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東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考 その5 高階秀爾氏の著作紹介》

2019-11-27 17:29:40 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その5 高階秀爾氏の著作紹介》 

 

【はじめに】


このブログの「ミロのヴィーナス」考シリーズの冒頭にも記したように、西洋美術史の大家である高階秀爾氏の著作『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?――ギリシャ・ローマの神話と美術――』(小学館、2014年)は、現在、「ミロのヴィーナス」について書かれた、最も入手しやすい美術書である。


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 今回のブログからは、数回に分けて、冒頭で述べた著者、高階秀爾氏、ハヴロック氏、ケネス・クラーク氏、若桑みどり氏、中村るい氏の著作内容について、紹介してゆきたいと思う。各氏が、「ミロのヴィーナス」ないしヴィーナス像について、どのようなアプローチで美術史に位置づけようとしているのかについて、理解してみたい。
 
 まず最初に、今回は高階氏の著作を紹介するが、この著作の特徴は、何といっても、本のタイトルに著者の意図が明確に打ち出されているように、「ミロのヴィーナス」はなぜ傑作か?という問題に、真正面から取り組んでいる点にある。すなわち、古代ギリシャ人の考えた「美」の条件を提示して、そこから「ミロのヴィーナス」の美しさについて考えている点が、この著作の長所である。
 そして、ギリシャ・ローマ神話に登場する“ヴィーナス的なる女神”(ヘラ、アテナ、レダ、ディアナなど)が、ヨーロッパ絵画において、具体的にどのように描かれてきたのかについて、神話内容に触れながら、解説している。
 今回のブログでは、先に高階氏が挙げた「美」の条件の一つであるコントラポストに焦点をあてて、その著作内容を紹介しておきたい(以下、敬称省略)。



 今回のブログの執筆項目は、次のようになる。
◆ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?――古代ギリシャの「美」の条件
◆コントラポストのポーズのヴィーナス絵画
 ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」
 ・アテナ(ミネルヴァ)の場合
 ・レダの場合
 ・ディアナの場合
 ・アンドロメダの場合




【ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?】



<古代ギリシャの「美」の第1条件>

 
愛と美の女神として思い浮かぶヴィーナスは、ギリシアの女神アフロディテのラテン語名を英語読みしたものである。ルーヴル美術館が誇る名作「ミロのヴィーナス」(前2世紀末、大理石、高さ202cm)も、それが制作された当初は「アフロディテ」と呼ばれていたはずである。
ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?という問いに対して、高階は次のように答えている。
まず、そのポーズに注目している。身体を大きくひねった、一見、不安定な姿でありながら、全体としては非常に安定したポーズである。これは、腰を起点として上半身をひねることで生じる重心の偏りを、右脚で支えることによってバランスをとっている。このため、身体の正中線(身体の中心を通る線)はS字型に湾曲するが、重心線(身体の重心の位置)は、垂直に保たれることになり、安定感が得られるのだそうだ。
このようなポーズを古代ギリシャ人は、紀元前5世紀頃に見出した。この「部分と全体の調和のとれた比例関係」は、古代ギリシャ以前のメソポタミアや古代エジプトの彫刻と比較することにより、明らかになるという。
古代メソポタミアや古代エジプトにおいて、紀元前3000年~1000年頃につくられた王の立像(ルーヴル美術館蔵)などは、正面を向き垂直に立ち、正中線が垂直で全く動きを感じさせない。さらに、全体が単一で、身体の各部分、あるいは部分と全体に本質的な区別がなく、いわば一体化されている。

それに対して、「ミロのヴィーナス」では、頭部、上半身、腰、両脚がそれぞれ別々の部分として明確に区別されているにもかかわらず、全体としては統一が保たれている。この「部分と全体の調和」こそが、古代ギリシャ人が考えた「美」の第一の条件であると高階は考えている。そして、その「調和」を生み出しているのが、身体各部分の間に設けられた「比例関係」である。今日でも「八頭身美人」というような表現が用いられるが、この身体の各部分を比例関係によって結びつけたのが、古代ギリシャ人だった。人体の各部分を統合するこの比例関係は「カノン(規範)」と呼ばれる。
紀元前5世紀頃に古代ギリシャの彫刻家ポリュクレイトスによって「1対7」(すなわち七頭身)のカノンが生み出された(前430年頃のオリジナルに基づきローマ時代に模刻された「傷つけるアマゾン」という大理石の彫刻。高さ202cm、カピトリーノ美術館[ローマ])。
そして紀元前4世紀頃には、「1対8」(すなわち八頭身)のカノンへと洗練され、それが今日でも「美しい身体」を表す基準となっている。

<古代ギリシャの「美」の第2条件>

 
古代メソポタミアおよびエジプトの彫刻と「ミロのヴィーナス」を比較した際に大きな違いは、「動き」がともなうか否かにある。「ミロのヴィーナス」では、身体の重心が右脚によって支えられているために、左脚は自由に動かすことができる。そのため左脚を大きく前に踏み出すことができ、それが身体のねじれと呼応して、生き生きとした動勢を生み出している。この「動き」の導入が、古代ギリシャ人が考えた「美」の第二条件であるという。
つまり、S字型にひねった身体と重心を支える「支脚」、自由に動かせる「遊脚」によって生み出された、安定していながら動勢を感じさせるこのポーズは、「コントラポスト」と呼ばれる。そしてこの後、ヨーロッパの彫刻および絵画における人体表現の基本となる。
例えば、ボッティチェリ(1444/45~1510)の描いた「ヴィーナスの誕生」(1483~85年頃、ウフィツィ美術館[フィレンツェ])のヴィーナスは、「カピトリーノのヴィーナス」(前330~前225年頃のオリジナルに基づくローマ時代の模刻、大理石、高さ193cm、カピトリーノ美術館[ローマ])のような作例に基づく。そして盛期イタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロ(1475~1564)の「ダヴィデ」(1501~04年、大理石、高さ410cm、アカデミア美術館[フィレンツェ])、同時代のドイツで活躍したエーアハルト(1460年頃~1540年?)の「マグダラのマリア」(1510年、木、高さ177cm、ルーヴル美術館)などの彫刻も、この「コントラポスト」に具現された人体に対する美意識である。

<古代ギリシャの「美」の第3条件>

 
古代ギリシャ人が考えた「美」の第三の条件は、「衣装表現」であるという。古代ギリシャ彫刻の女性像に見られる衣装の表現は写実的である。
一般的なイメージとは異なり、古代ギリシャにおいて裸体表現がつくられたのは、もっぱら男性像であり、女性の裸体像が初めてつくられたのは紀元前4世紀頃のことで、それまで女性像はすべて着衣像であった。

この点について、ケネス・クラークも言及している。すなわち、ギリシャに紀元前6世紀の作とされる女性裸体像はなく、紀元前5世紀にもなおきわめて稀であるという。この時期に少なかったのは、宗教的理由とともに社会的理由があったことを指摘している。
アポロンのはだかは彼の神性の一部をなしていたのに対し、アフロディテは衣をまとっていなければならぬとする古い儀式の伝統と禁忌(タプー)が明らかに存在していたからとする。アフロディテが海から生まれたとか、キプロス島から到来したという伝承には、真実が含まれており、はだかのヴィーナスとは東方的な概念であって、初めてギリシャ美術に現われた際、アフロディテは自分の出生を明示する形状をとっていたようだ。
プラクシテレスのモデルだったとされるフリュネーが聖職者側の不満の対象となったのも、道徳的な理由というよりは、彼女の肉体美が異端への誘引となると思われたためであるという。
ヴィーナスの美しさは露わにすべきものではないという旧い儀式的感情は、紀元前4世紀にもかなり持続しており、コス島の人びとが着衣のヴィーナスを好んで、プラクシテレスの裸体のヴィーナスを受け容れなかったという事情の背後には、この感情が働いていたとケネス・クラークは推測している。
また社会的にみても、古代ギリシャ人の女性たちは強い拘束があり、頭から足まで重々しく衣をまとって歩き、家事だけにいそしむのが慣わしとなっていた(ただしスパルタの女性たちだけは例外であった)(ケネス・クラーク、1971年[1980年版]、100頁~101頁、110頁~111頁)。

そのため、女性の身体を表現するために用いられたのが、水に濡れたり風に吹かれたりして身体に張り付いた衣装が生み出す線の美しさであった。
「ルドヴィシの玉座」正面の「ヴィーナスの誕生」(紀元前460年頃、大理石、高さ104cm、
  国立博物館[ローマ])
「サンダルの紐を解くニケ」(紀元前410年頃、大理石、高さ140cm、アクロポリス博物館[アテネ])
などに見られるような、身体にぴったりと張り付いた衣裳の線によって身体のふくらみを表す彫刻がつくられた。
(フランス人は薄くて身体にぴったりついた着物を「濡れた衣」(draperie mouillée)と表現した[ケネス・クラーク、1971年[1980年版]、104頁]。英語では「ウェット・ドレーパリー(wet drapery)」という[中村、2017年[2018年版]、186頁~187頁])。

その中でもっとも優れた作品が、ルーヴル美術館の三大至宝の一つ「サモトラケのニケ」(紀元前190年頃、大理石、像高245cm)である。勝利の女神の身体が、そのゆるやかなコントラポストと相まって、風に吹かれる衣装の線の美しさによって見事に表現されている。
一方、「ミロのヴィーナス」を見てみると、上半身では裸体の美しさを、下半身では衣装の美しさを表すことによって「写実的な理想主義」が見事に実現されていると高階は解説している。

<古代ギリシャの「美」の3条件と「ミロのヴィーナス」>


以上、古代ギリシャ人が考えた「美」の条件として、3つを高階は挙げている。すなわち、
① 部分と全体の調和のとれた比例関係
② 「動き」の導入、コントラポスト(安定していながら、動勢を感じさせるポーズ)
③ 衣装表現の美しさ――写実的理想主義
もう一度、なぜ「ミロのヴィーナス」は「傑作」なのかという問いに立ち戻ってみる。この「ミロのヴィーナス」という彫刻が、これらの「美」の3つの条件を満たしているからなのか。確かにそうだが、より正確に言うと、その答えは、むしろ逆で、「ミロのヴィーナス」に代表されるような作品こそがヨーロッパ美術における造形表現の基本となっているからと答えている。つまり、このような彫刻こそが「美」の3条件を具現するものとして、その後のヨーロッパ美術を生み出す源泉となってきたというのである。

