歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星氏の著作より≫

2024-03-31 18:01:00 | 囲碁の話
≪囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星氏の著作より≫
(2024年3月31日投稿)


【はじめに】


 さて、今回のブログでは、次の参考文献をもとにして、「囲碁と『枕草子』と『源氏物語』」と題して、日本囲碁略史について考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
 目次をみてもわかるように、とりわけ「第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史」の「2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来(きた)る」の部分が関連する。
 また、『枕草子』と『源氏物語』と囲碁との関連を考える際に、大河ドラマ「光る君へ」の展開を考えるとイメージしやすい。平本弥星氏も叙述している歴史上の人物が登場してくるからである。
 ちなみに、大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
 ところで、『源氏物語』にも出てきた楊貴妃だが、彼女と玄宗と囲碁との関連については『玄玄碁経』にも登場している。難しい詰碁の問題を添えておく。(『玄玄碁経』の解説と問題の解答は後日時間の余裕のあるときにでも……)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。





【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)







〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇平本弥星氏のプロフィール
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書、2001年)より
・碁を愛した「学問の神様」菅原道真
・醍醐天皇と碁聖寛蓮
・『源氏物語』光源氏のモデル源高明
・『枕草子』の碁話
・藤原道長の「わが世」
・紫式部『源氏物語』
・道長時代の名手
・後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒
・女性と碁
・『源氏物語』空蟬

〇【補足】
・『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より
・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より






平本弥星氏のプロフィール


〇奥付によれば、平本弥星(ひらもと やせい)氏のプロフィールは次のようにある。
・1952年、東京都生まれ。旧名は畠秀史(はたひでふみ)。棋士六段。
・一橋大学卒業。
・高校時代より活躍、1974年学生本因坊。
・1975年、三菱レイヨン入社。
 棋聖戦の創設とオイルショックが重なり、プロ転向を決意し、退社。
・プロテスト合格、1977年日本棋院棋士初段。
・棋士会副会長など日本棋院の運営に尽力。
・古今に比類ない文字詰碁(もじつめご)に定評がある。
・棋士業のかたわら、算数教育にも関心を寄せ、日本数学教育学会、日本教材学会で活動している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、奥付255頁)

※このように、一橋大学を卒業後、一度、三菱レイヨンに入社して、その後プロ転向を決意し、退社し、プロテストに合格して、日本棋院棋士になった点で、一般のプロ棋士とは異なる経歴がある。
 
〇今回の囲碁略史については、平本弥星氏の著作を参考にしたが、似たような内容を石倉昇九段がYou Tubeで講義しておられる。
 石倉昇九段「知られざる囲碁の魅力」(2023年7月27日付)約40分
・石倉昇九段は囲碁の効力について、
 1考える力、2コミュニケーション、3バランス感覚、4集中力、5右脳(受験に役立つ)、6国際力、7礼儀を挙げて、解説しておられる。
・また、囲碁を愛した人々として、
 紫式部(源氏物語「空蟬」)、清少納言(枕草子「心にくきもの」「したり顔なるもの」)、徳川家康、徳川慶喜、大久保利通、正岡子規、大隈重信、アインシュタイン、ビルゲイツ、鳩山一郎、習近平を挙げている(40分中の22分~29分頃)。
・石倉昇九段のプロフィール
 1954年生まれ、横浜市出身。
 1973年麻布高校卒業、1977年東京大学法学部卒業、日本興業銀行入行、
 1979年退職し、プロ棋士試験合格、1980年日本棋院棋士初段、2000年九段
 2008年東京大学客員教授就任

※石倉昇九段も、東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行し、退職し、プロ棋士試験に合格し、日本棋院棋士になっておられる。



囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星『囲碁の知・入門編』より



囲碁と『枕草子』と『源氏物語』

碁を愛した「学問の神様」菅原道真


・関白藤原基経が没すると(891)、宇多天皇は藤原氏に対抗する菅原道真を重用。
醍醐天皇への皇位継承(897)を道真一人に相談した。
・学者の名家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ったという。
 道真の『菅家文草(かんけぶんそう)』に碁の詩があり、道真が論語を学んだ唐人が碁を打つ様子を詠んだ24歳のときの碁詩は、唐の名手王積薪にふれている。
 王積薪に碁経があることも、その詩に添え書きしてある。
・道真が遣唐使の大使を命じられた(894)裏に、道真排除を図る藤原氏がいたという説がある。
 道真は再議を求めて派遣を停止。遣唐使はこれをもって廃絶した。
・道真は天皇廃立を謀ったとされ(901)、大宰府に左遷され、悲嘆のうちに他界した。

※菅原道真(845-903)
・899年右大臣。死後、学問の神として尊崇。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、167頁)

醍醐天皇と碁聖寛蓮


・道真を排除した藤原時平も優れた政治家で教養に富み、碁を打った。
 延喜7年(907)、醍醐天皇御前で親王と対局したと『扶桑略記』にある。
・時平が没すると(909)、醍醐天皇は親政を行なうが、飢饉や疫病が続き、人心は荒廃した。右大臣藤原忠平は貴族の利益保護政策を採り、律令制は崩壊に至る。
・日本で初めて碁聖と呼ばれた名手は、宇多法皇と醍醐天皇に寵愛された法師寛蓮である。
 『花鳥余情(かちょうよせい)』に寛蓮は「碁聖」とあり、延喜13年(913)「碁式を作りて献ず」とある。
・『今昔物語集』に醍醐天皇は寛蓮を「常に召(めし)て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊ばしけれども、寛蓮には先(せん)二つ」の手合とある。
 続く、天皇が寛蓮と金の枕を賭けて打った話は有名である。
 醍醐の従者が枕を毎回取り返しに来るので、寛蓮は金箔を張ったニセ枕を井戸に投げ入れ、持ち帰った本物の金の枕を打ち壊して弥勒寺を建立したとある。

※『扶桑略記』
・比叡山の僧皇園(こうえん、?-1169)による編年体の歴史書。
※寛蓮
・橘良利が出家して寛蓮と名乗り、碁の上手により碁聖といわれたと『花鳥余情』にある。
 『西宮記』には醍醐天皇が寛蓮を召して観碁をしたことが記されている。
 『源氏物語』も棋聖大徳として寛蓮にふれている。
※『花鳥余情』
・『源氏物語』の注釈。30巻。一条兼良(かねら)著、1472年。
※『今昔物語集』
・千を超える古代の説話集。文学的にも優れている。
※『西宮記(さいきゅうき)』
・平安時代中期の有職故実を記した貴重な史料。
※碁式
・現存せず。玄尊の『囲碁口伝』に「碁聖式」から取るとあり、寛蓮の「碁式」ではないかといわれる。
※先二つ
・先と二子の間。先の碁と二子の碁を交代に打つ手合割り。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁~169頁)

平将門の乱


・東国平氏間の争いが発展し、平将門が坂東(ばんどう、関東)に小国家を築こうとした(939)。この「将門の乱」は翌年、平貞盛と藤原秀郷、源経基により収束するが、各地で在地領主化した平氏、源氏が力を蓄えてゆく。
 (平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁)

『源氏物語』光源氏のモデル源高明


・醍醐天皇皇子で賜姓した源高明(みなもとのたかあきら、914-982)は有職故実に精通した明哲で、関白藤原実頼と対立した弟師輔(もろすけ、960没)の娘婿。
 高明の娘は皇太子候補為平(ためひら)親王の妃であった。
・安和2年(969)実頼の末弟師尹(もろまさ)の策謀により、高明は無実の罪で大宰府に左遷される。
・この「安和(あんな)の変」は藤原氏と源氏の争いとされてきたが、今日では藤原氏の内部抗争とみる説が有力である。
 源高明は悲運の人として、光源氏のモデルになった。
・師輔の長男伊尹(これまさ)が摂政となって、高明は召還される(971)が、政治には復帰しない。高明が著した儀式書『西宮記』には、碁に関する記述が多く、高明が碁を好んだことを偲ばせる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、169頁)

『枕草子』の碁話


・師輔の三男兼家が摂政となり、外孫一条天皇を即位させる(986)。
 兼家を継いだ長男道隆は摂政関白となって、娘の定子を入内(じゅだい)させ、
 長男伊周(これちか)を内大臣にした。
・道隆一門が繁栄を極めていた頃、清少納言は和漢の教養を見込まれて、一条天皇の皇后定子に出仕する(993)。
 『枕草子』は、彼女が見聞きした宮廷社会の日々を巧みに書き記した“かな”の随筆集で、碁の話がいくつもある。「心にくきもの」のつぎの一節は印象的である。
  夜いたくふけて、御前にもおほとのごもり、人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥(け)にいるる音のあまたたび聞ゆる、いと心にくし。
(夜ふけて、中宮もやすまれ、女房たちも皆寝た後、外の方で殿上人などの話し声がする。奥からは碁石を笥に入れる音が度々聞こえる。たいへん心ゆかしく思える。)

・道隆が疫病で急死(995)すると、一門は凋落する。
 定子の兄伊周は道隆の同母弟道長と対立し、配流された。
 同年、藤原道長が実質的な関白ともいえる内覧(ないらん)の右大臣になる。
・長保元年(999)道長の長女彰子が一条天皇に入内し、翌年には定子が皇后、彰子が中宮という一帝二后の異例の形がとられた。
 その年の12月、定子は第二皇女の出産により、25歳の若さで世を去る。
・清少納言の宮仕えはわずか数年で終わった。今から千年の昔である。

※藤原道長
・摂政兼家の五男。兄の道隆・道兼が続いて没し(995)、内覧の右大臣、続いて左大臣。
 天皇の外戚となり(1016)摂政。
 翌年摂政を長男頼通(よりみち、992-1074)に譲り、“大殿”として権勢を振るう。
 源雅信の娘(頼通の母)、源高明の娘を室とした。
 頼通の子孫が摂関家として発展。
※藤原伊周(974-1010)
・996年、花山天皇狙撃事件を起こす。
※清少納言(966?-?)
・父は歌人の清原元輔。
 晩年に零落したという事実はなく、清少納言を酷評した紫式部の日記が誤伝の因。
※内覧
・天皇に奏上、天皇が裁可する文書を内見すること。その職。
※中宮
・皇后の居所。転じて皇后の別称。一条天皇の代から二人の皇后がしばしば置かれ、おおむね新立の皇后を中宮と称した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、170頁~171頁)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。

藤原道長の「わが世」


・一条天皇が没し(1011)即位した三条天皇(道長の甥)と道長は不仲であった。
 道長は一族の権勢を維持するために、三条天皇を譲位させて、彰子が生んだ後一条天皇を即位させ、その弟を皇太子(後朱雀天皇)に立てる。
さらに、娘の威子を後一条天皇の中宮に立てた。
・わが世の春を迎えた道長が、威子立后の祝賀の宴で詠んだ歌は有名である。
  この世をば我が世とぞ思ふ望月の
  欠けたることもなしと思へば
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁)

紫式部『源氏物語』


・道長の娘彰子は入内したときまだ12歳で、教養豊かな一条天皇は清少納言が仕える皇后定子を寵愛していた。
・紫式部の宮仕えが始まったのは、彰子の入内(999)と同時とみるのが小山敦子の説。
 彰子のお守役に道長が式部を迎え、『源氏物語』は式部が性教育・情操教育のテキストとして「若紫」の巻から執筆したというものである。
・紫式部が藤原氏でなく源氏の栄華を描いたのはなぜだろうか。
 小山の説はつぎの通りである。
 当時の読者は光源氏の源泉が源高明であることを暗黙に了解し、「安和の変」で悲運の高明に人々は哀感と同情をそそられた。高明の娘明子を室とした道長は、高明一族を敬っていた。

※紫式部
・生没年不詳。父は学者、詩人の藤原為時。
※『源氏物語』
・天皇や皇后が朗読を聞く物語。光源氏の女性遍歴。
※小山(おやま)敦子
・「光源氏の原像」『源氏物語とは何か』勉誠社、1991年。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁~172頁)

