歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫

2023-02-26 18:00:16 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫
(2023年2月26日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
●第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
●第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
●第11章 アルカイックであるということ/ 王羲之「十七帖」考

ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
・中国書史における王羲之の意義
・「蘭亭叙」の原本の姿について
〇第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
・石川九楊氏の書史(中国書道史)の捉え方
〇第11章 アルカイックであるということ/ 王羲之「十七帖」考
・石川九楊氏の「李柏尺牘」理解
・「十七帖」について
・「王羲之尺牘とは何か」




第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)


中国書史における王羲之の意義


王羲之の「蘭亭叙」(石川氏は「蘭亭序」を「蘭亭叙」と表記している)の書史上での位置づけについて、石川氏はどのように考えているのだろうか。
ひとつは、「蘭亭叙」が名品と言われるのはほんとうだろうかという疑問が石川氏にはある。少なくとも「蘭亭叙」は書史の中央に位置するものではないと考えている。
他のひとつは、現存の「蘭亭叙」と称される作品はすべて籠字で写しとり、墨で埋めた双鉤塡墨の搨(とう)本か、敷き写し等による摹(も)本か、あるいは臨書した臨本にすぎない。だから複製物はどのようにして、その真を写し出しているのだろうかという、原本と写本のずれの問題があるという。

「書史上の中心と辺縁」と題して、書史上の真の名品について考えている。書の歴史というものは、書の発生から現在の書に至るまでの時間軸に沿った線状のものを考えるより、核から増殖する球体状のものだと考える方がより近いという。そして楷書とその周辺に限って言えば、書史の中心というものが想定される。たとえば、その中心に位置する書といえば、中国の唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」を挙げている。そしてその中心にほぼ近いものとして、褚遂良の「雁塔聖教序」を加えている。
これらの書は、起筆の打ち込み方、字画の描き方、字画構成の見事に整った姿、文字間隔、行の並び方、いずれも緊張に満ち満ちていて、ほとんど、破綻が見られないと述べている(石川、1996年、105頁)。

「蘭亭叙」の原本の姿について


「蘭亭叙」は名品であるという喧伝は巷間に流布された噂による部分が大半である、と石川氏はみている。
「蘭亭叙」は唐太宗がその真蹟を入手し、生涯それを愛玩し、死後は遺言により墓(昭陵)に殉葬された。その伝説がまた、「蘭亭叙」の価値を押し上げる。噂による価値の押し上げは、日本の空海の書と双璧である。いわゆる雑体書的薄気味悪さをもつ空海の書を、日本では書の聖と呼んでいる。明らかに日本の書の聖は三蹟と上代様の仮名の書にあるにもかかわらず、よくよく見たこともない空海の書をいわば噂話によって一般には最高と読み違えている、と石川氏は批判している。
次いで、群遊する「蘭亭叙」群の不可解さがこれに輪をかけているという。「蘭亭叙」の原本の姿を幻視するなら、どうということはない六朝時代のひとの書が現れる。これが「蘭亭叙」の実際の姿であろう。
「蘭亭叙」がどこか消そうとしても消せない不思議な魅力をたたえているとすれば、それは「八柱第一本(張金界奴本)」のような唐代楷書法と六朝書法との、言い換えれば三折法=表現法と二折法=表記法との現実には存在しない合成体(サイボーグ)の美に求められる、と石川氏は考えている。
楷書書法と六朝書法の合成体(サイボーグ)という意味において、唐の太宗時代以来喧しく騒がれた「蘭亭叙」の世界のすべてを「八柱第一本(張金界奴本)」が象徴するものである(もっとも、もう少し六朝書法に近い形での「蘭亭叙」が存在し、発見されたとしても少しも不思議ではないともいう)。

そもそも石川氏は「八柱第一本(張金界奴本)」、「八柱第二本」、「八柱第三本(神龍半印本)」に対してどのように見ているのか。
この点について簡単に説明しておくと、「八柱第一本(張金界奴本)」は、書に通じ、六朝書法の何たるかを心得た筆者による搨本か、あるいは原蹟かもしくはとても原蹟に近い書を可能なかぎり忠実に写しとったものであるとみなしている。この点で、「八柱第一本(張金界奴本)」は双鉤塡墨時の唐代書法と六朝書法との二重性を併せもった、現実には存在しない不思議な書、つまり双頭の怪獣として存在している。
そして「八柱第一本(張金界奴本)」から唐代楷書書法を消去して、「蘭亭叙」の原本の姿を描き出したらどうなるだろうかという問いに対して、石川氏は次のように答えている。おそらく「薦季直表」を進化させ、「六朝写経」を流動化させ、楼蘭出土木簡、紙片、「李柏尺牘」をいくぶんか硬書化させた姿となるだろうというのである。その時原本「蘭亭叙」はこれらの六朝書をわずかに抜きん出ることはあっても、基本的には六朝時代の書風で統一され、六朝書の海の中に帰ることだろうと喩えている。一枚の六朝書として「蘭亭叙」が存在したことを幻視することは「八柱第一本(張金界奴本)」からは可能であるが、しかし、その幻の「原本・蘭亭叙」は全体を貫く基調の整斉さと古風で豊潤な魅力は抜群であっても、唐代以降騒がれ、現在もなお騒がれるような形での輻輳した複雑な魅力をもつ「蘭亭叙」とは全く異なった姿であるはずであると推察している。
書史上はこの世ならざる双頭の怪獣となることによって、「蘭亭叙」は「蘭亭叙」として存在しつづけている。「蘭亭叙」が存在したか否か、その原本が王羲之によって書かれたか否か、どの時代に「蘭亭叙」の原本が書かれたかはわからないが、西川寧氏が指摘したように、六朝書法が「八柱第一本(張金界奴本)」に覗けることは確実である、と石川氏は主張している。
一方、「八柱第三本(神龍半印本)」は書以前の代物という。つまり「八柱第三本(神龍半印本)」をはじめ、「絹本蘭亭叙」「明陳鑒模本蘭亭叙」「黄絹本蘭亭叙」は、いずれも六朝書法に何の理解もない筆者か、あるいは、すでに完全に唐代楷書書法的に歪められた原本からの敷き写し、ないし臨本であるという。そして、これらが書以前というのは、それが何ら太さや細さ、起筆や撥ねの形状にこめられた六朝書法的意味を理解しないまま模倣、模写していることを指摘している。文字の構造がわからないまま形を写し出すものだから、運筆上のつながり、脈絡を欠いた奇妙な姿となっていると評している。
そして宋代米芾の臨本かとも言われる「八柱第二本」は、唐代書法、さらには宋代の明らかに米芾が切り拓いた構成法の水準の上に、ほぼ安定した、しかも水準の高い三折法=「三過折」および構成法で書かれており、出色であるとみている。

しかしそこには全くと言っていいほど六朝書法が姿を現さない。「八柱第三本(神龍半印本)」のように、形のよってきたるところの意味のわからぬまま写しとったような箇所はほとんどない。見事に均衡をとり、整った筆蝕の書であり、その点で「八柱第二本」は書的には「蘭亭叙」の中の最高峰であるという。
しかしそれは唐代、否、宋代以降の完璧な楷書書法の上に立っており、六朝書法の古風なふくよかさは皆無である。つまり「八柱第二本」はもはや王羲之=六朝期の「蘭亭叙」の書の面影を盛り、伝えるものではない。したがって、双頭の怪獣「八柱第一本(張金界奴本)」を現存する「蘭亭叙」の中では第一に石川氏は挙げている。

このように、六朝書法を残すという意味で「八柱第一本(張金界奴本)」を最右翼に、六朝書法を全く消去しているという意味で「八柱第二本」を最左翼に、その中間に不自然な姿で「八柱第三本(神龍半印本)」をはじめ他のいわゆる唐模本と言われる「蘭亭叙」が存在している、と石川氏は理解している。
(石川、1996年、110頁~111頁)

第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)


石川九楊氏の書史(中国書道史)の捉え方


石川氏は「蘭亭叙」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい、有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)

