歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪文章の書き方~澤田昭夫『論文の書き方』より≫

2021-12-31 18:32:35 | 文章について
≪文章の書き方~澤田昭夫『論文の書き方』より≫
(2021年12月31)
 

【はじめに】


澤田昭夫氏は、1928年生まれで、1951年東京大学西洋史学科卒業で、筑波大学名誉教授であった。近代イギリス史、ヨーロッパ史の専攻である。
以前のブログで、澤田昭夫『外国語の習い方―国際人教育のために―』(講談社学術文庫、1984年)を通して、英語学習の方法を考えてみた。
今回は、次の澤田昭夫氏の著作を通して、「文章の書き方」について考えてみたい。
〇澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]
〇澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]


【澤田昭夫『論文の書き方』(講談社学術文庫)はこちらから】

論文の書き方 (講談社学術文庫)

【澤田昭夫『論文のレトリック』(講談社学術文庫)はこちらから】

論文のレトリック (講談社学術文庫)

【澤田昭夫『外国語の習い方―国際人教育のために―』(講談社学術文庫)はこちらから】

外国語の習い方―国際人教育のために (講談社学術文庫 (666))





書くことのふたつの側面



澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]では、書くことには、ふたつの面があるという。
①資料を組み立てる技術的形式的な面
②集まったデータをもとに解釈する、理論化する、広い意味で説明するという内容面
両者は互いに密接につながっているが、澤田昭夫は第6章では第一の面をとりあげている。

トピック確定の5条件


選んだトピックを論文のトピックとして確定する前に、次の5点を確認しておかねばならないと澤田は忠告している。
①このトピックの研究に必要な資料があるか
②自分の力で扱い切れるか
③新しい研究トピックであるか
④自分はこのトピックに興味、関心をもっているか
⑤意義のある研究トピックか
とりわけ、①について、経験科学の領域でトピックを考える場合には、まずどんな種類の資料があるかを調べる必要がある。その際に、自分で抽象的にトピックを考えて後で資料をおしつけるというのではなく、資料のなかからトピックをうかび上らせるというふうでなければいけないという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、24頁~25頁)。

幹線のわかる構造


書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なことであると澤田は強調している。
イギリスの物理学者レゲットは、日本の物理学者が書く英語論文を直していたそうだ。日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドトラック)がたくさんあって、何が幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べている。これは構造的思考の欠如を指摘した批評だと澤田は解釈している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、103頁~104頁)。

起承転結ではこまる


『論文の書き方』と称するハウ・トゥーものの中には、わかりやすい文章を書くようにすすめる文章作法論が多いが構造についてふれたものは少ないようだ。たまに構造にふれているものがあると、「『起承転結』の法を用いよ」と記してあったりする。「起承転結」とうのは、「書き出し→その続き→別のテーマ→もとのテーマ」という漢詩の構成法」である。しかし、それを使って論文を書けば、レゲットが批判したように、何が幹線なのかよくわからないものが出来上がってしまうと澤田は戒めている。
澤田は次のような具体例を挙げている。

①起承転結の典型
 「この川べりで昔AがBと別れた」→「Bは悲壮な気持だった」→「昔の人はもういない」→「この川の水は今もつめたい」。これは「此地別燕丹、壮士髪衝冠、昔時人已没、今日水猶寒」(「駱賓王」)をもじったものという。
②この論法で論文を書くと次のようになるという。
 序論「天皇制は問題である」→第2章「天皇制についてはいろいろの見方がある」→第3章「イギリスの王制はエグバートから始まる」→結論「天皇制はむずかしい」
起承転結は、詩文の法則としては立派に役を果たす原則だろうが、これを論文に応用してもらっては困ると澤田はみなしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、104頁~105頁)。


構造的なアウトラインのある論文


やさしいことば、わかりやすい文章ということは間違っていないが、論文にとって大切なのは論文全体がやさしく、わかりやすく書けていることで、それは何かというと、構造的に組みたてられているということであると澤田は強調している。
「日本語は主語や目的語がはっきりしないことばだから、論理的にはっきりしたものが書けない」という意見についても、澤田は批判的である。日本語はたしかに、よく主語が省略されたりするが、前後の関係から主語が何であるかは推察される。問題はあくまで文章の問題ではなく、全体構造の問題であり、日本人でも、そして日本語を用いても、訓練さえすれば、構造的に整った論文を書くことができるはずであるという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、104頁~105頁)。

また、自然にアウトラインを発酵させることが大切であるという。論文の構造をチェックするために紙にアウトラインを書きだしてみることを勧めている。ちなみに絶対に避けるべきことは、何のアウトラインもなしに、猪突猛進、書き始めることであると注意している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、107頁)。

理解する読み方~「第10章 読む」より


澤田がいう「読む」ということは、単に情報や一時的娯楽のために「読む」ことではなく、感受性、想像力、思想を豊かにするために「読む」ことをさす。広く深く「読む」ことは、よく「書く」ことの大前提で、優れた論文や著作は、「読む」ことによって豊かにされた精神からのみ生まれてくるという。
「読む」には「書く」と同様に、一定の技術、「読む技術」(art of reading)が必要である。よく「読む」ことは「速読」と混同されがちである。「速読」も大切ではある。例えば、1分間に日本語なら少なくとも800字、横文字なら400語位を読みこなすというのは決して悪いことではなく、特に外国に留学する人にとっては不可欠の条件であろうという。
しかしそれより大切なのは、文字をことばとして理解するだけでなく、ことばの裏にある思想を理解する「読み」であると澤田は述べている。
「読む」ことを文法、論理、レトリックの立場からクローズ・アップして取り上げている。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、166頁~168頁)。

各部分の配分


論文の各部分、「序」「本体」「結論」の各スペースについては、きまった答えはないが、澤田は次のような大まかな目安を指摘している。「序」は5パーセント、「本体」は約85パーセント、「結論」は10パーセント。
「序」が「本体」の半分を占めたり、ひとつの章が「序」の半分になったりするのはつりあいの点から見て、あるべからざることである。このような過度の不均衡は論じ方の欠陥に由来しているという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、156頁)。

アドラーの三段階の読書法


アドラーは、1「分析的読み」、2 「総合的読み」、3「批判的読み」という三段階の読書法
この三つの「読み」で、構造的に「読む」つまり深く理解する習慣を身につけたら、それでももっとも堅実な「速読」の技術を体得したことにもなる。

文芸作品を「読む」について
ノン・フィクションの書物や論文は、歴史哲学、経済、自然科学などの専門分野別によって多少読み方の違いはあっても、先述した3つの「読み」で読めるとする。
それに対して、文芸作品には、論理的整合性などを要求することはできないから、その読み方はノン・フィクションものの読み方とは違うはずである。

それにもかかわらず、1「分析的読み」の3つの着眼点は次のようにいいかえて応用することができるという。
①「これは文学のなかのどういうジャンルの作品か」(小説、抒情詩、劇作など)
②「作品の統一原理は何か」(小説ならプロット)
③「どういう部分にわかれているか」(危機、クライマックスなど)
2 「総合的読み」の①、②、③つまりノン・フィクションものの「概念」「命題」「論議」に対応するものは、
①挿話、事件、登場人物、会話、感情、しぐさ、行動など
②場面、状況、背景
③プロットの展開ということになる。
(ただし、こういう対応は小説や戯曲に見られるもので、詩文にはあてはまらない)
3「批判的読み」の批判の尺度は、文芸作品の場合
「真実」が「事実」ではなくて「美」であるから、その「読み」の内容も変わってくるかもしれない
もちろん、偉大な文学といわれるものは、美的形式だけでなく、その裏に人生の真理のようなものを示唆している作品であろう。その限りにおいては、「真理」も文芸作品と無関係ではなく、したがってノン・フィクションの「読み」がもっと直接に生かされる。
しかし、いかに深い思想を内包した作品でも、文学作品である限り「美」の尺度によって測らねばならない。
そこで、次の5つが審美的批評の着眼点として考えている。
①「どれだけ統一、まとまりがあるか」
②「どれほど複雑、微妙であるか」
③「どれほど詩的真実性があるか」
④「読者の意識や感情を、日常性の渾沌から、どれだけはっきりと目覚めさせるか」
⑤「どれだけ完全に読者を想像の新しい世界にひきこむか」
「分析」「総合」「批判」の3つの「読み」で、構造的に「読む」つまり深く理解する習慣を身につけたら、堅実な「速読」の技術を体得したことにもなると澤田はみている。
結局ほんとうの「技術」、ハウ・トゥーは「やり方」(how to do)ではなく、「思考法」(how to think)、「理解法」(how to know)だからであると澤田は説いている。これは「読み」についてだけでなく、「書く」「話す」「聞く」のすべてについていえる真理だという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、180頁~182頁)。

