歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その10≫

2020-07-29 17:16:50 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その10≫
(2020年7月29日投稿)



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』


【はじめに】


 今回のブログでは、フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826~1898)を取り上げてみる。
 まず最初に、観光地としてのギュスターヴ・モロー美術館について、『地球の歩き方 パリ』(ダイヤモンド社、1996年)をもとに紹介しておく。
 続いて、モローの代表作品である『出現』について、見比べてみる。
〇モロー『出現』(1876年、ギュスターヴ・モロー美術館、油彩)
〇モロー『出現』(1876年、ルーヴル美術館、水彩)
その際に、星野知子さんの『パリと七つの美術館』(集英社新書、2002年)の紀行文を参照した。
 モローの『出現』をはじめとするサロメ作品と、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の関係などについて、考えてみた。山川鴻三氏の『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]は大いに参考となった。
 合わせて、オスカー・ワイルドの戯曲のサロメの踊りの場面をフランス語で読んでみることにする。
 


さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・観光地としてのギュスターヴ・モロー美術館
・モローとギュスターヴ・モロー美術館
・2枚のモローの『出現』
・ワイルドの『サロメ』
・ワイルドの『サロメ』に影響を与えた文人たち
・サロメの踊りをフランス語で読む
・ビアズリーの挿絵――孔雀・薔薇・蝶
・『サロメ』のラストシーンとビアズリーの挿絵
・【補足】モローの『出現』と切られた首







【読後の感想とコメント】


観光地としてのギュスターヴ・モロー美術館


ちなみに、地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』(ダイヤモンド社、1996年)において、ギュスターヴ・モロー美術館 Musée Gustave Moreauがどのように述べられているか、参考までに紹介しておこう。

ギュスターヴ・モロー美術館は、ピガールからそう遠くない、ラ・ロッシュフーコー街 rue de la Rochefoucaultに佇む美術館である。
ここは、もともとモロー自身が青年時代から晩年まで住んだ家で、没後、彼の遺言によって、膨大なコレクションとともに国家に寄贈された。モローは遺言状のなかで、この家にある「すべて」がそのまま保存されることを条件にしている。というわけで、美術館に入ると、モローが生きた時代の匂いに包まれるような気がする。

美術館の主要な部分をなしているのは、モローが晩年に建て増したアトリエの2階部分である。20×11mの広々とした部屋には、大画面の作品が展示されている。次の作品は見ものである。
〇『神秘の花 Fleur Mystique(1890)』
殉教者の血に染まる百合を玉座にした聖母を描いたもの

そして、大広間から螺旋階段を登って3階へ行く。
そこには、次の作品が掛かっている。
〇『ソドムの天使 Les anges de Sodome(1885)』
〇『ヘデロ王の前で踊るサロメ Salomé dansant devant Hérode(1876)』

3階には、広間と扉でつながった部屋が2つあるが、次のものは必見作品である。
〇『踊るサロメ Salomé dansant(1876)』
〇『一角獣 Les Licornes(1885)』~極めて装飾性の高い作品

モローは、神話や聖書の物語に題材を求め、独自の幻想的な空間を作りあげた。
モローは言っている。
「私は自分がさわるもの、見るものも、信じない。自分には見えないもの、自分が感じるものしか信じない」。
時代が写実主義から印象主義へと移り変わっていくなかで、モローの視点は地上にとどまらなかった。そして今も、私たちに天上の夢を見させてくれる。

<モローとその弟子>
モローは、1891年、官立美術学校の教授となり、多くの弟子を育てた。モローは優れた教師だったといわれる。
モローは、自ら画壇に背を向け、官展にも出展していなかったこともあり、学生たちに特定の規範を押しつけたりはしなかった。学生たちの個性を見極め、それを自由に伸ばしてやくことが務めだと思っていた。当時としては、革命的といってもいいほど新しい指導法である。
こうして、モローの教室からは、20世紀初頭、フォーヴィスムとして絵画の世界に一代革新をもたらした人たちが出る。マティス、マルケ、マンギャン、カモワンである。
ピカソとともに、20世紀の美術界を大きくリードしたマティスは、モローについて、こう語っている。
「モローの教えは、私たちを心の底から動かしたものです。彼と一緒にいると、自分の性質に最もよくあった作品を発見することができました」。
(地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年、200頁~201頁)

【『地球の歩き方 パリ』はこちらから】


地球の歩き方 Plat01 パリ (地球の歩き方Plat)

モローとギュスターヴ・モロー美術館


星野知子氏も、『パリと七つの美術館』(集英社新書、2002年)において、ギュスターヴ・モロー美術館について述べている。

ギュスターヴ・モロー美術館は、オペラ座の北にある。オペラ座からそう離れていない小さな館である。坂道に建つ一軒の家で、看板も立たず、入り口も全く普通の家のようで、ふっと通り過ぎてしまいそうになる。

象徴主義の画家モローが、1852年から亡くなるまでの46年間暮らした家だったそうだ。この家が美術館になったのは、1903年のことで、モローの死後5年経ってからである。モローは、生前から自分のすべての作品のための美術館をつくることを計画し、準備していた。亡くなる3年前には、美術館に向けて、この家を改装して、大作を展示する場所も指定していたという。

モローが自分の制作したものをすべて残そうと思ったのは、36歳のときだったようだ。まだ、無名でほとんど作品が世に出ていない時である。
モローは自分の描いたものはできるだけ手元にとどめておいた。素描も下絵も、それに未完成の作品もとっておいた。売り渡した作品は写真に撮って保管した。
このギュスターヴ・モロー美術館は、モローの思い入れがたっぷり入った特別の美術館である。
(星野知子『パリと七つの美術館』集英社新書、2002年、172頁~176頁)
【星野知子『パリと七つの美術館』はこちらから】

パリと七つの美術館 (集英社新書)

2枚のモローの『出現』


一度見たら絶対忘れない、という絵がある。モローの『出現』(1876年頃)もそのひとつであると星野知子さんは記す。
ギュスターヴ・モロー美術館とルーヴル美術館に1枚ずつある。前者は油彩、後者は水彩である。
〇モロー『出現』(1876年頃、ギュスターヴ・モロー美術館、油彩)
〇モロー『出現』(1876年頃、ルーヴル美術館、水彩)

モローの『出現』は、裸同然の少女が指さす先に、生首が宙に浮いている。なんともおぞましい絵である。少女の名はサロメ。生首は洗礼者聖ヨハネ。この絵の題材は新約聖書であり、次のような物語がある。

聖ヨハネは、ヘロデ王と王妃ヘロデアの結婚をとがめたため、牢獄に繋がれる。ヘロデアはヘロデ王の兄弟の妻だったからである。
ヘロデアはヨハネを殺そうとたくらむが、うまくいかない。
ヘロデ王の誕生日、宴会の席で、王はヘロデアの連れ子であるサロメに舞を見せてくれと頼む。王は「踊ってくれたら何でも望むものをあげよう」と言う。すると、踊り終えたサロメはヘロデアにそそのかされて、「ヨハネの首を。盆に乗せて」と言う。約束した王は仕方なくヨハネの首をはねることになる。

ヨハネ斬首の話は、昔から画家たちが描いてきた題材である。クラーナハ、ボッティチェリ、カラヴァッジョが描いている。
サロメも描かれているが、その多くはヨハネの生首を乗せた盆を平然と持つ美しいサロメである。グロテスクな首と美女の取り合わせは、画家の創作意欲を刺激したのかもしれない。

誰が描いても気味の悪い題材だが、モローはそれまでにない斬新な構図で、新しいサロメ像を生みだした。
モローの『出現』は、ヨハネの首が斬られたあとではなくて、サロメが踊っているときに一瞬サロメに見えた幻覚の首を描いている。まだサロメさえ知らないヨハネの首が出現し、サロメを驚かす。

同じ構図の『出現』でも、モロー美術館にある方は、油彩で未完成である。一方、ルーヴル美術館の方は、水彩の作品で、細かいところまで描かれている。こちらの水彩画は、1876年にサロンに出品された。評価は二分されたが、モローの名を高めた1枚である。
緻密に装飾されたイスラム風の宮殿で、サロメは宝石でできた衣装を身にまとっている。油彩ではほとんど見えない王と王妃は、画面の左端に座っている。画面右には処刑人がいる。そして中央奥に楽器を奏でる女性がいるが、油彩では消えている。

この2枚の印象はかなり違う。完成度の差もそうだが、サロメとヨハネの表情も違うと星野さんは指摘している。
水彩では、突然現れた生首にサロメは動揺しているが、油絵のサロメはヨハネの視線を跳ね返すように睨んでいる。
ヨハネの表情も微妙に異なっていて、油絵では見返すサロメにぎょっとしているようにも見えるという。
両方の絵を比べると、サロメとヨハネの間により緊張感が走っているのは油絵のほうだとみている。油絵は、ふたり以外の部分が描き込まれていないこともあり、両者の対決を際だたせている。
また、足に注目しても、違いがある。水彩は右足を前に出して、重心は左足で体は少し退いている。油絵は前に出した左足に重心をかけて、腰を張って対決の姿勢になっているとする。そして、右手には神聖のしるしの百合の花を掲げている。

このように見てくると、モローはふたりのサロメを描き、サロンには、ヨハネにおびえるサロメのほうを出品したことになる。この水彩の『出現』は確かによくできており、細かく彩色し、落ち着いた色調は品格が漂っている。それに、サロメは油彩の少女よりずっと女っぽくて憂いがあると評している。
ただ、ここで星野さんは推測している。モローは保守的なサロン向けに水彩を描いたのではないかと。油彩のほうは、聖人に超然と挑むサロメ、それもサロメが優位にさえ見えるので、サロンで顰蹙を買うことを配慮したと想像している。
もしそうだとすれば、手元に残してあった油彩がモローの描きたかったサロメであり、聖人ヨハネと対等に渡り合う少女こそ、モローの思い描くサロメだったのかもしれないという。面白い推測である。

モローの『出現』はサロンでも話題だったが、絵画界を飛び出し、国境を越えて影響を与えていく。
『出現』に感動した作家ユイスマンス(Huysmans, 1848~1907)が『さかしま』(À rebours, 1884年)の中で褒め称え、そこからオスカー・ワイルド(Oscar Wilde, 1854~1900)が戯曲『サロメ』(Salomé, 1893年)を書いた。世紀末に向かって、ファム・ファタル(宿命の女)が脚光を浴びるようになる。ファム・ファタルとは美しく謎めいた魅力で男を虜にし、男の身を滅ぼしてしまう魔性の女である。19世紀末に流行した女性像で、モローがその火付け役だったともいえる。
(星野知子『パリと七つの美術館』集英社新書、2002年、186頁~192頁)
【星野知子『パリと七つの美術館』はこちらから】
パリと七つの美術館 (集英社新書)

ワイルドの『サロメ』


ワイルドの『サロメ』は、1891年12月頃、パリにおいてフランス語で書かれ、1893年2月からパリとロンドンで発売された。
今日われわれの知っている英文のサロメは、ワイルドの友人アルフレッド・ダグラスが本人の許可を得て英訳し、世紀末画壇の鬼才オーブリー・ビアズリーが挿絵を描いて、1894年2月に出版されたものである。
(山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]、111頁)

ワイルドの『サロメ』に影響を与えた文人たち


ワイルドは、自分の創作において、一番大きな影響を受けた人として、キーツ、ペイター、フローベールの3人を挙げているそうだ。
これらの文人たちはワイルドのデカダンス的唯美主義の先達となった、3人の唯美主義者であった。

イギリスの唯美主義は、思想の生活より感覚の生活を欲した。感覚美の詩人キーツに端を発し、芸術のための芸術の説を唱えたペイターによって完成される。
一方、フランスにおいても、フローベールは、芸術においては美にそれ以外のものを混ぜてはいけない、芸術の目的は他の何よりも美である、と説いた。
ペイターの芸術のための芸術の説は、キーツ以来のイギリスの伝統に、このフランスからの影響を加えてでき上がったものとされる。

ところで、ワイルドが最も直接にこの唯美主義の洗礼を受けたのは、ワイルドのオックスフォード時代からの師ペイターの手によってであった。そして、ワイルドに『サロメ』を書く直接の動機を与えたのは、フローベールの『三つの物語』の「ヘロディアス」であったが、この本をワイルドに貸し与えたのも、実にペイターであったという。

山川氏は、ペイター、キーツ、フローベールの3人がワイルドの『サロメ』に、どのような影響を与えたのかについて述べている。
主人公サロメを中心に、とくに、クライマックスのヨナカーンの首に接吻するサロメを中心に、この問題について考えている。

美の欲求は死の意識によって強められると説くペイターの唯美主義は、死の観念と密接に結びつく。
このことは、ペイターの名著『ルネサンス』(1873年)における美術批評を例にとってみても明らかである。ペイターが『モナ・リザ』を評して、「吸血鬼のように、彼女は幾度も死んで、墓の秘密を知っていた」といった言葉は、有名である。
また、アンジェリコの『聖母戴冠』(1440~41年、フィレンツェ、サン・マルコ修道院)の聖母も、「半ば屍衣」のような白衣をまとい、浄化された姿で「死体のように」キリストの捧げる真珠の冠を受けとるため前に身をかがめている、と評される。
(聖母の姿に死体のイメージを読みとろうとするペイターの態度には、今日の言葉でいう死体愛好症の兆候が認められるようだ)
ペイターの小説には、主人公の死その他死を扱うものが多いという。

しかし、ワイルドのクライマックスのサロメに直接につながる、死顔に接吻する女のイメージは、キーツの詩『イザベラ』(1818年)にまでさかのぼると山川氏は主張している。
イザベラの悲恋は次のようなものである。
イザベラの豪商の娘イザベラは、自分の家の下僕ロレンツォと恋に陥る。しかし、やがてふたりの秘密は、彼女の兄弟に嗅ぎつけられる。兄弟はイザベラの良縁を望んで、ロレンツォを亡き者にする。すると、イザベラの枕頭にロレンツォの亡霊が現われ、自らが埋められた場所を教える。イザベラはその場所へ出かけて、恋人の死体を掘り出し、口づけするというストーリーである。

このキーツの詩の物語をワイルドの劇のそれと比較すると、ワイルドの場合は片思いのサロメが自分の意志でヨカナーンを殺させるのに対し、キーツの場合、イザベラと相思のロレンツォが他の人によってひそかに殺されるなど、異なる。しかし、ひとりの女が死んだ恋人の首に接吻するなどのパターンは、ワイルドの劇の最後のクライマックスの物語のパターンを、垣間見させてくれる。

もうひとり、フローベールはどうか。
フローベールには、『三つの物語』(1877年)の中のひとつ「ヘロディアス」という作品がある。この「ヘロディアス」は、その前年1876年のサロンに出品されたモローのふたつのサロメ、『ヘロデの前で踊るサロメ』(ハマー・コレクション)と『出現』(モロー美術館)から、直接触発されて書かれたものだとされる。

ここでは、フローベールは、モローのような幻想的なサロメではなく、もっと史実に忠実に、サロメよりヘロディアスを主人公として選んだ。すなわち、聖書にあるとおり、傲慢なヘロディアスを主人公とし、サロメを単にヘロディアスの手先として、母親の言いなりに名前もよくに憶えていないヨハネの首を要求する者として描いている。
ヘロディアスを作品の主人公とすることは、ハイネ、マラルメと続いた文学的伝統を受け継いでいる。ただ、先輩の詩人たちは、ヘロディアスをサロメと同義語として使っていたが、フローベールはもっと明白にヘロディアスとサロメを同一視し、ヘロディアス=サロメの関係を成立させていると山川氏は指摘している。

また、この短篇には、ヘロディアスとサロメ、それにヘロド・アンティパ(ヘロデ)やその他にも多数の人物が登場するが、それらの人物の中で、とくに力強く描かれているのは、洗礼者ヨハネだという。ヨハネは、ヘブライ語のヨカナーンのフランス語形ヨカナンの名で呼ばれている。
その洗礼者ヨハネは、ヘロデが兄弟の妻を娶ったことを声高く非難する。そして、ヘロディアスに向かって形相すさまじく、怒号する。例えば、「バビロンの女(をなご)よ、くだりて塵のなかにすわれ!(中略)神は汝の罪の臭穢(あしきにほひ)を憎みたまえ!」と。
ヨハネがヨカナンと呼ばれ、彼が閉じ込められた用水溜から怒号するという趣向ばかりでなく、彼が神の子の到来を告げる言葉や、ヘロディアスをバビロンの女とののしり彼女を石で打てという言葉に至るまで、ワイルドの『サロメ』のヨカナーン(このほうがヘブライ語に近いという)に受け継がれることになるそうだ。

フローベールの物語は3章から成り、3章はそれぞれ、1日の午前、午後、夜の出来事を叙述している。一方、ワイルドの『サロメ』は、フローベールの第3章にあたる夜の饗宴の場の中に、フローベールの1日にわたる物語の多くの場面や人物像を集約している。

フローベールの「ヘロディアス」は、聖書やヨセフスの『ユダヤ古代史』にのっとって書かれた、リアリスティックな物語であるが、その中で、史実から離れてひときわ鮮やかな、はなれ業を見せるのは、サロメの踊りを描写する場面であるといわれる。一方、ワイルドの『サロメ』は、フローベールの史実に即した物語をもっと空想的で猟奇的な一篇の悲劇に変貌させた作品であると山川氏は理解している。
(山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]、90頁~94頁、117頁~119頁)

【山川鴻三『サロメ』新潮選書はこちらから】

サロメ―永遠の妖女 (新潮選書)

サロメの踊りをフランス語で読む


それでは、Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, 2018により、ワイルドの『サロメ』の踊りの場面をフランス語で読んでみよう。

Salomé danse la danse des sept voiles.

HERODE Ah! c’est magnifique,
c’est magnifique! Vous voyez
qu’elle a dansé pour moi, votre
fille. Approchez, Salomé!
Approchez, afin que je puisse
vous donner votre salaire. Ah! je
paie bien les danseuses, moi. Toi,
je te paierai bien. Je te donnerai
tout ce que tu voudras. Que veux-
tu, dis?

SALOME s’agenouillant. Je veux
qu’on m’apporte présentement
dans un bassin d’argent...

HERODE riant. Dans un bassin
d’argent ? mais oui, dans un bassin
d’argent, certainement. Elle est
charmante, n’est-ce pas ? Qu’est-ce
que vous voulez qu’on vous
apporte dans un bassin d’argent,
ma chère et bell Salomé, vous
qui êtes la plus belle de toutes les
filles de Judée ? Qu’est-ce que
vous voulez qu’on vous apporte
dans un bassin d’argent ? Dites-
moi. Quoi que cela puisse être on
vous le donnera. Mes trésors vous
appartiennent. Qu’est-ce que c’est,
Salomé.

SALOME se levant. La tête
d’Iokanaan.
(Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, (Independently published), 2018, pp.60-61.)

