歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中村明の文章観について――その著作『名文』より≫

2021-05-30 18:27:04 | 文章について
≪中村明の文章観について――その著作『名文』より≫
(2021年5月30日)
 

【はじめに】


 今回のブログでは、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)をもとに、中村明の文章観について、述べてみたい。
 中村明は、どのような文章を名文と捉えているのだろうか。小林秀雄、志賀直哉、谷崎潤一郎、森鷗外、川端康成の文章について、どのように分析し、いかに評したのかを中心に概観してみたい。
 


【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)



中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の目次は次のようになっている。
【目次】
はしがき
一 名文論
 1名文の位置づけ
 2名文の条件
 3移りゆく名文像
 4名文とは何か
 5名文作法
二 名文の構造 
 1~50まで国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』など50人の作家の50作品を分析




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中村明『名文』という本
・中村明による名文の捉え方
・小林秀雄の文章に対する中村明の評価
・小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析
・志賀直哉の文章
・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析
・将棋的な文章と囲碁的な文章
・名文=透明説について
・鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫
・川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞






中村明『名文』という本


中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の構成は、二部に分れる。
著者自ら「はしがき」にも述べているように、第一部「名文論」では、名文の位置づけ、条件、変遷、本質、作法について論じている。
第二部「名文の構造」では、具体的な文章を取りあげ、表現美の言語的分析をとおして、名文性のありかを探りつつ、文体の特質を構造的に明らかにしようとしている。
いわば、第一部が理論で、第二部が実践である。

中村明の名文論は、現実の文章の言語的性格を突きとめ、それとその表現効果との対応を考える一連の実践作業の分析と総合をとおして成立したものであるようだ。つまり、具体的な名文例の文章分析の成果が名文論となった。この名文論が中村明の文章観である。

「はしがき」を、次の文章で結んでいる。
「この本が、文章表現を志す人びとはもちろん、日本の言語と文学に心を寄せる人びと、そして、人間を愛する多くの人びとにさらに広く読まれるなら、著者として望外のしあわせと言うべきだろう」(10頁)

中村が自信をもって執筆した著作が、『名文』という著作である。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、9頁~10頁)

中村明による名文の捉え方


『源氏物語』といえば、古典中の古典であり、しかも難解な古典の代表となっている。通時的に見ると、名文とされた時期が長かったようだが、悪い文章という意味での悪文と見られた時期もあった。明晰で判りやすいのを名文の第一義とするかぎりでは、『源氏物語』は名文とは縁遠いといえるが、その判りにくさは、古語と古典文法とのせいばかりではなく、表現法の問題が大きくかかわっているという議論がある。もし『源氏物語』の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話をカギに入れるという三段の加工を施せば、現代語に訳さなくても、それだけで明晰さと判りやすさが大幅に増すという見方もあるようだ。
ともあれ、明晰で判りやすい文章にするには、まず一つ一つの文を短くすることが効果的である。このことを、司馬遼太郎は「一台の荷車には一個だけ荷物を積め」と表現している。つまり、一つの文には一つの情報だけを盛れと勧めている(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、41頁)。

また、中村明は、夏目漱石の『草枕』(明治39年)を引用して、その文章が言語的に見てどういう性格を持っているかを検討している。
『明暗』に収斂していく重い文章に比べて、『草枕』は、そういう翳がほとんど見えないという。文章の調子は硬い文章体でも軟らかい口話体でもなく、実際の会話ではほとんど起こりえない特殊な話しことば体であるという。『草枕』の文章は、「その調子の高さが少し気になるが、やはり美しい文章である」と評している。

また、文の長さの点では、現代日本の小説文章は文の長さが平均40字といわれるが、それに比べると『草枕』に見える雲雀の声の叙述は、非常に短い文の連鎖である。そして反復構造の文がリズム感を支えているという。
「雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない」という空想が記されているが、作中の「余」はともかくも、作者の漱石が本気で信じていたはずはないが、「この文章の魅力は、なによりも、ひばりが雲にあくがれて死ぬという発想のロマンティシズムをひとつの自然状況の中で形象化した点にある」と中村は考えている(中村、1993年、99頁~106頁)。

また中村は鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)を「堂堂たる文章である」と評している。品格とも格調ともいえ、この文章にはスケールの大きさがあるという。
その一つの理由は、使用する語句や言いまわしに見られる正式性志向のせいであるとみる。また対句的表現を多用し、その形態美を兼ねた硬い力感を張っていると分析している。
そして接続詞は極度に少なく、空車を送る場面の描写には、19個の文からなる文全体の中にわずか2例を数えるのみで、2つとも「そして」で文展開をしている。このことは、その文章が論より感動で成り立っていることと対応していると説く。
そして、空車について、作者の個人的な感情を交えないで書いているために、文章がべたつかず、それが鷗外の文章の冷たさであり、品格なのであると中村は解説している。
また三島由紀夫が『寒山拾得』の「水が来た」という一句に注目してそこに強さと明朗さがあるとして絶賛した点にも言及している(中村、1993年、117頁~124頁)。

文章の判りやすさは、短い文であり簡潔な表現だと考えても、小林秀雄は例外かもしれない。よけいな修飾を加えず、文章を削ることだとしても、中村は小林秀雄がよく削る文章家であることを実感として知っていたようだ。
「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ。しかし、人にはそれぞれのスタイルがある。やはり名文家のひとりである永井龍男は逆に推敲段階では書き足すほうが多いという(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)。

小林秀雄にしても、活字になった文章をあれ以上削ってさらに名文としてのすごみを増すとは思えない。小林秀雄が削りまくった最終原稿と永井龍男が加筆した最終原稿とは、思考と表現とのバランスが同じ段階に達しているのではなかろうかという。つまり、そこに至る過程こそ違え、どちらもその段階でちょうど調和がとれているのではないかとする(中村、1993年、46頁、90頁)。

中村は、実際にも活字になるまでよく削る小林のすごさを実感していたらしく、小林を名文家と信じて疑わない立場で、その小林の文章はよく削られた文章で、もし活字になった文章をあれ以上削ったら、名文としてのすごみが減じることになるのではないかと考えていることがわかる。簡潔な文章がすなわち判りやすい文章だとは必ずしも言えず、また簡潔であれば明晰であるとも限らない。むしろ逆な場合もある。

小林秀雄の文章に対する中村明の評価


中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、小林秀雄の文章をどのように捉えているのか。
具体的に抜粋してみよう。
〇「一文一文に過重の意味をこめて人をとまどわせ、結局は心酔させてしまう」個性的な文章(28頁)

〇「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ」(46頁)

〇かつて、永井龍男は、名文の話をしながら、志賀直哉に、小林秀雄、それに梶井基次郎、堀辰雄、そして井上靖の名をあげたと、中村明は述べている(63頁)。

このように、中村明、そして永井龍男は、小林秀雄の文章を名文と捉えていたことがわかる。
但し、中村明は付言している。名文と騒がれる文章ほど、その評価の維持が難しい。強い個性が表層に目だつ小林秀雄の文章も、そのために危険であるとする。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、64頁~65頁)

一方、小林秀雄にとって名文とは何か。かつて小林は、永井荷風『濹東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『雪国』、瀧井孝作『積雪』とあげてきて、さてどれが名文かとなると、「まず勝手にしやがれ」ということになってしまうと述べた。
(小林秀雄「現代文章論」伊藤整編『文章読本』河出書房、1956年所収、中村、1993年、63頁、88頁を参照のこと)

小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析


中村明は、中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の第二部「名文の構造――文体に迫る表現美の分析――」において、国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』といった具合に、50人の作家の50作品を分析している。
その中で、28番目に小林秀雄の『ゴッホの手紙』(昭和26-27年)を取り上げている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)

小林の『ゴッホの手紙』の手紙部分は、特殊な調子で書かれているという。
対話調だが、実際にこういう調子でしゃべることは絶対にありえないと思われるほどの人工的な調子で手紙は綴られている。
例えば、
「僕等を幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものが何であるかを、僕等は、必ずしも言う事が出来ない、併しだ、にも係らずだ、僕等は、はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と。」
この文について、「幽閉し、監禁し、」という連用形の中止法がその例である。
いわゆる連用中止は書きことばである。次の「……ものが何であるかを」をいう「デアル」の調子も同様である。
また、「併しだ、にも係らずだ」などはいかにも対話口調に見えるが、こういう連続は、現実の対話ではあまり起こらない。

その次のいわゆる倒置構文「はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と」など、いかにも作られた対話形式という感じである。
倒置表現そのものは現実の会話でいくらも現れるし、むしろ会話的でさえあるのだが、このようにはっきりと、引用の「と」で文を終止することは日常会話では、ほとんど起こらない。

次に、この小林秀雄という批評家の文章に、特徴的に現れる「ヌ」止めの文について、中村は指摘している。
例えば、「僕はそうは思わぬ」と小林は記す。これは「思わない」として終わる場合と比べ、現在では、書きことば的な調子が認められる。
さらに、「ああ、これは長い事なのか」といった詠嘆的な調子も、実際の発話に現れにくい。
また、「何がこの監禁から人を解放するか」といったいわゆる翻訳調も、会話で使ったら、相当気どった感じになる。実際には避ける。そして「幽閉」とか「訝る」といったような硬いことばを、一般の人が普通の対話では口にしないはずである。

