《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その14中国14》
24中国14 清Ⅱ
この篇には清宣宗道光元年(1821)から、清王朝の滅亡(1912)の前後に至るまで、およそ92年間の書蹟を収めている。また清王朝の金石学を全般的に取り扱っている。
中国書道史14 神田喜一郎
清王朝の嘉慶・道光時代、すなわち19世紀初めのころになって、中国の書法には、碑学の勃興という大きな変革がもたらされた。
清王朝では、その初期から考証学という実証的な学問が栄えた。この考証学の一翼として、金石文字を取り上げて研究する、いわゆる金石学が発達した。各地方の埋もれた金石資料を探し求め、発見されたのが、南北朝時代、とくに北朝に属する地域に残存した石刻である。それらの石刻の書には、当時のままの生々とした姿が伝えられていて、模刻を重ねて伝わった法帖などによる王羲之派の書に馴れた者には、精彩のあるものとして映じた。
この北魏の書に初めて注目したのが、阮元(1764-1849、図26、27)である。彼は「南北書派論」および「北碑南帖論」という画期的な論文をかいたが、これらの論文は中国書壇に一大革命をまきおこす素因となった。そこでは、次のようなことを論じている。
南北朝時代においては、南朝と北朝とでは書風が全く異なっているという。南朝の書を伝えるものは法帖であり、北朝の書を伝えるものは北碑であるが、北碑の書はその中になお古代の隷法の遺意を存しているのに対して、南帖の書はこれを失ってしまっているから、北碑の書こそ、書法の正統とすべきであるというのである。つまり、今日の楷書や行書や草書は本来隷書の変化したものであるから、隷書の遺意を存していることが必要であるというのがその要旨である。
この阮元の説は、これまでの二王の典型を尊ぶ帖学にとっては、その急所を衝いたもので、書を学ぶ人々には大きな刺激と反省を与えた。
この説に共鳴したのが包世臣(1775-1855、図36-39)である。「芸舟雙楫」という著作において、北碑の書法を尊重すべきことを説きたてた。のみならず、包世臣は阮元のように単に大局から見た理論だけを説いたのではなく、実際の書法の技術面まで委しく説いたので、その影響は大きかったという。そして中国の書法を帖学から碑学へと一大転換させた。
ただ、そうはいうものの、阮元と包世臣は、どちらかといえば、書法の実技よりも実は理論を説くにすぐれていたと神田喜一郎は理解している。現にこの二家の揮毫した書(図26、27、図36-39)を見ると、たいていは穏健な帖学派の書であって、必ずしも北碑の書風を全面的に摂取していないと神田はみている。したがって、いわゆる碑学が隆盛におもむくには、この二家の理論のほかに、実際そういう書をよくした書家の業績が必要であった。その書家の一人が、鄧石如(1743-1805、図2-13)である。包世臣は鄧石如を碑学派の第一人者として推称した。鄧石如は普通には完白の号で知られているが、彼は秦漢の古碑に遡って篆隷の書法を深く追求して新しく篆隷の書法を発明し、また北碑をも学び、いわゆる碑学の開祖となった。その作「四体帖」(図2-13)は遒麗ならぶものがないと神田は評している。
鄧石如につぐ碑学派の大家は、伊秉綬(い・へいじゅ、1754-1815、図16-21)である。
彼は隷書をよくし、その法を行草にも応用して、異色のある書をかいた。鄧石如に比べるとその力量は劣るが、書風の高古なところに一種の特徴を示している。この鄧、伊の二家は乾隆の末から嘉慶にかけて、生新な書法を実技の上にあらわし、とりわけ鄧完白は当時の士流に推称されて、縦横の筆力を揮い、世間の耳目を驚かした。
一方においてはまだ帖学の名家も存し、また篆隷においても銭坫(せん・てん、1741-1806)、図15)といった反対派がいたが、鄧、伊の生新な書風はこれらの伝統派の諸家を圧倒し、道光年間(1821-1850)になると、その書風はついに天下を風靡した。この書風は二王の典型を尊ぶ帖学派とは対照的な立場にたつものであるが、また唐の顔真卿以来の革新派の書風とも異なったもので、中国の書道に全く新しい分野を開拓した。
この新しい傾向の諸家としては、次の人々がすぐれている。
・桂馥(1736-1805、図1)
・陳鴻寿(1768-1822、図28-31)
・姚元之(1776-1852、図35)
・呉熙載(1799-1870、図42-45)
・何紹基(1799-1873、図46-55)
・呉雲(1811-1883、図58)
いずれも書をよくするとともに、金石の研究にも熱心であった。とりわけ何紹基ははじめ顔真卿の書から入ってのち、北碑に進んだ人で、行草においても高い風格を示し、この道の学問においても造詣が深かった。鄧、伊にならんで、こうした人々が輩出し、ここに碑学の全盛時代を現出した。
ところで、碑学は清末に至るまで隆盛であった。咸豊・同治時代には趙之謙(1829-1884、図70-75)が現れた。彼は書画篆刻いずれにもすぐれていたが、書においては北碑の特異な方筆の書法を巧みに駆使して、一種の勁抜な作風を作り出し、鄧石如、何紹基についで碑学派の大家として名を馳せた。この三家は同じく北碑を学んだのであるが、鄧は剛健、何は渾厚、趙は清勁と、それぞれの特質を発揮した。
また趙之謙とほぼ同時代の大家に、張裕釗(ちょう・ゆうしょう、1823-1894、図66-69)がいる。彼は曽国藩(1811-1872、図57)の門人で、書法の専門家ではないが、北碑の書法の上に唐宋の筆法を加味して、気品の高い書をつくった。
清末の光緒時代になると、康有為(1858-1927、図94-97)が出て、包世臣の著述のあとを受けて『広芸舟雙楫』を著し、包の説を一層強調した。
ただしこの時代になると、碑学派がひきつづき隆盛をきわめたが、その間気分の変わったものが生じてきた。
楊沂孫(1813-1881、図59)、呉大澂(1835-1902、図82、83)は三代の古銅器の銘文にさかのぼり、楊峴(1819-1896、図62-65)は同じ隷法といっても、古い漢碑の「開通褒斜道碑」のようなものを好み、また呉昌碩(1844-1927、図91-93)はもっぱら周の石鼓文を習った。このように新生面を開こうとした人が次々に現れた。
楊守敬(1839-1915、図86-89)は明治13年(1880)、日本に来朝し、日本に遺存する隋
唐の書蹟を見て、これを取り入れようとしたが、大成するには至らなかった。楊守敬に少し遅れて出た羅振玉(1866-1940、図102、103)も日本に来朝した学者で、甲骨文字の筆法を応用して新鮮な一面を開いた。
ただ、こうした中にも、翁同龢(おう・どうわ、1830-1904、図76、77)のように、劉墉のあとを追って董其昌に遡り、再び帖学を復興しようとしたものもいる。しかしこれは全く異例のことで、この時代は大勢からみて、碑学がその主流をなしていた。
この時代における金石学の隆盛にともなって、篆刻においても専門的な研究や蒐集が行われた。明末の篆刻の大家は秦漢の古印を範としたけれども、その古意を得ず、浅俗の弊を免れなかった。清王朝になると、この流弊を改めて、新しい作風を打ち立てた。徽州の程邃(穆倩)を祖とする徽派、杭州の丁敬(敬身)を祖とする浙派、そして鄧石如を祖とする鄧派が現れ、この三つの流派が清代における篆刻の主流となった。以上のように、神田は清代の後半期の書道史を概説している。そして次のように結語している。
清初以来ひろく行われていた帖学は、金石学の興隆によって導かれた北碑の発見に伴い、次第にその影をひそめてゆき、乾隆、嘉慶から道光にかけて、碑学の勢力は増大し、結局清王朝の後半期はほとんど碑学によっておおわれた。その間、考証学を重んずるこの時代の風潮は、金石学・考古学に新資料に基づいて、生新な書風がうちたてられた(神田、1頁~13頁)。
北碑派について 中田勇次郎