総合的読みの中で、文章から命題・判断で大切なのは、判断を示す命題を含む文章を見出すことである。
例えば、アードラーの『本の読み方』に出てくる重要な命題を表現するのは「読むとは学ぶことである」という文章であると澤田は解説している。そういう文章は、段落の初めのほうにトピック・センテンスとして出てくることが多いので、戦術的には「段落の初めの方に注意を集中せよ」と「速読法」でいわれるわけである(173頁)。

文献カードについて


文献カードの存在理由のひとつは、一度使った資料を後でもう一度検証したいというときに、すぐにその所在を明らかにしてくれるということであるようだ。研究者は常に文献カードを携帯していて、資料が見つかり次第、それをカードにメモしていく習慣をつけるべきことを勧めている。
そして文献カードには批評・コメントといった情報を加えるとよいとする。批評・コメントというのは、利用した書物や論文に関する簡単な読後感のことである。

例えば、
・ 「根本史料による裏づけ優秀」
・ 「A点に関して詳しいが、B点について弱い」
・ 「教条的、公式的マルクシズム」
・ 「民族主義、ファシズム的宣伝」
・ 「学問的に無価値」
というような具合であるという。

長い文章でなく、英語でいう「電報文体(デモグラフィック・スタイル)」で、カードの下のほうに書いておくとよい。雑誌などに、自分の使った資料に関する書評がでていたら、その所在についての情報も記しておくと便利である。
この種の批評・コメントは、資料の用い方について貴重なコメントを与えてくれるし、いわゆる研究史的論文(ビブリオグラフィック・エッセイ)を書く場合に特に役立つ(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、55頁~56頁、61頁)。


「書く」ということ


「書く」というのは内容的には、資料に即して確立された正確なデータを、データに即して構成した一般概念によって説明、解釈することであると澤田は理解している。この基本的ルールを無視し、先験的な目的や主観的確信をすべてに先行させると、マルクスの『資本論』のように、1750年までにすべてのヨーマン(自作農民)が土地を失ったとか、18世紀の囲い込みが耕地から牧羊地への転換を命じたとか主張し、事実に適合しない「疎外」というような哲学的一般概念をたよりに、誤った因果関係を導き出すことになるという。同様なことは、マルクスと対決しながらも、歴史を社会学の理論に従属させたマックス・ウェーバーについてもいえるとする(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、140頁)。

よく「読む」技術は、「話し方教室」で教えているような心理的技術の問題ではないと澤田はみている。「人前で恐怖心をもたないように」、「相手の気持を察して話せ」というような心理学的勧告も間違いではないが、「話す」ことはやはり第一に文法、論理、レトリックの問題であると捉えている。
ただ、話をわかり易く「面白く」するために、論文を文字で書くとき以上にやさしい単語や文章を用いることが必要である。「書かれた論文」と違い「話された論文」では、「読者」が単語の意味を前後関係をゆっくり調べ直して探索することができないからであるとアドバイスしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、183頁、194頁)。

5W1Hについて


データの整理、説明のひとつの手がかりになるのは、現代のジャーナリズムでいわゆる5W1Hである。
5Wと1Hというのは、①who、②what、③where、④when、⑤why、⑥howである。
①who(誰)というのは、
 「誰がやったか」「誰がすべきか」「誰が必要としているか」「誰がもっているか」「誰がしてよいか」ということ。
②what(なに)は、
 「なにが問題か」「Aはなにか」「Aはどういう意味か」
③where(どこ)は、
 「どこで起こったか」「どこで生まれたか」「どういう場合に有効か」「どういう場合に可能か」「どこから生まれたか」「どこへ行くか」「どこをねらうべきか」
④when(いつ)は、
 「いつだったか」「今はどうか」「昔はどうだったか」「将来どうなるか、どうあるべきか」「時は熟していたか、いるか」
⑤why(なぜ)は、
 「Aはなぜそういったか」「Bはなぜそうだったか、そうであるか」「なぜここで、なぜ今、なぜあのとき」
 「なぜ知らなければならないか」「なぜ失敗したか」「どういう動作からか」
⑥how(どういうふうに)は、
 「どういう経過でそうなったか」「今はどうなっているか」「どういう手段で実現したか」「そのためにはどういう手     段が必要か」ということ。
5Wと1Hは、時間的アプローチと分析的アプローチの両方を別の形で表現したものといえるとする(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、125頁~126頁)。

ハウ・トゥーものについて


『論文の書き方』という同名の本には、有名な清水幾太郎のもの(『論文の書き方』岩波新書、1967年)があり、これはどちらかというと高尚な理論書である。それに対して、澤田は「序」において、自らの本を「もっと低俗な実用中心のハウ・トゥーもの」と謙遜している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、15頁)。

講演・講義についての澤田昭夫のアドバイス


講演・講義の準備には次の6点が必要であるという。
①聴衆と機会(おり)についての情報
②トピック選定
③資料集め
④資料の整理・組み立て
⑤ノート・メモ作り
⑥視聴覚設備の点検

例えば、③資料集めでは、「話す」場合も「書く」場合と同様に、資料集めが必要であり、話し手の主張には資料的裏付けがなくてはならないという。資料集めの時間が足りないときにものをいうのは、平生の読書で頭に入っている資料である。よく「話す」ことのできる人は、平生からよく読み、考える、知識や思想の豊かな人であると説いている。
また④資料の整理・組み立てに関しては、「口で書いて聞かせる論文」は「目で読ませる論文」よりも具体性を必要とするから、具体例をなるべく多くあげるようにするとよいとアドバイスしている。
よい話は「命題、根拠づけ、具体例」の集合である。「話し方」についてのある手引きは、よい「話し」の構成法としてPREPと称するものがあるという。Pはポイント(命題)、Rはリーゾン(根拠)、Eはエクザンプル(実例)を指す。もう一度Pがくるのは、よい「話し」は最後にもう一度論者の主張・命題を要約して繰り返すということである。
⑤ノート・メモ作りについては、一言一句すべてを書いたノートにせよ、メモにせよ、番号や見出しをつけて、主要命題や段落が何であるかを見やすいようにしておくことは大切である。

与えられた時間にうまくおさめるためのめどとして、一言一句を書き出したテキストなら、日本語で約300字~350字、英文で100~150語が1分間の話の分量だといってよいとする(189頁)。
日本語の場合、1分間の350字位が適当なスピードで、それをあまり越えると聴衆がついていけなくなり、ノートをとりたい人でも、ついペンを放棄してしまうと注意を促している(195頁)。

弁解がましい前置きは省略してなるべく早く「話の核心」(メディアス・レース)に入るのがよい。とりわけひとりの持ち時間が10分から20分しかないような自然科学系の学会などでは、余計な前置きは禁物であるばかりか、実験過程についての説明さえも省いたほうがよい場合があるようだと、木下是雄のみならず、澤田昭夫も述べている(192頁)。

研究・論文書きの時間表


研究・論文書きのしごとの段取り、時間表について澤田は興味深いことを記している。時間配分として、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)にもち時間の約3分の2を、論文書き(下書き、書き直し、総点検、清書)に残りの3分の1を使うのが原則であるという。
資料集め期間の8割強は資料研究にあてるのが普通で、これが論文を書くしごとの中核であると記している。つまり資料に沈潜して、それを研究し処理するのが論文書きの中心的しごとだという。
そして重要さの点でそれにまさるとも劣らないのは、トピック選びである。研究する、論文を書くというしごとの第一の課題は、何について研究し、書くかというトピック選びである(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、22頁)。

水もれのない論議・噛み合う反論


美しい論争、討論の前提は、論議の整合性、鋭さということである。
よくまとまった、説得力のある議論について、英語で「水もれしない」(hold water)という比喩的形容があるという。証拠資料データから主張命題への発展、一命題から次の命題への、前提から結論への発展がきちんとスキ間なくまとまっていて「水もれ」箇所がないことを意味すると説明している。
そして鋭い論議は、決して大胆で一般的な命題から成り立つものではなく、例外や限定条件をも考慮した、きめのこまかい命題から成り立っている。
論争における反論は、相手の主題命題にピッタリより添って、マークし、常に「水もれ箇所」がないかと気をくばり、あったらただちにそこを突くようなものでなくては反論にならないという。
澤田は例えば、次のような点を考えて「水もれ箇所」を発見、攻撃しなければならないとする。