このように、ゴッホの手紙文の言語的な性格を検討してみると、現実には起こりえない対話調であることが判るという。それは、地の文と同じである。どれもまさに小林秀雄の文章である。
こういう独特の文調が、そこで語られる人生論に躍動感を与えているともみられる。

さて、その地の文で、小林は次のように記す。
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ、とゴッホは、吃り吃り言う。これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。ある普遍的なものが、彼を脅迫しているのであって、告白すべきある個性的なものが問題だった事はない。或る恐ろしい巨なものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。だが、これも亦彼独特のやり方という様なものではない。誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである。」

いきなり「理想を抱くとは……」という定義文が現れる。
それは「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」といった否定形式の述語で展開する。定義形式で開かれた文章は、読者を突然その思考世界に誘い入れる効果があるようだ。

そして、すぐ反復否定が現れる。
「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」と一度打ち消したあと、「決してそんな事ではない」と強く念を押す。
強調的に駄目を押す、こういう文展開は、この小林という批評家の多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞である。しかし、小林は恐れずに用いる。そして、ほとんどつねに人はそこで眼を開く。

それは、このような漸層的な否定だけでなく、いろいろな形で現れる。
例えば、『モオツァルト』には、次のような極端な二極的発想が出てくる。
「モオツァルトの音楽に夢中になっていたあの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいる事になる。どちらかである。」

また、『川端康成』には、次のようにある。
「川端康成の小説の冷い理智とか美しい抒情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、『化かされた阿呆』である。川端康成は、小説なぞ一つも書いていない。」
これは、「小説」という用語を世間の慣用からずらして正当に使用することによって、川端文学の性格を暴いた好論であると、中村は評している。

さらに、『当麻』で、世阿弥の美論に言及した際の表現も、人を立ち止まらせる。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
これは、「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものらしい。
類似表現の差を絶対視する、こういう表現も、一種の極言とみられる。

人を驚かす内容にふさわしい形式である。ただ、この小林という批評家がこういう方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されると、中村はみる。つまり、強調すべき点の見定めに、この批評家は天才的な冴えを示すと、評価している。

先の引用部分から、類例を追加しておこう。
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない」
この部分は、反復否定である。
二度目には、「絶えて……ない」という形で強調した漸層的な否定連続をなしている。すぐ前の「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない」の部分とほとんど同一形式と見られる。
つまり、この段落の冒頭から、「……事ではない、決してそんな事ではない」と始まり、「とゴッホは吃り吃り言う」を挟んで、また、「……という様なものではない。その様なものは、……絶えて現れて来ない」と、強調的な否定の連続する展開となっている。
これは、紛らわしい不要物を切り捨てることによって、核心に迫る論法のせいである。それと同時に、その論調の激しさを示していると、中村は解説している。

この小林という批評家の話は、雑談にもある広義の教訓がこもっていて、ずしりと重い。文章もそのとおりである。
例えば、「とゴッホは吃り吃り言う」と挟んでいる。その「吃り吃り言う」にもみごとな現実感がある。
難解なテーマを抱え、気持ちでは判っているはずなのに、いざ口に出して言おうとすると、ただ否定をくり返すだけで、うまく表現しきれないもどかしさと、それは対応する。
その意味で、「何かしらもっと大変難しい事だ」の特に「何かしら」と呼応していると、中村はみる。

漸層的な連続否定のくり返されたその段落は、次に、「AであってBでない。A’なのである」という分析的な記述に展開する。
すなわち、「ある普遍的なものが、彼を脅迫している」というのがAである。「告白すべきある個性的なものが問題だった」というのがBにあたる。
「或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語る」というのが、A’に相当する。
この文展開も「……だった事はない」という強い否定をばねとしている。
全体的にも、次の逆接の接続詞「だが」を介して、「これも亦彼独特のやり方という様なものではない」と、否定的に展開する。

そして、次の文も、表現態度としては、ゴッホを肯定しながら、「誰もそういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」という否定的な表現をとる。

こういう否定のエネルギーが集積し、論はますます先鋭化する。
ただ、鋭くなっても、つねに普遍を志向して一般化することに、中村は注目している。
「ゴッホの個性的着想という様なものではない」といい、「彼独特のやり方という様なものではない」といい、「誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」とかぶせるところに、個性的な問題をも普遍的なものとして一般化して考える、この批評家の志向が見えると、中村は解説している。

そして、「『それは、深い真面目な愛だ』と彼が言うのは、愛の説教に関する失格者としてである」と小林は記す。
この箇所は、人の気づかぬ深層の真理をえぐり、それを逆説風に語ったものかもしれないと、中村は推察している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)

志賀直哉の文章


小林秀雄は志賀直哉を尊敬したといわれる。
中村明は、志賀直哉の文章について、次のように述べている。
「近代の名文というと、多くの社会人がまっさきに思い浮かべるのは志賀直哉の文章であろう。それは、小林秀雄が言うように「見たものを見たっていうふうな率直な文章」(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)なのだが、それまでの飾りだらけの文章にいやけのさした人たちの眼にはきわめて新鮮に映ったにちがいない。そして、ついには文章の神様と崇められ、その文章を原稿用紙にそのまま書き写すことが最も有効な文章修業だとまで言われた。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)

そして、志賀とはむしろ対蹠的な文体で知られる谷崎潤一郎でさえ、かつてのベストセラーであるその『文章読本』の中で、『城の崎にて』を例にとって、志賀の文章を絶賛した。
だから、「……静かだった。……淋しかった」という『城の崎にて』の文章が名文の見本として教科書にも採られた。
ただ、あの文章は、実に判りにくいという批判があるようだ。文は判りやすいが、文章は判りにくいというのは事実だろうと、中村も付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析


中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(昭和8-9年)の文章を分析している。

谷崎は『陰翳礼讃』に、次のように記す。
「元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿りついた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。(後略)」

谷崎のこの文章に対して、森鷗外、志賀直哉、井伏鱒二の文章と比較して、中村明は次のように評している。
「森鷗外の作品に見る知性的な格調というようなものはない。志賀直哉のある種の文章のような緊迫した簡素美があるわけでもない。かといって、井伏鱒二流の円い文体をそこに見ることもできない。それらとは明らかに異質であるが、この文章にやはり私は誘われる。何に誘われるのだろうか。」

この中村の表現は、小林秀雄の文章を思わせるような否定の反復がまず来ているのも面白い。つまり、森鷗外の文章のように、知性的な格調もなく、志賀直哉のそれのように緊迫した簡素美もなく、井伏鱒二流の円い文体もないという。最後に「この文章にやはり私は誘われる」と肯定している。

さて、中村は、谷崎潤一郎の文章が持っている言語的な性格について説明している。
まず、文の長さに着目している。
谷崎潤一郎の文章は一般に文が長い。つまり長文型である。
波多野完治は文体論を研究して、谷崎潤一郎と志賀直哉を対比的に捉え、鮮やかに解析した。それ以来、この事実は広く知られることとなった。
この『陰翳礼讃』も、その点、例外ではない。
先に引用した文章について、その一文あたりの平均字数は、80から90ほどである。
一般に、近代・現代の小説文章の平均文長は40字ほどであるといわれる。だから、この文章は、その2倍かそれ以上の長さだということになる。つまり、平均すれば文が非常に長いという結果になる。

短い文が集まると、極端な場合は痙攣的な文章になるが、長い文が集まった場合は、概してゆったりしたリズムが感じられる。この文章にも、大きなうねりを思わせるところがある。その一因は、この長文を基調とした文章の流れにある。

次に、この文章には、独特な一種の気品が感じられると、中村はみる。
過ぎ去ったものへの郷愁、懐かしいがやや古風な感じがあるそうだ。この点、谷崎流の用語の選定がかかわっている。
例えば、「その名の示す如く」というのは、「その名の示すように」より、改まった感じで、やや古めかしい。「いつしか」も、「いつか」や「いつのまにか」に比べて、やや古風で気どった感じがする。

また、この文章には、和風の語句が多く使われている。谷崎潤一郎が和文調の文章を綴ったことは有名な事実である。この『陰翳礼讃』も例外ではない。
ただ、和語を基調とした文章中に適量の漢語が散らばって、流れてしまいそうな文調を適度にひきしめている。
和文調とはいっても、やはり近代の散文なのである。「ひかり」とせずに「光線」とし、「日ざし」とせずに「陽光」としているのは、その例である。

このような用語法が効いて、文章の品格が保たれているとする。古風な言いまわし、やや硬い漢語は、読者との間に一種の距離感を生み出している。
度を越せばなじみにくい文章になるが、この文章には、そういう感じはない。むしろ親しみやすいという印象さえ受ける。
それはなぜかと、中村は問いかけている。
その用語法から来る距離感を、逆に縮める働きをする表現が見出される点を指摘している。
例えば、「ああ云う窓」という言い方である。一般に、「ああいう」ということばは、聞き手が話し手と同一の対象を思い描くことを期待して話し手の発するものである。つまり、話し手が聞き手を意識して発することばである。
「あのような」とせずに、「ああ云う」という言語形式を選び取ったというだけのことではないらしい。そういう言い方をすること自体から、作者と読者との連帯感、読者と膝を交えて話しているような親密感が生じるという。

