴の舞人は北家の子息達がつとめたが、ことに道長の息、頼通と頼宗の二人の少年の舞が美しかった。
この時、中宮彰子は西の対屋、女院は寝殿なので、一条天皇もその東廂におられ、道長夫人は東の対屋にいて、公卿は渡殿にいた。


・『栄華物語』の筆者については色んな説があり、何人かの複数の筆者の名前もあがっている。
 しかし少なくとも巻三十までの正編については、赤染衛門が最も有力な候補とされる。
 彼女は道長の妻の倫子(りんし)に仕えていたから、彰子つきの紫式部とは関わりも深く、親交があったらしい。
 式部は赤染衛門のことを、「ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌よみとて、よろづのことにつけてよみちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ」と、好感をもって書いている。

・なおこの第六章の明石姫入内の参考として、『栄華物語』の中から、彰子入内の部分をひいている。
「大殿の姫君十二にならせ給へば、年の内に御裳着ありて、やがて内に参らせ給はんと急がせ給ふ。(下略)」
 巻第六の、「かゞやく藤壺」から引用したが、明石姫も同じように未来のお后候補として入内し、そして、源氏四十の賀のあとに皇子を出産する。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、128頁~130頁)

 
■三千院
・大原の里は桜の花にもよし、緑の雨によし、秋の紅葉に、雪景色にと、昔も今も環境のよいところだが、ことに三千院は品格の高い、よい寺である。
 はじめ、伝教大師が比叡山に根本中堂を営んだ時、東塔の南谷に建てた寺が起りといわれるが、後に堀河天皇の皇子が入室されてからは、代々の門跡寺院となった。

・なお、三千院の境内東南部にある往生極楽院は、三間四面、単層、入母屋造り、こけら葺のささやかな建物であるが、内部は藤原時代の阿弥陀堂の様式をとどめ、優雅で美しい。
 安置した阿弥陀三尊も、来迎の弥陀の姿を表わしたもので、これは王朝の人達が憧れた未来の相だったらしい。
 道長も頼通もこれに似た阿弥陀堂をつくっているが、この世で栄華をきわめた人達が、死だけはまぬがれることが出来ず、最後に如来に願ったのである。
 光源氏も女三宮に背かれ、紫上に先だたれてからは、浮沈の多い一生を振り返って、念仏三昧に暮した筈である。
 だがその子の夕霧はあくまでも落葉宮をもとめて、大原の山荘から奪うようにして、一条の宮へと移した。
 結局、親の犯した過失を同じように繰り返していくのが、人間というものなのか。
 そして更に女三宮の過失からは薫君が生れ、表向きは夕霧の弟として、宇治十帖の主人公となるのである。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、144頁~146頁)

■人々の死
・第七章(光源氏四十八歳~死)に於ては、三つの大きな死がある。
 柏木と紫上、源氏である。
 紫上は先の「若菜下」の巻で、六条御息所の物怪につかれ、危く命を落しそうになった。
 蘇生してからも病気がちであった。あくまでも執拗な御息所の怨霊は、「中宮の御事を世話して下さるのはありがたく、あの世からみていますが、生を隔てると、子の愛というのを以前ほど深く感じないのか、あなたへの恨みだけが執着するのです。その恨みの中にも、生前にあなたが私を軽んじられたことよりも、紫上との語らいの中で、私を悪くいわれたことが、口惜しく思われます……」と気味の悪いことを言う。
 また中宮への伝言として、「他の女性と帝寵をきそい合うというようなことはするな」といましめたりする。

