歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪勝負師の教え~中山典之氏の場合≫

2024-06-30 18:00:22 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~中山典之氏の場合≫
(2024年6月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の著作を参考にして、先の疑問に答えるとともに、囲碁の歴史的なことについても述べてみたい。
〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
 中山典之氏は、プロフィールにもあるように、本書の執筆当時、日本棋院棋士六段であった。
ところで、実際に、「どうしたら碁が強くなれますか」という質問は、最も度々質問されることの一つであるという。
 それに対する答えはいつも決まっているそうで、次の三個条だとする。
一、よい師匠を見つけなさい。
一、よい書物を探しなさい。
一、よい碁がたきを作りなさい。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、37頁)

 中山典之氏は、知る人ぞ知る、「囲碁界の講談師」という異名があり、囲碁史にも詳しく、また話が面白い。その一端を、中国や日本の歴史上の人物に関しても紹介できたらと思う。

【中山典之氏のプロフィール】
・1932年長野県に生まれる。1951年上田高校卒業。
・1953年鈴木五良八段に入門、1962年入段。執筆当時、日本棋院棋士六段。
<著書>
・「実録囲碁講談」(日本経済新聞社)
・「碁狂ものがたり」(日本棋院)
・「初段の戦略」(日本棋院)
・「囲碁の魅力」(三一書房)など




【中山典之『囲碁の世界』(岩波新書)はこちらから】
中山典之『囲碁の世界』(岩波新書)






〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
【目次】
第一章 碁を愛した先人たち
 碁の起源
 勝負ごと
 賭碁は賭けにならない
 聖武天皇遺愛の碁盤
 宮中で囲碁の行事
 強手、醍醐天皇
 皇室でも囲碁を

第二章 二千年の昔、既にプロ級?
 三国時代の囲碁
 関羽の大手術
 斧の柄が朽ちる
 名手・王積薪、老女に学ぶ

第三章 囲碁で決った関ヶ原の戦い
 石田三成、碁を知らず
 家康は国手(名人)なり
 秀忠の大失着

第四章 囲碁史を飾った名手たち
 家元制度の確立
 碁聖、本因坊道策
 ヨセの名局のヨセに異議あり―梶原武雄九段の炯眼―
 文政・天保の場外乱闘
 松平家の血戦
 林元美、決死の弾劾
 此棊は手見を禁ず(この碁は待ったなしですよ)

第五章 プロ棋士生活白書
 きびしい職業
 トーナメントでは生活できない
 棋士とマスコミ
 盤上に夢を求めて

第六章 西洋囲碁事情
 西洋囲碁の歴史
 ヨーロッパ・ゴ・コングレス
 囲碁人口と実力
 チェスにとって替るもの
 大失敗も楽し
 海外普及について一言
 心の交流
 
第七章 コンピューターは人間より強くなれるか
 思考するコンピューターの出現
 十九路の盤上は変化無限
 そのときの驚き

第八章 ホンの少々、囲碁入門
 碁は簡単に覚えられる
 技術の第一歩、シチョウ

第九章 碁のある人生
 碁を知らなかった人
 碁を覚えるのが遅かった人
 碁をたっぷりと楽しんでいる人
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第一章 碁を愛した先人たち
・碁の起源
〇第二章 二千年の昔、既にプロ級?
・三国時代の囲碁
・関羽の大手術
・斧の柄が朽ちる
・名手・王積薪、老女に学ぶ

〇第四章 囲碁史を飾った名手たち
・碁聖、本因坊道策

〇第八章 ホンの少々、囲碁入門
・シチョウ




碁の起源

 
第一章 碁を愛した先人たち

・碁は、いつごろ、誰によって打ち始められたものか、いまとなっては誰にも分らない。
 歴史上の人物で碁を打った例をあげている。

・まずは明治の元勲は、たいてい碁を打ったそうだ。
 伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛。
 下級武士の出身であるこれらの人々でさえ、大の碁好きであったのだから、大名や公卿は申すまでもない。
 最後の将軍となった徳川慶喜も、瀬越憲作名誉九段に五子(もく)置いて打ったというから、現在の標準で言えば、立派なアマチュア五段である。

・戦国時代の武将も実によく碁を打った。
 わけても、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人は、いずれも大の碁好きである。
 ときの名人クラスの碁打ちを集めて家元制度をこしらえた。
 国家の保護があったので、日本の碁の技術は大いに進歩し、現代碁界隆盛の一因につながっている。

・日蓮上人や菅原道真も、碁を好んだ。
 日蓮の書き残した書物には、碁を引用した話がある。本当かどうかは分らないが、わが国最古の棋譜(ゲームレコード)は、日蓮と弟子の日朗が建長5年(1253年)の正月に、鎌倉の松葉谷草庵で打たれたものと伝えられている。

・菅原道真は、いうところの天神さま。
 学問の神様とされているが、天神さまの作った漢詩の中には、碁を詠じたものがたくさんある。
 一つだけ、示す(『菅家文草』所収)
    囲碁
  手談幽静処 手談(しゅだん)、幽静の処
  用意興如何 意を用いること興如何(いかん)ぞ
  下子声偏小 子を下すこと声偏(ひと)えに小さく
  成都勢幾多 都を成すこと勢い幾ばくか多き
  偸閑猶気味 閑を偸(ぬす)みてなお気味あり
  送老不蹉跎 老を送りて蹉跎(さだ)ならず
  若得逢仙客 若し仙客に逢うを得ば
  樵夫定爛柯 樵夫定(さだ)めて柯(おののえ)を爛(ただら)さん

※詩の中にある手談と爛柯(らんか)は、囲碁の別称である。
 詩の題も、そのままズバリ囲碁となっている。
 当節、受験生が藁にもすがる思いで天神様に絵馬などを奉納するが、碁石の一粒でも奉納して、私は碁が大好きです、天神様、一番打ちましょう、とでも語りかける方が道真公の御意に叶うかも知れない、と著者はいう。

・平安時代になると、『源氏物語』の紫式部、『枕草子』の清少納言が、いずれもかなりの打ち手であったろうと思われる。
 両才媛の囲碁の記述は、囲碁の専門用語を使いこなし、情景描写も碁を知っていなければ、書けぬくだりがあって、まことに面白い。
※有名な国文学者でも、碁の用語が分らぬために、『源氏物語』の解釈が間違っているケースも少なくないという。

・もっと古い時代になると、『万葉集』に「碁師の歌」が見られるし、『古事記』の記述文にも「碁」の文字が使われているということである。

※さて、こうした次第で、大昔から多勢の人によって打ちつがれてきた碁だが、その起源については誰も明らかにしてくれない。
 ただ、碁は大昔に中国の聖天子、堯、舜が作ったと伝承されてきただけである。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、2頁~5頁)

三国時代の囲碁


第二章 二千年の昔、既にプロ級?

・中国の古書を見ると、碁に関する記述は2600年ほども昔の歴史書に出てきて以来、まさに山ほども見られるが、面白いからといっていちいち引用していては、とても紙幅が足りない。
 この際は西暦200年ごろ、中国が魏、呉、蜀の三国に分立していたころから始めることとしよう。
・当時の中国には、もちろん碁が存在し、しかも大いに盛んだった。
 魏の曹操は有名な兵法家であり、詩人であり、書家でありというすごい大人物であるが、囲碁の腕前も一流だったということだ。
・『三国志・魏書一』という書物の武帝紀注に、
「馮翊(ヒョウヨク)ノ山子道・王九真・郭凱等、囲棊ヲ善クス。太祖(曹操)皆與(トモ)ニ能ヲ埒(ヒト)シクス……(後略)」
 (※馮翊=郡の名。今の陝西省大茘縣)
とあるが、山子道、王九真、郭凱らと肩を並べる高手であったとは驚きである。

≪棋譜≫43手まで
 先 呂範(白)
   孫策(黒)


※古代中国では、貴人または技倆の上の者が黒石を持ったという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、31頁)

・どちらが先であるかは分らないが、古書に書かれていることが確かなら、本局は呂範の先番と推定されるらしい。
・なお、中国では、近代まで四隅に置石を置きあってから、一局が始まった。

・呉の英主、孫策もかなりの打ち手であったらしく、その謀臣、呂範との一局が、中国最古の棋譜として今に伝えられているほどだ。
 中国最古の棋譜は、すなわち世界最古の棋譜ということになるが、この棋譜が、はたして孫策が実際に打ったものかどうかは誰にも分らない。
 ただ、その後、ずっと時代を降って、唐代に現れた王積薪、滑能などという「名手」の棋譜が一枚も残されていないことから見ると、『忘憂清楽集』(北宋の時代、11世紀ごろの棋譜が載っている書物)に突然現れたこの孫策・呂範局は、後世の何者かがこしらえたものだろうという説が多い。

・ただし、著者が面白いと思うのは、日本でも歴史に残る棋聖といえば、元禄時代の道策と幕末の秀策だが、孫策とはいかにも碁の強そうな名前であり、願わくばこの棋譜が本ものであってくれたらと祈りたい心境になるから、妙なものだという。
 事実、この碁に見せた孫策・呂範両雄の腕前はなかなかのもので、たぶん現代のプロ低段者に近い実力はあるようだ。
 鬼才、梶原武雄九段に並べて見せたところ、なかなかのものだと感心しておられたから、これは技術上では折紙付きだが、いよいよもって後人の仮託という気配が濃厚であると記す。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、30頁~32頁)

関羽の大手術


第二章 二千年の昔、既にプロ級?
・三国志といえば、前半の主役はもちろん魏の曹操であり、対抗するのは劉備、関羽、張飛の三義兄弟である。
 この話は、武術の神様として中国で祭られている関羽将軍の話である。
 今を去ることおよそ1800年の昔、智勇兼備の名将関羽は、魏将曹仁を樊(はん)城に追いつめていた。勝ちいくさの関羽は、大将みずから北門の前に馬を進め、雷のような大音声で降伏を呼びかけた瞬間、500人の射手の集中射の的になり、その中の1本が右腕に突き立って、落馬してしまった。
 息子の関平以下、諸将が必死に慰留したため、関羽はひとまず退いて治療するかということになった。
 早速、部下に命じ、八方に手分けして、然るべき名医を探し求めていたところ、当時、天下に聞えた外科の名医、華陀(かだ)というドクターが突然、先方からやってきたという。
 かなりの重症で、矢じりに烏頭(うず)という毒薬が塗ってあり、その毒は既に骨髄にまで達しており、早く手を加えないとひじが動かなくなるという。
 医者の荒療治で、骨髄中に達した毒素を刀で削りとり、その上に薬を塗り込み、傷口を縫合すれば、大丈夫だそうだ。
 『三国志演義』は、次のように語る。
「陀、乃チ刀ヲ下シテ皮肉ヲ割開シ、直ニ骨ニ至ル。骨上已ニ青シ。陀刀ヲ用テ刮(けず)ル。悉悉声アリ(ぎしぎしと骨をけずる音がした)。帳上・帳下見ル者皆面ヲ掩(おお)ヒ、色ヲ失フ。公、酒ヲ飲ミ、肉ヲ食イ、談笑シ、弈棋ス。全ク痛苦ノ色無シ。

※この話には、著者はいろいろと教えられるところがあるという。
 当時は、手術のときに用いる麻酔薬などは当然なかったろう。すると、関羽が手術前に飲んだ数杯の酒も、手術中に手にした酒杯も、談笑も、ある意味では麻酔の一種と取れなくもない。
 そして、碁を打つということ自体が、もしも碁をザル碁程度以上に打てる者にとっては、まさしく麻酔の作用があると著者は記す。
 関羽将軍も、また良き打ち手であったろうとする。

※ところで、著者はプロ棋士として最も度々質問されることの一つに、「どうしたら碁が強くなれますか」というのがあるという。
 それに対する答えはいつも決まっているそうで、次の三個条だとする。
一、よい師匠を見つけなさい。
一、よい書物を探しなさい。
一、よい碁がたきを作りなさい。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、32頁~39頁)

斧の柄が朽ちる


・むかしむかし、晋(春秋時代、西暦紀元前500年ころ)の国の信安郡は石室山の麓に、王質という樵夫(きこり)が住んでいたという。
 ある日、木を伐るために石室山の奥深く分け入って行ったところが、小さな広場があって、木のかげの涼しそうなところで四人の童子が碁を打っていた。
 碁好きの王質、たまらず傍に寄って碁を眺めた。
 そのうちに、童子の一人が、
 「これ、食べる」
と、なつめの実のようなものをくれた。
 王質、ごちそうさまと礼を言い、それを口にふくんだが、不思議なことに、いつまで経ってものどが渇かずお腹も空かない。
 王質は必然的に時間の経つのを忘れ、いつまでもいつまでも碁を眺めていた。
 夕方近くになって、童子たちは碁をやめた。
 童子たちは、まだ傍に王質がいるのを見て大いに驚いた。
 我に返った王質、手にした斧を杖にして立ち上がろうとしたが、思わずよろめいた。
 どうしたことだろうと斧を見ると、斧の柄はすっかり朽ちはて、斧の本体そのものも錆びついてしまっている。
 これでは木を伐るわけにも行かぬから、家に帰るしか打つ手がない。王質は山を下り、村に入った。
 さて、村に帰ったが、どうやら村の様子がおかしい。道を行き交う人は誰も彼も顔を知らない人ばかりである。漸くにして、わが家とおぼしきところまでたどりついたが、その家は朽ちはてて荒れはてていた。王質は呆然自失。
 傍を通りかかった人に尋ねると、
「王質という人は、その昔、たしかにこの村に住んでいたそうですが、あるとき、一人で山へ入り、そのまま行方不明になっちゃったそうです。その王質さんの、確か七代目の王さんがこの近くに住んでいる筈だから誰かに聞いて訪ねてごらんなさい」と答えた。
 
※筋としては、日本の浦島太郎の話とよく似ている。
 ところで、この斧の柄が朽ちるという語を、漢字で書くと、爛柯の二字となる。
 爛はただれる、朽ちるという意味である。
 柯は柄であるから、この「らんか」という語は、転じて囲碁の別名となった。
 大正13年(1924)に発足した日本棋院(プロ棋士の団体)が最初に発行した雑誌に、『爛柯』というのがある。これは現在も続いている雑誌『囲碁クラブ』の前身であるそうだ。
 前に菅原道真公の漢詩を紹介したが、あの中にあった爛柯は、まさしくこの故事に基づいている。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、39頁~42頁)

名手・王積薪、老女に学ぶ


「第2章 二千年の昔、既にプロ級?」の「名手・王積薪、老女に学ぶ」(43頁~51頁)
に面白い話が載っている。

・唐の時代、玄宗皇帝の天宝14年(755)、安禄山の乱が起り、玄宗が都から追い落としをくらい、文武百官をひきいて、はるか西南の蜀の国、今の成都に都落ちを余儀なくされた。
 白楽天の詩、長恨歌にもあるが、けわしい山々の奥深く逃げこむこの軍旅は、さんたんたるものであったに違いない。

・唐代の囲碁の名手、王積薪も、翰林院(名儒、学者などが、皇帝の詔勅などを文章にする役所)の役人であったから、この一行の中にあった。
 碁は強くても武術で鍛えていたとも思えない文部省か宮内庁といったあたりの下っ端役人には、下役もつき添っているわけがないし、乗馬などはもちろんなかったろう。
・蜀の山道はいよいよけわしく、道中にある宿場や民宿(?)は政府高官の占有するところとあって、王積薪は泊るべきところもなかった。

・王先生、痛む足を引きずり引きずり、渓谷を深く分け入って行くと、オンボロの小屋があって、老婆と嫁が二人で暮しているところに出くわした。
 もう、一歩も歩けそうもないので、深々と頭を下げて一夜の宿を頼むと、飲料水と燈火を持ってきてくれたが、折しも夕暮れであり、二人の婦人は錠を下して寝てしまった。
 王先生の方は、やむなく軒下で横になったが、体のふしぶしが痛んで、夜が更けても眠れなかった。

・突然、姑が嫁に言う声が聞こえてきた。
 「良い晩ですね。でも、何の楽しみもなくて残念ですわね。碁でも一局打ちましょうか」
「はい、教えていただきましょう」
と嫁の声。
 しかし、不思議なことではある。
 家の中には燈火がないし、第一、二人は別々の部屋に寝ている筈である。
 おかしなことがあるものだと思って、王先生はオンボロ小屋の壁のすき間に耳を当てた。
 「東の五・南の九に打ちました」
 嫁の声が聞こえてきた。嫁の先手番とみえる。
 「東の五・南の十二に打ちましたよ」
 声に応じて姑が答える。 
 「西の八・南の十にいたしました」
少考した後の嫁の声。
 「では西の九・南の十にしましょう」
とおだやかに響く姑の声。

・さてさて、これはどうした棋譜になるであろうか。
 東だの南だのと麻雀みたいなことを言ってサッパリ分らないが、当時の中国の碁は四隅の星(第四線と第四線の交叉点)にお互いに置石を配置して打ったとされ、現代と違って、白が先手だったというから、仮に東西南北と盤端に書き込み、「東の五」は盤端から数えて第五線、「南の九」は盤端から数えて第九線とした棋譜をこしらえてみれば、図示したような布石となるという。
 もちろん、これは仮定の棋譜であり、本ものがどうだったかは分る筈がないけれど、中国の人はもっともらしく話を仕立てるものではある。


≪棋譜≫
西暦755年
 弈於蜀山中
  九目勝 姑(黒)
    先 嫁(白)
 立会人 唐 王積薪
 記録員 和 中山典之

※対局者が横になり、天を仰いで打ったので、左辺が東になり、右辺が西となった。
※【梶原武雄九段感想】
・白3、黒4はともに感度がすばらしく、特に黒は強い。
 ことによると碁の神様かも知れんな。


(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、46頁)

・ところで、この棋譜だが、白1、黒2は、かつての本因坊武宮正樹九段の宇宙流の傾向があって、なかなかの手であると著者は記す。
・また、白3と嫁が中央に打って出たのに対し、黒4とツケた姑の手は白1に対して分断攻撃の気配を示した一着。
 これまたなかなかの味わいがあり、あるいは名人の打った手かも知れない。
 著者としては、この棋譜の続きをもう少し見たい気分であるという。
 これだけでは、決して弱いとは思えぬが、どれくらい強いか測りようがない。

・さて、この深夜の一局、双方とも一子(し)を下すごとに少考を重ね、ほどよい間合いで進行して行く。
 腕時計、いや腹時計を見たら、もう夜中の二時を回っている。
 36手目、姑が言った。
 「もう、あなたの負けよ。わたしの九枰(へい、九目[もく]のことか)勝ちでしょう」
 嫁もこれに同意し、この一局は終了。
 しばらくすると、スヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくるばかりだった。

・王積薪、この35手(ママ)を、しっかりと頭に刻みこんだ。
 夜が明けると、王積薪は衣冠を整え、老婆を拝して、指南を仰ぎたいと申し入れたのである。
 すると老婆は、
 「あなたの思い通りに一局を並べてごらんなさい」
という。王積薪、いつも肌身離さず持っている袋の中から碁盤を取り出すと、考えられる限りの秘術をつくして打ち進めて行く。
 打ち進めること十数手。老婆は嫁をかえり見て、
 「この人には常勢(定石、原則的な模範的進行例)を教えてあげれば充分ですね」
という。
 そこで嫁は、攻、守、殺、奪、救、急、防、拒の手法を教えてくれたが、それは何とも簡単、あっけないほどのものであった。
 よって王積薪、更に教えを乞うと、老婆は笑いながら答える。
 「いやいや、これだけ知れば、人間界では天下無敵でありましょうよ」
 王積薪、恭々しく礼拝して感謝の意をあらわし、では、と別れを告げる。
 十数歩も歩いたろうか。もう一度礼拝しようと振り返ってみると、さきほどまで確かにあった、あのオンボロ小屋は影も形もなくなっていた。

・王積薪は、その後、老婆の予言の如く、誰にも負けぬほどの腕前になったという、めでたしめでたしの怪奇物語である。

・さて、この伝説だが、プロ的に考察すれば、これは何とも難しい物語ではある、という。
 だいたいにおいて、碁盤なしで碁を最後まで完全に打てるのは、現在のプロ棋士の中には一人もいないと断言してよいそうだ。
 まあ、二子(もく)くらい弱くなってもよければ、時間さえかければ何とかなるだろうとも。
・然るに、蜀の山中の老婆たるや、僅か35手で一方の九目勝を読み切った。
 もしこれが事実なら、この老婆はまさしく棋神。
 著者よりも聖目(せいもく)くらい(想像を絶するくらい)強いのは間違いないという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、43頁~48頁)


碁聖、本因坊道策


「第四章 囲碁史を飾った名手たち」の「碁聖、本因坊道策」(71頁~80頁)には、本因坊道策について述べている。

・江戸時代三百年の囲碁史は、ひと口に言ってしまえば、四家元による名人碁所(ごどころ)を賭けての血みどろな闘争だったといえるようだ。
 当時の考え方では、上手(じょうず、七段)の地位に達するのは、人間わざでは最高級のものとされ、その上の準名人(八段)、名人(九段)は神技の持主でなければうかがうことができぬ聖域とされていた。
そして、名人の芸に達すれば、幕府から碁所の地位を与えられ、家元四家の上に立って号令することができた。

※この点、現代の新聞棋戦による「名人」や「棋聖」が、たった(?)2、3千万円ほどの賞金を得て、しかも1年かぎりのタイトルを名乗るのとはケタが違うといえなくもないとする。
・ただし、昔の名人は一時代にたった一人しか許されていないから、もし、同時代に2人以上の名人級の打ち手が現れたら、事件がややこしくなる。
 名人の実力がありながら、こうした事情もあって名人になれなかった棋士に、本因坊元丈、安井仙知(知得)、井上因碩(幻庵)、本因坊秀和の四名手がいる。
(後世はこの4人を囲碁四哲と呼び敬っている)

・しかしながら、多少、実力がぬきんでていたところで、他家から名人碁所が出るのは自家の不都合。先祖に対して申し訳が立たぬという感情もあり、名人碁所がすんなりと決定した例はほとんどない。
 第四世本因坊の道策名人の場合は、珍しい例外だった。
 道策は、後世から「実力十三段」といわれたほどの怪物である。
 他の家元三家がタバになってかかっても敵わなかった。
 先(せん)はおろか、二子(もく)置いても勝てるかどうか保証の限りでないとあってはしかたがない。加えて道策は人物も立派、人望もあるとあっては、異議の申し立てようがなかった。

〇ところで、道策と現代のトップクラスの棋士とでは、どちらがどのくらい強いだろうか。

 この問いを著者もしている。
 これはなかなかの大問題であるという。
 プロ棋士にとっては、道策先生は神様みたいなものであったから、これとせいくらべをしようなどという元気のよい人は、昔からいなかったし、現代でも見当たらないという。
 ただし、いずれの時代でも、時の第一人者と道策先生の実力差は興味がある問題と見え、いくつかの話が書き残されている。

・道策の直接の弟子で、その死後に名人碁所となった井上因碩(道節)は、
「私が黒を持って道策師に向ったとすれば、不肖なりといえども道節、盤上の理はほとんど知りつくしているので、恐らくは百戦百勝であろう。
 しかしながら、これは十九道三百六十一路という限られた盤上だから言えることであり、もし、この小碁盤を四つ合わせて、千四百余路の大碁盤で勝負を決しようとすれば、道策師は多々ますます弁ず、であろうが、私は茫洋自失、どうしたものか分らなくなってしまうであろう。よって、私の真の力は、道策師に及ばざること三子であると自信している」

・また、道策没後130年、天保時代に名人となった本因坊丈和は、弟子の問に答えて、
「道策師と私が十番碁を打ったとすれば、最初の十番碁は五勝五敗の打分けとなるであろう。しかし、次にもう一度十番碁を打てば果して打分けにこぎつけられるものかどうか」
 語尾をにごしたようなことが伝えられている。

※この丈和先生もたいへんな大名人であり、幕末の棋聖、本因坊秀策が出現するまで、つまり明治以前までは、前聖道策、後聖丈和といわれたほどの人だった。
 明治になってから、秀策の株が上り、棋聖といえば道策、秀策の二人というのが現代での通り相場となっているのは、丈和先生としては少々ご不満かもしれないという。

・ところで、現代の棋士たちの道策観だが、半数以上の人は道策に無関心であろうとする。
 若い棋士たちの関心は、もっぱら現在打たれている趙治勲、小林光一、武宮正樹ら諸先生の打碁であるのは当然である。少し時代をさかのぼって、呉清源、坂田栄男、藤沢秀行。
 もう少し頑張って、本因坊秀策、村瀬秀甫、本因坊秀栄らの諸名手まで研究する時間的余裕がある人は、よほどの勉強家であろうという。

・だから、大半の棋士の答えは、次のようなものになるそうだ。
「道策先生と言っても、なにぶんにも大昔のことだから比較にならないでしょう。
 三百年の間に定石や布石も大いに進歩したのだから、当然、現代の方に分があるべきでしょう」

・これに対し、道策の碁が大好きだという人たち、例えば小林光一、梶原武雄、酒井猛、福井正明らの諸先生は、そんなことはありませんと首を振る。
 余人は知らず、道策先生だけは別格、比較するのも恐れ多いというムードであった。これらの道策党の気持を代弁すれば、次のようになる。
「なるほど、道策先生の時代の碁は、定石や布石が発達不充分で、今の目から見るとたいしたことがなさそうに見える。しかし、それも二十手か三十手までのことであり、未知の世界に入る中盤以降の芸は、とてつもなく高いものである。現代が道策を超えているなどとは、とんでもないことである」

そして、
「仮に、いま道策先生が出てきて、現代の碁を見たとしよう。
 最初の二日くらいはホホウと目を丸くされるかも知れんが、一週間もすれば、たかが三百年間の進歩など全部吸収してしまうだろう。棋聖も名人も本因坊も、全タイトルを持って行かれてしまうだろう」
※著者はこう想定している。

・著者は、小林光一・八段(当時)の『小林流必勝置碁』という本を書いたことがある。
 その中に「盤側余話」と題して、明治以前の歴史上の名手たちのランキングをこしらえて、発表したことがあるそうだ。
 それによると、次のようになっている。
 第一位 本因坊道策
 第二位 本因坊秀策
 第三位 本因坊丈和
 第四位 本因坊秀栄
 第五位 本因坊秀甫

※ところで、現代碁界が、このベスト5に割って入ることができるのだろうかという。
 呉清源、坂田栄男の両雄は実績から見て有望のようにも思うけれど、著者にはとても分るわけがないとする。