≪訳文≫
サロメ、七つのヴェイルの踊りを踊る。
エロド:あゝ! 見事だつた、見事だつたな! 見ろ、踊つてくれたぞ、お前の娘は。来い、サロメ! こゝへ、褒美をつかはす、あゝ! おれは舞姫にはいくらでも礼を出すのだ、おれといふ男はな。ことにお前には、じふぶん礼がしたい。なんなりとお前の望むものをつかはさう。なにがほしいな? 言へ。
サロメ:(跪いて)私のほしいものとは、なにとぞお命じくださいますやう、今すぐこゝへ、銀の大皿にのせて......
エロド:(笑つて)銀の大皿にのせて? いゝとも、銀の皿にな、わけもないこと。かはいゝことを言ふ、さうではないか? それはなんだな、銀の皿にのせてくれとお前が言ふのは、おゝ、おれの美しいサロメ、ユダヤのどの娘よりも美しいお前がほしいと言ふのは、一体なんなのだ? 銀の皿にのせて、なにをお前はほしいといふのだ? 言へ。なんでもいゝ、きつとそれを取らせる。おれの宝はことごとくお前のものだぞ。それは一体なんなのだ、サロメ?
サロメ:(立ちあがり)ヨカナーンの首を。
(オスカー・ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』岩波文庫、1959年[2009年版]、72頁~74頁)

【オスカー・ワイルド『サロメ』岩波文庫はこちらから】

サロメ (岩波文庫)

【語句】
Salomé danse <danser踊る(dance)の直説法現在
voile     [男性名詞]ベール、紗(veil)
c’est    <êtreである(be)の直説法現在
magnifique   [形容詞]みごとな、すばらしい(magnificent)
Vous voyez <voir見る(see)の直説法現在
qu’elle a dansé  <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(danser) 直説法複合過去
fille      [女性名詞]娘(daughter)
Approchez    <approcher近づく(approach)の命令法
afin que+接続法 ~するために(in order that)
je puisse vous donner <pouvoir+不定法 ~することができる(can)の接続法現在
 donner    与える(give)
salaire [男性名詞]俸給(salary)
je paie      <payer支払う(pay)の直説法現在
danseur(se)    [男性名詞、女性名詞]ダンサー、踊り子(dancer)
je te paierai     <payer支払う(pay)の直説法単純未来
Je te donnerai    <donner与える(give)の直説法単純未来
tout ce que tu voudras <vouloir望む(want)の直説法単純未来
Que veux-tu     <vouloir望む(want)の直説法現在
dis <dire言う(say)の命令法
s’agenouillant    <代名動詞s’agenouillerひざまずく(kneel down)の分詞法現在
Je veux       <vouloir望む(want)の直説法現在
qu’on m’apporte   <apporter持ってくる(bring)の直説法現在
présentement     (←présent)[副詞](古風)現在、目下のところ、今[仏=actuellement, maintenant](英at present, presently)
un bassin   [男性名詞]池(pond)、大皿、鉢、たらい(basin)
argent        [男性名詞]銀(silver)
riant <rire笑う(laugh)の分詞法現在
certainement.     [副詞]きっと、もちろん(certainly)
Elle est <既出
charmant(e)     [形容詞]魅力的な、かわいい(charming)
n’est-ce pas ?    <êtreである(be)の付加疑問形
Qu’est-ce que    [代名詞](疑問代名詞、 queの強調形)何を(what)
vous voulez     <vouloir望む(want)の直説法現在
qu’on vous apporte  <apporter持ってくる(bring)の直説法現在
cher(ère)      [形容詞]いとしい(dear)
vous qui êtes la plus belle <êtreである(be)の直説法現在
Judée        [女性名詞]ユダヤ(パレスチナ南部の古代ローマ領)(Judea)
Qu’est-ce que vous voulez  <既出
qu’on vous apporte     <既出
Dites-moi      <dire言う(say)の命令法
Quoi       [代名詞](関係代名詞)→quoi que+接続法 たとえ~であれ(whatever)  
que cela puisse être <pouvoirできる(can)の接続法現在
on vous le donnera <donner与える(give)の直説法単純未来
trésor       [男性名詞]宝物(treasure)
vous appartiennent<appartenir(àに)属する、所有物である(belong, pertain)の直説法現在
se levant     <代名動詞se lever立ち上がる(rise, stand up)の分詞法現在
La tête      [女性名詞]頭、首(head)

【参考】 該当部分の英語


[Salomé dances the dance of the seven veils.]

HERODE Ah! wonderful!
wonderful! You see that she has
danced for me, your daughter.
Come near, Salome, come near,
that I may give thee thy fee. Ah! I
pay a royal price to those who
dance for my pleasure. I will pay
thee royally. I will give thee
whatsoever thy soul desireth.
What wouldst thou have? Speak.

SALOMÉ [Kneeling]. I would
that they presently bring me in a
silver charger…

HERODE [Laughing]. In a silver
charger? Surely yes, in a silver
charger. She is charming, is she
not? What is it thou wouldst have
in a silver charger, O sweet and
fair Salomé, thou art fairer than all
the daughters of Judaea? What
wouldst thou have them bring
thee in a silver charger? Tell me.
Whatsoever it may be, thou shalt
receive it. My treasures belong to
thee. What is it that thou wouldst
have, Salomé?

SALOME [Rising]. The head of
Jokanaan.
(Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, (Independently published), 2018, pp.60-61.)

【Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Bookはこちらから】

Salome: A Dual-Language Book (English - French)

ビアズリーの挿絵――孔雀・薔薇・蝶


ビアズリーは、世紀末の新しい芸術(アール・ヌーヴォー)の創始者のひとりである。
ビアズリーの『サロメ』の挿絵(1894年)は、ホイッスラーの「孔雀の間」の、豪華な孔雀のイメージに基礎を置いていると山川鴻三氏はみている。
ビアズリーが表紙(1894年版では未使用)のために孔雀の羽の模様の雄勁なスケッチを描いたことは、彼の挿絵のライトモチーフが孔雀のイメージであったことを物語っているという。

ビアズリーが描いたサロメは孔雀のイメージで描かれているが、その著しいものとして、「孔雀の裳裾」と「ヘロド(エロド)の眼」を山川氏は挙げている。
挿絵「孔雀の裳裾」では、孔雀の羽の模様を施した裳裾や、髪につけた孔雀の羽飾りが描かれている。この孔雀としてのサロメのイメージを補うのは、彼女の背後で尾を輪のように広げた孔雀である。
また、その形態の描く曲線は、流れる水を暗示しているといわれる。この流水や動植物の曲線を暗示する点で、この絵は、アール・ヌーヴォーを代表する名品のひとつである。

挿絵「ヘロドの眼」は恋いこがれるサロメに注がれるヘロデの眼を主題にした絵である。髪に孔雀の羽を飾ったサロメとその下に尾を広げた孔雀がいる点で、「孔雀の裳裾」と軌を一にしている。そして、さらに注目すべきは、画面左下の四つ目垣の薔薇の花と、左上の立木の前の蝶である。
この薔薇の花と蝶は、孔雀とともに、ビアズリーにとっては、美の象徴であった。この『サロメ』の挿絵においても、重要な役割を演じている。

ビアズリーの挿絵と、ワイルドのテキストを比べると、かなりの隔たりがあり、挿絵の独自性がみられると山川氏は指摘している。つまり、テキストの忠実な挿絵というより、それを口実にしてビアズリーが独自のやり方で描いたものといえるとする。
例えば、孔雀のイメージにしても、テキストには、ただヘロドがサロメに踊りの褒美として美しい白孔雀を与えようというくだりがあるだけである。
サロメを孔雀のイメージで描いたのは、ひとえにビアズリーの創意によるとみる。

こういうものの中には、浮世絵風な装いの女を描いた「黒いケープ」や「椅子のサロメ」(1894年版では未使用)、あるいはアスコット帽をかぶりモダンな服装をして、最新式の化粧棚の前で化粧をするサロメを描いた「サロメの化粧」など、テキストとは何の関係もない作例であるようだ。

その一方で、テキストと関係のある絵にしても、ビアズリーが独自に変貌させた例もあるという。例えば、ワイルドの7枚のヴェールの踊りを変貌させた「ストマック・ダンス(腹の踊り)」である。サロメが脱いだ2枚のヴェールを両腿で押さえ、左肩に最後のヴェールを掛けている点で、これは7枚のヴェールの踊りを暗示しているように見える。
しかし、山川氏によれば、これは、ラフォルグの「サロメ」に仰いだ、臍を出して踊るストマック・ダンスである。
ただ、ラフォルグと違うのは、演説するサロメでなく踊るサロメであり、竪琴を自分で弾くのではなく、リュートを楽人が弾くという点であるとする。
このビアズリーの挿絵はサロメを右上に、楽人を左下に置いた、大まかなバロック風対角線構図である。体をくの字にくねらせて踊るサロメは、はげしい動感を表わす。
一方、左下の楽人は、火災を戴くすさまじい形相をしており、日本の明王像を思わせる。この楽人は、孔雀の羽を後光のようにつけて踊るサロメの姿と、不思議な調和を示す。孔雀と明王の取り合わせも、日本にも「孔雀明王」なるものがあることを思うと、一見して思われるほど奇妙なものでもないと山川氏は付言している。
(山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]、124頁~127頁)

【山川鴻三『サロメ』新潮選書はこちらから】
サロメ―永遠の妖女 (新潮選書)


『サロメ』のラストシーンとビアズリーの挿絵


ラストシーンの「サロメの声」は、次のようにある。

サロメの声 あゝ! あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。お前の脣はにがい味がする。
(オスカー・ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』岩波文庫、1959年[2009年版]、88頁)

【オスカー・ワイルド『サロメ』岩波文庫はこちらから】
サロメ (岩波文庫)

仏訳と英訳には次のようにある。
LA VOIX DE SALOME
Ah! j’ai baisé ta bouche, Iokanaan, j’ai
baisé ta bouche. Il y avait une âcre
saveur sur tes lèvres.

THE VOICE OF SALOMÉ
Ah! I have kissed thy mouth,
Jokanaan, I have kissed thy
mouth. There was a bitter taste on
my lips.
(Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, (Independently published), 2018, p.75.)

「お前の口に口づけしたよ」と、ビアズリーの挿絵「クライマックス」にも記してある。
J’AI BAISÉ TA BOUCHE, IOKANAAN
J’AI BAISÉ TA BOUCHE.

ビアズリーの『サロメ』の挿絵で、退廃的な悪魔主義をもっとも典型的に示すのは、サロメがヨカナーンの口に口づけする場面を描いた「クライマックス(最高潮)」であると山川鴻三氏はいう。
その挿絵で、サロメは跪いてヨカナーンの首を見つめている。サロメの髪の毛は、下の澱んだ黒い水の中から尾を現わす蛇の曲線を模するように曲がりくねる。その眼で見つめられたヨカナーンの首は石に化しているようにも見える。サロメは蛇の髪をしたメデューサのようだ。
ビアズリーの三種の神器のように、孔雀・薔薇・蝶を描き込んだが、孔雀の羽模様はここにもある。湧き返る雷雲のごとく、不気味にこのモチーフが使われている。
また、黒い澱んだ水からは、薔薇の花のかわりに百合の花が咲き出ている。
殉教者の血から生え出る、純潔の花としての百合の花のイメージは、モローの『神秘の花』(1890年頃、モロー美術館蔵)にも見られるようだ。
ただ、モローの絵では、その百合の花は聖母の玉座として役立つ。それに比べて、澱んだ黒い沼が生え出た、このビアズリーの挿絵の百合の花は、退廃の華、デカダンスの華であると山川鴻三氏は捉えている。
(山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]、129頁~130頁)

【山川鴻三『サロメ』新潮選書はこちらから】
サロメ―永遠の妖女 (新潮選書)

【補足】モローの『出現』と切られた首


19世紀中ごろから、いわゆる世紀末の時代にかけて、切られた首を主要モチーフとした作品が意外と多いと高階秀爾氏はいう。
モローの『出現(L’Apparition)』(1876年 水彩 105×72㎝ ルーヴル美術館)は、その典型的な例である。
もちろん、サロメの物語は、中世以来、さまざまな形で表現されてきたし、その際、聖ヨハネの首が一緒に描かれることは珍しくない。しかし、血を滴らせた首が空中高く舞い上がるという発想は、おそらくモローの創意であるようだ。

モローはほかに、オルフェウスの首の絵も描いている。
詩人オルフェウスが殺されて、ばらばらにされて河に投げこまれたという古代の伝説に基づくものだが、この主題もモロー以前には見られないそうだ。だが世紀末には、ほかにも多くの画家が描いている。

それだけではない。マラルメの友人であったルニョーは、アルハンブラの宮殿で斬首刑に処せられた罪人の生々しい首を描いている。ルドンには、沼から生えている草に人間の首がぶら下がっている不気味な版画があるという。
文学の世界でも、そうである。山川鴻三氏も述べていたように、キーツの長編詩『イザベラ』は、死んだ恋人の首を切り取って、鉢のなかに隠す若い娘の話であった。
そして、スタンダールの『赤と黒』は、マチルドが恋人ジュリアンの首を盗み出して、自分の手で埋葬する場面で終わる。
(スタンダール(桑原武夫・生島遼一訳)『赤と黒(下)』岩波文庫、1958年[1997年版]、459頁参照のこと)

これらの点について、高階秀爾氏は次のように推察している。
19世紀に「切られた首」の主題がこれほどまでに頻繁に登場してくるのは、大革命以降、フランスをはじめヨーロッパ中にギロチンが広まったことと無関係ではないとする。幻想的な芸術も、現実の社会と意外と深く結びついているという。

さて、フランス象徴主義の画家モローは、作風と同じように、その生涯もまた神秘的な一つの謎として語られる。
写実主義や印象派の画家たちが、歴史画や物語絵を捨て、明るい野外に出て自然の光を画面にとらえようとしていた時代だった。ところがモローは、ひとり隠者のようにパリの私邸の画室に閉じこもり、ひたすら古代や中世の古典と伝説の世界から、まるで悪夢のような異様な画題を汲み上げていた。とりわけ、このサロメの連作の頃から、めったに人前に姿を見せなくなったようだ。作品の公開や複製も断るようになる。
生涯でモローが愛した唯一の女性は母親だった。モローが58歳の時に母親が亡くなるまで、身辺の一切を母親にまかせ、一生結婚しなかった。

(朝日新聞日曜版「世界名画の旅」取材班『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年、192頁~203頁)

【『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社はこちらから】

世界名画の旅〈1〉フランス編 1 (朝日文庫)



≪参考文献≫


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鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
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J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫、1987年
飯塚信雄『ロココの時代――官能の十八世紀』新潮選書、1986年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
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高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年
木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年
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高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]
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星野知子『パリと七つの美術館』集英社新書、2002年
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西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年
西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年
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小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年
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伊集院静『美の旅人 フランス編Ⅰ』小学館文庫、2010年
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オスカー・ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』岩波文庫、1959年[2009年版]
山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]
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スタンダール(桑原武夫・生島遼一訳)『赤と黒(下)』岩波文庫、1958年[1997年版]
ジャン=ピエール・ジュネ監督、オドレイ・トトゥ主演『アメリ』
(2001年に公開されたフランス映画、DVDは2001年発売)
Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]




≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その9≫

2020-07-28 17:29:53 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その9≫
(2020年7月28日投稿)
 

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 今回のブログでは、ゴッホの画風や人物像を探ってみたい。
まず、ゴッホの生涯と絵画について、高階秀爾『近代絵画史(上)』(中公新書、1975年[1998年版])により、概観する。
次に、オルセー美術館のゴッホ作品について、小島英煕『活字でみるオルセー美術館』(丸善ライブラリー、2001年)をもとに、みておきたい。
ゴッホのタッチおよびドラクロワとの影響関係については、西岡文彦『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)をもとに考えてみたい。
また、小林秀雄の著作『ゴッホの手紙』と『近代絵画』にも、ゴッホについて言及しているので、その内容および批判点を合わせて紹介しておきたい。
 最後に、オルセー美術館所蔵であるゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫について、フランス語の解説文を読んでみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ゴッホの生涯と苦悩と絵画
・オルセー美術館のゴッホ作品
・ゴッホの渦巻くタッチ
・小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
・ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ
・ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む







【読後の感想とコメント】


ゴッホの生涯と苦悩と絵画


ゴッホ(1853~1890)の生涯は、わずか37年の短いものであった。しかも、最初、画商や本屋の手代や伝道師を志したゴッホが、画家として生きたのは、修業時代までをふくめて、ようやく10年ほどの期間にすぎなかった。
もしゴッホが本当にゴッホになった時期、すなわち、他の誰も真似することのできない、あの強烈な色彩と独特な様式を確立したアルル時代から数えるなら、その活動期間は3年にも満たない。
しかしゴッホは、それほどまでに短い生涯の間に、彼自身憧れていた、あの南フランスの燃えさかる太陽のように、生命を燃焼させ、驚くべき数の作品を生み出した(そして静かに自ら生命を絶った)。
ゴッホが、かなり遅くなってから絵画に身を捧げるようになったのは、彼が自己を生かす道を求めて模索してきたからである。ゴッホは、セザンヌのように、絵画のために生きた人ではない。むしろゴッホにとって、生きるために絵画が必要だったとされる。

そもそもゴッホの激しい生命力は、自己のすべてを捧げて仕える対象を必要とした。ゴッホは、愛さずには生きていけない人間であった。しかし、彼のその愛はあまりにも強烈であるので、つねに手厳しく相手から拒否された。ゴッホが最初の情熱を燃やしたロンドンの下宿屋の娘アーシュラも、彼が自分の身体を痛めつけてまで心のうちを伝えようとした相手である従妹の“K”も、その「愛」を受け入れなかった。
ゴッホが伝道師を志してベルギーでも最も貧しいボリナージュの炭坑に赴き、坑夫たちと同じように厳しい生活をしながら熱心に道を説いた時でも、人々は、気味悪がって彼を避けた。
また、ゴッホは南フランスのアルルで、共通の理想に燃える芸術仲間が集まって共同で制作に励むというユートピアを夢みた。そして、パリの仲間に呼びかけた時、やって来たのはゴーギャンただひとりであった。そのゴーギャンとの共同生活も、わずか2か月ほどで、あの悲劇的な破局を迎える。
ゴッホの「愛」は激しく抑制のきかないものであったために、冷たく拒否された。ゴッホの悲劇は、報われぬ愛の悲劇だったと高階氏はいう。

さて、ゴッホはオランダのフロート・ツンデルトに、プロテスタントの牧師の息子として生まれた。曲折を経た後に、1879年ごろ、ようやく絵画を志す。
1886年の2月、ちょうど印象派の最後の展覧会が開かれる年にパリにやって来るまでは、いわばゴッホの修業時代であった。この時期、ゴッホはまだあの後年の強烈な色彩を見出していない。逆にねっとりとした暗い色調で、農民や機織工など、ミレーを思わせる働く人々の主題を好んで描き出した(事実、この時期に熱心にミレーの模写をしている)。

パリでは、まずコルモンのアトリエに学んだが、ピサロを通して印象派を知るにおよんで、急速に明るい色彩に目覚めていくようになる。一時は、新印象派の分割主義にも惹かれたが、ひとたび色彩の持つ感覚的な魅力に取り憑かれると、いっそう明るい太陽に憧れて、ちょうど2年後、1888年の2月にアルルに赴いた。もちろん、すでにパリに来る前から知っていた日本の浮世絵版画の影響も、この南仏行きに大きな役割を果たした。

1888年10月にゴーギャンがやって来て、クリスマスにあの不幸な衝突と耳切り事件が起こるまで、この年の夏が、ゴッホの短い生涯において、いちばん落ち着いた、安定した時期であったようだ。太陽の輝きに憧れたゴッホは、太陽の光の強烈な夏の時期に最も創作意欲をかきたてられ、憑かれたように作品を描き続けた。
しかし秋とともに悲劇は始まった。10月にゴーギャンがやって来た時には、ゴッホは大喜びで迎えたが、あまりに強いふたりの個性は衝突が避けられなかった。激しい口論の後、耳切り事件が起こり、ゴッホは病院へ、ゴーギャンはそのままパリに発ち、共同生活は破綻した。この時から、ゴッホの神経症の発作は激しいものになる。

1889年5月から、サン・レミの病院で神経を療養する身となる。アルル時代がゴッホの古典主義時代であったとすれば、サン・レミ滞在の時期は、いわばゴッホのバロック時代であったと高階氏は捉えている。
事実、激しく捩れながら燃え上がる糸杉、波打つような山脈、大地全体が震えている麦畑などが、その画面を特徴づけている。
(ただ、冬になると、ゴッホの情熱はまたもやそのエネルギーを失って深い絶望が襲った)

1890年5月、南フランスを去って、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズに落ち着く。しかし、今度は夏の間生き抜くだけの力ももはや持ってはいなかった。
それでもなお多くの忘れがたい作品を残した後、7月27日、烏の飛ぶ麦畑の見える裏の丘で、自ら拳銃を自分の身体に射ちこむ。ガシェ博士の手当を受けながら、2日後に世を去る。

ところで、ゴッホは南フランスから弟のテオに宛てて、次のように書き送っている。
「私は赤と緑とで、人間の恐ろしい情念を表現したい」
ゴッホは、その晩年の3年間において発見したものは、強烈な色彩の持つ表現力であった。ゴッホにとっては、そのカンヴァスの上で、輝く赤や緑や黄色は決して外の自然をそのまま写し出した色ではなく、むしろ、自身の心のなかの世界を反映したものであった。ゴッホが描き出す世界は、印象派の求めたような「自然の断片」ではなく、悲しみや恐れや喜びや絶望など、さまざまの情念の色に染め上げられた人間の心の深淵の世界であった。風景も、静物も、肖像も、ゴッホの眼を通して眺められると、ゴッホ自身の内面の世界の投影に変貌してしまう。そのような内面的な世界を他人に伝える手段として、あの強烈な色彩があった。ゴッホにおいては、色はそのまま魂の鼓動を伝えるものであったといわれる。

また、このようなゴッホの色彩は、20世紀の表現主義的傾向を予示するものとなった。1901年、ゴッホの回顧展が開かれた時、その会場を訪れたヴラマンクは、そこから深い啓示を受けた。ゴッホは、その色彩表現を通じて、20世紀絵画の流れの重要な源泉のひとつとなったと高階氏は理解している。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、168頁~176頁)

【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】

近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))

