歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪漢文の句形~菊地隆雄『漢文必携』より≫

2023-11-26 19:00:09 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪漢文の句形~菊地隆雄『漢文必携』より≫
(2023年11月26日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の副教材から、漢文、その句形などについて考えてみたい。
〇菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]
 目次を参照してもらえばわかるように、漢文の代表的な句形には、次のようなものがある。
1 単純な否定形・禁止形
2 部分否定形
3 二重否定形
4 疑問形
5 反語形
6 詠嘆形
7 使役形
8 受身形
9 仮定形
10 限定形
11 累加形
12 比較形
13 選択形
14 比況形
15 抑揚形
16 願望形
17 倒置形

中でも、解釈にかかわる、5 反語形、7 使役形などをみておく。





【菊地隆雄ほか『漢文必携』(桐原書店)はこちらから】
菊地隆雄ほか『漢文必携』(桐原書店)







〇菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]
【目次】
本書の特色・凡例
【基礎編】
1 漢文とは何か
2 漢語の構造
3 訓読のしかた
4 書き下し文
5 再読文字
6 返読文字
7 漢文特有の構造
8 漢文の読み方

【句形編】
1 単純な否定形・禁止形
2 部分否定形
3 二重否定形
4 疑問形
5 反語形
6 詠嘆形
7 使役形
8 受身形
9 仮定形
10 限定形
11 累加形
12 比較形
13 選択形
14 比況形
15 抑揚形
16 願望形
17 倒置形

【語彙編】
・<あ>悪・安~<わ>或
・「いフ」と読む字
・「つひニ」と読む字
・「すなはチ」と読む字
・「また」「まタ」と読む字
・繰り返し読む副詞
・所謂(いはゆる)など
・以是(これをもつて)など

【読解編】
1 構文から読解へ
2 読解へのステップ
 ①故事・寓話 ②漢詩 ③史伝 ④思想 ⑤文章

【資料編】
1 漢詩の修辞
2 史伝のエピソード
3 思想
4 文学
5 故事成語
6 漢文常識語





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・漢文と日本文
・【音読のすすめ】
・再読文字
・5 反語形
・7 使役形
・読解編 1 構文から読解へ
・「構文から読解へ」の練習問題






漢文と日本文


〇漢文と日本文の違いについて
・漢文とそれに対応する日本文を並べてみよう。
 (漢文)夜行逢鬼
 (日本文)夜行きて鬼に逢ふ。
※「夜」と「行」は、二つの文章とも語順は同じである。
 しかし、「逢」と「鬼」は日本文では逆になっている。
 その上「行」に「きて」、「鬼」に「に」、「逢」に「ふ」が付いている。
 ここに挙げた日本文は漢文を訓読(漢文を日本の文語文で翻訳)したものである。
 二つの文章の違いは、そのまま漢文を日本文に変換する方法を教えてくれる。
 その方法を整理しておく。
①語順を日本文に合うように直す。
②助詞や助動詞に当たるものを補う。
③活用語は活用させる。

〇なぜ漢文を学ぶのか?
・「現代文」は「古文」や「漢文」をもとにして出来上がった文章である。
 現在の日本の文章は、「古文」や「漢文」の語彙や構文に支えられている。
 「漢文」は過去の遺物ではなく、現代の文章の基底に生きている。
・では、漢文はどのような過程を経て、日本に定着したのか?
 日本と中国の間には、早い時期から交渉があり、文字のなかった日本に漢字で書かれた漢文が入ってきた。その漢文は、当初は中国大陸あるいは朝鮮半島からの渡来人の助けを借りて、中国語として音読されていたと考えられている。それが訓読という方法の発明によって、日本文として多くの人々に読まれるようになっていった。
 やがて、中国の漢文を摂取するだけではなく、日本人自身が漢文を書くようになる。また、漢文の影響を受けた小説や随筆、日記なども漢字仮名交じりの文章で書き始められる。
 こうして、中国の漢文の内容、文体双方の影響を受けて、日本の文章が形づくられてきた。

〇漢文学習の目標
①日本の文化に大きな影響を与えた中国の漢文を読み解けるようになること
(『論語』『史記』など)
②日本人の書いた漢文を読み解けるようになること
(江戸の漢詩や歴史上の各種の資料など)
③漢文の影響を受けて書かれた日本の古典をよりよく読めるようになること
(『源氏物語』『枕草子』など)
④さらに、訓読体を基調とした近代の文章(明治の文章や法律の文章など)を自由自在に読みこなし、漢文の語彙や言い回しを消化し、現代文の表現に活かせるようになること
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、8頁~9頁)

〇漢語の構造
・漢文を読むためには、漢語の構造についての理解が不可欠である。
 それは語順に敏感になることが欠かせないからである。
・そこで、二字の漢語の構造を、日本文と語順が同じものと違うものに分けて、整理してみた。
※日本文と同じ語順のものはわかりやすいが、語順の違うものは間違えやすいので、注意しよう。

【日本文と同じ語順の構造】
①主語+述語
(ア)日暮(にちぼ)―日が(主) 暮れる(述)――日暮(ひくル)
(イ)地震(じしん)―地が(主) 震える(述)――地震(ちふるフ)
(ウ)心痛(しんつう)―心が(主) 痛む(述)――心痛(こころいたム)

②修飾語+被修飾語
(ア)高山(こうざん)―高い(修) 山(被)――高山(たかキやま)
(イ)蛇行(だこう)―蛇のように(修) 行く(被)――蛇行(へびノゴトクゆク)
(ウ)山積(さんせき)―山のように(修) 積む(被)――山積(やまノゴトクつム)

③並列
(ア)出入(しゅつにゅう)―出る 入る――出入(いヅルトいルト)
(イ)難易(なんい)―難しい 易しい――難易(かたシトやすシト)
(ウ)天地(てんち)――――――――――天地(てんトちト)


【日本文と異なる語順の構造】
④述語+補語
(ア)即位(そくい)―即く(述) 位に(補)――即位(つクくらゐニ)
(イ)登壇(とうだん)―登る(述) 壇に(補)――登壇(のぼルだんニ)
(ウ)就任(しゅうにん)―就く(述) 任に(補)――就任(つクにんニ)

⑤述語+目的語
(ア)読書(どくしょ)―読む(述) 書を(目)――読書(よムしょヲ)
(イ)飲酒(いんしゅ)―飲む(述) 酒を(目)――飲酒(のムさけヲ)
(ウ)行政(ぎょうせい)―行う(述) 政を(目)――行政(おこなフまつりごとヲ)

⑥否定語を上にもつ
(ア)無力(むりょく)―無い(否) 力が――無力(なシちから)
(イ)不屈(ふくつ)―不(否) 屈せ――不屈(ずくつセ)
(ウ)非凡(ひぼん)―非ず(否) 凡に――非凡(あらズぼんニ)

<修飾語>…主語・目的語・補語・述語の内容を詳しく説明する語。
      「被修飾語」はその働きを受ける語。
<補語>…行為の行われている場所や原因を表す語。
     「ニ・ト・ヨリ」などを送ることが多い。
<目的語>…行為の対象を示す語。
     「ヲ」を送ることが多い。

【音と訓】
・漢語の読みには、音(おん)と訓(くん)がある。
 音は中国から伝わった読みであり、訓はその漢語に相当する日本語を当てた読みである。
 漢文を読むときには、一字の漢語は訓で読み、熟語の漢語は音で読むのが原則である。
 音には、「呉音(南北朝時代の呉の地方の音)」~例 世間(セケン)
    「漢音(隋、唐時代の長安地方の音)」~例 中間(チュウカン)
    「唐宋音(宋代以降の音)」~例 椅子(イス)
・漢文を読むときは、呉音を用いることもあるが、原則として漢音を用いる。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、10頁~11頁)

〇漢文特有の構造
・漢文には語形変化がなく、語順によって語の品詞が確定し、文の意味が決定される。
 したがって、「漢文特有の構造」とは、つきつめて言えば、語順のことである。
 基本的には、「漢語の構造」の発展形である。
 ただ、二字の熟語の場合と異なり、動詞の次にその補足語(「目的語」や「補語」に相当するが、漢文では便宜上分けているだけで厳密には分類しがたい)を二つ持つ場合がある。
・そしてまた、前置詞に相当する置き字を持つこともある。
・「補足の関係」においては、「S+V」の後に「O」や「C」が配置される。
 つまり、漢文の語順は、英語の語順に似ている。
 この構造をつかむことが、漢文読解の基礎となる。

【補足の関係】
①主語+述語+目的語 
CBヲ(BヲC[ス])
 越王好勇。<韓非子・二柄> 
【書き下し文】越王勇を好む。
【意味】 越の王が勇士を好んだ。
※目的語の場合は、「ヲ」を付けて上に返る。まれに置き字を伴うことがある。

②主語+述語+(於・于・乎)補語
C(ス)於Bニ /C(ス)Bニ(BニC[ス])
(剣)墜於水。<呂氏春秋・慎大覧>
【書き下し文】(剣)水に墜(お)つ。
【意味】 (剣が)水に落ちた。
 
 (荘公)問其御。<淮南子・人間訓>
【書き下し文】(荘公)其の御(ぎょ)に問ふ。
【意味】 (荘公は)御者に尋ねた。

※補語の場合は「ニ・ト・ヨリ」などを付けて上に返る。
 補語の前には「於・于・乎」などの置き字がくることが多い。

③主語+述語+目的語+(於・于・乎)補語
C(ス)Aヲ於Bニ /C(ス)AヲBニ(AヲBニC[ス])
 紀昌学射於飛衛。<蒙求・紀昌貫虱>
【書き下し文】紀昌射を飛衛に学ぶ。
【意味】 紀昌は弓を飛衛に学んだ。 

 (涓人)買之五百金。<戦国策・燕策>
【書き下し文】(涓人[けんじん])之を五百金に買ふ。
【意味】 (王の側近は)これを五百金で買った。

※目的語と補語の組み合わせでは最も多く見られる形。補語の前に置き字がくることが多い。

④主語+述語+補語+目的語
C(ス)AニBヲ(AニBヲC[ス])
 操遣権書。<十八史略・東漢>
【書き下し文】操権に書を遣(おく)る。
【意味】 曹操が孫権に手紙を送った。
※述語に授与動詞(「与・贈・授・語・教・加」など)が用いられる場合には、この形になることが多い。

⑤主語+述語+補語+(於・于・乎)補語
C(ス)Aニ於Bニ /C(ス)AニBニ(AニBニC[ス])
 (臣)見将軍於此。<史記・項羽本紀>
【書き下し文】(臣)将軍に此に見(まみ)ゆ。
【意味】 (私は)ここで将軍にお会いしました。

 我乗舟江湖。<十八史略・春秋戦国>
【書き下し文】我舟に江湖に乗る。
【意味】 私は江湖で舟に乗った。
※補語を二つ伴う形で、それほど多くは見られないが、「ニ」を二度重ねる読み方に慣れること。
 下の補語は場所を示す語であることが多い。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、24頁~25頁)

【音読のすすめ】


・内容の理解はひとまずおき、漢文を見ながら先生の読みの後について復唱することを「素読(そどく)」という。
 江戸時代の寺子屋などでは、この方法によって入門期の漢文学習が行われていた。
 いや、江戸時代ばかりではない。明治になってからも、漢文の手ほどきはこの「素読」によって行われた。鷗外も漱石も、大きな声を出して、「素読」に励んだことだろう。そして、いつの間にか、漢文の読解力を身につけた。
 
・ところが、今では、この方法はすっかり忘れ去られてしまった。
 正しい読みを聞いて(リスニング)、音読する(リーディング)という方法は、すべての語学学習の基本であるはずである。もう一度「素読」を見直す必要がある。
 しかし、そうはいっても、いつも先生の側で「素読」をするという環境を作ることは難しい。
 でも、先生の代わりに訓点付きの漢文を用い、音読するというのであれば、いつでも、どこででも、一人でできる。そしてこうした音読は、「素読」と同じような効用があると考えてよい。

・漢文を句法や語法から攻めていくというのは、もちろん必要なことだが、それで最初から最後まで押し通すというのは難しいものである。漢文を読むには、音読によって漢文の口調に慣れるということがどうしても必要なのである。口調に慣れることによって、不自然な読みをチェックすることもできる。音読は文章をまるごと感じられる格好の方法といえる。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、15頁)

・音読のテキストとしては、初めは教科書が最適であろう。
 訓点も付いており、字も大きく、授業で習ってすでになじみの作品もあるかもしれない。
 慣れてきたら、まとまった作品にチャレンジしたいものである。
・高校の漢文の代表的な作品といえば、『論語』『唐詩選』『十八史略』ということになろうか。
 よく知られた作品だけでなく、内容も多岐にわたっている。
 その中から手に入れやすいものを、と考えると、『論語』と『唐詩選』が挙げられる。
 この二つの作品は、安価な文庫本で求められる。