・著者も、道策先生の碁が大好きであるという。
 手元に130局ほどを集めて楽しんでいるそうだ。
 なにぶんにも神様の碁であるから、一手一手の意味はよく判らないが、アレヨ、アレヨという大騒動が終ってみると、相手が吹っ飛んでいるありさまが、ワクワクするほど面白いそうだ。
 よって、碁を打てる人のために、一局だけ、五子局の稽古碁をあげている。
➡これほど面白い碁も少ないから、碁を知っている人は是非並べて欲しいそうだ。

【本因坊道策と雛屋立甫の五子局】
 本因坊道策 中押勝
 白89手まで、以下略



・対局者の立甫は本姓を野々口と言い、京都に住んでいた高名の俳人である。
 この碁について、80年ほど経って名人になった本因坊察元が立甫は(プロの)三段くらいの力があるが、正式に勉強していないので、その力を利用されて逆に投げ飛ばされた(学ばざる碁故如是[ゆえかくのごとし])と評したという。

・事実、この碁の立甫宗匠の打ちっぷりは、闘志満々でまことにすばらしい。
 黒52では78と堅く連絡しておけば道策先生も閉口したのではなかろうか、と著者はいう。
・黒72と切ったあたり、並べていた著者は道策先生大苦戦とみている。
 それがどうしたことか、十数手進んだ白89では、黒の種石二子(もく)がボインと打ち上げられる始末である。
 (これはまさに道策の神技である)

※ところで、この野々口立甫、いろいろと逸話があるようだ。
 あるお百姓さんが畑に瓜を作っていたところ、夜な夜な狐に食われる。いろいろと防禦策を講じたが、相手はよほどの古狐(ふるぎつね)と見えてうまく行かない。
 そこで立甫宗匠の登場となる。
「鬼神をも感動せしむる、わが言の葉を以つてするに、妖魅の眷族(けんぞく)、野狐、なにほどの事かあらん」
と、気合するどく即吟一句、
  己(おの)が字の つくりを喰(くら)ふ狐かな
 サラサラサラと紙片に書き、これを竹に挟んで瓜畑のど真ん中に立てさせたところ、アーラ不思議や、その夜から狐がコンようになったということである。
 なお、立甫宗匠の句に、
  声なくて 花や梢の高笑ひ
というのもある。

※道策先生は、はるか梢の上の方、いちばんてっぺんに咲く大輪の花である。
 下の方で後世のヘボどもが、道策の芸がどうのこうのとガヤガヤ騒いでおるが、そんなことかも知れんし、そうでないかも知れん、ワッハッハと声なき声が梢の方から聞こえてくるような気がする、と立甫宗匠が詠んでいるように思えなくもない、と著者は評している。
 ともあれ、俳句の世界では、さしずめ松尾芭蕉が道策という役どころであろうが、そのひと時代前にも立甫のような日本語の達人がいたという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、71頁~80頁)

シチョウ

シチョウ


第八章 ホンの少々、囲碁入門

【技術の第一歩、シチョウ】
【5図】シチョウ
・黒1と逃亡を計ったとき、白2と打つのは非常によい手である。
・以下、右、左と交互に黒を追いかけ、結局は黒を全滅させてしまうことができる。
・この技術はシチョウと呼ばれ、碁の手筋としては最初に覚える重要なものである。
・四つずつ並んで前進して行くから、「四丁」なのだということである。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、211頁)

【6図】シチョウ崩れ
・相手をシチョウにかけて、大きくいただいてしまおうというのは初心者の夢だが、前方不注意でえらい事故を起すこともある。
・図はその一例だが、三角印の黒があったりしたら一大事で、白11までと追いかけたところが、逆に白7の一子がアタリ(次に取られる)の状態となって、白11のとき黒12と逆に取られてしまった。
・「取ろう取ろうは取られのもと」とは、よく聞く話である。

・こんな結果になったりしたら、白としてはまことに不都合なことになる。
 将来、黒a, b, cなどと打たれることにより、両アタリ(二つの石が同時にアタリになって次にどちらかが取られる形)が山ほども生じ、白がボロボロに取られてしまうだろう。
・白は大急ぎでa, b, cに補強する必要があるが、とうてい間に合わない。
 つまるところ、国家の大方針が悪かったということになろうか。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、212頁~213頁)


【7図】ハテな?
・シチョウの行く手に、黒石や白石がゴチャゴチャしていたりしたら、話がややこしくなる。
・こうしたときは、皆さんは勉強のためにトコトンまでやってみることをおすすめする。
 失敗したってタカが盤上の石なのだから。
・ところで本図。白1のシチョウは成立するだろうか。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、213頁)

【8図】方向変換!
・白1以下、アタリ、アタリと必然の手順で、白11、13と妙なことになった。
・何と、奇妙な方向変換で新しいシチョウみたいなことになるではないか。
 光が鏡に当って屈折したように、ちょうど90度に折れ曲ったのである。
 シチョウの結果は、もちろん前方の状態によって決まるのである。

(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、214頁)

【9図】ちょいと一問 白1のシチョウの結果は?
・ここで、ちょっと面白い問題をさしあげよう。
・本図、白1と打ち、黒の二子をシチョウに取ることができるだろうか。
 ごくやさしい問題だから、たったいま碁を覚えたばかりのあなたでも、その気になれば解決可能である。
・白1に続いて、黒がaと逃げ出し、白がbとシチョウに追いかける。
 そして、その結果はどうなるだろうか。
・実はこの解答は本章の扉(205ページ)に掲げておいたので、チョイとご覧願いたい。
 白1のアタリから白77まで、完全なハート型ができあがるのをご覧いただけよう。

※著者は外国へ行って碁の講演をするとき、最初にこの図を大碁盤に並べることが多いそうだ。
 聴衆の中には初心者もいるし有段者もいる。
 中にはこれから碁を習おうという人もいるが、この問題はこれらすべての人々に大歓迎されるという利点があるようだ。
 もし、あなたがアマ高段者なら、9図の問題を見ただけで、頭の中で77手の先まで読みきれるであろう。
 また、もしあなたがアマ初段前後の棋力なら、実際に碁盤の上に石を並べて正解を得るだろう。
 
さらに、あなたが仮に初心者であったとしても、盤上に石を置いてみれば、試行錯誤の末に、この77手の正解にたどりつくだろう。
 なにしろ、正解手順はこの一つだけしかないのだから……。

※余談になるが、外国人はこうしたユーモアの世界にことのほか熱心で、本図は、英語、ドイツ語、フランス語などなど、各国の言語によってそれぞれの国に紹介されたそうだ。
 その種本になった中山典之『実録囲碁講談』の英語版で、翻訳者のジョン・パワーさん(日大講師、アマ五段)は、
 It’s a pity our games aren’t always this beautiful.
と書き添えてくれたという。

・なお、碁には、この他に同形反復を禁止するコウのルールがあるが、これについては、どうか、入門書なり、あたなの友人で碁を知っている人に聞いていただきたいという。
・結局、碁のルールは、
①地の多い方が勝である。
②周囲を取り囲まれた石は生存できない。
③コウのルール
の三つしかない。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、214頁~217頁)




≪勝負師の教えについて≫

2024-06-30 17:30:36 | 囲碁の話
≪勝負師の教えについて≫
(2024年6月30日投稿)
 

【はじめに】


 囲碁が強くなるには、どのような勉強をしたらよいのだろうか?
 囲碁に興味のある人なら、誰でも抱いたことのある疑問であり悩みであろう。
 勝負師(ここではプロ棋士を指す)は、この質問に対して、どのように答えているのだろう。
 今回以降のブログでは、このことがテーマである。
 そのために、次のような著作に目を通してみた。
〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年
〇羽生善治『直感力』PHP新書、2012年
〇井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年
〇張栩『勝利は10%から積み上げる』朝日新聞出版、2010年

 一読してみると、不思議なことに気づいた。
 井山裕太氏、羽生善治氏(将棋だが)、張栩氏などの諸先生方は「直感」の重要性について説いているのである。
 一流のプロ棋士たちは、勝負において「直感」や「経験」の大切さを強調している。
 その他、個人的な関心から、囲碁の歴史、故事などについて触れている著作もあるので、次回以降のブログで1冊ずつ紹介してみたい。


≪古代出雲への問いかけ その2 関裕二氏の著作より≫

2024-06-23 18:00:01 | 歴史
≪古代出雲への問いかけ その2 関裕二氏の著作より≫
(2024年6月23日投稿)

【はじめに】


 前回にひきつづき、古代出雲について考えてみたい。
 今回は、次の著作を参考にする。
〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]
 この著作の特徴は、第一章に記してあるように、記紀神話と出雲神話の学説史整理を、見事な“筆さばき”で、要領良く簡潔に述べてあることであろう。
(この点は、丁寧に要約したつもりである)
 また、日本古代史を、“祟り”というキーワードで斬ってみせる点も本書の特徴であろう。
たとえば、「「祟る神」は、日本の神の本来の属性だった」といい、「日本の神は「神」と「鬼」の属性を兼ね備えていた」といい、「出雲神こそが、最も「神らしい神」「神のなかの神」」と、ヤマトの人たちは考えていたのではないか、と著者はいう(66頁)。

(横溝正史の「八つ墓村」じゃあるまいし、そんな“祟り”なんかで、日本古代史が説明できるわけないじゃんと言い、荒唐無稽な説などと一蹴する前に、著者の言い分に耳を傾けてみると、読後に何か納得する部分があるかもしれない。そんな面白さがあるのが、本書ではないかと感じた。
 思うに、“学問の神様”として祀られる菅原道真(845-903)にしても、藤原氏との政争に敗れ、大宰府に左遷され、恨みを残して亡くなった。清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られ、後に天満天神として祀られたことが想起できる。また、平安時代の『源氏物語』のストーリーにも、紫式部は、六条御息所が生霊(怨霊)として葵の上に取り憑いたことを組み込んでいることを思うと、“祟り”というのも当時の人々には真実味を帯びていたのかもしれない)

【関裕二氏のプロフィール】
・1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。
 仏教美術に魅せられて、足繁く奈良に通い、日本古代史を研究。古代をテーマにした書籍を意欲的に執筆している。
<著書>
・『藤原氏の正体』(東京書籍)
・『謎とき古代日本列島』(講談社)
・『天武天皇 隠された正体』『封印された日本創生の真実』『検証 邪馬台国論争』(以上、KKベストセラーズ)
・『大化改新の謎』『壬申の乱の謎』『鬼の帝 聖武天皇の謎』(以上、PHP文庫)



【関裕二『「出雲抹殺」の謎』(PHP文庫)はこちらから】
関裕二『「出雲抹殺」の謎』(PHP文庫)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第一章 「出雲」は本当になかったのか?
・『出雲風土記』に残された出雲の神話
・記紀神話と風土記の違い
・『出雲風土記』に残された出雲の神話
・記紀神話と風土記の違い
・『風土記』神話には本当に政治性はないのか
・めまぐるしく移り変わる出雲観
・出雲は都から見て忌むべき方角にあった?
・出雲は実在した?
・出雲氏族が交替していたとする説
・有力視される巫覡信仰宣布説
・出雲にまつわる諸説の長所と短所
・出雲が祟る意味

第二章 出雲はそこにあった
・四隅突出型墳丘墓の謎
・出雲に残る濃厚な海の信仰
・呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神
・出雲の謎を解く鍵は「祟り」

第三章 なぜ出雲は封印されたのか
 『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック
 出雲神が祟ると信じられたきっかけ

第四章 出雲はなぜ祟るのか
 『日本書紀』は何を隠してきたのか

第五章 明かされた真実
 武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん
 そもそも武内宿禰とは何者なのか
 武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味
 浦島と住吉と武内宿禰の素性









〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]

【目次】
はじめに
第一章 「出雲」は本当になかったのか?
 古代史の謎を解き明かす最後の鍵
 時代に翻弄された「神話」
 津田左右吉の反骨
 神話は本当に絵空事なのか
 『日本書紀』神話に秘められた歴史
 『出雲風土記』に残された出雲の神話
 記紀神話と風土記の違い
 『風土記』神話には本当に政治性はないのか
 めまぐるしく移り変わる出雲観
 出雲は都から見て忌むべき方角にあった?
 出雲は実在した?
 出雲氏族が交替していたとする説
 有力視される巫覡信仰宣布説
 出雲にまつわる諸説の長所と短所
 天皇家に讃えられた出雲神
 天皇家と出雲神の奇妙な関係
 出雲が祟る意味

第二章 出雲はそこにあった
 出雲はなかったというかつての常識
 考古学の示す最新の出雲像
 荒神谷遺跡の衝撃
 加茂岩倉遺跡の銅鐸の謎
 出雲特有の青銅器
 なぜ大量の青銅器が出雲に埋められたのか
 四隅突出型墳丘墓の謎
 出雲に残る濃厚な海の信仰
 呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神
 出雲と越の強い関係
 山陰の弥生時代の印象を塗り替えた鳥取県の遺跡
 青谷上寺地遺跡は弥生時代の博物館
 初めて見つかった「倭国乱」の痕跡
 驚異の妻木晩田遺跡
 出雲の存在を証明した纏向遺跡
 ヤマト建国以前にヤマトにやって来た出雲神
 ヤマト建国に果たした吉備の役割
 中央集権的な吉備と合議の出雲?
 出雲はヤマト建国とともに衰退したのか
 出雲の謎を解く鍵は「祟り」

第三章 なぜ出雲は封印されたのか
 とてつもない柱が出現した出雲大社境内遺跡
 出雲信仰はなぜ起こったのか
 謎が多すぎる出雲
 死んでも生かされつづける出雲国造
 身逃げの神事の不思議
 『日本書紀』は出雲の歴史を知っていたから隠したのか
 『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック
 出雲神が祟ると信じられたきっかけ
 出雲を侵略するヤマトという図式
 祟る出雲の可能性をかぎつけた考古学
 日本列島の地理が弥生後期の出雲を後押しした!
 北部九州の地理上の長所
 関門海峡を封鎖した鉄を独占した北部九州
 弥生時代後期の出雲の勃興
 中国の盛衰と北部九州への影響
 北部九州の地理上の短所
 はっきりしてきた出雲の目論見

第四章 出雲はなぜ祟るのか
 どんどん繰り上がる古墳時代の年代観
 邪馬台国は本当に畿内で決まったのか
 脚光を浴びる庄内式・布留式土器
 西から東ではなく東から西に行った神功皇后
 神功皇后の足跡と重なる北部九州の纏向型前方後円墳の分布
 ヤマトのトヨによる山門のヒミコ殺し
 スパイラルを形づくる『日本書紀』の記述
 天稚彦と仲哀天皇のそっくり度
 『日本書紀』は何を隠してきたのか
 ヤマトに裏切られたトヨ
 海のトヨは裏切られ祟る
 ヤマトに裏切られた武内宿禰
 歴史から抹殺された物部氏と蘇我氏の本当の関係
 関門海峡の両側に陣取った物部氏
 出雲を追いつめる物部氏の謎
 出雲の勢力圏を包み込むように楔を打ち込んだ物部氏
 三輪山の日向御子という謎
 祟る出雲の正体

第五章 明かされた真実
 神社伝承から明かす大国主神の正体
 大国主神の末裔・富氏の謎
 大国主神は何者なのか
 やっと気づいた「大国主神は聖徳太子とそっくり!!」という事実
 大国主神と聖徳太子の共通点
 蘇我氏を悪役に仕立てるための大国主神?
 武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん
 そもそも武内宿禰とは何者なのか
 武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味
 浦島と住吉と武内宿禰の素性
 見るな見るな、といわれれば見たくなる秘密
 ヤマトの本当の太陽神
 出雲の国譲りの真実
 
 文庫版あとがき
 参考文献





時代に翻弄された「神話」


・日本の神話は、そのほとんどが牧歌的にみえる。
 だが、実際には、多くの貴重な歴史のヒントが神話のなかに隠されている、と著者は考えている。
 「神話」全体が、近世以降どう考えられてきたかについて、触れている。
・記紀神話については、江戸時代中期ごろから、国学の隆盛によって、数々の論究が行なわれてきた。
 本居宣長や平田篤胤らは、神話に疑念を抱くことなく、素直に受け入れた。
 それどころか、国学者たちは、日本文化の固有性を神話や古代社会に求めている。
 たとえば、本居宣長は、儒教的な道徳主義を排し、「もののあはれ」を知れ、と説き、このような「主情主義」こそが、人間の本来あるべき姿だと主張した。
 その上で、太古の日本人は、ごく自然に、「もののあはれ」を知っていて、無意識のうちにありのままの自分でいることを、会得していたのだと指摘している。
 そして、神話のなかに、日本人としての理想、「主情主義」の世界を見出していった。
また、本居宣長を筆頭とする国学者たちは、天孫降臨を史実と認め、天皇を神の末裔と捉えることで、天皇に絶対的権威を見出していった。

・イデオロギー的要素の強い本居宣長らの主張に対し、反発する者も現れた。
 伴信友らは、神話はたんなる絵空事といい放ち、史実の考証を重視し、イデオロギー化する国学の傾向に歯止めをかけようとした。

※だが、復古的な国学の影響は、やがて西欧列強の砲艦外交に対する民族主義的な反発と重なり、幕末の尊王攘夷思想を形づくり、明治維新の原動力となっていった。
 ただし、国学そのものは、明治維新後、近代化を推し進める時代の流れによって消滅する。
 そのいっぽうで、教育現場では、神話は「史実」として、教えられることになっていく。
 たとえば、明治44年(1911)に文部省が発行した尋常小学校用の歴史教科書の出だしは、皇祖神・天照大神からはじまる。
※このような国家の示した歴史観に対し、「神話は創作だ」と唯一反発した学者が、津田左右吉である。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、20頁~23頁)

津田左右吉の反骨

 
・大正12年(1923)に記された『神代史の研究』(岩波書店)のなかで、津田左右吉は日本の神話は民族が語り継いできたものとは異なり、「神代史は我が国の統治者としての皇室の由来を語ったものに外ならぬ」と断言した。
 すなわち、神代史上の神々は、民族的・国民的英雄ではけっしてないという。
 なぜ、このような発言が飛び出したかというと、記紀神話に登場する神々の活躍が、天皇家の権威に関係する物語であることに、まず津田は注目したからである。

・本来、神話とは、民族が共有するものであるにもかかわらず、記紀神話は天皇家による日本支配の正統性を証明するために、朝廷の貴族の手で6世紀中葉に記され、8世紀に完成した代物にほかならない、と指摘したのである。

※このような積極的な発言が飛び出した背景には、大正デモクラシーの影響があったともいわれる。だが、時代は右傾化を加速していく時期に当たっていたから、津田は攻撃を受け、昭和15年(1940)、その著書は発禁処分を受け、起訴され、昭和17年、有罪判決を受けた。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、24頁~25頁)

神話は本当に絵空事なのか


・津田左右吉の後継者たちが唯物史観を駆使し、歴史学に新たな風を吹き込んだ。
 だがいっぽうで、あまりに合理的な発想であったがために、かえって古代史に多くの謎を残してしまった、と著者はいう。
 たとえば、シュリーマンが、神話のどこかに、かすかな真実が残されているのではないかという発想をもちつづけたことで、大発見をしたように、日本神話のなかにも、わずかな史実の残像を見出せないかとする。
 また、神話の見方が変わりつつある。
 このあたりの事情を河合隼雄は、『日本神話の思想』(ミネルヴァ書房)のなかで、次のように指摘している。
 神話は、それを外的な事実を語るものとして見ると、まったくナンセンスなことが多い。従って、近代合理主義的な観点からは、その価値が相当におとしめられていたことも事実である。しかし現在では、近代合理主義や、自然科学万能主義に対する反省と共に、神話を低次の、あるいは歪曲された自然科学の知を伝えるものとして見るのではなく、神話を、「神話の知」を伝えるものとして見てゆこうとする態度が、相当一般にも受けいれられてきたように思われる。

※このように、民俗学的な視点から神話は見直され、多くの成果が上がっている。

・だが、神話と歴史の間には、いまだに深い溝が横たわっている。
 つまり、神話に民俗学的な価値はあったとしても、「ストーリーに歴史を読みとることはできない」という考え方そのものは、そう簡単には取り払うことはできない。
 だが、神話には、これまで見過ごされてきた貴重な歴史のヒントが隠されている、と著者はいう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、27頁~29頁)

『日本書紀』神話に秘められた歴史


・記紀神話の作者は、3世紀のヤマト建国前後の歴史を熟知していて、この歴史を神話にしてしまったのではないかと思える節があるという。
 つまり、神話は、ヤマト建国の諸事情を闇に葬るための隠れ蓑だった疑いが出てくる。
 たとえば、天皇家の祖神で神話の中心的存在となった女神・天照大神は、『日本書紀』の神話のなかで、はじめ「大日孁貴(おおひるめのむち)」の名で登場する。
 「大日孁貴」の「孁」は「巫女(みこ)」を意味するから、「日孁」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、太陽神を祀る巫女を意味することになる。また、「ヒノミコ」は「ヒミコ」であり、邪馬台国の卑弥呼を連想させるという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、29頁~30頁)

『出雲風土記』に残された出雲の神話


・『風土記』といっても、現存するものは「常陸国」「播磨国」「出雲国」のわずかに三巻である。『出雲風土記』は、そのなかでも完本に近い形で残された。

・『出雲風土記』で最も有名な神話といえば、国引き神話であろう。
 国引き神話は、古代出雲の中心・意宇(おう)の郡(こおり)(現在の島根県松江市や安来市の周辺)の段に出てくる。
 「意宇と号(なづ)くる所以は」とはじまるように、いわゆる地名起源神話である。
 この説話の主人公は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)である。
 この神は、『古事記』にも現われているが、そこでは目立たない存在で、逆に『出雲風土記』では、出雲建国の父、といったイメージである。

〇では、『風土記』の八束水臣津野命の活躍は、いかなるものだったのだろう。
・あるとき、八束水臣津野命は次のように詔した。
「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のように若く小さくつくられた。だから、縫い合わせなければならない」
 こうして八束水臣津野命の国引きがはじまる。
 まず目をつけたのは、日本海の対岸、朝鮮半島の新羅で余った土地はないかと眺めると、岬が余っていた。
 そこで、童女の胸のような平らな鋤で、大きな魚のエラをつき分けるように、新羅の地を刻んで、三本を縒(よ)ってつくった太い綱を引っかけて、河船を運び上げるようにゆっくり慎重に「国よ来い、国よ来い」と引き寄せた。
 こうして縫い合わせた国が、「去豆(こづ)の折絶(おりたえ、出雲市小津)」から「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御碕(みさき)(同市大社町日御碕)」にかけての地だった。
 このときつなぎ止めるために打ち込んだ杭は、石見国(島根県西部)と出雲国(島根県東部)の境にある佐比売(さひめ)山(三瓶山)である。引いた綱は「薗の長濱(神門郡北部の海岸)」になった。
・次に、北門の佐伎(さき)の国(出雲北方の出入り口の意)に余った土地はないかと眺めると、余っていたので、これを引き寄せた。これが多久の折絶(松江市鹿島町)から狭田(さだ)の国(同市鹿島町佐陀本郷)に至る地だ。
・次に、北門の農波(のなみ)の国(松江市島根町野波)から土地を引っ張ってきた。宇波(うは)の折絶(松江市東北端の手角[たすみ]?)から闇見(くらみ)の国(松江市本庄町新庄)がこれである。
・次に、高志(こし、越)の都都(つつ)の三碕(みさき、能登半島の北端珠洲岬?)の余った土地を引っ張ってつくったのが三穂(みほ)の埼(美保関町)で、このときの綱が夜見の嶋(弓ヶ浜)だ。そして、打ち込んだ杭は伯耆国(鳥取県西部)の火神岳(ひのかみだけ、大山)である。
・こうして、「今はもう、国を引き終えた」と述べた八束水臣津野命は、意宇の社(やしろ)に御杖(みつえ)をつきたてて、「おゑ」と声を発した。それで、この地を「意宇」というようになったというのである。

※これが出雲の国引き神話のあらすじである。また、意宇の地名説話でもある。

(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、34頁~36頁)


『風土記』神話には本当に政治性はないのか


・水野祐は、『日本書紀』や『古事記』に載る出雲神話を理解するためには、地方色豊かな『出雲風土記』との対比、比較研究をしなければ、実相を見極めることはできないという。
 そして、『出雲風土記』と記紀神話の関係を、次のように説明している。
「出雲には中央の大和の神話、それから発展をして統治者としての天皇氏の氏族神話や日本国家を主体にした国家的統一神話とは別に、それらの影響をほとんど受けていない独自の神話が存在していたのである。
 そうした独得な神話の存在が、中央における神話体系の構成の上に影響をあたえ、日本神話の大系の中に、開闢神話から直接的に天孫による大八洲国(おおやしまのくに)の統治神話へ結びつけることができなかった。その間に出雲国が大八洲の下界に既存していたのでそれをまず服属させてから天神(あまつかみ)の裔孫を天降し統治を委ねるという、すなわちその中間に出雲神話を挿入せねばならなかったのである。」
(水野祐『日本神話を見直す』学生社)

※つまり、出雲には土着の信仰があって、それが記紀神話で取りあげられるとき、中央的潤色が加えられたとすることが、今日的な解釈になりつつあると指摘している。

・このような考え方が、出雲神話に対する常識的な判断といっていいのかもしれない。
 しかし、中央の朝廷の記した神話は政治的な思惑に満ちていて、地方の記した神話は牧歌的な「本当の神話」だという単純な決めつけをそのまま受け入れることはできない、と著者はいう。
 中央が政治的なら、地方も政治的であってもおかしくはない。
 中央の締め付けがあったならば、地方はそれに恭順し順応するか、あるいは反発することもあっただろう。そしてそれは、それぞれの政治的判断にもとづき、『風土記』に色を添え、中央に報告したということであるとする。

・つまり、出雲でも朝廷の思惑にあわせ、「歴史の核心」を抹殺して神話をつくった可能性が残されているという。
 出雲側の提出した神話が、朝廷の創作した神話と重ならないからといって、出雲側の神話に政治性はなかったという証拠にはならない。そして、『風土記』と「記紀」の神話が重ならないからといって、「出雲はなかった」と決めつけることもできないと主張している。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、38頁~40頁)

めまぐるしく移り変わる出雲観


〇出雲をめぐる史学界の諸説をまとめている。
①津田左右吉、鳥越憲三郎
・津田左右吉が戦前から唱え、戦後唯物史観を信じ切った学者たちに支持された、「神話そのものが中央の都合のいいように記された代物なのだから、出雲も虚構にすぎない」とする考え
・たとえば、「出雲神話=架空説」を強く打ち出した鳥越憲三郎は、『出雲神話の成立』(創元社)のなかで、出雲神話が記紀神話の三分の一を占めていることから、千年にわたって、出雲に巨大な勢力がかつて存在していたと信じ込まされていたのだという。
 また、杵築(きづき)大社(出雲大社)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮に対立する神社として発展したために、かつて「出雲族」が日本の国土を支配していたという「錯覚」を、もってしまったのだ、とした。
・そして、出雲神話が架空だとしたら、なぜ舞台に出雲の地が選ばれたのかが問題になってくるはず。
 出雲族が、ヤマト朝廷に対峙するほど強力な力をもっていたわけでも、征服戦の最大の敵だったわけでもないのに、神話の裏方に選ばれた理由は、地理が意味をもっているとする。
 『日本書紀』成務紀に、
「山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰ふ。山の陰(きた)を背面(せとも)と曰ふ」とあるように、古くから山の南北で、陽の当たる側を「山陽」といい、陽の当たらない側を「山陰」と呼んでいたことがわかる。
 つまり、西日本の屋台骨を支える中国地方の「山陽」は、歴史の「陰」には相応しくなく、「山陰」にあたる石見・出雲・伯耆・因幡のいずれかであればどこでもよかったのだ、と鳥越は断定している。

・さらに、なんにもなかったはずの「出雲」が、しだいに「実在したのではないか」と疑われるほどの存在感を示しはじめたのは、神話における出雲の役割の大きさから、伊勢神宮に対立する神社としての杵築大社の発展を促し、「古くは出雲族が日本の国土を治めていたのだという考えが、いつしか錯覚として人びとの脳裡を占めるようにもなっていった」のだとする。

・そして、あくまでも出雲は、神話の裏方として便宜上選ばれただけのことだということを、忘れてはならない、と強調する。

※また、石母田正は、記紀神話が出雲を取り上げた理由のひとつに、西暦645年の大化の改新以降、中央集権化が進み、地方に対する支配力が強まったことを挙げている。
 たとえば、斉明5年(659)には、出雲国造に厳神宮(いつくしのかみのみや)(島根県松江市の熊野大社)の修理が命じられたように、ヤマト朝廷は出雲との間に強い関係を築き上げていた。そして7世紀の壬申の乱が、大きな意味をもっていたのではないか、としている。
 天武元年(672)6月から翌月にかけて、古代日本を二分した骨肉の争いが演じられた。これが壬申の乱で、このなかで、出雲神が唐突に出現している。
 高市郡の大領・高市県主許梅(こめ)が、金綱井(かなづなのい、奈良県橿原市今井町付近)に陣を張っているときのこと、突然口がきくことができなくなってしまった。
 3日後、許梅が神がかり(トランス)状態になった。
 すると、出雲神・事代主神(ことしろぬしのかみ)が現われ、
「神武天皇陵に馬や兵器を奉納しろ」と命じた。
「そうすれば、事代主神は皇御孫命(すめみまのみこと、大海人皇子、のちの天武天皇)の行軍の前後に立ち、無事に東国に送り届けよう」というのである。
※石母田は、この事代主神の神託や、壬申の乱のなかで、出雲臣狛や三輪氏といった出雲とかかわりをもつ氏族が大海人皇子に荷担していたことが、神話の舞台に出雲が選ばれた大きなきっかけになったのではないかとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、40頁~45頁)

出雲は都から見て忌むべき方角にあった?


