歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫

2024-05-31 19:00:44 | 西洋美術史
≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫
(2024年5月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の書物を参照しながら、西洋美術史における食事観・食物観について考えてみたい。
〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年
この著作の中で、著者は「キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった」(49頁)という。
 この意味するところは何かを中心に紹介してみたい。
(著者の章立てをそのまま紹介するというよりは、執筆項目をみてもわかるように、絵画作品を中心に述べてみたい)

【宮下規久朗(みやしたきくろう)氏のプロフィール】
・1963年愛知県生まれ。
・神戸大学文学部助教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。
・兵庫県立近代美術館、東京都現代美術館学芸員を経て、現職。
・専攻はイタリアを中心とする西洋美術史、日本近代美術史。

<主な著作>
・『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)~第27回サントリー学芸賞受賞
・『バロック美術の成立』(山川出版社)
・『イタリア・バロック―美術と建築(世界歴史の旅)』(山川出版社)



【宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)はこちらから】
宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・プロローグとエピローグ
・≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年
・キリスト教思想の特異性

<聖人の食事~パンと水だけ>
〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃

<乱痴気騒ぎの情景>
〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃
<食の愉悦>
〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃

・農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ
〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年

・台所と市場の罠~第3章より
「二重空間」の絵画
〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年

・静物画と食物~第4章より
西洋美術特有の概念









〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年

【目次】
プロローグ
第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術
 1-1 レオナルド・ダ・ヴィンチの≪最後の晩餐≫
1-2 レオナルド以降の≪最後の晩餐≫
1-3 ≪エマオの晩餐≫
1-4 日本の「最後の晩餐」

第2章 よい食事と悪い食事
 2-1 キリスト教と西洋美術
2-2 聖人の食事
2-3 慈善の食事
2-4 宴会と西洋美術
2-5 乱痴気騒ぎ
2-6 食の愉悦
2-7 永遠の名作
2-8 農民の食事

第3章 台所と市場の罠
 3-1 厨房と二重空間
3-2 市場の情景
3-3 謝肉祭と四旬節の戦い
3-4 カンピの市場画連作

第4章 静物画――食材への誘惑
 4-1 静物画――意味を担う芸術
4-2 オランダの食卓画
4-3 スペインのボデゴン
4-4 印象派と静物画
4-5 二十世紀の静物画と食物

第5章 近代美術と飲食
 5-1 屋外へ出る食事
5-2 家庭とレストラン
5-3 貧しき食事
5-4 女性と食事

エピローグ
あとがき
主要参考文献







プロローグとエピローグ


<プロローグより>
・「最後の晩餐」の絵は、ほかのあらゆる優れた宗教美術と同じく、信者にとってのみ意味をもつのではない。
 優れた美術作品は、普遍的な人間の真実を表象しており、異なる文化圏にある者の心にも訴える力をもっている。
・ただし、こうした真実や力はいつでも誰の心にも響くものではない。
 出会うべきときに出会ったときに特に大きく作用する。
 画中のキリストのうちに別れた慈父の面影を見るのは、見る者にそれだけ切実にそれを求める心情があったからだが、優れた美術作品は個人的な心情を許容する大きさと深さを備えている。
 そして、それらはときに悲しみに沈んだ者を救いあげ、浄化する力をも発揮する。
 そんなとき、美術はもはや趣味的な鑑賞の対象などではなく、宗教そのものに化しているといってよい。

・さらに、美術作品だけでなく、食事がコミュニケーションの重要な手段でもあるということを示している。
 食事というものが、家族の一体感を確認する行為であるからこそ、父の記憶が夕食と結びついてしまったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、5頁)

<エピローグより>
・西洋美術における様々な食事の表現を見てきた。
 多くの場合、そこにはキリスト像の色彩が濃厚であることがわかる。

・キリスト教はそもそも特殊な宗教であった。
 母体であったユダヤ教では、神は決して目に見えない存在であり、「いまだかつて神を見たものはいない」とヨハネ伝の冒頭にも書かれているのに、イエス・キリストという普通の人間の肉体をもった神が出現した点が異常である。 
 キリストは神でありながら生身の肉体をもち、それゆえに、人間の罪の身代わりとなって血を流して犠牲となることができた。

・このことは、ギリシア以来、西洋に根強かった霊肉二元論ではなく、霊も肉も尊いという特異な考えにつながった。
 キリストの肉体が受難の末に復活したという教義を象徴するのが、聖体拝領であった。
 パンというもっとも基本的な食べ物に象徴的な意味を付与し、食べるという、本能に基づく動物的な行為を神聖な儀式に高めた。
 
・多くの宗教では、神の姿は目に見えず、表現できないことになっていた。
 しかし、キリストは人間の姿をまとって、つまり受肉して人間世界に出現したため、これを記録し、表現することが理屈上は可能となった。
 しかも、ギリシアやローマなど造形文化の伝統の根強い地中海世界に普及したため、早くからキリストや聖書の逸話を視覚的に表現することがさかんになった。

・一方、キリスト教の母体であるユダヤ教では、偶像を作ることも拝むことも認めず、旧約聖書でも繰り返し、それを禁じている。
 これに対し、キリスト教は、神の像は偶像ではなく、聖像(イコン)であって、その像を拝むのではなく、像の背後にある神を拝むのであって、画像は神を見る手段、窓であるという理論を徐々に作り上げていった。

・8世紀のイコノクラスムや16世紀の宗教改革において、この考えは反駁されながらも、美術は偶像ではなく、神を見る窓であるというイコンの考え方によって、西洋は2000年にわたって豊かな宗教美術を育んできた。
・美術作品という、一見異教的で偶像に通じる物質をイコンとして容認してきたこと、これは、パンという一般的な食べ物を聖体として肯定してきた思想と通じあう。
 どちらも、低くて現実的で具体的な物体を象徴化して、神聖化する思考のプロセスである。
 つまり、キリストが受肉したことにより、現世の肉体と食物を肯定し、造形表現を肯定する道が拓かれた。食物や造形芸術という、ややもすると肉の滅びや偶像につながる物質を、聖餐という儀礼と聖像という表象に昇華しえた、そこにキリスト教文明の特質があった。
 キリスト教文明圏以外では、食物にこれほど特別な意味がないため、美術表現と結びつかなかった。
 そもそも食物とは、粗野な自然を加工して人の口に合わせたものであり、自然の征服という側面をもっている。
 食べ物を描いた絵画は、自然が切り取られて人に提供されているような快楽を観者に与えた。
 また、絵画というものは、目の前にある事物や事象を写して留めるという欲求から生じたものであり、自然を切り取って入手することであった。
 食物と絵画にはともに、生や現世を肯定しつつ、自然を克服して人の手に入れられるようにしたものという共通点があり、それゆえに食物を描いた絵画が多いとも考えられる。

・また、食事は、こうした意味のほかに、人と人とのつながりを強調する意味ももっていた。
 食事には社会性があり、文化があるので、そこが動物と人間を分ける大きな分岐点となっている。
 西洋美術はそれを的確にとらえてきたといえるし、西洋美術における食事表現を通覧すると、いかに食事が人間の文化にとって重要であるかがわかる。
・食事こそはコミュニケーションの最大の手段であり、宗教と芸術につながる文化であった。
 人と人、社会と個人、文明と自然、神と人、罪と救い、生と死、それらすべてを結合させる営みが食事であった。
 また、真の芸術は、単なる感覚の喜びなどではない。
 人間の生の証であり、宗教にも通ずるものである。
 その意味において、食事と美術、さらに宗教は一直線につながっていく。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、247頁~250頁)

・ところで、1968年に命を絶ったマラソン選手、円谷幸吉(つぶらやこうきち)の有名な遺書がある。
 それは彼が死の間際に食べ物のお礼を几帳面に列挙していることによって、人の心を打つという。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆございました。(下略)」
※日本の伝統的な贈答品は鮭のような食べ物が多かったのだが、この遺書にはそれらの味よりも、それを食べさせてくれた身内の人々への純粋な感謝の念だけが淡々と記され、悲痛も絶望感もない澄み切った心境をうかがわせる。
 几帳面に列挙された食べ物と、「美味しゆございました」という言葉の繰り返しからは、食べ物への素朴な感謝の気持ちもにじみ出ている。

・川端康成は、「繰り返される≪おいしゅうございまいした≫といふ、ありきたりの言葉がじつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」とする。
 そして「千万言も尽くせぬ哀切」であると評した。
 人生の最期に思い出してしたためるべきは、ご馳走の味ではなく、人の情である。
 また食べ物は人とのつながりと切り離せないということを、これほど感じさせてくれる文章はない。

・本書では、美術と食とのかかわりを追っている。
 美術も食も、死というものに照らしてみたときにこそ、その真の力も妖しく放ちはじめるという。
 「最後の晩餐」は、その意味で、美術においても食事においても、究極のテーマであるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、251頁~253頁)

・第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術(16頁~)

≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より


〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年(口絵1)
・レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から97年にかけて、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の壁画に描いた≪最後の晩餐≫(口絵1)は、レオナルドが遺した唯一の大作として有名である。
 ルネサンスのもっとも重要な記念碑となっている。
※『ダ・ヴィンチ・コード』というベストセラー小説や映画でも、重要な役割を担っていた。

・キリストは捕縛される前日、エルサレムで12人の弟子たちと食事をした。
 この日は過越祭(すぎこしさい)の日に当たっており、過越の食事(パサハ)をとることになった。
 過越祭とは、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、ユダヤ人の家を過ぎ越したことに基づき、ユダヤ人の根源をなすエジプト脱出を記念する春の祭りである。
 この日は子羊を犠牲にし、ふくらし粉の入っていない種なしパンとともに食して祝うことになっていた。

・キリストはこの食事の席でふいに、「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人が、私を裏切ろうとしている」という衝撃的な発言をする。
 レオナルドの絵は、この発言を聞いた使徒たちが驚き慌てる様子をとらえたものである。
※ここには、画家の鋭い人間観察の成果が見られ、驚愕と動揺、疑念と怒りといった使徒たちの様々な感情が、身振りと表情によって見事に表されている。

・12人の弟子たちは、3人ずつのグループに分かれ、それぞれ裏切り者は誰だと話し合ったり、キリストに問いただしたりしている。
 裏切り者のユダだけがこの動揺に加わらず、傲然としてテーブルに右ひじをついている。

※キリストを中心として左右に6人ずつの弟子が配された左右対称の人物配置、そして、天井の線を辿るとキリストの頭の位置に消失点が来るようになっている一点透視法による構成は、きわめて明快であり、堂々とした古典主義様式の模範的作例となっている。

・テーブルの上に両手を広げたキリストの身振りは、「裏切りの告知」であるだけではない。
 キリストの伸ばした左手の先には丸いパンが見え、右手の先にはワインの入ったグラスがある。
 キリストはこの晩餐の席で、賛美の祈りを唱えてパンを割き、弟子たちに与えて、
「取りなさい。これは私の体である」
 と宣言し、ワインの杯をとって感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡し、
「皆この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」
と述べた。

※これは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して記述している内容である。
以後、キリスト教会は、こうしたキリストの言葉に従って、聖体たるパン(聖餅、ホスティア)を食し、聖血たるワインを飲む儀式、つまりミサを執り行うようになった。
 祈ってパンを割き、配餐して杯を回す所作は、もともとユダヤ人の家長が過越祭や安息日のときに家庭で行う食習慣であった。
 ミサは、聖餐式、聖体拝領などと訳され、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教会など、あらゆる宗派に共通するキリスト教のもっとも重要な典礼である。

 聖餐式は、キリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み、罪の許しと体の復活にあずかるという、キリスト者としての救済を確認する行為である。
 教会に設置されている祭壇というものは、この聖餐のための食卓にほかならない。そのため、余計なものは置かず、テーブルクロスのような白い布をかけられていることが多い。

・初期のキリスト教徒は、共同体としての結束を確認するために、しばしば集まって食事(愛餐、アガペー)をしており、これと聖餐式とははっきり区別されていなかったが、2世紀半ば頃から愛餐と分離し、感謝の祈りを中心とする「エウカリスティア(聖餐)」という典礼になった。これが教会内のミサとなった。

・「最後の晩餐」という主題の最大の意義は、この「聖餐式の制定」、あるいは「ミサの起源」にあった。
 キリストの生涯の中で、「カナの婚礼」や「パンと魚の奇蹟」のような飲食にまつわるエピソードが強調されるのは、それらが聖餐を象徴すると解釈されたためである。
 「パンを割く」というのは、聖書に頻出する表現で、ひとつのパンをちぎって多くの人に分け、いっしょに食べることをいう。こうして、食卓をともにすることは、信者どうしの結びつきを確認する兄弟の交わりを意味した。

※パンとワインは、西洋ではもっとも基本的な食事である。
 日本のご飯と味噌汁に当たるといってよい。
 パンはすぐ乾燥するため、ワインとともに食するのが一般的であった。
 ワインも酒というよりは食事の基本要素であった。

・レオナルドの作品では、キリストが両手で自分の肉と血を指し示しているのだが、画家はこの主題を、熱い人間のドラマとして表現する一方、それにふさわしい教義上の意味をも表現している。

・「最後の晩餐」の絵は、修道院の食堂の壁画に描かれることが多かった。
 レオナルドの壁画も、聖堂に隣接する修道院の食堂に描かれたものである。
 キリストの生涯の一エピソードとして物語場面が表現されたものというより、ミサの起源としての意味を強調し、毎日食べるパンに与えられた神聖な意味を思い起こさせるためであった。
 修道士たちは食事のたびに、「最後の晩餐」の絵を見ながら、うやうやしくパンをかみ締めていたのである。
 
・西洋において、食事に神聖な意味を付与されたのは、何よりも「最後の晩餐」、そしてそこから発生したミサのためであるといってよい。
 パンとワインという、もっとも基本的な飲食物が、神の体と血であるというこの思想が、西洋の食事観を決定したといってもよい。

・とくに、パンは何よりも重要であった。
 「人はパンのみにて生くるものにあらず」とキリストは言ったが、パンは生きる糧、日常的な食料の代名詞であっただけでなく、「命のパン」であるキリスト自身を象徴していた。
※ただし、古代や中世初期のヨーロッパでは、パンとワインは地中海世界のローマ文化圏特有の食べ物である。北方のゲルマン世界では、肉とエール(ホップを入れないどろりとしたビール)こそが主食であった。古代ギリシアでもローマでも、パンには文明の象徴としての役割が与えられており、それを知らないゲルマン人を野蛮であると見なしていた。
 キリスト教がパンを聖体として称揚した背景には、古代地中海世界のこうした思想的伝統があったことは疑いない。

・また、キリスト教徒は、復活祭前の6週間の断食期間にあたる四旬節には、肉食を断つことになっているが、やがて肉の代わりに魚を食すことが認められるようになった。
 肉は飽食、魚は禁欲を表すものとして対比されるようになる。
 魚は一種の精進料理としての地位を与えられたのである。
 このことも、最後の晩餐のメニューに魚がふさわしいと目される背景にあったようだ。

・キリストの一番弟子のペテロやその兄のアンデレなど、キリストの十二使徒のうち7人までが、キリストに召される前はガリラヤ湖で網を打つ漁師であった。
 豊富な魚の獲れるガリラヤ湖畔で活動したキリストとその弟子たちが、魚を常食していた「魚食の民」であったことはまちがいない。
(今でもかの地では、「ペテロの魚」と名づけられたガリラヤ湖で獲れる大ぶりの魚を食べているという。ただし、味は大味でそれほどおいしくないらしい)

・キリストは、パン五つと魚二匹を、説教を聞いていた5000人もの衆人の食物として十分な量に増やすという有名な「パンと魚の奇蹟」を行った。
 このときも最後の晩餐と同じように、キリストは、賛美の祈りを唱えてから、パンを割いて弟子たちに渡している。

・また、復活後、弟子たちの前に現れたキリストは、焼いた魚を渡されるとそれを弟子たちの前で食べ(ルカ24:42-43)、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちの前に現れて朝食をすすめ、パンと魚をとって彼らに与えたという(ヨハネ21:13)。
 キリストと弟子たちにとって、パンと魚はいわば常食であったようだが、復活してからも食べたことから、キリストは魚食を好んだと考えられている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、16頁~25頁)

・第2章 よい食事と悪い食事(46頁~)

キリスト教思想の特異性


・林檎や果物も、原罪という意味を持つようになった。
 たとえば、15世紀のヤン・ファン・アイクの有名な≪アルノルフィニ夫妻像≫で、
窓際にさりげなく置かれた果物も原罪を表し、モデルの夫婦の罪を示している。
 そして奥の鏡の縁にはキリストの受難伝が刻まれており、夫婦がキリストの犠牲にあずかって救済されることも示される。
 ヴィーナスが持っているリンゴも、異教の愛欲の女神の持物であるということとあいまって、原罪と結びつくことが多かった。

・キリスト教の教義では、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことから、すべての人間が背負うことになった原罪から人間を救うために、キリストが地上に遣わされ、犠牲になったことになっている。
 それ以来人間はこの犠牲を銘記して、救済されるために、キリストの象徴である聖体のパンを食べるという儀式を行うことになった。
 つまり、キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。
 西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった。
 食事というものが、単にもっとも身近で毎日繰り返される根源的な営みであったからというだけではない。わが国では明治になるまで、食事を描いた単独の作品は皆無であった。
 美術のあり方のちがいのためでもあるが、美術の歴史において、もっとも頻繁に食事を表現してきたのは、西洋であることはまちがいない。
 その背景は、キリスト教の思想があると考えられている。
 キリスト教に裏打ちされた食事の美術は、単なる教義の図解にとどまらず、その時代や地域、注文者・作者・観者の意図や個性や欲望に応じて、豊かに変奏しつつ、多彩な成果を生んでいった。
 では、模範的なよい食事と否定的な悪い食事とが具体的にどう表現され、そこにどんな意味があったのか、具体的に見ている。

<聖人の食事~パンと水だけ>


〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃(口絵3)

・西洋美術史上、もっとも模範的な食事の絵は、ダニエーレ・クレスピが描いた≪聖カルロの食事≫(口絵3、ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃)
という作品であるようだ。
 17世紀初頭にミラノで活躍したこの画家は、イタリアでもそれほど知られていないが、この絵だけは非常に有名である。

・ひとりの聖職者がハンカチで目頭を押さえて本を読みながら、パンを食べている。
 テーブルクロスもない食卓の上には、水のはいったフラスコとグラスがあるだけである。
 画面右の台には、布が掛けれており、その上には大きな十字架が立て掛けられ、司教の帽子が置かれている。画面奥では、この食事の情景を見て、その食事の様子に驚いている二人の男の姿が見える。

※カルロ・ボロメオは、名門貴族の家に生まれ、1564年から84年までミラノの大司教を努めた。
 カトリック改革(反宗教改革)の旗手として知られ、ミラノをヨーロッパ有数の宗教都市に変貌させた人物である。
 彼は、司教区内をつぶさに巡視する一方、1576年のペストの際は多くの貴族のように避難したりせずに、先頭に立って自ら病人の救済に当たり、民衆を大いに勇気づけた。
 宮殿で贅沢三昧に育てられたにもかかわらず、常に粗衣粗食に甘んじ、衣も家具も売り払い、壁掛けすら取り外させ、所領をも売却して貧者や孤児、病人たちに施したという。
 彼は、後世になってますます崇敬を集め、早くも1610年には列聖され、4世紀の聖アンブロシウスとともに、今でもミラノ人の精神的支柱となっている。

・この聖人は、ミラノをはじめとしてイタリアのバロック美術の主人公として、数々の作品に登場する。
 聖人の神々しさや英雄性はまったく見られず、孤独な聖職者の厳粛で禁欲的な姿が印象づけられる。
 パンと水だけの質素な食事をとりながら、本を読み、そこに書かれたキリストの受難を思って涙を流す。

※いかにも消化に悪そうな食事ではあるが、この姿勢こそ、キリスト者の食事のあるべき姿にほかならなかった。罪を悔い改めるために肉もワインもとらず、貧民と同じ食事をとるのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、49頁~52頁)


<乱痴気騒ぎの情景>


ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫


〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃(口絵4)

・カトリックのまま残ったフランドルでは、大工房を構えた巨匠ルーベンスが圧倒的な影響力をもって活躍していたが、その影響下から優れた画家が育っていた。
 その一人、ヤーコプ・ヨルダーンスは、ルーベンス作品に見られる高揚した生命力をさらに発展させ、農民が登場する風俗画を得意とした。
 歴史画や寓意画においても、ニンフやサテュロスが乱舞する祝祭的な情景を粗野なまでに力強く表現した。
 もっとも得意とし、人気を博したのは、農民や庶民の乱痴気騒ぎの情景である。
(横が3メートルもある歴史画のような大画面に、このような世俗の主題を描いたことが注目される)

・ヨルダーンスは、フランドルに住みながらカルヴァン派の信者であり、ハーグ近郊のハイス・テン・ボスで制作したこともあったので、オランダでは比較的よく知られていたようだ。
 老人が歌い、若者がバグパイプを吹く一家団欒の宴席である≪老いが歌えば若きが笛吹く≫、それに≪豆の王の祝宴≫という二つの主題が、とくに繰り返し制作された。

・「豆の王様」とは、十二日節の行事だが、生誕間もない幼児キリストに東方から三人の王(三博士)が贈り物を持ってやってきたことにちなむ祝宴である。
 豆を一粒だけ入れて焼いたケーキを切り分け、豆入りに当たった者が王の役になり、彼が王妃、侍従、侍医などの役を割り振って、擬似宮廷を作り、「王様の乾杯」という一同の唱和とともに酒を一気に飲み干すものである。

・宴会につきものの、既成の秩序の転倒という性格を色濃くもっている。
 ヨルダーンスは、王の役に当たり、王冠を被って杯をあおる太った老人を中心に、老いも若きも大きく杯を掲げて乾杯する情景を何度も描いた(口絵4)。