書というものは、本来、毛筆によって書かれた真蹟を主とすべきものであるが、真蹟というのは、紙や帛に書かれているために、保存が悪く、それほど長く世に伝わるものではない。また、万一伝わったとしても、その数はきわめて稀である。そこで、すぐれた人物の名を後世に伝えるためには、いつまでも朽ちることなき金石に刻して、長く名を残そうとする習慣が古くから行われた。
中国においては、このようなわけで、金石に文字を刻したものが、早くからかなり多く伝えられているが、その文字を刻すると同時に、そこに用いられている文字の姿を美しく表現することも、自然の勢いとして行われてきた。その刻石から発展して、一定のまとまった形式を整えるようになったものがいわゆる碑であって、後漢時代にはこれが最も流行し、その典型的なものがたくさん作られた。これには正式の書体としてたいていは篆隷の体が用いられた。
この他にもう一つ真蹟を伝える方法があった。それは、六朝から隋唐の頃までに行われた、いわゆる双鉤塡墨の搨模によって模写本をつくり鑑賞に備える方法で、この方法は唐代まで行われていたが、その後はようやく廃れて、また別に刻本の法帖によって伝える方法が案出された。すなわち、古人の尺牘などを模勒して木板や石材に鐫刻し、それを拓本にとって帖冊に仕立てて鑑賞することのできるようにする方法である。これは碑よりもずっと遅れて、五代の南唐になってから初めて試みられ、宋代の初めに『淳化閣帖』が模勒上石されてから、広く世に行われるようになった。これには楷書は少なく、主として行草の書体で書かれた古人の尺牘の類が原本として採用された。こういうわけで、碑と帖とはもともと真蹟から出ていることに変わりはないが、性質も形態も異なっているし、それが成立した動機も時代も同一ではない。
ただ、その歴史的な経過の上において、碑は金石に刻されて、地上のしかるべき位置に建てられたものであるが故に、多くは風雨にさらされて剥蝕したり破損したりする恐れはあるが、幸い土中に埋もれていたり、風雨にさらされることがなくて、保存の良好であったものは、その建立された当時の、刻したままの書法がそのまま生々として伝えられることとなり、書かれた時代の書が刻石ながらも、目のあたりに展開されるという特点があった。その上、これは古くは碑石の表面に直接書丹したものを刻したので、比較的原蹟の姿がそのまま伝えられるという長所があった。ただその間において、刻手の上手下手とか、石質の精粗によって、多少の優劣の差は免れないが、保存さえよければ、大体においてその製作当初そのままの書の姿が見られるという点ではよい特色を備えていた。
ただし、後世これを重刻したり、また原石を洗碑(碑の文字をさらえてきれいにし、文字の形を完全にして却って原形を破壊すること)したりしたものもあり、原石原拓の吟味が必要である。
法帖の方は、原則としては一度原本から模勒した上、それを木や石に鐫刻する職人の手をへているので、刻石のように書丹したものとはいくらか感じがにぶくなっている(ただし、「楽毅論」は書丹したと伝えられるから例外である)。
またその創製の時代が宋以後に降るために、それほど古い当初のままのものがなく、さらに後世になって模刻をして覆本をつくることがあまりにも頻繁に行われたために、今日見られるものは原蹟の姿がひどく損傷され、改変されているという難点があった。たとえば、王羲之の「喪乱帖」(4巻図28-31)というのは、王羲之の原蹟をほとんどそのままに近い姿で模写した唐以前の搨模の方法によって伝えられたものであるが、『淳化閣帖』などに刻されている王羲之の法帖は、全く字体がくずれて、「喪乱帖」などに比べると格段のひらきがある。この一例を見ても、よくその間の事情がわかる。
それに法帖には偽蹟によって捏造したたものがかなり多く混合して伝世していることもその難点の一つであった。宋代から元代をへて次の明代になると、この法帖の模刻が益々盛んに行われて、清代の初期にまでその余波が及んだが、法帖そのものには以上のような難点があり、また実際上、時代の下るとともに、そういう古い書蹟の伝存するものも少なくなってきたために、真蹟のもつ本当の姿を求めようとする人たちの間には、法帖だけでは次第に物足りなくなってきた。
清代の学者たちは、その初期の頃から、学問に対する態度はきわめて実証的であった。古典の真実の姿を求めることにおいては、あらゆる努力を払って実際的な証拠となる資料を求めずにはやまなかった。およそ文字に関するものを取り扱うにあたっては、まず文字訓詁の学問をおさめ、いろいろなテキストによる厳密な文字の校勘をへて研究に着手するのが普通で、またそれを史実の上から観察するにあたっても、できる限り正しい資料を、数多く集めるといったように、資料の検討と蒐集においても最善の努力が払われた。法帖はそういう文字資料となるには、きわめて曖昧な難点があり、清代の学者たちからは次第に見放されていった。彼らの研究心は各体の文字の源流に向けられていたために、もっと古い時代の文字、とくに古文や金文や籀文や篆隷に対する文字学的な、また歴史的な興味が注意深く注がれて、行草の尺牘のような文字の学問に直接役立たないものに対する関心はようやく薄らいできた。それとともに清代になってからの法帖の流行にも多少消長があった。清初から康煕時代にかけては、明以来の董其昌の書風が流行して上下を風靡し、ついで乾隆時代には、元の趙子昻の書に対する好尚が一時の流行をきたし、それに続いて唐碑の欧陽詢の書風がよろこばれるという傾向があったが、一方ではまた帖学を奉ずる人たちの書に対しては、次第に興味を失ってきて、従来の書風から脱却して新鮮な境地を求めようとする動きは、乾隆、嘉隆の学者文人たちの間には、しきりに起こりつつあった。
このような動きのもっとも大きな原動力となったのは、金石学である。金石の学問はすでにさかのぼって宋代において欧陽脩の「集古録跋尾」、趙明誠の「金石録」といったような大きな業績があげられ、既にその先鞭はつけられていたが、元・明時代はふるわず、清代になってから、この時代の学問の勃興にともなって、にわかに隆盛におもむいた。この金石学の分野において、経学や史学や文字学の新しい資料が求められて、田畠に埋もれた石や、屋舎の石組にまでも、文字のあとをさぐり、苔を洗って、珍しい金石資料を発見することに努力した。その結果、銭大昕の「潜研堂金石文跋尾」や、孫星衍、邢澍共著の「寰宇訪碑録」や、王昶の「金石萃編」や翁方綱の「両漢金石記」などの大きな著述があいついで著わされた。
阮元(図26、27)は、清代一流の考証学者で、経書の校勘に精しく、金石の探求にも力を注いだ。そして金石資料をもとにして、北碑と南帖とについての見解を発表した。それが「南北書派論」と「北碑南帖論」である。
彼は中国における古今の書の流派を論じて、南朝の系統と北朝の系統とを二つに分けた。漢隷の意を受けた三国魏を基点として、この二つの系統が分立していると考えた。すなわち、魏の鐘繇、衛瓘から出た書は、東晋、宋、斉、梁、陳をへて、唐の貞観の頃に及ぶ、これを南帖とした。一方、同じく鐘繇、衛瓘から出て、晋の索靖をへて、趙、燕、魏、斉、周、隋をへて初唐に及ぶ、これを北碑とした。
この南帖と北碑の二系統の書は、相互の関係なくして発達したもので、南帖は鐘繇、衛瓘から王羲之、王献之、王僧虔をへて智永、虞世南に及び、一方、北碑は鐘繇、衛瓘、索靖から崔悦、盧諶、高遵、沈馥、姚元標、趙文淵、丁道護をへて、欧陽詢、褚遂良に及び、李邕、蘇霊芝もその流れを汲むとした。
書においては、漢隷を根本とすべきであるが、南帖には隷意がなく、これに反して北碑には隷意を伝えているとみなす。よって北碑の方が書道における正統をうけるものであると断定した。しかも北碑には刻石当初のままの文字の姿が伝えられているが、南帖は模刻を重ねて、もとの姿が失われてしまっているから、その資料的価値は乏しいとした。
この阮元の議論は、当時金石文字の新発見に狂奔していた学者を刺激して、法帖の難点をいまさらのごとく認識した人たちは、帖を捨てて碑におもむき、争って新しい資料を入手することに努めた。
