歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪2022年 わが家の剪定日誌≫

2022-12-31 19:11:28 | ガーデニング
≪2022年 わが家の剪定日誌≫
(2022年12月31日投稿)

【はじめに】


 今年を振り返ってみるに、新たに挑戦し始めたことに、樹木の剪定が挙げられる。
 以前から必要に迫れられ、庭木の手入れはしていたのだが、今年から本格的に庭木や畑のウメ、スダチなどの剪定を始めた。
 今回のブログでは、その記録をとどめておきたい。




執筆項目は次のようになる。


・剪定を始めたきっかけ
・2022年の剪定行程・日程






剪定を始めたきっかけ


 庭木の剪定を始めたのは、父親が3年前に亡くなったことがきっかけである。
 それまでは、父親が庭師さんに年2回来てもらって、庭木の剪定・消毒をやってもらっていた。
 しかし、父親が亡くなると、庭木にまでなかなか手が回らず、庭師さんに依頼することもなくなった。
 中でも、一番困るのが、マツの剪定である。

 マツの剪定は知識と経験が必要で、庭師さんに頼むとそれなりの金額が要る。
 だから、若い人は祖先から庭木のマツを引き継ぐと、手放したり処分したりする場合も多いと聞く。
 You Tubeを見ていると、庭に黒松があるけど、剪定方法が分からない人向けに詳しく解説した動画もある。
 たとえば、「ジョーの家庭菜園チャンネル」の「夏の黒松剪定~黒松をカッコ良く見せたいなら必ずこの剪定は必要になります」(2022年7月4日付)もそんな動画の一つである。
 この人は、父親から新築祝いに黒松を贈られ、やはり剪定方法が分からなかったので、自分で勉強されて、剪定をするようになったそうだ。動画の中でも、マツはお金のかかる樹木で、経済的な理由から、マツを処分したりする人が多いことに触れている。だから、マツの剪定方法が分からない人でも剪定できるように動画をアップしたという。
 自分の庭には、マツに限らず、イトヒバ、イチイ、キンモクセイ、モミジ、モチノキ、ツバキ、ゲッケイジュ、ヒイラギモクセイなどが植わっており、放置しておくと伸びて、ますます手に負えなくなる樹木も出てきた。もう少し、剪定を学んで、庭木の管理をしなくてはと思い、勉強し始めた。
 今年から、本格的に剪定を始めたきっかけは、二つあるように思う。
 一つは、妹が刈り込みバサミをプレゼントしてくれて、本人も自ら率先して、庭の笹を刈り込んできれいにしてくれたこと。
 もう一つは、たまたま田んぼの草刈りをしていた時、70代の男性と話して、脳梗塞で一度倒れられ、リハビリがてら、剪定に勤しんでおられると聞いたことである。
 この二つのことがきっかけで、昔の本を引っ張り出してきて読み直したり、You Tubeで庭師さんなどの剪定の様子を閲覧して、勉強している。
 参考になったYou Tubeのチェンネルをリストアップしておく。

庭木のYou Tube


<庭木一般>
〇樹木医miki3
〇横浜マイスター:木下透の剪定講座
〇造園パートナーズ庭師の教科書
〇「カーメン君」ガーデンチャンネル
〇剪定道
〇みどりと共にサントーシャじゅん
〇植木屋ケンチャンネル。
〇庭秀チャンネル
〇クロダシャチョー神戸の植木屋
〇いたやんの剪定ライフ
〇よこはまの庭職 庭師のにわっち
〇直香園芸 naokaengei
〇庭師ライフ【お庭のキハラ】
〇横浜市緑区の植木屋中嶋

<みかん関連>
〇ふかや村TV Japanese fukaya village
〇農業JAPAN
〇みかん専門チャンネル-satsuma-

<ウメ関連>
〇梅ボーイズ

・どの動画も教えられる所が多いが、中でも、次の二つは大いに参考となった。
〇樹木医miki3
 「No.101 剪定技術教室 Pruning technique course by miki3」
 (2022年1月1日付)
※樹木医miki3さんは、解説に際して、すべて英語に翻訳してもいる。
その該博な知識と剪定技術には敬服している。

〇横浜マイスター:木下透の剪定講座
 「No.144_クロマツのミドリ摘み(理屈とアドバイス)」
  (2022年4月28日付)


【2022年の剪定行程・日程】


〇2022年の剪定行程・日程を箇条書きに書き出してみた。

・2022年10月31日(月) 晴 18℃(11~19℃)
  9:30~11:30 
・トイレ横のヒイラギモクセイ(モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。ヒイラギとキンモクセイの雑種)の生垣(下部と横のみ剪定)。
・松のもみあげ、イチイの頂部切り落とす。
(ただし、イチイの一番の天辺の木は手ノコでは無理だった。電動ノコギリで後日)

【ヒイラギモクセイの写真(2022年10月31日撮影)】


・2022年11月2日(水) 晴 20℃(11~19℃)
  11:00~11:30 
・車庫のかしらのツツジの剪定(少し切りすぎて、穴が目立つ)
・ついでにミカンを収穫(10個)~枝が少し垂れすぎ

・2022年11月3日(木) 晴 19℃
  13:10~13:30 妹来訪。電動ノコギリ(VOLTAGA充電式レシプロソー20V)と木バサミ(植木バサミ)を借りる
  (木バサミは妹の義父のものという)

・2022年11月4日(金) 晴 19℃
  9:30~11:00 昨日借りた木バサミでイトヒバと松を試しに剪定。
(イトヒバは下垂した黄色になった葉を中心に剪定。イトヒバは45リットルのゴミ袋に一杯に)
 ・裏庭の木をノコギリで剪定。
(手袋をはめずに剪定したら、右手人差し指を切り枝で負傷)

・2022年11月6日(日) 晴 16℃(8~18℃)
  17:30 回覧板を持って行った際に、向こうの畑のウメの木の剪定をすると断わり

・2022年11月7日(月) 晴 17℃(7~18℃)
  10:00~11:30 裏山の竹の伐採とサカキの枝打ち(下部)
※竹にクズがからまり、景観を損なっていたので、気になっていたが、細い竹を伐採。
 サカキも、4~5メートルの高さで、枝が伸び放題。
 下枝に登れる範囲で枝打ちに初挑戦。
(登ったはいいが、降りる時、足のかけ所に注意せよ)
※裏庭、1階屋根の樋あたりに、スズメバチが飛び回っている。

・2022年11月9日(水) 晴 11℃(9~19℃)
  8:30~9:00 庭や車庫のかしらにあるイトヒバ、イチイ、月桂樹、モチノキの写真撮影
  イトヒバの主幹は上部でも直径10センチはありそう。どう切るか?
  イチイの頂部に残った枝も直径10センチ余り。
  車庫のかしらにあるモチノキは、電線にかかりそうに伸びている。
【イトヒバの写真(2022年11月9日撮影)】

【モチノキの写真(2022年11月9日撮影)】


・2022年11月10日(木) 晴 19℃(11~21℃)
  10:30~12:00
・初めて電動ノコギリ(レシプロソー、親父が買ったもので15V)を使う
⇒イチイの先端部を切る。二連式ハシゴを初めてかけて切る。
 細かい枝は難なく払えたが、主幹(直径10センチ)に苦戦。
 まず下から当てて、3分の1くらいで、上に切り換えたが、木が振動し、ハシゴにも伝わる。20~30分かかる!
・その後、1時間は車庫のかしらの植木(直立)、ハゼ2本を切っている途中で、レシプロソーは電池切れ。
・残りは手ノコと太枝切りバサミで、ツバキ、ツツジを切り詰め
(破竹の途中まで切った切り株に注意せよ)

・2022年11月12日(土) 晴 20℃(10~24℃)
  10:00 アマゾンでニシガキの「枝打ち一発」(6.5メートル可能)を注文
⇒11月14日(月)14:45届く

・2022年11月15日(火) 晴時々曇り 14℃(7~17℃)
  9:00~10:00 イトヒバ伐採 14枝
  (10枝は「枝打ち一発」で、4枝はVOLTAGA充電式レシプロソーにて)
  10:00~10:30 試しにビニール袋に葉っぱを詰めてみる
  (剪定バサミで、枝と葉っぱに切り分けてから)
  15:30~16:30 曇り(作業後に雨) 17℃
   裏山の常緑樹4本伐採、サカキの下枝2本を切る
 
・2022年11月16日(水) 昨晩より雨のち晴 16℃(8~16℃)
  9:00~10:00 車庫のかしらのモチノキとロウバイの強剪定
  モチノキに最初、二連式ハシゴをかけてみたが、先端がうまく幹と枝にかからず、三本足の脚立に代えてみる。
  一番最後に主枝を伐ろうとしたが、なかなかできず。VOLTAGA充電式レシプロソー(20V)で何とか。
  10:00~11:00 イトヒバを葉と枝に剪定バサミで切り分ける

・2022年11月17日(木) 晴 14℃(8~17℃)
  10:30~12:00 医院に薬をもらいに行って帰宅後、裏山のサカキ伐採
  三脚脚立をサカキの太枝にかける(上から2番目の段まで登る)
  テイカカズラが頂部にからまっており、手こずる。
  VOLTAGA充電式レシプロソーで頂部を切るも、なかなか。充電切れる。

  15:30~16:30 VOLTAGA充電して再開
   サカキの枝の出っ張りを除去。そして幹の部分(130センチ、22キロ、直径15センチ)を切除。レシプロソーの刃が何度も途中で止まり、苦戦。最後の一息、向こう側に押し倒す。サカキのみで充電切れる。
  青色のレシプロソーで、おとといの常緑樹の残り1本の先端を切る。他の3本も、枝を元から切る。
   
・2022年11月18日(金) 晴 14℃(9~17℃)
  10:00~11:00 イトヒバ、サカキの後片付け(葉と枝に切り分ける)

・2022年11月21日(月) 晴 17℃(9~20℃)
  9:30~12:30 イトヒバとサカキの葉と枝をビニール袋に詰める
  イトヒバ 葉(45リットル2袋)、小枝(30リットルの米袋2袋)
  サカキ (ガーデンバッグ45リットルで1.5袋)
 剪定バサミで葉っぱ、太枝切りバサミで太い枝と小枝に切り分ける

・2022年11月22日(火) 曇りのち雨 15℃(9~16℃)
  9:30~12:10 サカキの続き、葉と小枝に切り分ける
  葉(45リットル2袋)、小枝(30リットルの米袋2袋)
  道路の水道工事が再開する。12時から小雨が降ってくる。

・2022年11月25日(金) 晴 15℃
  9:30~10:30 庭のサカキ剪定(裏山のサカキの挿し木が1.5メートルに)
  (立枝、内向枝、交差枝、徒長枝、ヒコバエを除去)

・2022年11月28日(月) 晴 20℃(8~22℃)
  10:00~12:30 小枝と葉の片付け
   葉(45リットル4袋)、小枝(30リットルの米袋1袋、グリーンパック袋3袋)
 ※明日から3日間雨予報、明後日には冬型の1月中旬並みの寒さになるとのこと

・2022年12月4日(月) 小雨のち曇り 10℃(8~13℃)
  9:00~10:00 第3回目神社そうじ 

・2022年12月5日(月) 曇り 10℃(8~11℃)
  9:00~12:00 車庫のかしらの剪定したモチノキの枝葉を土中に埋める
  剣スコップとクワで穴を掘るも、地盤が固くて深さ10センチ位しか掘れず。
 (縦横が50センチ、1メートル位の長方形状。備中鍬の刃が曲がる)
 太枝切りバサミで太枝を切り、小枝と葉にして、穴に埋める。
  You Tubeで米ぬかを入れると良いというので、精米時にでた米ぬかを入れ、
土をかけて、踏んでおく。上に大きな石を重しとして置く。
※ツツジも下枝を切り、強剪定。キンカンも今季、初収穫50個。

・2022年12月6日(火) 曇り 10℃(6~11℃)
  9:00~12:30 ウメの木の強剪定
 車に電動ノコ、手ノコ、太枝切りバサミ、剪定バサミ、4段脚立を積み、畑へ
 電動ノコギリで太い枝、とりわけ内に生えた枝を切る。
(30分位で電池が切れたので、後は手ノコにて)
 太枝切りバサミで中枝、小枝を切る。
 2本とも、4段脚立を伸ばして、木に登る。
【ウメ(剪定前)の写真(2022年12月6日撮影)】

【ウメ(剪定後)の写真(2022年12月6日撮影)】


・2022年12月8日(火) 晴 13℃(2~14℃)
  9:00~10:30 向こうの畑の草刈り(初)
   混合油が今年購入した分で、タンクの3分の1しか残っておらず。
   畑と通り道、水路周辺だけを草刈り。コセンダングサの枯れ枝に苦戦。
  10:30~12:00 裏山のツツジの強剪定
   脚立が枯れ葉ですべり、片手で太枝切りバサミを持っていたので、落ちかける。油断大敵。
   ツツジの太い枝がかなり垂れ下がっていたので、枝分かれ部分からバッサリ伐る。

・2022年12月27日(火) 晴 8℃(2~10℃)
  9:00~10:20 スダチの収穫(6キロ)と施肥
   スダチの剪定(立枝、徒長枝、下垂枝、内向枝、逆さ枝)
   スダチ、ユズ、ウメに施肥(米ぬか)
   樹形の周辺をクワで少し堀り、米ぬかをまく
  11:00~11:30 スダチ30個を妹宅へ届ける
  (その際に、妹宅の玄関のヤマボウシは亡き父親が植えたものと聞かされる)


≪常緑樹の剪定について≫

2022-12-30 19:51:45 | ガーデニング
≪常緑樹の剪定について≫
(2022年12月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、樹木、とりわけ常緑樹の剪定方法について、解説したい。
 その際に、次の著作を参照した。
〇三橋一也、室星健磨、市川建夫『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年
 何事も、実践の前には、ある程度の知識は必要である。樹木の剪定も然りである。
 まずは、常緑樹の中でも、イトヒバ、ゲッケイジュ、マツ、マサキ、ジンチョウゲ、ツツジ、ウバメガシについて説明しておきたい。
 


【三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』(永岡書店)はこちらから】
三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』(永岡書店)





〇三橋一也、室星健磨、市川建夫『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年
【もくじ】
はじめに
第一章 どうしても知っておこう 整枝・剪定の予備知識
PART 1
冬に剪定すると常緑樹は風邪をひく
●常緑樹の生長サイクルを学ぼう
PART 2
常緑樹の剪定時期は五タイプに分類される
●樹形を観賞する木は、七月、九月に剪定
・自然樹形を維持する庭木
・仕立て物にする庭木
●花を楽しむ花木の多くは花後剪定が有効
・当年生枝に開花する花木
・前年生枝に開花する花木
●常緑樹の強剪定は活動期直前の三、四月
PART 3
イラストで知る整枝・剪定の基本
①切り取る枝と残す枝
②整枝・剪定の手順と方法
PART 4
プロがすすめる剪定道具とその使い方
●道具は凶器にもなる
●正しい道具の選び方と使い方

第二章 秘訣を教える樹種別整枝・剪定法
●あおき
●あせび
●アベリア
●いとひば
●いぬつげ
●うばめがし
●かいずかいぶき
●かくれみの
●かなめもち
●カルミア
●かんつばき
●きゃらぼく
●きょうちくとう
●くさつげ
●くちなし
●げっけいじゅ
●こうやまき
●このてがしわ
●ささ類
●さざんか
●さつきつつじ
●さわら
●さんごじゅ
●しいのき
●しゃりんばい
●しゅろ
●しらかし
●じんちょうげ
●西洋ひば類
●そてつ
●たいさんぼく
●たけ類
●ちゃぼひば
●つつじ類
●つばき
●とべら
●なんてん
●ねずみもち
●はくちょうげ
●ひいらぎ
●ひいらぎなんてん
●ひさかき
●ヒマラヤすぎ
●ピラカンサス
●びわ
●まさき
●まつ類
●まてばしい
●みかん類
●もくせい類
●もちのき
●もっこく
●やつで
●やまもも
●ゆずりは
●ユッカ
●らかんまき

花壇づくりのポイント




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・落葉樹と常緑樹~剪定の違い
・整枝・剪定の基本
・整枝・剪定の手順と方法
●いとひば
●げっけいじゅ
●まつ類
●まさき
●じんちょうげ
●つつじ類
●うばめがし






落葉樹と常緑樹~剪定の違い


〇落葉樹は、寒冷な地域に育ち、冬に葉を落として、生育のための消費エネルギーを最少にし、自ら厳しい寒さに耐える特質を備えている。
⇒そのため、落葉樹の多くは、樹木が休眠している冬期(11月~3月、ただし厳寒期は除く)剪定が中心となる。
⇒この時期は、樹勢への影響は少なく、落葉していて枝ぶりもわかり、作業が効率的である。

〇常緑樹は、温暖な地域に育ち、寒さを嫌う。
 寒さに弱いから、冬期の剪定は避けることが原則である。
 四季を通して、美しい緑を保つための剪定が必要。
 その適期は常緑樹の生長サイクルに従うことになる。

【常緑樹の生長サイクル】
・常緑樹の生長サイクルを観察すると、冬はほとんど休眠しているようにみえるが、落葉樹の休眠と違い、仮眠状態にあたる。
 葉、幹、枝とも気温や日照時間、地温などの外的刺激を受けて、わずかな活動を続け、体内的にはホルモンなどの働きで、春の芽ぶきの準備をしている。

〇春~芽を伸ばし、あるいは花を咲かせ、体内に貯えた養分を少しずつ溶かして、消費していく。
〇夏~初夏は葉もしっかりと充実し始め、古くなった葉を落とす時期でもある。
   夏は花木の多くは花芽をつくる時期にあたり、種子の育つ時期と重なるものも多いようだ。
〇夏から秋にかけて~養分の貯蔵期である。消費する養分よりも製造するほうが多くなる。
  また、根もさかんに伸び、活動する時期にあたる。
〇秋から冬にかけて~寒さにむかい養分を幹や根のほうに送り込み、休眠(仮眠)状態にむかう。(ただし一部のものは、花を咲かせ、種子をつける時期でもある。)

※常緑樹の生長サイクルは、大きくは4月から10月ころまでの活動期、11月以降3月までの休眠期に二分される。
・活動期間中(4月~10月)に剪定を行えば、常に緑を保てる。
 この期間は常緑樹は生長を続けるから、葉がまるでなくなることはない。
・逆に休眠期(11月~3月)の剪定は、ハサミを入れる時期と位置によっては、緑を失うことにもなりかねないから、危険性は大きい。
 しかも常緑樹は、耐寒性に弱く、枝葉が少なくなると、寒害を受ける場合もある。

※このことから、常緑樹の剪定の適期は、広い意味では、4月から10月までが安全期というわけである。
 冬の間はできるだけ避け、行う場合でも、枯れ枝や徒長枝、古葉を取る程度の軽い剪定にとどめること。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、8頁~9頁)

整枝・剪定の基本


PART 3
イラストで知る整枝・剪定の基本
①切り取る枝と残す枝
②整枝・剪定の手順と方法

〇剪定・整枝を行う前に、残すべき枝と切り捨てる枝を知っておかなければならない。
A 残すべき枝
①幹                ⇒骨格となる枝
②主枝(しゅし)……幹からでた太枝 ⇒骨格となる枝
③副主枝    ……主枝からでた枝 ⇒骨格となる枝
④側枝(そくし)……副主枝からでた枝⇒樹冠を構成する枝
⑤梢(こずえ) ……当年生枝など先端部の枝⇒樹冠を構成する枝
⑥予備枝(よびし)……将来骨格枝とするために育てる枝⇒樹冠を構成する枝

B 切り捨てる枝
①車枝(くるまえだ)……一か所から多方向に数本でている枝
 ⇒1、2本残して、ほかは切り捨てる。枝のつけ根で間引く
②逆さ枝(さかさえだ)……外から内側にむかって伸びる枝
 ⇒外から内へ伸びる枝は枝のつけ根で間引く
③平行枝(へいこうし)……二本重なって伸びる枝
 ⇒上下の枝のバランスをみて一方を間引く
④立ち枝(たちえだ)……枝の途中からでる立った枝
 ⇒つけ根で間引く
⑤徒長枝(とちょうし)……上方枝や枝先の切り口近くから極端に強く伸びる枝
 ⇒伸びすぎた枝は、間引き、切り詰めで切り捨てる
⑥枯れ枝(かれえだ)……枯れ、半枯れ状態の枝
 ⇒つけ根で間引く
⑦胴ぶき(どうぶき)……幹からできる不必要な枝
 ⇒幹からでる不要な枝は間引く
⑧ヤゴ(ヒコバエ)……地際から強く伸びる枝
 ⇒地際または、できれば掘り起こして根際で切る

(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、12頁~14頁)

整枝・剪定の手順と方法


整枝・剪定の手順は、
①間引く
②次に残した枝を切り戻す
③さらに残った枝を切り詰めて姿を整える
この3ステップが基本になる。
 つまり、間引く⇒切り戻す⇒切り詰める
※この作業は、あらゆる樹木に共通するので、そのやり方をしっかりマスターしよう。

●間引き剪定
・枝葉が混み合った場合、日当たりや通風をよくするために、枝を基部から切り除く(間引く)作業をいう。
・ポイントは、枝のつけ根から切り捨てることで、枝もとが残らないように注意する。

●切り戻し剪定
・大きく伸びすぎた枝を小さくする場合、強い枝に集まる樹勢を弱い枝に切り替えていくため、弱小な枝を残し、強く伸びた枝を切り捨てる作業をいう。
・高さを詰める場合、立ち枝を探して、幹の方向にそった枝をいかして切る。
・枝幅を狭くする場合、枝の方向になじませて切ると、すんなりした枝ぶりになる。

・ポイントは、枝の分岐点で行うことで、弱い枝をいかし、自然な枝ぶりをくずさないようにする。

●切り詰め剪定
・間引き、切り戻しのあとに、姿を整えるために切りそろえる作業をいう。
・枝先の作業であるから、芽のはっきりわかるものは、外芽の上で切り詰めることが原則。
・外芽の上で、5~10ミリ(細枝は5ミリ、太枝は10ミリ)離して切る。外芽の伸びる方向にそって切ること。
・これは剪定作業の仕上げの部分である。
 (木によっては行わなくてもすむものもある。例えば、自然樹形で育てる場合)

●刈り込み
・人工的に一定の姿を保つ刈り込み物は、ひとシーズンで伸びた枝を刈りそろえなければならない。
※通常「刈り込み」というと、姿を刈りそろえる作業だけを考えがちであるが、これは誤りであるという。
 必ず日当たり、風通しをよくするために、樹形内部の、次の点に注意すること。
①不要な枝を間引く
②伸びすぎた枝を切り戻す
③切り詰める
 この3段階の基本作業を行い、そのあとに、目的の刈り込み線(刈り地)で切りそろえる。
⇒正しい意味の刈り込みは、基本作業プラス仕上げの作業の4段階を行うことをいう。

●太枝の切り方
・剪定バサミでは、直径2センチくらいまでの枝を切ることができるが、それ以上太い枝は剪定用の鋸を用いることになる。
・この場合は、特別な注意が必要で、次のような手順で切り落とす。
<太枝の正しい切り方>
①下から1/3ほど切り込みを入れる。
②上から下へ残り2/3を切り込み、太枝を切り取る。
③幹にそって切り残しをきれいに切り取る。

<注意>
※上から一度に切ると、枝の重さで裂けたり、樹皮がむけたりする。

(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、15頁~19頁)

いとひば


●いとひば
・ひのき科
 常緑針葉高木。高さ2m~4m
 さわらの園芸変種で別名ひよくひばともいう
 半日陰地でもよく育つ

●下垂する枝葉が美しく和風の庭に最適
・葉が細長く糸状に下垂するのが特徴で、和風の庭によく合う庭木である。
・強い剪定にも耐え、よく透かしてやれば下の株物や草花の日照や風通しにも、じゃまにならない。
 しかし、放置したままでは、枝葉が乱れ重なりあって、見苦しい姿になってしまう。

●剪定は、新芽が伸びきった6、7月ころに
・剪定は、新芽が伸びきった6、7月ころに、毎年行う。
・さらに余力があれば、9月ころにもう一度、秋の手入れを行うことが理想である。
⇒秋の剪定は補助的なものであるが、あまり寒くなってから行うと、古葉や枝が枯れてしまうから、9月末を限度とし、軽い剪定(枝葉を半分は必ず残す)にとどめる。