・では、さっそく『論語』から始めてみよう。
 孔子とその弟子たちの言行録で短い文章が多く、また誰にでも知られた言葉がいくつもある。
 吾十有五にして学に志す。
 とか、
 朋(とも)有り遠方より来たる、亦楽しからずや。
などという言葉なら、一度は耳にしたことがあるだろう。
 また、どこから始めてもよいし、どこで終わってもよいという点でも、音読にはぴったりの本である。

・『唐詩選』は、文字どおり唐詩の選集であるが、本家の中国よりも日本で流行した本である。
 牀前看月光 疑是地上霜
 挙頭望山月 低頭思故郷 <李白「静夜思」>
(牀前(しやうぜん)月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと
 頭(かうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(た)れて故郷を思ふ)

などという詩なら、口ずさんだことのある人も多いのではなかろうか。
 これも絶句や律詩の短いものから入ればよい。
 ふと口をついて出るぐらいになるまで、音読してみよう。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、172頁)

再読文字


漢文を日本語として訓読するときに二度読む文字がある。
 これは、二度読んだほうが日本語としてわかりやすいからである。
 そうした文字を再読文字という。

【再読文字を訓読するときの注意点】
①一度目の読みは返り点を無視して副詞的に読み、書き下し文では漢字にする。
②二度目の読みは返り点に従って助動詞や動詞として読み、書き下し文では平仮名にする。
③二度目の読みの送り仮名は再読文字の左下に付ける。



再読文字







猶[由]
盍[蓋]


〇再読文字、読み・意味、例文・書き下し文、例文訳を挙げておく。


 いまダ―[セ]ず
 まだ―しない。
 未聞好学者也。<論語・雍也>
 未だ学を好む者を聞かざるなり。
 (顔回以外に)まだ学問を好む者(がいること)を聞いていない。


 まさニ―[セ]ントす
 ―しようとする。―するつもりだ。
 将順江東下<資治通鑑・漢・献帝>
 将に江(かう)に順(したが)ひて東に下らんとす。
 (今にも)長江の流れに乗って東に下ろうとする。


 まさニ―[セ]ントす
 ―しようとする。―するつもりだ。
 高祖且至楚。<史記・淮陰侯列伝>
 高祖且に楚に至らんとす。
 高祖(劉邦)が(今にも)楚の国に到着しようとしている。


 まさニ―[ス]ベシ
 ―すべきである。きっと―のはずだ。
 及時当勉励<陶潜「雑詩」>
 時に及びて当に勉励すべし
 時機を逃さず努め励むべきである。


 まさニ―[ス]ベシ
 きっと―だろう。―すべきである。
 君自故郷来
 応知故郷事。<王維「雑詩」>
 君故郷より来たる
 応に故郷の事を知るべし。
 あなたは私の故郷からやって来た、きっと故郷のことを知っているだろう。


 よろシク―[ス]ベシ
 ―するのがよい。
 宜従仲兄之言。<近古史談>
 宜しく仲兄の言に従ふべし。
 二番目の兄の言うことに従うのがよい。


 すべかラク―[ス]ベシ
 ―する必要がある。―すべきである。
行楽須及春<李白「月下独酌」>
 行楽須らく春に及ぶべし
 遊び楽しむのはぜひともこの春のよい季節にすべきである。

猶[由]
 なホ―ノ([スル]ガ)ごとシ
 ちょうど―のようだ
 過猶不及<論語・先進>
 過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。
 度を越すのはちょうど足りないようなものだ。

盍[蓋]
 なんゾ―[セ]ざル
 どうして―しないのか、―すればよい。
 盍各言爾志。<論語・公冶長>
 盍ぞ各(おのおの)爾(なんぢ)の志を言はざる。
 どうして各人が自分の考えを言わないのか、言えばよいのだ。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、20頁~21頁)

反語形


5反語形
反語形とは、疑問の形を借りて、その文とは反対の内容を強調する句形。
 疑問形と共通の表現と反語形にだけ用いる表現とがある。
 文末に多く使われる「ン(ヤ)」の「ン」は推量の助動詞
①疑問詞を用いる形(文末の助字との併用もある)
何ヲカ[焉]―[セ]ン(や)
【読み方】なにヲカ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 何を―だろうか、いや、何も―ない。

 夫何憂何懼。<論語・顔淵>
 夫れ何をか憂(うれ)へ何をか懼(おそ)れん。
 そもそも何を心配し何を恐れることがあるだろうか、いや、何も心配したり恐れたりすることはない。

何ぞ[胡・奚・曷・寧・庸]―[セ]ン(ヤ)
【読み方】なんゾ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どうして―だろうか、いや、何も―ない。
 
不有佳作、何伸雅懐。<李白「春夜宴桃李園序」>
佳作有らずんば、何ぞ雅懐を伸べん。
よい詩ができなかったら、どうしてこの風雅な気持ちを表せようか、いや、表すことはできない。

安クンゾ[悪・焉・烏・寧]―[セ]ン(ヤ)
【読み方】いづクンゾ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どうして―だろうか、いや、何も―ない。
燕雀安知鴻鵠之志哉。<十八史略・秦>
燕雀安くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや
つばめやすずめのような小さな鳥にどうして白鳥のような大きな鳥の心が理解できようか、いや、できない。

安クニ(カ)[悪・何・焉]―[セ]ン(ヤ)
【読み方】いづクニ(カ)―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どこに―だろうか、いや、どこにも―ない。

我安適帰矣。<十八史略・周>
我安くにか適帰(てきき)せん。
私はどこに身を寄せたらいいのだろうか、いや、どこにも寄せられない。

誰カ[孰]―[セ]ン(ヤ)
【読み方】たれカ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 誰が―だろうか、いや、誰も―ない。

夫誰与王敵。<孟子・梁恵王上>
夫れ誰か王と敵せん。
そもそも誰が王に敵対しようか、いや、誰も敵対しない。

②疑問詞と他の語を組み合わせた形(文末の助字との併用もある)
何為レゾ[胡為・奚為] ―[セ]ン(ヤ)
【読み方】なんすレゾ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どうして―だろうか、いや、―ない。
何為無人。<晏子春秋>
何為れぞ人無からん。
どうして人がいないことがあろうか、いや、いないことはない(=いる)。

何以テ(カ)―[セ]ン(ヤ)
【読み方】なにヲもつテ(カ)―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どうして―だろうか、いや、―ない。
不然、籍何以至此。<史記・項羽本紀>
然らずんば、籍何を以て此に至らん。
そうでなければ、私(項籍)がどうしてこうするまでに至ろうか、いや、至りはしない。

如―ヲ何セン(奈何・若何)
【読み方】―ヲいかんセン
【意味】―をどうしたらよいか、いや、どうしようもない。
虞兮虞兮奈若何<史記・項羽本紀>
虞や虞や若(なんぢ)を奈何(いかん)せん
虞よ虞よおまえをどうしたらよいか、いや、どうしようもない。

如何ゾ―[セ]ン(ヤ)
【読み方】いかんゾ―[セ]ン(ヤ)
【意味】どうして―だろうか、いや、―ない。
対此如何不涙垂<白居易「長恨歌」>
此れに対して如何(いかん)ぞ涙垂れざらん
これに対してどうして涙を流さずにいられようか、いや、流さずにはいられない。

③文末に疑問の助字を用いる形
―乎[セ]ン(邪・耶・也・哉・与・歟・乎哉)
【読み方】―[セ]ン(ヤ)
【意味】 ―だろうか、いや、―ない。
食少事煩、其能久乎。<十八史略・三国>
食少なく事煩(わづら)はし、其れ能く久しからんや。
食事は少なく仕事は多い、長生きできようか、いや、できない。

④反語形特有の形
豈―[セ]ン(ヤ)(哉・乎・邪)
【読み方】あニ―[セ]ン(ヤ)
【意味】 どうして―だろうか、いや、―ない。
是豈水之性哉。<孟子・告子上>
是れ豈に水の性ならんや。
これがどうして水の本性だろうか、いや、本性ではない。

敢ヘテ―不ランヤ―[セ](乎)
【読み方】あヘテ―[セ]ざランヤ
【意味】 どうして―しないことがあろうか、いや、きっと―する。
敢不避大将軍。<杜子春伝>
敢へて大将軍を避けざらんや。
どうして大将軍を避けないことがあろうか、いや、きっと避ける。

独リ―[セ]ン乎[哉]
【読み方】ひとリ―[セ]ンや
【意味】 どうして―だろうか、いや、―ない。
独畏廉将軍哉。<史記・廉頗藺相如列伝>
独り廉将軍を畏れんや。
どうして廉将軍を恐れようか、いや、恐れはしない。

何[胡・奚・曷]不ル―[セ]
【読み方】なんゾ―[セ]ざル
【意味】 どうして―しないのか、―すればよい。
何不秉燭遊<文選・古詩十九首(生年不満百)>
何ぞ燭を秉(と)りて遊ばざる
どうしてともし火を手にして遊ばないのか、遊べばよいのに。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、52頁~57頁)


句形練習問題2

句形練習問題~反語形


反語形に注意して、次の傍線部の漢字の読みを送り仮名も含めてすべて平仮名で書きかえなさい。
また、現代語訳の( )の中に適語を補って文を完成させなさい。

①君子去仁、悪乎成名。<論語・里仁>
(君子が仁の道を離れたなら、( )(君子の)名が成り立とうか、いや、成り立たない。)

②安能為之足。<戦国策・斉策>
(( )これ(=蛇)の足を描き加えることができようか、いや、できない。)

③豈望報乎。<史記・淮陰侯列伝>
(( )礼など望もうか、いや、望みはしない。)

④田園将蕪。胡不帰。<陶潜「帰去来辞」>
「(故郷の)田園は荒れ果てようとしている。( )帰らないのか、帰るべきである。」

⑤騅(すい)不逝兮可奈何<史記・項羽本紀>
(騅が行かないのを( )、いや、どうしようもない。)

⑥不仁者可与言哉。<孟子・離婁上>
(仁のない者は共に語ることが( )、いや、できない。)

⑦君子何患乎無兄弟也。<論語・顔淵>
(君子は( )兄弟のないことを心配しようか。)

解答
①いづくにか(どこに)
②いづくんぞ(どうして)
③あに・や(どうして)
④なんぞかへらざる(どうして)
⑤いかんす(どうしたらよいか)
⑥や(できようか)
⑦なんぞ(どうして)

【書き下し文】
①君子去仁、悪乎成名。<論語・里仁>
 君子仁を去りて、悪(いづ)くにか名を成さん。
②安能為之足。<戦国策・斉策>
 安んぞ能く之が足を為(つく)らんや。
③豈望報乎。<史記・淮陰侯列伝>
 豈に報いを望まんや。
④田園将蕪。胡不帰。<陶潜「帰去来辞」>
 田園将に蕪(あ)れなんとす。胡ぞ帰らざる。
⑤騅(すい)不逝兮可奈何<史記・項羽本紀>
 騅の逝(ゆ)かざる奈何(いかん)すべき
⑥不仁者可与言哉。<孟子・離婁上>
 不仁者(ふじんしゃ)は与に言ふべけんや。
⑦君子何患乎無兄弟也。<論語・顔淵>
 君子何ぞ兄弟(けいてい)無きを患(うれ)へんや。



応用問題~反語形



反語形に注意して、次の傍線部を現代語訳しなさい。
①豈不爾思。<論語・子罕>
②籍独不愧於心乎。<史記・項羽本紀>
③吾何為不予哉。<孟子・公孫丑下>
 ※不予ナリ…不愉快だ。
④敢不受教。<枕中記>
⑤割鶏、焉用牛刀。<論語・陽貨>
⑥孰能無惑。<韓愈・師説>
⑦対此、如何不涙垂。<白居易「長恨歌」>

解答
①豈に爾を思はざらんや。
 どうしてあなたを思わないだろうか、いや、思う。
②籍独り心に愧(は)ぢざらんや。
 どうして心に恥じないだろうか、いや、恥じないではいられない。
③吾何為れぞ不予ならんや。
 ※不予ナリ…不愉快だ。
 どうして不愉快であろうか、いや、不愉快ではない。
④敢へて教へを受けざらんや。
 どうして教えを受けないことがあろうか、いや、きっと受ける。
⑤鶏を割くに、焉くんぞ牛刀を用ひん。
 どうして牛を裂く刀などを用いようか、いや、用いない。
⑥孰か能く惑ひ無からん。
 誰が迷いがないことがあろうか、いや、誰しも迷いはある。
⑦此れに対して、如何ぞ涙垂れざらん。
 どうして涙を流さずにいられようか、いや、流さずにはいられない。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、60頁~61頁)