道長時代の名手


・鎌倉時代初期の成立といわれる『二中歴(にちゅうれき)』の芸能篇囲碁の部に、10人の碁聖が列記されている。
 「碁聖 寛連(ママ)、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者」
寛蓮のほか祐挙、高行、教覚、道範、長範は「中世囲碁事情」に経歴が記されている。
 その一人祐挙は『権記(ごんき)』長保5年(1003)6月20日の条から確認できる。
   詣左府、北馬場納涼、右衛門督設食、有碁局・破子、祐挙・則友囲碁、祐挙勝、給懸物
・藤原道長(左府)の宮殿で納涼の宴があり、祐挙と則友を招いて観碁が催され、祐挙が勝ち、懸物(かけもの)を給わったということである。(「破子(わりご)」とは弁当のこと)
 名手の碁を観戦して楽しんだ道長は、自身も碁を打ったことだろう。

※『二中歴』
・鎌倉時代初期成立。平安時代に関する貴重な史料。
※『権記』
・権(ごんの)大納言藤原行成(ゆきなり)の日記。摂関期の根本史料。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、172頁~173頁)

後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒


・「平忠常(ただつね)の乱」(1028)を鎮定した源頼信に続く頼義、義家の三代は、「前九年の役」と「後三年の役」で東北の武士を傘下に収めようとした。
 「後三年の役」は、清原武則の孫真衡(さねひら)が碁に夢中で、無視された吉彦(きみこ)秀武が怒って帰ったことが発端と伝えられる。
・道長の長男頼通は、後一条天皇の摂政となり(1017)、続く後朱雀天皇、後冷泉天皇の50余年間、摂政・関白の座にあった。
 しかし外孫の皇子を得られず、後冷泉天皇が崩じて対立する後三条天皇が即位(1068)すると、弟の教通(のりみち)に関白を譲った。
・教通が病危急のとき、高僧の言により碁を打たせるとたちまち平癒したと『古事談(こじだん)』にあり、教通は碁狂だったのかもしれない。

※『古事談』
・鎌倉時代の説話集。源顕兼(1160-1215)編。
※源頼信(968-1048)
・道長の近習。
※源頼義(988-1075)
・頼信の長男。
※源義家(1039-1106)
・頼義の長男。天下第一武勇之士と評された。
※前九年の役(1051-62)
・鎮守府将軍源頼義と陸奥の安倍一族の戦。
※後三年の役(1083-87)
・鎮守府将軍源義家と清原一族の戦。
 朝廷は私闘とみなし、勝利した義家に恩賞を行なわなかった。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、173頁)

女性と碁


・碁は、女性と男性が対等にプレイできる競技である。
 碁は身体の大きさや筋力、あるいは障害などの身体的差異が関係ない頭脳のスポーツである。
 碁はマラソンに似て持久力が重要であるが、その面でも男性に負けない女性が少なくないことはいうまでもないだろう。
・事実、昔から女性は碁を打っていた。
 中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をしたと思われる。
 8世紀末の日本では、井上(いかみ)皇后が光仁天皇と碁を打って勝った話が『水鏡』に記されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)

『源氏物語』空蟬


「源氏物語」は、日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長篇の大恋愛小説である。
・今から千年も昔、わが国の王朝華やかなりし平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』を、現代文に翻訳して著した瀬戸内寂聴はこのように記している。
  
・『源氏物語』では碁にふれた一節がいくつかあり、「空蟬(うつせみ)」には対局風景が描写されている。話の「奥の人」が空蟬(受領紀伊守の後妻)で、相手は若い娘(紀伊守の妹)である。
  碁打ちはてて、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと静かにのどめて、「待ち給へや。そこは持(ぢ)にこそあらめ。このわたりの劫(こふ)をこそ」
 
 「けち」「持」「劫」と碁の用語を使いこなしていて、紫式部は碁をよくわかっていたことが知られる。
当時の貴族社会で、女性は日常的に碁を打っていたようだ。

・瀬戸内寂聴『源氏物語』(講談社、1996年)では、つぎのように現代語訳されている。
  碁を打ち終って、だめを詰めるところなども機敏そうな感じで、陽気に騒々しくはしゃいでいます。奥の人はひっそりと静かに落ち着いて、「ちょっとお待ちになって、そこは持(じ)でしょう。こちらの劫(こう)を先に片づけましょう」

※著者の平本弥星氏は、次のようにコメントしている。
「けち」を「だめ」と訳しているが、碁で「だめを詰める」のは劫を片づけてから。
 よくわからない「持」はそのままになっている。
 著者が訳せば、つぎのようになるという。
  碁が終わる頃、最後のヨセを打つあたりはキビキビしていて、にぎやかに振る舞っています。奥の人はとても落ち着いていて、「お待ちになって、そこはダメでしょう。こちらのコウを取るべきよ」

・碁をよく知らなければ、紫式部が描写した情景をイメージできない。
 語と語を一対一で対応させる考えも、適切を欠く理由であるという。
 「けち」は「結」で終わりのころのこと。
 碁ではヨセの意味であり、ダメ詰めのこともあるだろう。
 「持」はセキと解釈されてきたが、「持」は双方が五分五分の意。
 セキを意味するほか、ダメの所も「持」であろうという。
 ジゴは「持」であるが、一勝一敗も「持」である。

※ヨセ
・碁の終盤で、双方の地の境界画定をめぐる折衝。
※ダメ
・石の周囲の空点で、地にならない点をいうことが多い。
 ヨセが終わり、残った空点(どちらが打っても得失がない)を埋める「ダメ詰め」をした後、地を計算する。
※コウ
・図の左上のような形。
 黒が1と取ったとき、白がすぐ取り返せない。ほかに一手打ってからであれば取り返せる。
【図】左上はコウ、右下はセキ



※セキ
・図の右下のように、双方の石が切れていて、どちらも相手の石を取れない形。
 双方とも生き石。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、18頁~19頁)

『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より


・『源氏物語』には、楊貴妃について言及が最初から出てくる。

桐壺更衣
 いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶら
ひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際に
はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御
方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして、
安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心を
のみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、
いと、あつしくなりゆき、もの心細げに里がち
なるを、いよいよ「飽かずあはれなるもの」に
おぼほして、人のそしりをも、えはばからせた
まはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部・上人なども、あいなく、目をそばめ
つつ、「いと、まばゆき、人の御覚えなり。唐土
にも、かかる、ことの起こりにこそ、世も乱れ
悪しかりけれ」と、やうやう天の下にも、あぢ
きなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の
例も引き出でつべうなりゆくに、いと、はした
なきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの、
たぐひなきを頼みにて、交じらひたまふ。父の
大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ
の人の、由あるにて、親うち具し、さしあたり
て世の覚え花やかなる御方々にも劣らず、とりた
てて、はかばかしき後見しなければ、「事」ある
時は、なほよりどころなく心細げなり。

【通釈】
 どの(帝の)御代であっただろうか、女御や更衣が大勢
お仕え申し上げていらっしゃるなかに、そう高貴な家柄の方
ではない方で、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方が
あった。(そのため宮仕えの)初めから、「自分こそは」と自負
していらっしゃった女御方は、(この方を)心外で気に食わな
い人として、蔑みかつ嫉妬なさる。(この方と)同じ身分(の更
衣)や、それより低い身分の更衣たちは、なおさら(心が)穏や
かでない。朝夕の宮仕えにつけても、他の人(女御や更衣たち)
の心をむやみに動揺させてばかりいて、(人の)恨みを受ける
ことが重なったためであろうか、ひどく病弱になっていって、
なんとなく心細そうなようすで里に引きこもりがちであるの
を、ますます(帝は)「たまらないほどいじらしい者」とお思い
になって、人の非難をも一向気になさらず、世間の悪い前例に
なってしまいそうなおふるまいである。上達部や殿上人など
も、(女性方でもあるまいに)わけもなく目をそむけそむけし
て、「たいそう、見るもまばゆい(ほどの)人(更衣)へのご寵愛
の受け方である。中国でも、こうしたことが原因で、世も乱れ、
よくないことであったよ」と、しだいに世間一般でも、(お二
人には)お気の毒なことながら、人の悩みの種となって、楊貴
妃の例までも(まさに)引き合いに出して(非難しそうになっ
て)いくので、(更衣は)ひどくぐあいの悪いことが多くあるけ
れども、もったいない(帝の)お気持ちの、世にまたとないこ
とだけを心頼みとして、(他の女性に)交じって(宮仕えを)お
続けになっていらっしゃる。(更衣の)父の大納言は亡くなっ
て、母北の方は、昔風の人で由緒のある方であって、両親が
そろっていて、現実に世間の信望が華やかである御方々(女
御・更衣たち)にも劣らぬよう、(宮中の)どんな儀式に対して
も(北の方が)とりはからってこられたが、(更衣には)これと
いってしっかりした後見人というものがいないので、(いざと
いう)大事なときには、やはり頼るところもなく(更衣は)心細
そうである。

【要旨】
・ある帝の御世、さほど身分も高くなく、後見人にも恵まれない一人の更衣が、帝のご寵愛を一身に受けていた。他の女御・更衣からの嫉妬を受け、更衣は心労のため病気がちである。帝は、世間から政治的な非難までも浴びるなかで、いっそう更衣への愛情を募らせてゆくのであった。

【解説】
・物語は光源氏の両親の愛情生活とそれを取り巻く周囲の状況からときおこされる。
 帝の外戚として権力を手に入れることが上級貴族の第一の望みだった時代において、帝と、さほど身分が高くなく、後見のない更衣の純粋な愛は、嫉妬だけにとどまらず、周囲からの猛反発を受けるのである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、2頁~7頁)


『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より


さて、平本弥星氏も先に見たように、「女性と碁」において、「中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をした」としている。(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
 また、「碁を愛した中国の皇帝」において、さらに詳しく唐代における碁について、次のようなことを述べている。

・隋が衰退して(618)唐が興り、第2代皇帝太宗(在位626-649)のとき「貞観の治」と呼ばれる繁栄を迎えた。詩や書に優れた太宗は碁を愛し、碁の詩を残している。唐の時代、碁はますます盛んになった。

※太宗の碁の詩「五言詠棋」
 手談標昔美 坐隠逸前良
 参差分両勢 玄素引双行
 舎生非假命 帯死不関傷
 方知仙嶺側 爛斧幾寒芳

 碁には昔から名手が現れ、その名手を超える名手が現れる。
 双方勢力を張り合い、白馬それぞれ陣を敷く。
 碁盤の上では傷ついても殺されても何ら実害はない。
 碁の楽しさを知ってこそ、時を忘れて碁を見ていたという爛柯の故事が解ろうというものだ。(訳詩、森田正己)


・第6代皇帝玄宗(在位712-756)は則天武后、韋后と続いた専制政治「武韋の禍」を終わらせ、数々の改革を行なって「開元の盛世」をもたらした。
 玄宗は琴棋書画(きんきしょが)の諸芸に秀で、碁を好んだ。
・晩年に愛した楊貴妃は美貌に加えて才智溢れる女性で、碁も嗜んだと思われる。
 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』につぎの話がある。
 あるとき、帝と親王の碁を観ていた貴妃が抱いていた仔猧を盤上に放った。敗勢であった帝は大いに喜んだ。

※琴棋書画
・琴棋書画の四芸は知識階級の嗜みであった。
 成語に関して、青木正児『琴棋書画』(平凡社東洋文庫)。
※『酉陽雑俎』
・20巻、続巻10巻。9世紀中頃、唐の段成式(だんせいしき)撰。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、153頁)

 このように、唐の玄宗と楊貴妃が碁を嗜んだことに因んで、『玄玄碁経』には「明皇遊月宮勢」と題された詰碁の問題がある。
 『玄玄碁経』とは何か?
 この点についても、平本弥星氏は次のような注釈を加えている。
※『玄玄碁経(げんげんごきょう)』
・元(1271-1367)の1350年頃にまとめられた棋書。
 序文は元を代表する学者の虞集(1272-1348)。
 詰碁集の古典として有名。
 原書には班固(32-92、後漢の史家、文学者)の囲碁論『弈旨(えきし)』、馬融(79-166、後漢の学者)の『囲碁賦』や『囲碁十訣』、囲碁用語解説、「定勢」(定石)や対局譜なども収められている。
〇『玄玄碁経集』全2巻、解説呉清源、平凡社東洋文庫、1980年がある
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、151頁)



 今回、私が参照した『玄玄碁経』は、次の書物である。
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]

・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について



明皇遊月宮勢(めいこうゆうげつきゅうせい)
・楊貴妃と稀世のロマンスのある唐玄宗明皇が中秋賞月の最中に夢想で月世界の月宮に遊ぶ様な形
・手筋は千層宝塔勢と同じで左下から端を発し、これが全局に及ぶというものです。
 最後は左上に到着します。