●切り戻し剪定で下方の枝葉を多く残す
・6、7月には徒長枝も多く、小枝も密生している。
 この時期に行う基本剪定は、次の手順に従い、残す枝葉に傷をつけないように注意する。
・まず、大きさを決めてから残す枝を決定する。
 切り捨てる枝は、混み合った枝、逆さ枝、先端の強い枝、ふところ部分(樹形内部)に多い枝ぶきなどで、残した枝が平均的な強さにそろうように心がける。
・剪定作業は頂上枝から下方へすすめ、できるだけふところ枝をいかして、太枝を切り捨てる。
・このとき、枝をつけ根から間引く場合、枝の分岐点で細い枝に切り戻す場合、ともに枝葉が密生しているから、残す枝葉を傷めないように、よく研いだ木バサミの刃先をさし込むようにして、注意深く切る。
・樹形内部のムレを防ぎながら、樹冠全体に枝葉がゆきわたるように、頂上枝は薄く、下方へ行くにつれて濃く枝葉を残し、最後に切り枝が残らないように、ふり落としておく。

<6月、7月剪定の枝先の切り方>
・枝先は2本の長葉と2本の短枝を残すくらいにする。
①伸び過ぎた枝はふところの弱い枝を残して切り捨てる。
②枝のつけ根付近に多量に発生する枝ぶきは枝もとから切り捨てる。

<6月、7月の切り戻し剪定>
・作業は上方から下方へすすめ、下に行くにつれて枝葉を多く残す
①多くでる徒長枝は、ふところ枝をいかして間引く。
②枝ぶきは、ていねいに基部から切り取る。
③悪い例として、葉のない枝の途中で切ると、芽がでないで枯れてしまう。

<枝ぶきの取り方>
・枝ぶきは、つけ根からきれいに切り取る。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、32頁~33頁)

げっけいじゅ


●げっけいじゅ
・くすのき科
 常緑高木。高さ5m~6m
 葉の香りがあり香料として食用に利用される。
 暖地向きで寒害を受けやすい

●ふところの胴ぶき枝を切り透かす
・枝はたいへんよく直上方向に伸びる性質であるから、放任してもそれほど姿を乱すことはない。
・自然の姿のまま育てていく場合は、年1回6月に剪定する。
・細長く伸びる一本立ちとしたい場合は、根際からであるヒコバエを切り除く
 株立ちとしたいときは、ヒコバエをいかし、幹は切り倒す
<注意>
・数多くの胴ぶき枝が競い合ってでるから、ふところ部分が混み合って、害虫がつきやすくなる。
⇒だから、どちらの樹形でも枝を透かして、風通しよくすることがたいせつ。

・また、段づくりやカムロづくりなどに仕立てても楽しめる。
⇒この場合は、年2回(5月下旬~6月中旬、10月)、もちのきと同じ方法で行う。
 10月の剪定では、軽い切り詰めとし、多くの葉を残すように心がけ、冬の寒風に耐えるようにしてやる。
・人工樹形にする場合の枝の切り方としては、3、4葉残して枝先を切り詰め、葉腋から小枝をださせて、芽のつんだ状態にする。
(もちのきの場合、枝先の切り詰めは、必ず葉を3枚くらい残して切る。これを「三葉手入れ」といい、葉を残すことで再び枝先に新しい枝葉が密生し、よい姿に整う。)
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、58頁、119頁)

まつ類


●まつ類
・まつ科
 常緑針葉高木。高さ4m~6m
 庭の主木や門冠りに使われる庭木の代表樹種
 日当たりのよいところを好む

●樹皮を傷めない冬の間に樹形を仕立てる
・放置したままでは、10m以上の大木になるが、庭木として仕立てる場合は、いろいろな大きさにつくれる。
・仕立てる場合は、若木から育てて幹と枝の配分を整えていくのが一般的。
 幹を曲げたり、枝を配分したり、不要な枝を切り取るなどの手入れを行い、完成された姿にしていく。
 こうした幹や枝をつくる作業は、冬の間(2、3月ころ)がよく、この時期は樹木が休眠していて堅いので、樹皮を傷めることもない。

●手入れは5月上旬と11月以降の冬に行う
・完全に仕立てられた木の場合には、ほかの庭木と違った剪定・整枝の方法がとられる。
①そのひとつは、「みどりつみ」という。
 新梢が伸びる時期の5月上旬に行う。
②もうひとつは、「古葉取り(もみ上げ)」という
 11月下旬以降に、冬の剪定・整枝の仕上げ作業として行う。
※つまり、まつ類の通常の手入れは、春の「みどりつみ」と、冬の「古葉の手入れを含めた剪定」と、年2回、行うことになる。

●みどり(新梢)をつみとり、生長を抑制する
・春から伸びだした新しい芽から葉が伸びるまでの新梢を、まつのみどりという。
このみどりを取り除く作業が「みどりつみ」である。
 つまり、5、6月の新梢(みどり)の芽がひらく前にみどりを取って、生長を抑えることをいう。
・一か所から数本のみどりがでた場合は、長いみどりを基部からつみ取り、3本くらい残すことが基本になる。
 そして残したみどりも、長さをみて途中でつみ取り、伸びを防ぐ。
・新梢すなわちみどりつみの作業は、すべて素手でみどりの芯が伸びきってから行う。

<みどりつみのやり方(5月上旬)>
①勢いの強い木の場合、みどりの基部から指先でつみ取る
②さらに芽の伸びを止める場合、残したみどりを途中でつみ取る
③周辺にも新梢があるため、みどりを伸ばさない場合、みどりをつけ根から指先でつみ取る

●古葉を取って樹形内部の日照と通風を確保
・秋から冬になると、枝葉も混み合い、樹形内部の日当たりや風通しも悪くなる。
 これを防ぐために行う作業が「古葉取り」である。
・この作業の前に、まず、枯れ枝やからみ枝などのじゃまな枝を間引き、混みすぎた枝や伸びすぎた枝も間引き、切り詰めにより整理して、基本となる枝ぶりをつくる。
・そしてそのあとに、冬の最終手入れとして古くなった葉を指先で取っていく。
 取り除く場合は、下向きや横向きの葉を優先させて取る。
・下の葉から上の葉へと両手でもみ取ることから、「もみ上げ」とも呼ばれている。

<古葉取りのやり方(11月~冬)>
①上端、左右に大きく伸ばしたい場合
 先端の葉を残し、枝もとの葉をきれいに取る
 1枝に10~15枚の葉を残すことを目安にする
②枝が長く伸び枝の途中から新しい枝をださせたい場合
 先端の葉は残す。枝の途中の葉を残してそこから新しい枝をださせる。枝もとの葉を取る。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、111頁~113頁)

まさき


●まさき
・にしきぎ科
 常緑低木。高さ2m~3m
 花期6月~7月。
 丈夫な樹種で大気汚染にも強いが、5月ころにウドンコ病が多発する。

●刈り込みは春と秋に、強剪定は早春に
・日当たりを好む木であるが、半日陰地にも育ち、土質を選ぶこともない丈夫な木である。
・生長は早く、萌芽力も旺盛で、庭植えの場合は刈り込み物や生け垣に使われる。
・いつどこで切ってもよく、刈り込み物は年2回、5、6月と9月に。
 大きく育った木を小さく強剪定する場合は、春の芽ぶき直前の4、5月に行うのが一般的。

●萌芽力が強いので思いきって剪定する
・刈り込みの手順は、ほかの刈り込み物と同様に、内部の枝を整理したあとに刈りそろえる。
・1回目の春は強く刈ってもよく、2回目の秋は冬までに充実するように軽く刈りそろえる程度にする。
・春の芽ぶき前に行う強剪定は、太枝を切っても容易に枝がでる。
・とくに丈夫で萌芽力が強い木であるから、思いきって行う。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、110頁)

じんちょうげ


●じんちょうげ
・じんちょうげ科
 常緑低木。高さ1m~2m
 花期3月~4月
 花芽は前年生枝タイプ 乾燥を嫌うが半日陰地でも丈夫に育つ

●花後に樹形を乱す枝のみを切り返す
・芳香を放つ花木の代表的なもので、庭木として好んで植えられている。
 3月の彼岸近くに樹冠いちめんに小花を咲かせ、花後に3本から4本の新梢をだし、その先端に7月から8月ころに花芽を形成する。
 ⇒この花芽が冬を越し、翌春開花するというサイクルである。
・剪定は、花が咲き終わった直後で、新しい芽が伸びださない前(3月から4月)に行う。
 以後は切れば切るほど翌年の花は少なくなるから、とくにじゃまになる枝を切り取る程度とする。

※放置しても自然に丸く樹形を整える木であるから、ほとんど手を加える必要はないという。
・樹形からとびだした長い枝を切り除く程度で十分。
・切る場合は枝の途中で切り詰めないで、枝の分岐点で必ず小枝を残すように切り戻しを行う。

●一度に強い剪定を行うと樹勢が弱くなる
・木が大きくなりすぎて小さくしたい場合や、若返りを図りたいような場合に限り本格的な剪定を行う。
・時期はやはり花後がよく、かなり思いきって枝を切り取っても、すぐに新梢が伸びて樹形も整う。
・しかし、木の大きさにもよるが、一度に切り下げないで、2年から3年かけて好みの高さに戻していくほうが安全である。
⇒一度にあまり強い剪定を行うと、翌年花がつかなかったり、樹勢を弱めることになる。
・萌芽力はあまり強くないから、この場合の剪定もあくまでも小枝を生かした切り戻しを原則とする。
 混みすぎた部分を透かす場合も方法は同じである。
・観賞は花だけでなく、肉厚で艶のある葉も美しく、冬の庭には貴重な緑である。
 刈り込むと、花は少なくなるが、生け垣にも利用する。

<花後剪定(3月~4月)>
・樹形を乱す枝だけを切り戻す程度でよい。
①小枝をいかして切る。
②残した小枝は芽の上部で切り詰める。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、76頁~77頁)

つつじ類


●つつじ類
・つつじ科
 常緑低木。高さ1.5m~3m
 花期4月~6月
 花芽は前年生枝タイプ 
 落葉、半落葉性のつつじもある

●花後できるだけ早く剪定する
・おおむらさきを代表に、りゅうきゅう、きりしま、くるめ、ひらどなど種類が豊富にある。
・剪定は花の終わった直後にできるだけ早く行うようにする。
 花を咲かせなくてもよい場合は、冬と真夏の時期を除けばいつ行ってもかまわない。
・翌年花をつける準備行動(花芽の分化)は、6月下旬から8月上旬に行われる。
 花後に伸びた新梢の先端に花芽をつけるから、遅くなって剪定すると、せっかくできた花芽を切り取ることになってしまう。
そのため花が長く咲いている種類では、花が咲き終わらないうちに剪定しなければならない場合もあるという。

●徒長した枝は深い位置で切り詰める
・常緑性のつつじは、一般に枝が横に広がって、半球状の樹形となり、単植や寄植えのほか、生け垣としても使われる。
・剪定を行う場合は、
①まず、樹形を乱す徒長枝を切り詰める。
 このとき先端部で切ると、さらに強く伸びる枝をだすから、必ず深い位置で切り詰めるようにする。
②次に混みすぎた枝を切り透かしていく。

・つつじは、枝の途中で切ってもよく萌芽するが、ていねいに行う場合は枝の分かれ目で切り取るようにする。
・枝が細いから、1本1本剪定するのがたいへんという場合には、刈り込みバサミで一律に樹冠を整える方法もとられる。
・刈り込み作業は簡単で、刈り方によっていろいろな形に仕立てていくことも可能である。
・毎年1回、花後に刈り込み、それ以外の時期は花が少なくなってしまうから、避けたほうが無難。

<基本的な枝の透かし方>
・枝の途中で切ってもよく芽をだすが、できるだけ枝の分かれているところで長いほうの枝を切る。
【枝先の場合】
①今年の枝を2、3本残し、ほかはつけ根から間引く。
②残した今年の枝は先端を切り詰める。

【樹形中間部の場合】
・今年の枝を2、3本残しほかは間引く。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、86頁~87頁)

うばめがし


●うばめがし
・ぶな科
 常緑中木。高さ1.5m~3m。花期5月。
 暖地に自生するため日当たりを好み、剪定や刈り込みにもよく耐える。

●枝先は外へ広がり内部の枝は枯れやすい
・萌芽力は強く、生長力も旺盛で、庭木としては刈り込み物として扱われる。
・かしの仲間は、徒長して枝先がどんどん外へ広がり、ふところ枝が枯れていく性質が強いため、剪定しないと乱れた姿になってしまう。
⇒そこで、枯れ枝になる前に早め早めに手入れをし、樹形を整えるようにする。

・また、材が堅いことも特徴である。
 備長炭(びんちょうずみ)として利用されているが、こうした硬質の木の剪定には、使う道具への注意も必要であるという。

●徒長力が強いので年3回の刈り込みを
・刈り込むことで、枝は一段と伸び、よく徒長枝をだすから、年3回刈り込む。
 3回行えば、四季を通して整った姿を楽しめる。
・刈り込みの適期は、春の新芽の伸びが止まる5月ころ、徒長した枝が姿を乱す7月中、下旬、そして、冬を控えての9月である。
 暖地性の木であるから、冬期(11月~3月)の剪定や刈り込みは避ける。

●刈り込みは間引き剪定のあとにする
・刈り込み作業の前に、剪定バサミで全体の枝づくりをする。 
 まず、木をよく観察し、骨格となる枝を残して、枯れ枝、逆さ枝、徒長枝を間引く。
 間引きによって、かすかに向こう側が透けてみえる程度にする。
⇒そうすると、日照や通風もよく、幹や枝の美しさも楽しめる。
・また、徒長した太枝や育ちすぎた枝は、木が硬質であるから、刈り込みバサミを受けつけない。
⇒剪定バサミで間引きしないと刈り込みはできない。
(むしろ大きく育った木では、剪定バサミで切り詰めて、仕上げる場合もある)

※間引き剪定のあとに、仕上げの意味で樹冠を刈りそろえるが、刈り込みの手順は、いぬつげと同じである。

【枝の整理と刈り込み】
①多くでる徒長枝は、枝もとまでさかのぼって間引く。
②逆方向に伸びる枝や混み合った枝を間引く。
③垂れ枝を切り取り、すそ面をきれいにする。
④樹形内部の不要な枝を整理したあとに、刈り込み線にそって、刈りそろえる。
(三橋一也ほか『常緑樹の整枝と剪定・プロのコツ』永岡書店、1985年、38頁~39頁)


≪足田輝一『樹の文化誌』を読んで≫

2022-12-29 19:36:20 | ガーデニング
≪足田輝一『樹の文化誌』を読んで≫

【はじめに】


 今回も、引き続き、樹木についてみていこう。
 照葉樹林については、以前のブログで触れたことがある。
〇≪仏花の選び方と育て方≫(2019年12月29日投稿)
〇≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫(2021年5月3日投稿)
 これらのブログでは、中尾佐助氏、上山春平氏などによる照葉樹林、照葉樹林文化についての議論を紹介した。その際に、次のような参考文献を挙げた。
・中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年
・中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]
・上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年
・上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
・佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]

 この照葉樹林文化が、日本の文化のルーツのような存在であることは知られていた。私も十分心得ていたつもりである。
 それが、日本文化、とりわけ庭園文化とどのように関わるのかについては、正直、私は思いが至らなかった。
 ところが、足田輝一氏の次の著作を読むと、照葉樹林が日本庭園の中でどのような位置を占めるのかが、浮かび上がってくる。
〇足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年

 そして、日本庭園(たとえば桂離宮)の思想的背景すら垣間見えてくるような気がする。
 今回は、このような観点から、この足田氏の著作を紹介してみることにする。

【足田輝一(あしだ・てるかず)氏のプロフィール】
・1918年、兵庫県生まれ。
 1941年、北海道大学理学部動物学科を卒業
 朝日新聞社出版局に入り、週刊誌記者などを経て、『科学朝日』『週刊朝日』の各編集長や、図書第一部長、出版局長などを歴任。
 1973年、定年退職後は、ナチュラリストとして活動。

<主な著書>
・『草木の野帖』(朝日新聞社)、『雑木林の博物誌』(新潮社)など




【足田輝一『樹の文化誌』(朝日新聞社)はこちらから】
足田輝一『樹の文化誌』(朝日新聞社)





〇足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年

【目次】
樹々の物語への口上
第一部 サクラ文化の系譜
 “ハナ・ハト”から軍国の花へ
 町人文化のなかに咲く
 室町ルネッサンスの芸能
 王朝の庭に咲き匂う
 万葉人のかざした花
 民俗の遠い地平より
 海の彼方のチェリー

第二部 樹々の博物誌
 能と舞台の背景――マツ
 憧れの高原に生きる――シラカバ
 照葉樹林の聖樹――ツバキ
 てまり唄の系譜――エゴノキ
 大津絵の世界に咲く――フジ
 ユートピアの花――モモ
 万葉人の情緒――ハギ
 神の住む森――スギ
 雑木林文化の代表――クヌギ
 シカと組んだ秋の景物――モミジ
 武蔵野のシンボル――ケヤキ

第三部 日本の庭の歩み
 漱石山房の庭をしのぶ
 江戸の残映をうつして
 桂離宮にみる照葉樹林
 枯山水は中国の自然から
 『源氏物語』に描かれた秋草
 万葉人の庭の眺め
 雑木林の庭への展望

第四部 神々の森からの道
 ミツナガシワと古代の生活
 伊勢神宮の火きり具
 サカキをめぐる民俗
 「心の御柱」の源をさぐる
 太古は照葉樹林だった
 年輪と樹姿が生みだすもの
 宇宙樹への道程

 あとにひとこと
 参考にした本




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・照葉樹林に関連して
・照葉樹林の聖樹――ツバキ
・サカキをめぐる民俗
・太古は照葉樹林だった
・桂離宮にみる照葉樹林
・『源氏物語』の植物
・マツと日本文化






照葉樹林に関連して


さて、目次をみてもわかるように、照葉樹林に関連した項目は次のようなものが挙げられる。
〇第二部 樹々の博物誌 照葉樹林の聖樹――ツバキ(192頁~)
〇第三部 日本の庭の歩み 桂離宮にみる照葉樹林(318頁~)
〇第四部 神々の森からの道 サカキをめぐる民俗(413頁~)
〇第四部 神々の森からの道 太古は照葉樹林だった(441頁~)

 これらの各部各章に、照葉樹林について、どのようなことが述べられているのか、紹介してみたい。

照葉樹林の聖樹――ツバキ


〇第二部 樹々の博物誌 「照葉樹林の聖樹――ツバキ」(192頁~201頁)には、次のようなことが述べられている。
・ツバキに関連してまっさきに眼に浮かんでくるのは、速水御舟(はやみぎょしゅう)の『名樹散椿』という重要文化財に指定されている名画だという。
⇒金砂子のまきつぶしという大画面に、ゆたかに樹勢をひろげた五色椿が、豪華に咲き誇って、散りしいた花びらの姿にも、たけなわの春が匂うようである。
 この作品が描かれたのは、昭和4年(1929)、当時の第16回院展に出品され、さらにその翌年、ローマでひらかれた日本美術展覧会にも出された。
 このツバキの絵は、最初は京都の愛宕山にある大きいサクラの樹を描くつもりだったのが、結局ツバキになった、といわれている。
 もうひとつ、非常に良い朱を手に入れることができたので、それを使ってみようと考えたのが、サクラからツバキへ画題の移った動機でもあったらしい。

※ツバキの構想をもって、京都の椿寺へ行った時は、もう花の季節ではなかったが、名木の樹勢を写生するには、かえって都合がよかったようだ。この構図の上に、彼の自宅の庭に咲いていた五色散り椿の花を配置して、いま目にすることのできる、名画が生まれてきた。
 御舟の絵のモデルになったのは、京都は洛西の北野、一条西大路にある地蔵院であるそうだ。
 この庭の五色散り椿というのは、枝によって白い花や、紅色の花、または白地に紅のまだらなど、さまざまに咲きわけて、その花びらは八重なのだが、深くさけているので、満開をすぎると一枚ずつばらばらに散る。
 寺のいい伝えによると、朝鮮の役の時に、加藤清正が持って帰り、豊臣秀吉に献じたことになっているが、これは後世につくられたフィクションであろう、と著者はいう。
 
<奈良の春日山のヤブツバキ>
・著者は、山深く咲いているヤブツバキが好もしいという。
 とりわけ、奈良の春日山のヤブツバキは印象深かったようだ。
 いわゆる照葉樹林といわれる、森の姿をじっくりと眺めることができたからである。
 
<日本の原風景としての照葉樹林>
※日本列島に、まだ人間があまり住んでいなかった原初のころ、この列島の南の大部分をおおっていたのは、照葉樹林だった、と想像される。
 これは、広い葉の表面に光沢をもった常緑の樹種、例えば、シイ類、カシ類、クスノキ、ヤブツバキなどが主となっている林である。
 こういう日本の原風景は、数千年の文化の歴史のなかで、次第に開発され、変貌をとげ、ほとんど原初の姿を消してしまった。
 ただ、鎮守の森といわれるような、神社や寺院の聖域に属していたところでは、わずかにその面影を残している場合がある。
 春日神社の神山であった春日山原始林とか、伊勢神宮の神域林は、そういう意味で、照葉樹林がひろい面積で保存されている、貴重な自然なのである。

〇この日本の照葉樹林を代表する樹のひとつが、ヤブツバキなのである。

・ツバキ、正しくはヤブツバキは、日本列島の本州、四国、九州、朝鮮半島の南部に野生しているが、中国大陸には分布していない。
 古代の中国、隋や唐の時代に、東方の日本から渡ってきた珍しい樹として、海石榴とよび、詩歌によみこんでいる。
 石榴とはザクロのことだが、西域から伝わってきたザクロに対し、海の彼方からきた石榴という名で、ツバキを観賞したようだ。
 しかし、同じ海石榴の字をあてて、ヒメザクロもしくはチョウセンザクロを意味する場合もあるから、注意がいる。

・多くのツバキの園芸品種は、野生のツバキから育成されたものだが、ワビスケやウラクツバキのように、まったく別の種とされているものもあり、その系統は、複雑である。
 ワビスケというツバキは、京都大徳寺の総見院に古樹がある。これは、千利休が豊臣秀吉から賜わったとか、堺の侘助という人からもらったとか伝えられている。あるいは、中国から渡ってきたという説もある。
 ワビスケは、チャとヤブツバキの雑種といわれる。
 同じく京都高台寺の月真院にあるウラクツバキは、織田有楽斎の遺愛の樹と、寺伝にある。
 これは、おそらく中国から伝来の系統だろうと、植物学者は推察している。

<椿という漢字>
・ツバキの園芸品種のなかには、中国の系統と思われるものもあるが、ヤブツバキは中国には生えていない樹であるそうだ。
 椿という字も、日本でつくられた国字という方が適切である、と著者はいう。
 ツバキこそ、日本の照葉樹林ばかりでなく、日本人の草木文化を象徴しているとする。
 
・漢字にも、椿という字がある。
 しかし、この字は、ツバキとはまったく別のセンダン科のチャンチンという樹、漢名でいえば、香椿または椿という植物のことであるそうだ。
 現代の中国でも、香椿、春芽樹、椿、紅椿、椿樹などといっているが、ツバキとはやや縁の遠い植物で、葉も羽状複葉で、まったく違った姿をしている。

<ヤブツバキと日本の照葉樹林文化>
 ヤブツバキが、植物生態学の立場からみると、日本の照葉樹林の標徴となる樹なのである。
(だから、学者は、生態からの分類として、日本の照葉樹林をヤブツバキ・クラスとよんでいる)
 つまり、ヤブツバキという樹は、日本人の祖先が、はるかな昔から暮らしてきた、照葉樹林を象徴していることになる。
 ヤブツバキこそ、私たちのふるさとのシンボルなのである。
(ここでヤブツバキといってきたのは、日本の山野に野生していて、カメリア・ヤポニカというラテン名でよばれるツバキのことである)

※ヤブツバキ・クラスともいわれるように、この樹は、日本の照葉樹林のシンボルである。
 そして、日本の原始宗教であった神道は、この照葉樹林の樹々と、深い因縁をもっている。
 神事に用いられる、サカキ、シキミなども、そういう照葉樹のひとつである。
 その照葉樹林のなかで、真紅の花をひらくツバキは、古代人の心に、神秘的な印象をあたえ、彼らの生活のなかで、神聖の樹として存在してきたのであろう。
 遠い昔は神聖の樹として、屋敷の内に植えることもはばかられ、庭の樹となったのは、中世以後のことだといわれる。
(ともあれ、ヨーロッパの人々にとって、『椿姫』の華麗な美女を想わせる花も、私たちには、深い心の故郷を呼びおこすようだ。それも、ツバキと日本人との、長いつきあいの歴史の結果なのであろう)
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、192頁~201頁)