オルセー美術館のゴッホ作品


ゴッホは悲劇の画家である。
印象主義の歴史の最終局面にちらっと登場し、あっと言う間に印象派を越えて、燃え上がるような色彩の独自の画風を確立した。しかし、37歳の若さで命を絶った。
先述したように、画家としての活躍はたかだか10年である。その過酷な人生とすばらしい絵画は、日本では明治末年、白樺派の紹介によって知られ、純粋な芸術家として敬愛された。その強烈な絵と劇的な人生は、今もって人を魅了してやまない。

バブルの1987年3月、ロンドンのオークションでゴッホの「ひまわり」が2475万ポンド(約58億円)で落札され、戦後の美術市場の最高値を圧倒的に上回ったことは、存命中は1点しか売れなかった、この画家の悲劇性を強く印象づける大事件となったと小島英煕氏は捉えている。

さて、ゴッホのコレクションは、ゴッホの弟で画商のテオ(テオドルス)に残された遺産が主体になった母国オランダのゴッホ美術館やクレラー・ミュラー美術館が豊富である。
それに比べて、オルセー美術館の場合は数が限られる。というのは、画家の晩年に付き合いのあったガシェ博士の遺贈コレクションを中心に発展したものだからである。
それでも、代表作の「自画像」(1889年)、「ガシェ博士の肖像」(1890年)、「オーヴェールの教会」(1890年)を始め、多くの作品が所蔵されている。

小島氏は年代順に、オルセー美術館のゴッホの作品を挙げている。
<初期>
〇「オランダの農婦の頭像」(1884~85年)
〇「かまどの傍らの女」(1885年頃)
<パリ時代>
〇「アニエールのレストラン、シレーヌ」(1887年)
〇「銅壺のあみがさ百合」(1887年)
〇「自画像」(1887年)
〇「イタリア女」(1887年)
<アルル時代>
〇「ジプシーの家馬車」(1888年)
〇「ウージェーヌ・ボックの肖像」(1888年)
〇「アルルのダンスホール」(1888年)
〇「アルルの女」(1888年)
<ゴーギャンと共同生活をした時期>
〇「アルルの寝室」(1889年)~「黄色い家」の寝室を描いた絵
<精神病院に入院した時期>
〇「サン・レミの病院」(1889年)

<ミレーの模写>
〇「昼寝」(1889~90年)
<オーヴェール・シュル・オワーズに行ってからの作品>
〇「庭のマルグリート・ガシェ」(1890年)
〇「コルドヴィルの藁葺き屋根の家」(1890年)など

それらの作品を見ていくと、ゴッホの作風が10年という短い期間に、劇的な変遷をとげて来ているのが分かる。
それぞれの時代に傑作が生まれたが、それはゴッホの生き方そのものであった。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、120頁~123頁)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)

ゴッホの渦巻くタッチ


先述したように、小暮満寿雄氏はオルセー美術館所蔵の名作として、ゴッホの『オーヴェールの教会』(1890年)を紹介していた(小暮、2003年、237頁~240頁)。
ここでは、西岡文彦氏の『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)に拠りながら、ゴッホの作品とタッチについて解説しておきたい。

晩年の名作『オーヴェールの教会』は、ゴッホの最後の滞在地となったパリ郊外の村で描かれた。
特有のうねるような線と強烈な色彩が、異国風の独自の建築様式を錯覚させる。しかし、モデルとなった建物は、驚くほどに普通の教会であるそうだ。

晩年のゴッホの画風の代名詞となった渦巻くタッチは、反復する発作に、みずからすすんで入院したサン・レミの精神病院で確立したものである。
そうした事情も手伝って、この渦巻きを不安な内面の反映する見方が一般化し、作品は聖書や文学を引き合いに無数の解釈を生み出している。
しかし、こうした文学的な解釈はゴッホの物語を劇的にはしても、タッチの意味するものを実感として納得させてはくれないと西岡氏は批判している。つまり、直線も平気で曲げて渦巻くゴッホ晩年のタッチがどのような造形的な根拠をもつのかを教えてくれない。

そこで、この造形的な根拠を明かす資料として、西岡氏が注目するのが、ゴッホの素描である。謎の渦巻きの発生源を、これほど明瞭に物語ってくれる資料はないという。
素描の変貌を見ると、ゴッホの渦巻きはアルルの炎熱から生じていると西岡氏はみている。
ゴッホのペン画の線が、風にそよぐ木の葉や打ち寄せる波ではなく、本来、揺らぐはずのないものを描いて揺らぎ始めるのは、アルルの夏からである。
その最初の揺らぎが、8月なかばに描かれた積み藁に生じている。積み上げられた藁束は、かがり火のように激しくうねり、渦を巻いている。例えば、次のような作例がある。
〇ゴッホ『積み藁』1888年 ブダペスト、国立美術館
 アルルの炎天下に描かれた積み藁の素描である。藁を描くタッチが晩年の渦巻くタッチを予見するようなうねりを見せている
〇ゴッホ『木のある岩』1888年 ゴッホ美術館
 『積み藁』と同時期に描かれた素描である。タッチはまだ直線的ながら、遠景の木の枝のみがかすかに渦巻いている

炎暑で生じた陽炎が実際に積み藁を揺らいで見せたのか、あるいは炎天下のゴッホの幻視を反映した意匠なのか、これ以降、急激にゴッホの筆致は揺らぎ始める。
そしてこの渦巻くタッチが、ドラクロワ、モンティセリゆずりの強烈な色彩を得た時に、ゴッホ晩年の独自の画風が出現する。

ところで、ゴッホの手紙には、アルルの強烈な陽光を見慣れた目で、なお色彩が輝いて見える画家はドラクロワとモンティセリのみだと書いてあるそうだ。
光栄にもゴッホが、このドラクロワと対比させた日本の画家がいる。幕末の浮世絵師、「画狂人」こと葛飾北斎である。ゴッホの手紙に、この北斎以外に名前の登場する浮世絵師はいないという。
この北斎の描く波に驚嘆したテオに、ゴッホは、限られた色彩で驚くべき効果を上がるドラクロワの素描の、同じ効果を線で表現しているのが北斎だと書いている。
抑揚に富んだ北斎の線の表現力は驚異的であるといわれる。その表現力は、墨一色で刷った木版画で真価を発揮している。画面でその線は、ゴッホさながらにうねり、渦巻いている。例えば、北斎の次の作品である。
〇葛飾北斎『北斎漫画』1817年
 阿波鳴門の海に渦巻く波の描写が圧巻である。過剰とも思える描写で画面を埋め尽くすタッチの迫力は、他の浮世絵師には見られない特徴であると西岡氏は指摘している。
陽炎に揺らぐゴッホの素描に劣らず、北斎の線もまた濃厚な空気感に揺らぎ渦巻いていた。

うねり渦巻くタッチに加えて晩年のゴッホを特徴づけているのが、そのタッチの寸断である。早描きの線が、生乾きの下地を引きずって色を変わる前に中断されたために生じた寸断であると考えられている。
この寸断された色彩が渦を巻くのが、有名な『星月夜』と『糸杉のある麦畑』である。
〇ゴッホ『星月夜』1889年 ニューヨーク近代美術館
 渦巻くような夜空と燃え上がるような糸杉が描かれる。ゴッホの最も有名な作品のひとつである。
〇ゴッホ『糸杉のある麦畑』1889年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
 燃え上がるような糸杉とうねる雲にゴッホ晩年の特有のタッチが見える。

このように、燃え上がるような糸杉や渦巻くような夜空を描いて、ゴッホ様式がまったく独自の境地に到達している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、116頁~126頁)

【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】

二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える


小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』


ここでは、小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』を取り上げることによって、ゴッホの理解を深めてみたい。
文芸評論家の饗庭孝男氏は『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)の「第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』」において、小林秀雄の『ゴッホの手紙』について批評している(饗庭、1997年、228頁~258頁)。

そもそも、小林秀雄の『ゴッホの手紙』とは、どのような著作なのかをまず説明しておこう。
昭和22年3月、読売新聞社主催、文部省後援によって、「泰西名画展」が開かれた。小林秀雄はここでゴッホの複製画を見た。その感動が翌23年に書き始められ、雑誌『文体』に載せられる『ゴッホの手紙』となる(のちに、昭和26年から『芸術新潮』に14回の連載)。

小林は、次のように書いている。
「それは、麦畑から沢山の烏が飛び立つてゐる画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であつた。尤もそんな事は、後で調べた知識であつて、その時は、たゞ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、たうとうその前にしやがんみ込んで了つた。」

小林が見たという複製の絵は、『麦畑の上を舞う烏』(1890年7月9日以前、現在ラーレンのゴッホ・コレクション蔵)である。小林が見た複製画は宇野千代の尽力で、後に小林の手元に届けられることになる。『文体』は、この宇野千代らが出していた雑誌であったそうだ。
小林秀雄の『ゴッホの手紙』は、この画家の複製画の感動から出発し、その「精神」を弟テオ宛の書簡集(1872~1886年)によりながら浮彫りにしようと試みたものである。
(後年に小林がオランダのクレラ・ミュラーで見た例の麦畑の絵の原画に接した時に、「この色の生ま生ましさは、堪え難いものであった」と感想を記している)。

小林は、ゴッホの手紙を告白文学の傑作と考えて、それに基にして、ゴッホ像を浮き彫りにし、その作品を解説している。
小林は、ゴッホの手紙を引用しつつ、その絵について、丁寧に解説を加えている。例えば、有名な≪糸杉≫の絵について、取り上げている。まず、ゴッホの手紙を引用している。
「僕の考へは絲杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、絲杉で作り上げたいと思つてゐる。僕が現に見てゐる様には、未だ誰も絲杉を描いた者がないといふ事が、僕を呆れさせるからだ。線といひ均衡といひ、エヂプトのオベリスクの様に美しい。緑の品質は驚くほど際立つてゐる。太陽を浴びた風景中の黒の飛沫だが、その黒の調子は、僕に考へられる限り、正確に叩くには最も難かしい音(ノオト)だ」(No.596)

アルル時代の≪向日葵≫よりの明らかな前進であると小林は捉えている。
〇ゴッホ≪糸杉と果樹(糸杉のある麦畑)≫1889年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
線は素速く、柔軟に動き、微妙な旋律を追い、色調による音域は増大して、いよいよ複雑な和音を伝えるようであると、小林は分析している。
当時の手紙から推察すれば、ゴッホの夢想は、しばしばエジプト芸術の上を馳けている。オベリスクの驚くべき均衡を想ったゴッホは、エジプト人の太陽を想っている。ゴッホの千里眼のようなナチュラリストの眼は、ゴッホの言う「清浄な静かな、聡明な優しいエジプトの王様」を見たかもしれないと小林は想像をめぐらしている。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、172頁~174頁)

小林によれば、ルネサンスの画家による遠近法の発見は、あるがままの世界から見えるがままの世界へ、精神の確実性から視覚のイリュージョンへ飛び移る道を開いたという。
このいわば、美学上の懐疑主義は、印象派の出現に至って、観念から感覚への飛躍を完了した。世界は、色の反映と波動との限りない多様性となったとされる。

ところで、ゴッホは、アントワープに移る前、アムステルダムの国立美術館を訪れ、オランダの巨匠達の絵から感動を受ける。当時の手紙は、ドラクロアの色彩論による彼らの色調の分析でみたされていると小林は述べている。

手紙から推察すれば、ゴッホを動かしたのは、まずドラクロアの色彩論の印象派の先駆としての性質だったといわれている。
これは、ゴッホの天賦の視覚の鋭敏が直ちにこれを応じた事であり、ゴッホが苦しんだのは、色彩のもっと本質的な問題であったと小林はみている。色の明るい暗いなどに問題があるわけはないという。ゴッホは手紙に次のように記している。

「現代の明るい絵など近頃殆ど見てゐない――、だが問題そのものはとことんまで考へたのだ。コロー、ミレー、ドービニイ、イスラエル、デュプレ其他の人だつて明るい絵は描いてゐるのだよ。といふ事はかういふ事だ、人間はどんな隅々までも、どんな深さまでも、見透す事が出来るのだ、たとへ、色彩の段階がどんなに深からうと」(No.405)

「絵画に於ける色彩とは、人生に於ける熱狂の様なものだ。こいつの番をする事は、並大抵の事ではない」(No.443)

「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ。自然の色から出発するな」(No.429)

ドラクロアから、ある物に固有な色彩というものはない、ということをゴッホは学んだようだ。
ゴッホにとって色彩の問題は、外部から知覚に達する色彩ではなく、これに画家の精神が暗黙のうちに付与する内的な意味合いである。つまり色彩は誰にでも知覚されるが、色彩による表現は画家だけに属する。表現するとは自然に対抗して、ゴッホの言葉では、créer, agir(創り、行う)事である。そして、ゴッホは上記に引用したように、「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ」と言い切るまでに至ると、小林は解説している。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、72頁~75頁)
【小林秀雄『ゴッホの手紙』はこちらから】

ゴッホの手紙

ところで、小林秀雄はゴッホの手紙を引用しつつ、丹念にゴッホ像を描いているが、饗庭孝男氏はこのゴッホ像には、「民衆」の観念が、「階級」的視野とともに欠落していると批判している。この点について、説明してみよう。

ゴッホは、その生涯をつうじて、ほぼ同じ時代を呼吸した自然主義のゴンクール兄弟、ゾラ、モーパッサン(ゴッホより3歳下にすぎない)、少し前のレアリスムに属するバルザック等を読んでいた。
彼らの精緻な観察と分析は、ゴッホの手紙に多くの共感と賞讃のあとをのこしている。ゾラの『ジェルミナール』『居酒屋』、モーパッサンの『メゾン・テリエ』等が、ゴッホの前半における写生のレアリスムの時代をとおしてだけではなく、アルルの時代にも「自然」と労働者、農民の生活への同化と共鳴に大きな役割を果たした。

ゴッホが1881年、従姉妹ケーに求婚して拒否されるや、身重の娼婦クリスティンと同棲する動機は、自らが所属する中産階級のインテリから、すすんで自己を疎外するとともに、下の庶民階級への精神的同化を果たそうと試みた体験であったと言うことができると饗庭氏はいう。
そして、それは芸術家の「社会」における自己疎外と違和の問題と重なりながら、ミシュレの「民衆」の観念にたいする共鳴ともむすびつき、彼の生きた時代の思想の大衆化現象(自然主義)の一つのあらわれと饗庭氏は見ている。

このことは同時に、画家ミレーの倫理的な絵画ともひびき合っていたにちがいないとする。
ゴッホはそこに単に福音書的意味を見たのではなかった。そこには、レアリスムから自然主義へ移行する文学の営みとともに、貧しい印刷工から身をおこしたミシュレの「民衆」の観念にみられる労働をとおしたユマニスムにかようものがあったと解釈している。
ミレーの「働く人たち」の素描をくりかえし写すことはゴッホにとって、労働と「民衆」の観念を体現することでもあったとする。
さらに、ミシュレの書物、『愛』の裡に、愛する女のなかに自由な現代的な魂を創造すること、偏見から女を解放するという教えを読んで、ケーやクリスティンに向かった事実も、先のことと無縁ではないと推測している。
それがゴッホにとっていかに観念的であったにせよ、時代の思考と深く共振するものを感じていたことに注目する必要があると饗庭氏は主張している。
このことが同じくユゴーの『レ・ミゼラブル』にたいするゴッホの感動につながっているはずであるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、243頁~244頁)

【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代 (小沢コレクション)

ところで、小林秀雄は『近代絵画』(新潮社、1958年)において、ゴッホとセザンヌとの違いについて言及している。
ゴッホは、死ぬ前の手紙の中で、「自分は仕事に生命を賭した」と書いている。ゴッホの最期を看取った医者のガシェは、「芸術に対するゴッホの愛と言ふのは当らない。それは信仰、殉教まで行つた信仰だつたと言ふべきだ」と言っているが、そういう言葉なら、セザンヌにも、一応当てはまったかもしれないと小林はいう。

しかし、ゴッホが、セザンヌのような画家と大変異なっていたところは、絵の仕事は、遂にゴッホという人間を呑みつくす事はできなかったというところであると小林は述べている。
これは、普通の意味で、ゴッホが自分の絵に不満を持っていたとか、自分の持っていたものを表現しきれずに終わったとかいう事ではない。この画家のもっと深い生き方、彼に固有の運命的なものに関わるものであると断っている。
セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、絵のうちに吸収され、集中されていたようだ。また、セザンヌの書簡集は、その絵にくらべれば、全く言うに足りぬ表現で、その絵を照らすような意味合いは、ほとんど見当たらないとみている。そして、セザンヌが絵のモチーフという場合、それは、いわば、世界は一幅の絵となるためにあるという意味であった。
一方、ゴッホという熱狂的な生活者では、生存そのものの動機に強迫されて、画家が駆り出されるともいえるとする。ゴッホという人間を知る上で、その書簡集が大変重要なのは、単にそれがゴッホの絵の解説であるがためではない。書簡と絵とが、同じ人間のうちで、横切り合うからであると小林はみる。
(小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年、94頁~95頁)

このように、小林は、ゴッホの絵と書簡集に関して、卓見を述べている。しかし、この小林の著作『近代絵画』に対しても、饗庭氏の批判がある。
小林の『近代絵画』は、「ボードレール」「セザンヌ」「ゴッホ」「ゴーガン」「ルノアール」「ドガ」「ピカソ」の8章から成り立っている。「人間劇」という観点からすれば、「ゴッホ」「ゴーガン」には、その色彩がつよいとされる。
だが、巨視的に見れば、絵画をとおして「近代」がどうあらわれたか、という問題意識がもっとも目立つ。
詩から詩でないものを排除したとするボードレールの、自覚的な言語感覚とパラレルに、ドラクロワ論を土台にして、絵画における自立性を序章にすえたのも、その目配りによるものであるようだ。
しかし、具体的に言って、「近代」のはじまりにレンブラントの『夜警』を挙げる。この画家が、アムステルダムの射撃隊の二十人余りの組合員からの注文にもかかわらず、二人の士官を肖像画らしく仕上げたものの、あとは暗い背景におとしこんだとして、その理由を「美しい画面を構成したという画家の本能」におき、そこに画家の自立をのべた。この点は、小林が1947年以後、洗練された絵を見ているにもかかわらず、参考書を読んで書いたためにおこった間違いであるという。
むしろ、小林はドラクロワの「色彩」が「主題」にまさる絵を挙げることからはじめるべきであったろうと饗庭氏は批判している。
(饗庭、1997年、250頁)

ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ


ところで、このゴッホへのドラクロワの影響については、先述したように、小林秀雄氏も触れていた。この点、西岡文彦氏が詳しく解説しているので、紹介しておこう。

ゴッホには、「補色」という効果を応用した次のような絵がある。
〇ゴッホ『夜のカフェ』1888年 ニュー・ヘヴン、イエール大学美術館
 すさまじいばかりの絵の具の盛り上げが、赤と緑の補色の効果を劇的にしている
〇ゴッホ『パイプをくわえた自画像』1889年 
 赤い背景と緑の上着、橙の背景と青い帽子が補色の対比を見せている

補色は、色彩が最も強烈な対比を見せる組み合わせである。三原色の赤・青・黄に、それぞれ他の二原色を混ぜた緑・橙・紫が補色となる。つまり、赤の補色は緑(黄色+青)、青の補色はオレンジ(黄色+赤)、黄色の補色は紫(赤+青)である。
補色の効用は、互いの色彩を強化するとことにある。画家で最初に補色を理論化したのはドラクロワといわれている。ドラクロワは、ルーヴルから出て来た黄金の馬車の黄色い輝きが紫の残像を引くのを見て、この色彩の効果に気づいたという。
色彩が相互に輝きを与え合うゴッホの配色は、このドラクロワの補色理論を基本にしていると西岡氏は強調している。つまり、印象派の原点ともされるのが、この19世紀ロマン派絵画の旗手ドラクロワだという。いまや古典名画を代表する画面が、当時の目には度肝を抜く原色のぶるかり合いに見え、波打つような独特のタッチが人々を驚かせた。

奔放なタッチと荒れ狂う色彩は、当時の画壇の帝王アングルの写実描写と真っ向から対立した。両者の画風は、「色」対「線」の対決として画壇をにぎわせた。
二人を取り上げた戯画が残っている。彩色用の太筆をかざしたドラクロワが、線描用の細筆をかざしたアングルに、さながら騎士の槍試合を挑んでいる対決風景を描いたものである。アングルの細筆は、事物を背景から厳密に隔てる輪郭線を描く筆を表しており、ドラクロワの太筆は、事物と背景を同じ色彩の奔流として描く筆を表しているそうだ。