・ヨルダーンスは、オランダの風俗画よりも、人物の比重が大きく、力強い歴史画(宗教・寓意・歴史などの物語的主題を持つ絵画)のような大画面としている。
 ここでも、単なる農民の乱痴気騒ぎではなく、公現祭(キリストが人類の前に顕現したことを祝う祭日)を祝うという信仰が、表向きの主題となっていることが重要である。

☆16世紀から17世紀にかけて、どんちゃん騒ぎの絵がこれほど頻繁に描かれたのは、なぜだろうか。
・中世から近世にかけては、食糧供給が非常に不安定であった。
 貴族といえども凶作の年は、質素な食に甘んじなければならなかった。
 こうした社会では逆に、富裕層や貴族はしばしば大宴会を催す傾向があったという。
 あらゆる階級が、粗食とごちそうを交互に食べるのが決まりだった。食料不足のために、こうした起伏が習慣として定着していた。

・とくに農村では、毎日の食べ物と祝祭時の食べ物との落差が大きく、収穫祭、結婚式、守護聖人の祝日、復活祭、クリスマスなどに、桁外れのお祭り騒ぎをする一方、通常はせいぜいパンか野菜の煮汁だけで生きていた。
 19世紀までヨーロッパの農民の大半は、肉をほとんど口にせず、パンのほかは鍋で煮た野菜とスープばかりであった。しかも、食料は長く貯蔵できないし、いつ兵隊や略奪者が来て奪い去るとも知れなかった。
 大量に貯蔵するよりはお祭りのときに全部食べてしまうという意識になったのである。
 教会は四旬節や聖人記念日などの精進日を定め、この期間にはパンと水しか食べてはいけないことにしたが、それが厳しければ厳しいほど、祭りのときのどんちゃん騒ぎは過熱するのだった。

・農民たちの乱痴気騒ぎは、都市の富裕な貴族や商人にとっても、理想的な情景であり、彼らは自宅にこうした絵を飾ることで、飢えや欠乏への不安をかき消して気分を高揚させようとしたのであろう、と著者は解釈している。

 ヨルダーンスの農民風俗画には、しばしば異教の神が登場するが、丸々と太った農民たちは、豊穣の神ケレスや酒神バッカスやシレノスと同じく、見ているだけでおめでたい感じ、つまり吉祥的な効果を与えたとみている。
(布袋や大黒などわが国の七福神が太っているのも、同じ役割を果たすものであったらしい)

・食糧供給がなんとか安定する18世紀半ばにいたるまで、肥満は恥どころか、社会的威信を表すものであった。また、料理の豪華さは、多くの場合、質より量で判断されていた。

・フランドルやオランダの宴会図は、放蕩息子や七つの大罪という教訓的な主題の伝統の上に成立したものである。17世紀になると、明るい農民の生活を描くことが、それ自体ひとつの主題として確立した。
 そこにはもはや、反面教師的・否定的な意味は薄れ、宗教的祭事を祝う健全な庶民の信仰心が好意的に眺められるようになっている。

・また、画家たちは、陽気な宴会に自らの姿を描きこむという誘惑にかられたようだ。
 ステーンもヨルダーンスも、しばしば乱痴気騒ぎの情景に、楽器を奏でる自画像を挿入した。レンブラントも、新妻サスキアとともにいる自画像を描いたとき、自らは放蕩息子として登場させた。

※今まで見てきた宴会図のほとんどは、フランドルやオランダで制作されたもので、イタリアやスペインのものは少ない。
 これは、キリスト教以前のケルト・ゲルマン社会が、ラブレーの『ガルガンチュア』や『パンタグリュエル』に描かれたような大食漢や暴飲暴食を好ましいものとしていたことと関連があるらしい。
 古代地中海世界では、基本的に節食をよしとしていたが、それがキリスト教の禁欲観に継承され、その伝統のゆえにイタリアなどでは、どんちゃん騒ぎの絵が少なかったのであろう、と著者はみている。
 つまり、フランドルでは、キリスト教的な倫理観を表に出しながらも、その下層には古来のゲルマン的価値観が息づいていたという。

※賑やかな宴会や乱痴気騒ぎは、キリスト教的観点からすればよいことではないが、人生の幸福を感じる行為であり、美術の主題として、画家も鑑賞者も喜んで制作し、受容したことがうかがえる。
 美術というものは、道徳や教義の絵解きとしてだけでは説明できない、人間の複雑な心性を表象するものであるという。
 さかんに表現された宴会図には、表向きの宗教的な教義と芸術制作の動機との乖離を見ることができるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、76頁~82頁)

<食の愉悦>


カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫


〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃(口絵5)

・17世紀の風俗画に表れた宴会図は、食べるという行為よりも、仲間や家族で飲みかつ歌うという祝祭的な性格をもつものが多かった。食べることだけを主題とした作品はそれほど多くはない。
 16世紀後半のイタリアでは、フランドル美術の影響を受けて、世俗的な風俗画や静物画が勃興しつつあった。
 そんな傾向を代表する画家ヴィンチェンツォ・カンピは、農民が食事をする光景を描いている。

・中でも、≪リコッタチーズを食べる人々≫は、四人の男女が大きなチーズを食べている情景を表現している。食事を正面から捉えた稀有な作品である。
 リコッタチーズを交互にすくっては食べる男女。
 右端の女性はスプーンを持ったまま、こちらに笑顔を向けている。
 その隣の男はチーズの塊にスプーンを突っ込んでいる。
 その右の男はスプーンに載せた大きなチーズを上から口に入れようと大きく口を開けている。
画面左端の男は口いっぱいにチーズを含んで口を半開きにしているために、口の中のチーズが見えている。

※リコッタチーズは、豆腐のようなものだと考えればよいようだ。
 豆腐自体はもともと中国の唐代にチーズを模倣して作られるようになったものだという。

※スプーンを持つ右の女性から順に、スプーンをチーズに突っ込む、それを口に持って行く、口に含むという一連の動作が連続しているようである。
また、男たちが右から若者、中年、老年と、人生の三段階を示すようであり、女性も加えて、あらゆる人間が代表されている、と著者は見ている。
 いずれの顔も食べることの幸福感に満ち溢れ、にぎやかで明るい雰囲気が漂っている。
 この作品は、画家カンピの没後、遺産として未亡人が持っていたことはわかっているが、誰の注文でどんな意図をもって制作されたのかは、不明であるようだ。

※画家の当初のねらいはともかく、著者は、この絵こそ、食の愉悦を表現した傑作であり、「西洋美術史におけるもっとも愛すべき作品」であるとみなしている。

※聖人や修道士のようなしんみりとした質素な食事は、誰からも敬われるべき模範的な食事にはちがいないが、美術表現においては、豊富な食物に取り囲まれて明るく談笑しつつ食べる情景のほうが受け入られてきたようだ。
 それは、欲望や快楽に屈して堕落した人間の愚かで否定さるべき表現というよりは、この世の隅々に神の栄光を見て、日常的な営みを重んずる現世肯定的なイメージであるともいえる。
 カンピの生きた16世紀後半のロンバルディア地方は、カルロ・ボロメオの主導する厳しいカトリック改革の本拠地であり、≪聖カルロの食事≫のような戒律と禁欲に縛られた敬虔さが尊重された。

・そのため、カンピの風俗画は、貪欲や大食の罪のような教訓性を表したものと考えられるのだが、こうした表向きの主題を口実にしながら、庶民や農民の食事のようなたくましくも明るい生命力を提示した、と著者は考えている。
 それらは、貴族や商人のような富裕な顧客に受け入られ、教会に収蔵されたこともあるが、「悪しき食事」や「大食の悪徳」という表向きの教訓性がそれを可能にしたという。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、82頁~86頁)

農民の食事 ラ・トゥール、ゴッホ(93頁~)

農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ



〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
・20世紀に歴史の闇から発見されて、いまやフランス最大の画家と目されるジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、カラヴァッジョの様式を瞑想的にした静穏な宗教画で名高いが、初期には無骨なまでに自然主義的な農民や旅芸人の姿を描いていた。
・1975年にはじめて世に出た≪豆を食べる夫婦≫は、1620年頃と思われる初期のラ・トゥール特有の表現主義的なタッチよる力強い傑作である。
 老いた農民の夫婦が立ったまま、短い木のスプーンで、手に持った陶器の碗に入ったエンドウマメをすくっては食べている。
・カラッチの≪豆を食べる男≫では、スプーンから汁が滴り落ちていたが、この豆料理はほとんど汁気がないようであり、硬そうである。
 カラッチ作品に遅れること約40年だが、同様に、農民が喜怒哀楽も会話もなく、淡々と主食である豆を食べているというイメージである。
 男は碗を持つ手で同時に杖を支えているので、室内ではないだろう。
 巡礼者など無宿の流れ者かもしれないという。

※ラ・トゥールがなぜこのような夫婦を描いたのかは不明である。
 しかし、無言のうちに厳粛な雰囲気と威厳を漂わせる彼らの姿には、貧しき者こそキリストの身内であって幸いであり、天の国を継ぐべき人たちであるという思想が表現されているとみる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、93頁~94頁)

〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
・ラ・トゥールのやや後に同じフランスで、こうした農民の食事を描いたのが、ルイ・ル・ナンである。
 ル・ナン兄弟も19世紀になって再発見された画家であり、三人の兄弟の手を見分けるのは困難だが、ルイ・ル・ナンは農民の風俗を得意とし、風俗画でありながら宗教画にも似た古典主義的な画面を描いた。

・≪農民の食事≫では、三人の男が深刻な表情をして座り、画面左の男はワインを飲んでいる。
 中央の男はワイングラスを掲げ、右手にはパンを切るナイフを持っている。
 右の男は何も持たずに手を合わせて祈っている。
 女性と子供、少年がその背後にいて、画面の雰囲気を和らげており、とくに中央奥にいる子供はつぶらな瞳をこちらに向けている。

※ここではあきらかに、ワインとパンによる聖餐が暗示されている。
 フランドルやオランダに見られたどんちゃん騒ぎの農民とはまったく別の世界の住人のようである。
 彼らは堂々と屹立し、神の身内になる義人として威厳を保っている。

※農民でありながら、修道士や聖人にも似た厳粛な食事をとっている、こうした情景は、貧しき者こそが神の宴席に招かれるというキリスト教特有の思想の表れである。
 敬虔なキリスト者は、貴賤にかかわらず、いつも神の恵みに感謝し、神のことを思いつつ、食事をするのである。

〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年(口絵7)
・こうした農民の食事風景の傑作は、19世紀末のゴッホ初期の代表作≪馬鈴薯を食べる人々≫である。
 ランプの灯る薄暗い部屋で五人の家族が夕食にジャガイモの皿を囲んでいる。
 一家団欒の会話もなく、厳しい表情で黙々と塩茹でしただけのジャガイモの大皿に直接フォークを伸ばし、画面右の女性は黙ってコーヒーを注いでおり、その左にいる男はだまって茶碗を差し出している。
 左の夫婦のうち、嫁は何か話すかのように左端の夫に顔を向けるか、男はこれを黙殺している。

※ゴッホは、主に記憶に基づいて、この絵を制作したのだが、大変な労力と時間をかけた。
 「ジャガイモを食べる人々が、皿に手を伸ばすその手で大地を掘ったのだということを強調しようとした」と画家自身記しているように、ジャガイモは彼らが自ら耕して、その手で収穫した大地の恵みであり、彼らはこの恵みを神に感謝しつつ食べているのである。

※南米原産で16世紀に、スペインがヨーロッパにもたらしたジャガイモは、食物としてなかなか一般化しなかった。
 しかし、飢饉のたびに穀物の代替物として徐々にその真価が認められ、18世紀にはヨーロッパ中に普及し、農民や労働者の一般的な食物となっていた。
 ジャガイモをパンにする試みもあったが、困難であったため、この絵のように、そのまま茹でて食べるのが、一般的であった。
 ジャガイモは、パンを食べられない最下層民の主食であり、パン以下の食物とみなされていた。
 画面に漂う厳粛な雰囲気は、修道士の食卓のイメージと大差がない。

※ゴッホは、敬虔なクリスチャンであり、神学を修めて牧師を志していたほどであったがが、農民の生活を表現する大作として、農作業の情景ではなく、労働後の食事の場面を選んだことは意義深い。
 ステーンやヨルダーンスの歌い騒ぐ農民の伝統的なイメージに反し、酒ではなく、コーヒーを飲む静かで理性的な農民の姿を提示した。
 17世紀にトルコからヨーロッパに伝えられたコーヒーは、理性を鈍麻させる酒に対して、理性を覚醒させる飲料として歓迎され、普及した。

※入念に構想され、長期間にわたって制作された、この記念碑的作品には、土に生きる農民たちの労働の成果と、彼らの素朴だが純粋な信仰が見事に表現されている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、96頁~97頁)

第3章 台所と市場の罠(100頁~)

台所と市場の罠


【「二重空間」の絵画】
・西洋美術史を振り返ると、食事の情景よりも、台所における調理の場面や、食材を売る市場の情景のほうが、頻繁に表現されているようだ。
 いずれも食事そのものではないものの、その準備として重要な主題ではあるが、なぜそれらがさかんに描かれたのだろうか、と著者は問いかける。

・≪リコッタチーズを食べる人々≫を描いたカンピにもっとも大きな影響を与えたのは、フランドルのアールツェンとブーケラールという画家であったという。
 彼らは、16世紀後半に、静物画や風俗画と宗教画が同居している奇妙な作品群を描き、17世紀風俗画の祖となった画家である。
 それらは、画面手前に食材や商品が並べられ、同時代の人物がそれらの前で立ち働く風俗画となっているが、画面奥には、聖書の場面が小さく見えるというような作品である。
 こうした「二重空間」の絵画は、16世紀後半から17世紀初めにかけて、フランドル、北イタリア、そしてスペインで流行した。

※一般には、それぞれの世俗ジャンルが独立する前の未分化の過渡的な現象を示すものと説明されるが、その意味については、現在も定説を見ていないようだ。
 それらは、聖なる場面に現実性を導入するための試みと見ることができる。
 あるいは画中空間と現実空間を接続させるバロック的な手法の先駆となるものであった。
 そして、静物画や風俗画がジャンルとして独立する以前の16世紀半ばにおいて、食物や厨房を前面に大きく写実的に描いたという点で、注目に値するようだ。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、100頁~101頁)

〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年(口絵8)
・たとえば、ピーテル・アールツェンの≪マルタとマリアの家のキリスト≫は、手前に食物や道具が所狭しと並べられた厨房の情景であり、奥に見える部屋にキリストとマルタ、マリアが小さく見える。

※「マルタとマリアの家のキリスト」という主題は、厨房と結びついている。
 マルタとマリアの姉妹の家に、キリストが迎えられたとき、姉のマルタは主をいろいろともてなすためにせわしく働いていたが、妹のマリアはキリストの足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタはこうした妹の態度に腹を立て、ついにキリストに、妹をたしなめて自分を手伝うように注意してほしいと訴えた。
 すると主はこう答えた。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(ルカ10:38-42)

※家事を手伝わない妹が得をし、働き者の姉がキリストにたしなめられるという一見不条理な話なのだが、古来さまざまな神学的解釈がなされてきた。
 マルタは活動的生、マリアは瞑想的(観想的)生という、人間の生活のふたつの側面を象徴するという解釈が普及した。信仰生活にとっては後者のほうが重要であるが、両者は相補うべきだとされた。
 女性にとっての家事労働を軽視するのではなく、いずれも重要であるというわけだが、「二重空間」の絵は、なぜか手前に厨房の場面が大きく描かれ、奥にわずかにキリストやマリアが見えるのであった。

・アールツェンのこの絵では、奥の暖炉の前で、マルタが箒(ほうき)のようなものを手にして立ち、キリストは足もとに座り込んで、手を合わせるマリアの頭に手を置いている。
 暖炉の上には、オランダ語で「マリアは良い方を選んだ」という文字が見える。
しかし、こうした情景とは関係なく、手前には大きな肉の塊やパン、バターやワインの容器などのほか、革の財布、書類や銀器の入った金庫、陶器や花瓶が大きく見える。

※おおむねいえることは、これらの手前の物質はマリアの選んだ精神的価値と対比され、現世のはかない価値を象徴しているということである。
 つまり、手前に展開された物質的価値や欲望の世界を乗り越えて、キリストの近くの精神的世界に行くべきという教訓である。

※あるいは、こうした絵には、プロテスタント的な思想が反映されているという見方もある。
 つまり、聖書の情景を実際に見るように修行させるロヨラなどのカトリックとは正反対に、ヴィジョンを否定し、真実は見えないもののうちにあるという考え方である。
 アールツェンやブーケラールの画面で目を奪う前景は、堕落した世界そのものであり、それを通してしか、超越的なものは把握できないとする。

※これらの作品が制作された1560年代は、宗教改革によるイコノクラスム(偶像破壊)の嵐が吹き荒れており、自らの宗教画を破壊されたこともあるアールツェンは、プロテスタントの検閲官の目を潜り抜けるために、あえてキリスト教的な教訓を含ませたと考える研究者もいる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、101頁~104頁)


静物画と食物~第4章より


・市場や厨房の絵において、描かれた食物が徐々に中心となり、聖書的な教訓や市場・厨房という舞台設定もなくしてしまったのが、静物画である。
 静物画の主題で圧倒的に多いのが食物であった。
 静物画というジャンルは、発生のときから食物や食材を描くことによって流行し、愛されてきた。
 したがって、美術における食べ物の絵を探ることは、必然的に静物画の歴史を振り返ることになる。
 
・静物画という日本語は、英語のstill life(動かざる生命)の翻訳である。
 そもそもこの用語は、オランダで1650年頃に成立したstillevenという語に由来する。
 このことからもわかるように、オランダこそは静物画の故郷であった。

※ただし、静物画は西洋では長い伝統をもつ。
 ゼウクシスやパラシオスといった古代ギリシアの画家たちが、果物やカーテンなど静物を巧みに描いて、人や動物の目を欺いたという逸話が多く伝えられている。
 本物そっくりの絵を「トロンプ・ルイユ(目だまし絵)」とよぶが、本物と見まがうばかりの静物画がいつの時代にも喜ばれた。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、138頁~139頁)


西洋美術特有の概念


・古代に発した静物画の伝統は、中世に一旦途絶えるものの、中世後期からルネサンスに復活した。
 15世紀にフランドルで再び生まれた静物表現は、キリスト教的な意味に染められたものになっていた。

・表には礼拝する注文主の肖像が描かれており、裏には花瓶に入った百合の花が描かれたメムリンクの有名な作品や、聖母子図の裏に洗面器と水差し、タオルなどが描かれた逸名の画家による作品があるが、これらはすべて聖母の純潔を象徴するものであった。

・葡萄(ワイン)やパンはキリストの象徴である。
 リンゴは原罪、ザクロは復活を示すというように、特定の事物がキリスト教的な象徴と結びついている。
 日常的な事物に象徴的な意味を込めるのは、フランドル絵画の伝統といってもよいが、静物画に、物の単なる迫真的な再現にとどまらず、ある意味を伝える記号であるという新たな機能が加わった。

・西洋美術には、物がある人物の属性を示すというアトリビュート(持物)という概念がる。
 聖母は百合、ペテロは鍵、パウロは剣、ジュピターは雷、ヴィーナスは薔薇やリンゴというように、神や聖人がそれぞれ特定の物と組み合わされることで見分けられるという図像上の決まりである。
 また、古代以来、擬人像という伝統もあって、「真実」や「信仰」、「五感」「四季」「四大要素」といった美徳や抽象的な概念を人物と物の組み合わせによって表現する慣習があった。
 17世紀には、そこから擬人像が消え、アトリビュートだけが描かれて寓意的な静物画となることが多くなる。

・目に見える具体的な物や人に抽象的な概念を重ねるという習慣では、東洋ではほとんど見られない西洋特有の思考法といってよい。
 中国や日本には、漢字という表意文字があり、意味と形態の美の双方を伝えることができるため、書を芸術とする伝統が形成され、擬人像やアトリビュートを必要としなかった。
 そのため、「仁義」とか「一日一善」とかいう書を掲げればすむ。
 しかし、同じ意味を伝えるのに西洋ではいちいち正義やら慈愛の擬人像を作らねばならなかった。
 こうして静物画は、単なる物の表現であるだけでなく、宗教画や物語画と同じく、意味を担う芸術となったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、141頁~143頁)

五感の寓意


・そんな寓意的主題のひとつとして、「五感の寓意」がある。
 一般に、着飾った女性や裸婦が五感の擬人像となって、五感を表す行為をしている連作である。味覚の寓意としては果物を食べたり、乳を与えたり、ワインを飲んだりする姿で表されることが多い。風俗画の中に五感の寓意を示すことはフランドルでさかんに見られた。

・静物画では、ルーヴル美術館にあるフランスのリュバン・ボージャンの絵(図49)が有名である。
 そこでは、視覚は鏡、聴覚はリュートと楽譜、嗅覚は花瓶の花、味覚は切ったパンとグラスに入ったワイン、そして触覚は小銭入れ、トランプの札、チェス盤によって表されている。
※図49 ボージャン≪静物≫パリ、ルーヴル美術館、1630年

・五感の寓意という主題が流行したのは、絵画が視覚という単一の感覚にしか対応しないため、ほかの諸感覚をも想起させ、ひとつの世界や小宇宙を表現しようとしたためであろう。
 とくに静物画は絵画の中でもっとも地味でありながら、物をリアルに描くことによって、味覚や嗅覚、触覚を直接刺激し、視覚の限界を乗り越えようとしたジャンルであったといえる。
 静物画の題材のうちでも、食物のほかに、嗅覚に訴える花や聴覚を想起させる楽器がとくに好まれたのも、そのためである。
 静物画に限らず、西洋絵画に食べ物や飲食にまつわる主題が多いのは、キリスト教的な意味のためであると同時に、絵画のうちに味覚という快楽を加えて、絵を見る喜びを増幅させるためであったと見ることができる、と著者は考えている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、143頁~146頁)


≪「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その1 日本での展示図録より≫

2019-12-21 18:55:43 | 西洋美術史
【はじめに】
 来年2020(令和2)年、56年ぶりに東京オリンピックが開催される。55年前の、1964年、東京オリンピックの際に、「ミロのヴィーナス」が来日した。

「ミロのヴィーナス」がルーヴル美術館を出て、海外に渡ったことは、ただ1度、1964年の日本で行われた特別展示のみである。
 その時の展示状況を、美術史家の千足伸行氏(成城大学教授)は、「上野の思い出」というエッセイ(『国立西洋美術館ニュース ゼフュロス』(第6号、1999年)で述べている。「ミロのヴィーナス」展が開催された1964年は、東京オリンピック開催、新幹線開通の年であった。その展示を鑑賞するために、「長蛇の列に加わって、辛抱強く待ったすえに、庭に作られた特設会場でかの名作と対面した」と記す。
 「ミロのヴィーナス」は、先述したように、1820年4月8日、エーゲ海西南部に位置する現ギリシャ領(当時はオスマントルコ領)のミロス島で小作農によって発見された。「ミロのヴィーナス」は、発見された日と同日の4月8日から、国立西洋美術館の前庭に作られた円筒形の特設会場にて公開された。特設会場は、まず2階の廻廊で上から眺め、スロープで1階に下りて行って、彫像の正面に達するという造りであった。
 この「ミロのヴィーナス」の日本展示の模様は、朝日新聞社による報道写真を、インターネットで閲覧できる。その写真を見ると、1960年代の高度経済成長に特有の、大衆の熱気や、超一級の芸術品に対する憧れが伝わってくる。確かに、あの時代には、文化にもスポーツの祭典東京オリンピックにも、盛り上がりが感じられる。

 そもそも、「ミロのヴィーナス」の日本展示が決まった経緯は、1964年秋、ギリシャ由来のイベント・東京オリンピックが開催されることを契機に、朝日新聞社が日本政府の協力を得て、フランス政府と交渉を行い、承諾を得て勝ち取ったのだそうだ。

 だから、1964年の図録『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』(朝日新聞社、1964年)
は、朝日新聞社が中心となって編集したものである。上記のような経緯があるから、図録の冒頭には、駐日フランス大使エティエンヌ・デヌリ(Etienne Dennery)氏およびフランス国立博物館総長ジャン・シャトラン(Jean Chatelain)氏の挨拶文がある。
 まず、今回のブログでは、このお二人のフランス語を読んでみたい。
 そして、次回および3回目には、それぞれ、ラヴェッソン氏、マッフル氏の著作から、「ミロのヴィーナス」に関連した箇所を抜粋して読んでみたい。
 その書名は次の著作である。
・Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, 1871.
・Jean-Jacques Maffre, Que sais-je? L’art grec, Imprimnie des Presses Universitaires de France, 2001.