乾隆から嘉慶にかけては、このような動きはひとり阮元にとどまらなかった。こうした動きの中で、最も傑出した天才的な書家が鄧石如(図2-13)である。彼は官に仕えず、終生もっぱら書と篆刻に精進し、それによって名がきこえた。
この鄧石如を推称したのは、やや遅れて出た包世臣(図36-39)である。彼は『芸舟雙楫』
を著し、その中に清代の書人およそ101人の書蹟を品第し、鄧石如の隷書および篆書を神品第一と推称した。その後、鄧石如がいわゆる碑学派の第一人者として広く世に認められた。包世臣は『芸舟雙楫』において、阮元の説を更に推し進めて、北碑の長所を鼓吹した。彼はむかしの撥鐙法から得た雙鉤懸腕、虚掌実指の法によって逆入平出、峻落反収の筆法をとき、書においては気力が充満することが肝要であることを主張した。
しかし彼みずからは、本来帖学から入った人であった。顔真卿、欧陽詢から、蘇軾、董其昌をへて、北魏に入り、帖によって得られなかった書法を碑によって悟るところがあったが、晩年にはまた二王の書を学び、孫過庭の「書譜」や王羲之の「十七帖」を研究した。したがって、その出自・書法からいっても、必ずしも北魏だけに限られていたわけではなかった。ただ、その北碑の提唱はよく世の人たちを啓蒙した。たとえば、何紹基(図46-55)が北碑を学んだのも実は包世臣の説に従ったのである。
阮元と包世臣の二説が出てからのちの清朝の後半期は篆隷および北碑を学ぶものが次々に輩出した。こうして碑学の全盛時代が到来した。
その系列を考えてみると、古い篆隷を学んだもの、とくに漢隷を学んだものと、主として北朝の碑を学んだものとに分けられる。古い篆隷を学んだ人たちは比較的早く、乾隆、嘉慶の頃に多い。その書は多くは均斉のとれた典麗な美しさを宗としている。その中では鄧石如は随一である。
阮元が北碑を推重し、包世臣がそれを高揚し、包の門下の呉熙載がこれをうけ、ついで張裕釗(図66-69)、趙之謙(図70-75)があらわれる。これらの人たちがいわゆる北碑派の主流をなした。この中でも張裕釗は南北碑にわたってその粋を集めて大成したとして、康有為からは激賞されている。また趙之謙は北碑の摩崖、造像に主力を注ぎ、まれにみる清新な書風をうち立てた。北碑派という言葉を厳密に解釈するならば、この趙之謙はその最も代表的な書人といってよいと中田勇次郎はみなしている。
さて清末になると、康有為(図94-97)が出て、『広芸舟雙楫』を著し、阮元や包世臣の説に対し改めて根本的に批判を加え、みずから新しい体系を立てて北碑を称揚する。康有為は阮元が北碑と南帖とをはっきりと二つの系統に分かったことを非難し、書は派を分かつことはできるが、南北は派を分かつことはできないとした。彼は北朝の碑に対して南朝の碑をとりあげ、その相互関係のあったことを認め、南北朝の碑にはいずれも漢隷の遺意があることを説いた。北碑に対して南帖でなく、南碑をとったところに彼の達識があると中田はみている。
康有為は南北碑を一体としてその特色を十美として掲げた。すなわち、
一、魄力雄強
二、気象渾穆
三、筆法跳越
四、点画峻厚
五、意態奇逸
六、精神飛動
七、興趣酣足
八、骨法洞達
九、結構天成
十、血肉豊美
このように十美をいい、魏碑と南碑にだけこの十美があるとした。
彼は南北碑いずれをも取ったが、とくに北碑は南碑の特色を兼ねあわせているというので、北碑の方に重点をおいた。そして北碑といっても、北魏の摩崖や造像のようなものに注目していることは、この十美の批評によってもわかる。
魏碑といえば南碑および斉、周、隋はなくともよいとし、北碑も北斉、北周と時代の降るとともに書は衰え、隋においてはまだ六朝の余風があるが、唐碑は浅薄で変化がなく、古
意を失い、また今日までに佳拓が亡びて元の姿を見ることは困難であるとし、古来、唐碑を学んだものには一人として名家はない、学は古を法とするのをもって貴しとすべきであって、唐代のような時代の降ったものは卑しむべきであるとした。
さらに六朝と唐とを比較して、唐以前の書は密、唐以後の書は疎といい、以下同様に、茂に対して凋、舒に対して迫、厚に対して薄、和に対して争、渋に対して滑、曲に対して直、縦に対して歛といい、北碑をよく観察すればこのことがわかると説いている。
このように、康有為は南北碑の中では北魏を最上とし、唐以後は取らなかった。
もう一つ、阮元が唐の欧陽詢を北碑の系統に属せしめたのに対し、欧陽詢を南碑の貝義淵
の「始興王碑」(5巻図42-49)に出るとしたことも、阮元と見解を異にしている点である。
この説に対して、中田は「今日から見れば康有為の説くところの方が一日の長があるように思われる」と評している。
康有為が南北朝の碑をとりあげて品第しているのを見ると、神品として「爨龍顔碑」(5巻図4-13)「石門銘」(6巻図4、5)をかかげている。彼の品第の主旨は古質をとり、華薄の体はすこし後にしたといっているように、純樸で古風なものを第一として華美なものを後にしている。都会の中心をはなれた素樸な碑や摩崖や造像のものが上位に多いのもそのせいである。北碑の特性に対し、その精髄をとり、康有為の言うところの茂密と逸気のあるものに限定して、徹底した見方をしている。
清代における彼の考え方は、四大家として伊秉綬、鄧石如、劉墉、張裕釗の四家をあげている。この中の劉墉は帖学の大家であり、ここにも彼が碑学とともに帖学においても長所をみとめていることがうかがえる。
康有為は晋人は書はもっとも巧みであると称して、決して法帖の美を捨てたわけではないが、ただその最も重点をおいたのは鄧石如や張裕釗を激賞しているのによっても窺えるように北碑派にあった。
また書の技法についても、包世臣の説いた指法を排斥し、指を用いないで一身の力をつくして筆を送る書法を提唱するなど、康有為は北碑派の書の理論を概括的に整理した。
要するに康有為が南帖よりも南碑に注目して、南北両朝の相互の関連性を説いたのは、阮元よりも一歩を進めたものといってよい。ただ、阮、包、康三家に一貫しているものは、北朝の碑、とくに北魏碑を高く評価している点で、この意味からも清代の後半期に大きな動きを示した。この書の流派を北碑派と呼ぶことは必ずしもいわれのないことではないと中田は解説している。
ところで、康有為が『広芸舟雙楫』をかいたのは、光緒15年(1889)のことである。北碑の流行はこの頃からひきつづいて行われて、一般の人々の間にその書風が浸透し、北碑を口にし、魏体を写さないものはなく、これが一般的な風習となった。
光緒25年(1899)には河南省安陽の殷墟発掘が行われ、殷代の甲骨文が発見された。羅振玉(図102、103)のように、これを書の上に応用するものも現れた。書の分野は金石学から考古学にひろめられていった。それについで、西域の敦煌の発掘が行われ、その資料が紹介されると、書の上にも大きな問題を投げかけた。北碑派の人たちは従来の帖学にはあまり見るべきものが現れなかったが、西域から出土した木簡によって、新しく行草を開いた人もいた。沈曽植、李瑞清がそれである。
以上のように概説したあとで、中田は自らの見解を述べている。清代の碑学は帖学と対照的に発達していったものであるが、碑と帖とは正反対の立場にあるものではなく、互いに性質の異なったものであるということである。碑は篆隷でかかれた碑文であり、帖は楷書のものは少なく、たいていは行草でかかれた尺牘を主とするもので、その文体も書体も異なり、その発達の時代も経路も同じではない。帖は晋代を尊ぶが、明清時代においては法帖の佳いものが少なく、その正しい姿はよく理解されていなかったようであると中田はいう。
今日では日本に「喪乱帖」や「十七帖」のような真蹟と最も近いものが世に知られ、これとともにこの他の伝世の搨模本の可否も批判することができ、王氏の書の確かなものとして唐の褚遂良の「貞観書目」に著録されているものなどを参考にすることによって、晋帖のかくあるべき姿もほぼ想像することができるようになったと中田は付言している。