 手筋は千層寶塔勢と同じ。
 


(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、353頁)



【参考】『玄玄碁経』と死活事典、手筋事典について



〇趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』日本棋院、増補改訂版1996年
その「はしがき」において、趙治勲氏は次のようなことを述べている。

・この巻は、詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した。
・一口に秀れたといってもその基準がむずかしいが、基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした。
・構成は一応、第1部「玄玄碁経」、第2部「官子譜」、第3部「碁経衆妙」と三つに分けたが、あくまで作品を鑑賞していただくのが目的であり、文献を厳密に紹介しようというものではない。
 したがって、たとえば玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた。
・また、問題に不備のあるものは修正し、むずかしいものは少しやさしくするとか、多少手直ししたものがあることもお断りしておきたい。
・雑誌や新聞紙上などで数々の詰碁に出食わすが、それらの作品が実は玄玄碁経や官子譜や碁経衆妙のものだったり、あるいはその焼き直しだったりすることがなんと多いことか、いまさらながら驚かされると同時に、三大古典の優秀性が改めて知らされるのである。
・本書をまとめるに当り、平凡社刊「玄玄碁経」「官子譜」および山海堂刊「玄玄碁経」「官子譜」「碁経衆妙」を参考にさせていただいたので、お礼の意をこめてお断りしておく。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、3頁~4頁)

※このように、趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』(日本棋院、増補改訂版1996年)は、「詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した」ことをまず述べている。
 また、編集にあたって、「基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした」という。
 つまり、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにしたと断っておられるように、「明皇遊月宮勢」の問題のような、「手数が長く、ただむずかしいもの」は除外してある。
 さらに、「玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた」とあるように、『玄玄碁経』の問題の名前はすべて省略してある点にも注意が必要である。
(この点が、私には、編集上の非常に残念な点であった。藤沢秀行『基本手筋事典』や山下敬吾『基本手筋事典』は基本的にはその『玄玄碁経』の問題の名前(題名)が明記してある)。

なお、趙治勲氏は「玄玄碁経」について、次のような解説を付記している。
・玄玄碁経(げんげんごきょう)は中国盧陵(江西省)の名手、晏天章と厳徳甫の共編によるもので、序文の日付は至正7年、すなわち1347年となっており、いまからざっと六百年余前に完成された本である。
・内容は史論、碁経十三篇、囲碁十訣、術語三十二字などにつづいて定石、実戦譜、それに詰碁376題が収められているが、もっとも価値の高いのはなんといっても詰碁であろう。
 のちの官子譜、わが国の碁経衆妙にも、玄玄碁経の詰碁がそのまま、あるいは手直ししたものが、数多く収められている。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、36頁)

※このように、趙治勲氏は、『玄玄碁経』が官子譜や日本の碁経衆妙に与えた重要な文献であることを注目し、とりわけ、詰碁376題の価値の高さを強調している。

≪『源氏物語』の原文を読む(下)~桑原博史『源氏物語』より≫

2024-03-30 19:00:31 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪『源氏物語』の原文を読む(下)~桑原博史『源氏物語』より≫
(2022年3月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでも、引き続き、次の参考書をもとにして、『源氏物語』の原文を読んでいきたい。
〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
 前回のストーリー展開の続きである。
 


【桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)はこちらから】
桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)






〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
【目次】
はじがき
凡例
桐壺
 桐壺更衣(いずれの御時にか…)
 光源氏の誕生(前の世にも、御契りや…)
 桐壺更衣への迫害(かしこき御蔭をば…)
 飽かぬ別れ(その年の夏、御息所…)
 桐壺更衣の死(御胸のみ、つとふたがりて…)
 蓬生の宿(野分だちて、にはかに膚寒き…)
 小萩がもと(「目も見えはべらぬに…)
 くれまどふ心の闇(くれまどふ心の闇も…)
 藤壺宮の入内(年月に添へて、御息所の…)
 光る君とかがやく日の宮(源氏の君は、御あたり…)

帚木
 源氏の二面性(光源氏、名のみことごとしう…)
 頭中将の女性論(「『女の、これはしもと…)
 左馬頭の女性論(「『成り上れども、もとより…)
 
夕顔
 夕顔の咲く辺り(六条わたりの御忍び歩きの…)
 廃院に物の怪出現する(宵過ぐるほど…)
 夕顔の死(帰り入りて探りたまへば…)

若紫
 北山の春(わらは病みにわづらひたまひて…)
 垣間見(日も、いと長きに…)
 初草の生いゆく末(尼君、髪をかき撫でつつ…)
 密会(藤壺宮、悩みたまふことありて…)

末摘花
 前栽の雪(いとど、憂ふなりつる雪…)
 末摘花の容姿(まづ、居丈の高う…)

紅葉賀
 源氏と藤壺の苦悩(四月に、内裏へ参りたまふ…)

葵 
 頼もしげなき心(まことや、かの、六条御息所…)
 御禊の日(御禊の日、上達部など…)
 車争い(隙もなう、立ち渡りたるに…)
 生霊の噂に悩む御息所(おほい殿には、御物の怪…)
 生霊の出現(まだ、さるべきほどにもあらず…)
 そらに乱るるわが魂を(あまり、いたう泣きたまへば…)
 夕霧の誕生と葵の上の死(少し、御声も、しづまりたまへれば…)

賢木
 野の宮(つらきものに、思ひ果てたまひ…)
 御息所との対面(北の対の、さるべき所に…)
 朧月夜との密会(そのころ、かんの君…)
 右大臣の暴露(かんの君、いと、わびしう…)

須磨 
 心づくしの秋風(須磨には、いとど心づくしの…)
 恩賜の御衣(前栽の花、いろいろ咲き乱れ…)
 
明石
 明石の月(君は、「このごろ浪の音に…)

澪標
 明石の姫君(まことや。「かの、明石に…)

薄雲
 うはの空なる心地(冬になりゆくままに…)
 母子の別れ(雪・霰がちに、心ぼそさ…)

少女
 夕霧の元服(大殿腹のわか君の御元服のこと…)

玉鬘
 あかざりし夕顔(とし月へだたりぬれど…)
 椿市の宿(からうじて、椿市といふ所に…)
 衣装配り(うへも、見たまうて…)

胡蝶
 恋文(兵部卿の宮の、ほどなく…)


 絵物語(なが雨、例の年よりもいたくして…)

藤裏葉
 わが宿の藤(ここらの年頃のおもひの…)
 明石の姫君の入内(その夜は、うへ添ひて…)

若菜 上
 いはけなき姫君(三日がほど、かの院よりも…)
 几帳のきは(几帳のきは、すこし入りたる…)

若菜 下
 浅緑の文(まだ、朝すずみのほどに…)

柏木
 薫君の誕生(宮は、この暮れつかたより…)

御法
 紫の上逝去(秋待ちつけて、世の中…)
 
幻 
 もしほ草(落ちとまりて、かたはなるべき…)

橋姫
 黄鐘調のしらべ(秋の末つかた、四季に…)
 月見る姫たち(あなたに通ふべかめる透垣の…)

総角
 身もなき雛(「よろしき隙あらば…)
 空ゆく月(雪の、かきくらし降る日…)

宿木
 形代の君(「年ごろは、『世にあらむ』とも…)

東屋
 衣のすそ(若君も寝たまへりければ…)

浮舟
 橘の小島(「いと、はかなげなる物」と…)
 決意(君は、「げに、只今、いと悪しく…)
 
蜻蛉
 行方知れず(かしこには、人々、おはせぬを…)

手習
 浮舟の出家(「とまれかくまれ、おぼし立ちて…)

夢浮橋
 薫の手紙(尼君、御文ひきときて…)
 人のかくし据ゑたるにや(所につけて、をかしきあるじなど…)

作品・作者解説
源氏物語年立
系図




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・若紫 上 几帳のきは
・御法






若紫 上 几帳のきは



几帳のきは、すこし入りたるほどに、袿姿に
て立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東
のそばなれば、まぎれ所もなく、あらはに見入
れらる。紅梅にやあらむ、濃き、薄き、すぎす
ぎに、あまた重なりたるけぢめ、はなやかに、草
子のつまのやうに見えて、桜の、織物の細長な
るべし。御髪の、すそまでけざやかに見ゆるは、
糸を縒りかけたるやうに靡きて、裾の房やかに
そがれたる、いと美しげにて、七八寸ばかりぞ、
余りたまへる。御衣の、裾がちに、いと細く、
ささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそ
ば目、いひ知らず、あてにらうたげなり。夕か
げなれば、さやかならず、奥、暗き心地するも、
いと飽かずくちをし。鞠に身を投ぐる若者だち
の、花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見る
とて、人々、あらはを、ふとも、え見つけぬな
るべし。猫のいたくなけば、見かへりたまへる
おももち・もてなしなど、おいらかにて、「若く、
うつくしの人や」と、ふと見えたり、大将、い
と、かたはら痛けれど、はひ寄らむも、中々、
いと軽々しければ、ただ、心を得させて、うち
しはぶきたまへるにぞ、やをら、ひき入りたま
ふ。さるは、我が心地にも、いと飽かぬ心地し
たまへど、猫の綱、ゆるしつれば、心にもあら
ず、うち嘆かる。まして、さばかり、心を染め
たる衛門督は、胸ふとふたがりて、「たればかり
にかはあらむ。ここらの中に、しるき袿姿より
も、人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、
心にかかりておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれ
ど、「まさに、目とどめじや」と、大将は、いと
ほしくおぼさる。わりなき心地の慰めに、猫を
まねき寄せて、かき抱きたれば、いと香ばしく
て、らうたげにうちなくも、なつかしく思ひよ
そへらるるぞ、すきずきしきや。

【通釈】
几帳のそばから、少し(奥に)入ったあたりに、袿姿で
立っていらっしゃる人がいる。(寝殿の中央の)階段から西の
二番目の柱間の東の端なので、(夕霧と柏木のところからは)
何の邪魔になるものもなく、丸見えに中が見えてしまう。(そ
の人は)紅梅襲(の袿)であろうか、紅色の濃い色や薄い色が、
次々に、たくさん重なっている(その重ね目の)色のちがいが、
華やかで、(いろいろな色の紙を重ねてとじた)草子の端のよ
うに見えて、(その上は)桜襲の、織物の細長であろう。御髪
が、末のほうまであざやかにくっきりと見えるのは、糸をよ
ってうちかけたようになびいて、髪の先がふさふさとして切
りそろえられているのは、たいそうかわいらしいようすで、
(身長より)七、八寸ほど余っていらっしゃる。お召し物が、
(小柄なせいで裾がたっぷり余って)裾ばかりのような感じ
で、たいそうほっそりとして、小柄で、全体の姿や、髪のか
かっていらっしゃる横顔が、何ともいいようのないほど、上
品でかわいらしげである。夕暮れの日の光なので、はっきり
とは見えず、奥が暗い気がするのも、(柏木には)たいそう物
足りなく残念である。蹴鞠に熱中している若い君たちが、花
の散るのを惜しむひまもなく(夢中で蹴っている)ようすを見
ようとして、女房たちは、(姫君が外から)丸見えなのを、す
ぐには見つけることができないのであろう。(御簾の外に出
た)猫がひどく泣く(ママ)ので、(それを)ふり返りなさった(女三の
宮の)顔つきや身のこなしなどは、おっとりとして、「若くて、
かわいい人であるなあ」と、(柏木は)ふと思われた。(夕霧の)
大将は、たいそう、はためにも気の毒で見てはいられない気
がするけれども、(御簾をなおしに)はって近よるのも、かえ
ってたいそう軽率であるので、ただ、気づかせようと、せき
ばらいをなさった(とき)に、(女三の宮は)静かにそっと、(奥
へ)ひっこんでしまわれた。(知らせた)とはいうものの(夕霧
は)自分の気持ちにも、たいそう物足りない思いがなさるけれ
ども、猫の綱を放したので、(御簾が下りて何も見えなくなり)
思わず、(夕霧は)ため息をつく。ましてや、あれほど(女三の
宮に)心を奪われている衛門督(柏木)は、胸がふっと一杯にな
って、「(今の方は)どれほどの人であろうか、いや(あの恋し
い女三の宮)その人以外の誰でもない。大勢の(女房たちの)な
かで、はっきりとめだつ袿姿からしても、他の人とみまちが
えるはずのなかった(女三の宮の)ごようすよ」などと、心に
かかってお思いになる。(柏木は)そしらぬ顔にふるまってい
るけれども、「どうして(女三の宮に)目をつけないだろうか、
いや目をつけたに違いない」と、大将(夕霧)は、(女三の宮を)
気の毒にお思いになる。(柏木は)やるせない気持ちの慰めに、
(さっきの)猫をよびよせて、抱いてみると、たいそう(女三の
宮の移り香が)香ばしく、かわいい感じで鳴くにつけても、心
ひかれて(その猫を女三の宮に)自然となぞらえてしまうの
も、好色じみているよ。