①「主張命題の根拠となるデータは正確か、信憑性があるか」
②「資料は党派的偏見のあるものではないか、もう古くなってはいないか」
③「例証の例は典型的、代表的例か」
④「概念の定義が不充分ではないか」
⑤「命題は一般化できるものか、特殊ケースではないか」
⑥「あげられた原因は唯一の原因か」
⑦「示された因果関係と矛盾する実例はないか」
⑧「大前提は正しくても小前提が間違ってはいないか」
⑨「この命題は論議と無関係なものではないか」
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、202頁)。

「聞き上手」


話を構造的に理解しようとする人が「聞き上手」であるが、それには次のような点に留意するとよいという。
①「どういう種類の話であるか」
②「どういう問い、何についての話か」
③「どういう目的をもった話か」
④「どういう概念が重要か」
⑤「どういう主張、命題が、どういう根拠をもって提出されているか」
⑥「出発点と結論はどういう筋で結ばれているか」
⑦「概念や命題から見て、話し手の立場はどういうものか」
こういう構造的聞き方ができなければ、外国語の音声の「ヒアリング」がいかに上手になっても、「理解する聞き方」をマスターしたとはいえないという。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、205頁)。


ノート、メモをとる


批判的に理解しよう、あとでもういちど「聞いた話」についてじっくり考えようとする人は、ノートやメモをとる。要領よくノートするとは、たびたび出てくる単語や句に適当な略号をあてるというだけではなく、全体の構造、発展の筋が、あとで読んで容易にわかるようにノートするということであると説く。
「聞く」場合には、問題、用件の構造をしっかり聞きとり、要領よくメモをとることが肝心である。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、206頁~207頁)。

「記憶」について


弁論・レトリックの5つの構成要素として、
①構想、②配列、③修辞、④記憶、⑤発声・所作が挙げられる。
レトリックの第4の構成要素の「記憶」について澤田は面白いことを記している。
古代の弁論家は絶えず記憶力を磨く練習を行なっていた。記憶力のよい人は在庫品の豊かな倉庫のようなもので、記憶力の弱い人よりはるかに優れた弁論家になるからである。
もちろん、イスラーム文化圏や中国文化圏での伝統的教育のように、経典や戒律をただ丸暗記させるだけなら、ものごとの真の理解を欠いた、したがって応用能力のない人間を作り出す危険があるという。
今日先進国の教育界では暗記を無視する傾向が強いようだ。これはかつての「理解なしの丸暗記」に対する反動かもしれないが、「理解を伴った暗記」は教育においても学問研究においても大切であると記憶の意義を強調している。
澤田の母はフランス語でラ・フォンテーヌの『寓話』の主なものをすべて暗記していたが、同時にそれをよく理解していたので、折りにすれてそれを日常生活の具体的問題に応用することができたと回想している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、214頁、221頁~222頁)。
⇒ブログ「フランス語の学び方」へ

最後の総点検


清書をする前の下書きの段階で、全体を読み直して、最後の総点検(チェック)をするのがよいという。
その際に、澤田も
・ 各段落はトピック・センテンスでまとめられているか
・ 一段落が長すぎはしないか
・ 段落の切り方が不適当ではないか
・ 一段落から次の段階への流れはスムースか
これらの諸点に注意して、論文全体が明瞭で、正確で、無駄なく整理され、淀みなく流れるようにでき上っているかをチェックすることが肝心である(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、152頁)。

文章論を通しての日本人論


澤田昭夫は「はしがき」において、日本人は外国語に弱いといわれるが、日本人が必ずしも生れつき外国語学習能力に欠けているとは思われないといっている。日本人が外国語に弱い最大の理由は、体系的な練習を勤勉に続けないということであるとみている。しかし、勤勉な日本人の場合でも、外国語の体得を妨げている教育環境がある。それは日本人が自分の考えをまとめて有効に表現するという訓練を日本語でも受けていないということであると澤田は考えている。
澤田と分野は違うが、工学・技術関係の論文翻訳をしている人によると、提出される和文論文の中でそのまま英訳できるのは5パーセントにも及ばず、その理由はそもそも和文の原文がまともに書かれていないことにあるそうである。つまり、日本人の外国語学習問題は、外国語以前の問題だというのである。
一方、日本人は余韻、余情、言外の意味を特徴とする俳句的詩文の領域では世界に誇る伝統と才能をもっている。ヨーロッパではfeuilleton(草の葉)と呼ばれる。徒然草的随筆にかけては、日本人は天才的才能に恵まれている。ところが、あまりにそのような才能に恵まれているために、日本人は学問的、理論的主張をする場合にも、それを俳句的、徒然草的なものにしてしまう傾向がある。その好例が『朝日新聞』の「天声人語」であり、あの欄には、文学的には優れており、日本人の読者なら読んでなんとなくわかったような気になるけれども、外人にはチンプンカンプンの論評がよく見られるという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、4頁~5頁)。

だいたい日本人は感情的、情緒的な作文や随筆を書くのが得意な文学的民族であるが、理知的、論争的な説得のまずい民族である。言い換えれば、日本人は作文的民族、非論文的民族とでもいえると澤田はみている。
だから、昔から大学の先生でも、学生に対しても作文的発想で論文の指導をする人が多かったようだ。そういう指導を受けた昔の学生が今大学の教官になり、再び作文的論文指導を行い作文的な論文テーマを出している。論文的な設問のしかたを知らない先生は高校にも大学にも少なくないと澤田は批判している。
論文と作文の違い
論文も作文も広い意味での作文、コンポジションに違いないが、論文は論議し、主張し、分析し、判断することを主眼にしている。それに対して、作文は情景、印象、体験などの描写を中心にしている。論議は問いと答えで成立するから、その題は根本的に問いになるという。
例えば、「ドイツ人について」というのは作文のテーマには結構だが、論文の題ではない。問いになっていないからと澤田は説明している。「ドイツ人が明治の日本に与えた影響の利害を論ぜよ」であったら、論文の問いらしい問いである。「・・・はなぜか」「・・・を論ぜよ」というようなのが論文の問いであるとしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、247頁~249頁)。

澤田が付録の「誤った論理」の中で、歴史学者らしい例を挙げている。
「不当な因果関係設定の誤り」の一つとして、時間的前後関係を論理的因果関係と混合する場合を指摘している。その例として「産業革命の後に欧州列強による植民地征服が起こったので、後者の原因は前者である」とする例を挙げている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、137頁)。

論文は主に一定の問いに対して答え、論議するものである。理由を分析説明し、ものごとを比較し、評価する、要するに考え、判断するという知的活動の表現である。
歴史的な問題を扱う場合、過程描写が因果の分析と密接につながってくることが多い。さまざまな個性を持った人間が作り出す歴史のできごとは、個性のない自然界のできごととは違い、「Aなら必ずBになる。Bになったから必ずAが原因していた」というように普遍法則によって説明できないからである。特定の状況、過程から生まれた特定の因果関係があるからである(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、248頁~249頁)。

資料批判について


資料批判というのは、簡単にいえば、手にいれた情報資料がほんものか、信頼できるものかというテストである。正しく、信頼すべき情報だとわかったら、初めてそれを用いて、できごと、現象についての理論的説明ができるようになる。
自然科学は理論的説明のたしかさを実験で検証できるが、自然科学以外の領域では実験によって理論の確認や修正ができない。またそれだからこそ、人文科学・社会科学の領域では、資料批判がことさら重要になる。人文科学・社会科学の領域での学問の進歩は、新しい資料の発見とか資料の読み直し、批判のし直しによる進歩であると澤田は理解している。
資料批判には次の2つのテストがあるという。
①正真正銘の資料か=外的批判(external criticism)
②どれほど信頼できるか=内的批判(internal criticism)

①外的批判の検証箇所
・ 「この資料にまちがっているところはないか」
・ 「盗用部分はないか」
・ 「改ざんされた部分つまり本来なかったものをつけ加えたり、本来あったものを落としたりした部分はないか。いやこれは偽作ではないだろうか」
・ 「出所不明の資料については、誰が書いたか。いつ、どこで書かれたか」
これらの点を調べる。外的批判によって正真正銘の資料を確保するには、筆蹟とか単語や文章表現とか文書様式、さらに紙やインクの質などをチェックすることが必要になる。
②資料の信憑性についての内的批判は、資料分析ともいわれ、次の9点に関するテストである。
1.ことば・文章の意味
2.由来
3.無理・矛盾
4.可能性・蓋然性・確実性
5.正確度・批判性
6.報道能力
7.意図
8.偏見
9.研究者自身の偏見・能力