7使役形

使役形


使役形とは、誰か(何か)に何かを「させる」ことを表す句形。
 「―しム」と訓読し、「―させる」という意味を表す。
 使役の助字を用いる形、動詞に直接「シム」を送る形などがある。
①使役の助字を用いる形
使ム(令・教・遣)AヲシテB[セ]
【読み方】AヲシテB[セ]シム
【意味】 AにBさせる
※使役の助字は書き下し文では平仮名「しむ」に直す。
 Bが長くなったときは「Aに命じてBさせる」と訳すと文意がよく通じる。

 使大夫二人往先焉。<荘子・秋水>
 大夫二人(ににん)をして往き先んぜしむ。
 大夫二人に(王に)先立って行かせた。

【重要】「使・令・教・遣」の違い
・江戸時代の学者伊藤東涯によると、この四つの使役語の発生には次のような違いがある。
 使…人にものを言いつけてさせる。 
令…上から下に命令してさせる。
教…教え命じてさせる。(俗語に多い。)
遣…派遣してさせる。

②使役を暗示する動詞がある形
 命ジテAニB[セ]シム
 説キテAニB[セ]シム
【読み方】AニめいジテB[セ]シム
     AニときテB[セ]シム    
【意味】 Aに命じてBさせる
     Aを説得してBさせる

聊命故人書之。<陶潜「飲酒」序>
 聊(いささ)か故人に命じて之を書せしむ。
 ともかく親しい友人に命じてこれを書かせる。

説夫差赦越。<十八史略・春秋戦国(臥薪嘗胆)>
 夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ
 夫差を説得して越王を許させた。

③文脈から使役に読む場合
 ―[セ]シム
【読み方】―[セ]シム
【意味】 ―させる
(丈人)止子路宿。<論語・微子>
 (丈人(ぢやうじん))子路を止(とど)めて宿(しゅく)せしむ。
 (老人は)子路をとどめて(自分の)家に泊まらせた。
※述語(宿)の動作を行う者(子路)が文の主語(丈人)と一致せず、かつ主語が動作をさせる者の場合は使役に読む。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、62頁~63頁)

読解編 1 構文から読解へ


読解編
1 構文から読解へ(156頁~161頁)
〇句形や語彙の学習に加えて、構文(文の組み立て)を意識し、より的確な読解を目指す。
・漢文を読解するには、基本的な句形や常用される語彙に習熟することが必要。
 しかし、それだけでは十分ではない。
 平素の学習や読書を通して、語彙を増やし、歴史や地理などの漢文常識を身につけることも必要。
 また、訓読とは漢文を日本の文語文法を用いて翻訳する方法なので、文語文法にも通じていなければならない。
 漢文読解力とは、さまざまな分野の総合力なのである。

・そうした読解に結びつく行為の中でも、構文を意識し、文の構造をとらえることは、とりわけ大切。
 ここでは、6例の構文を取り上げてみた。
 頻繁に使われる語順の構文「C[ス]AヲBニ」、句形の区分に入りにくい構文として「A[スル]コトB」と「A[スル]ニ以テスBヲ」、文全体を見渡したときに必要な構文として、「有リ―[スル]者」と「A也、B/A者、B」、そして対句の構文である。
 もとより、これだけで漢文が読解できるわけではないが、こうした構文に注意することで、構文から読解へという読解の道筋ができる。

・漢文を一読して、こうした構文をすばやく見抜き、さらに返り点や送り仮名を省いても読めるようになれば、読解は新たな段階へと一歩前進できる。

1「C[ス]Aヲ(於・于・乎)Bニ」
【読み方】Aヲ(於・于・乎)BニC[ス]
【意味】 AをBにCする。

先納質於斉、以求見。<十八史略・春秋戦国(鶏鳴狗盗)>
先づ質(ち)を斉に納れ、以て見んことを求む。
(秦の王は)まず人質を斉に送ってから、会見することを求めた。

立祠江上、命曰胥山。<十八史略・春秋戦国(臥薪嘗胆)>
祠(し)を江上に立て、命(なづ)けて胥山(しょざん)と曰ふ。
祠(ほこら)を長江のほとりに立て、胥山と名づけた。

徙武北海上無人処。<十八史略・西漢>
武を北海の上(ほとり)人無き処に徙(うつ)す。
蘇武を北海のほとりの人がいないところに移した。

【解説】
述語となる漢字の下にある二つの名詞が、目的語(-を)と補語(…に)の役割をしている構文。
AとBは、長短さまざまな形で現れる。
・「先納質於斉~」は、置き字「於」がある形。
 「於」を挟んで、「…を…に」と送り仮名をつける。
・「立祠江上~」は、「於」がない形。
 名詞の切れ目を見きわめる必要がある。
・徙武北海上~」は、Bの部分が長く、一見Bがどこまで続いているのか、わかりにくい形。※また、述語に「与・贈・授・語・教・加」などの授与動詞がくると、「C(ス)AニBヲ」(AニBヲC[ス])の形になる場合が多い。

2「A[スル]コトB」
【読み方】A[スル]コトB
【意味】①Aするのが(は)B。
    ②(主にBに数量・程度がきた場合は)B(の数量・程度だけ)Aする。
漢軍及諸侯兵囲之数重。<史記・項羽本紀(四面楚歌)>
漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重(ちょう)なり。
漢軍と(それに従う)諸侯の軍が(項羽の軍が立てこもる)これ(=垓下)を幾重にも取り囲んだ。

大丈夫之志於相、理則当然。<能改斎漫録>
大丈夫の相(しやう)に志すこと、理としては則ち当に然るべし。
一人前の立派な男が宰相を志すのは、道理として当然のことだ。

何断裂之余、尚有霊如是耶。<閲微草堂筆記>
何ぞ断裂の余(よ)、尚ほ霊なること是(か)くのごときもの有らんや。
どうして砕け残った磁器のかけらにこのような(火器を避ける)霊験があろうか、いや、ありはしない。

【解説】
・「A[スル]コトB」の「A[スル]」の用言の連体形である。
 それに「コト」を送り、その後に数量や程度・状況等を説明するBがくる。

・「漢軍及諸侯兵~」は、「囲ムコト之ヲ」と目的語を使ってAを作っている形。
 Bも「数量」一語なので比較的単純な形である。
・「大丈夫之志於相~」は、「志スコト於相ニ」と置き字+補語を伴うAであり、Bの部分は説明の文となっている。
・「何断裂之余~」は反語形の中に、「A[スル]コトB」がはめ込まれている形。
 訓点がなくても、この「A[スル]コトB」のさまざまなパターンが見抜けるようになるとよい。

3「A[スル]ニ以テスBヲ」
【読み方】A[スル]ニBヲ以テス
【意味】①AするのにBでする。BによってAする。
    ②BをAする。

策之不以其道。<韓愈「雑説」>
之を策(むち)うつに其の道を以てせず。
これ(=名馬)を鞭でうつのに名馬を扱うやり方でしない。

故賞以酒肉、而重之以辞。<柳宗元「送薛存義序」>
故(ことさら)に賞するに酒肉を以てして、之に重ぬるに辞を以てす。
わざわざ酒肉を与えてほめたたえ、それに加えて(送別の)言葉を贈る。

媼答以少年所教。<独異志>
媼(あう)答ふるに少年の教ふる所を以てす。
老婦人は少年が教えてくれたことを答えた。

【解説】
この構文では、「以」以下は手段方法や目的語を示す。
・「策之不以其道」では、「策ウツ」の手段方法が「其ノ道」で示されている。
・「故賞以酒肉~」では、「酒肉」が「賞スル」の手段方法、「辞」が「重ヌル」の手段方法として示されている。
・「媼答以少年所教」では、「答フル」ことの目的語が「少年ノ所教フル」として示されている。
・訳し方は、「BによってAする・BをAする」などと、「以」以下を先に訳した方がよい場合も多い。
 この構文は、一文の骨格となって用いられていることが多く、頻出の重要構文である。

4「有リ―[スル]者」
【読み方】―[スル]者有リ
【意味】―する者がいる。

古之君、有以千金使涓人求千里馬者。<十八史略・春秋戦国(先従隗始)>
古の君に、千金を以て涓人(けんじん)をして千里の馬を求めしむる者有り。
昔の君主に、千金で使用人に千里の馬を求めさせた者がいた。

有婦人哭於墓者而哀。<礼記・檀弓下>
婦人の墓に哭する者有りて哀(かな)しげなり。
墓の前で大声で泣いている婦人がいて、哀しそうであった。

杞国、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廃寝食者。<列子・天瑞(杞憂)>
杞の国に、人の天地崩墜して、身の寄る所亡(な)きを憂へて、寝食を廃する者有り。
杞の国に、天地が崩れ落ちて、身の置き所がなくなるのを心配し、寝食ができなくなった者がいた。

【解説】
・文の構造がつかみにくい長い文でも、「有リ―[スル]者」の形があると、「―する者がいる」という単純な構文として読むことができる。 
・「―」にあたる部分は「者」にかかる修飾語であり、この箇所の述語になる語をしっかり押さえることが、ポイントである。
・「古之君、有以千金使涓人求~」は、「求めしむる」が述語。「~ニ有リ―[スル]者」の形。
 「~に」には、人や場所が入る。
・「有婦人哭~」は「哭」が述語。
 「有リ…ノ―[スル]者」の形で「―する…がいる」と訳すと間違えない。
・「杞国、有人憂天地~」は、「憂」「廃」と述語が二つある形。

5「A也(や)、B/A[ナル]者[ものハ](は)、B」
【読み方】Aや、B/Aは[ナルものハ]、B
【意味】①Aは、B。②Aすると、B。③Aするのは、B。

師也、過。商也不及。<論語・先進>
師や過ぎたり。商や及ばず。
師(=子張)は行き過ぎのところがある。商(=子夏)は不足しているところがある。

吾観呉之亡也、与秦之苻堅相類。<壮悔堂文集>
吾呉の亡ぶるを観るや、秦の苻堅と相類す。
私が呉の滅ぶ様子を観察してみると、秦の苻堅の場合と同じである。

彼汲汲於名者、猶汲汲於利也。<司馬光「諫院題名記」>
彼の名に汲汲たるは、猶ほ利に汲汲たるがごとし。
あの名声を得るために休まずつとめるのは、ちょうど利益のために休まずつとめるのと同じである。

【解説】
・この構文の用法は一つに限定できないが、まず主な用法として「―は」という主格の提示としてとらえるとよい。
・「師也、過。~」の「也」は「師」「商」を主格として提示している。
 これは「Aは、B」と訳す。
 Aに名詞がくることが多く、「也」は強調の働きを持つ。
・「吾観呉之亡也~」の「也」は「吾観ル呉之亡ブルヲ」を状況として提示している。
 これは「Aすると、B」と訳す。

・「者」も多く主格の提示として用いられる。「彼汲汲於名者~」では、「者」が結果を示すA「彼ノ汲汲タル於名ニ」の後に置かれ、Bでそれについて説明する形になっている。

6対句:対応する語の字数が等しく、二つの句の文法的構造が同じで、意味のうえでも関連を持つ表現をいう。

数人飲之不足、一人飲之者余。<戦国策・斉策>
数人之を飲まば足らず、一人之を飲まば余り有り。
数人でこれ(=酒)を飲むには足りないが、一人でこれ飲むには十分である。

学人者不至、舎己者未尽。<初潭集>
人に学ぶ者は至らず、己を舎(す)つる者は未だ尽くさず。
人に(頼って)学ぶ人は(道に)到達できず、自己を捨てた者は(道を)究めることができない。

人非不霊於鼠、制鼠不能於人而能於貍奴。貍奴非霊於人、鼠畏貍奴而不畏人。<胡祭酒集>
人鼠よりも霊ならざるに非ざるも、鼠を制すること人に能くせずして貍奴(りど)に能くす。貍奴人よりも霊なるに非ざるも、鼠貍奴を畏れて人を畏れず。
人は鼠よりもすぐれていないわけではないが、鼠を制することは人にはできず猫にはできる。猫は人よりもすぐれているわけではないが、鼠は猫を畏れて人を畏れない。

【解説】
・対句は本来韻文で発達した修辞法であるが、散文においても多用される。
 原則としては対応する語句の字数や構造が同じで、二句でワンセットとなる。
 ただし文章においてはその対応に多少のずれが生じることが少なくない。
・「数人飲之不足~」は、「不足」と「有余」の、「不」と「有」、「足」と「余」の「対」が分かれば読むことができる。
・「学人者不至~」も、後半を見ると「不至」に対して「未尽」となっている。
 「未」は再読文字であるが、役割は「不」と同じ否定語であり、「対」を成している。
・「人非不霊於鼠~」は相対する部分の字数や構造にずれがある。
 しかし、「鼠」を用いて「人」と「貍奴」を説明し、「人は…」「貍奴は…」という「対」を形成している。
 いわゆる「対句的な文章」である。
※文章の対句読解には、こうした「人非不霊於鼠~」のようなパターンに慣れることが欠かせない。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、156頁~160頁、174頁)