執筆項目は次のようになる。


・【「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その1 日本での展示図録より】
・【「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その2  ラヴェッソン氏の著作より】
・【「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その3  マッフル氏の著作より】







上記のような構想のもとに、「ミロのヴィーナス」に関して、興味深い見解を述べた箇所を抜粋して、読んでいくことにする。
最初に、お断りしておきたいのは、1964年の図録以外を出典とする文献については、日本語訳を自分で作るしかなかったので、≪試訳≫(試みの訳といった意味)という形で載せておく。あくまで内容理解の参考程度に考えて頂きたい。
なお、【語句】は、私のブログ「フランス語の学び方あれこれ その1」に掲載した辞書を引いて、筆者が作成したものである。

このブログの例文は次の辞書による。

小林路易ほか『アポロ仏和辞典』角川書店、1991年[1993年版]
鈴木信太郎ほか『スタンダード佛和辞典』大修館書店、1957年[1978年版]
電子辞書(CASIO Ex-word DATAPLUS5 XD-A7200)所収の次の辞書
1『小学館ロベール仏和大辞典』小学館、1988年
2『ロワイヤル仏和中辞典』旺文社、2005年
3『プチ・ロワイヤル和仏辞典 第2版』旺文社、2003年
4『オックスフォード仏英辞典(Oxford Hachette French Dictionary Fourth Edition French-English)』Oxford University Press, 1994, 1997, 2001, 2007.
5『オックスフォード英仏辞典(Oxford Hachette French Dictionary Fourth Edition English- French)』Oxford University Press, 1994, 1997, 2001, 2007.
6『PETIT ROBERT仏仏辞典(Le Nouveau Petit Robert de la langue française)』Dictionnaires Le Robert-SEJER, 2008.

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エティエンヌ・デヌリ(Etienne Dennery)氏の挨拶文


1964年の「ミロのヴィーナス」展示に際して、駐日フランス大使エティエンヌ・デヌリ(Etienne Dennery)氏は次のような挨拶文を載せている。

La Vénus de Milo à Tokyo, c’est une date qui doit
compter.
La France a voulu présenter en Extrême-Orient,
l’un des chefs-d’œuvre les plus parfaits de la culture
occidentale, à ses origines. Une œuvre née du génie
grec, fait de clarté, de mesure, d’équilibre, et qui nous
a légué le sens classique de la forme. Toute une
civilisation nous apparaît, venue du fond des âges et
figée dans le marbre, mais familière aussi, tant elle
porte le témoignage de la vie. Pour coopérer fraternel-
lement, l’Occident et l’Orient doivent connaître leur
passé, dans ce qu’il a de plus noble et de meilleur.

La décision de faire entreprendre à la célèbre statue
un aussi long voyage est exceptionnelle.
Il ne s’agit pas seulement, dans l’année où Tokyo
s’apprête à recevoir sur ses stades la jeunesse du monde,
de contribuer à y faire revivre le souvenir d’Olympie.

 C’est être fort près les uns des autres, que de com-
munier dans le culte de la Beauté.

Etienne Dennery
Ambassadeur de France

【朝日新聞社による翻訳】
東京のミロのビーナス、これは歴史に残るべき大事件であります。
フランスは、西欧文化の源泉に位置する最も完全な傑作のひとつを、極東において公開することにしました。それはギリシャの天才によって生み出され、明快さと、節度と、均整にもとずく作品であり、われわれに形態についての古典的感覚を伝えてくれたものです。ひとつの偉大な文明が、長い歳月の奥から、この大理石の中に凝縮されてやって来たのです。しかもそれは、豊かな生命の証言を示していて、われわれに親しみ深い印象を与えます。西欧と東洋とは、友好的協力をつづけて行くために、それぞれの過去をその最も高貴で、最も優れたかたちにおいて知らねばなりません。

この名高い彫像に、このような長途の旅行を企てさせるという決定は、例外的なものであります。
 それは、東京がその競技場に世界の若者を迎え入れようとしているこの年に、古代オリンピアの思い出を再びよみがえらせるのに貢献するのみではありません。

 美に対する憧れの中に共感することこそ、お互いに近しい存在となることにほかならないのであります。

(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、5頁)



【語句】
La Vénus de Milo (f)ミロのヴィーナス
 Vénus   (f)(ローマ神話)ウェヌス、ヴィーナス(美と愛の女神)、(天文)金星(Venus)
c’est  <êtreである(be)の直説法現在
une date   (f)日付、日取り、年代(date)
qui doit  <devoir+不定法~しなければならない、~すべきだ(must)の直説法現在
compter 数える、数に入る、重要である(count)
 (cf.) C’est le résultat qui compte.だいじなのは結果だ(It’s the result that counts[matters].)
La France a voulu présenter <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(vouloir)
+不定法(présenter) 直説法複合過去
 vouloir+不定法 ~することを望む、~したい(want)
  (cf.) Il a voulu me frapper.彼は私を殴ろうとした(He tried to hit me.)
 présenter 展示する、陳列する(present, display)
Extrême-Orient (m)極東(Far East)
chef-d’œuvre(複数chefs-d’œuvre) (m)傑作、代表作(masterpiece)
parfait    (adj.)完全な(perfect)
occidental(e) (adj.)西洋の(western)
origine    (f)起源、源泉(origin)
une œuvre   (f)作品(work) (cf.) œuvre d’art芸術作品(work of art)
née    <naître生まれる(be born)の過去分詞
génie  (m)天才(genius)
grec (adj.)ギリシャの(Greek, Grecian)
fait de  <faireする、作る(do, make)の過去分詞
 (cf.) fait(e)(adj.)(←faireの過去分詞) fait(e) de qc ~からできている、で構成されている
clarté    (f)光(light)、明快さ(clarity)
mesure   (f)寸法(measure)、節度、中庸(moderation)
équilibre  (m)(形、色の)均整、調和(balance, equilibrium)
qui nous a légué <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(léguer) 直説法複合過去
 léguer  遺贈する、(後世に)伝える(bequeath, make over)
le sens   (m)感覚(sense) (cf.)les cinq sens五感(the five senses)
classique    (adj.)古典の、古典主義の(classic, classical)
la forme   (f)形、形態(form, shape)
une civilisation (f)文明(civilization)※ sとzで、フランス語と英語の綴りの違いに注意
nous apparaît <apparaître現れる、姿を現す(appear)の直説法現在
venue    <venir来る(come)の過去分詞
fond     (m)底(bottom)、奥(far end)
figée <figer凝固(凝結)させる(congeal)、動けなくする(freeze)の過去分詞
le marbre   (m)大理石(marble)※ rとlで、フランス語と英語の綴りの違いに注意
familière    (adj.)familierの女性形、親しい(familiar)
aussi     (adv.)同様に(also, too, likewise)
tant      (adv.)あれほど、そんなに(so much)
elle porte  <porter 運ぶ、もたらす(carry, bring)の直説法現在
le témoignage  (m)証言、証拠(testimony)
(cf.)porter témoignage sur ~について証言する(bear witness to)
la vie     (f)生命、人生(life)
coopérer    協力する(cooperate)
fraternellement (adv.)兄弟のように、仲よく(fraternally)
l’Occident (m, f)西洋(Occidental)
l’Orient  (m)東洋(Orient, East) (cf.) l’Etrême-Orient極東(the Far East)
doivent connaître <devoir+不定法 ~しなければならない(must, have to)の直説法現在
 connaître  知る、知り合う(know)
leur passé   (m)過去(past)
dans ce qu’il a de plus noble <avoir持つ(have)の直説法現在
 plus noble  (adj.)高貴な(noble)
meilleur (adj.)(bonの優等比較級)よりよい(better)、
(bonの優等最上級)le meillleur 最もよい(the best)
 (cf.)ce qu’il y a de meillleur いちばんよいこと(the very best)
 (cf.) Une maison tout ce qu’il y a de mieux. うちほどいいものはない。
La décision  (f)決定(decision)
de faire entreprendre à
  faire  する(do)、faire+不定法 ~させる(使役)(make do, have do)
entreprendre à 始める(begin)、(旅などに)出る(set out on)
célèbre (adj.)有名な、名高い(famous, celebrated)
statue    (f)(全身の)彫像(statue)
aussi     (adv.)そんなに、それほど(so, much)
voyage    (m)旅(journey, trip)
est      <êtreである(be)の直説法現在
exceptionnel(le) (adj.)例外的な(exceptional)
Il ne s’agit pas <s’agir de(非人称構文でのみ用いられる)(deに)関する、かかわる、
(が)問題である(concern, be in question)の直説法現在の否定形
seulement   (adv.)~だけ(only)
où Tokyo s’apprête à <代名動詞s’apprêter à+不定法 (~する)準備をする(prepare for sth
to do)の直説法現在
recevoir     (客を)迎え入れる、もてなす(receive, welcome)
stade (m)競技場(stadium)
la jeunesse   (集合的に)若者たち、青少年(the young)
contribuer à (àに)貢献する(contribute to)
y faire revivre  faire既出、revivre生き返る、よみがえる(live again)
le souvenir   (m)思い出(memory, souvenir)
Olympie    オリンピア(ギリシャ南部の古代都市)(Olympia)

 C’est être fort près les uns des autres, que de com-
munier dans le culte de la Beauté.




ジャン・シャトラン(Jean Chatelain)氏の挨拶文


次に、フランス国立博物館総長ジャン・シャトラン(Jean Chatelain)氏は次のような挨拶文を載せている。

Le prêt au Japon de la Vénus de Milo entre dans le
cadre général de cette politique d’échanges artistiques.
Il est cependant un évènement exceptionnel puisqu’il
porte sur un de ces rares chefs-d’œuvre considérés comme
la marque d’une étape dans l’évolution de la sensibilité
humaine. Les pays gardiens de tels chefs-d’œuvre
exercent tout naturellement sur eux une vigilance
particulière qui excluait jusqu’ici les prêts et les déplace-
ments. C’est ainsi que la Vénus de Milo n’est jamais
sortie de France depuis qu’elle y est arrivée il y a 140 ans.
Voici cependant que s’atténue cette réserve, à l’égard
même des œuvres les plus insignes. La Joconde a été
exposée aux Etats-Unis en 1963 La Vénus de Milo
l’est au Japon en 1964.

Le prêt de la Vénus de Milo entre dans cette
politique de compréhension et d’estime réciproques car
le public japonais connaîtra mieux la culture française
quand il aura pu admirer une œuvre qui aux yeux des
français a valeur de symbole.
Symbole en France, mais œuvre grecque, pourra-t-on
dire. Bien sur[sic] ---- comme la Joconde est venue d’Italie
---- mais cela n’interdit pas qu’elles soient l’une comme
l’autre, pièces essentielles et symboles de notre culture.
Il faut là aussi se garder des conceptions héritées du
passé. Pendant longtemps tous les peuples ont été
portés à croire à une histoire nationale autonome, qui
les isolait et les différenciait de leurs voisins. La
multiplication des fouilles et des découvertes, les progrès
de l’histoire font apparaître chaque jour davantage
combien plus complexe a été l’évolution de l’humainité
et combien elle a comporté d’imbrications et de contacts.

Pour la France et la Grèce, il n’est pas besoin de ces
recherches modernes, et il y a beau temps que nous
apprenons au collège tout ce que nous devons,
nous français, comme bien d’autres, à ce peuple
ingénieux et subtil qui a donné au monde Platon,
Sophocle, Pythagore, Homère ou Phidias. En choisis-
sant son œuvre pour être l’ambassadrice de sa culture
au Japon, c’est un témoignage de gratitude que la
France rend sans réticence à l’artiste inconnu qui, sous
le ciel de Gèrce a, pour 2000 ans, fixé pour nous, dans
le marbre, l’image de la beauté.

Jean Chatelain
Directeur des Musées de France

【朝日新聞社による翻訳】
≪ミロのビーナス≫の日本への貸与も、この芸術交流計画の一般的なわく内で行われるものです。しかし、こと人類の感性発達の歴史における一段階を特徴づけるものと考えられる希な傑作に関することでありますから、これは例外的な措置であります。かような傑作を保存する国が、それらの貸与や移動すらも行わないほど用心深くなることは、きわめて当然のことであります。それゆえにこそ、≪ミロのビーナス≫は、パリに到着してから140年間、一度もそこから出なかったのであります。
 しかし、近年、この制限は、もっとも重要な作品に対してすら緩和されました。1963年には、アメリカ合衆国において≪モナ・リザ≫が展示されましたし、1964年には、≪ミロのビーナス≫が日本で展示されることとなりました。

≪ミロのビーナス≫の貸与は、このような相互理解と尊重の政策として行われるものであります。なぜなら、フランス人にとって象徴としての価値を持つ作品を鑑賞されたなら、日本の方々は、フランス文化をよりよく理解されることとなると思うからです。
 だが、これはフランスの象徴ではあるが、ギリシャの作品だという人があるかもしれません。たしかに――≪モナ・リザ≫がイタリアからやって来たように――そのとおりであります。しかし、いずれの場合にせよ、そのことはそれらが私たちの文化の精髄であり象徴であるということを妨げるものではありません。この場合にも、過去から受けついだ考え方に対して用心しなければなりません。長い間、それぞれの国民は、彼らの隣人たちの歴史とは孤立し隔たった自国民の歴史を信じつづけてきました。しかし、発掘、発見の増加、歴史学の進歩によって、人類の発展がいかに複雑なものであったか、またいかに、相互に重複し接合しあってきたかということを日々に新たに示してくれます。

 フランス人もギリシャ人も、これら近代の研究をまつまでもなく、そのことをよく承知しております。すでに久しく、学校において、私たちフランス人は、他国民たちと同様、この、プラトン、ソフォクレス、ピタゴラス、ホメロス、あるいはフェイディアスを世に送りだしたすぐれた民族に負うすべてについて学んできております。いま日本へのフランス文化の大使として、この作品を選定することは、とりもなおさず、ギリシャの空の下で、2000年も前に、私たちのために、大理石に、美の映像を定着した無名の芸術家に対するフランスの感謝のしるしなのでもあります。
(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、6頁~7頁)



【語句】
Le prêt (m)貸すこと(loaning)
le cadre   (m)枠(frame)、範囲、枠組み(scope) dans le cadre de ~の範囲で(within)
échange  (m)交換(exchange)
Il est  <êtreである(be)の直説法現在
un évènement (m)出来事、事件(event)
puisqu’il porte sur <porter運ぶ、もたらす(carry, bring)の直説法現在
  puisque (接続詞)~だから(since, as)
chef-d’œuvre (複 ~s-~)傑作(masterpiece)
considérés comme  <considérer comme(commeと)みなす(consider, regard)
une étape     (f)段階(stage)
la sensibilité   (f)感性(sensibility)
gardien    (m, f)番人、管理人(guardian)、(adj.)守護する(guardian)
exercent    <exercer行使する、行う(exercise)の直説法現在
une vigilance   (f)用心、警戒(vigilance)
qui excluait <exclure排除する(exclude)、拒む(prevent, preclude)の直説法半過去
déplacement  (m)移動(displacement)
C’est  既出
la Vénus de Milo n’est jamais sortie de <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(sortir)
      直説法複合過去の否定形
 sortir de (deの)外へ出る(go out)
depuis    (前置詞)~以来(since)
depuis qu’elle y est arrivée <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(arriver)直説法複合過去
il y a    (前置詞的に用いて)(今から)~前に(ago, since)
que s’atténue <代名動詞s’atténuer和らぐ、減る(soften, lessen)の直説法現在
cette réserve  (f)制限(reserve)
à l’égard de ~に対しての(toward)
insigne (adj.)顕著な、きわ立った(noteworthy, signal)
La Joconde   「モナ・リザ」(レオナルド・ダ・ヴィンチの婦人肖像画)(the Mona Lisa)
      (cf.)le sourire disincarné de la Jocondeこの世のものならぬモナリザの微笑
a été exposée <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(être)+過去分詞(exposer)
       受動態の直説法複合過去
 exposer   展示する(display, expose)
La Vénus de Milo l’est [exposée]の省略


Le prêt de la Vénus de Milo entre dans <entrer入る(enter)の直説法現在
compréhension  (f)理解(understanding, comprehension)
 ※フランス語はéとなり、アクサン記号のアクサン-テギュ(accent aigu)が付く。
フランス語と英語の綴りの違いに注意。
estime     (f)尊敬、尊重、評価(esteem, respect)
réciproque (adj.)相互的な(reciprocal)
car (接続詞)というのは、なぜなら~だから(for, because)
le public    (m)大衆(public)、観衆(audience)
connaîtra <connaître知る、認める(know, recognize)の直説法単純未来
mieux     (adv.)(bienの優等比較級)よりよく(better)
la culture (f)文化(culture)
quand (接続詞)~するときに(when)
il aura pu admirer <助動詞avoirの直説法単純未来+過去分詞(pouvoir)+不定法(admirer)
       直説法前未来
 admirer   感嘆する、見とれる、敬服する(admire)
(cf.)admirer un tableau 絵に見とれる
qui aux yeux des français
yeux  (m)(œilの複数形)les yeux 両眼(eyes)
       (cf.) aux yeux bleus 青い目をした(with blue eyes)
(cf.) aux yeux des... ~の見る所[では]、~の考えでは(in the eyes of)
a valeur de symbole<avoir持つ(have)の直説法現在
 valeur    (f)価値(value, worth)
(cf.) La monnaie n’a qu’une valeur de convention. 貨幣には約束的価値しかない。
 <例文> Aux yeux de l’avenir, tout cela n’aura aucune valeur.
後世(の人々)から見れば、そんなものはすべてなんの価値もないだろう。
symbole   (m)象徴(symbol)
※語末eも、フランス語と英語の綴りに相違。発音もフランス語では[サンボル]
grec(que) (adj.)ギリシャの(Greek, Grecian)
pourra-t-on dire <pouvoirできる(can)の直説法単純未来の倒置形+不定法(dire)
 dire   言う(say)
Bien sur[sic] →bien sûrもちろん(of course)
la Joconde 既出 モナリザ
est venue d’Italie <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(venir) 直説法複合過去
cela n’interdit pas <interdir 禁じる(forbid)(~するのを)妨げる(prevent from)
         直説法現在の否定形
qu’elles soient  <êtreである(be)の接続法現在
l’une comme l’autre →l’un comme l’autre 両者とも、異口同音に
 <例文>L’un comme l’autre commençaient de s’y habituer. 二人とも慣れてきた。
pièce     (f)断片、作品(piece)
essentiel(le)  (adj.)本質的な(essential)
※ eとaで、フランス語と英語の綴りが異なり注意。
Il faut là aussi se garder <falloir~しなければならない(must, have to)の直説法現在
 se garder (代名動詞)~を警戒する(beware of)
conception    (f)考え方(conception)
héritées de  <hériter (deを)相続する、受け継ぐの過去分詞
Pendant   (前置詞)~の間(during, for)
peuple   (m)国民、人びと(people, nation)
ont été portés à croire à <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(être)+過去分詞(porter)
      受動態の直説法複合過去
 porter qn à+不定法 (人)に~するように仕向ける(prompt [induce, lead] s.o. to do)
 (cf.)Tout me porte à croire que...あらゆる点からみて~と考えざるをえない
    (Everything leads me to believe that...)
autonome (adj.)自律の、自主独立の(autonomous)
qui les isolait <isoler孤立させる(isolate)の直説法半過去
les différenciait <différencier区別する(differentiate)の直説法半過去
voisin   (m, f)隣の人、同胞(neighbo[u]r)
la multiplication (f)増加(multiplication)
fouille     (f)発掘、(複)(考古学の)発掘調査(excavation[s])
découverte   (f)発見(discovery)
progrès    (m)進歩(progress)
font apparaître  <faire する(do)、~させる(使役)(make do)の直説法現在
 apparaître  現れる、はっきりする(appear)
chaque jour   毎日、来る日の来る日も
davantage   (adv.)より多く、もっと(more, further)
complexe   (adj.)複雑な(complex)
a été l’évolution <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(être) 直説法複合過去
l’évolution   (f)進化、発展(evolution)
l’humainité (f)人類(humanity)
elle a comporté <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(comporter) 直説法複合過去
 comporter  含む(include)、伴う(entail)
imbrication  (f)重なり合い、絡み合い(imbrication)
contact (m)接触、連絡(contact)
il n’est pas besoin de <êtreである(be)の直説法現在の否定形
 besoin (m)必要(性)(need)
 (cf.)Il n’est pas besoin de+不定法 ~する必要はない(There is no need to do.)
recherche    (f)追求(search)、研究(research)
il y a beau temps que <il y a ~がある(There is[are])
nous apprenons <apprendre学ぶ(learn)の直説法現在
nous devons ... à <devoir à(àに)負っている(owe to)の直説法現在
ingénieux    (adj.)創意工夫に富んだ、巧妙な(ingenious)
subtil      (adj.)巧みな、繊細な(subtle)
qui a donné <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(donner) 直説法複合過去
Platon  (m)プラトン(紀元前427頃~前348/347、ギリシャの哲学者)
Sophocle (m)ソポクレス(紀元前5世紀のギリシャの悲劇詩人)(Sophocles)
Pythagore (m)ピタゴラス(紀元前6世紀のギリシャの数学者)(Pythagoras)