さらに続けて高階は付言している。ヨーロッパ美術において、ひとつの作品が美しいかどうか、傑作であるかどうかは、「ミロのヴィーナス」のような彫刻を基準としてはかられるとする。その意味で「ミロのヴィーナス」は、それ自体が、「傑作」であるというだけではなく、ヨーロッパ美術の歴史における数多くの傑作の源となっている一群の作品の、いわば「代名詞」なのであるというのである(高階秀爾『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?――ギリシャ・ローマの神話と美術――』小学館、2014年、3頁~34頁)。

私流に言いかえると、「ミロのヴィーナス」(1820年に発見されたが、紀元前100年頃に遡れる作品)は、それ自体作品として、古代ギリシャ人の「美」の3条件を満たし「傑作」であるのみならず、“ミロのヴィーナス的なるもの”(紀元前5世紀から紀元前2世紀に作られた「美」の基準)が、ヨーロッパ美術史の「傑作」を生み出し、その源泉となったということか。

<高階の著作の概要>


このあと、高階は、第2章から第10章にかけて、ヨーロッパ美術史において、ヴィーナス的なる女神、すなわち、ヘラ、アテナ、レダ、ディアナ、ガラテイア、フローラ、ダナエをテーマとして、個々の作品をギリシャ・ローマ神話に基づいて、解説してゆく。
ここでは、コントラポストに焦点をあてて、内容を紹介しておきたい。

<ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」について>


前述したように、初期イタリア・ルネサンスの巨匠ボッティチェリは、「ヴィーナスの誕生」において、そのヴィーナスをコントラポストで立たせている。そして「カピトリーノのヴィーナス」という紀元前4世紀にまで遡れる古代ギリシャの彫像の「恥じらいのヴィーナス」というポーズをとらせている。
ギリシャ神話によれば、クロノスが、寝込んでいたウラノスの生殖器を大鎌で切り取り、地中海に投げ捨てた時、海に白い泡が立ち、その泡の中から産まれたのが、「天上のヴィーナス(アフロディテ)」と呼ばれるヴィーナスである。
ボッティチェリの絵では、泡から産まれたヴィーナスが大きな貝殻に乗って、岸辺に流れ着いた場面が描かれている。画面左には、花のニンフ(精霊)クロリスを抱いた西風の神ゼフュロスがいて、風を送っている。ヨーロッパでは、西風は春の訪れを意味し、ヴィーナスのアトリビュート(持物)で愛の象徴である薔薇の花が舞っている。

ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は、ルネサンス期において、ヴィーナスを裸体で肯定的に描いた絵画として早い作品であるが、この前例のない女神の図像化をどのように実現したのだろうか。
この問いに対して、次のような説を高階秀爾は紹介している。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの師ヴェロッキオ(1435~1488)や、イタリア・ルネサンスの先駆者である彫刻家ギベルティ(1378/81頃~1455)による「キリストの洗礼」を主題とした宗教美術をモデルにしたという。
すなわち、ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(1472~75年頃、177×152cmのウフィツィ美術館[フィレンツェ])という作品では、中央に裸身のイエスが立ち、画面右にイエスの頭上に手を差し伸べる洗礼者ヨハネ、左に衣装を持って待つ2人の天使(レオナルドが描いたとされる)が配置されている。この人物配置の構図が「ヴィーナスの誕生」に応用されたようだ。

<受け継がれたコントラポスト>


イタリア・ルネサンスの巨匠ボッティチェリが描いたヴィーナスのコントラポストというポーズは、その後の図像にも受け継がれた。例えば、ルネサンス後期のヴェネツィア派の画家ティツィアーノ(1488/89~1576)の「海から上がるヴィーナス」(1520年頃、75.8×57.6cm、スコットランド国立美術館[エディンバラ])においては、海の泡から産まれたヴィーナスが地上に降り立ったところで、濡れた髪の毛をしぼっている場面を描いている。
同じ場面は、テオドール・シャセリオー(1819~56)の「水から上がるヴィーナス」(1838年、65.5×55cm、ルーヴル美術館[パリ])、ウィリアム・ブグロー(1825~1905)の「ヴィーナスの誕生」(1879年頃、300×125cm、オルセー美術館[パリ])がある。

<アテナ(ミネルヴァ)の場合>


ヴィーナス以外の女神も、このコントラポストというポーズをとっている。例えば、16世紀フランドル(現在のベルギー)のマニエリスムの画家スプランヘル(1546~1611)の「ミネルヴァの勝利」(1591年頃、163×117cm、美術史美術館[ウィーン])がある。
ロバの耳をもった「無知」を踏みつける知恵の女神としてのアテナ(ミネルヴァ)は、マニエリスム特有の長く引き延ばされた身体で、ゆるやかなコントラポストのポーズをとっている。アテナは、ゼウスと彼の最初の妻で知恵の女神メティスとの間に産まれた、知恵・技芸・武芸の女神であり、武具がアトリビュート(持物)である。アテナは、「パリスの審判」において、トロヤの王子パリスの前で、女王神ヘラや美の女神ヴィーナスとともに美しさを競ったり、機織り女アラクネと腕比べを行ない、蜘蛛に変えたりした。

<レダの場合>


その他にも、ギリシャ神話の主神ゼウスが恋したスパルタ王の妃レダも、このコントラポストのポーズをとっている。ゼウスは、白鳥に変身してレダに近づき、結ばれる。レダが産んだ卵から女の子の双子と男の子の双子が産まれた。
レオナルド・ダ・ヴィンチの素描「レダと白鳥のための習作」(1503~04年、黒チョーク、160×139cm、チャッツ・ワース・ハウス [イギリスのデヴォンシャー・コレクション])や、レオナルド工房の画家「レオナルド・ダ・ヴィンチの≪レダと白鳥≫模写」(1508~15年、130×77.5cm、ウフィツィ美術館[フィレンツェ])がある。これらの絵画では、コントラポストのポーズをとったレダの足元に、孵ったばかりの2つの卵と4人の赤ん坊が描かれている。
またレオナルドの素描を見て、ラファエロが描いた素描「レオナルド・ダ・ヴィンチの≪レダと白鳥≫模写」(1505年頃、31×19cm、王室図書館[イギリスのウィンザー城])では、簡潔な線によって見事な女性像が描き出されている。

<ディアナの場合>


また、ディアナ(アルテミス、ダイアナ)は、主神ゼウスとティターン族の女神レート―の間に産まれた狩猟・純潔・月の女神であるが、その歩く姿にはコントラポストが用いられた。例えば、フォンテーヌブロー派の画家による「狩りをするディアナ」(1550~60年頃、192×132cm、ルーヴル美術館[パリ])がそうである。狩りの女神を示す弓矢と矢筒を携え猟犬を連れ、森の中を歩くディアナが描かれている。頭には月の女神であることを示す三日月の飾りが見える。

実はこのディアナは、フランス国王フランソワ1世とその子アンリ2世2代にわたる寵姫(ちょうき)で、女神と同じ名前をもった女性ディアンヌ・ド・ポワティエをモデルとして描かせた。いわば「見立て絵」(古典的な題材を当世風の人物によって描いた絵)となっている。切れ長の目など女神の顔貌表現に寵姫の特徴がよく描写されているといわれる。
フランソワ1世は、自国の美術を発展させ、「第二のローマ」とするために、イタリアから優れた美術家をパリ郊外フォンテーヌブローの森の宮殿に招聘し、フランス人美術家とともに共同制作させた。その美術家集団の名称がフォンテーヌブロー派である。
盛期ルネサンスの巨匠ミケランジェロやラファエロの「マニエラ(様式)」を洗練・発展させた優雅なマニエリスムに基づく宮廷美術で、長く引き延ばされた人体表現や曲線の多様を特徴とする。この作品でも、ディアナの身体は10等身に引き延ばされたカノン(規範)で描かれている。

コントラポストで立つディアナを描いたものとしては、フランス古典主義の祖であるプッサン(1594~1665)による「ディアナとエンデュミオン」(1630年頃、121.9×168.9cm、デトロイト美術館[アメリカ])がある。
純潔の女神ディアナも、羊飼いの美青年エンデュミオンに一目惚れしたことがあった(本来、この物語はギリシャ神話の月の女神セレネにまつわるものだったが、のちにセレネが月の女神としてのディアナと同一視されるようになり、ディアナの恋物語と変わったようだ)。
人間のエンデュミオンが年をとることを憐み、その美貌を永遠のものとするために、女神は彼を不老不死にしてくれるように、主神ゼウスに頼む。願いを聞き入れた主神ゼウスは、
エンデュミオンを永遠の眠りにつかせることで、彼が老いないようにした。そのためディアナは夜ごと彼のもとを訪れ、そばに寄り添い抱きしめたという。

プッサンの絵では、猟犬を連れ、矢を持ち三日月の飾りを付け、コントラポストでディアナは立っており、その肩には愛の神キューピッドがいる。背景では太陽神アポロンが馬車に乗って今まさに登場したところで、画面右手では「夜」の神が文字通り夜のとばりをあけていく。夜明けとともに立ち去る月の女神とエンデュミオンの別れの切ない瞬間が描かれている。

コントラポストのポーズではないが、このディアナを描いた美しい絵画がルーヴル美術館にある。18世紀ロココの画家ブーシェ(1703~70)の「ディアナの水浴」(1742年、56×73cm、ルーヴル美術館[パリ])がそれである。
狩りの後で休息する女神の姿を描いている。三日月の飾りを頭に付けたディアナがニンフにかしずかれ、水浴する場面である。弓と矢筒は、狩りの成果である獲物とともに脇に置かれ、猟犬も画面の端で水を飲んでいる。本作のディアナとニンフは、より現世的肉体をもって描かれ、官能的である。