ドラクロワの革新的な画風は、「絵画の虐殺」とまでいわれた。
この「虐殺」に続いて、ヨーロッパ絵画の伝統にどどめを刺したのが、印象派である。
その光と色彩の大海は、ドラクロワの描く水滴から生じたとされている。これは、出世作『ダンテの小舟』(1822年、ルーヴル美術館)の地獄の亡者の体に、赤、黄、緑、白の独立した点が描かれた水滴のことである。画面から離れて眺めると、ひとつに融合して輝くようになっていた。この水滴に印象派の色彩に先駆するタッチが見えるとされる。
絵の具を混ぜて生じる濁りを避けて、見る者の視覚のなかで混色するこの手法は、印象派の手法の基本をなすものであった。
さざ波のような筆致で描くモネの睡蓮も、震えるような色彩のルノワールの少女像も、カラー印刷のアミ点のようなタッチのスーラの風景も、この水滴の延長上に生じた技法であると西岡氏は解説している。

ドラクロワはこの手法のヒントをどこから得たのか?
それは、2世紀前のバロックの巨匠ルーベンスが描いた女神の肌の水滴だそうだ。
〇ルーベンス『マリー・ド・メディシスのマルセイユ到着』1625年頃、ルーヴル美術館
ルネサンス風の写実描写としか見えないルーベンスながら、間近に見る巨大な画面は、無数の色彩の集積である。肌色のひとつを、緑と青と赤と黄色と白の細かいタッチで塗り込めて、驚くほど豊かな色彩としている。その肌色に照り映えた水滴が、ドラクロワの水滴となって、印象派の色彩を準備したと西岡氏は理解している。

ドラクロワの色彩理論に感動したゴッホが、アントワープへ向かった大きな目的のひとつに、このルーベンスを見ることであったといわれている。このドラクロワの色彩のルーツに触れた後、ゴッホはパリで、ドラクロワの復活としての印象派に出会う。
ハルスのタッチとルーベンスの色彩に触れたゴッホは、パリで浮世絵と印象派の洗礼を受け、モンティセリの豪放な画風に心酔する。
この後、「日本人がやり残したこと」を成就するために、「南仏の日本」アルルに向かい、独自の画風を切り開いたのである。
(この西岡氏の解説は、ルーヴル→オルセー、そしてルーベンス→ドラクロワ→ゴッホという流れがよりよく理解できる解説で、傾聴に値する)
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、108頁~115頁)

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二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える

ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む


最後に、ゴッホの≪オーヴェール=シュル=オワーズの教会≫(L’église d’Auvers-sur-Oise)という作品のフランス語の解説文を読んでみよう。
〇Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.に次のような解説文がある。

Vincent Van Gogh 1853-1890
L’église d’Auvers-sur-Oise, vue du chevet (1890)

Après son internement à
l’asile de Saint-Rémy-de-Provence,
Van Gogh revint dans la région
parisienne. Il s’installa à Auvers-
sur-Oise auprès du docteur Gachet,
spécialiste des maladies nerveuses,
mais aussi amateur d’art et ami des
impressionnistes. De Provence, Van
Gogh avait rapporté le souvenir de
la lumière méditerranéenne. Mais
alors que le soleil semble inonder
les abords de l’église et projeter
une ombre nette sur les chemins
du premier plan, le ciel, très foncé,
crée un effet de nocturne. « J’ai un
grand tableau de l’église du village,
un effet où le bâtiment paraît
violacé contre un ciel d’un bleu
profond et simple, de cobalt pur ;
les fenêtres à vitraux paraissent
comme des taches bleu outremer,
le toit est violet et en partie orangé.
Sur l’avant-plan, un peu de verdure
fleurie et du sable ensoleillé rose. »

(Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.)

【語句】
Auvers-sur-Oise オーヴェール=シュール=オアーズ(ママ):パリ北西郊、オアーズ川沿いの町。19世紀末、ドーヴィニー、コロー、セザンヌなど多くの画家が住む。ゴッホの墓がある。(『仏和大辞典』より)
※なお、Auvers-sur-Oiseの読み方、表記法には幾通りかある。このブログでは統一していない。
chevet    [男性名詞](教会堂の)後陣(apse)
son internement  [男性名詞]拘禁(internment)、(精神病院などへの)監禁、強制収容(restraint)
l’asile      [男性名詞]収容所(asylum)
(cf.) asile d’aliénés 精神病院(lunatic asylum, mental hospital)
Saint-Rémy-de-Provence サン=レミ=ド=プロヴァンス:マルセイユの北西方、アルル北東の町。ゴッホが一時収容された精神病院がある。
Van Gogh    [発音:ヴァンゴッグ]ファン・ゴッホ(1853~1890);オランダの画家
revint     <revenir再び来る、戻ってくる(come back)の直説法単純過去
la région    [女性名詞]地方、地域(region)
région parisienne パリ都市圏(パリ市とその周辺)(the Paris area)
Il s’installa <代名動詞s’installer (àに)居る(settle)、身を寄せる(settle in, set up house)の直説法単純過去
auprès de   ~のそばに(close to)、~付きの(to)
spécialiste  [男性名詞、女性名詞]専門家、専門医(specialist)
maladie   [女性名詞]病気(disease)
nerveux(se)  [形容詞]神経の(nervous) maladie nerveuse 神経病
amateur    [男性名詞](女性にも用いる)愛好家、ファン(lover)  
 amateur d’art 芸術愛好家(art lover)
impressionniste [男性名詞、女性名詞]印象派の画家(impressionist)[形容詞]印象派の
Provence   [女性名詞](南仏の)プロヴァンス[地方]
avait rapporté <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(rapporter)直説法大過去
 rapporter 持ち帰る(bring back)
le souvenir   [男性名詞]思い出、形見、みやげ(memory, souvenir)
la lumière [女性名詞]光(light)
méditerranéen(ne) [形容詞]地中海の(Mediterranean)
alors que +直説法 ~の時に(when)、~であるのに(while)
le soleil  [男性名詞]太陽(sun)、日光(sunlight)
semble  <sembler ~のように思われる、~らしい(seem)の直説法現在
inonder   氾濫する、あふれさせる(flood)
abord    [男性名詞]接近(access)、[複数]周辺、付近(surroundings)
projeter   企てる、投影する(project)
 projeter une ombre 影を映す(投ずる)(cast a shadow)
net(te)   [形容詞]はっきりした、鮮明な(clear, neat)
chemin  [男性名詞]道(path, way)
plan   [男性名詞]面(plane)、(絵画の)景(ground)
premier plan 前景(foreground)
le ciel   [男性名詞]空(sky)
foncé   (←foncerの過去分詞)[形容詞]濃い、暗い(dark, deep)
crée <créer創作する(create)の過去分詞
un effet   [男性名詞]結果、効果(effect)
nocturne  [男性名詞](美術)夜景画(nocturne, night scene)、[形容詞]夜の(nocturnal)
J’ai    <avoir持つ、持っている(have)の直説法現在
l’église   [女性名詞]教会(church)
un effet   [男性名詞]効果(effect)
le bâtiment   [男性名詞]建物(building)
paraît    <paraître+属詞 ~のように見える、~らしい(seem)の直説法現在
violacé   [形容詞]紫がかった(purplish)
profond   [形容詞]深い、濃い(deep)
cobalt    [男性名詞](化学)コバルト(cobalt)、コバルトブルー
pur     [男性名詞]純粋な(pure)
fenêtre   [女性名詞]窓(window)
vitrail(複~aux) [男性名詞]ステンドグラス[の窓](stained glass[window])
paraissent <paraître+属詞 既出 直説法現在
tache    [女性名詞]しみ(spot, stain)
outremer   [男性名詞]群青色、ウルトラマリン(=bleu ~)(ultramarine)
le toit [男性名詞]屋根(roof)
est     <êtreである(be)の直説法現在
violet    [形容詞]紫色の(purple, violet)
partie    [女性名詞]部分(part)
   →en partie部分的に(in part, partly)
orangé   [形容詞]オレンジ色の(orange-colo[u]red)
avant-plan avant [男性名詞]前部(forepart, front)、[形容詞]前の(front, fore) 
plan (絵画の)景(ground)
un peu de  少量の、若干の(a little of, a bit of)
verdure [女性名詞](草木の)緑(greenness, verdure)、緑の草木(greenery)
fleuri(e)   (←fleurirの過去分詞)[形容詞]花が咲いている(in bloom, in flower)
sable    [男性名詞]砂(sand)
ensoleillé (←ensoleillerの過去分詞)[形容詞]日が当たっている、晴れた(sunny, sunlit)←soleil(太陽)から

【Musée d’Orsay はこちらから】
【Musée d’Orsay guide】


Musee d'Orsay, guide

≪試訳≫
 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)
 ≪オーヴェール=シュル=オワーズ教会 後陣の眺め≫
サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院を出た後、ファン・ゴッホはパリ近郊に戻って来た。彼は、オーヴェル=シュル=オワーズに身を寄せ、ガシェ博士に付いた。ガシェ博士は、神経病の専門医であるだけでなく、芸術愛好家で印象派の画家の友人でもあった。プロヴァンス地方から、ファン・ゴッホは地中海の光という思い出を持ち帰った。しかし、日光は教会の周辺にあふれ、前景の道の上にはっきりした影を映しているように思われるのに、空は大変暗く、夜景画のようである。
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。

【コメント】


フランス語の解説文にもあるように、本作の前景は太陽に明るく照らされているが、教会は自身の影の中にたたずみ、光を反射することも放射することもない。
また、別れ道のモチーフは、≪カラスのいる麦畑≫(Champ de blé aux corbeau、1890年、ゴッホ美術館、アムステルダム)にも現れている。

ところで、上記のフランス語の解説部分での引用部分は、ゴッホの手紙に基づいているようだ。つまり、
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。」
これは、ゴッホが妹ウィルヘルミナに宛てた手紙(1890年6月5日)の中で、記してあることだそうだ。
上記の続きには、次のようにある。
「私がニューネンで、古い塔と墓地を描いた習作とほぼ同じ内容で、ただほんの少し色彩豊かで金がかかっているというだけである。」
この手紙にもあるように、ゴッホは、オランダのニューネンで同様の作品≪ニューネンの古い教会の塔≫(1855年、ゴッホ美術館)を描いていたとされる。
(Wikipediaの「オーヴェルの教会」の項目を参照のこと)

ところで、周知のように、オーヴェール=シュル=オワーズには、ゴッホの墓がある。
西岡文彦氏は、『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)の執筆に先立って、そのゴッホと弟テオの墓前に出かけたそうだ。
西岡氏は、その著作において、「結 墓碑銘――オーヴェールの鳥の巣」(146頁~155頁)と題して、次のようなゴッホのエピソードを紹介している。
ゴッホの自殺の1カ月半ほど前の6月10日、テオ夫婦は子供を連れて、オーヴェールのゴッホを訪ねている。
この時、ゴッホは、鳥の巣を手に駅まで迎えに来たという。鳥の巣は、自分の名前を持つ生後4カ月の甥のおもちゃに用意してきたものであった。
この鳥の巣にゴッホは格別の愛着を抱いていた。入院先から母親に宛てた手紙にも、この頃しきりに故郷を思い、木の上にあったカササギの巣をはっきりと思い出すと書いている。
この甥フィンセント・ウィレムは、のちにゴッホ美術館を建てることに尽力する。この美術館は、断固として売却に応じず自宅に作品を所蔵し続けた甥が、ゴッホを愛する人々のために建てた、世界最大規模の個人美術館である。フィンセントはこの美術館の実現のために、所蔵するゴッホの全作品を破格の安価で国に譲渡している。
このゴッホ美術館は、オーヴェールで贈られた鳥の巣の返礼に、フィンセント・ウィレムが亡き伯父に贈った魂の巣であるかもしれないと西岡氏は記している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、146頁~155頁。なお、テオ夫婦のオーヴェール訪問については、小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、210頁にも記載がある)

【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】
二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える


≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その8≫

2020-07-26 18:12:32 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その8≫
(2020年7月26日投稿)



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 今回のブログでは、オルセー美術館の印象派の画家マネ、ドガなどを取り上げて、パリの「近代性」について考えてみたい。
 マネは、ブルジョワの時代の「現代性」(後世から見れば「近代性」)を、まさにブルジョワ的に生きた画家であった。マネの作品『街の歌姫』『草上の昼食』『オランピア』『鉄道』のモデルとなったヴィクトリーヌ・ムーランについて、西岡文彦氏の『二時間の印象派』(河出書房新社、1996年)を参照にしつつ、解説してみた。
 また、高階秀爾氏が『近代絵画史(上)』(中公新書、1975年[1998年版])で指摘するように、ドガも、「近代性」がうかがわれる画家である。ドガという画家と作品の特徴を考えてみたい。
 最後に、オルセー美術館には、ヴィクトール・ナヴレ(1819~86)が、係留気球に乗ってパリの街を描いた『気球からみたパリ』(1855年 カンヴァス・油彩 390×708㎝ オルセー美術館)という大きな絵がある。パリが都市改造される前、1855年に描かれた作品である。
 こうした画家の描いた作品やモデルを通して、パリの「近代」に思いを馳せてみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・オルセー美術館にある、マネの『オランピア』とカバネルの『ヴィーナスの誕生』
・マネとモネの混同エピソード
・マネとモデルのヴィクトリーヌ・ムーラン
・ドガと印象派の画家
・ドガという画家の特徴
・ナヴレ『気球から見たパリ』







【読後の感想とコメント】


オルセー美術館にある、マネの『オランピア』とカバネルの『ヴィーナスの誕生』


〇マネ『オランピア(Olympia)』
1863年 油彩 130.5×190㎝ オルセー美術館
〇カバネル『ヴィーナスの誕生(La Naissance de Vénus)』
1863年 油彩 130×225㎝ オルセー美術館
オルセー美術館には、上記の2枚の絵画がある。
オランピアと名づけられた画中の女性の表情は、いかにも不思議である。裸なのに平然としていて、何の情緒も見せない。こちらをじっと見すえる冷めた目が、とりわけ強い印象を与える。

この『オランピア』は、スキャンダルを巻き起こした。
ヌード自体ではなく、その取り上げ方が問題だったとされる。実際、当時のサロン(官展)で最も多く扱われた題材はヌードであった。
例えば、カバネルの描いたヴィーナスは、マネの『オランピア』よりよほど官能的であるが、批評家たちからこぞって称賛を受けた。そしてナポレオン3世によって買い上げられた。
ルネサンス以来カバネルに至るまで、裸体画は神話や宗教から素材を取ってきた。ヴィーナス、イヴ、妖精などの姿で、いずれも理想化して描かれてきた。

ところが、マネは、現実的な風景としてヌードを取り上げ、しかも絵の裸婦が明らかに同時代の娼婦とわかる形で描いた。
サロンの入場者が絵の中に娼婦を見てとった理由は、いくつかあったようだ。
例えば、恥じらいを見せぬ裸婦の表情と姿勢がそうである。その他にも、黒人のメイドが客の贈り物らしい花束をささげているという部屋の雰囲気。そして、オランピアという名前自体も、当時の娼婦の間のはやりだったそうだ。

裸婦のポーズを取ったのは、マネのお気に入りのモデルで、ビクトリーヌ・ムーランという21歳のパリジェンヌである。
マネは、彼女の容姿を生き写しに描き、裸体画に一層の現実味を持たせた。また、ビクトリーヌ・ムーランは、同じくオルセー美術館にあるマネの『草上の昼食』のモデルも務めた。
〇マネ『草上の昼食』
1863年 油彩 208×264㎝ オルセー美術館
この絵は最初にスキャンダルを招いたマネの作品である。『オランピア』の2年前、サロンに出品されたが落選し、「落選者展」に展示された。
やはり古典に想を借りたものだったが、男たちの服装が当世風で、裸婦も現実的に描かれたのが物議をかもした原因だった。

ところで、『オランピア』は、イタリア・ルネサンスのティツィアーノの名作『ウルビーノのヴィーナス』から構図を借用して描かれたといわれる。
〇ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』
 1538年頃 油彩 119×165㎝ フィレンツェ ウフィッツィ美術館

この16世紀のヴィーナスは、当時、国立美術学校で教えていた美の古典であった。
裸婦の表情には、優しさ、恥じらい、女らしさといった美徳があふれていた。そして足元には、忠実の象徴ともいえる小犬がうずくまる。

一方、マネの『オランピア』では、その小犬もまた、背のびして目を光らせる黒猫に変わった。フランスでは、猫は性的なものの象徴ともみられている。
マネは伝統的絵画の約束事を無視しただけでなく、ほとんどパロディのような裸体画を描いた。それが、人々の憤慨を一層募らせたらしい。

ある研究者は、あの凝視するような、オランピアの目について言及している。
この絵を見る人は逆にオランピアに見すえられて、自分も絵の中に取り込まれてしまうような感じになるという。絵と絵を見る人々の関係は、ちょうどボードレールの『悪の華』とその読者の関係に似ているそうだ。
この絵の問題性は、絵を見る人が偽善性を暴いていることにあり、それは当時の社会のありようと無関係ではない。
1852年に始まる第二帝政は、ブルジョア階級が富と力をつけた時代でもあった。一見、厳しいモラルが支配していたように見える。

ボードレールはマネの擁護者だった。ボードレールの『悪の華』自体、『オランピア』より少し前の1857年、風紀公安を害するとして罰金と一部削除を命じられている。
医者の妻の不倫を扱ったフロベールの『ボヴァリー夫人』が摘発されたのも、同じ年であった。それらの事件の背景に、実は市民社会の大きな変動があった。

例えば、パリは大々的な都市改造が行われ、今日の町並みの骨格ができる。行政区画が倍以上に広がり、大パリ市が生まれる。巨大なオペラ座の建設が始まる。
そして『オランピア』がサロンに出品された1865年には、百貨店の「プランタン」が開店し、主要ターミナルの「北駅」が開業した。
富が新しい時代を切り開きつつあり、華やかな社会だったが、同時に退廃的な世界が共存していた。
『オランピア』は、時代の仮面を暴くものであったからこそ、人々の憤慨を招いたようだ。

『オランピア』は、マネが亡くなるまで、ずっとアトリエに置かれた。1890年、未亡人によってアメリカへ売られたそうになった時、友人の画家モネらが募金運動をして買い取り、国に寄贈する。そして1907年、マネの念願だったルーヴル美術館に入る(その後、オルセー美術館に移される)。

同じ1907年、キュビズムの記念碑的な裸体画、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』が生まれた。そこで描かれたのもまた娼婦たちであった。マネが先鞭をつけた絵画の革命は、さらに飛躍的な展開を遂げていく。
(朝日新聞日曜版「世界名画の旅」取材班『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年、142頁~153頁)

【『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社はこちらから】

世界名画の旅〈1〉フランス編 1 (朝日文庫)

マネとモネの混同エピソード


マネとモネは、日本人でもよく混同する。フランス人は、なおさら混同したようだ。確かに、フランス語名の綴りを見ると、むべなるかなである。というのは、マネの綴りは、Manet、モネの方はMonetであり、「a」と「o」のわずかな違いである。

マネとモネの混同を、フランス人もしたらしい。ちょうどマネが「オランピア」という作品をサロンに発表した時に、この混同が起き、マネを激怒させたというエピソードがある。
このことを、小島英煕氏が『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』(丸善ライブラリー、2001年、15頁~16頁)で述べている。

前述したように、1863年の落選者展では、マネの「草上の昼食」が大スキャンダルを起こした。そして、マネは「オランピア」を1865年のサロンに出品するが、「草上の昼食」を上回る酷評を受けた。
この時はモネの絵が好評で、マネと間違えた人が多く、マネは激怒した。二人は、その後、親しくなって、貧乏なモネは頻繁にマネに助けられた。アルジャントゥイユはモネの豊穣な舞台だが、そこに居られたのも、マネのおかげである。裕福な高級官僚の息子のマネには、ボードレールも大借金をしている。

ボードレールとマネが知り合うのは1858年のことで、詩人が37歳、画家は26歳と離れていたにもかかわらず、詩人の悲惨な死まで友情が続いた。マネは「チュイルリー公園の音楽会」(1862年、ロンドンのナショナル・ギャラリー)に、ボードレールを描き込んだ。
(この作品は、「現代社会の英雄性」を描くべきだとする友人ボードレールの主張から着想を得たといわれる。画面の左端に立っているのが、マネ自身である。前方に座っている2人の女性のうち、左側はルジョーヌ夫人であるが、その夫人の頭の後ろ側で右側を向いて立っているのが、ボードレールである。)

マネはカフェやコンサートに行くのが大好きで、いつも人々の中心にいる洗練された人だったようだ。
マネは、ブルジョワの時代の「現代性」(後世から見れば「近代性」)を、まさにブルジョワ的に生きた画家だった。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』丸善ライブラリー、2001年、15頁~16頁)
【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)