王の楷書にしても、今日伝わっているものには疑問がもたれるが、南朝の梁碑や北魏の6世紀初め、2、30年の頃における南朝の影響を受けたと思われる楷書から類推して、また王書の行草のそなえている高逸な品位から考えても、かなり優秀な楷書は東晋のときにあったものと見てよいという。
もし書の正統ということを言うならば、漢民族の文化の栄えた南朝において、遺品こそ少ないけれども、当然ひきつがれていたと考えるべきであろうと中田は推測している。
碑の場合においても、その最もすぐれた北魏を例にとってみると、これには碑と墓誌と摩崖と造像の4種類があり、その中で真蹟のおもむきをよく伝えているのは碑と墓誌であり、摩崖と造像はその素材と環境の上からくる特殊な書の姿があらわれたものである。北魏の洛陽遷都ののち数十年にわたって漢化政策のとられた時期には、すぐれた楷書の碑と墓誌が多数伝えられている。ごく近年になって出土した墓誌には、きわめて秀逸なものもある。
これらは南朝の楷書の影響なくしては考えられないもので、北魏の書というものも、漢魏の遺風は受けているとしても、多分に南朝の書に感化されていると中田はみている。
そしてこのように考えてみると、北碑と南帖というものは、阮元の論じたように、はっきりと二つの系統に分かれるものではなく、また碑と帖というような対照によって、比較することのできるものでもない。また康有為の説のように、南北朝の碑をとりあげて比較対照しているのはよいとしても、北朝の方に重点をおいたのは、摩崖や造像のような本格的でないものに純樸な美しさを見出して新風潮をつくりだしたところにとるべきものはあるが、書の伝統から考えて必ずしもこれが正統であるとは思われないと中田は私見を述べている。
清代の北碑派の書は鄧石如、何紹基、趙之謙のような傑出した書人を生み出したことは、中国の書の歴史においても最も特筆すべきことである。その一般的に見られる特色は、終始学問上の資料に依存して発展していった点にある。ただもし難点をとりあげるならば、学問に依存しただけに概して書の本質的なものを見きわめることが粗略になり、時には資料に重きをおきすぎ、また資料にたよりすぎるきらいがある。
そしてこの書派の人の作にも、取り扱った資料をもとにして、臨書したり倣書したりしたたぐいのものが多く、摩崖、造像、金文、籒文のような特殊な材料によって芸術性を見出し、新鮮な世界を展開しながらも、実はそれは資料の新鮮さによってはじめて成立したもので、本当の意味での芸術作品としての創作性に欠けていた。その性格は現実性が強く、浪漫性にはとかく欠けるところがあった。これはこの時代の書が学問、とくに考証学の背景によって生長したからであるという。清代の書は、古人の言葉に、晋は韻を尚び、唐は法を尚び、元明は態を尚ぶといっているのに続けて言うならば、清は学を尚ぶといってもよいと中田は付言している(中田、14頁~23頁)
清朝の金石学 貝塚茂樹
金石学は宋代に隆盛したが、元明時代に衰微し、清朝に至って復興し、宋代を凌ぐ空前の盛観を呈した。
清朝考証学の風気を開いた顧炎武は、金石学の権輿でもあった。年少の頃好んで古人の金石文の集輯につとめたが、その意義を深く解しえなかった。宋の欧陽脩の「集古録」を読むにいたって、初めて金石文中の記事を歴史と参照すると、隠された秘密を明らかにし、史書の欠を補い誤りを正すことができるものが多く、金石文が単に詩文の修練の役にたつばかりでないことを悟った。そして金石文の本格的な研究を志し、「金石文字記」6巻を著した。清朝の金石学が宋の欧陽脩、趙明誠にいかに負うところがあるかを示している。
清初に復古された金石学は、乾隆16年(1751)、乾隆帝が梁詩正らに命じて翰林院編修らを督して、内府所蔵の古銅器の図録と釈文の「西清古鑑」40巻を出版させた時に、石刻学から金文学の領域に拡大した。この形式は宋の徽宗御撰の「博古図録」30巻を襲ったものであった。
さて嘉慶、道光年間(1796-1850)における金文学興隆に与かって力のあったのは阮元(図26、27)であった。阮元は所蔵の金文拓本500余種を模刻、考釈を付した。金文が説文にのせられた篆文籀文と相並んだ古代文字で小学の資料であるばかりでなく、経書の欠を補う古代学の重要史料であることが学界に広く認識されるようになった。
阮元の書と相前後して出版され、当代では余り有名でなかったが、後世から学的評価をうけているのは銭坫(図15)の「十六長楽堂古器款識考」4巻である。清朝一代の史学者の銭大昕の従子として稟質に恵まれ、説文学者としても一家を成したが、深い小学の素養を自家所蔵金文の解釈に応用して、成功を収めた。
金文の字形を精密に説文のそれと対照して、正確な比定を行い、宋代から受け継がれてきた金文解読の誤謬を訂正し、この点では阮書の解読より一歩先んじていた。阮元は宋の薛尚功の「歴代鐘鼎彝器款識法帖」を範として専ら銘文の考釈に心を奪われた。一方、銭坫は宋の呂大臨の「考古図」や「博古図録」を模して、器形図と墨本とをあわせ載せ、銅器の礼器としての用途を研究し、銅器の考古学的、器形学的研究に寄与するところがあった。
清朝に公刊された銅器図録の白眉と推されるのは、道光19年(1839)、曹載奎によって刻された「懐米山房吉金図」である。器形と銘文とを精密に模刻し、原器の高さを測って尺寸を明記した。この用意の周到さといい、鉤勒の出来栄えは、中国の伝統的な法帖模刻の能事を尽くしている。
阮元の提唱にこたえて道光年間(1821-1850)以後、三代銅器に対する金石学者と好事家らの蒐集熱が高まってきた。収蔵家は高価を惜しまず名品の購致につとめ、自蔵の銅器図録を出版して、収穫の豊富を誇示した。
図録の体例は博古図録を祖とする器形と銘文を并載するものと、薛尚功の法帖を襲って、銘文と考釈のみを公刊するものの二つに分れる。名書家劉墉の従孫劉喜海の「長安獲古編」2巻、端方の「陶斎吉金録」8巻などは前者の系統にはいる。徐同柏の「従古堂款識学」16巻、劉心源の「奇觚室吉金文述」20巻などが後者の系統に属する。清朝末期に石印の技術が導入されて、金文図録の出版は前よりずっと容易になった。徐同柏、劉心源の著者はこれを応用したものである。民国になると、写真石印がこれに一歩を進め、呉大澂の「愙斎集古録」26冊などが出版された。
このような利便を加えた印刷術によって金文学はさらに普及し、同治、光緒、宣統の清朝末期(1862-1910)において、最盛時代を迎えた。清末の金文学者は南北二学派に大別できる。北派の主流は山東の金石学者によって占められる。山東は周代の文化の真髄をつたえるという斉魯二国の遺蹟を包含した石刻が多く残存し、銅器をはじめ先秦の考古遺物も多く出土し、これを取り扱う古物商の本拠でもあった。とくに金石学の主唱者であった畢沅と阮元が嘉慶年間(1796-1820)にこの地に赴任して、採訪した金石を「山左金石志」24巻として出版して以来、金石蒐集の趣味が鼓吹され、多くの金石学者を輩出した。山東の金石学者は一般に金石実物の鑑識に長じ、陳介祺(図60、61)の銅器にたいする眼識は中国の南北に並ぶものなしとされた。
一方、南方派の金石学者は江蘇、浙江、江西などの江南地方を本地としている。清朝の経学、史学、とくに説文などの文字学、訓詁学は江南がその淵藪であったので、その素養をもととして南方派の金文学者は文字学としての金文研究をすすめた。この代表者は呉大澂(図82、83)と孫詒譲のふたりである。新たに陝西省から出土した金文中の最長の銘文を有する「毛公鼎」(1巻図82、83)の拓本を陳介祺から贈られた呉大澂は、これこそ尚書中の周公の王誥に比すべき経学の貴重な史料にほかならないと狂喜した。難解な金文を解読し、周誥遺文と名づける考釈を公にし、孫詒譲もこの後を追って考釈を出した。