・「出雲」は観念的につくられたとしても、それは政治的な意味をもっていたのではなく、当時の「信仰」や「宇宙観」が大きな意味をもっていた、とする説がある。
・三谷栄一は、都から見た出雲の方角と当時の宗教観の関係を指摘している。
日本神話そのものは、古代氏族社会の崩壊期に、復古的なものと進歩的なものとの混沌のなかから生まれたものとする。
・また一方で、神話の原初的な姿を追えば、政治・宗教・文学・倫理を統一した祭祀(マツリゴト)に行き着くのであり、各地の各氏族の祭祀から生まれた文学(カタリゴト)を政治的意図をもって改作・潤色したのが、神話にほかならないとする。
(三谷栄一『日本神話と文学』歴史教育、昭和41年4月号)

※三谷は、出雲について、次のような推理を働かせている。
・出雲が記紀神話に占める割合が高いこと、さらには、大嘗祭に古詞(ふること)を奏する語部が、出雲をふくめて、ほとんどが西北の方角から選ばれているのはなぜかと問いかけた。
 西北(戌亥隅[いぬい])の方角は、「祖霊の去来する方角、鎮ります彼方」「祝福をもたらす方角」であり、稲作の豊饒をもたらす神々の去来する方角だ、とするのである。
 そして、ヤマト朝廷が版図を拡大し、日本海岸の最果てまで支配下においたとき、出雲は西北の端で戌亥隅信仰を反映し、祖霊の住む地、豊饒をもたらす地となり、他の地域にはみられない形で、神話に欠かせない場所となった、という。
(『日本神話の基盤』塙書房)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、45頁~46頁)

出雲は実在した?


・出雲は中央でつくられた観念ではなく、実際に存在した、とする説もある。
 古代の日本を支配する立場にいたのは「天孫種族」で、その次は地祇(ちぎ)=土着の神の後裔としての出雲系統の民族だった、と喜田貞吉は単純に割り切った。
 
・では、記紀神話にある天孫族の故地・高天原を、喜田はどこに比定したのだろう。
 考古学や科学的材料の揃っていない戦前の論究ながら、言語や神話の似通いから、天孫族は、朝鮮半島、しかも扶余(ふよ)族なのではないか、と指摘している。
 そして、次のような日本人形成の過程を推理している。
 日本にはそもそも、アイヌ系の人びとが住み、弥生時代には、マライ人種に属する「隼人(はやと)」が上陸し、アイヌ族(蝦夷)を東北に駆逐した、とする。そして隼人らは、そのあとにやって来る天孫族と同化・融合し、今日の日本人ができあがった、という。
 
・では、この場合、神話に登場した「出雲」をどう考えればいいのか、ということになる。
 喜田は、まず紀伊(和歌山県)方面で、出雲地方と同じような伝承が伝わっていること、天皇家の初期の皇后が「出雲系」であったことに注目した。
 これらの例から、「出雲民族」は出雲だけにいたわけではなく、要するに彼らこそが、蝦夷らを駆逐した先住民(蝦夷よりあとだが天孫族よりも先に住んでいた、という意味)なのであって、まず大和の出雲民族が天孫族と同化・融合し、さらに大和勢力はしだいに外縁部を併合していったとする。
 
・そこで喜田は、
  大国主神の国譲りの伝説は、同様の事蹟が繰返し各地において行われた事実に関する、代表的説話と解すべきものなのである
(『喜田貞吉著作集8』平凡社)と述べている。
※論証の内容はともかく、かなり早い段階で出雲は実在したと唱えた点、貴重な意見といえるとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、46頁~48頁)

出雲氏族が交替していたとする説


・次に、井上光貞や上田正昭らの「出雲氏族交替説」を解説している。
 出雲神話の原形は、出雲の東西二大勢力(熊野神社と意宇川流域一帯の東部、杵築大社と簸川(ひのかわ)流域一帯の西部)の間で交わされた壮絶な闘争という史実があって、そのいきさつが中央で取りあげられ、神話化されたものだ、とする。
・このような発想が生まれる背景には、古代出雲を二分する東西の温度差、というものがある。
 それは、古墳の分布、神社の分布密度などからしても、はっきりしている。
 上田は、代表的な出雲の伝承も、以下のように分類し、東西に色分けしている。
①神代巻の出雲平定
②崇神朝の出雲神宝の物語
③『出雲国造神賀詞(かむよごと)』
④斉明五年紀の出雲国造による厳神宮(いつくしのかみのみや、熊野大社)の修理

➡このなかの①と②が西部の「杵築」、③と④が東部の「意宇」との関わりで語られていることに井上は注目している。
 「杵築」に関わる①と②の話の共通点は、天孫族や朝廷の要求に対し、一族のひとりは帰服、他は抵抗をつづける、ということである。
 また、事件の終結が、武力による祭祀権の収奪であるとする。
(『井上光貞著作集 第四巻』岩波書店)
そして、ほとんど似たような強圧的に征服されるという話の繰り返しに、何かしらの史実が背景に隠されていてもおかしくないと指摘する。
 これに対し、③と④の「意宇」に関わる説話には、「杵築」の朝廷への帰服記事はあっても、「意宇」の帰服はまったく欠如し、むしろ「意宇」が朝廷寄りの匂いを漂わせているという。
➡このことから、井上は、「出雲平定」とは、「杵築」の平定であって、「意宇」は関わりないとする。そして、この「意宇」の勢力こそが出雲国造家であったところに問題がある、という。

・また、杵築大社(現在の出雲大社)の所在地・杵築郷では、(知られる限りにおいて)氏族構成と呼べるものがなく、すべてが部姓であり、「〇〇部臣」といった、支配階級が存在しないという事実も、出雲の東西の支配・被支配の関係を明らかにしている、という。
 つまり、出雲神話とは、歴史時代に入ってから、杵築一帯を支配していた勢力を意宇の勢力が滅ぼし、これが国造(出雲氏)になった因縁を神話化したものにほかならないとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、48頁~53頁)

有力視される巫覡信仰宣布説

 
・青木紀元は、記紀神話のなかで「出雲」は重要な地位を占めるが、それはヤマトの対立者として設定された観念上の神話にほかならない、とする。
 そして、なぜ出雲が選ばれていったのか、その理由を、「巫覡(ふげき)信仰宣布説」を用いて説明している。
(『日本神話の基礎的研究』風間書房)

・出雲神話出現の契機は、出雲に起こった「オホナムチ信仰」(オホナムチは大己貴神[おおなむちのかみ]、大国主神[おおくにぬしのかみ])の宗教的勢力の活動抜きには考えられない、とする。
 この勢力は出雲のみならず、他の地域にも進出していたはずで、その証拠のひとつが、『播磨国風土記』の大汝命(おおなむちのみこと、オホナムチ)の活躍にみられるという。
(オホナムチを祀る神社が出雲のみならず、日本各地に広がっている)
・では、なぜオホナムチ信仰が広がる余地があったのかといえば、『日本書紀』神代第八段一書第六の次の一節が重要なヒントになってくるとする。
 それによれば、大己貴神と少彦名命は、力をひとつにあわせて、天下をつくったとあり、また、人と家畜のために、病気の治療法を確立した、とある。
 さらに、鳥獣や昆虫の災いを祓うためのまじないの法を定めた。
 このため、今にいたるまで、人びとはその恵みを享受している、というのである。

※オホナムチは、病気を治す神、ということである。
 このことは、『古事記』の稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)説話からもはっきりしている。このなかでオホナムチは身ぐるみはがされたウサギに、適切な治療法を伝授していた。

※青木は、この「病気を治す」というオホナムチ特有の「機能」こそ、「普遍的」であり、部族社会を地盤とし、氏族集団を主体としていた封鎖的な古代信仰に、風穴を開ける新興宗教としての力を得たのではないか、とする。
 逆に、皇祖神天照大神の信仰を前面に押し立てていたヤマト朝廷にすれば、この出雲の信仰は脅威になり、政治問題にまで発展したのではないかとする。
 出雲国造を中心とする政治勢力そのものは恐ろしくないが、各地に広まったオホナムチ信仰こそが頭痛の種、というわけである。
 つまり、出雲の国譲り神話とは、このような天照大神信仰とオホナムチ信仰の対決に対するヤマト朝廷側の解決策であったという。

※そして、神話のなかでオホナムチに「大国主神」という偉大な国の主の神という性格をあえて与え、この神が国を譲ったという形にして、反ヤマト勢力の服従のみならず、オホナムチ信仰が天照大神信仰に屈服したという物語を構築し、神々の秩序化をはかったということになる。
 たとえば、信州諏訪で祀られている出雲神・建御名方神(たけみなかたのかみ)も、オホナムチ信仰と無縁ではないとする。
 建御名方神は諏訪土着の神であるにもかかわらず、出雲の国譲りで最後まで抵抗した神として『古事記』に描かれたことになる。これは、オホナムチ信仰が信州に伝播していたなによりの証拠であり、だからこそ神話化されて、建御名方神を出雲の神に仕立て、服従させたのだろう、と青木は推理した。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、53頁~56頁)

出雲にまつわる諸説の長所と短所


〇松前健は、『出雲神話』(講談社現代新書)のなかで、出雲神話にまつわる諸説を、三つに分類し、それぞれの長所と短所を指摘している。
①高天原と出雲の対立の神話は、歴史とは無関係な、中央貴族の理念的産物である。
 津田左右吉や唯物史観をとる学者
※これに対し、松前は、出雲世界が高天原の裏として死や冥府(めいふ)に結びついたという特性は説明できるが、出雲土着の神々が記紀神話に登場する事実を説明できないという欠点を持つと指摘している。

②天つ神系諸族と、国つ神系諸族の対立のような、二つの勢力の対立が実際にあった。
 喜田貞吉(きださだきち)や高木敏雄らの「民族闘争説」
※だが、松前は、全国各地の出雲系神社や出雲系氏族の分布を説明するのに適しているが、その具体的な対立の時期や事情がはっきりしないと指摘する。

③現地の出雲では、小規模の勢力の局地的交替があったが、朝廷でこれを大きく取りあげて、全国的なスケールにしたてた。
 井上光貞や上田正昭らの「出雲氏族交替説」
※これは、ヤマト建国後の出雲の内部闘争であり、考古学や文献資料によって、ある程度検証可能である。
 したがって、多くの歴史学者や考古学者がこの説を支持している。
 だが、これだけでは、出雲神が大きな霊格として『古事記』『日本書紀』に取りあげられた理由が説明できない、と松前はいう。

<松前の見解>
・このように三つの説を概観した上で、出雲神話そのものが複雑な成立過程をたどって成長したのだから、このなかのどれかひとつの説が正しいというのではない、とする。
 ただし、三つの説のどれにも含まれない巫覡(ふげき)信仰説をそれぞれに当てはめれば、すべての説を一元化して説明できる利点がある、とする。
・たとえば、出雲が「観念」にすぎないとする説が根強いが、では、なぜ神話のなかに、出雲土着の神が登場したのかといえば、出雲の巫覡らの信仰圏を特殊視し、高天原に対立的な世界と考えたとすれば、すんなり説明がつく、と指摘した。

・さらに、東西の出雲で勢力争いがあったとしても、なぜそれが中央の神話に取りあげられたのかといえば、巫覡らの最高支配者としての出雲大社の司祭職の交替があったから、と考えれば矛盾はなくなる、という。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、57頁~60頁)

出雲が祟る意味


・出雲神が祟ると『古事記』が記した意味は、けっして小さくない。
 まず第一に、話のなかで、本牟智和気(ほむちわけ)が出雲神に祟られるいわれはなかった。
 それにもかかわらず、口がきけなかったのは、ヤマト朝廷全体が出雲に祟られる要因を抱えていた、ということである。
(祟りは、「やましい気持ち」の裏返しである)

・ヤマト朝廷が出雲に対し、やましい心をもっていたというのは、過去において、出雲に対して何かしらの恨まれる行動を起こしたからにほかなるまい。
 ヤマト側の勝手につくりだした観念上の「悪」が「出雲」であるとするならば、本牟智和気の障害が「出雲の祟り」と思いつくはずもないからである。
 さらに、「祟る神」は、日本の神の本来の属性だった。

※多神教は、万物に精霊が宿るというアニミズムから派生したもので、唯一絶対の神が地球を支配するという一神教とは、根本的に発想を異にする。
 特に、対立し対決する善と悪は表裏一体の二面性として捉えられている。
 その最たるものが「神」の属性であって、神は祟りをもたらす恐ろしい存在であるとともに、恵みをもたらす者でもあった。
 だから、人びとは、神が祟らぬように、ひたすら祈り、祀りつづけた。
 このように、日本の神は「神」と「鬼」の属性を兼ね備えていた。
 出雲神が祟り神と恐れられたということは、出雲神こそが、最も「神らしい神」「神のなかの神」という認識を、ヤマトの人たちが抱いていた可能性を示唆する。
(記紀神話が、朝廷と天皇の権威を高めるために創作された物語だとすると、どうにも腑に落ちないといったのは、このような「出雲」の存在があるから)

・「出雲」が、6世紀から8世紀にかけて、ヤマトで編み出された偶像だということになる。
 だが、その偶像に、どういう理由でヤマト朝廷が怯え、祀り、讃えなければならなかったのだろう。
 「恐ろしい出雲」には、しっかりとした証拠(歴史)があり、だからこそ8世紀の朝廷は、その真実を闇に葬ってしまったのではあるまいか、と著者は考える。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、65頁~67頁)




第二章

四隅突出型墳丘墓の謎


・出雲の奇妙な墓の存在は、すでに昭和45年(1970)頃に知られていた。
 基本的には長方形や正方形なのだが、その四隅に、舌のようなヒトデの足のような奇妙な出っ張りがある。
・大きいものでは、一辺が40メートルほどもある。
 また、斜面に貼石(はりいし)を伴うことが多い。この貼石が、前方後円墳の「葺石(ふきいし)」となっていた可能性が高い。
 これが、弥生時代後期、出雲を中心に、越(こし)にいたる日本海側につくられた四隅突出型墳丘墓である。

・一辺40メートル以上の墳丘墓は、西谷三号墓、西谷四号墓、西谷九号墓と名づけられているが、なかでも西谷三号墓は、唯一発掘されたことで名を挙げた。
 四隅の形が一番はっきりしていたことから、この西谷三号墓に、白羽の矢が立った。
・山陰地方の巨大な四隅突出型墳丘墓は、この出雲市大津町の西谷墳丘墓群のほかに、島根県安来市塩津墳墓群、鳥取県鳥取市西桂見墳墓群が知られる。

※そして、西谷三号墓を含むこの墳墓群が残した問題は、二つある。
①出雲と「海」のつながりである。
②出雲の「王の誕生」である。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、86頁~88頁)

出雲に残る濃厚な海の信仰


〇「出雲と海」について考えてみよう。
・西谷墳墓群の所在地と海は密接な関係にある。
 現在では、出雲平野を貫通し、宍道湖に抜ける斐伊川だが、太古には、平野に降りてから流れを東ではなく西に向け、『出雲風土記』に見える神門(かむど)の水海を通って日本海に注いでいた。
・その神門の水海は、日本海に突き出た「潟(かた、ラグーン)」という天然の良港であり、古代日本海の海運を考える場合、重要な意味をもってくる。
 朝鮮半島南部の海岸地帯から舟を漕ぎだし、西南から流れくる対馬海流に乗れば、至極簡単に、神門の水海にたどり着いたであろうことは、想像に難くない。

・かつてなかった巨大な首長墓「西谷墳墓群」の出現は、神門の水海の存在なくしては、ありえなかっただろう。
 実際、出雲の神々は、「海」や「水」の要素で満ちている。
 出雲の冬は、北西の季節風が厚い雲を日本海から運び込む季節でもある。
 11月の半ば前後、空の色と海の色は、一気に変わり、これを地元では、「お忌み荒れ」といっている。

 そして、この頃、出雲大社(杵築大社)最大の祭りで、日本中の神が出雲に集まるという、神在祭(かみありまつり)が行なわれる。
 神在祭は、沖合から海蛇が到来しなければならない。
 ここにある「海蛇」は、黒潮に乗って遥か南方海域からこの時期に必ずやって来る、セグロウミヘビで、出雲の人びとは、これを竜神のお使いと信じ、崇めている。

・出雲大社の背後の山を、かつては「蛇山」と称していたが、それは出雲の人びとの蛇に対する信仰の篤さを物語っている。
 また、出雲大社ばかりでなく、周辺の日御碕(ひのみさき)神社や佐太(さだ)神社、美保神社といった出雲を代表する神社の多くが、海蛇を「竜蛇さま」と呼び、丁重に祀っていた。
(現在では、佐太神社で竜蛇信仰が色濃く残っている)

※蛇は中国から竜神思想が伝わる以前の原始的な信仰形態といってよく、両者は習合していくが、日本では縄文中期から、蛇を敬う伝統をもつようだ。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、88頁~90頁)

呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神


・出雲と海蛇のつながりは、中央にも知れ渡っていたようだ。
 垂仁天皇の段の、例の口のきけない本牟智和気(ほむちわけ)の話である。
 出雲の祟りとわかり、本牟智和気は出雲に出向き、大神の宮を拝したので、言葉を発すことができるようになった、という話である。

・この場面で、本牟智和気は出雲の、肥長比売(ひながひめ)と結ばれるのだが、そっとその姿を見てみると蛇だった。
 驚いた本牟智和気が思わず逃げ出すと、肥長比売は悲しんで海原を照らして追って来た。
 いよいよ恐ろしくなった本牟智和気は、そのままヤマトにまで逃れてきたという。

※出雲の海蛇が強烈な印象として伝わっていたのは、出雲と「海・水」がつながっていたからである。

・出雲と海のつながりを考える上で興味深いのは、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸のなかで、出雲固有と思われる代物のなかに、「海亀」の絵が描かれていたことである。
・銅鐸に描かれる「亀」は一般的にはスッポンで、出雲の海亀は、例外中の例外だった。
 海亀を描いた銅鐸が出雲で発見された意味は大きい。
 それほど出雲と海は密接につながっている。
 出雲が海蛇を敬うのは、出雲が「海の国」だからである。

・島根半島の東のほぼ突端、松江市美保関町美保関の美保神社で行なわれる青柴垣(あおふしがき)神事のクライマックスは、頭屋(とうや、神籤によって順番に神に仕えることが決まり、頭屋は長い年月潔斎(けっさい)をし、神を祀る)らが沖合に舟を漕ぎだし行なわれる。
 ちなみに、このとき同行する頭屋の妻女の出で立ちは、葬式の礼装そのものとされる。
 なぜ、神聖な祭りのなかで、神を葬る仕草をしているのだろう。
 実は、この祭りは、出雲神話を再現しているのだという。

・出雲の国譲りに際し、事代主神(ことしろぬしのかみ)は天つ神に恭順した。
 そして国を献上するといい、自らは、船を踏み傾けて、天の逆手(さかて、呪術的あ動作。手の甲と甲を合わせたものか)を打って船を青柴垣(青い柴の垣で、神のこもる場所を示している)にして、隠れてしまったのだという。

※事代主神は呪術を用いて入水(じゅすい)して果てた。
 海に沈んだのは、出雲の神が水とかかわるからである。
 出雲が「水・海」と強烈につながっている意味は大きい。
 そして、弥生時代の後期に、なぜ出雲の西部に、巨大な四隅突出型墳丘墓が登場したのか、その理由を知る上でも、出雲と「海・水」の強烈なまでのつながりを、無視することはできない、と著者はいう。
 つまり、西谷墳墓群は、この斐伊川と神門の水海に育まれた、流通を支配する首長の墳墓だった、と推測がつくという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、90頁~94頁)

出雲の謎を解く鍵は「祟り」


・記紀神話の出雲の国譲り説話が、大きな意味をもってくる。
 というのも、神話にしたがえば、出雲の神々は、天つ神が高天原にいた頃、せっせと国づくりに励んだということになっている。
 ところが、ようやく国の基礎が固まった頃、天つ神たちは、国譲りを強要したというのだ。
 出雲神の命運を託された事代主神(ことしろぬしのかみ)は、天つ神に恭順したけれども、天の逆手という呪術をほどこして、海の底に消えていったという。
 この呪術は、乗っていた船を青柴垣(あおふしがき)に替えてしまう呪術で、その青柴垣のなかに、事代主神は隠れるようにして消えていく。

※出雲神は、天つ神の法外な要求に、それほど従順だったのではないという。
 少なくとも、事代主神の消え方には、何かしらの怨みの恐ろしさを感じずにはいられない。そういう不気味な最期である、と著者がいう。
 たとえば、大国主神は、事代主神の事件の後、やはり天つ神に恭順するが、条件をひとつ付けている。
 それは、自分の住処をつくれ、ということで、しかも、天つ神の宮と同じように、宮柱を太く建て、氷木(ひぎ、千木)を高々と揚げてほしい、というのである。
 つまり、大国主神は、「宮をつくり、わたしを祀るのなら、国を譲り渡してもいい」といって、天つ神を脅し、強請(ゆす)っているわけである。
(『古事記』の表現は、どうにもまどろっこしいが、要するに、出雲の神を祀らなければ、祟りに遭う、ということをいっているとする。その証拠に、実際に出雲神は頻繁に祟って出ている。
 垂仁天皇の皇子が言葉を発しなかったのは、出雲神の祟りであったと記録されていた。
 そして、第十代崇神天皇の時代、天候不順と疫病の蔓延に苦しめられたが、出雲神・大物主神を祀ってみると、世は平穏を取り戻したという)

※弥生時代後期の「出雲」は、けっして絵空事ではない。
 そうではないのに絵空事にしてしまったのは、8世紀の朝廷である。
 そして、ヤマト建国とともに、出雲は没落していった疑いが強い。
 『日本書紀』や『古事記』を以上のような観点から読み直せば、出雲の国譲りの後、出雲神は「幽界」に消えてしまい、以後、人びとは出雲神の祟りに怯えはじめた、という。
 出雲の謎は、出雲の国譲りをめぐる謎解きに進んでいく。
 出雲を解くヒントは、祟りである、と著者はいう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、127頁~130頁)



第三章 なぜ出雲は封印されたのか

『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック


〇『日本書紀』が3世紀のヤマト建国、それに出雲の歴史を知っていたからこそ、これを抹殺し、あるいは神話の世界に封印してしまった可能性が高い、と著者はいう。

・そこで問題となるのは、『日本書紀』の歴史隠しの「テクニック」であり、ストーリー展開の裏側に秘められた、知られざる神話の「三重構造」なのである。
 『日本書紀』の完成は養老4年(720)で、当時の朝堂を牛耳っていたのは、乙巳(いつし)の変(皇極4年=645)の蘇我入鹿殺しのヒーロー中臣鎌足の子・藤原不比等(ふひと)であった。

・当然、藤原不比等の都合のいいように、『日本書紀』は編纂されたとみて、間違いない。
 歴史書が権力者にとって都合のいいように記されるのは当然のことである。だからこそ、『日本書紀』のなかで、中臣鎌足は、天下無双の英雄として描かれたわけである。 
 また、藤原氏の私的な文書『藤氏家伝(とうしかでん)』と『日本書紀』の間には、ほとんど伝承の食い違いが見られない。

・一般に、『日本書紀』は、編纂の発案者・天武天皇にとって都合のいい歴史書だと信じ込まれている。
 だがこれは大きな間違いで、正確にいえば、天武天皇の死後の政権を担当した持統天皇(天武の皇后でもあった)と、これを補佐した藤原不比等にとって都合のいい歴史書であった。このあたりの事情を勘違いしているから、いまだに7世紀から8世紀にかけての歴史が、解明されていないだけの話である、と著者はいう。