Homère (m)ホメロス(紀元前9世紀頃のギリシャの叙事詩人)(Homer)
Phidias (m)フェイディアス(紀元前5世紀のギリシャの彫刻家)
En choisissant <ジェロンディフ en +~ant現在分詞(choisir)
choisir  選ぶ(choose)
être である(be)
l’ambassadrice (f)大使夫人(ambassadress)
c’est 既出
un témoignage (m)証言(testimony)、しるし(token)
gratitude   (f)感謝(gratitude)
que la France rend ... à <rendre返す、与える、ささげる(give)の直説法現在
sans réticence  réticence (f)隠し立て、ためらい、抑制(reticence)
(cf.)parler sans réticence 腹蔵なく話す
inconnu  (adj.)知られていない、不明の(unknown)
le ciel de Gèrce a ... fixé<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(fixer)直説法複合過去
fixer  固定する、定着する、定める(fix)




【ポイント】
La Joconde a été exposée aux Etats-Unis en 1963.
La Vénus de Milo l’est au Japon en 1964.
≪翻訳≫
1963年には、アメリカ合衆国において≪モナ・リザ≫が展示されましたし、1964年には、≪ミロのビーナス≫が日本で展示されることとなりました。

このジャン・シャトラン氏の文によれば、1963年には、「モナ・リザ」がアメリカ合衆国において展示され、翌年1964年には、この度「ミロのヴィーナス」が日本で展示されることとなった。

ここでルーヴル美術館の三大至宝のうちの2つが、フランス語で表現される。すなわち、「モナ・リザ」と「ミロのヴィーナス」がそれぞれ、La Joconde とLa Vénus de Milo である。
また、マッフル氏で引用する文に、「サモトラケのニケ」が登場する。そのフランス語は、
 La Victoire de Samothraceである。



ルーヴル美術館の三大至宝
 1「モナ・リザ」 La Joconde
 2「ミロのヴィーナス」 La Vénus de Milo
 3「サモトラケのニケ」 La Victoire de Samothrace





【文法の解説】
 La Joconde a été exposée aux Etats-Unis en 1963.
 La Vénus de Milo l’est au Japon en 1964.
上記の文で重要な文法事項は、受動態の直説法複合過去である。
 その形は、【語句】にも記しておいたように、
 助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(être)+過去分詞(exposer)
 a étéは、êtreの複合過去である。受動態は、助動詞être+過去分詞であるから、受動態の直説法複合過去は、助動詞の直説法現在+過去分詞+過去分詞の形となる。
 また過去分詞は、つねに主語の性および数に一致する。主語La Jocondeが女性の単数なので、exposéに「e」が付いている。
La Vénus de Milo l’est au Japon en 1964.は受動態の直説法現在で、過去分詞が省略された形である。





「モナ・リザ」について


この挨拶文には、「モナ・リザ」が登場する。機会があれば、私も「モナ・リザ」について、まとめてみたいが、ここでは久保尋二氏が、いみじくも、次のように述べていることを引用しておきたい。

「現在、パリのルーヴル美術館が所蔵するレオナルドのいわゆる『モナ・リザ』( “Monna Lisa”, detto“La Gioconda”)は、芸術的見地からすれば、ある特定の婦人の肖像画、などという生やさしい絵ではない。レオナルドの天才は、この絵を制作しているうちに、いつしか特定の婦人像という枠を超えて、たしかに女性そのものの本体の表現にまで至らしめた。そのことは、この絵が、特定の婦人の特殊的な一回的なあるいは偶然的な顕れでない、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を形象化した普遍的人格像、にまで高められているということである。それが、この巨匠にしてはじめて可能な至芸であったことは、この絵の無数の模作と較べてみればよくわかる。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究――その美術家像』美術出版社、1972年、237頁。「第3章 レオナルド芸術の諸問題」の「『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代」より)。

「モナ・リザ」は、「ある特定の婦人の肖像画、などという生やさしい絵ではなく、制作しているうちに、いつしか「特定の婦人像という枠を超えて、たしかに女性そのものの本体の表現に至ったという。「特定の婦人の特殊的な一回的なあるいは偶然的な顕れ」でなく、
「女性それ自体を形象化した普遍的人格像」であると、久保氏は捉えている。
久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究―その美術家像』 (1972年)はこちらから




《「ミロのヴィーナス」その13 このシリーズのまとめ》

2019-12-18 17:44:39 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」その13 このシリーズのまとめ》
 



【このシリーズのまとめ】


「ミロのヴィーナス」シリーズのブログ・タイトル13回分を列挙しておく。


・「ミロのヴィーナス」とその時代背景――西洋美術史の中での比較――》その1
・「ミロのヴィーナス」考 その2 古代ギリシャ美術史の時代区分》
・「ミロのヴィーナス」考 その3 制作年代と復元案
・「ミロのヴィーナス」考 その4 制作年代にまつわるエピソード
・「ミロのヴィーナス」考 その5 高階秀爾氏の著作紹介
・「ミロのヴィーナス」考 その6 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論
・「ミロのヴィーナス」考 その7 ハヴロック氏のアフロディテ論まとめ
・「ミロのヴィーナス」考 その8 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論1
・「ミロのヴィーナス」考 その9 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論2
・「ミロのヴィーナス」考 その10 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論3
・「ミロのヴィーナス」考 その11 若桑みどり氏のヴィーナス論
・「ミロのヴィーナス」考 その12 中村るい氏の古代ギリシャ美術史
・「ミロのヴィーナス」考 その13 このシリーズのまとめ







「ミロのヴィーナス」は1820年に発掘され、現在、パリのルーヴル美術館にある。たとえ後期ヘレニズム期に制作され、2100年余りの歳月が経つにしても、長い眠りから覚めて、わずか200年にしかすぎない。来年は2020年だから、ちょうど200歳ということになる。
ヴィーナス像の歴史を考えてみた場合、「ミロのヴィーナス」は“新参者”にすぎない。長い眠りの中にいる間に、西洋美術史の上では、ルネサンスという画期を迎えていたことになる。この時代は、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見てもわかるように、「メディチ家のアフロディテ」像の方がルネサンス画家にインスピレーションを与えていたのである。現代人にとってこそ、美の代名詞的存在である「ミロのヴィーナス」は、ルネサンス人にとっては、知られていないヴィーナス像であった。ボッティチェリにも、レオナルド・ダ・ヴィンチにも、ラファエロにも、ティツィアーノにも。



さて、今回のブログを振り返ってみると、ブログ記事 その2~3では、1964年の図録によって、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案に関して、学説史的に解説した。その5では、高階秀爾氏の著作にもとづいて、古代ギリシャの「美」の3条件を「ミロのヴィーナス」が満たしており、とりわけコントラポストというポーズに焦点を絞って、ヨーロッパの絵画史において、“ヴィーナス的女神”が具体的にどのように描かれているのかを説明した。
その6~7では、ハヴロック氏の著作、その8~10ではケネス・クラーク氏の著作を紹介した。
その11では、若桑みどり氏が、西洋美術史の主題をヴィーナスとマリアとの対立・統一という図式でわかりやすく、簡潔に論じていたので、紹介してみた。その12では、中村るい氏の古代ギリシャ美術史を概観しながら、「ミロのヴィーナス」を解説してみた。



そして、「ミロのヴィーナス」はもちろんのこと、「メディチ家のアフロディテ」をはじめとするヴィーナス像の源流を西洋美術史において遡ると、クニディアこと「クニドスのアフロディテ」に辿り着くことは、ハヴロック氏が論じた通りである。
こうして「ミロのヴィーナス」を西洋美術史の中に位置づけて、ルーヴル美術館を訪れたなら、また新しい見方ができるのかもしれない。新たな発見があることを期待している。
ルーヴル美術館を鑑賞する際に、このブログ記事が少しでもお役に立てれば幸いである。



ハヴロック氏は、「オリジナルかコピーかという考古学的な問答の対象ではなく、美術作品として偏見なしにミロのヴィーナスを評価したのは、ケネス・クラークただ一人と言ってよいだろう。彼は、この彫刻を、「小麦畑に立つ楡の木」のようだと感じた」と記し、クラーク氏の見識を高く評価した。
(ハヴロック、2002年、113頁。「第4章 その後:クニディアに触発された諸作品」より)
確かに、クラーク氏は、「ミロのヴィーナス」を「小麦畑に立つ楡の木」のようだと譬えたが、「ミロのヴィーナス」は「古代の作品を通じて最も複雑かつ技巧的な産物のひとつ」であり、建築に譬えて言えば、「古典的な効果をもったバロック的な構造物」であると理解した。このように、「ミロのヴィーナス」の後期ヘレニスティックな性格を読み取ったといえる。
そして、「カプアのヴィーナス」のモティーフを発展させて、「古代ギリシャの最後の偉大な作品」が「ミロのヴィーナス」であるともいう。ただ、「カプアのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」では、身体のパーツ間の距離の比例が異なる(クラーク、1971年[1980年版]、119頁~124頁)。
クラーク氏は、「ただ脚に衣を巻きつけてトルソをむき出しにした」ヴィーナス像の系譜として、「テスピアエ人のヴィーナス」、「アルルのヴィーナス」、「カプアのヴィーナス」、そして「ミロのヴィーナス」と想定しているように推察できる。

また、ハヴロック氏が紹介しているノイマー=ファウ氏は、「ミロのヴィーナス」がギリシャ時代のオリジナルだと断言しながらも、紀元前2世紀後半以降作られた他のアフロディテ像と同様に、新しく創り出されたものではなく、「カプアのアフロディテ」に基づいて形が作られたのだろうとしている。そして衣服で半分覆われた「ミロのヴィーナス」は、その前の時期に作られた赤裸々なヌードの「アフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)」に対する反発で、古典期のカプアの持つ引っ込み思案な感じや、内向的な控えめさへの回帰だろうと、ノイマー=ファウ氏は結論付けている(ハヴロック、2002年、112頁)。

また、中村るい氏は、「ミロのヴィーナス」について、美術史学上の様式を頭部はクラシック様式で、首から下はヘレニズム様式という折衷様式であるという。そして「ミロのヴィーナス」が至宝として扱われるのは頭部が残っているからであるとされる。クラシック期からヘレニズム期の、等身大か、それ以上のヴィーナス像の原作で頭部が残っているのは、この「ミロのヴィーナス」しかない。つまり、頭部が残った唯一のオリジナルとして7、稀少価値から評価されている(中村、2017年[2018年版]、200頁)。

中村るい氏は、古代ギリシャ美術の専門家だけあって、ヘレニズム期を代表する3点の彫刻として、「サモトラケのニケ」「ラオコーン」「ミロのヴィーナス」を挙げて解説していた。ということは、ルーヴル美術館の三大至宝とされる「モナ・リザ」「サモトラケのニケ」「ミロのヴィーナス」の3つのうち、2つがヘレニズム期の作であることが再確認できた。

このヘレニズム期に作られた「サモトラケのニケ」と「ミロのヴィーナス」は、ルーヴル美術館では、それぞれ別の展示場であるが、鑑賞のポイントの一つは、ドレーパリーであることが、今回のブログでわかってきた。
中村るい氏によれば、古代ギリシャの一般的な衣装として、麻製の「キトン」があり、その衣のひだは「ドレーパリー」と呼ばれる。「キトン」は麻という素材ゆえ、身体を繊細に包むので、美しいひだができる。「サモトラケのニケ」の場合は、全身をおおっているので、ドレーパリーの錯綜した動きがダイナミックである。「ミロのヴィーナス」の場合、下半身をおおっているので、衣が織りなすひだは、むしろ優雅さに近い。ちなみに、ヴァティカン美術館にある「クニドスのアフロディテ」の場合、向かって右側の壺の上に、穏やかに「キトン」がかかっている。

次回では、「「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む」と題して、「ミロのヴィーナス」についてフランス語で書かれた文献を読んでみたいと考えている。なお、今後もケネス・クラーク氏の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『芸術と文明』『絵画の見かた』、中村るい氏の翻訳したJ.J.ポリット『ギリシャ美術史』など、機会があれば紹介してみたい。

今回の「ミロのヴィーナス」シリーズのブログ記事が、「ミロのヴィーナス」、ひいては古代ギリシャ美術史、西洋美術史をより深く理解するための一助となって頂ければ幸いである。


【このシリーズの写真】



【このシリーズの写真】
【ルーヴル美術館】
【「ミロのヴィーナス」】
【ブーシェ「ダイアナ」】

【ルーヴル美術館】
【「ミロのヴィーナス」】
【ブーシェ「ダイアナ」】





※ブーシェの≪ディアナの水浴≫(ルーヴル美術館) 2004年5月筆者撮影





【このシリーズの表】



【古代ギリシャ美術の発展の2つの体系】
【クラークのヴィーナス論のまとめ表】
【若桑みどりによるマリアとヴィーナスの関係】
【古代ギリシャ美術史に関する表】

【古代ギリシャ美術の発展の2つの体系】

(ハヴロック、2002年、51頁~52頁の記述をもとに筆者作成)












 



 







ギリシャ美術の発展の2通りの体系(枠組み)
項目 クセノクラテス(紀元前3世紀の彫刻家)(大プリニウスの著作『博物誌』に記載) ローマ時代のキケロとクィンティリアヌス
究極の理想 写実性(リアリズム) 威厳と美
作者 プラクシテレス リュシッポス フェイディアス ポリュクレイトス
作品 「クニドスのアフロディテ」 オリュンピアのゼウス像 パルテノンのアテナ像
下り坂の時期 紀元前4世紀後半リュシッポスと画家アペレスの後、ほどなくして停滞 紀元前4世紀


【クラークのヴィーナス論のまとめ表】










































































芸術 クラークの評価 作品
プラクシテレス 肉体の欲望を穏やかに甘美に形象化( 113頁) 脚に衣を巻きつけて彫像の足場を堅固にすることに成功( 119頁) 「クニドスのヴィーナス」「アルルのヴィーナス」(テスピアイのアフロディテ)
後期ヘレニスティックの芸術家 「美」のシンボル( 120頁) 「麦畑に立つ楡の木を想わせる」( 122頁)
最も複雑かつ技巧的な産物のひとつ( 122頁) 古典的な効果をもったバロック的構造物( 122頁) 最も輝かしい人体の肉体的理想のひとつ( 122頁)
「ミロのヴィーナス」
ボッティチェリ ヴィーナスの最大の詩人のひとり( 131頁) 「春」(ゴシック的) 「ヴィーナスの誕生」
レオナルド・ダ・ヴィンチ 生殖的な生命のシンボルとしての表現 生殖のアレゴリーの表現(159頁) 「レダと白鳥」
ラファエロ ヴィーナスの至上の巨匠( 122頁) 古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与( 143頁) デッサンの「ヴィーナス」
ジョルジョーネ 古代彫刻「クニドスのヴィーナス」の地位に匹敵( 153頁) 「眠るヴィーナス」(ドレスデンのヴィーナス)
ティツィアーノ 官能の叙事詩人(ルノワールの主題を先駆) 矩形的なデザインに変更( 168頁) 「水から上るヴィーナス」
ルーベンス 「自然のヴィーナス」の巨匠(182頁) バロックの大家( 186頁) 「ヴィーナスとアレア」
アングル ヴィーナスを解放し「クニドスのヴィーナス」に返す試みを実現した画家( 1196~197頁) 「水から上るヴィーナス」「泉」(美術史上最も名高い裸婦のひとつ)
ルオー 肉体の醜さの探求における最も大胆な先駆者 「クニドスのヴィーナス」の究極的な対立物( 431頁) 「娼婦」




【若桑みどりによるマリアとヴィーナスの関係】

































芸術家 作品名 マリアとヴィーナスの関係

ボッティチェリ
「ラ・プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」 聖母マリアとヴィーナスの一致

ティツィアーノ
「天上の愛と地上の愛」 天上と地上のヴィーナスを一つの画面に描く

ミケランジェロ
「勝利の群像」(アポロン像) ※独特の芸術観~ヴィーナスに興味なし

ブロンズィーノ
「ヴィーナスとアモール(愛の寓意)」 神性を剝ぎ取られたヴィーナス




【古代ギリシャ美術史に関する表】


















































彫刻家および時代 作品 作者・作品の特徴

フェイディアス(クラシック時代[パルテノン期] 紀元前5世紀)
パルテノン神殿の本尊アテナ像 手にニケ像を載せている(182頁)

ポリュクレイトス(クラシック時代[パルテノン期] 紀元前5世紀)
「槍を担ぐ人」(原作紀元前440年頃) クラシック期の男性立像の完成者(150頁) コントラポストのポーズ 『カノン』という題の理論書(151頁)

プラクシテレス(後期クラシック時代 紀元前4世紀)
「トカゲを殺すアポロン」(原作紀元前350年頃) 「ヘルメース」(原作紀元前4世紀半ば) 「クニドスのアフロディテ」(原作紀元前350~340年頃) 有名な主題をひとひねりする作家(123頁)~一種のパロディ(124頁) 少年アポロンは両性具有的(124頁、190頁)/ 紀元後2世紀の旅行家パウサニアス『ギリシャ周遊記』の記述(136頁) 正中線が逆S字(137頁)/ 全裸のアフロディテ像の出現は前代未聞(187頁) 美術表現への大胆な提案(188頁) 通称「カウフマンの頭部」がもっとも原作に近い(188頁~189頁)

リュシッポス(クラシック期末)
「アレクサンドロス大王の肖像」 アレクサンドロス大王の宮廷彫刻家(192頁)

ヘレニズム期(紀元前190年頃)
「サモトラケのニケ」 紀元前190年頃の海戦勝利記念碑 ドレーパリーの錯綜した動きがダイナミック(194頁)

ヘレニズム期(紀元前1世紀~紀元後1世紀
「ラオコーン」(1506年に発見) 「ヘレニズム・バロック」様式の名作(196頁)

ヘレニズム期(紀元前100年頃)
「ミロのヴィーナス」 ギリシャ彫刻の中でいちばん知られている彫刻(198頁) 正中線が逆S字、5つの復元案を紹介(199頁)







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【参考文献】
高階秀爾『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?――ギリシャ・ローマの神話と美術――』
小学館、2014年
C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年
若桑みどり『ヴィーナスの誕生―ルネサンスの女性像』(ジャルパック・センター、1983年)
ケネス・クラーク(高階秀爾・佐々木英也訳)『ザ・ヌード――裸体芸術論・理想的形態の
研究』美術出版社、1971年[1980年版]
ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局、1971年
朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年
中村るい『ギリシャ美術史入門』(三元社、2017年[2018年版])
Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, 1871.
Jean-Jacques Maffre, Que sais-je? L’art grec, Imprimnie des Presses Universitaires de France, 2001.
澤柳大五郎『ギリシアの美術』岩波新書、1964年[1998年版]
朽木ゆり子『パルテノン・スキャンダル』新潮選書、2004年
エルヴィン・パノフスキー(浅野徹ほか訳)『イコノロジー研究――ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』美術出版社、1971年[1975年版]
山岸健『レオナルド・ダ・ヴィンチ考――その思想と行動』NHKブックス、1974年
中山公男『レオナルドの沈黙―美の変貌―』小沢書店、1989年
高階秀爾『近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで(上)(下)』中公新書、1975年[1998年版]
高階秀爾監修『NHKオルセー美術館3都市「パリ」の自画像』日本放送出版協会、1990年
ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年
日本ペイター協会編『ペイター『ルネサンス』の美学』論創社、2012年
若桑みどり『世界の都市物語13 フィレンツェ』文芸春秋、1994年
Walter Pater, The Renaissance : Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC.,1893[2005].