マネとモネの名前の区別がつきにくいことについては、西岡文彦氏も言及している。
マネとモネの名前は、日本語で書いてもフランス語で書いても、一字違いであるという点では同じである。
この両名の名前がまぎらわしいことは、モネがパリの画壇デビューを果たした時の新聞に、次のような戯評が載っていたことでもわかるようだ。
――モネ? マネ? いや、モネだ。しかし、マネのおかげでモネの名前が知られるのだ。モネ君おめでとう! マネ氏に感謝しよう!
この年、いまでこそ名画とされるが、当時はさんざんに酷評された『笛を吹く少年』(1866年、オルセー美術館)がサロンに落選したマネとすれば、この一字違いの新人画家モネの登場が面白いはずがない。『笛を吹く少年』は、ベラスケスにならった無地の背景が平板と評された。
当初はモネという名前でさえ、『草上の昼食』の大騒動で知れわたった自分の名前にあやかったペン・ネームではないかと疑ったという。
マネ本人がそう思うほどである。日本人に両者の区別がつきにくいのも無理はないと西岡氏もコメントしている。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、24頁~25頁、113頁)

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二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方

マネとモデルのヴィクトリーヌ・ムーラン


西岡文彦氏によれば、印象派のタッチはリゾート地で確立し、印象派展の相談はパリのカフェで練られたという。
近代都市に変身したパリのカフェで議論を交わし、パリジャンの繰り出すリゾート地で描かれて誕生したのが、印象派であったと捉えている。
そして、印象派の描いた女性は、ナポレオン3世のパリの女性であった。

マネの『オランピア』のモデルはパリの路上で声をかけた女性であった。
1862年、すなわち『草上の昼食』制作の前年の春、ノートルダム寺院のあるシテ島の裁判所近くで彼女を見かけたマネがその個性的な顔だちと、颯爽としたたたずまいに一目ぼれして、モデルになるよう頼み込んだ。
彼女ヴィクトリーヌ・ムーランは、この時18歳であった。
彼女は、モンマルトルの貧困家庭の出身で、貧困から抜け出して女優になることを夢見ていた。すでに他の画家のアトリエでモデルもしたことがあった。残念ながら女優への夢は果たせぬまま終わる。

じつは、マネの『草上の昼食』に描かれた女性モデルも、ヴィクトリーヌ・ムーランである。絵画史上、一、二を争うスキャンダラスな二つの作品のモデルは、このムーランによって演じられている。今日、ムーラン演じる『オランピア』の知名度は、この作品の原型となったゴヤの「マハ」に並ぶものとなっている。
(描かれた女性像としては、『モナ・リザ』につぐポピュラリティと西岡氏は記す)

『草上の昼食』と『オランピア』の画中から、見る者を見返す視線のしたたかさに、ムーランの圧倒的な存在感がある。この強烈な個性が、旧弊な美意識からすれば「下品」と見えた。
(ここでの西岡氏の例えが面白い! そのことは、フランス映画を代表する大女優のジャンヌ・モローがデビュー当時は「不美人」と評され、アメリカ映画の妖精オードリー・ヘプバーンが「ファニー・フェース」とあだ名されたようなものだという)

さて、その1862年にマネが描いた作品に『街の歌姫』がある。
〇マネ『街の歌姫』1862年 ボストン美術館
この作品はやはりムーランがモデルをつとめたものである。
ギターを抱えた女が粗末なカフェから出てくる様子をとらえている。街で実際にマネが出くわした場面を描いたものである。
その場でマネがモデルを頼み込んだものの、名も知らぬ歌姫は笑って取り合わなかったらしい。歌姫と再会のかなわなかったマネが、ムーランをモデルに描いたのが、この作品である。

カフェの入口、出会いがしらの無造作で、さくらんぼを口に運んでいる。そして、例によって見る者を見返す視線には、都会の行きずりならではの無関心がにじんでいると西岡氏は読み取っている。こうした街角の出会いに、はかなく乾いた抒情性を見出すところに、まさに都市住民に特有の感受性というものがあるとみている。ふいに視界に入り、たちまち消えてゆく名も知らぬ異性との出会いは、見ず知らずの人々が行き交う都市でしか生じない風俗である。
この頃、パリの街頭には、オスマン知事の敢行した大改造で整備されたパリの路上に、カフェが椅子とテーブルを出し始めた。こうした都市のありようが確立し、街路の散策にくつろぎを見出す「遊歩者(フラヌール、flâneur)という近代都市に特徴的な人々が出現した。かつてのパリでは、芸術家、詩人の多くが遊歩者であった。
カフェの客や遊歩者の視界に突然現れる、名も知らぬ人物こそ、新時代の舞台となった街路の主人公というにふさわしいと西岡氏はみなしている。マネの『街の歌姫』が描くのは、そんな時代のヒロインの登場シーンであったようだ。

『オランピア』以降のヴィクトリーヌ・ムーランは、派手な恋愛沙汰の後、米国に渡り、帰国後は印象派誕生の地といわれるカフェで、画家、音楽家、作家、批評家、政治家ら文化人にまじって常連となっている。
かつて、マネが常連だったカフェ・ゲルボワに代わって、今度はドガが『アブサン』に描いたカフェ、ヌーヴェル・アテーヌが彼らの拠点になったそうだ。第1回印象派展にアトリエを提供した写真家ナダールも、ここの常連のひとりであった。
同じ頃、このカフェの常連となったのが、米国帰りの女性がヴィクトリーヌ・ムーランであった。つまり、『オランピア』のスキャンダルの後、長らく行方をくらませていたが帰国していたのである。女優に続く彼女の野心は、画家になることであった。

そのようなムーランを10年ぶりに描いたマネの作品が、次の作品である。
〇マネ『鉄道』1873年 ワシントン ナショナル・ギャラリー
先述したように、かたわらに少女を置きながら、まったく母子像を思わせない、彼女の女としての存在感がある。
残念ながら、この後、ムーランが画家として名をなすことはなかった。ただ、その名は絵画史上未曾有のスキャンダルとともに美術史に刻まれるのみとなる。
晩年は、路上でギターを弾いていたという。
『鉄道』は、ムーランにマネが与えた、いわば最後の晴れ舞台であった。

西岡氏によれば、女性としてのムーランの魅力は、『草上の昼食』でも『オランピア』でもなく、この『鉄道』という作品において発揮されているという。年齢は加えたものの、そのたたずまいには、まさに近代の劇場都市パリのヒロインにふさわしい風格があるとする。

マネのスキャンダルと共に、絵画の「いま」を開いた女性像の最後の舞台には、モデルニテ(近代)を象徴する駅が描かれている。
(ただ、作品は相も変わらず批評家には不評で、鉄道の行き先は精神病院に違いないとの憎まれ口まで叩かれたそうだ)
この『鉄道』の制作は、1873年である。ムーランも通ったカフェ、ヌーヴェル・アテーヌでの議論が印象派展開催にこぎつける前年のことであった。
文字通り、印象派誕生前夜の作品を最後に、ムーランの姿は絵画史から消えていった。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、28頁~29頁、101頁~108頁、115頁、135頁~136頁)

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二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方

ドガと印象派の画家


川又一英氏は、「太陽より人工照明を愛したドガ」と題して、モネやルノワールの印象派の画家たちとドガ(1834~1917)との違いについて述べている。
同時代のモネやルノワールら印象派の画家たちの多くは太陽光線を求め、アトリエから戸外へ出た。
ところが、彼らの中でドガは、そうした動きに背を向けるように、ひたすら人工照明の下で新たなる美を描こうとした。

ことに好んだのが、バレエの踊り子である。約10年間、ドガは踊り子を描くことに熱中し、たくさんの絵を残している。練習中、休憩中、そして華やかな舞台でスポットライトを浴びているものがある。なかでも、次の絵は、その最高傑作といわれている。
〇ドガ≪舞台の踊り子≫1878年制作 60×44㎝ 紙・パステル オルセー美術館

舞台の踊り子は真下から強いフットライトを浴びている。この人工照明によって、ドガが巧みなデッサン力で捉えた一瞬が、幻想の輝きにつつまれる。
踊り子は顔と両腕、そして脚が実に念入りに描かれ、純白な衣裳と髪には赤や黄のタッチが彩りを添える。一方、舞台の後景には、黒衣の男と踊り子たちが、思いきって省略されて描かれている。

ドガは若くしてデッサンの名手として知られていた。踊り子の動きを一瞬のうちに捉えた絵画は、そのたまものにほかならない。また、踊り子の動きをより深く知るために、彫刻を造って研究もした。オルセー美術館のドガの部屋で、様々なポーズをとる踊り子たちと出会うことができる。
(川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年、16頁~17頁)
【川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』はこちらから】

オルセー美術館―アートを楽しむ最適ガイド (名画に会う旅)

ドガという画家の特徴


ドガ(1834~1917)は、マネより2歳ほど年少で、多くの点で共通するものを持っていたようだ。
ドガは、マネと同じように、パリの豊かな中産階級の家に生まれた都会っ児であった。
そして鋭い知性と才気に恵まれ、国立美術学校に通って正規の伝統的な教育を受けた。その後さらに、20歳の時にイタリアに旅行して、ラファエロをはじめルネサンスの巨匠たちの作品を研究し、古典的な絵画技法を身につけた。
このような経歴は、モネやセザンヌなど、ほとんど独学で絵を学んだ印象派の仲間たちの間では、かなり特異なものであったと、高階秀爾氏はまず指摘している。

事実ドガは、1874年の第一回グループ展以来、何回かにわたって印象派の展覧会に参加しており、印象派の画家たちとも交友が深かったので、普通には印象派グループのひとりに数えられているが、その絵画様式はかならずしも「印象派的」でないようだ。
高階氏は、次の点を挙げている。
・ドガは印象派のトレードマークのような筆触分割の技法をほとんど用いなかった
・印象派が好んで描いた明るい戸外の風景をほとんど描かなかった
・ドガが何よりも興味を惹かれたのは、舞台や稽古場の踊り子、カフェ・コンセールの歌手、入浴する女、競馬場の馬と騎手、株式取引所の実業家たちであった

いずれも明確な、独特な形態を持ったモティーフで、ドガがそれらの形態を、比類ない見事なデッサン力で的確に捉えて、カンヴァスの上に定着させた。つまり、印象派の画家たちが感覚的であったのに対し、ドガはきわめて理知的な観察者であった。その抑制された知的な様式は、ほとんど古典主義的といってもよいほどである。
しかしながら、ドガは単なる伝統主義者であったのではない。ドガは、新古典派の領袖と目されていたアングルを深く尊敬していたが、伝統的な主題や、型にはまった構図を拒否する点で、官学派とは別の世界に属していた。つまりドガは、マネと同じように、そしてマネ以上に意識的に、近代主義者であった。
何回サロンに作品を送っても落選したセザンヌなどと違って、サロンの審査員を納得させるだけの伝統的技術を持ち、サロンに入選もしていながら、ドガが反サロンを標榜した印象派の仲間にあえて加わったのも、そのためであった。事実、ドガが好んで取り上げる踊り子や騎手のテーマは、まさに彼が生きていた時代のものであった。つまり、「近代性」を代表するものだった。

ただ、ドガは、そのような「近代的」なテーマを風俗的な興味から描いたのではない。ドガは複雑な動きを示す踊り子や馬や歌手の形態を追求することによって、人間や動物の身体のメカニズムを的確に捉えようとした。いわば形態の真実を追求する科学者の観察であった。それによって、思いがけないポーズや新しい視角を見出し、新鮮な驚きを与えてくれる。
たとえば、次のような作品がある。
〇ドガ≪フェルナンド・サーカスのララ嬢≫(ロンドンのナショナル・ギャラリー)
 ~思いきって上の方を見上げた視角が用いられている
〇ドガ≪アプサント≫(パリのオルセー美術館)
 ~画面手前のテーブルが上の方から見下ろしたような視角になっている
このような新しい視角は、画面構成の上にも新鮮な成果をもたらした。
≪アプサント≫においては、主要人物は画面の右上の角に描かれて、中央の主要な部分は人物のいない空間というバランスのくずれた構図になっている。
そのほか、舞台の踊り子を半分だけ描いたような風変わりなトリミングや、稽古場の踊り子を画面の一方に集めてしまったような構図は、ドガのしばしば試みたところである。
この種のバランスのくずれた変則的構図は、日本の浮世絵版画の影響によるところが多いといわれる。同時にそれは、「新しいもの」に対するドガの好みの現われともいえる。
また、ドガは、当時ようやく実用の段階にまで発展してきた写真術にも強い関心をいだいていた。自ら機械を操作して撮影したり、スナップ式の写真を構図の参考にしたりしている。
そのような点にも、ドガの「近代性」がうかがわれる。

以上、伝統的な優れた技術と、「近代性」とのその結びつきによって、ドガは絵画表現の可能性を大きく拡げた。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、78頁~81頁)

【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】

近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))

ナヴレ『気球から見たパリ』


オルセー美術館の地上階の左手の一番奥に、パヴィヨン・アモンという部屋がある。19世紀後半の、建築や都市計画に関する作品や資料を展示するコーナーである。

ここに、ヴィクトール・ナヴレ(1819~86)が、係留気球に乗ってパリの街を描いた『気球からみたパリ』(1855年 カンヴァス・油彩 390×708㎝ オルセー美術館)という大きな絵がある。
パリが都市改造される前、1855年に描かれた作品である。
(ナヴレが乗った気球も絵の左下隅に見える)

この大作は、1855年の万国博覧会に出品され、ナポレオン3世の買上げになった。
気球という人工の高みから見た光景を、写真的正確さで記録することが、この作品の眼目であったようだ。

画面中央に泉水を前にしたリュクサンブール宮殿とその庭園がある(現在のリュクサンブール庭園)。
その奥に流れるセーヌ河沿いにルーヴル宮殿(現在のルーヴル美術館)や、パリ・コミューンで1871年に焼失したチュイルリー宮殿なども、はるかに見えている。
シテ島、サン=ルイ島、左手の大きな丸屋根のアンヴァリッドなど、今とあまり変わらぬ姿を見せている。しかし、アンヴァリッド傍らの陸軍士官学校前の練兵場シャン=ド=マルスの端に革命100年を記念して、1889年に建てられるエッフェル塔は、当然ながら、まだない。

この絵を現在のパリの地図に照らし合わせてみると、モンマルトルはまだ畑である。シャンゼリゼやバスティーユなど、ひとつひとつの街が離れ小島のようになっていて、人家のないところがかなり見られる。一見、非常に牧歌的に見えるが、この空の下にあるパリの街は、たいへんな危機に直面していたようだ。

そのひとつは急速な人口の増加である。
1801年には54万人であったのが、1851年には、ほぼ倍の105万余に膨張する。産業化が進み、仕事を求める人びとが大勢、農村からパリへ流れ込んできたからである。
そのため、パリの中心部のシテ島近辺では、人口が過密状態になり、古い街並はスラム化する。
また水道の整備も追いつかず、パリの労働者階級は、ほとんど風呂に入ることはなかったそうだ。そして汚水は、セーヌ河にたれ流しの不衛生な状態のため、コレラが大流行した。
交通問題も深刻であった。パリの胃袋である中央市場には郊外から食糧を運ぶ荷車や馬車がたくさん集まってきたが、道が狭いため、いつも混雑していた。
(高階秀爾監修『NHKオルセー美術館3 都市「パリ」の自画像』日本放送出版協会、1990年、8頁~9頁)

【『都市「パリ」の自画像 (NHK オルセー美術館)』はこちらから】

都市「パリ」の自画像 (NHK オルセー美術館)


≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7≫

2020-07-25 17:55:14 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7≫
(2020年7月25日投稿)


【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 前回に引き続き、今回も印象派のルノワールの作品について考えてみよう。
 まず、アンヌ・ディステル氏の著作『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)により、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』(オルセー美術館)と『浴女』の画風の違いについて解説しておく。
次に、映画『アメリ』に出てくるルノワールの絵『舟遊びをする人々の昼食』(« Le déjeuner des canotiers »、『舟遊びの昼食』とも呼ばれる。ワシントンのフィリップス・コレクション蔵)について、まず説明しておく。1882年の第7回印象派展に出品され、3人の批評家から最も優れた作品と認定された。
そして、映画『アメリ』で、どのように、このルノワールの絵が取り上げられているかを、具体的にみてみたい。


さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い
・ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力
・ルノワールの3枚のダンスの絵
・ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」と映画『アメリ』







【読後の感想とコメント】



ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い


アンヌ・ディステル氏は、パリのオルセー美術館の主任学芸員で優れた美術史家である。その著作アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年)については、「日本語版監修者序文」において、高階秀爾氏が、本書は豊かな生命の画家ルノワールを、きわめて明快適切に紹介したものであると推薦の辞を述べている。巨匠ルノワールの生涯と業績をよく伝えてくれる好著という(4頁)。

例えば、アンヌ・ディステル氏は、ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違いについて言及している。
〇ルノワール『陽光を浴びる裸婦』1875年 81×65㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『浴女』1881年 81.8×65.7㎝ ウィリアムズタウン スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館

習作『陽光を浴びる裸婦』(1875年)は、『散歩に出かける子どもたち』(1874年)とともに、1876年の第2回印象派展で批評家の嘲笑をあびた。裸婦の習作の方は、フィガロ紙に「緑色や紫色がかった斑点だらけの腐りかけた肉の塊で死体の完全な腐乱状態を示している」とさえ酷評された。

一方、『浴女』(1881年)は、ルノワールによると、イタリアのナポリ近郊のカプリの太陽の下で、舟の上から描いたものだという。自分からはモデルの名前を告げていないが、後にアリーヌ・シャリゴがルノワールに同行したイタリア旅の思い出を語って、はからずも明らかになった。
ルノワールはこの愛人について一言も口にしたことはなく、当時は知人たちに対してひた隠しに隠していた。ルノワールとアリーヌが結婚したのは1890年だが、彼女は後にこのイタリア旅行をそれとなく「新婚旅行」のように語っている。

さて、『陽光を浴びる裸婦』から、『浴女』への画風の変化についてはどう考えたらよいのだろうか。
『陽光を浴びる裸婦』は、木洩れ日の下のぼやけた輪郭をモチーフにしている。一方、『浴女』の裸婦は演出が明らかで、輪郭も明確であり、肉感豊かな堂々たる存在である。背景の移し換えの努力も際立っている。そこに表現されているのは、もうボートでもナポリ湾でもなく、暗示的な風景の中の古典的なテーマであるそうだ。この絵は「昔の人々の、あの偉大さと単純さ」を取り戻したいという望みに一致しているとディテル氏はみている。つまり、この絵は、ルノワールの、イタリア絵画とアングルの思い出に啓発された古典主義への回帰を意味する最初の作の一つであると位置づけている。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、48頁~49頁、86頁~87頁、186頁~187頁)

【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】

ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)

ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力


アンヌ・ディステル氏は、その著作において、『舟遊びをする人々の昼食』について言及しているので、紹介しておこう。

1879年頃から、ルノワールはふたたびセーヌ河畔を訪れ、かつてのラ・グルヌイエールの水浴場時代を喚起させるような、舟遊びをする人々の絵を描くようになった。
その頂点を画するのが、1880~1881年に制作された大作『舟遊びをする人々の昼食』である。
〇ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』1880~1881年 130×173㎝ ワシントン フィリップス・コレクション
1881年にデュラン=リュエルに売られたこの作品は、おそらく前年の夏に制作を開始したとされる。
舟遊びの男女が、セーヌ河畔のシャトゥーのシアール島にあるレストラン、フルネーズのテラスで食事している風景が描かれている。

ルノワールはポール・ベラール宛ての手紙に、次のように書いている。
「目下シャトゥーに滞在中で(略)昔から描きたくてうずうずしていた舟遊びの人々の絵を描いています。(略)完成させられるかわかりませんが、ドゥードンに相談すると、出費がかさんだ上に絵を完成させられなくても、私の言い分は認めるといってくれました。その言い分というのはつまり、これがひとつの前進だということです。画家は時には実力以上のことを試さなければならないのです」
ただ、絵の制作は遅々として進まなかったようだ。

『舟遊びをする人々の昼食』は下準備のためのエスキースが1枚もない。たとえあったとしても、部分的に修正個所の多いこの絵を吟味すると、ルノワールは決定版に相当手を入れていたことがうかがえるとディステル氏はみている。
同一サイズの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と比べると、わずか5年しか経過していないのは、画風の驚くべき相違が目立つようだ。

こちらは色彩がより明るくなり、構図もより抑制されて遠近が単純化されている。とりわけ色彩のコントラストが個性の明確な人物の綿密な描写に役立っている。輪郭を明示するために採り入れたこの新しい技法は、印象派への批判(おおまかで、あいまいであるという批判)に応えようとしたものとみられている。

