歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その2≫

2021-03-26 19:31:16 | 漢字について
≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その2≫
(2021年3月26日)
  



【はじめに】


今回のブログでは、金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年3月12日、3080円)に収められた個々の論文を紹介してみたい。
ただし、筆者の関心のある論文に限定させていただく。



【金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか』はこちらから】

漢字を使った文化はどう広がっていたのか: 東アジアの漢字漢文文化圏 (東アジア文化講座)




金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年)
本書の目次は、「序」および第1~5部に分かれている。
【目次】
序   東アジアの漢字・漢文文化圏
第1部 漢字文化圏の文字
 01  漢字の誕生と変遷―甲骨から近年発見の中国先秦・漢代簡牘まで(大西克也)
 02  字音の変遷について(古屋昭弘)
 03  新羅・百済木簡と日本木簡(李成市)
 04  ハングルとパスパ文字(鄭光)
 05  異体字・俗字・国字(笹原宏之)
 06  疑似漢字(荒川慎太郎)
 07  仮名(入口淳志)
 08  中国の女書(nushu)(遠藤織枝)
 09  中国地名・人名のカタカナ表記をめぐって(明木茂夫)

第2部 漢文の読み方と翻訳
 01  日本の訓読の歴史(宇都宮啓吾)
 02  韓国の漢文訓読(釈読)(張景俊[金文京訳])
 03  ウイグル語の漢字・漢文受容の様態(吉田豊)
 04  ベトナムの漢文訓読現象(Nguyen Thi Oanh)
 05  直解(佐藤晴彦)
 06  諺解(杉山豊)
 07  ベトナムにおける漢文の字喃訳(嶋尾稔)
 08  角筆資料(西村浩子)
 09  日中近代の翻訳語――西洋文明受容をめぐって(陳力衛)

第3部 漢文を書く
 01  東アジアの漢文(金文京)
 02  仏典漢訳と仏教漢文(石井公成)
 03  吏文(水越知)
 04  書簡文(永田知之)
 05  白話文(大木康)
 06  日本の変体漢文(瀬間正之)
 07  朝鮮の漢文・変体漢文(沈慶昊)
 08  朝鮮の吏読文(朴成鎬)
 09  琉球の漢文(高津孝)

第4部 近隣地域における漢文学の諸相
 01  朝鮮の郷歌・郷札(伊藤英人)
 02  朝鮮の時調――漢訳時調について(野崎充彦)
 03  朝鮮の東詩(沈慶昊)
 04  句題詩とは何か(佐藤道生)
 05  和漢聯句(大谷雅夫)
 06  狂詩(合山林太郎)
 07  ベトナムの字喃詩(川口健一)

第5部 漢字文化圏の交流――通訳・外国語教育・書籍往来
 01  華夷訳語――付『元朝秘史』(栗林均)
 02  西洋における中国語翻訳と語学研究(内田慶市)
 03  朝鮮における通訳と語学教科書(竹越孝)
 04  長崎・琉球の通事(木津祐子)
 05  佚存書の発生――日中文献学の交流(住吉朋彦)
 06  漢文による筆談(金文京)
 07  中国とベトナムにおける書籍交流(陳正宏[鵜浦恵訳])
 08  中国と朝鮮の書籍交流(張伯偉[金文京訳])
 09  東アジアの書物交流(高橋智)
 10  日本と朝鮮の書籍交流(藤本幸夫)
 11  日本における中国漢籍の利用(河野貴美子)





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


上記の【目次】の中から、次の論文を紹介してみたい。

〇大西克也「漢字の誕生と変遷」
〇荒川慎太郎「疑似漢字」
〇宇都宮啓吾「日本の訓読の歴史」
〇Nguyen Thi Oanh「ベトナムの漢文訓読現象」
〇嶋尾稔「ベトナムにおける漢文の字喃訳」
〇金文京「東アジアの漢文」
〇伊藤英人「朝鮮の郷歌・郷札」
〇川口健一「ベトナムの字喃詩」
〇栗林均「華夷訳語――付『元朝秘史』」
〇河野貴美子「日本における中国漢籍の利用」







大西克也「漢字の誕生と変遷」


1899年に甲骨文が発見されてから約120年、漢字の歴史的研究は目覚ましい進歩を遂げた。
とりわけ、大きな威力を発揮したのが、戦国時代から後漢・三国時代にかけての簡牘(かんどく、竹簡や木簡の総称)や帛書(はくしょ、書写用の白い絹)に筆で記された手書きの文字資料であった。
漢字の変遷のあらましは、次のように変化する。
①殷代の甲骨文字 ②周代の金文 ③秦漢時代の篆書・隷書 ④後漢末期の楷書

大西克也氏(東京大学教授、専門は中国語学・漢字学)は、単なる字姿の変化を追うのではなく、言語や社会・文化、テキストとの関わりからの視点を交えつつ、誕生から楷書の成立に至る漢字の前半生を描き出している。
(大西、2021年、25頁~33頁、428頁)

荒川慎太郎「疑似漢字」


荒川慎太郎氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授、専門は西夏語・西夏文献)は、「「漢字文明圏」と「疑似漢字」」と題して、興味深いことを述べている。
・漢字は、漢語を表記するのみならず、東アジアを中心として分布する非漢語の表記にも強い影響を与えた。
・疑似漢字には、具体的には、契丹文字、西夏文字、女真文字が該当する。
中国北方、西方、東北には、遼(契丹)(916~1125年)、西夏(1038~1227年)、金(1115~1234年)という国家が並存した。契丹文字、西夏文字、女真文字は、それぞれの国家が皇帝の名において、創製し公布した文字である。

これらの「疑似漢字」が研究され始めたのは、そのような研究背景があるとされる。
藤堂明保が、古典的な「漢字文化圏」を提示した。
〇藤堂明保「漢字文化圏の形成」
(『岩波講座世界歴史6 東アジア世界の形成Ⅲ』岩波書店、1971年)
〇藤堂明保『漢字とその文化圏』
(中国語研究・学習叢書、光生館、1971年)
藤堂の古典的な「漢字文化圏」観は、「日本・朝鮮・ベトナム」に於ける漢字受容と、各地でここに発展した漢字字形を対象としたものであった。

一方、西田龍雄は、西夏文字・契丹文字の解読と、東アジア各種文字の詳細な研究から、より深いレベルでの「漢字の周辺文化への影響」を論じた。
〇西田龍雄『漢字文明圏の思考地図』
(PHP研究所、1984年)
西田自信の用語でいえば、「漢字文明圏」と呼ばれる。
この漢字文明圏の中でも特異な位置を占めるのが、疑似漢字と呼ばれる、一群の文字体系であった。

疑似漢字はすべて使用者が絶え、「漢字系文字による、非漢語の表記を行う、独立した民族」は現在まで存在しない。
(ただ、契丹、西夏、女真文字の中で、国家さえ存続していたならば、西夏文字が存続した可能性が高いとされる)
しかし、疑似漢字という、いわば「表現システムの実験」が無駄であったかというと、そうではない。
西夏文字であれば、「漢字にない発想の会意文字の創出」、契丹文字であれば、「既存の文字に無い、興味深い表音システム」など、文字学・文字論を考えるうえで、重要な例を提供し続けてくれると、荒川氏は強調している。
(荒川、2021年、96頁~101頁)

宇都宮啓吾「日本の訓読の歴史」


宇都宮啓吾氏は、大阪大谷大学教授で、専門は日本語学、文献学である。
日本における訓読とは、漢文という中国語を日本語で理解するという点では、翻訳と似通っている。しかし、漢文の表記をそのまま用いて、語句等に切り分け、配列し直して日本語文となるように再構築することで、その表現内容を理解しようとする行為であるため、翻訳とは異なる。翻訳とは、ある言語で表現された文章内容を、その原文内容に即して別の言語に置き換えて表現することだからである。

切り分け方や配列し直す時に用いる符号、さらには日本語文として再構築(読み下し)するときに補う和訓や助詞などの用い方は、長い年月をかけて創意工夫されてきた。
例えば、漢文訓読に用いるレ点も、12世紀頃から使用されるようになり、当初は漢字と漢字の間に記入されていた。そして14世紀後半以降になると、現在のような文字の左端に記入されるようになったそうだ。

本稿では、奈良時代以前から江戸時代までの日本における漢文訓読の歴史について、文化的な背景をも考慮しながら、概観している。
(宇都宮、2021年、129頁~141頁)

Nguyen Thi Oanh「ベトナムの漢文訓読現象」


Nguyen Thi Oanh(グエン・ティ・オワイン)氏は、タンロン大学(ベトナム)のタンロン認識・教育研究所副所長である。専門は、ベトナム前近代における漢籍、漢文資料によるベトナムの漢文文学である。ベトナム・中国・日本の説話に関する比較研究なども行っている。

「漢文訓読」とは、日本人によって使用される術語である。その意味内容は次のようなものである。
〇漢文訓読は、原文から離れた訳文を作るのではない。それは、原文の文字をそのまま残しつつ、原文の漢字を日本語に置き換えながら、日本語の語順に従って読み進めるものである。
〇そして、日本語に置き換えたり、日本語の順番に転倒したりする時に、返り点、ヲコト点などの補助的符号(訓点)を採用する。

従来、漢文訓読は日本における特別な現象と考えられていた。しかし、ベトナムの李・陳王朝(11世紀から15世紀にかけて)に成立した説話集『嶺南摭怪(れいなんせきかい)』や碑文などの漢文資料には、日本と同様、訓読みの現象が確認できるとされる。