中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭叙」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川氏は強調している。例えば、「蘭亭叙」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭叙」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。

第11章 アルカイックであるということ/ 王羲之「十七帖」考


石川九楊氏の「李柏尺牘」理解


王羲之の書の実像は明らかでない。というのは王羲之筆と伝えられる法帖は多くても、そこに確実に、これがそうだという書がひとつもないからである。それでも、王羲之の草書には、同時代の「李柏尺牘」と共通の素朴さ、アルカイックな感じを読み取ることができ、唐代以降の懐素の「自叙帖」や黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」の複雑で、いささか重々しい草書とは隔絶した感がある、と石川氏は述べている。その理由は、前者が共通に二折法段階にあるのに対して、後者が三折法段階に属し、折法を違えていることに起因している、と石川氏の持論を展開している。

それは単に「一折」の過多の「量」の問題だけではなく、二折法においては起筆や送終筆が矛盾を孕まず一方的で、質的に淡泊であるがゆえに素朴に表現される。三折法においては、「起(連綿の終筆であると同時に当該画の起筆)・送(起筆を引きずった送筆であると同時に終筆に向かう送筆)・終(当該画の終筆であると同時に連綿の起筆である)」という具合に、ひとつの字画を生み出す筆蝕の単位がそれ自体に矛盾を孕むことによって複雑化し、高度化し、二折法の起・送終筆や、起送・終筆とは次元を違えることを意味する、と石川氏は説明している。

王羲之書法の基本は二折法であったと考える観点で王羲之と同時代の「李柏尺牘」をながめれば、二折法の構造という共通した書法に気づくと石川氏はいう。

【補足】
(『書道全集』では、「李柏文書」(3巻、図23-27)は森鹿三氏が「西域出土の書蹟」(3巻、12頁~18頁、特に14頁)で取り上げていたが、書蹟発掘状況を中心に概説していた。そして「楼蘭出土李柏文書」(図版解説、159頁)では王羲之の書法との共通性については指摘にとどまっていた。しかし、石川九楊氏の説く二折法という観点から、「李柏文書」と王羲之の書法を論じた論説は『書道全集』にはない)。

その二折法の観点から、「十七帖」の「十七日」の「日」字をながめかえしてみると、転折部の不在、というより未成熟を確認できる。もとより草書体であるから、楷書体のように明瞭な転折があるものではないが、とはいえ、第二筆の横筆部を書き、改めて転折(いわゆる肩)で力を入れて縦筆部を書こうとする気配のない、俗に言う肩を落とした形になっている。唐代に見事に完成する「起筆・終筆・転折・撥ね・はらい」のおのおのの部位の書法が、まだまだ未成熟であり、明瞭な姿を見せない。
とはいえ、王羲之の書が単に「李柏尺牘」や「姨母帖」レベルのものにすぎなかったとすれば、いかに高名であったとしても、また唐の太宗が惚れこんだからとて、書聖としてまで伝えられることはなかったであろうとも付言している。王羲之の書には、少なくとも同時代の水準を抜く質があったはずである。それは原理的に言えば、その二折法構造の中に、いくぶん三折法の構造を孕んだということであろうといえる。そのことによって、字画のつながりが滑らかになり、それが一字の単位を脱して、二字、時には三字と連続することにもなったであろう、と石川氏は推測している。
(石川、1996年、125頁~126頁、129頁~130頁)

「十七帖」について


「十七帖」冒頭の「郗司馬帖」の書き出しの「十七日」部である。「三井本十七帖」(以下「三井本」と略す)や「欠十七行本十七帖」(以下「欠十七行本」と略す)は過剰なる表現を盛り、一方「上野本十七帖」(以下「上野本」と略す)はいささか気づかって少しく表現を萎縮させている。
「十」と「七」、それぞれの起筆部や終筆部の姿を含む横画の姿が、「上野本」においては、かくもありなんという毛筆書きの表情を見せるが、「三井本」と「欠十七行本」の二本においては、鳥が飛ぶ姿にも、また雑体書にも、また隷書の名残りにも思える奇怪な姿に刻まれている。この三本から、その具象の跡をなぞってみると、透けてくる抽象がある、と石川氏はいう。それは三折法にはついぞありえぬ二折法の姿であるという。この二つの横画を「三井本」「欠十七行本」を手がかりに「隷書の風を残す」と考えてもよいし、また「上野本」を手がかりに、「終筆(とめ)がない」と見てもよいが、いずれにせよ、二折法(トン・スー)の書きぶりであることは注意すべき点だという。
他の作品に目を転じると、王羲之筆と伝えられる「姨母帖」冒頭の「十一月十三日」の二つの「十」「一」「三」、「寒切帖」の「十一月廿七日」の「十」「一」「廿」「七」、「初月帖」の「初月十二日」の「十」さらには「二」、「雨快帖」の「一」といささか三折的だが、「十」、そして「冬中感懐帖」の「十一月四日」の「十一」、これらの横画が共通して、文字通り「トン・スー」の二折法で書かれていることを確認できる。「十七帖」の「十」字が「トン・スー」、「トン・スー」の二折法で書かれたことに異を唱える者はないだろう。
(石川、1996年、127頁~129頁)

「王羲之尺牘とは何か」


「十七帖」をはじめ王羲之書と伝えられる書の多くが、尺牘、つまり手紙である。この手紙を読んでみると、安否を問い、病気や人の死を歎く文が多い。日本に伝わる「喪乱帖」はいきなり、「羲之頓首、喪乱之極」で始まっている。現在でも、「いかがお過ごしでしょうか」という相手の安否を気づかうことになっているのだが、それにしてもいささか異常にも思われる。
これに対して「羲之が一族の安否にこまかく気をくばったのは、かれのやさしい心のあらわれであるとともに、また家長としての責任にもとづくものでもあったろう」(吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』)という解釈が代表的なものだろうが、果してそうだろうか、と石川氏は疑問を抱いている。いわば、自らの病気をさらけ出すような王羲之の手紙の異様な文体を読んでいると、このような解釈はあまりに現代的な解釈である、と石川氏はいう。

漢代までの簡牘(元来は竹製が簡、木製が牘)は基本的に政治文書であった。六朝時代の紙製の牘(尺牘)は、いわば政治官僚貴族の共同体内を往来する、これまた一種の政治文書である、と石川氏は考えている。貴族共同体を支える構成員が相互に吉凶順逆=安否を消息つまり手紙(「李柏尺牘」にも「消息」とある)によって伝えることは、「やさしい心」以前に当然のことであった。そうである以上、六朝時代の手紙=尺牘とは、従来の直接的政治的簡牘(「簡」)を超えてはいるものの一種の政治文書であり、その種の共同体内を飛び交う政治文書が最先端の表現媒体であり、表現方法であったという。
「三井本」は一流の刻本かどうかを問題にする。近年の書道界ではなぜ「三井本」がこれほど高く評価されるのであろうか、と石川氏は疑問を呈している。

【補足】
例えば、「三井本」が精刻であると評しているものに次の著作がある。
・伏見冲敬『書の歴史―中国篇』二玄社、1960年[2003年版]、56頁。
・平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、150頁。
・松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、93頁。

俗にいう「断筆」(転折や筆を改めるところで刻り改めること)が多く、直線的な刻り跡からなる二流の刻帖を「骨格が遒勁」であるとか、「鋭い筆致」「勁い気分」とか、あるいは「最高峰」とか言うのだろうか、と石川氏は疑問視する。筆を改めるところで刻り改めれば、もともと連続的であった動きを切り、その運筆の骨格を刻るわけだから、それが骨格も肉も自然につながった状態の法帖(たとえば「上野本」)と比較すれば、「鋭く」も「勁く」も見えることだろうともいう。
しかしそれは、王羲之にも「十七帖」にも関係のない刻り跡、刻り方によって生じる問題にすぎない。この「断筆」を「弘文館での手本だったから」と解するむきもあるようだが、もしそうだとするなら、なおさら、教育用に改竄された、あるいは教育手本用の二流の刻帖にすぎないという。