・こんな噂が自然とひとに洩れるところとなって、紫上はいよいよ出家を希望し、秋好中宮さえも母の菩提を弔うために、尼になりたいと洩らすのだが、源氏が許さないうちに、紫上ははかなくなるのだった。
 さすがに源氏その人は「神」のような存在であるから、怨霊のつきようもなく、またその死については一言も語っていない。
 しかし源氏周辺の人物の不幸を必ず怨霊のたたりとし、いかに善根を積もうとそのたたりからのがれられぬ筋書を作っている処に、作者のみでなく当時の人々の、ぬきがたい宿命観をのぞきみるのである。
 革命というものがなく、すでに階級の固定してしまった貴族社会では、より出世するためにはその娘を天皇に奉って、皇子の出生を待つばかりだった、そういうシステムが、宿命観をより深くさせたのであろう、と著者はみる。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、145頁~147頁)

■墓所と葬場
・柏木を何処に葬ったかという記述はなく、ただ夕霧が「右将軍が塚に、草初めて青し」と口ずさむのみである。
 しかし右将軍というのは当時、承平6年(936年)7月に死んだ右大将軍藤原保忠(やすただ)のことで、保忠は藤原氏の一族として、木幡(こばた)墓所に葬られた筈だから、柏木の墓も木幡と考えてよいだろう。
 
・紫上の方は、「はるばると広き野の、……」とあり、それは鳥辺野(とりべの)の中の、愛宕(おたぎ)の火葬場であり、墓地のことは書いていない。
・ここで振り返ってみると、桐壺の更衣も愛宕で火葬にしたとあり、夕顔、葵上の葬送も同じである。
・しかし桐壺院は、「須磨」の巻に、「御墓は、道の草しげくなりてわけ入り給ふ程、いとゞ露けきに、月の雲にかくれて、森の木立こぶかく心すごし」と御陵のことを描写していて、おそらくは作者は北山あたりに御陵の位置を想定していたとする。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、147頁~148頁)

■宇治陵  
・藤原氏一門の骨を埋めた宇治陵は、古くは木幡墓所といったが、現在の地名でいうと、宇治市木幡南山畑町、木幡山の南麓にひろがる相当広い地域である。
 次々にその上に家が建って、新しい道が出来、どれが誰の墓所ともはっきりわからない。
 しかし木幡駅からさらに府道にそって南へいくと、宇治陵総拝所があって、そこにはちゃんと十七陵三墓に納めた方々の名が書いてある。
 
 宇多帝中宮温子(おんし)
 醍醐帝中宮穏子(おんし)
 村上帝中宮安子
 冷泉帝女御懐子(かいし)
 冷泉帝女御超子
 円融帝皇后遵子(じゅんし)
 円融帝中宮媓子(こうし)
 円融帝女御詮子(せんし)
 一条帝中宮彰子(しょうし)
 三条帝中宮妍子(けんし)
 三条帝皇后娍子(じょうし)
 後一条帝皇后威子(いし)

・文学史にも有名な方々の名前が並んでいて、圧倒される気分である。
 そのほか左側の立札には、藤原冬嗣、基経、時平、道長、頼通など、摂関家の人達の錚々たる名も並んでいるが、この方はどの塚が誰のものかはっきりわからないらしい。
 さすがに道長といえども、中宮や女御への扱いには劣るというわけであろうか、と著者は記す。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、152頁)

■物語後半の主題(第八章より)
・「匂宮」の巻の冒頭に、いかに作者は次の物語の中心人物たる薫君の個性について、慎重な用意のある文章をかいていることか。
「をさなき心地に、ほの聞き給ひし事の、折々いぶかしう、おぼつかなく、思ひわたれど、問うべき人もなし」と、薫が幼い時から自分の出生について疑問を抱いていることを述べ、
おぼつかな誰に問はましいかにして始めも果ても知らぬわが身ぞ
と独りで愚痴をいうが、答えるべき人もなかったと書いている。
・この、「おぼつかな」の歌は勿論紫式部の作ったものであるが、作者は薫の口をかりて、無意識に物語の後半部の主題を語っている、と著者はみる。
 薫はいうまでもなく、女三宮の不義姦通によって生れた子で、人生観は暗いが、それに托して語っている作者の人生観も暗くなっている。
 とてもあの、光り輝く生命の象徴であった、前半の主人公を描いた作者と、同じ人物とは思えぬ程である。
 しかし式部は、物語を書きはじめてからすでに何年かを経て、女房生活の裏表を体験し、人生の悲惨も味わっているうちに、心境が変化したのであろうという。
 文学観も深く沈潜してきた筈である。
 そう思うと、「始めも果ても知らぬわが身ぞ」という言葉には、作者の痛切な無常感(ママ)がこめられて、いよいよ身につまされる感じがしてくる。