※ブーシェの≪ディアナの水浴≫(ルーヴル美術館) 2004年5月筆者撮影




<アンドロメダの場合>


ところで、青銅の塔に幽閉されたダナエのもとに、主神ゼウスは黄金の雨に変身して近づき、結ばれた。そしてダナエはペルセウスを産む。二人はキクラデス諸島のセリフォス島に漂着するが、その島の領主がダナエに恋して、ペルセウスを遠ざけるため、メデューサ討伐を命じる。ペルセウスは、知恵と戦いの女神アテナたちの協力により、討伐に成功し、故郷に帰る途中、生け贄として岩に縛りつけられていたエチオピアの王女アンドロメダを怪物退治して救出する。
こうしたペルセウスの怪物退治は古くから人気の高いテーマで、古代ギリシャの壺絵にも「アンドロメダを救うペルセウス」(紀元前6世紀頃、コリント式、瓶、ベルリン旧博物館)がある。岩に縛りつけられたアンドロメダは、ヴィーナスの絵と同様、最初は着衣で描かれていた。
しかし、ルネサンス以降は裸体で描かれるようになり、さらにアンドロメダの肢体は、身体をひねった大きなコントラポストのS字型で描かれるようになる。
例えば、ヨアヒム・ウテワール(1566~1638)の「アンドロメダを救うペルセウス」(1611年、180×150cm、ルーヴル美術館[パリ])や、ドラクロワ(1798~1863)の「ペルセウスとアンドロメダ」(1853年、43.7×34.5cm、州立美術館[ドイツのシュトゥットガルト)がそれである。ドラマチックな物語と美しい裸体を描くのに、これほど適した場面はなかったからである(高階秀爾『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?――ギリシャ・ローマの神話と美術――』小学館、2014年、36頁~43頁、94頁~95頁、108頁~109頁、116頁~118頁、140頁~146頁、200頁~210頁)。

<高階秀爾の著作のまとめ>


以上、高階秀爾の著作内容を紹介してきた。
第1章では、美術における「傑作」とは何か、「傑作」を成り立たせている条件ははどういうものかについて考察していた。
そこでは、古代ギリシャ人が考えた「美」の3つの条件を提示している。すなわち、

  • 部分と全体の調和のとれた比例関係

  •   紀元前5世紀頃に彫刻家ポリュクレイトスにとって七頭身の比例関係「カノン(規範)」が確立され、これが紀元前4世紀頃には、八頭身のカノンへと洗練された(それが今日でも「美しい身体」を表す基準となっている。

  • 「動き」の導入がみられ、コントラポスト(安定していながら、動勢を感じさせるポーズ)が生み出された

  •   S字型にひねった身体と重心を支える「支脚」、自由に動かせる「遊脚」によって、
    コントラポストというポーズが生まれた。その後、ヨーロッパの彫刻および絵画における人体表現の基本となって、今日まで受け継がれていく

  • 衣装表現が美しく、写実的理想主義が実現されている


  • 「ミロのヴィーナス」はこれらの「美」の3つの条件を満たしている。同時に、「ミロのヴィーナス」に代表される作品が、「美」の3条件を具現するものとして、その後のヨーロッパ美術を生み出す源泉となってきた。

    続いて、第2章以下では、ギリシャ神話に登場する神々の物語を多くの具体的作例とともに解説している。
    このブログでは、古代ギリシャの「美」の3条件の一つであるコントラポストに焦点をあてて、ボッティチェリのヴィーナス、アテナ、レダ、ディアナ、アンドロメダを主題とする作品を紹介してみた。

    <高階秀爾の「ミロのヴィーナス」論の特徴について>


    高階秀爾の「ミロのヴィーナス」論の特徴について、箇条書きにして、まとめておこう。
    ・古代ギリシャ人の「美」の3条件を提示している(16頁~34頁)
    ・古代ギリシャのヴィーナス像は、男性の神像と異なり、最初は着衣像だったが、紀元前4世紀頃、初めて女神の裸体像がつくられた(30頁)
    ・「カピトリーノのヴィーナス」は取り上げられているが、「クニドスのヴィーナス」には言及していない
    ・ヴィーナスのみならず、ギリシャ神話の女神たち(主に西洋絵画)を、幅広く包括的に解説している(35頁~217頁)

    <批判点>
    ・「ミロのヴィーナス」の源流を辿るという視点はなく、時代背景、歴史状況に対しては、とりたてて考察が及んでいない
    ・古代ギリシャ彫刻史の中で、「ミロのヴィーナス」がどのような位置づけなのか、分かりにくい
    これらの批判点は、次に紹介するハヴロックの著作を読めば、ある程度、解決されるであろう。

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    《「ミロのヴィーナス」考―その4 制作年代にまつわるエピソード》

    2019-11-24 14:54:53 | 西洋美術史
    《「ミロのヴィーナス」考 その4 制作年代にまつわるエピソード》

    【はじめに】


     前回のブログでは、1964年の図録に依拠して、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案についての見解を紹介してみた。
     さて、今回はやはり1964年の図録を典拠として、「ミロのヴィーナス」に関する予備知識をまとめておきたい(意外と、高階本と中村本には、こうした点に言及されていないので)。
     そして、前回言及できなかった制作年代にまるわるエピソードについても触れておきたい。前回のブログに要約しておいたように、「ミロのヴィーナス」が発見された当時から、ドイツの美術史家フルトヴェングラー説が提示されるまでは、その制作年代は、紀元前5、4世紀古典期の作とみなされ、ヘレニズム期と考えられることはあまりなかった。
     また、発見の翌年1821年、ルイ18世(1755-1824)に「ミロのヴィーナス」が献上された際には、この像はまさしく紀元前5、4世紀古典時代の盛期の作品とみる見解が一般にとられていた。そして、1964年当時、ルーヴル美術館のシャルボノー部長が解説していたように、「人々は長い間、≪ミロのビーナス≫は紀元前4世紀の作品と思い、スコパスの手に帰していた」という状況であった(ハヴロックによれば、ルイ18世には巨匠プラクシテレスのオリジナルとして紹介されたという。ハヴロック、2002年、111頁)。

     こうした中で、2人のフランス人が「ミロのヴィーナス」について、どのように鑑賞していたかについて、今回のブログで紹介しておきたい。その2人とは、フランスの小説家、政治家シャトーブリアン(1768-1848)と、彫刻家ロダン(1840-1917)である。2人とも、「ミロのヴィーナス」の制作年代については誤解していたものの、限りない賛辞を残している。
     さて、今回のブログの執筆項目は、次のようになる。
    ・「ミロのヴィーナス」という呼称の経緯
    ・「ミロのヴィーナス」の発見当時の状況
    ・「ミロのヴィーナス」とヘレニスティック時代
    ・神話にあらわれたヴィーナスの三つの性格
    ・シャトーブリアンとロダンの理解
    ・補論 制作年代に関するケネス・クラークの見解

    【「ミロのヴィーナス」という呼称の経緯】


    この像は今日、美の女神ヴィーナスをあらわすものとして認められ、エーゲ海のミロ島で発掘されたので、「ミロのヴィーナス」と呼ばれるようになった。この呼称には、次のような経緯がある。

    既に発掘された当時から、ヴィーナス像の名が与えられたが、まずこれを現地で見た海軍士官候補生デュモン・デュルヴィル(Dumont d’Urville、1790-1842)が一目して、これは「勝利のヴィーナス」(Venus Victrix)であると鑑定したことに始まる。その後、ルーヴル美術館に移ってから、当時美術アカデミーで活躍していた考古学者カトルメール・ド・カンシー (Quatremère de Quincy、1755-1849)が、既に有名だった「クニドスのヴィーナス」の首と、新発見のこの女神の首を比較して、この像はやはりヴィーナスであると認めて、これによって専門的に裏付けされた形になって来た。そして更にルーヴル美術館の古代部主任のクララック伯(Comte de Clarac、1777-1847)が、カトルメール・ド・カンシーのこの説に賛成するに及んで、「ミロのヴィーナス」の名称は決定的となったようだ
    (Quatremère de Quancy, Sur la statue antique de Vénus découverte dans l’Ile de Milo, Paris, 1821. Comte de Clarac, Sur la statue antique de Venus Victrix, avec un dessin de Debay fils, Paris, 1821.)。

    「ミロのヴィーナス」が、コンスタンチノープル駐在のフランス大使リヴィエール(Rivière)侯爵の配慮によって、ツーロン港を経てパリに送られ、ルーヴル美術館に入り、ルイ18世に献上されて後、一般に公開されるようになったのは、発掘の翌年1821年であった。公開当初からヴィーナスの評判は高く、ギリシャ美術の専門家、特にフランスの考古学者の間では、この像は紀元前5、4世紀の古典時代の盛期の作品とみる見解が一般にとられていた(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、52頁~53頁、112頁)。

    【「ミロのヴィーナス」の発見当時の状況】


    1820年4月8日、島の一農夫イヨルゴス(Yorgos)は、劇場の遺跡近くの洞穴(一種の地下墓所)から大理石の彫像を発見した。農夫は、隣人である代理領事ブレスト(Brest)のもとに走り、この報せをもたらした。ブレストは慎重に胸像を運ぶことを命じ、農夫はまぐさ小屋に胸像を納めた。
    ブレストは、直ちに発掘品をフランスのものにしようと、精力的な活動を開始している。当時の列強は、それぞれの美術館を強化するために、美術品の購入、争奪に努めていた。特にフランスでは、ナポレオンの失脚後、彼の収集した美術品の多くを還付したため、ルーヴルは所蔵品の充実に懸命であった。ブレストは、4月12日に、スミルナの総領事ダヴィッド(David)にあてて発見を報告するとともに、政府予算での購入を提言し、他方ではイヨルゴスや島の長老と協定を結び、政府から訓令のあるまでは他に売らないこと、先買権がブレストにあることを約束させている。
    そして、1821年2月半ば、ようやくパリに到着し、ルーヴル美術館に入り、5月1日、リヴィエール侯爵から、ルイ18世に献上され、国王はこれをフランス国へ贈る。発見後、1年をこえる年月が経っていた。
    (朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、45頁~50頁)。

    【「ミロのヴィーナス」とヘレニスティック時代】


    ヘレニスティック時代(紀元前3~1世紀)になると、いっそう数多くのアフロディテが制作された。作家たちは以前のように都市国家のために制作するのではなく、宮廷や個人や富豪たちのために働くようになる。
    ギリシャ本来の都市国家が抱いていた理想は過去のものとなって、激動と不安の時代の中に人々は新しい生活原理を求めていた。そして結局、古代世界はローマによって統合されるが、その前にギリシャはその最後の、しかも多方面にわたる可能性を試みた。