そして、なんといっても、この文章の魅力は、通常なにげなく見すごしやすいところに思いを馳せ、ひとつの真実をつかんだ、という点にあると、中村は捉えている。
つまり、新しい発見が言語化され、かなりの説得力を持って伝わってくるというところに、中村は深く惹かれている。
その重要な発見は、明り取りの機能と効果にかかわるものである。床の間の明り取りというのは、「明り」を「取る」というよりも、逆に、取った明りを障子で濾して弱めるほうにその本領がある、と見る。
それによって実現する逆光線が、「寒々とした、わばしい色」をしていると見る。その光は「もはや物を照らし出す力」がないという。
ものを照らし出す力のない光というようなものを、一般には意識しないだろう。しかし、この文章によって、よく判ることになる。

谷崎潤一郎は、『陰翳礼讃』で、次のように記す。
「或は又、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。」

幽明の境に漂う光に、「悠久」に対する一種の怖れを嗅ぎとった。その感覚の深みに、中村は感銘をうけたようだ。薄暗さが恐怖を引き起こすのはあたりまえだが、それを「悠久」に対する怖れと捉えたところに、最も感動的な発見があったとみる。

以上のように、この文章のいわば名文性のありかは、多様である。なかでも、あの薄明に悠久への怖れを見出す思考が最も鮮烈に中村に働きかけたという。それがなかったら、この文章に対する感銘はかなり浅いところでとどまったと付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、174頁~180頁)

将棋的な文章と囲碁的な文章


かつて修辞学の主要な任務であった名文論は、今でも広義のレトリックを絡めながら、そこに文体論が大きく関与することになる。その意味で、中野重治が書いている話は示唆的であると、中村明はみている。
(中野重治「名文とはどういうものか」創作講座Ⅳ『文章の書き方・味わい方』思潮社、1956年所収)

将棋的な文章と囲碁的な文章とがあるという。
「将棋における敵将に迫る気合は素描法であり、碁の布石は一つの盤を如何に大きく使うかのコンポジションである」という中川一政のことばを引き、そういう中川自身の文章は将棋的であり、中野自らは囲碁的な文章を心がけていると書いている。
将棋的な文章のように、デッサンだけで済ませることはできないということである。

中村明はこれを読んで、いつか永井龍男が、古今亭志ん生は随筆的で、桂文楽は小説的だと書いていた(「世間雑記」)のを思い出したと述べている。
文楽は台本がきっちりできていて登場人物の性格や舞台装置をすっかり飲みこんだ上で噺をするが、志ん生のほうは台本というより、そのときの気分でかってに進行してしまうという。つまり、後者は何を演(や)っても主人公はみんな志ん生になっているそうだ。
(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)

このように、個性を離れて文章について論じたところで始まらず、名文論も同様だと中村は主張している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、67頁)

名文=透明説について


中村明は名文=透明説という文章観についても解説している。つまり、名文は、それを読んでいるときにそこに文章があるということを忘れている、という見方である。

これは長い間にわたって広く支持された説であったようだ。今では言語=道具観の衰退に伴い、一時ほどの勢力は失われたがまだ生き残っている。
古くは小島政二郎が次のように主張した。
「今現に読んでいる文章の姿が意識から消えて(旨いまずいが気にならぬ)、しかも描かれている対象が生き生き浮かぶ」という。
(小島政二郎「徳田秋声の文章」『日本現代文章講座』<鑑賞編>、厚生閣、1935年所収)

また、川端康成も、この名文=透明説と同じ方向だとする。
川端は、志賀直哉の『城の崎にて』を例に出して、作者から独立しているこういう文章こそ名文だとした。
(川端康成『新文章読本』あかね書房、1950年)

【川端康成の『文章読本』はこちらから】

新文章読本

そして、川端は徳田秋声の『爛』の冒頭を例にとって、それを読んでいく読者はそこに作者の個性を感じないで直ちにその小説世界に引き入れられるとした。
(川端康成『小説の構成』三笠書房、1941年)

この問題に関しては、日本の近代的な文体論を拓いた二人の功績者の間で、論争があったそうだ。すなわち、小林英夫と波多野完治の二人である。
まず、小林英夫は、媒体である言語というものが完全に克服されていて、読者が文章を読んでいるという意識を起こさないのが名文だと述べた。
(小林英夫『文体雑記』三省堂、1942年)

これに対して、波多野は疑いを感じた。
波多野は、逆に、あるひとつの事柄がまさに文章をとおして語られているという意識で読まれることこそ名文の資格だと反論した。
(波多野完治『文章心理学入門』新潮社、1953年)

そこに文学は言語そのものだという意識が明確に顕れてはいないが、少なくとも言語=道具説から半歩踏み出したとは言える。
小林は、波多野の主張を半ば受け入れ、文学作品のようないわゆる芸術文は波多野説、手紙や日記、あるいは報告や広告などのいわゆる実用文は小林説という形で、妥協的に処理した。そのため、本格的な論争には発展しなかった。

この点に、中村明はコメントしている。
言語表現においても、いわゆる実用文と芸術文とは、少なくともその言語的性格は連続的である。とするなら、このような妥協はおかしいという。
つまり、人を動かすのはその文章の運ぶ論理的な情報だけではなく、どこまで意識しようと、人は文章そのものに感動している。
(あるいは、文章をとおしてしか、その感動はやって来ないともいえる)
名文の真価は文章に漂う雰囲気と、そこから生ずる感動の質にあるのだから、文章が透明であるかどうかという条件自体が、どだい二次的な問題にすぎないと、中村はいう。

ただ、名文=透明説は、明晰で判りやすい文章が切望された、あの異常な状況を考えると、生まれるべくして生まれたとも付言している。
そして波多野の反論は、そういった過熱した欲求が収まった後の、文学にとって言語とは何かを問いうる状況の中でおこなわれた、という背景を考えてみれば、これも自然に生まれたと、中村はみている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、59頁~60頁、88頁)

鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫


三島は、鷗外の品格ある文章を絶賛した。例えば、森鷗外の『寒山拾得』には、次のような一節がある。

「閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。
 水が来た。
 僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見詰めた。」

「水が来た」の一句が利いている。
三島は、下手な作家なら、次のようにでも書くとする。
「しばらくたつうちに小女は、赤い胸高の帯を長い長い廊下の遠くからくっきりと目に見せて、小女らしくパタパタと足音をたてながら、目八分に捧げた鉢に汲みたての水をもって歩いてきた。その水は小女の胸元でチラチラとゆれて、庭の緑をキラキラと反射させていたであろう」と。

そこを、ただひと言「水が来た」で済ませたところに、強さと明朗さがあるとして、三島は絶賛した。

なお、村松定孝も、よけいな説明を加えないところに非凡さがあると説く。ふつうなら、「小女が水を鉢を入れて運んできた」とか「静かにおそるおそるこぼれないようにかかえて歩をすすめた」とするところである。

中村明は、鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)の中の「大股に行く」という一句に同じ意味での非凡さがあるとする。「歩いて行く」とか「闊歩する」とかとさえせずに、ただ「行く」の一語にとどめている。
素朴な力強さは、作者の表現態度から出てくるというのである。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、123頁~124頁)

川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞


川端の描き出す女性には、どこか超現実的なところがあるといわれる。
この作品『千羽鶴』(昭和24-26年)に登場するどの人物にも、肉感的でありながら、なにかを背負っているような、不思議な不安定さがある。

小説では、脇役ほど現実の姿を呈しやすいとされる。
この作品では、ヒロインたちを対比的に光らせる役を担う茶の師匠栗本ちか子がそれにあたるようだ。(しかし、ある種の非現実性もある)
千羽鶴の風呂敷が過重の意味を持って作品に飛翔する、背景としての稲村の令嬢ゆき子もそうである。太田夫人に至っては、なおさらである。「人間ではない女」「人間以前の女」「人間の最後の女」としての妖気を漂わせている。文子はその娘である。

川端『千羽鶴』の文章の言語的性格について、中村明は考えている。
第一に、漢語が少なく和語が多いという。それが文章の軟らかさに結びついている。
やや硬い感じの漢語としては、「均衡」や「秘術」、「背後」ぐらいである。また、軟らかい印象は、和語が多いというだけでなく、いかにも軟らかさを感じさせる特定のこどばが用いられている。
「いざり寄る」「倒れかかる」「伸び切る」のような和語の複合動詞、「けはい」のような軟質の語がその例であるとする。さらに、「しなやか」「やわらか」という語がくり返され、有効に働いている。

第二に、擬声語・擬態語が目につく。
数が多いというのではなく、あるひとつの動きを描写したクライマックスの部分に、集中的に現れる。例えば、
「文子がぐらっとのしかかって来るけはいで、きゅっと体を固くした菊治は、文子の意外なしなやかさに、あっと声を立てそうだった。」
こういうオノマトペによる伝達は感覚的にしかできないが、そのためにかえって深く伝わる場合があるようだ。
「ぐらっ」とか「きゅっ」とかいう擬態語、「あっ」という擬声語は独創的なものではないが、この描写部分の形象性を高める働きをしていると、中村はみている。