呉大澂は、伝統にこだわらぬ自由な立場から、文字の解釈について従来の通説をくつがえす大胆な新解釈を試みて「字説」1巻を公刊した。さらに呉大澂は金文や古貨幣文や古印文によって説文中に引用されている古文や籀文の欠を補うことができると考え、「説文古籀補」15巻の説文の順序に配列した古文字の字典をつくった。呉大澂の新字典は、確実な金文に基づき、鋭い直観と豊かな想像によった新解釈をまじえているばかりでなく、一方では説文の字と一致しない字は解釈をつけずに巻末に付録するという慎重な態度をとったので、清朝一代の金文解読の成果を盛った画期的な金文字典としてたたえられた。
この字書を編纂するため、金文の字形を説文中の周代の古文、籀文と全面的に比較した呉大澂は、西周の金文の字形との間に余りの差違があることに疑問を感じ始めた。説文中のいわゆる古文とは、漢代に孔氏の旧宅の壁中から出土したという古文経の文字にほかならないが、この古文は戦国時代の列国の分化した書体にすぎず、金文の字体こそ西周時代の標準字体であろうという破天荒の新説を提出した。この古代文字の系譜についての独創的な解釈は民国の王国維によって発展され、戦国末期に古文は東方の諸国で通行した字体であるのに対して、籀文は西方の秦国の通用字体とみなされるに至った。
また清朝末期には呉式芬がそれまでに出土した金文の全模本を集めて「攈古録金文」3巻を出版し、金文の集成が完了した。民国以後、羅振玉(図102、103)の手になる「三代吉金文存」20巻はこれについだ金文資料集成である。
清末の巨匠呉大澂、孫詒譲らによって大成された金文解読法は、清末に河南安陽から発見された殷代の甲骨文字にも応用された。孫詒譲はまず「契文挙例」2巻を著し、ついで羅振玉が「殷虚書契考釈」1巻を撰した。漢字の字形を周代の金文から殷代の甲骨文に溯って、起源を探ることができるようになった。
次に貝塚は歴史史料としての石刻の研究について紹介している。清初顧炎武の「金石文字記」によって出発した石刻の歴史的研究法は、乾隆・嘉慶時代の大史学者銭大昕によって継承され、その「潜研堂金石文跋尾」6巻は、金石文の考証の模範と仰がれた。また石刻資料の採訪事業が地方的に進行してゆくのに並行して、全国的な石刻の現存目録編纂の要望がおこった。清代の金文資料を集大成した呉式芬は三代の金文をはじめ、歴代の石刻を主とする金石文1万1千余点の総目録である「攈古録」20巻を刻した。
石刻の原文を集成したものは銭大昕の盟友王昶の「金石萃編」160巻に始まる。三代に始まり、遼金に及ぶまで、まず原文を録し、次に諸家の考証、跋尾を付しているので、石刻研究史料の総編として最も完備している。ただ嘉慶10年(1805)の出版であるため、その後に世に出た石刻の補充が必要である。
石刻の図録としては褚峻、牛運震の「金石図」2巻がある。褚峻が原石碑について精密な縮図を作成し、石に刻して拓影し、牛運震の説明を付したものである。そして清末の書法家の楊守敬(図86-89)の「寰宇貞石図」は石碑全図を写真石印したもので、日本の藤原楚水の増訂再印本はこの類の縮本としては最も便利で完備したものという。
第2に挙げるべきは墓誌である。清朝の末期以後、多数の墓誌が洛陽をはじめ各地から無数に出土した。清代の金石家は漢魏六朝の墓誌銘の体例を論じた人が多かったが、豊富な実例によって、その当否がさらに検討されだした。
第3類は仏教の造像銘である。仏教の衰頽した清朝ではこれを閑却していたが、河南省龍門をはじめ中国の仏教芸術が海外の学者の関心を集め出したのと呼応して、中国でも清末以後造像銘の研究が始まった。特に龍門の北魏時代の造像記(6巻図38-49)の奇古の書体は清末の金石学者にしてまた書法の理論家であった楊守敬らに深い影響を与え、北朝式のいわゆる六朝風の書の流行を生んだ。楊守敬は外交官として日本に滞在した間に、北魏の名書家の鄭道昭の「雲峰山石刻」(6巻図6-21)の鉤刻体を出版して、日本の明治の書道界にも余波を伝えた。
石刻の字体は「石鼓文」「漢熹平石経」「魏三体石経」など文字学的、あるいは経書の本文異同のための文献学的な研究の対象となった。漢碑の隷書については、翟云升の「隷篇」15巻に至って、石刻に現れた隷書字体の研究は一応完成の域に達した。
隷書の字体が後漢末に定着し、「熹平石経」のような書体が生まれた。隷書すなわち正書は魏晋南北朝をへて次第に変化して唐初に至って楷書として固定する。この間の石刻の正書は変体、異字が百出している。趙之謙(図70-75)の「六朝別字記」の稿本は後になって公刊されたが、羅振鋆の「碑別字」5巻と羅振玉の同補5巻についで、合刻、増訂本が出版され、六朝唐の碑文の読者に欠くべからざる参考書となった。これらの石刻文の書体を書法史の立場で編纂した楊守敬の「楷法溯源」14巻は、墨場にたずさわる者の座右の書となった。
清朝の金石学者は、書道の鑑賞家から手を分って、金文石刻などを経学、文字学、史学の補助史料として考証学的に研究することによって、数々の業績を成就し、金石学の学的地位を確立した。しかし金石学者中には樸学(ぼくがく)の純粋学者であるとともに、また中国伝統の書道の達人も少なくはなかった。清末を代表する金文学の大家呉大澂は日常の書簡まで隷書、篆文、金文などを自在に駆使して走り書きした。その見事な筆蹟は「愙斎尺牘」「愙斎集古録」によって片鱗を窺うことができる。呉大澂の金文、篆文の対聯などは
世人が家宝として珍重したものであった。貝塚茂樹自身、昭和9年(1934)、北京の知人の書斎で寓目した呉大澂の豪快な篆書の聯は、20余年をへても、なお眼底を去らないと思い出を記している。呉大澂の篆文で書いた「四書孝経」などの石印本は書道の教本として世に普及したものであった。
また一方において、清朝の書道の名家たちは、法帖のみでなく、金文、石刻の拓本を蒐集して、書道の新生命をこの源泉から汲み取ろうとした。書家として名が高い何紹基(図46-55)も、石刻の収蔵家であり、金石学者としても一家をなしていた。「東州草堂金石跋」5巻の著述が世に行われている。学としての金石学は書道と立場を分ちながら、また相互に密接な連関を保った。葉昌熾は清末の目録学者であったが、また石刻の蒐集家としても著名であった。「語石」10巻では、半世の金石学の蘊蓄をかたむけて、石刻の愛好者にその常識を述べた。学としての金石学と、教養としての書学の綜合された石刻概論といってもよく、風格を備えた好著であると貝塚は評している。
清朝の金石学は金文と石刻とを主要な対象としたが、多様な材質に刻される文字を対象とする関係から、数多くの専門に分化発展する傾向を現わした。古貨幣の文字は材質より見れば金文の一種に属するが、宋の洪遵の「泉志」15巻以後、銭幣学として分化した。清朝の文字学を背景にして貨幣文を研究した馬昻の「貨布文字考」4巻は、この点において異色を放った学的述作である。
古代の礼器として銅器に並ぶ重要な玉器については、呉大澂が「古玉図攷」を著し、特にその形状を実測し、古代の度量衡を復原する資料とした。璽印類は宋以来文人墨客に愛好されて古印の鈐印を集めた印譜が多く世に行われてきた。清朝になってから、金石学者の呉大澂も「十六金符斎印存」を公けにしたのをはじめ、無数の古印譜が続出した。その中で陳介祺収蔵の古印は「十鐘山房印挙」12冊として民国に入って石印本が刊行された。1万をこえる最大最良の印譜の代表作である。
清朝の金石学者は古印を戦国漢代の文字学の資料として研究し、経学者桂馥(図1)の「繆篆分韻」5巻があらわれた。このほか官印を古代の官制を考証する重要な史料として使用したものに、瞿中溶の「集古官印考」17巻がある。
古代の璽印は後世のように紙上に押すものでなく、竹簡・木簡の札をゆわえた紐の結び目上の粘土の封に押すものであり、この粘土上におした封印のあとを封泥と呼んでいる。清朝の末期、斉魯の遺蹟からはじめて大量の封泥が発掘され、呉式芬が「封泥考略」10巻の石印本を刊して、学界に紹介してから、偽物の多い古印譜より、はるかに信憑性の高い史料として貴重された。