    アフロディテもあらゆる様相を示すことになる。「メディチ家のアフロディテ」、「カピトリーノのアフロディテ」は「クニドスのアフロディテ」から糸をひく美の女神であるが、そこには紀元前4世紀の宗教的性格は稀薄で、リアリズムがいっそう進められ、享楽の面が強まってくる。
    その快楽主義をまのあたり示し出しているのが、「うずくまるアフロディテ」であり、水鏡にうつる自分の美しい後ろ姿に見とれる「アフロディテ・カリピュゴス(美しい尻のアフロディテ)」ということになろう。
    アフロディテに関する限り、ヘレニズムは一歩一歩女性的な過度の洗練と末梢的な官能主義に堕していったと一般的にはみなされている。
    しかし、ヘレニズムは必ずしもデカダンスに陥った時代ではなく、これまでに見ないオリジナルな、新たな局面を展開した。アフロディテに対する信仰は、ヘレニスティック期に入っていよいよ広まり、礼拝像も多く作られるようになり、多彩な変化を示した。
    この時代のアフロディテの像は、多くプラクシテレスの流れを汲み、強い影響をうけたといってよい。「ミロのヴィーナス」もその一つであり、ヘレニスティック時代の特色と古典期の風格とを併せ備えた貴重な芸術作品であることに変わりはない
    (朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、90頁~91頁。ヘレニズム期のアフロディテ像については、ハヴロックの著作紹介で叙述したい)。

    【神話にあらわれたヴィーナスの三つの性格】


    アフロディテは、様々な異称を持ち、多くの性格を兼ね備え、崇拝されてきたが、大きく分けて次の三つの性格に分類できるとされる。
    第一は、愛と美の女神としてのアフロディテである。ことに女性の美の典型として、古来文学や美術で大きな位置を占める。
    しかし本来このアフロディテは、単に外形の美のみの神ではなく、むしろ天地万物の創造者としての「愛」の女神で、オリエントのアスタルテ女神(豊饒と繁殖の女神)の性格を直接に受けついでいると考えられている。それは、多くの子孫を生み育てる「母」なる神であり、寒い冬の後に和やかな花と光をもたらす「春」の女神であり、そして春とともに自然や人間を美しく輝かせる「美」の女神である。後世にアフロディテが「春」の女神や、三美神と同類視されるようになるのは、この性格のためである。
    また、ネオ・プラトニズムの説く「愛の論理」も、万物の生命の根源としてのこの女神信仰を、ひとつの認識論にまで高めたものであるようだ。
    ローマ時代になってアフロディテがウェヌスと同一のものと考えられるようになった時、とくに女神のこの性格を強調したものを、「ウェヌス・ゲニトリクス」(Venus genitrix、繁殖のウェヌス)と呼んで崇拝した。

    アフロディテの第二の性格は、官能的愛、歓楽の女神としてのそれである。「パンデモス」がこれにあたるとされる。もともと「一般民衆の女神」というほどの意味であったが、やがて「清らかな天上の愛」の女神であるウラニアに対して、「地上的、官能的愛」の女神と考えられるようになった。
    プラトンは、『饗宴』の中で二種類のアフロディテを区別したことはよく知られている。すなわち、ウラノス(天)を父とする娘であるウラニア(天の娘)と、ゼウスの神とディオネの間の娘、パンデモス(地上的な)女神がそれである。
    古典期後半以降のアテナイにおいては、娼婦たちが自分たちの守護神として、「アフロディテ・ヘタイラー」(遊女の女神)を祭ったという。ローマにおいては、4月をこの女神の月として、その月初めの三日三晩を、「ウェヌスの宵祭」が行われた。

    第三のアフロディテは、武ばった女神である。しばしば武装をしており、アクロポリスの守護神として、また特に水夫たちの間では航海の安全を守る神として崇拝された。アフロディテが特に水夫たちの危難を救う守護神と考えれたのは、海の泡から生まれたというその誕生伝説に負うところが大きいそうだ。
    キュテラ島から直接ギリシャのスパルタに伝えられたアフロディテは、軍神として武装していたと伝えられている。そして、「戦士としてのアフロディテ」は、ギリシャ本土において、聖なる神域を守る女神として成立したようだ。ギリシャにおいて、「ニケフォロス」(勝利をもたらすもの)と呼ばれ、ローマにおいては、「ウェヌス・ウィクトリクス」(Venus Victorix、勝利のウェヌス)と呼ばれた。

    一般の伝説によると、アフロディテは軍神アレス(ローマのマルス)を夫としていることになっているが、ホメロスの『オデュッセイア』では、彼女は跛足で醜い鍛冶の神ヘーファイストス(ローマのウルカヌス)の妻で、アレスと密通し、夫のつくった目に見えぬ網に二人とも捕えられて恥をかく。ただ、これも定説であったわけではなく、古代の美術品には、アフロディテとアレスがれっきとした夫婦として描き出されている例も多い。
    また恋の女神アフロディテが、羊飼いの美少年アドニスとの恋に悩んだり、アンキセスと恋をして、後のトロイア戦争の勇士アエネーアスを生んだりする物語がある。中でも重要なのは、周知のように、トロイア戦争の直接の原因となった「パリスの審判」の物語であろう。
    その発端は、婚礼の宴の時、不和の女神エリスが招待されなかったことを根にもって、黄金のりんごをその饗宴の場に投げ込んだことにあった。
    そのりんごには、“いちばん美しい女神へ”と記されてあり、ゼウスの妃ヘラと、軍神アテナと、アフロディテの3人の女神の間で、対立が起こった。ゼウスはこの判定を下しかねて、トロイアの少年パリスにその審判を委ねた。パリスは、富や智力を約束するヘラやアテナの申し出をしりぞけ、世界一の美女を与えるというアフロディテの誘いに応じて、黄金のりんごを与えた。こうしてアフロディテは公けに“いちばん美しい女神”と認められた。
    その後、パリスはアフロディテの助けを借りて、ヘレネ(スパルタ王メネラオスの妃で絶世の美女とうたわれた)を誘い出した。しかしこれが原因となって、ギリシャとトロイアの間に10年間にわたる戦争が勃発したとされる。

    このような物語が長期間伝えられ、「勝利のウェヌス」がパリスの審判に選ばれた美の女神の伝説と結びついて、「りんごを持つヴィーナス」の姿として美術の上に現われるようになったと考えられている(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、80頁~84頁)。

    【シャトーブリアンとロダンの理解】



    「ミロのビーナス頌」という題目で、19世紀前半に活躍したフランスの作家で政治家のシャトーブリアン(Chateaubriand、1768-1848)の言葉が引用されている。
     「彼女は新しい称賛者をつくり出すだろう。だが、幸福なる模倣者を生み出すことはないだろう。ラファエルの聖処女たちやラシーヌの詩句と同じく、これよりのち、われわれは、フェイディアスの作になるこのようなビーナスを、再び持つことがないであろう」と。
     シャトーブリアンは「ミロのヴィーナス」をフェイディアスの作と信じていた。この引用文からも明らかなように、19世紀前半において、「ミロのヴィーナス」は紀元前5、4世紀の古典時代の盛期の作品とみていた。

    また、「考える人」「地獄の門」「接吻」といった傑作で知られるフランスの彫刻家ロダン(François Auguste René Rodin、1840-1917)は、「ミロのヴィーナス」を次のように賛美している。
    「われわれが立てるざわめきを、お前は今も耳にする、不死のビーナスよ。お前の時代の人々を愛してのち、お前はわれわれのものとなった。今や、われわれすべてのもの、世界のものとなった。25世紀というお前の生涯は、ひたすら、不滅なるお前の若さに捧げられたかのごとくである。
    おお、ミロのビーナスよ。お前を彫り上げた驚くべき彫刻家は、この高貴にして自然な、生命自体の戦慄を、お前の背筋に貫き通させる術を知っていた。――おお、ビーナス、生命の凱旋門よ、真理の橋わたし、優雅の環よ!」と、その美しさを称えている(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、69頁、73頁)。




    《パリのロダン美術館 考える人と地獄の門 2004年5月筆者撮影》

    ※【パリのロダン美術館】※
     パリ7区、ナポレオンの墓があるアンヴァリッドにほど近い一角にあるロダン美術館。
     ここはロダンがアトリエとして使っていた館で、その死の前年の1916年にすべての作品を国に寄贈、1919年に国立ロダン美術として開館した。
    (NHK「世界美術館紀行」取材班『NHK世界美術館紀行①ロダン美術館』日本放送出版協会、2005年、12頁)。


    ここで注目したいのは、「25世紀というお前の生涯」と、「ミロのヴィーナス」についてロダンが理解していた点である。
    ロダンは、20世紀初頭まで生きた人物であるから、25世紀前と言えば、紀元前5世紀ということになり、ギリシャ古典期に「ミロのヴィーナス」が制作されたと思い込んでいたことになろう。

    話は横道にそれるが、シャトーブリアンやロダンはフランス人らしく恋愛で浮名を流している。シャトーブリアンはレカミエ夫人(Madame Récamier、1777-1849)、ロダンはカミーユ・クローデル(Camille Claudel、1864-1943)と。
    レカミエ夫人は、16歳で42歳の銀行家レカミエと結婚し、たぐいまれな美貌と豊かな感受性によってナポレオン時代から王政復古期にかけて多くの作家の崇拝を受けた。サロンを開き、シャトーブリアンなどとの恋愛が知られている。また、その美しさはダヴィッドやジェラールによる肖像画で有名である。

    カミーユ・クローデルは、19歳の時に、ロダンの弟子となり、次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため、三角関係となる。その関係は、その後15年にわたって続いていく。精神を病んで、48歳から病院生活を余儀なくされ、不幸な晩年を送ることになる。
    近代彫刻の巨匠ロダンとカミーユ・クローデルとの悲恋は、イザベル・アジャーニ主演で映画(1988年)にもなったので、良く知られている。
     
     
     

    《パリのロダン美術館 分別盛り 2004年5月筆者撮影》


    ※【映画情報】※



    カミーユ自身も、「分別盛り」(L’Âge mûr、1907年、オルセー美術館及びロダン美術館)を創作した。ロダンとその内縁の妻ローズ、そしてカミーユの関係が投影されているとされる。老いた女性に導かれるように去って行く男性に両膝をついて追いすがる若い女性といった3人の人物が彫られている。ひざまずいた若い女性像には、鬼気迫る迫力があり、それはまさにカミーユの魂の叫びであった。
    カミーユ、ロダン、ローズの三角関係と、その内面ドラマを迫真的に造形化したユニークな作品が「分別盛り」であった(湯原かの子『カミーユ・クローデル――極限の愛を生きて』朝日新聞社、1988年、124頁)。

    彫刻家とその作品のモデルとの関係は、古今を問わず、常に話題として取り上げられる。古代ギリシャの場合、「ミロのヴィーナス」の系譜上の源流とされる「クニドスのアフロディテ」の作者プラクシテレスとフリュネがそうである。二人の恋愛は歴史的事実なのか、それとも後世の虚構なのか。いつ、どのような形で、この二人は結びつけられたのか。こうした美術史(彫刻史)上の問題を考察しているのが、後に紹介するように、ハヴロックの著作である。

