(2024年1月31日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、次の参考書の中から、紫式部と『源氏物語』に関連した部分を抜き出して、古文を解説してみたい。
〇富井健二(東進ハイスクール講師)『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]
執筆項目をみてわかるように、『源氏物語』の文章 と文法事項をはじめ、『紫式部日記』の一節からの試験問題を解説する。また、紫式部が和泉式部、赤染衛門をどのように見ていたのか、藤原道長の姉・超子と庚申待ちの関連など、エピソード的なことも盛り込んだ。
そして本居宣長による『源氏物語』論についても触れてみた。
少しでも、興味をもって古文を勉強してもらえたらと思う。
【富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』はこちらから】
富井の古文読解をはじめからていねいに (東進ブックス―気鋭の講師シリーズ)
富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』
【目次】
ステージⅠ 「センテンス」の森
1 省略とその対策
2 主語同一用法
3 主語転換用法
4 心中表現文を区切れ
5 会話文を区切れ
6 挿入句を区切れ
7 地の文の尊敬語
8 尊敬語と特別な尊敬語
9 「 」の中の尊敬語
10 「 」の中の謙譲語
11 「 」の中の丁寧語
12 文法と読解~主語をめぐって
13 文法と読解~感覚をみがく
ステージⅡ 「常識」の洞窟
14 男女交際の常識
15 生活の常識
16 官位の常識
17 夢と現
18 方違へと物忌み
19 病気・祈祷・出家・死
ステージⅢ 「ジャンル」の海
20 「説話」の読解
21 「物語」の読解
22 「日記」の読解
23 「随筆」の読解
ステージⅣ 「実戦」の鬼ヶ島
FINAL ビジュアル古文読解マニュアル
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・古文読解について
・男女交際② ~究極の伝達方法、それは和歌~
・『源氏物語』の文章 と文法
〇古典屈指の名作『源氏物語』の一節(「STEP6 挿入句を区切」より)
〇『源氏物語』の「夕顔」の巻の一節(「STEP10 「 」の中の謙譲語」より)
〇『源氏物語』の「桐壺」の一節(「STEP12 文法と読解~主語をめぐって」より)
〇『源氏物語』の「若紫」の一節(「STEP12 文法と読解~主語をめぐって」より)
〇『源氏物語』の「明石」の一節(「STEP17 夢と現」より)
・『紫式部日記』の一節からの試験問題
・紫式部と和泉式部
・藤原道長の姉・超子と庚申待ち
・本居宣長と『源氏物語』
・『大鏡』について
・『大鏡』の一節からの試験問題
古文読解について
古文を攻略するには、どうすればいいのか。
まっさきに浮かぶのは、古文単語と古典文法を身につけることという答えだろう。
しかし、単語と文法を一通り暗記しただけでは、スラスラと古文を読解することはできない。
なぜならば、古文単語も古典文法も「文脈」を理解して、はじめてその知識が生かされるからである。
例えば、古文単語の意味には色々あり、その文脈に合った意味をあてはめなければならない。古典文法、例えば、助動詞の意味の決め方にはテクニックが存在するが、最終的には文脈を考慮して、その意味を決定しなければならない。
だから、「読解法」を学ぶ必要がある、と富井健二先生はいう。
受験生を見ていると、単語や文法の知識を身につけるための時間は多く割いているが、実際の古文を読みながら、その知識を使って確認していく時間が少ないらしい。
単語や文法の意味をある程度チェックしたら、どんどん古文読解をしてゆくのがよいようだ。
定着と実践の同時進行、それが古文の上達するポイントであると説く。
古文は本当に楽しく、奥の深い教科である。古文読解の力がついてくるうちに、この教科の本当の魅力に気づくそうだ。真の実力とは、真の興味のもとに宿ると力説している。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、2頁~3頁)
プロローグ
古文の読解法には、2つの中心がある。
A その古文問題の「ジャンル」を決定する
B 主語を補足しながら文章を読んでいく
(地の文と「 」の文に分けて、それぞれの補足方法を駆使する)
※これに「古典文法・古文常識・作品常識」などの知識をプラスして読解していく
⇒STEP 1~19で、Bの読解法を学ぶ
STEP 20~23で、Aの読解法を学ぶ
つまり、古文は、Aジャンルを決定し、B主語を補足しながら読んでいけばいいようだ。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、10頁~11頁)