その他に屋根瓦である瓦当(がとう)上の文字も金石学の対象となった。秦漢代の瓦当は程敦の「秦漢瓦当文字」2巻として乾隆年間(1736-1795)に出版され、「両漢金石記」にも採録されている。同じ材質の甎はまた墳墓に用いられた。この墓碑上の文字が金石学の新史料となった(貝塚、24頁~32頁)。
明清の賞鑒家(続) 外山軍治
明から清にかけて民間の蒐蔵家の手に蔵された法書名画の多くは、康煕、乾隆両帝の時代に内府に蒐められ、明の内府から受け継いだものとともに、手厚い保護を加えて蔵された。殊に乾隆時代の蒐蔵は天下に比肩するものなく、乾清宮、養心殿、三希堂などに分貯された書画の数は万をもってかぞえる盛況であった。その後、皇族、廷臣などに下賜されたり、戦乱で刧掠にあったりして、その数を減じて、その残存したものが今日台湾に運ばれ、国民政府によって保存されたわけである。
さて、内府の蒐蔵がまだその豊富さを誇っていた嘉慶、道光の頃の賞鑒家は、もっぱら民間に残された書画を対象として、その蒐集欲を満足させたわけであるが、さすがに国土は広く、民間に残存した名品もまだ少なくはなかった。嘉慶、道光の賞鑒家としてまず脚光を浴びたのは、呉栄光以下、葉夢龍、潘正煒、伍元蕙、潘仕成、孔広鏞、孔広陶兄弟など、広東出身の人である。
これらの人々は、富裕で、その儲蔵の分量も多く、また著録を出したり、珍蔵の法書を摹刻上石して集帖の形で公けにしたりなどしている。これは、この時代広東における一つの流行でもあった。彼らは書画の蒐集にその財力を投ずることを惜しまず、また自己の名を後世に伝えたいという気持ちも旺盛であった。とにかく西洋貿易を独占していた当時の広東の経済力はすばらしいもので、幾多の富家が輩出したが、この経済力を背景として書画賞鑒の機運がさかんになったことは注目に値する。
広東の賞鑒家の筆頭にあげるべきは呉栄光である。広東省南海県の人である。その家はもとから素封家であったというが、それ以上のことは判らない。乾隆38年(1773)に生まれ、道光23年(1843)、南京条約締結の翌年、71歳で没している。嘉慶4年(1799)の進士で累進して、道光11年(1831)から6年間湖南巡撫となり、一時湖広総督代理を兼ねたこともあった。阮元の門弟であり、翁方綱、劉墉にも指導をうけ、文人、学者としても一かどの人物であった。賞鑒家は、必ずしも能書とは限らないが、彼は欧陽詢を宗とし、また蘇軾の書法をもとり入れ、広東賞鑒家中での書人であった。
呉栄光の書画蒐集はその官界生活中になされたと考えられるが、途中で困窮して折角集めた逸品を手離したこともあった。呉栄光所蔵の王穀祥の千字文を入手した成親王が、その跋にいっているところによると、呉栄光は多く古蹟を手に入れたが、家が貧で率ね米に易えて散じ去った。
道光15年(1835)には彼は湖南巡撫として長沙にいたが、この時湖南の郷試に応じて合格した何紹基(当時37歳)が、試験終了後、呉栄光に招かれて、巡撫署に入って呉栄光所蔵の金石字画400余件を観せられ、命ぜられて詩10余首と題跋30余事をつくってそれに題したという。蒐蔵品は筠清館を築いてこれを蔵したが、道光10年(1830)、おそらく湖南布政使在任中に、その所蔵の古拓、真蹟を摹勒上石して「筠清館法帖」6冊をつくった。元来、彼は法帖の研究に精しいことで知られている。
また「辛丑銷夏記」5巻は、呉栄光が43年間にわたる官場生活中に獲得した書画と遇目の機会のあった書画とを載録して、それに解説を施したものである。この書は呉栄光自らが書いたものでなく、長沙在任中に知りあった黄本驥に嘱して書かせたという説があるが、それはともかく、この「辛丑銷夏記」は、すぐれたものをもっており、広東賞鑒家の著録中でもっとも地位が高いという。
ところで、広東の賞鑒家では、葉夢龍が呉栄光と同時代の人であり、潘正煒がこれにつぐ。それにつづいて、孔広鏞、伍元蕙、孔広陶が出た。潘仕成は孔広鏞あるいは伍元蕙とほぼ同じ頃の人と考えられる。
葉夢龍は呉栄光より2年年少で、乾隆40年(1775)に生まれ、道光12年(1832)58歳で没した。呉栄光と同じ南海県の人で、戸部郎中にまでなった。その父の廷勲は書をよくし、「梅花書屋詩集」を著した人であるが、晩年には法書名画をたのしみ、蒐蔵も多かったらしい。葉夢龍も父の風を習い、当時の名流と交際し、文雅の交わりをした。翁方綱や伊秉綬が広東に来たときにも、彼と交わっている。そして葉夢龍は嘉慶19年(1814)、父の時代から蔵した唐宋元明の墨蹟を摹勒上石して「友石斎集帖」4冊をあつめて「風満楼集帖」7冊を編刻した。
潘正煒は、広東省番禺県の人であるが、代々河南の龍渓郷に住んだ。乾隆56年(1791)に生まれ、道光30年(1850)60歳で没した。この人はいわゆる広東十三行の一つである同孚行の経営者であり、広東における巨商の一人である。広東十三行が南京条約締結に至るまで、政府から西洋貿易に従事する特許を与えられ、巨富を獲る機会に恵まれていた。書画を愛好し、名人の墨蹟は見つかり次第に必ず購入し、その収蔵は粤東に甲たりといわれた。潘正煒自身、所蔵の名蹟四百余種の冠たりと誇っているのは、賢首国師の尺牘(8巻図64、65)であるが、また趙孟頫が中峯明本に与えた尺牘(17巻図10-16)をも蔵しており、ともに現在日本に来ている。この両尺牘といわず、広東賞鑒家の蒐蔵でその後日本に渡ったものが少なくない。なお彼は書技にも長じ、蘇米を宗とし小楷に巧みであったといわれる。ここに掲げた趙孟頫が中峯明本に与えた尺牘の跋によっても十分それをうかがうことができる。
潘氏にはもう一人、海山仙館叢書を刊行したことで有名な潘仕成がいる。潘仕成は同じく番禺の人で、潘正煒の一族である。その生卒は明らかにしえないが、道光12年(1832)に順天府の郷試副榜貢生となり、17年特旨をもって両広鹽運使を授けられた。おそらくは潘正煒よりは後出で、孔広鏞あるいは伍元蕙と同じ頃の人と考えてよいという。
この潘仕成についても、行商の一人だとする伝えもあるようだが、実は鹽茶商であったようだ。潘正煒の家はのち不振になったが、潘仕成の方は盛大で、そしてその富は一国王のそれに匹敵するなどといわれた。そして道光27年(1847)、「海山仙館蔵真初刻」16巻を出し、また咸豊3年(1853)、「海山仙館橅古帖」12冊を出している。
次に伍元蕙もまた行商出身である。道光4年(1824)に生まれ、同治4年(1865)42歳で没した。番禺県の人だが、代々河南の安海県に住んだ。彼は十三行の一つ怡和行の伍秉鑑(1765-1843)の子で、挙人の資格を授けられ、刑部郎中にまでなった。
書を好み、蒐蔵も非常に多くすぐれた鑑賞眼をもっていた。彼は道光21年(1841)から「南雪斎蔵真帖」12冊を刻しはじめ、咸豊2年(1852)に完成したが、その中には晋より明に至るまでの真蹟を摹刻上石して載せている。また咸豊2年、魏晋から唐に至るまでの諸家の拓を上石して「澂観閣摹古法帖」4冊をつくっているが、広東出身の賞鑒家の刻帖のうち、筠清館についですぐれていると評せられる。
伍元蕙と前後して孔広鏞、孔広陶の兄弟がいる。兄の方は伍元蕙よりも年長であり、弟の方は年少である。兄の孔広鏞は嘉慶21年(1816)に生まれ、道光24年(1844)、挙人となった。弟の孔広陶は道光12年(1832)に生まれ、監生をもって比部郎中となった。孔氏は孔子の子孫にあたる家柄で、父の孔熾庭で69世になるという。この孔熾庭は書画の蒐集と鑒識において有名な人物で、嶽雪楼を築いて、蒐蔵品を収めた。その二子孔広鏞、孔広陶は父の遺志をつぎ、さらに蒐集を重ねたが、呉氏筠清館などの蒐蔵が少なからず入っている。
同治5年(1866)、隋唐以後清朝に至るまでの真蹟120余種を摹刻して、「嶽雪楼法帖」12冊をつくり、また咸豊11年(1861)、「嶽雪楼書画録」5巻を刊行した。撰者は弟の孔広陶であり、兄の孔広鏞が校閲したという。「嶽雪楼書画録」に収録するところは、孔氏一家の所蔵だけを載録したものであるが、選択は概ね妥当である。