    さて、話を元に戻すと、シャトーブリアンにしても、ロダンにしても、当時のフランス知識人たちは、「ミロのヴィーナス」が紀元前5、4世紀に制作されたことを信じて疑わなかったことがわかろう。

    補論【制作年代に関するケネス・クラークの見解】


    前回のブログで、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案について詳述した。その際に、一般的にフランス人が「ミロのヴィーナス」の制作年代を紀元前4~5世紀と信じていたのに対して、ドイツ人、とりわけフルトヴェングラーがその制作年代をヘレニズム期(ヘレニスティック時代)まで引き下げたことをみてきた。

    イギリスの美術史家ケネス・クラークが、フルトヴェングラーの学説を高く評価した理由も、これで納得できるのではないか。フルトヴェングラーは「ミロのヴィーナス」を紀元前150年から紀元前50年の間の作であるとみていた。その名著『ザ・ヌード』において、ミロのヴィーナスの制作年代について、次のように言及している。

    「≪ミロのヴィーナス≫ フルトヴェングラーはこの像の制作年代の貞生を提起した有名な著書において(Furtwängler, Meisterwerke der Griechischen Plastik, 1893, p.601)前150年から前50年の作であると語っていた。さらにいっそう正確な位置づけを求める多くの試論のうち最も説得的であるのはシャルボンノー(ママ)の説で(Charbonneaux in La Revue des Arts I, 1951, p.8)、彼はこれがルーヴル美術館所蔵でイノポス(Inopos)の名で知られている像(これは実際にはミトリダテス大王を理想化した肖像である)と類似することを指摘し、それを根拠に前110年から前88年の間の作としている」
    (クラーク、1971年[1980年版]、482頁原註41)。

    フルトヴェングラーは、1893年に、この「ミロのヴィーナス」が、紀元前150年から紀元前50年の間の作であるとし、この像の制作年の訂正を提起した。さらに正確な位置づけを求める試論のうちで、最も説得的な説は、シャルボノーの説であるとされる(Charbonneaux in La Revue des Arts I, 1951.)。彼は、「ミロのヴィーナス」がルーヴル美術館蔵でイノポス(Inopos)の名で知られている像(実際には、ミトリダテス大王を理想化した肖像)と類似することを指摘し、それを根拠に紀元前110年から紀元前88年の間の作としている。

    ケネス・クラークが、ここで挙げているシャルボノーの典拠は、
    Charbonneaux,“La Vénus de Milo et Mithridate le Grand”, La Revue des Arts I, Paris,1951.
    のことである(この文献名は、1964年の図録に「ミロのビーナスに関する文献」と題して列挙してある。朝日新聞社編、1964年、113頁)。
    このシャルボノーは、1964年の図録の中で言及されていた、ルーヴル美術館古代美術部の代表者シャルボノー部長のことである。前回のブログでその解説文を引用しておいた。先に引用した部分に続いて、次のような解説が記してある。
    「像の原形についての、もっとも賛成し得る仮定はといえば、それは右手をもって、腰部の上辺で衣をおさえ、左手を挙げて笏(しゃく)をもっていたと考えるものである。しかし、像の前に立つときは、このような考古学的な問題は一切忘れなければならない。何となれば、腕がないために、古代美術における最も美しい胴体の一つを一層よく嘆賞することが出来るからである」(Jean Charbonneaux : La Vénus de Milo)と述べ、シャルボノーはこのビーナスとミトリダーテス・エウパトールとの類似を強調している」
    (朝日新聞社編、1964年、65頁)

    つまり、シャルボノーは「ミロのヴィーナス」とミトリダテス大王の肖像とが類似していることを論文として発表していた。
    ミトリダテス大王は、ミトリダテス6世エウパトル(紀元前132年~紀元前63年)をさす。小アジアにあったポントス王国の国王(在位:紀元前120年~紀元前63年)であった。小アジア一帯に勢力を広げ、共和政ローマの東方における覇権に挑戦し、3次にわたって戦火を交えた。
    ルーヴル美術館には、「アレクサンドロス大王の胸像」(原作は彫刻家リュシッポス)と共に、この「ミトリダテス6世エウパトルの肖像」(紀元前2世紀末にギリシャで制作された原作に基づいて、紀元前1世紀末に作られたものとされている)が展示されている。ヘラクレス像でよく見られる、ライオンの頭をかぶっている。

    参考文献の入手はこちらから


    《「ミロのヴィーナス」考 その3 制作年代と復元案》

    2019-11-04 12:06:11 | 西洋美術史

    《「ミロのヴィーナス」考 その3 制作年代と復元案》

    【問題の所在】


     前回のブログでは、古代ギリシャ彫刻史の中で「ミロのヴィーナス」は如何に位置づけられるのかといった問題を考える際に、ギリシャ彫刻史の全体像を、イメージしておくことが大切であると考えて、その概要を記しておいた。
     今回は、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案に関して述べてみたい。こうした問題の学説整理をしたものが意外とネット検索上に、ひっかからなかったことが理由として挙げられる(諸説の要点を簡単に述べた記事は見つかったが)。
    1964年の図録を見ると、このテーマで学説が紹介されているので、わかりやすく簡潔に整理してみたいと思ったのである。その図録巻末に参考文献が付されているので、参考文献のどの著作に依拠して研究者がどのような学説を述べてきたかを明記し、後学の人に便宜を図りたい。下記の学説整理の典拠は、1964年の図録であることを最初に断っておきたい。そして、中村るいの紹介している5つの復元案に付言したい。
    また、このテーマについて取り上げる理由は、後に取り扱うハヴロックの著作を紹介する前提となる予備知識を得ることになるからでもある。ハヴロックは「クニドスのヴィーナス」を主な主題としているが、ギリシャ彫刻史の中で、「クニドスのヴィーナス」はどのようにして登場してくるのかを理解しておく必要があるが、「ミロのヴィーナス」の制作年代についての学説整理がしていないと、混乱も生じてくるかと思う。そして、「クニドスのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」はどのような関係にあるのかを考える際にも、参考になろう。

    【「ミロのヴィーナス」の制作年代、復元案に関する見解の変遷】



    <「ミロのヴィーナス」の制作年代に関するレーナック説>


    「ミロのヴィーナス」の制作年代については、現在でこそヘレニズム期とされているが、発見当初はもっとも古い時代と考えられていた。この点に解説を加えておきたい。
    フランスの考古学者サロモン・レーナックは、発掘以来、数十年間にわたって発表された諸説を調べ上げたあげく、「「ミロのヴィーナス」は一つのナゾである」と嘆いたことが知られている。
    そしてレーナックは、「ミロのヴィーナス」の制作年代を紀元前5世紀と考えていたことは次の文からも窺い知ることができる。
    「政治史をひもどけば、ミロ島は紀元前416年にアテナイの支配を受けるようになり、同404年までその状態はつづいた。美術史をたどってみると、≪ミロのビーナス≫の様式は、この同じ時期のアッティカの彫刻のそれで、フェイディアスの弟子たちや後継者たちの様式である。近ごろ、ドイツではこのビーナスをもっとはるかに降った時代に帰属させようとする流行があることを私も知っている。そういう引き下げの見解を今ここでとやかく言うことは差控えるが、ただいま私としては、様式や技術や感情の点から推定して、≪ミロのビーナス≫とパルテノンのフロントン(破風)の彫刻との間に通じる類似があることを考えてみて、この像の制作者は紀元前4世紀の前半より降るとするような、あらゆる伝説を拒否することが出来ることを申述べるに止める」という。
    (Salomon Reinach, “La Vénus de Milo”, Gazette des Beaux-Arts, 1890.)
    すなわち、レーナックの見解は、紀元前5世紀のパルテノン彫刻との比較に基づいている点で、古典盛期の作とする代表的見解である。様式的にみても、アッティカの彫刻の様式で、フェイディアスの弟子や後継者の様式とみていた。この像の制作者は紀元前4世紀の前半より降ることはあるまいとしている。
    ドイツ人研究者が、その制作年代をもっとはるかに降った時代に帰属させていたが、レーナックはそれを認めなかった(結果的に、制作年代に関してはドイツ人研究者の方が正しかったことになる)。
    また、フランスでは、カトルメール・ド・カンシーも、ヴィーナス像の考証的研究に早く手をつけ、紀元前4世紀のプラクシテレスの傑作として有名な「クニドスのヴィーナス」の首と、この像の頭部と比較した。「ミロのヴィーナス」像の様式の中にも、プラクシテレスの作域を見出そうとする解釈をとり、同じ古典期の後半期、紀元前4世紀を制作期と考えていた。

    <制作年代のコリニョン説>


    また、ギリシャ彫刻研究の権威マクシム・コリニョンは、その大著『ギリシャ彫刻史第2巻』で、古典期からヘレニスティック時代へ向かってゆく推移の時期を制作期にあてた。つまり古典期は過ぎたが、様式上、いまだ盛期の伝統が継続している時代(いわゆるヘレニスティック時代)のごく初期と考えた。すなわち、アレクサンドロス大王の死(紀元前323年)後、間もないころで、おそらく紀元前4世紀の代表的彫刻家スコパスの流れを汲む彫刻家の手になるものと推測した。制作期は、古典期より降って、ヘレニスティック時代へ入って来たものの、古典期に密着している時期の原作であるという見解である(Maxime Collignon, Histoire de la sculpture greque, tome 2., 1897.)。
    その他、エメリック・ダヴィッド(Eméric David)、クララック(Clarac)伯などは、「ミロのヴィーナス」像の制作を古典期とみていた。