男女交際② ~究極の伝達方法、それは和歌~
和歌には古くから不思議な力が宿っていると思われていた。
『古今和歌集』の「仮名序(かなじょ)」という部分に、紀貫之(きのつらゆき)が和歌のその不思議な力を次のようまとめている。
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(きじん)をもあはれと思はせ、
男女の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心を慰むるは歌なり。
(古今和歌集)
【現代語訳】
(格別)力を入れなくても天地の神々を感動させ、目に見えないあの世の霊魂をも感激させ、
男女の間柄をも親しくさせ、勇猛な武士の心をなごやかにするのは和歌である。
【解説】
・和歌が究極の伝達手段であったことは事実である。
和歌(歌道)のことを古語で、大和歌(やまとうた)、言の葉、敷島(しきしま)の道などとよぶ。(重要語なので覚えておこう)
・男女が和歌を詠む合う場合、一部の例外を除いて、男が先に和歌を詠む。
そして、その詠んだ和歌を、男は自分の従者に託す。で、その男側の従者が女側の従者に和歌を渡し、女に届く。返歌はこの逆のルートをたどる。
・和歌はときに口伝えの場合もあるが、そのほとんどが書式、つまり手紙形式をとる。
手紙のことを、文(ふみ)・消息(せうそこ)・懸想文(けさうぶみ)という
「懸想文」とは文字どおり、ラブレターのこと。
手紙はよく季節の草花を添えたり、その枝に結びつけて渡したりする。
草花の代わりに、香をたきしめた衣類に手紙を添えて送る場合もある。
・女が男の和歌を読み、気に入らければ、返事をしない。
返事がない場合はアウト。ただ、女性がじらすためにわざと返事を出さない場合もある。
・とにかく、女が男の和歌を読み、返歌(返事の和歌)をすれば、一応、脈アリと考えてよい。
返事や返歌のことを古語で、答(いら)へ・返しという。
その場にピッタリとマッチした和歌を即座に詠んで返す、つまり「当意即妙」の技がベストだった。
・女君が和歌を詠むと、女側の従者が男側の従者に手紙を渡す。
その和歌を男が読んで、どう返事をするかを考える。この女性と自分を結ぶ仲介者(取次ぎ)のことを古文では、頼(たよ)り・ゆかり・よすが・由(よし)とよぶ。
「取次ぎを頼む」ことを古語では、「案内(あない)す」という。
※このように、和歌は究極の意思伝達手段。手紙形式でとり行われる。
●【補足】小式部内侍(こしきぶのないし)の即詠伝説
大江山 生野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
これは、『小倉百人一首』の名歌。
この歌は、和泉式部の娘である小式部内侍が、「和歌の名人である母に代作を頼む使いを出したのか」と人にからかわれたとき、即座に詠んだ歌であった。
あまりの早業に、からかった人は驚愕して、返歌もできず逃げ去ってしまったとという。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、113頁~115頁)
※山村単語、214頁にも言及~『古今和歌集』の「仮名序(かなじょ)」
『源氏物語』の文章 と文法
〇古典屈指の名作『源氏物語』の一節。(「STEP6 挿入句を区切」より)
主人公光源氏の生誕のシーン。父の桐壺帝と桐壺更衣は非常に愛し合っていた。
前(さき)の世にも御契(ちぎ)りや深かりけむ、世になく清らなる玉のをのこ御子(みこ)さへ生まれたまひぬ。
※これは読点(、)ではさまれていない形なのだが、「前の世にも御契りや深かりけむ、」が挿入句である。
この前に、「二人は」を補足するとわかりやすい。
「二人」とは、桐壺帝と桐壺更衣の二人である。
「二人は、(前の世にも御契りや深かりけむ、)世になく……」と、読点にはさまれる挿入句だとわかる。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、44頁)
『源氏物語』の文章 と文法
〇『源氏物語』の「夕顔」の巻の一節。(「STEP10 「 」の中の謙譲語」より)
(警備の者が光源氏に)「(惟光朝臣は)さぶらひつれど、仰せ言もなし、
暁に御迎へに参るべきよしなむ申してなむまかではべりぬる」(源氏物語)
【現代語訳】
「(惟光朝臣はここに)お仕えしていましたが、(光源氏様の)ご命令もないし(何もすることがないので)、夜明け前にお迎えに参上すると申して退出してしまいました」
※傍線部の「さぶらひ」「参る」「申し」「まかで」の主語は、全部その場にいない「惟光朝臣」なのである。ということは、主語は一人称ではなく、三人称。
※「 」の中にある謙譲語の主語は、一人称か三人称。
この場合の三人称とは、「(あなたの所にいる私の召使いが)参る」のように、高貴ではない主語である場合が多い。