サカキをめぐる民俗


〇第四部 神々の森からの道 「サカキをめぐる民俗」(413頁~421頁)には次のようなことが述べられている。
・神道の行事において、サカキが重要な役割をもつことは、日常に経験するところである。
 これは、伊勢神宮においても、同じである。
 古来、神宮で使われるサカキは、三重県一志郡久居町(現久居町)榊原および七栗、松阪市漕代町高木(現高木町)から奉納されてきた。
 神宮においては、また、廻榊(めぐりさかき)といわれる神事も行われた。
 『伊勢参宮名所図会』によれば、外宮の玉串所(たまくしところ)に一本のサカキがあって、その下で宮司が玉串をとり、サカキの東を廻り、同じく禰宜が玉串をもって、サカキの西を廻るという。

・また、毎年の神嘗祭には、斎王による太玉串(おおたまくし)をたてまつる儀式があった。
 これは、長さ4から5尺(1.5メートル前後)のサカキの枝に、ユウ(木綿)をとりつけたもので、これを内玉垣御門前に立てた。
 ユウとはコウゾの樹皮の繊維を水さらしして、細い糸状にしたものである。
 この神事の意味は、斎王が大神への奉仕者であると同時に、“大神の御杖代(みつえしろ)”であることをも象徴していて、サカキの枝は重要な依り代であることがわかる。
 この儀式も、明治以後は絶えたようだ。

〇サカキという樹は、ツバキ科の常緑小高木である。
 暖帯から亜熱帯にわたって分布する。
 本州では茨城県―石川県より南西、四国、九州、済州島から台湾、中国にわたって生育する。
 サカキというのは、栄木の意味である。賢木とも書く。榊は日本で作られた国字である。
 また、境木(さかき)の意味で、磐境(いわさか)、つまり神の鎮まる地の境界を示す樹であるという説もある。
 昔は、常緑広葉樹の総称のように用いられ、サカキ、ヒサカキ、オガタマノキ、シキミ、カナメモチ、モクセイ、マサキなども含んでいたものである。

【サカキの写真(2022年11月17日撮影)】


・平安時代の『和名類聚抄』の祭祀具の項に、竜眼木という言葉に佐賀岐(サカキ)の和名をあて、「坂樹刺立テテ神ヲ祭ルノ木ト為ス」という『日本紀私記』を引用している。
 いま中国で、竜眼または竜眼樹というのは、ムクロジ科の果樹で、日本でも熱帯果物のリュウガンとして知られているものである。
 サカキのことは、竜眼木とはいわないで、楊桐または紅淡といわれている。
 日本のサカキと同種で、揚子江流域から南の各省に分布している。

・五代の毛文錫の『茶譜』には、楊桐(サカキ)のことがのっている。
 湖南の長沙では、4月4日に楊桐の葉をつんで、その汁をつき出し、米にまぜて、餻糜(こうび)のように蒸して食べる。
 この時は、必ず石楠(シャクナゲ)の芽からとった茶をすする。
 こうすると中風よけになるし、暑中に飲むともっとも宜しい。
(餻糜というのは、羊羹や外郎[ういろう]のような蒸しものである)
・また宋代の『歳時広記』には、寒い季節になると、楊桐の葉をとって飯に入れてたくと、色が青くなって光る、これを食べると陽気をたすける、これを楊桐飯という、とある。

※昔の中国においては、このようにサカキは食用されていたらしいが、日本の伝統の如く、宗教的な意味はもっていなかったようである。
 サカキの樹に、宗教的な神性をみとめたのは、日本列島に住んだ日本人の祖先の特色であったようだ。
・『古事記』では、天照大神が天の岩戸にかくれた時、その前で、
「天の香山(あめのかぐやま)の五百津(いほつ)の真賢木(まさかき)を根掘(ねこ)じにこじて、上枝(ほつえ)に八尺(やた)の勾璁(まがたま)の五百津の御統(みすまる)の玉を取り著(つ)け、中枝に八尺の鏡を取り繋(か)け、下枝(しづえ)に白和幣青和幣(しらにきてあをにきて)を取り垂(し)でて」神々がおどりうたう。
 ここに、日本古来からの神性のシンボルである、玉と鏡と麻緒を、サカキにかける。
 この樹は、現代のサカキに限らず、ひろく清浄な常緑樹と考えてよいが、こういうサカキを含めた常緑樹が神と密接に関係した神性の樹であったことは、この神話からも推察される。
 ※シラニキテはコウゾの繊維、アヲニキテはアサの繊維といわれる。
  ニキテは、剣に代えられる場合もある。

・『万葉集』に、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の神を祭る歌がある。
「奥山の、賢木の枝に、白香(しらか)著(つ)け、木綿(ゆふ)とりつけて」とうたわれている。
 ※シラカはアサの繊維、ユウはコウゾの繊維。
 神を招く聖所に、これらの布をかけたサカキをもうけたことは、神話と同じである。

〇サカキをはじめとする常緑樹信仰は、こういう古代から日本人の宗教思想のなかに生きてきたものである。これは、照葉樹林における古代生活から発生したものに違いない、と著者はいう。
 神社の行事に限らず、ひろく日本人の植物民俗のなかに、こういうサカキの利用は続けられてきた。
 伊勢においては、サカキを門松の代わりとする習俗があったが、同様の風習はそのほかにもみられる。

※もともと門松という風習は、後世に日本国内にひろがったもので、年の神の依り代である常盤木(ときわぎ)を庭とか門前にたてるのに始まったと思われる。
 その年の木を切ってくることを、松迎えと総称しているが、マツに限らず、サカキ、シイノキ、クリ、ツバキ、シキミなどが年木とされた。
 『徒然草』にも、「大路(おおぢ)の様、松立て渡して、花やかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」と正月風景を描いている。
⇒門松は、このように、平安の中期以後から鎌倉時代のころより、都の風俗としてひろがったものであろう。

〇神事行事一般にみられる、サカキの重用は、こういう常緑樹信仰に根ざしていて、日本列島南部の大半が照葉樹林におおわれていたころの、古代人の生活から生まれ、神々の暮らしを神事として反映したものであろう。
・明治8年に制定された、現行の神社祭式では、神社の社頭に、サカキを2本たて、向かって右のサカキに玉を上枝に、鏡を中枝にかけ、左のサカキに剣をとりつけるのを定式としている。
 これも神を招きいれるための、いまに続く依り代のサカキである。
〇サカキと同じツバキ科のヒサカキも、サカキの代用として、あるいはサカキよりもひろく、神事に用いられる樹である。
 サカキの分布が、本州では茨城と石川より西部で、西日本が多いのに対し、ヒサカキは岩手、秋田から南に分布している。
 そのため、関東から東北の神事用は、主としてヒサカキが使われ、特に東京では年間70トンのヒサカキが八丈島から送られているそうだ。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、413頁~421頁)

太古は照葉樹林だった


〇第四部 神々の森からの道 「太古は照葉樹林だった」(441頁~454頁)には、次のようなことが述べられている。

・考古学者の鳥居龍蔵は、大正14年に刊行した『武蔵野及其有史以前』のなかで、有史以前(石器時代)の武蔵野の内陸部の景観を、次のように想像している。

 洪積層の高台は概して照葉樹の森林が多くあったと見てよろしいのである。しかもそれがほとんど横断の出来ない原生林である。どういう木が生えて居ったかというと、樫・欅・椎……こういうふうのものが多くあった。それが段々火の作用や色々の作用によって、あるいは焼かれあるいは伐り尽くされたので、今日のような武蔵野になって仕舞ったのである。

・大正の末期、まだ東京の近郊は、雑木林が多い田園風景であったろうが、鳥居は、太古における武蔵野は濶葉樹の森林であったといっている。
(現在の言葉でいえば、武蔵野は照葉樹林におおわれていた)

・同じく、考古学者の直良信夫の『古代人の生活と環境』(昭和40年)によると、
 前期の縄文式文化期の関東地方の植生は、こういう構成であったという。
 千葉県の加茂遺跡から発掘された植物のリストは次のようなものである。
 針葉樹には、モミ、イヌガヤ、カヤ、マキ、ナギ
 濶葉樹には、オニグルミ、アカシデ、クリ、クヌギ、ツブラジイ、シイ、マテバシイ、
  アカガシ、アラカシ、コナラ、ムクノキ、ケヤキ、クロウメモドキ、サカキ?、トネリコの類、エゴノキなど。

⇒この樹種構成からみると、このあたりは、若干の針葉樹と落葉広葉樹をまじえた照葉樹林であったといえる。
 その針葉樹も、現在では紀伊半島より南に分布するナギや、房総半島南部を東限とするマキなどを含み、全体としては暖帯的要素の濃い植生であった。

※歴史学上の文献による、古代の日本列島の植生については、『万葉集』や『日本書紀』『古事記』などの記述から想像するとしても、それ以前の縄文時代や弥生時代の植生を推定する文献史料はない。
ところが、弥生時代後期の3世紀ごろの日本については、古代中国の文書である『魏志倭人伝』が述べている。
(昨今の“邪馬台国論”をおこしている記述である)

・日本の植生について記録しているのが、注目される。
 倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。……其の木には枏[だん](くす)・杼[ちょ](とち)・豫樟(くすのき)・楺[ぼう](ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投・橿[きょう](かし)・烏號(やまぐわ)・楓香(おかつら)有り。
 その竹には篠・簳(やだけ)桃・支(かづらだけ)・薑[きょう](しょうが)・橘・椒[しょう](さんしょう)、蘘荷[じょうか](みょうが)有るも、以って滋味と為すを知らず。
(和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝ほか』岩波文庫、昭和51年)

・ここに『魏志倭人伝』と通称されるのは、中国正史のうち、晋の陳寿(?~297)の撰んだ『三国志』のなかの、東夷伝の倭人の条をさしている。
 3世紀ごろの中国側からみた日本列島の事情である。
 ここに記された植物名が、日本のどの植物をさしているかは問題のあるところである。
 古来から植物の漢名を日本の植物名にあてはめる場合に、誤った場合が少なくない。

〇歴史学者の解釈のほかに、植物学者の方からも、意見が提出されているようだ。
 そのひとつが、苅住昇の『邪馬台国植生考』(『林業技術』334号)である。
 以下、次のように解釈している。
・まず、枏について
 諸橋の『大漢和辞典』をはじめ、和田清らはクスと読解している点に苅住昇は疑問を投げている。
 後に出る豫樟も同じくクスノキとして、二重になっている。
 枏という字は、楠の古字ではあるが、楠は、中国ではクスの仲間に用いず、むしろタブノキ属をさしている。
 だから、枏は、タブノキとした方が妥当という。
 豫樟の方は、中国古代の辞典『爾雅』からみても、クスノキにあてはまる。

・杼について
 杼はトチノキではなく、中国古文献でも薪炭用樹種の同じ仲間として、杼[ちょ]・栩[く]・柞[さく]・櫟[れき]をあげているから、コナラ属の樹とする。
 
・楺について
 楺はボケとされているが、ボケは中国原産の植物で、江戸時代に中国から渡来したといわれるから、ここではクサボケとみる方がよい。

・櫪について
 櫪は、櫟と同じで、コナラ属の総称らしいが、クヌギにもあてはまる。

・投について 
 投は、おそらく柀の誤りと思われるが、柀は、別名は榧樹とか野杉で、日本のカヤに近いものだから、カヤをさしたと考えている。

・橿について
 橿については、カシとしているが、コナラ属のうち常緑のアカガシ、シラカシ、ツクバネガシ、イチイガシなどの総称と解されるが、ここでは照葉樹林の重要メンバーであるイチイガシと考えたいという。

・烏號について
 烏號のヤマグワは、中国産のハリグワに似た、同じクワ科のカカツガユを想定している。

・楓香について
 楓香をオカツラとしているが、中国の楓香樹はマンサク科のフウをさしていて、これは日本には野生していない。
 日本では、昔から楓の字をカエデ科の樹に誤用してきた。
 ここでは、葉の形が似ている日本のカエデ属をさしているものだろうとする。

・篠・簳・桃・支
 篠はメダケ属やササ属、簳は日本のヤダケにあたり、桃支はよくわからないがシュロではないかと推定している。

〇こうして植物学の見地から、『倭人伝』の文章をいまいちど読んでみると、苅住昇は次のように訳している。

「その木には、タブノキ・コナラ・クスノキ・クサボケ・クヌギ・カヤノキ・カシ類・カカツガユ・カエデ類があり、竹にはササ類、矢に用いるササ類・シュロ類がある。ショウガ・タチバナ・サンショウ・ミョウガが有るが、それらがおいしいたべものであることを知らない」

・これらの樹種は、いずれも照葉樹林の森林植生に属している。
 地理的には、九州の大部分、四国や中国の海岸地帯、近畿の南部、東海や関東の南沿岸の一部などにあてはまるが、タチバナ、カカツガユ、シュロなどの分布からみると、九州地方がもっともふさわしいという。
・邪馬台国が、どの地方に存在したかは別として、魏から日本へ派遣された使節が、見聞した風景は、このような照葉樹林の景観であったろう。
・この『倭人伝』に登場する植物は、おそらく外国からの旅行者の目にとまった、主なる草木を記録したものだろうが、マツが入っていない点が、注目される。
 マツは、有史以来の日本人の生活には、欠くことのできない重要な樹種であったが、天然のままの照葉樹林では目立つものではなかったと思われるという。
 弥生時代より後、人口も増え、周囲の自然が破壊されるとともに、二次林としてのマツ林が出現してきて、マツは重要な樹木となってきたのであろうとする。

〇考古学の立場から、同じく弥生時代の代表的な遺跡である、静岡県の登呂遺跡から出土した、植物のリストをあげている。

 イヌガヤ、ナギ、イヌマキ、アカマツ、クロマツ、モミ、ツガ、スギ、ヒノキ、サワラ、ヤナギ、
 ヤマナラシ、オニグルミ、カバノキ、クリ、シイノキ、マテバシイ、ナラ、イチイガシ、シラカシ、
 アラカシ、アカガシ、ケヤキ、エノキ、ムクノキ、ホオノキ、クスノキ、タブノキ、カゴノキ、サネカズラ、
 マンサク、サクラ属、モモ、ナシ、リンボク、ネムノキ、サイカチ、フジ、コクサギ、
 カラスザンショウ、ドクウツギ、モチノキ、マユミ、モクレイシ、トチノキ、ヤマブドウ、ホルトノキ、
 モッコク、ツバキ、ナツツバキ、サカキ、ナツグミ、アキグミ、マルバグミ、タラノキ、アオキ

⇒これらの樹種の数をかぞえてみると、針葉樹と広葉樹の割合は、19対81となる。
 広葉樹のうち落葉樹と常緑樹の割合は、61対39となる。
 これらの植物名は、自生していたもののほか、植栽されたものや、生活材として他から運ばれてきたものもあろう。
 それらも考慮して、弥生時代の登呂付近の植物景観を推定すると、スギ、イヌガヤ、シラカシ、クスノキ、エノキなどの茂る森林であったろう、と植物学者の亘理俊次はいっている。

〇また、登呂遺跡の研究家である森豊は、クスノキ、タブノキ、ホルトノキなどを主として、その下にリンボク、モッコク、アオキなどの低木が生え、これに落葉樹や針葉樹もまじり、低湿地にはスギが多く、周囲の山地渓谷にはトチノキ、オニグルミ、クリ、ヤマブドウ、ナシなどが茂っていたと想像している。
 これは、現在の暖地の農山村の自然環境とたいして変わりはなく、それよりもわずかに暖地性の強い常緑広葉樹林の風景であった。

※この日本列島に、人類が住みはじめた痕跡の残っているのは、ほぼ3万年くらい昔からであるという。
 地球上では、最後の氷河時代にあたるウルム氷期が、約7万年前に始まり、その後、一時的に温暖な亜間氷期もはさまっているが、日本列島では、3万年前くらいのころは寒冷な時代であったようだ。
⇒東京の山の手にある江古田付近で、江古田針葉樹林化石層が発見されている。
 ちょうどこの時代にあたるそうだ。
 ここでは、アオモリトドマツ、カラマツ、イラモミ、チョウセンマツ、コメツガ、ブナノキなど、寒冷地あるいは亜高山性の植物遺体が発見されている。
※東日本の低地における、現在の気候に比べると、年平均気温が3、4度低く、人類の文化段階からいうと、前期旧石器時代と後期旧石器時代の中間にあたる。

・このころから、気候はまた寒さを加え、2万年から1万8000年前には、最終氷期の最寒冷期がおとずれた。年平均気温は現在よりも7、8度低くなった。
(だいたい、東京の位置が札幌と同じくらいの気候になっていた)

※こうした気候の変化があったから、地上の植物景観も、時代によってずいぶんと変遷している。
 これらの事情は、次の研究に詳しいという。
 広島大学の安田喜憲『環境考古学事始』日本放送出版協会、昭和55年
 神戸市立教育研究所の前田保夫『縄文の海と森』蒼樹書房、昭和55年

・照葉樹林(常緑広葉樹林)は、この最寒冷期には西南の方へ逃れて、九州と陸続きであった屋久島、種子島から南西諸島へ後退していたと考えられている。
(また、本州の紀伊半島や四国南部の海岸線にも、生き残っていただろう。房総半島にも、残留していたかもしれないという。)

・縄文時代早期にあたる9000年前くらいになると、気候は少しずつ温暖化してきた。
 だから、照葉樹林帯も、九州の平地、瀬戸内海周辺から四国、さらに近畿から東海地方、房総半島までの海岸線に回復してくる。
・約3000年昔の縄文時代晩期にいたると、九州の中央山地をのぞくほぼ全域、中国、四国、近畿の山地以外の地帯、東海地方の平野部から関東平野の全部、海岸線では、太平洋岸では仙台の南あたり、日本海側では新潟くらいまでが、照葉樹林帯に回復している。
(植物生態学からみた、現在の照葉樹林帯とほとんど一致している。)

※こういう原風景からみると、日本の文化の起源を縄文時代までさかのぼれば、少なくとも西日本では、やはり照葉樹林のなかの生活から始まったと考えることができる。
 照葉樹林文化という言葉は、吉良竜夫や中尾佐助など京都大学系の学者の提唱したものである。
※現在にまで続く照葉樹林帯は、7000年ぐらい前に回復したもので、それも日本列島の全体をおおっていたわけではなく、列島の北部から山岳地帯にかけては、落葉広葉樹林や針広混合林、亜寒帯針葉樹林が生育しており、そこにも日本人の祖先の生活があった。

<福井県の鳥浜貝塚について>
・この鳥浜貝塚は、縄文時代早期から前期にかけての遺物が出土している。
 安田喜憲は、この地方の植生変化を次のように分けている。
 これは、花粉分析の方法、つまり地中に残留していた花粉を採取し、その層位と花粉の種類から当時の植物の状態を推定したものである。それによると、
・1万1200年から1万200年前は、ブナ林の時代である。
 ブナ属の花粉がもっとも多い。ついで、コナラ亜属、トチノキ属、クルミ属、シナノキ属などの落葉広葉樹が多い。
(トウヒ属、モミ属、ツガ属、ゴヨウマツ属などの亜寒帯針葉樹もわずかにある。)

・ついで、1万200年から6500年前までは、ナラ林の時代である。
 コナラ亜属、クリ属、スギ属が、ブナ属に代わって多くなる。
 気候の温暖化を示していて、縄文時代早期の押型文土器をつくった人々は、この林で暮らしていたと考えられている。

・6500年前になると、鳥浜でも、大きい環境の変化があり、照葉樹林の時代に入っていく。
 花粉も、アカガシ属、シイノキ属、ツバキ属、モチノキ属などの常緑広葉樹が増え、エノキ属、ムクノキ属、スギ属も増加する。
 文化としては、縄文時代前期の始まりにあたる。
 弓、丸太舟、石斧柄、盆などの木器が出現する。土器の底部は、とんがり底から平底や丸底
に変化する。
 栽培植物として、ヒョウタンと緑豆があらわれ、漆も使われ始める。

・5700年昔のころになると、スギの花粉は全出土花粉の50パーセント以上となり、スギ林の時代となる。
 このころの降水量の増加とともに、人類による照葉樹林の破壊の跡へスギ林がひろがったようだ。
 発掘された板材の大半がスギ材で、土木や建築用にスギ材が多く使われるようになってきた。

【参考】弥生時代の登呂遺跡の場合
・弥生時代の登呂遺跡でも、スギ材が多く使用されているが、スギ材の利用は、縄文時代早期にまでさかのぼっていた。

〇日本民族の出自の問題は別としても、大和時代からの古代日本の、文化的あるいは政治的な中心は、九州から近畿地方にいたる照葉樹林帯にあったことは、事実である。
 しかし一方、縄文時代の遺跡の分布や貝塚の分布をみると、それらの多かったのは、むしろ関東地方から東北地方にかけての東日本であり、ナラ林の多かった落葉広葉樹林帯である。
※日本列島においても、照葉樹林帯の及ばない、地域および年代に生活していた人々の文化を、照葉樹林文化にならって、“ナラ林文化”と提唱しようという人々がある。
(安田喜憲、中尾佐助も、この言葉を提案している)

※想定されるナラ林文化圏は、中国大陸北部から朝鮮半島の大半、本州の中部地方以北から北海道南部を含む地帯である。照葉樹林帯のすぐ北に接する、北方農耕文化の地帯である。
 代表的な樹木としては、日本のミズナラ、中国北部のモンゴリナラ、黄河地帯のリョウトウナラがあげられる。
 この地帯にみられる作物としては、エンバク、コムギ、オオムギなどのある種の系統、野菜では、カブ、ネギ、ゴボウ、ダイズなどがあげられている。
 また、この地域は、騎馬民族の地域でもあった。
<著者の見解>
〇このように、日本列島は、北方系の色彩の強いナラ林文化と、南方系の照葉樹林文化が相接して消長してきた。
 縄文時代における、このような文化圏の地域差が、後年にまで尾をひいて、東日本と西日本の生活文化に、明らかな対比が生まれてきた、とみることもできる。

※日本の歴史が、あまりにも大和政権あるいは後の平安朝廷、後年にはその代行者としての江戸幕府あるいは明治政府を中心にして理解されてきたことは、事実であろう。そのため、東日本あるいは東北地方の文化が、地方文化として無視されがちであった。その意味で、照葉樹林文化に対して、ナラ林文化を想定することは、大きい意味がある。
 しかし、一方、日本人の祖先を問うとともに、アジア大陸から日本列島へと人類の文化が伝播してきた経路として、照葉樹林文化の道は、深い意義をなくしてはいない。 
 
※照葉樹林文化の要素として、中尾佐助があげているものは、チャなどの樹を茶として飲むこと、カイコのはく糸で絹をつくること、ウルシの樹液を漆塗りに使うこと、穀類のデンプンからカビによって酒をつくること、柑橘類やシソを食べること、などである。
 これらの農耕文化は、おそらく西端はヒマラヤ南麓のアッサムあたりから、ビルマやベトナムの奥地、中国の雲南省から、東は湖南省にいたる、三角形をした地帯が、その起源地であろうとされている。

(これを東亜半月弧とよんでいる。この名称は、西アジアのチグリスやユーフラテスの流域で、古く農耕文化が始まり、古代オリエント文明の発祥の地となった、三日月形の地帯、“肥沃なる半月弧”(ファータイル・クレスセント)にならったものである)

<福井県の鳥浜貝塚のなかの照葉樹林文化の証拠>
〇福井県三方郡三方町にある鳥浜貝塚の発掘によって、縄文時代の早期から前期にかけての遺物が数多く出土したが、そのなかには、照葉樹林文化の証拠として注目されるものがある。
①ひとつは、赤い漆塗りの櫛である。
 これが、いまのところ日本最古の漆製品であるという。
 中国でウルシの樹を利用するのは、揚子江以南の照葉樹林帯が中心となっており、おそらく日本列島へも中国大陸からウルシが入ってきたと考えられる。
 これが、縄文前期に発見されたわけである。