・とは言いながら作者はこの薫に、源氏とは違った意味でのすぐれた個性をあたえている。
 それは美しい香りである。
 原文をひくと、
「香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うちふるまひ給へるあたり、遠く隔たる程の追風も、まことに、百歩のほかも、薫りぬべき心地しける」とある。
 なお、薫について、「これほどの身分の人が風采をかまわずにありのままで人中へ出るわけはなく、すこしでも人よりすぐれた印象を与えたいという用意をするはずであるが、怪しいほど放散する匂いに、忍び歩きをするのも不自由なのをうるさがって、あまり薫物などは用いない。それでもこの人の家にしまわれた香が、異ったよい匂いを放つものになり、庭の花の木もこの人の袖がふれるために、春雨の日の枝のしずくも、身にしむ香を漂わすことになった。秋の野の藤袴は、この人が通ればもとの香が隠れてなつかしい香に変るのだった。……」と語っている。

・ついでに、
「兵部卿の宮は、薫がこんなに不思議な香の持主である点を、羨ましく思って、競争心をおもやしになるのだった。宮のは人工的にすぐれた香を、お召し物へたきしめることを朝夕の仕事に遊ばし、自邸の庭にも春の花は梅を主にして、秋は人の愛する女郎花、萩の花などは顧みられることなく、不老の菊、衰えていく藤袴、見ばえのせぬ吾木香(われもこう)などいう、匂いの立つ植物を、霜枯れのころまでもお愛しになるような風流ぶりであった。……」と、
薫の模倣者までが現われているのである。

・薫がどのような特異体質をもっていたにしても、科学的には一寸納得のいかぬ話で、そのくせ作者の唯美的な文章には、後世の読者を酔わせる何かがあるのである。
 あるいはそれが、王朝人独得の文学的感性的な現実認識の仕方だといえるかも知れない。
・それにしても、光君と薫君という、この二つの名前だけを取り上げてみても、ここには如何にも日本的伝統的な美学がある。
 古来から、暗いもの、臭いものはけがれとして忌み嫌った日本人の好みに、源氏はよく合っている。そこにこそ『源氏物語』が千年の生命を保ってきた秘密の一端があるとみる。
 臭いものを臭いと書いただけでは、言葉の芸術は成り立たないのである。
 紫式部の芸術は、この世に浄土の芳香を漂わす男をさえ創ったという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、163頁~166頁)

■薫の思想(第九章より)
・宇治十帖は、都を離れて素朴な、しかも趣きに富んだ土地に繰りひろげられる、ささやかな人間関係のなりゆきを描いたものである。
 それだけに、前編にくらべて、心理の掘り下げが深く、作者の眼も情感も沈潜していて、文学性はより高いといわれる。

・「橋姫」の巻に、薫のことを八宮がひとづてにきいて、次のように話している。
「人生をかりそめのものと悟り、厭世心の起りはじめるのも、その人自身に不幸のあった時とか、社会から冷たくされた時とか、何かの動機によることですが、年が若くて、しかも思うことが何でもかなう身の上で、何の不満もなさそうな人が、そんなに後世のことを頭において仏教を学ぼうとされるのは、珍しいことですね」