〇では、藤原不比等の目論見はいったい何だったのだろう。
 この人物は何を『日本書紀』に織り込んだというのだろう。

①まず第一に、藤原氏の出自をごまかし、新たな系譜を捏造し、正統性を獲得することであった。
 一言で表わすならば、藤原氏の祖は百済渡来人だった、という。
 だからこそ、文武天皇と藤原不比等の娘・宮子との間の子・首皇子(おびとのみこ、のちの聖武天皇)を即位させる正当性を証明し、強調する必要があった。
 初の「藤原腹」の天皇の誕生であり、律令と天皇、二つを支配しようと目論んだ藤原不比等の悲願である。

・さらに、藤原不比等を大抜擢することで、政敵を倒し即位した持統女帝からつづく王家の正統性を証明するために、天皇家の祖神に、女神・天照大神を据え、持統をこれになぞらえたという。
・それだけではない。
 神話の出雲の国譲りには、天照大神の黒幕に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)なる神が登場するのだが、この神の役割が、まさに藤原不比等にそっくりで、系図にすれば、一連の神話の思惑は、一目瞭然である。
 天孫降臨神話のなかで、天照大神の子が最初降臨する予定だったのに、急遽孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に変更されたのも、持統の子が皇太子だった草壁皇子が即位することができないまま亡くなってしまったことの反映であろう、とする。

※このように、7世紀から8世紀にかけての皇位継承問題と神話は、まったく重なってくるのであり、神話の構成要素のひとつが、『日本書紀』編纂時の政権の正当化・正統化のための物語であったことは間違いない、という。

〇『日本書紀』の神話を構成する要素は、あと二つある。
②神話の「核」となる伝承で、いわゆる純粋な「神話」の原形である。
 それは、民間や古老の伝承であったり、ヤマトの語部が語り継いできたものかもしれない。
 また、気の遠くなるほど遠い地から伝わってきた不思議な話でもあったろう。
 もちろんこのような神話の「核」には、本来、政治性はなかったはずである。

③そして、もうひとつ、神話を構成する要素がある。それが、3世紀前後のヤマト建国をめぐる混乱……おそらく、実際に生きている「人間」が繰り広げたであろう愛憎劇であり、これをモチーフにし、また、8世紀の都合の悪い部分を改竄するために、神話に放り込んでしまった、歴史であるという。

〇それならば、「出雲」をめぐる神話のなかに、何かしらの史実が織り込まれている可能性はあるのだろうか。
 いや、出雲神話のなかにこそ、3世紀のヤマト建国にいたる悲喜劇が、秘められていたとしか思えないという。
 なぜこのように、著者が推理するのか。
 すでに、山陰地方で、ヤマト建国前後に遺跡が衰弱するという「出雲の国譲り」が現実に起きていたかのような物証が出現していたからである。
そして、さらにこの考えを強く後押ししているのは、人びとが「出雲は祟る」という共通の認識をもっていた、という一点である。
 そういう「常識」が通用していたからこそ、出雲信仰が発達し、出雲に巨大な神殿が建てられたと著者は考える。
(もし仮に、「出雲が祟る」という話を朝廷が勝手に創作し、この観念を喧伝していただけだとすれば、ここまで長い時間を経て、出雲が信仰の対象になることはなかったであろうし、執念を込めた巨大神殿など、だれもつくろうとはしなかったに違いないという)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、152頁~156頁)

出雲神が祟ると信じられたきっかけ


・神話には、純粋で牧歌的なお伽話だけではなく、いくつもの悪意や政治的な思惑がない交ぜになっている。
 したがって、神話のひとつひとつが、どうして誕生したのか、慎重に判断する必要がある。特に、出雲神話には、何か秘密が隠されていそうな気配である。
 出雲の神が祟るという共通の認識ができあがる「たしかなきっかけ」というものがあった。すなわち、出雲が祟るにいたる、具体的な事件が起きていた、という。

〇そこで『日本書紀』に話を戻す。
 ここには、「裏切られ、乗っ取られる出雲」の話が繰り返し述べられている。
・まず、神話のなかで、出雲に天つ神が舞い降り、せっかく精魂こめてつくり上げた国土を譲り渡すように迫っている。
 出雲神はこの屈辱的な要求を、泣く泣く呑み、事代主神は呪術的な仕草で海の底に消え、大国主神は天皇と同じような宮を建ててくれるならばといって、幽界に去っていった。

※この話は、まさに天つ神側の侵略であり、出雲の敗北を暗示している。
 
・歴史時代に入っても、出雲はヤマト朝廷の非道な仕打ちを受けている。
 『日本書紀』崇神天皇60年の秋7月の条には、次のような話が載る。
 崇神天皇が群臣に、「武日照命(たけひなてるのみこと、出雲国造らの祖)が天からもってきたという神宝は、出雲大神の宮(杵築大社、あるいは熊野大社)に納められている。これを見てみたいものだ」
と述べて、矢田部造(やたべのみやつこ、物部同族)の遠祖・武諸隅(たけもろすみ)を遣わして、献上させようとした。
 このとき、出雲の神宝を管理していたのは、出雲臣(出雲国造家)の遠祖・出雲振根(いずものふるね)であった。
 ただし振根は、ちょうど筑紫国に行っていて不在だったので、弟の飯入根(いいいりね)が応対し、いわれるままに、神宝をヤマトに献上してしまった。
 出雲に舞い戻った出雲振根は、ことの経緯を聞き、弟に、
「なぜ数日待てなかったのだ。何を恐れ、簡単に神宝を渡してしまったのだ」
といい、なじった。
 それからしばらく日時がたったが、振根の気持ちは収まらない。ついに、弟を殺してしまおうと考えた。
 そこで、弟を欺こうと、
「この頃、止宿(やむや)の淵(島根県出雲市の旧斐伊川の淵か)にいっぱい水草が生えている。いっしょに行ってみてみないか」と誘った。
 弟はなんの疑いももたず、兄にしたがった。
 振根は密かに真刀(またち、本当の刀)にそっくりな木刀(こだち)をつくり、これを腰にさしていた。かたや弟は真刀をもっている。
 二人が淵にいたったところで、振根は弟に、
「水がきれいで気持ちよさそうだ。いっしょに水浴びをしようではないか」
ともちかけた。
 二人は刀を置き、水を浴びた。振根は先に上がり、弟の真刀をとり、腰に着けた。弟は驚き、もう片方の刀(木刀)をとり、応戦しようとした。しかし、刀は偽物で抜くことはできず、弟は打ち殺されてしまった。
※人びとは弟の飯入根の死を悼み、次のような歌を詠った。
 や雲立つ 出雲梟帥(いづもたける)が 佩(は)ける太刀 黒葛多巻(つづらさはま)き さ身無(みな)しに あはれ
(出雲建の佩いていた刀は、葛をたくさん巻いてあったが、中身がない偽物で気の毒であった)

・ちなみに、振根の名が出雲梟帥(出雲建)にすりかわっているのは、もともとこの説話が倭建命(やまとたけるのみこと、日本武尊)伝承を拝借したものだからだろう、という。
(倭建命と出雲建の対決の話は、後述)
 それはともかく、この事件は、すぐに朝廷に報告された。
 さっそく、吉備津彦(四道将軍のひとり、第七代孝霊天皇の皇子)と武渟河別
(たけぬなかわわけ、やはり四道将軍のひとり)が派遣され、出雲振根は殺されたという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、157頁~161頁)



第四章 出雲はなぜ祟るのか

『日本書紀』は何を隠してきたのか


・『日本書紀』は、同じ事件、同じ人物の話を別の形にすり替え、繰り返し語っていた。
 では、なぜそのような手の込んだことをしたのかといえば、「隠さなければならない歴史」があったからであろう、と著者は考える。
〇問題は、『日本書紀』が何を隠し、改竄してしまったのか、にある。

・これまでのいきさつ上、大きなヒントがある。
 それは、ヤマト建国に、出雲が大きくかかわっていた、ということであり、しかもその事実を、『日本書紀』は神話として認めていたが、「歴史」としては認めていなかったことである。
・そして、ここで、もうひとつのヒントに気づかされる。
 いま、神功(じんぐう)皇后は、ヤマトから遣わされたトヨ(台与)ではないかと疑っている。
 しかも神功皇后は、越(こし)から出雲を経由して北部九州に入ったというのである。
 とするならば、神功皇后こそ、ヤマト建国時の「出雲」の動きを象徴していたのではないか、ということである。

・ただそうなると、ここで新たな謎が生まれる。
 というのも、『日本書紀』にしたがえば、神功皇后は北部九州に攻め込み、その後反転し、新羅に向かい、かの地を平定し、北部九州にもどって応神を産み落とし、そこから瀬戸内海を東に向かい政敵を討ち滅ぼし、ヤマトで摂政となり君臨している。
 とするならば、神功皇后も「出雲」も歴史の勝者であったことになる。

・ところがどうしたことであろう。
 出雲も神功皇后も、ヤマト建国にたずさわったものどもも、みな祟って出ているのである。
 「出雲」が祟って出ることは、すでに触れた。そして、神功皇后や応神天皇、神武天皇に崇神天皇と、ヤマト建国伝承をもつものたち全員の漢風諡号(しごう)に「神」の名が冠せられ、これが「神のように立派」だったからではなく、「神(鬼)のように恐ろしかったから」であった。
(関裕二『呪いと祟りの日本古代史』東京書籍)
※「神」と「鬼」は同意語であり、古代においてはむしろ「祟る鬼(モノ)」としての意味が強かった。事実、神功皇后は平安時代にいたっても、祟る神と信じられていた。

・なぜ「出雲」を筆頭に、ヤマト建国の功労者たちは、後世祟って出ると信じられたのだろう。
 そして、なぜ『日本書紀』は、彼らの本当の姿を抹殺し、「祟る理由」を『日本書紀』の記述から消し去ってしまったというのだろう。

・『日本書紀』は、神話のなかで、「出雲の国譲り」を用意していたではないかと、人はいうかもしれない。たしかに、この話のなかで、出雲神たちは、天つ神たちの強圧的な態度の前に屈し、屈辱的な最期を迎えている。だが、神功皇后の行動と出雲の国譲りが、どこでつながっているというのか。

・神功皇后が出雲とかかわりのある人物であるという仮説ならば、祟る出雲と祟る神功皇后のつながりを証明しなければなるまい、という。
 だいたい、なぜ歴史の勝者である神功皇后が祟るのだろう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、219頁~222頁)



第五章 明かされた真実

武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん


・『日本書紀』編纂の最大の目的。それは、蘇我氏の正体を抹殺し、蘇我氏の燦然と輝く活躍を闇に葬り去ることだったという。
 そのために割を食ったのが「出雲」である。
 ヤマト建国に貢献しながら、神話の世界に封印されてしまったとする。
 蘇我氏の祖の武内宿禰(たけのうちのすくね)が神功皇后の忠臣として縦横無尽に動き回っていたことは、『日本書紀』も認めている。
 ただ、藤原氏の武内宿禰に対する態度は、「微妙」である。
 藤原不比等は『日本書紀』のなかで、蘇我氏の祖を特定することを怠っている。
 『古事記』は武内宿禰が蘇我氏の祖だったと指摘しているが、『日本書紀』は、この伝承を無視している。つまり、武内宿禰と蘇我氏の縁を、断ち切っている。 
 もちろん、通説は、蘇我氏がヤマト建国以来つづいた名家とは考えていないから、武内宿禰と蘇我氏のつながりに関心を示さない。
 第一、武内宿禰自体、伝説上の人物であり、実在したわけではないと、高をくくっている。

・たしかに、武内宿禰の素性は怪しげだし、三百歳の長寿という話も、信じるわけにはいかない。武内宿禰は、どこから見ても、「神話」なのである。
 だが逆に、少なくとも歴史時代に入ってから登場した人物であるならば、神格化されたこと自体に、『日本書紀』の作為を感じるという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、272頁~275頁)

そもそも武内宿禰とは何者なのか


・武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕え忠誠をつくしたことで名高いが、武内宿禰が最も活躍したのは、神功皇后の時代だった。
 特に北部九州からヤマトに向かう応神天皇に常に付き従い、政敵追い落としに一肌脱いでいる。
 武内宿禰が伝説上の人物であり、蘇我氏か藤原氏によって、7世紀ごろ創作されたのではないかといわれるひとつの理由は、この人物が人並はずれた長寿だったといい伝えられているからである。

・ところで、『日本書紀』仁徳天皇五十年春三月の条には、武内宿禰を名指しした、次のような歌が載る。
 たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の遠人(とほひと) 汝こそは 国の長人(ながひと) 秋津嶋倭(あきづしまやまと)の国に 雁産(こ)むと 汝は聞かすや
(大意:武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。この国一番の長生きの人だ。だから尋ねるが、この国で雁が子を産むと、あなたは聞いたことがありますか)

※このように、武内宿禰は当時を代表する「老人」なのである。
 伝説によれば、三百年近く生きたという。

・だが、武内宿禰が三百年を生きつづけたという言い伝えを、たんなる創作上のいたずらとすましておくべきではない、と著者はいう。
 なぜなら、三百歳といえば、浦島太郎(浦嶋子[うらしまのこ])を思い出すからである。
 浦島太郎は、『風土記』『万葉集』『日本書紀』と、ありとあらゆる古文献が、浦島太郎について黙っていられなかった。
 しかも『日本書紀』では、「詳細は別冊に書いてある」といい、特別に浦島太郎のために、一巻を割いたと註記しているほどなのである(もっとも現存しないが)。
 そう考えると、「浦島」は「神話」のなかでも特別な神話だったことがわかる。

・浦島太郎伝承のあらすじ。
 『丹後国風土記』の内容は、今日に伝わる浦島伝承とほぼ同じで、亀(亀比売[かめひめ])に乗って竜宮城(海神[わたつみ]の宮)に行ったこと、三年後にもどってきたが、あたりの景色は変わっていて、実は三百年も時間がたっていたこと、開けてはいけないという玉匣(たまくしげ)を開けたら、浦島は老人になってしまった、というものである。

※この話は、丹後半島の籠(この)神社の周辺で語り継がれていた可能性があるが、籠神社の祭神に豊受大神(とようけのおおかみ)がいて、「トヨとのつながり」という点で興味深いのは、豊玉姫(とよたまひめ)の活躍する海幸山幸神話と浦島太郎伝承がそっくりなことである。
 海幸山幸神話のなかで山幸彦を海神の宮に誘うのは塩土老翁(しおつつのおじ)で、この神は天つ神を嚮導(きょうどう、みちびく)する、という性格をもつ。塩土老翁は字のごとく、「老人」のイメージで、これは玉匣を開けてしまった浦島太郎と通じる。
 また、「老人」といえば武内宿禰を思い出す。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、279頁~282頁)

武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味


・塩土老翁は、山幸彦を竜宮に誘うに際し、無目籠(まなしかたま)を用意した。籠は亀甲紋であり、亀のイメージである。どうみても、海幸山幸神話は、浦島太郎のパクリである(逆かもしれない。どちらが焼き直したのかはわからない)。
 浦島とそっくりな塩土老翁も曲者で、神武天皇がまだ日向にいたときのこと、東の方角に国の中心に相応しいヤマトの地があることを報告している。神武が重い腰を上げたのは、塩土老翁の言葉を信じたからである。
 応神が北部九州からヤマトに向かったときは、神武東征のときと同じように、ヤマトの近辺に政敵が待ちかまえていたが、応神を守りヤマトに導いたのは、老人のイメージの強い武内宿禰であった。

・『古事記』によれば、神武がヤマトに向けて船を進めていたときのこと、あちらから奇妙な男がやって来たとある。その男は亀の甲羅に乗り、釣り竿をもってやって来た。
(なんの酔狂か、これも浦島太郎のパクリか。なぜ神武東征に浦島太郎が出現したのだろう。)
・『万葉集』によれば、浦島は墨江(すみのえ)の人であったという。
 墨江とは、大阪の住吉大社の鎮座する地で、住吉大神の別名は塩土老翁という。
(また、神武の前に現われた男が浦島に似ているのは、要するにこの男が塩土老翁だったからではなかったか、という。
 つまり、神武は日向の地で塩土老翁に誘われ、航海中も、塩土老翁に手を引かれていたと考えるとすっきりする。)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、282頁~284頁)



≪古代出雲への問いかけ~武光誠氏の著作より≫

2024-06-16 18:00:01 | 歴史
≪古代出雲への問いかけ~武光誠氏の著作より≫
(2024年6月16日投稿)

【はじめに】


 古代出雲といわれ、皆さんは何を連想するのだろうか? 
 スサノオによるヤマタノオロチ退治の神話や神楽、大国主がイナバの白うさぎを救った神話、縁結びの神様として名高く、出雲を象徴する出雲大社、「神々のふるさと」といった小泉八雲、大量の銅剣が発掘された荒神谷遺跡など、人によってさまざまであろう。
 これらと古代出雲の歴史とどのようにつながるのだろうか?
 ところで、前回のブログでも説いたように、歴史学では文献史料を重視し、史料批判が大切である。だから、日本古代史を考える際に、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』といった史料の解釈と、古代出雲像との関係が問われることになるのは、いうまでもない。

 そこで、今回のブログでは、次の著作を参考にして、古代出雲について考えてみたい。
〇武光誠『古代出雲王国の謎 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』PHP文庫、2004年[2007年版]
そして、次回でも、同じテーマで考えてみる。
〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]

武光誠氏は、下記のプロフィールにもあるように、大学の文学部国史学科を卒業して、“正統な歴史学”を学んだ学者である。
だから、古代出雲について真摯な問いかけをして、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』といった史料を解釈して、古代出雲と大和朝廷との関係などについて、解説している。
その一端を紹介してみたい。
たとえば、『出雲風土記』の神話と高天原神話とは、どのように違うのか?
武光氏は、各地の独立神の死と再生を物語る記事が、『出雲風土記』に多くみえるという。
 人間が必ず死ぬ運命にある以上、人間の生活を反映してつくった神々の世界に死があるのは当然である。それにもかかわらず、朝廷は死の概念をなくした高天原神話という特殊な世界をつくったとみる。(135頁)
こうした興味深い問題を丁寧に解説している。


【武光誠氏のプロフィール】
・1950年、山口県防府市生まれ。
・東京大学文学部国史学科卒業、同大学院国史学博士課程修了。
・執筆当時、明治学院大学教授。
・歴史哲学の手法を基本として文化人類学、科学史等の幅広い視点から日本史、日本思想史を研究。

<主な著書>
・『律令太政官制の研究』(吉川弘文館)
・『名字と日本人―先祖からのメッセージ』(文春新書)
・『日本人なら知っておきたい神道』(河出書房新社)
・『藩から読む幕末維新』(PHP新書)
・『「鬼と魔」で読む日本古代史』(PHP文庫)



【武光誠『古代出雲王国の謎』(PHP文庫)はこちらから】
武光誠『古代出雲王国の謎』(PHP文庫)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か
・荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは
・日本人の信仰のふるさと
・三百九十九社の三つの時期
・出雲の十四社の独立神
・八束水臣津野命の国引きの物語
・邪馬台国より三十年早かった出雲の統一
・平和な開拓神・大国主命
・大和朝廷支配による大国主命神話の変質
・『古事記』の大国主命神話の大筋
・大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?
・縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話
・大国主命神話と民話の共通点
・大国主命は武器の神だった?
・出雲は死にかかわる地?(第四章)
・死のない世界・高天原
・出雲土着の神だった素戔嗚尊
・奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた
・首長のための特別な墓(第六章)
・交易国家邪馬台国の弱点
・倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの
・出雲が全国政権とならなかった理由(第七章)
・意宇郡の古墳が意味するもの
・出雲の誇りを伝える前方後方墳
・朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏










〇武光誠『古代出雲王国の謎 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』PHP文庫、2004年[2007年版]
【目次】
はじめに
第一章 幻の神政国家“出雲”
日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か
荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは
日本人の信仰のふるさと
三百九十九社の三つの時期
出雲の十四社の独立神
八束水臣津野命の国引きの物語
国引きの原形は首長連合か
信仰圏からわかる首長間の交流
素戔嗚尊より有力だった三柱の大神
邪馬台国より三十年早かった出雲の統一
平和な開拓神・大国主命
大和朝廷支配による大国主命神話の変質

第二章 日本海航路が生んだ出雲王国の繁栄
「あやしき光、海を照らす」
縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰
銅鐸祭司は縄文的だった?
神政国家だった出雲政権
大国主命は出雲氏の祖神ではない!
出雲大社の本殿はなぜ西向きなのか
出雲の渡来系の神々
越を指導下においていた出雲
四隅突出型墳丘墓がしめす出雲の盛衰

第三章 大国主命神話の真の意味とは
「旧辞」の中の大国主命
八十神に憎まれ根国へ
素戔嗚尊が与えた試練
少彦名命との出会い
大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?
縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話
大国主命神話と民話の共通点
各地の神と大国主命の融合が意味するもの
なぜ『日本書紀』は大国主命神話を軽視したのか
出雲大社はなぜ九十六メートルもの高さだったのか
大物主神は大国主命より格が上?
大国主命は武器の神だった?

第四章 死に、また再生する出雲の神々
出雲は死にかかわる地?
死のない世界・高天原
南方に分布する食物神の死の話
出雲土着の神だった素戔嗚尊
伊奘諾尊の黄泉国訪問
黄泉国訪問の原形は神火相続式か
出雲の神の死と再生の意味
奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた
美しい常世国から穢れた根国・黄泉国へ
なぜ朝廷は死の穢れを強調したのか

第五章 出雲王国の真実を物語る荒神谷
出雲の謎を解く大発見“荒神谷遺跡”
なぜ仏経山のそばに荒神谷遺跡があるのか
出雲国内の四つの神奈備山
銅剣と神社の数の符合が意味するもの
出雲を統一した出雲氏と神門氏の連合
荒神谷の銅鐸と銅矛は神門氏のものか?
太陽信仰から生まれた「ヒコ」の称号
大国主命は悪者と戦う神
出雲では神同士は平等だった
出雲を繁栄させた青銅器生産
朝廷の祭祀で必ず使われた出雲の玉

第六章 大国主命から大物主神へ
首長のための特別な墓
首長とその妻と巫女の墓
神の祭祀と首長の墓は区別されていた
古墳のふるさとは出雲か?
交易国家邪馬台国の弱点
吉備の影響を受けた纏向遺跡
大国主命から三輪山の大物主神へ
神々に身分をつくった首長霊信仰
倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの
首長霊となった大物主神
古墳のあるところが大和朝廷の勢力圏

第七章 出雲はなぜ朝廷に従ったのか
出雲が全国政権とならなかった理由
意宇郡の古墳が意味するもの
卑弥呼の鏡を出した神原神社古墳
出雲の誇りを伝える前方後方墳
朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏
首長霊信仰のうけ入れを意味する出雲の古墳
神門氏、出雲氏の配下となる
健部に改姓した神門氏
古墳の分布にみる出雲の勢力地図
出雲国造の誕生
天穂日命と天皇家の系図
岡田山一号墳の鉄刀
祭祀権をうけついだ出雲国造




日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か


第一章 幻の神政国家“出雲”
・出雲は「神々のふるさと」とよばれる。
 これは、邪馬台国の時代より約30年早い2世紀なかばの出雲に、神政国家とよぶにふさわしい一国規模のまとまりができたことによる。

・そのときの出雲の集団は、今日の神信仰の原形になった大国主命(おおくにぬしのみこと)信仰を生み出した。
 そしてそれは、大和朝廷が生まれる3世紀なかばより前に、日本の各地に広まった、と著者は考える。

☆そのことを明らかにしていくために、古代出雲に関する多くの謎を解いていかなければならない。
 その手はじめに、出雲の神々の関係を整理してみよう。

・出雲では、ほとんど無名の神々が多く祀られている。
 そして、一方で大国主命、熊野大神(くまのおおかみ)、佐太(さた)大神、野城(のぎ)大神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)などの有名な神が、互いに競いあっているように見える。

・古代の出雲政権は、日本古代史の研究者にとって最大の難問であるといってよい。
 『古事記』『日本書紀』をはじめとする古代の文献には、大和朝廷が出雲の地を重んじたありさまが記されている。
 素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したのは、出雲だとされる。
 また、出雲の大国主命が国譲りをしたために、皇室(王家)が日本を治めるようになったという。
 さらに、出雲の伊賦夜坂(いふやざか)は死者の住む黄泉国(よみのくに)への入口だともある。

※こうした記述は、かつて出雲に有力な集団がいたことをうかがわせる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、18頁~20頁)

荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは


・出雲に関する学者の評価はまちまちだが、出雲を押さえた首長はかなり有力であったと考えている。
 さらに、出雲大社を本拠とする大国主命信仰が、大和朝廷の成立に深いかかわりをもつとする。
 ただし、出雲の首長の勢力がどの程度であったか、古代における大国主命信仰がいかなるものであったかは、意見の分かれるところである。
 現在の私たちは、大国主命を縁結びの神と考えている。
 あるいは、インドの大黒天(だいこくてん)と習合した信仰にもとづき、福の神だと考えたりもする。
 ところが、日本の神話や伝承に出てくる大国主命信仰には、多くの要素が含まれている。
・出雲氏が有力だったから、朝廷は彼らが祀る大国主命を重んじたのだろうか。
 それとも、大国主命信仰が各地に広まっていたので、出雲氏の地位が高められたのだろうか。この点についても、学者の意見は二つに分かれている。

・著者は、大国主命信仰をより重視すべきだと考えている。
 島根県斐川(ひかわ)町荒神谷遺跡で発見された多くの銅剣は、そのことを証拠づけるものであろうとする。
 それによって、大和朝廷発生の約百年前にあたる2世紀なかばに、出雲に有力な宗教勢力があったことがうかがえるからである。
 そのころ、荒神谷遺跡から出土した358本もの銅剣からわかるように、それらを管理する有力な祭司が出雲地方を押さえていた。
 彼らの子孫が出雲氏に連なり、彼らの祀った神が大国主命とよばれるようになったのだろうという。
 このような仮定を、本書では述べている。
 出雲の特性をつかむ作業は、古代出雲の信仰を明らかにする方向から進める必要があるようだ。
 そのために、まず文献にあらわれた出雲の神々のありかたをつかんでおく必要がある。
 そしてそれにより、出雲の信仰に時代を追って発展した三つの層があることが明らかになってくる。
(これまで、この点を明言した学者はいない。そして、その事実が出雲の信仰と歴史を明らかにする第一の手がかりになっていく)
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、22頁~23頁)