日本の変体漢文と漢文訓読からみた場合、ベトナムの訓読み、漢文訓読をいかにとらえることができるのか。これがNguyen Thi Oanh氏の問題提起である。
この問題意識のもとに、四書五経の『礼記』『孟子』の漢字・字喃(チューノム)対訳作品における訓読みと漢文訓読現象を解明しようと試みる。

ベトナムにおいて訓読が発達する前に、『日本霊異記』と同様、漢字とベトナム語(字喃)とを混淆して記したものに、『嶺南摭怪』がある。ベトナムの漢文訓読の歴史的な流れは、日本の訓読と共通点があるようだ。すなわち、最初は音読が主流であったが、訓読が発達する。次に字音が用いられると共に、字訓が定着する。
ただ、相違点もある。ベトナム語は中国語と同様、孤立語であるから、「返り点」、「ヲコト点」などという訓点符号は必要ないが、漢字の四隅に破音という小さな符号を加点することがあるという。
また、日本の漢文訓読の場合、単語は訓読み、熟語は音読みされる傾向があるが、ベトナムの訓読の場合は単語も熟語も訓読みであるそうだ(当時、辞書が少ないからであるとする)。
(Nguyen Thi Oanh、2021年、161頁~166頁、429頁)

嶋尾稔「ベトナムにおける漢文の字喃訳」


嶋尾稔氏は、慶応義塾大学言語文化研究所教授であり、専門はベトナム史である。
ベトナム前近代において、よく参照される重要な著作については、字喃で表記されたベトナム語訳が付されることがあった。
(字喃を読むためには漢字の知識が必要であり、このベトナム語訳が読めるのは漢字のできる知識人だけであった)
普通の人がこのベトナム語訳を読めたわけではなく、その訳は知識人が漢文の世界とベトナム語の世界を媒介する際の負担を若干軽減するためのものであった。
そのような事例を紹介して、ベトナムの前近代社会において、漢文がどのように読まれたかを考えるための糸口を提供している。
その際に、中国の童蒙教育書である『三字経』にベトナム語訳を付した『三字経釈義』を取り上げている。
ベトナムにおける漢文の訳について、5つのパターンを紹介している。
これらのベトナム語訳は、漢文に従属するか、漢文とセットで示されるものである。
(漢文の字喃訳を単独で刊行した事例は、今のところ発見されていないそうだ。)

なお、「ベトナムにおける漢文の字喃訳」という主題は、本講座の編者の発案で取り組んだことを、最後に断っている。
(嶋尾、2021年、181頁~185頁)

金文京「東アジアの漢文」


金文京氏は、京都大学名誉教授で、専門分野は中国文学(戯曲、小説)である。
『漢文と東アジア――訓読の文化圏』(岩波新書、2010年)などの著書があり、東アジアの漢字・漢文文化圏を研究する第一人者である。そして、本巻の編者でもある。

今日、日本で「漢文」と言えば、『論語』や『孟子』、『史記』など高校の「漢文」教科書に出てくるような文章を思い浮かべる。ただ、この「漢文」は日本での呼称である。
本家の中国では、「文言文」または「古文」と言う。「漢文」は漢代の文章のことであるそうだ。

日本での「漢文」という呼び方は、「和文」に対するものである。その背景にあるのは、和(日本)と漢(中国)を対比させる考え方である。このような考え方は、『和漢朗詠集』(1013年頃)のように、平安時代中期から顕著になった。

この「漢文」を文学史的に定義すれば、先秦時代の儒家を含む諸子百家およびその流れを汲む漢代の文章、「左国史漢」(『春秋左伝』、『国語』、『史記』、『漢書』)などの歴史書、そして唐代中期の韓愈、柳宗元の古文運動以後の唐宋八家(上記唐代の二人と、北宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曽鞏[そうきょう]、王安石)の文章、およびそれを模範とする後代の文章ということになるようだ。
ここでは、狭義の「漢文」の話に限定している。この狭義の「漢文」こそは、中国だけでなく、その影響を受けた東アジア漢字文化圏において、もっとも重んじられた文章の正宗である。
金文京氏は、その性格と文化的意義について、実例をもって示している。
(金文京、2021年、199頁~216頁)

伊藤英人「朝鮮の郷歌・郷札」


伊藤英人氏は、専修大学特任教授で、朝鮮半島の言語史、中韓言語接触史が専門である。
郷歌(きょうか)は、新羅時代の詩歌14首、高麗時代の詩歌12首を総称した名称である。郷札(きょうさつ)は、郷歌を表記した借字表記法をさす。
(「郷」が中国語(漢文)に対する地方俗語の意味で、朝鮮語を「方言」と呼んでいた新羅の言語観を反映する名称である)

888年、真聖王は大矩(だいく)和尚らに命じて郷歌を蒐集し、『三代目(さんだいもく)』という郷歌集を編纂させた。
『三代目』は、今日伝わらないが、漢字表記による現地語の詩歌集が編まれたという点で、日本の『万葉集』に、王権による官撰歌集であるという点で『古今集』に似るが、日本の和歌と郷歌の位相は、根本的に異なるようだ。

例えば、現存する8世紀以前の和歌は『万葉集』のみで4千数百首、郷歌は13首(処容歌1首のみ9世紀)である。万葉集歌は伝承されたが、朝鮮時代まで伝承されたのは処容歌1首のみである。
何よりも「和歌」と「郷歌」という名付けが両者の位相の差異を端的に物語っている。日本には平安時代には「和漢」という対等な文学意識が芽生えた。しかし朝鮮半島で「国漢(こっかん)」という概念が導入されたのは近代以降のことである。いわゆる「中国圧」の強弱が両者の性格を異にさせた主要因であったと、伊藤氏は考えている。

郷歌は、韓国の国文学史の最初を飾る「国語詩歌」として国語教育で言及されたものである。その意味では現在も「享受」されている詩歌であるといえるようだ。享受されかた、つまり解読の結果は、15世紀語のハングル表記によって示される。これは日本の国語教科書で、万葉集歌が万葉仮名表記ではなく、後代に成立した表音文字(日本の場合、仮名文字と漢字の混用)で記され、現代日本語の音韻に合わせて読まれるのと、軌を一にした現象であるそうだ。
(一般的な古典受容の在り方として、それ自体何ら異とするに足りない。言語学的には、新羅語の音価による語形再建が目的とされる)

郷札研究は、漢字音史研究からも更なる解明を俟つ沃野であるとする。それは、日韓両言語の類型論的、系統論的研究に豊富な題材を提供するものであるという。
(伊藤、2021年、279頁~289頁)

川口健一「ベトナムの字喃詩」


字喃(チュノム)とは、口語ベトナム語を表記するために考案されたベトナム文字のことである。
15~19世紀にベトナムで作られた代表的な字喃詩集と長編物語を取り上げ、概説している。

〇字喃詩集として、次の3点を取り上げ、作者や詩集の構成・題材などを解説している。
①『国語詩集』(阮廌、15世紀)
②『洪徳国音詩集』(合作詩集、15世紀)
③『春香詩集』(胡春香、印行年不明)

〇字喃詩による長編物語として、次の2点を取り上げている。
①『金雲翹新伝』(阮攸、19世紀初め)
②『陸雲仙』(阮廷炤、19世紀)
ベトナムの字喃文学は、ベトナム独特の文芸形式である六・八体(六言と八言の句を押韻しつつ交互に繰り返す形式)および双七・六・八体(七言二句に続けて六言と八言を押韻しつつ繰り返す形式)による長編物語である。
『翹伝』は、中国の原作『金雲翹伝』の通俗性を乗り越えた芸術性と文学的価値を示す傑作としてベトナム文学史に確たる位置を占めると評される。

字喃詩は、ベトナム民族の生活感情を表出することにおいて、漢詩に優る。
ただ、唐詩の形式から必ずしも自由になることができなかった点において、一定の限界があったようだ。
字喃は、文字構成が複雑なために、統一的な規範が制定されるには至らなかった。
ベトナム語表記の可能性を深く広げたのは、20世紀中葉に漢字と字喃に取って代った表記文字ローマ字(ベトナム語でクオック・グー(国語)と呼ぶ)であった。
(川口、2021年、322頁~327頁)

栗林均「華夷訳語――付『元朝秘史』」


「華夷訳語(かいやくご)」は、「華」(漢語)と「夷」(周辺民族)のことばの翻訳がその字義である。
書名としては、明朝と清朝の時代に周辺諸国との通信や使節の接受に携わる官吏の外国語学習のために編纂された漢語と外国語との対訳語彙集、および文例集を指す。

洪武22年(1389)に、漢語とモンゴル語の対訳語彙と文例集が、「華夷訳語」として公刊された。その後これに倣って、他の周辺民族の言語についても、同様な対訳語彙・文例集が、「華夷訳語」の名を冠して編纂された。
このように、「華夷訳語」には、時代的にも内容的にも異なる種類のものが存在する。

「華夷訳語」には、甲種本から丁種本まで4種類あるとされ、その特徴をまとめている。
また、副題にある『元朝秘史』とは、チンギス・カーンの一代記を中心に、その祖先から説き起こしてモンゴル帝国第二代皇帝オゴタイ・カーンの治世に至るまでの歴史を綴ったモンゴル語の著作である。
モンゴル文字で書かれていたであろう原本は伝わらず、現存するものは明朝洪武年間に漢字をもってモンゴル語を写した「漢字音訳本」である。
『元朝秘史』と甲種本「華夷訳語」は、同時代の文献という以上に、緊密な関係がある。「華夷訳語」は『元朝秘史』の原型の漢字音訳方式を反映しているそうだ。両者は明朝の翻訳官によってモンゴル語を学習するための教材として編纂された。
(栗林、2021年、331頁~340頁)