以上、資料批判のしごとは、専門の歴史家以外には不必要な七面倒くさい手続だと思われるかもしれないが、外的批判の対象である資料改ざんも、内的批判の対象である資料の歪曲も、重大な結果を招き得ると注意している。
資料の提供者がどれだけ真実を報告し得る状況にあるか、という内的批判の原則を知っていれば、全体主義国家の四民相手のインタービューにどれだけ資料価値があるかがわかる。
例えば、4.と9.について澤田は次のように述べている。
4.可能性・蓋然性・確実性について
この資料の記述や説明は現実に「ありそうなこと(プロバブル)」だろうか、合理的に「可能(ポシブル)であろうか」という問いがくる。理論的にあり得ることとあり得ないこと、理論的にあり得ても実際にはありそうもないこと、理論的に可能だけでなく実際にありそうなこと、これらを「確かにあったこと」と区別しながら資料を見ることが必要である。
9.研究者自身の偏見・能力
研究者が、偏見によって、一定の種類の資料や一定のできごとを無視してはいないか、こういう自己批判を忘れないことが必要である。また研究者の能力については、澤田は次のように考えている。すなわち、自分の研究は、トピック選定の時点で、一応今の自分の能力で扱えるものときめたはずであるが、研究の過程で、さらに知識を広め、深める必要があるのに気づくかもしれない。自分の能力の限界というのは、ある程度相対的なものである。何についての知識が足りないか、常に自問しながら、隣接学問分野や新しい分野の学習を体系的に進めていけば、能力の限界はある程度まで克服されるはずであると澤田は励ましている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、92頁~97頁)。


答案を書くための6つのポイント


①「問いは何か」をはっきり見きわめ、それに正面からぶつかる
②論理的に首尾一貫した、骨組みを考える
③単語、表現、いいまわしを明確にする
④単細胞的思考ではなく、きめの細かい複雑(難解ではない)思考を働かせる
⑤内容を正確に、豊かに、独創的にする
⑥出された題が作文的テーマだったら、自分でそれを論文的な問いに直して答える
とりわけ③について、論文に最も大切なのは明確さで、それは第一には骨組み、筋書の明確さに依存するが、第二には、表現の明確さに依存する。わかりにくい、あるいはあいまいで多義的な表現を避けるとコメントしている。

イギリスの大学入学資格試験の問題を2例あげている。
「なぜイギリスは1918年にドイツと戦うことになったか」
「イギリスは1950年代の国際政治に指導的役割を果たしたか」
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、251頁~252頁)。


澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]

澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]

第3章 だめな「論文の書き方」参考書


市井に氾濫している「論文の書き方」参考書のだめな理由を、澤田は分析して、次の6つの理由を指摘している。
①論文の書き方とうたいながら結局は文章作法、表現中心の作文論になっていること
②参考書の理論篇と実践篇との間の食違い、ないし矛盾
③理論のあいまいさ、非論理性と複雑さ
④具体性のない、抽象的アドバイスが多すぎること
⑤模範解答が支離滅裂で、どう見ても模範にはなっていないこと
⑥構造的な論文を書くための単純で本質的根本的な原則を示さず、その代りに小手先の姑息な(結局あまり便利でない)便法を伝授しようとしていること

①について
論文論が文学的文章論にすり替えられる結果、起承転結という詩作の原理が論文書きの原則としてすり替えられることになると澤田は批判している。この点、某国立大学の入試実施委員長までが起承転結をすすめるのだから、参考書出版社がそれをすすめるのも当然かもしれない。しかし、起承転結を論文書きの原則としてすすめる参考書は落第であると澤田はみなしている。
また起承転結が論文書きの原則として宣伝広告されると、論文書きの真の構成原則である「序・本論・結び」までがいつの間にか起承転結に転化されてしまうという。例えば、序は起に、本論(一)(二)が分けられて、本論(一)が承、本論(二)が転、結びが結に転化される。
序・本・結の序は本来問であり、結はそれに対する答である。起承転結の原則で去勢された序・本・結の原則は本来の応答のアウンの呼吸を忘れた骸(むくろ)と化してしまうという。序はたんなる思いつきの導入部、結びはそれと直接関係のない思い入れになってしまうと澤田は危惧している(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、30頁~39頁)。

澤田昭夫の基本的視点について


①澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]
②澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]
①は、かなり体系的であり、②はさほど体系的ではなく、もっとインフォーマルで、どの章も独立しているので、どの章を先に読んでもかまわないという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、4頁)。

基本的視点は同じである。
①論文書きというのは、文章作法の細かい戦術よりも、内容構造の大局的戦略が大切だという視点。つまり論文論はことがらの内容に立ち入った構造的論文構成の戦略論であるという視点。
②論文書きはレトリックの問題だという視点。次の4点がレトリックとしての論文論の主張であるという。
 ⓐいわゆる文章作法が修辞(エロキューション)に関する戦術であるのに対し、構造的論文書きの戦略とは構想(インヴェンション)と配置(ディスポジション)の戦略だということ。
 ⓑ構想、配置を中心に論文論を展開すると、それは問答篇(erotematic エロテマティック)になる。いかに問を考え出し、いかにそれに答えるかという問答論になるということ。澤田は本書でとくに強調している。
 ⓒレトリックとしての論文論は、話す、聴く、書く、読むの4機能を統一的に考える。
 ⓓ問答論としてのレトリックという立場からは、人文科学の論文、社会科学の論文、自然科学の論文であろうと、論文は論文であるかぎりすべて一定の共通構造をもつ。
③日本人が学問、外交、政治、経済、技術の分野で、世界的に競争、協力して行くためには、このレトリックとしての論文書き技能を体得すべきだという政策的視点。そしてレトリックに長ずれば、論文書きだけでなく外国語にも強くなる、レトリックがだめだと日本語を用いてさえも説得力をもって語ることも書くこともできない。
④本書は、『論文の書き方』と同じように、科学方法論やレトリックの理論的問題に関わりながらも、純粋な理論書ではなく、論文や報告をどうまとめるかについての実用書である。たとえていえば、ヘクスターの「歴史のレトリック」に近い、理論的実用書として書かれたものであるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、4頁~7頁)。

なお、澤田はわからぬ論文を書くフランス人大学者もいるとして、フランスの「新しい歴史」「アナル・グループ」の大長老F.ブロデルBraudelを挙げている。その大著『地中海とフィリップ二世時代の地中海世界』は、眼もくらむような壮大な規模と博学と名文で特徴づけられる作品ではあるが、フィリップ二世時代の地中海世界について要するに何をいおうとしているのかわからないと澤田は批判している。
詳しくは、澤田昭夫「More about maps than chaps―ブロデルの地史的構造史批判―」(酒井忠夫先生古希祝賀記念の会編『歴史における民衆と文化』国書刊行会、1982年、915頁~931頁を参照せよという。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、8頁注5)。

歴史学者としての澤田昭夫の立場・見解について


論文書きの大前提は、問題の場から問を切り出すことである。
その問いかけと理論と実証とは相互にどういう関係にあるか、歴史論文は本来、できごとの初めと終りに到る経過についての物語である。そこでは必要な問の「手がかり」はまず「どうして」「いかに」である。しかし同時に「いつ」「どこ」でもあり、「何」「なぜ」でもある。
歴史論文は物語であると同時に描写、説明、論証でもあるという多面性をもっているわけである。だが、歴史学はまず「いかに」を中心に考える学問である。なぜかというと、「なぜ」を先にもってくると、歴史学は社会学的ないし哲学的理論に先立って、非現実的になる危険があるからである。
「何が、どう起きたか、どういう経緯でなぜ今の姿になったか」という歴史的問いかけの対象になる。これは歴史学だけに関わる話ではなく、歴史的側面を扱うかぎり、歴史的問いかけをするすべての学問に関係する話である。問いかけの具体例になじみ、なれるのがよい論文書きの必要条件である(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、84頁~85頁)。

ヴェーバーの理論は修正を迫れてくる。事実を理論に優先させるのが経験科学の原則だからである。プロテスタンチズムと資本主義の因果連関理論だけでなく、基本名辞、基本概念つまり「ピューリタニズム」「資本主義」などの概念の内容も修正されねばならない。これらの概念は大ざっぱで、多義的過ぎることが明らかになってきた。
このように問、仮説としての理論をたずさえて現象に向かい、事実によって理論を修正して行くというのは、歴史学だけでなく、すべての経験科学の基本的方法である。この方法によって、統合的な真実像に近づく。真実接近のための有意義な役割を果すために理論は常に現実に密着し、現実のなかから抽象され構成されねばならない。
ヴェーバーの諸概念(理念型といわれる観念型)やそれによって構成された理論は、根本史料への沈潜のなかからにじみ出てきた概念や理論ではなく、後世のいくつかの二次史料を読んで浮かんできた天才的思いつきをもとに組み立てられたものであるように見える。つまり現実との密接な接触の産物ではなく、むしろ主観的観念的操作の結果であるように見える。