「構文から読解へ」の練習問題


【「構文から読解へ」の練習問題】
〇現代語訳を参考にして、次の漢文を書き下し文に改めなさい。
(傍線部の返り点と送り仮名は省略してあります。)
①桓公毎質之鮑叔。<千百年眼>
 ※質…終止形は「質(ただ)す」
(これ(管仲の行うこと)を鮑叔に問いただした。)
②前人取之多、後人豈応復得。<清波雑志>
(先祖がこれ(名声)を多く獲得してしまえば、)
③老人笑而示以掌。<右台仙館筆記>
(老人は笑って手のひらを見せた。)
④非有異於向之黍稷者也。<焚書>
※黍稷(しょしょく)…キビ
(今まで食べていたキビと違ったところはありません。)
⑤公所病者陰也。日者陽也。<晏子春秋>
(あなた(=景公)が病気であるのは陰である。)
⑥遜者欲其謙退而如有所不能。敏者欲其進修而如有所不及。<金華黄先生文集>
(「敏」とは進んで学ぼうとして(それが)及ばないことがあるようだとすることである。)

【解答】
①之を鮑叔に質す。
②前人之を取ること多ければ、
③老人笑ひて示すに掌を以てす。
④向(さき)の黍稷に異なる者有るに非ざるなり。
⑤公の病む所は陰なり。(「公の病む所の者は陰なり。」も可)
⑥敏とは其の進修せんと欲して及ばざる所有るがごとくするなり。

【書き下し文・現代語訳】
①桓公毎(つね)に之を鮑叔に質す。
(桓公はいつもこれ(管仲の行うこと)を鮑叔に問いただした。)
②前人之を取ること多ければ、後人豈に応に復た得べけんや。
(先祖がこれ(名声)を多く獲得してしまえば、子孫はどうして再びそれを得ることができるでしょうか、いや、得ることはできません。)
③老人笑ひて示すに掌を以てす。
(老人は笑って手のひらを見せた。)
④向の黍稷に異なる者有るに非ざるなり。
(今まで食べていたキビと違ったところはありません。)
⑤公の病む所は陰なり。日は陽なり。
(あなた(=景公)が病気であるのは陰である。太陽は陽である。)
⑥遜とは其の謙退せんと欲して能はざる所有るがごとくするなり。敏とは其の進修せんと欲して及ばざる所有るがごとくするなり。
(「遜」とは謙虚であろうとして(それが)できていないことがあるようだとすることである。「敏」とは進んで学ぼうとして(それが)及ばないことがあるようだとすることである。)
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、156頁~161頁)

≪漢文の勉強法~音読のススメ≫

2023-11-19 19:00:04 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪漢文の勉強法~音読のススメ≫
(2023年11月19日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、漢文の勉強法について、考えてみたい。
 現在、私の手元にある参考書は、次のものである。
〇菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]
〇田中雄二『漢文早覚え速答法 共通テスト対応版』学研プラス、1991年[2020年版]
〇三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』学研プラス、1997年[2016年版]
〇幸重敬郎『漢文が読めるようになる』ベレ出版、2008年
〇小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]

受験まで日数が限られているので、受験生各自が持っている漢文のテキストを徹底的に勉強すれば十分であると思うが、他の参考書には、どのようなことが主に書かれているのか、参照してもらえたらと考え、このようなブログ記事を思いついた。


〇菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]
 これは、私の知り合いの高校生が学校の副教材として指定されたものである。

〇田中雄二『漢文早覚え速答法 共通テスト対応版』学研プラス、1991年[2020年版]
〇三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』学研プラス、1997年[2016年版]
 この2冊は、大学受験用に編集された漢文の参考書である。
 要領よく記述されているので、短期間で効果があがるように編集されているように思われる。

〇幸重敬郎『漢文が読めるようになる』ベレ出版、2008年
 この本も、受験を視野には入れているが、単に受験用の漢文参考書の域を超えるような試みが感じられる。


〇小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]
 これは、大学受験の漢文とは全く関係なく、一般に漢文の入門書として書かれているが、数多くの種類の漢文が載せられており、大学に入学しても、役立つ本であろう。
 このブログでは、故事成語に関わるものと、世界史の教科書にも出てきた司馬光の『資治通鑑』を紹介してみたい。

 さて、漢文の勉強法として、いわゆる音読を勧めている本が多い。
 ただし、後述するように、三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』(学研プラス)は、広く国語力を養うことを説き、最後の小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)では、「音読」を別の意味で使っている。

 「音読」という言葉について、辞書を引くと、2つの意味がある。
①文章を声を出して読むこと。⇔黙読 / 英語では、to read aloud  
<例文>「教科書を音読する」「外国語を学ぶときには音読が大切だ」
 黙読は、声を出さないで読むこと。英語では、to read silently
※今回のブログの「音読のススメ」は、①の意味で使っている。

②漢字を音で読むこと。音読み。⇔訓読
 <例文>「漢文を音読する」
※後述するように、小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)では、「音読」をこの意味で用いている。

 今回のブログでは、「漢文の勉強法~音読のススメ」と題して、述べておきたい。




【菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』(桐原書店)はこちらから】
菊地隆雄ほか『漢文必携』(桐原書店)


さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・音読のススメ~菊地隆雄ほか『漢文必携』より
・音読のススメ~田中雄二『漢文早覚え速答法』より
・音読のススメ~幸重敬郎『漢文が読めるようになる』より
・国語力・語彙力を養うことのススメ~三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』より

【参考】
・「音読」と「訓読」について~小川環樹・西田太一郎『漢文入門』より






音読のススメについて


 英語の学習法として、音読がお勧めの勉強法であることは、以前の私のブログにおいても強調してきた。
 漢文についても、音読を勧めている参考書が多いことに、今回、気付いたので、どのようにこのことについて述べているのか、紹介しておきたい。
 執筆項目を見てもわかるように、次の参考書の中から、音読のススメについて、抜き出してみたい。
 そして、受験生は是非とも漢文の勉強法の一つとして、実践してもらいたいと思う。

・音読のススメ~菊地隆雄ほか『漢文必携』より
・音読のススメ~田中雄二『漢文早覚え速答法』より
・音読のススメ~幸重啓郎『漢文が読めるようになる』より


音読のススメ~菊地隆雄ほか『漢文必携』より


漢文の素読


・内容の理解はひとまずおき、漢文を見ながら先生の読みの後について復唱することを「素読(そどく)」という。
 江戸時代の寺子屋などでは、この方法によって入門期の漢文学習が行われていた。
 いや、江戸時代ばかりではない。明治になってからも、漢文の手ほどきはこの「素読」によって行われた。鷗外も漱石も、大きな声を出して、「素読」に励んだことだろう。そして、いつの間にか、漢文の読解力を身につけた。
 
・ところが、今では、この方法はすっかり忘れ去られてしまった。
 正しい読みを聞いて(リスニング)、音読する(リーディング)という方法は、すべての語学学習の基本であるはずである。もう一度「素読」を見直す必要がある。
 しかし、そうはいっても、いつも先生の側で「素読」をするという環境を作ることは難しい。
 でも、先生の代わりに訓点付きの漢文を用い、音読するというのであれば、いつでも、どこででも、一人でできる。そしてこうした音読は、「素読」と同じような効用があると考えてよい。

・漢文を句法や語法から攻めていくというのは、もちろん必要なことだが、それで最初から最後まで押し通すというのは難しいものである。漢文を読むには、音読によって漢文の口調に慣れるということがどうしても必要なのである。口調に慣れることによって、不自然な読みをチェックすることもできる。音読は文章をまるごと感じられる格好の方法といえる。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、15頁)

漢文の音読のテキスト


・音読のテキストとしては、初めは教科書が最適であろう。
 訓点も付いており、字も大きく、授業で習ってすでになじみの作品もあるかもしれない。
 慣れてきたら、まとまった作品にチャレンジしたいものである。
・高校の漢文の代表的な作品といえば、『論語』『唐詩選』『十八史略』ということになろうか。
 よく知られた作品だけでなく、内容も多岐にわたっている。
 その中から手に入れやすいものを、と考えると、『論語』と『唐詩選』が挙げられる。
 この二つの作品は、安価な文庫本で求められる。

・では、さっそく『論語』から始めてみよう。
 孔子とその弟子たちの言行録で短い文章が多く、また誰にでも知られた言葉がいくつもある。
 吾十有五にして学に志す。
 とか、
 朋(とも)有り遠方より来たる、亦楽しからずや。
などという言葉なら、一度は耳にしたことがあるだろう。
 また、どこから始めてもよいし、どこで終わってもよいという点でも、音読にはぴったりの本である。

・『唐詩選』は、文字どおり唐詩の選集であるが、本家の中国よりも日本で流行した本である。
 牀前看月光 疑是地上霜
 挙頭望山月 低頭思故郷 <李白「静夜思」>
(牀前(しやうぜん)月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと
 頭(かうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(た)れて故郷を思ふ)

などという詩なら、口ずさんだことのある人も多いのではなかろうか。
 これも絶句や律詩の短いものから入ればよい。
 ふと口をついて出るぐらいになるまで、音読してみよう。
(菊地隆雄ほか『漢文必携[四訂版]』桐原書店、1999年[2019年版]、172頁)

音読のススメ~田中雄二『漢文早覚え速答法』より


漢文速習のコツ



漢文は時間がかかる。漢字だけだし、ひっくり返って読むのはしんどい。
でも試験では時間がない。そこで早く読むにはどうするか?
暗記しても効果がない。コトバなのだから慣れればよいのだ。
そしてコトバに慣れる最も効果的な方法は音読であるという。
声に出して読むことだ。

どの語学でも基本は音読である。
1目で見て、2頭で理解するより、
1目で見て、2口に出して、3耳で聞いて、4頭で理解する方が、効果は二倍である。

〇しかも音読は楽だ。力んで覚えるのとは正反対。口に出して唱えるだけで自然と身につく。
身につかないと感じたら、早口で言えるまで数回唱えることをおすすめする。
 スラスラ早口で言えるようになったら、その時はすでに体が覚えている。
<合格川柳>早口で 言えば もう身についている

〇全部を音読する必要はない。
 本書『早覚え速答法』なら問題だけ。過去問の復習なら傍線部だけ。
 読みにくいからこそ、傍線を付けられて問題になるのだ。だから、そこだけ早口で音読すれば、すぐに口が慣れてしまう。
<合格川柳>早口で いえば身になる 傍線部

丸暗記の知識は試験で使えない。
 しかし音読で「身についた」知識は使える。
 試験で勝つには「知っている」では足りない。時間があれば「解ける」でもまだ足りない。
 「早く解ける」レベルでやっと合格できる。早く解けるための知識は「身についた」知識だ。
 体が覚えている知識だ。学んだことが体に染みつているからこそ、スター選手は瞬時に妙技をくりだす。
 基本知識が身についているからこそ、声を出した受験生は変化技に対応できる。

(田中雄二『漢文早覚え速答法 共通テスト対応版』学研プラス、
 付録『共通テスト漢文攻略マニュアル+私大&記述対策』、1991年[2020年版]、30頁~31頁)


受験のウラわざ(早覚え速答法III)



3早覚え速答法・総集編 10分で読め、60分で暗唱できるコレだけ漢文

「試験に出る句形と重要な漢字だけで書かれた漢文があったら、さぞ便利だろう」という「コレだけ漢文」を、著者は友人の中国人および先輩と協力して作成したという。
 10分でザッと読み、残りの50分音読すれば、キッと頭に入るだろう。
 合格を保証する呪文の漢文だという。
 その漢文の使い方は、勉強の進度によって変わるらしい。
①漢文の得意な人→いきなり漢文を読み、わからないところを書き下し文と現代語訳で確認する。
②漢文の不得意な人→まず書き下し文を音読し、現代語訳を頭に入れて、漢文を読み始める。

漢文の内容は、受験の本質を体得した漢文教師「楊朱進」(著者と友人の中国人および先輩の総合ペンネーム)とマジメな受験生との対話である。

考試之道        楊朱進
問君。
「若使己常向机。何爲不措筆而休?
 世界広大、必有適所。何不往而探其
 処乎?」
對曰「如不過考試、則必爲人所輕。学
及十有八年而見侮、非本意也。豈避考
試求安楽哉!將又、童蒙且励学、況青
年乎!是以不可不学。」
(中略)
曰「足矣。考試之道莫若誦文。考試問
訓読。非問漢語。一誦文輒熟訓。於是
勉而誦文。」