②また、ここではヒョウタンの果皮も出土している。
 いままで縄文時代後期や晩期の千葉県多古田遺跡や埼玉県真福寺遺跡でヒョウタンが出土しているが、この縄文時代前期の遺物にも発見されている。
 ヒョウタンは、アフリカやインドが原産地と推定されているが、これが食物として、容器と
して、または楽器として、照葉樹林帯を通じて、早くも伝播していたらしい。
 ヒョウタンの伝播は非常に古く、ポリネシアなどの南太平洋にもひろがっているが、中国の雲南省やタイ高地の少数民族は、ヒョウタンを楽器にしていて、これが笙(しょう)の起源ではないか、といわれている。
 
⇒これらの諸点から考えると、少なくとも西日本の照葉樹林地帯に住んでいた、日本人の祖先たちは、東亜半月弧あたりに起源する照葉樹林文化の影響をうけながら、縄文時代から弥生時代へ、さらに、古墳時代へと、その生活文化を発展させていったものだろう。
・照葉樹林に基礎をおく生活の文化は、また同時に、その精神文化の形成にもかかわってくる。
 日本人の伝統的な宗教である神道が、やはり照葉樹林を背景として発生し、後年にその祭祀行事が発展した後までも、照葉樹林における祖先の暮らしを、神々の暮らしの跡と受けとめて、その神事のなかに照葉樹林の色彩を色濃く残してきたものであろう。

※日本列島における文化の発達は、原初の姿である照葉樹林景観を、急速に消滅させ、自然破壊の後に生まれてきた二次林の、マツ林風景が、日本の代表的景観とみなされるようになってしまう。しかし、それでも、日本人は照葉樹林的な常緑樹信仰を維持し続ける。
 現代では、それも消えさろうとしているが、鎮守の森の姿が、日本人のふるさとである。
 照葉樹林のかつての景色を、象徴している。
 このように、著者は、人類の歴史と関連して、照葉樹林のもつ意味を考えている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、441頁~452頁、498頁)

桂離宮にみる照葉樹林


「第三部 日本の庭の歩み」の「桂離宮にみる照葉樹林」(318頁~329頁)には、次のようなことが述べられている。
 
・ブルーノ・タウトは、ナチスのドイツを亡命した、進歩的な建築家であった。
 数年間、日本滞在の間に深く日本文化に傾倒し、いくつかの著作を通じて、日本人の眼にも新しい日本文化の見方を示唆した。桂離宮への再見も、そのひとつだった。
 当時、柳宗悦らの民芸運動などにも、共鳴していた著者は、タウトの説くところを聞いて、眼からうろこの落ちる思いであったという。
 タウトの著書『日本文化私観』(昭和16年刊)にも、次のようなことが書かれている。
 日本の建築の歴史において、まったく対蹠的な二つの作品、桂離宮と日光廟、一方は純粋建築術の真髄を、他方は外面的な技巧の熟練を、明確に示している。

・タウトは、もちろん建築家なので、桂離宮の建築的な考察は、ほかの著書にも詳しいが、庭園についてはあまり語っていないという。
 それでも、自然に一致するものを造ろうとする建築家は、風土との調和を心掛けねばならないし、日本の古い家屋は、廂を備えて眼を守り、また庭園へ眼を向ける習慣があると、説いている。
 この庭は、ほとんど緑一色で、欧風の花園の華麗さはまったくみられない。その特質は、屋内から外部へ向っての眺めが、どんな天候のときも、雨でも、雪でも、常に同じように美しい。雨の日は、ことに美しく、古い日本にとって芸術のなかでも特に情熱的に、雨はあつかわれている。そして、重要な部屋がすべて南向きで、陰をつくり、雨を防ぐ廂のあることは、日本建築にとって、当然の現象だった。
 
⇒これらの言葉は、また、桂離宮の建築と庭園についても、すべてあてはまるだろう、と著者はいう。
 著者は、昭和30年代、『週刊朝日』という雑誌の記者であり、『新・平家物語』を連載していた吉川英治氏らとともに、この桂離宮を拝観したそうだ。

〇桂離宮の庭園は、廻遊式庭園の集大成であり、典型である。
 古書院よりの観賞だけでなく、ひとたび庭の小径におりたって、橋を渡り、あまたの灯籠をたどりつつ、茶亭から茶亭へとめぐると、どの角度からも建築物と樹石の配分が美しく構成されている。
 これが、日本の伝統的な大庭園のひとつのタイプである。
 私たちの古い型の庭は、こういう大庭園の一角を切り出すところに、ひとつの目安があったようだ。
 東京においては、六義園、浜離宮などの大庭園を、いま観賞しても、その構成の骨組みにおいては、桂離宮と共通したものを含んでいる。



☆この日本の伝統庭園において、共通した印象として受けとるものを、庭木の面から、著者は考えている。
・庭の景観として眼にする構成要素は、石、灯籠、垣、道などの建造物もあるが、主として庭の視野を占めるものは、樹木にほかならない。
 ただ、いままでの日本の庭園史においては、石組みなどに比べると、樹木についての考究が、少なかったようだ。
 例えば、有名庭園の測定図などをみても、建物や石の配置は明示されているが、樹木は栽植位置の指定はあっても、その樹種の記されていないものが多い。
(最近の庭園の解説を読んでも、同様に、植えられている樹木の種類をあげたものが、ほとんどない)
⇒桂離宮についても、一般の目にふれる解説書では、ここにどんな樹木が植えられているか、はっきりしない。

〇さいわいに、『庭』(別冊20号、建築資料研究社、昭和56年)の「桂離宮の石灯籠」には、庭内の多くの灯籠の周辺の実測図が集められている。
 桂の庭には、24基の灯籠があり、松琴亭舟着の織部灯籠、笑意軒道の雪見灯籠、月波楼蹲踞の生込灯籠など、庭をめぐる廻遊路の足もとを照らす仕組みになっている。
 これらの灯籠をめぐる一角は、まわりの植栽とともに、茶庭らしい小景観を形成している。
 この各灯籠をめぐる小区域が、実測されて見取図となり、ここには植樹の名称も記入されているので、これを科別に整理してあげてみると、次のようになるという。
(この樹種をみただけでも、この庭園を構成している植物的景観は、ほぼ想像がつく)

・(ソテツ科)ソテツ
・(マツ科)アカマツ
・(スギ科)スギ
・(ヒノキ科)アスナロ
・(ブナ科)アラカシ シイ
・(ツゲ科)ツゲ
・(モチノキ科)イヌツゲ ウメモドキ
・(ツバキ科)ツバキ チャ ヒサカキ サカキ モッコク
・(ヤブコウジ科)ヤブコウジ マンリョウ
・(バラ科)サクラ シダレザクラ ウメ カマツカ カナメモチ
・(ツツジ科)ツツジ ミツバツツジ オオムラサキツツジ アセビ
・(モクセイ科)ヒイラギ
・(クマツヅラ科)ムラサキシキブ

※この庭内には、蘇鉄山といわれる築山があって、この部分だけは特異な風趣をみせている。
 ソテツは、中国南部、八重山以北の琉球列島、九州南部に分布する植物で、桃山時代に流行した異国趣味から、醍醐の三宝院など京都近辺の庭園に琉球から将来したものが、庭樹としての初めである。
・また、ウメは、中国大陸から渡来した園芸植物だが、桂離宮の造営された江戸時代初期には、ごく一般に普及していたようだ。

・これらの外来の樹木を除き、多く植栽されている常緑樹の、アラカシ、シイ、ツバキ、ヒサカキ、サカキ、ヤブコウジ、ヒイラギなどは、いずれも常緑広葉樹林のなかでも、日本列島の南半分をおおっているヤブツバキ・クラスと生態学的に分類される森林に、ことに多くみられえる樹木である。
 つまり、桂離宮の庭園の、重要な構成要素をつくっている樹木は、京都付近はもとより、日本列島の暖帯域にかつて自然に生育していた森林の植物が、主となっている。
 そこには、原始の自然が破壊された後に生まれる二次林の、主要樹種となるべきアカマツ、ツツジ、アセビなどもあり、落葉樹のサクラ、モミジなど、古くからの庭樹も含まれる。

※こういう庭園の樹種構成は、桂離宮をその代表としてとりあげたが、室町時代から江戸時代に造営された多くの名園、それらは今日でも日本各地の寺院や邸宅や公園で見ることができる。
 また、現代の住居の小庭園にいたるまで、ほぼ等しい傾向をもっている。
 つまり、日本の伝統的な庭園の多くは、その庭樹を、照葉樹林に由来しているといえる。
 これは、日本列島の自然の、立地から当然に帰結される、造園法則があっただろう。
・しかし、一面、日本の庭園が、照葉樹林源の樹木で構成されているのは、自然的立地によるばかりでなく、その常緑性という、樹木のもつ特性にも原因があるようだ。

※室町時代からは、中国大陸からあらたに禅文化が入ってくるとともに、日本の庭園技術も大きい影響を受けたであろう。
 いわゆる枯山水の始まるのも、このころからである。
 こういう庭園造形の変化から、現代における抽象芸術のように、樹石をもって美的形象をつくりあげる風潮が生まれてきた。
 そういう造形的要求から、四季によって樹勢が大きく変化する落葉広葉樹よりは、四季の変化の少ない常緑広葉樹および常緑針葉樹でもって、庭の景観を造りあげることが、始まったのではないか、と著者はみている。

※鎌倉時代から室町時代へかけて、庭樹としてとり入れられた常緑樹には、シイ、ヒサカキ、ビャクシン、イヌツゲ、シャクナゲ、ヒイラギ、マキ、カシなどがあり、これらの樹種は、平安の庭ではみられなかったものである。

※享保20年(1735)、北村援琴のあらわした『築山庭造伝』という、造園の指導書にも、庭樹についての記述がある。
 土手見越しの樹、つまり築山の背景をつくる樹は、マツがよく、あるいはカシ、モミ、トガ、マキなどもよし、とする。
 庵添えの樹、軒近く植えるものは、マツが第一で、クリ、カキがこれにつぐ。池際の樹は、何でもよい。そして、葉の落ちる冬木は、面前に植えないこと。
 江戸中期にいたると、こういう造園の原則は、ほぼできあがっていたようである。

〇桂離宮は、その後の江戸時代の武家庭園、例えば先にあげた小石川後楽園や六義園などにも、その様式を受けつがれた、いわゆる廻遊式庭園の完成された姿であった。
・これは、後陽成天皇の弟だった八条宮智仁(としひと)親王が、元和3年(1617)、京の西郊にあたる下桂村に創設した別荘である。
 このあたりは、清和天皇の皇子貞保親王の桂河山荘をはじめ、貴族たちの別業が多く営まれた土地で、桂川の流れに臨む田園地帯だった。
 教養豊かな親王は、唐の白楽天の庭園思想の影響なども受けながら、平安時代以来の貴族の庭園であった寝殿造りの庭を、さらに壮大華麗に展開して、ここに廻遊式林泉を実現した。

〇露地といわれる庭園様式は、茶道の始まるとともに行われてきたもので、室町時代以後の発生であり、桃山時代に形を整えた。
 武野紹鷗の京都四条の庵における“坪の内”は、その濫觴であろう。千利休において、この形式も大成される。

・ところで、露地の植栽については、茶道においていくつかの約束があるようだ。
 『茶の湯六宗匠伝記』によると、次のようである。
 庭木花ある木を嫌ふ、勿論草花の分嫌ふ、葉落易きものも嫌ふ、其外楓は格別也口伝、植ゑて能き物、松、梅、楓、たも、もつこく、南天、杉、椎、樫、もち、ゆづり葉、榊、柊、らかん樹(イヌマキ)、いぶき、びやくしん、たらゆ(タラヨウ?)、あて(アスナロ)、檜、枇杷、かなめ、槙、犬槙、やとめ(ツゲ)、蘇鉄、棕櫚、銀杏、虎の尾、ほう、柏、真弓、山うるし、夏はぜ、とろさ(不明)、糸すすき、をもと、熊笹、石菖、青木、白鳥花、竹の類也。

・現代においても維持されている茶庭の多くは、ほぼこれらの樹種で構成されているようだ。
 ウメ、ソテツ、イチョウなどの外来の園芸植物は別として、ここにあげられている樹木は、照葉樹林系の常緑樹を主として、照葉樹林相の変遷した後に発生する二次林にみられる落葉樹をまじえている。
前者は、カシ、シイ、ユズリハ、モチ、モッコクなどの常緑樹であり、落葉樹には、カエデ、マユミ、ヤマウルシなどがあげられる。

・現代の露地において、よく植えられる上木には、針葉樹に、マツ、スギ、ヒノキ、サワラ、マキ、コウヨウザシなど。
 常緑樹に、カシ、シイ、モチノキ、モッコク、ツバキ、サザンカ、サカキ、ヒサカキ、トベラ、タラヨウ、モクセイなど。
 落葉樹では、サクラ、ウメ、アオギリ、ヤナギ、カエデ、サルスベリ、ザクロなどがあげられる。
 そのほか、ニシキギ、ハクウンボク、イチョウ、ハゼ、ネムノキ、ケヤキなどが植えられることもある。 
 このほか、下木として、ナンテン、ヒイラギ、ヤブコウジ、ヤツデなどの多くの低木が添えられる。

・これらの植栽景観は、やはり照葉樹林的風景を主幹として、それに二次林的な落葉樹林を加味したものといえる。
 こうしてみると、室町時代いらいの廻遊式庭園に発して、江戸時代の武家庭園、あるいは露地や茶庭、ひいては明治以後の民家庭園の植物的水源は、やはり日本列島の照葉樹林に由来している、と著者は考えている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、318頁~329頁)

『源氏物語』の植物


・『源氏物語』は、一編の王朝の小説である。
 ただ、そこに描きこまれている人情や風俗には、平安時代における貴族社会の実相が、しのばれることが多い。
 広川勝美編の『源氏物語の植物』を参考にして、著者はそこに登場する植物名を数えている。

・“桜”という文字は、『源氏物語』のなかで、64回使われている。
 これに“樺桜”“山桜”の場合を加えると、71回になるそうだ。
(この場合は、植物の名称として“桜”を用いた場合のほか、比喩や修辞として、あるいは色名、人物名、そのほかの事物の名称として用いられたものも含んで、勘定している。)

・同じように、“梅”については、40回出てくる。
 それに、“紅梅”の23回、“梅花”の1回を加えると、64回になる。
※この点では、万葉時代にくらべて、サクラに対してウメが優勢でなくなって来たことを示す。
 それとともに、ウメのなかでも紅梅が好まれて来たことも意味している。

・また、藤原一族に因縁の深かった植物としてのフジの場合を数えてみると、“藤”の字は61回出てくる。
 
※こういう数字を並べてみても、『源氏物語』のなかでは、サクラという植物が、相当に重い役割をもっていたことがわかる。
 
・この物語では、貴族たちの生活の背景としての、四季の季節感は、きわめて重要な意味を持っている。
 現代にいたるまで、日本人の文化的な伝統、文芸や美術のなかに生きてきた季節感は、ここでも、芸術的感興に必要な触媒として働いている。

☆そこで、万葉のころから日本の知識人たちが好んできた論争、春と秋といずれが優れているか、という、いわゆる春秋論はしばらくおくとして、『源氏物語』のなかで、“春”の支持者として描かれているのは、紫の上である。
 光源氏をめぐる女たちのなかでも、紫の上の位置からいって、彼女が“春”に擬せられているということは、意味深いことである。
 したがって、サクラは、『源氏物語』の背景をつくる植物のなかでも、もっとも重要なもののひとつになっている、と著者はみている。

・光源氏が、六条院に壮大な邸宅を新築することは、乙女(おとめ)の巻に語られる。
 南東には春の庭をつくり、ここには最愛の紫の上が住む。
 北東は夏の庭で、花散里に当てられる。
 西南は秋の庭、ここはかつての秋好中宮(あきこのみのちゅうぐう)の旧邸を改造したので、中宮がそのままに住居とした。
 西北の冬の庭は、明石の上を迎えた。
 
・なかでも、春の庭の美しさは、次のように描かれている。
  南の東(ひむがし)は山高く、春の花の木、数をつくして植ゑ、池のさま面白くすぐれて、御前(おまへ)ちかき前栽(せんざい)、五葉(ごえふ)、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅(いはつつじ)などやうの、春のもてあそびをわざと植ゑて、秋の前栽をばむらむら仄(ほのか)にまぜたり。

 こういう四季の趣きをこらした四方の庭に、源氏にゆかりの深い美女たちが、それぞれに住んで、華やかな絵巻のような生活を展開していく。

・春三月のある日、秋好中宮の女房たちは池に舟を浮べて、水続きの紫の上の庭を訪れる。
 春の庭は、「外には盛過ぎたる桜も、今盛にほほゑみ、廊を繞(めぐ)れる藤の色もこまやかに」、龍頭鷁首(りょうとうげきす)の美しい唐様の船からは楽の音が流れ、この世ならぬ仙境に遊ぶ想いの春の宵が、ふけていく。

やがて栄華の日々も過ぎ、紫の上もはかなくなって、「外の花は一重散りて、八重咲く花桜さかり過ぎて、樺桜はひらけ、藤は後れて色づきなど」している庭前に、源氏は亡き人を淋しく偲ぶ。
 光源氏と、紫の上との愛の生活の背景には、このように春の花のサクラが、はなやかな色どりを添えてきた。

・花宴(はなのえん)の巻は、「二月(きさらぎ)の廿日(はつか)あまり、南殿(なでん)の桜の宴せさせ給ふ」というくだりから、始まっている。
 紫宸殿の左近の桜の花盛りをめでながら、宮廷での宴会が描写される。
 若い光源氏は、こういう貴族たちの宴会の場でも、ひときわ輝く存在である。
 冠にさすかざしのサクラの花を賜って、春鶯囀(しゅんのうてん)という舞楽を一曲舞えとせめられるので、ほんの一段だけ舞うのだが、水ぎわだった舞い振りだった。
 その夜、酔って御所の庭をさまよった光源氏は、朧月夜(おぼろづくよ)の君と結ばれる。

〇“南殿の桜”は、王朝文化における、サクラの位置を象徴する存在である。
 このサクラの由来については、本居宣長は『玉勝間』のなかで、このように記している。
  歴代編年集成ニ云ク、南殿ノ桜ノ樹ハ、本ハ是レ梅ノ樹也、桓武天皇遷都ノ時、植被ルル所也、而ルニ承和年中ニ及ヒテ枯失セヌ、仍テ仁明天皇改メ植被ル也、今度ノ焼亡ニ焼失セ畢ヌ、造内裏ノ時、李部王ノ家ノ桜樹ヲ移サ被ルル所也、件ノ樹、本ハ吉野山ノ桜ト云ヘリ。

※ここで、今度の焼亡といっているのは、天徳3年(959)のことである。
 そして庭前のもう一本のタチバナの樹については、こう記している。
  或記ニ云く、遷都ノ時、彼ノ樹ノ在ル所、橘大夫ト称スル者ノ家ノ後園也、件ノ後園ニ橘有リ、即チ南殿ノ前ナリ、以テ賞翫ス、其後回禄ノ後、彼ノ東三条ノ樹ヲ栽被ルト云ヘリ。

※回禄とは、火災のことである。
 ここに橘大夫と記されているが、当時の平城京の地は帰化人であった秦氏によって開拓され、内裏のあたりは、秦川勝(はたのかわかつ)の屋敷跡だとされている。

・これらを見ると、平安京が創設された当時の、桓武帝の内裏では、紫宸殿の前庭に、ウメとタチバナの樹があったことがわかる。
 このウメは、いつのころかサクラに変わって、村上帝の天徳のころにはすでにサクラであった。
 これがいつごろウメからサクラに変わったのか、古記録の上からもう少し追ってみる。
 『続日本後紀(しょくにほんこうき)』の承和12年(845)の2月のところに、
「天皇紫宸殿ニ御シテ侍臣ニ酒ヲ賜ウ。是ニ於テ殿前ノ梅花ヲ攀(ひ)キ、皇太子及ヒ侍臣等ノ頭ニ挿シ、以テ宴楽ヲ為ス」と書かれている。
 さらに、『三代実録』の貞観16年(874)の8月24日には、
「大風雨、樹ヲ折リ、屋ヲ発ク。紫宸殿前ノ桜、東宮ノ紅梅、侍従局ノ大梨等、樹木名ノ有ルモノ皆吹倒レヌ」とある。

⇒こういう記録から推察してみると、紫宸殿の前のウメは、仁明帝の承和年間までは存在したが、清和帝の貞観年間にはサクラに変わっている。
 この間の約30年の、おそらくは『玉勝間』にある仁明天皇のころに、サクラに改められたものであろう、と著者はみる。
 
・以来千余年にわたって、現在の京都御所の庭にいたるまで、“左近の桜”と“右近の橘”として、その伝統が保たれてきた。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、96頁~100頁)

マツと日本文化


「第一部 サクラ文化の系譜」の「“ハナ・ハト”から軍国の花へ」には、マツについて次のように述べている。

・著者は、『日本唱歌集』(岩波文庫版)によって、明治の初めから昭和20年の敗戦まで、日本の子供たちによって歌われ、また私たちも愛してきた唱歌140曲について、登場植物を調べてみたそうだ。
 その結果、マツ13曲、サクラ12曲、ヤナギ10曲がベスト・スリーだったという。
・ここでマツが最多となっており、これにつぐのはサクラである。
マツは、常緑の樹として道徳的意義をも表現し、また国民に親しい風景の一素材であるのに対して、サクラは日本の古い情緒をうけつぐものである。
・ここで興味のあるのは、唱歌のなかではマツやヤナギが多く、また戦前戦後を通じて流行歌曲にもヤナギが多く歌われていることである。
 マツは、日本に昔から生えていた樹であるが、ヤナギは古代に中国から渡来してきた栽培植物である。

・日本人が遠い昔から、これらのマツやヤナギを愛好してきたのは、何に由来しているのだろうか。
 中国の古代思想をみると、マツもヤナギも神性のある樹木として、信仰の対象となっていたものである。
 日本でも松竹梅というように、中国ではマツは樹木の第一位であった。
 松の字は、百木の長として、公の爵位になぞらえて与えたといわれる。
 “社木”として、先祖をまつる社稷(しゃしょく)の中央に植えられ、一族繁栄の象徴としたり、また墓の標識樹ともされた。

・ちなみに、ヤナギは、大陸北部の乾燥地帯における唯一の緑の樹として、狩猟地や農耕地の目標とされて、呪術的な霊能のある信仰の対象となってきた。
 春もっとも早く芽をふくヤナギは、邪を払う力あるものと信じて、北京の清明節のえんぎものとして使われた。

・日本におけるマツやヤナギに対する畏敬は、遠くこの中国思想から由来するものではないか、と著者はみている。
 そして長い日本の歴史を通じて、独自の日本の情緒をも加えて、われわれのマツやヤナギについての感銘を、熟成させてきたのであろう。
 芭蕉の言葉に、不易と流行ということがある。時代の流れにかかわらず変わらないものと、時の世情より生まれきたるもの、というほどの意味であろう。
 もしわれわれの植物についての嗜好にも、不易と流行というものがあるとすれば、マツやヤナギは“不易の樹”であり、サクラやバラは“流行の樹”といえなくもない。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、23頁~25頁)

〇「第二部 樹々の博物誌」の「能と舞台の背景――マツ」には、マツについて次のように述べている。

・上野の博物館には、長谷川等伯の『松林図屏風』がある。
 墨一色で描かれた、霧雨にけむるアカマツの林は、むしろ科学的といえるまで、その生態をいきいきと描写しつくしている。
 等伯は、能登の七尾の出身である。
 アカマツは、一般に低山地帯に多い。海岸の風景を特色づけるのは、主にクロマツなのだが、この能登地方ではアカマツが海岸にまで分布しているそうだ。
 この故郷の、アカマツ林を等伯は筆にしたものだろうか。
 いまも、石川県羽咋地方の加賀街道には、『松林図』にそっくりのアカマツの並木があるという。
 しかし、日本の美術の歴史のなかで、アカマツがはっきりと描かれたことは、あまり多くないようだ。美術の世界では、むしろクロマツの方が主役であった。
 同じ桃山時代の、狩野永徳の描く『松鷹図』は、明らかにクロマツである。
 江戸時代の琳派の俵屋宗達などのモチーフとしたのも、クロマツであった。
 
・松の図といえば、すぐに思い出すのが、歌舞伎や能の舞台である。
 おなじみの『勧進帳』のような芝居の背景には、苔むした太い幹もみごとな、クロマツの老樹が描かれている。
 能舞台においても、ほぼ同じ図柄の老松がある。
(歌舞伎の方では、これを松羽目といい、こういう背景が演じられる外題を、松羽目物という。これらは、謡曲に由来している演題だから、この舞台装置も、能舞台を模したものである)