ふつう社会学のアプローチである、この能動的積極的な抽象化に対して、歴史学本来のアプローチプは後者の受動的な抽象化である。ヴェーバーはその意味で歴史学者よりもむしろ多く社会学者だったといえる。
「歴史学の本来のアプローチ」とは違い、史料への沈潜という歴史学本来のアプローチから遠ざかって、社会学的観念論に走る傾向が、フランスのアナール・グループやドイツの社会史学派のなかに見られる。社会学であれ、歴史学であれ、学問が学問であるための、学問を詩から真実に近づけるための第一そして至上条件は、現実との密接な接触、史料やデータによる理論の絶えざる検証であるはずである。
歴史学も問の学であり、問は命題であり、仮説としての理論であり、仮説としての理論は根本史料を通じての現実との接触から生まれ、常にそれによって育まれ真実に接近する。そして問自体も決して「やぶから棒に」観念的に生まれるべきものではなく、史料への沈潜を通じて浮かび上ってくるはずのものである。これがヴェーバー批判かたがた澤田が言いたかったことである。

澤田は、歴史学の問は「いかに」中心でなければいけないという。ヴェーバーはそれに反し「なぜ」中心に理論を展開した。
しかし「いかにして起こったか」と問いかけながら、経済史のできごとの現実の経過をつぶさに調べて見ると、まず「なぜ」中心に展開された「プロテスチズムと資本主義」の理論は誤っていることが解った。「なぜ」の問に答える因果関係の理論は必要ではあるが、それは「いかに」という問に答える現実感覚によって導かれ補正されねばならない。

ここで澤田は、歴史的事件たとえば「ヒトラーの権力掌握は何に起因するか」という問を取り上げている。1933年1月30日のヒンデンブルク大統領の決定(ヒトラー首相任命)にまつわるミクロの政治取引過程(いかに)の解明を怠り、権力国家思想や民族主義の漠然としたマクロの精神史的ルーツ(なぜ)をたどると、領主権力の絶対主義と反ローマのドイツ民族主義を煽ったルターに答を見出すというグロテスクな結果になるという。
歴史学の、歴史的アプローチが「いかに」中心でなければならないということの意味はここにあると澤田は主張している。歴史 historyは何よりも「ものがいかにAからBへと移り変っていったか」というstoryを物語にすることであり、ストーリーは連続する事実経過の詳細抜きでは成り立たないからであるとする。それがないと歴史は理論倒れになり、真実から詩の世界への逃避行が始まるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、91頁~96頁)。

歴史論文について


描写、物語を中心にものを書くのは文学者の仕事であるが、歴史論文も根本的に物語である。ただ文学の物語は虚構を用いてもよろしいのに対し、歴史論文の物語は真実でなければならない。学術論文は物語だけでなく、描写も含んで書いてよいのだが、学術論文はあくまで真実の説明や論証であるから、そこで用いられる描写や物語は真実でなくてはいけない。
よい歴史論文はクロノロジー(年代的経過報告)と分析とを適当に兼備したものだといわれる。つまり物語と説明ないし論証を巧みに綾なしたのがよい歴史論文だということである。

一方、古典的レトリックの法廷弁論は論証中心、審議弁論は説得中心といえる。論証中心というと今日でも法学関係の論文が多いわけであるが、争点(issues、イッシューズ)について論ずるかぎり、どの学問分野でも論証はある。
ただし、ホテル火災の責任問題を論じる法律的な論証論文でも、ことがらの経過をたどる物語が必要でしょう。
問の歴史を顧みながら新しい問、新しい答に向かうというのはすべての学問研究の定石であるが、歴史学の場合には最初の問いかけも、昔の問に対する批判的問いかけも、常に史料との絶えざる対決を通して、史料の読みのなかから、にじみ出てくるものでなくてはいけないと澤田は厳しい見方をしている(また他の学問の場合は「史料」のかわりに「現実のデータ」といったらよいだろう)。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、69頁~71頁、106頁)。

比較読書法について


比較読書法はアドラーが『本を読む本』(外山滋比古・槙未知子訳、日本ブリタニカ、1978年)の中で、論文を書く研究者のために必修の読書法としてすすめているものである。アドラーはシントピカル(共通主題の)またはコンパラティヴ(比較的)読書法といっている。その要点は以下のような5段階である。
①関連箇所を見つけること
②著者と折り合いをつけさせる
③質問を明確にすること
④論点を定めること
⑤主題についての論考を分析すること
比較読書法というのは、自分がかかえている特定の問に関係したことについて何人かの人がものを書いている場合、同様な問に異なった人々がどのように違った形で答えているかを調べるための読書である。
澤田は次の5つの段階にまとめている。
①重要箇所を発見する
②名辞を決定する(タームズ・ディサイド)
③著者たちへの問を準備する
④争点(イッシューズ)を明らかにする
⑤論議の分析
①について
目を通したいくつかの本(あるいは論文)のなかで、自分のニーズにとって大切な箇所はどこか、それを見い出すこと。例えば、「科学方法論史」について調べていたら、5点の書物ないし論文のうち、Aの25ページ、Bの126ページ、Cの320~350ページ、Dの2ページ、Eの302ページと、必要な箇所だけをそれぞれの作品から拾い出すことが第1段階のしごとである。
②について
理解するための読書のひとつの大切な条件は、著者がどういう名辞(具体化された概念)を使っているかを調べることである。研究者が5人なら5人の著者の考えを参照したうえで、自分なりの議論を展開しようとする場合には、5人のそれぞれが使っている名辞を、自分なりにまとめて共通の統一名辞を作り出すことが必要になる。
相手を理解するだけの読書の場合には受動的に読んでいたが、相手の所論を利用して独自の考えを展開しようという場合には、自分の方が能動的になり、5人の著者に、自分の調子に合わせてもらうことになる。
例えば、著者Aは「理想型」、Bは「モデル」、Cは「パターン」、Dは「観念型」、Eは「パラダイム」と異なった名辞を用いて同様なことを意味している場合、自分はそのすべてを「モデル」という名辞で統一して議論を展開するということである。
③について
統一名辞が決まったら、それを用いて各著者に対し統一共通の命題を疑問文の形で提示するということである。例えば、「モデル」という統一名辞が決まったとすると、科学方法論史に関係ある論述を残した5人の著者に対し、「モデルは実在のなかに基盤をもっているかどうか」という共通の問を向けることである。
④について
自分が提示した共通の問に対して5人の著者がそれぞれに返す答、L、M、N、O、Pを確かめることである。共通の問に対して違う答が出てくれば、そこに争点があるわけである。例えば、さきの問に対し、Aは「モデルはまったく主観的な約束事でしかない」と答え、それに対してBは「モデルは実在の模写である」と答え、Cは「実在に近づくための仮説である」と答えたという場合である。
⑤について
同じ問に対して出された異なった答、争点を整理し、なぜAはL、BはM、CはNというふうに違った答を出したのか、その理由を考察し、その結果、L、M、N、O、Pいずれもできればそれらすべてを超える新しい独創的、綜合的立場Qを考え出す道を備えることである。
Qを発見できなくとも、L、M、N、O、Pのうちどれがもっとも真実に近いか、それはなぜかを明らかにすることができれば、「論議の分析」は成功したといえる。
自分のニーズに従って、多くの資料のなかの必要な箇所だけに集中する。これは澤田の『論文の書き方』のなかで、「自分の研究目的Bに関係あるAの部分、BとAとの交叉部分だけを大切にせよ」と述べたのと対応するという。比較読書法というのは、研究カードによる資料の整理法と対応するものであり、比較読書法は論文を書く研究者のための必修の読み方なのである。
そもそも統一的概念と統一的問という、いわば熊手をひっさげて、多くの資料の山をさらってみるのが研究(リサーチ)である。そしてその作業の整理手段が「一カード一項目」のあの項目になる。
比較読書法は何人かの著者の論文を読む場合だけでなく、一人の著者の一冊の著作や論文を、ひとつの特定な観点から体系的に読もうとする場合にも必要になる。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、178頁~182頁)。

史料の引用について


長文の史料を引用するのが、わが国の日本史、東洋史学界の風習だが、同じ日本史、東洋史の研究論文でも、国際学界で通じるような論文だと、ほんとうに大切な部分の史料引用が数行あって、あとは自分のことばで要約し、論文全体が滞りなく読めるようになっている。とにかく論文は、渋滞のない語りになっていて、すらすら読めるものでなければならない(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、250頁~251頁)。