この川端という作家は、まるで閃いては記すように、しきりに行を替えるのが特徴的である。短い一文が切れると、もう行が替わって別の段落に移る。そうすることによって、文間に断絶感が生まれる。『山の音』の信吾が不気味な“山の音”を聞く場面がその典型である。
『千羽鶴』でも、「菊治はとっさに手をうしろへかくした」から「はずみで文子は菊治の膝に左手を突いた」に移行する際に改行している。切れたというよりは切った感じが残っている。意味だけから言えば、「うしろへかくした」と「はずみで」との間は切れないのが普通である。
そこを切るのはほかの要因が働いたためであろうと中村はいう。
形態的に切ることによって、切れるはずのないものが切れてしまう、一種の空隙づくりの効果を狙ったものとする。

だいたい、この作家の文章展開は、対象の側の論理ではなく、素材の側の先後関係でもなく、視点人物の認識機構に合わせておこなわれるようだ。この作家は何人称で書こうと、視点が固定されないのが特徴であるとされる。
『千羽鶴』には、身をかわした文子について、「あり得べからざるしなやかさ」「女の本能の秘術」といった表現がある。つまり、女にこの世のものとは思えない一面を想定し、作家自らも驚こうとしている。少年期から川端作品の基調をなしてきた“驚異への憧憬”が、この作品にも鮮明に表われていると、中村は鑑賞している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、241頁~248頁)


≪丸谷才一と向井敏の『文章読本』≫

2021-05-22 18:53:52 | 文章について
≪丸谷才一と向井敏の『文章読本』≫
(2021年5月22日)

【はじめに】


今回のブログでは、丸谷才一と向井敏の『文章読本』について紹介してみたい。とりわけ、漢字や漢文に焦点をしぼって、その内容を解説してみたい。



【丸谷才一の『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・漢字と漢文について
・漢字の数について
・日本語と小説家の役割
・漢字に関する小林秀雄の見識
・向井敏の『文章読本』について
・漢文脈について







漢字と漢文について


丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
 ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。

徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。
文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷、1977年、133頁~134頁)。

さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷、1977年、256頁~257頁)。

そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷、1977年、283頁~284頁)。

日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷、1977年、76頁)。

漢字の数について


漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。

【井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫はこちらから】

私家版 日本語文法 (新潮文庫)

漢字に関する小林秀雄の見識


小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長(上) (新潮文庫)

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長

【『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。

日本語と小説家の役割


現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。

そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。

【野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社はこちらから】

日本語の世界 13 小説の日本語

日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口、1980年、90頁)。

向井敏の『文章読本』について


「文章のおしゃれ」という点では、推理小説家のレイモンド・チャンドラー(1888~1959)のように、アメリカの小説のおしゃれな会話や言葉遊びが多く見られる。それに対して、日本の現代文学ではまれであると向井敏は指摘している。
その最大の理由として、日本における文体上のリアリズム信仰を挙げている。
日本では、人間と社会の現実を現実のままに写し取ることをよしとして、細部の描写や会話の文体に関してはリアリズム信仰が広く強く根を張り、純文学系では私小説風の、大衆文学系では三面記事風の、現実に密着した話法が重んじられた。
だから、一般的に、スマートな言い回しや、機知に富んだ会話はそらぞらしいとして、避けられたというのである。こうしたリアリズム信仰は作家の中上健次にも見られ、明治の終わりから大正の初め頃の自然主義文学の再来を思わせるような窒息的な文体を好んで書く人もいる。ただ、村上春樹は、こうしたリアリズム信仰を軽く蹴とばして、しなやかな整った文体を持って登場してきた作家であるという。その小説の登場人物は、映画の名せりふにもひけをとらない気のきいた会話をかわし、しゃれたせりふを口にするとみる(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、182頁~187頁)。


【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本

漢文脈について


元来、漢文脈は錯綜した状況を簡潔にかつ語調なめらかに集約して伝えるに長じた語法であるといわれる。
例えば、幕末以来の漢学者の家系に連なる人、中島敦の代表作『李陵』は、高々とした気品のある不壊(ふえ)の名文章として、向井敏は理解している。そこには「凛として勁直(けいちょく)な言葉の響き」があるという。
ただ、漢文脈の欠点として、日常的な情景を描くのに不得手である点が挙げられる。つまり日常の些事をつぶさに伝えるには言葉の柄(がら)が大きすぎて、語調がなめらかすぎて、とかく大げさで様式的な表現になりやすい。この点でも、中島敦は、この漢文脈の性癖を逆手にとって、平淡な口語体の散文のなかに屹立的な漢語脈の語法を意識的に織りこみ、平穏無事な日常的情景の描写にくっきりした目鼻立ちを与えたと評価している。その作例として、孔子の高弟子路の行状を題材とした『弟子』を挙げている(向井、1991年、154頁~159頁、167頁~168頁)。


≪井上ひさしの『自家製 文章読本』≫

2021-05-22 18:18:14 | 文章について
≪井上ひさしの『自家製 文章読本』≫
(2021年5月22日投稿)
 



【はじめに】


今回のブログでは、井上ひさしの『自家製 文章読本』を紹介してみたい。
 井上ひさしは、日本語について、様々な視点から、考察している。それは、英語との比較的視点であったり、オノマトペ、漢語的表現、擬声語、音節数、接続詞、エントロピー、七五調の視点であったりする。
 また、各作家の『文章読本』の寸評も興味深い。



【井上ひさしの『自家製 文章読本』はこちらから】

自家製 文章読本







さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・井上ひさしの『自家製 文章読本』について
・日本語と英語の比較について
・オノマトペに関する議論について
・漢語的表現について
・擬声語について
・音節数と漢字の重要性
・接続詞について
・エントロピーについて
・七五調について







井上ひさしの『自家製 文章読本』について


井上ひさしは自らが『文章読本』を試みることは「滑稽な冒険」と断りつつ、「滑稽な冒険へ旅立つ前に」と題して、各作家の『文章読本』の寸評を記している。
「奇体なことに、丸谷読本以外の文章読本の文章は、それぞれ書き手のものとしては上等とは言い難い。金のために書かれた、あるいは啓蒙読物として書かれたなどの、執筆時の事情もあるだろうが、日頃の文章より数段落ちるという印象がある。」と井上は手厳しく批評している(井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫、1987年、7頁~11頁)。

例えば、井上は谷崎潤一郎について、次のように評している。
「話し言葉と書き言葉の無邪気な混同。大文豪にしてはどうかと思われる、陳腐この上なく、かつ判(わか)ったようで判らない比喩など、谷崎潤一郎の文章読本の瑕(きず)を数えればきりがない。」(井上、1987年、7頁)。
また三島読本については、
「三島読本で愉快なのは、創作では抑えられていたこの小説家の茶目ッ気が大いに発揮されている巻末附録の「質疑応答」である。」とコメントしている(井上、1987年、9頁)。
また中村読本については
「中村真一郎の文章読本には卓見がちりばめられている。なかでも、鷗外の、漱石の、そして露伴のあの文体がどのようにして成ったかを、「文章の土台、苗床」という鍵言葉を駆使して大胆かつ細心に追跡してゆく件(くだり)は圧巻である。中村読本の前半の主題は、「近代口語文の完成は、考える文章と感じる文章との統一である。」とその要点を述べている(井上、1987年、10頁)。

そして丸谷読本については、
「丸谷才一の文章読本は掛け値なしの名人芸だ。たとえば文体論とレトリック論を、大岡昇平の『野火』一作にしぼって展開してゆく第九章などは、おそろしいほどの力業である。なによりも文章が立派で、中村読本に凭(もた)れかかっていえば、考える文章と感じる文章との美事な統一がここにはある。」と絶賛している(井上、1987年、10頁~11頁)。
丸谷才一によれば、文章上達の秘訣は名文を読むこと以外に道はないという。ただ、井上ひさしはこの丸谷読本以外の文章読本の文章に不満を覚えている。

日本語と英語の比較について


研究者の論文を参照し、データを提示し、分析している点で、一番“学問的”なのは、意外にもといっては失礼かもしれないが、井上ひさしの『文章読本』である。
井上ひさしの『自家製 文章読本』の解説を、ロジャー・パルバースという作家が書いている。井上読本を読んで、パルバースは井上の勉強家ぶりにあらためて、驚嘆している。パルバースが井上の『我が友フロイス』を英訳した際に、作品の中に出てくる300年以上も前のポルトガルの地名、人名などがわからなかったので、井上に資料を送ってもらったところ、大量の書き込みや付箋・メモが施されたフロイス全集など何十冊の本があったという。
パルバースは井上の勉強家ぶりに感心しているが、この読本をみても、その読書家ぶりが窺えるほど、研究者の名前が陸続と登場してくる。おそらく『文章読本』と名のつく本で、これほど研究者名がでてくる読本はないであろう。