謙譲語の主語が二人称になる例外というのは、高貴な人が身分の低い人に向かって、「(こちらへ)参れ」などというように、命令形で使うケース以外はあまりない。
これも天皇の「自敬表現」に多い。
<恋する気持ちは物の怪と化す?>
・光源氏の恋人の一人である六条御息所は、源氏を恋するあまりに、その精神が物の怪(生霊)と化して体から抜け出し、源氏の他の恋人(夕顔・葵の上・紫の上など)にたたっていく。
夕顔の死は、本文には直接触れられてないが、この人の生霊の仕業だと考えられている。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、78頁~79頁)
『源氏物語』の文章と文法
〇『源氏物語』の「桐壺」の一節。(「STEP12 文法と読解~主語をめぐって」より)
会話文の中に次の表現が出てきたら、必ず主語は一人称になるので、「私は」という主語を入れるようにしよう。
願望の終助詞の「ばや」
謙譲の補助動詞「給ふ」(下二段活用)
⇒主語は私(一人称)
※なぜかというと、「ばや」は、「~したい」と訳す、自己の願望を表す終助詞だから。
※願望の表現=終助詞の「なむ」「ばや」「がな」
「なむ」(~してほしい)は他への願望。
「ばや」(~したい)は自己の願望。
「がな」(~してほしい[したい]なあ/~があればなあ)は詠嘆願望。
文の終わりにこれらの語があったら、願望を表していると思って、しっかり区別すること。
例えば、次の『源氏物語』の「桐壺」の一節を見てほしい。
「かかる所に、思ふやうなる人を据ゑて住まばや」(源氏物語)
【現代語訳】
「このような(立派な)場所に、思いどおりの女性を置いて(私は)住みたい」
〇次に、謙譲の補助動詞の「給ふ」
この語がある文も、主語は必ず一人称。
この敬語の特徴は、「 」の中でしか使用されないというところ。
古文では、「 」が入るべきところであっても省略されていたりする。
ただ、仮に「 」が省略されていても、この表現を見つければ、「 」を補足することも可能。
※ちなみに、この謙譲の「給ふ」は下二段活用なのだが、原則的に「給へ・給ふる・給ふれ」の三つのカタチでしか出てこない。
「思ひ・覚え・知り・見・聞き」の五つの動詞の下にしか付かない。
つまり、次のようなカタチでのみ現れるわけである。
⇒「(私は)思ひ(覚え・知り・見・聞き)+給へ(ふる・ふれ)」
では、次の例文を参照してほしい。
〇これも『源氏物語』の「若紫(わかむらさき)」の一節。(「STEP12 文法と読解~主語をめぐって」より)
⇒下二段の「給ふ」が使用されている。
「ここにものしたまふは、たれにか。尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな」(源氏物語)
【現代語訳】
「ここに住んでいらっしゃるのは、どなたか。(このお方を)訪ね申し上げたいという夢を(私は)見ましたよ」
※確かにこの「見たまへ」の主語は一人称(私)である。
「ばや」と下二段の「給ふ」の主語は絶対に一人称。忘れないこと。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、93頁~95頁)
【夢で遭えたら】
〇『源氏物語』の「明石」の一節。(「STEP17 夢と現」より)
追い詰められて須磨に退去した光源氏の夢について
(夢に出てくる人物はどんな人が多いのか、知っておくと話がよく見える)
心にもあらずうちまどろみたまふ。<中略>故院、ただおはしましし様ながら立ちたまひて、
<中略>「住吉の神の導きたまふままに、この浦を去りね」とのたまはす。
(源氏物語・明石)
【現代語訳】
(光源氏は)気持ちとは裏腹にうたた寝をなさる。<中略>(するとその夢に)今は亡き桐壺院が、生前そのままのお姿でお立ちになって、<中略>「住吉の神のお導きになるのに従って、この浦を去ってしまいなさい」とおっしゃる。
・源氏の敬愛する、死んだ父上が夢に現れたのである。故人は夢に出てきやすい。
このあと光源氏は都に戻り、政界に復帰。一気に頂点まで上りつめていく。
夢と現実は表裏一体である。
夢に現れる人は、「恋人・親しい人・亡くなった人・神・仏」が多い。
※光源氏の夢に現れた藤壺女御
『源氏物語』の主人公光源氏が、生涯にわたって憧れた女性である藤壺女御。
彼女は、死んだあと光源氏の夢の中に現れ、「なぜ、(冷泉帝は、実は源氏と藤壺の子であるという)秘密を漏らしたの」と恨みごとを言う。好きな人が夢に現れたからといって、ロマンチックな内容ばかりだとは限らない……
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、139頁)
【参考】
〇光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとほる)
『古本説話集』の一節