注のつけ方と注の数について


注は出典を照会する場所である。英語では注でレフェランス reference(参照、照会)が示されるといわれる。ある主張や解釈の根拠が何であるか、どういう資料や権威に基づいているか、その出典を照会するのが注の大きな機能のひとつである。
また注はお世話になった人へのお礼(英語でいう acknowledgement)を述べる場でもある。注は証拠だてや感謝の場だけでなく、さらに読者への情報提供の場でもある。必要最小限の情報は主として本文で提供するが、それを補足する情報、本文に入れると場所をとり過ぎたり、読みの流れを滞らせたりするが本文の理解に役立つ情報、読者がさらに詳しく調べたいときに役立つ情報、そのような情報を提供する場が注である。たとえば、自分の扱う問題について従来どのような研究がなされてきたか、そのような研究史の概要は、本文とくに序の部分で述べるが、くわしいことは注に委ねるわけである。
このように読者に役立つ情報の注が多いことは、論文の価値を高める。「この論文には有益な注が多い it has many informative footnotes.」といわれて好評を博すことになるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、248頁~250頁)。

論文の注を適度に押さえる工夫が必要である。哲学や神学論文で特に独創的なものになると注は少なくなる。一次史料を用いた、国際的に通じるヨーロッパ史の論文の場合、400字原稿用紙50枚程度の論文に、50から100位の注があるのが普通であるという。

一方、新資料をもとにした独創的論文ではなく、論文書き能力訓練のための学部学生期末レポート(25枚程度、英語なら3000語程度)であれば、10点位の単行本や雑誌論文を参照し、注の数は25前後というのがひとつのメドになるという。
根本は論文の信頼性、論証・説得力を保証するために適当な注をつけることである(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、251頁~252頁)。

ブック・リポートと書評論文


ブック・リポートは一冊の書物の紹介論文である。つまりブック・リポートは読者の結果を小論文にしたものである。

ブック・リポートは一冊の本がどういう本であるかを一般的に紹介、説明するものであるのに対し、書評は評価、価値判断を含んだ、より批判的な読書の報告である。読みの報告でも「批判的読み」の報告が書評である。
書評には、原稿用紙2~3枚のものから、20~30枚のものもある。
一冊の本を評するものも、同様なテーマを扱った数冊の本を同時に評するものもあり、厳密には前者が書評であり、後者が書評論文(レビュー・アーティクル)である。書評となるとブック・リポートとは違い、準研究論文であり、書評論文は研究史回顧や研究報告と同類のれっきとした研究論文である。
新刊紹介やブック・リポートは学部の一年生でも簡単に書けるはずであるが、書評や書評論文はかなり年期の入った研究者でないと書けない。なぜかというと、書評や書評論文が問う問は、「この本ないしこれらの論文はどれだけ価値のあるものか」という評価に関する問だからである。それに答えるにはかなり広く、深い視野と知識が必要だからである。
書評が答えるべき問には、次のようにブック・リポートにも出てくるものもある。

・ 「この著作の主要トピックは何か」
・ 「著者の意図、目標は何であったか」
・ 「どういう概念を用いているか」
・ 「どういう資料、材料を用いているか」
・ 「どう構成されているか」
・ 「解釈の中心点は何か」
しかし本来書評に期待される問は、次のようなものであるという。
・ 「他の研究者はこの点についてどう考えているか」
・ 「用いうる資料をすべて用いているか」
・ 「新しい資料を用いたか」
・ 「作品の構成は問題の解決に適しているか」
・ 「著者の意図は十分実現されたか、目標はどれだけ達成されたか」
・ 「何が重大な欠点か」
・ 「何がこの本の貢献か。どの点でわれわれの知識を豊かにし、従来の定説をくつがえしたか」
・ 「残された課題は何か」
・ 「この作品のメリットとデメリット、損益の差引計算はどうなるか」
きびしくも公正な書評技能を身につけるためのひとつのよい方法は、国際的に通用する学界誌にでてくる大家の書評につねづね目を通しておくことである(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、197頁~199頁)。

答案の書き方


答案もひとつの論文である。論文ではあるけれど、きわめて短時間でまとめねばならないという特殊な制約をもったのが答案論文である。答案は迅速に要領よくまとめなければならないが、受験雑誌社がばらまく「答案の書き方」的チラシには「自信をもって」「虚心(きょしん)になって」「温かい心をもって」という心理的アドバイスを見かける。しかしこれでは始まらないと澤田は否定している。

試験答案を迅速に要領よくまとめるためにもっとも肝心なことをひとつあげよといわれたら、「問題の問が何か、どういう種類の問かをよく確かめ、それに答えること」と澤田は言い切る。問をたしかめ、それに十分に答えるには、問の姿、問の背景や歴史、前後関係を知ることも必要になる。十分に答えるには、主問から派生してくる副問にも答えねばならない。ひとつの主問にいくつかの答が可能なら、それらを比較考察し、もっとも合理的と思われるものを、最終的答として論証することになる。
答案を書き出す前には必ず別紙に、見出し(トピック)アウトラインで結構だから、アウトラインを作り、序の問と本論での展開、結びの答の相互のつながりの大筋をはっきりさせることが大切であるという。
アウトラインを作るためには、持ち時間の少なくとも4分の1をあてがいたいものである。40分で800字という論文試験なら、少なくとも10分をアウトライン作りのためにとっておく(800字をきれいに書き上げるには30分が必要である)
書き終ったらば、結論は問に答えているか、本論はその答を肉づけているか、それをアウトラインに照らしてチェックする。

よい答をかくための基本準備は、平生、広い分野にわたる基礎的事実や情報を暗記、蓄積しておくこと、そしてもうひとつ、細かいこと、偶有的なことを大きい筋、根本的、本質的、原理的なものと関連させて見る習慣を平生から身につけておくことである。平生からそういう準備をしておいて、いざ答案を書くという時には、何が問であるか、それをたしかめ、見出して、それに答えるならば、その答には味と深みさえ出てくる(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、51頁~57頁)

難解な文章とやさしい文章について


論文論は戦略論であって、戦術的な作文論ではなく、論文書きの枢軸は文章(センテンス)作りではなく、文段(パラグラフ)作りであると澤田は主張している。文章論については多くの著述が出ているので、本書では文章の問題は深入りしたくないが、第21章を文章論にあてることにしたという。

いくつかのアドバイスの1つとして、抽象的な概念とくに動詞や形容詞の名詞化も文章を不必要に難解にするので、注意せよとしている。例えば、「このことは生産様式論の問題として固有に主題化され、厳密化されるべきことである」という抽象的な文は、「これは生産様式の問題として別に考察せねばならない」といい直せば、具体的にやさしくなるという。
なるべく動詞を多く用いていい直すと、行為の内容がより具体的、明確になり、文章も力強くなる。学問とは抽象に他ならないが、学問に必要な抽象とは必要以上に抽象的なことばや言いまわしを使うことではないと釘をさしている。
読者にとって解りやすい論文とは、声を出して読むと耳に快くすらすら速く読める、つまり読書をリズムに乗せて運んでくれる論文である。優れたもの書きの文章には必ずリズムがある。わかりやすい文章は、明確な論理的構造でまとまり、やさしく正確なことばやいいまわしと快いリズムに支えられて、自然に淀みなく、そして力強い流れる文章であると澤田は理解している(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、231頁、239頁、244頁~245頁)。

創造性とは


真の革新、創造の新しい発見は、したがって断片的な新奇さを追うことでなく、久遠(くおん)の真理探求の流れと関係づけられるものでなければならない。単に新奇さだけを追って、それを伝統と関係づける、伝統のなかに位置づけることを忘れると、新奇を追うその営みは創造にはつながらないでしょう。
革新は真理を革新することではなく、「真理において革新する」ことだからである。
日本人は新奇を追うことに優れているが、それが必ずしも創造と結びついていないのは、伝統との関係づけという面がおろそかにされているからではないか。だから哲学でも、新しい哲学者が紹介されて哲学史の書き加えがふえるが、必ずしも哲学的創造は生まれないということになる。新奇を追うのは創造性の一面で、それ自体結構なことだが、それだけでは不十分なのである。
真理の歴史性と久遠性、進歩と伝統の関係を巧みに表現したのはトマス・アクイナスの次のことばでわる。「いかなる時代のことばといえども、永遠の真理を完全に現在化することはない」
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、223頁~224頁)

語学力


語学でも、たとえば英語でも、自然科学英語とか医学英語、文学英語、歴史学英語という区別は本来なく、どの学問分野にも共通な基礎英文法と基礎英単語があるのと同じようなことである。
それゆえ自然科学や医学の分野で英語を用いて国際的に競争や協力をしたい人は、何よりも基礎語学力を身につけるべきである。
基礎文法と基礎単語を用いての「話し・聞き・読み・書く」の基礎的運用力なしに、いくら専門外国書購読とか専門語学に専心しても何の役にもたたない。日本の大学の教養課程は基礎語学力を教えずに、「教養語学」の名のもとに文学書の講釈を行なうことを建前としているために、学生は基礎語学力体得の機会を失しているが、真に基礎語学力が身についていれば、いわゆる「専門語学力」は容易に身につけられると澤田はいう(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、65頁~66頁、72頁~73頁注2)。