さて、これら広東賞鑒家の全盛期はいつ頃まで続いたのかという問いに対して、外山は次のように考えている。おそらく嘉慶から道光の末までくらいがその極盛期で、咸豊年間はまだよいとしても、同治以後はすでに衰頽期に入ったとみている。その理由としては、道光22年(1842)南京条約によって広東港の貿易独占が終わりを告げ、十三行も廃止され、西洋貿易で殷賑を極めていたこの城市が昔日ほどの盛観を失った点を指摘している。
さらに咸豊6年(1856)、アロー号事件によって英仏両国との紛争にまきこまれ、広東城が再び戦火に見舞われてからは、広東の士人には昔のようなゆとりがなくなってしまった。前述の賞鑒家たちがその後どのような状態であったかは詳らかでないが、先祖の遺品をもちつづけた家は少ないようである。
明末から清の康煕、乾隆頃までに、江南からは項元汴、張丑、汪珂玉、高士奇、呉升、笪重光、姜宸英、朱彝尊など、錚々たる賞鑒家が踵を接して現れた。嘉道の頃になると、そのような盛観はみられないが、「紅豆樹館書画記」8巻を著した陶樑などが出ている。陶樑は長洲(江蘇蘇州)の人で、乾隆37年(1772)に生まれ、86歳まで生存して咸豊7年(1857)
に亡くなった。広東の呉栄光より1歳年長である。嘉慶13年(1808)進士に合格し、礼部侍郎にまで栄進した。「紅豆樹館書画記」はその蒐蔵を載録したもので、相当にすぐれた識見を示している。その他はいずれも陶樑よりは40年以上も後出で、浙江湖州の人で晩年江蘇の蘇州に住んだ呉雲(1811-1883)、同じく蘇州の人顧文彬(1811-1889)、潘祖蔭(1830-1890)、また湖州の人陸心源(1834-1894)などが賞鑒家として知られている。これらの人々の家郷をも含めて江南の地は、太平天国の乱の渦中に巻き込まれたので、書画などの散佚がはげしかったが、これらの諸家はその間にあって、その蒐蔵をふやす機会をつかんだようだ。なお、呉雲、潘祖蔭にしても陸心源にしても、書画の蒐蔵家というよりも、金石、璽印あるいは善本などの蒐蔵の方面で傑出しており、書画の賞鑒家としては、この時代の江南グループはやはり広東グループの華やかさには及ばなかった。
それよりも看過できないのは、山東出身の賞鑒家の存在であるという。そのうち、書画の賞鑒家としては利津の李佐賢を第一に挙げられる。李佐賢は嘉慶12年(1807)に生まれ、光緒2年(1876)、70歳で没した。道光年間史館に入って編修となり、のち福建汀州府の知事となったが、退官して故郷に帰った。金石、書画、硯石、印象などの鑒賞に長じ、同治10年(1871)、東晋から乾隆までの書蹟を収録して「書画鑑影」24巻を著した。
李佐賢より数年の年少に陳介祺がいる。濰県の人で嘉慶18年(1813)に生まれ、光緒10年(1884)に没した。道光25年(1845)の進士で、翰林院編修となったが、間もなく退官した。銅器、璽印の蒐蔵の多いことと鑑識の精博なことで特に高名であったが、書画の蒐蔵にも富んでいた。日本に入った黄庭堅の「伏波神祠詩巻」(15巻図72-77)も一時彼の所蔵するところであった。
この陳介祺の影響を強く受けたのが、福山出身の王懿栄(1845-1900)であり、その蒐蔵は主として金石関係に重点がおかれた。国子祭酒にまでなり、拳匪の乱に団練大臣を命じられ、連合軍の入京を防いで失敗し、井に投じて死ぬという悲劇的な最期を遂げた。これらの山東の賞鑒家に通じていえることは、その土地柄から金石関係の蒐蔵に力を注ぎ、しかもその方面の鑑識に秀でていたことである。
上記各地の賞鑒家よりもはるかに後出で、金石、書画ともに儲蔵の多かったのは、「匋斎吉金記」などの著をもって名を知られる端方である。この人は満洲正白旗人で、峺陽(直隷豊潤)の人である。咸豊11年(1861)に生まれ、光緒8年(1882)挙人となり、累進して護理陝西巡撫などを歴任した。端方の蒐集は規模が大きく、銅器、古拓、真蹟、碑碣、瓦塼などに及んだ。金陵、武昌など、総督、巡撫として在任した場所には、幾多の文人、学者をあつめ、毎日のように酒宴を開き、その席上で蒐蔵品を展玩して楽しんだ。楊守敬も光緒32年(1906)、金陵の両江総督署に招かれ、命じられて所蔵の金石碑版に題跋をかいた。
端方は、宣統3年(1911)、武昌に革命が勃発した時、突如部下の軍人が変を起こし、そのために捕えられ、弟の端錦とともに殺された。先に王懿栄は拳匪の乱の犠牲となったが、端方は辛亥革命のあおりをくって、その豪奢な生涯にふさわしくない死を遂げた。
また外山は、端方が内藤湖南に贈った李思訓碑の臨書(挿59)を掲げている。その年紀は庚戌、すなわち宣統2年(1910、明治43年)となっており、その死の前年であった。
その書に対して、外山は「書法沈著、いかにも一世を風靡した賞鑒家の書らしいおうようさをもっている」と評している。なお、北京の賞鑒家には、端方よりも先輩に宗室の盛昱(1850-1899)がいた。金石書画の室を鬱華閣といい、儲蔵の豊かさを誇った。ほかに満洲旗人で景賢が著名である。金の章宗の末裔にあたるというので、完顔景賢とも称したが、生没年を詳らかにすることができない。時代的に端方につづく賞鑒家といえば、羅振玉らであるが、賞鑒家としての活躍はむしろ民国時代にあるので、ここでは触れないと外山は断っている(外山、33頁~40頁)。
以下「図版解説」により、若干、補足説明しておきたい。
図2-13は、鄧石如の「四体帖」である。鄧石如が篆、隷、楷、草の四体で揮毫した書帖である。嘉慶2年(1797)、55歳のときの書である。
各体の中で篆書と隷書が最も優れていたことは、すでに清代の包世臣や趙之謙や康有為によって激賞されている通りである。
篆書は李斯や李陽冰から出て、きわめて整斉で古来の篆書の長所をよく取り入れて、渾然としていささかも技巧のあとをとどめない美しさがあるといわれる。隷書は漢の史晨碑に最も近く、結体の上からも、書法の上からも、隷書の特質のよい要素をよく備えた典型的な字体をつくり出している。楷書は虞世南に倣っているようである。草書は晋人の書法によらないで、顔真卿以後の篆書の筆意によって書いているのは、篆隷に重点をおいて、その筆法を正しいとしているところから来ていると中田勇次郎はみている(中田「図版解説」145頁)。
阮元の書について
阮元の作品として、図26「望君山(君山を望む)」という五言律詩がある。この詩は、嘉慶22年(1817)、54歳のときの作で、その書幅は嘉慶22年以後の作であるようだ。
ところで、趙彦称(江蘇丹徒の人)の言葉に、「阮元は書に力を入れて習うということはなかったが、たまたま筆をとって書いた字は、くせがなくて清らかで品位があり、上手に書こうとはしていないが、自然に上手な字ができている。これも金石の学問をやっているせいであろう」といっている。
この書幅も上品な学者らしい字で、とくに書法などを意識していないところに、かえってよいところがあると中田勇次郎は評している。
また、図27はその尺牘(京都国立博物館蔵)で、阮元のしたためた書簡の一つである。楷行のものとは違って、率意にかいた平生の草書で、あらたまった書幅とはまた別の趣がある(中田「図版解説」149頁)。
張裕釗の「千字文」
図66、67は張裕釗が千字文を書いたものの一部である。落款はないが、かつて張裕釗について学んだ宮嶋詠士(大八)が、張裕釗から直接貰ったもので、張裕釗の書法を窺うに足る貴重な資料である。
ところで張裕釗は、清末における古文の大家として有名な学者であるが、書法にもすぐれ、とくに北碑を宗とした。この図66、67によっても、その力量を知ることができると神田喜一郎はいう。
張裕釗の人となりは極めて真面目で、学問では宋学を奉じたほどの人物であったから、その書にも自ずからそうした気風が現われていて、少しも衒ったところや、けれんがない(その点、同時代の潘存と相通じたところがある)。