河野貴美子「日本における中国漢籍の利用」


河野貴美子氏は、早稲田大学教授で、和漢古文献研究、和漢比較文学が専門である。著書に、『日本霊異記と中国の伝承』(勉誠社、1996年)などがある。

河野氏は、「日本における中国漢籍の利用」と題して、次の3節に分けて論じている。
 1 国家経営の基盤としての漢籍の知
 2 日本における漢字・漢文学習と漢籍
 3 日本の言語文化の形成と漢籍――和と漢の往還

1 国家経営の基盤としての漢籍の知


古来、日本の学術文化は漢籍の知を主たる基盤として形成されてきた。
日本は8世紀に入り律令を制定し、中国をモデルとする国家の構築を目指した。官僚を養成する大学・国学において、経書などの漢籍を教科書とするカリキュラムが立てられ、国家経営を支える学知として、漢籍の学習が行われた。同時に漢籍の摂取に力が注がれた。

日本にとって、漢字漢文、そして漢籍を導入するには、国内の体制構築にその知を利用するだけでなく、中国を中心とする東アジアに展開していた漢字漢文文化圏の一員として、その秩序の内に加わるという意味があった。

日本に積極的に輸入された漢籍の状況は、9世紀末に編纂された漢籍目録『日本国見在書目録』(藤原佐世[ふじわらのすけよ]撰)に著録される書目からも把握できる。それは、書目の分類自体を『隋書』経籍志の分類体系に則っており、その範囲は経・史・子・集の全領域にわたる。

ただ、例えば、『枕草子』に「文は、文集。文選、新賦。史記、五帝本紀……」と記されているように、『文選』や『史記』と並んで、とりわけ白居易の『白氏文集(はくしもんじゅう)』が絶大の人気を得ている。このように、日本においては、漢籍に対して中国と異なる
独自な志向も生じた。
そしてその結果、日本では、中国に伝わらない漢籍もが、現在に至るまで、いわゆる佚存(いつぞん)書として残るというユニークな現象がみられる。

2 日本における漢字・漢文学習と漢籍


次に、日本における漢字・漢文学習や言語文化の形成において、いかなる漢籍がいかに利用されたのかについて、具体的にみている。漢字・漢文の学習のための基本的な工具書として利用されたのは、辞書、注釈書、類書、そして幼学書の類であった。

〇漢字の音義研究のための辞書としては、梁・顧野王の『玉篇』や『切韻』、あるいは仏教においては玄応(げんのう)や慧琳の『一切経音義』などがあげられる。
〇経書の注釈書としては、孔安国伝『古文孝経』や皇侃(おうがん)『論語義疏』が特に好まれ、日本にのみ伝わる佚存書となった。日本においては中国の経書が盛んに学ばれ、平安期には訓読のための訓点が施されたいわゆる点本も多数現れてくる。ただ、中世後期の抄物までは、日本で経書の注釈書が別途作成されることはなかったようだ。平安・鎌倉期においては、経書の学習は、中国の各種注疏を参照して行われた。
〇さらには、漢籍の情報を摂取するための参考書として、『芸文類聚』をはじめとする類書が活用された。
〇また、故事など中国の古典知識を学ぶ手段として、『千字文』や『蒙求(もうぎゅう)』といった幼学書がその役割を果たした。

3 日本の言語文化の形成と漢籍――和と漢の往還


漢字漢文の知は、訓読を経て日本語化され、日本の言語文化を豊かに形成する糧となった。
例えば、源為憲が撰述した『世俗諺文(せぞくげんぶん)』(寛弘4年[1007]序)がある。これは、漢籍や仏典を典拠としつつも、すでに日本語の中に「諺」として融け込んでいる語句を取り上げ、その出典の原文とともに列挙するものである。

このことは次のようなことを反映している。
・当時、漢籍由来の成語が多数日本語環境に取り込まれていたこと
・もとの漢籍の「本文」(原文)についての知識もが求められる学問世界の状況があったこと

『平家物語』冒頭で、本朝の物語を述べるにもかかわらず、「遠く異朝をとぶらへば……」と記されているように、和文による著述がなされるようになってもなお、日本の言語文化においては、漢籍と引き合わせて述べることが必要とされたようだ。
例えば、『源氏物語』をはじめとする和文作品の注釈書や和歌を論じる歌学書においても、しばしば漢字や漢語、漢文、漢籍あるいは漢詩との関係が言及される。

一例をあげている。『源氏物語』「蓬生(よもぎう)」巻の「つやゝかにかひはいて」という一節に対して、一条兼良(1402~1481年)の注釈書『花鳥余情』は「貧家浄掃地といふ心なり。東坡詩にあり」との解を加える。「貧家浄掃地」とは、蘇東坡(1036~1101年)詩の詩題である。
兼良がここで蘇東坡詩を引くのは、和文で綴られた日本の言語文化が、いかに漢籍の世界とも通じ合う価値を有するものであるかを示すものと、河野氏はみている。
また室町期の抄物や江戸期の著作は、さらに新たな漢籍の情報をも取り入れながら、知を重ねていく。

このように、日本の学術文化は、漢籍の知を吸収し、また漢籍とのつながりを意識しながら、仮名と漢字、和文と漢文の間を往還しつつ、思考を蓄積し、著述を形成してきた。
(河野、2021年、423頁~427頁)

[すけよ紹介ス]


≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その1≫

2021-03-25 18:04:10 | 漢字について
≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その1≫
(2021年3月25日)

【はじめに】


先日、3月22日(月)、ある一冊の本が届いた。てっきりアマゾンからの本だと思った。差出人を見ると、そうではなかった。川口健一先生より、ご恵贈にあずかった本であった。

それが、金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年3月12日、3080円)である。
「漢字文化圏」をテーマにした論文集であった。

前回のブログで、漢字をテーマに執筆したが、幾つか気がかりな点が残った。
〇漢字の研究は、現在どのような状況にあるのだろうか。
〇また、以前のブログで記した「書道の歴史」について、漢字の歴史と密接に関わるが、どう整理していったらよいのか。
〇漢字を考える場合、中国以外の日本、朝鮮、ベトナムといった地域では、どのように伝播し受容され、どのような相違がみられるのか。つまり、東アジアの「漢字文化圏」の受容様態に関わる問題である。

こうした疑問に、この論文集は答えてくれる。漢字についての記事を投稿していた私にとって、まさに僥倖ともいえる本であった。

漢字について考察する際に、視野を広げて、漢字の受容のあり方を知るには格好の論文集である。しかも執筆陣は、言語学、文学、歴史学、文献学などの分野の第一線で活躍しておられる碩学である。まさに学際的な研究成果である。

したがって、今回、川口健一先生よりご恵贈賜りました論文集を、新刊紹介してみることにした。
思えば、川口健一先生(現・東京外国語大学名誉教授、専門:ベトナム文学)とは随分古いお付き合いになる。私が大学院時代に学会・研究会で先生とお話しさせていただき、その誠実で温かいお人柄にふれ、それ以来、懇意にさせていただいている。
2005年8月には、ベトナムのハノイで合流して、観光地を案内していただいたこともある。また、以前のブログでも、川口先生の著作を紹介したこともある(「川口先生の著作を読んで」2009年3月18日付)。

【ベトナムのハノイ旅行のブログ記事はこちらから】
≪ハノイ旅行≫

【「川口先生の著作を読んで」はこちらから】
≪川口先生の著作を読んで - 歴史だより≫

このような深いご縁で、学恩に感謝の念を抱きつつ、今回は、この「漢字文化圏」に関する論文集をブログで紹介させていただくことにする。
なお、今回は、総論的に、編者の金文京氏の「序 東アジアの漢字・漢文文化圏」を紹介し、個々の論文は次回において紹介する。



【金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか』はこちらから】

漢字を使った文化はどう広がっていたのか: 東アジアの漢字漢文文化圏 (東アジア文化講座)






金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年)
本書の目次は、「序」および第1~5部に分かれている。
【目次】
序   東アジアの漢字・漢文文化圏
第1部 漢字文化圏の文字
 01  漢字の誕生と変遷―甲骨から近年発見の中国先秦・漢代簡牘まで(大西克也)
 02  字音の変遷について(古屋昭弘)
 03  新羅・百済木簡と日本木簡(李成市)
 04  ハングルとパスパ文字(鄭光)
 05  異体字・俗字・国字(笹原宏之)
 06  疑似漢字(荒川慎太郎)
 07  仮名(入口淳志)
 08  中国の女書(nushu)(遠藤織枝)
 09  中国地名・人名のカタカナ表記をめぐって(明木茂夫)

第2部 漢文の読み方と翻訳
 01  日本の訓読の歴史(宇都宮啓吾)
 02  韓国の漢文訓読(釈読)(張景俊[金文京訳])
 03  ウイグル語の漢字・漢文受容の様態(吉田豊)
 04  ベトナムの漢文訓読現象(Nguyen Thi Oanh)
 05  直解(佐藤晴彦)
 06  諺解(杉山豊)
 07  ベトナムにおける漢文の字喃訳(嶋尾稔)
 08  角筆資料(西村浩子)
 09  日中近代の翻訳語――西洋文明受容をめぐって(陳力衛)

第3部 漢文を書く
 01  東アジアの漢文(金文京)
 02  仏典漢訳と仏教漢文(石井公成)
 03  吏文(水越知)
 04  書簡文(永田知之)
 05  白話文(大木康)
 06  日本の変体漢文(瀬間正之)
 07  朝鮮の漢文・変体漢文(沈慶昊)
 08  朝鮮の吏読文(朴成鎬)
 09  琉球の漢文(高津孝)