最後に次のように締めくくっている。
「使口唇憶全文、自通考試。嗟呼、奈此善方何。」

【書き下し文】(※新旧の字体に慣れてもらうため、旧字は新字に変更したという)
君に問ふ。
「若(なんぢ)己(おのれ)をして常に机に向はしむ。何為(なんす)れぞ筆を措(お)いて休まざる? 世界は広大、必ず適所有り。何ぞ往きて其処(そこ)を探らざるや?」と。
対へて曰く「如(も)し考試を過ぎざれば、則ち必ず人の軽んずる所と為る。学ぶこと十有八年に及び侮(あなど)らるるは、本意に非ざるなり。豈に考試を避けて安楽を求めんや! 将又(はたまた)、童蒙(どうもう)すら且つ学に励む、況んや青年をや! 是(ここ)を以て学ばざるべからず」と。
(中略)
曰く「足れり。考試の道は文を誦するに若(し)くは莫し。考試は訓読を問ひ、漢語を問ふに非ず。一たび文を誦すれば輒ち訓に熟す。是に於て勉めて文を誦せよ」と。

「口唇をして全文を憶せしむれば、自(おのずか)ら考試に通らん。嗟呼、此の善方を奈何せん」と。

【意味】
試験の道
君に質問する。
「おまえはいつも自分を机にむかわせているが、どうして筆をおいて休まないのだ。世の中は広く、(勉強なんかしなくても)必ず自分にぴったりした場所があるはずだ。どうしてそれを探しに行かないのだ。」
君は答える。
「もし試験に通らなければ絶対に人に軽蔑されてしまいます。18年間も勉強して侮辱されるのは私の本意ではありません。どうしてテストを避けて安楽を求めましょうか。私はトコトンやります。また、ガキンチョでさえ一生懸命勉強しているのですから、青年が勉学に励むのは当然です。だから勉強しないわけにはいかないのです。」
(中略)
「(それで)十分だ。試験の道は文章を音読するのが一番だ。試験では訓読(日本語で読めること)を聞き、中国語(の知識)を質問するのではない。一度文章を音読すればそのたびごとに読みに慣れる。だから一生懸命音読しなさい。」

唇に全文を覚えさせれば(スラスラ口をついてこの漢文が出てくるようになれば)自然と試験に合格するだろう。ああ、このすばらしい方法をどうしようか。」

(田中雄二『漢文早覚え速答法 共通テスト対応版』学研プラス、1991年[2020年版]、186頁~197頁)

音読のススメ~幸重敬郎『漢文が読めるようになる』より


「書物からの知識よりまず体験せよ」と題して、『荘子』の記事を引用した後に、著者も音読を勧めている。
桓公読書於堂上。輪扁斲輪於堂下。釈
椎鑿而上、問桓公曰、「敢問、公之所読為
何言邪。」
 公曰、「聖人之言也。」
 曰、「聖人在乎。」
 公曰、「已死矣。」
 曰、「然則君之所読者、古人之糟魄已夫。」
桓公曰、「寡人読書。輪人安得議乎。有説
則可、無説則死。」
 輪扁曰、「臣也以臣之事観之。斲輪、徐則
甘而不固。疾則苦而不入。不徐不疾、得之
於手而応於心。口不能言。有数存焉於
其間。臣不能以喩臣之子。臣之子亦不能
受之於臣。是以行年七十而老斲輪。古之
人与其不可伝也死矣。然則君之所読者、
古人之糟魄已夫。」

【書き下し文】
桓公書を堂上に読む。輪扁(りんぺん)輪を堂下に斲(けづ)る。椎鑿(つゐさく)を釈(お)きて上(のぼ)り、桓公に問ひて曰く、「敢へて問ふ、公の読む所は何の言と為すや」と。公曰く、「聖人の言なり」と。曰く、「聖人在りや」と。公曰く、「已に死せり」と。曰く、「然らば則ち君の読む所の者は、古人の糟魄(さうはく)のみなるかな」と。桓公曰く、「寡人書を読むに、輪人(りんじん)安んぞ議するを得んや。説有らば則ち可なるも、説無くんば則ち死せん」と。
輪扁曰く、「臣や臣の事を以て之を観る。輪を斲るに、徐なれば則ち甘にして固からず、疾なれば則ち苦にして入らず。徐ならず疾ならざるは、之を手に得て、心に応ず。口言ふ能はず。数の焉(これ)を其の間に存する有り。臣以て臣の子に喩(さと)す能はず。臣の子も亦之を臣より受くる能はず。是を以て行年七十にして老いて輪を斲る。古の人と其の伝ふべからざると死せり。然らば則ち君の読む所の者は、古人の糟魄のみなるかな」と。

【現代語訳】
桓公が書物を表座敷の中で読んでいた。車大工の扁が車輪を表座敷の外で削っていた。(車大工の扁は)つちとのみを置いて(表座敷に)あがってきて、桓公にたずねて言った、「思いきっておたずねしますが、お殿様の読んでいらっしゃるものは何の言葉ですか」と。桓公が言った、「聖人の言葉だ」と。(車大工の扁が)言った、「聖人は生きているのですか」と。桓公が言った、「もうすでに死んでいる」と。(車大工の扁が)言った、「それならお殿様がお読みになっていらっしゃる物は、昔の立派な人物のかすにすぎませんね」と。桓公が言った、「わたしが書物を読んでいる。車大工ごときがどうして口だしなどできようか。申しひらきがあればよいが、申しひらきがなければ(おまえの)いのちはないぞ」と。
(車大工の扁が)言った、「わたしは自分の仕事でこれを考えてみましょう。輪をけずることが、ゆっくりだとはめ込みが緩くてきっちり締まらない。急ぎすぎるとはめ込みがきつくて入らない。ゆっくりでもなく急ぐでもない手加減は、これを手で覚えて心で会得するものです。口では説明できません。仕事のコツというものが、そこにはあるのです。わたしはそれをわたしの子に教えることはできません。わたしの子も同じように仕事のコツをわたしから教わることはできません。こういうわけで年齢が七十になって老いても輪をけずっています。昔の立派な人とその人たちが伝えることができなかったものとは、もうなくなっています。そうだとすればお殿様の読んでいる物は、昔の立派な人のかすにすぎません」と。

※『荘子』に出てくる「桓公」のように、ともすると文章に書いてあることを鵜呑みにしたり、頼ったりしがちである。
もちろん人の意見や幅広い知識を「文字」というものから知ることは大切だが、「車大工」の言葉のように、「文字」では伝えられないこともある。だからこそ、目で文字を追いながら読むだけでなく、自分で体験してみることが大切であるという。

この本も、読者に漢文を体験してもらうためのものである。
ここに紹介した文章を何度も声に出して読んでみてほしいという。
何度も繰り返していくうちに、漢文訓読の基本がひとりでに身についてくるとする。
訓読の基本が身についたら、今度は新たな漢文に挑戦してほしいそうだ。
自分で漢文が読めるようになるおもしろさを味わってほしい、と著者はいう。
(幸重敬郎『漢文が読めるようになる』ベレ出版、2008年、185頁~213頁)

国語力・語彙力を養うことのススメ~三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』より


 三宅崇広先生は、「センター試験で問われる「漢文の力」とは?」と題して、次のようなことを述べている。
 
・文章の内容は、逸話・説話か随筆がほとんど。
(特別な思想や時代背景等の知識を必要とするものは出題されない)
 やや長い文章が出題されているが、それだけ筋や主張のはっきりした素直な文章・読みやすい文章が選ばれている。
※高校課程修了時の受験生の、標準的な国語力・読解力が備わっているかどうかが、問われてくる。

・現代文などとは比較にならないほど単純明快な筋の話でも、それを読むための道具である知識を持っていなければ、太刀打ちできない。
 日本人としての教養の一つである、「漢文」を読む方法の基礎を身につけているかどうかも、もちろん問われている。
 
・対処する方法
①漢文を読むための基本的な道具である、句形・語法を覚えること。
 漢文はある程度覚えることを必要とする科目であるが、裏を返せば、知識が得点に直結し、努力したことが報われる科目でもあるという。
 しかも、使役や再読文字はほとんど毎年のように出題されている。
 的を絞ることができ、覚えることも決して多くはない。
 その意味では、漢文ほど短期間での得点アップが可能な教科はほかにないとも言える。

②「国語力=語彙力=漢字力」を養うことが必要。
 漢文も「国語」のなかの一分野であるから、日本語としての語彙力で決まる設問も、若干出題されている。
 実は例年、最も正答率が低いのが、このタイプの問題であるようだ。
 語彙力の不足というのが現代の受験生の最大の弱点になっている。
(正答率が低い設問であるから、万一失点しても大きな影響はないかもしれないが、漢文は満点をとれる科目である。ここで満点をとって差をつけたい人には、この対策も怠ることは許されない。)

【まとめ】
①漢文を読むための基礎を身につける
 基本的な句法・語法を覚え、活用する。
②標準的な国語力を養う
 語彙力・漢字力をつける。
③センター試験特有の攻略法を身につける
 本書の攻略法をしっかりマスターする。
(三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』学研プラス、1997年[2016年版]、16頁~20頁)

【参考】「音読」と「訓読」について~小川環樹・西田太一郎『漢文入門』より


 小川環樹・西田太一郎両先生は、「音読」と「訓読」について、「第一部序説」の「二 句読と訓点」および「三 訓読の利害」において、次のように述べている。
(漢字の旧字で書かれているのは、新字に直した)

【訓読】
わが国に中国の書物がはじめて伝わったときには、当時の中国の発音に従って読んでいたに違いない。しかしこれを訳読することも非常に早くから、恐らく奈良朝以前から起った。訳読というのは、漢文の各々の字義に対応する日本語の訳語をあてて読むことで、これを訓読(くんどく)という。もっとも中国の単語のすべてに訳語をつくることができず、中国の発音をそのまま使った単語もある(それらは今日まで日本語のなかでそのまま使われているものも少なくない。いわゆる「字音語」または「漢語」)。してみると、漢文の読み方としては、訳読の単語と音読の単語とがいりまじっていることになるが、言語の構造からいえば、日本語として了解できるようになっているから、訓読が主で音読が従だということになる。それでこのように訳読された漢文を訓読漢文という。
(小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]、4頁)

【三 訓読の利害】
漢文はもともと外国語であるから、一般に外国語を学ぶときのように、まず音読し、それによって意味を考えるのが正常な方法であり、訓読の方法は変則だといってもよい。すべての言語は、それぞれ特有のリズムがあり、また音と意味とのあいだに或る関係があるからである。また訓読にはつぎのような欠点もある。すなわち、訓読の方法と訓読に用いられることばとは平安朝時代に大体さだまり、そののち幾分かは変化したものの、ほとんどそのまま伝承されたから、訓読された漢文は日本語としても一種の古典語であって現代語ではなく、原文の意味をわかり易く伝えようとすれば、もう一度現代語におきかえなければならなくなったことがこれである。それにもかかわらず、この書物で訓読のかえり読みの法を用いたのはつぎの理由による。
 第一に、本書は入門の書であって、漢文の読み方をはじめて学ぶ人々、または若干の知識をすでに有しさらに深く学びたい人々のために編まれたものであるが、もし漢文を音読のみによって学ぼうとすれば、中国語の発音をまず学ばねばならない。それには特別の練習を必要とし、その便宜のない人々には困難と思われる。
 第二に、われわれの祖先は主として訓読した形でのみ漢文を知っており、また漢文学が日本文学に与えた影響も、直接に原文からではなく、訓読を通したものである。のみならず、わが国で復刻された中国の古典は、そのほとんどすべてが訓点をつけて出版されている。訓読の方法を知ることによって、それらの意味を知り、それらを利用することができる。
 われわれは以上の理由で訓読の法を用いる。しかし決して音読の方法を排斥するものでなく、中国語の発音を習得する機会のある人々、またすでに習得した人々は、音読によって漢文特有のリズムをとらえていただきたいし、いちいち返り読みをしないでも原文の意味をとらえる練習も望ましい。外国語を学ぶ以上、翻訳なしで原文の意味をとらえることが最後の目標であるからである。
(小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]、5頁~7頁)

≪東南アジアの歴史と文化【補足】~高校世界史より≫

2023-11-14 19:00:12 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪東南アジアの歴史と文化【補足】~高校世界史より≫
(2023年11月14日投稿)

【はじめに】


 インターネットのルーターの故障により、ブログの更新が滞ってしまった。
 今回のブログでは、高校世界史の東南アジア(前近代)、とりわけ、ボロブドゥールとアンコール=ワットについて、どのように記述されていたかについて、再度みておきたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 とりわけ、『世界史B』(東京書籍)およびその英文において、8世紀という時代とボロブドゥーについて、取り上げており、注目すべき視点を提供していた。
 作家・田中阿里子は『ボロブドウル幻想』(徳間文庫、1993年)において、ボロブドゥールについて述べている。8世紀という時代とボロブドゥールという視点は、改めて重要な考え方だと思う。
(ボロブドゥールとアンコール=ワットについては、後日、改めて詳しく解説してみたい)




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ボロブドゥールの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・ボロブドゥールの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より

・アンコール=ワットの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・アンコール=ワットの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・アンコール=ワットの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より