宇多天皇が夜おやすみになっていると、そこに源融の左大臣の幽霊が変な格好で現れる。
この場合の「ぬりごめ」とは、宇多天皇の寝室を指す。
よなかばかりに、西のたいのぬりごめをあけて、そよめきて、ひとのまゐるやうに
おぼされければ、みさせ給へば、日のしゃうぞくうるはしくしたるひとの、
たちはき、しゃくとりて、二間ばかりのきて、かしこまりて、ゐたり。(古本説話集)
【現代語訳】
夜中頃に、西の対の寝室を開けて、衣(きぬ)ずれの音をさせて、人が(こちらへ)参るようにお思いになったので、(宇多天皇が)御覧になると、日の装束をきちんと着用した人が、太刀を身につけ、笏を手にとって、二間ほど退いて、恐縮して、座っている。
※当時の衣類を知っておくことも、古文読解においては良い武器になる。
真夜中に日中身につける日の装束を着ているのは、奇妙なのである。
この「日のしゃうぞくうるはしくしたるひと」のどこがおかしいのかという問題を、早稲田大学は出題したという。古文常識を知らないと解けない問題である。こういった角度でも、入試は出題される。
※源融は自縛霊の元祖!?
光源氏のモデルとされる源融が建てた河原院は、寝殿造を代表する超豪華だった。
融はそこに霊となって留まったとされている。
『古本説話集』の一節も、そんな融の幽霊が宇多天皇の寝室に出現したシーンを扱ったものである。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、124頁~125頁)
【一口メモ】『方丈記』と『源氏物語』
※『方丈記』の全文を400字詰め原稿用紙に換算すると、実はわずか23枚に満たない。
対して、『源氏物語』はざっと2500枚。
しかしながら、この23枚が2500枚の作品と肩を並べ、対等のレベルの作品として現代まで論じられてきたというのは、考えてみるとスゴイことである。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、195頁)
『紫式部日記』
次の古文は『紫式部日記』の一節である。これを読んであとの問に答えなさい。
(なお、設問の都合により本文を少し改めたところがある)
左衛門の内侍といふ人侍り。あやしうすずろによからずに①思ひけるも、②え知り侍らぬ心うきしりうごとの、多う聞こえ侍りaし。
内の上の、源氏の物語、人に読ませ給ひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ
読み給ふべけれ、まことに才(ざえ)あるべし」と③宣はせけるを、ふとおしはかりに、「いみじうなむ才ある」と殿上人などに④言い散らして、日本紀の御局とぞつけたりbける。いとをかしうぞ侍る。(『紫式部日記』)
※左衛門の内侍……宮中で天皇にお仕えしている女官の一人。
※内の上……一条天皇のこと。
※この人……作者である紫式部のこと。
※日本紀……日本書紀。漢文で記述されている史書。
問一 傍線部①~④の主語として、適当なものを次の中からそれぞれ選びなさい。
ア 左衛門の内侍 イ 内の上(一条天皇) ウ 作者(紫式部) エ 殿上人
問二 傍線部②「え知り侍らぬ」を口語訳しなさい。
問三 傍線部a・bの品詞説明をしなさい。
【解答解説】
問一 ①ア ②ウ ③イ ④ア
▶地の文では、天皇にだけ尊敬語を使用している。
傍線部③「宣はす」は「おっしゃる」と訳す尊敬語だから、③は高貴な主語イになる。
・その他の人物には尊敬語が使われていないが、作者か左衛門の内侍かの区別は、「き」と「けり」の性質を利用すればわかる。
①「ける」=内侍。②文末の「し」=作者。④文末の「ける」=内侍
問二 知ることができません
▶「え…打消」は「不可能」(…できない)の意味。
「ぬ」は打消の助動詞。
「~侍り」は「~です・~ます」と訳すと丁寧の補助動詞。
問三 a(直接)過去の助動詞「き」の連体形
b(間接)過去の助動詞「けり」の連体形
(bは係り結びのため連体形)
【現代語訳】
左衛門の内侍という人がおります。(その人は私のことを)むしょうに嫌だと思っていたそうで、(私が)知ることができません辛い陰口が、多く聞こえてきました。
宮中の一条天皇が、『源氏物語』を、人にお読ませになりながらお聞きになっていたところ、(天皇は)「この人(紫式部)は、(なんと、あの漢文で表記されている)日本書紀を読んでおられるようだ、まことに学才があるようだ」とおっしゃったが、(それを左衛門の内侍は変に)あて推量して、「たいそう(漢学の)才能があるんだって」と殿上人などに言いふらして、(私のことを)日本紀の御局と名づけたそうだ。(それは)大変(的はずれで)おかしなことでしたよ。
<ステージⅠのポイント>
●古文は主語が省略される⇒主語を補足する必要がある。
●地の文と「 」の文では、主語を補足する方法が違う⇒両者を区別できるようにする。
●地の文と「 」の文、それぞれの主語の補足方法を身につける。