 



中村るい『ギリシャ美術史入門』はこちらから


《「ミロのヴィーナス」その12 中村るい氏の古代ギリシャ美術史》

2019-12-17 18:34:42 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」その12 中村るい氏の古代ギリシャ美術史》

 



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執筆項目は次のようになる。


・【はじめに】
・【中村るいによるギリシャ美術史の時代区分】
・【古代ギリシャと西洋美術】
・【フェイディアスについて】
・【ポリュクレイトスについて】
・【プラクシテレスについて】
・【クラシック時代から後期クラシック時代へ】
・【プラクシテレスと「クニドスのアフロディテ」】

・【ヘレニズム彫刻の代表的な3つの作品】
 ・「サモトラケのニケ」について
 ・「ラオコーン」について
 ・「ミロのヴィーナス」について
・【「ミロのヴィーナス」の特徴と5つの復元案】

 ≪著者のコラムより≫
・【大地母神信仰と「蛇の女神」】
・【古代ギリシャ彫刻の彩色について】
・【中村の「クニドスのアフロディテ」理解の補足】
・【古代ギリシャの男と女】
・【古代ギリシャの衣装について】

・【著作へのコメント】
・【著作に対する感想】
・【古代ギリシャ美術史に関する表】







【はじめに】


著者中村るい氏は、東京芸術大学大学院修士課程を修了し、1995年、ハーバード大学大学院博士課程を修了し(Ph.D.)、その著作『ギリシャ美術史入門』(三元社、2017年[2018年版])の執筆当時、高知大学准教授の職にあり、専門はギリシャ美術史である。経歴から明らかなように、ギリシャ美術史研究の第一人者である。
前述したように、「ミロのヴィーナス」については、「第11章 クラシック後期~ヘレニズム時代」において、著者も5頁にわたって記述している(198頁~202頁)。

「ミロのヴィーナス」は、おそらくギリシャ彫刻の中でいちばん知られている彫像かもしれないといい、ルーヴル美術館の必見の作品として挙げている。
 ただ、この本には、“衝撃的な”ことが書かれている。すなわち、「ミロのヴィーナス」は、美術史学の観点からは、決して傑作とはいえないというのである。また、「ミロのヴィーナス」の美しさを一般的に解説する際に、「黄金分割」という概念が使われているが、この語は近代に生まれた概念であり、ギリシャ美術史では、ほぼ使われることのない言葉だそうだ(200頁~201頁)。

今回のブログでは、『ギリシャ美術史入門』(三元社、2017年[2018年版])の内容を、古代ギリシャの彫刻家および「ミロのヴィーナス」を中心に紹介してみたい。(以下、敬称省略) 



【中村るいによるギリシャ美術史の時代区分】


「はじめに」によれば、本書はだいたい時代を追って、青銅器時代からヘレニズム時代までを扱っている。この時代を次の6つの時代に区分している。
・青銅器時代(前3600~1100年頃)
・いわゆる<暗黒時代>(前1100~900年頃)
・幾何学様式時代(前900~700年頃)
・アルカイック時代(前700~480年)
・クラシック時代(前480年~323年)
・ヘレニズム時代~ローマ時代(前323年~31年)
そして、巻末の「ギリシャ美術史年表」(209頁~216頁)では、クラシック時代をさらに4つの時期に細分している。
・クラシック時代(厳格様式期)(前480年~450年)
・クラシック時代(パルテノン期)(前450年~430年)
・クラシック時代(豊麗様式期)(前430年~400年)
・後期クラシック時代(前4世紀)
「ギリシャ美術史年表」(209頁~216頁)には、次のように時代区分をしている。
・青銅器時代(前3600~1100年頃)
・いわゆる<暗黒時代>(前1100~900年頃)
・幾何学様式時代(前900~700年頃)
・アルカイック時代(前700~480年)
・クラシック時代(厳格様式期)(前480年~450年)
・クラシック時代(パルテノン期)(前450年~430年)
・クラシック時代(豊麗様式期)(前430年~400年)
・後期クラシック時代(前4世紀)
・ヘレニズム時代~ローマ時代(前323年~)

それでは、各時代の特徴を簡潔に記しておこう。
・青銅器時代(前3600~1100年頃)
 ギリシャ美術史では、青銅が使われ始め、鉄器が登場するまでの時代を青銅器時代と呼ぶ。クレタ文化やミュケナイ文化が繁栄した時期にあたる。
・いわゆる<暗黒時代>(前1100~900年頃)
 青銅器時代末期に、社会は徐々に変化し、宮殿中心の統治システムは機能しなくなってしまい、青銅器文化は終焉を迎える。鉄器の使用が始まり、火葬の習慣が導入され、歴史学では、初期鉄器時代と呼ぶ。
・幾何学様式時代(前900~700年頃)
 <暗黒時代>の混乱期を経て、幾何学的な文様をコンパスと定規を使って描くことが始まる。美術史学では、幾何学様式時代と呼ぶ。末期に都市国家(ポリス)が現れる。
・アルカイック時代(前700~480年)
 都市国家(ポリス)の形成からペルシア戦争終了までの時代で、アテネ社会は貴族政から民主政へ移行する。
・クラシック時代(前480年~323年)
 ペルシア戦争終了からアレクサンドロス大王の没年までの時期である。
  クラシック時代はさらに次の4つの時期に細分できる。厳格様式期(前480年~450年)、パルテノン期(前450年~430年)、豊麗様式期(前430年~400年)、後期クラシック時代(前4世紀)
・ヘレニズム時代~ローマ時代(前323年~31年)
  アレクサンドロス大王の築いた広大な版図が、後継者らによって分割され、その後、アクティウムの海戦を経て、ローマの軍門に降るまでの時代をさす。

「おわりに」にも明記してあるように、エーゲ世界からアルカイックおよびクラシック期までの美術を中心にページをさき、ヘレニズム時代の美術は、それほど大きくは取り上げていない。その理由は、ヘレニズム美術はアルカイック美術とクラシック美術の「形の記憶」を受け継ぎ、そのうえで大胆に変化させた美術であり、まず、アルカイックとクラシック期をおさえたかったからであるという。両時期の基本的な流れがわかると、ヘレニズムの多様な世界が明瞭に見えてくるというのである(中村るいの本来の研究テーマはヘレニズム絵画史で、今後機会があればヘレニズム世界についてもまとめたいと付言している)。
 
中村るいは、以下、第1章では、ルネサンスや近代の美術と古代美術の関係をひもとき、続いて、ギリシャの各時代の作品のあり方を考えている。
(中村るい『ギリシャ美術史入門』三元社、2017年[2018年版]、11頁~12頁、207頁、209頁~216頁)



【古代ギリシャと西洋美術】


「第1章 古代ギリシャと西洋美術」では、古代ギリシャが西洋文化の源流であることは、いわば自明の理であるが、美術の分野では、実際はどのような点にそれが見られるのか。
中村るいは、まず最初に、「ボッティチェリの≪ヴィーナスの誕生≫と古代のヴィーナス像」と題して、15世紀後半のルネサンス時代に制作されたボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」(1485年頃、ウフィツィ美術館[フィレンツェ])という西洋美術の傑作の一つから話を始める(ここらあたりは、高階秀爾本と似ており、いわば西洋美術史の“定型”といってよい)。

題名の通り、画面中央の貝の上に立つ、生まれたばかりの裸体の女神に注目する。ギリシャ神話の愛と美の女神が海の泡から生まれたことをはじめ、この絵に登場する神々のギリシャ神話的背景を解説していく。
そして、改めて、この絵に描かれたヴィーナス像に注目している。このヴィーナスはどこか遠くを見るようなまなざしをして、右手で胸を隠し、左手は長い髪とともに下腹部を隠すポーズをとっている。
両手で胸と下腹部を隠すというポーズは、実は古代ギリシャのヴィーナス像によく登場することを強調している。「はじらいのポーズ」と呼ばれ、ヴィーナス定番のポーズである。
このポーズのヴィーナス像は、古代から複製品が多数作られ、「ローマンコピー」と総称される。
例えば、「カピトリーノのヴィーナス」(ローマンコピーで、原作は前2世紀、大理石、カピトリーノ美術館[ローマ])、「メディチのヴィーナス」(ローマンコピーで、原作は前2世紀、大理石、ウフィツィ美術館[フィレンツェ])も、そうである。
カピトリーノの方は、ヴィーナスの左足の脇に背の高い水がめがあり、衣装がかけられている。これは水浴のために衣装を脱いだという設定であると、中村は説明している。
メディチの方は、ルネサンス期に権勢をふるったメディチ家が所有していたので、このように呼ばれる。この像は、右手の角度がちょっと不自然である。というのは、この右腕は、後世に修復されたが、それがあまりうまくなかったからである。そして、こちらのヴィーナス像には、足元には水がめではなく、イルカに乗った幼児エロス(ヴィーナスの息子)が添えられている。

ボッティチェリは、このように胸や下腹部を隠す古代のヴィーナス像のタイプを目にしていたに違いなく、古代彫刻をヒントに「ヴィーナスの誕生」の構図を考案したと中村も解説している。
ただし、古代彫刻の丸写しではなく、ボッティチェリのヴィーナスは、首がとても長くなで肩で、左肩はさらに下がっている。その理由は、ボッティチェリが、ゴシック時代の描線による抒情的な表現の伝統を受け継いで、デフォルメした身体を生み出したからであるという。

また、20世紀最大の画家ともいわれるピカソの作例にも、古代ギリシャ彫刻の影響が認められるそうだ。その代表作「アヴィニヨンの娘たち」(1907年、油彩、ニューヨーク近代美術館)がそれである。この絵画は、1907年に制作され、「立体主義(キュビスム)」の手法で描かれた最初の絵画である。ピカソの「薔薇色の時代」の頃、古代ギリシャの美術に強く惹かれ、1905年~1906年頃、ルーヴル美術館のギリシャ彫刻のコレクションを参考にしたようだ。
この「アヴィニヨンの娘たち」の人物表現は、一般にアフリカの部族の仮面がヒントになったとされるが、その習作の1点を見ると、ギリシャ・アルカイック期の人物像「ディピュロンの首」(前6世紀、大理石、アテネ国立考古学博物館)に非常に似ていると指摘している。
また、ピカソは、ギリシャ神話など主題の面にも惹きつけられ、「私の辿った道を地図に印を付け一本の線で結べばミノタウロスになるだろう」という言葉を残している。ピカソは自らを牛頭人身の怪物ミノタウロスと重ね合わせ、自画像を制作している(ピカソ「ミノタウロス」1933年、木炭、ピカソ美術館[パリ])。(中村、2017年[2018年版]、14頁~21頁)。



【フェイディアスについて】


ポリュクレイトスと同世代の彫刻家フェイディアスについて、紹介しておく。
クラシック盛期にあたるパルテノン時代、それは、彫刻家フェイディアスを抜きにしては考えることができない。そしてパルテノン時代を抜きにしては、ギリシャ文化を考えることができない、それほど重要な時代であると中村は主張している。

パルテノン神殿(紀元前447~432年、大理石、アテネ)は、時の政治家ペリクレスが提案し、民会で決議され、紀元前447年に建造が始まる。総監督となったのが、フェイディアスであった。ペリクレスの友人で建築家兼彫刻家であった。パルテノン神殿の美しさは、幾何学的な比例であるといわれている。
パルテノン神殿の彫刻は、従来と違う新しい特色があるという。パルテノン以前のギリシャの神殿装飾には、様々なモティーフや神話が並列的に取り上げられた。多様な神話で飾られ、バリエーションが豊かであった。
一方、パルテノン神殿では、統一された神話主題があり、その主題は女神アテネの称讃であった。本尊は女神アテナ像であり、破風彫刻やフリーズ彫刻にも女神アテナの誕生などが主題となっている。
ちなみに、メトープ彫刻は、「オリュンポスの神々と巨人族の戦い」「ギリシャ人とアマゾン族の戦い」「トロイ陥落」「ラピタイ人とケンタウロスの戦い」といった四大戦闘テーマで、この4テーマは公共建築物で定番の戦闘主題であった(「トロイ陥落」以外の3テーマは文明VS野蛮の対比であった)。
このように、女神アテナこそが都市国家アテネへ勝利をもたらした守護女神であった。都市国家アテネは、守護女神に対して、謝意を表するために神殿を奉献し、女神を称讃した。

パルテノン神殿の西破風のテーマは、「女神アテナと海神ポセイドンの統治権争い」である。ポセイドンとアテナのどちらがアッティカ地方を統治するかで争い、女神アテナが奇跡(アクロポリスの丘にオリーブの木を生やしたこと)を起こして、統治権を確実にした、というエピソードを表している。
その西破風の中央部分に、ポセイドンの背後に控えていた妻、海の女神アンフィトリテの頭部と推測されている頭部が残っている(通称「ラボルドの頭部」。紀元前438~432年頃、大理石、ルーヴル美術館[パリ])。
この女神は、クラシック期らしい、重量感のある、真摯な表情の女神である。このように、紀元前5世紀のパルテノン彫刻では、神々は超然としているそうだ。
一方、紀元前4世紀になると、彫刻家プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」像(とくに通称「カウフマンの頭部」ローマンコピー、原作紀元前350~340年頃、大理石、ルーヴル美術館[パリ])には、微かな誘いの表情が加わることに気づく。

東破風の「女神アテナの誕生」の場面には、向かって右から2番目の女神アフロディテは、中央で起こっている「アテナの誕生」をまだ知らずか、ゆったりくつろいだ姿で彫られている(東西破風の構成は、中央で主要な出来事が起こり、それが両端へと徐々に伝わる、時間の流れも表現されているという)。
「ディオネとアフロディテ」(パルテノン東破風彫刻、紀元前438~432年頃、大理石、大英博物館[ロンドン]、現存のフリーズの約3分の2は大英博物館が所蔵)は、瑞々しい肉体が息づき、それを包む衣装のひだ(ドレーパリー)は、山肌を流れる滝のように渦巻き、変幻自在に展開している。

【ポリュクレイトスについて】


中村は、ポリュクレイトスをクラシック期の男性立像の完成者として理解している。
著述家プリニウスによると、「円盤投げ」(ローマンコピー、原作紀元前450年頃、ローマ出土、大理石、国立博物館[ローマ])という作品で有名なミュロンは、彫刻家アゲラダスの工房に弟子入りし、紀元前480~440年頃が活躍期である。同じ工房には、ミュロンより少し年下のポリュクレイトスも弟子入りしていた。

ポリュクレイトスは、のちに「槍を担ぐ人」(ローマンコピー、原作紀元前440年頃、イタリア出土、大理石、国立考古博物館[ナポリ])と呼ばれる立像で、歴史に名を刻むことになる。
「槍を担ぐ人」は自然に立つ姿で、しかも先輩のミュロンがなしとげた「動き」と「安定感」を兼ね備えている。立つ姿は運動中より、じつは難易度が高いポーズであるといわれている。

「槍を担ぐ人」は、対角線方向でバランスをとった「X字のポーズ」で立っている。その像は、一歩足を前に踏み出し、体重は右足にかかっている。体重のかかった右足の腰骨は上がり、連動して右肩は下がる。体重のかかっているほうの足を「立脚(支脚)」と呼ぶ。
一方、体重のかかっていない左足は腰骨が下がり、左肩は上がるが、体重のかかっていないほうの足を「遊脚」と呼ぶ。
身体は立脚と遊脚でバランスをとり、右肩と左肩もバランスをとる。これは左右対称ではなく、対角線の方向にバランスをとることになる。このポーズは、まるでアルファベットのXの字のようになるので、「X字のポーズ」と呼ばれている。
 
そして、このポーズは、美術史学では、「片足重心」または「コントラポスト」と呼ばれるポーズである。ルネサンス時代のミケランジェロも、その後の彫刻家も、男性立像の基本ポーズとして学んだ。それは紀元前5世紀のポリュクレイトスによって作り出されたものであった。
(高階秀爾が「ミロのヴィーナス」を考える際の「美」の第2条件として挙げた「動き」の導入で言及したのも、「コントラポスト」であったことを想起したい。高階、2014年、22頁~24頁。ハヴロック、2002年、28頁)。

ポリュクレイトスは、このポーズを自ら理論的に説明し、『カノン』という題の理論書を執筆した(カノンには、「基準」または「規範」という意味がある)。
そしてポリュクレイトスの作品「槍を担ぐ人」も、「カノン」と呼ばれるようになった。美術理論と連動した作品である。

なお、理論書『カノン』は他の著述家に引用され、断片的に現代へ伝わった。例えば、紀元後2世紀の医師ガレノスの医学書の中に引用された。具体的には、次のようにある。
「ポリュクレイトスはその著作の中で、身体のすべての均衡をわれわれに完全なかたちで教示したうえで、理論の要求のとおりに像を作ることによって、実技によって理論を確認し、そして著作に名づけたように、『カノーン』という名前をその像にも与えたのである。
」(ガレノス『ピッポクラテスとプラトンの学説』第5巻第3章)。

彫刻家ポリュクレイトスが、クラシック期の男性立像の規範の完成者として、自他とも認める存在だったことがわかる。人間の身体の美しさは身体が理想的な「構造」をもつ必要があり、その構造には身体の各部分の「均衡」が深く関わっているということを、ポリュクレイトスは主張している(中村、2017年[2018年版]、149頁~153頁)。

【プラクシテレスについて】


アポロン像としては、「ベルヴェデーレのアポロン」(ローマンコピー、原作紀元前330年頃、大理石、ヴァティカン美術館[ローマ])が著名である。ヴァティカン美術館に、「ベルヴェデーレの中庭」と呼ばれる八角形の中庭があり、そこに設置されている。
神アポロンは、ギリシャではつねに若々しく、青春の美をあらわし、理想的な形姿をもつ存在であるが、「ベルヴェデーレのアポロン」は、弓を手に遠くへ視線を投げる姿である。紀元前4世紀の彫像を原作としている。
今では凡庸な彫像と見なされているが、ゲーテがこの像を激賞したことからも明らかなように、18世紀にはこの作品は傑作とされていた。

<プラクシテレスの「トカゲを殺すアポロン」>


アポロン像としては、「ベルヴェデーレのアポロン」とは別のタイプの図像がある。プラクシテレスの「トカゲを殺すアポロン」(ローマンコピー、原作紀元前350年頃、イタリア出土、大理石、ルーヴル美術館[パリ])がそれである。
一般的に、アポロンは大蛇(または竜)ピュートンを退治し、デルフォイの神託の神となったことから、「アポロンの竜退治」の図像で知られている。
しかし、後期クラシック時代(紀元前4世紀)になると、このような有名な主題をひとひねりする作家も出てきた。それが彫刻家プラクシテレスであった。彼は、ほっそりした少年神アポロンが、木の幹をよじ登るトカゲを、恐る恐るサンダルで叩こうとする姿で表した。竜退治で有名な神アポロンが、トカゲに手を焼いているという、一種のパロディであると中村は解説している
そしてこの彫像で、少女のようにほっそりした少年アポロンは、両性具有的で、性の境界がゆらいでいる。そして、輪郭線が柔らかで、両性具有的な形態は、プラクシテレスの特徴の一つであるとする(中村、2017年[2018年版]、123頁~124頁、190頁)。

<プラクシテレスの「ヘルメース」>


オリュンピアのゼウスの聖域は長い間機能したといわれる。旅行家パウサニアスが紀元後2世紀にオリュンピアにやってきた時、聖域でもっとも古いヘラ神殿は、神殿というより、宝物庫(またはギャラリー)のような場になっていた。パウサニアスは、「プラクシテレスの作品、幼児ディオニュソスを抱く大理石のヘルメースを含む彫像が設置されているのを見た」と書いている(『ギリシャ周遊記』第5巻17章3節)。
さて、1877年、ドイツ隊が、このパウサニアスの記述に出てくる場所で「ヘルメース像」を発掘した。通称「プラクシテレスのヘルメース像」(原作紀元前4世紀半ば、ヘレニズム時代のコピー、大理石、オリュンピア考古博物館)である。

もともと、ヘルメースが幼児ディオニュソスを抱いて、あやしているところを表している。ヘルメースの右手は失われているが、ブドウの房を持っていたとされる。酒神ディオニュソスはまだ幼児なのに、早くもブドウに関心を示すという、プラクシテレスらしい粋な意匠がみられると中村はみている。
また、図像的には、左腕は衣をかけた樹幹に載せ、体重をかけているので、身体の中心を通る正中線が見事に逆S字を描いているのも特徴である。

石材は、半透明の大理石を磨き上げており、若々しいヘルメースのしなやかな身体を強調している。表情はソフトフォーカスで、全体の柔らかな印象を演出している。さらに、樹幹にかけられた衣はとても写実的で、「ウルトラ・リアリズム」と称した研究者もいる。
ただし、このように徹底したなめらかさと写実表現をもつこの像が、プラクシテレスのオリジナルか、それとも摸刻像かは、未だ決着がついていないようだ。
ただ、この像の背面は、全面ほどは仕上がっておらず未完であること、また樹幹と左腰をつなぐ水平方向の支えは、一般的にギリシャ彫刻では類例が見当たらないことから、紀元前4世紀のオリジナル作品と見ることは難しいという中村、2017年[2018年版]、136頁~139頁)。

紀元前4世紀とは、紀元前5世紀のクラシック期を受けて、芸術家たちが様々な新しい表現を目指した時代であった。それは、ルネサンス時代のあとのマニエリスムの画家が様々に新たな表現を模索したようであると中村は喩えている。「トカゲを殺すアポロン」について、中村は、表現として、性の境界がゆらぐような表現は、これまでにない新しい美の提案であったと私見を述べている(中村、2017年[2018年版]、121頁~124頁、139頁)。




「クニドスのアフロディテ」

【クラシック時代から後期クラシック時代へ】


それでは、中村るいは、ギリシャ美術史において、プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」の登場についてどのように考えているのだろうか? この問題について考えてみたい。
巻末の「ギリシャ美術史年表」を見てもわかるように、プラクシテレスが活躍したのは、紀元前4世紀の後期クラシック時代であった。紀元前4世紀の歴史的出来事として、
・紀元前399年に哲学者ソクラテスがアテネで処刑されたこと
・紀元前336年にアレクサンドロスがマケドニア王に即位したこと
を挙げている。
プラクシテレスの彫刻作品は、この2つの出来事の間に作られている。その代表作については、次の作品が年表に記されている。
・紀元前350年頃 プラクシテレス「トカゲを殺すアポロン」
 (ローマンコピー、原作紀元前350年頃、イタリア出土、大理石、ルーヴル美術館[パリ])
・紀元前340年頃 プラクシテレス「ヘルメース」
 (ヘレニズム時代のコピー、原作紀元前4世紀半ば、大理石、オリュンピア考古博物館)
・紀元前340年頃 プラクシテレス「クニドスのアフロディテ」
 (ローマンコピー、原作紀元前350~340年頃、大理石、ヴァティカン美術館[ローマ])
(中村、2017年[2018年版]、215頁)