第4部 近隣地域における漢文学の諸相
 01  朝鮮の郷歌・郷札(伊藤英人)
 02  朝鮮の時調――漢訳時調について(野崎充彦)
 03  朝鮮の東詩(沈慶昊)
 04  句題詩とは何か(佐藤道生)
 05  和漢聯句(大谷雅夫)
 06  狂詩(合山林太郎)
 07  ベトナムの字喃詩(川口健一)

第5部 漢字文化圏の交流――通訳・外国語教育・書籍往来
 01  華夷訳語――付『元朝秘史』(栗林均)
 02  西洋における中国語翻訳と語学研究(内田慶市)
 03  朝鮮における通訳と語学教科書(竹越孝)
 04  長崎・琉球の通事(木津祐子)
 05  佚存書の発生――日中文献学の交流(住吉朋彦)
 06  漢文による筆談(金文京)
 07  中国とベトナムにおける書籍交流(陳正宏[鵜浦恵訳])
 08  中国と朝鮮の書籍交流(張伯偉[金文京訳])
 09  東アジアの書物交流(高橋智)
 10  日本と朝鮮の書籍交流(藤本幸夫)
 11  日本における中国漢籍の利用(河野貴美子)





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・本書の目的――漢字・漢文文化圏の実態研究
・諸論文に対する編者のコメント




本書の目的――漢字・漢文文化圏の実態研究


この書籍の企画・目的について、金文京氏は、「序 東アジアの漢字・漢文文化圏」において、次のように述べている。
「本講座第二巻「漢字を使った文化はどう広がっていたのか」は、東アジア、特に中国、朝鮮半島、日本、ベトナムにおいて、漢字および漢字で書かれた文章、すなわち一般にいうところの漢文にどれほどの多様性があるのかを、これに関連する事象および相互の交流をも含めてトータルに検証することを目的として企画したものである。」(13頁)

東アジア(中国、朝鮮半島、日本、ベトナム)という地域は、「漢字文化圏」と呼ばれる。その多様性を検証することが本書の目的であるという。

世界の他の文化圏、たとえば、キリスト教文化圏、イスラム文化圏などが宗教名を冠しているのに対し、東アジアという地域は漢字という文字名を冠している。それは、この地域を一つの宗教によって代表させることが困難であったためであろう。

ただ、漢字文化圏という言い方も、問題があるともいわれる。
〇たとえば、ベトナム、北朝鮮は漢字をすでに廃止しており、韓国もほとんど使われないので、漢字を日常的に使用しているのは、中国本土、台湾、日本だけである。つまり、現在、漢字文化圏はすでに文化圏としては機能していない。

〇また、表意(語)文字である漢字は、その字体こそ地域の中で、ほぼ共通しているものの、字音はまちまちであった。中国には標準音のほか各地の方言があり、日本、朝鮮、ベトナムの漢字音は、中国漢字音に由来するとはいえ、互いに聞くだけでは理解できないほど、変化を遂げている。つまり、漢字文化圏における漢字の共通性とは、字体の共通性ではあっても字音の共通性ではない。

〇また、漢字は過去において、この地域の共通文字であったが、漢字だけが使われていたわけではない。仮名、ハングル、字喃(チュノム)、歴史的には契丹(きったん)、女真(じょしん)、西夏(せいか)文字やウイグル、モンゴル、満州文字などの文字が使用された。
(仮名、ハングル、字喃は漢字との混用もみられた。日本では、現在でも片仮名、平仮名、漢字、あるいはローマ字をいれて4種の文字が併用される)
総じて、この地域の文字生活は複雑である。

〇さらに問題なのは、漢字を連ねた文章、いわゆる漢文である。
漢字による文章には、さまざまな文体がある。中国には、古典文言文のほか、仏教漢文、吏文(りぶん)、書簡文、また近世の口語を反映した白話文、方言文がある。日本や朝鮮など中国近隣地域には、いわゆる変体漢文がある。
(均一な古典文言文であっても、それは目で読んだ場合の均一性である。各地の字音の相違、また訓読のような特殊な読法によって、声に出して読んだとたん、均一性は失われる点は注意を要する。そしてそれは相互に理解不能な文体になってしまう)

したがって、過去の漢字文化圏において、そうした文体がどれぐらいあり、どのような機能を担っていたのかを、トータルに把握することなしに、漢字文化圏の実態を解明することはできない。
ただ、東アジア研究の現状からするとトータルな把握には程遠い状況であるらしい。
東アジアの文化と文学において、「共有の位相」にあったのは、古典文言文(狭義の漢文)であった。つまり、東アジアでは、狭義の漢文、漢詩を読み、それを作る能力が知識人の必須の条件として共有されており、交流の場でもそれが手段であった。

しかし、古典文言文や漢詩の「共有」には、二つの問題があると金文京氏は指摘している。
①古典文言文や漢詩の流通範囲は局限的であったこと。
つまり、古典文言文や漢詩を読み作る能力と必要があったのは、中国でも一部の知識人、その他の地域では少数のエリートに限られていた。
さまざまな文体の中に、どのような「共有」があるのかを検証する必要がある。

②交流という観点から見る時、古典文言文、漢詩による交流は、中国から周辺への単方向であったこと。
〇近年、朝鮮王朝時代、江戸時代における儒教経典解釈の独自性が注目を集めているが、ここに問題点が浮上してきたようだ。
たとえば、国際学会で、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『論語』解釈のユニークさを強調した際に、一部の中国の研究者から、当時の中国で荻生徂徠の『論語徴』を読んだ人はおらず、交流とは言えないという反論が出た。
前近代中国の知識人は、中国域外での漢文著作、漢詩には物珍しさ以上の興味はなく、実際の影響力は無きに等しいという。
また彼らの関心は、中国で失われた典籍(いわゆる佚存書)に注がれた。逆に、朝鮮や日本の知識人は、自国の漢文や漢詩の書籍を輸出もしたが、もっとも有効だったのは、佚存書の輸出だったそうだ。

〇それでは、中国以外の国々の交流はどうか。
たとえば、朝鮮通信使と日本の文人との交流を例に取ると、個人間の相互理解は生まれたが、全体的に見れば、両者とも相手の国の言葉を知らず、交流は狭義の漢文による筆談、漢詩の応酬によって行われた。
しかも漢文、漢詩は、日本では訓読、朝鮮側では懸吐(朝鮮漢字音で直読し、朝鮮語の助辞をつける方式)という独自の方法で読まれた。だから、同じ文章、詩でも読み方はまったく異なっていた。

したがって、狭義の漢文や漢詩による交流や影響関係の考察には、限界がある。より広い視野から漢字文化圏での漢字、漢文のさまざまな営為を検討しなければならない、と金文京氏は主張している。東アジア世界は長く複雑な交流の歴史をもっている。その歴史全体を考察し、実態を正しく認識する必要がある。

そして、本書の目的について、次のように記している。
「本書の目的は、過去を顕彰することでも、研究者のために新たな研究領域を開拓することでもない。東アジアの来るべき時代のあるべき姿を模索するために、その重要な部分である漢字・漢文文化圏の実態を思考の材料として提供するという未来を志向するものであることを、特に強調しておきたい。」(17頁)

このように、未来への教訓を過去から汲み取る際に、漢字・漢文文化圏という過去の膨大な遺産と向き合うことには意義のあることであり、その実態を思考の材料として提供することに、本巻の目的があるようだ。
(金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』文学通信、2021年、13頁~17頁)


諸論文に対する編者のコメント


第2巻の諸論文について、編者の金文京氏は、次のように紹介し、コメントを述べている。

第1部 漢字文化圏の文字


・「漢字の誕生と変遷」、「字音の変遷について」は、漢字の字体と字音の多様性についての基礎的知識を提供する。
・「異体字・俗字・国字」を併読すれば、漢字について必要な知識を得ることができる。
・「新羅・百済木簡と日本木簡」では、これまで日本の国字であると考えられていた「鮑(あわび)」、「椋(くら)」や「畠(はたけ)」が実は朝鮮半島での造字であることが指摘される。従来、日本国内の視点からのみ行われていた木簡研究に比較の視野を開く。
・「疑似漢字」は、漢字を模倣しつつ漢字に対抗する意識をもって、国家によって意図的に作られた契丹、女真、西夏文字を解説する。
・「仮名」は、それら東アジアで作られた疑似漢字の系列に仮名を組み込んで考察する。
・「ハングルとパスパ文字」は、従来もっとも独創的な文字とされてきたハングルがパスパ文字の影響を受けており、かつハングル創製の目的の一つが漢字音の表記であったことを主張する。
・「中国の女書」は、中国にも女性専用の文字が存在することを紹介する。同じく女文字と呼ばれた平仮名やハングルとの時空を超えた共通性を示唆する。
・「中国地名・人名のカタカナ表記をめぐって」は、従来、漢字はそれぞれの地域の発音で読むというのが漢字文化圏の慣行であったが、現地音尊重という新たな主張の問題点を指摘する。現在この現地音尊重主義を徹底させているのは韓国であるが、日中を含めて新たな慣行作りのための討議が行われることが望ましいとする。