<天才紫式部が認めた女性、赤染衛門>
・赤染衛門(あかぞめゑもん)は、藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房で、あの紫式部が絶賛した女性である。
『紫式部日記』に、赤染衛門は「はづかしき口つき」、つまり「こちらが気後れしてしまうほどのすばらしい歌人」であると紹介している。
また、『古今著聞集』に次のような説話がある。
式部の権の大輔大江挙周朝臣、重病を受けて、たのみすくなく見えければ、母赤染衛門
住吉に詣でて、七日籠りて、「この度たすかりがたくは、速やかにわが命に召しかふべし」
と申して、七日に満ちける日、御幣(みてぐら)のしでに書きつけ侍りける。
かはらんと 祈る命は惜しからで さても別れん ことぞかなしき
かくよみて奉りけるに、神感やありけん、挙周が病よくなりにけり。母下向して、喜びなが
らこの様を語るに、挙周いみじく嘆きて、「我生きたりとも、母を失ひては何のいさみかあ
らん。かつは不孝の身なるべし」と思ひて、住吉に詣でて申しけるは、「母われに代りて命
終るべきならば、速やかにもとのごとくわが命を召して、母をたすけさせ給へ」と泣く泣く
祈りければ、神あはれみて御たすけやありけん、母子共にゆゑなく侍りけり。(古今著聞集)
【現代語訳】
式部の権の大輔大江挙周(たかちか)朝臣が、重い病にかかって、助かりそうもなく見えたので、母の赤染衛門が住吉大社に詣でて、七日間こもって、「この度(息子が)助かり難いのならば、即座にこの私の命と引き換えに息子をお助けください」と申し上げて、七日目に達した日、(神に奉る)御幣に付けた紙に書き付けました(和歌)。
子供の命と引き換えにと祈るこの命など惜しくはないが、それでも子供と死に別れることは悲しいことです。
このように詠んで(神に)差し上げたところ、神が感動なさったのであろうか、挙周の病気は良くなったのであった。母が(住吉から)下向して、喜びながらこの様子を(挙周に)語ると、挙周はたいそう嘆いて、「私が生きていたとしても、母を失ってしまったら何の生きがいがあるでしょうか。それにしても親不孝なこの身であることよ」と思って、住吉に詣でて申し上げたのは、「母が私に代わって命が終わることになっているのなら、即座にもとのように私の命をお召しになって、母をお助けください」と泣く泣く祈ったところ、神が哀れんでお助けになったのであろうか、母子共に無事であったということです。
※すばらしい和歌を詠んだために願いが叶うという説話(歌徳説話)も、数多く出題されるようだ。
説話は基本的に短編完結型なので問題も作りやすく、入試に頻出する。
この読解法をマスターして、「説話」というジャンルを攻略しよう。
【説話の読解法】
●「今は昔・昔・中頃・近頃」で始まり、文末には「けり」が付く。
●章末にまとめの部分がある⇒最初にチェックすること。
●説話の話の展開はたいてい決まっている⇒話のパターンを覚えておくと効果的。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、100頁~104頁、164頁~165頁)
紫式部と和泉式部
・和泉式部は、敦道(あつみち)親王に死なれたあと、藤原道長の娘である中宮彰子(しょうし)に仕えるが、同じ彰子に仕えていた先輩の紫式部は、自らの日記の中で、次のように和泉式部を評している。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文(ふみ)はしり書きたるに、そのかたの才(ざえ)ある人、はかなき言葉の、にほひも見えはべるめり。(紫式部日記)
【現代語訳】
和泉式部という人は、実に趣き深く手紙をやりとしたものです。けれど、和泉式部には感心しない所があります。(しかし)自由に手紙を走り書きした場合に、その(手紙のやりとりの)方面の才能がある人で、ちょっとした言葉に、魅力が見えるようです。
【解説】
・紫式部だけではなく、当時の人々の中には和泉式部を非難する人は多い。
非難するどころか、「男性をかどわかした罪で地獄に落ちた」とか言ったりする。一応、慎み深い女性が理想とされた時代のことだから。でも、日記としての出来は本当にすばらしく、和歌もさりげない中にもズシンと心の奥に響いてくる。
(数多くの男性の心を惑わした罪で地獄に落ちた女性、として昔話によく語られるのが、和泉式部と小野小町。確かに和泉式部の私生活にはたくさんの男性の影が見え隠れするけど、小野小町にはそのような具体的な醜聞はこれといってない。多分、美人で和歌も妙に色っぽいから、そこから様々な話が勝手に作られて後世に広まったのだろう)
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、186頁~187頁)
藤原道長の姉・超子と庚申待ち
●超子(ちょうし)は庚申待ち(かうしんまち)で「調子」を崩して死亡!?