中村るいは、「クニドスのアフロディテ」について「全裸の女神像の登場」と題して論じているが、目次に立ち返って、このアフロディテ像がギリシャ美術史に登場してくる経緯を説明しておこう。
「第11章 クラシック後期~ヘレニズム時代」の各節を次のように構成している。
・内戦の時代――社会の変質
・アテナ・ニケ神殿
・ニケの戦勝記念モニュメント
・全裸の女神像の登場
・≪トカゲを殺すアポロン≫(ブロンズ像)の発見

各節の内容を要約すると、次のようになる。
「内戦の時代――社会の変質」においては、西洋文化における偉大な成果の一つであるパルテノン神殿は紀元前432年に完成するが、翌年紀元前431年から、ペロポネソス戦争(都市国家のアテネVSスパルタの戦い)が勃発し、30年間の内戦が続く。
この戦争の勃発期に、アテネで伝染病が蔓延し、その人口は3分の2にまで激減し、パルテノン神殿の建造の推進役だった政治家ペリクレスも罹患して死去する。アテナイ社会は大きく変質する。
この時期を代表する彫刻として、次の2点を挙げている。
① アクロポリスに建造されたアテナ・ニケ神殿のレリーフ
とりわけ、欄干浮彫の「サンダルの紐をとくニケ」
(紀元前420年頃、大理石、アクロポリス美術館[アテネ])
② 「パイオニオスのニケ」(パイオニオス作の「ニケの戦勝記念モニュメント」)
(紀元前420年頃、大理石、オリュンピア考古博物館)

① のアテナ・ニケ神殿は、30年間のペロポネソス戦争の休戦期に、アテナ・ニケを祀る
神殿として建造された。この神殿は、巧緻な彫刻で飾られているので、「宝石箱」とも呼ばれている。その彫刻装飾の中でも特に名高いのが、「サンダルの紐をとくニケ」である(実は、サンダルの紐をといているのか、結んでいるのかははっきりせず、「サンダルの紐を結ぶニケ」と表記されている場合もあるそうだ)。
「ニケ」は、「勝利」の擬人像である。ニケ(Nike)を英語では「ナイキ」と発音し、スポーツ用品のブランド名にもなっていることは周知のところである。
ちなみにパルテノン神殿の本尊アテナ像は、手にニケ像を載せている。ニケを手に載せるというイメージは、おそらく彫刻家フェイディアスが新たに創造した表現と考えられている。
さて、「サンダルの紐をとくニケ」像で目をみはるのは、衣が織りなす優雅なひだ(ドレーパリー)である。身体を豊かに包み、衣の下に息づく肌が、ドレーパリーに微妙な変化をつけている。前屈みの姿勢をとっているので、その衣裳は複雑なドレーパリーになっており、これを彫るには、高度な技術が必要とされる。

ところで、もう1点の「パイオニオスのニケ」は、9メートルの台座の上に設置された奉納像である。この像は、女神ニケが勝利をもたらす瞬間を魅惑的に表している。ニケは真正面からの風を受けながら、降り立とうとしている像で、足元にはゼウスの象徴のワシが彫られている。
このニケの衣も、身体にぴったりはりつき、まるで着衣のまま水に飛び込んだ時のように、身体を浮き上がらせている。
このような表現は、「濡れた衣」(ウェット・ドレーパリー)と呼ぶ(ケネス・クラークも、この「濡れた衣」(draperie mouillée)という芸術表現に注意を促している[クラーク、1971年[1980年版]、104頁、133頁、147頁])。

パルテノン後のギリシャ彫刻では、とくに女性像にウェット・ドレーパリーが目立つようになる。それは女神も含めて女性の姿をより魅惑的に、また官能的に表現しようとする志向をあらわしていると中村るいは捉えている(蛇足だが、「パイオニオスのニケ」は、2004年の「アテネ・オリンピック」のメダルのデザインにも登場したそうだ)。
そして、その後、紀元前4世紀になると、ウェット・ドレーパリーはさらに透明になり、ついに全裸の女神像「クニドスのアフロディテ」(ローマンコピー、原作紀元前350~340年頃、大理石、ヴァティカン美術館[ローマ])が登場することになると中村るいは理解している。紀元前4世紀の革命的な彫刻家プラクシテレスがそれを断行したというのである。




ここで、図式的に整理すると、次のようになる。
クラシック時代(豊麗様式期)(紀元前430~400年) 
  ・紀元前420年頃 「サンダルの紐をとくニケ」の「濡れた衣」
  ・紀元前420年頃 「パイオニオスのニケ」の「濡れた衣
  ⇓
 後期クラシック時代(紀元前4世紀)
  ・紀元前340年頃 プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」

 「濡れた衣」のニケ像 ⇒ 全裸のアフロディテ像

(中村るい『ギリシャ美術史入門』三元社、2017年[2018年版]、180頁~188頁)







【プラクシテレスと「クニドスのアフロディテ」】


その作品が、等身大より少し大きい「クニドスのアフロディテ」であった。
この像によって、プラクシテレスの名を高めたといわれる。
彫刻家プラクシテレスは、少なくとも3代続く彫刻家一家である。父親も息子もそうだった。父親は優美な作風で知られ、プラクシテレスはそれを受け継ぎ、さらに自由な視点で彫刻を作った。とくに大理石像を得意とし、約40点が記録に残っている。
そして当時の著名な画家ニキアスに、彫像の着彩を依頼して仕上げることを好んだといわれる(この点、「コラム14 彫刻への彩色」(178頁~179頁)。

さて、「クニドスのアフロディテ」に関しては、ハヴロックも言及していたように、プリニウス(『博物誌』第36巻20章)が、面白いエピソードを伝えている。すなわち、プラクシテレスは2体のアフロディテ像を制作したが、一方は着衣のアフロディテであり、もう一方は全裸のそれであった。コス島の住民は、伝統的な着衣像のほうを選び、小アジア半島西海岸のクニドスの住民は全裸像を選んだと記す。

中村はこのエピソードを紹介して、「クニドスのアフロディテ」がギリシャ美術史上、どのような歴史的意義をもっていたかについて、次のように解説している。少々長くなるが、中村の見解を知るには大切な箇所なので、引用しておく。

「この全裸のアフロディテ像の出現は、ギリシャ美術の歴史上、前代未聞の事件でした。それまで全裸の女神像は作られたことがなかったのです。端的にいえば、女神を全裸にすることはタブーでした。先に見たように、パルテノン時代の後、前420年代以降の彫刻には、「濡れた衣(ウェット・ドレーパリー)」という限りなく透明に近い衣装が登場しました。しかし、衣をまとっています。ヌードではありません。この伝統を打ち破ったのが、プラクシテレスでした。
 それは挑発的というか、美術表現への大胆な提案です。
 ≪クニドスのアフロディテ≫の原作は、残念ながら消失しましたが、画家ニキアスの着彩で、頬が上気したように染まり、「しっとりと濡れた目は喜びと歓迎の意をあらわしていた」(ルキアノス『肖像』6章)と伝えられます。≪クニドスのアフロディテ≫の頭部については、通称≪カウフマンの頭部≫(図99)がもっとも原作に近いといわれますが、なるほど、そこには微かな誘いの表情を見ることができます。ただ決して露骨な表情ではありません。
 ≪クニドスのアフロディテ≫は円形神殿に設置され、あらゆる方向から眺められ、称讃されました。そのスキャンダラスな肢体を一目見ようと、遠路はるばる旅行者がやってきて、中には、神殿が夕刻閉まった後、ひそかに神殿に残り、大理石の女神を抱擁して一夜を過ごした男性もいたことが記録に残っています」(中村、2017年[2018年版]、187頁~189頁)。

ここで、中村が叙述していることを箇条書き風に抽出してみよう。
・ギリシャ美術史における「クニドスのアフロディテ」像の歴史的意義
・「クニドスのアフロディテ」の原作は消失したこと
・画家ニキアスによって彩色されていたこと
・ルキアノスの記述によって、この像の様子が窺い知れること
 (ハヴロックも言及していた)
・この像の頭部は通称「カウフマンの頭部」がもっとも原作に近いとされていること。
そこに中村は、「微かな誘いの表情」を読み取っていること。
・「クニドスのアフロディテ」は円形神殿に設置されたといわれていること。
・後世の旅行者が、この神殿を見学に来て、この女神像と一夜を過ごした記録があること。

※なお、通称「カウフマンの頭部」は、ローマンコピーで、原作は紀元前350~340年頃の大理石製で、ルーヴル美術館(パリ)所蔵である」(中村、2017年[2018年版]、189頁)。

この中村の叙述で一番重要なことは、ギリシャ美術史において、「クニドスのアフロディテ」像が持つ歴史的意義を述べていることである。すなわち、ギリシャ美術では、従来、女神を全裸像で作ることはタブーであったので、この全裸のアフロディテ像の出現は、前代未聞の事件であったと中村は捉えている。ギリシャ彫刻で女神は着衣像が伝統的で、パルテノン時代の後、紀元前420年代以降の彫刻には、「濡れた衣(ウェット・ドレーパリー)」の像が現れたものの、ヌードではなかったが、この伝統をプラクシテレスが打ち破った。それは美術表現への大胆な提案であった。




【ヘレニズム彫刻の代表的な3つの作品】


中村は、ヘレニズム彫刻として代表的な次の3点の彫刻を解説している。
① 「サモトラケのニケ」(紀元前190年頃、サモトラケ島出土、大理石、ルーヴル美術館)
② 「ラオコーン」(紀元前1世紀~紀元後1世紀、大理石、ヴァティカン美術館)
③ 「ミロのヴィーナス」(紀元前100年頃、大理石、ルーヴル美術館)

「サモトラケのニケ」について


「サモトラケのニケ」は、「パイオニオスのニケ」と同様、戦勝記念碑として設置された。該当する戦争は紀元前190年頃のシリア軍とロドス島(エーゲ海南東部の島。トルコの南西岸沖にある。クニドスの沖の島)との海戦であるようだ。勝利したロドス島の人々が記念碑を奉納したと考えられている。
この女神ニケ像はいま、船の舳先に舞い降りたところである。そしてこの舳先が台座となっている。この像は、ルーヴル美術館の階段の踊り場に設置されている。
大きな翼を広げ、衣装が潮風を受けて、たくましい身体にまとわりついている。ドレーパリーが躍動的である。「パイオニオスのニケ」は、透明に近いドレーパリーであったが、それより衣は少し厚く、その下の肉体はより力強い。着地の時に起こる逆風も足元に表現され、ドレーパリーの動きがダイナミックである。
このようなヘレニズム盛期の様式は、ハヴロックも言及していたように、「ヘレニズム・バロック」と呼ばれている。中村は、その特徴として、強靭な肉体と躍動的なドレーパリー、そして翼の勢いの表現を挙げている(中村、2017年[2018年版]、194頁~196頁)。

「ラオコーン」について


その「ヘレニズム・バロック」様式の名作が「ラオコーン」である。これはトロイ戦争にまつわる一場面を表現している。
予知の能力を備えたラオコーン(トロイの神官)は、ギリシャ側の「木馬」の策略を見抜いたところから、悲劇が始まった。神々は、すでにギリシャ側の勝利を決めていたので、ラオコーンの口封じのため、大蛇を送り込み、息子もろとも殺害したと伝えられる。
その彫像を見ると、ラオコーンは、脇腹を蛇に咬みつかれ、その顔は苦痛でゆがみ、身体は向かって左上方へねじりあげている。向かって右側の年上の息子は、助けを求めて必死に父親を見つめているが、まだ意識がある。他方、左側の弟はすでに気を失っている。何とも痛ましい光景である。
この「ラオコーン」という群像が発見されたのは、ルネサンス期の1506年1月のことである。発見のニュースを耳にしたミケランジェロは、すぐその場にかけつけ、デッサンを行なったそうだ。そして、その後の制作に大きな影響を与えた。とくに1508年から制作が始まるシスティナ礼拝堂の天井画には、その影響が見られる。たとえば、天井画「水の分離」の周囲の青年裸体像(1511~1512年、ヴァティカン美術館)がそうである(中村、2017年[2018年版]、196頁~197頁)。




「ミロのヴィーナス」について


ルーヴル美術館に入った「ミロのヴィーナス」


19世紀前半に、「ミロのヴィーナス」はルーヴル美術館に入るが、その歴史的背景には、欧米のギリシャ遺跡に対する関心の高まりがあった。
18世紀の啓蒙思想が、古代ギリシャ・ローマに思想の根拠を求めたことも手伝い、ギリシャ熱が高まり、遺跡の発掘が競って行われるようになる。
古美術品を見つけたギリシャ人は地元の有力者に届け、そしてその管轄下のヨーロッパ列強の総領事に伝えられた。その後、美術品は国外にもち出され、列強各国の美術館に収まった。
「ミロのヴィーナス」(紀元前100年頃、大理石、ルーヴル美術館[パリ])も例外ではない。1820年にエーゲ海のメロス島(フランス名ミロ島)で出土したものが、翌年1821年ルーヴル美術館に入った。

「ミロのヴィーナス」のオリジナル性と稀少性


「ミロのヴィーナス」像の頭部は、とても小さく、さらに目と口許が小ぶりである。特定の感情をあらわしているようには見えず、感情を抑制した、ニュートラルな表情である。これこそが、クラシック期の神々の表情で、頭部はクラシック様式である。それに対して、首から下は、豊かな逆S字のひねりに見られる通り、ヘレニズム様式である。美術史学の様式からいえば、クラシック様式とヘレニズム様式の折衷様式であると中村るいは規定している。

このブログの【はじめに】にも記したように、中村るいは、「ミロのヴィーナス」は美術史学の観点からは、決して傑作とはいえないと主張している。その理由について、次のように述べている。
「クオリティーの点では、さきの≪サモトラケのニケ≫[図102]のほうがずっと上でしょう。ではなぜ、≪ミロのヴィーナス≫が至宝として扱われるのか。美術史の立場からいえば、頭部が残っているからです。クラシック期からヘレニズム期の、等身大かそれ以上のヴィーナス像の原作で、頭部の残っているものは、この像しかありません。これ以外で頭部が残っているのは、すべてコピー像です。つまり、頭部が残った唯一のオリジナルとして、稀少価値から評価されているのです。」(中村、2017年[2018年版]、200頁)

このように、中村は、美術史の立場から、「ミロのヴィーナス」の至宝性の理由を解説している。すなわち、クラシック期からヘレニズム期において、等身大以上のヴィーナス像の原作で、頭部が残っているのは、「ミロのヴィーナス」像しかないというのである。つまり、「ミロのヴィーナス」は、当該期において頭部が残った唯一のオリジナルであるという理由から、至宝とされるようだ。いわば、美術史はその稀少価値性を高く評価しているとのことである(そして、クォリティーでは、同じくルーヴル美術館にある「サモトラケのニケ」がずっと上であることも中村は付言している)。

なぜ「ミロのヴィーナス」が至宝として扱われるのか。この問いに対して、中村は、いわば“稀少性の原理”から解説した。中村は、このように主張した場合、2つの反論を想定している。
一つは、「ミロのヴィーナス」像には、「全体を包む独特の空気感」をまとっており、これが「傑作」の証だとする意見である。これに対して、空気感の読み取りは非常に主観的で、これだけで傑作と言い切るのは無理があると切り返す。
もう一つは、「ミロのヴィーナス」には、「黄金分割」が使われているので、絶妙なバランスの上に成り立っているから、傑作であるとする見方である。この鑑賞法では、この「黄金分割」という概念が問題であると主張している。

このブログの【はじめに】にも触れたように、ギリシャ美術史では、「黄金分割」はほぼ使われることのない言葉であるそうだ。しかし、学界以外では、「ミロのヴィーナス」を説明するときにも、「パルテノン神殿」を語るときにも、「黄金分割」の語がまるできまり文句のように出てくると中村は非難している。
「黄金分割」という語は近代に生まれた概念であり、概念そのものが神話化されて使われているので、注意する必要があると警鐘を鳴らしている(中村、2017年[2018年版]、200頁~201頁)。
そして、中村自身、「コラム15 黄金分割の概念と身体尺」と題して、コラムにてこの概念を解説している(中村、2017年[2018年版]、203頁~204頁)。

<「ミロのヴィーナス」と現代人>


「ミロのヴィーナス」(紀元前100年頃制作)には、ギリシャ美術の様々な要素が流れ込んでいるといわれる。
女神の相貌は超然としていて、特定の感情をあらわしてはいない。それゆえ、見る者に感情移入を強いず、無表情ととらえる鑑賞者もいるそうだ。
それでもなお、「ルーヴルの至宝」として人気があるのはなぜでしょうと著者中村るいは疑問を投げかけている。
この問いに対して、中村は、「ミロのヴィーナス」が折衷様式であることと関連しているのではないかとみている。
「ミロのヴィーナス」は、前述したように、頭部がクラシック様式で、首から下がヘレニズム様式の折衷様式である。この折衷様式は現代人にとっては自然なのかもしれないという。いまの時代、様々なものが折衷的で、過去の様々なスタイルが流れ込み、共存している。だから、現代人にとって折衷的であると、かえって落ち着けるのではないかとしている。
その当否はおくとしても、「ミロのヴィーナス」やその他の古代彫刻を自分はどう受け止めるのかという点は大切であると中村は主張している。
古代美術を見ていると、古代美術へ向き合う自分の姿勢に気づかされることがあるといい、「作品を見るとは、究極的には自分自身と向かい合うことなのです」とその著作を結んでいる(中村、2017年[2018年版]、201頁~202頁)。

以上、紹介してきたように、中村るいの「ミロのヴィーナス」理解において重要な視点が明記されていた。それは、頭部がクラシック様式で、首から下がヘレニズム様式の折衷様式であるということである。感情を抑制した、ニュートラルな表情はクラシック期の神々の表情であることから、頭部はクラシック様式であるのに対して、首から下は、豊かな逆S字のひねりが見られることからヘレニズム様式であると規定している。
失われた腕の復元案に関しては、興味深い推論があるものの、決定的な証拠が欠けているため、中村は保留している。

【「ミロのヴィーナス」の特徴と5つの復元案】


中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴と復元案について言及しているので、その内容を紹介しておきたい。
中村るいは、「ミロのヴィーナス」の特徴について、次のように捉えている。
「この女神像の特徴は、小さな頭部と、大胆な身体のひねりです。そして身体の中心を通る正中線が、逆S字を描いています。左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっています。衣がなぜ、ずり落ちないのか不思議ですが、腰骨の下で留まっています。両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向きだったことがわかりますが、左手は肩の高さか、それより少し高く挙げているようです。欠けた腕をどう復元するかは定説がなく、大きく分けると、五つの説が提案されています。」

「ミロのヴィーナス」像の特徴を箇条書きにしてみると、
・小さな頭部と、大胆な身体のひねり
・正中線が逆S字
・左足を少し前に出し、腰から下に衣をまとっている
・衣は腰骨の下で留まっている
・両手は切断されていて、右手は肩の付け根の形状から下向き
・左手は肩の高さか、それより少し高く挙げている
・欠けた腕の復元案は5つある

その5つの復元案とは、
第1案:左手を台にのせ、リンゴをもち、右手は腰布をおさえている
第2案:両方の手に花輪をもっている
第3案:左ひじを台にのせ、リンゴをもち、右手に鳩をとまらせている
第4案:左手で髪をつかみ、右手は腰布をおさえている
第5案:ヴィーナスと軍神マルスの群像。左手をマルスの肩に、右手はマルスの腕に添えている

こうした復元案に対して、「失われた腕の復元にはさまざまな推論があり興味深いのですが、
決定的な証拠に欠けています」と、この問題に中村るいは付言している。中村は紙幅の都
合からか、5つの復元案を提示したにとどまっている(中村るい『ギリシャ美術史入門』三元社、2017年[2018年版]、198頁~199頁)。
先に検討したように、第3案は、視線が手元の鳩にいっているとしたら、この説は無理かもしれない。また、中村の挙げた5つの復元案には、ヴィーナスが盾をもつ案がない。
なお、「ヴィーナスと軍神マルスの群像」の第5案については、ラヴェッソンも言及してい
るので、フランス語で後に見てみたい。




【補説】理想のプロポーションと「ミロのヴィーナス」
黄金比はギリシャ時代以降、美しいプロポーションの理論的法則として尊重され、その代表が「ミロのヴィーナス」とされる。
「ミロのヴィーナス」は、理想のプロポーションをもつ。足元からへそまでと、足元から頭頂部までの長さの比、へそから首の付根とへそから頭頂部までの長さの比、それぞれが、1対1.618(約5対8)の黄金比になっている。この彫像が「美の象徴」といわれるゆえんであるという。つまり、へそから足までが身長の8分の5、頭部からへそまでが全体の8分の3である。さらに、頭部と身長の比が1:8で、8頭身美人である。
この黄金比に加え、それまでの直立した人体に比べ、「ミロのヴィーナス」はより自然な体重のかけ方、肉体のねじれを特徴としている。




【大地母神信仰と「蛇の女神」】


ハヴロックが取り上げた「キュプロス出土の偶像(豊饒の女神)」について、中村は言及していない。しかし、「大地母神信仰と≪蛇の女神≫」と題して、大地の女神については論じている。
通称「蛇の女神」(紀元前1600年頃)とは、クレタ島のクノッソス宮殿西部から出土した小像である。
クノッソス宮殿は、ギリシャ神話では牛頭人身の怪物ミノタウロスを閉じ込めるための宮殿と考えられていた。建築家はダイダロスで、伝説上、ギリシャ最初の建築家である。
クノッソス宮殿が最初に建てられたのは紀元前2200年頃であったが、その後地震で崩壊し、紀元前1800年頃再建された。しかし、紀元前6世紀には廃墟となり、一度入ったら二度と出ることができない「迷宮のイメージ」が生まれた。
宮殿のあちこちに牡牛のシンボルが見つかっているが、これは地中海一帯に広くみられる牡牛を聖獣とする牡牛信仰の表れと考えられている。それがのちのミノタウロス伝説に結実したようだ。