【解説】
・蹴鞠の後、夕霧は姿を見られた女三の宮を軽率だと思った。
 柏木は恋い焦がれる人の姿を目のあたりにしたことを自分の思いが通じたからだと思っていた。帰りの牛車の中で柏木は源氏の愛情の薄さをあからさまにして女三の宮への同情を示すが、夕霧はそれを打ち消して源氏を弁護した。この後柏木の物思いは深くなり、柏木の乳母の妹の子の小侍従(こじじゅう)が女三の宮の乳母子でおそばに仕えているのを唯一、女三の宮とのつながりにして、手紙を差し上げたりする。
 女三の宮は柏木からの手紙で自分が姿を見られたことを知るが、それを恥じるより先に源氏にしかられることを恐れるのであった。小侍従は、どのみちかなわぬ恋ゆえ、あきらめるべきだと柏木に返事を書いた。しかし柏木は、蹴鞠の日の出来事が自分と女三の宮とを結びつける運命の啓示に思われてならないのであった。

◆研究◆
一 次の傍線部を口語訳し、主語を書け。
①あてにらうたげなり
②え見つけぬべし
③はひ寄らむも、中々
④やをら、ひき入りたまふ
⑤さらぬ顔にもてなしたれど

二 次の助動詞を説明せよ。
①まぎれ所もなく、あらはに見入れらる
②桜の、織物の細長なるべし
③裾の房やかにそがれたる
④惜しみもあへぬ気色ども


<解答>
一 
①上品で、優美で。女三の宮
②見つけることができない。女房たち
③かえって、むしろ。夕霧
④そっと、静かに。女三の宮
⑤知らん顔。柏木


①自発・終止形
②断定・連体形。推量・終止形
③受身・連用形
④打消・連体形
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、264頁~269頁)


御法


御法(源氏五十一歳の三月から秋まで)
【梗概】
・紫の上は病に倒れて以来(若紫下)、健康がすぐれず、出家を願うが、源氏が許さない。
 せめてもの後世の功徳にと、三月十日桜の盛りに、法華経千部の供養が二条院で行われた。
 紫の上は万事これで最後になるのではと死を予感し、明石の上や花散里に別れの歌を贈った。
暑い京都の夏が紫の上を衰弱させ、紫の上の病は重くなるばかり。若宮たちの成長を見届けられぬ残念さをかみしめ、三の宮(匂宮)に、大人になったら二条院に住み、紅梅と桜を大切にしてほしいと遺言する。
 八月、少しは涼しくなったころ、紫の上に死が迫っていた。
【主要登場人物】
・紫の上(四十三歳)・明石の中宮(二十三歳)

【紫の上逝去】
 秋待ちつけて、世の中、すこし涼しくなりて
は、御心地も、いささか、さわやぐやうなれど、
なほ、ともすれば、かごとがまし。さるは、身
にしむばかりおぼさるべき秋風ならねど、露け
きをりがちにてすぐしたまふ。中宮は、参りた
まひなむとするを、「今しばしは、御覧ぜよ」と
も、聞こえまほしうおぼせども、さかしきやう
にもあり、内裏の御使ひのひまなきにも、わづ
らはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなた
にも、え渡りたまはねば、宮ぞ、わたりたまひ
ける。「かたはらいたけれど、げに、み奉らぬも、
かひなし」とて、こなたに、御しつらひを殊に
せさせたまふ。こよなう痩せほそりたまへれど、
「かくてこそ、あてになまめかしきことの限りな
さも、まさりて、めでたかりけれ」と、来し方、
あまり匂ひ多く、あざあざとおはせしさかりは、
中々、この世の花のかをりにも、よそへられた
まひしを、限りもなくらうたげに、をかしげな
る御さまにて、いとかりそめに、世を思ひたま
へる気色、似る物なく心苦しく、すずろに物悲
し。風、すごく吹き出でたる夕暮れに、前栽見
たまふとて、脇息によりゐたまへるを、院、わ
たりて、見奉りたまひて、「今日は、いとよく、
起き居たまふめるは、このお前にては、こよな
く、御心もはればれしげなめりかし」と、聞こ
えたまふ。かばかりの隙あるをも、「いと嬉し」
と、思ひ聞こえたまへる御気色を、見たまふも、
心苦しく「つひに、いかにおぼし騒がむ」と思
ふに、あはれなれば、
  おくと見るほどぞはかなきともすれば風に
  乱るる萩の上露
 げにぞ、折れかへり、とまるべうもあらぬ花の露
も、よそへられたる、をりさへ忍びがたきを、
  ややもせば消えを争ふ露の世におくれ先だ
  つほどへずもがな
とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、
  秋風にしばしとまらぬ露の世を誰か草葉の
  うへとのみ見む
と、聞こえかはしたまふ。御かたちども、あら
まほしく、見るかひあるにつけても、「かくて、
千年を過ぐすわざもがな」と、おぼさるれど、
心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ、
悲しかりける。「いまは、わたらせたまひぬ。乱
り心地、いと、苦しくなりはべりぬ。いふかひ
なくなりにけるほどと言ひながら、いと、な
めげにはべりや」とて、御几帳ひき寄せて、臥
したまへるさまの、常よりも、いと、頼もしげ
なく見えたまへば、「いかにおぼさるるにか」と
て、宮は、御手をとらへ奉りて、泣く泣く、見
奉りたまふに、まことに、消えゆく露の心地し
て、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、
かずも知らず、たち騒ぎたり。さきざきも、か
くて生き出でたまふをりにならひて、「御物の
怪」と、うたがひたまひて、夜一夜、さまざま
のことを、し尽くさせたまへど、かひもなく、
明け果つるほどに、消えはてたまひぬ。

【通釈】
待ちかねた秋がきて、世の中が少し涼しくなってからは、
(紫の上の)ご気分も少しはさわやかになるようだけれども、(病
気には)やはり、(涼しさが)ともすれば(障害となって)恨み言を
言いたい状態である。そうではあるが、身にしみるほどにお感じ
になるような秋風ではないけれども、(紫の上は)涙にぬれるおり
が多くなってお過ごしなさる。(明石の)中宮は、(内裏に)参内
なさろうとするのを、「もうしばらく、(私の顔を)ご覧ください」
とも申し上げたいと(紫の上は)お思いになるのだが、(それも)差
し出がましいようでもあり、内裏からの(お召しの)お使いがひっ
きりなしなのも気にかかるので、(中宮に)そうも申し上げられず
に、(中宮の住む)あちら(の東の対)にも、(紫の上は)出かけるこ
ともおできになれないので、中宮が(紫の上のほうに)おいでにな
った。(紫の上は)「(こんなに取り乱していて)きまりが悪いので
すが、まったく(あなたに)お目にかからないのも、残念でかいの
ないこと」と言って、こちらにお座席を特別に作らせなさる。(紫
の上は)ひどくやせほそりなさったけれども、「かえってこのほう
が、上品で優雅なことのこのうえなさも、(普段に)まさって、す
ばらしいことだよ」と、今まであまりにつやつやとした美しさが
こぼれるほどで、きわだって鮮やかな美しさでいらっしゃった女
盛りには、かえって俗世間の桜の花の美しさにでも、たとえられ
なさったのだが、(今は)限りもなく愛らしげで美しいごようす
で、たいそうはかないものと、この世を思っていらっしゃるよう
すが、似るものもないほどおいたわしくて、(明石の中宮は)むや
みに物悲しい。風が、気味わるいほど吹き始めた夕暮れに、(紫の
上が)庭の植えこみをご覧になろうとして、脇息によりかかって
座っておいでになると、院(源氏)が、(こちらへ)おいでになっ
て、(紫の上のようすを)見申し上げなさって、「今日はたいそうよ
く、起きて座っておいでのようですね。この(明石の中宮の)お前
では、このうえもなく、ご気分も晴れ晴れとなさるようですね」と
申し上げなさる。このくらいの(ちょっと気分がよく病気が落ち
着く)ひまがあるのでも、(源氏が)「たいそう嬉しい」と思い申し
上げなさっているごようすをご覧になるのも、(紫の上は)気の毒
でつらく、「しまいに、(私が死んでしまったら)どんなに(源氏が)
嘆き騒ぎなさるであろうか」と思うと、しみじみと胸がしめつけ
られて、
 (紫の上は)(萩の上に)置いたかと見る間もはかないこと、
  どうかすると(吹く)風に(すぐにも)乱れ落ちてしまう萩
  の上の露(のような私)よ、
 なるほど、(歌のとおり吹く風に萩の枝が)折れかえり、とどま
ることのできそうにない花の露が、自然と(紫の上の身の上に)た
とえられるのも、おりがおりだけに(悲しさが)忍びがたいのを、
  (源氏は)ややもすれば(先に)消えるのを争う露のような
  世の中で(私たちは)遅れたり先立ったりする間もおかず
  に(二人はいっしょに)いたいものです
と言って、お涙を払いきれないでいらっしゃる。
  宮(明石の中宮)は、秋風に(吹かれて)しばらくの間もと
  どまっていない露のような世の中を、いったい誰が、草
  の上の露のこととばかり見るでしょうか(人の世もまた
  はかないものです)
と、ご唱和になる。(紫の上と明石の中宮の)お顔だちが、(ど
ちらも)こうありたいと思われるほど申し分なく、見るかいの
ある美しさであるにつけても、(源氏は)「このままで千年を
過ごす方法があったらなあ」とお思いになるけれども、思う
にまかせぬことなので、(逝く人を)ひきとめる方法がないの
が悲しいのであった。(紫の上は)「もう、お帰りくださいま
せ。気分がたいそう苦しくなりました。どうにもならなくな
った状態とはいいながら、たいそう失礼なことですから」と
言って、御几帳を引き寄せて、横になられたようすが、いつ
もよりひどく頼りなさそうにおみえになるので、(明石の中宮
は)「どんな具合でいらっしゃいますか」と、(紫の上の)お手
をとり申し上げて、泣きながら見申し上げなさると、本当に、
消えてゆく露のような感じがして、(とうとう)最期におみえ
になるので、御誦経の使いたちが、(寺々へ)数知れず(差し向
けられ)、大騒ぎである。以前にも、このようになって生き返
りなさったときにならって、「(今度も)御物の怪(のせいか)」
と、(源氏は)お疑いになって、一晩中、さまざまな(加持祈祷
などの)ことをお尽くしなさったけれども、そのかいもなく、
夜が明けきるころ、(露のように)消えはてなさった。

◆研究◆
一 「かばかりの隙」とは誰のどのような状態か。
二 「思ひ聞こえたまへる」の「聞こゆ」と「たまふ」は、それぞれ誰の誰に対する敬意か。
三 「つひにいかにおぼし騒がむ」の「つひに」とは、どういうことを指しているか。
四 「おくと見る……」の歌から掛け詞をあげて説明せよ。
五 「おくれ先だつほどへずもがな」を訳せ。

<解答>
一 紫の上の病気が小康状態で起き上がって前栽を見ている状態。
二 聞こゆ=作者の紫の上への敬意
  たまふ=作者の光源氏への敬意
三 紫の上の死
四 「おく」に、露が「置く」と、紫の上が「起く」が掛けてある。
五 とり残されたり先立ったりする間をおかないで一緒に死にたいものだなあ。

【解説】
・紫のゆかりとして源氏に迎えられてから三十数年、生涯の伴侶として喜びも悲しみも共に歩んできた紫の上は、明石中宮に手をとられたまま意識が遠のき、露のように消え果ててしまう。
 紫の上をひそかに恋い慕っていた夕霧が中心となって、翌日の八月十五日、葬送が行われた。  
 源氏は魂が抜けたようになり、ひたすら仏事に専念し、出家を願うのであった。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、281頁~287頁)