・『春日大宮若宮御祭礼図』という古本があるそうだ。
(原本は、寛保2年(1742)の刊行だが、大正10年(1921)に春日神社から復刻刊行された)
 この本は、奈良の春日神社の、若宮の祭の次第を、記述したもので、昔の祭礼の風俗が記されている。
 そのひとつに、『松之下之図』がある。
 11月27日、若宮の祭神をお旅所(たびしょ)に移し、渡りの行列が影向(ようごう)の松の前で、猿楽や田楽などを行う。

 このマツは、神の依り代(よりしろ)とされ、それに対して、芸能を奉納するわけである。この行事は、いまでも12月17日に行われている。

・今日の能は、室町時代の猿楽に由来するものであるが、大和にいた猿楽の座たちが、春日の影向の松の前で奉納した故事を、やがて能台芸能となって後にも背景として残したものだといわれている。
 能では、このマツの描かれた背景を鏡板という。豊臣秀吉が天正9年(1581)に桃山城内の能舞台に描かせたのが最初だといわれる。
(この舞台は、現在は京都西本願寺に移されて、国宝となっている)

・折口信夫博士は、この鏡板の由縁について、さらに民俗学の立場から、その説明を加えている。
 古から、神木であるマツを伐ってきて、民家の庭にひきいれて、その前ではやす祝福芸能があって、これを松拍(まつばやし)といった。この形式が、庭から舞台へと移され、老木を描くようになったというのである。

・春日の影向の松も、その神降しのひとつの形式であり、こういう松拍の思想は、いまでも日本各地の神事や民俗行事のなかに、いろいろな形で残されているそうだ。
 京都の祇園祭に登場している鉾(ほこ)も、そのひとつだろうし、かつては大阪の夏祭に出てきた「だいがく」という出し物も、その流れであったようだ。
(『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』という芝居で、団七九郎兵衛の殺しの場面の背景に、遠くを通る提灯の並んだ竿が「だいがく」で、この夏の宵の浪花情緒も、いまは消えてしまった。)

・これらの風俗も、日本の長い伝統のなかから生まれてきた、マツ信仰からの名残りであった。
 しかし、このマツ信仰は、太古から日本人の本来のものであったか。
 この点、著者は少し疑問を抱いている。
 著者は、伊勢神宮の神域林を訪れたことがあるという。
 神宮の前を流れる五十鈴川の上流へさかのぼって、神山とされる神路山や島路山の森林へ入っていく。ここは1000年にわたって、神宮の領域とされ、その造営の資材を伐り出すために営まれてきた森である。
 その歴史には、曲折はあったが、日本の原初に近い森林の姿が、比較的に保たれてきたところである。
この神域林では、シイ類、カシ類、クスノキなどの、いわゆる照葉樹林にまじって、アカマツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹が、美しい常緑の森をつくっている。

・例えば、縄文時代にさかのぼってみると、人口のまだ少なく、農耕も発達していなかった日本列島の、東北部や高地を除くほとんどの山野は、ほのぐらいまで茂った照葉樹林に覆われていた、と想像されている。
 照葉樹林とは、シイ、カシ、クスノキ、ツバキなど、葉の表面に光沢のある常緑樹を主にした森林のことである。
 地球上では、ヒマラヤの麓から、中国大陸の中南部、朝鮮半島の南部を経て、日本列島の大部分に帯状にひろがっていたと思われる、森林の原型なのである。

・おそらく、日本人の祖先はこの照葉樹林のあった大陸から渡ってきたものだろうし、私たちの農耕文化の多くも、この照葉樹林のなかで発生したものであったろう。
 だから、日本人の原生の宗教であった神道も、この照葉樹林のなかから生まれてきたものではなかろうか。神事に用いられる植物を調べてみると、照葉樹林の草木が多く登場してくることも、それを物語っている。
 一例をあげれば、神事に必ず使われるサカキやヒサカキも、照葉樹の仲間である。
 神域林をたずねた時、伊勢神宮の神事についても、聞いてみたそうだ。
 毎朝の神饌は土器にトクラベという木の葉を敷いて、その上にのせるというが、これはミミズバイという常緑樹の葉であった。これらの神饌をつくる火は、いまもヤマビワ材の火きりを、ヒノキ板の上で摩擦させておこすのである。このヤマビワも、照葉樹のひとつである。
 このように、神事に照葉樹が使われていることは、はるかに遠い祖先の暮らしぶりを、いまに伝えるものであろう。 
 日本人の文化が、照葉樹林文化の流れをくんでいることは、これらの例からも推察できる。

・いまひとつの例をあげよう。
 マツ信仰のもっとも一般的な風習と思われるものに、現代においても続いている正月の門松がある。
 しかし、この歳神(としがみ)の依り代と思われる飾り物も、地方によっては、マツではないところもあって、サカキ、タケ、ツバキ、そのほかの常緑樹を用いる場合もある。
 マツをたてる風俗がひろく行われるようになったのは、平安時代末から鎌倉時代といわれる。
 
・これらの点を考えると、マツ信仰の起源は、もともと常緑樹への信仰であり、それが後にマツへと転化集中していったのではないか、と著者は推理している。
 日本人の祖先たちが住んでいた照葉樹林の、なかでも一年中緑の色を変えずに茂る常緑の大樹に、神の姿を発見し、尊崇してきたものであろう。
 『万葉集』などの古代の文芸からみても、常磐木(ときわぎ)に対する古代人の畏敬をうかがうことができる。
 
・こういう常緑樹信仰が、どうしてマツ信仰へと集中していったのだろうか。
 それは、黄河流域を中心とした古代中国文化が、日本列島へと仏教伝来に前後して渡ってきたからではないか、と著者は推察している。
 古代中国では、松柏は百木の長だというので、松には公の爵位を、柏には伯の爵位をあたえたという。
(これは、王安石の『字説』にのっているが、後世につくられた説で、あまりあてにはならないそうだ)
・しかし、松竹梅という組合せもあるように、古来、マツは樹木中の第一位とされてきたのは事実で、社木として信仰されてきたようだ。
 社木というのは、支配する領土や、国家を表示し、また一族の繁栄と長寿を象徴する樹木のことである。 
 社稷(しゃしょく)という言葉は、古代中国で天子が祭を営んだ土地や五穀の神のことであるが、いまでも国家という意味に使われる。
 その祭の場所に植える樹の第一として、古代からマツがあげられてきたわけである。

・中国のマツは、日本のアカマツやクロマツとは、やや違っている。
 黄河以北に多いのは、赤松または油松といわれる種類で、これを燃やしたすすで墨をつくった。
 馬尾松というのは、日本のクロマツに似ていて、中国中南部に多い。
 白皮松または虎皮松といわれるのは、三針葉で、老枝がまがりくねって、おもしろい姿となる。中国中北部に生える。
 昔の中国では、これらをまとめて、松と称していた。
※ちなみに古代中国の『詩経』という古典は、いまから3000年ほど昔の、民謡や宮廷の饗宴歌などを集めた歌集だが、その「斯干(しかん)」という篇に、こういう言葉がある。
  竹ノ苞(しげ)キガ如ク、松ノ茂ルガ如ク、兄及ビ弟、式(もっ)テ相好(よみ)シテ、相猶(はか)ル無ケン。
(タケやマツが青々と茂るように、兄弟が仲好くして、相争うことがない、という意味)
 太古の、中国大陸に生きた民衆たちも、こういうマツの歌を合唱しながら、祝いの酒をくんだことであろう。

 こういう古代中国のマツ信仰が、いろいろな文物とともに日本に伝えられ、日本人の民族的な習癖として、外来文化への強い傾倒とともに、本来の常緑樹信仰のなかへ融合していったのではなかろうか、と著者はみている。
“日本的なるもの”という問いを、歴史に向かって投げかけるときには、常に中国大陸からの影響を、忘れることができない。私たちが、いま誇りとしている日本の文化とは、このようにアジアのいろいろな文化の吸収と調和の上に生まれてきた。
 マツをめぐる草木文化が、それを物語っている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、173頁~181頁)





≪植物名の由来~中村浩氏の著作より≫

2022-12-25 19:40:02 | ガーデニング
≪植物名の由来~中村浩氏の著作より≫
(2022年12月25日投稿)

【はじめに】


 以前のブログにおいて、次のような書籍を参考に、植物の名称について述べたことがある。
〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年
〇辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]

 今回のブログでは、植物の名称について、次の書籍をもとに、さらに詳しく解説してみたい。
〇中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]

以前の参考文献は、植物の名称そのものがテーマでなかったが、中村浩氏の本は、文献的にも歴史的にも詳しく説明しているので、教えられる点が多い。
 そのすべてを取り上げることができないので、主に、タンポポ、アザミ、ヨモギ、クズ、アサガオ、ナナカマドについて述べることにする。

【中村浩氏のプロフィール】
・1910年、東京に生まれる。
・1933年、東京大学理学部植物学科卒業。
      東京大学講師、九州大学教授、共立女子大学教授、日本クロレラ研究所副所長、財団法人日本科学協会理事等を歴任。理学博士。
・1980年没。
<主な著書>
・『牧野富太郎植物記』(全8巻、あかね書房)
・『園芸植物名の由来』『動物名の由来』(東京書籍)


【〇中村浩『植物名の由来』(東京書籍)はこちらから】
中村浩『植物名の由来』(東京書籍)





〇中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]

【目次】
植物の名について
植物名のしくみ
和名と漢名
和名と洋名
人名に関連した植物名

<草の部>
1  スミレは旗印の隅入れに由来する名
2  キクの語源はクク
3  フウロソウは風露草ではない
4  マツムシソウは仏具からでた名
5  ホタルブクロは提燈のこと
6  タンポポの名の由来
7  ウリ談義
8  ホオズキは文月にもとづく名か
9  キツネアザミは眉掃にもとづく名
10 ボロギクは襤褸菊ではない
11 ヨメナは果して嫁菜か
12 ツクシ考
13 ヨモギはよく萌えでる草の意
14 クズの名は地名の国栖から
15 ゴマは油を含んだ種子の意
16 ハンゴンソウは煙草と関係がある
17 タムラソウの二つの語源
18 アサガオは朝の美人の意
19 ヒキヨモギは糸を引く意
20 カミエビは酒を醸す意
21 シオデは牛の尾に似た草という意
22 ガガイモの名の起り
23 ユキノシタは雪の下ではない
24 カラスウリは唐朱瓜か

<木の部>
1  アスナロは偽名である
2  ナナカマドは炭焼きにちなんだ名
3  ムラサキシキブの本名はムラサキシキミ
4  ヤシャブシは夜叉ブシではない
5  ゴンズイは五衰の花
6  クチナシは口無しではない
7  ニワトコは庭ツコの転じた名
8  ウグイスカグラは鶯隠れの意
9  アズサよもやまばなし
10 クマザサは熊笹ではない
11 クマシデ、クマヤナギは熊とは関係がない
12 イボタノキ談義
13 ソナレの真意は磯馴れではない
14 シデという名の意味
15 シウリザクラは枝折桜である
16 ウワミズザクラは占いの桜という意
17 マンサクの語源
18 ワビスケは侘しい花ではない
19 サクラの語源
20 ケンポナシは手棒梨

あとがき
索引




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・植物名のしくみ
・タンポポの名の由来
・キツネアザミは眉掃にもとづく名
・ヨモギはよく萌えでる草の意
・クズの名は地名の国栖から
・アサガオは朝の美人の意
・ナナカマドは炭焼きにちなんだ名





植物名のしくみ


・植物の名は、千差万別である。
 しかし、自ら一つの規準のようなものがあるという。
①まず第一に、その植物を観察したときに受ける印象を名としたものが多い。
 つまり、その植物のもついちじるしい特徴をとらえて命名されたものである。
 例えば、花の形が鷺が飛んでいる姿に似ているので、サギソウ(鷺草)と命名された。
 胡蝶がとまっている姿なので、コチョウラン(胡蝶蘭)という名が授けられた。
 美しい朱鷺(とき)色をしているので、トキソウ(朱鷺草)と名づけられたりした。
 
 また、葉の特徴をとらえて、ミツバ(三葉)とかウマノアシガタ(馬の足形)と名づけられた。実の形を見て、アケビ(開肉[あけみ]の意)とかクリ(黯[くり]の意)と名づけられ、根の形を見て、ヌスビトノアシ(盗人の足)とか、エビネ(蝦根)などと命名されている。

 むかしの人がその植物を観察して受けた印象も現代の人が受ける印象も、そうたいしたちがいはないから、このような直接印象的な直感的な名というものは、たとえそれが時代と共に多少変形していても、その語源を探索することは、そう困難ではない。
 直感的な名としては、野菜になぞらえた名、例えばコナスビ(小茄子)とかウリクサ(瓜草)というような名や、果物になぞらえたコミカンソウ(小蜜柑草)や日常の食品になぞらえたものなどもある。

②次に多いのが、薬用に用いると有効な植物の名である。
 ゲンノショウコとかズダヤクシュなどは、その例である。
 毒という字を冠したものも少なくない。これはその植物に触ったり食べたりすると危険であるという警告でもあったであろう。
 ドクウツギとかドクゼリなどがこの例である。

③植物の名としては、動物名を冠したものが少なくない。
 (これは人間には食えないという意味あいのものであることが多い)
 スズメノエンドウとかイヌビワ、あるいはヘビイチゴなどがこの例である。
 
④また日常生活に密着した道具とか武器とか染料とか香料を名としたものも多い。
 こうした日常生活に密着した名は、特に古い時代につけられた古名に多いようだ。
 例えば、むかしの道具になぞらえた名としては、ゴキズル、スハマソウ、ツヅラフジ、コリヤナギなどがある。 
 武器に関連のある名としては、マユミ、ウツボグサ、ヤバネカズラなどがある。
 また染料にちなんだ名としては、アカネ、ムラサキ、ベニバナなどの名をあげることができる。
 香料にちなんだ名としては、ジンチョウゲ、ニオイスミレ、オタカラコウなどがある。

※また、文学的な情緒にもとづく名としては、ワスレナグサ(勿忘草)、オモイグサ(想い草)、ワスレグサ(忘憂草)、ミヤコワスレ(都忘れ)、モジズリ(捩摺)などいろいろある。
 この種の名の中には、古い時代の風習や風俗を知らないと理解し難いものがある。
・植物の名には、本名の頭に冠頭語を付したり、語尾に補足語を付したりしたものが多い。
 例えば、ホトトギスの仲間で、山地にはえるものをヤマホトトギスとよんだり、登山道などで見かけるものにヤマジノホトトギスという名を付したり、特に矮性のものをチャボホトトギスといったりするのは、冠頭語を付してその種名を説明したものである。

<植物名の語源探索>
・植物名の語源探索には、古文献を漁ることが必要であるが、単に植物のことだけではなく、古い時代の生活や風習にまで探索の輪をひろげていく必要があるという。
 古い時代に詠まれた和歌なども、植物名の語源を探る一つの手がかりになる。
 こうした和歌の中には、むかしの人々の生活がうたいこまれているからである。
 例えば、「万葉集」の中に、次のような秀歌がある。
  あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
    野守は見ずや君が袖振る
 額田王(ぬかたのおおきみ)の詠まれた歌である。
 この歌をみると、当時、紫草を栽培していた天皇の御料地があったことがわかる。
 そこは一般人の立入りが禁止されていた標野という場所があることがわかり、またそこには見張りの番人がいたこともわかる。
 そして当時、ムラサキという染料植物がいかに重要な作物であったかがわかってくる。
 
 もう一つ例がある。同じく「万葉集」の詠人知らずの歌に、
  春日野に煙立つ見ゆをとめ等(ら)し
    春野のうはぎ採(つ)みて煮らしも
というのがある。
 この歌は、“春日野に煙の立つのが見える。娘たちが春の野にヨメナを摘んで煮ているらしいよ”ということであろう。
 当時若菜の一つとしてヨメナ(古名ウハギ)が摘まれて食用にされていたことがわかる。
 さらにヨメナについて調べてみると、当時この草には若さを保つ霊力があるとされていたことがわかるらしい。
 ヨメナ摘みは単なる遊びではなく、今日いういわゆる健康食としての山菜の採集でもあったのであろう。

<和名と漢名>
・植物の名には、学名のほかに、和名と漢名と外国名とがある。
 (理屈からいうと、漢名も外国名にはちがいないが、中国は日本にとって交流の深かった隣国であるから、中国名すなわち漢名は特別に取り扱ったほうがよい)

・漢名をそのまま音読みにして植物名とした例としては、ミカン(蜜柑)、キキョウ(桔梗)、リンドウ(竜胆)、シャジン(沙参)、センキュウ(芎藭)、ボウフウ(防風)、チャ(茶)などをあげることができる。
(これらの名は、漢名からでたもので、日本の言葉ではない)
・漢名の中には、その漢字はいただいたが、その音読みは日本固有のものにしたものもある。
 例えば、カキ(柿[シ])、モモ(桃[トウ])、ウメ(梅[バイ])、サクラ(桜[オウ])などがその例である。

※日本の植物に対し、漢名をどう当てはめるは難しい作業であるが、江戸時代の本草学者たちは勇敢にこの問題と取り組んだ。そして、多くの日本植物に漢名が当てはめられたが、誤りも多かったようだ。
 この誤りを訂正していったのが、牧野富太郎博士や白井光太郎博士らであったそうだ。
 中国の書物に記載されている植物と日本の植物とを丹念に比較して、その漢名が正しいか否かを追跡していった。そして江戸時代に付せられた日本植物の漢名にはいろいろ誤りの多いことがわかってきた。
 例えば、ケヤキというニレ科の木に、“欅”という漢名を宛てるのは誤りであるという。
 この漢名をもつ木は中国にあるクルミ科の樹木であることが示されている。
 また、ハンノキの漢名は“赤楊”とされていたが、これも誤りで別の木であることがわかった。
・インド伝来といわれるシャラノキに“沙羅樹”を宛てるのも誤りで、この漢名をもつ木はインド産の別の木である。また、ボダイジュを“菩提樹”と書くのも誤りで、インド産の本当の菩提樹は別の木である。
・萩という字は日本でつくった字で、秋に花が咲くので“萩”としたものである。
 サカキを“榊”とし、シキミを“梻”とするのも、漢名ではなく日本でつくった字である。
 ツバキの“椿”も日本でつくった字であって、春に花が咲くので椿としたものである。
 ツバキの漢名は山茶である。
(しかし、中国にも椿という漢名をもつ別の植物があるが、これは“チン”と発音する)

※植物名を漢字で書くと、つい誤りをおかすことになるので、植物名は仮名で書くようになった。近頃では、教科書などではカタカナで書くのがふつうとなった。

<和名と洋名>
・植物の名の中には、西洋名がとりいれられて日本名となったものもいくつかある。
 一例をあげると、カミツレあるいはカミルレという植物がある。
 この奇妙な名は、オランダ語のKamilleにもとづく名である。
 カミツレは江戸時代にオランダから渡来し、薬草として栽培されていたものであるが、逸脱して野生化しているところもある。
この草の頭花を摘みとって乾燥したものは、漢方薬店に“カミツレ花”として売られている。発汗、洗眼などに用いられる。カミツレ油という成分を含んでいる。

・洋名が、そのまま日本名として通用しているものは、園芸植物に多い。
 例えば、コスモスは学名の属名 Cosmosをそのまま和名としたものである。
 ダリアも学名の属名 Dahliaをそのまま和名としている(正しくはダーリアというべきらしい)。
 これにもテンジクボタン(天竺牡丹)という和名がつけられているが、一般的に用いられていない。ダリアの原産地はメキシコであるから天竺というのはおかしいが、江戸時代の本草学者が、この植物が天竺から来たものと思いちがいをしたようだ。
 アネモネも学名の属名 Anemoneをそのまま和名としたもので、ギリシャ語のアネモ(anemo)からでた名である。アネモとは風のことである。アネモネとは“風の娘”の意味である。
 ジギタリスもまた、英語名と学名の Digitalisをそのまま和名にしている。
 英語では別名フォックス・グローブ(foxglove)というが、これを直訳したキツネノテブクロ(狐の手袋)という和名もある。
 Digitalisとはdigitからでた言葉で、指のことをさしている。花冠の姿が指に似ているので、キツネノテブクロという名がつけられたようだ。
(しかし、一般には、この名はあまり通用していない)

<人名に関連した植物名>
・植物の名には、人名に関連したものがいろいろある。
 特に学名には、著名な植物学者や名高い園芸家などの名を冠したものが多数ある。
・テイカカズラというキョウチクトウ科の蔓植物は、初夏のころ、芳香を放ち旋回する白花を開くが、このテイカカズラという名は、確証はないが定家葛で、鎌倉時代の歌人藤原定家を記念して、つけられた名であるといわれている。
・著名な植物学者を名としたものでは、有名なシーボルトを記念した名であるシーボルトノキという名の木がある。
 この木は長崎鳴滝のシーボルトの邸宅の跡に植えられていたのでこの名がつけられたというが、あまり多くはない珍しいものであるそうだ。
 また、アジサイの学名をヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサ(Hydrangea macrophylla var. Otaksa)というが、このオタクサは、シーボルトの愛した日本女性“お滝さん”こと、本名楠本滝さんを記念してつけられた名であるといわれている。
 余談になるが、シーボルトはその邸宅に一羽の鸚鵡を飼っていて、これに“お滝さん”という名を憶えさせていたという。この“オタキさん”が、いつしか“オタケサン”に変化して、鸚鵡に人語を憶えさせるとき“オタケサン”といわせるようになったという。
 お滝さんは、もと長崎丸山の遊女で、源氏名を其扇(そのおぎ)といった由だが、シーボルトに愛されたばかりにアジサイに名を残したり、鸚鵡にまでその名をよばれるとは、たいした果報者である、と著者はいう。
 牧野富太郎先生は、シーボルトがアジサイの学名にお滝さんの名を付したことについて、
“神聖な学名に自分の情婦の名をつけるとはけしからんことだ”と憤慨しておられたそうだ。
 その牧野先生自身も、笹の新種に自分の愛妻の名を付して、スエコザサ(寿衛子笹)と命名し、学名もササ・スエコアナ(Sasa Suekoana)とされているという。
※愛妻や恋人や情婦の名を後世に残しておきたいというのは人情であろうが、後世の人にとっては、無縁の人の名を憶えさせられることは、全く迷惑なことといわなければならない。公共性ということを考えるならば、学問に私情をさしはさむことは考えものである、と著者はコメントしている。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、20頁~36頁)

タンポポの名の由来


・タンポポという名は、妙なひびきをもつ日本名である。
 大和言葉としては異質のものである。
 このため、この名の由来については、外来語説が有力であったが、最近になって、やはりこの名は日本名であることに落ち着いたようだ。
・タンポポの花は、見た眼に美しく人目をひくはずであるが、「万葉集」や「古今集」などでは、でてこない。また「枕草子」や「源氏物語」にも見当たらない。
 タンポポの名があらわれてくるのは、江戸時代になってからである。
(したがって、タンポポは古い時代には稀であったか、あったとしても、ある地方に限られていたものらしい。)

・日本で万葉仮名を用いた最古の辞書である「和名類聚抄」(930年代)には、蒲公草(ホコウソウ)の名が掲げられ、古名で多奈(タナ)または布知奈(フジナ)とよばれていたことが記されているが、これがタンポポのことではないかという意見もあった。
(しかし、この蒲公草はタンポポではなく、ホウコグサ(漢名、蓬蒿[ほうこう])かタビラコ(田平子)ではなかったか、と著者は考えている)

※ホウコグサというのは、今日いうハハコグサ(母子草)のことである。
 古くはオギョウまたはゴギョウ(御形)とよんだキク科の植物で、春の七草の一つに数えられている。
 タビラコというのは、同じく春の七草の一つであるホトケノザのことである。
 今日いうホトケノザとは全く別物である。
 春の七草をうたった歌として知られる、
  セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ
    スズナ、スズシロこれぞ七草
という歌にでてくるオギョウまたはホトケノザ(タビラコ)が蒲公草であるらしい。

・タンポポの名の由来であるが、これについては、今日までいろいろな説がある。
 
①大槻文彦博士の「大言海」には、“タンポポの古名タナなり、タンはその転にて、ホホは花後のわたのほほけたるより云ふかと云ふ”とある。
 そして、“タナは田菜の意ならんか”とものべられている。
 タナ(多奈)という名は、930年代に刊行された「和名類聚抄」にでてくる名であるが、これを田菜とするならば、水田などによくはえる春の七草の一つであるタビラコのことではないか、と著者は考えている。著者は、田菜はタンポポではないとする。
 だから、大槻文彦博士の田菜説は疑わしいという。