・8世紀という時代とボロブドゥール~『世界史B』(東京書籍)および英文より
・ボロブドゥールと作家・田中阿里子~『ボロブドウル幻想』より






ボロブドゥールの記述~『世界史B』(東京書籍)より


第6章 東南アジア世界
1 海の道の形成と東南アジア
2 東南アジア諸国家の再編成

第6章 東南アジア世界
 ユーラシア大陸東南部には、高温多湿の熱帯から亜熱帯に属し、夏にはインド洋から、冬には南シナ海から吹く二つの季節風のもたらす潤沢な雨量と、熱帯の豊富な熱量にめぐまれた東南アジア地域に広がる。それらは、うっそうとした森と水量豊かな大河からなる自然環境を生みだしている。そこには高床式住居の村落、巻きスカート型の衣服、魚と米の食文化など、環境に対応した共通の文化をもつ世界が広がっている。また、山や岩、樹木など、自然を崇拝する精霊信仰や祖先信仰が生きている。この東南アジアの基層文化は、日本のそれと同質である。
 東南アジアの環境は大きく三つに分かれる。北部の山地は、森林にめぐまれた照葉樹林で、西日本の気候とよく似ている。大陸部の平原には、稲作に適した熱帯サバンナ地帯が広がり、島嶼部はおおむね熱帯雨林におおわれ、香辛料などの国際商品を生みだした。北部の山地と平原は、西からイラワディ川、チャオプラヤ川、メコン川、紅河(ホン川)などの大河川の水路で結ばれており、大陸と島嶼はマラッカ海峡など、無数の海路で緊密に結ばれている。
 東南アジアは、地域全体で用いられる共通の言語や宗教をもたない。また、歴史上、一度も地域全体を統合する政治勢力はあらわれなかった。
 東南アジアは海に囲まれている。その海は、南シナ海とインド洋という、豊かで広大な市場をもつ海である。東南アジアは、東西の両市場を海で結ぶ地域であった。と同時に、古代では香辛料や象牙など、近代ではコーヒー、砂糖、ゴムなど、世界が求める熱帯物産を生みだす地域でもあった。東南アジアには、自給的な面と、国際商業に対応する面との、二つの面がある。
 国際市場と強い関係をもった東南アジアは、隣接するインドや中国などの文明の影響を強く受けつつ、独自の東南アジア文明を形成した。
 この章では、基層文化の上に交易網が発達し、東南アジアの産物が国際市場に結びつく8世紀ごろまでをあつかう。

 前3世紀~後1世紀 ドンソン文化最盛期
 2~3世紀      林邑、扶南の成立 港市国家群
 7世紀        東南アジア古代国家群
 8~9世紀      ボロブドゥール寺院

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、104頁~105頁)

第6章2 東南アジア諸国家の再編成


【海の道の発展】
 7世紀に、東方では、隋・唐のもとで長安や洛陽など華北に大規模な諸都市が建設され、華中・華南の開発もすすんだ。大運河の開通はこの華中・華南の海のルートと、華北の陸のルートを結びつけた。また西方では、アッバース朝がその都市文明を発展させていった。
 両世界の都市の需要にこたえて海の東西交易は著しく発展した。これまで通過が困難だったマラッカ海峡に中継港が整備され、安全な航行が可能になった。東西両世界が海で直接結ばれた。多くの西アジア人が、広州など華中・華南の港市に移り住んだ。唐は海の東西交易に対応するため、広州に交易を管理する市舶司を置き、ベトナムに安南都護府を建設し、南海交易の基地とした。

【海路を支配する国家】
 マラッカ海峡が主要ルートになると、マレー人の港市国家群がスマトラのパレンバンを中心に連合し、シュリーヴィジャヤ(Shrivijaya)を建てて、マラッカ海峡を管理した。シュリーヴィジャヤはインドから大乗仏教を導入し、東南アジア、東アジアへの仏教布教センターとなった。南シナ海では、ルートの変更に対応できなかった扶南がおとろえ、かわってベトナム中部にあった林邑が南シナ海交易を主宰して、西方世界の文物や東南アジアの物産を東アジアの市場に運んだ。
 いっぽう、マラッカ海峡のマレー人の勢力は、ジャワ島北岸にも進出し、香辛料の産地であるモルッカ諸島とマラッカ海峡を結んだ。8世紀には、ジャワのマレー人勢力がシャイレンドラ朝(Sailendra)を名のり、強大な海軍力で東南アジアの海路を支配した。8~9世紀、シャイレンドラ朝は、ジャワ中部のボロブドゥールに世界最大級の大乗仏教寺院を建設している。

<ボロブドゥール寺院>
ジャワ島中部に8~9世紀につくられた仏教建築の最高傑作。最下層から地下、地上、天上の3世界をあらわしている。

第11章 海域世界の発展と東南アジア
1 三つの海域世界の成立
2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展

第11章 海域世界の発展と東南アジア


 世界の交易は、10世紀ごろから大きく海上交易に傾斜していく。この時代から、これまで東西交易の中心ルートだった中央アジア、北アジアはしだいに衰退し、海域世界が発展する。陸から海への変化の要因は、
①ヨーロッパでは地中海諸都市とバルト海・北海沿岸諸都市の二つの軸を結ぶ遠距離交易網が成立したこと、
②イスラーム世界の中心が陸路のターミナルであるバグダード、ダマスカスから、インド洋と地中海を結ぶエジプトに移動したこと、
③東アジア世界で宋代以降経済の中心が華中、華南に移動したこと、
④東西交易の主要な商品が絹のような高価な奢侈品や香辛料だけでなく、重い陶磁器や比較的安価な綿布が重要になったことである。

 海の時代の開幕とともに、物資の流通、人の交流がさかんになり、沿岸港市が発展し、交易を基盤とする国家群が生まれ、世界の一体化の道が準備された。この世界的な交易構造の変化に対応して、航海技術の大革新がこの時代におこる。なかでもジャンク船の発明はアジアの交易に決定的な影響を与えた。ジャンク船は隔壁に丈夫な壁材を張った構造をもち、鈍重だが堅固で大量の船荷を積むことができる。10世紀以降、南シナ海ではジャンク船が主要な交易路になり、南シナ海は中国商人の海になった。いっぽう、東にすすんだイスラーム勢力は北インドの諸都市をイスラーム化し、11世紀には東南アジア諸都市への伝道を開始する。イスラームの海のネットワークを通じて、香辛料や陶磁器など東の物資が地中海に運ばれた。地中海では、十字軍を契機にイタリア諸都市の活動がさかんになる。
 こうして、南シナ海を中心とする中国商人の海、インド洋を中心とするムスリム商人の海、地中海を中心とするイタリア商人の海の、三つの海が生まれた。
 三つの海の交わりに位置する交易都市が発展し、海の東西交易を支えた。インド東海岸のチョーラやスリランカがインド洋やベンガル湾交易に参加する。南アジアも大きく海に関係してくる。東南アジアでは、ビルマのパガン、カンボジアのアンコールなど交易の海と生産の陸を統合的に支配する新しい型の国家群が生まれ、現代の国家につながっていく。
 本章でとりあげる10~13世紀の海の分割は、仏教や儒教、イスラーム教、キリスト教という現在の宗教分布と基本的にかわらない。この時代、三つの異なる宗教世界を交易が結んだのであった。

8世紀 ムスリム商人団、インド洋・南シナ海に進出
10世紀 中国商人団、南シナ海に進出
11世紀 イタリア商人団、東地中海に進出
    東南アジア港市国家群の発展
    東南アジア内陸国家群の形成
12世紀 スワヒリ文化の発展
13世紀 元軍の東南アジア遠征

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、186頁~187頁)

第11章1 三つの海域世界の成立


【南シナ海―中国商人の海】
 10世紀末、宋代の中国の商業経済は急速な成長をとげた。都市人口は急増し、香辛料など大量の海外物資を輸入するようになった。また青磁・白磁などすぐれた陶磁器が生産され、東シナ海、南シナ海、インド洋、アラビア海、地中海の沿岸都市に大量に輸出された。海の道に沿ったこの陶磁器交易路を「陶磁器の道」とよぶ。
 同時期、中国式の外洋船ジャンク船が開発された。大きな船腹をもったジャンクは、陶磁器や銅銭など新しく登場してきた重量物交易品の積載に適していた。南シナ海交易はそれまでインド洋に本拠地をもつムスリム商人やインド商人の活動の一部としておもに営まれていたが、唐末の政情不安で彼らが中国南部の港市から撤退したこともあって、市場と資本そしてジャンク船をもつ中国商人が南シナ海交易の主体になった。また中国の陶磁器や工芸品を求めるインドや東南アジアの諸国は、争って宋に朝貢し、香辛料などの特産品を中国市場に輸出した。広州、杭州、明州(寧波[ニンポー])、泉州など重要な港市には、市舶司が設置された。市舶司は専売品の買い上げ、関税の徴収、中国船の出航の許認可などをつかさどった。その収益は、宋の歳入の確保に寄与した。南宋の時代までには、中国商人のジャンク船はマラッカ海峡をこえてインド洋に進出するようになり、インドの諸港市で西からのムスリム商人と直接取引するようになった。
 1279年に南宋を滅ぼした元は、南シナ海交易からより多くの利益を確保するために、陸の道と同じように海の道を軍事的に統制しようとした。元はベトナムの大越国(陳朝)、チャンパー王国、ジャワのシンガサリ王国に大軍を派遣した。朝貢交易を強制された東南アジア諸国は一斉に反発した。ベトナム、ジャワで元軍は敗退し、元のもくろみは、日本への元寇と同じく失敗に終わった。そのいっぽうで、インドの諸港市まで拡大したジャンク船による交易は、引きつづき活発に営まれた。


第11章2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展


【港市国家の発展】
 唐末の中国の大変動により、中国経済は一時的に停滞したが、宋のもとで急速に回復し、10世紀末以降、南海交易が活況を呈した。この情勢は、東南アジアに大きな変化をもたらした。
 ベトナム北部では、唐の衰亡にともなって、ハノイの安南都護府が解体した。新たなジャンク船のルートは、華南の諸港からベトナム中部沿岸のチャンパー王国の港に直航するようになった。このためにベトナム北部は国際交易から孤立した。この時期に、ベトナム北部は中国の支配から独立する。現在のベトナムの原型が生まれた。
 ベトナム北部にかわって、ベトナム中部のチャム人の建てたチャンパー(占城)王国が、南シナ海航路の船の中継港として栄えた。チャンパーは、背後の山地でとれる沈香や象牙などを中国に輸出した。
 同時期、マラッカ海峡沿いのマレー半島やスマトラ島の沿岸には、南シナ海、ジャワ海、インド洋を結ぶ無数の港市国家が生まれていたが、11世紀以後、三仏斉という連合国家をつくり、宋に朝貢して対中国貿易で繁栄した。
 マラッカ海峡と香辛料の産地モルッカ諸島を結ぶジャワ島東部では、11世紀以来、クディリ王国(Kediri, 928~1222)、ついでシンガサリ王国(Singhasari, 1222~92)がジャワ島内陸部の農業発展と香辛料交易の中継で繁栄し、三仏斉と覇権を争っていたが、13世紀中ごろにはスマトラ島にまで勢力を拡大した。13世紀末、元はシンガサリ王国を攻撃したが、ジャワ軍は元軍を撃退し、新しい指導者がマジャパヒト王国(Majapahit, 1293~1520ごろ)を建てた。マジャパヒト王国は交易発展の波にのり、14世紀後半には三仏斉を圧倒して、東インドネシア、ジャワ全島からスマトラ島東海岸に及ぶ、ほぼ現在のインドネシア全域の交易を掌握した。
 このように、11世紀ごろから海の東南アジアでは、港市国家は従来の沿岸部と海路の支配にとどまることなく、内陸の産地と沿岸の港市を統合して広大な領域を形成し、これを国際商業のなかに位置づけた。またこの時期からイスラーム教が本格的に広がるようになり、土着的な文化と、インド文明、イスラーム文明を融合させた民族文化がつくりだされた。現代の島嶼部東南アジア諸国の原型が生まれた。