≪『源氏物語』の原文を読む(上)~桑原博史『源氏物語』より≫

2024-03-20 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪『源氏物語』の原文を読む(上)~桑原博史『源氏物語』より≫
(2022年3月20日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の参考書をもとにして、『源氏物語』の原文を読んでいきたい。
〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
 分量が膨大なので、ストーリー展開が最小限度わかる部分に限り、名文とされる「桐壺 蓬生の宿」「賢木 野の宮」などを取り上げることにした。



【桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)はこちらから】
桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)






〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
【目次】
はじがき
凡例
桐壺
 桐壺更衣(いずれの御時にか…)
 光源氏の誕生(前の世にも、御契りや…)
 桐壺更衣への迫害(かしこき御蔭をば…)
 飽かぬ別れ(その年の夏、御息所…)
 桐壺更衣の死(御胸のみ、つとふたがりて…)
 蓬生の宿(野分だちて、にはかに膚寒き…)
 小萩がもと(「目も見えはべらぬに…)
 くれまどふ心の闇(くれまどふ心の闇も…)
 藤壺宮の入内(年月に添へて、御息所の…)
 光る君とかがやく日の宮(源氏の君は、御あたり…)

帚木
 源氏の二面性(光源氏、名のみことごとしう…)
 頭中将の女性論(「『女の、これはしもと…)
 左馬頭の女性論(「『成り上れども、もとより…)
 
夕顔
 夕顔の咲く辺り(六条わたりの御忍び歩きの…)
 廃院に物の怪出現する(宵過ぐるほど…)
 夕顔の死(帰り入りて探りたまへば…)

若紫
 北山の春(わらは病みにわづらひたまひて…)
 垣間見(日も、いと長きに…)
 初草の生いゆく末(尼君、髪をかき撫でつつ…)
 密会(藤壺宮、悩みたまふことありて…)

末摘花
 前栽の雪(いとど、憂ふなりつる雪…)
 末摘花の容姿(まづ、居丈の高う…)

紅葉賀
 源氏と藤壺の苦悩(四月に、内裏へ参りたまふ…)

葵 
 頼もしげなき心(まことや、かの、六条御息所…)
 御禊の日(御禊の日、上達部など…)
 車争い(隙もなう、立ち渡りたるに…)
 生霊の噂に悩む御息所(おほい殿には、御物の怪…)
 生霊の出現(まだ、さるべきほどにもあらず…)
 そらに乱るるわが魂を(あまり、いたう泣きたまへば…)
 夕霧の誕生と葵の上の死(少し、御声も、しづまりたまへれば…)

賢木
 野の宮(つらきものに、思ひ果てたまひ…)
 御息所との対面(北の対の、さるべき所に…)
 朧月夜との密会(そのころ、かんの君…)
 右大臣の暴露(かんの君、いと、わびしう…)

須磨 
 心づくしの秋風(須磨には、いとど心づくしの…)
 恩賜の御衣(前栽の花、いろいろ咲き乱れ…)
 
明石
 明石の月(君は、「このごろ浪の音に…)

澪標
 明石の姫君(まことや。「かの、明石に…)

薄雲
 うはの空なる心地(冬になりゆくままに…)
 母子の別れ(雪・霰がちに、心ぼそさ…)

少女
 夕霧の元服(大殿腹のわか君の御元服のこと…)

玉鬘
 あかざりし夕顔(とし月へだたりぬれど…)
 椿市の宿(からうじて、椿市といふ所に…)
 衣装配り(うへも、見たまうて…)

胡蝶
 恋文(兵部卿の宮の、ほどなく…)


 絵物語(なが雨、例の年よりもいたくして…)

藤裏葉
 わが宿の藤(ここらの年頃のおもひの…)
 明石の姫君の入内(その夜は、うへ添ひて…)

若菜 上
 いはけなき姫君(三日がほど、かの院よりも…)
 几帳のきは(几帳のきは、すこし入りたる…)

若菜 下
 浅緑の文(まだ、朝すずみのほどに…)

柏木
 薫君の誕生(宮は、この暮れつかたより…)

御法
 紫の上逝去(秋待ちつけて、世の中…)
 
幻 
 もしほ草(落ちとまりて、かたはなるべき…)

橋姫
 黄鐘調のしらべ(秋の末つかた、四季に…)
 月見る姫たち(あなたに通ふべかめる透垣の…)

総角
 身もなき雛(「よろしき隙あらば…)
 空ゆく月(雪の、かきくらし降る日…)

宿木
 形代の君(「年ごろは、『世にあらむ』とも…)

東屋
 衣のすそ(若君も寝たまへりければ…)

浮舟
 橘の小島(「いと、はかなげなる物」と…)
 決意(君は、「げに、只今、いと悪しく…)
 
蜻蛉
 行方知れず(かしこには、人々、おはせぬを…)

手習
 浮舟の出家(「とまれかくまれ、おぼし立ちて…)

夢浮橋
 薫の手紙(尼君、御文ひきときて…)
 人のかくし据ゑたるにや(所につけて、をかしきあるじなど…)

作品・作者解説
源氏物語年立
系図




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・桐壺更衣
・光源氏の誕生
・桐壺 蓬生の宿(名文とされる)
・葵 車争い
・葵 夕霧の誕生と葵の上の死
・賢木 野の宮(名文とされる)
・蛍 絵物語~紫式部の物語論






桐壺更衣


 いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶら
ひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際に
はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御
方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして、
安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心を
のみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、
いと、あつしくなりゆき、もの心細げに里がち
なるを、いよいよ「飽かずあはれなるもの」に
おぼほして、人のそしりをも、えはばからせた
まはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部・上人なども、あいなく、目をそばめ
つつ、「いと、まばゆき、人の御覚えなり。唐土
にも、かかる、ことの起こりにこそ、世も乱れ
悪しかりけれ」と、やうやう天の下にも、あぢ
きなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の
例も引き出でつべうなりゆくに、いと、はした
なきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの、
たぐひなきを頼みにて、交じらひたまふ。父の
大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ
の人の、由あるにて、親うち具し、さしあたり
て世の覚え花やかなる御方々にも劣らず、とりた
てて、はかばかしき後見しなければ、「事」ある
時は、なほよりどころなく心細げなり。

【通釈】
 どの(帝の)御代であっただろうか、女御や更衣が大勢
お仕え申し上げていらっしゃるなかに、そう高貴な家柄の方
ではない方で、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方が
あった。(そのため宮仕えの)初めから、「自分こそは」と自負
していらっしゃった女御方は、(この方を)心外で気に食わな
い人として、蔑みかつ嫉妬なさる。(この方と)同じ身分(の更
衣)や、それより低い身分の更衣たちは、なおさら(心が)穏や
かでない。朝夕の宮仕えにつけても、他の人(女御や更衣たち)
の心をむやみに動揺させてばかりいて、(人の)恨みを受ける
ことが重なったためであろうか、ひどく病弱になっていって、
なんとなく心細そうなようすで里に引きこもりがちであるの
を、ますます(帝は)「たまらないほどいじらしい者」とお思い
になって、人の非難をも一向気になさらず、世間の悪い前例に
なってしまいそうなおふるまいである。上達部や殿上人など
も、(女性方でもあるまいに)わけもなく目をそむけそむけし
て、「たいそう、見るもまばゆい(ほどの)人(更衣)へのご寵愛
の受け方である。中国でも、こうしたことが原因で、世も乱れ、
よくないことであったよ」と、しだいに世間一般でも、(お二
人には)お気の毒なことながら、人の悩みの種となって、楊貴
妃の例までも(まさに)引き合いに出して(非難しそうになっ
て)いくので、(更衣は)ひどくぐあいの悪いことが多くあるけ
れども、もったいない(帝の)お気持ちの、世にまたとないこ
とだけを心頼みとして、(他の女性に)交じって(宮仕えを)お
続けになっていらっしゃる。(更衣の)父の大納言は亡くなっ
て、母北の方は、昔風の人で由緒のある方であって、両親が
そろっていて、現実に世間の信望が華やかである御方々(女
御・更衣たち)にも劣らぬよう、(宮中の)どんな儀式に対して
も(北の方が)とりはからってこられたが、(更衣には)これと
いってしっかりした後見人というものがいないので、(いざと
いう)大事なときには、やはり頼るところもなく(更衣は)心細
そうである。

【要旨】
・ある帝の御世、さほど身分も高くなく、後見人にも恵まれない一人の更衣が、帝のご寵愛を一身に受けていた。他の女御・更衣からの嫉妬を受け、更衣は心労のため病気がちである。帝は、世間から政治的な非難までも浴びるなかで、いっそう更衣への愛情を募らせてゆくのであった。

【解説】
・物語は光源氏の両親の愛情生活とそれを取り巻く周囲の状況からときおこされる。
 帝の外戚として権力を手に入れることが上級貴族の第一の望みだった時代において、帝と、さほど身分が高くなく、後見のない更衣の純粋な愛は、嫉妬だけにとどまらず、周囲からの猛反発を受けるのである。

◆研究◆
一 「時めきたまふありけり」の、「ありけり」の主語となる部分を文中から抜き出して示せ。
 また、その根拠は何か。

二 「恨みを負ふ積もり」とは具体的にはどんなことか。また、そうなったのはなぜか。説明せよ。

<解答>
一 いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふ
・「が」が同格を示すため。

二 桐壺更衣が他の女御や更衣たちから、恨みを受けることがたび重なったこと。
  その理由は、自分たちより下または同等の家柄の出にもかかわらず、桐壺更衣がご寵愛を一身に受けているのを嫉妬したため。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、2頁~7頁)


光源氏の誕生


 前の世にも、御契りや深かりけむ、世になく
清らなる、玉のをのこ御子さへうまれたまひぬ。
「いつしか」と、心もとながらせたまひて、急ぎ
参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御かた
ちなり。一の御子は、右大臣の女御の御腹にて、
寄せ重く、「疑ひなき儲けの君」と、世にもてか
しづき聞こゆれど、この御にほひには、並びた
まふべくもあらざりければ、おほかたのやむご
となき御思ひにて、この君をば、わたくし物に
おぼほしかしづきたまふこと限りなし。母君、
初めより、おしなべての上宮仕へしたまふべき
際にはあらざりき。覚えいとやむごとなく、上
衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあ
まりに、さるべき御遊びの折々、何事にも、ゆ
ゑある、事の節々には、先づまうのぼらせたま
ひ、ある時には、大殿籠り過ぐして、やがてさ
ぶらはせたまひなど、あながちに、御前去らず、
もてなさせたまひしほどに、おのづから、かろ
き方にも見えしを、この御子生まれたまひての
ちは、いと心殊に思ほし掟てたれば、「坊にも、
ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」
と、一の御子の女御はおぼし疑へり。人より先
に参りたまひて、やむごとなき御思ひ、なべて
ならず、御子たちなどもおはしませば、この御
子の御いさめをのみぞ、なほ、「わづらはしく、
心苦しう」思ひ聞こえさせたまひける。

【通釈】

(帝と更衣とは、この世ばかりでなく、)前世において
も、ご縁が深かったのであろうか、世にたぐいのない美しい
玉のような皇子までがお生まれになった。(帝は皇子のごよう
すを)「いつになったら(見られるか)」と、待ち遠しがりなさっ
て、急いで参内させてご覧になると、たぐいまれな(美しい)
若宮のご容貌である。第一皇子は、右大臣家の(娘である)女
御の御腹の御子で、後見人(の勢い)が強く、「まちがいなく皇
太子になる御方」として、世間でたいせつに思い申し上げて
いるけれども、この(若宮の)みずみずしいお美しさには、(第
一皇子はとうてい)立ち並びなさるべくもなかったので、(帝
は第一皇子に対しては)なみひととおりのご寵愛ぶりで、この
若宮をば、ご秘蔵の子と思われてたいせつにあそばすことこ
のうえもない。母の更衣は、元来、普通の上宮仕えをなさる
ような軽い身分ではなかった。世間の評価もたいそう高く、
いかにも貴夫人らしいようすであるが、(帝が)むやみにお側
につきそわせて、お離しにならない結果として、しかるべき
管弦のお遊びの折々や、(またその他の)何事につけても、趣
のある(催しの)折ごとには、(だれをおいても、)真っ先に(こ
の方を)参上おさせになるし、ある時には、(ご一緒に)寝過ご
しなさって、そのままお側におおきになるなど、むやみにお
側を離れないようにお扱いになっていらっしゃるうちに、自
然と軽い身分の者のように見えたのだが、この若宮がお生ま
れなさってから後は、(更衣のことを)格別に考えを定めてお
扱いになっているので、「皇太子にも悪くすると、この若宮が
おなりになるのかもしれない」と、第一皇子の母女御は、お
疑いになっている。(この方は、他の)人(女御や更衣たち)
よりも先に入内(じゅだい)なさって、(それだけに帝の)大切(なお方)と
のお思いはひと通りではなく、(幾人かの)御子たちもおいで
になるので、(他のお方はともかく)このお方のご苦情だけは、
(帝は)やはり「わずらわしく、(また)お気の毒なこと」とお
思い申しておいであそばされた。