藤原道長の姉である超子は、庚申待ちのときに亡くなったとされている。
夜が明けたとき、眠るように死んでいたというのだ。
次の『栄華物語』の例文は、その事件のときのシーンを描いている。
体調が悪い日に徹夜するのは体に良くない。寝ると病気になるから、とか言うけれど、寝なくても病気になるのだ。
※当時は、縁起の悪い日(庚申の日)の夜に寝ると、病気の原因になる「さんし」という虫が体内に入り病気を引き起こすなどといって、一晩中寝ない風習があった。
その風習を「庚申待ち」とよぶ。
徹夜は体に悪いのに大変である。
『栄華物語』の例文
はかなく年もかへりぬ。正月に庚申出で来たれば、東三条殿の院の女御の御方にも、
梅壺の女御の御方にも、若き人々「年のはじめの庚申なり。せさせ給へ」と申せば、
「さは」とて、御方々みなせさせ給ふ。(栄華物語)
【現代語訳】
これといって何もなく年が明けた。正月に庚申待ちが出てきたので、東三条殿の院の女御(超子)の御方にも、梅壺の女御(詮子)の御方にも、若い女房達が「年の初めの庚申の日です。(庚申待ちを)なさいませ」と申し上げると、「それでは(しましょう)」と言って、どの方々も皆(庚申待ちのための徹夜を)なさる。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、143頁)
本居宣長と『源氏物語』
・古代文学の中に、これからの日本人の生き方を模索しようという動きが「国学」といわれる。国学の代表的な人に本居宣長がいる。
その著、『玉勝間(たまかつま)』を読んでみよう。師匠の賀茂真淵とのエピソードである。
宣長、三十あまりなりしほど、縣居の大人のをしへをうけたまはりそめしころより、古
事記の注釈を物せむのこころざし有りて、そのこと大人にもきこえけるに、さとし給へり
しやうは、「われももとより、神の御典をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごこ
ろを清くはなれて、古のまことの意をたづねえずはあるべからず。然るに、そのいにしへ
のこころをえむことは、古言を得たるうえならではあたはず。<以下省略>
(玉勝間・二の巻)
『玉勝間』とは、宣長の歌論や芸術論。彼の博学ぶりや、真剣な学問に対する姿勢を知ることができる。
【語句】
縣居(あがたゐ)、大人(うし)、御典(みふみ)、古言(いにしへごと)
【現代語訳】
私宣長が、三十余歳になった時、県居の大人(賀茂真淵先生)の教えを承り始めた頃から、『古事記』の注釈をしようという志があって、そのむねを先生にも申し上げたところ、(先生が)さとしなさったことは、「私ももともと、神様のことを述べた書物(=『古事記』)を解釈しようと思う意志があったのだが、それにはまず中国思想からきっぱりと決別して、古代の真の精神を究明しなかったら(それは)できるはずがない。けれども、その古代の精神を理解することは、古代の言葉を習得した上でないとできないのだ。」
【解説】
・宣長やその師匠の賀茂真淵がどうして国学を始めようと思ったのかが、わかりやすく表現されている。
<松阪の一夜~一度きりの師弟の出会い~>
・本居宣長は、自分の住む松阪に賀茂真淵が宿泊すると聞くと、早速そこに押しかけ、その夜、師弟の契りを結んだ。これが師弟関係の始まりだったが、宣長と賀茂真淵が会ったのは、生涯このたった一度だけだったといわれている。それからの二人の学問研究のやりとりは、手紙で続けられた。
※宣長はその著『源氏物語玉の小櫛(をぐし)』において、日本文学における物語の本質を、「もののあはれ」にあるとした。
この概念は、「人間が何かに触れたときに自然と心の中に沸き起こってくるしみじみとした感情」のことである。
それは人間らしい情愛にもあてはまるし、自然を見ていてジーンときたときの気持ちにも使用される。
・清少納言の『枕草子』に表現されている「をかし」という感性は、華やかな情趣や滑稽な笑いが広がるという点で、「(ものの)あはれ」とは異なる。
『枕草子』をどこか明るく、『源氏物語』をどこかさびしく感じるのはそのためであろう。