日本人の信仰のふるさと


・かつて作家の小泉八雲は、
「出雲はわけても神々の国である」
と記した。
 出雲のあちこちに古い伝統をもつ神社があり、そこに住む人々が神々を信じ、清らかな生活を送っていたからである。

・彼は、ギリシャに生まれアメリカで働いたが、金銭万能のアメリカの資本主義が人間性をおしつぶすものだと感じた。資本主義は新教カルヴィン派が生み出した、キリスト教に拠る価値観である。
 
・1890年日本に渡り、松江中学の英語教師になった八雲は、そこで日本の神々に出会った。
 やがて、彼は本名のラフカディオ・ハーンを捨て、日本に帰化して小泉八雲と名のるようになった。
・八雲は出雲を、日本の「民族の揺籃(ゆりかご)の地」だとも述べる。
(八雲がもし文明開化のさなかの東京に来ていたなら、おそらく母国の信仰を捨てることはなかったろう)
 明治時代まで、出雲には日本人の信仰の基層が残っていた。

・天平5年(733)に完成した『出雲風土記』は、その冒頭の総記に「あわせて神の社(やしろ)は、三百九十九所なり」と記している。さらに、その内訳は、つぎのようにある。
 「百八十四所は神祇官(じんぎかん)にあり」「二百十五所は神祇官にあらず」
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、23頁~25頁)

三百九十九社の三つの時期(25頁~)

三百九十九社の三つの時期


・出雲国の式内社の数は、大和国の286座、伊勢国の253座についで、多い。
 しかし、大和朝廷の本拠である大和や伊勢神宮のある伊勢では、大部分の神社が官社とされていた。
※そのことからみて、官社以外のものを含めた神社の数では、出雲国が日本一であった。

・さらに、出雲では、『出雲風土記』にみえない山川海野の神々が祀られていた。
 『出雲風土記』に、天武2年(673)に語猪麿(かたりのいまろ)の娘がサメに殺された話がある。このとき、猪麿は、
「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地祇(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国にしずまります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」
に娘の仇を討ってくれるように祈った、とある。

※出雲の三百九十九社の神社のほかに、海に関する出来事について、人々をまもる多くの海の神ワタツミがいるとされたのである。
・三百九十九という神社の数は重要である。
 それは、荒神谷で発見された銅剣の数358と同じ意味をもつもので、ある時期の出雲の首長の総数をしめすものである。
・三百九十九の神社は多彩である。
 出雲神話に出てくる神、そうでない土着的神々、大和朝廷がつくった高天原(たかまがはら)神話に登場する神などがいる。さらに、渡来系の韓神(からかみ)もみられる。

〇そして、そのような神々のありかたを整理すると、次の三つの段階を経て展開していることがわかる。
①各地の首長が思い思いの神を祀った時期
②出雲の神々が大国主命のもとに統轄された時期
③大国主命が大和朝廷の祭儀の中に組み込まれた時期

①第1の時期が、弥生時代中期なかばに相当する紀元1世紀なかばから2世紀はじめになる。
②第2の時期が、弥生時代後期から古墳時代前期のなかばにあたる2世紀なかばから、4世紀なかばにくると思われる。
③第3の時期である4世紀なかば以降、出雲の首長である出雲氏は、大和朝廷の支配下に入った。

※第2の時期の出雲は、宗教の面で日本一の先進地帯であったといえる。
 そして、その時代の出雲で、大国主命を中心とする日本人の神信仰の基本型が形づくられた。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、25頁~27頁)

出雲の十四社の独立神


・奈良時代はじめにあたる和銅6年(713)に、国ごとに地誌をまとめよとの命令が出された。
 これによって、諸国の「風土記」がつくられた。
 ところがいま伝わるのは、出雲、播磨(はりま)、常陸(ひたち)、豊後(ぶんご)、肥前の5カ国の「風土記」だけである。

・そして、『出雲風土記』は、播磨国以下の4カ国の風土記と大きく異なっている。
 他の「風土記」は国司の手に成るもので、大王や王族の巡幸説話を多く載せている。
 ところが、『出雲風土記』は、出雲国造である出雲広嶋(ひろしま)の手によってつくられた。そして、そこには大王や王族の巡幸説話はなく、出雲独自の神々の巡行や事跡が多く語られている。
・素戔嗚尊、大国主命などの出雲の有力な神は、朝廷がつくった高天原の神々の系譜に組み込まれた。そして、出雲土着の神のかなりのものが、素戔嗚尊の子孫とされた。
・それでも、『出雲風土記』には、大和朝廷がつくった高天原の神話に出てこない独立神(どくりつしん)が多く出てくる。
 そこに出てくる50柱の神のうち、14柱の神が独立神である。
(そういった神々はみな、単独で出雲の各地に天降って、そこの土地の守り神になったとされる。こういった神々は、それが鎮座する土地を治める豪族の祖神として祀られ続けられた。そのような独立神の祭祀の起源は、小国を治める首長が生まれた弥生時代中期なかばに求められる)

・新たに農民たちの指導者になった首長は、銅鏡、銅剣などの宝器で農耕神を祀り、その神は自分の祖神だと唱えた。
 紀元1世紀なかばごろから、出雲は、各地の首長が独自に神を祀る段階になった。
※出雲以外の地では、そういった神のなかに、のちに高天原神話に連なる神の名前に改名させられたものもいた。
 しかし、出雲では、奈良時代はじめまで、14柱の独立神が祀られ続けた。
※このような独立神の性格を詳しく物語る文献はみられない。
 しかし、これから紹介する「国引き」の説話の主人公である八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、そのような独立神に近い性格をもつ神だ、と著者は考えている。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、27頁~31頁)

八束水臣津野命の国引きの物語


・『出雲風土記』にみえる独立神の一例として、島根郡の千酌(ちくみ)の駅家(うまや)の条にみえる都久豆美命(つくつみのみこと)の記事がある。
「千酌の駅家は、郡衙(ぐんが)の東北十七里百八十歩のところにある。ここには、伊佐奈枳命(いざなきのみこと、伊奘諾尊)の御子の都久豆美命がおられる。そこで、ここの地名は都久豆美(つくつみ)とすべきだが、今の人はここを千酌とよんでいる」

※千酌の駅家は、隠岐島に行く船が出る港のまわりにひらけた集落である。
 そこの人は、自分たちの土地の守り神として、都久豆美命を祀っていた。
 朝廷の支配が強まる奈良時代に、千酌の人は都久豆美命を伊弉諾尊の子にしたが、地方の小集落の守り神にすぎない都久豆美命は、中央の神話に取り込まれなかった。

〇「国引き」の物語について
・『出雲風土記』に創造神として活躍する八束水臣津野命は、都久豆美命より多少格が高いが、都久豆美命と大して違わない立場に位置づけられた神だといえる。
 朝廷の神話には登場せず、『古事記』の神々の系譜に、素戔嗚尊の四世孫で、大国主命の祖父だとある。
・彼にまつわる「国引き」の話の大筋は、つぎのようなものである。
「八束水臣津野命が、こう言われた。出雲はできてまもない国で十分な土地をもたない。
 そこで、あちこちから余った土地をもってきてぬいあわせて出雲国を広くしよう。
 命(みこと)はまず新羅の国(朝鮮半島の日本海側にあった小国)の岬を鋤(すき)で切りはなし、太い綱をつけて引いてきた。そこが、去豆(こづ)から杵築(きづき)にいたる岬である。
 そのときの土地に打ちこんだ綱をかけるための杭が三瓶山(さんべさん)になり、国を引いた綱が薗(その)の長浜になった。
 つぎに、海の北にある土地(隠岐島)にあった岬を引いてきて、多久(たく)の海岸から狭田(さだ)にいたる地にした。
 さらに、海の北にある土地(隠岐島)の野浪(のなみ、波が打ちよせる原野)というところをもってきて、手染(たしみ)から闇見(くらみ)の国にいたる地にした。
 そのあと、越(こし)の都々(つつ、珠洲岬か)の岬を切り分けて引いてきて、美保埼(みほのさき)にした。そのときの杭が大山(だいせん)で、綱が夜見島(よみのしま)である。
 このあと、八束水臣津野命は『いまは国を引きおえた』と言い、大声で『おえ』と宣言した」

※巨人の姿をした八束水臣津野命が、広大な土地を引きよせる豪快な話である。
 古代の日本のあちこちで、このような巨人の神が祀られていた。
 日本列島を生む伊奘諾尊、伊奘冉尊(いざなみのみこと)や大蛇を退治する素戔嗚尊の物語には、そのような巨人神信仰の名残りがみられる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、31頁~35頁)

邪馬台国より三十年早かった出雲の統一


・弥生時代中期のはじまりとともに、西日本の先進地で小国が発生した。
 そして、小国の数はしだいに増え、弥生時代中期から後期にかけて、いくつかの小国を統轄する有力な集団が発展していく。

〇北九州のその動きは、中国の歴史書からつかむことができる。
・1世紀なかばには、有力な小国、奴国(なこく)が中国に朝貢して金印をもらった。
 そして、2世紀はじめには玄界灘沿岸と壱岐・対馬を含む伊都国(いとこく)連合の盟主の帥升(すいしょう)という者が、後漢の王朝から倭国王にされた。

・さらに、2世紀末に邪馬台国の女王卑弥呼が、30の小国から成る邪馬台国連合の長になった。
 邪馬台国連合は、のちの筑前、筑後と肥前の一部を含む範囲を押さえるものであった。

・出雲でも、そのような統合の動きが着実に進んでいった。
 2世紀はじめには、小国連合の首長たちがともに祀る佐太などの三柱の大神が生まれた。
 ついで、2世紀なかばに出雲の小国は、出雲氏のもとにまとめられた。
 そして、そのときから出雲の人々は、大国主命という新たにつくられた神をもっとも格の高い神として拝むようになった。
 それまで首長たちが祀っていた彼らの祖神は、大国主命の子孫や大国主命の家来筋にあたる神々とされた。

・このような出雲の統一は、邪馬台国連合の成立より約30年早く行なわれた。
(何が出雲の首長の統合をうながしたかという問いに対する解答は、後述)

・しかも、邪馬台国連合では、そこの首長たちがともに祀る最高神は生まれなかった。
 伊都国、奴国などの首長は、思い思いの神の祭祀を行なっていた。
 卑弥呼は、神託によって重大な事項を決定したと伝えられる。
 しかし、彼女の決断が求められたのは、邪馬台国連合全体にかかわる問題に限られた。
 中国の魏王朝への遣使や狗奴国(くなこく)との戦いは、彼女の指導によってなされた。
・あるいは邪馬台国という小国の内部の問題は、卑弥呼に下った神託によって解決されたかもしれない。
 しかし、卑弥呼がその配下の小国のことについて神託を求める場面はなかったという。
・出雲各地の首長が祀る神の間に上下関係をつくった点において、出雲氏の支配は卑弥呼のそれより進んだものであったと評価できる。
 出雲氏は2世紀はじめには、熊野大神を祀っていた。
・有力な首長が祀る神の下に、その配下の首長の祖神を位置づける慣行は、佐太・熊野・野城の大神ができた時点で発生した、と著者は考えている。
 そして、出雲氏は意宇郡の一部分を押さえる勢力から出雲全体の支配者に成長したときに、熊野大神の上にくる大国主命をつくり上げた。

【年表】
紀元前1世紀末 北九州で小国発生
1世紀なかば  出雲で小国が発生し、そこの首長が独立神を祀る
1世紀末    八束水臣津野命・素戔嗚尊などの有力な神がいくつかできる
2世紀はじめ  佐太・熊野・野城の大神誕生
2世紀なかば  大国主命がつくられる

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、45頁~47頁)

平和な開拓神・大国主命


・大国主命に関する神話の原形は、2世紀なかばにつくられたと考えられる。
 当時の人々は、祖先の霊のはたらきを集めたものが神であると考えていた。
 これを祖霊信仰という。

・そのため、弥生時代の人々が信仰していた神々は、人間的であった。
 そのような神々の性格は、『古事記』『日本書紀』の中の日本神話にもうけつがれている。
 古代人は、身近な「神社」で祀られている神を、自分たちの指導者であり父であり母であると感じた。
(ここではわかりやすくするために、「神社」の語をつかったが、神殿をもった神社が全国に普及するのは、飛鳥時代以後のことである)

・それまでの人々は、神々の世界からやってきた神がとどまる山や森を聖地とみて、そこを拝んでいた。
 出雲の仏経山(ぶっきょうざん)はそのような地であり、荒神谷遺跡の銅剣は、そこを祀る集団によって埋められた。

・『古事記』『日本書紀』の神話は、大国主命の、天孫(てんそん)に国譲りする神としての面を強調するものになっている。
 それは、出雲氏が大和朝廷の支配下に入った4世紀なかば以後に書き加えられた要素を多く含む。
 それとくらべると、『出雲風土記』の大国主命にまつわる記事からは、中央の手が加わっていない大国主命神話の原形のありさまが伝わってくる。

※大国主命が八十神(やそがみ)や越(こし)の八口(やつくち)を討つわずかな征討神話はある。
 しかしそれを除くと、大国主命は猪を追ったり、多くの女神を訪れ求婚したり、沢山の鋤(すき)を取って国作りを行なった平和な開拓神の姿をしている。

・たとえば、『出雲風土記』神門(かんど)郡朝山郷の条には、つぎのようにある。
「ここには、神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊尊[かみむすびのみこと])の娘、真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらのひめのみこと)がおられたが、そこに天下を造られた大穴持命(おおあなもちのみこと、大国主命の別名)が朝ごとに通ってこられた。そのため、朝山(あさやま)の地名ができた」

 また、『出雲風土記』飯石郡多禰(たね)郷の条には、こうある。
「天下を造られた大穴持命と須久奈比古命(すくなひこのみこと、少彦名命)が、天下をめぐり歩かれてここに稲種を落とされた。そのため、この地を種(たね)とよぶようになった」
 のちに「種」の表記を「多禰」に改めた。

※『出雲風土記』をみると、大国主命が意宇(おう)、島根、楯縫(たてぬい)、仁多(にた)、飯石(いいし)の諸郡の広い範囲にわたって登場していることがわかる。
 「風土記」にそれほど多く登場する神は、他にない。
 このことから、大国主命信仰が出雲全体に広まっていたありさまがわかる。

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、47頁~49頁)

大和朝廷支配による大国主命神話の変質


・『古事記』や『日本書紀』は、大国主命の国譲りにもっとも重点をおいた書き方をとっている。
 しかも国譲りの物語は、神々がめまぐるしくあちこちを移動する大がかりな物語になっている。
 高天原から下った武甕槌神(たけみかづちのかみ)らは、出雲の稲佐(いなさ)浜に降りたった。そして、そこで大国主命と交渉し、ついで美保埼(みほのさき)に移って、大国主命の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に国譲りに同意させて、身を隠させる(死者の世界に行かせること)。

・さらに、再び稲佐浜にもどった武甕槌神は、そこで事代主命の弟にあたる武御名方神(たけみなかたのかみ)と力くらべをする。
 それに敗れた武御名方神が逃げると、武甕槌神は彼を諏訪まで追っていって、屈服させた。


(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、50頁~53頁)

第三章 大国主命神話の真の意味とは

『古事記』の大国主命神話の大筋


〇大国主命は因幡の白莵に出会ったことをきっかけに、国作りをする偉い神に成長する。
・大国主命は、はじめは多くの兄たちに従者のように扱われていた。
 八十神(やそがみ)とよばれる大人数の兄の神々は、因幡の国の八上比売(やがみひめ)と結婚しようとそろって因幡国に出かけた。そのとき大国主命は、兄たちの荷物をもってお供をしていた。
 すると、彼らの前に鰐に皮をむかれた白莵があらわれた。八十神は、裸にされた莵を見ていたずら心をおこして、
「海水を浴びたあと体をかわかすように」
と言った。白莵がその通りにしたところ、ますます痛みが激しくなった。そこに、大国主命が通りかかり、適切な治療法を教えてやった。
 莵はよろこんでこう言った。
「あの大勢の神は思いをとげられないでしょう。あなたが八上比売の夫にふさわしい人です」
 莵の言った通りに、八上比売は八十神ではなく大国主命を選んだ。そのとき、八十神は大いに怒り大国主命を殺そうと計った。彼らは、大国主命を山に連れていって、
 「赤い猪を捕えろ」
と命じた。そして、猪に似た石を赤く焼いて落とし、大国主命にそれを抱かせた。

・そのため、大国主命は焼け死んでしまった。そのことを知って大国主命の母の刺国若比売(さしくにわかひめ)は、息子を救おうとした。
 彼女は神皇産霊尊(かみむすびのみこと)に救いを求めた。そのため、尊は(訶+虫)貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)の二人の娘を地上に送り、大国主命を助けた。(訶+虫)貝比売は佐太大神の母にあたる。
 八十神は再び大国主命を殺そうと計った。
 大きな木を切り伏せてくさびを打って放ち、大国主命を木の間にはさんで殺したのだ。このときも、母の神が木を裂いて大国主命を助けた。母の神は、
「お前がここにいると八十神に殺されるだろう」
と言い、彼を紀伊の五十猛命(いたけるのみこと)のもとに行かせた。しかし、八十神はそこまでも追ってきた。そのため、大国主命は根国(ねのくに)の素戔嗚尊のもとに行くことにした。
 五十猛命は、素戔嗚尊に従って新羅に下ったのちに紀伊を平定したとされる神である。


※高皇産霊尊が高天原の神々を、神皇産霊尊が出雲の神々をかげから助ける神になった。
 そのため、高皇産霊尊の指導のもとに国譲りがなされる。
 神皇産霊尊は二人の娘を送って大国主命の火傷をなおし、少彦名命に大国主命の国作りを助けさせたとされる。
 しかし、もとは(訶+虫)貝比売も蛤貝比売も島根郡の首長が祀った土着の神であった。
 『出雲風土記』から(訶+虫)貝比売が加賀郷で、蛤貝比売が法吉(ほき)郷で祀られていたことがわかる。
少彦名命も、もとは大国主命と対になる神として考え出されたものだといえる。
のちに出雲の各地で祀られていた人々の魂(たましい)をつかさどるとされる独立神が、
神皇産霊尊と結びついていく。
 『出雲風土記』では、そのような神々は「神魂命(かみむすびのみこと)」と表記される。
 しかし、出雲土着の神が造化三神の一つになったわけではない。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、88頁~96頁)

大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?


・『古事記』や『日本書紀』の神話の中で、大国主命は他の神々とちがう位置づけを与えられている。
 『古事記』と『日本書紀』の神話は、皇室(王家)の支配を正当化するためにつくられたものである。
 ところが、大国主命神話の原形となる物語のどこにも、皇室(王家)の支配を正当化する要素も、出雲氏の出雲統治の理由を語る部分もみられない。
 大和朝廷の成立とともに首長霊信仰が生まれる。そして、すべての物事は首長霊信仰によって説明づけられる。
 大王の祖先がすぐれた神になり王家をまもっている。ゆえに、大王が国を治めるべきだというのだ。その発想から、王家の祖先神は極端に美化されていく。
 朝廷は大国主命を、王家の祖先神の系譜の中に取り込むことができなかった。

・しかし、王家が歴史書づくりをはじめる6世紀より前に、すでに大国主命神話が広まっていた。
 そして、そこに出てくる大国主命の姿は王家の祖先にふさわしくないものであった。
 なぜなら大国主命は、人間的な等身大の神であったからだ。
 農民の生活を反映してつくられた神である。大国主命神話には縄文的な精霊崇拝の要素が強くみられたという。

・首長と一般の農民の地位にそれほど差がみられない段階に、祖霊信仰が広まった。
 首長は自ら土地を耕し、春や秋の決まった日にだけ先祖の神々の祀りを指導した。
 そのような段階の神話は、農民たちが祖先から聞いた体験談をふくらませてつくられる。

・大国主命は、他人に仕えて荷物運びをさせられたこともある。
 ある時は狩猟で、ある時は木材の伐採で事故にあって、命を落としかけた。
 有力者のいじめにあって、蛇の出る部屋やムカデ、蜂が襲ってくる部屋に泊められたこともある。野火にあって、ほら穴をみつけて、命びろいをしたこともある。
 大国主命が遭遇したさまざまな苦難は、古代の庶民が経験したことでもあった。
 大国主命は多くの試練にあったが、勇気と知恵と優しい心によって、それを乗り切った。
 自分たちの祖先も、大国主命のように生きていくうえで、多くの苦労に耐えてきた。
 そのおかげで、いまの自分たちがいる。そう考えた人々が、祖霊を祀ったのである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、97頁~99頁)

縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話


・王家がつくった高天原(たかまがはら)の神々は、生まれながらに強い力をもつものだとされた。
 これは、王家の人間がその出自によって、人々を支配する資格をもつとする主張に対応するものである。
 大国主命は、試練を乗り切って偉くなったが、高天原の神々には成長する要素がない。
 これが、首長霊信仰がつくられたのちに考えられた神々の特徴である。

・大国主命神話には、首長霊信仰の影響がみられない。
 このことから、それは大和朝廷が首長霊信仰を生み出した3世紀末より前の形のままで、うけつがれてきたものだと評価される。
さらに、大国主命神話に、出雲特有の縄文的要素が含まれている点も重要である。
 祖霊信仰は、人間と自然物との間に境をもうけることからはじまる。
そして、亡くなった人間の霊は常世国(とこよのくに)に行き、祖霊になって人々を見守ると唱える。そのような段階になると、動物の霊を精霊として尊ぶ発想はうすれていく。
 
・ところが、大国主命神話には、縄文時代以来の精霊崇拝にもとづく要素が多くみられる。
 大国主命は傷ついた莵にやさしく声をかけた。
 その莵が莵神(うさぎがみ)であったために、大国主命はつぎつぎに幸運をつかんでいったとされる。
・火攻めにあった大国主命を救ったのは、ネズミであった。
 彼は、ネズミの言葉を理解できたおかげで、難を逃れた。
・不気味な客間に出る蛇やムカデや蜂も、大国主命が須勢理比売(すせりひめ)に教わった呪術によって、おとなしくなった。
※日本神話に登場する神々の中で、このように生き物と親しく接する者はいない。

・縄文的な精霊崇拝を否定する立場にあった朝廷は、神話の中で動物が重要な役目を担う場面を極力さけた。
 そして、王家の先祖たちは、動物の力を借りる場面で、それを神のつかいと知ったうえで行動したとされる。

・山幸彦(彦火々出見尊[ひこほほでみのみこと])を海神のもとから地上に送った鰐は、海神のつかいであった。
 神武天皇は、天からきた八咫烏(やたがらす)や金鵄(きんし)を祖神がつかわしたものだと知って、道案内や自軍の援兵として用いたとされる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、99頁~100頁)

大国主命神話と民話の共通点


〇大国主命神話が、各地に伝えられているよく知られた民話と共通の要素を多くもっている点に注目したい。
・動物が活躍する民話は多い。
 舌切り雀、ねずみの浄土、花咲か爺さんなどの多くの民話が、動物にやさしくした者が幸運を得て、動物をいじめた者が不幸になる形をとる。
 それらは、因幡の白莵の話と、全く同じつくりをもつ。
➡こういった現象は、朝廷が精霊崇拝を否定したのちにも、民間では長期にわたって、動物を祀る習慣が残っていたことを物語る。
 いまでも因幡の白莵を祀る神社が残っていることをみると、現代の私たちにも、精霊崇拝的な発想がうけつがれているのかもしれない。

※大国主命は、庶民により近い信仰にもとづいてつくられた神であったために、多くの人にうけ入れられた。

〇大国主命神話と民話との共通点は多いが、その中のとくに重要な二点だけを指摘する。
 大国主命神話が「まれびとの来臨(らいりん)」と「英雄求婚譚」の要素をもっている点である。
①「まれびとの来臨」
・これは、神が見なれない人や動物の姿をかりて人々を訪れるという信仰にもとづく物語である。
 神は、病人や身体障害者や飢えや貧乏に苦しむ者の姿をとってあらわれる。
 そのような神を親切にもてなせば、幸運を得るというのである。
※大国主命神話に出てくる白莵と少彦名命(すくなひこなのみこと)がまれびとである。
 桃太郎に従った犬、猿、雉は、そのようなまれびとがもっともわかりやすい形で出たものである。

②「英雄求婚譚」
・これは、若者が美しい娘を見初めて妻にもらいたいと言ったために、できそうにもない難題を与えられるものである。
・娘の父がもちかけた課題をやりとげることによって、若者は大きく成長し、英雄になって人々を指導するようになる。
※根国での大国主命と素戔嗚尊とのやりとりがこれにあたる。
 一寸法師の話では、小さな一寸法師が鬼退治という難題を克服して、打出の小槌で立派な若者になる形をとっている。

・よく知られた民話の中で、この二つの要素のないものを探すのが難しいほどである。
 大国主命神話が各地に展開して、さまざまな民話ができたわけではない。
 全国の古代人が求めたものが、大国主命のような神であった。
 そのため、大国主命信仰が急速に全国化していく。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、101頁~102頁)

大国主命は武器の神だった?


・大国主命が「八千戈神(やちほこのかみ)」ともよばれていることに注目している。
 彼は、国譲りのときには国を平定した広矛(ひろほこ)をささげている。
 また、『日本書紀』は、伊奘諾尊(いざなきのみこと)が出雲を「細戈(くわしほこ)の千足国(ちたるくせ)」、つまり良い戈が多くある国と呼んだ、と記している。

※こういったことは、大国主命信仰が、元来は剣、矛などの武器を祭器とするものであったことをうかがわせる。
 荒神谷遺跡で大量の銅剣が出土したことは、それを裏づけるものである。
※大和朝廷の祭祀は、もともと銅鏡をもっとも重んじるものであった。
 それは、伊勢神宮が銅鏡を御神体とすることや、天照大神が瓊々杵尊(ににぎのみこと)に三種の神器を与えるときに、八咫鏡(やたのかがみ)を「われの分身と思うように」と言ったと伝えられる点からもわかる。

・また、朝廷は、出雲を平定したとき、そこの剣を用いた祀りをうけ入れ、出雲の祭祀をとりこんだ。そして、人間の魂を象徴するとされる勾玉(まがたま)を鏡と剣に加えて、三種の神器とした。

※これまで解説したのは、出雲神話の一面である。
 もう一面として、出雲特有の生と死の問題がある。
 次章では、出雲が死の世界の入口とされた理由を考えている。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、114頁~115頁)


第四章 死に、また再生する出雲の神々

出雲は死にかかわる地?