    <復元案のフルトヴェングラー説>


    やがて、考古学的研究は、従来の様式批判とは異なり、材料に即する実証的な調査を基礎にして、原形復元を考察する方向へ展開した。
    中でも注目すべきものは、ドイツの美術史家アドルフ・フルトヴェングラー(Adolf Furtwängler、1853-1907)の独自な復元案である。フルトヴェングラーの研究の主点は、「ミロのヴィーナス」の原形はどういうものであったかを探ねることであった。彼は、この像が発掘された当初の状態から研究の糸をたぐり始める。
    この像が掘りあてられた時に、上下2つの石塊とともに、2本のヘルメ柱とりんごを握った手が1個、腕の断片、台座の石片などが同じ場所から発掘されたと伝えられる。これらの石片は、後になってルーヴル美術館に送られた(しかし現存しているのは、ヘルメ柱と手と腕の断片である。腕1本と台座の石片は消失している)。
    これらの石片とヴィーナス像は、どのような関係にあると考えたらいいのか。
    この点については見解が分かれ、レーナックは全く関係ないとみるが、フルトヴェングラーは腕や手の断片はもともとヴィーナス像に付属していたものと推定した。上腕の石片の切断面に残存するくぎ穴とヴィーナスの腕に残っているくぎ穴とがしっくり符合するとみる。そしてりんごを握った手も、寸法も1ミリ程の相違しかないことから、付属物と考えた。つまり、フルトヴェングラーは、これらの石片や台座石をヴィーナス像に所属させることによって、その復元を構想した。また、ミロ島には古くから幸福の神テュケ(Tyche)に対する信仰があり、このテュケの像になぞらえて、「ミロのヴィーナス」像もつくられたと推測した。
    左の手はりんごを掌の上にのせて前方に伸び、その手の甲をのせる長い支柱があったという(支柱の上に手がのって支えられている実例は、ギリシャの彫刻や壺絵や土偶や貨幣の図柄に折々見かけられる)。
    そしてこの支柱を受ける台座の一つの面には、「マイアンドロスの (アンテ)ィオキア人 メニデスの子 アンドロス これを作る」という銘文があったという。この銘文によって作者をも知りうるとする。
    この銘文の書体からみて、ギリシャ末期の台座と考え、この作品自体も末期、いわゆるヘレニスティック時代になるという重大な内容をもつ見解を示した。少なくともあまり著名でない彫刻家の作ということになる(前述したように、この銘文を刻んだ台座は、ルーヴル美術館から消失してしまい、消息不明とされた。台座の銘文は、画家ダヴィッドの弟子グロの画友ドベエ父子の台座写生図からわかる)。
    さらに、フルトヴェングラーは、右手と頭部、胴体、衣のひだについて、次のように述べている。右手は、おそらく下半身をまとっている衣が落ちないように、軽くおさえるような位置にあったと想定している。頭部は楕円形の顔立ちで、ほおがいくらかふくらみをもって伸び、眼はやや深く、くぼんで遠方を静かにながめる。頭部でもっとも特色があるのは頭髪で、豊かな波状を描いて華麗であり、ノミの刻みが深い。その頭髪の美しさと技巧は、まさしくギリシャ末期、ヘレニスティック時代の趣向を明らかに示すとみている。
    一方、胴体の部分については、自然で品位のある肉付けで、古典盛期に見る高い緊度をもつ純正な感情がみなぎっている。さらに下半身の衣のひだに至っては、歯切れがよい、さばき具合によって高雅な造形性を示すという。そしてこれらの部分はいかにも紀元前5、4世紀古典期の作風を思わせるとする。
    一見、頭部の特色と、胴体や衣のひだの特色とが一致せず、多少矛盾を含んでいるかのように思われるが、そこに末期ヘレニスティック時代には、この時代特有の性格(頭部の特色)をもつと同時に、また古典盛期の様式(胴体や衣のひだの特色)を慕って、これを学び、これを模する風潮の時期があったと考えた。この「ミロのヴィーナス」像も、この風潮の中に生まれたとすれば、頭部と胴部の特質が一体の中に含まれていても納得がいくという(中村るいによれば、「ミロのヴィーナス」の頭部はクラシック様式であるのに対して、首から下は、豊かな逆S字のひねりに見られる通り、ヘレニズム様式であるとする[中村、2017年[2018年版]、200頁])。

    フルトヴェングラーの結論はこうである。つまり、「ミロのヴィーナス」はりんごを左手に握り、右手で衣をおさえる姿勢で立って、遠方をながめる美の女神であり、そこに左手をのせる支柱が立ち、その台座に作者の銘文が刻まれているということになり、その銘文の書体や彫刻技術の性質から、末期の紀元前150~50年ごろの制作であろうとしたのである。
    (A. Furtwängler, Meisterwerke der Griechischen Plastik, Leipzig; Berlin, 1893. ; Revised English ed., Masterpieces of Greek Sculpture, London, 1895.)

    ところが、フルトヴェングラーの明快な復元案を根本から覆す証拠品が発見された。消失したと思われていた石の台座2体のうちの1つだけが、ルーヴル美術館の中で発見された。この台座には、テオドリダス(Theodoridas)が献納する意味の銘文が刻まれていた。この台座の上に、ひげのはえた老人の首を載せているヘルメ柱を立ててみると、台座の孔にこの人柱がはまり、復元できたそうだ。そうすると、もう1つの他の台座も、ひげのない若者を載せているヘルメ柱に属することが証明された。作者の名を刻んだ重要な台座はヴィーナス像のものではなくなり、フルトヴェングラーの明快な構想も崩れ去ることとなったようだ。
    ただ、彼の精細な研究が残した業績は小さくなく、ギリシャ美術研究上に深く影響を与えた。例えば、りんごをもつ左手や衣をおさえた右手の配置や、制作年代をヘレニスティック時代へ下げる考え方などである。

    <復元案のタラル説>


    フルトヴェングラーの見解にもっとも近接する試論としては、1860年、イギリスの医師クローディアス・タラル(Claudius Tarral)のそれがある。これは、銘文のある台座の上に、ひげのない若い人物のヘルメ柱をさし込んだ形の復元案である。フルトヴェングラーの復元案では、ヴィーナス像の左手を支柱の上にのせていたが、タラルの場合、左腕の半分は肩の付根からほぼ水平に左前方に伸び、肱から上に向かって曲がり、りんごをもつ左手の掌は下に向けている。
    フルトヴェングラーやタラルをはじめ、復元案の多くは、りんごをもつ左手が特にとりあげられている。その理由は、有名な「パリスの審判」の物語が背景にある。牧童パリスから金のりんごをヴィーナスは授けられ、彼女は美の神となり、「勝利の女神」(Venus Victrix)となるから、ヴィーナスとりんごは切っても切れない縁故がある。原形復元に際して、「りんごをもつ左手」の石片が特に問題にされた。
    さらに、この「ミロのヴィーナス」の場合、もう1つの因縁があるそうだ。ミロ島の古名メロスはギリシャ語でりんごを意味するメーロンに由来するといい、「ミロのヴィーナス」は一層りんごとの関係を重視することになるようだ。
    りんごをもち、勝利を誇るヴィーナスの代表的な一例は、ルーヴル美術館にある「アルルのヴィーナス」(Vénus d’Arles)である。「アルルのヴィーナス」はローマ時代の模刻だが、その原形は紀元前4世紀、おそらくプラクシテレスの作であろうとみられている(紀元前360年頃に制作された「テスピアイのアフロディテ」を複製したものであると推測されている。1651年、フランスのアルルの旧古代劇場で発見)。頭部から胴体の姿勢をはじめ、ことに衣を上半身ぬいで、下半身だけをまとう半裸の姿が、「ミロのヴィーナス」と共通する点で、両者はよく比較される。

    <軍神アレスと共にいるヴィーナス像という復元案>


    次に注目すべき復元案は、イギリスのミリンジェン(Millingen)、フランスのクララック(Clarac)伯、ドイツのミュラー(Müller)、ウェルカー(Welcker)など、かなり広く支持を受けたという。それは、「盾をもつヴィーナス」像で、伝説の上での配偶者ともみられる軍神アレスの盾を片手にしている像である。大きな楕円形の盾の上辺の縁を左手でおさえ、下辺を左膝の上にのせている像である。
    この復元案の場合、「ミロのヴィーナス」の上半身が幾分左向き斜めに立っている姿勢のいわれが理解できるし、ことに下半身の左膝を高く立てている理由がはっきりすると主張する。立像全体の形が何かをもつ姿勢を暗示しているとする。
    現にこの姿勢をあらわす実例があり、その著しい例は、「カプアのヴィーナス」(カプアの劇場の跡から発掘、ナポリ国立考古博物館蔵)である。これは盾を左膝の上にのせて、しみじみと自分の美しさを盾に写して眺め入っているところであるが、その全体の姿勢、左右の手の方向が「ミロのヴィーナス」と近似しているとみる。
    ただ、ここにも重要な相違がある。両者の視線が違うのである。「カプアのヴィーナス」の眼は、あくまで盾の中に映る自分の姿を見守っているのに対し、「ミロのヴィーナス」は盾を見ず、近いものには気をとられていない。眼付きの方向が異なる。そうなると、「ミロのヴィーナス」像は果たして盾をもっていたかどうか疑問でもある。だから、この復元案も興味深いが、決定的とはいえないとされる。

    <ルシャの復元案>


    さらに、折衷的試論を考えた研究者もいる。フランスのアンリ・ルシャ(Henri Lechat、1862-1925)がその人である。この女神は、古典期少なくとも紀元前4世紀の作品だと信じるが、同時に発見されたヘルメ柱や台座は後代、おそらくギリシャ末期に補修されたもので、銘文の彫刻家の名も、補修した彫工の名とみなす説である。付属部分を後世の補修とみる見解は、カトルメール・ド・カンシーやクララック伯も早くから気づいていたが、ルシャの推論は、この解釈を基にして、さらに進めたものであった。
    この補修が何故になされねばならなかったのか。本来このヴィーナス像は、アレスの盾を持っていたからであるという。それがギリシャ末期に、ローマ軍の侵入によって破壊されたと推測し、この時、金銅の盾などがもぎ取られ、そのため左右の腕も脱落してしまったと想像した。この損傷されたヴィーナス像を紀元前1世紀(ママ)の彫工が補修することになったが、この時、「アレスの盾をもつヴィーナス」ではなく、「りんごをもつヴィーナス」に変形してしまったとルシャは推定した。こうして「りんごをもつヴィーナス」として再生され、左側にヘルメ柱を立て、台座の面に補修者の自分の名を刻んだと解釈した。このように、ルシャは従来の見解を折衷し、統合した推定をした(Henri Lechat, La Sculpture Antique, Paris, 1925.)。

    <その他の復元案>


    その他の復元案も紹介しておく。例えば、ハッセ(Hasse、ブレスラウ大学の解剖学教授)によれば、「ミロのヴィーナス」は、海に入ろうとして右手で落ちそうな衣をおさえ、左手で頭髪をほぐそうとしていると解釈している。左手の掌の中に見えるのは、りんごではなく、頭髪を結んでいる紐の端についた何かの小さい装身具のようなもの(ヘアバンド?)であるとする。このように、ヴィーナスの日常的な打ち解けた姿に復元しようとする。
    また、ファイト・ファレンティン(Veit Valentin)は、「驚きのヴィーナス」像という説を唱えた。これは水浴している最中襲われて驚く瞬間の姿をあらわすものとみるが、のち意見を訂正してヴィーナスではなく、アルテミスが水浴中アクテオンに襲われて驚いているところと考えた。