「三井本」が評価される近年の傾向は、「蘭亭叙」において「八柱第一本・第二本・第三本」中、最悪の「第三本」を最高と評価する傾向と見事に一致している、と石川氏は嘆いている。「八柱第三本」が「神龍半印本」であるからという理由で評価されたように、「三井本」もまた、祁豸佳、貫名海屋、巖谷一六、日下部鳴鶴、三井家と言われる伝来と、他本より最も多く二十九帖を有しているからということで、評価されているだけで、法帖そのものの個別の文字と刻法を含めた厳密な検討によるものでない、と石川氏は批判している(こんな評価は中国では成立しえないともいう)。
「三井本」を最高とするなら、書き出しの「十七」の文字がもともとどのように書かれていたと考えるのかを明らかにし、またこの刻り方が一流のものであることを証明すべきだろう、と石川氏は主張している。この「十七」の箇所は初心者の篆刻にも似て、交叉以前と交叉以降が、「書かれていたようにつながるべき」ものとの原則さえ逸脱しているように見えるという。また、第一の「書」と第二の「書」の第一筆の起筆からその画の書かれていく運筆筆蝕の様子は不自然であり、三つの点からなる「下」字の第一筆と第二筆はどのようなつながり方をするのかと明らかにする必要があるともいう。
今仮に「三井本」「上野本」「欠十七行本」を「郗司馬帖」にかぎって比較してみれば、「三井本」が最低であり、「上野本」と「欠十七行本」の方がはるかに質が高いことは間違いないという。清の楊賓は「世に伝わる十七帖はほとんどよくない」と書いている。

さて、王羲之の書を総括するならば、書聖・王羲之とは、「トン・スー」もしくは「スー・トン」、二折法書法の象徴であるといえる。あるいは二折法から三折法への入り口に立った、二・五折法の象徴と言い換えることも可能である。それは「楼蘭出土残紙」との二折法的相同性から明証される。それゆえ、筆蝕は淡白、素朴、アルカイックである。
王羲之の書は、紙・筆・墨文字、そして紙という場を得て、主役の座に着いた草書体の象徴でもある。またそれは隷書において発見された筆触が、石の上に鎮座する刻蝕との争闘を開始する象徴でもある。
そのような諸々の象徴性をもって、王羲之書法=古法は存在する。筆蝕の十分に成熟していない二折法はつまり二次元書法であり、双鉤塡墨本や摹本、臨本しか残らぬ幻のような王羲之の書から、王羲之の姿を覗くことは不可能に近い、と石川氏はいう。
(石川、1996年、132頁~133頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その4≫

2023-02-19 18:01:05 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その4≫
(2023年2月19日投稿)
 

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
●第6章 紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
●第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
●なお、結論の「第1章 書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)の関連した部分も含む。
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第6章 紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
・石川九楊氏の「書の歴史」の捉え方
・王羲之の書の革命
・石と紙との争闘史

〇第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
・狂草論―懐素の「自叙帖」に関連して
・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」の革命






第6章紙の出現で書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>


石川九楊氏の「書の歴史」の捉え方


書の歴史を大きな枠組みでとらえれば、書の歴史は、「石・鑿・影」の関係に成立していた書を、どのように、「紙・筆・墨」の表現の中に組み込むのかの歴史であった、と石川氏は捉えている。
「石・鑿・影」という場合、石というものは、亀甲・獣骨・金属にまで拡大して、その比喩ととらえ、鑿というものを、金属に鋳込むことまでを含めて考えれば、誕生の時から、紀元頃までの一千数百年の書の歴史は、石に鑿で文字を刻み込み、その刻り痕いわば文字の「影」を読む「石・鑿・影」の歴史であったという。「影」とは、光の届かぬ、刻られた跡の比喩である。
亀甲や獣骨、石に言葉を刻り、金属に刻り込んだ跡こそが書であった。それゆえ、「石・鑿・影」の書の時代の後に、紀元頃から、「紙・筆・墨」の歴史が始まる。
書の歴史においては、必ずしも「紙・筆・墨」は絶対ではなく、書が「紙・筆・墨」の三者の関係に成り立っていることは、ある時期からの歴史的事実である。ある時期とは、最も早くは紀元頃、中ほどをとれば六朝期あるいは初唐代、最も遅くは宋代ということになる。
そして紀元350年頃から650年頃まで、「石・鑿・影」と「紙・筆・墨」の対立、抗争の時代があり、ついに650年頃、初唐太宗皇帝の時代の、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」、褚遂良の「雁塔聖教序」の成立によって、「紙・筆・墨」が「石・鑿・影」に勝利し、紀元1100年頃から完全に「紙・筆・墨」の時代に入った。
さらに、明末1600年代の黄道周、張瑞図、倪元璐、王鐸、傅山、許友等の紙を石碑に見たてた、いわゆる長条幅の時代、1700年代から1800年代の金農、鄭燮、鄧石如、何紹基、趙之謙等の紙の上に石文字たる篆書や隷書の踊る碑学の時代、いずれも「紙・筆・墨」の中に忍び込んだ「石・鑿・影」が演出した世界であると理解している。
(石川、1996年、90頁~91頁、97頁)

王羲之の書の革命


王羲之の書のもつ大きな意味は、その空罫の筋を無視することによって、簡の形、大きさのもつ意味を無力化することによって、紙幅、大まかに言えば一尺幅(それゆえ手紙を尺牘[せきとく]と呼ぶ)を超えることはなかったけれども、左右の横幅五分を超えて書字することによって、抽象的表現の場へと紙を解放したことにもあった、と石川氏はいう。
解放された、抽象的表現の場で、竹簡や木簡上に生まれた篆書や隷書の速写体である章草は、上下、左右、斜めに求心・遠心する構造と、上下の文字がしばしば連続する構造からなる草書体を生んだ。それが王羲之の草書の意味である。
その点で、紙が発明されても、簡の強い呪縛のあるうちは真の意味では存在しなかった表現空間としての紙の発見が、王羲之の草書の書には同伴したのである。簡の比喩である筋をもつ用紙を用い(それゆえ正統的である)、かつその紙の筋を無視して書字した(それゆえに真に草書体である)ところに、王羲之の書の革命があった、と石川氏はみる。
(石川、1996年、94頁)

石と紙との争闘史


中国書史は、石と紙との争闘史とも描き出すことができるとする。
つまり石を刻る刻蝕が紙に書く筆触を生み、その深層刻蝕と表層筆触の争闘史が六朝時代から宋代までの歴史であり、とりわけ筆触が刻蝕を完全に呑み込んで、筆蝕と三折法と楷書体を完成させる初唐代までが、最も激しい争闘の渦中であった。
一方、日本の書史は、この石の時代を経験せずに、ほぼ紙の時代移行後にやっと書史に参加したので、明治期に入り、中国の碑学の石刻文字に触れるまで、本格的な石の書を知ることはなく、書史の本質に触れることもなかったという。
(石川、1996年、97頁)

「紙・筆・墨」に誕生した、左右、上下、斜め、四方、八方に遠心・求心し、上下の文字が繋がり離れる王羲之型草書が、「石・鑿・影」の構造をその内に組み込もうとして出来上がったのが、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」と褚遂良の「雁塔聖教序」である。
草書体は、石の上に成立する正書体である隷書体の位置を奪おうとして、行書体を生んだ。いわばその行書体を石に彫り込むことによって生まれたのが、北魏六朝時代の造像記、墓誌銘等、石の文字である。鄭道昭の一群の摩崖碑、また「高貞碑」「龍門造像題記」等、いずれも石に刻られることによって、生まれた書である。
しかし肉筆の行書は、石に刻られることによって、起筆、終筆、転折、撥ね、はらいは三角の圭角を見せることになった。石の上のその圭角を再び肉筆に吸収して生まれたのが、初唐代の見事な楷書であったという。
(石川、1996年、96頁~97頁)