ボロブドゥールおよびアンコール=ワットの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


第2章 アジア・アメリカの古代文明
【インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成】
東南アジアでは、前2千年紀末に、ベトナムやタイ東北部を中心に、青銅器が製作されていた。前4世紀になると、中国の影響下に、ベトナム北部を中心に独特の青銅器や鉄製農具をうみだしたドンソン文化が発展した。青銅製の銅鼓は、中国南部から東南アジアの広い地域で発見されており、当時の文化や交易の広がりを物語っている。
 紀元前後から盛んになるインドや中国との交流のなかで、1世紀末に東南アジア最古の国家ともされる扶南(1世紀末~7世紀)がメコン川下流域に建国された。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国をつくったという神話をもつこの国の港オケオでは、ローマ貨幣やインドの神像が出土している。また2世紀末、ベトナムの中部に、チャム人がのちにチャンパー(Champa, 2世紀末~17世紀)と呼ばれる国をたてた。
 4世紀末から5世紀になると、インド船の盛んな活動を背景として、広い地域で「インド化」と呼ばれる諸変化が生じ、各地の政権のなかに、インドの影響が強くみられるようになった。
 大陸部では、6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジア(Cambodia)がおこり、扶南を滅ぼした。この王国は、9世紀以降アンコールに都をおき、12世紀にはヒンドゥー教や仏教の強い影響をうけながらも独自の様式と規模をもつアンコール=ワット(Angkor Wat)を造営した。
 イラワディ川下流域では、9世紀までビルマ(ミャンマー)系のピュー(Phū)人の国があった。11世紀にはパガン朝(Pagan, 1044~1299)がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。チャオプラヤ川下流では、7世紀から11世紀頃にかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国(Dvaravati)が発展し、上座部仏教が盛んにおこなわれた。なお、のちの13世紀半ばにタイ北部におこったタイ族最古の王朝であるスコータイ朝(Sukhothai, 13~15世紀)の歴代の王も、上座部仏教を信仰した。
 諸島部でも「インド化」がすすみ、いくつかの王国が成立した。7世紀半ばには、スマトラ島のパレンバンを中心にシュリーヴィジャヤ王国(Srivijaya, 7~14世紀)が成立した。この王国は海上交易に積極的にたずさわり、唐にも朝貢使節を派遣した。義浄はインドへの往復の途中滞在し、仏教が盛んな様子を記している。中部ジャワでは、仏教国のシャイレンドラ朝(Sailendra, 8~9世紀頃)やヒンドゥー国のマタラム王国(Mataram, 732~1222)がうまれた。シャイレンドラ朝のもとでは、仏教寺院ボロブドゥール(Borobudur)が建造されたが、その後、ヒンドゥー教の勢力が強くなっていった。
 ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏が大越(ダイベト)国をたて、李朝(1009~1225)を成立させた。しかし、李朝とそれにつづく陳朝(1225~1400)の統治は、いずれも広域支配にはならず、チャンパー勢力とも対立を続けた。中部から南部にかけて長期にわたって勢力を保持したチャンパーは、インド洋から南シナ海を結ぶ海上交易活動にたずさわり、インドの影響を強くうけたいくつもの寺院群を築いた。

<オケオ出土のローマの金貨>
ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの肖像と銘がある。

<「インド化」>
ヒンドゥー教や大乗仏教、王権概念・インド神話・サンスクリット語・インド式建築様式などがまとまって受け入れられた。

<アンコール=ワット>
12世紀前半の王の墓として造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神であり、回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りされている。

<ボロブドゥール>
この世界的な仏教遺跡は、20世紀初めからの大規模な復元工事により現在の姿になった。回廊には経典の内容をあらわす多数の浮き彫りがほどこされている。縦・横120m、高さ42m。
上(写真)は上部回廊にならぶ仏像。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、62頁~65頁)


ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



・ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


東南アジアの歴史~高校世界史より
Chapter 4 :The East Asian World
3 World Empire in the East
■Chinese Civilization Spread
The expansion policy of the Han dynasty(漢) was also directed towards the south. It
destroyed Nanyue(南越) ; introduced a province-prefecture system in the Yunnan region; and expanded its territory to the middle of Vietnam and established nine provinces there
such as Jiaozhi (near Hanoi). However, the political and social situation in the Vietnam
area was always unstable. Northern part of Vietnam became under the control of the
Protectorate General to Pacify the South of the Tang dynasty. In Yunnan, Nanzhao
(南詔) of Tibet-Burma became independent. The center of their movement was Dali.
These states accepted a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty
and introduced Chinese characters and other aspects of Chinese Civilization. Champa
(チャンパー Linyi 林邑) in the middle part of Vietnam, Khmer (クメール Zhenla 真臘)
in the west, and Srivijaya (シュリーヴィジャヤ Sumatra) were under the influence
of India, but maintained a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty.
The Sui and Tang Empires were the only superpowers in East Asia at that time. Other
nations around the empires had to always consider the movement of the empires to keep
their own existence and growth. They adopted Chinese civilization such as Confucianism,
Buddhism, law systems, Chinese characters, and city planning and tried to make Chinese
Civilization to fuse into their own cultures. Thus, in East Asia, one civilized area was
created, where the surrounding nations more or less shared a common base of Chinese
civilization(中華文明).
This East Asian Civilization came into contact with Indian Civilization on the Tibetan
plateau and Southeast Asia.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、74頁~75頁)




Chapter 6 : The Southeast Asian World
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries

Chapter 6 : The Southeast Asian World  東南アジア世界
Southeast Asia which is located in vast region of the southeastern Eurasia
belongs to the hot and humid tropical zone and the subtropical zone. Monsoons
blow from the Indian Ocean in summer and from the South China Sea in winter,
bringing plentiful rainfall to this region. The tropical climate provides a lot of heat.
All of these factors generate its natural environment such as thick forests and big
rivers with huge amounts of water. Corresponding to this environment, areas in
the region share a common set of cultural elements such as villages with raised-
floor houses, wrap-around type clothes and fish and rice eating culture. There is
ancestor worship and animism that worship nature such as mountains, rocks and
trees. This common culture of this region is similar to that of Japan.
The natural environment of Southeast Asia is classified to thre categories.
The mountainous areas in the north are laurel forest lands with many forests, and
their climate is very similar to that of western Japan. The mainland Southeast
Asian region has grasslands of tropical savanna which are good for rice farming.
The archipelago area is covered with tropical forests and yields international
commodities such as spices. The northern mountainous areas and the grasslands
are connected by big rivers namely, from west to east, the Chao Phraya River, the
Irrawaddy River, the Mekong River and the Red River. The islands and the mainland
areas are closely connected by numerous sea routes such as the Strait of Malacca.
There is no common language nor religion in Southeast Asia, and no one political
power historically could consolidate all areas there.
Southeast Asia is surrounded by rich seas such as the South China Sea and the
Indian Ocean, which has rich and large markets. Southeast Asia has been a place to
connect East and West markets via the sea routes. Southeast Asia has been also a
region to produce tropical commodities sought by whole world, such as spices and
ivory in the ascent time, and coffee, sugar and rubber in the modern time. Southeast
Asia is a self-sufficient region and also an international trade area.
Southeast Asia had kept close relations with international markets, being strongly
influenced by adjacent India and China, and yet generated its own culture.
In this chapter, we will see the period to the 8th century when the trade networks
had been developed on the basis of fundamental culture and the produce of
Southeast Asia became connected to international markets.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、85頁~86頁)


2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
■Development of the Sea Road
In the 7th century, large cities were built in North China like Chang’an, and Luoyang,
under the Sui and Tang dynasties, and the development of Central and South China
advanced. The opening of the Grand Canal connected sea routes of Central and South
China with land routes of North China. In addition, in the west, the Abbasid dynasty
developed its city civilization.
The East-West maritime trade was developed remarkably in response to the demand of
the cities of both the eastern and western worlds. Transit ports were built along the coast
of the Strait of Malacca(マラッカ海峡) where passage had been very difficult, and the
navigation became safe. Both the eastern and the western worlds were linked directly
by sea. Many West Asians moved to the port cities of Central and South China, including
Guangzhou. The Tang dynasty put a maritime trade commissioner’s office (shibosi 市舶司)
which managed trades in Guangzhou to cope with the East-West maritime trade, and
built Protectorate General to Pacify the South in Vietnam(安南都護府) and made it
a base of southern maritime trade.

■States Ruling Maritime Routes
When the Strait of Malacca became the principal route, port polity groups formed a
coalition centering around Palembang of Sumatra and built Shrivijaya
(シュリーヴィジャヤ), a maritime state, and to manage the strait. Shrivijaya introduced
Buddhism of India and it became a Buddhism propagation center in Southeast and East
Asia. In the South China Sea, the power of Funan, which could not cope with the change
of the route, weakened, and instead, Champa in the central part of Vietnam, presided over
maritime trade of the South China Sea. It carried merchandise of the western world and
Southeast Asia to the East Asian markets.
On the other hand, the Malays around the Strait of Malacca also went into the northern
coast of Java, and connected the Moluccas, which was a production center of spices, and
the Strait of Malacca. In the 8th century, the Malays in Java established the Sailendra
(“Lord of the Mountain”)dynasty(シャイレンドラ朝), and succeeded Shrivijaya, and ruled
over the Southeast Asian maritime routes with mighty maritime power. In the 9th century,
Shrivijaya of the Sailendra dynasty built the largest Mahayana Buddhism(大乗仏教)
temple in the world in Borobudur(ボロブドゥール) in central Java.


アンコール=ワットの記述~『世界史B』(東京書籍)より



【東南アジア内陸国家の再編】
 港市国家の拡大の動きに対応して、内陸の国家群も拡大をつづけ、広大な領域を支配するようになった。
 11世紀はじめにベトナム北部に建てられた大越国の李朝(1009~1225)は、国際交易から切り離され、また国際性のある特産物にもめぐまれなかった。このため、農業を重視する中国文明の受容につとめて国家建設をすすめる一方、紅河(ホン川)デルタの開墾による農業生産の拡大に努めた。13世紀、李朝にかわった陳朝(1225~1400)は、紅河デルタに堤防網を建設し、大きな農業人口を確保した。同世紀末の3次にわたる元軍の侵略に対して、デルタの農民たちははげしく抵抗した。元軍を退けた陳朝は、南シナ海交易に参加するために南下し、中部沿岸の港市国家チャンパーへの侵略をくりかえして、領域を南に広げていった。
 14世紀末、陳朝にかわった胡朝(1400~1407)は、陳朝のころにつくられたベトナム独自の文字チュノム(字喃)の使用を奨励して、漢籍の翻訳をすすめ、また科挙官僚を登用して独自な官僚制国家の整備に努めた。15世紀はじめ、大越は一時明に併合されるが、まもなく黎朝(1428~1527、1532~1789)のもとに独立を回復した。黎朝は、儒教を積極的に導入し、中国にならった官僚制的な中央集権国家を建設した。また、チャンパー王国を併合して、17世紀までに、ほぼ現在のベトナムの領域にまで広がった。
 カンボジアでは9世紀以来、クメール王国(Khmer, アンコール朝 Angkor, 802ごろ~1431ごろ)がカンボジアや東北タイの平原の農業開拓に成功して、アンコールの地に大都市アンコール=トムを建設していた。12世紀に入ると、カンボジアやタイの物産を集荷して、メコン川を通じて南シナ海交易に進出した。クメール王国は13世紀はじめには、アンコールを中心にカンボジアからタイ、ラオス、マレー半島北部にいたる広大な地域を結ぶ交易路を支配下に置いた。
 クメール王国による大陸内部の交易ルートの形成は、チャオプラヤ、サルウィンなど大河川の流域で稲作農業を営んでいたタイ人をめざめさせた。13世紀後半、タイ人は各地でクメールから独立し、新しい交易網をつくりあげていった。13世紀末には中部タイのスコータイ王国(Sukhothai, 1257~1438)が、14世紀中ごろにはチャオプラヤ川中流域におこったアユタヤ王国(Ayuthaya, 1351ごろ~1767)が有力になった。とくにアユタヤ王国は、内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め、これを中国や琉球に供給して発展した。また、上座部仏教を導入し、これを保護した。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり、ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。
 ビルマでは、11世紀中ごろにビルマ人がイラワディ川中流域にパガン王国(Pagan, 1044~1287)を建てた。この王国は、雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、灌漑事業をおこしてビルマ平原の農業開拓に成功した。また、大乗仏教や密教と混在していた上座部仏教をとくに積極的に保護し、パガンを中心に多数の寺院を建立した。パガン王国は13世紀末以後、元軍の侵略とタイ系のシャン人の南下によって衰退したが、南部のモン人はベンガル湾沿岸にペグー(Pegu)などの港市国家を建設し、ベンガル湾交易を担った。
 このように、大陸部東南アジアでは、内陸国家を内陸ルートを整備し、沿岸の港市国家を統合する努力がすすめられた。しだいに現在の国家領域を形づくられていった。

<アンコール=ワット>
世界最大のヒンドゥー教遺跡。クメール王国の12世紀の王スールヤヴァルマン2世が建設した(のちに仏教寺院)。

<パガンの仏教寺院群>
イラワディ川中流域のパガンには、12世紀以来、3000以上の寺院や仏塔が建造された。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、193頁~196頁)