さて、その宮殿の西部から出土した「蛇の女神」は、女神に扮した女祭司が、両手に蛇をつかみ、頭上には野生の猫のような動物を載せた小像である。紀元前1600年頃のものと考えられている(イラクリオン考古博物館[クレタ島])。それは軟陶(ファイアンス)と呼ばれる陶土で成形されている。
「蛇の女神」で目を引くのは衣装で、上着とスカートを着けているが、胸部が露出している。スカートの上にエプロン状の前垂れをつけている。豊かな胸と丸いヒップが強調されている。
これらの特徴から、胸の露出は母性や多産を暗示し、「大地の女神」の豊饒のシンボルとなっていると中村は解釈している。

そして中村は古代ギリシャの宗教観と大地母神信仰について、次のように説明している。
ギリシャ神話で世界は、カオス(混沌)から大地の女神ガイアが生まれるところから始まる。紀元前8世紀の詩人ヘシオドスが『神統記』で伝える説である。
また、古代ギリシャの宗教は最初、大地母神を中心とする母権制の形を取り、ホメロスの叙事詩が詠われた紀元前8世紀頃には、ゼウスを最高神とする「オリュンポスの12神」の治世となり、父権制へと転換すると中村は理解し、「蛇の女神」はいわば「オリュンポス」以前の信仰を体現しているとする(中村、2017年[2018年版]、32頁~36頁)。


【古代ギリシャ彫刻の彩色について】



古代ギリシャの彫刻には彩色が施されていたことがわかっていて、このテーマについて、中村は「コラム14 彫刻への彩色」で述べている。
プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」の彩色についても、次のように記している。
また、前4世紀半ば、彫刻家プラクシテレスの大理石像には画家ニキアスが彩色を行ない、プラクシテレスがその彩色を高く評価していたことが、古代文献に伝えられています(プリニウス『博物誌』第34巻133章)。≪クニドスのアフロディテ≫[本文図98、99]の原作にも微妙な彩色が施されていたことが知られています」(中村、2017年[2018年版]、178頁~179頁)

上記のように、紀元前4世紀半ば、プラクシテレスの大理石像には、画家ニキアスが彩色を行なっていたことが、プリニウスの『博物誌』を典拠としてわかっている。
実際にも、アルカイック期の女性像の名作「ペプロスのコレー」(紀元前530年頃、大理石、アクロポリス美術館[アテネ])では、頭髪や瞳や衣装に彩色がよく残っている。
また、古代ギリシャ人にとって無彩色の彫像は、時には「醜い」と受けとられることもあったそうだ。悲劇作家エウリピデスの戯曲『ヘレネ』の中のセリフからも、このことが察知できると中村は指摘している。絶世の美女ヘレネが自らの美しさこそ災いの原因と嘆く場面があり、ヘレネは次のような意味のセリフを吐く。
「できることなら彫像から彩色を消すように、美しい姿の代わりに醜い姿に成りかわることができればよいのに」(『ヘレネ』262~263行)。こうしたセリフからも、当時、彫像への彩色が広く行われていたことが推測できるようだ。
そして、紀元前4世紀前半の「赤像式陶器」(メトロポリタン美術館[ニューヨーク])には、彫像に彩色する画家が描かれている。白い大理石製の英雄ヘラクレス像に、画家が蜜蝋画法(顔料を熱し、蝋を溶剤として描く画法)で彩色している情景が陶器に描かれている。
その他、神殿建築を飾る彫刻、たとえばパルテノン神殿の彫刻も彩色されていたことは明らかであるが、現在はほとんど残っていない。
実は、20世紀前半、大英博物館ではひそかにパルテノン彫刻を洗浄し、残っていた着彩も含めて削りとり、白くなめらかに磨かせていたそうだ(後にこのことは暴露され、一大スキャンダルとなった!)。(中村、2017年[2018年版]、102頁~103頁、178頁~179頁)

【中村の「クニドスのアフロディテ」理解の補足】


中村は「コラム3 現代から過去の美術品を解釈すること、引用すること」と題するコラムにおいて、次のように「クニドスのアフロディテ」について言及している。
「古代美術も、作られた当時は、最先端の現代アートでした。彫刻家プラクシテレスが前4世紀半ばに≪クニドスのアフロディテ≫[本文図98]を発表したとき、女神を全裸にするという大胆な試みに社会は衝撃を受けますが、この瑞々しい愛の女神の像は、新たなアフロディテ像として高く評価されるようになりました。」(中村、2017年[2018年版]、44頁~45頁)。

「古代美術も、作られた当時は、最先端の現代アートでした」という点は、確かにそうであろうと納得できる。
しかし、彫刻家プラクシテレスが紀元前4世紀半ばに「クニドスのアフロディテ」を発表したとき、女神を全裸にするという大胆な試みに社会は衝撃をうけるというが、その衝撃は、どの程度のものであったのであろうか。
歴史事実として、この認識は正しいのか? ハヴロックの見解を参照すると、いささか疑問である。ハヴロックの議論を想起したい。

【古代ギリシャの男と女】


ハヴロックは、後期ヘレニズム期において女神像が浸透し、その「英雄的な裸体」が巧妙に飾り立てられたが、このことはヘレニズム期の女性の社会的地位が古典期に比べ向上したことの表れとなっていると考えていたことを紹介した(ハヴロック、2002年、159頁)。

それでは、古代ギリシャにおいて、女性の地位について、歴史学では一般にどのように捉えているのであろうか。
中村るいは「コラム8 ギリシャ世界の男性観・女性観」で、この問題に言及している。
古代ギリシャは男性中心的な社会だったといわれてきた。それは古代民主主義が男性市民によって実践された体制で、女性には参政権がなかったからである。
歴史学の研究では、アテネの女性の社会的制約が強かったとされる。その背景には、軍事力によってギリシャ世界の覇権を確立したアテネでは、男性は政治や軍事の活動をし、女性は家庭内労働の管理をし、出産・育児をするといった性別による役割分担が徹底されていた。そして男性の戦争参加と女性の出産がもっとも名誉ある社会貢献と見なされていた。
市民の娘は家に閉じこもっていたばかりではなく、祭典などでは役割があった。とくに女神アテナの祭典(パナテナイア祭)の4年に一度の大祭で、女神に捧げる聖衣を織る「織り子」の役割は重要な公務であった。祭典では、市民の行列の先頭を進んだそうだ。
古代ギリシャの繁栄の背後にある、男性観・女性観を知ると、ギリシャ美術に描かれた男性、女性の見え方も変わるかもしれないと中村は書き添えている(中村、2017年[2018年版]、96頁~97頁)。

【古代ギリシャの衣装について】


古代ギリシャ彫刻を理解する上で、不可欠の要素が衣装である。とくに女性像で目を奪われるのは、身体を包む衣装の美しさである。
中村るいは、「コラム9 古代ギリシャの衣装」と題して、古代ギリシャの衣装について説明している。
紀元前4世紀半ばに、彫刻家プラクシテレスが女神ヴィーナスを初めて全裸にするまでは、女神像も基本的には着衣像であった。
さて、古代ギリシャの衣装は基本的に長方形の布地を用い、次の3種類が主なものであったという。
① キトン
② ペプロス
③ ヒマティオ

キトンがもっとも一般的な衣装であった。素材は麻である。筒型に縫い、上部は頭と両腕を出せるようになっていた。ウェスト部分をベルトで締めるので、ひだができ、このようなひだを「ドレーパリー」と呼ぶ。
例えば、アクロポリスのアテナ・ニケ神殿のレリーフ「サンダルの紐をとくニケ」は、キトンが織りなすドレーパリーによって、優雅な仕草が際立つ。
また、ルーヴル美術館の「サモトラケのニケ」はドレーパリーの錯綜した動きがダイナミックである。
次に、ペプロスは、キトンに比べて少し厚地の毛織物を素材とする。上部を折り返して、筒型を作る。側面は縫い合わせる場合と、開いたままのものがあった。キトンほどひだができず、直線的なシルエットとなる。アルカイック期の女性像「ペプロスのコレー」(紀元前530年頃、アクロポリス美術館[アテネ])は、ペプロスという毛織物製の衣装をまとっているので、この名称がある。
「コレー」はギリシャ語で「娘」「若い女性」の意味である。一般にコレー像は、麻製の「キトン」と呼ばれる衣装を身につけることが多く、ペプロスを着た例は少ないので、「ペプロスのコレー」の名称がつけられた。
ヒマティオンは、上掛けとして使われ、マントの一種である。これも長方形の布地を一部縫い合わせ、肩から掛けた。単純な直線断ちだから、着用の仕方によって様々なひだを作ることができたようだ。
美術史家ケネス・クラークの名著『ザ・ヌード』において、人間の肉体こそが、調和や力、陶酔、悲劇性など人間的経験を呼ぶ起こすと述べていることに中村は言及している。このような身体を演出するのが衣装であると理解している(中村、2017年[2018年版]、102頁~103頁、111頁、194頁)。




【著作へのコメント】


「クニドスのアフロディテ」像が持つ歴史的意義は、基本的に正しいのであるが、このテーマに関連したハヴロックの議論、およびその著作で紹介されているブリンケンバーグの見解について付記しておきたい。

ハヴロックは次のような問題を提起している。
プラクシテレスや紀元前4世紀の鑑賞者にとって、クニディアの右手のしぐさにどんな意味があったのか。
ベルヌーイ説のように、当時の人々は、本当にクニディアの裸に当惑したのだろうかと疑問視する。そこで、そのしぐさの起源や意味の可能性、ギリシャにおける裸体の歴史、古典ギリシャ文学と美術に見られる女性が身にまとう物としての衣装の機能について考察している。

この点、先のブリンケンバーグは、プラクシテレスのアフロディテ像は船旅を司る女神への信仰の対象として彫られたという説を唱えた。このアフロディテ・エウプロイア(「よき旅路の」アフロディテという意味)信仰は、古代の最も早い頃にキュプロスからギリシャにもたらされたそうだ(C.S.Blinkenberg, Knidia, Copenhagen, 1933.)。
この信仰で崇められた初期の小像が残っている。「キュプロス出土の偶像(豊饒の女神)」(デンマーク国立博物館蔵[コペンハーゲン])がそれである。この小像は、自然あるいは豊饒の女神の特色が強いと考えられている。この小像は、全裸で直立し、片手で乳房を下からすくうか乳房上にあてがい、もう一方の手で腹部を覆っている。
こうした小像のことを考慮に入れ、ブリンケンバーグは、クニドスの人々は、自分たちの信仰の中心となる神像が裸体で表現されることに慣れていたとする。彼らは、プラクシテレスが地元の聖域に安置する初の大規模の女神を伝説にのっとって製作してくれるものと期待していたが、プラクシテレスは裸体に対する動機付けを変えてしまったとも、ブリンケンバーグは付言している。つまり、初期の偶像にみられるように女性の身体における生殖と母性にかかわる面を強調する代わりに、沐浴という口実を設けて裸体像を作ったというのである。
フェイディアス作のアテナ・パルテノスの巨像が、アテナイ市の守護神としての意味合いを強く持っているのと同じく、プラクシテレスもクニドス市のために、天上なるオリュンポス神にふさわしい流儀で、沐浴中のアフロディテの大規模像を彫刻したのである。女神が超然として純潔に見えるのはこのためであるようだ。ブリンケンバーグによれば、その様子はコロンナ・タイプの複製に最もよく現れているという。
ここで留意すべき点は、もし紀元前4世紀のクニドス市民がアフロディテの裸体を受け入れ慣れ親しんでいたのであれば、後世の文献に見られるセンセーショナルな反応には説明が必要になるということである(ハヴロック、2002年、38頁~41頁)。




【著作に対する感想】


読んでいて、興味深かった箇所がある。それは、クレタの宮殿文化が繁栄期に崩壊が起こった原因の一つに関して、異国からもち込まれたと考えられる「ミドリザル(英語でgreen monkey)」による人獣共通感染症説を紹介している点である。この説は、著者の恩師のバーミュール氏の説らしい。
クノッソス宮殿などの壁画には「青い猿」が描かれているが、これが現在「ミドリザル」に相当すると考えられている。異国趣味を満足させるこの動物を介して、エーゲ海地域に感染症ウイルスがもち込まれ、贅沢に慣れた社会は伝染病の発生に対応できず、また異民族の侵入への備えも不十分で、最終的に内部から崩壊したのではないかというのである。荒唐無稽な意見のようであるが、「ありえない話ではない」と著者はコメントしている(59頁~60頁)。

著述内容に関しては、ボッティチェリのヴィーナス像から話を起こしたのなら、なおさら、プラクシテレスのアフロディテ像と「ミロのヴィーナス」との関係に言及されてしかるべきではないかと、素人の私には思われる。
参考文献は数多く掲載しているが、ハヴロックの著作を挙げていない。ヘレニズム期は紙幅の関係から、著者自らも簡略に叙述した旨を記しているので、今後に期待したい。


中村るい『ギリシャ美術史入門』はこちらから


【古代ギリシャ美術史に関する表】


















































彫刻家および時代 作品 作者・作品の特徴

フェイディアス(クラシック時代[パルテノン期] 紀元前5世紀)
パルテノン神殿の本尊アテナ像 手にニケ像を載せている(182頁)

ポリュクレイトス(クラシック時代[パルテノン期] 紀元前5世紀)
「槍を担ぐ人」(原作紀元前440年頃) クラシック期の男性立像の完成者(150頁) コントラポストのポーズ 『カノン』という題の理論書(151頁)

プラクシテレス(後期クラシック時代 紀元前4世紀)
「トカゲを殺すアポロン」(原作紀元前350年頃) 「ヘルメース」(原作紀元前4世紀半ば) 「クニドスのアフロディテ」(原作紀元前350~340年頃) 有名な主題をひとひねりする作家(123頁)~一種のパロディ(124頁) 少年アポロンは両性具有的(124頁、190頁)/ 紀元後2世紀の旅行家パウサニアス『ギリシャ周遊記』の記述(136頁) 正中線が逆S字(137頁)/ 全裸のアフロディテ像の出現は前代未聞(187頁) 美術表現への大胆な提案(188頁) 通称「カウフマンの頭部」がもっとも原作に近い(188頁~189頁)

リュシッポス(クラシック期末)
「アレクサンドロス大王の肖像」 アレクサンドロス大王の宮廷彫刻家(192頁)

ヘレニズム期(紀元前190年頃)
「サモトラケのニケ」 紀元前190年頃の海戦勝利記念碑 ドレーパリーの錯綜した動きがダイナミック(194頁)

ヘレニズム期(紀元前1世紀~紀元後1世紀
「ラオコーン」(1506年に発見) 「ヘレニズム・バロック」様式の名作(196頁)

ヘレニズム期(紀元前100年頃)
「ミロのヴィーナス」 ギリシャ彫刻の中でいちばん知られている彫刻(198頁) 正中線が逆S字、5つの復元案を紹介(199頁)


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《「ミロのヴィーナス」考 その11 若桑みどり氏のヴィーナス論》

2019-12-16 17:55:34 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その11 若桑みどり氏のヴィーナス論》
 

【はじめに】


周知のように、「ミロのヴィーナス」は、1820年にメロス島から発見され、脚光を浴びた。つまり、その発見は、19世紀初頭で近代になってからで、その歴史上の登場は、遅きに失した感がある。
愛と美の女神ヴィーナス像は、古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動である西洋のルネサンス以降、どのように捉えられてきたのか。著名な画家によって、ヴィーナスはどのように描かれ、どのように変遷していったのか。
さて、若桑みどり『ヴィーナスの誕生―ルネサンスの女性像』(ジャルパック・センター、1983年)は、中世から近代への過渡期であるルネサンス期の女性像を絵画と通して考察している。聖母マリアとヴィーナスという、ヨーロッパ人の理想とする女性像の中でも典型的な二つの像に焦点をあてて、ルネサンス以降の思想的背景や美術様式の変遷に触れながら、わかりやすく解説している。
「ミロのヴィーナス」を直接扱ってはいないが、先の問いに、若桑みどりの著作は重要な示唆と道筋を与えてくれるはずである。
 以下、次のような項目を中心に、その内容を紹介してみたい。ボッティチェリ、ティツィアーノ、ブロンズィーノが描いたヴィーナス像、そしてミケランジェロの彫ったアポロン像を解説しながら、若桑みどり氏のヴィーナス論を紹介しておきたい。

執筆項目は次のようになる。


・ルネサンスと古代ギリシャ・ローマ
・ボッティチェリの「ラ・プリマヴェーラ(春)」
・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」
・新プラトン主義とフィチーノ
・ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」
・イタリア・ルネサンスの終焉
・マニエリスム芸術
・ミケランジェロの「勝利の群像」
・ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナス
・人間性を失ったマリア
・【まとめ】







ルネサンスと古代ギリシャ・ローマ


ルネサンスというのは、フランス語で再び生まれたもの、再生という意味である。再生という限りは何かが過去にあり、死んでいたことを示している。そのルネサンスの「ル」、再び甦ってくるものというのは、古代の文芸であり、思想であり、政治体制である。その政治体制とは民主主義であり、文芸というのはギリシャ・ローマなどの人間的な文学であり、そのベースにあるのはギリシャ神話である。古代復興とは、政治的にはローマの共和制を復興し、封建領主を抑えようというイデオロギーであり、精神史的にいえば、ローマの古代文明をキリスト教にかえて復興しようという二つの側面がある。

ルネサンスという言葉の意味である古代復興がいつから始まったのか。若桑みどりは、ルネサンスは14世紀のペトラルカ(1304~74)に始まると考えている。ペトラルカこそ、中世とルネサンスを分ける重要な線を引いた人で、古代復興の政治的、思想的な二つの側面を初めて文章に書いた人であるという(俗に言われているダンテではなく、ダンテは全く中世の人である)
(若桑、1983年、51頁~52頁。ダンテが、フィレンツェの詩人として、中世の思考の枠内にふみとどまっていた点に関して、山岸健も、『神曲』を例にあげて指摘している。山岸健『レオナルド・ダ・ヴィンチ考――その思想と行動』NHKブックス、1974年、156頁~157頁)。

ボッティチェリの「ラ・プリマヴェーラ(春)」


そして美術史的には、マリアの上にヴィーナスが重なり、一致すると若桑は理解している。15世紀の後半、つまりルネサンスが最高の黄金時代に達した時に生まれてきたルネサンスを代表する画家のひとりに、ボッティチェリ(1445頃~1510)がいる。
俗に「ラ・プリマヴェーラ(春)」といわれる絵を、ロレンツォ・デ・メディチのために描いた。この絵の真ん中にいる女の人こそ、マリアであり、ヴィーナスであるとする(ボッティチェリは別にこれをヴィーナスだとは言っていないし、誰言うとなくヴィーナスということになっている)。
この中央の女性を見ると、慎ましく、シンプルだけれども、威厳のある洋服を着て、ベールを被った結髪をし、敬虔な清らかな顔付きをしている。ボッティチェリのこの絵の中で、マリアとヴィーナスが区別がつかなくなっている。このマリア=ヴィーナスというのは、15世紀後半のルネサンスの最高のモメントである。この時期、聖母とヴィーナスの表現が一致したというのである。
この「ラ・プリマヴェーラ」という絵こそ、聖母マリアがもっていた聖なるものと、ヴィーナスがもっていた地上的な、世俗的な女の面を思想的にも造形的にも、見事に一致させたと若桑はみている(若桑、1983年、54頁~58頁)。

ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」


ボッティチェリには、もう1枚「ヴィーナスの誕生」という有名な絵がある。「ラ・プリマヴェーラ(春)」は板絵であったが、こちらは布、キャンバスに描かれている。どちらも大きさはほぼ同じで(約2m×3m)、ロレンツォ・デ・メディチのために描かれたといわれ、もともと対幅だろうということになっている。「春」の方が、“地上のヴィーナス”といわれるのに対して、「ヴィーナスの誕生」の方は“天上のヴィーナス”といわれる。というのは「春」のヴィーナスは着衣像で陸地にいるのに対して、「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスは裸体像で海にいるからである。

ギリシャ神話によると、周知のように、天の神であるウラノスの生殖器が切り落とされ、海に落ち、そこから泡が生じて、ヴィーナスが生まれたと伝えられている。このヴィーナスは天から降ってきて、地上に来たというので、“ウェヌス・ウラニア”つまり“天上のヴィーナス”と呼ばれた。

絵を見ると、ゆらゆらと風に吹かれてやっと来ているように見え、まるで重心がとれていないように軽い。この軽さというのは、このヴィーナスが天の賜であることを示している。この天上的な存在であるヴィーナスが、陸地に吹き寄せられてきて、“地上の衣”を着せられようとしている場面が描かれている。

さて、新プラトン主義者のフィチーノは、ヴィーナスや愛には二つあると考えた。天のヴィーナス、ウェヌス・ウラニアと、大地のヴィーナス、ウェヌス・パンデーモスの二人である。二人はどちらも美しい双子だという。
ボッティチェリは、大地に囲まれたヴィーナスと、天から降りてきたヴィーナスの二つを描いて、完璧だと思った。彼だけではなく、ロレンツォもそうである。
ボッティチェリは、ロレンツォ豪華公の黄金時代に生き、1494年のピエロ・デ・メディチの追放も、これに続くサヴォナローラの政治とその処刑も、すべて見た画家であったと、若桑は解説している。
(若桑、1983年、65頁~72頁、若桑みどり『世界の都市物語13 フィレンツェ』文芸春秋、1994年、21頁)。