だが、1881年のサロンに出品されたのは、この大作ではなかった。
出品作は、ルノワールが旅に出る前にエフリュッシに選択を任せた、モデル不詳の2点の肖像画だった。モネとシスレー同様、今回もルノワールは印象派展に出品しなかった。どうしてもサロンに出品しようとする理由は、絵を売るためだけの作戦なのだと、デュラン=リュエルに説明している。
このことは、1881年に北アフリカへ旅行した際に、画商デュラン=リュエル宛てに書かれた手紙に、次のように書かれている。
「親愛なるデュラン=リュエル様
私がなぜサロンに出品するのか、ご説明してみたいと思います。パリには、サロンに出品していない画家を好む愛好家は15人もいないでしょう。そしてサロンに出していない画家には鼻も引っかけない愛好家は8万人もいます。だから私は毎年、たった2枚ですが、肖像画をサロンに送るのです。それに、出品先によって絵の価値が下がると考えるほど、マニアックになりたくありません。ひと言でいえば、サロンを毛嫌いするヒマさえ、私には惜しいのです。そんなポーズをとることすら面倒です。最高の絵を描くことが肝心。それだけです」
サロンへの出品は、「印象派」のメンバーの行動としては、明瞭な態度の変更を意味する。だからルノワールは、印象派の同調者だった画商デュラン=リュエルに弁明して、上記のような手紙を書いたようだ。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、74頁~82頁、136頁~137頁、187頁)

【アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』創元社はこちらから】
ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)

ルノワールの3枚のダンスの絵


1881年10月からのイタリア旅行から帰国すると、ルノワールは3点の大作に取りかかり、それらは1883年春に完成した。
その3点とは、ダンスのヴァージョンである。これらのうち、一対の作はオルセー美術館にある。
〇ルノワール『ブージヴァルのダンス』1883年 181.8×98㎝ ボストン美術館 絵画基金
〇ルノワール『田舎のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館
〇ルノワール『都会のダンス』1882~1883年 180×90㎝ オルセー美術館

これらは主題と画風からして、『舟遊びをする人々の昼食』の延長に近いものとみられている。
ルノワールは『ブージヴァルのダンス』と『都会のダンス』のモデルに、マリー・クレマンティーヌ・ヴァラドンを起用した。この若い女性は1883年12月、息子モーリス・ユトリロを生んだ。その父親は、彼女が時折ほのめかしていたように、ルノワールであった可能性もある。
一方、『田舎のダンス』の女性のモデルは、アリーヌ・シャリゴにまちがいない。『都会のダンス』のシュザンヌ・ヴァラドンがタフタ(taffetas、細かい横畝[よこうね]のある薄手の絹織物)のドレスを着ているのに対して、『田舎のダンス』のアリーヌ・シャリゴはコットンのドレスを着ている。

この対の『ダンス』2作は1883年4月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通りに借りた会場ではじめて催したルノワール個人の回顧展に出品された。
それからまもなく『ブージヴァルのダンス』はデュラン=リュエルによってロンドンの画廊でも、ルノワールの他の10点の作とともに展示された。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』創元社、1996年、87頁~89頁、187頁)

ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』と映画『アメリ』


映画『アメリ』の中に、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』という絵が登場するので、紹介しておく。
まず、映画『アメリ』について説明しておく。

映画『アメリ』は原題 Le Fabuleux Destin d’Amélie Poulainといい、「アメリ・プーランの素晴らしい運命」の意で、2001年に公開されたフランス映画である。パリ・モンマルトルを舞台に、パリジャンの日常を描き、フランスで国民的大ヒットを記録した。

【映画『アメリ』の情報】


① ジャン=ピエール・ジュネ監督、オドレイ・トトゥ主演『アメリ』
(2001年に公開されたフランス映画、DVDは2001年発売)
②Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
③イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]

【映画『アメリ』はこちらから】




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【映画『アメリ』の主演オドレイ・トトゥ】


主演は、オドレイ・トトゥ(Audrey Tautou、1976-)で、この映画で世界的に有名になり、2006年に『ダ・ヴィンチ・コード』でヒロインのソフィー・ヌヴーを演じ、トム・ハンクスと共演し、ハリウッド作品に初出演した。2009年に公開された『ココ・アヴァン・シャネル』ではココ・シャネルを演じた。

【映画『アメリ』のあらすじ】


『アメリ』のあらすじは次のようなものである。
両親に幼少期にあまり構ってもらえず、孤独の中で育ち、周囲とコミュニケーションがとれない不器用な女性がアメリである。22歳となったアメリは、モンマルトルのカフェで働き始める。彼女はクレーム・ブリュレの表面をスプーンで割る、サン・マルタン運河で石を投げ水切りをする、この瞬間にパリで何人が「達した」か妄想するなど、ささやかな一人遊びと空想にふける毎日を送っていた。
そんな彼女にも気になる男性が現われた。スピード写真のボックス下に捨てられた他人の証明写真を収集する趣味を持つニノである。アメリは気持ちをどう切り出してよいかわからず、試行錯誤する。ニノと会って話をするチャンスを逃してしまったアメリに、アパートの同居人レイモン・デュファイエル爺さんが「思い切ってぶつかっても、自分が砕けてしまうことはない」と背中を押してくれる。
ストレートに他人と向き合うことのなかったアメリはその後、ニノと会い、めでたく結ばれる。パリの街並みの中を、アメリはニノのソレックス(le Solex、原動機つき自転車)の後席に乗り、駆け抜けていくのだった。

この映画で、レイモン・デュファイエルが、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』を模写している。彼は、アメリの階下に住む気難しい老人で、通称「ガラス男」と呼ばれていた。

【ルノワールの「舟遊びの昼食」(『舟遊びをする人々の昼食』)について】


前述したように、「舟遊びの昼食」はフランスの印象派の画家ルノワールによる絵画作品である(1880~1881年、油彩、フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.)。1882年の第7回印象派展に出品され、批評家に称賛された。豊かな表現、流動的な筆遣い、明滅する光に優れた作品である。
フランスシャトゥーにあるセーヌ川畔のメゾン・フルネーズのテラスでくつろぐルノワールの友人らを描いている。ルノワールと後援者のギュスターヴ・カイユボットは、右下部に着席している。のちにルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴは、最も手前で子犬と遊んでいる。つまり、お針子のアリーヌ・シャリゴは犬を抱いて、構成の左下部付近に座っている。
絵の真ん中でグラスの水を飲んでいる物憂げな娘は、この小説でもアメリの関心を惹いていた。彼女は女優のエレーヌ・アンドレと特定されている。その向かいに着席しているのは、ラウル・バルビエ男爵である。
手すりの斜線が画面を二つに区切る役目を果たしており、片側には人物でにぎわっている一方、もう片側はゆったりとした空間に、経営者の娘ルイーズ=アルフォンシーヌ・フルネーズと、その兄弟のアルフォンス・フルネーズJr.である。この対照は有名になったそうだ。二人とも伝統的な麦わら帽をかぶり、画面の左側に位置している。手すりにもたれて微笑んでいる女性がアルフォンシーヌ、画面最も左側にいるのがアルフォンスで、彼は貸しボートの責任者だった。
ところで、映画『アメリ』(2001年)の監督ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet, 1953-)は、この絵を参照していたようだ。

この映画で、ルノワールの「舟遊びの昼食」(« Le déjeuner des canotiers »)が登場する場面をフランス語でみてみよう。

【ルノワールの「舟遊びの昼食」を模写するデュファイエル爺さん】


Amélie contemple sur un chevalet la reproduction d’une peinture.
Dufayel lui apporte un bol.
AMÉLIE : Merci, J’aime beaucoup ce tableau.
DUFAYEL : C’est « Le déjeuner des canotiers » de Renoir.
Il ouvre un placard où se trouvent dix-neuf reproductions...
DUFAYEL : J’en fais un par an depuis vingt ans. (Devant un des
tableaux du placard) Le plus dur, ce sont les regards. Un chouïa
d’ombre ou de lumière en trop, et vous faites apparaître de l’amour à
la place du ressentiment... Parfois, j’ai l’impression qu’ils changent
exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné.
AMÉLIE : Là, ils ont l’air plutôt contents de la vie.
DUFAYEL : Ils peuvent ! Terrine de lièvre aux morilles, veau maren-
go, fromage, sorbets, digestif, gaufres à la confiture pour les enfants...
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. p.20)

【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】

Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)

【語句】
Amélie contemple <contempler瞑想する、じっくり見る(contemplate)の直説法現在
un chevalet (m)画架、イーゼル(easel)
la reproduction (f)再生(reproduction)、複写、複製(copy)
une peinture  (f)絵画(picture)
Dufayel lui apporte un bol<apporter持ってくる(bring)の直説法現在
 un bol   (m)椀、大カップ(bowl)
J’aime beaucoup <aimer好む(love, like)の直説法現在
ce tableau   (m)絵(painting, picture)
C’est      <êtreである(be)の直説法現在
Le déjeuner  (m)昼食(lunch)
canotier    (m)(ボートの)こぎ手、(古風)ボート遊びをする人(rower, oarsman)
Il ouvre un placard <ouvrir開く(open)の直説法現在
 un placard (m)戸棚(cupboard, closet)
où se trouvent <代名動詞se trouver ある、見いだされる(be, be found)の直説法現在
J’en fais   <faireする、作る(do, make)の直説法現在
devant    ~の前に(で)(in front of, before)
le plus dur (adj.)堅い、むずかしい(hard)
regard   (m)視線、まなざし(one’s eyes, glance, gaze)
un chouïa (m)(話)ほんの少し(=un petit peu)
ombre   (f)陰、陰影(shade)
lumière   (f)光(light)
trop    (adv.)あまりに、過度に(too much) en trop余分に、余計に、余分な、余計な vous faites apparaître de l’amour à la place du ressentiment
 vous faites apparaître<faire+不定法 ~させる(make do)の直説法現在
 apparaître 現れる、見えてくる(appear)
 à la place de ~の代わりに(instead of)
 ressentiment (m)恨み、悪感情(resentment)
parfois (adv.)ときどき、ときには(sometimes)
j’ai l’impression qu’ils changent exprès d’humeur dès que j’ai le dos tourné
j’ai l’impression<avoir持っている(have)の直説法現在
  → avoir l’impression que+ind. ~という印象をもつ、~のような気がする
 qu’ils changent<changer変わる(change)の直説法現在
 exprès   (adv.)わざと、特別に(intentionally, on purpose)、(adj.)明白な(express)
 humeur  (f)気質(temper)、気分(mood)
 dès que+直説法 ~するや否や(as soon as)
 j’ai le dos tourné
  le dos (m)背中(back)
  avoir le dos tourné 背中を向けている、ちょっと目を離す、注意をそらす
  <用例>
Dès que j’ai le dos tourné tu cesses de travailler.ちょっと目を離すと君はすぐにさぼる。
 (cf.) La chance lui a tourné le dos.好運は彼(女)を見放した。
Après son échec, tous ses amis lui ont tourné le dos.
彼が失敗すると友達はみな彼から去って行った。
ils ont l’air <avoir持つ(have)の直説法現在
 →avoir l’air de...~のように見える(look)
  <用例>
   Elle a l’air très gentille.彼女はとても親切そうだ(She has a very kind look.)
là   (間投詞)(驚き、困惑などを示す)さあ、ほら
plutôt  (adv.)むしろ(rather)、多少(somewhat)
Ils peuvent ! <pouvoirできる(can)の直説法現在
terrine   (f)パテ、テリーヌ(potted meat, terrine)
lièvre   (m)ノウサギ(hare)
 →terrine de lièvre ノウサギのテリーヌ(potted hare)
morille (f)アミガサタケ(食用きのこ)(morel)
veau marengo  veau (m)子牛(calf)、子牛の肉(veal) marengo(adj.)マレンゴ風の
 veau marengoはマレンゴ風子牛肉(トマト、マッシュルーム、オリーブ入りの
白ワインソース、鶏、子牛などの煮込み用)(marengo)
fromage (m)チーズ(cheese)
sorbet  (m)シャーベット(water ice, sorbet)
digestif  (m)食後酒、ディジェスチーフ(digestive)
gaufre   (f)ゴーフル、ワッフル(格子模様の凹凸のある大きな焼き型に入れて両面を
       焼いた菓子)(waffle)
la confiture(f)ジャム(jam)

≪試訳≫
アメリはイーゼルの模写をじっくり見ている。デュファイエルは、彼女に1杯のカップを持ってくる。
アメリ:「ありがとう。私はこの絵が大好きよ。」
デュファイエル:「それはルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。」
彼が戸棚を開けると、そこには19枚の模写がある。
デュファイエル:「わしは20年前から年に1枚ずつ描いてるんだ。(戸棚の1枚の絵の前で)
いちばん難しいのは視線だ。ほんの少しの陰影とか余分な光とかによって、恨みに代わって愛情が現われてくる。わしがちょっと目を離すと、わざと気分を変えるような気がときどきする。」
アメリ:「ほら、彼らはみんな幸せそう。」
デュファイエル:「そりゃそうだ。アミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、マレンゴ風子牛肉、チーズ、シャーベット、食後酒、子供たちにはジャムつきのゴーフル...」

〇該当部分の訳本はちなみに次のようにある。
部屋の奥には描きかけのキャンバスがイーゼルに立てかけられていました。
「素敵な絵ね」お世辞じゃなくて、アメリはそう思いました。
「ルノワールの『舟遊びの昼食』だよ。これをごらん」
デュファイエル爺さんが壁ぎわのカーテンを開くと、その奥には同じ絵が何枚も掛けられていました。アメリの目にはどれも寸分違わない、ルノワールの模写です。
「年に一枚ずつ描いてるんだ。20年前からね。いちばん難しいのは視線だ。私の目を盗んで、彼らが勝手に目くばせし合ってるような気がする」
絵の中の人々の顔を眺めて、「みんな幸せそう」と、アメリは微笑みました。
「そりゃそうだ。優雅なもんだよ。昼食はアミガサ茸入りの野ウサギのテリーヌ、子供たちにはジャムつきのゴーフル......」と言いかけて、デュファイエル爺さんは急に真剣な顔つきになりました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、48頁~50頁)

【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】

アメリ


<ルノワールの「舟遊びの昼食」の続き>


このルノワールの絵をめぐって、アメリとデュファイエル爺さんは更に興味深い会話を続けているので、その続きをみてみよう。
デュファイエル爺さんの言葉の中に、絵の中央の娘とアメリの幼少期は意外な共通性が見出せるかもしれないという。

Dufayel retourne près du tableau.
DUFAYEL : Après toutes ces années, le seul personnage que j’ai en-
core un peu de mal à cerner, c’est la fille au verre d’eau. Elle est au
centre, et pourtant, elle est en dehors.
AMÉLIE : Elle est peut-être seulement différente des autres.
DUFAYEL : En quoi ?
AMÉLIE : Je ne sais pas.
DUFAYEL: Et bien moi, je vais vous le dire... Elle ne sait pas établir de
relations avec les autres. Elle n’a jamais su. Quand elle était petite, elle
ne jouait pas souvent avec les autres enfants. Peut-être même jamais.
Amélie, soudain troublée, ne trouve rien à répondre.
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003. pp.21-22.)

【Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulainはこちらから】

Le fabuleux destin d'Amelie Poulain: le scénario (Drehbuchfasung des Films)

【語句】
Dufayel retourne <retourner 戻る、再び行く(go again, go back)の直説法現在
près de ~の近くに、のそばに(close to, near)
j’ai encore un peu de mal à cerner
 j’ai<avoir持つ(have)の直説法現在
 (cf.) avoir du mal à+不定法 ~するのが困難である、容易に~できない
 <用例> J’ai du mal à me lever à six heures. 6時にはなかなか起きられない。
 cerner 取り巻く(surround)、輪郭をはっきりさせる(outline)
 <用例>
 cerner le visage d’un portrait 肖像画の顔の輪郭をはっきりさせる
 peintre qui cerne le visage d’une femme d’un trait bleu 女の顔を青い線で縁どる画家
c’est la fille <êtreである(be)の直説法現在
verre    (m)ガラス、グラス、グラス1杯分の量(glass)
 (cf.) un verre d’eau  1杯の水(a glass of water)
Elle est au centre<être既出
pourtant  (adv.)それでも、しかし(yet, however)
 <注意>pourtantは2つの語、2つの節の対立、あるいは文脈への対立を示す。
対立はmaisより弱く、cependantより強い。
 et pourtant(対立する内容の情報を付け加える)(英語のand yet)
 <用例>
 Et pourtant, je me suis bien amusé.それにしても僕は楽しかった(And yet, I enjoyed myself.)
Il n’avait pas révisé et pourtant il a réussi.彼は復習をしなかったが、それでも合格した。
« Et pourtant elle tourne. »「それでも地球は回っている」(ガリレオの言葉)
elle est en dehors<être既出
 en dehors 外に、外側に(outside)
Elle est peut-être seulement différente des autres.
 Elle est <être既出
 peut-être (adv.)たぶん、おそらく(perhaps)
 différent(e) de (deと)違った(different from)
 →être différent(e) de ~と異なっている(differ from)
En quoi ? quoiは代名詞(関係代名詞)(つねに前置詞+quoiの形で)
 en quoi (前節の意味を受けて)その点で(wherein)
 <用例>
 En quoi puis-je vous être utile ? 何の面でお役に立てるでしょうか。
 En quoi vos idées économiques sont-elles différentes de celles de l’école keynésienne ?
  あなたの経済についてのご意見はケインズ学派のそれとどこが違うのでしょうか。
Je ne sais pas <savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
je vais vous le dire<aller行く(go)の直説法現在
 aller+不定法(dire)(近接未来)~だろう、~するところだ(be goint to)
Elle ne sait pas établir de relations avec les autres
ne sait pas<savoir知っている(know)の直説法現在の否定形
 savoir+不定法 ~することができる(be able to do)
établir 確定する(establish)
 <用例>établir des relations de voisinage sans manières気軽に近所付合いをする
Elle n’a jamais su<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(savoir)直説法複合過去の否定形
Quand elle était petite <êtreである(be)の直説法半過去
elle ne jouait pas souvent <jouer遊ぶ(play)の直説法半過去の否定形
souvent (adv.)しばしば(often)
 (cf.)ne...pas souventたまにしか~しない(seldom)
même jamais jamais(adv.)(neなしで)決して[一度も]~ない(never)
<用例>
 Consentez-vous à ma proposition ? ―― Jamais.
私の提案にご同意いただけますか?―― 絶対にだめです
 (Do you agree with my proposal ? ―― Never.)
soudain (adj.)突然の、急の、不意の(sudden)
troublée (←troublerの過去分詞)(adj.)不安な、心が動揺した(upset, embarrassed)
ne trouve rien à répondre 
 ne trouve rien <trouver見つける(find)の直説法現在の否定形
 trouver à+不定法 苦労して(何とかして)~する(find a way to do, manage to do)
 répondre 答える(answer)

≪試訳≫
デュファイエル爺さんはまた絵のそばに戻る。
デュファイエル:「何年かけても、私がいまだに少し上手く描けない唯一の人物がいる。それは水を飲んでいる娘だよ。」
この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ。
アメリ:「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
デュファイエル:「どこが違うんだね?」
アメリ:「わからないわ」
デュファイエル:「うん、私がしゃべろう。彼女はほかの人と付き合うことができないのだよ。今までに一度も。この娘は小さい時に、ほかの子供たちとたまにしか遊ばなかったんだよ。おそらく一度も。」
アメリは急に心が動揺して、答えが何とも見つからない。

≪訳本≫
「20年かけても、いまだに上手く描けない人物がいる」
「どの人?」
「水を飲んでいる娘だよ。この娘は絵の真ん中にいるのに、どこかよそにいるみたいだ」
 絵の中央あたりに、グラスを口にあてた娘が描かれています。そう言われてみると、楽しそうな周囲の人々の中で、彼女だけが妙に物憂げに見えました。彼女よりも奥に描かれている人物もいるのに、なぜだか彼女がいちばん遠くにいるような気がします。
「たぶん、ほかの人とは違うのよ」
「どこが違うんだね?」
「さあ……」
アメリは直感的にそんな気がしただけです。
「うん……この娘は小さい時に友達と一緒に遊ばなかったのかもしれないね。おそらく一度も」
その言葉に、アメリは胸の奥をつつかれたような気がしました。
デュファイエル爺さんは、それ以上は絵の娘について何も言わず、アメリにメモを差し出しました。
(イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]、49頁~50頁)

【イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』はこちらから】

アメリ

このルノワールの『舟遊びの昼食』という絵は、この小説の中では、後半部分でも再び話題となる。
とりわけ、絵の真ん中にいる「水を飲んでいる娘」(≪la fille au verre d’eau≫(水が入ったコップを持つ少女))に注意を払っている。この娘の視線がつかみにくいというのである。
この娘が見ているのは、正面の山高帽の男ではなく、グラスの底に映った彼女の後ろにいて、片手を上げている少年ではないかということで、デュファイエルとアメリの意見は一致する。この娘は、その少年に好意を寄せていると推測し、娘はこんどこそ本当の危険を冒さないといけないとデュファイエルは、アメリに話す。
(Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, 2003, p.66. イポリト・ベルナール、2001年、91頁~92頁、137頁~139頁)

映画『アメリ』のジャン・ピエール・ジュネ監督によれば、ルノワールの絵を用いたのは、『アメリ』の舞台であるモンマルトルにゆかりの印象派へのオマージュからであるようだ。
“ガラス男”のデュファイエルは、内向的で直接的なアプローチができないアメリを心配し、ルノワールの模写の中の女性にアメリを投影しながら、助言をする。デュファイエルの忠告のお陰で、勇気づけられたアメリは、思いを寄せるニノと恋人として結ばれる。
生命の讃歌を謳い上げたルノワールの絵にふさわしい結末となっている。
映画『アメリ』については、後日、詳しく取り上げてみたい。



≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫

2020-07-25 09:02:28 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫
(2020年7月25日投稿)



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



【はじめに】


 今回および次回のブログでは、日本人に人気のある印象派の画家ルノワールについて、考えてみることにしよう。
 まず最初に、小島英煕氏の著作『活字でみるオルセー美術館』(丸善ライブラリー、2001年)をもとに、オルセー美術館には、どのようなルノワールの作品があるかをみておきたい。
 そして、ルノワールという画家の人生において、重要な位置を占めるアリーヌという女性との関わりを概説する。
 また、印象派の中でルノワールは、唯一の職人階級出身の画家であった。この点に焦点を当てて、木村泰司氏の著作『名画の言い分』(筑摩書房、2011年)を参照にしつつ、解説を加えておく。
 昭和を代表する文芸批評家小林秀雄氏は、『近代絵画』においてルノワール論を展開している。示唆に富む論点がみられるので、それらを紹介しておきたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・オルセー美術館所蔵のルノワールの絵
・ルノワールとアリーヌ
・唯一の職人階級出身画家ルノワール
・ルノワールとドガのタッチの違い
・小林秀雄のルノワール論







【読後の感想とコメント】


オルセー美術館所蔵のルノワールの絵


ルノワールは、モネやゴッホとならんで日本人に抜群の人気を誇る画家である。
豊麗な裸婦や太陽の光に満ちた風景を描いて、命の讃歌を歌い続けた。
「人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ「とルノワールは言った。
作家ユイスマンは、「彼は、この明るい陽光の中で、彼女たちの花のような肌、ビロードのような肉、真珠のような瞳、そして装身具の優雅さを描きだしている」と評した。


オルセー美術館には、ルノワールの次の有名な絵がある。
〇「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876年)
その他にオルセー美術館には、次のようなルノワールの絵があり、年代順に小島氏は列挙している。
〇「ウイリアム・シスレー」(1864年)
〇「画架に向かって絵を描くバジール」(1867年)
〇「乗馬服の婦人」(1873年)
〇「読書する女」(1874年)
〇「陽光を浴びる裸婦」(1876年)
〇「ブランコ」(1876年)
〇「草の中の坂道」(1876~77年頃)
〇「アルフォンシーヌ・フルネーズの肖像」(1879年)
〇「アルジェリアの風景、野性の女の谷」(1881年)
〇「アルジェのアラブの祭り」(1881年)
〇「田舎のダンス」(1883年)
〇「都会のダンス」(1883年)
〇「花瓶のバラ」(1890年)
〇「ピアノの前の少女たち」(1892年)
〇「花への讃歌」(1903~09年頃)
〇「浴女たち」(1918~19年)~晩年の力作
<肖像画>
〇「クロード・モネの肖像」(1875年)
〇「シャルパンティエ夫人の肖像」(1876~77年頃)
〇「アルフォンス・ドーデ夫人」(1876年)
〇「マルゴの肖像」(1878年)
〇「リヒャルト・ワーグナー」(1882年)
〇「座る女」(1909年)
〇「ジョス・ベルネーム=ジュヌ夫人と息子アンリ」(1910年)
〇「バラをもつガブリエル」(1911年)
〇「バラをもつ若い女」(1913年)など

他の印象派の画家と同様、若きルノワールもまた、その画風の明るさの裏で、世間の非難、嘲笑と黙々と戦った公認されざる画家の一人であった。
たとえば、輝くような傑作とされる「陽光を浴びる裸婦」(1876年)も、発表当時は「緑色や紫色がかった斑点だらけの腐りかけた肉の塊で、死体の完全な腐乱状態を示している」(フィガロ紙)とまで言われた。

ルノワールは、「人生を振り返ってみると、川に投げ込まれたコルク栓みたいに感じる」と言っている。また、「私はいつも運命に身を任せる。闘士的な気質とは無縁だった。闘士の気質をもっている親愛なる友モネが助けてくれなかったら、私は何度も仲間から抜けていただろう」とも言う。確かにそういう面もあったであろう。
ただ、小島氏はルノワールを次のように捉えている。
ルノワールの人生はその健全な職人的な資質とすばらしい感覚に導かれて、ドラマチックではない地味な性格と相まって、苦闘のあとも見せず、美の大河を歩ませたという。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、95頁~98頁)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』はこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)



ルノワールとアリーヌ


ここでは、ルノワールの絵のモデルになり、妻ともなったアリーヌ・シャリゴとの関係に注目しつつ、ルノワールの絵についてみてみよう。

1879年、ルノワールの38歳のとき、アリーヌとの出会いがあった。
アトリエのすぐ前に食事をよくする「シェ・カミーユ」というレストランがあり、女主人カミーユがよく面倒をみてくれた。常連にカミーユと同郷のシャリゴ夫人がいて、その娘がアリーヌであった。ルノワールは、アリーヌと恋仲になった。
セーヌ河畔のシャトゥーのシアール島にあるレストラン・フルネーズのテラスで、有名な「舟遊びをする人々の昼食」(Le déjeuner des canotiers, 1881年、油彩・カンヴァス、130×173㎝、ワシントンのフィリップス・コレクション)を描いた。
この絵の画面左端で、犬と戯れているのが、アリーヌである。
ルノワールと後援者のカイユボットは、右下部に着席している。つまり、カイユボットは、画面右手最前列におり、白い船乗りシャツを着て、平らな麦わら帽子をかぶり、逆向きの椅子に座っている。
1882年の第7回印象派展に出品され、3人の批評家から最も優れた作品と認定されたそうだ。画商で後援者のポール・デュラン=リュエルが作品を購入し、その息子から1923年にダンカン・フィリップスが12万5千ドルで買い取った。現在はワシントンD.C.のフィリップス・コレクションの所蔵である。
豊かな表現、流動的な筆遣い、明滅する光に優れた作品とされる。
そして、後述するように、映画『アメリ』の中でも、この絵画は登場する。

1881年2月末、冬中、制作していたルノワールは都会に疲れて、画家コルデーとドラクロワの足跡を追って、アルジェリアに旅行して何点か描いた。10月末、再び旅に出る。行き先はイタリアである。
フィレンツェのピッティ美術館でラファエロの「小椅子の聖母」に感動し、ローマのヴィラ・ファルネジーナ、ヴァチカン宮殿でラファエロの装飾を徹底的に研究した。12月、ポンペイ、ソレントへ移動し、カプリで「浴女」を描く。モデルはどうやらアリーヌで、彼女は後にイタリア旅行の思い出を語っているが、当時、ルノワールは彼女のことを秘密にしていた。

イタリアから帰国して、3点の「舞踏会」シリーズを手掛けた。
1883年春に仕上がった「ブージヴァルのダンス」と、セットになった「都会のダンス」「田舎のダンス」である。前2体のモデルは画家のマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンらしい(その息子のモーリス・ユトリロの父親はルノワールだった可能性もあるという)。オルセー美術館にある「田舎のダンス」のモデルはアリーヌである。
(川又一英氏も、「都会の踊り」の女性モデルはユトリロの母、「田舎の踊り」の女性モデルは、のちにルノワールと結婚するアリーヌ・シャリゴといわれるとする。川又、1995年、62頁参照)

さて、1884年、43歳のとき、愛人のアリーヌが妊娠する。モンマルトルの丘に近いウードン街十八番地に新居を構え、アトリエは別にラヴェル街三十七番地(現ヴィクトール・マッセ街)に借りた。1885年3月、長男ピエールが誕生した。代父にカイユボットがなってくれた。
この私生活の変化が新しい傾向を生んだ。
ひとつはむろん家族愛で、息子のデッサンに夢中になる。この年から翌年に「母性」シリーズを描く。また、裸婦が大きな関心を占めるようになる。「裸婦は芸術にとって欠くことのできない形態のひとつだ」という。
1886年、「浴女たち」の制作に着手し、珍しくおびただしいデッサンを描く。これまでの戸外制作からアトリエの制作を重視し始めた。ただ、このアングル風の方向は愛好家たちの戸惑いを誘い、デュラン=リュエルも反対した。同年の第8回目で最後の印象派展にも参加しなかった。
「ピサロとゴーギャンの二人にはいかなる形でも賛同できないこと、一瞬たりともアンデパンダンなるグループの一員とは見られたくないことはハッキリしています。その理由の第一は、私がサロンに出品しているということです」という。

そして、1890年4月、49歳でアリーヌと結婚式を挙げて、ピエールを認知した。このころから、ルノワールに対して好意的な批評が出始めたようだ。1892年、詩人のマラルメらの説得による美術学校の依頼で「ピアノの前の少女たち」を描いて、4000フランで購入された。生前の国家買い上げは、印象派の画家のなかではシスレーに次ぐ。
同年1892年5月、デュラン=リュエル画廊で、「桟敷席」「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」「舟遊びをする人々の昼食」「大きな浴女たち」など、122点を展示した大規模なルノワール展を開催し成功した。

1894年に親友ギュスターヴ・カイユボットが死去し、国家に寄贈するため60点以上の大量の印象派コレクションを残した。
当局はコレクションの展示を公約するのをためらって長い交渉となった。ルノワールは遺言執行人に指名され、しばらく悩まされたようだ。結局、1896年に40点が公開された。印象派は公然と受け入れられた。
ただ、この遺贈は予想もしない事件につながっている。カイユボットは、ルノワールにコレクションから1点選ぶよう遺言した。彼はドガのパステル画「ダンスのレッスン」をもらった。ところが、間もなくデュラン=リュエルに売った。ドガはルノワールを許さなかった。

1894年9月、アリーヌとの間に、次男ジャンが生まれた。後年、映画監督として名をはせた。ジャンの世話のためアリーヌの故郷エッソワから彼女のいとこのガブリエルが来た。16歳だった彼女は、お気に入りのモデルとなって20年間、ルノワール家にとどまることになる。

1895年、印象派のなかでもっとも親しくしていたベルト・モリゾが死去し、翌年1896年に母も死んだ。愛する女性たちの死にルノワールは、深い悲しみに沈んだ。
1897年、56歳の時、1885年ごろからたびたび滞在し、気に入っていたエッソワに住居を購入した。セーヌ河の支流ウルス河が流れる美しい村である。「パリの高くつくモデルから逃れて、シャンパーニュ地方の農民を描き、川辺で洗濯する女たちを描くため」でもあったそうだ。

しかし、ここで災難が襲った。近くのセルヴィーニの城まで自転車で散歩中、転倒して右腕を折った。この後遺症でリューマチの発作が起こり、死ぬまで苦しむことになった。
ルノワールはリューマチと闘いながら、実り豊かな晩年の画境に達していく。ただ、「手足がきかなくなった今になって、大作を描きたいと思うようになった。ヴェロネーゼ、彼の『カナの婚礼』のことばかり夢見ている! なんて惨めなんだ!」と記している。その心は悲壮であったようだ。

1911年、ルノワール70歳、リューマチで車椅子の生活を余儀なくされ、硬直した指は傷みをおさえるためにリンネルの包帯で保護した。描く時は筆を両手で握ったそうだ。
ところで、1914年に第一次世界大戦が勃発するが、長男と次男が応召し、9月に重傷の報を受ける。アリーヌは糖尿病だったが息子のもとに駆けつけ、体調を崩し、その後1915年6月、ニースの病院で死亡した。56歳だった。
1917年、76歳のルノワールは有名人で、多くの見舞客が訪れた。ただ、1917年9月、ドガの絵を売却した一件以来、絶交していたドガが死去した。ドガは狷介な孤高の人生だったといわれる。

その2年後、1919年、78歳のルノワールは8月、パリを訪れた。最後の旅だった。美術アカデミー院長のポール・レオンは、ルーヴルをルノワールひとりのために開館した。台車に乗せられ、ゆっくり見て回った。荘重なルーヴル訪問は、「絵画の法王」に対するオマージュ(崇敬)であったとされる。
その年1919年11月、急に発熱、12月3日、肺炎のため、息を引き取る。妻アリーヌとともに、エッソワの墓に眠る。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、110頁~119頁)

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活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)

唯一の職人階級出身画家ルノワール


先述したように、ルノワールは印象派グループのなかで唯一の職人階級出身画家である。そのことは、ルノワールの作風に大きな影響を与えたと木村氏はみている。
ルノワールは絵付けの仕事をしていた頃からルーヴル美術館に通い、特にルーベンスや18世紀のロココ絵画(フラゴナールやブーシェ)を研究していた。その後、グレールの画塾に入り、モネたちと親しくなって、印象派の運動に加わっていく。

ルノワールが描いたものは、人生の喜びであるといわれる。
都市の風俗や市民生活のワンシーン、少々の虚栄や娯楽の世界を楽しげに描いた。そこには人生の苦悩といったものは表現されない。マネやドガのようなパリジャン特有の冷めた視点もない。つまり、人生の悪いところは見たくないという姿勢である。

ところで、19世紀にはフランス社会が急速にブルジョワ化していく。そこでロマン主義の画家たちが17世紀のオランダの風俗画に注目したのを皮切りに、同じ17世紀オランダの風俗画や静物画への興味も増していく。風俗画のフェルメールが発見され、評価されたのもこの時代であった。フェルメールは17世紀の市民階級の日常生活を描いている。

それが19世紀のフランスのルノワールの手になると、どう変わるのか。
例えば、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』という作品がある。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 131×175㎝ オルセー美術館
ここには、庶民の遊び場であるダンスホールで日々の憂さを晴らすパリの庶民の姿が描かれている。
そこには当時のパリの庶民が抱えていたであろう苦労などは描かれておらず、ただただ人生の喜びそのものである。
(木村氏によれば、この作品の手前のテーブルの一群は別の場所で友人たちにモデルになってもらって描いたそうだ。後方でダンスをする人々が、ダンスホールのスケッチらしい。当時のダンスホールは退廃的な雰囲気が漂う場所であったので、ルノワールはあえてそうした暗い部分を避けたそうだ)

また、ルノワールには『ぶらんこ』という、フラゴナール(1732~1806年)と同じタイトルの作品がある。
〇ルノワール『ぶらんこ』1876年 92×73㎝ オルセー美術館
〇フラゴナール『ぶらんこ』1768年頃 81×64.5㎝ ロンドンのウォレス・コレクション

フラゴナールが貴族階級の戯れを描いたのに対し、ルノワールは市民階級をモデルに、それを描いている。フラゴナールの作品では、ぶらんこに示唆するところがあるが、ルノワールの作品では、ぶらんこは楽しくて幸せな時間の遊び道具にすぎないと木村氏は解釈している。

さて、ルノワールは、ほかの印象派の画家たちと違うのは、生活のために肖像画を描いた点であるといわれる。
このことは、ルノワールが職人階級出身であることと関わる。印象派のほかのメンバーは売れないうちからプライドだけは一人前であったので、家族や友人を描くことはあっても、収入のための肖像画はほとんど描いていない。それは当時、画家としては見下されることであった。親の援助で十分生活できたという事情もあった。
ルノワールは生活のために肖像画を描いたけれども、ルノワールは自らを“職人”と自負し、その注文を得ていく。

そのルノワールの肖像画として有名な作品に次のものがある。
〇ルノワール『シャルパンティエ夫人と子どもたち』1878年 154×190㎝ ニューヨークのメトロポリタン美術館

この肖像画がサロンに入選し、ルノワールはブルジョワ階級の人気肖像画家となっていく。ルノワールの甘い色彩、衣装を美しく描く技法は、新興ブルジョワジーの好みにぴったりであった。
この『シャルパンティエ夫人と子どもたち』でも、子どもたちは、とびきりかわいらしく描かれ、夫人ご自慢の東洋風のインテリアや宝石もしっかり描かれている。だからこそブルジョワに好まれた。
(ただ、少々俗っぽさを感じると木村氏は評している)
ルノワールは、客の好みに合わせて、画風を変えたりいて、できるだけ注文を取ろうとしたようだ。本当の貧しさを知っているルノワールは、再び貧しくなることを恐れていたらしい。
もっとも、職人を自負していても、芸術家の間では評価されることのなかった肖像画家の暮らしに嫌気がさしたり、形態があいまいになりがちな印象派の技法にも行き詰まりを感じたりした。色彩分割法は、人物を描くには限界があった。

そこでルノワールは、1881年から2年間にわたって、 アルジェリアからイタリアを旅し、ポンペイのフレスコ画やラファエロの人物像を研究する。そこからフランス古典主義の巨匠アングルの絵画に興味を抱き、その影響は帰国後の作品に表れる。
フォルムは明確になり、形態と色彩は簡素化され、写実的な人物像になってゆく。
1883年に描かれた、オルセー美術館にある次の作品が作例である。
〇ルノワール『町での踊り』1883年 オルセー美術館~女性モデルはユトリロの母である
〇ルノワール『田舎での踊り』1883年 オルセー美術館~女性モデルはのちのルノワールと結婚するアリーヌ・シャリゴである

ただし、数年後には、従来の色彩画家ルノワール独自の人物像に戻る。そして晩年は、裸婦像の制作に集中するようになり、円熟した豊満な女性を好んで描くようになる。また、花、特に薔薇と裸婦を結びつけた多くの作品を残している。
裸婦像に関しては、同じように豊満な女性のヌードを数多く描いたルーベンスからも影響を受けた。ただ、ルーベンスのモデルは神話のなかの登場人物や貴族階級の女性を歴史画のなかに置いたものであった。一方、ルノワールの場合は一貫して市井の女たちである。ルノワールにとっては、周りにいる現実的な女性たちこそ女神だったのであろう。
ルノワールは人生の喜びと、生命感あふれる大地のような市井の女性を描いた。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、275頁~279頁)

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名画の言い分 (ちくま文庫)

ルノワールとドガのタッチの違い


印象派の作品は日本でも抜群の人気を誇っている。
展覧会で必ず目に入る画家の名前が、マネ、モネ、ルノワール、ドガである。この4人は、印象派といえば誰もが思い浮かべる画家となっている。
特に日本で人気があるのがモネで、次いでポピュラーなのがルノワールらしい。この4人に、風景画家のピサロを加えると、印象派の基本メンバーはほぼ揃ったことになると西岡氏はみている。
(ゴーギャン、ゴッホ、ロートレック、セザンヌ、スーラは、日本ではピサロより有名だが、正確には、後期印象派に属している)
さて、西岡氏は、マネとモネ、およびドガ、ルノワールという印象派を代表する画家たちの画風の見分け方のコツについて述べている。

マネとモネの区別の仕方はこうである。
マネはモネよりも8歳年長で、たび重なるスキャンダルで近代絵画をひらいた画家として有名であるが、マネとモネの画風の最大の違いは明暗の処理にあるようだ。
マネの画面が極端な明暗の対比を見せている。それに対して、師フーダンの画風を脱した後のモネの画風は全体が明るく仕上げられている。
筆の運びは両者ともに軽快だが、マネは大胆でべったりしたタッチが目立つのに対して、モネは細かく色彩を置いていくタッチである。この差異はどこから生じるかといえば、マネの画面が、印象主義に先立つ写実主義の、事物の存在感をがっしりと描くタッチを見せているかららしい。一方、モネのタッチは色彩を細かく画面に散乱させる印象主義の手法を示している。

また、マネとモネは、描いた題材も違う。マネはクールなタッチで都市感覚にあふれた風俗画を描いた。対照的に、モネの画面にはリゾート感覚があふれている。
そして同じリゾート感覚でも、ルノワールとドガはまた異なる。ルノワールの作品では、描写のウェイトが人物に置かれている。一方、ドガの画面は、マネ風の都市感覚にパステル調の色彩や写真を思わせるドライな感覚が目立つ。