アンコール=ワットの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
■Development of Port Polities
Although the Chinese economy lagged temporarily by the violent upheavals in China
in the end of the Tang(唐) dynasty, it recovered quickly under the Song. The South Sea
trade(南海交易) increased after the end of the 10th century. This brought big changes
to Southeast Asia.
In northern Vietnam, the Annan Protectorate(安南都護府) in Hanoi was dissolved
with ruin of the Tang dynasty. The junk ships which left South Chinese ports sailed
directly to Champa ports in central Vietnam. For this reason, northern Vietnam was
isolated from international trade. At this time, northern Vietnam became independent
of Chinese rule and the archetype of current Vietnam was made.
Instead of northern Vietnam, the Champa kingdom(チャンパー[占城]王国), which
was founded by Cham(チャム) of central Vietnam, prospered as a transit port of the South
China Sea route. Champa exported ivory and agarwood, which could be harvested in
its mountains, to China.
In that same period, on the coast of the Malay peninsula and Sumatra Island along the
Strait of Malacca, there emerged innumerable port polities which had connecting routes
among the South China Sea, the Java Sea and the Indian Ocean. After the 11th century,
a federal state called San-fo-ch’i(三仏斉) was founded. It prospered from tributary trade
with the Song dynasty of China.
After the 11th century, the Kediri kingdom(クディリ王国), located in eastern Java,
prospered. The kingdom connected the Moluccas Islands that produced spices to the Strait
of Malacca. Thereafter, the Shinghasari kingdom(シンガサリ王国) prospered due to
the agricultural development of the inland region Java the relay trade of spices. They had
competed with San-fo-ch’i for hegemony, and by the middle of the 13th century their
influence expanded even to Sumatra. Although the Yuan dynasty attacked and conquered
the Singhasari kingdom at the end of the 13th century, the Javanese army repulsed the
Yuan and a new leader founded the Majapahit kingdom(マジャパヒト王国). The Majapahit
rode a wave of trade development, and overwhelmed San-fo-ch’i in the second half of
the 14th century. Then they controlled the trade of almost the whole area of what is now
Indonesia which ranges from eastern Indonesia, all the Javanese islands to the Sumatra’s
east coast.
Thus, in maritime Southeast Asia since around the 11th century, the port polities unified
the producing inland and port cities and formed vast territories beyond the conventional
rule over the coasts and the sea routes. Their states were strengthened by connecting
international commerce. At this time, the indigenous such as Wayang in Indonesia, Indian
and Islamic culture merged to ethnic cultures. Here, we can see the prototypes of
Southeast Asian island countries of today.

■Reorganization of the Inland States in Southeast Asia
Corresponding to the expansion movement of the port polities, inland states also
continued to expand their territories and came to govern vast domains.
As the Ly dynasty(李朝) of Dai Viet(大越国) built in northern Vietnam at the beginning of the 11th century, it was separated from international trade and not blessed with special produce. Therefore, it made efforts to receive the Chinese civilization, which emphasized
farming, and to consolidate its national strength. It also strove to expand the agricultural
output by cultivating the Red River Delta(紅河[ホン川]デルタ). The Tran dynasty(陳朝)
replaced the Ly in the 13th century and built the network of dykes in the Red River Delta,
thereby creating condition for a large farming population. The farmers of the delta fiercely
resisted three invasions from the Yuan army in the end of the century. The Tran dynasty,
which drove back the Yuan army, advanced south in order to participate in the South China
Sea trade, and it repeatedly invaded Champa, a port polity in the central coastal region,
thereby extending its domain to the south.
At the end of the 14th century, the Ho dynasty(胡朝), which replaced the Tran dynasty,
encouraged the use of the unique Chu Nom characters(チュノム[字喃]) of Vietnam. It also
promoted the translation of Chinese books using the Chu Nom and made efforts to develop
a new bureaucratic nation which appointed bureaucrats only who passed an employment
examination. Although Dai Viet was merged temporarily into the Ming in the early 15th
century, it soon regained its independence under the Le dynasty(黎朝). The Le introduced
Confucianism and built a centralized state which adopted the politico-legal system
(律令制度) modeled after the Chinese system. It merged the Champa kingdom and, by the
17th century, spread its domain almost to the whole area of present day Vietnam.
In Cambodia, since the 9th century, the Khmer kingdom(クメール王国, Angkor dynasty
アンコール朝) succeeded in agricultural exploitation of the plains of Cambodia and northeastern Thailand, and built the big Angkor Thom(アンコール=トム) city in Angkor. Since the beginning of the 12th century, the Khmer collected produce from Cambodia and
Thailand. It advanced into the South China Sea trade by carrying goods through the
Mekong River(メコン川). At the beginning of the 13th century, the Khmer kingdom
dominated the trade routes that connected the vast area around Angkor, including
Cambodia, Thailand, Laos, to the northern Malay peninsula.
The development of the inland trade routes under the Khmer kingdom awoke the Thai
people, who were cultivating rice fields in the basins of great rivers such as the Chao
Phraya(チャオプラヤ) and Salween(サルウィン) Rivers. In the second half of the 13th
century, the Thais became independent of the Khmer in various places, and built a new
trade network. At the end of the 13th century the Sukhothai kingdom(スコータイ王国)
of central Thailand was dominant. The Ayutthaya kingdom(アユタヤ王国), founded in
the middle reaches of the Chao Phraya River, expanded its strength in about the
mid-14th century. It collected and brought inland produce to the Thailand bay
area and carried them to China or Ryukyu, thereby prospering. The king introduced and
protected Theravada Buddhism(上座部仏教). The kingdom brought the district powers in
northern or northeastern Thailand under its control and succeeded in the integration
of the area that roughly corresponds to present day Thailand in the 15th century.
In Burma, the Burmese built the Pagan kingdom(パガン王国) in the middle Irrawaddy
River(イラワディ川) basin in the mid-11th century. This kingdom prospered from trade
which connected the Bay of Bengal(ベンガル湾) and Yunnan(雲南). It also started an
irrigation enterprise, and succeeded in agricultural development of the Burma plain.
The kingdom declined after the invasion of the Yuan army and southern incursions of
the Thai Shans(シャン人) after the end of the 13th century. The Mons(モン人),
who lived in the south of Burma, built port polities, such as Pegu(ペグー) on the Bay of
Bengal coast, and thereby controlled the bay trade.
Thus, in mainland Southeast Asia, the landlocked states built the inland routes and
continued to make their efforts to unify the coastal port polities. This is how the territories
of present nation state were gradually formed.

8世紀という時代とボロブドゥール


福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])においては、ボロブドゥールについて、次のように、8世紀という時代との関連で取り上げていた。

【8世紀の世界 文明世界の成立】
 古代の帝国が民族移動などで解体したのち、8世紀にはふたたび広大な領域を支配する帝国が繁栄し、その帝国を中心として一つの文明を共有する広域の文明世界が成立した。東アジアには儒教・仏教の唐が、中央アジアから北アフリカにはイスラーム教のアッバース朝が、東ヨーロッパにはキリスト教のビザンツ帝国が栄え、それぞれ東アジア世界、イスラーム世界、東ヨーロッパ世界が形成された。また、フランク王国は、イスラーム勢力の侵攻を防ぎ、ビザンツ皇帝と対立するローマ教会との結びつきを強めて西ヨーロッパ世界をまとめていった。
 唐は周辺諸国に大きな影響を与え、東アジア諸国は律令、漢字、儒教、仏教などを受容した。首都の長安は、諸外国の使節や留学生のほか、ソグド人、イラン人、アラブ人などの商人が訪れ、仏教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられた国際都市となった。広大な領域を支配したアッバース朝のもとではイスラーム法にもとづく統治がめざされ、さまざまな学問の研究がすすめられた。また、ムスリム商人は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸の陸上交易や、インド洋、南シナ海の海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに、世界各地の物産が市場(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。ビザンツ帝国は、皇帝が教会を支配する独自の世界をきずいた。首都コンスタンティノープルは、絹織物など各種の手工業や商業がさかんで、貨幣経済は繁栄をつづけ、国際的な交易都市として栄えた。

<アーヘンの大聖堂>
ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し、王宮、大聖堂を建てた。

<聖(ハギア)ソフィア大聖堂>
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに6世紀に建てられた円蓋のある大聖堂。円蓋の直径は32mにも達する。

<ウマイヤ=モスク>
8世紀前半にダマスカスに完成した現存する世界最古のモスク。もとはキリスト教の教会であったが、モスクとして増改築された。

<唐を訪れた外国使節>
唐の都長安には遠方より多くの使節が貢ぎ物をささげてやってきた。左の3人は接待をしている唐の役人で、右の3人が外国使節。黒服の人物はビザンツ帝国のの使者、その右が新羅の使者と考えられている。

<新羅の古墳公園>
新羅は7世紀後半に百済、高句麗を倒して半島全域を統一した。唐の冊封を受け、中国の制度を導入し、仏教文化を開花させた。

<遣唐使船>
7世紀前半にはじまった遣唐使は、唐の文化や政治制度の摂取に努めた。小型の4隻の船で渡航するのが一般的であった。

※なお、「8世紀の世界」の地図には、シャイレンドラ朝のボロブドゥールが記されている!
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、136頁~137頁)


■World in the 8th century
After ancient empires were ruined by migrant movements and others, new
empires appeared again in the 8th century, which governed vast areas. Byzantine
Empire of Christianity, Abbasid dynasty of Islam and Tang dynasty of Confucianism
and Buddhism flourished. And three worlds centering around those empires were
formulated.
Frankish Kingdom 732 Battle of Tours-Poitiers
Byzantine Empire ~Constantinople
Abbasid dynasty 751 Battle of Talas Transmission of papermaking to West
Tang dynasty ~Chang’an
Southeast Asia Borobudur
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、108頁~109頁)

ボロブドゥールと作家・田中阿里子~『ボロブドウル幻想』より



【ボロブドゥールについて】(ウィキペディアより)
ボロブドゥールは、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する仏教遺跡である。
ミャンマーのパガン、カンボジアのアンコール=ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺の1つである。
 インドから東南アジアに伝播した仏教は、一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。
 シャイレーンドラ王朝の時代、大乗仏教を報じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられている。
 シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀にかけて、オーストラロイド系の民族がジャワ島中部に建てたとされる王朝である。
 シャイレーンドラはサンスクリット語で、「山からの王」という意味である。
 インドシナ半島の古代王国扶南の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。

・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)

・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)
ボロブドゥールは、それ自体が仏教的宇宙観を象徴する巨大な曼荼羅といわれ、一説には、須弥山を模したものとも考えられている。


田中阿里子(1921~2016)は、京都市に生まれ、京都高等女学校を卒業後、日本電池に勤務して、昭和18年、インドネシア、スラバヤ支社に勤務した。そして、この本に収録された「ボロブドウルと私」において、昭和19年の秋頃に、先輩社員に案内されて、中部ジャワの旅に出て、その際に、ボロブドウル(ボロブドゥール)を訪れたことを記している。
(そして、1980年代から90年代に、何度か再び訪れたという)

〇田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年

・昭和19年の秋頃、田中阿里子氏はボロブドゥールを訪れた。
・当時、遺蹟に近付いてみると、それはいかにも灰の下で埋もれていたというように色があせており、基壇の一部などは今にもこわれそうに風化したいたという。

・「日本では奈良の東大寺が造られた頃にこれも出来た。メラピ火山の噴火の灰の中で長く眠っていた。それが、1814年にはじめて西洋人が、汚れた仏蹟を発見して後にオランダ政府が一応の修理をした」と案内者が話していた。

・回廊に出てみるとそこはまだしっかりしている。左の方へ歩くと、一方の石の欄干には等間隔で仏像が安置してあり、他方は壁になっていて、そこに彫刻が施してあった。
「これが話にきいていた釈尊の一代記だ」と気がついて心が躍り、レリーフを一枚ずつみて歩いた。嬉しいことに母の摩耶夫人が受胎の夢をみる処も、ルンビニ園へ行く場面もはっきりとみてとれる。さらに貴重な、「天上天下唯我独尊」の誕生仏をも拝して、心が喜びにみたされた、と記している。

・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)

 田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている。
「この日もやはり私達は、第一回廊主壁上段のレリーフを見るのが精いっぱいで、第二、第三、
第四までの回廊をめぐる元気はなかった。五キロメートルを超える距離もさりながら、レリーフの数は二千数百枚に上るのであり、そのうち釈尊の生涯を語るものは、百二十面にすぎない。ほかは本生譚とか、あるいは人間のめぐる六道輪廻の世界とかを描いているのであろう。」
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、14頁~15頁)

・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)

田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている
「石仏の方は最初は五百四体あったらしいが、今は損傷して数が減っている。けれども第一、第二、第三回廊に安置された仏像のうち、東方に阿閦如来(あしゅくにょらい)、西方に阿弥陀如来、南方に宝生(ほうしょう)如来、北方に不空成就如来、そして第四回廊の石仏はすべて大日如来像、ストウパの中の仏が釈迦如来と、ガイドの人の話をきけば、私はもう充分であった。青春の日に参詣してからすでに四十年近い年月を経ているが、その間にはボロブドウル修復キャンペーンの展覧会もみたりしているので、知識はふえている。しかし実際の石仏を拝み、釈迦伝を見廻ってくると、それで仏蹟参拝の満足感は何物にもかえがたい喜びを私にもたらした。
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、15頁)