ところで、パルバースは、日本語の文章と英語圏の文章を比較しているが、日本語がさほど豊かな「体験」をしている言葉であるとは思っていないと述べている。すなわち、英語はイギリスからアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドと、新しい開拓地、植民地へ渡り、変化してきた。移り住んだ人々が、まだ見たこともなかった物や、新しい社会制度や生活習慣が存在したので、新しい言葉や表現なども生まれてきた。それに対して、日本語は、明治以来の西洋文化の急速な導入にともなって新語は生まれたが、日本語そのものが海外を「放浪」して生まれ変わるといったことはなかったという。日本語は英語のような豊かな「体験」を得ることは今後も望めないだろうが、日本語には万葉集以来の伝統がある。その伝統を柔軟に捉え、かつ徹底的に掘り起こしてゆくことが、日本語を豊かにすることにつながると説く。

パルバースは井上読本を「真剣に日本語の文章を考え直させる本である」と評価している。たとえば、日本語の文章ではオノマトペを多用してはいけないという考え方に対して、井上は、その効用を説いている点を、支持している。つまりロマン・ヤコブソンの教えを受けたパルバースは、オノマトペを大いに使うべしという考え方は当然であるという。ヤコブソンは言葉の持つ響きを重視したが、パルバースも作家が言葉を選ぶときに、その意味でなく響きによって選んでいるケースがかなり多いのではないかと思っている。
だが、そんな考え方は日本語の文章の世界では軽視されてきたし、「オノマトペは子供っぽい。大人が使う言葉ではない」という思い込みから、豊かな日本語が生まれることを阻んできたという(井上、1987年、260頁~265頁)

オノマトペに関する議論について


井上ひさしの『自家製 文章読本』は、自らも断っているように、三島読本を手がかりないし足がかりに批判的に持論を展開している。
井上は三島が大衆小説、娯楽小説、読物小説の書き手たちを意味もなく蔑視していることに閉口している(三島、1987年、106頁)。
ところで、この三島はオノマトペについて、その『文章読本』で次のように述べている。
「擬音詞は各民族の幼児体験の累積したものというべきであります。日本の猫はニャオと鳴き、西洋の猫はミャアオと鳴きます。ミャアオをニャオと翻訳すれば、それだけで一つの民族の幼児体験が、われわれの民族の幼児体験に移されます。こんな理由で擬音詞を濫用した翻訳は、非常に親しみやすいうまい翻訳に見えますが、上等の翻訳でないことは言うまでもありません。」(三島、1973年[1992年版]、142頁)。
「擬音詞は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えますが、同時に表現を類型化し卑俗にします。鷗外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少いものであります。それが鷗外の文章の格調をどれほど高めているか知れません。大衆小説などにいまだに使われている手法に、「そうですか。アハハハハ……」というような笑声の擬音詞があります。いまではそんな手法の子供らしいことはだれも気づいていることでしょう。「玄関のベルがチリリンと鳴った」「開幕のベルがジリジリジリと鳴って、芝居が始った」子供はこういう文章を非常に使いたがります。」(三島、1973年[1992年版]、140頁~141頁)。
つまり、擬音詞は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えるが同時に表現を類型化し卑俗にするという。鷗外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少ないものであった。それが鷗外の文章の格調を高めている一因だと三島は理解している。三島が鷗外に学んだのは、擬音詞(オノマトペ)を節約することであったというのである。

オノマトペの問題に関して、井上ひさしは詳述している。
一般に鷗外はオノマトペを使わない作家といわれる。しかし井上はこの点に反論している。つまり、鷗外もオノマトペを愛用していた時期があったというのである。たとえば、『雁』という作品の前半部の山場、高利貸の末造とお玉の目見(めみ)えの場面を引用している。400字詰原稿用紙で200枚の小説中にオノマトペは160個、すなわち1.25枚に1個の割合で現れるとデータを挙げている。ホトトギス派の写生文ほど多用してはいないものの、鷗外も小説の山場では、オノマトペを“総動員”したというのである。
オノマトペには物事を具体的に、直接的にあらわす働きがあり、感覚的効果もいちじるしいので、円顔(まるがお)といえば「ふっくら」といった具合に紋切型になるおそれはあるものの、読者に言語をとおして体験してほしいと作者が願う山場では、オノマトペを用いると井上はみている(井上、1987年、106頁~112頁)。

ただ、鷗外は、乃木希典大将の殉死に深い感銘を受け、これを機に、大正期には歴史小説や史伝小説を書く。すると途端にオノマトペは激減し、三島読本や世間の常識が好む冷徹厳正な文体の持主、森鷗外が誕生する。『山椒大夫』(大正4年[1915年])は、60枚の作品だが、オノマトペはわずか20個足らずであるし、『渋江抽斎』(大正5年[1916年])になるとさらに徹底して450枚に10個前後で、45枚に1個の割合であるという。
井上ひさしは、このことを、「『渋江抽斎』からオノマトペを探すのは、雪原に二つ三つ撒(ま)かれた角砂糖を拾うよりなおむずかしい」という比喩で表現している。
そして、日本語の文章の規範は鷗外の考証ものの文体にあると声高に言われると、閉口すると井上はいう。鷗外の後期文体を奉じない者に向かって、悪罵を浴びせられることは困るという。

日本文学史上、空前のオノマトペの使い手であった宮沢賢治は、この点でだいぶ損をしたと説く。たとえば、「なめとこ山の熊」は23枚の作品なのに、擬声・擬態語は68個もあるという。
そして平明でかつ冷徹厳正な鷗外の文体では、とかく面白味のない、誠実っぽい文章になりがちとなり、そういう文章が「名文である」とありがたがられるのは怖ろしいとも主張している。

オノマトペになぜ、井上はこだわるかと言えば、日本語の特質問題に関わるからであるというのである。つまり、日本語の動詞は弱く、そのままで用いると概念的になってしまい、まだるっこく、的確さを欠くことになるので、動詞にはオノマトペという支えが要ると説く。
そもそも日本語の動詞は、そのまま単独で用いると、意味を訴える力が弱い。だから、「動詞連用形+動詞」の構造を持つ複合動詞が多いのだという。たとえば、「思い出す」は一語のように見えるが、実は「思う」の連用形「思い」+「出す」という構造を持った複合動詞である。こうした動詞を二つ組み合わせた複合動詞は、英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語といった現代のヨーロッパ諸語などには見えない造語法だといわれる。
では、なぜ日本語の動詞は単独で用いられると弱いのかという点に関しては、日本語の構文では動詞が一等最後に来るせいであるという。日本語では、構文全体で意味を拡げたり、あるいは意味を限定してゆく際に、さまざまな意味の盛られた文を、動詞が最後にぴしゃりと完結させてやらなくてはならないが、そのとき動詞一個では力が足りないということが生じてくる。そうした際に、複合動詞やオノマトペを使うのが有効であると説く。ただ、「歩く」というのではなく、「連れ歩く」「捜し歩く」としたり、「歩く」の内容をより具体的にし、聴き手の感覚に直接訴えたいと思うとき、「いそいそ」「うろうろ」「ぐんぐん」「すたすた」「ちょこちょこ」「どすんどすん」といった擬音語(外界の音を写した言葉)や擬態語(音をたてないものを音によって象徴的に表わす言葉)を選んで、「歩く」を補強するのだという(井上、1987年、114頁~121頁)。
このように、オノマトペの有効性について、説得的な議論を井上ひさしは展開している。

漢語的表現について


また井上ひさしによれば、「ひそかに」は、漢文訓読的な表現であるという。この言葉は、吉永小百合と橋幸夫の絶唱『いつでも夢を』(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)の歌い出しに、
「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘(こ)はいつも 歌ってる……」とでてくる。
この「ひそかに」という語について、井上ひさしは興味深いことを記している。紫式部は和文と漢詩文とを強烈な文体意識で峻別しているので、この「ひそかに」という語を一度も使わなかったというのだ。『源氏物語』の作者は、「ひそかに」(和語なら、しのびやかに)のほかに、「たがひに」「すみやかに」なども使わなかったそうだ。これらはいずれも漢文訓読特有の語法だからであるというのが理由である。
もとより井上ひさしは歌謡の作者を非難しているのではなく、庶民の歌謡に漢詩文の形や語法が多く使われていることを指摘したいだけである。つまり明治大正昭和三代の唱歌集や軍歌集には訓読特有の語法が多く見られ、和臭(わしゅう)の歌詞が少なくて、漢臭(かんしゅう)のものが圧倒しているという(井上、1987年、183頁~184頁)。
また付言しておけば、夫婦、天地、解散、英雄、鬼神、栄華、国家、国土、国威といった私達の顔馴染みの漢語は、平安朝の読書人階級が「必須の教養」として暗誦した『文選(もんぜん)』にある漢語であるといわれる。「百姓」も、この『文選』の第一巻に登場する歴とした漢語であるが、もっともその意味は「人びと」で、今とは少しちがった意味であった。

日本語に同音異義語が多いのは漢字のせいではなく、音節数が少ないせいである。日本語の音節数は約140である。それに対して英語の音節数は約4000(7000という説もある)である。140しかない日本語はすぐ手が詰まり、仕方なく同じ音の言葉を次から次へとつくり出すしかなく、同音語があちこちで衝突することになった。この同音衝突地獄に救いの手をさしのべているのが、漢字であった。たとえば、コウエンでも、「芝居の公演」、「喋る講演」といった具合に、漢字表記により区別される。