②次に、タンポポという名は漢名に由来するとする説がある。
 与謝野寛氏の「満蒙遊記」には、“タンポポのことを中国では婆婆丁(ホホチン)と呼んでいるが、古代には香気を意味する<丁>が上におかれて丁婆婆(チンホホ)と呼ばれていた。このチンホホが日本に伝わってタンポポになったものであろう”と記されている。
 この説は面白いが、古代中国でタンポポのことをチンホホとよんでいた時代は漢時代と考えられるので、万葉時代よりははるかに古い時代である。
 タンポポという呼び名は日本でひろまったのは江戸時代になってからであるから、与謝野氏のチンホホ説は、時代があまりに離れすぎている、と著者はコメントしている。
 したがって、この説は納得し難いとする。
(「花の文化史」(中央公論社)の著者春山行夫氏もこの説を疑問としている)

③牧野富太郎博士は、フランス語に由来するタンポポ説を主張している。
 「牧野新日本植物図鑑」によると、“タンポポの語源はおそらく<タンポ穂>の意で、球形の果実穂からタンポポを想像したものであろう”とのべている。
 タンポとは、布で綿をくるんで丸めたもので、拓本などに用いる道具である。
 牧野博士は、晩年、この説を固執していたそうだ。

※しかし、著者はこの説はこじつけのように思われるという。
 このタンポという異国調の名はフランス語のtampon(砲口の塞[せん])から起こったものといわれ、革あるいは布に綿などを包んでまるくしたものをいう。
 稽古用に使用する槍の先にタンポをつけたものをタンポ槍とよぶのも、この砲口の塞にするタンポに似ているためといわれる。
 しかし、タンポポの果実穂はこのタンポ槍よりも、むしろ毛槍に似ている。
 “紀州の殿様、お国入り、毛槍をふりふりヤッコラサのヤッコラサ”というわらべ歌にでてくる、あの毛槍である。
 (とすれば、“タンポ穂”といわずに、“ケヤリッ穂”とでもいいそうなものである。)
 著者は、この牧野博士のタンポ説は納得できないとする。

④著者の見解
 そこで、いよいよ結論であるが、タンポポという名は、古名のツヅミグサから出た名である、と著者は考えている。
 上田万年博士の「大日本国語辞典」には、“ツヅミグサはタンポポ(蒲公英)の異名”とでている。
 このツヅミグサという名の由来についてであるが、ある学者は、咲きかけた花あるいは閉じかけた花の形が鼓の形に似ているから、この名があるとしているが、著者はそうではないと考えている。
 著者は、タンポポの語源については、柳田国男先生の著作の中にあるのではないかと考え、文献をしらべている最中、名古屋市の今井彰という民俗学の研究者から、宮崎修二朗著「柳田国男とその原郷」(朝日選書)にタンポポのことがでていると、教えを受けたそうだ。
 この本には、“タンポポといえば、鼓を打つときのタン・ポンポンという音からの連想に由来し、あの茎の両端を細かく裂いて水につけると、反りかえり放射状にひろがった両端がちょうど鼓の形になったからだ”と書かれてある。
 著者は、タンポポの花茎を用いて、さっそくこの実験をこころみたが、まさしく柳田先生のいわれるように、鼓形となったので、この説を正しいと思うようになったらしい。

※タンポポの名の由来は、その古名ツヅミグサからでたもので、鼓の音タン・ポンポンに由来するものと考えている。
 タンポポの花を用いた子供の遊びで、鼓の形をつくって興じ、タンポンポンとよんでいたものが、いつしかタンポポになったものであろうとする。
(著者は栁田先生からは親しく教えを受けた一人であるそうだ。その労作からいろいろと教えを受けることができることをまことに有難く思っているという)
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、62頁~66頁)

キツネアザミは眉掃にもとづく名


・キツネアザミというキク科の植物があるが、その名の由来について述べている。
 まずはじめに“アザミ”(薊)という名についてであるが、牧野富太郎博士の著書には、その語源についての説明は見当たらないそうだ。
 大槻文彦博士の「大言海」には、“アザミ草というが成語にて、刺多きをあざむ(惘)意にてもあるか”と記されている。
 しかし、アザミ草についての詳しい説明はない。
・著者は、“アザミ”という名詞は、“アザム”という動詞と関係があるという。
 “アザム”という言葉は、“アサマ”から転訛したもので、“傷む”とか“傷ましい”の意である。
 アザミは刺が多く、これに触れると痛いので、アザム草とよばれ、これが転訛して“アザミ”となったものであろう、という。
 “アザム”という言葉には、“驚きあきれる”とか、“興醒める”とかいう意味もある。
・「浜松中納言物語」には、“驚きあざむ気色も見せず”という表現がある。
 また、「徒然草」にも、“これを見る人嘲りあざみて、世の痴者(しれもの)かな云々”という記述もある。
 これらはいずれも“驚きあきれる”とか、“興醒める”とかいう意味であろう。
 他人を嘲笑することを“あざわらう”というが、この言葉も“あざみわらう”の変化した言葉であるそうだ。

・「神代記」に、“猿田彦神”に向ひて、<天鈿女乃露其胸乳、抑裳帯於臍下而笑噱向立>という記述があるが、“笑噱”は、“あざみわらう”であろう。
 また、“あざける”という言葉も、“あざわらう”の変化した言葉であるようだ。
 同じく「神代記」に、“天孫見其子等嘲之曰、云々、吾田鹿葦津(あたかあしづ)姫愠(いかりて)之曰、何為嘲妾乎”という文章にある“嘲る”も、“あざみわらう”ことであろう。
・さて、アザミの花は、美しいので、これを手折ろうとすると刺にさされて痛いので驚きあきれ、興が醒めるということかもしれない、と著者は考える。
 つまり“アザミ”とは、“驚きあきれる草”とか、“興醒める草”とかいう意味と考えている。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、75頁~77頁)

ヨモギはよく萌えでる草の意


・ヨモギは、日本では古くから知られ、古代の人たちの生活に食用の山菜として、また医療用の薬草として密接な関係にあった植物である。
 しかし、その語源については、今日まで明らかにされていないそうだ。
・「牧野新日本植物図鑑」には、“ヨモギの語源は不明”とされている。
・大槻文彦博士の「大言海」には、“ヨモギは善燃草(よもぎ)の義”とでている。

・なるほどヨモギは、モグサの原料として灸治に用いるので、“燃える”ということに関連があるように思えるが、ヨモギが医療に用いられたのは、かなり後のことで、それ以前の古い時代にすでにヨモギの名があったのではないか、と著者は考えている。
・著者によれば、ヨモギは、“よく萌えでる草”、つまり“善萌草(よもぎ)”ではないか、という。
 ヨモギは地中に地下茎を伸ばして蔓枝を生じ、旺盛に繁殖する。
 畑地にいったん侵入すると、その駆除に苦労するほど繁殖力が強い。
 早春、枯草の間に勢いよく緑の若芽を伸ばすヨモギは、まさに“よく萌えでる草”の名にふさわしいとする。

・ヨモギの別名には、エモギ、サシモグサ、サセモグサ、サセモ、シカミヨモギ、タハレグサ、フクロイグサ、モグサ、ヤキクサ、ヤイグサ、ヤイバグサなどいろいろあるが、文学的によく知られている名は、“サシモグサ”であるようだ。

・大槻文彦博士は、“サシモグサは注燃草(さしもぐさ)の意、注(さ)すとは点火(ひつくる)のこと、モは燃やすの語根”と説明している。
 著者は、“サス”とは、“発(さ)す”で生い出ずの意、“モ”は萌ゆの意と解釈する。
 したがって、サシモグサは、“発萌草(さしもぐさ)”であると考えている。

・「百人一首」にえらばれている藤原実方朝臣の有名な歌に、
  かくとだにえやは伊吹のさしもぐさ
    さしもしらじな燃ゆる思ひを
 というのがあるが、このばあいはサシモグサはすでに灸治がはじまっている時代で“燃える”という言葉に関連させて詠みこんでいる。
 サシモグサを詠んだ歌はこのほか、
  下野や標地(しめぢ)が原のさしもぐさ
    己が思ひに身をや焼くらん
 また、
  あぢきなや伊吹の山のさしもぐさ
    己が思ひに身を焦がしつつ
というのもある。
 ※これらの歌にみられる伊吹山は、近江国の伊吹山(胆吹山)ではなく、下野国の伊吹山をさすものといわれている。
 この下野国の伊吹山にはヨモギが群生していて、灸治の原料としてその採取がさかんに行われていたらしい。

・「百人一首」の中にもう一つ藤原基俊の歌として、
  契りおきしさせもが露を命にて
    あはれことしの秋もいぬめり
 というのがある。この“させもが露”というのは、“サセモグサにおいた露”という意であり、サセモグサというのはサシモグサの別名である。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、97頁~99頁)

クズの名は地名の国栖から


・クズ(葛)の正しい呼び名は、“クズカズラ”であるといわれている。
 カズラとは蔓草のことで、その語源は「神代記」に、“伊弉諾(いざなぎ)神の黒き御鬘(かつら)の化して蒲萄(えびかづら)となりしに”と記されていることによるとされている。
・さて、“クズ”という名であるが、大槻文彦博士は、“クズは国栖という地名に関連がある”と示唆している。
・牧野富太郎博士はこの説をとり、“一説にはクズは大和(奈良県)の国栖(クズ)であり、昔国栖の人が葛粉を作って売りに来たので、自然にクズというようになったといわれる”と説明している。
・著者も、クズは国栖という地名から出た名であると考えている。

・国栖とは、国主(くにぬし)という言葉が、クンヌシ、クニシ、クニス、クズと転訛したようだ。

・むかし、大和国吉野郡吉野川の川上に住んでいた土民を国栖人とよんだ記録がある。
 この地方の土民は、応神天皇の御代に大陸から日本に渡って帰化した異民族の一族で、朝廷の儀式のときに招かれて歌笛を奏するのを常としたという。
 そして、この国栖人による演奏を“国栖の奏”といった。

・さて、この大和国吉野郡の国栖地方では、古くから国栖人たちによってクズカズラから葛粉をとって食用とする風習があった。
 クズカズラの根をたたいて水に浸し、汁をもみだして何度もこすと葛粉がとれる。
 葛粉は純白で、食用として珍重された。葛粉は大和国吉野の産が上等品とされ、“吉野葛”とよばれていた。
・クズはまた、茎が強いので繊維をとって、“葛布(くずふ)”をつくるのにも用いられた。
 この葛布は、クズの蔓を煮て水に浸し、繊維をとりだして糸とし、織って布としたものである。この葛布は、耐水性が強いので、雨衣として用いられ、また、袴として、あるいは襖(ふすま)などにも用いられた。

※大和国吉野郡の国栖では、古くから国栖人たちによってクズカズラの根から葛粉をとったり、その茎の繊維で葛布を織ったりしているわけであるから、その原料となるクズカズラがいつしか“クズ”とよばれるようになったのであろう。

・また、クズの花は、赤紫色でたいそう美しいので、秋の七草の一つにも数えられている。
 「万葉集」の秋野の七種花(ななくさばな)の歌に、
  萩の花、尾花、葛花(くずはな)、なでしこの花   
    女郎花(をみなへし)、また藤袴(ふぢばかま)、朝がほの花
というのがある。また、
  真くず延(は)ふ夏野の繁くかく恋ひば
    まことわが命常ならめやも
また、大伴家持の歌に、
  はふ葛の絶えず偲(しの)はむ大君の
    見(め)しし野べには標結(しめゆ)ふべしも
というのもある。これらの万葉歌をみると、クズのたくましく伸びる性質を詠んでいるものが多い。
 クズはまた緑肥として田畑にすきこむと肥厚度が高いが、戦後アメリカ人が日本の野生のクズに目をつけ、これを緑肥としてトウモロコシ栽培に応用したところ、多大の効果があったという(当時の「リーダーズダイジェスト」誌上に載っている)。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、102頁~106頁)

アサガオは朝の美人の意


・アサガオ(朝顔)というと、今日ではヒルガオ科のアサガオのことをいうが、古く万葉の時代に詩歌に詠まれたアサガオは、今日のキキョウ(桔梗)であったといわれている。 
 キキョウは古名をオカトトキといったが、桔梗の漢字をあてるようになって、はじめキチコウと音読みにされていたが、これがキキョウと転訛したものであるそうだ。
・なお、古名のオカトトキという呼び名であるが、オカは岡であろうが、トトキとは今日のツリガネニンジンのことである。
 トトキとは漢字で“蔘”と書く。

・「万葉集」の、旋頭歌に示されている”朝がほ”の花は、今日のアサガオではなくキキョウとされている。というのは、この万葉の時代には、まだヒルガオ科のアサガオは日本にはなく、後年中国から渡来したものであるからである。
 ところが、このキキョウをアサガオとよぶ風習はやがて滅び、アサガオというと、もっぱらアオイ科のムクゲ(木槿)に移っていった。
 この花は、モクゲともハチスともよばれるが、朝咲いて、夕べには落ちるので“朝顔”とよばれた。
 中国の格言に“槿花一日の栄”とか“槿花一朝の夢”というのがある。これは、白楽天の、
  松樹千年、終(つひ)にこれ朽(く)ち、槿花一日自ら栄を為す
という詩からでたものである。人の世の栄華が短いことを、朝に開き夕べにしぼむムクゲ(槿)の花にたとえたものである。 
 このムクゲも、中国から渡来したもので、日本に野生種はない。
 この植物もまた万葉時代には知られていなかったものである。
 平安朝の初期に、漢方薬の一つとしてヒルガオ科のアサガオが中国から渡来し、薬用植物として栽培されるようになると、この花がたいそう美しいため、次第に各地方にひろまっていった。
 アサガオのことを漢名で“牽牛子(けんごし)”というが、この呼び名は、はじめ薬用になるアサガオの種子のことをいったものであるが、次第にアサガオそのものをさすようになった。

・アサガオの花は、ロウト形をしていて大きくて美しいので、江戸時代には大流行し、観賞用としてひろく栽培されるようになった。
 加賀の千代女の有名な句に、
  あさがほに釣瓶(つるべ)取られてもらひ水
というのがあるが、この歌は安永年間に詠まれているから、そのころは、アサガオはかなりふつうのものとなっていたようである。
 江戸時代中期になると、さかんに品種改良が行なわれ、色とりどりの多彩な色の花もつくりだされ、また大輪咲き、重弁咲き、狂い咲きなどの珍品が数多くあらわれた。
 文化13年(1816年)に刊行された高田興清の「擁書漫筆」という書物には、“朝顔合せ”という言葉がみられるが、当時の園芸家たちは、珍種を持ちよって、花くらべを行い、互いに優劣を競ったものらしい。

・さて、アサガオという名の意味であるが、これは“朝咲いて美しいので朝の顔という意味である”と思いがちであるが、そうではなく、“顔”とは別に関係はないようだ。
 アサガオは、もともと“朝の容花(かおばな)”の意であり、“容花”とは、“美しい姿の花”という意味である。“容”とは容姿(すがた)のことで、美麗な姿のことである。
 美人のことを、“容人(かたちびと)”というのがそれである。

 「万葉集」に、
  高円(たかまと)の野辺の容花(かほばな)おもかげに
    見えつつ妹は忘れかねつも
 というのがあるが、この“容花”とはヒルガオ科のアサガオではなく、キキョウのことであるが、“美しい姿の花”という意味である。
 したがって、アサガオとは、“朝の美人”とか“朝の美女”という意味であるようだ。
 なお、「倭訓栞」には、“アサガオヒメ”(朝顔姫)という美人の名がでてくるが、これは七夕祭の伝説にでてくる織女星のことで、天の川をはさんで牽牛(ヒコボシ)に関連して名づけられたものであろう。七夕の夕には、アサガオの葉に恋歌を書いてこれを天の川に流して、恋人のもとへ送ったという伝説もある。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、120頁~124頁)

ナナカマドは炭焼きにちなんだ名


・ナナカマドは山地に自生する落葉高木で、バラ科に属している。
 バラ科というと美しいバラやサクラの花を連想するが、ナナカマドの花はそんなに派手な花ではなく、小さくてさっぱり見栄えはしないが、花弁はちゃんと5枚あって、虫めがねでのぞくと、梅の花のように見える。
 この木は羽状複葉をもち、秋の紅葉がたいそう美しい。
 このため生け花などの材料として、よく用いられる。

・さて、このナナカマドの名の由来であるが、牧野富太郎博士の「牧野新日本植物図鑑」には、この名の由来として“ナナカマドは材が燃えにくく、かまどに七度入れてもまだ焼け残るというのでこの名がついた”と記されている。
 しかし、著者は、この説明に疑問を持っている。
 というのは、この木はそれほど燃えにくい木ではないからであるという。
 (著者は、越後の赤倉の山荘で冬を過ごした際に、よくナナカマドの薪をたいて暖をとったそうだ。この木の材はよく燃えて決して燃え残ることはない。)

・ナナカマドは、高さが9~10メートルにもなるかなり大きな木である。
 幹の直径は大きなものでは30センチにもなるので、薪の材料として適している。
 山村では、このナナカマドの薪を燃料用に用いているが、よく燃えて、決して“七度かまどに入れて燃やしてなお燃え残る”ということはない。
 
※鶴田知也「草木図誌」には、“牧野植物図鑑の説明は事実と合わない。たき火に加えるとナナカマドはよく燃える。だから名は体をあらわさず、ナナカマドは何か別の意味があるのではなかろうか”と書かれているそうだ。著者は、「わが意を得たり」と思った。

・ナナカマドという名は、ナナカという言葉とカマドという字がくっついたものである、と著者は考えている。
 ナナカとは古い言葉で“七日”という意味である。この言葉は今日ではナノカと変化している。カマドとは竈(かまど)のことであることは間違いない。
 したがって、ナナカマドとは、ナナカカマド(七日竈)の意であろうとする。 
 (ナナカカマドでは、“カ”が重複するので、一字省略してナナカマドになったとする)

 さて、カマド(竈)であるが、これは、台所の煮炊き用のかまどではなく、炭焼きかまどであると考えている。
 炭焼きかまどは石または土でかまどをつくり、中に木材を積み、火を点して燻(ふす)べ焼く木炭製造所である。壁の上方には四つ目という煙出しの小孔があり、かまどの入口に積んで口を塞ぐ石を“せいろう石”という。
 木炭は木材を空気の供給を制限して加熱し、熱分解を起こさせて炭化させるもので、すでに石器時代にこの技術があったという。
 木炭には、質の硬い堅炭(かたずみ)と軟い軟質炭があるが、堅炭のほうが火力が強く、火持ちがよい。
 木炭の硬さは樹種によってきまるが、堅炭の原木としてはふつう、ウバメガシ、ウラジロガシ、アカガシ、アラカシ、クヌギ、ヤマナシ、ミズナラ、カシワ、エンジュ、ヨグソミネバリ、ヤマボウシなどが用いられる。
 この堅炭の上質物としては、紫珠および花楸樹があげられているが、紫珠とはムラサキシキブのことで、花楸樹とはナナカマドのことである。
 木炭には、いろいろな種類があるが、上物としては、備長(びんちょう)、天城炭、鍛冶炭などがある。
(備長は、元禄年間に紀伊国の備後屋長右衛門という者が工夫して焼きだした堅炭で、木炭のうちで極上品とされている。この備長は俗に“バメ”とよばれているが、これは材料であるウバメガシからでた呼び名であるらしい。
 この備長のことを記した古書には、“備長は木炭の中の上物なり。紫珠及び花楸樹を極上品とす”という記述がある。)

・この備長の極上品として知られたナナカマドは、材質が硬く、これを炭に焼くには七日間ほどかまどでじっくりと蒸し焼きにして炭化させる。
 ふつう摂氏500度ぐらいで炭化が終わるが、800度まであげて精錬し、密閉消火したのち放冷してから、かまどから取りだす。
 ナナカマドの炭は火力が強く、最高2000度までの熱をだすが、ふつうは700~800度ぐらいの火力であるそうだ。
 ナナカマドを原木とした備長は、質がきわめて緻密で堅く、かつ火力もいちじるしく強く、火持ちがよいので、江戸の料理屋、特に鰻の蒲焼用に珍重されたという。

・さて、ナナカマドの名の由来であるが、著者は、この名は炭焼きと関連した名であると考えている。
 ナナカマドを原木として極上品の堅炭を得るには、その工程に七日間を要し、七日間かまどで蒸し焼きにするというので、七日竈すなわナナカマドとよばれるようになったとする。
(だから、牧野博士のいわれるように、“七度、かまどで燃やしても、なお燃え残る”という意味ではないという)
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、157頁~161頁)


≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その2≫

2022-12-19 19:23:47 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪大学受験の国語の小説問題~石原千秋氏の著作より その2≫
(2022年12月19日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書、2002年[2005年版])の序章を中心に、総論的な部分を紹介した。
 今回のブログでは、次のような大学受験国語の小説問題を実際に解いてみたい。
・過去問④太宰治『故郷』
・過去問⑦志賀直哉『赤西蠣太』
・過去問⑨野上弥生子『茶料理』
・過去問⑭横光利一『春は馬車に乗って』

【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。





【石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)はこちらから】
石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)





〇石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]

【目次】
・はじめに
・序章 小説は何を読むのか、あるいは小説は読めない
・第一部 小説とはどういうものか――センター試験を解く
・第一章 学校空間と小説、あるいは受験小説のルールを暴く
     過去問① 学校空間の掟――山田詠美『眠れる分度器』
・第二章 崩れゆく母、あるいは記号の迷路
     過去問② メタファーを生きる子供――堀辰雄『鼠』
・第三章 物語文、あるいは消去法との闘争
     過去問③ 女は水のように自立する――津島佑子『水辺』
     過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』

・第二部 物語と小説はどう違うのか――国公立大学二次試験を解く
・第四章 物語を読むこと、あるいは先を急ぐ旅
     過去問⑤ 血統という喜び――津村節子『麦藁帽子』
     過去問⑥ 貧しさは命を奪う――吉村昭『ハタハタ』
     過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』
・第五章 小説的物語を読むこと、あるいは恋は時間を忘れさせる
     過去問⑧ ラブ・ストーリーは突然に――三島由紀夫『白鳥』
     過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』
・第六章 物語的小説を読むこと、あるいは重なり合う時間
     過去問⑩ 母と同じになる「私」――梅宮創造『児戯録』
     過去問⑪ 父と同じになる「私」――横光利一『夜の靴』
・第七章 小説を読むこと、あるいは時間を止める病
     過去問⑫ 自然の中で生きる「私」――島木健作『ジガ蜂』
     過去問⑬ 人の心を試す病――堀辰雄『菜穂子』
     過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』

・あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・過去問④太宰治『故郷』
・過去問⑦志賀直哉『赤西蠣太』
・過去問⑨野上弥生子『茶料理』
・過去問⑭横光利一『春は馬車に乗って』







過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』


 それでは、センター試験を実際に解いてみよう。
・「第三章 物語文、あるいは消去法との闘争」の「過去問④ 男は涙をこらえて自立する――太宰治『故郷』」からである。

・2002年度には、太宰治の『故郷』が来た。
 リアリズム小説から少しだけ離れたここ数年の傾向とは異なって、ごく普通の(だけど、少しだけおしゃべりな)リアリズム小説からの出題である。
そこで、設問も「気持ち」に関するものが例年より多くなった。
受験ではリアリズム小説は「気持ち」が問われるという法則は、間違っていなかったでしょう?、と著者はコメントしている。


過去問④ 男は涙をこらえて自立する

 次の文章は、太宰治の小説「故郷」の一節である。主人公の「私」は、かつてさまざまな問題を起こして父親代わりの長兄の怒りを買い、生家との縁を切られていたが、母親が危篤である旨の知らせを受け、生家の人たちとは初対面の妻子を伴って帰郷した。本文はそこで親族たちと挨拶を交わした後の場面である。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。