第2部 漢文の読み方と翻訳


・「日本の訓読の歴史」と「韓国の漢文訓読(釈読)」は、日韓の訓読について概説したものである。前者は、ヲコト点について朝鮮での同様の記号の存在を指摘している。後者は、15~16世紀に新たに登場した訓読方式と日本との関係を示唆する。
 記号を使用した訓読は、現在のところ日本と朝鮮半島にのみ確認されるが、広い意味での訓読現象は東アジア各地に存在した。
・「ウイグル語の漢字・漢文受容の様態」と「ベトナムの漢文訓読現象」は、漢字・漢文文化圏における訓読現象の普遍性を例証する。
・「直解」、「諺解」、「字喃」(「ベトナムにおける漢文の字喃訳」)について。
古典文言文は中国においても、近世なると知識層の増大にともない、理解が難しい人々が出てくると、そこで現れたのが、文言文をわかりやすい口語に翻訳した「直解」である。同じことは、朝鮮におけるハングル訳である「諺解」、またベトナムの「字喃」によっても行なわれた。
・「角筆資料」について
日本の訓読などには、しばしば角筆で記入された文字が見られる。「角筆資料」は従来、日本独自のものと見なされていたが、近年、韓国、ベトナム、さらにヨーロッパでも存在が報告されている。
・「日中近代の翻訳語」は、近代の東アジアにおいて、流入した西洋文明の概念が漢文をもとにして翻訳されたが、それについての考察である。

第3部 漢文を書く


・「東アジアの漢文」では、東アジアにおける古典文言文の意味と役割が考察される。
・「仏典漢訳と仏教漢文」、「吏文」、「書簡文」、「白話文」は、中国における文体の多様性とその東アジアへの影響が論じられる。
・「日本の変体漢文」は、変体漢文について、中国対日本という構図の中で検討されたが、中国を含む漢字・漢文文化圏全体の問題として再検討しようとする。

・「朝鮮の漢文・変体漢文」と「朝鮮の吏読文」は、朝鮮の変体漢文の代表である吏読(吐)文の紹介である。それが単なる実用文にとどまらず、戯作的文学作品にまで及んだことを明らかにする。
・「琉球の漢文」は、琉球における漢文読解、製作の背景を紹介している。特に、中国人の子孫が住む久米村では、中国語の直読と日本式訓読が併用された。(この点は、20世紀の台湾、朝鮮の植民地時代における漢文教育にも通じるようだ)

第4部 近隣地域における漢文学の諸相


第4部では、中国以外の地域での漢字、漢文による文学形式が紹介されている。
・「朝鮮の郷歌・郷札」は、日本の万葉和歌にほぼ相当するもので、『三代目』という歌謡集も編纂された。(残念ながら現存しない)
・「朝鮮の時調――漢訳時調について」は、朝鮮王朝時代に士人の間で流行し、現在でも作者のいる朝鮮語の短詩型について述べる。(ただ、それは日本の和歌や俳句のように、漢詩と拮抗しうる地位を得るには至らなかった)
・「朝鮮の東詩」と「句題詩とは何か」は、正規の漢詩でありながら、日朝いずれも独自の規則によって作られた東詩と句題詩の紹介である。
(編者によれば、日本の句題詩は、唐宋代の科挙に用いられた省題詩と関係があるとされる。その意味では科挙での詩である朝鮮の東詩と共通するという)
・「和漢聯句」は、和歌と漢詩を交互に用いた聯句で、和と漢が対等に定立しえた日本ならではの文学形式である。
・「狂詩」は、中国の打油詩や朝鮮の東詩の一部を成す諧謔詩に相当する。これも独立したジャンルとして成立したのは日本だけである。
・「ベトナムの字喃詩」は、日本ではほとんど知られていない字喃によるベトナム語の詩を紹介する。
(その全貌が明らかになれば、さまざまな比較が可能になると、編者は期待している)

第5部 漢字文化圏の交流――通訳・外国語教育・書籍往来相


第5部の前半は、通訳の問題、後半は文字と書籍による交流を扱う
・「華夷訳語」は、明清時代の中国で編纂された外国語教科書である。東アジアでは、古くから外交の舞台などで通訳が活躍し、また通訳養成のための教科書が編纂された。「華夷訳語」は、中国と周辺諸外国との朝貢冊封体制を、中国側から体現したものであった。
・「朝鮮における通訳と語学教科書」は、朝貢冊封体制における朝鮮の状況を、通訳と語学教科書に焦点をしぼって解説する。朝鮮ではその地政学的位置から、通訳の養成、教科書の編纂が国家事業として熱心に行われた。
・「長崎・琉球の通事」は、日本語と中国語の通訳について論じる。日本(長崎)が朝貢圏外、琉球は朝貢国という相違がある。すなわち、琉球の通事が中国人としてのアイデンティティを保持したのに対し、長崎の通事は幕府への忠誠を優先させた。しかし、双方とも中国人の子孫を通訳として採用したことに変わりはない。
(それがもっとも現実的で簡便な方法であったとされる。その点、朝鮮では、中国人をはじめ現地人を決して採用せず、あくまで自前で通訳を養成した。その特殊性が際立つ)
・「西洋における中国語翻訳と語学研究」は、東アジア世界にとっての他者である西洋人の中国語観と、その中国語研究について、普遍と個別という問題意識から論じている。
・「漢文による筆談」は、他の文化圏には類例のない筆談という交流方法について述べる。
・「佚存書の発生――日中文献学の交流」は、自国ですでに亡佚した典籍を他国に求める中国知識人の意識(孔子の言葉とされる「礼失われてこれを野に求む」という表現がある)と、自国にあって中国にはない典籍を中国に輸出した日本の知識人の奇妙な同居について、その具体的歴史を概観する。
・「中国とベトナムにおける書籍交流」、「中国と朝鮮の書籍交流」、「東アジアの書物交流」、「日本と朝鮮の書籍交流」において、それぞれの地域間における書籍交流の実態が述べられる。
漢字・漢文文化圏における文化交流において、もっとも重要な意味をもったのは、書籍の交流であったようだ。その中で、ベトナムが自国で消費する書蹟の出版を中国の広東の出版業者に委託した代刻本などは特殊な例とされる。
・「日本における中国漢籍の利用」は、輸入された中国漢籍がどのように受容、利用されたかについて考察している。(同じことは、朝鮮半島、ベトナムでも起こったはずだが、その実態と相互比較は、将来の課題である。)

以上、論文の内容とコメントである。個々の論文は、力作ぞろいである。
全体の構成は、混沌とした印象を否めないと編者は記している。
その原因として、漢字・漢文文化圏のすべての事象を客観的に考察しようとする試み自体、現時点では困難な状況にあるとする。まずは一国史観や自国中心の比較方法から脱却する必要があるともいう。
日本国内の研究の間でも、共通の基盤があるとは必ずしも言えず、中国、韓国、ベトナムを含めた四か国の研究者の問題意識、立脚点にも相違があるのも、現状らしい。
今はただ、その目的に向けての、ささやかな一歩と成り得ていることを編者は願っている。
(金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』文学通信、2021年、13頁~22頁)



≪漢字について その6≫

2021-03-21 18:37:39 | 漢字について
≪漢字について その6≫
(2021年3月21日投稿)



【はじめに】


 今回のブログでは、漢字と日本語との関係について、丸谷才一『文章読本』(中央公論社)などを参考にしながら、考えてみたい。
 また、馬琴の『南総里見八犬伝』、『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字との関わりについて、述べておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<その6>
・馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字
・『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字
・漢字と漢文について
・漢字の数について
・漢字に関する小林秀雄の見識
・日本語と小説家の役割






馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字


馬琴は晩年目が見えなくなる。代わって筆を持ち、その口述に従って『南総里見八犬伝』を書き上げたのは、亡くなった一人息子の嫁のお路という女性であった。当時の女性の常として漢字を知らず、勉強をしたわけでもないお路が、一字一字口伝えで馬琴に字を教わりながら書き綴っていったそうだ。偏と旁(つくり)の区別さえ知らない彼女に理解させるのは容易ではなかったようだが、そのうち字も馬琴の字とそっくりにあり、原稿を取りに来た出版元の人間も、馬琴の字とお路の字を区別つかないほどであったという(安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年、279頁。徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]、38頁。)

前近代において、漢字は男性、仮名は女性がその担い手であるとする論は多く、その典型は三島の『文章読本』であろう。しかし、このお路の事例は、前近代の女性でも、不断の努力と勉強により、漢字を習得し、文章を綴れる可能性を示してくれる。

【安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫はこちらから】

安西篤子の南総里見八犬伝 (わたしの古典21)

【徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社はこちらから】

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)


『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字


思えば、『古事記』『日本書紀』も、仮名が発明される前に書かれた書物であったから、漢字ばかりで書かれていた。
たとえば、有名な「出雲八重垣」のくだりの歌である。スサノオノミコトがクシナダヒメと結婚して新居をいとなんだ時の歌である。
『古事記』には、
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁
(八雲たつ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を)
『日本書紀』には、
夜句茂多莬伊弩毛夜覇餓岐莬磨語昧爾夜覇餓枳莬倶盧贈迺夜覇餓岐廻
(八雲たつ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣ゑ)
とある。
『万葉集』がほぼ同じ調子で行っている。この『万葉集』ふうの、漢字の音訓を借りて、日本語を表記する方法が万葉仮名と呼ばれる。このことは丸谷才一の名著『文章読本』(中央公論社、1977年)の「第五章 新しい和漢混淆文」(80頁~105頁)でも言及されている。