一方、ヨーロッパの言語では、同音が衝突した場合、混乱を避けるためにどちらか一方の語が、別の語に置き換えられてしまうという。たとえば、かつて発音の異なっていた英語のquean(女)とqueen(女王)が音声変化によって同音語となったために、現在ではquean
はほとんど使用されず、「女」を意味する場合はwomanで置き換えられたというのである(井上、1987年、201頁~202頁)。

擬声語について


三島由紀夫が『文章読本』で、表現を類型化し卑俗にするとして、使わぬようにと述べた擬声語に、井上は注目した。
鷗外の逆を行く、宮沢賢治は擬声語のすぐれた使い手で、たとえば、『どんぐりと山猫』という短い作品ではじつに55個の擬声語で飾っている。そして作品としての抽象度も高く、格調があると高く評価している。
また、和歌や俳句で扱われた擬声語にも唸らせられるものが多いが、中には、
 大海の磯もとどろによする波
  われてくだけてさけて散るかも
という実朝の歌のように、歌全体が一個の擬声語の如き役目を果たしているのさえあると力説している。
とりわけ、「warete cudakete sakete」という[*a*ete]という音の連なりが3回繰り返されている。エという、母音の中ではイと並んでもっとも鋭いひびきを持つこの音の連打(3回反復)は、波の動き―それも波打際への―を彷彿させると解説している。卓見であろう(井上、1984年[1994年版]、18頁~21頁)。

音節数と漢字の重要性


日本語の音節はごくごく少なく、せいぜい140から150であるといわれる。これは北京官話の3分の1、英語の30分の1であるそうだ。音節の数が少ないから自然、同音異義語が多くなる。たとえば、「ごぜんが ごぜんを ごぜんにごぜん めしあがった」は、ひらがなだけで漢字を混えないと、ちんぷんかんぷんである。混乱が生じないのは、漢字があるからである。漢字を混じえて、「御前が御膳を午前に五膳召し上がった」と書けば、明瞭である(井上、1984年[1994年版]、100頁~101頁)

接続詞について


井上ひさしは、『私家版 日本語文法』(新潮文庫、1984年[1994年版]、79頁~86頁)において、「論より情け」と題して、接続詞の使い方から日本人論を展開している点が興味深い。
日本人は一般に接続詞を軽視する風潮があるという。学校の文法の授業でも、動詞や形容動詞や助動詞の活用にその時間を費やされ、接続詞は感動詞と共に、国語教師の説明から落ちこぼれた。
そもそも大小説家の多くが接続詞を胡乱(うろん、「う」も「ろん」もともに唐宋音)なもの、なにやらうさんくさいものとして、敬遠した。井伏鱒二は、描写に「しかし」や「そして」は要らないと喝破した。また谷崎潤一郎はその『文章読本』で、接続詞は品位に乏しく、優雅な味わいに欠ける、それは接続詞が含蓄を減殺して、古典文にみられる叙述の間隙を充塡してしまうからだと嘆いている。
そもそも接続詞の成り立ち方、その素姓そのものが曖昧模糊としているようだ。発生論的見地からすれば、日本語にはもともと接続詞というものがなかったといわれている。
ところで、接続詞に逆接の接続詞というのがある。たとえば、「しかし」というのがそれである。いかにも接続詞接続詞した接続詞である。とくに逆接の接続詞を用いるには現象Aと現象Bとの間にある因果関係を発掘しなければならず、きちっと接続詞を立てるということは、論を立てることであると井上はみる。あまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということと同義ではないかという。
わたしたち日本人は、情感を表現するのに有効でないものは使おうとしない。谷崎潤一郎が好んだ古典文、とりわけ平安時代の女流かな文学の文章は、「軽い」働きの接続助詞を駆使して、長く長く連ねられる。つまり論理性を捨て、文と文との間に断崖のできるのをおそれて、「軽い」接続助詞で次々と繋いで行くというのである。現在のわたしたちが「が」を並べてことばの運用を続けていく。どうやら、わたしたちはやはり依然として「論より情け」を重んじた紫式部たちの子孫であるらしいと井上は述べている。
ただ、日本人には徹底的に逆接の接続詞を多用して論理的な作品を創り出た作家もいることも付言している。たとえば、大岡昇平である。彼の『俘虜記』という作品で、アメリカ兵との不意の遭遇のくだりでは、「しかし」を連発している。また接続詞という点では、『野火』で、屍体の上膊部を切り取ろうとする主人公の右手を左手が押さえるくだりでは、「つまり」を羅列している(井上、1984年[1994年版]、79頁~86頁)。

エントロピーについて


川端の『文章読本』をいささかけなしすぎたきらいがあるので、その小説の文章を賞賛している論者の説を紹介しておこう。それは井上ひさしである。
情報理論では、文の推移を予測できる確率が高くなることを「エントロピー(entropy, 不確定度)が小さい」という。逆に、次にどんな文・句がくるのか見当のつかない場合は、「エントロピーが大きい」と称する。
川端康成の小説『雪国』の冒頭は、井上ひさしによれば、その文を構成する句群は、エントロピーが大であると解説している。
その冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。」である。「夜の」の次に「底が」とくる意外性があり、加えてその「夜の底が」「白くな」るという意表をつく飛躍が見られるというのである。この連続が読者の心をしっかりと摑むのであるという。
おしなべて良い作家の文章はエントロピーが大であり、読者の予測を許さないのではないかと井上は述べている。その出だしを読めば、末尾まで見当のつく文章など、だれだって身銭を切ってまで読もうとは思うまいと付言している(井上、1984年[1994年版]、271頁~272頁)。

七五調について


井上ひさしは、七五調について次のような面白い話をしている。
「音韻に関してもうひとつ、七五調の凋落も目につく。『北の宿』(歌・都はるみ、作詞・阿久悠)以来、七五調的歌詞でヒットしたのは、ジュディ・オングの『魅せられて』ぐらいなものだろう。
《南を(ママ)向いてる/窓を明け 一人で見ている/海の色 美しすぎると/怖くなる 若さによく似た/真昼の蜃気楼 wind is blowing from the Aegean 女は海 好きな男の/腕の中でも 違う男の/夢をみる Uh--- Ah--- Uh---Ah---私の中で/お眠りなさい wind is blowing from the Aegean 女は恋……》(作詞・阿木燿子)
正確には(8・5)を基調にしており、後半には英語がそっくりそのまま出てきたりして、このごろの歌謡曲の基調である[七五調破壊]を実行しているが、しかし前半はなんとなく七五調に似せている。七五調の基本リズムを守るかにみせて、基本を破り、この操作によって複雑なリズム感をつくり出しているあたり、なかなか手のこんだ、巧者な芸であるといわなくてはならない(井上、1984年[1994年版]、200頁~201頁)。
この七五調の問題は、後日、別の機会(「フォークソング考」)に論じてみたい。


≪中村真一郎の『文章読本』≫

2021-05-22 18:00:34 | 文章について
≪中村真一郎の『文章読本』≫
(2021年5月22日投稿)




【はじめに】


今回のブログでは、中村真一郎の『文章読本』について、簡潔に紹介しておく。



【中村真一郎の『文章読本』はこちらから】

文章読本(新潮文庫)



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中村真一郎の『文章読本』について
・日本の口語文の歴史について
・日本語の本質について







中村真一郎の『文章読本』について


知性派作家の中村真一郎の『文章読本』の内容は、自らその「あとがき」で述べているように、「近代百年の口語文の歴史のあとを、洗い直す」といったものである。もともと雑誌『ミセス』に、1974年から1ヵ年間、連載することによってできたものであるという。だから、一般の人たちが文章を書く時の道しるべであると同時に、近代日本の文章の変遷の歴史を述べた本となっている。竹西寛子が解説で記しているように、「明快な近代日本文学史を通読したような気分になった」のも、うなづける(中村真一郎『文章読本』新潮文庫、1982年、213頁~217頁)。

ただ、竹西も釘をさしているように、いくら『文章読本』を読んだとしても、必ずしもよい文章が書けるものでもない。すなわち、竹西は次のような解説を述べている。
「文章読本とか小説作法の類に、文章を書く上での手軽な実用性を求めるのは、多分、求めるほうが間違っている。そういう態度で接する限り、すぐれた文章読本にも大方失望させられるだろう。よい文章は、そんなに手軽に、都合よく、頭だけで書けるものではない」と。(中村、1982年、217頁)

日本の口語文の歴史について


日本で口語文が成立するまでは、紆余曲折があったことを中村真一郎は述べている。そもそも日本人は、「調子好き」なところがあった。それは民衆が読書ではなく語り物を聴くという習慣に慣らされていたせいだといわれる。だから小説も、近代のはじめは文章が踊りがちであった。新しい口語文は人工的に作る新しい文体であったから、たどたどしくなることを免れなかった。
そこで、読者の好みに敏感な作家は、より調子のいい文語文を混ぜながら、文章を書いた。有名な尾崎紅葉の『金色夜叉』が当時、ベスト・セラーになった秘密のひとつは、その地の文が調子のいい文語体であったからだといわれている。
新しい口語文は、読者に慣れさせるという努力をしながら、形成されていったのである。つまり、口語文の成立の歴史は、その文章の中から、踊るような調子を排除していった歴史であると中村真一郎は理解している(中村、1982年、37頁~38頁)。