    <群像としての復元案――ヴィーナスと軍神アレス>


    上記の説は、単身像としての復元案であるが、群像としての原形を考案したのは、フランスのカトルメール・ド・カンシーやラヴェッソン(Ravaisson、1813-1900)といった考古学者、ドイツの彫刻家ツゥル・シュトラッセン(Zur Strassen)である。
    ヴィーナスは単身ではなく、その配偶者あるいは恋人と伝えられる軍神アレスと一緒に立っていたとするものである。ラヴェッソンも早くから、ヴィーナスはアレス(ローマ時代のマルス)のかたわらに立ち、りんごをもつ左手をアレスの肩にかけ、右手をあげて話している様子であろうと考えていた(F. Ravaisson, La Vénus de Milo, Paris, 1871.)。
    現にローマ時代につくられた群像には、アレスとヴィーナスの両神の群像がいくつか今日も残存している。「ミロのヴィーナス」も、このような群像に違いないというのだが、ラヴェッソンに先立って、ツゥル・シュトラッセンがこの復元像を石膏でつくって発表した(ただ、その復元像ではあまりにヴィーナスの首をアレスの方(左の方)に向けすぎている点に難があるという)。
    「ミロのヴィーナス」は軍神アレスと一緒に立っていたとする推論には批判もある。すなわち、この推論はローマ時代の彫刻や伝説にたよりすぎていて、ギリシャ時代には果たして、アレスとヴィーナスの関係はどのように考えられていたか、多少とも疑う点があるというのである(異色の推論として記しておく方が無難かもしれない)。

    以上が、1964年の図録で叙述されている「ミロのヴィーナス」像の復元案である。最後に、1964年当時、ルーヴル美術館古代美術部の代表者シャルボノー部長の、次のような解説を図録では引用している。
    「人々は長い間、≪ミロのビーナス≫は紀元前4世紀の作品と思い、スコパスの手に帰していた。事実は、石片の組合せの方法、頭髪や殊に衣裳の施工などの技術やその様式によって、明かにこの像は紀元前2世紀末の時代であることを示しているのである。その時期はまた、女神像のかたわらに同時に発見された2つの彫刻断片の時代でもある。このビーナスの作者は、まず紀元前4世紀の作品から感銘を受けたが、そこから気高い、そして強健な美しさに溢れる一つの新しい創造をひき出し、新古典とでもいうべき様式による傑作を生み出したのである。」
    (Jean Charbonneaux, La Vénus de Milo, Opus Nobile, VI, 1958.)
    ここには、「ミロのヴィーナス」の制作年代について、人々は、紀元前4世紀のスコパスの作品と思い込んでいたが、事実は、石片の組合せの方法、頭髪や殊に衣裳の施工などの技術やその様式によって、紀元前2世紀末に制作されたことが明記してある。

    以上、原形に対する復元案を詳述してきたが、決定的な結論は求めることができないようである(朝日新聞社編、1964年、51頁~65頁)。

    【中村るいによる「ミロのヴィーナス」の特徴と5つの復元案】


    中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴と復元案について言及しているので、その内容を紹介しておきたい。
    中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴について、次のように捉えている。
    「この女神像の特徴は、小さな頭部と、大胆な身体のひねりです。そして身体の中心を通る正中線が、逆S字を描いています。左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっています。衣がなぜ、ずり落ちないのか不思議ですが、腰骨の下で留まっています。両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向きだったことがわかりますが、左手は肩の高さか、それより少し高く挙げているようです。欠けた腕をどう復元するかは定説がなく、大きく分けると、五つの説が提案されています。」

    「ミロのヴィーナス」像の特徴を箇条書きにしてみると、
    ・小さな頭部と、大胆な身体のひねり
    ・正中線が逆S字
    ・左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっている
    ・衣は腰骨の下で留まっている
    ・両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向き
    ・左手は肩の高さか、それより少し高く挙げている
    ・欠けた腕の復元案は5つある

    その5つの復元案とは、
    第1案:左手を台にのせ、リンゴをもち、右手は腰布をおさえている
    第2案:両方の手に花輪をもっている
    第3案:左ひじを台にのせ、リンゴをもち、右手に鳩をとまらせている
    第4案:左手で髪をつかみ、右手は腰布をおさえている
    第5案:ヴィーナスと軍神マルスの群像。左手をマルスの肩に、右手はマルスの腕に添えている

    こうした復元案に対して、「失われた腕の復元にはさまざまな推論があり興味深いのですが、決定的な証拠に欠けています」と、この問題に中村るいは付言している。中村は紙幅の都合からか、5つの復元案を提示したにとどまっている(中村るい『ギリシャ美術史入門』三元社、2017年[2018年版]、198頁~199頁)。

    先に検討したように、第3案は、視線が手元の鳩にいっているとしたら、この説は無理かもしれない。また、中村の挙げた5つの復元案には、ヴィーナスが盾をもつ案がない。
    なお、「ヴィーナスと軍神マルスの群像」の第5案については、ラヴェッソンも言及しているので、フランス語で後に見てみたい。


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    《「ミロのヴィーナス」考 その2 古代ギリシャ美術史の時代区分》

    2019-11-03 15:23:55 | 西洋美術史
    《「ミロのヴィーナス」考 その2 古代ギリシャ美術史の時代区分》

    【ギリシャ彫刻史の時代区分】


    高階秀爾、ハヴロック、中村るいの諸氏の著作内容を紹介する前に、古代ギリシャ美術史(とくに彫刻史)の時代区分などについて略述しておきたい。
     古代ギリシャ美術史を概説してないと、その全体像を思い浮かべにくい。そこで、1964年の図録である、朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』(朝日新聞社、1964年)をもとに、説明しておきたい。
    ハヴロックの専著は古代ギリシャ彫刻史の特定のテーマを取り扱っているので、どうしても補足が必要かと思う。また、中村るいの著作は、古代ギリシャ美術史全体を扱っているので、後に改めて解説にすることにして、ここではその時代区分の枠組みのみを紹介しておく。

    【古代ギリシャの彫刻の歴史概観】


    古代ギリシャの彫刻の歴史の流れは、紀元前9世紀以後を、次の三つの時期に分けている。
    1古期(アルカイック時代)   紀元前9世紀~紀元前5世紀初頭
    2古典期(クラシック時代)   紀元前5世紀~紀元前4世紀末
    3末期(ヘレニスティック時代) 紀元前3世紀~紀元前1世紀

    <古期>


    アテナイ(現在のアテネ)とかスパルタとかいう都市国家群が形成されたのは、大体紀元前7世紀ころである。彫刻にもこの時代から、石材による大型の丸彫やブロンズ像が次第に多くなり、紀元前6世紀に至って、古期彫刻は大きく発展した。前面を向く一定の形式をとり、ほとんど動きの感じられない直立の静止的な姿勢であった。それはエジプト彫刻からの影響が濃厚であったからであるが、人体表現の中に人間の生命感が強調されている点は、ギリシャ的な特質であるとされる。
    「テネアのアポロン」(紀元前6世紀中ごろ、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク所蔵)は、古期のスタイルの一つの成熟した姿である。また、パルテノン神殿に奉仕した少女を型どる奉納像(紀元前6世紀中ごろ~紀元前5世紀初頭ごろ、アテネのアクロポリス美術館)も、古期の完成を示す遺品である。
    この古期の特徴は、一種の微笑(アルカイック・スマイル)を浮かべている点である。これは単なる微笑をあらわすものではなくて、生命感をあらわしていると見られ、古期彫刻の特色ともいわれている。
    この古期の彫刻は地域差があるが、大別すれば、アテナイを中心とするアッティカ派と、オリンピア、デルフィを含むペロポネソス派に分けられる。アッティカ派は、エーゲ海の対岸の小アジア地方に発展した美術(イオニア美術)の影響が強く、より写実的で、優美的である。それに対して、ペロポネソス派は、エジプトの影響が著しく、厳格な構成をもち、壮美的である。後者には裸体の男性像が多く、前者には着衣の女性像が多いのも、こうした性格のあらわれであるとされる。
    このような地域差はあるものの、ギリシャ人は現実的、人間的な宗教観をもつ民族であったから、完全なる人間に最高の美の理想を見い出そうとし、調和と均整と合理の世界を追求し、それを芸術、彫刻にも反映させ、人間的生命にあふれる神像などを作り出した。

    <古典期前期>


    ギリシャ彫刻は、紀元前5世紀に至って、アッティカ系とペロポネソス系の融合もみられ、一大飛躍をする。
    紀元前6世紀末から紀元前5世紀にかけて、ペルシャとギリシャがその興亡をかけて戦ったが、紀元前480年ころ、アテナイを盟主とするギリシャ都市群がペルシャに打ち勝つ。
    現実の人間をすべての世界観の尺度とするギリシャでは、彫刻もまた生命の表現に強い関心をもち、これまでの直線的な静止形にかわって、身体の動きがあらわれ、曲線の美しさを含んできた。その具体的なあらわれを、大体紀元前480年ころからの作品に見い出すことができる。馬車競争の優勝者を記念して作ったブロンズの「デルフォイの馭者(ぎょしゃ)像」(紀元前478/474年、デルフォイ考古博物館)、「ルドヴィシの玉座」の名で知られる「ヴィーナスの誕生」の浮き彫り(紀元前460年頃、ローマ国立博物館)、オリュンピアのゼウス神殿の破風を飾っていた彫刻群は、紀元前470年代から紀元前450年ころにかけての制作である。これらの作品にみるきびしい表現は厳格様式と呼ばれる特色がある。そして紀元前450年ころからが、ギリシャ彫刻の古典期前期(「崇高な様式の時代」ともいわれる)となり、彫刻史上、もっとも輝かしい成果の時代となる。それは、アテナイが繁栄の頂点に達した時期でもあり、古代ギリシャのシンボルとされるパルテノン神殿が、アテナイのアクロポリスの丘上に建設された時代でもある。
    その代表的彫刻家は、ミュロンである。その名高い「円盤投げの青年」(原作紀元前450年頃、ローマンコピー、ローマ国立博物館)によってもわかるように、激しい動きの瞬間をとらえた青年の姿には、生命の脈動が満ちあふれている。
    次いで、ギリシャ彫刻の典型を作り上げたのが、フェイディアスとポリュクレイトスである。
    ペルシャ戦争に勝利をおさめ、政治家ペリクレスの支配下に繁栄したアテナイは、町の聖域アクロポリスの整備にかかった。その中心は守護神アテナ女神を祭るパルテノン神殿の再建であり、本尊アテナ・パルテノスの制作であった。フェイディアスはペリクレスの命を受けて、このアクロポリス再建事業の総監督となった。
    パルテノン神殿の建立(紀元前447~432年)がなされ、フェイディアス自身は本尊の女神アテナを12メートル余の黄金象牙像に作り上げた(今日、全く消滅したが、ローマ時代の小さな模刻がある)。
    フェイディアスはギリシャ彫刻の理想的な典型に到達し、その壮重な作風からして、神像作者として最もすぐれていた。それに対して、ポリュクレイトスは人体美の、とくに男性像の完成者である。彼の作品には、力強い健康美と生命感があふれている。彼は人体の理想的な均整を求めて、7頭身(頭部が全身の7分の1)の比率を生み出した。傑作として名高い「槍をかつぐ青年」(原作紀元前440年頃、ローマンコピー、ナポリ国立考古博物館)こそ、この規準のあらわれである。
    前述の「円盤投げの青年」も、この「槍をかつぐ青年」も、原作は失われてしまい、ローマ時代の模刻(ローマンコピー)であるが、その模刻によっても、かつての面影を偲ぶことができる。