・ここで「評論(歌論)で説かれる文学理念」について目を通しておこう。
【歌論で説かれる文学理念】
ますらをぶり▶『万葉集』に見られる男性的な力強い歌風。
たをやめぶり▶『古今和歌集』に見られる優美・繊細な歌風。
もののあはれ▶本居宣長が名付けた、『源氏物語』に見られるしみじみとした奥深い情趣。
をかし▶明るい知性美を表した概念。景色を客観的・主知的に表現する用語。『枕草子』以外でも和歌の是非を判断する用語として使う。
長高し(たけたかし)▶雄雄しさ、崇高さを表す用語。「もののあはれ」「をかし」と並ぶ重要な用語。
幽玄(いうげん)▶言葉の奥に漂う余情美をいう。表面的な表現を嫌うこの考え方は、芭蕉の「さび」などの理念に影響を与えた。
有心(うしん)▶幽玄を継承した理念。幽玄と同じように余情の美を重んじるが、より技巧的で色彩美を好む。
無心(むしん)▶有心に対する概念。初めは連歌における滑稽な表現のことを言ったが、室町時代になると、世阿弥の能楽論における精神を超越した無我の境地の意味になった。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、199頁~201頁および別冊26頁~27頁)
『大鏡』について
・『大鏡』という作品は、「歴史物語」というジャンルである。
190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)と180歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)とその妻が、30歳ぐらいの若い侍を相手に昔語りをし、そのそばで作者が筆録したという設定になっている。
・この『大鏡』は、1100年頃に成立した歴史物語。
そして、その中で扱っているのは、850~1025年の出来事。つまり、250年前からの話をとりあげている。
時代の生き証人として、190歳の老人を語り手に設定することで、この歴史物語の信憑性を高めようとしたようだ。
『大鏡』には、実際の体験者、経験者の生々しい「語り」の効果がいかんなく発揮されているといわれる。この「語り手」が登場したら、「主語のない心情語・謙譲語の主語は語り手自身(私)」であると考えよう。
〇『大鏡』の例文
傍線部が心情を表す語(心情語)である。
いづれの御時(おんとき)とはたしかにえ聞き侍らず。
ただ深草の御ほどにやなどぞおもひやり侍る。(大鏡・上巻)
【現代語訳】
どの天皇の御治世とは確かに聞いたと答えることはできません。
ただ深草天皇の御治世の頃であっただろうかと(私は)はるかに思い返しております。
※この傍線部の主語は「語り手」である。
この作者は、老人たちの話をただ書きとめていただけという設定だから、「思ふ」「知る」
といった感じの心情語の主語は、「作者」ではなく「語り手」の老人である可能性がすごく高い。
〇『大鏡』の例文
村上の帝、はた①申すべきならず。「なつかしうなまめきたる方は
延喜にはまさりまうさせたまへり」とこそ人②申すめりしか。(大鏡・下巻)
【現代語訳】
村上天皇(の優秀さ)は、何かと(私が)申し上げるまでもありません。「親しみやすく優雅でいらっしゃる方面は醍醐天皇にもまさっていらっしゃる」と(世間の)人が申すようでした。
※傍線部①は謙譲語で、主語は省略されているから、主語は「語り手(私)」。
傍線部②も謙譲語だけど、主語は省略されていない。「人」が「申す」とある。
※このように、「主語のない心情語」だけでなく、「主語のない謙譲語」があった場合にも、その主語は「語り手」である可能性が高い。
(もう一つの歴史物語の『今鏡』には、こんなに露骨に語り手は登場しないが、語り手の存在は意識しておいてほしい)
・主語のない心情語・謙譲語の主語は語り手であるというのは、大切な読解法であるが、次のような文章の主語には注意してほしい。
〇『大鏡』の例文
大臣(おとど)の位にて十九年、関白にて九年、この生きはめさせたまへる人ぞかし。
三条よりは北、西洞院より東に住みたまひしかば、三条殿と申す。(大鏡・上巻)
【現代語訳】