日本語の本質について


『源氏物語』には主語なく、即自的の私であって、対自的な私になっていないといわれる。
「自然な無意識な私というもの」があるだけで、他人と区別して自分を自覚するという傾向が、日本人には乏しかったこと、つまり、日本という国では、自分に対立する他人というものを鋭く意識することが少ない。
言葉が論理的になるということは、まず主体である私を対自的に自覚する、ということから出発すると中村は説く。そして日本人の精神の近代的な構造を、口語文で明晰に表現することに成功したのが、鷗外と漱石であったと理解している(中村、1982年、94頁~99頁)。


≪三島由紀夫と川端康成の『文章読本』≫

2021-05-22 17:47:36 | 文章について
≪三島由紀夫と川端康成の『文章読本』≫
(2021年5月22日投稿)

 



【はじめに】


 今回のブログでは、三島由紀夫と川端康成の『文章読本』について紹介してみたい。
 ひきつづき、名文とは何かについて、井上ひさしや中村明の著作をも参照しつつ、考えてみたい。



【三島由紀夫の『文章読本』はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【川端康成の『文章読本』はこちらから】

新文章読本

さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・三島由紀夫の『文章読本』について
・明晰な文章について
・『文章読本』に関しての川端康成と三島由紀夫
・美文と名文の区別について
・三島による谷崎の『文章読本』評について
・川端康成の『新文章読本』について







三島由紀夫の『文章読本』について


今まで“素人”向けの『文章読本』が多かったが、三島由紀夫は自ら“玄人”向けのそれを意図している。つまりレクトゥール(lecteurs、普通読者)から、リズール(liseurs、精読者)に導くために、『文章読本』を執筆した。
三島が大蔵省に勤務していた時、大臣の演説の草稿を、文学的に書いたところ、課長に下手だと言われ、事務官が改訂した。すると「感情や個性的なものから離れ、心の琴線に触れるような言葉は注意深く削除され、一定の地位にある人間が不特定多数の人々に話す独特の文体で綴られていた」「感心するほどの名文」ができあがっていたと回想している(三島由紀夫の『文章読本』中公文庫、1973年[1992年版]、8頁~10頁、および野口武彦の解説183頁参照のこと)。

三島は、文章の最高の目標を、格調と気品に置いていると明言している。そして、それらはあくまで古典的教養から生まれるものであり、古典時代の美と簡素は、いつの時代にも心をうつものであると信じていた。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるであろうという(三島、1973年[1992年版]、154頁~155頁)。
そして、日本語の特質について次のように述べている。
「日本語の特質はものごとを指し示すよりも、ものごとの漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気をとり出して見せるのに秀でています。そうして散文で綴られた日本の小説には、どこまでもこのような特質がつきまとって、どこかでその散文的特質をマイナスしつつ、しかも文体を豊かにしているのであります。」と述べている。
つまり、日本語の特質は、ものごとを指し示すよりも、情緒や雰囲気をとり出して見せるのに、秀でているというのである(三島、1973年[1992年版]、22頁および186頁)。

現代の日本人は、いまや七・五調の文章になじむことはできないが、それの持つ日本語独特のリズムは、われわれのどこかに巣くっている点を三島も指摘している。卑近な例でいえば、「注意一秒 怪我一生」「ハンドルは腕で握るな 心で握れ」といったキャッチフレーズ、標語や、「有楽町で逢いましょう」(歌・フランク永井、作詞・佐伯孝夫)といった歌のタイトルにも残っている(三島、1973年[1992年版]、22頁~23頁)。

日本文学の特質は、『源氏物語』などの平安朝文学に象徴されるように、女性的文学といってもよく、日本の根生(ねおい)の文学は、抽象概念の欠如からはじまったと三島由紀夫はみている。日本文学には、抽象概念の有効な作用である構成力、登場人物の精神的な形成に対する配慮が長らく見失われていたとし、男性的な世界、つまり男性独特の理知と論理と抽象概念との精神的世界は、長らく見捨てられてきたと三島はいう。
日本文学の風土は、古代から現代まで、男性的文学の要素が稀薄であり、抽象概念と構成力の男性的文学―対―感情と情念の女性的文学という対立は、そのまま散文と韻文との対決に置き換えられるとみる(三島、1973年[1992年版]、15頁、185頁)。

明晰な文章について


名文とは、明晰な文章であることを三島は力説している。鷗外は人に文章の秘伝を聞かれて、一に明晰、二に明晰、三に明晰と答えたといわれている。また、『赤と黒』や『恋愛論』で有名なスタンダールが『ナポレオン法典』を手本として文章を書き、稀有な明晰な文体を作ったといわれる。明晰な文章は、無味乾燥と紙一重であって、しかもそれとは反対のものである。
三島は鷗外の『寒山拾得』という小説を引用して、その文章が漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章で、名文であると賞賛している。とりわけ「水が来た」という一句に注目し、「現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すという文章」は、鷗外独特のものであると解説している。鷗外のはなはだ節約された文体は「言葉を吝しむこと、金を吝しむがごとく」にして書かれた文体であるという(三島、1973年[1992年版]、41頁~47頁)。

『文章読本』に関しての川端康成と三島由紀夫


川端康成と三島由紀夫は、作家としては師弟関係にあった。ただ、1969年、政治嫌いで、イデオロギー嫌いの川端が、「楯の会」一周年の式典祝辞を述べてほしいという依頼をにべもなく断ったのが原因で、二人の間に“しこり”ができ、それは1970年三島が割腹自殺するまで続いたようだ(それでも、三島の葬儀委員長は川端が引き受けた)。

美文と名文の区別について


作家の『文章読本』の中では、川端読本は一般に評判が悪い。ただ、川端読本の長所もある。美文と名文を区別した点は卓見であろう。
川端自ら、次のように述べている。
「美文と名文を区別することが、あるいはこの私の小論の使命かも知れぬ。美文は調子によって流れて、しかしその一字一句に自然と生命を忘れがちである。真の名文であれば、一字一句、魂あって生きるのではあるまいか」と(川端、1954年[1977年版]、18頁)。

この川端の業績を、中村明は『名文』において評価し、
「名文は一字一句に魂があって生きている(川端50)のに対し、美文のほうは調子に流れて内容が空疎になりやすい。」と、名文と美文の区別について、川端説を受け容れている(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、31頁)。

ところで、中村明は、「移りゆく名文像」と題して、名文はその定義の上で、“不易”という性格を持つはずであるが、具体的にどの文章を名文と考えるかという現実の判断のほうには時代の風、つまり時代時代の趣味、思想、感情によって変わるのはやむをえないとしている。名文か悪文を認定する規準は時代に影響されることは、たとえば森鷗外の『源氏物語』に対する評価にもよく表れている。
「人もあろうに明治の大文豪森鷗外が、事もあろうに日本文学を代表するとさえ見られているあの源氏物語をつかまえて悪文呼ばわりした」のである。通史的に見れば、名文評価には主観性とともにそこには時代的な流行性がのぞいている。
大文章と言われる源氏には、
①主語がめったに現れない
②地の文と会話文との区別がはっきりしない
③文が切れないという性格がある。
出来事の隈ぐままで描き、心の襞を語りつくす文章ではあるが、ともかく切れない文章である。文章は大きくゆったりとしたリズムで流れていき、その間に切れめが感じられないといわれる。
対句的表現を折り込んだ和漢混淆文体のやや調子の高い文章になじんだ者には、源氏流の文章は歯切れの悪い印象を与え、簡潔、明晰を志向する時代の好尚には合わない。この点で、鷗外の『源氏物語』への評価もうなづける点がないわけではない。というのは鷗外は文章を「明晰」の一点に賭けた作家であるから(中村、1993年、61頁~63頁)。

判りやすいという点は、名文の条件として最も人気のある項目である。能文の三要素として、「遒勁」「流暢」に先立って、「明晰」という点を第一にあげる。また、スマートな文章心得として「3Cの原則」があるといわれる。すなわち、clear(はっきりと)、correct(正しく)、concise(簡潔に)がそれである。このように「明晰さ」というものがいかに優先されてきたかがわかる(中村、1993年、38頁~39頁)。

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)

また、「簡潔に」という点では、川端読本も、「文章とは、感動の発する儘に、自己の思うことを素直に簡潔に解り易くのべたものを良しとする。古来文章の理範として「華を去り実に就く」といわれたのも、この所であろうか。文章の第一条件は、この簡潔、平明ということであり、如何なる美文も、若し人の理解を妨げたならば、卑俗な拙文にも劣るかもしれない。」と述べている。このように川端は文章の第一条件として、簡潔を挙げている(川端、1954年[1977年版]、17頁)。

川端康成という作家は、「餅のような肌」といった紋切り型の表現ではなく、さすがに「白い陶器に薄紅を刷(は)いたような」(『雪国』)といった秀逸な比喩を用いる作家だけのことはある。
また、商業文においても、簡潔さの重要性をよく説かれる。つまり、
「商業文で大切なのは、まず第一に正確さ、それに加えて「カメレオン」です」とよく強調される。カメレオンとは、カンケツ(簡潔)、メイリョウ(明瞭)、レイ(礼)にかなう、オンケン(穏健)の、四つの心得の頭音をつないだものを意味する(井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫、1987年、64頁、67頁)。