・宇治十帖に漂っている仏教的な宿命観やペシミズムは、この時代のものである。
 式部の時代からもう少し下ると、世の中は末法思想という暗いものにおおわれてしまうが、それへのはじまりがすでにここでは現われて、薫の出生そのものが、ぬきさしならぬ人間の運命の暗さを象徴しているかにみえる。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、177頁~178頁)

■宇治十帖の社会的背景
・末法思想というのは、釈迦が入滅後の世界を、正法、像法、末法の三つに分け、
末法の世に入ると仏の教えは衰えて、人々の心は悪化し、世の中には悪のみがはびこるという、悲観的な考えである。
 その期間については色んな説がある。
 当時は正法千年、像法二千年と信じられていた。
 また釈迦入滅の年というのも、それを何時に考えるかによって、末法期の始まりが違ってくるが、式部が宇治十帖を書いたのが1010年頃とすると、残る時間はもう五十年にも足りなかった。
 だから、人々はまるで、最後の審判の日が近づいたように怖れ、道長でさえもひたすらに後生を祈って、法成寺の造営を急がせたのだった。
・しかし、こうした思想が流布する裏には、必ず社会的な要因がある。
 式部が十歳になった980年頃から1010年までの社会を、著者は調べている。

980年7月 暴風雨あり
同年 11月 内裏焼失
982年2月 伊予国海賊あり、京中群盗
同年 11月 内裏焼失
983年   此年京中で武器所有を禁ず
984年8月 円融天皇譲位
986年6月 花山天皇退位
987年夏  旱害あり
989年7月 彗星出現
同年 8月 暴風雨。高潮あり
992年5・6月 京中洪水あり
993年秋  疱瘡流行
997年9月 高麗の賊来る。南蛮人壱岐、対馬に乱入
998年1月 彗星現わる
同年 8月 暴風雨 此年疱瘡流行
999年6月 内裏焼失
1000年2月 疫病流行
1001年11月 内裏焼失、疫病前年に続く
1004年   此頃地方よりの訴えしきりなり
1005年11月 内裏焼失
1006年10月 南院焼失
1007年5月 流星異変により大赦
1008年2月 花山院崩御
同年 12月 宮中で引きはぎあり
1009年2月 中宮若宮呪咀事件発覚
同年 10月 一条院内裏焼失
1011年6月 一条天皇崩御 冷泉院崩御
1012年6月 道長呪咀 怪事多し
1013年1月 東三条院焼失
1014年2月 内裏焼失


・悪い事件ばかりを拾ってみたそうだ。
 朝廷で言うと、摂関家の横暴によって、天皇は次々と退位を迫られたり、出家したりしている。
 ことに冷泉天皇は神経症だったというが、そんな朝廷に支配されている社会は、表面の華美に反して、実質は病的であり、退廃をはじめていたといえよう。
 宮廷生活の豪華さも、実は地方から取り立てた税によって、消費生活がまかなわれていたのであり、その税を有効に活用して地方民のために産業を興すということは全くなかった。
中央及びそれに連なる地方の国司などが、専ら私腹を肥やしていた。

・次に一条朝は、火事が多い。
 『源氏物語』では、「橋姫」の巻に八宮が、京の邸宅を火事で焼かれて後に、宇治山荘に移ったとしてあり、これ以外は火事の記述はないのであるが、実際には式部は多くの火事を見聞した筈である。
 しかも彼女が宮仕えをはじめた時には、すでに本当の内裏は焼けていて、彼女の経験したのは主に一条院と枇杷殿などの、里内裏での生活なのだ。
 これを考えてもやはり、『源氏物語』の前半部は、彼女の体験から出たというより、理想を求めて描いたという方が当たっているだろう。
 あるいは醍醐・村上朝あたりへの憧れがあったのかも知れぬ。
 しかし、宇治十帖はたとい一行でも火事を書き、あるいは浮舟の養父一家の地方官的な粗雑な人間達、山荘警備の武士や身分の低い者の描写を多く入れているだけでも、作者の眼が広い現実にふれ、成長してきた証拠だと、著者が考えている。