【要旨】
・前世からの浅からぬ因縁があったためか、更衣には玉のように美しい若宮がお生まれになる。
 更衣と若宮への帝の深いご愛情をみて、第一皇子のご生母弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は悪くすると皇太子の地位をこの皇子に奪われるのではないかと心穏やかではいられなかった。

【解説】
・この後の物語に描かれた、あまりに理想化された光源氏像は、しょせん昔物語の主人公にすぎないからだという批判も多い。
 しかし、両親のままならぬ悲恋が語られるゆえに、対照的に、恋愛における自由人として思うままに行動できる絶大な魅力を備えた光源氏を読者は同情とともに受け入れることができるのである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、7頁~12頁)

名文とされる

桐壺 蓬生の宿


 野分だちて、にはかに膚(はだ)寒き夕暮れのほど、
常よりも、おぼし出づること多くて、靭負(ゆげひ)命婦
といふを遣(つか)はす。夕月夜のをかしきほどに、
出だし立てさせたまひて、やがてながめおはし
ます。かやうの折は、御遊びなどせさせたまひ
しに、心殊なる、物の音をかき鳴らし、はかな
く聞こえ出づる言の葉も、人よりは殊なりしけ
はひ・かたちの、面影につと添ひておぼさるる
にも、「闇のうつつ」には、なほ劣りけり。命
婦、かしこにまかで着きて、門引き入るるより、
けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひと
りの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目
安きほどにて過ぐしたまひつるを、闇にくれて、
臥したまへるほどに、草も高くなり、野分に、
いとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重
葎にもさはらず、さし入りたる。南面におろし
て、母君も、とみに、えものものたまはず。「今
までとまりはべるが、いと憂きを、かかる御使
ひの、蓬生の露分け入りたまふにつけても、い
と恥づかしうなむ」とて、げに、え堪(た)ふまじく、
泣いたまふ。「『参りてはいとど心苦しう、心・
肝(きも)も、尽くるようになん』と、典侍(ないしのすけ)の奏したま
ひしを、物、思ひたまへ知らぬ心地にも、げに
こそ、いと忍びがたうはべりけれ」とて、やや
ためらひて、おほせ言、伝へ聞こゆ。「『しばし
は、夢かとのみ、たどられしを、やうやう思ひ
しづまるにしも、さむべき方なく、堪へ難きは、
「いかにすべきわざにか」とも、問ひ合はすべき
人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若
君の、いとおぼつかなく、露けきなかに過ぐし
たまふも、心苦しうおぼさるるを、とく、参り
たまへ』など、はかばかしうも、のたまはせや
らず、むせかへらせたまひつつ、かつは、『人も
心弱く見奉るらむ』と、おぼしつつまぬにしも
あらぬ、御気色(みけしき)の心苦しさに、うけたまはりも
果てぬようにてなむ、まかではべりぬる」とて、
御文奉る。

【通釈】
風が野分めいて、急に肌寒い夕暮れのころ、(帝は)い
つもよりも、(亡き更衣のことを)お思い出しになることが多
くて、靭負命婦という人を(更衣の里に)お遣わしになる。
夕月が出て情趣の漂う時刻に、(命婦を)出立おさせになって、
(帝は)そのまま物思いに沈んでいらっしゃる。このような折
には、よく管弦のお遊びなどを催しなさったのであるが、(桐
壺更衣が)特別美しい音色に琴を掻き鳴らし、なにげなく(帝
に)申し上げる歌も、他の人と比べて格別であった(桐壺更衣
の)雰囲気や容貌が、幻となって、ずっとお側に離れずにいる
ようにお感じになるのも、(それが結局は幻に過ぎないから、
あの古歌にある)「闇のなかの現実」にはやはり及ばないこと
であった。命婦は更衣の里に行き着いて、(車を)門内に引き
入れるやいなや、(あたりは)しみじみとした情趣が漂ってい
る。(母君は夫亡き後)やもめ暮しであったがが、(娘の更衣)一
人のご養育のために、あれこれと屋敷の手入れをして、見苦
しくない程度にお暮らしになっていたのに、(更衣の死後は)
子ゆえの闇に(心乱れて)悲しみにくれて臥し沈んでいらっし
ゃる間に、草も高く茂り、それが野分によっていっそう荒れ
た感じで、月の光だけが、八重葎にも妨げられずにさしこんで
いる。寝殿の南正面に(命婦を)降ろして(部屋に招き入れた
が)母君も急にはものもおっしゃることができないでいる。
「今まで生き長らえておりますことがまことにつらいのに、こ
のようなかたじけないお使いが、生い茂った雑草の露を分け
てお入りくださいますにつけても、ひどく恥ずかしく思われ
ます」と言って、いかにもこらえきれぬように(母君は)お泣
きになる。「『(お屋敷へ)伺うと、いっそうお気の毒で、心も
肝も消え失せるように存じられました』と(先日お使いに立た
れた)典侍が、奏上なさいましたが、人情や道理もわきまえま
せん(私の)心にも、なるほど(こちらに伺うと)堪えきれない
ことでございます」と言って、しばらく心を落ち着けてから
(帝の)お言葉を(母君に)お伝え申し上げる。「『更衣が亡く
なった当座)しばらくは(更衣の死は)夢だったのではないか
とただただ思い続けておりましたが、しだいに心が落ち着く
につけても、(夢ではないので)悲しみからさめようもなく、
たまらなく思われるその思いを、「どうしたらよいのか」と
も、相談できる人さえもないのだから、こっそり参内なさっ
てはくださらぬか。若宮がひどく心もとないありさまで、涙
の露のなかで湿っぽくお過ごしになさるのも、気の毒に思わ
れますから、(母君は)早く参内なさい』などと、(帝は)すら
すらともおっしゃりきれず、何度も、涙にむせ返りなさりな
がら、また一方では、人も(自分を)気弱なものだと見申し上
げているだろうと、(周りに)気兼ねなさらないわけでもない
ごようすのお気の毒さに、(お言葉を)終わりまでお聞き申し
上げきらぬありさまで、(御前を)退出してしまいました」と
言って、(帝の)お手紙を差し上げる。

【解説】
・野分、月の光、八重葎といった自然描写が亡き更衣をいたむ人々の心象風景とオーバーラップさせられており、古来「もののあはれ」を感じさせる名文として名高い「野分」の章段はここから始まる。帝、母君、そして間に立つ命婦のそれぞれの意識を丁寧に読み込む必要がある。

◆研究◆
一 「月影ばかり」の「ばかり」は何を言い表そうとしたものか。

二 「物、思ひたまへ知らぬ心地にも」の「たまへ」を文法的に説明せよ。

<解答>
一 人の訪れもないのだが、月の光だけが荒れ果てた庭にさしこんでいること。

二 下二段活用の謙譲の補助動詞「たまふ」の連用形。
  命婦の謙遜の言葉(この「たまふ」は自分の「思う」「考える」「聞く」「見る」などの動作に付けて謙譲の気持ちを表す)

(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、24頁~29頁)

車争い➡六条御息所の恨み、怨霊

車争い


葵 
 車争い(隙もなう、立ち渡りたるに…)

 隙もなう、立ち渡りたるに、よそほしう引き
続きて、立ちわずらふ。よき女房車多くて、雑々
の人なき隙を思ひ定めて、みな、さしのけさす
る中に、網代の、少しなれたるが、下簾のさま
など、よしばめるに、いたう引き入れて、ほの
かなる袖口・裳の裾・汗衫など、ものの色、い
と清らにて、ことさらに、やつれたるけはひ、
著く見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやう
に、さしのけなどすべき御車にもあらず」と、
口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも、若
きものども、酔ひすぎ、立ち騒ぎたるほどのこ
とは、え、したためあへず。おとなおとなしき
御前の人々は、「かく、な」など言へど、えとど
めあへず。斎宮の御母御息所、「ものおぼし乱る
る慰めにもや」と、忍びて出でたまへるなりけ
り。つれなしづくれど、おのづから、見知りぬ。
「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ、
豪家には思ひ聞こゆらむ」など言ふ。その御方
の人も、まじれれば、「いとほし」と見ながら
用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつく
る。つひに、御車ども立て続けつれば、人だま
ひの奥に、押しやられて、ものも見えず。心や
ましきをば、さるものにて、かかるやつれを、
それと知られぬるが、いみじく妬きこと、限り
なし。榻なども、みな押し折られて、すずろな
る車の筒に、うちかけたれば、またなう、人わ
ろく、くやしう、「なにに来つらむ」と思ふに、
かひなし。「ものも見で帰らむ」としたまへど、
通り出でむ隙もなきに、「ことなりぬ」と言へ
ば、さすがに、つらき人の御前わたりの待たる
るも、心よわしや。「ささのくま」にだに、あら
ねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、な
かなか、御心づくしなり。げに、常よりも、好
み整へたる車どもの、我も我もと、乗りこぼれ
たる下簾のすき間どもも、さらぬ顔なれど、
ほほゑみつつ、しりめにとどめたまふもあり。
大殿のは著ければ、まめだちて渡りたまふ。御
供の人々、うちかしこまり、心ばへありつつ渡る
を、おしけたれたるありさま、こよなうおぼさる。
  影をのみみたらし川のつれなきに身のうき
  ほどぞいとど知らるる
と、涙のこぼるるを、人の見るも、はしたなけ
れど、「目もあやなる御さま・かたちの、いとど
しう、出でばえを、見ざらましかば」と、おぼさる。

【通釈】
すきまもなく、(物見車が)立ち並んでいるので、(葵の
上の一行の車は)美しく何台も続いていて、立てる場所に困っ
ている。(そのあたりは)身分のある女性の乗った車が多く、
(そのなかで身分の低い)雑人どもの付いていないあたりをね
らって、みなどかせるなかに、網代車で少し古びたのが、下
簾のさまなど由緒ありげなのに、たいそう(車の奥へ)引き入
れて、(簾のところに)ほんのちょっと(出している)袖口や裳
の裾や汗衫などの色合いがたいそう(見所があって)美しく、
わざと目立たぬようにしているようすがはっきりわかる車が
二台あった。「これは、けっしてそんなふうにのかせなどする
ようなお車ではない」と、(その従者が)強く言い張って、(葵
の供の者に)手を触れさせない。(葵、御息所)双方とも、若い
者どもが酔いすぎて騒いでいるときのことは、どうにもうま
く処理できない。(葵の上方の)年輩の従者が、「そんな(乱暴
な)ことをしてはいけない」などと言うが、とても止めきれな
い。(実はこの車は、)斎宮の御母である御息所が、「物思いに
乱れる心の慰めに(しよう)」と、こっそり(物見に)お出でに
なっているのであった。それとは気づかれぬようにしていた
が、自然と(葵の上方に)わかってしまった。「その程度の身分
のだったら、そんなことを言わせるな。大将殿を後ろだてと
思い申し上げているのだろうが」などと(葵の上の供の者が)
言う。(葵の上の供人のなかには)大将方の人もまじっている
ので、(御息所を)「お気の毒だ」とみるものの、仲裁するの
も面倒なので、知らぬふりをする。ついに、(葵の上方の)お
車を立て続けてしまったので、(御息所の車はそこらの)お供
の(女房の)車の奥に押しやられ、ものも見えない。(御息所は)
気がむしゃくしゃするのはそれとして、このような忍び姿を
それと知られたのが、ひどくしゃくなこと、このうえもない
のである。栩なども全部押し折られて、何の関係もない車の
心棒に轅を掛けてあるので、このうえもなくみっともなく、
悔しくて、「なんで(こんなところへ)来てしまったのだろう」
と思うが、(いまさら)どうにもならない。(御息所は)見物し
ないで帰ろうとなさるが、通り出るすきまもないうちに、「行
列が始まった」と(見物の人々が)言うと、さすがに無情な人
のお通りが待たれるのも、心弱いことよ。「笹の隅」でさえな
いからだろうか。(源氏が馬も止めず)何気なく通り過ぎなさ
るにつけても、(なまじちらっとお姿を拝見したばかりに)か
えってお気をもむことである。なるほど(以前からしたくに気
を配っていただけに)例年よりも趣向を凝らした数々の車の、
(女房が)我も我もとこぼれそうに乗っている下簾のすきます
きまに対しても(源氏は)さりげない顔つきではあるが、(車の
主をそれと知ると)ほほえみながら流し目でご覧になること
もある。(葵の)左大臣家の(車)は、それとはっきりわかるの
で、(源氏は敬意をはらって)まじめな顔つきをしてお通りに
なる。(源氏の)お供の人々が(葵の車の前)ではかしこまって、
敬意を表しつつ通りすぎるので、(御息所は自分の葵の上に)
けおされてしまった姿を、このうえもなく(惨めに)お思いに
なる。
  (御息所は)よそながら影だけを見た源氏がつれないので
   自分のどうにも思うにまかせぬつらい運命がいよいよ思
   い知られたことです。
と(悲しさに)涙が自然にこぼれるのを人にみられるのも体裁
の悪いことだが、「まぶしいほどの(源氏の)お姿、ご容貌が、晴
れの場所でますます引き立つお美しさをもし見なかったとし
たら(心残りであったろう)」とお思いになる。