〇大国主命神話で、命(みこと)は何度も死と再生をくり返したとされる。
 そのことから、一つの謎が浮かび上がってくる。
 素戔嗚尊、大国主命、少彦名命、事代主命(ことしろのぬしのみこと)などの出雲系の神々の物語には死がつきまとう。
 ところが、皇祖神天照大神を中心とする高天原の神々の世界には、死がほとんどない。
 この違いはなぜ生じたのだろうか。

〇それは、出雲の神々が王家(皇室)の祖先でないのに、なぜ神話で大きく取りあげられるかという謎ともかかわる。
 その理由の一つは、朝廷が皇祖神と、死にかかわる穢れた神である出雲の神々を対比することにより、自家の清らかさを強調したことに求められる。

・古代人は、もともと死者の住む世界を身辺においていた。
 出雲には、「黄泉(よみ)の坂黄泉の穴」といわれる海食洞(かいしょくどう)がある。
 そこは、あの世に通じると伝えられている。
・また、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がそこを通って、黄泉国からこの世にもどってきたとされる黄泉比良坂(よもつひらざか)は、出雲国に実際にある伊賦夜坂(いふやざか)だとされた。

※祖霊信仰の段階では、人々は、死者である祖霊はつねに身辺にいると考えていた。
 彼らは、死者が住む美しい世界(常世国)で暮らしている。
 しかし、子孫が困っているときには、いつでも飛んできて助けてくれる。
 そして、集落の近くに祖霊が集まる神聖な土地があるとされた。森や林、山、洞窟や巨石のそばが、そのような聖地だと考えられた。
 古代人は、そのような場所で先祖を拝んだ。そして、のちにそこには、神殿をもつ神社がつくられる。

・『古事記』『日本書紀』の神話の死にかかわる事柄は、すべて出雲にからめて、語られている。
 伊奘諾尊は、出雲を経て黄泉国を訪れた。
 素戔嗚尊、大国主命、事代主命といった出雲の有力な神々は、最後はあの世に去って、身を隠したとされる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、118頁~119頁)

死のない世界・高天原


・高天原神話で、死が語られることはほとんどない。
 二点の例外は、すべて素戔嗚尊の乱暴の物語の中に出てくるものである。
 そこには、素戔嗚尊は出雲の神だから死にかかわってもおかしくないとする発想がみられる。

・神々は、高天原で永遠に生きるとされる。
 ゆえに、天照大神が自分の六代目の孫にあたる神武東征に高天原から力をかすといった話が成立する。

※これは、祖霊信仰の他界観と異なる発想によって作られたものである。
 祖霊信仰は、祖先はいったん死んでも常世国に行って、そこから人々に手をかすとする。
 ところが、大王や朝廷の有力豪族の先祖である高天原の神々は死を知らない。
 首長霊信仰は、祖霊信仰から発展した。ゆえに最初は、亡くなった首長はまちがいなく死んだと考えられたはずである。そして、死者である首長霊が子孫を守ると考えられた。

・ところが、6世紀はじめに、大王の権威が高まると、朝廷は大王も普通の人間と同じく死を迎えるという事実になるべくふれたくないと考えはじめた。そういった動きの中で、高天原神話ができたという。
 そのため、高天原の神ははるか昔にあらわれ、遠い未来まで活躍し続けると考えられた。

※天岩戸(あまのいわと)のもとになった日蝕神話は、もとは太陽神の死と再生を物語るものだった。
 それは、南方から航海民の手で伝えられた神話である。
 ある物語は、善良な太陽神である兄と、悪い心をもった暗黒神の弟がおり、弟が兄を殺したため、日蝕がおきたとする。そのとき、人々の祈りにより太陽が復活したが、人間が善良な心をなくすと再び闇が訪れるという。
 このような話があちこちに分布する。

・しかし、日本では、日蝕と天照大神の死を結びつけなかった。
 大神は、素戔嗚尊の乱暴に怒って、一時的に天岩戸に隠れた。
 そして、神々が岩戸の前で祀りを行なったために、再び姿を現わしたとしたのである。
 このような話の舞台になった高天原は、死のない世界であった。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、120頁~121頁)

出雲土着の神だった素戔嗚尊


・大物主神に代わって天照大神を祀るようになった朝廷は、それまで各地で崇拝された大国主命などの国神を、高天原の神の下に位置づけねばならなくなった。
 そのため、高天原を追われた穢れた神である素戔嗚尊の物語がつくられた。
 そして尊が国神たちの祖先とされた。

・南方から伝わった日蝕神話に、日蝕を起こした太陽神の弟の悪神が登場する。その悪神像をふくらませて、高天原の素戔嗚尊の話ができたようだ。
 しかし、南方の物語をまねて、素戔嗚尊が太陽神を殺す話をつくるわけにはいかない。
 そこで、尊が太陽神に仕える女官の神を殺したとされた。けれども、それだけではまだ罪が軽い。そこで、素戔嗚尊は畔をくずし溝を埋め祭祀を妨害する罪も犯したとされた。
(これは、農耕社会ではもっとも重大な罪だとされて、「天津罪(あまつつみ)」と名づけられた)
 重罪を犯した神を高天原におくわけにはいかない。素戔嗚尊は地上に追放された。
(斐伊川を流れる箸を見て、尊は上流に人がいると知り、奇稲田姫(くしいなだひめ)のもとを訪ねる)

※高天原の神々は一度も罪を犯さない清らかな神とされた。
 天照大神の弟であっても、罪を犯せば追われる世界が、高天原であった。

〇素戔嗚尊は、もとは出雲土着の神であった。
 彼の伝承は出雲各地に分布する。
 『出雲風土記』の中の素戔嗚尊は、おおらかな農耕神であった。
・たとえば、大原郡佐世(させ)郷の条には、つぎのようにある。
「須佐能袁命(すさのおのみこと、素戔嗚尊)が佐世の木の葉をかざして踊ったとき、佐世の葉がここに落ちた。そこでここを佐世と名づけた」

・素戔嗚尊の名は、飯石郡須佐(すさ)郷の地名にもとづくものである。
 「すさの男」をあらわすものである。
ところが、その言葉のひびきが、乱暴をすることをあらわす「すさぶる」を連想させた。
➡そこで、朝廷は素戔嗚尊を高天原で乱暴をした出雲系の神とする物語をつくった。
 そうなると、大国主命は素戔嗚尊の子孫として位置づけられることになるという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、123頁~126頁)

奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた


・松江市の八重垣神社は、『出雲風土記』に佐久佐(さくさ)社として出てくる奇稲田姫を祀る神社である。
 そこの佐久佐女(さくさめ)の森は、奇稲田姫が八岐大蛇から逃れた地だとされている。
 その森の中に、奇稲田姫が毎朝、自分の姿を写したと伝えられる鏡が池がある。
 その水面に硬貨をのせた白紙を浮かべて、早く沈めば早く良縁に出合えると伝えられる。

・その池から、長さ8センチメートル、高さ8センチメートルの土馬が出土した。
 古代の文献に雨占いのために、馬を生贄にする習俗がしきりに出てくる。
 そこで、奇稲田姫は、もとは水神であったと考えられる。

・古代人は、蛇を水神のつかいとみていた。
 雷を自由に操る三輪山の神は蛇の姿をしていた。
 『常陸国風土記』には、谷の奥の水源にいた蛇の姿をした夜刀神(やとのかみ)の話が出てくる。

※高天原神話と結びつく前の奇稲田姫の物語は、彼女が佐久佐女の森で呪術を行ない、蛇の姿をした悪い水神を倒す形をとっていたのではないか、と著者はみている。
 つまり、彼女は自力で蛇神との命をかけた戦いという、死の試練と再生の過程を克服したとされていたという。

・『出雲風土記』に、出雲郡宇賀(うが)郷に「黄泉の坂黄泉の穴」といわれる海岸の洞窟があったことがみえる。
 その条に、「夢でこの磯の窟(いわや)のほとりにいたると必ず死ぬ」と説明されている。
 そこの調査が行なわれたとき、多くの人骨が出土した。
 その穴は、古代人の墓地だった。
 宇賀郷の人々は、死者を海岸の洞窟の中に葬れば、死者の魂は海のかなたの美しい世界に行けると考えていたようだ。

・宇賀郷の地名のいわれを記す「風土記」の説明は、つぎのようなものである。
「天下造らしし大神命(大国主命)が、神魂命の子の綾門日女命(あやとひめのみこと)を妻にしようと考えてここを訪れてきた。そのとき、女神は承諾しないで逃げて姿を隠した。そこで、大国主命はあちこちを伺い見て(探し見まわって)ようやく日女(ひめ)をみつけて妻にした。そのため、『伺い見る』ことにちなんだ宇賀の地名ができた」

※綾門日女命は、「黄泉の坂黄泉の穴」の洞窟の中に身を隠したのであろう。
 これにより、宇賀郷で祀られていた女神はいったんは死んだとされる。
 そして、大国主命に見出されることによって、彼女は再生して子をもうけた。
 
※この他にも、各地の独立神の死と再生を物語る記事が、『出雲風土記』に多くみえる。
 人間が必ず死ぬ運命にある以上、人間の生活を反映してつくった神々の世界に死があるのは当然である。
 それにもかかわらず、朝廷は死の概念をなくした高天原神話という特殊な世界をつくったという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、133頁~135頁)

第六章 大国主命から大物主神へ

首長のための特別な墓(第六章)


・大国主命信仰にもとづく出雲統一が、他の地域に影響を及ぼし、日本統一を早めたことはまちがいない。
 そうだとすれば、以下の疑問が浮かび上がってくるという。
①出雲の首長の支配が、どの程度まで進んだものであったのか。
②大国主命信仰が大和に伝わったことが、どのような形で大和朝廷の首長の支配の強化につながったのか、という謎である。
※出雲氏と神門氏のもとにまとめられた古代出雲王国は、日本で最初に生まれた一国規模の王国であったと評価できる。

〇出雲王国が新たにつくり出したものとしては、つぎの三点が挙げられる。
①共通の神を祀ることによって、小国の首長の連合を生み出したことである。
②彼らがこぞって信仰する大国主命のはたらきについて、まとまった神話をつくったことである。
③祭司をつとめる首長である出雲氏と神門氏のために、特別の墓をつくりはじめたことである。
➡そのようにしてできたものが、出雲特有の整った形をもった四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)である。

【四隅突出型墳丘墓について】
・それは3世紀を中心に、出雲氏の本拠地である意宇(おう)郡と、神門氏の拠る出雲郡とにまとまって出現する。
・出雲の墳丘墓は、亡くなった首長を神として祀るためのものではない。
➡そのため墳丘墓は低く、その規模も小さい。
 副葬品も大して多くない。
 出雲の人々は、貴重な祭器は首長の墓にではなく、荒神谷遺跡のような聖地にささげるべきだと考えていたという。

※そうであっても、出雲の墳丘墓は、それ以前に各地でばらばらに出現した小型の墳丘墓や周溝墓(しゅうこうぼ、周囲を溝で囲った墓)とは明らかに異なっている。
 1世紀なかばに吉野ヶ里遺跡でつくられた墳丘墓は、早い時期の墳丘墓の一つである。
(そこからは、極めて多くの人骨が出土した。墳丘をもった墓であっても、それは多くの一般人を葬る共同墓地であった)
・須玖(すく)・岡本遺跡や三雲遺跡の王墓は、多くの宝器を副葬していた。
 とくに後者は、巨石を目印においたものであった。
 しかし、それは一般人の墓地の中に営まれていた。
※その意味で、出雲の首長墓は、一般人に対する首長の優位性を明確にしたものである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、174頁~175頁)

交易国家邪馬台国の弱点


・邪馬台国は、出雲のような神政国家をつくれなかったという。
 邪馬台国支配下の三十国が、思い思いの神を祀っていた。
 『魏志倭人伝』は、卑弥呼が鬼道(きどう、祖先神を祀ること)によって人々を治めていると伝える。
 しかしその支配が及ぶのは、彼女の支配下の小国である邪馬台国の中だけであった。
・邪馬台国連合を構成する小国の首長たちが彼女に求めたのは、中国との交易に関する小国間の利害の調整役だった。
 そのため、彼女は魏の政情をつかんだうえで、自国がもっとも重んじられるような外交策をとった。そして、「親魏倭王(しんぎわおう)」という格の高い称号をもらった。
・その時代に、「親魏」を冠した王号をもっていたのは、邪馬台国とインドの強国クシャナ朝の王だけだった。
 これによって、卑弥呼の評価が高まり、彼女のために巨大な墓がつくられた。

※吉野ヶ里遺跡にみられるような、北九州の小型の墳丘墓が発展したものが、卑弥呼の墓であったのだろうか。それとも、邪馬台国が交易の場で、吉備か出雲の墳丘墓づくりを学んだのだろうか。
 この問題も、発掘によって解かなければならないという。
 吉野ヶ里遺跡の時代である1世紀なかばと、卑弥呼の生きた3世紀なかばとの中間にあたる時期の墳丘墓がいくつか出てくれば、吉野ヶ里と卑弥呼の墓とは、つながる。
 しかし、そうでなければ、北九州の墳丘墓は、吉野ヶ里遺跡(弥奴国[みなこく])の後退とともに、いったん姿を消したことになるという。

・邪馬台国は、交易国家の段階にとどまった。
 つまり、大陸との貿易に関して、邪馬台国が指導力をもっている間は、小国の首長たちは邪馬台国の王をたてる。しかし、それがなくなれば、小国が邪馬台国に従う理由は失われてしまう。

・250年前後に卑弥呼が亡くなった。
 そのあと、邪馬台国の国内に混乱があったが、女王台与(たいよ)が、それをおさめた。
 彼女は、ただちに魏に使者を送った。
 これによって、台与は、邪馬台国連合の盟主の地位を得たのである。

 265年、魏が滅び、司馬炎が新たに晋(西晋)の王朝をたてた。司馬炎は、卑弥呼の使者を厚遇した魏の高官司馬懿(しばい)の孫にあたる。
 266年、倭の女王が晋に使者を送ったと中国の文献は伝える。この女王は、台与であろう。彼女は、新王朝が立ったことを祝う贈り物をした。

※これによって、魏と西晋が邪馬台国を後押ししていたありさまがわかる。
 しかし、邪馬台国の記事は、それを最後にみられなくなる。
 317年に、西晋が滅ぶ。
 中国の朝鮮半島支配の拠点であった楽浪郡と帯方郡は、それより4年前の313年に高句麗に滅ぼされている。二郡の滅亡によって、西晋の後楯を失った邪馬台国は、急速に後退していった。

※大和朝廷に交易国家の要素は少ない。
 朝廷は、4世紀はじめに北九州を支配下におさめ、4世紀なかばに朝鮮半島に進出した。
 しかし、そのころの朝廷は中国との国交を求めなかった。
 中国の保障がなくても、自力で国内の首長を支配できる実力を朝廷はもっていたという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、181頁~185頁)

倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの


・三輪山が祀られたいわれについて、『古事記』と『日本書紀』は別々の物語を伝えている。
 『日本書紀』のものがより詳しい。
 『古事記』は、疫病がおこったときに、大物主神が崇神天皇につぎのような夢のお告げをしたという。

「わが子の大田々根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば疫病がしずまる」
※これは、大三輪氏の伝承によるものである。
 大田々根子は、大物主神が活玉依媛(いくたまよりひめ)という美女のもとに通ってもうけた子だという。

・それに対して、『日本書紀』は、王家が大物主神を祀る物語を伝えている。
 崇神天皇が神浅茅原(かむあさじばら、纏向遺跡の近くの浅茅原だとされる)で神々を祀った。すると、大物主神が大王の大叔母にあたる倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)に神託を下し、自分を祀れば国がよく治まると告げた。

・そこで、朝廷の祭官に大物主神を祀らせたが効果がない。
 大王がさらに神意を問うたところ、大田々根子に祀らせよとのお告げがあった。
 そのため、大田々根子を大物主神の祭司にした。

・このあと、倭迹々日百襲姫が大物主神の妻になった。
 神は、夜ごとにやってきて暗いうちに帰っていく。
 そこで、姫は「あなたの正体を見せて下さい」と頼んでみた。
 神はその求めにこたえて、朝になってもとどまったが、姫は神の姿が蛇だと知って驚いた。

・すると大物主神は、「私は大恥をかいた」と怒り、山に去っていった。
 姫は悲しみのあまり、自殺してしまった。
 人々は、彼女をあわれんで、壮大な箸墓古墳をつくったという。

・大三輪氏は、自分たちは大田々根子の子孫だという。
 そこで、『日本書紀』が、昔は王女が大物主神を祀っていたが、のちに大三輪氏が大物主神の祭司になったと主張しているありさまがわかる。

※ところが、『古事記』は、大三輪氏がはじめから大物主神を祀っていたと述べている。

※また、大神神社の疫病しずめの要素が強調されるのは、太陽神の機能が三輪山から分離された6世紀なかば以降のことである。
 それゆえ、疫病をおさめるために、三輪山の祀りがはじまったとする『古事記』の伝えは、より新しいものだということになる、と著者は考えている。

 その意味で、三輪山伝承の倭迹々日百襲姫の神婚の部分が、大物主神信仰の原形を知る有力な手がかりになると評価できるとする。
 三輪山の大物主神は蛇の姿をしていたという。
 このことから、それが出雲特有の八岐大蛇伝承とつながりをもつものだった、と推測している。
 『日本書紀』などの物語は、素戔嗚尊が水をつかさどる自然神である八岐大蛇を斬る形をとる。
 しかし、その話の原形は大蛇の生贄になりかけた奇稲田姫(くしいなだひめ)が呪術で大蛇を倒すものであった、と考えている。

※奇稲田姫の位置に倭迹々日百襲姫を、八岐大蛇の役に大物主神をおいてみよう。
 そうすると、倭迹々日百襲姫が神の妻になることによって、さまざまな災害を起こしてきた水の神を手なずける話が、八岐大蛇伝説の古い形に近いことに気づく。
 剣の信仰のさかんな出雲では、悪者を力で討つ話が好まれた。
 しかし、大和の人は敵対者を手なずける形が自然だと感じた。
 そこで、大国主命信仰とともに伝わってきた水の神を従える話が、大物主神と王女の神婚譚にかえられた、という。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、191頁~194頁)


第七章 出雲はなぜ朝廷に従ったのか
出雲が全国政権とならなかった理由
意宇郡の古墳が意味するもの
出雲の誇りを伝える前方後方墳

朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏(210頁~)
大和朝廷の出雲平定~『日本書紀』の大筋

出雲が全国政権とならなかった理由(第七章)


・出雲は4世紀なかばに、大和朝廷の支配下に組み入れられた。
 なぜいちはやく神政国家をつくった出雲政権は、簡単に朝廷に従ったのであろうか。
 この問題は難問である。
 出雲氏が朝廷の全国支配に対して、武力で大がかりな抵抗をしたことをしめす文献史料も考古資料もない。
 ゆえに、これからつぎの視点でその謎を解くという。
〇出雲氏の出雲の首長に対する指導力が弱かったために、出雲氏は進んで朝廷と結び、自家の勢力を高めたのではあるまいか。

①なぜ2世紀以来の出雲氏の支配は、不完全なものにならざるを得なかったのだろうかという問題
②大和朝廷と結ぶことによって、出雲氏はどのような利益を得たかという問題

・確かに2世紀なかばに、出雲氏、神門氏の連合が成立し、大国主命信仰が生まれた。
 そのときに出雲一国の統合が完成したおかげで、出雲政権は当時の日本で最強の勢力になった。
 しかし、出雲政権がそれ以上に勢力圏を広げることはなかった。
 彼らは、出雲一国のまとまりの中で、4世紀なかばの大和朝廷の出雲進出を迎える。
・この約200年間は、日本統一に向けての戦乱時代であった。
 2世紀末には、吉備氏が岡山平野を中心とする勢力を形づくる。
 同じころ、北九州で、卑弥呼の指導のもとに、邪馬台国連合ができる。
・さらに、3世紀なかばに大和朝廷が誕生する。
 弥生時代後期に、日本統一につながりうる動きで、北九州、出雲、吉備、大和の4カ所で起こっていた。

・しかし、四者による統一戦争は起こらなかった。
 大和朝廷が全国制覇の動きをみせると、西日本の諸勢力はあっけない形で朝廷に屈服した。
 出雲政権が一国規模のものにとどまった理由は、いくつかある。
①出雲東部の出雲氏と出雲西部の神門氏とが並立する形で長く続き、出雲に強力な指導者が出なかったことである。
・有力な四隅突出型墳丘墓の数をみてみよう。
 出雲氏が残したものは、下山墳丘墓、安養寺一号墓などの11基、神門氏が残したものは西谷三号墓など6基になる。
 出雲氏がより有力なように思えるが、出雲東部の墳丘墓の規模が、出雲西部のそれよりまさるわけではない。
そこで、両者の勢力は拮抗していると評価できる。

②出雲の300余りの首長の自立性が強かったことが挙げられる。
・それは、大国主命信仰ができたのちにも、彼らが古くから祀っていた独立神が否定されず、『延喜式』の時代にまでうけつがれたことからわかる。
・2世紀末に出現した四隅突出型墳丘墓は、4世紀はじめまでの百数十年間、ほとんどかわらないままで続いた。
 もし、出雲東部もしくは西部の勢力がもう一方の勢力を押さえ、出雲の首長たちに対する支配を強化していれば、意宇郡もしくは出雲郡の墳丘墓が、時代とともに急速に有力化したはずである。
・大国主命信仰は、出雲国内の首長の信仰を制約するものではなかった。
 そのことは、大国主命信仰をうけ入れた他国の首長が、出雲氏の支配下に組み入れられなかったことを意味する。

※富山市に四隅突出型墳丘墓、杉谷四号墓がある。
 それは、3世紀末のもので、全長は41メートルに達する。
 出雲のものと、ほぼかわらない規模の墳丘墓である。 
 そこの首長は、日本海航路によって、大国主命信仰をうけ入れ、墳丘墓をつくった。
 しかし、彼らが出雲氏や神門氏の墳丘墓に見劣りしない墓をつくったことは、彼らが出雲氏の支配をうけ入れたのではないことをしめす。

※大国主命信仰は、大和朝廷の全国支配に結びついた首長霊信仰と異なる性質をもっていたのである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、200頁~202頁)

出雲の誇りを伝える前方後方墳


・4世紀なかばから、出雲の前方後方墳が目立つようになる。
 考古学界には長期にわたって、有力な古墳は前方後円形につくられているという固定観念があった。

・ところが、大正14年(1925)になってはじめて、松江市山代二子塚(やましろふたごづか)古墳が前方後方墳ではないかとする意見が出された。
 前方後円墳は、死者を葬る円形の丘に四辺形の祭壇をつけたものである。
古墳の主体部がすべてきっちりした円形をとっているわけではないが、四辺形の古墳の主体部もあるとする意見は、多くの学者を驚かせた。古墳の測量が進められるに従って、前方後方墳の数は増えていった。
現在、200基余りの古墳が前方後方墳だとされている。
山代二子塚古墳は、全長約100メートルの6世紀なかばの古墳で、前方後方墳の中では新しいものである。
三刀屋町松本一号墳が、現在のところ出雲の最古の前方後方墳だと考えられている。
全長約50メートル、紀元350年前後に築かれたものである。
さらに、棺の中央底部に朱が散布されている点から、それが神門氏の墳丘墓の伝統をうけついでいることがわかる。

・出雲には、33基の前方後方墳がある。
 その数は全国一である。
 また、吉備の発生期の古墳の中にも、前方後方墳が多い。
 さらに、物部氏の本拠地に天理市西山古墳という全長180メートルの前方後方墳がある。
 それは350年前後につくられたものである。

※このような初期の前方後方墳の分布から、つぎのようなことが推測できるという。
 王家は自分たちが吉備からの移住者であり、大物主神信仰が吉備から伝わったことをよく知っていた。そこで、吉備を支配下におさめたとき、吉備氏を重んじて、彼らに独特の形をとる前方後方墳づくりを許した。

・一方、物部氏は、石上(いそのかみ)神宮で布都御魂(ふつのみたま)という剣神を祀っていた。
 剣神の信仰は出雲から広がったものである。
 そこで、物部氏は常に朝廷で、自家が古い信仰をもつ家であると主張していた。
 吉備で前方後方墳がつくられるようになってまもなく、彼らは王家に自分たちも前方後方墳がつくることを認めさせたのだろう、とする。
 出雲が朝廷の支配下に入ると、大国主命信仰のふるさとに住む彼らも、前方後方墳をつくるようになった。さらに、大国主命信仰の強い加賀、能登、関東などにも、前方後方墳が広まった。
 つまり、前方後方墳は、出雲の人々の、自分たちのもつ宗教的伝統に対する誇りを伝えるものであるという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、206頁~209頁)

朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏


〇大和朝廷の出雲平定~『日本書紀』の大筋
・大和朝廷の出雲平定は、出雲の神宝の献上をめぐる伝承として、『日本書紀』に伝えられている。その大筋は、つぎのようである。

「崇神(すじん)天皇が、出雲氏の祖神、天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)が天から持ってきた出雲の神宝を見たいといって、武諸隅(たけもろすみ)という者を出雲に送った。このとき、出雲氏の当主の振根(ふるね)は筑紫におもむいていた。そのため、彼の弟の飯入根(いいいりね)が神宝を献上した。筑紫からもどった振根は大いに怒り、斐伊川下流の止屋(やむや)の淵(塩冶郷)に弟をよび出して殺した。このとき彼は木刀をもって行き、刀をさしてきた飯入根に二人で水浴をしようと誘った。そして、先に上がり飯入根の刀を取って打ちかかった。飯入根は振根の木刀で立ち向かおうとして斬られてしまった。そのため、大王は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を送って振根を殺した」

※武諸隅は物部一族であり、武渟河別は阿倍氏の先祖だとされる。
 この話は4世紀なかばに、神門氏の中に朝廷に反抗して討たれた者が出た史実をもとにつくられたものであろう。
・飯入根の子、鸕濡渟(うかづくぬ)は、国造をつとめた出雲氏の祖先だとされる。
 後に出雲氏は、彼を「氏祖命(うじおやのみこと)」という別名でよんだ。
・出雲氏が朝廷の軍勢を引き入れて、神門氏の一部を攻撃したのであろう。
 そのとき、吉備氏が朝廷の側に立って活躍したため、吉備津彦が振根を討ったとする伝えができた。
 また、6世紀以降、阿倍氏が日本海沿岸に勢力を張ったので、武渟河別が吉備津彦とともに活躍したとされた。
※『日本書紀』は、垂仁朝に物部十千根(とおちね)が、出雲の神宝を検校するために出雲におもむいたと伝える。
 これによって、出雲氏と同じ剣神の信仰をもつ物部氏が、朝廷と出雲氏との仲介役をつとめていたことがうかがえる。
※『出雲風土記』の出雲郡健部(たけるべ)郷の条に、つぎのようにある。
 日本武尊の名前を後世に伝えるために健部をおいたとき、神門古禰(ふるね)を健部とした。
 そのため、ここに健部氏が住むことになり、健部の地名ができた。
 古禰と振根とは、同じ「ふるね」の名をもつ同一の人物である。
 神門氏の本拠地である出雲郡に住む人々は、自分たちの先祖の古禰(振根)は朝廷に反抗しなかったと主張したのである。