第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで


狂草論―懐素の「自叙帖」に関連して


虞世南の「孔子廟堂碑」、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)、さらには唐太宗の「晋祠銘」(646年)、孫過庭の「書譜」(687年)を経た後、700年代に入ると、張旭の「古詩四帖」「自言帖」(714年)、懐素の「自叙帖」(777年)などいわゆる狂草が誕生する。

狂草につきまとうエピソードは三つであるという。ひとつは、酔書――酒を飲んで、酔っぱらって大声をあげて書いた、つまり常態でない書き方をしたということである。第二には、疾書――速いスピードで書いたこと。第三には、壁書――壁に書いたということである。現在我々が目にすることのできる「古詩四帖」「自言帖」や「自叙帖」は、酔書、疾書、壁書という感じからは遠いが、このエピソードと関連づけて考えると、王羲之の草書の中の四方・八方性、つまり求心・遠心の構造の拡張という意味が覗けるという。

壁書に込められた意味は、抽象的な表現空間である紙をさらに拡大した大領域に広げるということである。尺牘、つまり一尺幅の紙面から、さらに大規模な場へと拡張する。次に速く書くということに込められた意味は、力を内に秘めるのではなく、力の外部への発現と発露であろう。力を拡張することによって、王羲之型草書以上にさらに力を遠く四方、八方へ散らすのである。そして酔書に込められた意味も、統制、統御を外れて、無法的、拡散的に書字するということである、と説明している。

場の拡張、力の拡散は、張旭「自言帖」の「道」や「観」や「神」や「耳」字において末筆を上下に長く伸ばす例に容易に確認することができる。また懐素の「自叙帖」では、書き進むに従って、筆蝕が波のうねりのように高揚し、また沈静し、やがて終盤に向けての絶頂へ向かって波のように押し上がっていく交響楽のような展開と、時おり出現する極端に太く強い筆蝕も、紙面の拡張の姿であるという。紙の上での場の拡張としての文字の大小例は、「自叙帖」から「張顚曾不面。許御史瑤云、志在新」の部分を図版として掲げている。

このように行も列も打ち破って、四方・八方性、力の求心・遠心性をいっそう拡張し、この時紙面は一尺幅の書字空間であることをやめる。さらに、狂草をもたらした理由については、草書体の三折法化を挙げている。文字を次々と書いていけば連続体が自動的に生まれるわけではない。孫過庭の「書譜」に連綿連続が存在しないように、「トン・スー」「トン・スー」の二折法構造においては基本的には連綿が生じにくい。
一方、三折法では二つの字画の間が筆脈でつながる。その筆脈が形をとって現れたものが連綿である。つまり三折法の誕生とともに、筆脈が生じ、連綿が生じ次々と文字が際限なく連続することが可能になり、狂草も生じた、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、100頁~102頁)

書史の750年


<三過折の逆襲>
「書」とは「書きぶり」とも呼ぶべき筆蝕に支えられた言葉そのものを指す。
草書体は初唐代に楷書体を産み落とすことによって、単なる貴族の速書き体である域を脱して、普遍書体と化した。しかし歴史というのはうまくできているもので、次いで草書が生んだ子である楷書体によって、草書は自らの姿を砕かれることになる。それが初唐代650年から宋代1100年頃までの書の歴史である。
楷書体=三折法成立後の書の歴史は、楷書成立の過程で獲得した三折法が逆に草書の中に侵入して、草書体を根こそぎ組み替え、従来とは異なった草書に変えた歴史である。
草書が硬書化したものが楷書であるが、その楷書が再び軟書化して草書と化す。その時もはや出発点となった王羲之型の第一の草書とは異なった第二の草書が出来上がるのである。第一の草書として王羲之の「喪乱帖」、第二の草書として黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」を想定すれば、書の歴史上最も重要なこの1100年間の歴史像はくっきりと見えてくる、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、100頁)

六朝代から初唐代への転移の構造について


六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになる、と石川氏はいう。

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている

本書の「書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている
(石川、1996年、99頁、403頁)

二折法から三折法へ


このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったもの、と石川氏は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる。
(石川、1996年、98頁~100頁、196頁、403頁)

「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろう、と石川氏は考えている。
(石川、1996年、263頁)。

黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」の革命


黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」は、まったく革命的な書である、と石川氏は理解している。

「李白憶旧遊詩巻」は、書字領域のすみずみまでを三折法=三過折が覆い、その仕上げの位置にある。この時、草書が楷書に行き着くまでの過程であみ出し、定式化した三折法が草書体をも覆った。

「李白憶旧遊詩巻」は、王羲之の「喪乱帖」から唐太宗の「晋祠銘」までの書はもとより、張旭の「古詩四帖」や「自言帖」、懐素の「自叙帖」等のいわゆる狂草ともまったく違った顔つきをしていると説明している。
その秘密は、「起、送、終筆」を、さらに細かく「起起、起送、起終、送起、送送、送終、終起、終送、終終」の九つの部品で描き出した点にある。
(実際的には、起筆の終筆と送筆の起筆、送筆の終筆と終筆の起筆が一体化した七折法等で現れるとする)

ちなみに、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成立を少し下る687年に、孫過庭の「書譜」という王羲之の草書にそっくりの草書の作がある。この孫過庭の「書譜」という草書は、アルカイックな二折法の書にすぎなかった。つまり運筆上の偶然を除いて三折法をとり込むことができず、王羲之時代の毛筆書字をなぞり、二折法主体で描かれつづけた。
これは、王羲之型草書=紙の完全な勝利の下での勝利の喜びに満ちあふれた、晴々とした王羲之型草書の姿であり、かつ、その最後の姿であった。また、新たに登場した新草書に対する正統性の主張=反動とも言えるものであった。「書譜」は、未だ紙=筆の勝利の余韻の残っている書であった。

ところが、「李白憶旧遊詩巻」は、隅から隅まで完璧な三過折で成り立つ草書である。毛筆手書きに適した二折法の姿を晒すことのある張旭までの草書の姿とまったく違っていた。三折法を呑み込んだ最尖端の草書が、「李白憶旧遊詩巻」である。こうして三折法は、逆に草書の中に構造的に侵入した。三折法が草書をとらえるために、約450年を要した。

書の歴史の中で、最も密度の濃い時期が六朝期(350年頃)から初唐代(650年頃)を経て、宋代(1100年頃)に至る時期である。
この時期は、草書が楷書を生み、その楷書が再び草書を従来とはまったく異なった形に組み替えた750年と言える。
ここに三折法を書字原理とし、楷書、行書、草書を一セットとする書が完全な姿で生まれた。毛筆で書くことは鑿で刻ることのすべてを呑み尽くしたのだ。
書の歴史は、この750年間が抜群に面白く、かつ、その後の時代の書の展開のモデルともなる。
(石川、1996年、100頁、103頁~104頁)。


≪石川九楊『中国書史』を読んで その3≫

2023-02-12 18:00:07 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その3≫
(2023年2月12日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。

 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の七五0年――王羲之の「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇本論 第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
・正書体としての列国正体金文

〇第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
・中国書史のまとめ
・篆書

〇第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論
・波磔の発見
・隷書中の隷書と隷書の意味
・「焚書坑儒」と「簡」

〇第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」
・八分体
・古隷進化論
・「天発神讖碑」
・「刻る時代」から「書く時代」へ
・【補足】近代日本の書の歴史と六朝書の「発見」







本論 第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論


正書体としての列国正体金文


中国書史の正書体の歴史を振り返ってみると、正書体として挙げられるのは、まず第一に甲骨文がある。
甲骨文を正書体として金文が存在し、第二に戦国時代の列国正体金文(いわゆる鳥虫書)を嚆矢とする第二次正書体である。その第二の正書体運動の仕上げが小篆(篆書)である。
漢代に入ると、垂直に疎外されなかったという意味で、むしろ反正書体とも呼ぶべき正書体として八分(隷書)体が生まれ、そして現在までのところ最後の正書体が初唐代の楷書体である。
書史上の正書体は、甲骨文、列国正体金文=篆書、隷書、楷書の四つである。