・ともかく内裏の火災は、この時代の社会不安を実によく象徴していた。
 平安京が出来てから、内裏が火災で焼亡したのは、976年の、式部7歳の時がはじめてであったが、それ以後、前の表には7回の火災がある。
 さぞかし一条天皇も嫌な気分になられたであろう。
 宮廷を警護する人間の気持が余程ゆるんでいたか、または放火とすれば、狂気に近い程の恨みを心に持った人間が徘徊していたのであろう。
 
・次に疫病の流行だが、それがいかにひどかったかは、一条天皇の勅命で今宮神社を祀り、人々が疫病退散の踊りをしたことでもわかる。
 疫病流行のたびに賀茂の流れは死骸であふれたというから、まるで戦争中の爆撃をうけた時に似た状態であった。
・身にかかる不幸を払いのける手段としての政治改革や、科学的対策はなかった時代だから、
人々はこれを宿命としておののき、迷信や占いに走った。
 前の記録の中にも彗星出現の記事が幾つかあるが、そうした自然現象は恐怖の的になった。
 天変地異があったり、病気が流行したりすると、それは天皇の進退にまで影響をあたえた。

・末法思想の徹底はもう少し時代が後だが、式部の頃には極楽浄土への信仰が盛んで、985年には恵心僧都源信の著した、『往生要集』が世に出ている。
 『往生要集』とは、一切経の中から極楽往生に関係した文章を選んで体系化したものである。
 これ以後に生れた浄土宗や真宗は、みなこの本を縁に起ったのだが、源信は比叡山の横川に住んだ人だから、この宇治十帖にもおそらくその影響をあたえたのであろう。
(ほかにも横川に住んだ僧はあった。元三大師良源や、賀茂氏出身の慶滋保胤(よししげやすたね)などである) 
「手習」の巻では、横川の僧都のことを、「貴族からの招きがあってもことわって、山ごもりをしている聖」としているが、恵心僧都などもそういうタイプの僧だったようである。

・式部自身は、天台宗の教養を学んだとかいう話だが、個人の力ではどうにもならぬ権力機構への反発から、かえって積極的に仏教を支持し、宇治十帖の基礎に据えたということは出来るだろう。
・しかも主人公の薫は、解脱を願いながらもなお、現世への執着が絶てない青年貴族なのである。女性への愛着と悟りの間にあって、彼はつねに迷い続けた。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、178頁~183頁)

第十章―『紫式部日記』より


■紫式部の略歴について
・紫式部の作品は、『源氏物語』及び『紫式部日記』、『紫式部歌集』とはっきりしているが、その履歴についてははっきりしない。
 色々にいわれているが、学者によってまちまちである。
・しかし、『紫式部日記』のはじめの方に書かれた、寛弘2年(1005年)12月29日の、初出仕の年齢が、夫の没後数年を経ているとみて、(未亡人になったのは30歳位)35、6歳とすれば、その出生は天禄元年(970年)頃となる。著者は今井源衛氏の説により、出仕の年齢を一応、数え年36歳と仮定して、文章を進めている。

・式部の父は藤原為時(ためとき)、母は藤原為信の女(むすめ)で、共に藤(とう)氏。
 先祖は冬嗣流だが、摂関家とは大分離れている。
 それでも冬嗣から三代目の兼輔(かねすけ)の時には、中納言で公卿の列にあった。
 兼輔は堤(つつみ)中納言として知られ、その子清正や孫の為頼は歌人である。
 為頼の弟の為時は詩才があり、文章(もんじょう)博士でもあった。
 また式部の母方の親戚には、『蜻蛉日記』の作者や、『更級日記』の作者が生れているし、一族が文才に富んでいたらしい。
 『源氏物語』の成立は奇蹟とか偶然とかいわれるものでなく、遺伝的にも作者には才能があったのである。