【要旨】
・遅れて出発した葵の上の一行は、車を並べる場所がないので、そこらの車を後ろに退がらせようとする。その車のなかに、身をやつした六条御息所のお車もあったのである。互いの従者が争うなかで、御息所の車は乱暴にも押しやられ、御息所のプライドはひどく傷つけられてしまうのである。

【解説】
・源氏の薄情さを恨みながらも、そのお姿をひと目みたいという三十路に近い年上の御息所の心理があわれである。
 しかもライバルであり、源氏の子を宿した葵の上の従者に乱暴をされて、体面を傷つけられる。その御息所の恨みは源氏を通り越して葵の上に向かうのであった。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、126頁~131頁)

夕霧の誕生と葵の上の死



 少し、御声も、しづまりたまへれば、「ひま
おはするにや」とて、宮の、御湯もて寄せたま
へるに、かき起こされたまひて、ほどなくむま
れたまひぬ。(中略)
 いと、をかしげなる人の、いたう弱り、そこ
なはれて、あるかなきかの気色にて、臥したま
へるさま、いと、らうたげに、心苦しげなり。
御髪の、乱れたるすぢもなく、はらはらとかか
れる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、「年ご
ろ、何事を、飽かぬことありて、思ひつらむ」
と、あやしきまで、うちまもられたまふ。「院
などに参りて、いと疾うまかでなむ。かやうに
て、おぼつかならず、見奉らば、いと嬉しか
るべきを、宮の、つとおはするに、『心地なくや』
と、つつみて過ぐしつるも苦しきを。なほ、
やうやう心づよくおぼしなして、例の御座所に
こそ。あまり若く、もてなしたまへば、かたへ
は、かくも、ものしたまふぞ」など、聞こえお
きたまひて、いと清げに、うちさうぞきて、出
でたまふを、常よりも目とどめて見いだして、
臥したまへり。秋の司召しあるべき定めにて、
おほい殿も、まゐりたまへば、君達も、いたは
り望みたまふことどもありて、殿の御あたり離
れたまはねば、皆、ひきつづき出でたまひぬ。
殿の内、人ずくなに、しめやかなるほどに、に
はかに、例の御胸をせきあげて、いと、いたう
惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほども
なく、たえ入りたまひぬ。足を空にて、誰も誰
も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、
かく、わりなき御さはりなれば、皆、こと破れ
たるやうなり。

【通釈】
少しお声も静まられたので、「(葵の上は)よい時もおあ
りであろうか(苦しみが和らぎなさったのか)」と、母宮が薬
湯を(葵の上の)お側にお持ちになったので、(葵の上は女房
に)抱き起こされなさって、間もなく(若宮=夕霧が)お生まれ
になった。(中略)
 たいそう美しい人が、ひどく弱り、(病に)やつれて、生き
ているのか死んでいるのかわからないようすで横になってい
らっしゃるようすは、たいそういじらしく、痛々しい感じで
ある。(葵の上は)御髪が一本の乱れたところもなく、はらは
らと枕にかかっているようすは(世に)珍しいほどお美しいの
で、「今まで長年の間、何を不満に思っていたのだろう」と、
(源氏は我ながら)不思議なほど(葵の上に魅きつけられ)自然
と見つめてしまわれる。(源氏は)「(桐壺)院の所などに参上
して、早々に退出してこよう。このように、お側近くで打ち
解けておあいしていれば、(私は)どんなにうれしいことでしょう
に、母宮がずっと(葵の上のお側に)おいでなので、『(私が打ち
解けるのは)たしなみがないのでは』と、遠慮して過ごして
いるのもつらいことです。やはり(あなたは)だんだんと元気
をお出しになって、いつものお部屋に(お戻りください)。あ
まりに子どもっぽくふるまっていらっしゃるから、一方では
このようにいつまでも寝込んだままなのですよ」などと(葵の
上に)申し上げおきなさって、(源氏が)たいそうお美しく装束
をおつけになって(葵のもとから)お出かけになるのを、(葵の
上は)いつになく目をとどめて見送りながら臥していらっ
しゃる。秋の司召しがある予定で、左大臣も参内なさるので、
(左大臣の)ご子息たちも(官位の)昇進をそれぞれ望まれて、
父大臣の周りをお離れにならないので、みな(父に)引き続い
てお出かけになった。邸内は人少なで、もの静かである折に、
(葵の上は)急にいつものようにお胸がこみ上げてきて、たい
そうひどくお苦しみになる。宮中にお知らせする暇もなく、
息が絶えてしまわれた。足も地につかないありさまで、どな
たもどなたも(宮中から)退出なさったので、除目の夜では
あったが、このようにどうしようもないおさしつかえであっ
たので、(行事は)すべて台無しのようになってしまった。

【要旨】
・やがて葵の上は夕霧を出産する。
 源氏はいままでになく葵の上に愛情を感じるのであったが、秋の司召があって、邸内に人少ない折に、葵の上に急逝してしまうのであった。

◆研究◆
一 傍線部の「たまふ」の敬意のおよぶ方向を答えよ。
 少し、御声も、しづまり①たまへれば、「ひまおはするにや」
とて、宮の、御湯もて寄せ②たまへるに、かき起こされ③たまひて、
ほどなくむまれ④たまひぬ。

二 次の表現には誰の、どのような心情が含まれているか。
(1)  あやしきまで、うちまもられたまふ。
(2)  心づよくおぼしなして

三 源氏が心の中で思ったことを述べた部分を一箇所抜き出せ。

四 源氏と葵の上の、相手に対する愛情を感じさせる動作を、
 それぞれ抜き出して示せ。

<解答>
一 
①(母宮の意識を中心に考えると)葵の上に対して
②(母)宮に対して
③葵の上に対して
④若宮(夕霧)に対して
いずれも作者の敬意

二 
(1)  どうしてこれまで不満に思っていた葵の上を、これほどまでにいとおしく思うようになったのだろうかと、不思議に思う源氏の気持ち。
(2) 何とか葵の上自らの気持ちを強くもって元気になってほしいという源氏の気持ち。

三 「年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ」

四 源氏・あやしきまで、うちまもられたまふ
葵・常よりも目とどめて見いだして、臥したまへり

【解説】
・御息所の生霊がのりうつったほうがなつかしさを感じさせるという、葵の上にとっては意地の悪い先の描写のマイナスを取り戻すためか、作者は若君を出産した葵の上と源氏の間に流れるしみじみとした愛情を描いている。
 しかし、その葵の上はあっけなく亡くなってしまうのであった。
 この後、葵の上を悼む鎮魂の場面が連綿と続くのではあるが、純粋な愛情は喪失感を契機としてしか燃え上がらないと作者は考えているかのようである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、143頁~147頁)


名文とされる

賢木 野の宮


賢木(源氏二十三歳九月から二十五歳夏まで)

【主要登場人物】
六条御息所(三十歳から三十二歳)・藤壺(二十八歳から三十歳)・朧月夜の尚侍・左大臣・弘徽殿の大后


 野の宮
「つらきものに、思ひ果てたまひなむも、いとほ
しく、人聞き情けなくや」と、おぼし起こして、
野の宮にまうでたまふ。九月七日ばかりなれば、
「むげに今日・明日」とおぼすに、女がたも、心
あわただしけれど、「立ちながら」と、たびたび
御消息ありければ、「いでや」とは、おぼしわづ
らひながら、いと、あまりむもれいたきを、「物
ごしばかりの対面は」と、人知れず、待ち聞こ
えたまひけり。はるけき野辺を、分け入りたま
ふより、いと、ものあはれなり。秋の花、みな
衰へつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、
松風すごく吹き合はせて、そのこととも、聞き
分かれぬほどに、物の音ども、絶え絶え聞こえ
たる、いと艶なり。睦ましき御前、十余人ばか
り、御随身、ことごとしき姿ならで、いたう忍
びたまへれど、殊に、ひきつくろひたまへる御
装ひ、いと、めでたく見えたまへば、御供なる好
き者ども、所がらさへ、身にしみて思へり。御
心にも、「などて、今まで立ち馴らさざりつらむ」
と、過ぎぬるかた、悔しうおぼさる。ものはか
なげなる小柴を大垣にて、板屋ども、あたりあ
たり、いと、かりそめなめり。黒木の鳥居ども
は、さすがに、神々しう見渡されて、わづらは
しき気色なるに、神宮の者ども、ここかしこに、
うちしはぶきて、おのがどち、ものうち言ひた
るけはひなども、外には、さま変はりて見ゆ。
火焼き屋かすかに光りて、人げなく、しめじめ
として、ここに、物思はしき人の、月日隔てた
まへらむほどを、おぼしやるに、いと、いみじ
うあはれに、心苦し。

【通釈】
(御息所が、自分のこと=源氏を)「薄情でひどい人だ
とすっかり(思い込んで)あきらめてしまわれることも気の毒
で、人が聞いても不人情に思うだろう」と、(源氏の君は)気
持ちをとりなおして野の宮に参られる。九月七日のころなの
で、(御息所の伊勢下向が)「ひたすら今日明日に迫っている」
と(源氏の君はたいへん)気に掛けていらっしゃるので、女君
のほうもお気持ちがあわただしいが、「立ったままで(ほんの
ちょっとでいいから)」と、たびたび(源氏から)お手紙があっ
たので、(御息所は)「さあ、どうしたものか」とお迷いになる
ものの、(お会いしないのも)あまりに引っ込み思案のような
ので、「物越し程度の対面ならば」と、(御息所は源氏を)心ひ
そかにお待ち申し上げた。はるかに広がる(嵯峨の)野を分け
てお入りになるとすぐ、たいそうしみじみと心を打たれる。
秋の花はみな衰え、浅茅が原も枯れ枯れに、(そしてその原の
なかでとぎれとぎれに)鳴き細っている虫の音に、松風がもの
寂しく吹き合わせて、どの琴の音とも聞き分けられないぐら
いに、楽器の音が(野の宮から)とぎれとぎれに聞こえてくる
のは、たいそう優美である。(源氏は)親しい前駆十余人ほど
と、御随身も大げさな姿ではなくて、(ご自身も)たいそうや
つしてはいらっしゃるが、特別に心をお配りになっている(源
氏の)御装いは、たいそうすばらしくお見えになるので、お供
の風流好みの人々は、場所が場所だけに(いっそう)身にしみ
て感じている。(源氏も)お心の中で、「どうして今までたびた
び訪れなかったのだろう」と、これまでのことを悔しくお思い
になる。(野の宮は)簡素な小柴垣を外囲いとして、板葺きの
建物が、そこここに、ほんの間に合わせのように見える。皮つ
きのままの木の鳥居などは、さすがに神々しく(そこここに)見
渡されて、(こういう色事めいたご訪問は)気が引けるよう
すであるうえに、神官たちが、あちらこちらでせきばらいを
して、お互い同士で話をしているようすなども、他(の場所)
とはようすが変わって見える。火焼き屋(の火)がかすかに光
って、人の気配も少なく、ひっそりとしていて、ここに物思
いに沈んでいる人が(世間からはなれて)月日を送っていらし
たであろうさまをお察しになると、たいそうしみじみとして
痛々しい気がする。