もっとも甲骨文は、いわば天から授けられたと言ってもいい文字であるから正書体ではないとも記している。
また、通常は甲骨文の次なる正書体を秦始皇帝時代の小篆と考えるのが普通である。そのように考えてもよいが、文字そのものから言えば、縦に長く伸びた極限の垂直体たる列国正体金文の正書体の中で、最も垂直性が弱く正書性の弱い秦国が、いわば最も遅れて、始皇帝時代に、春秋戦国期の正書体を整理し長く育成してきた字画を武器に、いっきに垂直性を高めて次代の典型(モデル)となる小篆体を産んだ。この意味において、秦始皇帝は文字の統一を果たした、と石川氏は説明している。

石川氏が言う垂直に伸びた列国正体金文とは、斉国や越国や中山国の正書体である。甲骨文的金文的神授文字、つまり「神文字」を逆転して、垂直に天を疎外したがゆえに、もともと天の神々を司る存在であった帝が地上に引きずり下ろされ、この種の極端な垂直文字が正書体として生まれ、いわばそのような時空を背景に、孔子などの諸子百家の運動が整理統合されて、小篆を生み、真に地上の王たる皇帝をはじめて生んだといえるとする。
(孔子の思想の背景には、正書体としては、(本人が書いたということではなく)ここで言う列国正体金文のような文字が聳え立っていたはずであるという)

ところで、甲骨文は地中深くに埋められ、金属器もまた埋められた。地中に埋められた事実は、地下がすなわち「天」に逆説的に通ずる道であったからであり、古代宗教国家=文字の原像を保有していたからである、と石川氏は考えている。
大篆「石鼓文」の文章はいまだ、半宗教、半政治的な狩猟に関する韻文であった。李斯が刻した「瑯邪台刻石」において、真の意味での地上の正書体が生まれた、と石川氏は捉えている。甲骨文や金文を神授文字=神文字と考えれば、神文字を改造して、はじめての言葉の文字が地上に誕生した。文字は言葉に対して開かれた。

いわば殷周の古代宗教国家的安定を過ぎ、春秋戦国時代は古代宗教国家から、古代政治国家へのシフト期である。書の観点から言えば、正書体である甲骨文、殷周金文に代わる政治的新正書体創出戦争期である、と石川氏はみている。

垂直に生まれた文字の宇宙化に対し、それを生きた言葉の側から日々微動させ、人間の生や生活からの乖離を阻み、言葉の側に引きとどめようとして下降させ、また上昇させる運動が書字という運動であるという。

こうして、最も遅れて正書体化し、それゆえ、これらの字画の成立と、字画の一般性の成立および構成単位の一般性の成立を、最も根柢的(ラジカル)に実現したのが、秦始皇帝時代の李斯が書いたと言われる「泰山刻石」であり、「瑯邪台刻石」である。
まさに秦王政は、新たな政治的「天」を疎外し、「帝」を「天」から引きずり下ろした「始皇帝」であった。新生正書体「小篆」の姿がそれを証している。
(石川、1996年、53頁~56頁、60頁)

第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論


中国書史のまとめ


ところで明の董其昌は「晋韻、唐法、宋意」と言った。
これになぞらえて、中国書史を石川九楊氏自身、結論づけて、次のようにまとめている。
甲骨文、金文の殷周と春秋戦国は「神=宗教」、春秋戦国を経て篆書体の秦は「国家」、隷書体の漢は「文明」、草書の晋は「韻」、楷書の唐代は「法」、宋は「意」、元明は「態」、筆蝕から言えば「戦」、清は「擬」、筆蝕からは「震」と言えるとする。
「殷周は神を尚(たっと)び、秦は国家を尚び、漢は文明を尚び、晋は韻を尚び、唐は法を尚び、宋は意を尚び、元明は態を尚び、清は擬を尚ぶ」というのが、書的表出の史的構造の擬古的結語であるという。
そして殷周は文字、秦漢は字画、六朝・初唐は筆触、初唐・宋は筆蝕、宋元明は角度、清は微粒子というのが書的表出の史的構造の真の結語であるという。
(石川、1996年、42頁)

字形や書画は角度(スタイル)をもち、筆蝕そのものが対象=世界との臨場の中でさまざまな角度(スタイル)をもつという段階(水準)に至ったのが、明代の祝允明であり、何よりも徐渭である。
書史の蓄積の中で字画は筆触と化し、筆触は筆蝕と化し、筆蝕は角度と化し、角度が明末には正書体と化した。
書の「戦筆」という用語こそ、筆蝕の角度化、角度筆蝕の別名といってもいい。この筆蝕の角度化によって書は、宋代の「意」の表現段階を超えて、世界を創出し、世界を創出すること(「態」)によって、自己を創出するという関係を築くのである。
宋代に始まり、明代以降、書は飛躍的な表現力を獲得する。
朱耷(しゅとう)を嚆矢とし、金農を祖とし、鄧石如以降のいわゆる碑学の諸家達を後継とする無限折法が誕生した。
(石川、1996年、37頁~41頁)

篆書


それにしても篆書というのは奇妙な文字である。ここでの篆書の例としては、春秋末期と言われる大篆「石鼓文」と秦の始皇帝時代の小篆「泰山刻石」や「瑯邪台刻石」を想定すればよい。
甲骨文や金文はとても率直なのに、篆書を構成する字画は、うねうねぐねぐねとねじ曲がっているように見える。物事は歴史的により簡潔へと向かいそうなのに(事実その後の歴史は簡略化、簡潔化へ向かっているように思える)、古文から篆書への道筋だけは逆のように思える。例えばその姿を、殷代末期と言われる「小臣艅犠尊」の金文と、大篆「石鼓文」と、完成した篆書(小篆)の「泰山刻石」(前219年)の三つの文字を見較べてみるとはっきりする。
「小臣艅犠尊」の「王」は言うまでもなく鉞を形どるように書かているが、「石鼓文」の王の第四画はもはや鉞の刃を象徴しているようには思えない(石川、1996年、62頁~64頁)。

また字画の成立が篆書の本質的な意味である。雑体書、つまり「正書体金文」は篆書の父である。「石鼓文」も「泰山刻石」も雑体書の子であるという。
(石川、1996年、66頁~67頁)

第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論


波磔の発見


楚、秦、前漢代の竹簡や木簡上の隷書、これを仮に「簡隷」と、石川氏は称している。
この「簡隷」は愛くるしい文字である。
石に貼りついた正書体たる篆書体の通行本である「簡隷」が、石碑と化して、正書体の位置に攻め上る時代が後漢代である。
後漢代には、「礼器碑」(156年)、「孔彪碑」(171年)、「曹全碑」(185年)が見られる。いずれも、横画の波磔を聳え立たせた権威ある姿である。これを「八分」と呼ぶ。「簡隷」が正書体化するために自らの姿を変えたものが「八分体」である。
(現在、日本の紙幣が隷書体で成立しているのは、この「八分体」の権威性に拠っている)

毛筆が、浮沈、肥痩によって、字画を書きとどめる以上の何かを定着しているという意識を獲得することが、波磔の発見につながるようだ。
(波磔の発見は、文字を書きとどめることを超えた、芸術意識の発見に他ならないから、「居延漢簡」など波磔を練習した木簡や竹簡が多数発見されるわけである)

縦画の波磔は、いまだ内在的筆触発見の「はしり」であり、次いで横画の波磔を発見することになる。横画の波磔は、相当に人為的なものである。横画の波磔は、書字の際に、加える筆圧や反撥そして摩擦を自覚的に書字の中にとり込んでおり、内在的な筆触の発見である、と石川氏はみている。
この横画波磔の発見によって、木簡上に生まれた愛くるしい書体「簡隷」は、篆書にとって代わる、石の上の正書体「八分」と化した。その波磔を、誇張、拡大することによって、後漢代に入ると、隷書、八分体の碑が次々と建てられることになる。
その頂点の作として、「孔彪碑」と「曹全碑」を想定できる。