 私は立って、母のベッドの傍へ行った。他のひとたちも心配そうな顔をして、そっと母の枕頭に集まって来た。
「時々くるしくなるようです。」看護婦は小声でそう説明して、掛蒲団の下に手をいれて母のからだを懸命にさすった。私は枕もとにしゃがんで、どこが苦しいの? と尋ねた。母は、幽かにかぶりを振った。
「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ。」私はてれくさいのを怺(こら)えてそう言った。
 突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷たい手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟(けし)の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫りが一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨毯も、みんな昔のままであった。A私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。こっそり洋室にのがれて来て、ひとりで泣いて、あっぱれ母親思いの心やさしい息子さん。キザだ。思わせぶりたっぷりじゃないか。そんな安っぽい映画があったぞ。三十四歳にもなって、なんだい、心やさしい修治さんか。甘ったれた芝居はやめろ。いまさら孝行息子でもあるまい。わがまま勝手の検束をやらかしてさ。よせやいだ。泣いたらウソだ。涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に(ア)閉口した。煙草を吸ったり、鼻をかんだり、さまざまな工夫して頑張って、とうとう私は一滴の涙も眼の外にこぼれ落とさなかった。
 日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。B私は寒い暗闇の中にひとりでいた。北さんも中畑さんも、離れのほうへ来なかった。何をしていているのだろう。妻と園子は、母の病室にいるようだ。今夜これから私たちは、どうなるのだろう。はじめの予定では、北さんの意見のとおり、お見舞いしてすぐに金木(かなぎ)を引き上げ、その夜は五所川原(ごしょがわら)の叔母の家へ一泊という事になっていたのだが、こんなに母の容態が悪くては、予定どおりすぐ引き上げるのも、かえって気まずい事になるのではあるまいか。とにかく北さんに逢いたい。北さんは一体どこにいるのだろう。兄さんとの話が、いよいよややこしく、もつれているのではあるまいか。私は居るべき場所も無いような気持ちだった。
 妻が暗い洋室にはいって来た。
「あなた! かぜを引きますよ。」
「園子は?」
「眠りました。」病室の控えの間に寝かせて置いたという。
「大丈夫かね? 寒くないようにして置いたかね?」
「ええ。叔母さんが毛布を持って来て、貸して下さいました。」
「どうだい、みんないいひとだろう。」
「ええ。」けれども、やはり不安の様子であった。「これから私たち、どうなるの?」
「わからん。」
「今夜は、どこへ泊るの?」
「そんな事、僕に聞いたって仕様が無いよ。いっさい、北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。十年来、そんな習慣になっているんだ。北さんを無視して直接、兄さんに話し掛けたりすると、騒動になってしまうんだ。そういう事になっているんだよ。わからんかね。僕には今、なんの権利も無いんだ。トランク一つ、持って来る事さえできないんだからね。」
「なんだか、ちょっと北さんを恨んでるみたいね。」
「ばか。北さんの好意は、身にしみて、わかっているさ。けれども、北さんが間にはいっているので、僕と兄さんとの仲も、妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。どこまでも北さんのお顔を立てなければならないし、わるい人はひとりもいないんだし――」
「本当にねえ。」妻にも少しわかって来たようであった。「北さんが、せっかく連れて来て下さるというのに、おことわりするのも悪いと思って、私や園子までお供して来て、それで北さんにご迷惑がかかったのでは、私だって困るわ。」
「それもそうだ。うっかりひとの世話なんか、するもんじゃないね。僕という(イ)難物の存在がいけないんだ。全くこんどは北さんもお気の毒だったよ。わざわざこんな遠方へやって来て、僕たちからも、また、兄さんたちからも、そんなに有り難がられないと来ちゃ、さんざんだ。僕たちだけでも、ここはなんとかして、北さんのお顔を立つように一工夫しなければならぬところなんだろうけれど、あいにく、そんな力はねえや。下手に出しゃばったら、滅茶滅茶だ。まあ、しばらくこうして、まごまごしているんだね。お前は病室へ行って、母の足でもさすっていなさい。おふくろの病気、ただ、それだけを考えていればいいんだ。」
 C妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった。暗闇の中に、うなだれて立っている。こんな暗いところに二人いるのを、ひとに見られたら、はなはだ(ウ)具合がわるいと思ったので私はソファから身を起こして、廊下へ出た。寒気がきびしい。ここは本州の北端だ。廊下のガラス戸越しに、空を眺めても、星一つ無かった。ただ、ものものしく暗い。私は無性に仕事をしたくなった。なんのわけだかわからない。よし、やろう。一途に、そんな気持ちだった。
 嫂が私たちをさがしに来た。
「まあこんなところに!」明るい驚きの声を挙げて、「ごはんですよ。美知子さんも、一緒にどうぞ。」嫂はもう、私たちに対して何の警戒心も抱いていない様子だった。私にはそれが、ひどくたのもしく思われた。なんでもこの人に相談したら、間違いが無いのではあるまいかと思った。
 母屋の仏間に案内された。床の間を背にして、五所川原の先生(叔母の養子)それから北さん、中畑さん、それに向かい合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。
「速達が行きちがいになりまして。」私は次兄の顔を見るなり、思わずそれを言ってしまった。次兄は、ちょっと首肯いた。
 北さんは元気が無かった。浮かぬ顔をしていた。酒席にあっては、いつも賑やかな人であるだけに、その夜の浮かぬ顔つきは目立った。やっぱり何かあったのだな、と私は確信した。
 それでも、五所川原の先生が、少し酔ってはしゃいでくれたので、座敷は割に陽気だった。私は腕をのばして、長兄にも次兄にもお酌をした。私が兄たちに許されているのか、いないのか、もうそんな事は考えまいと思った。私は一生ゆるされる筈はないのだし、また許してもらおうなんて、虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ。D結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ。愛する者は、さいわいなる哉。私が兄たちを愛して居ればいいのだ。みれんがましい欲の深い考えかたは捨てる事だ、などと私は独酌で大いに飲みながら、たわいない自問自答をつづけていた。

(注)
1 マントルピイス ――暖炉の上に設けた飾り棚
2 検束をやらかして――一時警察に留置されたこと。
3 北さんも中畑さんも――ともに「私」の亡き父に信頼された人物で、以前から「私」と生家との間を取り持っていた。この帰郷も、長兄の許可を得ないまま、北さんが主導して実現させた。
4 速達――「私」が郷里に向かった後で次兄が投じた、「私」を呼び寄せる急ぎの手紙のこと。

問1 傍線部(ア)~(ウ)の語句の本文中の意味として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。
(ア)閉口した ①悩み抜いた ②がっかりした ③押し黙った ④考えあぐねた ⑤困りはてた

(イ)難物 ①理解しがたい人 ②頭のかたい人 ③心のせまい人 ④扱いにくい人 ⑤気のおけない人

(ウ)具合がわるい ①不都合だ ②不自然だ ③不出来だ ④不適切だ ⑤不本意だ


問2 傍線部A「私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した」とあるが、「私」がそうしたのはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①あたたかく自分を迎えようとしている人々の懐に飛び込んでいきたいという思いと弱みを見せたくないという思いとが、胸のうちに同時にわきあがり、互いに争っているから。
②母親に対して素直な気持ちになれなくなっているにもかかわらず、まわりの雰囲気に流されて、ここで悲しむ様子を見せては人々を欺くことになると考えているから。
③立場上ほかの親族と同じようにふるまうのがはばかられるとともに、人目を忍んで泣くというありきたりな感情の表現の仕方をすることに恥じらいを覚えているから。
④母親に対しては子どものころと変わらない親密な感情を取り戻しながらも、和解を演出しようとする周囲の人々の思惑には反発を感じているから。
⑤過去の自分とは異なる人間的に成長した姿を見せようと意気込んでいたのに、あっさりと周囲の人々の情にほだされてしまったことに自己嫌悪を感じているから。

問3 傍線部B「私は寒い暗闇の中にひとりでいた」とあるが、この時の「私」の心情の説明として適当でないものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①北さんと中畑さんがなかなか離れに来ないことが気になり、もしかしたら長兄と悶着を起こしているのかもしれないと考え、やはり帰郷などすべきでなかったのではないかという思いにかられている。
②母親の病気にかこつけて突然やって来た自分たち夫婦を、長兄らがどのような思いで迎え入れてくれるのかがまだ十分には予測しがたく、どこでどうふるまったらよいのか判断に窮して戸惑いを覚えている。
③とりあえず母親との対面をはたすことができて一段落は着いたものの、案じていた母親の容態が予想以上に悪く、北さんとたてた当初の計画にも支障が出そうで不安を感じている。
④母親の病状は気がかりなのだが、長年生家をないがしろにして自由気ままにふるまってきた自分にそのような心配をする資格があるのかと自問し、昔の過ちに振りまわされる人生の不可解さを実感している。
⑤親族たちが集まっている部屋から離れて誰もいない空間に閉じこもることによって、動揺する心を静めるとともに、さまざまな人に迷惑をかけ続けてきたみずからの過去や現在に思いをめぐらせている。

問4 傍線部C「妻は、でも、すぐには立ち去ろうとしなかった」とあるが、この時の「妻」の心情の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①旧家の嫁でありながら今回初めて帰郷するという不義理を重ねてきたので、夫の生家は必ずしも居心地のよいものではなく、皆の前で健気にふるまってよいものかどうかためらっている。
②夫の単なる強がりを言っているのに過ぎないことに初めから気づいていたため、なかなか素直にその言葉どおりにふるまう気にはなれず、早くこの地を去りたいと考えている。
③北さんと長兄との間に立たされて苦悩している夫のことが心配でならず、何とかしなければならないことはよく理解しているのだが、嫁という立場から積極的な行動は慎もうとしている。
④夫の言うこともわかるのだが、郷里における自分たち二人の微妙な立場を考えるとまだ十分には心細さをぬぐい去ることができず、進んで夫の生家の人たちと交わる勇気を持てないでいる。
⑤子供が眠ってしまって夫と二人きりになってしまうと不安はいっそう募るばかりなのだが、夫はただ姑の心配をするばかりで少しも自分をかまってくれず、どこか納得できないでいる。

問5 傍線部D「結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①兄たちが許してくれるかどうかに気を使うよりも、自分が兄たちに対して深い愛情を持つ姿勢を貫くことが何より大切であるということ。
②兄たちとのいざこざを根本的に解決するためには、いかに自分が兄たちを愛しているかということを正確に伝える必要があるということ。
③もし自分が兄たちを愛することができると確信を持てたら、頭を悩ませている数々の問題も一気に解決するはずだということ。
④生家の人々が最終的に問いかけてくるのは、自分が口先でどう言うかということよりも、兄たちに愛情を抱いているかいないかだということ。
⑤兄たちを愛しているかどうか自分でもわからず、どうふるまえばよいか戸惑っていることが、さらに事態を複雑にしている要因だということ。

問6 本文の内容と表現の特徴の説明として適当なものを、次の①~⑥のうちから二つ選べ。ただし、解答の順序は問わない。
①思わぬ出来事によって必ずしも居心地のよくない場所に置かれてしまった主人公夫婦の心の結びつきの強さが、二人の会話に主眼を置いたやや饒舌な文体で、共感を込めて描き出されている。
②複雑な人間関係の中でうまくふるまえない主人公の弱く繊細な心の動きが、一人称を基本としながら自分を冷静に見つめる視点を交えた語り口で、たくみに描き出されている。
③重病に陥った母親の枕もとで繰り広げられる主人公と彼の兄たちとの秘められた微妙な確執が、登場人物相互の内面にも自在に入り込んでいく多元的な視点から、私情を交えず描き出されている。
④立場の異なる人々の間に生じる避けがたい摩擦と、それを大きく包み込むような愛情のあり方が、主人公を中心とした人間群像の中から浮き彫りになるように描き出されている。
⑤母親の病気で帰郷することになった主人公夫婦の、これを契機として何とか兄たちとの関係を改善したいという切実な思いが、微妙に揺れ動く心理を含めて丹念に描き出されている。
⑥久方ぶりの帰郷で顔を合わせた親族に気兼ねしつつも、それでも甘えを捨てきれない主人公の内面が、人間の細やかな心の移ろいに焦点を定めた明晰な文章で描き出されている。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、141頁~151頁)



<解答と解説>
問1 例の意味を聞く設問である。
(ア)閉口した ⑤困りはてた
  どうってことなく⑤が選べただろう。
(イ)難物  文脈上の意味と「字義通りの意味」とを合わせて聞く設問で、「本文中の意味として」という注意が生かされている。
文脈上は、①「理解しがたい人」でもいいような感じがするが、ここは「難物」の「字義通りの意味」を掛け合わせて、④扱いにくい人を選ぶ。
(ウ)具合がわるい 
 著者の理解では、こういう微妙な状況で、「私」とその妻とがこそこそ会話を交わしているような「不自然」なことをするのは「不適切」だから、そういう風に見られることは自分としては「不本意」であり、久しぶりに帰郷した不肖の息子としてもまったく「不出来」なことになってしまうから、総合的に考えるに、見られるのは「不都合」である、ということになる。
 正解は①不都合だ

問2 消去法では、次のようになる。
①は、「あたたかく自分を迎えようとしている人々」が間違い。
 「私」にはまだそういう確信はない。
②は、「母親に対して素直な気持ちになれなくなっている」が間違い。
素直になりすぎて涙が出そうなのだ。
④は、「反発を感じているから」が間違い。
 「困惑」はしているが、「反発」はしていない。
⑤は、全体にあまりにもへんてこりんだが、とくに前半が本文とは無関係。
こんなことはどこにも書いていない。
 消去法で、③が残る。

※また、「男泣きの文学史」を踏まえた枠組から読めば、③が正解であることが、ごく自然に見えてくるという。
 古典に出てくる男はよく泣くのに、泣くと男らしくないということになったのは近代になってからではないか、と丸谷才一(高名な文芸評論家)は書いた。
 丸谷の言うように、『平家物語』などは男泣きの文学とでも言いたくなるし、そのほかの古典の物語にも男泣きは多い。
 ところが、明治以降の文学では男泣きは「なんかヘン」という感じで書かれることが多いそうだ。
 問2の傍線部も、こういうコンテクスト(時代状況)の中で読まれるべきだ、と著者はいう。

 この時代には、男が人前で泣くことは男らしくない。だから男が泣くときは人目を忍んで泣くものだ、という一般的な型が出来上がってしまっていた。
 それは「安っぽい映画」(17行目)にもあるくらいだと、「私」も認識している。
 そこで、「私」は自分の純粋な母親への情愛を、そんな「安っぽい映画」の一場面みたいな形を真似ることで汚したくないと思っている。
 また、自分のこれまでしてきたことは、いまさらそういう「安っぽい」孝行息子を演じて許されるほど生やさしいものではないとも思っている。
 その上で「私」が涙をこらえることは、「私」が「孝行息子」ではなく、一人の自立した「男」として生きるきっかけにもなることが、「男泣きの文学史」を知っている人にはわかる、という。 
(近代以降は涙をこらえることが「男らしい」ことなのだから)
⇒こうした「男泣きの文学史」を踏まえた枠組みから読めば、正解が③であるとする。

問3 この設問は、「私」の「気持ち」の説明として、「適当でないもの」を選べという。
 このことは、一つの事態に複数の「気持ち」が起き得ると出題者が理解していることを示している。
 だからこそ、作者はそういうことをいちいち書かずに、「私は寒い暗闇の中にひとりでいた」とだけ書くのである。
 あとは、「気持ち」を読者が作ることになる。
 ただし、選択肢は、「気持ち」の説明というよりも、ほとんどこの時「私」の置かれていた状況の説明に費やされている。
「気持ち」を問う設問の多くが、実はその時の状況に関する情報処理問題になっている(受験小説の法則④)

 選択肢の作りは、意外と単純であるそうだ。
 ④と⑤の後半がよく似ていて、「適当でないもの」はこのどちらかだと予測がつくという。
 (受験小説の法則⑤)⇒どちらかが、情報処理として欠陥があることになる。
 そういう目で見ると、④の「人生の不可解さを実感している」という部分が、かなり実存的なことにまで踏み込んでしまっていて、フライング気味であることがわかる、とする。
 だから「適当でないもの」は④である。
 ④と⑤との後半を比較すると、⑤の方が曖昧な記述になっている。 
(ここでも、文脈に見合ったものは曖昧な記述の方だという法則③が生きているという)

問4 
 「私」の妻の気持ちなどわかるはずもない、と著者は断っている。
 「私」とはちがって、妻についてはほとんどなにも情報がないのだからという。
 そこで、問4では妻の「気持ち」を作ることになる。
 基準は物語文しかない、とする。
 『故郷』の物語文は「「私」が家族へ愛情を確かめる物語」である。
 こういう家族愛の物語には、健気(けなげ)な妻だけがふさわしい。
 ①のように、「夫の生家は必ずしも居心地のよいものではなく」といった我慢の出来ない性格では「旧家」の妻は務まらない。
②のように、「夫の単なる強がりを言っているのに過ぎないことに初めから気づいていた」ような賢(さか)しらな妻ではまずい。「早くこの地を去りたいと考えている」といった身勝手でも困る。
また、⑤のように、「夫はただ姑の心配をするばかりで少しも自分をかまってくれず」といった甘えん坊の妻では品位がない、と著者はいう。
⇒これらの否定的な事柄が書き込まれている選択肢は、家族愛の物語にふさわしくない健気な妻ではないというだけの理由で、一気に排除することが出来るとする(法則②)。
〇物語文の枠組から読むことだけが、選択肢の絞り込みを可能にする。
(妻の心理なんてわかりっこないのだから)
〇その上に、これらは学校空間にふさわしくない妻像なのである。
 「道徳的な枠組から読むこと」という学校空間に隠されたルールが、ここには働いているという(法則①)
※記号問題では「気持ち」は出題者が作る以上、出題者の思想がはっきり表れる。
 だから、「気持ち」を問う選択肢には隠されたルールが働きやすい。
 すなわち、学校空間の「気持ち」は「道徳」によって作られる。
 これらの選択肢を「正解」ではなく(いま時の「妻」たちなら、まったく普通の感じ方だろうに)、ダミーとして作ってしまったところに、出題者の思想の度合いが透けて見えるという。
(「なんと古くさい家族道徳観から作られた選択肢たちよ!」と著者は評している)

・残るは③と④である。ふたつとも、後半がよく似ている。
 過去問問題集の多くは、③の「北さんと長兄との間に立たされて苦悩している夫のことが心配でならず」の部分を間違いとする。理由は、この時の妻の「心配事」は自分たちがこの後どうなるかであって、それとは食い違うからという。
 著者は、例の法則を使って、解説している。
 つまり、「正解」は曖昧な記述の方だ、という法則③である。
 ③の「嫁という立場から積極的な行動は慎もうとしている」という記述と、④の「進んで夫の生家の人たちと交わる勇気を持てないでいる」という記述では、どちらが曖昧か。
 ⇒③は妻がもうこれっきり動かない感じがするが、④の方は曖昧な分、含みを残している。
 「正解」は④を選ぶしかないとする。

問5 まず、消去法で、消せるものは消す。
 ④の「生家の人々が最終的に問いかけてくるのは」は本文にそういう記述はない。
 ⑤の「兄たちを愛しているかどうか自分でもわからず」が本文とはまったく逆である。
 この二つを消去法で消すことができる。
 次に、「愛は「無償の愛」でなければならない」という学校空間に隠されたルール(つまり道徳的)から外れるものを排除する(法則①)
 ②の「根本的に解決するためには」と、③の「頭を悩ませている数々の問題も一気に解決するはず」という部分が、「解決のための愛」という功利主義の臭いがする、という。
 そこで、この二つは排除できる。
 最後の残ったのは、①だけである。
 その内容を確認すると、特に本文と矛盾するところはないことがわかる。
 ただ、①は何を言いたいのか、わからないほどぼんやりした記述の選択肢である。 
 ここでも、例のルールを思い出そう。
 「正解は曖昧な記述の中に隠れている」(法則③)

問6 残念ながら特効薬はないという。消去法でやっていくしかない。
 ①は、「主人公夫婦の心の結びつきの強さが、二人の会話に主眼を置いたやや饒舌な文体で」がおかしい。
 『故郷』は「「私」が家族への愛情を確かめる物語」(この場合の家族は実家のこと)だから、「夫婦の心の結びつき」が中心的なテーマではない。「やや饒舌」ではあるけれど、「会話に主眼を置いた」「文体」でもない。
 ②は特に問題となるところはない。
 「自分を冷静に見つめる視点」とは、たとえば「安っぽい映画」と同じになってしまわないように、涙をこらえる場面のことを言っている。
 ③は、「秘められた微妙な確執」がヘン。
 兄弟の「確執」は秘められてはいない。みんなが知っていることである。
 ④は、後半がヘン。
 「大きく包み込むような愛情のあり方」は「主人公を中心とした人間群像の中から浮き彫りに」なったりはしていない。
 ⑤はとくに問題を感じない。
 ⑥は、本文に「虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ」(77~78行目)とある以上、「それでも甘えを捨てきれない主人公」がおかしい。
 だから、「正解」は②と⑤である。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、151頁~164頁)

【補足】
〇You Tubeの「個別クロス」の「【小説13】2002年 センター現代文小説」(2019年9月10日付)でも、この問題を解説している。
 本文を読む前に設問分析をすること、本文を区切りながら読むことなど、実践的なアドバイスをしている。
 くわえて、解き方としては、「アクション⇒心情⇒リアクション」といった図式で解説していて、わかりやすい。


過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』


・「第四章 物語を読むこと、あるいは先を急ぐ旅」の「過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』」より、信州大学(2001年度)の問題を解いてみよう。

〇作中の出来事は深刻だけれども、書き方が深刻でなくユーモアを十分味わえる物語。
 出題は信州大学(2001年度)、出典は志賀直哉『赤西蠣太』から。
 いわゆる伊達騒動に取材した時代小説と言うべき作品。
 国公立大学二次試験としては、素直な設問でやさしい方だという。
 

過去問⑦ 気づかない恋――志賀直哉『赤西蠣太』
 次の文章は志賀直哉「赤西蠣太(かきた)」の一節である。この文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
 なお、登場人物の蠣太は内情を探るために、不忠を計る敵側に偽って奉公している侍であり、鱒次郎も同様の使命を持っている仲間である。この場面では、蠣太は内情の偵察を切り上げて本来の主人の所に戻りたいのであるが、どうやったら疑われずに屋敷を離れることができるかと、二人で話し合っている。

 蠣太は黙って弁当を食っている。鱒次郎は肴(さかな)をつまんだり酒を飲んだり、A時々広々とした景色を眺めたりしながら、やはり考えていた。
「どうだい。」鱒次郎は不意にひざをたたいて乗り気な調子で言いだした。「だれかに付け文をするのだ。いいかね。なんでもなるべく美しい、そして気位の高い女がいい、それにきみが艶書(えんしょ)を送るのだ。すると気の毒だがきみはひじ鉄砲を食わされる。みんなの物笑いの種になる。面目玉を踏みつぶすからきみも屋敷にはいたたまらない。夜逃げをする。――それでいいじゃないか。きみの顔でやればそれにまちがいなく成功する。この考えはどうだい。だれか相手があるだろう、腰元あたりに。年のいったやつはだめだよ。年のいったやつには恥知らずの物好きなのがあるものだから、そういうやつにあったら失敗する。なんでも若いきれいごとの好きなやつでなければいけない。」
 蠣太は乱暴なことを言うやつだと思った。しかし腹もたたなかった。そして気のない調子で、
「泥棒するよりはましかもしれない。」と答えた。
「ましかもどころか、こんなうまい考えはほかにはないよ。そうしてだれか心当たりの女はないかね。日ごろそういうことには疎い男だが……。」
 蠣太は返事をしなかった。
「若い連中のよくうわさに出る女があるだろう。」
「小江(さざえ)という大変美しい腰元がある。」
「小江か、小江に目をつけたところはきみも案外疎いほうではないな。そうか。B小江ならますます成功疑いなくなった。」
 蠣太はこれまで小江に対し恋するような気持ちをもったことはなかった。しかしその美しさはよく知っていた。そしてその美しさは清い美しさだということもよく知っていた。今その人に自分が艶書を送るということは、Cある他のまじめな動機をもってする一つの手段にしろ、あまりに不調和な、恐ろしいことのような気がした。
「小江ではなくだれかほかの腰元にしよう。」
「いかんいかん。そんな色気を出しちゃ、いかん。」こう言った鱒次郎にも今は冗談の調子はなくなっていた。D色気という意味はどういうことかよくわからなかったが、蠣太はどうしても小江にそういう手紙を出すことはいかにも不調和なことでかつ完(まった)き物にしみをつけるような気がして気が進まなかった。しかしもし鱒次郎のいう成功に、若い美しい人がどうしても必要だとすると小江以外に蠣太の頭にはそういう女が浮かんでこなかった。そこで彼は観念して小江を相手にすることを承知した。
「それなら艶書の下書きをしてくれ。」と蠣太が言った。
「それは自分で書かなくてはだめだ。おれが書けばおれの艶書ができてしまう。なにしろ相手が小江だから、おれが書くと気が入りすぎて、ころりとむこうをまいらすようなことになるかもしれないよ。」
 蠣太は苦笑した。そしてE鱒次郎が書くより、まだ自分の書くほうが小江を汚さずに済ませるだろうと思った。
 F風が出てきたので二人は舟を返した。仙台屋敷はちょうど帰り道だったから蠣太は鱒次郎のところへ寄った。G二人は久しぶりで将棋の勝負を争った。