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、210頁~211頁)


≪歴史学とは?~小田中直樹氏の著作より≫

2024-06-09 18:00:02 | 歴史
≪歴史学とは?~小田中直樹氏の著作より≫
(2024年6月9日投稿)
 

【はじめに】


 歴史学とは何ですか?と真正面から問われると、ふつう、答えに窮する。
 私自身、大学では史学科の専攻であったが、いざ、このような問いかけを第三者からされると、やはり、困ってしまう。
 そこで、今回のブログでは、次の著作を参照にして、歴史学とは?という問いについて、考えてみたい。
〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年

 著者は、下記のプロフィールにあるように、大学の経済学部を卒業し、専攻は社会経済史である。そして、フランス近代社会についての専著がある。
 歴史学については、次の二つの問題をめぐって、議論が進められている。
①史実はわかるか
②昔のことを知って社会の役に立つか
 このことに関連して、構造主義(言語学者のソシュール)、社会学、政治学などの諸科学の議論も取り上げているのが、本書の特徴である。
 歴史学に限らず、科学を学ぶことの意味や意義について、「コモン・センス」(個人の日常生活に役立つ実践的な知識)や「懐疑する精神」と「驚嘆する感性」を身につけ、つねに批判的な姿勢をとりつづける人びとを生み出すことに、著者は求めている。(192頁~194頁)
 どのような議論をへて、このような結論に達したのか、紹介してみたい。

【小田中直樹(おだなか・なおき)氏のプロフィール】
・1963年生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科。博士(経済学)
・東京大学社会科学研究所助手を経て、現在、東北大学大学院経済学研究科助教授。
 専攻は社会経済史。
<おもな著作>
・『フランス近代社会 1814~1852』(木鐸社)
・『歴史学のアポリア』(山川出版社)
・『ライブ・経済学の歴史』(勁草書房)
【補足】
・社会経済史を専攻した学者であるから、「第3章 歴史家は何をしているか」の「Ⅱ日本の歴史学の戦後史「比較経済史学派」の問題設定」での大塚久雄の解説には、説得力がある。(153頁~156頁)
・「あとがき」で、この本を妻にささげるとある。Merci de tout cœur! というフランス語でしめくくるあたりに、フランス近代社会が専門であることがあらわれている。(201頁)



【小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)はこちらから】
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)






さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇はじめに
〇序章 悩める歴史学
<歴史学の意義とは何か>

〇第1章 史実を明らかにできるか
<歴史学は根拠を問いつづける>
<さらに難問は続く>
<史料批判は必須>
<実証主義への宣戦布告>
<「構造主義」のインパクトとは何か>

〇第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
Ⅱ 歴史学の社会的な有用性
<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
<アイデンティティを再確認する>

〇第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
<「比較経済史学派」の問題設定>
<「近代人の形成」という問題>
<社会史学の出現>
Ⅲ 歴史家の営み
<歴史家の仕事場>
<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>

〇終章 歴史学の枠組みを考える
<「物語と記憶」という枠組み>
<「通常科学」とは何か>
<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>

〇「あとがき」より









〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年
【目次】
序章 悩める歴史学
「パパ、歴史は何の役に立つの」
シーン①ある高校の教室で
シーン②ある大学の教室で
シーン③ある大学の学長室で
歴史学の意義とは何か

第1章 史実を明らかにできるか
Ⅰ歴史書と歴史小説
 歴史書と歴史小説のちがいとは
 史実かフィクションか
 テーマや文体か
 叙述か分析か
 ケーススタディ・五賢帝時代
 歴史学は根拠を問いつづける
Ⅱ「大きな物語」は消滅したか
 解釈と認識
 歴史が終わると歴史学は困る
 かつての「大きな物語」――マルクス主義歴史学
 ぼくらは相対化の時代を生きている、らしい
 最近の「大きな物語」①民族の歴史ふたたび
 最近の「大きな物語」②大衆社会の出現
 「より正しい」解釈を求めつづけるということ
Ⅲ「正しい」認識は可能なのか
 さらに難問は続く
史料批判は必須
実証主義への宣戦布告
「構造主義」のインパクトとは何か
 歴史家は困ってしまった
 ほかの科学は大丈夫か
 認識論の歴史をちょっとふりかえる
 「コミュニケーショナルに正しい認識」という途
 歴史学の存在可能性

第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ従軍慰安婦論争と歴史学
 従軍慰安婦論争を読みなおす
 従軍慰安婦の存在証明の試み
 戦争責任の問題はぼくらを動揺させた
 古くて新しい「新自由主義史観」
 国民の歴史は物語であり、フィクションだ
 従軍慰安婦論争の複雑さ
 歴史学は役に立つか
Ⅱ歴史学の社会的な有用性
 歴史学は社会の役に立たなければならないのか
 「日本人」というアイデンティティ
 「日本人」は一つの空間を共有してきたか
アイデンティティを再確認する
アイデンティティを相対化する
新しいアイデンティティを選びとる
「役に立つ」ことの陥穽
歴史家の仕事

第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
教科書と歴史家の仕事
十九世紀前半の欧米―「革命」をめぐる論争
十九世紀後半の欧米―「帝国主義」と「国民統合」
二十世紀前半の欧米―二つの世界大戦をどう見るか
二十世紀後半の欧米―「東西対立」と経済開発
教科書の行間を読む
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
「比較経済史学派」の問題設定
「近代人の形成」という問題
社会史学の出現
Ⅲ歴史家の営み
歴史家の仕事場
テーマを設定する
史料を料理する
知識を文章化する
歴史像には「深さ」のちがいがある
 歴史家のメッセージ

終章 歴史学の枠組みを考える
「物語と記憶」という枠組み
 「通常科学」とは何か
「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」
「通常科学とコモン・センス」という枠組み
 その先へ
あとがき
引用文献リスト




序章 悩める歴史学


<歴史学の意義とは何か>
☆この本では、三つの問題を考える。
①歴史学は、歴史上の事実である「史実」にアクセスできるか、という問題。
・史実のわからないのであれば、そんな学問領域についての知識を苦労して身につけたとしても、何の意味もないのではないか。
 具体的には、歴史学の成果と歴史小説とのあいだにちがいはあるか、あるとすればそれは何か、といったことを考える。

②歴史を知ることは役に立つか、役に立つとすれば、どんなとき、どんなかたちで役に立つか、という問題。
・歴史上の事件を知っておくと、さまざまな場面で役に立つものである。
 それでは、歴史学という科学にもとづいて知っておくことには、何かメリットはあるのだろうか。
 具体的には、いわゆる「従軍慰安婦論争」を顧みながら、歴史学の成果を頭に入れておくと、過去をめぐる論争について、どんな態度をとれるようになるか、という点を考える。

③そもそも歴史学とは何か、という問題。
・歴史学が年号や人物の名前を覚えることとイコールだったら、あまりおもしろくなさそうだし、日常生活に役立ちそうもない。

※この本では、古今の歴史家たちが世に問うてきた仕事を検討しながら、この三つの問題に取り組むという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、21頁~22頁)


第1章 史実を明らかにできるか

第1章 史実を明らかにできるか


<歴史学は根拠を問いつづける>
・歴史小説では、最終的な判断を著者の実感にもとづかせることが認められている。
 だから、歴史小説では、著者である小説家は、想像の翼を広げられる。
 これが歴史小説のメリットである。
その一方では、いくら史料や先行研究を利用し、叙述のみならず分析を加えているとしても、記述の信憑性(しんぴょうせい)に疑いが残ってしまう。
 これが歴史小説の小説たる所以である。あるいは限界ともいえる。
 そして『物語』も、この点から見ると、やはり一つの歴史小説である。

・これに対して、歴史書は、あくまで史料や先行研究のなかで、それを根拠に考察を進める。
 根拠がない場合は、「わからない」と述べるか、あるいは「これはあくまでも仮説である」と断らなければならない。これは歴史書の限界でもあり、いちばん基本的な特徴でもある。

 いうまでもなく、歴史書を書く歴史家だって、すべてがわかっているわけではない。
 ただし、根拠があることと、根拠がないことは、きちんと区別しなければならない。
 そのうえで、根拠がないように見えることについて、ほかの史料や先行研究を読みなおし、新しい史料を探し、新しい解釈を考えることによって、本当に根拠がないと断定できるか否かを問いつづけなければならない。
 自分が見つけられなくても、あとに続く歴史家が根拠を見つけるかもしれない、ということを考えて、行動しなければならない。

※その意味では、歴史学はつねに現在進行形の営みであり、歴史家は「<なぜ>と尋ね続けるところの動物」(カー[Carr,E.H.]『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波書店・岩波新書、1962年、原著1961年、126ページ)である。
 これが歴史を学ぶという営みの中核、土台をなしている。

※ちなみに、成田龍一は、著名な歴史小説家である司馬遼太郎の作品を検討しつつ、「史実と仮構(フィクション)との関係」という視点から、歴史書と歴史小説の異同を考えることは時代遅れであり、「ここから先を考えることが必要」だと主張している。
・その根拠としてあげているのは、「書きとめられたことが<事実>で、そこに載せられていないことは<事実>としないというのでは、あまりに単純です」ということ、「文脈と立場によって出来事の意味は異なります」ということ、そして、「誰にとっての<事実>かということを考えないわけにはいかないことは多い」ということである。
(成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』朝日新聞社・朝日選書、2003年、16~17、49ページ)

➡ただし、成田があげる根拠だけにもとづいて「史実と仮構との関係」を軽視することには、かなり無理がある。とくに、歴史学が現在進行形の営みであり、また、そんな営みでしかない、という点を見落としているのは問題である、と著者は批判している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、37頁~39頁)

「正しい」認識は可能なのか(61頁~)
<さらに難問は続く>
・歴史学という営みを構成するもう一つの作業である認識について見てみよう。
 認識とは、過去に本当にあった史実を明らかにするという作業と、その作業の産物のことである。
 では、正しい認識に至ることは可能だろうか。
 史料があれば可能だ、ない場合は、なんらかの根拠にもとづく推測を利用するしかない、推測もできない場合は、「正しい認識は、とりあえずいまのところは、できない」とするしかない、という答えが返ってきそうである。
 でも、解釈の場合と同じように、認識をめぐる問題も複雑で、一筋縄ではゆかない。

<史料批判は必須>
・史料を利用して正しい認識を得るためには、それなりの手続きが必要である。
 この手続きを「史料批判」と呼ぶ。
 どんなかたちで史料批判を進めればよいかについての所説を「史料論」と呼ぶ。

※なお、どんな史料を利用しているか、どんな史料論にもとづいて史料批判を進めているか、そこからどんなプロセスを経て正しい認識に至ろうとしているか、といった歴史家の営みの総体については、第3章で考えるという。

☆ここでは、「史料批判をすれば正しい認識に至れるか」という問題だけを検討する。
〇史料論にもとづく史料批判の一端を覗かせてくれる例として、中世ヨーロッパ史家である森本芳樹がおこなった「プリュム修道院所領明細帳」の分析を見てみよう。

・中世ヨーロッパには、領主が農民を働かせる経営体である「荘園」が広まっていたが、領主が荘園を管理するためにつくられ、土地や農民や農民の義務を記載した台帳を、「所領明細帳」と呼ぶ。
 今日のドイツ、ベルギー、ルクセンブルクの国境地帯にあり、各地に荘園をもっていたプリュム修道院で9世紀につくられたのが、「プリュム修道院所領明細帳」である。
(原本は散逸してしまったが、13世紀に筆写され、筆写者が注釈を付した写本が残っている)

※ともすれば、「個々の文書の真贋鑑定」をすれば正しい認識にたどりつくのではないかと考えがちである。
 でも「プリュム修道院所領明細帳」を素材として森本が提示する史料論は、そんな単純なものではない。
 なにしろ9世紀のヨーロッパにかかわる史料は数少ないため、当時の実態を知りたいと思ったら、史料を隅から隅まで、まさに微に入り細を穿って、利用しなければならない。

・森本によれば、原本と注釈からなり、また、修正が加えられたように見える箇所がある「プリュム修道院所領明細帳」の写本は、「年代幅をもった複層的構成の記録」である。
 こんな史料を利用する際には、まず、慎重な史料批判が必要である。

・たとえば、そこに書かれている農民の義務は当時の実態か、それとも領主である修道院の希望の産物か。
 写本と原本のあいだにちがいはないか。
 あるとすれば加筆や削除や修正がなされているということになるが、それはだれの手になるものか。
 また、その動機は何か。
 筆写者の注釈のなかには9世紀の実態に関する説明が含まれているが、それはどこまで信用できるか。
➡こういった問題を、一つひとつ片づけてゆかなければならない。
 そして、森本は、慎重かつ的確な手さばきで、これらの課題をクリアしてゆく。
(そのプロセスは、まるで推理小説の謎解きのようであるという)

・それによって、エッテルドルフ村の農民レインゲルスがプリュム修道院に負う義務は、
 ワインと穀物の運搬、垣根づくり、豚番、ねぎの栽培、パンとビールの製造、夜警、織物や縫製、干草やぶどうや穀物の収穫、ワインや塩の販売協力、そして、キイチゴ採取などだった、という史実が明らかになる。
(森本芳樹『中世農民の世界』岩波書店、2003年、122ページ)

➡プリュム修道院所領における農民の義務という、史実をめぐる認識の精度が上がってゆく。

・このように、ちゃんとした史料論にもとづく史料批判の手続きを続けてゆけば、100パーセント、というのは大げさかもしれないが、少なくとも相当な程度には正しい認識に至ることができるのではないか、という気もしてくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、61頁~64頁)

<実証主義への宣戦布告>
・ちゃんとした史料論にもとづいて史料批判を進めれば正しい認識に至ることができる、という考える立場を「実証主義」と呼ぶ。
 ちゃんとした史料論を利用するとか、史料批判は必要だと考えるとか、正しい認識に至るよう努めるとか、どの点をとっても実証主義は歴史学の基本中の基本だという感じがする。

・ところが、ここのところ、実証主義歴史学に対する風当たりは強くなる一方である。
 もちろん、実証主義歴史学が批判されるのは、最近に始まったことではない。
 フランスを見ると、すでに第二次世界大戦前、ブロックとリュシアン・フェーヴルという二人の優れた歴史家が生み出した、通称「アナール学派」が、実証主義歴史学を批判し、「新しい歴史学」をつくりあげる必要性を唱えている。
 あるいはまた、第二次世界大戦後の日本の歴史学界に大きな影響を与えたマルクス主義歴史学派も、一貫して実証主義歴史学を批判してきた。

・これらの学派が主張したのは、歴史家は「現在を生きる人間として、繰り返し過去に問いかけ、繰り返し過去を読み直す」のである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、38ページ)
・とすれば、特定の主観的な問題関心にもとづく視角から過去に接近せざるをえない、ということだった。 このことを、フェーヴルは、
「歴史家は……明確な意図、解明すべき問題、検証すべき作業仮説をいつも念頭において出発します。このような理由から、歴史はまさしく選択なのであります」と、簡潔に表現している。
(フェーヴル[Febvre,L.]『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、原著1953年、部分訳、18ページ)

※この一文が含まれているエッセー集『歴史のための闘い』は、まさに、歴史は選択だということをわかろうとしない実証主義歴史学に対する宣戦布告の書であったという。

・もしもフェーヴルたちの所説が正しければ、どんなに客観的かつ虚心坦懐に過去に向き合おうとしても、すべての史実を認識することはできない。
 自分の問題関心や視角というフィルターを通して史実を選択してしまうし、また、選択された史実だけを認識せざるをえない、ということになる。
 ただし、アナール学派やマルクス主義歴史学派が主張したのは、特定の問題関心や視角から歴史に接近する以上、すべての史実を一望のもとに捉えることはできない、ということであった。正しい認識は不可能だ、と主張していたわけではない。
 つまり、議論の焦点は「どの正しい認識を、どのように組み合わせればよいか」という、認識よりはむしろ解釈にかかわる問題にあったという。
 正しい認識に至るという実証主義歴史学の営みの中核に対して、疑問が呈されたわけではない。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、65頁~67頁)

<「構造主義」のインパクトとは何か>
・ところが、1970年代に入ると、そもそも正しい認識なんてできるのか、という根本的な疑問が、実証主義歴史学のみならず、歴史学の全体に対して寄せられるようになる。
 もしも正しい認識ができないとすると、正しい解釈も不可能であるから、歴史学の営みからは「正しさ」がなくなってしまう。
 たしかに歴史学は科学だったはずであるが、正しいか否かを判断できないものを科学と呼ぶのは、なかなか困難である。こうして、歴史学は「科学としての危機」に陥る。

・科学としての歴史学に危機をもたらしたのは、「構造主義」と呼ばれる思想である。
 現代思想学者の内田樹(たつる)によれば、構造主義とは、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」という考え方である。
(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋・文春新書、2002年、25ページ)
 ある思想家は、「存在は意識を規定する」と喝破した。
 ちなみに、日本では、構造主義は1970年代に広まりはじめる。とくに1980年代には、「ニュー・アカデミズム」と呼ばれ、爆発的に流行る。

・ところが、アナール学派やマルクス主義歴史学派の考え方とくらべると、構造主義の考え方はそれほど新しいのか、独自なのか、という疑問が湧いてくる。
 たしかに「ぼくらは特定の問題関心や視角から歴史を見るしかない」と主張している点で、両者は共通している。これだけでは、歴史学に与えた構造主義のインパクトの大きさは、どうも理解できない、と著者はいう。

・構造主義は、さまざまな学問領域が交差するところに生まれた思想であり、そのため、論者によって力点に多少のちがいがある。
 そのなかで、歴史学にインパクトを与えた存在といえば、言語学を背景とする論者、とくに言語学者にして「構造主義の父」とも呼ばれているフェルディナン・ド・ソシュールである。
 彼の所説は、アナール学派やマルクス主義歴史学派の所説を、さらには構造主義の一般的な考え方すら、大きく超えるものであった。

・ソシュールは、さまざまな言語をくらべながら、分析することを生業とする比較言語学者である。
 研究を進めているうちに、単語が指し示す対象の範囲が、言語によって微妙にずれることをどう説明すればよいか、という問題にぶつかる。
 つまり、フランス語で「ムートン(mouton)」は生きている羊と羊肉の双方を指すのに対して、これとよく似た英語の単語「マトン(mutton)」は羊肉のことしか意味しない。生きている羊を意味するのは、英語では別の単語「シープ(sheep)」である。

・ここから、ソシュールは、存在する「もの」、その「もの」に与えられる「意味」、そしてその「意味」を指し示す「言葉」、この三者のつながりは恣意的なものにすぎない、という独創的な見解にたどりつく。
※ぼくらは何をするにも言葉を使っているから、これはつまり「真実はわからない」ということである。こんな発想を「言語論的転回」と呼ぶ。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、67頁~70頁)

第2章 歴史学は社会の役に立つか


Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
・従軍慰安婦をめぐる問題は、日本人にとって、とてもセンシティブな問題であり、さまざまな議論を呼び起こした。ここでは、次の三人の議論を紹介しておく。

 歴史家の吉見義明
 政治思想史家の坂本多加雄
 社会学者の上野千鶴子

・吉見と坂本の所説を比べておくと、吉見は日本国民加害者論の立場に立ち、坂本は「指導層も含めた日本国民免責」論の立場に接近している。そして、吉見は史料批判を用いれば史実はわかるという立場をとるのに対して、坂本は、歴史は物語なので史実はわからないという立場をとる。(二人は二重に相対立しているという)
➡そして、吉見をはじめとする日本国民加害者論派と、坂本たち「新自由主義史観」派とのあいだで、激しい論争が始まる。
 ただし、当初は、両者の対立が二重の性格をもつことは明らかになってなかった。
 この点が明らかになるには、社会学者の上野千鶴子が論争に介入するのを待たなければならなかった。
 そして、上野の介入以後、論争は三つ巴の性格を呈し、そのなかで「歴史学は社会の役に立つか、役に立つとすればどう役に立つか」という問題が立ちあらわれることになる。

・上野は、フェミニズムの代表的な論客としても知られている。だから、彼女が論争に参加したとき、吉見たち日本国民加害者論派は、それを歓迎したようだ。
 上野は、基本的には吉見たちの側に立つが、しかし不満を表明する。
 歴史学の対象は一つしかない「事実」ではなく、各々にとっての「現実(リアリティ)」なはずであるという。多元的な歴史が存在していることを認めれば、日本国民加害者論派と「新自由主義史観」派は、「事実」が大切だと考え、証拠の存否をめぐって論争する点で、構造主義以前の古臭い土俵を共有している、という。
 これに対して、吉見は上野の所説に反発している。吉見によれば、従軍慰安婦論争のなかで問題になっているのは、国家の関与は論証できるか、強制徴集は論証できるか、という点である。大切なのは、史料や証言といった証拠によって、これらを確認(実証)することであるとする。「史実はわかるか」という問題をめぐる両者の見解が対立している。

※この三者の関係を整理すると、日本国民を加害者と考えるか否かについては、吉見と上野が坂本と対立し、構造主義の所説を受け容れるか否かという点では、上野と坂本が吉見と対立する、という構図になるという。
 論争は複雑にねじれ、三つ巴化していく。
 構造主義を受け容れた上野や坂本のほうが、「歴史学は社会の役に立つか」という問いに対して明確に「イエス」といっている。
 坂本にとっては、歴史学には「国民の物語」を紡ぎ出すという大切な仕事があり、また、この仕事をするかぎりで社会の役に立つ。上野は、他者の声に謙虚に耳を傾けなければならないと主張するが、それは、他者のアイデンティティを尊重する姿勢を身につけることに役立つからである。
 どちらの立場にとっても、歴史を学ぶことは、とくに集団あるいは個人のアイデンティティにかかわる、とてもアクチュアルな営みである。そして、歴史を学ぶときに大きな助けとなるものといったら、歴史学であるということになる。

※でも、たしかに構造主義は「史実はわからない」と主張し、歴史学の営みに即していえば、「正しい認識にはたどりつけない」と断言していたはずである。実際、坂本も上野も、一貫して、歴史は「物語」や「フィクション」や「現実」であって、「事実」ではないと主張している。
 とすると、複数の歴史像が存在することになるが、では、このように複数存在する歴史像のなかから一つを選びとる際には、いったいどんな基準を用いればよいのだろうか、さらにまた、正しい歴史像を選びとったことを証明するには、どうすればよいのだろうか、と著者は問うている。
 歴史学の立場からすると、これは簡単な問題だという
 歴史像を選びとる際の基準は正当性である。歴史像の正当性は、「どのように<事実>に迫りえているか、どの程度の説得力があるか、総じて歴史像が文書・記録・証言・物証などによってどれだけ論理的・説得的に構成されているか」という基準によって測定される。
 問題は、「どの解釈や認識がより正しいか」であるという。
 
※著者としては、歴史像の正当性を計る際に使える基準といったら、そこで提示される解釈や認識の正しさをおいてほかにはないと主張している。そして、歴史にかかわる解釈や認識の正しさについての知識を提供できる学問領域といったら、歴史学をおいてほかにはない。歴史学が提供する基準が絶対的に正しいという保証はないが、でも基準自体をよりよいものにしてゆくことはできるはずだという。
 歴史学は、歴史像の正当性を計る際に使える基準を供給し、それによって、歴史上のさまざまな問題をめぐる議論をよりよいものにしてゆくことができるし、また、そうでなければならない。
 ぼくらがコミュニケーションをよりよいものにしようとするとき、歴史学の営みは、きっと社会の役に立つツールになるはずである。というよりも、歴史家がどう思うかにかかわりなく、歴史学は社会の役に立つツールを提供してしまうにちがいない、と著者は主張している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、89頁、97頁~105頁)

Ⅱ 歴史学の社会的な有用性


<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
・「日本人」というアイデンティティをめぐる歴史像について考えるとき、まず示唆的なのは、『日本社会の歴史』と題された、新書ながら全3巻からなる大著である。
 著者の網野善彦によれば、「日本社会の歴史」とは「日本列島における人間社会の歴史」であり、「日本国」の歴史でも「日本人」の歴史でもない。

・この表題を選んだことの背景には、次の認識があるという。
「これまでの<日本史>は……いわば<はじめに日本人ありき>とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしてきた」
(網野善彦『日本社会の歴史 上巻』岩波書店・岩波新書、1997年、「はじめに」)

 こうして網野は「日本列島」という空間を対象に設定し、そこで展開される歴史を描き出す。

・特定の空間を対象に設定することのメリットは何かというと、それは、そこに「複数の」文化や「複数の」国家を見てとれるということである。
 網野はこのメリットを存分に活かし、複数の歴史が並存し、絡み合い、対立し合うという、いわば複数型の歴史像を提示する。
 とくに、東日本と西日本は、前者がシベリアの文化的な影響を受けたのに対して、後者は朝鮮半島の文化的な影響を受けたという点で、歴史的なちがいがある。

➡このちがいをもとに、縄文文化と弥生文化の関係や、壬申の乱(7世紀)や平将門の乱(10世紀)や承久の乱(13世紀)の性格など、さまざまな史実について、新しい見方を提示してゆく。
 そして、それは、常識的な日本史の知識しかもっていない者には、思いも寄らないものである。

・それだけではない。ふだん「検地・刀狩」とか「士農工商」とかをよく耳にしているせいか、かつての日本は閉鎖的で静態的な農村社会であり、基本的な産業は農業であり、人びとの多くは農民だった、と考えがちである。
 でも、日本社会のかなりの部分は、はるか以前から、海やアジア大陸に開かれた動態的な商工業社会であったという。
 
※これはそれまでの日本社会の歴史像を根底から覆すものであり、大きな反響を呼ぶことになる。
 網野の所説が大きな反響を呼んだのは、彼が提示した歴史像が「日本人」というぼくらの集団的なアイデンティティを再検討することを迫ったからである。
 そして、自分が何者なのか、どんな歴史をもっているのか、といったことを認識するうえで、この作業が必要不可欠だからである。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、112頁~114頁)

<アイデンティティを再確認する>
・網野の仕事などをきっかけとして、常識にある「日本人」像は大きく変容しはじめている。常識が常識として広く受容される背景には、なんらかの根拠がはるはずである。
 たとえば、しばしば「日本人は勤勉だ」といわれるが、こんな「日本人」像が受け容れられた背景には、第二次世界大戦後の高度経済成長期の「日本人」の働き方がある。
 それは、まさに「働きバチ」と呼ばれるにふさわしいものであった。