竹簡、木簡上の文字のプロセスについて、外圧的筆触を内在的筆触に高め、書を表現体へと高めていった、と石川氏は考えている。
① 竹理、木理に抵抗する横画主律型の文字と扁平化
② 横画終筆部での肥、墨だまり(収筆の発見)、ないし横画起筆部の肥(起筆の発見)
③ 縦画を長く太く伸ばす、縦の波磔
④ 横画の波磔、八分体の成立

唐代の楷書をモデルとするならば、いまだ十分なものではないが、表現筆記具としての毛筆の性質の基本部分は発見されたようだ。
初唐代に完璧に完成する「起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらい」のうち、「送筆」は本体だから文字発生以来備わっているが、「起筆」と「はらい」と筆触の内在性は、確実に隷書と八分によって発見されたと、石川氏は理解している。
いわば、筆を簡(対象)の上を走らせる時の「ざらざら」とした抵抗と摩擦によって隷書体は生まれた。書の歴史上のいくつかの劇(ドラマ)のうち、その根幹である筆触の発見は、隷書体の時代になされた。
(石川、1996年、75頁~77頁)

隷書中の隷書と隷書の意味


横画主律の扁平体と波磔を極限まで見せる頂点の隷書の碑は、①「孔彪碑」(171年)と②「曹全碑」(185年)である。
隷書中の隷書はこの二つにある。隷書=八分体はいわば石を「簡」(竹簡や木簡)に変えたものである。竹簡や木簡上に誕生した隷書を「簡隷」と呼ぶなら、日常体として生まれた「簡隷」が篆書体の鎮座する正書体の座を奪おうとして、形を整えたものが八分体である。
しかし隷書の歴史は長くは続かなかった。この時、すでに「紙」が発見され、「紙」の上に草書体が躍りだしたからである。漢が滅び紀元200年を過ぎると、石碑上の隷書は波磔を急速に失っていくことになる。
隷書体は縦に理(め)の走る木簡や竹簡上に誕生した。この理との関係において外在的筆触を発見し、やがてその経験を蓄えて、縦の波磔、横の波磔を生み、内在的筆触を発見した。隷書体は篆書体から木簡上で発したという意味で、草書体と同根なのであるという。
(石川、1996年、78頁~79頁)

「焚書坑儒」と「簡」


なぜこのような隷書体が生まれたのであろうか。その謎を解く鍵は「簡」(竹簡、木簡[牘])にある。「簡」というのは、幅五分(指一本の幅である一寸の半分、1センチ前後)、長さ一尺(手を広げた時の親指から中指までの長さ、20数センチ)の細い竹や木の札、それが竹簡、木簡である。この簡を連ねて綴じ、巻いたものが書物であった。
秦の始皇帝の「焚書坑儒」というのは、和綴本のような紙の書物を燃やしたのではなく、この竹や木の束、あるいは帛の束を燃やしたものと考えられる。
(石川、1996年、72頁)

第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」


八分体


八分体の典型としては、①「孔宙碑」(164年)、②「孔彪碑」(171年)、③「曹全碑」(185年)、とりわけ「孔彪碑」、「曹全碑」を思い浮かべればよい。
縦一、横二あるいはそれ以上の比率で極端に背を低め、扁平体の極をいく造形、主たる横画は、水平に長く伸び、その末尾は、華麗な青龍刀の刃のような、波うつ波勢である波磔を伴っている。八分体の完成の極である。
石=聖域においては、「孔彪碑」、「曹全碑」の170~190年あたりの時代が隷書・八分体の頂点であったと考えられる。
今仮に「孔彪碑」、「曹全碑」を八分体の完成ととらえるならば、八分体とは書史上の何の姿であったのだろうかと問いかける。竹簡や木簡、その類に書かれた隷書をいま仮に「簡隷」と呼ぶことにすると、竹簡や木簡に誕生した「簡隷」が石に貼りつき、さらには石を「簡」に変え、篆書体を完全に払拭して、正書体としての位置を奪った書体が八分体と言えるものとする。
八分体は、竹簡や木簡の上に誕生した隷書体「簡隷」を、石とせめぎあいながら、石にふさわしい書体にまで高めた書体である、と石川氏は考えている(石川、1996年、80頁)。

楷書の究極、楷法の極則と呼ばれる初唐代・欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、石の上に刻られてありながら、石をかぎりなく「紙」に近づけた書体であった。
そして褚遂良の「雁塔聖教序」こそは、石の上に刻られた書でありながら、紙の上の筆蝕をそのまま石に写し込み、石に刻られたとは思えぬ姿で聳えている。表現された世界の背景を完璧に紙に変えたのだ。その意味で、比喩的に言えば、「雁塔聖教序」は紙でできた碑、「紙碑」である。
同様に「孔彪碑」や「曹全碑」の八分隷は石でありながら表現された背景は、もはや石ではない。立ち上がった簡、竹簡や木簡などの「簡」でできた碑、「簡碑」だと言えよう。その点で、楷書の頂点が「九成宮醴泉銘」、「雁塔聖教序」であるように、隷書・八分体の頂点は「孔彪碑」「曹全碑」である、と石川氏は考えている。
そういえば、ただ「孔彪碑」の文字のたたずまいは、サヨリやダツにとてもよく似ている。サヨリやダツ、つまり「孔彪碑」や「曹全碑」は最尖端的ではあるが、次への可能性のもはや閉じられた一種の部分特化書体でもあった。
(石川、1996年、80頁、83頁)

古隷進化論


なぜ「開通褒斜道刻石」(66年)は身近な親しみを感じるのか。それは八分体が、隷書体としての特性(水平運動・扁平・波磔)を強調した、いわば特異な書体として磨き上げられた書体であるのに対して、古隷は八分体の基にあった書体であると同時に、現在の書体である楷・行・草体、とりわけ楷書体の祖としても存在するからではないだろうか、と石川氏はいう。
古隷は現行書体の「父体」であることによって、我々に親近感がある。もうひとつ、「開通褒斜道刻石」等の古隷が魅惑的である理由は、石の上の目に見えぬ篆書との関係のとり方にあろうという。
(石川、1996年、83頁)

「天発神讖碑」


篆書を篆額に祭り上げても、篆書の聖=正書体としての生命力は、「禅国山碑」(276年)、「天発神讖碑」(276年)のように、しばしば聖域では姿を現した。しかし、にもかかわらず、簡や帛に育まれた筆触は確実に篆書を払拭していく。
「天発神讖碑」は、筆蝕性の強い篆書、つまり、これは形の上では篆書だが、筆蝕上は完全に隷書の筆触をもつものである。隷書を特徴づける波磔―それは筆を沈め放すことの自覚的な繰り返しである。それを通じて書史は、真の意味で毛筆を発見し、そしてその波磔の跡を石に刻り込むことを通して、波磔が秘めている筆触の深度と速度の構造を自覚したのである。筆触の自覚的発見のためには、「刻る」こととの出会い、「刻る」ことの発見がどうしても必要であった。
(石川、1996年、87頁)

「刻る時代」から「書く時代」へ


甲骨文、金文、列国正書体金文、篆書、隷書までの、殷代から漢代までは基本的に刻る文字の時代である。なるほど隷書は、木簡の理(め)と毛筆の接触に起因する筆触によって生まれた書体であるが、隷書の美は石碑の上に宿った。しかし、隷書は筆触を生み落とすことによって、木簡や帛(はく、しろぎぬ)に代わる紙を発明した。「隷書が紙を発明した」という。
このようにして隷書は、「刻る時代」に代わって「書く時代」、甲骨や金文も含めて、硬質の物質性の強く、それゆえ宗教性や政治性の保存度の高い被書字体を「石」と総称すれば、「石」の時代に代わる、「紙」の時代をもたらすことになった。
しかし皮肉なことには、木簡の理に生まれた水平画つまり、横画主導の偏平体である隷書体は、紙の上では場違いで、書の歴史上の主役の位置を下り、木簡上に生まれた兄弟体たる草書体にその地位を明け渡した、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、89頁)