問一 傍線部A「時々広々とした景色を眺めたりしながら」とか、傍線部F「風が出てきたので二人は舟を返した。」とあるようにこの場面は釣りに出た水上での場面である。なぜ、二人は釣りに出たのかその理由を説明しなさい。

問二 傍線部B「小江ならますます成功疑いなくなった。」とあるが、なぜ鱒次郎が「成功疑いなくなった。」と考えたのか説明しなさい。

問三 傍線部C「ある他のまじめな動機」とはなにを指しているのか説明しなさい。
問四 傍線部D「色気という意味はどういうことかよくわからなかった」とあるが、鱒次郎はどういう意味で「色気」といっているのか、説明しなさい。
問五 傍線部E「鱒次郎が書くより、まだ自分の書くほうが小江を汚さずに済ませるだろ
うと思った。」とあるが、なぜ蠣太がこう思ったのか説明しなさい。
問六 傍線部G「二人は久しぶりで将棋の勝負を争った」とあるが、この一文によって二人のどういう心理が表現されることになるのか説明しなさい。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、213頁~217頁)



<解答と解説>
・『赤西蠣太』は恋が始まったその時を実に上手く捉えている。
 しかも、主な登場人物の名前を魚介類の名で統一するなど、適度ないたずらも仕掛けてあって、あの忘れられそうな小さな日常の出来事を丹念に書き込んだ私(わたくし)小説作家とは思えない、例の「小説の神様」(志賀の作品『小僧の神様』をもじったもの)と呼ばれた志賀直哉の面目躍如たる一作である。
 設問はこの場面のポイントを過不足なく掬い取っている。
(信州大学はいつもいい感じの小説問題を出す、と著者は評している。出題者の中に小説読みの名手がいるのだろう、と賞賛している。)

問一 簡単な問いである。
 「屋敷の者に聞かれる心配もなく、密談が出来るから。」
 ちなみに、夏目漱石の『坊っちゃん』でも、新米教師の<坊っちゃん>を味方に引き入れるために赤シャツ一派のやったことは、<坊っちゃん>を釣りに誘うことだった。


問二 ここで言う「成功」とは、蠣太が屋敷に仕える女性に「艶書」(ラブレターである)を送って、みごと振られることを言っている。
 「小江という大変美しい腰元」(16行目)と、「きみの顔でやれば」(6行目)と鱒次郎に言われてしまう蠣太とでは釣り合いがとれないこと甚だしいから、「成功疑いなくなった」のである。
 「大変美しい小江なら、ぶ男の蠣太を振ることは間違いないと思われたから。」

問三 ここは前説を最大限に利用する。
 「不忠を計る敵側の内情を偵察し終えたので、報告に戻るために、疑われずに敵の屋敷から夜逃げをする口実を作ること。」
 自分の口から出た名前とは言え、美しく清い小江を謀(はかりごと)の口実に利用することの後ろめたさが「恋」に変わっていくことに、蠣太自身はまだ気づいていない。
 「蠣太はこれまで小江に対し恋するような気持ちをもったことはなかった」(19行目)とあるので、かえって読者にはこれが恋のはじまりだということも、蠣太がそれに気づいていないことも、はっきりとわかる。
 
問四 何かをやろうとしている人に、「そんなに色気を出しちゃあ、うまくいかないよ」とでも言えば、「期待以上にみごとにやろうとすると、失敗するよ」という意味になる。ここも同様。
 鱒次郎は蠣太がほんとうに腰元をモノにしようとしていると思ったのだ。
 「振られることが目的なのに、蠣太が振られそうもない女性を選んでしまうこと。」

問五 ここは「恋をしたから」と答えてしまってはまずい。
 「小江に艶書を送るのは謀のためにすぎないが、あの美しく清い小江に他人の書いた艶書を送るのは、同じ小江の心を踏みにじるにしても、あまりにも誠実さに欠けると思ったから。」
 いかにも道徳的に結構な答案であるという(法則①)

問六 「どういう心理が表現されることになるのか」という冷めた聞き方が、いい、と著者は評している。
 ふつうなら「どういう心理が表現されているか」と聞いてしまうところ。
(小説の表現に対するこうした意識の高さが、質の高い問題を生むのだろうという)
 ポイントは、傍線部の「久しぶりで」という一語である。
 敵方の屋敷に住み込んで心の安まらない日々を過ごしていただろう二人が、「久ぶりで」ゆとりのある時間を過ごしたのである。
 でも「心にゆとりが生まれたから」だけではほとんど点が出ないだろうという。
 「無事に夜逃げが出来そうな方法を思いついたので、後は実行あるのみという心のゆとり。」
<ポイント>
※こういう「気持ち」を問う設問には、傍線部の前後(本文全体を押さえる必要がある場合もあるが)の状況をまとめた情報処理で字数を稼ぐという、法則④を思い出すこと。
 (これは、是非覚えておいてほしいという)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、217頁~220頁)

過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』


・第五章 小説的物語を読むこと、あるいは恋は時間を忘れさせる
     過去問⑨ 恋は遠い日の花火ではない――野上弥生子『茶料理』
〇広島大学(2001年度)の問題
 出典は野上弥生子『茶料理』による。
 こういう抑制の利いた会話は、年の若い君たちにはちょっとまどろっこしく感じられるかもしれない。
 でも、国公立大学二次試験ではこういう古風な文章からの出題が主流なのだから、こういう「恋」を知っておくのもいいことだ、と著者はいう。

 次の文章は、野上弥生子の「茶料理」の一部である。中心人物である建築家の依田と、学生時代に下宿した家の娘であった久子とは、互いに淡い恋心を抱いていた。十年以上の後、二人は上野東照宮下の茶料理屋で再会した。久子は、自分の友人つね子と妻のある画家Hとの実らざる恋のことを話題にする。これを読んで、後の問いに答えよ。

 Hがフランスへ行ったのはその後間もなくであった。一、二年の間は、時々思わせぶりな葉書などを寄越した。つね子は一度も返事を書かなかった。彼の不幸な妻のことを考えた。思いきらなければならないのだと思った。その決心は、自分の心がどんなに強く彼に結びつけられているかをいよいよはっきり思い知らせただけだった。ある場合、つね子は①犯さぬ罪を惜しんだ。それがためには一生を日陰の身で終わったとしても満足であろう。Hが想像以上の女たらしであったのを知ったあとでさえ、思慕は減じなかった。つね子はすべての縁談を、嫌悪からでない場合も②潔癖から断った。その秘密な火が消えない以上、どんな仕合わせな結婚にも近づく権利はないのだと信じた。実際、一切の幸運と、取り返しのつかない若さが、そのあいだに彼女を見捨てた。今はただ音信さえ絶えたHの帰りを待つこと、もう一度――死の瞬間でもいいから彼に逢おうと思うことの外には、地上の望みはなかった。巴里(パリ)からのHの訃音(ふいん)は、彼女の生きる目標を突然奪ったものであった。
 その死が新聞で公にされた明けの日、つね子は久子をたずねて来て、はじめて打ち明け話をした。考えてみると、Hと知り合いになった当座の一と月は、楽しいよりは苦しさと恐ろしさが先に立った。ほんとうの夢見ごこちで、なにもかも忘れ尽くした恍惚状態になれたのは、二人で郊外の停車場におちあい、まわりの田舎道を散歩した間の一時間半であった。その一時間半のために彼女の心は十三年間彼にしばりつけられ、悩みとおして来たのだといって泣いた。――
「もし望みどおりHさんに逢えたら、おつうさんにはたった一と言ぜひいいたいことがあったのですって。」
「どういうことです。」
「あなたにはほんの気まぐれに過ぎなかったことが、わたしの一生を支配しました。」
 以上の言葉をわざと無技巧に、女生徒の暗誦みたいにつづけた久子を、③依田は愕然とした、しかしすぐ落ちつきを取りかえした、厳粛な表情で見詰め、自制の調子で、口を開いた。
「久子さん、ついでにあなたの一言を聞かせて頂きましょうか。」
④「――」
「あなたはつね子さんじゃありません。決して、そんな不仕合わせな人といっしょにして考うべきではない。あなたは立派なご主人があり、世の中の誰よりも幸福に暮らしていらっしゃるのだと信じたい。実際、僕はそう信じています。しかし、昔の――あの当時の僕の意気地なさは、あなたにどんなに責められても、侮辱されてもいいはずです。だから――」
「侮辱されるならわたしの方ですわ。」
 久子はあわただしく遮りながら、「あれから二年とたたないうちに、わたしは平気で、いいえ、
従弟との面倒がなくなるので、大悦びで今の夫と結婚したのですもの。」
「そんなことをいえば誰でも同罪ですよ。今朝の電話の声を聞くまで、あなたのことなぞ僕は思い出しもしないで暮らして来られた。」
「じゃ、わたしの方が、それでもいくらか情があったわけね。」
 短い、回顧的な沈黙をうけて久子はしずかに言葉をついだ。「どうかするとあなたのことを思い出しましたもの。いつだかわからない、この世でか、また先の世でか、それもわからないが、今日のようにお目にかかって、昔話をする日がきっとありそうに思えましたわ。その時いおうと思ったのは、もちろんつね子さんのいいたかったこととは別ですし、もっと短い、それこそ一と言で尽きることなの。――あの時は有り難うございました。」
⑤「――」
「それだけ、――だって。内輪のごたごたや、従弟とのいやな結婚問題で真っ暗になっていたあの頃のわたしの気持ちでは、相手次第でどんな無茶もやり兼ねなかったのですもの。――逃げろといえば一しょに逃げたかも知れませんわ。死ぬといえば死んだかもしれませんわ。でも、あなただからこそ、その怖ろしい瀬戸も無事に通り抜けさして下すったのだと、しみじみ思ってますわ。」
「しかし、僕はあなたがそんなに苦しんでいたなんてことは夢にも知らなかったから、ただ幸福な、忌憚なくいえば、――」
 久子の眼にはじめて二滴の涙をみとめた依田は、わざと誇張した快活さでつけ加えた。
「どうも、恐ろしくわがままなお嬢さんだと思ってただけです。」
 効果はあった。久子の涙はその言葉ですぐかすかな微笑に変わった。
「ことにあなたにはね。どうせついでだから謝りましょうか。」
「それには少し遅すぎたようだ。」
「お気の毒さま。」
 二人ははじめて口に上ったじょうだんを、あまり年寄りすぎもしなければ、またあまり若すぎもしない、ちょうど彼らの年配に似合ったおちつきと平静さとでいいあい、そういう間柄の男女だけで笑える笑い方で笑った。親しみにまじる淡い寂しさと渋みにおいて、それはなんとなしに、かれらが今そこで味わっている料理の味に似ていた。
 一時間の後、依田は久子を見送るために広小路のガレジの前に立っていた。久子はもう車に乗っていた。エンジンの工合が悪いらしく急に出なかった。運転手は一旦握ったハンドルを離して飛びおり、しゃがんだ。⑥道順からすれば依田は途中までいっしょに乗って行けたのであるが、避けた。久子も誘わなかった。調子が直って車が動きだすと、久子は爆音の中から高く呼んだ。
「では、さようなら。」
「さようなら。」
 依田も応じた。お互いのさようならが、⑦ほんとうは何にむかって叫びかけられているかは、お互いが知っていた。彼は広小路の光の散乱の中を、淡く下りた靄を衝いて駆けて行く車を見送りながら、もくもくと、ひとり電車路の方へ歩いた。


問一 傍線部①に「犯さぬ罪を惜しんだ。」とある。これは、どういうことを言っているのか。わかりやすく答えよ。

問二 傍線部②に「潔癖から断った。」とある。この場合、つね子が「潔癖」であるとはどういうことか。簡潔に説明せよ。
問三 傍線部③に「依田は愕然とした、しかしすぐ落ちつきを取りかえした、厳粛な表情で見詰め、自制の調子で、口を開いた。」とある。このときの依田の気持ちを、この前後の登場人物の言動を踏まえて説明せよ。
問四 傍線部④の話者はどうして沈黙したのか。その理由を簡潔に述べよ。
問五 傍線部⑤に「『――』」とある。この話者はどうして沈黙したのか。その理由をわかりやすく述べよ。
問六 波線部のやりとりにうかがえる二人の心境をわかりやすく説明せよ。
問七 傍線部⑥に「道順からすれば依田は途中までいっしょに乗って行けたのであるが、避けた。久子も誘わなかった。」とある。二人が帰りの車をともにしなかった理由を簡潔に説明せよ。
問八 傍線部⑦に「ほんとうは何にむかって叫びかけられているかは、お互いが知っていた。」とある。二人の別れのあいさつは本当は何に向かって叫びかけられていたのか。簡潔に述べよ。
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、237頁~241頁)




<解答と解説>
問一 「犯さぬ罪を惜しんだ」とは、ずいぶん思い切って持って回った言い方だが、言いたいことはわかるであろう。
 要するに「妻のある画家Hと肉体関係を持たなかったことを、悔やんだということ。」

問二 「Hに操(みさお)を立てたということ。」ではぶっきらぼうすぎる。
  傍線部②の直後の「その秘密な火が消えない以上、どんな仕合わせな結婚にも近づく権利はないのだと信じた」(6~7行目)という文章を上手く言い換えればいい。
 「自分にHを思う気持ちがある以上、他の人との結婚は出来ないと強く思ったということ。」

問三 設問に「このときの依田の気持ちを、この前後の登場人物の言動を踏まえて説明せよ」とある。
 「気持ち」を聞く設問は前後の文脈の情報処理である(法則④)
 正直なことに、そのことを設問でちゃんと指示しているわけである。こういう当たり前のことをわざわざ書くということは、前後の文脈と関係なく答案を書く人が多いのだろう。
 「依田は、つね子の言葉に託して久子の思いを聞いてショックを受けたが、久子がいまでも同じ思いでいるのかどうかを確かめる覚悟を決めたのである。」

問四 「沈黙」の意味を答えよとは、酷なことである。
 けれど、ものすごくいいポイントを突いてきている。
 ここも、「この前後の登場人物の言動を踏まえて」考えるべきところである。
「つね子の言葉に託して自分の思いを伝えてはみたが、改めて問われると、いまの自分の思いを答えなくてはならなくなることに気づいて、困惑しているから。」
※この後の依田の言葉をよく読んでほしい。
 <いまのあなたは不幸ではないが、しかし、たしかに昔の僕は意気地がなかった>と、一見自分の責任を認めていながら、その実「いま」と「昔」とを巧妙に分断して、すでに自分は責任を取る必要がなくなったと語っていることがわかるだろう。
 なぜか。二人にとって、「いま」の気持ちだけは決して口にしてはならないからである。
 答案は、そこを読み込んだものであるという。

問五 傍線部⑤の前後の久子の言葉をよく読んでほしい。
 <ずっとあの世でも会いたいと思っていたし、あの時は死ぬと言えばいっしょに死んだ>というレトリックになっていて、依田の「いま」と「昔」とを巧妙に分断する語りとは違って、「今も昔も」あたなを思っていると言っていることになる。
 ところが、その思いを「あの時は有り難うございました」と、過去のこととしてさらりと感謝の言葉を口にすることで、「いま」の思いなどまるで言わなかったことにしている。
 言ったのに言わなかった――たぶん久子の方により切ない思いがある。だから、久子は依田よりもはるかに巧妙にこの場面を切り抜ける必要があった。
 ただし、当然のことながら、この設問には傍線部⑤より前にある久子の言葉だけを頼りに解答しなければならない。
 「久子の依田に対する思いを語った直前の言葉からして、もっと重大な告白か、逆にかつての意気地のなさをなじるような言葉を聞かされると思っていたのに、あっさりとした感謝の言葉を聞かされて、その意図が理解できなかったから。」

問六
 受験用の解答としては、
「若い頃の思いを冗談交じりに語れるようになったいまの自分たちの年齢を感じながら、心の奥では寂しさと渋みとを感じている。」
 著者の独自の解答としては、
「過去の思いがいまの思いに変化しそうな危険を感じ取った依田が、冗談めいた口調で久子の思い詰めた言葉を引き取ったので、久子も安心してその冗談に乗ることが出来たが、その裏では彼らなりの寂しさと渋みを味わわされてもいた。」
(解答の前半は、「久子の眼にはじめて二滴の涙をみとめた依田は、わざと誇張した快活さでつけ加えた」(46行目)という一文を重く見た読みであるという)

問七 模範解答としては、
 「いまの二人はもう淡い恋心を抱いていたかつての二人ではなく、互いに異なった人生を歩んでいるという自覚があったから。」
 著者の解答としては、
「せっかく冗談に紛らわした過去の思いが、いまの思いに変化しては困るから。」

問八 模範解答としては、
 「かつてのお互いの思いに。」
 著者の解答としては
 「いま言葉にならない言葉で確認し合ったお互いの思いに。」
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、244頁~248頁)


過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』


・第七章 小説を読むこと、あるいは時間を止める病
     過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』

横光利一『春は馬車に乗って』 広島大学(1999年度)の問題。
 読者に対しても、受験生に対しても、ひどく残酷な問題、と著者は評している。
 よくこの文章から出題する気持ちになってきたものだと思う、とする。
 とにかく、本文が無茶苦茶に難しい。広島大学も、この頃までは受験生を信じていたのだろうか、と記している。

過去問⑭ いっしょに死んで下さい――横光利一『春は馬車に乗って』
 次の文章は、横光利一の小説『春は馬車に乗って』の一節で、肺結核の妻とそれを看病する夫との会話が中心となっている。当時、肺結核は不治の病であり、海辺や高原など空気の良いところに転地し、鳥の卵や内臓など滋養のあるものを食べて療養するほかなかった。これを読んで後の問いに答えよ。

 ダリアの茎が干枯びた縄のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹き付けて来て冬になった。
 彼は砂風の巻き上がる中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い俎(まないた)の上から一応庭の中を眺め廻してから訊(き)くのである。
「臓物はないか、臓物は」
 彼は運良く瑪瑙(めのう)のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉(まがたま)のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢ある肝臓はこれは家鴨(あひる)の生肝だ。これはまるで、嚙み切った一片の唇のようで、この小さい青い卵は、これは崑崘山(こんろんさん)の翡翠のようで」
 すると、彼の饒舌に扇動された彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋の中へ投げ込んで了うのが常であった。
 妻は檻のような寝台の格子の中から、微笑しながら絶えず湧き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛(たた)えている」
「それはあなたよ。あたなは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍らから離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、檻の中の理論である」
 彼は、a彼の額に煙り出す片影のような皺さえも、敏感に見逃さない妻の感覚を誤魔化すために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、かれの急所を突き通して旋廻することが度々あった。
「実際、俺はお前の傍らに坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ」
 彼はそう直接妻に向かって逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる廻っているだけだ。b俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画(えが)く円周の中で廻っているより仕方がない。これは憐れな状態である以外の、何物でもないではないか」
「あなたは、あなたは、遊びたいからよ」と妻は口惜しそうに云った。
「お前は遊びたかないのかね」
「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ」
「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ」
 そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はツとして、また逆に理論を極めて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。
「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ」
「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸(ちょっと)もよく思ってして下さるんじゃないんだわ」
 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果たして、自分は自分のためにのみ、この苦痛を嚙み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。し
かしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体誰故にこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似はしていたくないんだ。そこをしているというのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」
 こう云う夜になると、妻の熱は定(きま)って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭にするために、cこの懲りるべき理由の整理を、殆ど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。
「あなたは、私の傍らをどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来て下さらないんですもの。分かっていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの」
「お前という奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね」
「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう」と妻は云った。
「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ」
「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ」
「あたし、淋しいの」
「いずれ、誰だって淋しいにちがいない」
「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ」
「捜せばいいじゃないか」
「あたしは、あなた以外には捜せないんです。あたしは、じっと天井を見て寝てばかりいるんです」
「もう、そこらでやめてくれ。どちらも淋しいとしておこう。俺には締切りがある。今日書き上げないと、向こうがどんなに困るかしれないんだ」
「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締切りの方が大切なんですから」
「いや、締切りと云うことは、相手のいかなる事情をもしりぞけると云う張り札なんだ。俺はこの張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない」
「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたし、そう云う理智的な人は、大嫌い」
「お前は俺の家の者である以上、他から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ」
「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか」
「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ」
「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」
 すると、d彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷を持って、その日の臓物を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。
 しかし、eこの彼女の「檻の中の理論」は、その檻に繋がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来るのである。このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自分自身の肺の組織を日日加速度的に破壊していった。
 彼女のかつての円く張った滑らかな足と手は、竹のように痩せて来た。胸は叩けば、軽い張り子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。



問一 傍線部aに、「彼の額に煙り出す片影のような皺」とある。これは、何をたとえているか。わかりやすく説明せよ。

問二 傍線部bに、「俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画く円周の中で廻っているより仕方がない」とある。これと、ほぼ同じ内容を表現している箇所を、文章中から十字以内で抜き出して書け。

問三 傍線部cに、「この懲りるべき理由」とある。なぜ、「懲りるべき」と言っているのか。四十字以内で説明せよ。

問四 傍線部dに、「彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした」とある。これは、彼のどのような気持ちを示しているか。わかりやすく説明せよ。

問五 傍線部eに、「この彼女の『檻の中の理論』は、その檻に繋がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来るのである」とある。
1 「彼女の『檻の中の理論』」とは、どのようなものか。六十字以内で説明せよ。
2 「彼の理論」とは、どのようなものか。四十字以内で説明せよ。
3 「絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪の隙間をさえも洩らさずに追っ駆けて来る」とは、どのような状況の比喩か。五十字以内で説明せよ。

(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、297頁~303頁)

<解答と解説>
問一 直前の妻の言葉に「いつでも私の傍らから離れたがろうとばかり考えていらしって」(18~19行目)とあるのを踏まえて答える。
 「妻の傍らから離れたいという思い。」
(ただし、離れたい理由については確定できないのだから、「遊びたくて」とか「仕事がしたくて」とかは書かない方がいいだろう。)

問二 「馬鹿な動物園の真似」(9字、44行目)
  実際、動物園の動物は傍線部bみたいに、飽きもせずに同じところをぐるぐる回っている。

問三 夫が<自分はお前のために仕事をしなくてはならないので、お前のそばにはいられないのだ>という至極もっともな「理論」を述べると、それがわかっているだけに、妻の具合は悪くなる。そのことを答える。
 「妻を納得させるための理論が容態を悪化させ、一晩中看病しなければならなくなるから。」
(40字)

問四 「気持ち」を聞く設問には、傍線部dの直後の彼の行動を踏まえて、情報処理を忘れずに(法則④)。
 合格のための解答は、次のようになるという。
 「死を口にした妻をそれ以上追い込むことは出来ないので、冷静になるためにいったん妻のそばを離れ、気を取り直して看病を続けようとする気持ち。」

問五 妻と夫の言い分を一つ一つ解きほぐすように聞く設問。 
   全体を踏まえて、それぞれの言い分をまとめる。
1 「夫はお前のために仕事をしていると言うが、本当は自分には冷淡で、実は仕事も自分から離れるための口実にすぎないという理論。」(59字)
2 「自分は妻の療養費と二人の生活費のためだけに仕事をしているのだという理論。」(36字)
3 「妻が、夫が自分以外のものへほんの少しでも関心を移すと、冷淡だ言って激しく夫を責め立てる状況。」(47字)

<著者のコメント>
・著者なら、「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」(78行目)に傍線を引き、「このあと、妻が言いたかった言葉は何か」とだけ聞くという。
 そんな入試問題を一度は作ってみたいとする。
・これらの設問は、とりあえず、奇妙な表現を、わかりやすくて安全な散文に「翻訳」することを求めているだけであるという。 
(そこには、危険な愛情もメタファーの面白さもない。だから、それは小説を読むことからは、ずいぶん遠く離れた仕事だ、とコメントしている。)
(石原千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書、2002年[2005年版]、308頁~310頁)