・式部の生涯を辿ると、3歳の時に弟惟規(のぶのり)が生れ、その翌年に母が亡くなった。
 父為時には他に妻もあったらしいが、とにかく式部は父の許(もと)で育っている。
 7歳の時には惟道(のぶみち)が生れた。
 
・為時は円融、花山朝では信任を得ていて、娘が17歳の春には、式部大丞になっている。
 しかし、花山帝退位と共に、摂関家からにらまれて官を失った。
 それ以後は学問文芸に精励したらしい。
 そして10年後の長徳2年に越前守に任じ、式部も父に従った。
 しかし2年後には、式部ひとりが帰京して、藤原宣孝と結婚している。

・宣孝は式部と同じ北家の出で、式部とは「またいとこ」に当る。
 父為輔(ためすけ)は公卿に列したが、宣孝自身及び兄弟はみな受領階級であるし、何人かあった妻の出身もすべて受領層である。
 式部が29歳で結婚した時には、宣孝はすでに5人の男子をもち、年齢も45、6歳になっていた。
 式部としてはこんな宣孝に不満だったろうが、30歳といえば当時ではもう女の数に入らなかっただろうし、辛抱したに違いない。
 式部の嫉妬心をあおるような行為が宣孝にはたびたびあり、不幸な結婚生活だったが、しかし3年後には死別した。

・未亡人生活を続けているうちに『源氏物語』を書きはじめたらしいが、その評判が高くなったのか、道長方から要請されて、中宮彰子の後宮に女官として出仕することになった。
 但し内裏はその前日に焼失したので、天皇と中宮は、道長所有の東三条邸におられたのである。
 宮仕えの場所は時々変ったが、その間にも式部は物語を書き続けて、だいたいのところ寛弘7年夏には宇治十帖がおわっただろうといわれている。
 その後に『紫式部日記』が整理されたらしい。
 日記の文章は寛弘5年7月の中宮御産のことから始まっているが、ばらばらに書かれた日記を一つにまとめ、さらに消息文を加えて編集したのであろう。
 そして8年には父の為時が越後守に転任し、一緒に行った弟惟規が死んで、式部は孤独となった。
 但し、長保元年、30歳の時に生んだ長女の賢子(かたこ、後の大弐三位)はすでに13歳になっていた。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、205頁~207頁)

■日記
さて、『紫式部日記』の最初の文章、
「秋のけはひの立つままに、土御門殿の有様、いはむか
たなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、
おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう
涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる」
これは、寛弘五年に里邸へ退下された中宮に従った式部が、御殿の様子を書いたものである。
式部が何処に生れ育ち、何処に生きたか、それを訪ねてみたいという。

・一条朝は火災が多くて内裏も何回か焼け、式部は一度も本当の内裏に生活していなかったと書いた。
 出仕の場所は最初が東三条殿。
 翌年三月に御所は一条院に移った。
 しかし中宮は御産のたびに実家へ戻られる習慣だから、敦成親王と敦良親王誕生の両度に、式部もおつきしていることになる。
 そのほか、一条院が焼失した際には、天皇は枇杷殿に移られ、再建成って再び一条院に戻られた時には中宮も御一緒であった。
 崩御の後、中宮は東宮に従って枇杷殿にお住まいになったが、里邸が土御門殿なので、上東門院と称した。従って式部も宮仕えを去るまでは、枇杷殿及び土御門殿にあっただろう。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、207頁)
 