【丸谷才一『文章読本』中央公論社はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

この点、高島俊男『漢字と日本人』(文春新書、2001年)でも解説している(高島、2001年、80頁)。
「を」(wo)もしくは「ゑ」(we)は間投詞である。
「夜幣賀岐(やへがき)」であれ、「夜覇餓岐(やへがき)」であれ、「やへがき」という音を表しているだけで、「八重垣」の意味はない。無味乾燥な音で、一字一音を表していて、文字の意味とことばの意味との関連性は全くない。
「伊豆毛夜幣賀岐」「伊弩毛夜覇餓岐」のように、漢字の意味を捨て、ただ音符(発音符号)として漢字を用いて、日本語を書き表すやり方を「万葉仮名」という。一字一音が多いが、一字二音などもある。
たとえば、柿本人麻呂の歌に
皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨 
(おほきみはかみにしませばあまくものいかづちのうへにいほりせるかも)
とある。原文18字のうち、皇(おほきみ)、者(は)、神(かみ)、座(ます)、者(ば)、天(あま)、雲(くも)、之(の)、雷(いかづち)、之(の)、上(うへ)、廬(いほり)、爲(す)、鴨(かも)の14字までが訓であり、あとの4字、二(に)、四(し)、爾(に)、流(る)が音である。訓14字のうち、「鴨(かも)」を詠嘆の終助詞「かも」の表記を用いており、鳥の「鴨」の語義とは全く無関係である(高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年、76頁~81頁)。

【高島俊男『漢字と日本人』文春新書はこちらから】

漢字と日本人 (文春新書)


漢字と漢文について


丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
 ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。
徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。

文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、133頁~134頁)。

【丸谷才一『文章読本』中央公論社はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

【川端康成『名人』はこちらから】

名人 (新潮文庫)

さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、256頁~257頁)。

そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、283頁~284頁)。

日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、76頁)。

【丸谷才一『文章読本』中央公論社はこちらから】

文章読本 (中公文庫)

漢字の数について


漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。

【井上ひさし『私家版 日本語文法』はこちらから】

私家版 日本語文法 (新潮文庫)

漢字に関する小林秀雄の見識


小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長(上) (新潮文庫)


【新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長

日本語と小説家の役割


現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。

そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。

日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、90頁)。

【野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社はこちらから】

日本語の世界 13 小説の日本語

【参考文献】
丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年
江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年
矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年
大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]
松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年
徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]
小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年
新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年
野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年
宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋、2015年[2016年版]






≪漢字について その5≫

2021-03-20 18:30:02 | 漢字について
≪漢字について その5≫
(2021年3月20日投稿)
 



【はじめに】


ひきつづき、漢字について、藤堂明保『漢字の話』(朝日選書)や『漢字の過去と未来』(岩波新書)をもとに考えてみる。とりわけ、漢語の本質、「者」の意味、唐宋音、和製漢字について述べてみたい。
ところで、白川静は漢字学の権威である。松岡正剛『白川静―漢字の世界観』(平凡社新書)をもとに、その漢字学の解説をしておきたい。
 その他、漢字と教育との関係、日本語の変わりゆく意味についても付言しておく。

さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<その5>
・漢語の本質について
・「者」の意味について
・唐宋音について
・和製漢字について
・白川静と漢字学について
・漢字と教育との関係について
・日本語の変わりゆく意味







漢語の本質について


漢語の大部分は、右側の旁(つくり)を親として、それから派生した「ことばの仲間、漢字の仲間」からできているという。これが漢語の本質である。そして漢字教育の根本は、「ことばの仲間」をしっかりつかませることにあると藤堂明保は主張している。
例えば、旁の一つ侖(リン・ロン)は、冊(竹や木の机を並べた短冊つづり)と合(あわせる)の上半分をあわせた字で、短冊をきちんと並べて、順序が狂わないようにまとめたさまを表している。
①輪(きちんと車の矢を並べて、外枠でまとめたわ)
②倫(きちんと整理してまとめた人間関係)
③論(きちんと並べてまとめたことば)
これらは、リンまたはロンと発音し、すべて「きちんと並んでまとまる」というイメージを共有しており、その親は右側の「つくり」の侖であるというのである。
ただ、「整然と並べてまとめた物」をすべてリン(ロン)と表現するとすれば混同がおこるので、文字では車へん・人べん・言べんをそえ、話すときには車輪・人倫・言論のように、二字の熟語で表現することとなった。ここに漢語の本質の一つがあるという。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、260頁~261頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

このように、言語の本質は「音と意味の結びつき」にあるという藤堂明保の持論に基づいて、漢字の「ことばの仲間」を一括して教えるのが漢字教育の本すじであると主張している。
他の例を挙げれば、主―柱―住―注―駐、青―清―晴―精―静、系―係―継、布―敷―普などが「ことばの仲間」である。

悠然、悠悠という形容語についても、日本人は誤解していると指摘している。その意味は「細く長く、絶えそうで絶えずに続くさま」をいうのであり、「悠悠たる生死、別れてより年を経たり」(長恨歌)とは、まさにその意味であるという。「ゆったり」などという意味ではない。「悠然として南山の見ゆる」とは「いつまでも、いつまでも」という意味である。
中国で魯迅が文学者の漢字乱用を戒めたのと、同じことが日本でもいえると批判している。その魯迅は、次のようなことを述べている。
「中国の文人は、嵯峨(さが)とか岑崟(しんきん)とか形容する山が、はたしてどんな山か、画を書いて示せと言われたら、当惑するだろう。ことばの意味を知らずに、ただ古いことばだというだけで、なんとなくその上にあぐらをかいて得意になっている」「雪が降るのを霏霏(ひひ)とか、紛紛(ふんぷん)とか形容するよりも、練りあげられた民間のことばを用いて、降りしきる(原文は下得緊、ひしひしと)と言ったほうが、ずっとよい」と(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、183頁~184頁、193頁~194頁)。

【藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書はこちらから】

漢字の過去と未来 (1982年) (岩波新書)

「者」の意味について


「者」というのは、煮(火力を集中する)のもとになる字である。これはコンロの上で柴を燃やして、火熱を放散させないようにしているさまを描いているという。だから「集中していっぱいにつめる」という意味があるようだ。要は、集中・充実するという意味がある。
この「者」を含む漢字として、例えば、
①都は、人間が集中していっぱいに詰まった所→みやこ
②堵(と)は、土をいっぱいつめる
③暑は、日の熱が集中する→あつい
④豬もしくは猪(ちょ、いのしし)は、「豕(ぶた)+者」からなっており、充実して肉がいっぱい詰まったけもの→いのししという意味になる。また猪(ちょ)は、貯蓄の貯(ちょ)で、いっぱい詰めこんであることを意味するという。
「者」の原義・イメージを理解しているだけで、語彙力が豊かになるのができる。ここに漢字学の真骨頂がある(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、47頁)。

【藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈上〉 (朝日選書)

唐宋音について


新漢音の次に、かなり大幅に登場するのが、いわゆる「唐宋音」である。「唐宋音」は、鎌倉・室町時代に、中国の宋・元・明と往来した禅宗の僧侶、および御朱印船で往来した商人たちによって伝承された、“中世的”な漢語の発音である。禅宗の清規(しんぎ)(起居作法のきまり)には唐宋音がよく保存されているといわれ、当時輸入された日常器具や食物の名は多く、唐宋音で呼ばれた。
唐宋音の例としては、
<宗教>普請(フシン)、庫裡(クリ)、和尚(オショウ)
<食物>饅頭(マンジュウ)、饂飩(ウドン)、喫茶(キッサ)
<器物>瓶(ビン)、椅子(イス)、緞子(ドンス)、箪笥(タンス)、火燵(コタツ)、蒲団(フトン)、行灯(アンドン)、暖簾(ノレン)、算盤(ソロバン)
<雑>胡散(ウサン)、行脚(アンギャ)、栗鼠(リス)
たとえば、椅子は「イス」と読み、「イシ」と読まないのは、この唐宋音であったからとわかる。というのは椅子の「子」は、もとtsiで、漢音ではシと音訳したが、宋元時代にはそれがtsuuとなったので、唐宋音では「子(ス)」と音訳したからである
日本語の唐宋音の特色は、全体としては今日の北京語によく似ているそうだ。なぜなら、今の北京語は宋元時代の中原の共通語の、直系の子孫であるからであるという。北京語は日本の唐宋音とは「またいとこ」ぐらいの縁があり、似ているのも当然だと言えると藤堂明保は解説している(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、164頁~168頁)。

和製漢字について


和製漢字を収録した書として名高いのは、江戸時代の学者新井白石の『同文通考』である。白石は、たとえ和製の漢字でも、生活に必要ならば用いてよいとの旨を述べ、多くの和製漢字を示している。
そのうち今日でも用いられている字としては、辻(つじ)、峠(とうげ)、裃(かみしも)、颪(おろし)、丼(どんぶり、中国では井戸の「井」の古い字体)、躾(しつけ)がある。
和製漢字の大部分は、いわゆる会意文字の原則に従って作られたものであるという。たとえば、
①神前に供える木を「榊」と書き、
②十字の路を「辻」と書き、
③身ぶりの美しさを「躾」と書き、
④上って下る山を「峠」」と書く場合がそれである。
「真(ま)+木(き)」のような訓を合わせて「槙」と書くのも、その中の特例を考えてよいと藤堂はみなしている(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、133頁~134頁)。