【要旨】
・二十三歳になった源氏は、娘とともに伊勢に下ろうとする御息所を嵯峨野の野の宮に訪れる。秋も終わりに近い野を分け入るにつけて、趣が深いことこのうえないのであった。

【解説】
・「桐壺」の巻の野分の場面とならんで、秋も終わりの情景描写と登場人物の心理とが調和して、「もののあわれ」が思い知られる文章として名高い。

◆研究◆
一 文中、掛け詞が用いられている部分が二つある。抜き出して、説明せよ。
二 次の「らむ」の違いを答えよ。
① 立ち馴らさざりつらむと
② 月日隔てたまへらむほど

三 「わづらはしき気色なるに」とあるが、「わづらはし」の意味を答えよ。
 また、なぜ「わづらはし」なのか、その理由を二十字以内で答えよ。

四 「いと、いみじうあはれに、心苦し」と源氏が思ったのはなぜか。二つの視点から答えよ。



<解答>
一 
①かれがれなる・浅茅が原の草が「枯れ枯れなる」と、虫の鳴き声が「嗄(か)れ嗄れ(しわがれて、かすれる)」であり、「離(か)れ離れ(とぎれとぎれ)」なる」状態のこと。
②こと・曲が何なのかという意味での「事」と、楽器の「琴」。

二 
① 推量の助動詞。現在推量の意で、原因推量を表す「らむ」の連体形。
② 完了の助動詞「り」の未然形と、推量の助動詞「む」の連体形。

三 気が引ける。神々しい神域に女性を訪ねてきたので。

四 嵯峨野の奥の質素な神域に、女性が長いあいだ物思いをして、引きこもっていたことを思いやると、自分と関係のないこととしても、気の毒に感じたから。今まであまりに長い間御息所のもとを訪れず、冷たく扱った自分をしみじみと後悔したから。

(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、148頁~152頁)

蛍 絵物語~紫式部の物語論



 なが雨、例の年よりもいたくして、晴るる方
なく、つれづれなれば、御方々、絵物語などの
すさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方
は、さやうのことをも、よしありてしなしたま
ひて、ひめ君の御方に、奉りたまふ。西のたい
には、まして、めづらしくおぼえたまふ、事の
すぢなれば、あけくれ、書きよみ、いとなみお
はす。つきなからぬ若人、あまたあり。「さまざ
まに、めづらかなる、人のうへなどを、誠にや
偽りにや、いひ集めたる中にも、わがありさま
のやうなるは、なかりけり」と見たまふ。住吉
の姫君の、さしあたりけむをりは、さるものに
て、今の世の覚えも、なほ、こころ殊なめるに、
かぞへの頭(かみ)が、ほとほとしかりけむなどぞ、か
の監(げむ)がゆゆしさを、おぼしなずらへたまふ。と
のも、こなたかなたに、かかるものどもの散り
つつ、御目に離れねば、「あな、むつかし。女こ
そ、『ものうるさがらず、人に欺かれむ』と、生(む)
まれたるものなれ。ここらのなかに、まことは、
いと少なからむを。かつ知る知る、かかるすず
ろ事に心を移し、はかられたまひて、あつかは
しき五月雨髪の乱るるも知らで、書きたまふよ」
とて、笑ひたまふものから、また、「かかる、世
のふる事ならでは、げに、何をか、紛るること
なきつれづれを慰めまし。さても、このいつは
りどもの中に、『げに、さあもあらむ』と、あはれ
を見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかな
しごとと知りながら、いたづらに心うごき、ら
うたげなる姫君の物思へる見るに、かた心つく
かし。また、『いと、あるまじき事かな』と見る
見る、おどろおどろしく取りなしけるが、目驚
きて、しづかに、また聞くたびぞ、憎けれど、
ふと、をかしきふし、あらはなる、などもある
べし。このごろ、をさなき人の、女房などに時々
読まするを、たち聞けば、『物よくいふものの、
世にあるべきかな。空言を、よくし馴れたる口
つきよりぞ、いひ出だすらむ』と覚ゆれど、さ
しもあらじや」とのたまへば、「げに、いつはり
馴れたる人や、さまざまに、さも酌みはべらむ。
『ただ、いと、まことのこと』とこそ、思うたま
へられけれ」とて、すずりおしやりたまへば、神世よ
り世にある事を、記し置きけるななり。日本紀
などは、ただ、片そばぞかし。これらにこそ、
道々しく、くはしき事はあらめ」とて、わらひ
たまふ。

【通釈】
五月雨がいつもの年よりもひどくて晴れ間もなく、た
いくつなので、(六条院の女君の)御方々は、絵物語などの慰
みごとで日々を暮らしなさる。明石の御方は、そのような(絵
の)ことの、趣あるようすに(描き)なさって、(紫の上のと
ころにいる)明石の姫君の方に差し上げなさる。西の対(に
いる玉鬘)は、まして(絵物語など見たこともないので)珍
しくお思いなさる方面のことなので、明けても暮れても(絵
物語を)書き写したり読んだり、せっせと励んでいらっしゃ
る。(こんなことに)ふさわしい若い女房が、(玉鬘のほうに)
おおぜいいる。(玉鬘は)「いろいろと珍しい人の身の上など
を、真実かうそか、(わからないけれども)書き集めた(絵物
語の)中にも、自分のような境遇(の人)はなかったなあ)
とご覧になる。『住吉物語』の姫君が、その当時(評判が高か
ったの)は当然として、今の世間の評判も、やはり格別であ
るようだが、かぞえの頭が、(住吉の姫君をものにしようと)
あぶないところであった(話)などに、あの大夫監(たゆうのげん)の恐ろし
さを、(玉鬘は)思いくらべていらっしゃる。源氏は、どちら
の方々の部屋にも、このような絵物語が散らばって、(源氏の)
お目にふれるので、「ああ、うっとうしいね。女というのは、
『よくも面倒がらずに、(こんなものを読んで)人にだまされ
よう』と生まれついているのだなあ。たくさんの(絵物語の)
中に、真実はたいそう少ないでしょうに。一方ではそれを知
っていながら、このような(絵物語のごとき)たわいもなく
つまらぬものに気をとられ、だまされなさって、暑くるしい
五月雨に髪が乱れるのも知らないで、お書きなさるのだねえ」
と言って、お笑いになるものの、また、「このような、昔の古
い絵物語でもなくては、本当にどうして、(ほかに)気が紛れ
ることのない(梅雨どきの)たいくつを慰めようか。それに
しても、この嘘八百の作り物語の中に、『本当に、そういうこ
ともあるだろう』と、しみじみとした人情を見せ、もっとも
らしく書き続けてあるのは、これもまた、取るに足りない作
り話と知りながら、むやみに感動し、(あるいは)かわいら
し姫君が物思いに沈んでいるのを見ると、多少なりとも心
がひかれてしまうものですよ。また、『(こんなことは)ある
はずがないことだ』と見ながらも、大げさに取り扱った(物
語)が、目が引きつけられて、(あとになって)落ち着いて、
もう一度(読むのを)聞くときは、(ばからしくて)いやな気
がするけれども、ふと興がひかれる点が、きわ立っているも
のなどもあるようだ。このごろ、幼い(明石の姫君)が、女
房などに時々(物語を)読ませるのを立ち聞くと、『ものをう
まくいう者が、この世にはいるものだなあ。(こういう物語は
嘘を、上手に言いなれた(人の)口から言い出すのだろう』
と思われますが、そうばかりでもないのでしょうね」と、(源
氏が)おっしゃると、(玉鬘は)「なるほど、(あなたのように)
嘘をつきなれた人は、(物語を)いろいろと、そんなふうに解
釈するのでしょう』『(私は)ただもう、(物語を)まったく真
実のこと』とばかり思われますわ」と言って、すずりを押し
のけなさるので、(源氏は)「無作法にも、(物語を)けなして
しまったことだなあ。(物語は)神代以来この世にあることを
書き記したものであったのだなあ。『日本紀』なんかは、いか
にも、ほんの一部分にすぎないものであるよ。物語にこそ、
道理にかなった、くわしい事柄が、記されてあるのだろう」
と言って、お笑いになる。

【要旨】
・五月雨の季節、女君たちは絵物語でつれづれ慰めている。玉鬘は珍しさもあって本気になって物語を読んだり書き写したりしている。読んでいくうちに住吉の姫君にわが身の上を重ねたりする。そこへやってきた源氏が物語についての見解を述べる。物語は虚構ではあるが、人間社会の内面を鋭くとらえて描かれるので、歴史よりも真実であるというのである。紫式部の自信と自負を読みとることができる。

【解説】
・この一節は紫式部の物語論として古来有名である。
 数奇な人生を経験してきた玉鬘は『住吉物語』の姫君も他人事(ひとごと)とは思えず物語に熱中している。当時の物語は劇漫画のような存在で、女子供の読むものとされ、評価も低く、実際に興味本位のでっちあげの作品も少なくなかった。しかし紫式部は玉鬘の口をかりて、物語は真実だといわせ、さらに源氏に、歴史より物語のほうが人間の姿を描き得ると言わせている。
 この後、さらに物語論が展開される。
 物語は後世に言い伝えたいことを自分の胸にしまいきれずに書いたもので、よいことをいうには最高のよい例を集めるから、いくら虚構であっても、そこにはより真実が描き出されるというのである。
 物語は、この後、玉鬘をヒロインとして「常夏(とこなつ)」、「篝火(かがりび)」、「野分(のわき)」、「行幸(みゆき)」、「藤袴(ふじばかま)」、「真木柱(まきばしら)」と進行する。

源氏は内大臣に真相を告げ、裳着を行った。玉鬘への思いを断ちきれない源氏は、尚侍(ないしのかみ)として宮中に出仕させるつもりであったが、意外にも玉鬘は鬚黒(ひげくろ)大将の妻になってしまう。鬚黒大将の北の方は紫の上の異母姉であるが、物の怪のため発作が起き、火取香炉(ひとりこうろ)を鬚黒に投げつけ、外出着をだいなしにしてしまう。北の方の父である式部卿(しきぶきょう)は北の方と娘(真木柱)をひきとった。十二、三歳になっていた姫君は、慣れ親しんだ檜(ひのき)の柱に「私のことを忘れないで」と歌を詠む。多感な少女の父や兄弟との悲しい別れである。玉鬘は残された兄弟を世話して、翌年の冬には男子を出産し、押しも押されぬ右大将の妻となった。夕顔の忘れ形見の物語は「玉鬘」の巻から始まって、今この「真木柱」の巻でめでたくも終了するのである。
 
 次の「梅枝(うめがえ)」の巻で話は再び本筋に戻り、明石の姫君の裳着が盛大に行われる。後半にはいつまでも初恋を追う夕霧に対して源氏の結婚への教訓があり、雲井の雁のようすが描かれる。筒井筒(つついづつ)の恋は果たして実るのであろうか(「少女(おとめ)」の巻参照)

◆研究◆
一 ここに語られている(①)(②)(③)といった言葉の中には、『無名草子』の作者が「物語といふもの、いづれもまことしからずといふ中に、これはことのほかなることどもにこそあめれ」と『狭衣物語』を評した言葉に見える物語観と共通する要素が認められる。
 
①~③に本文中から適語を抜き出して記せ。

二 本文中の源氏の言葉に見える(④)という部分が最もよく物語の性格をとらえたものといわなければなるまい。
 (④)に入れるべき部分を本文中から抜き出し、最初と最後の五文字で記せ。

三 「すずりおしやりたまへば」の主語と、その動作にこめられる気持ちを記せ。

四 「日本紀などは、ただ、片そばぞかし」に表れた紫式部の気持ちを記せ。

<解答>
一 ①いつはりども ②はかなしごと ③あるまじきこと
二 ④いつはりども~心つくかし
三 玉鬘 絵物語に熱中する玉鬘をひやかす源氏に対する非難の気持ち。
四 事実を記録した歴史は公的で表面的で一部分しか表していないが、創作である物語は人間や社会の真実をより鋭く表現できるという作者の自負の気持ち。

(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、239頁~246頁)