【井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫はこちらから】

自家製 文章読本 (新潮文庫)

ところで、谷崎・川端両大家は、志賀直哉の、彫琢、簡潔、達意、平明な文体を賞賛している。川端は、「その作者が全く浮かばぬほど、独立した完璧の文章である。文章の個性そのものに作者の刻印があるので、名文とは作者から独立したこのような文章をいうのであろう」と、志賀の『城の崎にて』を評言している(川端、1954年[1977年版]、40頁)。

また、谷崎は、「(『城の崎にて』の文章は)簡にして要を得てゐるのですから、此のくらゐ実用的な文章はありません」。また「小説に使ふ文章で、他の所謂実用に役立たない文章はなく、実用に使ふ文章で、小説に役立たないものはない」といっている(谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]、24頁、26頁)。

ただ井上ひさしは、この両大家の、簡潔さや平明さへの賛辞的論法を推し進めていくと、「報知新聞」の芸能人窃盗事件の記事や、「日刊アルバイトニュース」の文も名文になってしまうと皮肉っている(井上、1987年、28頁~30頁)。

また中村明によれば、小林秀雄の文章を悪文とみなしていない。
「冷酷な抒情の閃く一行一行を書きすてた川端康成も、一文一文に過重の意味をこめて人をまどわせ、結局は心酔させてしまう小林秀雄も、それぞれに個性的な文章を綴りながら、一度も悪文視された例を知らない」という。
ただ、中村明の悪文の定義は特異である。悪文は個性の強い文章であり、あくの強い文章、つまりアク文だというのである。悪文は名文の対概念ではなく、本来の悪文は表層の性格をはっきり持った特殊な名文であると考え、名文と対極にあるのは、駄文であると理解している(中村、1993年、28頁~29頁)。

そして、三島由紀夫は、小林秀雄の批評を高く評価している。日本語における論理性の稀薄さと、批評の対象とすべき近代日本の浅薄さとのために、日本の評論家は批評の文章・文体を作ることがなかなかできなかったが、一人の天才、小林秀雄によって、それが樹立されたと三島はみている。
小林の文体の特徴は、近代の批評家で最も見事な評論の文章を書いたフランスのポール・ヴァレリーと同様に、論理的ありながらも、日本の伝統の感覚的思考の型を忘れずに固執したという強さにあるという(三島、1973年[1992年版]、86頁~87頁)。

三島は鷗外の文体を絶賛している。
「明治44年(1911年)、49歳の鷗外は、「妄想」や「心中」ののち、いよいよ名作「雁」を発表する。
「雁」を読み返すたびにいつも思ふことであるが、鷗外の文体ほど、日本のトリヴィアルな現実の断片から、世界思潮の大きな鳥瞰図まで、日本的な小道具から壮大な風景まで、自由自在に無差別にとり入れて、しかも少しもそこに文体の統一性を損ねないやうな文体といふものを、鷗外以後の小説家が持つたかといふことである。
適当な例ではないかもしれぬが、堀辰雄氏の文体は、ハイカラな軽井沢を描くことはできても、東京の雑沓を描くには適せず、谷崎潤一郎氏の文体は又、あれほどすべてを描きながら、抽象的思考には適しなかつた。どの作家も、鷗外ほど、日本の雑然たる近代そのものを芸術的に包摂する文体を持つた作家はなかつた。」(三島由紀夫「森鷗外」『文芸読本 森鷗外』河出書房新社所収、1976年、124頁)

堀辰雄の文体は、ハイカラな軽井沢の描写には向いているが、東京の雑沓を描くには不適で、谷崎潤一郎の文体は抽象的思考には適しなかったと三島は批評している。それに対して、鷗外の文体は、「近代そのものを芸術的に包摂する文体」で、「日本のトリヴィアルな現実の断片から、世界思潮の大きな鳥瞰図まで」「自由自在に無差別にとり入れ」たという。

三島は、「方言の文章について」という一文をしたためている。その中で、谷崎潤一郎の『細雪』がもし東京弁で書かれたところを想像すれば、方言というものが文学の中でどれだけ大きい力をもっているかがわかるという。そして『細雪』の翻訳がこのような方言の魅力を伝えなかったら、どれだけ効果を薄くするか想像にあまりあるとする。
谷崎は生粋の江戸っ子であるが、上方に移住してからこの方言の面白さに心を奪われ、関西弁の小説を書いた。『卍』はその関西弁で書かれた傑作である。この小説の構造は、あの独特な関西弁を除外しては考えられないが、谷崎はこの『卍』を書くにあたっては、大阪生まれの助手を使ったそうである。
そして三島自身は、その谷崎に比べて、「私の如きなまけ者は、『潮騒』という小説を書くときには、いったん全部標準語で会話を書き、それをモデルの島出身の人に、全部なおしてもらったのであります。」とその『文章読本』で記している(三島、1973年[1992年版]、177頁~178頁)。

谷崎にしても、三島にしても、一流の作家というものは、いかにその文体や会話に神経をつかっているかということが察せられるエビソードである。

三島による谷崎の『文章読本』評について


「最後に、氏の「文章読本」は、日本の作文教育に携はる人たちにぜひ読んでもらひたい本であつて、谷崎氏が自分の好みに偏せず、古典から現代にいたる各種の文章の異なる魅力を、公平に客観的にみとめつつ、かつ自分の好みを円満に主張してゐる点で、日本の作文教育が陥りがちな偏向の、至上の妙薬になると思ふ。といふのは私自身、小学校の誤つた報告的リアリズム一辺倒の作文教育にいぢめられ、のち中学に入つて、この「文章読本」を読んで、はじめて文章の広野へ走り出したといふ何ともいへない喜びを味はつた経験があるからである。」(『文芸読本 谷崎潤一郎』河出書房新社、1977年[1981年版]、25頁)。
という。つまり、古典から現代にいたる各種の文章の異なる魅力を、公平に客観的にみとめつつ、かつ自分の好みを円満に主張している点を高く評価している。三島は、谷崎の『文章読本』を読んで、はじめて文章の広野へ走り出したという喜びを味わったと述懐している。

川端康成の『新文章読本』について


川端による各作家の文体批評は、的確で興味深い内容である。たとえば、宇野浩二、武者小路実篤、芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、久保田万太郎、里見弴の文章について、次のように論じている。
「たとえば宇野浩二氏の文章は「文語」の型を大胆に破って、一種の新しい「口語」を発見したという点でだけも永久に残るものであろう。武者小路氏の文章もまた同様である。
 芥川竜之介氏や菊池寛氏は、漢語に頼ることの多かった文章家である。
 漢語のあるものは、すでに言葉の生命が硬化して平明、新鮮、繊細、柔軟、具象、情感等を生命とする文芸創作の用語としては歓迎すべきものではないが、それに新しい秩序を与えたのは、芥川氏の功績であった。芥川氏は言葉の選び方が精厳で、その潔癖さでは泉鏡花氏と比肩されるであろう。
 菊池寛氏は、力強く簡潔な文章を生み出した。文芸作品の文章に、普遍、通俗の重大要素を打ち込んだ功績は不滅ともいえようか。
 志賀直哉氏の文章は、近代文章の模範とされている。志賀氏の文章を、理性の詩とすれば、情緒の詩は久保田万太郎氏の文章であろう。
 里見弴氏は古い日本文章の文脈の上に、近代のリズムを加えて、生命を吹きこんだ。」
(川端康成『新文章読本』新潮文庫、1954年[1977年版]、57頁~58頁)。

そして、谷崎潤一郎と佐藤春夫の文章を、次のような比喩を用いて、理解している。
「谷崎潤一郎氏の文章が滔々たる大河とすれば、佐藤春夫氏の文章は水清らかな小川であ
る。両氏共に想像が豊かで連想が賑かで、視点の細かい文章を書くが、谷崎氏が稍々「説
明的」であるとすれば、佐藤氏は稍々「表現的」であるといえるかもしれない。表現的というのは、より多くの主観的というほどの意味である。つまり、文章の末節にまで作者の神経なり感情なりが息づいているのである。描く気持の裏に歌う気持が流れているのである。そしていわば作品が一元的なのである。作品の情操とか感懐とかいう一色の空気に、何もかもが包まれているのである。この点で佐藤氏の文章は室生犀星氏(前期の作品は除く)、永井荷風氏の文章に似ている」(川端、1954年[1977年版]、74頁)。

谷崎の文章が滔々たる大河で、「説明的」であるのに対して、佐藤の文章は水清らかな小川で、「表現的、主観的」で、室生犀星や永井荷風の文章に似ているという。
宇野浩二や武者小路実篤の文章は、一種新しい「口語」を発見したといい、芥川龍之介や菊池寛は、漢語に頼ることが多かった文章家であると捉え、芥川は言葉の選び方が精厳で、菊池は力強く簡潔な文章を生み出した。志賀直哉の文章は、近代文章の模範とされ、理性の詩と形容でき、それに対して久保田万太郎のそれは情緒の詩であった。また里見弴はその文章に近代のリズムを加えたという。
各作家の文章に対して、川端康成特有の“感覚的”理解が示されている。