問をたしかめ、あるいはよい問を見出して、それに対する十分な肉づけがある。よい答を書くためには、付焼刃(つけやきば)ではだめである。問題を想定し、それに対する答を暗記するなどというのは、ちょうど一連の英語文句を暗記しても英語の伝達力は上達しないのと同じである。人工的に作られた文章を暗記しても、話しのなかでそれにピタリの状況が訪れることはまずないからである。必要なのは、基本文型や基本文法を基本単語とともに、絶えざる応用練習で体得しておくことである。基本をほんとうに練習で体得しておけば、どんな新しい状況でも容易に応用できると澤田は説いている(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、56頁~57頁)。

日本人とレトリック


「今日の日本で論理的論証的レトリックがいまだに育たないのはなぜか」「論証的レトリックの発達を妨げている具体的理由は何か」について、澤田は3つの理由を挙げている。
①日本人の抒情的文学性
②議会弁論の欠如
③教育における弁証的レトリックの無視
これらはいずれも倫理的、感情的レトリック過多現象と関係している。

①について
日本人が伝統的に、そして今日でもあまりにも抒情性豊かな文学的人間であることを示している。抒情的描写力、文学性が日本文化のすみずみにまでも充溢している。だから「論文の書き方」の指南書の大部分が文章作法、狭義の修辞に集中してくるのも当然であろうともいう。

②について
論証的レトリックの最大の推進機関であるべき議会討論(パーリアメンタリー・ディベート)がないがしろにされているということ。つまり議会討論、会議での討議によって重要な決定を行なうという伝統が確立されていないということ。
会議での審議は重要視されず、重要な決定は「根まわし」で舞台裏の談合の場でなされるから、会議場での論証的レトリックは発達しないと澤田はみている。
有効な審議を行なうには「何のために、どういう手順で、まずどういう問をたてて、どういう選択を論ずるのか」という体系的論理的構想が議長(司会者)と会議の参加に明らかになっていなければならない。論理的レトリックのルールを皆が体得していなければ、合理的な選択と決定の積み重ねとしての会議の運営はできない。会議は単なる意見の羅列に終ってしまう(多くの日本人学者の論文が事実の羅列に終って論文の形をなさないのと対応する特徴である)。
参加者が論証レトリックの進め方を知らないので会議はうまく機能しない。機能しないから議会や会議は軽んぜられる。したがって論証レトリックは発達しない。こういう悪循環が起こっているという。

③について
教育における論証的レトリックの不在、論証的レトリックの基本である生きた問答のやりとりが教育の場において、とくにそれなしでは成り立たないはずの語学教育の場においてさえも尊重されていないこと。日本の外国語教育は今日でも「実用よりも教養」という誤った選択の旗じるしのもとで、訳読つまり教師による外国語テキストの日本語訳と講釈中心で、英語のような生きた現代語でさえも死語のように扱われていると澤田は批判している。

以上のように、抒情的文学性もすばらしいし、談合や根まわしや意見の羅列も外国語テキストの日本語講釈も、何らかの意義はあるであろうが、それだけが強調されて、論証的論理的レトリックが無視され続けるならば、日本人が学問や政治やビジネスの世界で十二分な国際的協力や貢献をなすことは難しいと澤田は憂えている(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、289頁~293頁)。

サッチャーのスピーチ


1982年に東京で、サッチャー夫人が、日英協会共催の歓迎レセプションの席上で行なった5分間の即席スピーチ(メモなし)の原文と澤田訳が掲載されている。
このスピーチ「日英両国の友好と協力」は、「なぜ日本の友好、協力が必要か」という問で貫かれ、よく整理され、深い政治哲学がにじみ出ているが具体的であり、しかもユーモアで味つけられ、軽やかできびきびしたリズムに乗ったすばらしい論証、説得の論文であると澤田は絶賛している。
要旨を紹介しておくと、「われわれが協力と友好を深めようとしているのは、3つの主要な理由」が考えられるという。

①両国は自由と正義の原則に結ばれた民主主義国
②壮大で前向きの科学技術
③相手の芸術と文化に非常な関心を寄せていること
そのほかに2つの理由があるという。
④両国は王室をもっており、友好の関係にある
⑤両国の民衆は多くの点で同じような気持をもっていること(これはわれわれが一緒にならねばならぬ、たぶんもっとも深い理由)

④と⑤の原文は次のようにある。
There are, perhaps, two others : we both have a royal family and they are great friends ;
and our peoples have very many feelings in common, which is perhaps the deepest reason why we should get together.
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、317頁~324頁)




≪文章の書き方~木下是雄『理科系の作文技術』より≫

2021-12-31 18:24:39 | 文章について
≪文章の書き方~木下是雄『理科系の作文技術』より≫
(2021年12月31日)

【はじめに】


木下是雄(きのした・これお)氏は、1917年生まれで、東京大学理学部物理学科を卒業して、学習院大学教授を務めた学者である。
今回は、次の本をもとに、文章の書き方について考えてみる。
〇木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年

自分は文系の学部であったので、理科系の作文はしたことがないが、文章の書き方の参考文献として、木下是雄氏のこの本を挙げる人は多い。そこで、私も学生時代に買って読んだのだが、やはり教えられるところが多々あった。
例えば、日本語と英語の違いについての考察などは示唆的で文系の人が文章を書く際に留意すべき点を教えてくれる。
例えば、日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下氏は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。
多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。

今回のブログでは、この本の要点をまとめてみたい。
(以下、便宜上、敬称を省略することを断っておく)




【木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)はこちらから】

理科系の作文技術 (中公新書 624)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・理科系の仕事の文書
・文の構造と文章の流れ
・逆茂木型の文について
・事実と意見
・事実のもつ説得力
・パラグラフとトピック・センテンス
・原著論文(original scientific papers)の標準的な構成
・論理展開の順序について
・辞書について
・学会講演の要領について
・英語講演の原稿について







理科系の仕事の文書


・ 他人に読んでもらうことを目的として書くものの代表として、詩、小説、戯曲などの文学作品があげられる。それに対して、理科系の仕事の文書としては、調査報告、原著論文、仕様書、使用の手引、研究計画の申請書などがある。その特徴は、読者につたえるべき内容が事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまないことであると記している(木下、1981年、5頁)。
・ 事実や状況について人につたえる知識を情報ということにすると、理科系の仕事の文書は情報と意見だけの伝達を使命とするといってよいとする。木下によれば、理科系の仕事の文書を書くときの心得は次のように要約できるという。
①主題について述べるべき事実と意見を十分に精選すること
②それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述すること(木下、1981年、5頁~6頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、主張が先にあって、それを裏づけるために材料を探すなどということはありえない。書く作業は、主要構成材料が手許にそろってから始まるのである(木下、1981年、14頁)。
・ 理科系の仕事の文書の大部分は、必要上やむをえず書くもの、または誰かに書かされるものである。学生のレポートは言うにおよばず、調査報告、出張報告、技術報告、研究計画の申請書などがその例であるとする。
・ こういう類の文書を書くときには、その文書一般の役割を心得ているだけでなく、その文書に与えられた特定の課題を十分に認識してかかる必要がある。つまり、相手は何を書かせたいのか、知りたいのかをとことんまで調べ上げ、考えぬくのが先決問題である(木下、1981年、15頁~16頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、しばしば図や表がいちばん大切な役割を演じる。そういう文書では、本文を書きはじめる前に図・表を準備することをすすめる。それによって、なにを書かなければならないかがはっきりする場合が多い(木下、1981年、28頁)。
・ 研究論文にせよ、論説にせよ、あるいは随筆にせよ(この随筆は木下の書物の対象からは逸脱すると自ら断わっている)、木下は、筆をとる前に数十日(時として数年、時として数日)のあいだ主題をあたためるのを常にするという(木下、1981年、25頁)。
・ 本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素をふくまず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである(96頁)と主張し、また、理科系の仕事の文書は、心情的要素を犠牲にしても明快・簡潔を旨とすべきものである(121頁)と主張しているあたり、いかにも理科系のための『文章読本』である。
・ 仕事の文章の文は、短く、短くと心がけて書くべきである。ある人は平均50字が目標だという。本書の1行は26字だから、ほぼ2行。私(木下)も短く短くと心がけてはいるが、とてもその域には達していないという(木下、1981年、118頁)。