【補足】近代日本の書の歴史と六朝書の「発見」


日中国交回復後、中国での発掘、新出土に呼応して、書壇もまた、近年は木簡、肉筆の隷書に視線を注いでいる。作品の中に「簡隷」をとり入れた作品も多くなった。近代日本の書の歴史が清朝碑学を背景とした漢魏六朝の石碑の書を「発見」して、開始された。
ただ、「簡隷」の流行を追うよりは、「古隷」の美とじっくり対話することの方が、書としてははるかに稔りがある、と石川氏は批判している。「木簡」に追従するよりは、石碑、拓本の美をかみしめる方がよいとする。
(石川、1996年、87頁、89頁)

≪石川九楊『中国書史』を読んで その2≫

2023-02-05 18:00:46 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その2≫
(2023年2月5日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 主として、「第1章 書史の前提――文字の時代」と「第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ」の内容を中心としている。ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の七五0年――王羲之の「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第1章 書史の前提――文字の時代
〇第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ

・甲骨文
・篆書から隷書へ
・隷書体
・王羲之の書~二折法
・初唐代の楷書―筆蝕という典型の確立
・初唐代からの三折化
・王羲之と顔真卿
・王羲之と顔真卿、宋代の三大家との関係
・書の美について
・欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
・狂草―連綿草の誕生
・唐から宋へ







甲骨文


中国で最初にどの動詞文字が生まれたかは明らかではないが、中国最古の甲骨文においては、「卜(ぼく)して貞(と)う」、つまり「占って神に問う」という言葉が繰り返されており、神への問い、神との対話と契約の必要が「書く」ことを誕生させたことは間違いないという。
古代原基的宗教国家と文字とは、おそらく同時に生まれた。古代宗教国家が文字を生んだのであり、また文字が古代宗教国家を生んだのである。甲骨文は東アジア原基的宗教国家・殷による「天」という概念の疎外とともに生まれた。亀甲は、その中に天と方位と時刻、つまり空間と時間とを写し込んだ。亀甲上には「天」から下降する垂線とそれを直角に横断する水平線と、その交点が生まれ、すべての表現の核を誕生させた。
(石川、1996年、48頁、52頁)

篆書から隷書へ


秦代の篆書から漢代の隷書への展開を解くことは難しい。いわば実印のような見馴れぬ縦長の文字と、新聞の題字や紙幣の巻額表示に残っている違和感のない横長の文字が、どのような過程を辿って、どのような構造でつながるかがうまく見えてこない。

ただ、両者の書姿の落差から、篆書体の「泰山刻石」は紀元前219年、隷書体の頂点に位置する「曹全碑」は紀元後185年、そのわずか400年はまさに歴史を画する一大変革期であったことがわかるという。両者のつながりの間に、木簡と筆による通行体の発達を視野に収めた時に、両者の断絶と連続の構造は明らかになる。水から引き上げたような垂直体たる篆書体は、水平軸によって櫛梳(す)かれていく。水平に櫛梳かれた篆書体が、隷書体にほかならない。
隷書によって、筆触が誕生し、起筆が誕生し、リズムが誕生し(整斉中に参差あらしむべしと言われる、字画の長短の出入りである参差の誕生は隷書に求められよう)、字画―文字関係が曲がりなりにも誕生し、ほとんど現在の我々が日常的に書くことと大差ない状況が生まれた。
(石川、1996年、15頁~18頁)

隷書体


小篆体の次なる正書体、隷書体というのは、正書体としては厄介な代物である。その理由は「列国金文」とは逆に、一般的に言えば、縦横比一対二の水平に伸びた、新書体であるからである。つまりこの書体は垂直に天を疎外するのではなく、水平に地を疎外することによって、虚としての天を浮かび上がらせている。その意味で隷書体が正書体であるとすれば、反正書として正書体であるということにしかならないという。
(石川、1996年、56頁)

王羲之の書~二折法


隷書体は基本的には「トン・スー」の二折法構造によって成立していた。
この二折法を自覚し、起筆にいささかの力を込める「トン・スー」法と、ほとんど起筆に力を込めずに終筆部で力を込め筆尖を沈める「スー・グー」法とを、明確な対位法表現にまで高めたが、王羲之の草書であった、と石川氏は考えている。

黄庭堅の「山谷題跋」に、「王羲之の書法を錐画沙のごとく、印印泥のごとし。けだし鋒を筆中に蔵し、意は筆前にあるをいうのみ」とある。「錐画沙(錐[きり]で沙[すな]に画く)」と、「印印泥(印で泥に印する)」は現在では区別されることなく、単なる蔵鋒の別名のように考えられているが、錐で沙に画く時の、サラサラ、ザラザラした筆触と、印を泥に押す時の、グーともグチャとも言うべきその筆触の間に横たわる差は当然自覚されていたものであり、「錐画沙」とは「トン・スー」法の筆触美の表現であり、「印印泥」は「スー・グー」法によった時の筆触美の別名である、と石川氏は考えている。ただ王羲之の書は、そのほとんどが複製しか残されておらず、実姿は不明としか言いようがないという。

王羲之の書は、基本的には(偶然の三折法は当然あり、また唐代以降の双鉤塡墨による複製時にいくぶんか三折法がまぎれ込んだとも石川氏は想定している)二折法の書であるが、その二折法の中で「トン・スー」と「スー・グー」の対位法を確立し、その水準が抜群であった、と石川氏は考えている。
(石川、1996年、21頁~22頁)

初唐代の楷書―筆蝕という典型の確立


初唐代に完成した楷書は、その後の文字と書の歴史の典型を形成したものである。
楷書体は極限の整斉典型美を形成していると言える。初唐代楷書は、北魏時代の石刻楷書と肉筆行書の間を埋め、石刻楷書=肉筆楷書の関係を成立させたこと、つまり刻蝕を筆触が吸収したという意味での筆蝕の成立と、筆蝕の成立を意味するところの十全な三折法、つまり三次元法を成立させたという意味において、整斉であり、典型であると言える。
初唐代楷書は、①筆蝕の成立、②十全な三折法、つまり三次元法の成立という意味において、極限の整斉典型美を形成している、と石川氏は捉えている。そして顔真卿の書は“醜悪”としている(石川、1996年、27頁)。

初唐代からの三折化


六朝時代から三折法楷書の確立する初唐代まで、また初唐代から草書を三折化する宋代までの、両時代ともに主語を、二折法草書体の比喩たる王羲之とするという意味で、六朝期から宋代までは王羲之時代であり、宋の三大家によって、三者三様の王羲之総括がなされ、古法王羲之時代、つまり二折法と草書によって演出された時代は終焉する。
六朝期から初唐代までが、二折法古法時代、初唐代から宋代までが三折法新法時代と総括できる。新法時代に角度体楷書の成立があり、書もまた、狂草以降さまざまな「角度」を萌芽させた。
(石川、1996年、36頁)

王羲之と顔真卿


結論的には古法二折法の象徴として王羲之であり、新法三折法の象徴として顔真卿であるという点に尽きよう。例えば顔真卿の「顔勤礼碑」の文字ぶりは、「九成宮醴泉銘」のそれとは全く異なり、臭気まで漂わせるほどに太く生々しく、そしていささか「ぶれ」をもつ字画から成り立っている。
「九成宮醴泉銘」のように普遍や典型の姿はないが、顔真卿の姿、形、息づかいが見えそうだという趣がある。「蚕頭燕尾」「蚕頭鼠尾」と言われるように起筆を蚕の頭のように描き出し、右はらいを燕や鼠の尾のように長く引き出す書きぶりは、蝕筆と触筆が相互に浸透し、練り上がった状態を示している。
(石川、1996年、32頁)