白川静と漢字学について


「文字は世界を記憶している方舟である」といわれる。白川静は96歳の生涯の大半をかけてその方舟に乗り続けた。『詩経』と『万葉集』を耽読することが古代文字文化研究の端緒となったといわれる(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、22頁、31頁)。
白川静は、古代人がどのような発想の言葉をもって、どのような場面やどのような出来事を、そしてどのような心境を、どのように起興していたのかについて、「興(きょう)」を焦点に考察した。
そこから、古代歌謡というものがかなり呪的な方法で歌を詠んでいたことが見えてきた。すなわち、「神的なものに対しては、呪的な言語が必要とするが、歌謡はその呪的な言語から起ったものである」と述べている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、128頁~129頁)。
白川静の詩経論や万葉論では、「歌謡の原質ともいうべきものは、人びとがなお神々の呪縛の中にある時代に発している」という根本的な視点がつらぬかれている。そのうえで、古代中国と古代日本が神々からの呪縛からはずれていく過程も論証されている。
中国における古代的な氏族の解体は西周の後期からはじまり、日本では『万葉集』初期の時代を想定している。『詩経』と『万葉集』という二つの古代歌謡集にみられる本質的類同には、この古代的氏族社会の崩壊という、社会史的事実に基づくと推測した。つまり二つの類同は、両者とも古代社会が崩壊した過程を共有していたからだとみている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、170頁~173頁)。

【松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書はこちらから】

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

『漢字―生い立ちとその背景―』(岩波新書、1970年[1972年版])において、白川静は、文字について、「文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するためのものであったからである」と結んでいる(白川、1970年[1972年版]、188頁)。
ところで、白川静の『漢字』(岩波新書)は、1970年、60歳のときの著作である。この著書に対して、当時高名な漢字学者であった藤堂明保が、「なぜに岩波ともあろう出版社があんな本を書かせたのか」という文句をつけた。これは“業界事件”の一つとなった。
一方、白川静は「文字学の方法」という反論により、自らの研究方法および藤堂明保批判を述べて、白川の圧勝に終わったといわれる(松岡、2008年、116頁~117頁)。
また、いわゆる語源を探究する際にも、西洋と東洋とでは、その相違点がある。欧米社会は表音文字が中心の社会であるので、アルファベットの字体そのものを考証する必要はなく、綴り(スペル)が調査され、そこから語源学を誕生させた。しかし、表意文字を中心とした漢字文化圏では、そうはゆかず、語源は字源と密接に結びつき、字源は密接に字体や字形と結びついているといわれる。その上、多くの字体字形は1000年をへて変化しつづけてきたから、東洋におけるレキシコグラファー(辞書編纂者)は、苦闘と苦心と刻苦勉励が求められた(松岡、2008年、199頁~201頁)。
ことばが、神とともにあり、神そのものであった時代に、神と交渉をもつ直接の手段は、ことばの呪能を高度に発揮することであった。「ことだまの幸(さき)はふ国」というのは、日本古代のみではない。中国にあっても、そのことだまへのおそれは、古代文字の構成の上にあらわれていると白川静は説く。
諺(げん)は日本では古く「わざうた」とよまれているが、「わざ」とは、呪的な力をもつ意である。ことわざも同じく、呪的な言語であったという。つまりことわざのわざは、わざわいを示す語であるから、諺は本来は呪言をいうとする。善悪の両義に用いられるが、いずれかといえば、呪詛に近い語である。言語はもともと呪言で、言は辛と祝告の「∀」に従って、自己詛盟の語、語は呪詛をふせぐ防禦的な語であるという(白川静『漢字』岩波新書、1970年[1972年版]、131頁~134頁)。 

【白川静『漢字』岩波新書はこちらから】

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

また、たとえば、「道」という漢字に、なぜ「首」という字があるのだろうか。考えてみれば、不思議である。その理由を漢字の歴史という視点から、論理的、実証的に説明してくれるのが、漢字学者白川静である。
「道」に「首」がつくのは、中国古代の呪能、呪詛が関連していると説く。
「峠路や海上でなくても、道はおそるべきものであった。もし呪詛が加えられていると、人は必ずそのわざわいを受けた。そのため道路には、これを防ぐ種々の呪禁を加えておく必要がある。道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった。金文の字形には、首を手に持った字形がかかれている。それは戦争のための先導を意味する用法であるが、あるいは実際に首を捧げて、呪禁を加えながら行軍をしていたのかも知れない。異族神に対する行為であるから、おそらく異族の首を奉じていたのであろう。異族の首を境界のところに埋めておくことも、呪禁として有効であった」(白川、1970年[1972年版]、43頁)。
白川学によって、文字の意味を追っていくと、古代社会の根幹がヴィヴィッドに躍り出て、古代東洋の世界像がその相貌をあらわしてくる。文字を解義し、語源をつらねていくことは、われわれが歴史的世界観をもつためには、肝要なことである。
「道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった」と述べているように、「道」という字は、古代社会で最も呪術が施されてきたところであるという。道は正体不明の“さばへなす邪霊”が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するところであって、由々しいことが頻繁におこりうる。そこで、氏族の長や従者たちはあえて異族の首を掲げて行進したそうだ。恐ろしくも、「道」に首がついているのは、この理由によるという。このように、「道」はおそるべきものであったのである(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、196頁~197頁)。

高村光太郎の有名な詩「道程」(1914年刊)には、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」とある。
高村は、白川の説く「道」の原義を知っていたのであろうか。「道」に対する強い意志が感じられる男性的な詩が「道程」であるが、もし白川の言うような意味の「道」だとすると、おどろおどろしく、猟奇的な詩になってしまうであろう。余計な想像はこれくらいにしておこう。

漢字と教育との関係について


日本の近代の漢字廃止論、漢字制限論は、近代郵便制度の創始者・前島密(ひそか)が1867年に建白書「漢字御廃止之議」を徳川慶喜に上申したことに端を発しているようである。福沢諭吉は、1873年に漢字制限論を唱えて、比較的穏健派に属した。しかし、最も過激なものは、後の文部大臣・森有礼(ありのり)の英語国語論(1872年)、志賀直哉の仏語国語論(1946年)がある。またローマ国字論を、1874年、哲学者・西周が提唱し、1946年、アメリカ教育使節団も提唱した。そして仮名書き論を、1876年に、国語学者・大槻文彦が唱えたりしている。
このように、近代以降、決して緻密とは言えない効率論で、漢字は不当に差別され続けてきた(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、205頁)。

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

ヨーロッパ人は漢字を“悪魔の文字”と呼んだといわれる。26字の組み合わせで言葉で綴っている彼らは、2000、3000という別個の文字を記憶することを大きな負担と考えた。第二次世界大戦後でさえ、昭和21年、アメリカ教育使節団は、報告書の一節「日本語の改革」の中で、「早晩普通一般の国字においては漢字は全廃され、ある音標式表記法が採用されるべきものと信ずる」と述べ、アメリカ軍総司令部に提出したようだ。
さて、漢字と教育との関係は古くて新しい問題であることを、冨田先生のエッセイを読んで痛感した。第4章「ベトナムに漢字教育の復活を」(120頁~132頁)とりわけ「漢字ルビとベトナム語教育」(130頁~132頁)、「漢字体の国際統一」(132頁)を読んで、そう感じる。
すなわち、ベトナムを含めた漢字文化圏の人々が無理なく共通の漢字に接近し、親しめる環境を作ることが急務であるとし、漢字を用いることが漢字文化圏の国々との経済的・文化的交流を飛躍的に高める効用を重視するとの立場から、中国(極端な簡体字)や日本の漢字体の多様化をもう一度見直し、国際的に統一する必要があると提言しておられる。

ところで中国語学者の阿辻哲次も『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』(PHP新書、1999年)において、コンピュータ社会で文字を機械で書く時代がますます進むために、漢字のコード体系を国際的に統一する必要が焦眉の急となっている点を力説している(阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年、212頁~233頁)。

現代では、「漢字文化圏」という集団が過去のような強力な文化的結束力をもたなくなっているのも事実だが、かつて東アジアに存在した「漢字文化圏」を正面に据え、その歴史的意義と今後の展望に関して、今後も熱心に議論されるべきであろう。
この点、大野晋は、1966年段階で既に、国語政策の課題に関して、次のような示唆的な言説を述べている。
「このままで行けば将来の日本語の中で漢語の占める役割は低下するであろう。しかし、日本語の造語力を回復する、新しい語彙の体系についての正しい見通しと方策とを持たなければ、依然として耳で聞いても簡単には分らないカタカナ英語などが、その後に入れ代るだけである。
 単なる復古主義では、今後の新しい機械文明による文字の広汎な伝達の必要に応えることができないであろう。それと同時に、行きすぎた便利主義によって、言語の厳密な表現、正確な表現を削り去るならばそれは文化の低俗化だけをもたらすであろう。言語や文字は、どんな文化においても、厳密に、正確に、正統性をもって維持されなければならない。言語における必要な改革は、常に公正に行なわなければならない。それによってのみ言語は文化の媒体、文化それ自身として人間生活に重要な貢献をするのである。この両者を考え合わせ、すでに戦後二十年を経て、新しい教育をうけた多数の国民が世に出ていることを見、その間で、どんな道をとることが最善であるかを発見すること。それが今後の国語教育の課題である。そのためにも、日本語の歴史を静かに真剣に顧み、そこから出発して将来の文化の発展へと進まなければならない。」(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、289頁~290頁)

【阿辻哲次『漢字の社会史』はこちらから】

漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年 (PHP新書)

【大野晋『日本語の年輪』新潮文庫はこちらから】

日本語の年輪 (新潮文庫)

日本語の変わりゆく意味


日本語の歴史には、意味の変化が見られる。例えば、「ありがとう」は、「有り難く」のウ音便で、もともと「めったにない」「珍しく貴重だ」の意味だったが、感謝の意を表すようになる。そして「さようなら」は「左様なら」「そういうことなら」と相手を肯定する意味から別れのあいさつの言葉になる。また「ごちそう」(漢字では「馳走(ちそう)」と書く)は、もとは「馬を駆って走り回る」の意味から「世話をする」、そして今では「おいしい料理」「もてなす料理」という意味に変化した。