    <古典期後期>


    さて、紀元前4世紀になると、ギリシャ彫刻の古典期後期(「優美な様式の時代」ともいわれる)を迎える。この時期になると、材料として大理石が多く用いられるようになる。あのフェイディアスにみた壮重感、ポリュクレイトスの作に見る整然とした形式感に対して、この時期の彫刻の特質は、優美と一種の叙情美にあるとされる。
    いわば精神性の高揚よりも、感覚性が強調された。紀元前5世紀末のペロポネソス戦役(アテナイとスパルタの戦い)を境にして、一般の風潮にあらわれた懐疑的な思想、耽美主義が台頭し、様式変遷の源泉となったといわれる。崇高な神々の姿よりも、むしろ現実の人間感情の盛り上がりを喜んで迎えるようになったようだ。
    このような時代風潮の中から、女性の肉体への賛美が生まれてきた。均斉と比例に満ちた女性の肉体こそ、美の極限であり、現実に求めうる完美のあかしであると考えられた。
    その最高の発現者が紀元前4世紀第一の彫刻家プラクシテレスである。紀元前5世紀のポリュクレイトスが男性美の理想を表現したとすれば、プラクシテレスは女性美の理想を完成したといえる。
    プラクシテレスは多くのアフロディテ(ヴィーナス)像を作っているが、従来のように着衣の姿ではなく、半裸あるいは全裸の女神像である。プラクシテレスによって初めてアフロディテが衣服をぬいだと伝えられた。とくにその傑作として有名だった全裸の「クニドスのヴィーナス」(原作紀元前350~340年頃、ローマンコピー、ヴァティカン美術館)である。この像は、その後のヘレニスティック時代からローマ時代にかけての多くのヴィーナス像の原型となった。だが、プラクシテレスの場合も、原作は今日伝わらず、「クニドスのヴィーナス」「キレネのヴィーナス」をはじめ、模作によって面影を偲ぶにすぎない。
    ただ、プラクシテレスの現存する唯一の原作かと思われたものがある。それはオリュンピアのヘラ神殿跡から発見された「ヘルメス像」(原作紀元前4世紀半ば、ヘレニズム時代のコピーともされる、オリュンピア考古博物館)である。身体を幾分、S字型にして(プラクシテレス独特の姿態)、幼児ディオニソスを左手に抱くヘルメス像である。
    このプラクシテレスより少し遅れて、彫刻家スコパスが現われる。プラクシテレスが肉体の官能的な美しさに傑出していたのに対し、スコパスは激しい肉体の動きや心の動きの表現にすぐれていた。それは壮重な理想の美を求めた紀元前5世紀の様式とは対照的なものであった。つまり感覚的に微妙な情感をあらわした点において、スコパスもプラクシテレスも、紀元前4世紀の特質を現わしている。紀元前5世紀のフェイディアスやポリュクレイトスが一種の神的な美を完成したとすれば、紀元前4世紀のスコパスとプラクシテレスは人間的な美を充実させたともいえる。
    そしてリュシッポスが紀元前4世紀の最後を飾る彫刻家として挙げられる。ただ、彼の活躍した時代は、ギリシャ社会が変貌し、民族意識を失ってゆく兆しの現れた時代でもあった。それは、マケドニアのアレクサンドロス大王の活動した時代であった。
    リュシッポスの彫刻は、優美と激情という古典期後半の特徴を一つに融合させ、ポリュクレイトスの7頭身を8頭身に改め、「完成された彫刻美」を追求したが、同時にやや肉体の誇張もみられ、感情のかげりの表現もあらわれる。彼は競技者像の作家として盛名をはせたが、中でも傑作とされるのは、「泥を掻き落とす青年」(アポクシュオメノス、原作紀元前330年頃、原作は失われている、ローマンコピー、ヴァティカン美術館)である。ただ、この作品には、時代を反映して、心理的な不安定なものが感じられる。彼はまた肖像彫刻家としてもすぐれており、とくにアレクサンドロスの像を数多く制作したといわれている(ただし、理想美と典型を求めた紀元前5世紀や紀元前4世紀前半では、このような特定の人物の肖像彫刻はほとんど作られなかった)。

    <末期>


    アレクサンドロス大王以後のギリシャは、古典期のような理想主義的なギリシャではなかった。整然として秩序づけられたものが崩れ、思想的にも、懐疑主義、快楽主義が広まっていった。しかし同時に、ギリシャ文化がギリシャの国土の外へと伝播、拡大してゆく時代でもあった。
    紀元前3世紀以後となると、裸体のヴィーナス像が多く目立ってくるのも、官能の喜びを愉しむ風潮によるものといわれている。女体の羞恥が強調され、姿態・ポーズの複雑な変化があらわれてきた。彫刻の技能も拡大し、写実味が強まった。より日常的なものへの観察が深まり、従来彫刻の題材になかった日常生活の中の老婆や子供をも登場させることになる。
    また、人間の表情には喜怒哀楽の感情が強まり、肉体の量感や動きも、極端な誇張がなされた。いわゆるバロック的な情熱を見せてくる。
    紀元前1世紀の彫刻として早くから有名な「ラオコーン群像」(1506年ローマのティトゥス帝浴場跡で発見、ヴァティカン美術館蔵)を見てもわかるように、表情や上体の筋肉の動き、大きな身ぶりは誇張に過ぎている(一種の空虚感さえ感じる人もいる)。
    しかし、こうした現象だけを取り上げて、この時代(ヘレニスティック時代)の彫刻を軽視することはできない。彫刻家たちは幅広い活動をし、すぐれた名品を生み出している。中でもルーヴル美術館の至宝の一つに数えられる「ミロのヴィーナス」などは、その最も見事な実りである。
    1964年の図録では、次のようにこの作品を賛美している。
    「この作品の中にこもる官能と典雅の快よい結びつき、肉付けや姿態の線にあふれる生のいぶきの流麗なリズム、ここには、磨き上げられ発展してきた古典期のギリシャ的美の品位と、その後に展開するさまざまの様相が含まれている」と。
    (朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、109頁)
    つまり、官能性と典雅さが融合し、生のいぶきの流麗なリズムが感じられ、古典期のギリシャ的美の品位と、その後の美術的様相を併せ持つという(「ミロのヴィーナス」は、クラシック様式とヘレニズム様式の折衷様式であると中村るいは明言している)。
    その他、ルーヴルの「サモトラケのニケ」や、ローマ時代の模刻「シラクサのヴィーナス」も、ギリシャの栄光を十分に誇りうる名品である。
    ギリシャの末期、ヘレニスティック時代はどこで終わるかについては諸説ある。ギリシャの国は紀元前146年、ローマによって滅ぼされるが、ギリシャの美術は滅びず、ローマ民族の手本となって生きた。だから大体紀元前50年くらいまでをヘレニスティック的と、1964年の図録では想定している(一般的には、ヘレニズム時代(Hellenistic period)は、アレクサンドロスの死亡[紀元前323年]からプトレマイオス朝エジプトの滅亡[紀元前30年]するまでの約300年間を指す)。
    そしてこのヘレニスティック時代の美術は、そのままローマ美術の中へ直流してゆく(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、99頁~110頁。
    中村、2017年[2018年版]、200頁~201頁)。

    <ギリシャ彫刻史のハヴロックの時代区分>


    ハヴロックは、ギリシャ美術を、段階的な形態上の発展という観点から、次の四つの区分に分類している。
    1 アルカイック期(archaic phase) ―紀元前7世紀後半から6世紀まで
    2 古典期(classic phase)     ―紀元前5世紀全体
    3 後期古典期(late classic phase) ―紀元前4世紀
    4 ヘレニズム期(Hellenistic phase)―紀元前300年から紀元前31年まで
    この四つの段階は、「近代美術史の父」と呼ばれたヴィンケルマン(1717-68)の分類に基づいている(とりわけ『古代美術史』[1764年])という(ハヴロック、2002年、52頁~53頁)。

    <ギリシャ美術史の中村るいの時代区分>


    中村るいは、ギリシャ美術史の時代区分について、青銅器時代からヘレニズム時代までを扱っている。この時代を次の6つの時代に区分している。
    ・青銅器時代(前3600~1100年頃)
    ・いわゆる<暗黒時代>(前1100~900年頃)
    ・幾何学様式時代(前900~700年頃)
    ・アルカイック時代(前700~480年)
    ・クラシック時代(前480年~323年)
    ・ヘレニズム時代~ローマ時代(前323年~31年)
    そして、巻末の「ギリシャ美術史年表」(209頁~216頁)では、クラシック時代をさらに4つの時期に細分している。
    ・クラシック時代(厳格様式期)(前480年~450年)
    ・クラシック時代(パルテノン期)(前450年~430年)
    ・クラシック時代(豊麗様式期)(前430年~400年)
    ・後期クラシック時代(前4世紀)
     (中村、2017年[2018年版]、11頁~12頁、209頁~216頁)
    なお、ハヴロックと中村るいの時代区分について、改めて後述したい。

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