因みに、この図版の「天地元黄」とある「元」の字はもともと「玄」と書くべきところを、清の康熙帝の諱を避けたのであると神田は付言している(神田「図版解説」158頁)。
曽国藩の書論と書について
曽国藩(1811-1872)は、湖南湘郷県の人で、道光18年(1838)の進士である。咸豊2年(1852)、母の喪に服するために帰郷していたとき、太平天国の乱にあい、湖南省防衛の命をうけ、湘軍を組織し、苦闘10年にして太平天国討滅に成功した。戦後、両江総督として長江下流域の復興に専念した。
彼はまた外国文明の優秀さを認めてその輸入に熱心で、その幕下から出た李鴻章とともに、同治中興の時代を現出した立役者となった。幕下に多くの人材を養ったことは有名で、書人としては張裕釗(廉卿)がもっとも知られている。
彼は桐城派の古文と宋学とを研究し、学者文人としても当代第一流の人物であった。また書をよくし、特に書学に深い関心をもっていたことが、その『曽文正公手書日記』や『曽文正公家訓』によって知られる。
欧陽詢、李邕、黄庭堅三家の剛健を宗とし、褚遂良、董其昌の婀娜(しなやかで美しいこと)をまじえることに心掛けているといっている。これによってその作字の用心の一端を知ることができる(外山「書人小伝」174頁)。
それでは、曽国藩にはどのような書が残っているのであろうか。図版57として、「臨江仙詞(りんこうせんし)」(咸豊元年[1851])が載っている。その40歳のときの作である。この書は、曽国藩の書論の言葉を考え合わせて鑑賞するとよいと中田勇次郎は解説している。すなわち、曽国藩は書を論じて、唐の柳公権と元の趙孟頫の二家を合せて一体としたいといい、また書をかくには剛健と婀娜のいずれの一つを欠いてもいけない。自分は唐の欧陽詢と李邕、宋の黄庭堅を剛健の模範とし、それに唐の褚遂良と明の董其昌の婀娜の風致を参用すればよい書体ができるであろうというのである(中田「図版解説」156頁)。
翁同龢の書について
翁同龢(1830-1904)は、体仁閣大学士翁心存の第三子で、江蘇省常熟県の人である。咸豊6年(1856)の進士で、戸部尚書を歴任した。清末における国事多端のときにあたり、同治、光緒両帝の師傅を務め、枢要の地位にあって政治改革に奔走したが、晩年失脚してしまった。
ところで書は幼いときに欧陽詢、褚遂良をならい、また趙子昻や董其昌の意をとったが、中年になって顔真卿の風骨を得、50歳の頃から、蘇軾、米芾に入り、礼器碑(2巻図84、85)などを学び、廻腕をもって書を作った。晩年にはますます平淡な境地にいたり、劉墉以後の第一人者と称せられるに至り、その書は珍重された(中田「書人小伝」177頁)。
「臨王羲之・十七帖」は、翁同龢が王羲之の「十七帖」のなかの「龍保帖」(4巻図47)と「絲布衣帖」と「積雪凝寒帖」(4巻挿10)の前半を揮毫した扇面である。彼は晩年に書をたのしみ、折にふれて扇面に書をかくことも多かったようだ。この図版は翁同龢の書を好んだ狩野君山が愛蔵したものである。おそらく光緒17年(1891)前後に書かれたものと推測されている。
中田勇次郎はこの作を「渾厚のうちに気魄を籠められたこの人一流のもの静かなうつくしい品位がよくあらわれた作」と評している(中田「図版解説」160頁)。
包世臣とその書
包世臣(1775-1855)は、安徽省涇県の人で、嘉慶13年(1808)の挙人で、晩年、知県となったが、1年にして官を棄てて、のち江寧に寓居した。1855年、長髪賊の乱を避ける途中で没した。
彼は背が低く、精悍で、滔々と兵法を論じたり、好んで社会政策を批判したりした。
書は最も好むところで、中年、顔真卿、欧陽詢から入り、蘇軾、董其昌に転じ、のち北魏に力を注ぎ、晩年にはまた二王を習って、ついに自分の書を完成した。
その書法においては、当時の書をよくする人と交わり、つぶさに研究を重ね、ついに逆入平出、峻落反収の技法を案出し、書は気力の充満することが肝要であることを説いた。
彼は北碑が秦篆漢隷の意を承けて、きわめてすぐれた特色を備えていることを称揚した。これが世の人々を刺激し、阮元の書論とともに清朝後半期における北碑派の流行の素地となった(中田「書人小伝」172頁)。
図版37は「臨王羲之・破羌帖(はきょうじょう)」である。これは包世臣が王羲之の「破羌帖」すなわち「王略帖」(4巻図66、67)を仰高という人のために臨して与えたものであるという。
包世臣は道光12年(1832)に唐の孫過庭の「書譜」(8巻図58-63)を校定し、その書法を研究している。ついで道光13年には「書譜」の源流を探る意味から、さらに王羲之の「十七帖」(4巻図46-57)を深く検討し「十七帖疏証」を著す。そして「自跋真草録右軍廿六帖」に王羲之の書を論じて、王は草書を書くときには真書のように、真書を書くときには草書のように書いているが、趙宋以後、その法がすたれて、法帖に刻されたものには、もはやその法は見られなくなった。自分は南唐の「東方朔画賛」および閣帖の原本を手に入れて、10年の間苦心して学習したけれども、本当の解決が得られなかった。
ところが、「瑯邪台碑」(1巻図135、136)などの諸碑によってはじめてこの法を悟った。すなわち草書を書いても偏軟に陥らないで平直さを備えているし、真書を書いても平板に陥らないでよく変化する法がこれらの碑によってうかがわれると述べている。
この説は、彼自ら記しているように、孫過庭の「書譜」に、真書は点画をもって形質とし、使転をもって情性とする。草書は点画をもって情性とし、使転をもって形質とする、とある説から出たものである。点画はつとめて平直ならんことを求めるから、とかく平板になりやすく、平板になれば使転がなくなるわけである。使転はつとめて恣態を求めるから、とかく偏軟になりやすく、偏軟になれば点画がなくなるわけである。
そこで彼はこの形質と情性、点画と使転を互いに作用させて真草の書法を論じ、すべて古人の書法は、形は直でも意は曲であり、これがほんとうの曲であるという。そしてこの平直さというのは真書草書にかかわらず、篆書の筆意から出ているのであるとする。
彼はまた、古人が真行書を論ずるには、おおむね篆書と八分の筆意を失っていないものを上とする。これは要するに阮元の説から来ていると中田はみている。包世臣が王羲之の書をかくには、このような草書の中に真書の平直な筆意があり、その筆意は篆書および隷書から出ている。これが正しい書法であるという見解を包世臣は持っていたようだ。
さて、図37の「王略帖」の臨書は、包世臣がこころみている孫過庭の「書譜」の臨書にも通ずるものがあり、「書譜」の臨書とその理論から考えだされた包世臣の書法論を背景にして書かれていると中田は推察している(中田「図版解説」152頁~153頁)。
銭坫について
銭坫(せん・てん、1741-1806)は、清一代の大史学者・銭大昕の従子(おい)で、江蘇嘉定の人である。勉強家で、経学、史学に通じたが、とくに説文に精しかった。
彼に篆書を習うことを命じたのは、少詹事であった銭大昕であって、銭坫は李陽冰の「城隍碑」を購って、篆書の名人となった。
乾隆39年(1774)、副榜貢生として直隷州州判に職を得て、その後20余年間、陝西諸州の幕僚を歴任した。
積労のため中風となり、その後退官したが、右体の自由がきかなくなったので、左手で篆書をかいたが、その左手でかいた篆書が精絶だといって高く評価せられた。
ことに同じく篆書を書きながら、北碑派の鄧石如に反対して古格を守ったことで、書道史上注意せられる。66歳で蘇州で没した(外山「書人小伝」169頁)。
書としては、図版15「張協・七命中語」を載せている。「銭坫は自分の篆書にひじょうな自信をもっていたが、古格をまもったその書法はきわめて気品が高い」と外山軍治は評している(外山「図版解説」146頁)。
以上が中国1(殷・周・秦)~中国14(清Ⅱ)の要約部分である。
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