・(太政大臣の頼忠は)大臣の位で十九年、関白で九年、この世の栄華を極めて一生を過ごしなさったお方ですよ。
(京都の)三条よりは北、西洞院より東に(お邸があり)住んでおられたので、(人々は)三条殿と申し上げる。
※このような場合の謙譲語(申す)の主語は、あえて訳すなら「(まわりの)人々」である。
文脈を考えても、「語り手」ではない。
こういった場合は要注意。
主語を補足する際には、できる限り文脈も考慮しよう。
【補足】『栄華(花)物語』と『大鏡』(別冊22頁より)
〇『栄華(花)物語』(正編→赤染衛門/続編→出羽弁(いでわのべん))
宇多天皇から堀河天皇までの約200年間の歴史。
藤原道長の栄華を賛美。
敬語に注意して人間関係を掌握、一気に読解すること。
<藤原氏の系図>
・藤原兼家
その子道隆、道兼、道長、詮子(せんし)
・道隆の子として、伊周(これちか)、隆家、定子、原子
・道長の子として、彰子(しょうし)
・詮子の子として、一条天皇
・一条天皇は、定子、彰子と結婚。
〇『大鏡』(未詳)
・文徳天皇から後一条天皇までの歴史とその他30人の列伝。
『栄華物語』と違い、藤原道長の栄華を批判的に語る。
語り手(大宅世継と夏山繁樹)が若侍に語った言葉を作者が書き残したという設定がなされている。
(尊敬語の文以外の)主語のない文の主語は、語り手であることが多い。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、169頁~172頁および別冊22頁)
『大鏡』の一節
清涼殿の建築様式をふまえて、『大鏡』の一節を読解してみよう。
「延喜(えんぎ)」・「帝」とあるのは、醍醐天皇のことである。
「この殿」は藤原時平のこと、「内(うち)」は内裏(の清涼殿)のこと、「殿上」は清涼殿にある殿上の間のこと。
延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、
この殿、制をやぶりたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内に参り給ひて、
殿上にさぶらはせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御けしきいとあしくならせ給ひて、
職事を召して、「<中略>便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ」
と仰せられければ、
(大鏡)
出題
立教大学の社会学部
【読み方】
・過差(くゎさ) ・殿上(てんじゃう) ・小蔀(こじとみ) ・職事(しきじ)
※小蔀とは秘密ののぞき窓みたいなもの。
【現代語訳】
醍醐天皇が、世間の風俗をとり締まりなさったが、贅沢をやめさせることがおできにならなかったところ、この藤原時平殿が、決まりを破ったご装束で、格別にすばらしいのを着て、内裏(の清涼殿)に参りなさって、殿上の間にお仕えなさるのを、天皇が、小蔀よりご覧になって、ご機嫌が非常に悪くおなりになって、(秘書官の蔵人である)職事をお呼びになって、「<中略>不都合なことだ。すぐに退出するように命じよ」とおっしゃったところ、
【場面】
天皇の居場所は、「昼(ひ)の御座(おまし)」。藤原時平は天皇が見ているとも知らず、派手な格好をして殿上の間に登場した場面。
この文の続きにあるように、この事件は時平と醍醐天皇が世間のゼイタクを鎮めるためにわざとやったらしい。
(また、あの当時の最高権力者であった藤原道長とその子供の頼通が、力を合わせてゼイタクをとり締まったという話も出てくる)
【参考】藤原時平VS菅原道真
醍醐天皇の頃、藤原時平は左大臣であった。右大臣はあの有名な菅原道真。
道真をやっかんだ時平は、陰謀により道真を失脚させ、大宰府に流してしまう。
その後、時平に関係する藤原氏に道真が祟ったとする伝説が数多く生まれ、以後、道真は学問の神様としてあがめられるようになった。
(富井健二『富井の古文読解をはじめからていねいに』株式会社ナガセ(東進ブックス)、2004年[2019年版]、121頁~122頁)