■宮廷生活
・日記の中で式部が、初めて宮仕えに出た日のことを回想して、次のように記す。
「しはすの廿九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし。いみじくも夢路にまど
はれしかなと思ひいづれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。夜
いたう更けにけり。御物忌におはしましければ、御前にもまゐらず、心ぼそくてうちふしたる
に、前なる人々の、『うちわたりはなほいとけはひことなりけり。里にては、いまは寝なまし
ものを、さもいざとき履のしげさかな』と、いろめかしくいひゐたるを聞きて、
  としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
とぞひとりごたれし」
(十二月二十九日に出仕した。はじめて東三条殿に上った日も、十二月二十九日だったのである。ずい分夢中でお仕えした当時を思うと、こんなに宮仕えに馴れてしまった自分というもの
が、うとましいものに思われる。夜もひどく更けた。中宮は御物忌なので、御前に伺候せずに
寝たが、一緒にいる女房達が、「宮中はひどく勝手がちがうのね。里にいればもう寝る頃なのに、
男の人のくつの音がやかましいこと」などと、色めいたことを言っている。私はそれをきいて、
「今年もくれてしまったし何だか年をとるばかり。風の音をきいたって、わびしくてやり切れぬ……」と独言をいった)

・このように書いているが、すでに若い女房のように男の履(くつ)の音を待つこともない式部は、里邸の静寂を想い出しながら、早く宮仕えをやめたいものだと考えていたに違いない。
 「すさまじきかな」の言葉は、いよいよ孤独なわが心と共に、宮仕えのすさまじさを痛感して言ったのであろうか。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、208頁~210頁)

■邸宅の跡(廬山寺)
・式部の里邸は、曾祖父の堤中納言兼輔より父為時にまで伝わった、中川の邸宅だと言われている。
・兼輔が堤中納言とよばれるようになったのは、その邸宅が京極中川の東、鴨川の西にあり、庭には川水をひいて、四季の花木を植えたからだそうだ。
 兼輔はすぐれた風流人で、醍醐帝に信任され、その邸宅なども立派だったようだ。
 この邸(やしき)から土御門殿まではほんの少しの距離だし、また式部が最初に上がった東三条殿なども近かった。
 ここには父為時も、また伯父の為頼も住んでいたらしいが、何時の頃に寺となったのか、今では廬山寺の門が西側の寺町通りに向って開き、寺の南側は立命館大学の建物に隣接している。

・廬山寺は、もとは船岡山の南、廬山寺通りにあった。
 円浄宗の本山で、元三大師良源の開創とつたえるから、紫式部にはあながち無縁の人とはいえない。
 良源は醍醐から一条朝のはじめまで生きた人で、宮中の信任が篤く、叡山中興の祖といわれ、式部の宗教観に深い影響をあたえた筈である。
 しかし廬山寺が応仁の乱で焼けた後、天正年間に中川の地へ移ったのだとすると、それまでの邸の伝領はどんな風になっていたのであろうか。
 邸宅にも人間と同じように、色んな運命があるのである。

・紫式部は殆どこの邸宅で『源氏物語』を書いたのだといわれているが、この説と『源氏物語』が最初に「帚木(ははきぎ)」の巻から書かれたという説を結びつけてみると面白い。
 この巻に出てくる空蟬を、源氏は方違(かたたが)えに行って紀伊守(きのかみ)の中川の邸で見初めるのだが、空蟬は作者の身の上に似ている。
 空蟬が夫の死後に紀伊守に言い寄られる話は、式部が夫の宣孝の没後に、継子から失礼な言動に出られたことが、モデルになっているらしい。

・不愉快なこともそれが創造の動機になれば幸せであろう。
 すさまじき宮仕えから退出したつれづれの日に、式部は物語の筆をすすめた。
 邸の庭にひいた中川の水をじっと見つめ、その眼を上げて、鴨川の向うにそびえる比叡山を眺めながら、虚構の物語に、あるいは真実の仏の教えに、心をひそめた式部の姿を想いみると、廬山寺の庭もそれなりに意味をもってくる、という。
 
・『源氏物語』を書いた後で式部がどう生きたか、没年がいつであるか、それも正確にはわからない。
 しかしわからないということが、かえって彼女に箔をつけている、と著者は記す。
 式部はやはり天才か、爛熟した王朝にあらわれた、文学の精霊みたいなものであったのだろうという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、210頁~213頁)