・では、なぜ「日本人」はこんなに働くのだろうか。
 「勤勉」というのは一つの道徳であるが、日常的に見かける道徳としては、このほかに「倹約」とか「謙譲」とか「孝行」といったものがある。
 安丸良夫によれば、これらは、生活習慣としては昔から存在していたが、規範としての道徳になったのは、江戸時代のことだった。
 
この道徳には、次のような特徴がある。
「けっして手段ではなく、それ自体が至高の目的・価値なのであるが、ただその結果としてかならず富や幸福がえられる。実践者をかりたてている動機は、最高善としての道徳そのものにほかならないのに、そのことがかならず結果的に自分の功利的利益をもたらす」
(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社・平凡社ライブラリー、1999年、初版1974年、15ページ)
※成功した人は優れた道徳の持ち主だということになるから、成功した人を批判することは難しくなる。また、成功していないことは道徳を身につけていないことを意味するから、「成功しないのは、社会のせいではなく、自分のせいだ」という発想になる。
 こうして、人びとは、「成功しようとすれば」、知らず知らずのうちに「道徳のワナにかかって支配秩序を安定化させる」ことになる。
 この道徳は、ものを考えたり行動したりする際に使ってしまうが、ただし存在を意識することが難しい、無色透明のレンズのようなものである。そして、そのせいで、ぼくらは「働きバチ」になってしまったわけである、と著者はコメントしている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、114頁~116頁)

<アイデンティティを相対化する>
・今日の「日本人」は、四角い形の家に慣れている。四角い理由は何か、それ以外の形がありうるか、なんて問題は、ふつう考えない。でも、グレート・ジンバブウェの歴史を知ると、四角以外の形の家もあることがわかる。さらに、日本の家が四角い形をしているのは当たり前のことではなく、そこにはなんらかの理由があるはずだ、ということもわかる。

・たとえアフリカ大陸という遠い世界の歴史像であっても、ぼくらの日常生活に影響をおよぼさないということはない。それを知ってしまうと、「日本人」のあり方を当たり前のものとはみなしにくくなるからである。
 これは、「日本人」というアイデンティティを相対化する途が開けることを意味している。 
 ぼくらの集団的なアイデンティティという観点から見る場合であっても、外国にかかわる歴史像は役に立つ。
さらにいえば、日本と、ジンバブウェをはじめとする諸外国とは、歴史的にまったく没交渉だったわけではない。
 たとえば、音楽の歴史を見てみるだけでも、日本と外国はさまざまに多様な交流をくりひろげてきたことがわかる。

・日本のポピュラー・ミュージックについての知識は、ブラックとか、ヒップホップとか、スクラッチとか、ラップとか、近年の傾向にはついていけないと著者は感想をもらしている。
 でも、文化学者の佐藤良明によれば、日本のポピュラー・ミュージックの歴史的な変化には、ちゃんと理由も背景もあるという。
「ブラック・ミュージック……を吸収した新しい英米のポップスが世界に浸透していくという大きな流れの中で、20世紀後半の日本の大衆のうたの展開を、私たちの心の移行過程として語る」
(佐藤良明『J-POP進化論』平凡社・平凡社新書、1999年、26ページ)
という、壮大な営みが可能になる。

・明治維新を経て成立した明治政府は、「日本人」の心性を近代化するための方策として、大々的に欧米の音楽を導入した。その手段として利用されたのが、文部省唱歌や軍歌である。ただし、民謡に代表される日本の伝統音楽は「日本人」の心性に深く根づいており、また、欧米の音楽もたえず変化してきたため、その後の展開は複雑なものになる。
 佐藤良明は、「ヨナ抜き音階」と「単純五音階」の対立を軸に、二つの音楽の接触のなかから、今日の「J-POP」が誕生する過程をあざやかに描き出す。
 日本のポピュラー・ミュージックは、単に「民謡色の払拭と欧米音楽化」と表現するだけではすまないような複雑な関係を、欧米の音楽と取り組んできた。

※ちなみに、いちばん驚いたのは、民謡とブラック・ミュージックが同じ音階を利用している、という佐藤の指摘であったという。
 これは、「日本人」というアイデンティティの強力な支柱だと思われている伝統文化ですら、じつは外国の文化と要素を共有したり、相互に交流し合ったりしている、ということを意味している。

※こんなことを知ると、「日本人」というアイデンティティを軽々しく口にすることはできなくなる。
 「日本人」とは何か、もう一度考え、相対化しなければならない、という気になる。
 外国と日本の関係にかかわる歴史像は、ぼくらの集団的なアイデンティティを相対化する際に、重要な役割を果たしているという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、118頁~123頁)

第3章 歴史家は何をしているか


第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
☆ここまで、次の二つの問題を考えてきた。
①史実はわかるのか。
②歴史を学ぶことは社会の役に立つのか。

・そして著者がたどりついた結論は、第一の問題については、史料批判などによって「コミュニケーショナルに正しい認識」に至り、さらにそこから「より正しい解釈」に至ることはできる。つまり、(絶対的な真実ではないが)その時点でもっとも確からしいことはわかる、というものであった。
・第二の問題については、歴史家が真実性という基準をくぐり抜けた知識を供給するという仕事に取り組むとき、それは確実に社会の役に立っている、というものであった。

☆ここでは歴史家の仕事、つまり、歴史家が具体的に何をしているかを垣間見ることにする。
 どんな動機でテーマと対象を選択するのか、どんな手続きを用いるのか、あるいはまた、どんな史料を用いるのか、といったことである。

・歴史家の仕事と聞いて思いつくのは、中学校や高校の歴史関係の授業、とくにそこで使われた教科書であろう。ここでは、高校世界史の教科書を例に、学校で習うことと歴史家が明らかにしてきたこととを比較し、両者のちがいと共通点を明らかにする。

・高校世界史の教科書といえば、膨大な史実と年号がつめこまれ、それらを暗記するためにラインマーカーで引いた線がいっぱいの本を思うだろう。つまり、「教科書=年号つきの史実が時代順かつ地域別に並べられた年表を文章化したもの」としか見えない。
(無味乾燥な史実が羅列されているだけだとか、ストーリーがないとか、単一の歴史の見方を押しつけているとか、その批判は枚挙に暇がない)

・でも、ちょっと考えると、様々な疑問が生まれる。
 教科書にある執筆者紹介を見ればわかるように、教科書を書いているのは、大学に籍を置く、一線級の歴史家たちである。だから、現在の歴史学にとって重要な問題を知らなかったとは考えられない。

・歴史家の営みは、史実を認識できるか否かを考え、どんな解釈がまともかを選択し、描き出した歴史像が社会の役に立つか否かに、想いをめぐらせることにあるから、そこから生み出されたものが単純なものになるはずがない。
 つまり、歴史家に必要な資質は、「疑い、ためらい、行ったり来たりすること」であるが、それは歴史教科書の書き方とは相容れない。
 ただし、では、歴史家の営みをそのまま文章化すれば問題はなくなるか、といえば、とんでもない。
 イギリスの産業革命を例にとって、歴史家の営みを文章化してみると、次のようになるという。

 「産業革命とは何か。そもそもそんな史実が存在したか否かについては疑問が残るが、
 それは措くとして、その定義については諸説がある。その原因についても、結果につい
 ても、諸説がある。産業革命の歴史像としてはさまざまなものがあるが、ここでは……
 というものにしたい。では、そんな歴史像を提示することに社会的な意義があるか否か
 といえば、私は意義はあると考えている。その理由は……」

※これでは、何をいっているのか、何をいいたいのか、よくわからない。
 読者も歴史家ならば、これでもよいかもしれないが、そうでない読者は困ってしまう。
 断定的で滑らかで、場合によっては、単純で退屈な歴史教科書の書き方のルールは、いいたいことをはっきり伝えるためにはやむをえない選択なのかもしれないという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、132頁~134頁、151頁~152頁)



Ⅱ日本の歴史学の戦後史


<「比較経済史学派」の問題設定>
☆ここで、第二次世界大戦後の日本における歴史学の歴史をふりかえってみよう。

・だいたい、1960年代までのあいだ、日本の歴史学界で大きな力をもっていたのは、「比較経済史学派」という立場をとる歴史家たちであった。
 この学派が興味深いのは、当時、歴史学界のみならず、広く社会に対して大きな影響力を行使したからである。
 指導的な歴史家たちがオピニオン・リーダーとして世間に認知され、その言動が人びとの注目を集めていた。

・「比較経済史学派」の創設者は、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史の専門家だった大塚久雄である。
 ヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは、「資本主義の発達」である。
 「資本主義」とは、資金をもつ資本家が賃金を払って労働者を雇い、機械を導入して工場で商品を生産する、という「近代に独自な」生産システムである。
 
※通説では、この資本主義の成立をもたらしたのは、「貨幣経済の発達」だった。
 でも、大塚は、貨幣経済はいつの時代にも、どこの地域にも存在していたはずだと考えて、通説に疑問をもち、ヨーロッパ独自の史実に資本主義の成立の動因を求めるべきことを提唱した。
 そう考えて歴史を見直すと、経営規模は小さいが自由な生産者である「中産的生産者層」が両極分解して資本家と労働者になった、という史実が目に入る。これこそが資本主義の発達の動因だ、というわけである。
(大塚久雄『欧州経済史』岩波書店・岩波現代文庫、2001年、初版1956年、214~215ページ)

※でも、もう一度見直してみると、いろいろと疑問が湧いてくるという。
 たとえば、どうしてヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは資本主義の発達といえるのか。貨幣経済がいつの時代にも、どこの地域にも存在していたからといって、どうして資本主義の発達の動因をほかに求めなければならないのか。
 大塚の描く歴史像は、たしかにすっきりしているが、よく見ると、すっきりしすぎているという。

・じつは、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史を研究する大塚の念頭には、つねに日本の現状に対する問題関心があったようだ。
 日本は、開国以来、イギリスやアメリカやドイツの生産能力に驚かされた。
 また、第二次世界大戦に敗北したため、一刻も早く経済を復興させなければならなかった。
 そして、先進諸国に追いつくためには、これら諸国の歴史的な経験を知り、それを応用することが必要だし、有効である。
 こう考えて、大塚は、先進諸国を代表するイギリスの経済史の特徴を解明しようとした。
 イギリス経済史を研究する目的は、それを日本の経済復興のモデルとして利用することにあった。
 大塚にあっては、なによりもまず「いま、ここ」というアクチュアルな問題関心が先行した、と著者はいう。
(大塚が提示する歴史像がすっきりしており、見ようによってはすっきりしすぎているのはそのためである。こんな大塚の姿勢や枠組みは「比較経済史学派」の歴史家たちに継受されてゆく)
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、153頁~156頁)

<「近代人の形成」という問題>
・大塚の所説の特徴は、歴史像のアクチュアリティを重視したことだけにとどまらない。
 もう一つ大切なのは、工場や機械といった生産システムのあり方だけに着目したわけではない、という点である。
 実際、生産システムだけを輸入しても、そこで働く人びとの思考や感覚や行動のあり方が変わらなければ、それらは宝の持ち腐れになってしまう。
 大塚は、「自律的に、つまり自分で決めて行動するような人間」が誕生しなければ、経済復興も無理だし、さらには日本社会そのものの再建も難しい、と考えた。
(こんな人間を「近代人」と呼ぶことにする。近代人が生まれるためには、何をどうすればよいのか。この問題を提起した大塚自身も、それを解くことはできなかったそうだ)

・では、この事態に直面して、その後の歴史家たちは、どう対処したのだろうか。
 1950年代まで、歴史家たちは、産業革命の前提条件である「中産的生産者層の両極分解」を重点的に研究してきた。でも、1960年代になると、日本も、戦後復興の時代から経済成長の時代に入った。この事態に対応して、産業革命そのものを研究しなければ、歴史学は時代に取り残されてしまうかもしれない、というわけである。産業革命の研究はアクチュアリティをもつものであった。
 でも、このあと、歴史学はアクチュアルでなければならないという前提そのものに疑問を投げかける研究が登場する。それらは「社会史学」から大きな影響を受けていた。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、156頁~158頁)

<社会史学の出現>
・社会史学とは、単なる「社会の歴史」を分析する営みではない。
 それは、世界各地で1960年代に出現し、日本では1980年代に広まった一つのアプローチを指している。
・社会史学に分類される研究には、さまざまなものがある。
 たとえば、支配階層ではなくて、民衆に着目する研究。大きな出来事ではなくて、日常生活を重視する研究。大系だった思想ではなくて、日常ののなかの心性(メンタリティ)を分析する研究。公的な組織ではなくて、日常の社会的結合(ソーシャビリティ)に狙いを定めた研究。あるいは、国家ではなくて、地域を分析の単位とする研究などである。

※これらに共通する特徴といえば、それまでの歴史学が、支配階層と大きな出来事と体系だった思想と公的な組織と国家を重視してきたことを念頭に置き、「歴史の読みなおしを志向」している点にあるようだ。
 その際に社会史学が採用する基本的な視点は、
「一つには、すべての事業を常に全体的な連関のうちに捉えること、第二には、過去を常に現在との対話のうちに捉えること」の二つである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、37ページ)
 そして、日本における社会史学の代表的な成果として、次の著作を紹介している。
〇川北稔ほか『路地裏の大英帝国』平凡社・平凡社ライブラリー、2001年、初版1982年)

・この時代以降、歴史学界における社会史学の影響は拡大し、多くの歴史家を、さらには多くの読者を惹きつけることになった。
 社会史学にもとづく歴史書は、しばしば日常生活にかかわる身近な話題を取り上げており、たとえアクチュアルではないとしても、具体的でおもしろい。そして、社会史学の興隆という傾向は、21世紀に入っても続くことになる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、158頁~162頁)

Ⅲ 歴史家の営み


<歴史家の仕事場>
☆では、今日の歴史家は何をしているのだろうか。
 あれやこれやの史実を時間を追って叙述するような文章を読んでも、歴史家の営みを垣間見ることは困難である。ちなみに、こんな文章を「通史」と呼ぶが、その典型が歴史教科書である。
・それでは、どんな文章を読めばよいか。
 いちばん適切なのは専門の歴史家向けに書かれた「学術書」である。
 そこでは、「疑い、ためらい、行ったり来たりする」という、歴史家に必要な資質に沿ったルールに則って、文章が紡がれているはずである。
(でも、学術書は敷居と値段が高すぎる。学術書を買い、読み、理解するのはなかなかたいへんである)

・次に頭に浮かぶのは、優れた歴史家が自分の研究生活をふりかえった回想録である。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、163頁~164頁)

第3章 歴史家は何をしているか


<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>
・常識を疑わせるようなテーマをもち、ちゃんと料理した史料にもとづき、読み手をわくわくさせるような文章で表現されている歴史像であっても、その「深さ」は千差万別である。
 そして、歴史像の深さは、史料に対する歴史家の問いかけ方によって決まる。

・史料に対する問いかけ方を考えるうえで、示唆的なものとして、美術史学の営みがある。
 若桑みどりによれば、美術史家が絵画や彫刻といった美術品を史料として取り扱う方法は、大きく三つに区別できるとする。
①「様式論」
・これは、美術品をつくった人がどんな学派に属するかを決定する、いわば分類学である。
 「子どもの遊戯」という有名な絵を例にとると、その作者ピーテル・ブリューゲルは、精密でカラフルな画風で、庶民生活を描いた「ネーデルラント学派」に属する、といった具合である。
 ただし、これだけでは、絵に込められた意味はわからない。

②「図像学」
・これは、絵のなかに表現されたものの「意味」を検討する方法である。
 たとえば、同じブリューゲルに「バベルの塔」という絵がある。
 これは明らかに『聖書』に出てくる逸話をモチーフにしているから、この絵の意味を『聖書』に探る、といった具合である。
 ただし、これだけでは、ブリューゲルがこの絵に込めた意図はわからない。

③「図像解釈学」
・どんな絵でも、それを描いた人は必ず生きた時代の状況に影響される。
 だから、画家が生きた時代の特徴を知れば、彼(女)の「意図」に接近できるはずである。
 たとえば、ブリューゲルが生きた16世紀のネーデルラントの歴史を知ると、彼が「バベルの塔」で表現しようとしたものは何かが見えてくる。
(若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房・ちくまプリマーブックス、1993年)
(若桑みどり『絵画を読む』日本放送出版協会・NHKブックス、1993年)

※ここからわかるのは、絵に限らず史料は問いかける対象であり、問いかけ方が下手だと何も教えてくれないが、上手だといろいろなことを教えてくれる、ということである。
 ここで区別した三つの方法を見ると、様式論よりも図像学のほうが、そして図像学よりも図像解釈学のほうが、問いかけ方としては広いことは明らかだろう。
 それは、史料に問いかけるにあたって、なるべく幅の広い知見と関連づけようとしているからである。
 そして、問いかけ方のちがいを反映して、同じテーマ、同じ史料批判、同じような文章であっても、生まれる歴史像の深さがちがってくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、175頁~177頁)

終章 歴史学の枠組みを考える


<「物語と記憶」という枠組み>

・史実はわかるか、昔のことを知って社会の役に立つか、という二つの問題は、互いに無関係ではない。実際、歴史学をめぐる議論のなかでは、両者は密接にかかわるものとして論じられている。
 吉見義明たち歴史家を批判した上野千鶴子と坂本多加雄は、政治的な立場こそ正反対ながら、史実はわからない、でも昔のことを知ることは役に立つ、という二つの判断を共有していた。

・史実がわからないのであれば、それは「物語」と大差ない。
 これは、「歴史は物語である」という立場である。
 また、自分の身近にあり、真偽を問わずとも役に立ちそうな過去は、「記憶」と呼ぶことができる。歴史について、こんな側面を重視するとき、「歴史は記憶である」という立場に立つ。つまり、上野や坂本は「物語と記憶」という枠組みで歴史学を捉えているという。
 「物語と記憶」という枠組みは、なにもこの二人だけのものではないし、歴史家でない人びとに限定されたものでもない。

・20世紀末から今日にかけて、「冷戦」という枠組みが壊れ、新しい枠組みとして「歴史の終わり」とか「文明の衝突」とか「文明の対話」とかが登場しては消えてゆくさまを、目の当たりにしてきた。
 「史実なんてわかるのか」という疑問や、「自分のアイデンティティを支える記憶は大切だ」という印象は、身近なものに感じられる。
 「物語と記憶」という枠組みが受け容れられてきたのも、そういった時代背景があるのだろう。

・さらにまた、この枠組みが重視されるようになってきたのは、日本だけのことではない。
 構造主義が外国から日本に輸入されたことからも予想できるように、諸外国でも歴史を考えるうえで、物語や記憶を重視する立場は、広く受容されるようになっている。
 たとえば、構造主義の本場ともいえるフランスでは、すでに1980年代「記憶の場」というコンセプトのもとに、膨大な数の歴史家を集めた壮大なプロジェクトが実施されている。
(ノラ[Nora,P.]編『記憶の場』全3巻、谷川稔監訳、岩波書店、2002~03年、原著1984~92年、部分訳)

※こういったことを認めたうえでも、著者は、「物語と記憶」という枠組みにどこか違和感をもつという。
 それは、「物語と記憶」という枠組みが「真実性という基準」を無視しているからである。
 というよりも、「真実性という基準」を絶対視するから、というべきかもしれないともいう。
 実際には、「100パーセントの真実」なんて、ほとんど存在しないから、この立場に立つと、議論はいつまでたってもすれちがい、決着しない。
 だから、もう少し、議論を生産的なものにするための枠組みを構築しなければならない、と著者はいう。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、182頁~185頁)

<「通常科学」とは何か>
・トマス・クーンという科学史家がいる。
 彼は「パラダイム」という言葉を世間に広めた。
 彼は、歴史学に限らず、ほかの科学についても、100パーセント正しい認識にたどりつくことはできないと主張した。大きな反響と議論を巻き起こした。
 クーンは、自然科学の歴史には、ときどき断絶的な変化が見られるという。
 断絶的というのは、「時代遅れの理論は、捨てられたからといって、原則として非科学的ではない」ということである。
 この現象を「いろいろな学派が現れるのは、方法に誤りがあるのではなくて……世界を観る観方の違い、科学のやり方の違いがあるからである」と解釈する。
(クーン[Kuhn,T.]『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、1971年、原著1962年、3,5ページ)
 そして、この「世界を観る観方」を「パラダイム」と、ある「パラダイム」にもとづく安定的な科学を「通常科学」と、ある「通常科学」から別の「通常科学」への断絶的な変化を「科学革命」と、それぞれ呼ぶ。
 科学の歴史は、ある「世界を観る観方」にもとづき、安定していた科学が、何かのきっかけで動揺し、別の科学に取って代わられる、というものになる。
 例として、地動説を提唱したコペルニクスによる天文学の革新について言及している。
 天動説と地動説は互いに異なった「世界を観る観方」であり、コペルニクスはそれまでとちがう「世界を観る観方」を提示して、天文学を断絶的に変化させた、という。

※クーンの所説から読みとれる大切なことは、100パーセント正しい科学とか、100パーセントまちがっている科学というものはないということである、と著者はいう。
 みんなで検討し合って「より正しい」科学を選びとってゆくことは、不可能ではない。
 天動説と地動説の例でいえば、どっちを利用したほうがいろいろな現象を説明しやすいかという問題について、みんなで考えて、そのうえで「より正しい」ものを選ぼう、ということである。もちろん、「より正しい」ものが100パーセント正しいという保証はない。その意味では、この選択はつねに暫定的なものである、と著者は主張している。
そして、歴史を見る枠組みにも、クーンが示唆する考え方を適用すべきだ、と著者は考える。

・史実はわかるかといわれれば、100パーセントわかるとはいえない。でも、100パーセントの史実なんてわからないからといって、過去のことすべては物語にすぎないと考えるのも、早計すぎる。そんなにあわてず、現在の段階で最善を尽くし、史実をより正しく認識し、解釈し、よりよい歴史書を構築することを考えるべきだという。
 将来どう評価されるかはわからない知識を提供するという点で、歴史学もまた一つの「通常科学」である。歴史学が用いるべき「真実性という基準」は、相対的で暫定的なものである。だから、認識や解釈や歴史像が正しいか否かは、時間が経過するなかで評価されなければならないとする。
 歴史学が提供する知識が相対的で暫定的なものだということは、科学としての歴史学にとっては、マイナスではなくプラスの意味をもっている。ある時点で得られる知識が相対的で暫定的なものであるからこそ、さらに過去の探求を進めようという意欲が湧いてくるし、歴史学はそれによって変化し、進化してゆくからである。
 だからこそ、史実を知ろうとするという歴史学の基本的な営みは、ダイナミックなものでありうるという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、185頁~188頁)

<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
・コミュニケーションを改善するためのツールになるとか、アクチュアルなモデルや教訓になる歴史像を提示するというかたちで、歴史学は個人の日常生活に役立つ実践的な知識を提供する力をもっている。日常生活に役立つという観点から見ると、歴史学は十分に「使える」はずである。
 歴史学が供給できるような「個人の日常生活に役立つ実践的な知識」を「コモン・センス」と呼ぶことにする。「コモン・センス」とは、日常生活を送るために必要な「常識」とか「教養」といったものをあらわす言葉である。
 充実した生活を送るために必要な知識は、いつでも、どこでも、必要である。「教養」はつねに不可欠な存在である。問題は、ぼくらの時代にはどんな知識が「教養」に含まれるか、にある。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、188頁~191頁)

<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>
・ここで提示した二つの概念、つまり、「通常科学」と「コモン・センス」を組み合わせれば、歴史を考える際に使える枠組みが一つにできあがる、と著者は考えている。
 この枠組みにもとづけば史実がわかるかという問題に対しては、「歴史学も通常科学でありうる以上、みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」という。
 「社会の役に立つか」という問題に対しては、「歴史学は、さまざまなかたちで、ぼくらのコモン・センスを提供できる」という。
 「物語と記憶」という枠組みが生産的でないとすれば、この「通常科学とコモン・センス」という枠組みを利用すべきだ、著者は主張している。
 利用できるかぎりの証拠をかき集め、みんなで突き合わせ、そして蓋然性が現在のところは高いのであれば、ほかの「通常科学」と同じように、そのことを認め、そのうえで、どんな「コモン・センス」が得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味がある、と著者は考えている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、191頁~192頁)


「あとがき」より


☆著者は次の三つのことを念頭に置いて、筆を進めてきたという。
①歴史を学ぶことを「歴史学」と呼ぶとすれば、歴史学について、なるべく体系的に基本的な知識を整理すること。つまり、歴史学の入門書として機能すること。

・歴史学について、「適切な入門書」の条件を充たすものとしては、たとえばエドワード・カー『歴史とは何か』(岩波新書)や渓内謙『現代史を学ぶ』(岩波新書)がある。
 前者はちょっとレベルが高いし、後者はしばらく前から品切れ状態。
 というわけで、それなら自分で書いてみようと思ったという。
 
②歴史にかかわる優れた啓蒙書を紹介するブック・ガイドとして機能すること。
・だれでも興味深く読めて、値段も高くなくて、でもレベルは低くない本を「啓蒙書」と呼ぶとすれば、歴史家の手になる優れた啓蒙書は、とくに新書や各種「ライブラリー版」として、結構刊行されている。
 しかし、それらはあまり知られていなし、書店でたまに見つけても、大量の本にとりかこまれて窒息気味。
 たとえば、良知力『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)は、おそらく塩野七生や司馬遼太郎といった一流の歴史小説家の手になる歴史小説と同等か、あるいはそれ以上の「物語」を紡いでいるが、この書名がよく知られていると思えないという。
 網野善彦『日本社会の歴史』(岩波新書)は、刊行当時、相当話題になった本であるが、それでも広く読まれているかといえば、そんな気はしない。

※これはとても残念な事態である。
 どうして優れた啓蒙書だけが取り残されなければならないのだろうかという。

③歴史を考える枠組みを再検討してみること。
・小田中直樹氏の前著『歴史学のアポリア』(山川出版社、2002年)で、日本の歴史学について、過去を顧みながら、今日の位置を考えてみたようだ。
 この本は、最近流行りの「物語と記憶」という枠組みを念頭に置きながら、それ以外の枠組みはありうるかという問題を考えたものだった。
 でも、たどりついた結論は、「ないわけではない」という中途半端なもので、「では、どんな枠組みがあり、また<使える>のか」という問題には答えを出せなかった。
 前著で立てた二つの問題(史実はわかるか、過去を知ることは社会の役に立つか)を再度取り上げ、議論を進めてみようと考え、本書を書いたという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、196頁~199頁)