若桑みどり『フィレンツェ』(講談社学術文庫)はこちらから


新プラトン主義とフィチーノ


ルネサンスの思想として新プラトン主義がある。新プラトン主義とは一言でいえば、ヴィーナスとマリアを合体させる思想であると若桑は説明している。
新プラトン主義をボッティチェリに吹き込んだのが、マルシリオ・フィチーノ(1433~1499)である。フィチーノは、ロレンツォ・デ・メディチの家庭教師であり、ルネサンス最大の哲学者である。フィチーノの父はロレンツォの父親の侍医だった人で、その子フィチーノは、優れた哲学的才能をもち、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語に通じていた。15世紀末に新プラトン主義という新しいイデオロギーをたてて、ルネサンスに大きな貢献をした。フィチーノは、ギリシャの昔からあった三美神を自分の紋章にし、その三美神に新しい近代的な愛の弁証法の意味を与え、「ラ・プリマヴェーラ」の図柄をも与えた。

その画面の左側に立つ三人の女性は、“貞節”“愛欲”“美”の三美神を表現している。愛を示すのに単独ではなく、三つの対立する概念によって、その対立する概念のジンテーゼ、統合によって、初めて人は愛に至る。貞節と愛欲というのは、霊魂と肉体のように相克し、それを一つにまとめるのが美であるという新プラトン主義の考え方をこの絵はよく示している。

フィチーノの書いた代表作は、『テオロギア・プラトニカ』(1487年[ママ])であり、プラトン神学である。“プラトン”というのはヴィーナスであり、古代であり、人間である。“テオロギア”というのは神様、マリアである。この矛盾する二つを一つに一致させてこそ、初めて全人間的な宗教ができると提唱した。フィチーノの新プラトン主義なしには、ルネサンスは語れない。そしてジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600)まで、16世紀の哲学もこの新プラトン主義の影響を受けた。

ただ、若桑みどりは、別の著作において、プラトン主義の負の側面についても指摘している。すなわち、フィレンツェの知識人の関心を引いたプラトン主義の精神主義は、現実から知識人の目をそらさせ、少数の選ばれた仲間とともに、目には見えない精神の世界へと関心を集中させるようになったというのである。それは、「黄金時代」を標榜するメディチ家の貴公子や貴婦人たちを主人公とする祭りが、内外の危機や困難から市民の目をそらさせる役割を果たしたのに、似ているともいう。

そして、ボッティチェリの優雅な絵についても、次のようにコメントしている。
「自然主義からはほど遠い、夢幻的なまでに美しいボッティチェリの優雅な(優しき)世界は、それがペストや戦争のさなかに描かれていたことを思えば、まさに、現実を忘れるための陶酔であったことがわかる」と記す。
プラトン主義は、自然主義と違い、現実を逃避し、神秘の世界へ向かわせ、夢幻的・自己陶酔的な負の側面をもつ思想でもあったというのである。
(若桑、1983年、62頁~64頁、若桑みどり『世界の都市物語13 フィレンツェ』文芸春秋、1994年、234頁~235頁)。

一方、こうしたメディチ家を中心としたフィレンツェのアカデミー、サークルにほとんど縁がなかった芸術家が、レオナルド・ダ・ヴィンチであったと、社会学者の山岸健は理解している。
当時のフィレンツェの知的状況は、新プラトン主義と、科学的探究の精神を支柱としてかたちづくられていたとみられるが、ボッティチェリが新プラトン主義に強い関心を寄せていたのに対して、レオナルドは実証的・分析的科学精神をもって芸術活動にとりくんだ。そして「レオナルドがメディチ家によって積極的にとりたてられていれば、彼の生涯も大きくかわっていたであろう」とも山岸はみている(山岸健『レオナルド・ダ・ヴィンチ考――その思想と行動』NHKブックス、1974年、46頁~48頁)。



ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」


15世紀において、フィレンツェで盛んだったヴィーナス表現は、16世紀の初頭には、ヴェネツィアに移って、そのピークを迎える。中でも、一番典型的な例は、巨匠ティツィアーノ(1477頃~1576)の「天上の愛と地上の愛」という絵である。これがきわめつけである。
このボルゲーゼ美術館にある絵は、ボッティチェリの中で二つに分かれていた“天上のヴィーナス”と“地上のヴィーナス”を一つの画面に描いてしまった。そういう点では、はるかに進んだ段階を示している絵であるという。

向かって左側には、洋服を着た女性がおり、泉をはさんで、右側には彼女にそっくりの裸体の女性がいる。ボッティチェリの絵と同じく、裸体こそ天の印で、裸体の女性が聖なる愛を表している。新プラトン主義のヴィーナス論、思想を伝えている。
左側の服を着た女性は、先述したように、洋服を着ているということで地上性を表現した。その彼女の物質性を表現するために、宝物の入った大きな壺を抱え、摘み取った花を持っている。この花は、すぐに枯れてしまうもの、はかない愛、短い幸福のシンボルである。
右側の女性は裸で、魂を表わす赤の衣を腕にかけて、かすかに炎をあげる小さな壺を持っている。炎とか煙というのは、昔から精神性のシンボルである。それは神の愛で、永遠に燃える炎である。二人の女性の真ん中には愛の神、クピドがいて、ふたりの間の泉をかき混ぜている。天上の愛も、地上の愛も、よく混ざるように。

このティツィアーノの絵は、新プラトン主義の、ヴェネツィアにおけるひとつの成果といわれている。キリスト教とギリシャ哲学、そして霊魂と肉体、地上の愛とキリスト教への愛という、二つの難しいバランスを、ほんの一瞬間、完成したと信じた画家の傑作を示していると若桑は解説している(若桑、1983年、73頁~76頁)。

イタリア・ルネサンスの終焉


イタリア・ルネサンスは、1520年代に終わったといわれる。1520年は、ラファエロ(1483~1520)の死んだ年であるが、既に起こっていた現象に対して、ラファエロの死という象徴的な時間を重ね合わせて、1520年だとされている。
実際は、ルネサンスの思想である新プラトン主義も、新プラトン主義の土台をつくっていたロレンツォ・デ・メディチ(1492年没)の宮廷も、人文主義も、16世紀前半で崩壊する。
政治的には、イタリアは、フランス、オーストリア、スペインという大国の植民地戦争の場になって、国家的独立を失う(1527年には、ヴァチカンが襲われ、ローマ劫掠)。イタリア経済の基礎をつくっていた羊毛加工業、織物工業の仲介貿易および地中海貿易が衰退した。そして、宗教改革により法王の権威が失墜した。こうして、ルネサンス、カトリック、古代ローマ、イタリアのすべての権威が否定されてしまう。物心両面でイタリアが崩れてしまう。
システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの有名な「最後の審判」は、この時の記憶を、法王クレメンス7世がとどめておこうとしたものであるといわれ、世界の終末のイメージである(若桑、1983年、77頁~80頁)。

マニエリスム芸術


このイタリアが完全な危機に陥った時期、1520年から1580年代半ばまで、この危機の時代を代表する芸術が、マニエリスム芸術である。この時代を精神史的にいえば、ルネサンス的なヒューマニズムが疑われ、ルネサンスを含めた中世的な世界観がすべて疑われた時代であると若桑は捉えている。
世界史的にみて、その懐疑の思想の代表者が、オランダではエラスムス、フランスではモンテーニュ、パスカル、文学的には、イギリスではシェイクスピア、スペインではセルヴァンテスといわれる(若桑、1983年、80頁~81頁)。

ミケランジェロの「勝利の群像」


イタリアにはそういう懐疑を代表する思想家は出なかったようだが、それを代表する美術家がミケランジェロ(1475~1564)である。
ただし、ミケランジェロはフィチーノの弟子で、ロレンツォ・デ・メディチの養子あったので、フィチーノやティツィアーノに教えられて幼年時代を育った。だから、ミケランジェロは、新プラトン主義、「ヴィーナスの誕生」や「天上の愛と地上の愛」を生んだ新プラトン主義の亜流ではなく、直系の後継者だったのである。それと同時に、15世紀末にドメニコ派の僧侶、あのサボナローラ(ルターの先駆者)の影響を強く受けてしまった。あのヴィーナスの画家だったボッティチェリは、サボナローラに出会ったことで、1490年以降、自分の描いたヴィーナスの絵を焼いてしまうことになった(晩年のボッティチェリは、宗教的な幻想に憑かれた悲愴な聖母マリアの画家になってしまう)。

ところで、愛、あるいは女性の表現をミケランジェロの作品で跡づけようとした場合、特殊性がそこに見られる。ミケランジェロは女性を愛さなかった(同性愛者だった)ので、ミケランジェロが愛という時、必ずしも女性への愛を示しているわけではなかった。つまり、ミケランジェロの愛は、ヴィーナスの形をとらず、アポロンの形をとった。アポロンという若い美しい男性の姿に、危機の時代における最も代表的な愛の表現を見なければならず、それが1530年頃に制作された「勝利の群像」(パラッツォ・ベッキオ所蔵)という彫像である。
ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」が、ルネサンスという幸福な時代の表現であるとすると、この「勝利の群像」こそ、マニエリスムという危機の時代にある人々の考えた愛の姿であろうと若桑は理解している(若桑、1983年、81頁~85頁)。

なお、女体にほとんど喜びを覚えなかったミケランジェロがヴィーナス像のイメージ形成に寄与したという、逆説的な見解をクラークは提示していた。その一例として、ブロンズィーノの「愛の寓意」に見えるヴィーナスのZ字型のポーズは、フィレンツェ大聖堂の「ピエタ」に見えるキリストの屍体から来ているとする。
ミケランジェロが作ったメディチ家礼拝堂の女性像は、以後半世紀にわたって、マニエリスムの装飾的裸体像のための基本材料を供給しつづけたと、注目すべき見解を述べていた。マニエリスムは、ミケランジェロの表現的な形象歪曲を起源とし、女性裸体像の場合はこれにパルミジャニーノの優雅が加わったものとしてクラークは理解している(クラーク、1971年[1980年版]、178頁~179頁)。

16世紀のイタリア人が、激しい感情を理念化することによって、生活を静穏柔和なものにするには、二つの大きな伝統的な型があったと、ウォルター・ペイターは指摘している。すなわち、ダンテ的な伝統の型とプラトン的なそれである。ミケランジェロの詩を形成したのは、ダンテではなくプラトンの伝統である。ミケランジェロのヴィットリア・コロンナへの愛ほど、ダンテのベアトリーチェへの愛と趣を異にしているものはないという(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、91頁~92頁)。

ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナス


その後、ある種のヴィーナスの堕落した形が、16世紀の末期に現われる。そのきわめつけの作品は、アーニョロ・ブロンズィーノ(1503~1572)というフィレンツェの宮廷画家が描いた「ヴィーナスとアモール」(「愛のアレゴリー」もしくは「愛の寓意」、1545年頃、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)という傑作である。
これがヴィーナスの完全に下降した姿、神性を剥ぎ取られたヴィーナスの姿である。つまり、ルネサンス期のように、ヴィーナスと聖母マリアが一致することができた姿とは全く違う、ヴィーナスの最後の姿を示している。

中央のヴィーナスが、年若いアモール(クピド)と口づけを交わしている。しかし、二人の背後には、おばあさん(嫉妬の寓意像)、不気味な笑いを含んだ少年(快楽のアレゴリー)、蜂の巣と蠍を手にした奇妙な乙女(欺瞞のアレゴリー)がいる。
愛のあるところには嫉妬、はかなさ、欺瞞といった否定的な存在が蠢いていることをこの絵は描いている。
だから真ん中にいるヴィーナスというのは、もはや聖なる性格というものを完全に剥奪されている。ルネサンスからわずか1世紀もたたず、地上の愛というものが、気高い天に到る道だとされてきたのに、ここで完全に閉ざされたと若桑は解釈している。
このヴィーナスは、完全に悪であり、あらゆる不道徳、嘘、謀り、欺瞞、虚飾の巣であるというのである。絵画表現はあくまで美しいけれども、16世紀においては、特にこのメディチの宮廷社会においては、愛というものが、このように複合したマイナスのイメージになってしまった。これこそ、ルネサンスの終末であり、ヴィーナスとマリアの調和の終わりであるという。
この16世紀のブロンズィーノの「愛の寓意」を終わりとして、1585年以降、ヴィーナスの表現は、ほとんど消滅するそうだ。なぜかといえば、反宗教改革、つまりバロックの芸術が起こってきた時には、ヴィーナスというのは異教の存在として完全に葬り去られてしまうからである(それが、再び甦ってきたとしても、かつての栄光は二度ともつことはなかった)(若桑、1983年、87頁~92頁)。




【補論】 ケネス・クラーク氏によるブロンズィーノの「愛の寓意」の解説


なお、このブロンズィーノの「愛の寓意」に対して、ミケランジェロの作品が与えた影響について、ケネス・クラークは興味深いことを述べている。すなわち、

「女体にほとんど喜びを覚えなかったミケランジェロがヴィーナス像のイメージ形成に寄与したとは、逆説的とも言えよう。しかし形態を発明する彼の力量は同時代人に非常な支配力を及ぼしたので、彼のポーズは幾つかの思いがけない文脈(コンテクスト)の中に再び出てくることになった。その一例はブロンツィーノの≪愛の寓意≫に見えるヴィーナスである[101図]。このヴィーナスは洗練され、華奢でしかも冷たく淫らなメディチ家の時代のエレガンスを要約しているようだが、彼女のZ字型のポーズはフィレンツェ大聖堂の≪ピエタ≫に見えるキリストの屍体から来ている。こうした変容への道は、フェラーラ公を喜ばせようと≪夜≫のポーズを≪レダ≫の下図(カルトン)の基本に利用した際に、ミケランジェロ自身が開いたものであった。こうしてメディチ家礼拝堂の二つの女性像は、以後半世紀にわたって、マニエリスムの装飾的裸体像のため基本材料を供給しつづけたわけである。」(クラーク、1971年[1980年版]、178頁~179頁)。

ミケランジェロは“女嫌い”で有名であったが、その彼が、逆説的にも、ヴィーナス像のイメージ形成に寄与したことをクラークは指摘している。
ブロンズィーノの「愛の寓意」のヴィーナスは、洗練され、華奢でしかも冷たく淫らなメディチ家の時代のエレガンスを要約しているといい、そして、そのZ字型のポーズに、クラークは注目している。このポーズは、フィレンツェ大聖堂の「ピエタ」に見えるキリストの屍体から来ているというのである。そのポーズは、「夜」のポーズを「レダ」の下図(カルトン)の基本に利用した際に、ミケランジェロ自身が開いたものだそうだ。
そしてメディチ家礼拝堂の二つの女性像は、以後50年間、マニエリスムの装飾的裸体像のため、基本材料を供給し続けたようだ。


【補論】 フランソワ1世とブロンズィーノの絵


マニエリスム期のイタリア・フィレンツェの画家にブロンズィーノ(1503-1572)がいる。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるブロンズィーノの有名な絵「愛の寓意」(「時と愛の寓意」とも。1540年~1545年頃とも1546年頃とも。146×116cm)は、イタリアのメディチ家からフランス王フランソワ1世に贈られた絵である。
画面中央の女性は左手に黄金のリンゴ、右手に矢を持っている。彼女と口づけを交わしている少年は翼を生やしており、背中には矢筒をさげるベルトが見えており、矢筒は左足のそばにある。その右足の近くには、白い鳩のつがいがいる。少年の背後には、口を大きく開けて頭を両手で搔きむしる老婆が描かれている。その上には、女性が口を開けて青いカーテンを持つ一方で、その反対側には禿頭で白髭の老人がそのカーテンをつかんでいる。この老人は大きな翼を生やしており、右肩には砂時計を載せている。

画面中央の女性はヴィーナスであり、少年は羽と矢筒という目印からキューピッドである。ヴィーナスとキューピッドは愛の擬人像である。キューピッドの背後で頭を搔きむしっている老婆は、嫉妬の擬人像である。画面右上の男性は、老いていることと右肩の砂時計を載せていることから、時の擬人像である。

イコノロジー研究の第一人者パノフスキーは、ブロンズィーノの「潔白図」の壁掛(フィレンツェのガレリア・デリ・アラッツィに、ブロンズィーノの下絵にもとづいてフランドルの名織物師ジョヴァンニ・ロストが織り上げた壁掛[タピスリー])に、本来的に照応する絵がこの「愛の寓意」であるという。

また、パノフスキーはヴァザーリの次のような記述を引用している。
「彼は一枚の特異な美しさのある絵を描いたが、それはフランス国王フランソワに送られた。その絵には、裸のウェヌスと彼女に接吻しているクピドが描かれており、この二人の一方の側には快楽と戯れと他のクピドたちが、またもう一方の側には欺瞞と嫉妬と他の愛の情欲たちが描かれていた。」
この記述は、絵がフランスに行ってしまっていたので、記憶をもとにして書かれたものである。ヴァザーリの記述は、それなりに納得のいくものであり、快楽と戯れ、欺瞞と嫉妬といった具合に絵の構成を意味上の対比を示していると解釈した点は当を得たものとして、パノフスキーも評価している。またこの絵は一方で愛の快楽を、もう一方で愛の危険と苦悩を示している(エルヴィン・パノフスキー(浅野徹ほか訳)『イコノロジー研究――ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』美術出版社、1971年[1975年版]、75頁~78頁。なお、パノフスキーは「時の翁」と題して興味深い専論を展開している。65頁~84頁参照のこと)。


パノフスキー『イコノロジー研究―ルネサンス美術における人文主義の諸テーマ』はこちらから




人間性を失ったマリア


このように、ヴィーナスに象徴される人間の愛というものが、人間を堕落させるものとして、マイナスで表現されるようになってしまったが、マリアの方もその聖性がルターによって否定されてしまう。1000年にわたって神と同等の尊敬と崇拝を受けてきたマリアであったが、ルター派によると、尊いのはキリストだけであり、マリアを崇拝することは、偶像崇拝であるとされた。つまり、マリアの聖性剥奪が行なわれ、その結果、プロテスタント側は、一切マリアを描かなくなった(ヨーロッパの半分の国々が、マリアを表現しなくなってしまう)。

一方、攻撃された方のカトリック側は、ヴィーナスとまぎらわしいような人間的なマリアを消すことに決めた。マリアを美しくしていたヴィーナス性をとってしまおうと考えた。人間的なマリア、例えば、マリアが授乳しているような場面は描かなくなる(このことは、逆に、ラファエロの絵の中で、19世紀まで一番人気があった「小椅子の聖母」(1514年頃)という聖母子像を想起してみればよい。このマリア様は、非常に世俗的なマリアで、ターバンを巻いて、肩かけをしていて、子供を抱きとって、今にも授乳しそうな場面である。しかもマリアの顔はラファエロの恋人そっくりにしている)。

そして、カトリック側は、極端に聖性化したマリアを描くようになった。その結果、光に包まれ、法悦境の中で天に昇っていくマリアが、16世紀から17世紀以降、マリアの共通する特徴となる。そのマリアは、もはや人間性をすべて失ったマリアである(若桑、1983年、26頁~27頁、92頁~94頁)。




【まとめ 若桑みどりによる「マリアとヴィーナス」の理解】


以上、若桑みどりのヴィーナス論について、『ヴィーナスの誕生―ルネサンスの女性像』(ジャルパック・センター、1983年)をもとに紹介してみた。

要点を箇条書き風にまとめておく。
・15世紀後半、フィレンツェに住むボッティチェリは、「ラ・プリマヴェーラ(春)」というイタリア・ルネサンス絵画において、聖母マリアがもっていた聖なるものと、ヴィーナスがもっていた地上的な女の面を、思想的にも造形的にも一致させていた。
・その思想的背景には、メディチ家と関わりの深いフィチーノの新プラトン主義が存在し、大きな役割を果たした。
・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」という絵には、天上的な存在であるヴィーナスが描かれている。
・16世紀初頭、ヴェネツィアのティツィアーノは、「天上の愛と地上の愛」という絵画において、ボッティチェリの絵画で二つに分かれていた“天上のヴィーナス”と“地上のヴィーナス”を一つの画面に描いた。新プラトン主義のヴィーナス論を具現化し、地上の愛と、天上(キリスト教)への愛という二つのバランスを完成した傑作を残した。
・イタリア・ルネサンスは、政治的、経済的、宗教的理由から、1520年代に終焉を迎え、1580年代までマニエリスム芸術が続く。
・ミケランジェロは、15世紀後半に生まれ、新プラトン主義の影響を受けたが、15世紀末に、サボナローラの影響を強く受けた。
・ミケランジェロが1530年代に制作した彫刻「勝利の群像」は、女性への愛もしくはヴィーナスの形をとらず、アポロンの形をとった作品である。
・ティツィアーノの「天上の愛と地上の愛」が、ルネサンスという幸福な時代の表現であるとすると、ミケランジェロの「勝利の群像」は、マニエリスムという危機の時代の愛の姿であった。
・16世紀、マニエリスム芸術の代表的な画家であるフィレンツェのブロンズィーノの「愛の寓意」は、ヴィーナスの完全に下降した姿、神性を剝ぎ取られたヴィーナスの姿が描かれている。それは、ヴィーナスとマリアの調和の美しさの終わりであった。
・ヴィーナスに象徴される人間の愛が堕落した形で表現される中で、マリアの方もルター派により、その崇拝を否定され、その聖性も剥奪され、プロテスタント側では描かくなった。一方、カトリック側は、マリアを美しくしていたヴィーナス性を消し、人間的なマリアを描かなくなり、極端に聖性化したマリアを描くようになった。



要点のみを、表にまとめてみると、次のようになろうかと思う。

































芸術家 作品名 マリアとヴィーナスの関係

ボッティチェリ
「ラ・プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」 聖母マリアとヴィーナスの一致

ティツィアーノ
「天上の愛と地上の愛」 天上と地上のヴィーナスを一つの画面に描く

ミケランジェロ
「勝利の群像」(アポロン像) ※独特の芸術観~ヴィーナスに興味なし

ブロンズィーノ
「ヴィーナスとアモール(愛の寓意)」 神性を剝ぎ取られたヴィーナス