≪漢字について その4≫

2021-03-19 18:34:30 | 漢字について
≪漢字について その4≫
(2021年3月19日投稿)

 


【はじめに】


 今回も藤堂明保『漢字の話』(朝日選書)をもとにして、『説文解字』について、そして擬態音をもとにして作られたとされる、動物に関する漢字などについて、解説してみたい。
 また、中国人にとって、羊はその生活に密接に関わり、そのことが漢字にも表れているようだ。宮下奈都の小説『羊と鋼の森』(文藝春秋)にも、この点がそれとなく触れてある。漢字の世界は奥が深いのがわかる。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<その4>
・『説文解字』について
・擬態語について
・中国人と羊について
・羊という漢字と小説『羊と鋼の森』
・「栗鼠」という漢字の読みについて
・紫という漢字

※「羊という漢字と小説『羊と鋼の森』」については、新たに書き下ろしてみた。この小説については、後日、紹介してみたい。







『説文解字』について


後漢の許慎という学者は、紀元98年に『説文解字』15巻を著し、9353字について、その成り立ちを解説した。
19世紀の末に甲骨文字(亀の甲や動物の骨に、殷の王朝の占い師が占卜の内容をメモしたもの)が現れるまで、この『説文解字』は文字解説の最も古い、かつ権威ある書物とみなされた。
今日は、甲骨文字および金石文字(青銅器や石に刻まれた文字)の研究が進み、とりわけ上古の漢語の発音を再現できるほどに漢語音韻論が長足の進歩をとげたので、『説文解字』は往時ほど権威を保てなくなったものの、それでも語源研究と文字研究の重要な資料である(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、225頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

擬態語について


擬態語について丸谷才一は面白いことを記している。
シェイクスピアの声喩(擬態語)の代表として、丸谷は「バウ・ワウ」という犬の声、「コックドゥードル・ドゥー」という鶏の声、そして「ディン・ドン」という鐘の音を挙げている。そしてこの擬声音ないし擬態音がむやみに多いのは日本語の特質であり、もっともこれはひょっとするとアジアの言語に共通する性格かもしれないと指摘している。また文章表現の秘訣として、この擬態音を濫用すると何となく幼児語めいた印象を与えてうまくないし、かと言って、きびしくしりぞけるときには、日常生活から遊離したような、冷ややかでそらぞらしい感じになりかねないという。卓見であろう(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、220頁~221頁)。

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文章読本 (中公文庫)

ところで、漢語は、この擬態音をもとに動物に関する漢字を創出していったことを藤堂明保は論じている。それは、藤堂明保『漢字の話 上・下』(朝日選書、1986年)という本の中で記している。
魚偏の魚だけでなく、ケモノ類の漢字についても、付言しておきたい。
ニワトリはケーケーと鳴くので、鶏(けい、唐代にはkei)といい、カラスはアーアーと鳴くので、鴉(あ、唐代にはa)というそうだ。トラはおそろしい声でホーホーとほえるので虎(こ、唐代にはho)と呼ぶし、キツネはクワクワと叫ぶので狐(こ、唐代にはhua)
という。イヌを犬(けん)と称するのも、ケンケン(kuen)と鳴くからであるようだ。ネコを猫(びょう)というのはおそらく「ミャオ・ミャオ」と鳴く声からきた擬声語であろうと藤堂は推測している(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、26頁、37頁、49頁)。

ただ、「虎(コ)」は、トラの鋭い牙に着眼した象形であるという解釈があり、むしろこちらが一般的であろう。そして「虍(コ)」はトラの頭の部分だけを取りあげた象形で、漢字の部首として「とらがしら・とらかんむり」と呼ばれている(遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]、99頁~100頁)。

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漢字の知恵 (講談社現代新書)

【藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈上〉 (朝日選書)

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

中国人と羊について

 
中国人が昔から羊肉を好んだことは、漢字からも窺い知ることができる。例えば、「善」(饍の原字。おいしい、よい)とか、「美」(「羊+大」からなる)など、「良い」という意味の字には、しばしば「羊」という字が含まれていることからもわかる。とりわけ、栄養の「養」(食物のうまみ)という字は、「羊と食」からなっており、しかも発音からみても、羊と養は同じである(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、45頁)。

羊という漢字と小説『羊と鋼の森』


ところで、羊という漢字については、宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年[2016年版])にも出てくる。

小説『羊と鋼の森』は、一見、不可解で不思議な題名である。その内容は、主人公・外村が、高校の時に、ピアノの調律師・板鳥さんに偶然に出会い、その音色に魅せられて、自らも調律師になろうと決心し、専門学校を卒業し、地元近くの江藤楽器に就職し、調律師として成長する物語である。

ラスト・シーンで、羊という漢字について、次のようにある。

「外村くんのところ、牧羊が盛んなんでしょう。それで思い出した、善いって字は、羊から来てるんですって」
「へえ」
「美しいっていう文字も、羊から来てるって、こないだ読んだの」
少し考えながら、思い出すように話す。
「古代の中国では、羊が物事の基準だったそうなのよ。神への生贄だったんだって。善いとか美しいとか、いつも事務所のみんなが執念深く追求してるものじゃない。羊だったんだなあと思ったら、そっか、最初っからピアノの中にいたんだなって」
 ああ、そうか、初めからあの黒くて艶々した大きな楽器の中に。
 目をやると、ちょうど和音が新しい曲を弾きはじめるところだった。美しく、善い、祝福の歌を。」
(宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋、2015年[2016年版]、242頁~243頁)

主人公・外村は、山で暮らし、森に育ててもらった。牧羊も盛んであったことを、江藤楽器の事務・北川さんが思い出して、「善」という漢字は、羊から来ているという由来の話を持ちだしたのである。そして、「美」という漢字も、羊から来ていると芋づる式に付けたす。また、古代の中国では、羊が物事の基準で、神への生贄だったという。その羊は、最初からピアノの中に、フェルトとして存在していたことに思いを致している。

著者も説明しているように、ピアノの音が鳴る仕組みは、鍵盤を叩くと、羊毛を固めたフェルトでできたハンマーが連動して、垂直に張られた弦を打つのである(宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋、2015年[2016年版]、62頁参照のこと)

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羊と鋼の森 (文春文庫)

「栗鼠」という漢字の読みについて


魚偏の次の話題、例えば動物として、「栗鼠」という漢字の読みについて、藤堂は面白いことを記している。
「栗鼠」と書いて、「リス」と読むのは、歴史的由来があるという。つまりそれは、鎌倉時代の日中交流の結果であるというのである。
鎌倉時代には、お坊さんが日中交流の立て役者で、南宋に留学して、リスということばをもたらしたそうだ。それまでは、「きねずみ」が通称であったらしい。
ところで、「栗鼠」は、漢音では「リッソ」と読むべきだが、13世紀の中国語では、栗(lit)のtが消えてliとなり、また鼠(発音∫io)の母音がuに変わったので、シュ→スと発音したという。
「リス」というのは、日本で中世(藤堂によれば宋元明)ふうの漢語をまねた発音で、これを「唐宋音」と呼びならしていると藤堂明保は解説している(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、57頁~58頁)。

紫という漢字


「色彩の漢字」の中でも「紫(むらさき)」という漢字については藤堂明保の解説の筆の冴えを感じるので、紹介しておこう。
「紫」という字は「糸と此(シ)」から成っている。「此」という字は「止(足先の形)」+比(ならぶ)という字の右半分」を組み合わせたものである。ふたりの人がきちんと並んだことを表すのが比例・比較の「比」という字だが、その半分だけをとれば「中途半端にならぶ」ことを表す。

ところで、左右の止(あし)を中途半端に並べたら、足の爪先は出たり入ったり、ぎざぎざしてふぞろいになる。そこで此(シ)を含む字は、「不ぞろいでぎざぎざする」という意味をもっていると藤堂は解釈している。例えば、柴(サイ)は長短ふぞろいである、山から刈ってきたたき木である。雌(シ)とは左右のつばさをおしりの所でぎざぎざと交差さえているメス鳥のことである。

そして「紫」に関しては、まずあかく染めた糸や布を、今度は青色の染料につけると、色がぎざぎざににじみあい、二つの色が交差したところに「むらさき」が現れるというのである。つまり「紫」とは、ふぞろいににじんだ中間色ということであると解説している。孟子は、「紫をにくむは、その朱(あか)を乱すことを恐るればなり」と言っている。あか色の中に、ぎざぎざとにじんで生じた紫色は、いかにも不純な乱れを感じさせ、実にいやな色だというわけである。このように、昔は紫は大変に人にいやがられた不純な色であった。
ただ、のち中国でも日本でも、むしろ中間色を尊ぶようになったため、「紫」は高級な色の仲間入りをしたから、不思議といえば不思議である(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、237頁~238頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

日本文学史で「紫」といえば、あの『源氏物語』の作者、紫式部が思い浮かぶ。物語の中にも、この紫色は重要な役割を演じている。源氏の憧れの人は藤壺であり、藤壺に縁のある藤の花は紫色である。そしてその藤壺の姪にあたる10歳の紫の上と、18歳の光源氏が初めて出会い、葵の上の没後、14歳のときに初めて結ばれた。『源氏物語』においても、紫という色は“宿命の色”であった。紫の上は源氏に生涯愛されながら、正妻になれず、子どももできないままであり、31歳のときには、女三の宮が源氏の正妻に迎えられるという不幸が襲いかかり、43歳で一生を終えてしまう(瀬戸内寂聴『源氏に愛された女たち』講談社、1993年、125頁~135頁)。
ともあれ、紫色は尊ばれた色でありながら、その昔、人にいやがられた不純な色であった。