王羲之と顔真卿、宋代の三大家との関係


蘇軾、黄庭堅、米芾は宋代の三大家と呼ばれる。
比喩的に言えば、蘇軾は王羲之=古法の姿をまったく見せない王羲之であり、黄庭堅は王羲之を表現の上ではまったく歯牙にもかけずに超えていったのであり、米芾は黄庭堅同様、もはや王羲之ではない表現にまで遠ざかったにもかかわらず、草書体においてのみ、しばしば王羲之の姿を直かに二折法で曝すのである。
三者ともに角度=スタイル体の姿を曝す。三者三様の筆蝕はこの角度=スタイルを獲得した書史の段階(ステージ)に負っている。
宋代には「李白憶旧遊詩巻」という典型的三折法草書を誕生させた。
初唐代までが王羲之=古法時代であり、初唐代からが反王羲之=新法時代である。
顔真卿は反王羲之であった、否、顔真卿は王羲之を正しく受けとめているという論争が書道史研究者の間で闘わされているが、この点についての石川氏の見解はこうである。つまり顔真卿の書は新法三折法に位置するという意味ではもとより反王羲之であり、具体的に王羲之を学びこの影響を引きずっていることはなんら矛盾するところはないのであるという。
(石川、1996年、36頁)

書の美について


書の美を解する上での関門は、三つあると石川氏はいう。
①ひとつは初唐代の「九成宮醴泉銘」や「雁塔聖教序」の整斉の極北美を率直に認めるか否かである。
②第二にはそれをふまえた上で、いわば臭気の漂う顔真卿の書を美として認めるかどうかである。
③第三には蘇軾の「黄州寒食詩巻」を書の中の書、書中の龍(王)と解するかどうかである。

むろんこの第三の理解が最も困難であるが、その理解に至れば、書はその胸襟を開く、と石川氏は考えている。そして書くというのは、「筆蝕する」ことの別名であり、書の美とは筆蝕の美であるという。
(石川、1996年、33頁、92頁)

欧陽詢の「九成宮醴泉銘」


方形の可憐さを克服して、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」が初唐代に生まれる。これは隋代の書の中心を通る垂線と水平線部を一段伸長するところに生まれる。それは垂線と水平線部をグイと一段伸長することによって、天に向かって垂直に伸び、水平に地にもまた伸び、そして四方八方に光を輝かす正書体化に成功した姿である。
この背景には、刻法上は楷化刻法と行写刻法の止揚があり、毛筆文字の楷化があるが、構造的には、隷書においては果たせなかった正書体完成の姿である。そしてそれは毛筆文字であるところの新生草書体が、自らの姿を変えに変えて行き着いた正書体の姿、筆触と刻蝕の止揚による筆蝕の成立、篆書体に次ぐ真の第二次正書体の成立の姿である。それゆえに、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」を「楷法の極則」と呼ぶ。
楷書体の成立の最大の意味は、紙文字と石文字の、立体的止揚による普遍化である。つまり初唐代の楷書成立の意味を、刻蝕=石と筆触=紙を継承また否定して、筆蝕を成立させたことに、石川氏は求めている。
(石川、1996年、28頁)

狂草―連綿草の誕生


李白や杜甫などの盛唐期に、王羲之型の二折法草書に代わる、次々と文字が連続する新しい草書体が張旭に始まり、顔真卿の「裴将軍詩」や懐素に引き継がれる。これが狂草体である。すなわち700年代を過ぎると、張旭の「古詩四帖」、懐素の「自叙帖」(777年)等のいわゆる狂草体が出現する。

狂草体の見かけ上の特徴は、それまでの王羲之型古法草書においては、せいぜい二字か三字くらいしか連続することのなかった文字が、次々と連なるいわゆる連綿の発生にある。
単音節孤立語たる中国語の姿を裏切って文字の連続するこの連綿草の姿こそは、草書体の三折法化の証しである、と石川氏は捉えている。

そして王羲之の二折法草書と狂草との違いについて、次のように説明している。王羲之に象徴される二折法は、ひとつの字画が「起筆=トン・送筆=スー」もしくは「送筆=スー・終筆=トン」に成立するため、二つの字画は「(トン・スー)+(トン・スー)」「(スー・トン)+(スー・トン)」もしくは「(トン・スー)+(スー・トン)」「(スー・トン)+(トン・スー)」の関係で連合する。
当該画の送筆「スー」と次画の起筆「トン」との間には、書字を許さぬ「間(ま)」が入り込むため連綿は生じず、当該画の終筆「トン」と次画の起筆「トン」との間に、幻の「スー」という連綿が稀に生じることがあるのみであり、二折法は安定的に連綿を生む構造にはない。

だが、ひとつの字画が三折法の「トン・スー・トン」の構造を成立させると、二つの字画の間に、「(トン・スー・トン)+(幻のスー=連綿)+(トン・スー・トン)」つまり「トン・スー・トン・(スー)・トン・スー・トン・(スー)・トン・スー・トン」という全字画、全文字連綿連続化の基本リズムが成立し、すべての字画文字が連綿によってつながることが可能になる。この草書体における三折法化が、次々と文字が狂おしく連綿する狂草を生んだ、と石川氏はいう。

さて、狂草をもたらす筆蝕上の理由は、触筆と蝕筆の対位法の劇(ドラマ)にあるという。二折法時代の草書の筆触は、筆を沈めてぽってりした、いくぶんか深度的な筆触(石川氏はこれを「印印泥」と推定)と、対象上を「サラサラ」と走る、いくぶんか速度的な筆触(石川氏はこれを「錐画沙」と推定)の触筆の振幅しかもたなかった。
しかし初唐代に筆触が刻蝕との止揚を実現して筆蝕と化した時、毛筆は鑿と化し、そこには筆触筆(触筆)と刻蝕筆(蝕筆)の表現力を手に入れることになり、いささか筆尖に角度をもった力がかかる触筆寄りの角度筆と、筆尖に垂直に力がかかる蝕筆寄りの垂直筆の対位劇が成立し、さらには両者の全き同時性表現など多彩な筆蝕の出現を可能にすることになる。
その姿が張旭「古詩四帖」や懐素「自叙帖」の切り込むような三角形の起筆に始まる角度筆蝕と字画、そして三角形を露わにしない垂直に突き込むような起筆に始まる垂直筆蝕と字画の対位的劇(ドラマ)を出現させている。それは石を切り込むことと紙に触れること、石に打ちこむことと紙を押さえ込むことの文(あや)の二重性の劇(ドラマ)であるという。
そしてこのような触筆と蝕筆の対位的劇(ドラマ)は、顔真卿の「裴将軍詩」という楷(基本的には蝕筆)、行(基本的には半蝕・半触筆)、草(基本的には触筆)の三体をこきまぜた不思議な書を生むことになった。
狂草とは、三折法草書の嚆矢であり、触筆と蝕筆の対位劇によって、豊穣な表現の可能性を切り拓いた。その結果がうちつづく筆蝕の劇(ドラマ)たる書史としてあらわれる。
(石川、1996年、30頁~32頁)

唐から宋へ


初唐代に筆触から筆蝕への革命的な転換を果たす。
そして、比類のない楷書体を成立させたこの後の書史は、基本的には筆蝕が自らの表現力を蓄積していく歴史である。
 初唐代から宋までは、
①ひとつは、二折法草書体がその折法を三折法へ改編していく時代であり、
②また行書体がひとつの表現体として、書体的成熟と自立を実現する歴史でもあった。
三折法草書の成立として、黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」と、行書体の自立として、黄庭堅の「松風閣詩巻」と米芾の「蜀素帖」に象徴的意味を担わせればよいとする。
草書と行書の三折化という枠組みの中で、張旭や懐素の「狂草」と、顔真卿の楷書を捉えている。顔真卿の楷書は、楷書ではなく、触筆と蝕筆の溶融からなる楷体を擬装した草書であるともいえる。つまり、楷書という名の草書であるという。顔真卿の楷書は、筆蝕からなる筆蝕総和体であるとする。
(石川、1996年、30頁、33頁)