オルセー美術館所蔵である次の作品がそうである。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 オルセー美術館
風車(ムーラン)と菓子(ギャレット)を売り物に製粉業者が用いたダンス場を描く。
〇ドガ『カフェのテラスにいる女たち』1877年 オルセー美術館
 これは、カフェで客を待つ娼婦を描いた作品である。ドライでジャーナリスティックな描写が、家族連れでにぎわうルノワールの画面と対照的である。

そして、マネとモネの違いは、女性像にも端的に示されているようだ。マネの描く女性はクールで都会的である。一方、モネのそれはマイルドで家庭的である。
マネの問題作2点を見ても、このことがわかる。
〇マネ『草上の昼食』1863年 オルセー美術館
〇マネ『オランピア』1863年 オルセー美術館
『草上の昼食』では、スキャンダルを呼んだ裸婦が、見る者を見返す挑発的な視線を向けている。そこには都会人ならではの無関心が見えている。
同じクールさは、この作品に続いてスキャンダルを呼んだ『オランピア』の画中から見返す娼婦の視線にもある。

それに対して、モネの描く女性には、こうしたクールで挑発的な視線は皆無で、マイルドで家庭的な雰囲気が漂う。
親子連れを思わせる二人を描いても、マネとモネとでは異なる。例えば、次の2作品を比べても、わかる。
〇マネ『鉄道』1873年 ワシントン ナショナル・ギャラリー
〇モネ『庭のカミーユ・モネと子供』1875年 ボストン美術館
『鉄道』は、マネのタッチがひときわ冴える名品と評される。
クールな都市感覚が特徴的で、女性像のクールさゆえに女性と少女の間はどこか疎遠に見える。画中の女性の子供に見えても不思議はないはずの子供が、他人から預かったようにしか見えていない。つまりラフなタッチでシャープに描く人物には、どこかよそよそしい雰囲気がある。
一方、モネの作品は、家庭的な親密さと明るいリゾート感覚が特徴的である。細かく色を並べたタッチは、マネに比べるとはるかに軽やかで柔和である。

さて、ルノワールはどうであろうか。
ルノワールは、モネの1歳年下である。モネと共に印象派の歴史をひらいた画家である。
モネが、印象派に特有のタッチを誕生させたのは、1869年の夏のラ・グルヌイエールというリゾート地であった。この時モネとイーゼルを並べて制作したのが、ルノワールであった。

二人は共に、変幻自在の水面を描写する方法と工夫しているが、両者の画風の違いはすでに現れているそうだ。それは、1869年に描かれた、同じタイトルの次の作品である。
〇モネ『ラ・グルヌイエール』1869年 メトロポリタン美術館
 これはルノワールとキャンバスを並べて描いた作品である。印象派のタッチはこの習作から生まれたとされる。
〇ルノワール『ラ・グルヌイエール』1869年 ストックホルム国立美術館

モネの画風は、センシティヴなリゾート感覚にあふれている。それに対してルノワールの画面にはファッショナブルなデザイン感覚で満ちているという。つまり、同じ水浴場を描いても、モネの画面には刻々とうつろいゆく日差しのなかでくつろぐリゾート気分が描かれるのに対して、ルノワールの画面には、おのおのが好みのデザインで身を包んだ観光地のファッショナブルな楽しさが描かれる。
物理的にも、ルノワールの画面の方が女性の数が多く描かれる傾向があるようだ。
『ラ・グルヌイエール』においても、モネの作品では男性のダークスーツが目立つが、ルノワールの場合には女性の白い夏のドレスが目立っている。
(ルノワールはモネに比べると、人物の描写への関心が高い。この違いがルノワールのが目をモネよりファッショナブルにしているようだ)

ところで、ルノワールのタッチはモネと同じく印象主義的で、あざやかな色を細かく描き分けて画面に散乱させている。ただし、ルノワールのタッチは、モネより柔和で繊細で、女性的である。

この柔和なタッチはどこから来たのであろうか。
西岡氏によれば、ルノワールが少年時代に陶器の絵付けによって家計を支えていたことから生じたともいえるとする。
食べ物を盛る皿や茶碗の絵付けでは、見る者を不快にさせる過剰な色彩やタッチは絶対に許されない。こうした職業的な事情から少年時代に叩き込まれたサービス精神の豊かさが、ルノワールの作品の柔和な親しみやすさをかもしだしていると西岡氏は考えている。
そして画家自身の壮年期以降の苦闘もまた、このデザイン感覚の脱却を目指して繰り広げられているという。ルノワールの晩年の裸婦などは、豊満な女性の生命感を強調して描かれているが、それはルノワールの苦闘の偉大な成果でもあったとみる。例えば、オルセー美術館の次の作例を挙げている。
〇ルノワール『浴女たち』1919年 オルセー美術館
生命讃歌に満ちた晩年の作品で、色彩、タッチともに、見る人によって好みの分かれる作品ながら、一目でわかる独自の画風を確立している点で巨匠の名に恥じぬ作品であると西岡氏は評している。

ルノワールが名声を確立した頃の肖像画を見ると、繊細なタッチで、毛羽立ったような状態で人物の輪郭を周囲に溶け込ませているそうだ。
〇ルノワール『イレーヌ・カーン・ダンヴェール』1880年 ビュルレ・コレクション
この作品に見られる、ぼやけた輪郭こそが、ルノワールの真骨頂とされる。これにより、人物の肌は、まるでうぶ毛を目の当たりにするような生彩を帯びることになる。つまり、人物が周囲の空間と溶け合って、抜群の雰囲気描写の効果を発揮している。

モネが風景を得意としたのに対して、ルノワールは人物画を得意とした。初期から中期にかけては可憐な少女を描かせて比類がなく、晩年は豊満な裸婦を描いて独自の境地に到達している。
どれほど画中の女性が豊満であっても決して不健康に見えない点に、ルノワールのルノワールたるゆえんがあると西岡氏はみている。
健康的かつ祝祭的というのが、ルノワールの画面を特徴づける気風である。この気風を示す作品が、先述したように、オルセー美術館の次の作品である。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1876年 オルセー美術館
これはパリ風俗を描いた名品で、往時をしのばせる楽しげな雰囲気が漂っている。

このルノワールと正反対な雰囲気を描いているのがドガである。先述した次の作品がそうである。
〇ドガ『カフェのテラスにいる女たち』1877年 オルセー美術館
このドガの作品は、カフェや都市の雑踏を描いて、不健康ともいうべき倦怠をにじませている。
ドガはマネの2歳年下、モネよりも6歳年長の画家である。パステルで描いたバレリーナや競馬の画面でおなじみである。
手法的にはマネと同じく、印象主義というよりは、これに先立つ写実主義に属していると西岡氏は考えている。
現実の一コマを切り取ったようなドライな画風の持ち主であった。このことは、次の作品のあくびをする洗濯女を見てもわかる。
〇ドガ『アイロンをかける洗濯女』1886年 オルセー美術館
性格にもひややかなところがあり、ドガは他人を批判するのが趣味といわれたほどであった。意外なことに、印象派展の開催と継続に、いちばん熱意を燃やしたそうだ。
もっとも、ドガ自身は印象派と呼ばれることを嫌い、展覧会の名称も工夫して、何とか印象派のレッテルを貼られることを避けようとしていた。しかし結果としてはドガの情熱が印象派の名声の確立と継続を保証することになったことは皮肉である。

ドガの視線の特徴は、ドライなジャーナリスト的な感覚にあった。ルノワールの健康的で、楽しげな画面に比べれば、ドガの画面は不健康な倦怠とさびしさに満ちている。
そうしたドガの作風の典型を見せているのが、オルセー美術館の次の名作である。
〇ドガ『アブサン(カフェにて)』1875年頃 オルセー美術館
 疲れ果てた女と酒びたりの男を都会のかたすみに描いた作品である。
画題にあるアブサンとは、世紀末のパリに蔓延した麻薬に似た酔い心地のする強アルコールのリキュールである。

西岡氏はこのドガの『アブサン(カフェにて)』とルノワールの『桟敷席』を比べている。
〇ドガ『アブサン(カフェにて)』1875年頃 オルセー美術館
〇ルノワール『桟敷席』1874年 ロンドンのコートールド・インスティチュート・ギャラリー
 これは、ドガの先の作品と同時期に描かれ、オペラ座の桟敷席の着飾った男女が描かれている。男性の持つオペラ・グラスは他の席の女性をみるためにも活用されている。
両者の作品に共通しているのは、画中の男女の視線が向かい合っていないことであると西岡氏は指摘している。
ルノワールの画面では、着飾った女性は画中から見る者を得意気に見返し、後ろの男性は、連れの淑女よりは他の桟敷席の着飾った女性の物色に余念がない。事実、当時のオペラ座は楽曲の鑑賞以上に、客同士が容姿と装いを競う社交場であった。この二人の男女も、そうした場に典型的な浮かれ気分で楽しげに気が散っている。
ただ、視線はかわしていないものの、互いの間に冷たいものが流れるわけでもない。むしろ画面はユーモラスな気分をかもしだしていると西岡氏はみている)

ところが、ドガの画面では、男女二人の気持ちは完全にすれ違ってしまっている。
その構図を見ると、ドガ得意のジグザグ構図の奥に人物を配している。つまりテーブルの線が、手前から鋭く画面を往復し、男女はこのジグザグ線の行き止まりに閉じ込められている。
それはそのまま人生の袋小路に追い詰められた二人連れという印象に直結している。疲れ果てた表情で放心する女性は、娼婦であるようだ。隣であらぬ方を眺める男の視線は陰鬱である。

そして、ドガの画風について、西岡氏は次のように解説している。
手法的には、ドガはマネと同じ写実主義に属するが、この表面のかすれたようなドライ感は、マネとは一線を画している。無論、ルノワールの柔和なタッチからはほど遠い。このドライ感は、ドガがパステルを愛用して油彩と併用したばかりか、その独特のかすれたタッチを油絵の筆によって再現しようとしたことから生じているとみる。
ドガのカフェの雰囲気は、ルノワールの描くカフェの風景には、登場しないものである。たとえば、かすれてドライなタッチ、冷酷なまでに強調して描かれた人物の孤立感や疎外感がそうである。
ドガの画面は、絵画よりは、むしろ冷酷非情に現実を写し出す報道写真に近いと西岡氏は捉えている。

このように対照的な絵を描いたドガとルノワールであったが、二人の実生活はどうであったのだろうか?
画面とは裏腹に、うらぶれたカフェを描いたドガよりは、華やかな桟敷席を描いたルノワールの方がはるかに貧しかったようだ。
ルノワールは、画家としては売出し前でオペラ座などとは縁遠かった。だから、弟と知人にモデルを頼んで、想像でこの絵を描いている。一方、ドガの画面の人生に敗残したような二人連れも、ドガの友人の画家と女優をモデルに描かれている。
両者ともに、こうした現実を目の当たりにしながら育ったわけでは決してない。むしろ現実は逆である。ルノワールは少年時代から働いて家計を支えていた。それに対して、ドガは裕福な銀行家の家庭に生まれている。
両者とも、自分が絵画に描きたい情景として、あえてこの場面を選んだようだ。ここに両者の絵画というものに対する基本的な姿勢の違いが表れている。
ルノワールは、あくまでファッショナブルなデザイン感覚を持った、サービス精神の人である。それに対して、ドガはドライなジャーナリスト感覚を持った、都市観察者だった。

以上、マネ、モネ、ルノワール、ドガといった印象派を代表する画家の画風について、西岡氏の解説を紹介してみた。なお、ロートレック、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、スーラといった画家たちは、後期印象派と西岡氏は理解している。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、24頁~40頁、95頁)

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二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方

小林秀雄のルノワール論


小林秀雄は『近代絵画』(新潮社、1958年)において、興味深いルノワール論を展開している。いくつかの論点を紹介してみたい。

小林秀雄はルノワールと他の印象派の画家とを比較して、次のようなことを記している。
ルノワールには、モネのように、主張すべき主義も、固執する理論もなかった。ルノワールは感ずるままに、思うままに、楽しんで描いた。描く喜びは、ルノワールには絶対的なものであったろうが、セザンヌのように、絵の仕事が絶対の探究という風に意識されたことはなく、セザンヌの殉教者めいた趣は全く見られない。
またゴーガンを悩ました文明の悪も、敵視すべき世間もルノワールにはなかった。ルノワールは誰とも衝突なぞしなかった。そしてゴッホを悩ました、人生にいかに生くべきかという問題さえ、ルノワールを見舞ったとは思えないと小林はみている。

ルノワールにとって生きて行く事は、絵を描いて行く事であり、絵を描いて行く事は、一切を解決して行く事であったようだ。ルノワールの生活は、沈着、平静な、勤勉な画家の生活であり、異状なものも、劇的なものも少しもない。ルノワールの絵もまた、その独創性は、見紛うべくもないのだが、その直接な魅力は、驚くほど当たり前な性質のものであった。

ところで、ルノワールの書簡は、モーツァルトの書簡のように、ルノワールの芸術について何事も語っていないそうだ。小林は、ルノワールの評論を色々読んでみたが、ヴォラールのルノワールに関する想い出話が一番面白かったと明記している。

≪補注 ヴォラールについて≫
ここで登場するヴォラール(1866~1939)は、法学部での勉学を捨てて、名もない画商の店で商売の初歩を学び、やがてパリの絵画市場の中心、ラフィット街で画廊を構えるようになった人物をさす。当時まったく無名であったゴーギャンやゴッホの作品を売るかたわら、1895年に最初のセザンヌ展を催して業界にデビューした。ルノワールにまつわるヴォラールの文章は、慎重な扱いを要するにせよ、画家に関するわれわれの知識の源として、なによりも貴重な資料であることに変わりはないと、ディステル氏も評している。
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年、119頁~120頁)

そのヴォラールは、ゴッホに関するルノワールの言葉を伝えている。
「画家と言われるには、腕の達者な職人では足りない。絵というものは、絵かきは、好んで自分の絵の機嫌をとっているという事がわかる様でないといけない。ヴァン・ゴッホに欠けていたのは、そういう処です。彼の絵をすばらしいと人が言うのを耳にするが、彼の絵は、恋しい人を愛撫する様な工合に、絵筆で可愛がられてはいません……それに、彼には、エキゾティックな面がある」

ゴッホには、異常な絵を描こうというような企図は少しもなかったが、彼の画業は期せずして異常な告白となった。ゴッホの絵は、常に見るものを、画家の苦しい制作のモチフに誘わずにはおかなかった。ゴッホの絵は自足しておらず、自分の絵を愛撫することができなかった。何を描いても描き足りぬ焦燥感が残ったようだ。
一方、ルノワールの絵についての考えの中には、告白としての絵というものは、はいってくる余地はない。それが「絵かきは、人に見てもらうために絵を描く」というルノワールの言葉の真意であろうと小林は推測している。

また、ルノワールはゴヤについて語っている。
ゴヤの「カルロス4世の家族」(1800~1801年、プラド美術館)1枚を見るために、マドリッドまで旅行する価値はあるとルノワールは言っている。
「王様は豚売りみたいだし、女王様ときたら、今、居酒屋から出て来たといった様子だ、そんな事しか、何故世間は言わないんだろう。あんなダイヤモンドは、ゴヤ以外の誰にも描けやしない。あの小さな繻子の靴の見事さはどうだ」
と評している。

小林秀雄は続けて述べている。
ゴヤの残酷な才能は、王様の顔を豚売りの顔にしたにとまらない。この「カルロス4世の家族」という絵のある部屋には、有名な大作「5月3日の虐殺」(1814年、プラド美術館)もかかっている。ゴヤは、モラリストとして、こんな絵を描いたのではないと小林は考えている。
(我々がこの凄惨な画面から眼が離されないのは、このメチエを極めた大画家の筆が、自分の画面を愛撫しているからであろうとみている)

ところで、ルノワールは、この種のゴヤの作品については、一言も語っていないそうだ。この沈黙は、ルノワールの人柄を、一層よくあらわしていると小林は推察している。
ルノワールは、「絵は愛すべき、見て楽しい、きれいなものでなければならぬ」という信念をもっていた。
小林も、ルノワールという画家について、次のように考えている。
「彼はほとんど人間ばかりを扱った画家だが、悲しげな人間も人間生活の不幸や絶望や、懐疑について、あれほど芸術家達が敏感だった世紀に生れて、彼の様に楽しい人生ばかりを描いた芸術家はない。恐らく彼は、絵について面倒な事を考えるのを好まず、ただ絵を描く事が楽しく、絵を描き出した。彼はそういう気質の人であった」

ルノワールは「楽しい人生ばかりを描いた芸術家」であった。ゴヤの「5月3日の虐殺」(「マドリード、1808年5月3日」)という凄惨な絵などについては、沈黙を通したのも、ルノワールの人柄を如実に物語るエピソードである。

ところで、ルノワールには、アングル風の時代があったといわれる。
この点については、アンヌ・ディステルも次のように言及している。
「ルノワールのアングル風の時代、または変調(エーグル)の時代と呼ばれた時期は、1887年に大作『浴女たち』の発表で頂点に達する。その動きはすでに、印象派の画家たちがみな技法の刷新を模索していた80年代初めからはじまっていた。以来ルノワールの画風は深い変化を遂げていく。イタリア滞在はそれを確実なものにしたにすぎなかった」
(アンヌ・ディステル(柴田都志子、田辺希久子訳)『ルノワール――生命の讃歌』(創元社、1996年、96頁)
【アンヌ・ディステル『ルノワール』創元社はこちらから】

ルノワール:生命の讃歌 (「知の再発見」双書)

このルノワールのアングル風の時代、または変調(エーグル)の時代とは何を意味しているのだろうか。この点、小林秀雄も言及している。
まず、ヴォラールはルノワールにとっては珍しい告白を伝えている。
「1883年頃、私の作に、割れ目のようなものが出来た。私は、アンプレッショニスムの果てまで歩いてみて、このままでは、もう絵も描けないし、デッサンも出来ないようになる事を確かめた。一と口で言えば、袋小路にはいってしまったのである」
評家たちは、この時期を、ルノワールの「アングル風の時期(ママ)」あるいは「酸っぱく描く時期」と呼んでいる。

この点について、小林秀雄は解説している。
酸っぱく描くというのは、ルノワール自身の言葉“manière aigre”を直訳したという。実は、どう訳していいか困る言葉であるそうだ。aigre(酸っぱい)という言葉は、doux(甘い)という言葉の反意語であるから、味覚による連想からいろいろな意味が生じてくる。一般に温かみや柔らかみのない意味から、人間で言えば、不愉快な人間、声で言えば甲走った声、色で言えば、うつりの悪い配合を言うという工合になると説明している。すべてそのような風の意味で、ルノワールはaigreと表現したとする。

「アンプレッショニスムの果てまで歩いた」というより、今までの“manière douce”
(甘い描き方)は、どうしても変えねばならなくなったと言った方がよかったであろうと小林秀雄は述べている。
ルノワールが“aigre”とでも言うより他はない一種の手法が生まれてきた。この期の代表作は有名な「浴女」である。これは属目の風俗が直ちに絵になったような従来のルノワールの行き方とは全く異なる。デッサンや習作の準備を経て、森と泉とのうちに壁画風に構成されたニンフの群れである。ルノワールは、ヴォラールに次のように言ったとされる。
「『浴女』は、私の傑作だと思っている。何しろ三年の間、手探りしたり、やり直しをしたりしていたんだからね。(中略)私が怠けていると言った者さえいた。私が、どれほど汗水垂らして働いていたかは、神様だけが御存じだよ」
このルノワールの言葉に対して、小林秀雄は、「エーグルなやり方」の意味は、神様だけが御存じなのであるという。
そして、「ニンフの肢体には、はっきりした輪郭がつき、肌は光らず、艶が消えている。なるほど、エーグルなやり方であるが、その本当の意味は、彼の汗水垂らした労働のうちにしかない」と続けている。

「アングル風の時期」という言葉が生まれたのは、この「浴女」という絵からだといわれる。
「エーグルな描き方」という言葉は、ともかくも、ルノワール自身の言葉であるが、「アングル風」という言葉は、この絵が、アングルの「トルコ風呂」を連想させたというところから出たようだ。
ただ、ルノワールとアングルでは、あまりにも違いすぎると小林秀雄はコメントしている。アングルの女体は、ヴァレリーが巧みに形容したように、何か爬虫類めいたものを思わせ、二人の肉感性の質は違いすぎるという。「アングル風の時期」とは、ルノワールの制作のこの時期を言う評家の便宜上の符牒を出ないと付言している。
(小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年、135頁~162頁)

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