・ 書くことは考えること、考えを明確にすることである(木下、1981年、24頁)。
・ 文章の価値をきめるのが第一に内容であるが、内容がすぐれていても、文章がちゃんと書けていなければ(readableでなければ)、他人に読んでもらえない。その意味で文章の死命を制するのは、文章の構成なのであるという。その文章の構成とは、何がどんな順序で書いてあるか、その並べ方が論理の流れに乗っているか、各部分がきちんと連結されているかである。
文のうまさ(語句のえらび方、口調のよさ)などは、理科系の仕事の読者にとっては、二の次、三の次のことに過ぎないといい、“文科系の文章読本”とは異なる(木下、1981年、51頁)。
・ 理科系の仕事の文書は内容と論理で勝負すべきもので、文章は、奇をてらわず読みやすいほどいいという(木下、1981年、135頁)。
ここに理科系の人の気概・気骨および信念が伝わってくる。

・ 大学改革案の検討委員会の報告書を作成する際に、木下は三日二晩で目次をつくり、あと一瀉(いっしゃ)千里に本文を書いて、合計1週間で10章44節の報告書を書き上げた。そのときのやり方はKJ法の技術に負うところが大きかったようだ。KJ法の発案者は川喜多二郎であり、『発想法』(中公新書、1967年)の著作がある。一読をすすめている。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、56頁~57頁)

文の構造と文章の流れ


1966年に発表された理論物理学者のレゲットの「科学英語の書き方についてのノート―日本の物理学者のために」というエッセイを引用して、木下は日本語と英語の論文の構造の相違について考えている。
①日本語では、いくつかのことを書きならべるとき、その内容や相互の連関がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる(極端な場合には文章ぜんぶを読み終わってはじめてわかる)ような書き方をする。
②英語では、これは許されず、一つ一つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならない。また英語では、一つの文に書いてあることとその次に書いてあることとの関係が、読めば即座にわかるように書く必要がある。たとえば、論述の主流から外れてわき道にはいるときには、わき道にはいるところでそのことを明示しなければならないという。英語では本筋から離れて遠くまでさまよい出るのはよくないとされ、わき道の話が長くなる場合には、脚注にするほうがいいとする。
レゲットは、日本人と英語国民の文章の構造を樹形図に喩えて説明している。

日本人型の構造の文章を、木下は逆茂木(さかもぎ)型の文章と称している。逆茂木とは、「敵の侵入を防ぐため、とげのある木を伐り倒して枝を外に向けてならべたもの」を指すという。
文章の流れが逆茂木型にならないようにするために、必要なのは、話の筋道(論理)に対する研ぎすまされた感覚である。そういう感覚をみがくためには、他人の文章を読んでいるときでも、少しでも論理の流れに不自然なところがあったら、「おかしいな、なぜか?」と考える習慣をつけるのがいい。もっとも、感覚だけ鋭くても、何度でも書き直して完全を追究する執念がなければものにならないともいう。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、75頁~78頁、88頁)

逆茂木型の文について


日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。

多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。
裏返していえば、読者に逆茂木の抵抗を感じさせないためには、次のような心得が必要であると木下は説く。

①一つの単文(一つの文のなかで主語と述語の関係が一つしかないもの)の中には、二つ以上の長い前置修飾節は書きこまない。そしてできれば複文(修飾節を有し、したがって主語と述語との関係を二つ以上ふくむもの)や、重文(二つ以上の並行する節から成るもの)の中でも、同様である。
②修飾節の中のことばには修飾節をつけない。
③文または節は、なるたけ前とのつながりを浮き立たせるようなことばで書きはじめる。
逆茂木型の文の場合、長すぎる文を分割する、また前置修飾節が修飾していることばを前に出す、といった手法が役に立つとアドバイスしている。そうすれば、逆茂木の枝を刈りはらって再構成でき、前にくらべてずっと読みやすくなる(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、81頁~82頁)。

事実と意見


7章で説こうとしているのは、文章を書く際の次の2つの心得である。
①事実と意見をきちんと書きわける
②仕事の文書では、事実の裏打ちのない意見の記述は避ける

一般に、事実とは、証拠をあげて裏付けすることのできるものである。意見というのは、何事かについてある人が下す判断である。
日頃から、新聞を読み、雑誌を読むたびに、「どこが事実か、どこからが意見か」と読みわける努力をしてほしいという。

事実の記述は真か偽か(正しいか誤りか)のどちらかである。つまり事実の記述は二価(two-valued)である。これに反して意見の記述に対する評価は原則として多価(multi-valued)で、複数の評価が並立する。例えば、「ワシントンは米国の初代の大統領であった」というのは、事実の<正しい>記述だが、「偉大な大統領であった」という意見の記述に対しては、「そのとおり」、「とんでもない」、「的外れ」など人によって評価が異なる。

事実の記述には、それが真実である場合と真実でない場合とがある(そのほかの場合はない
理科系の仕事の文書に関するかぎり、「事実とは何か」の解釈に迷う余地は少ない。しかし、歴史で事実というのは何か、また心理的事実とは何か、となると話はむずかしくなる。民事裁判の法廷では、原告・被告の双方が認めたことは事実とされるという。
一方、意見は幅のひろい概念で、その中には次のようなものが含まれている。

①推論(inference)
 ある前提にもとづく推理の結論、または中間的な結論
 例としては、「彼は(汗をかいているから)暑いにちがいない」
②判断(judgement)
 ものごとのあり方、内容、価値などを見きわめてまとめた考え
 例としては、「彼女はすぐれた実験家であった」
③意見(opinion)
 上記の意味での推論や判断、あるいは一般に自分なりに考え、あるいは感じて到達した結論の総称
 例としては、「リンをふくむ洗剤の使用は禁止すべきである」

そして、事実と意見との関係について、木下は次のように解説している。
その問題に直接に関係のある事実の正確な認識にもとづいて、正しい論理にしたがって導きだされた意見は、根拠のある意見(sound opinion)である。一方、出発点の事実認識に誤りがある場合、または事実の認識は正確でも論理に誤りがある場合には、意見は根拠薄弱なもの(unsound opinion)になる。
但し、意見のすべてが根拠のあるものと根拠薄弱なものとに分類できるわけではないとして、「彼女は美人だ」という意見の例を挙げている。これはどちらの分類にも属さないという(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、102頁~107頁)。

事実のもつ説得力


①主張のあるパラグラフ、主張のある文書の結論は、意見である。ただ、意見だけを書いたのでは読者は納得しない。事実の裏打ちがあってはじめて意見に説得力が生まれる。
②事実の記述は、一般的でなく特定的であるほど、また漠然とした記述でなくはっきりしているほど、抽象的でなく具体的であるほど、情報としての価値が高く、また読者に訴える力が強い。

世間の人が表明する意見の大部分は、「夜桜は格別に美しい」とか、主観的な感じ、または直観的な判断によるものである。しかし、理科系の仕事の文書に書きこむ意見は、事実の上に立って論理的にみちびだした意見でなければならないと木下はいう。
その意見を「根拠のある意見」として読者に受け入れさせるためには、意見の基礎となるすべての事実を正確に記述し、それにもとづいてきちんと論理を展開することが必要であると説いている。

ふつう、事実から意見を構成する段階の論理はわりあいに単純なもので、自明な場合も少なくない。そういう場合には、自分の意見の根拠になっている事実だけを具体的に、正確に記述し、あとは読者自身の考察にまかせるのがいちばん強い主張法になる。これは、仕事の文書を書く場合に限った話ではなく、「夜桜は格別に美しい」と言いたい場合にも同様であるとする。つまり「あでやか」、「はんなり」、「夢みるよう」などと主観的・一般的な修飾語をならべるよりも、眼前の(すなわち特定の)夜桜のすがたを客観的・具体的にえがきだし、それだけで打ち切るほうがいいことが多いという。このように、事実によって意見を裏打ちするやり方、事実を一般的でなく特定的・具体的・明確に述べるやり方がよいとする(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、114頁~115頁)。


パラグラフとトピック・センテンス



パラグラフとトピック・センテンスについて、木下是雄は次のように記している。
パラグラフというのは長い文章のなかの一区切り(段落)である。パラグラフは、内容的に連結されたいくつかの文の集まりで、全体として、ある一つのトピック(小主題)についてある一つのこと(考え)を言う(記述する、明言する、主張する)ものである。

パラグラフを歴史的にみると、日本の古文には、パラグラフというものはなかった。欧語の文章も昔はそうだったらしいが、たぶん18世紀ごろまでにパラグラフの概念が確立され、パラグラフごとに改行する記法がおこなわれるようになった。
日本語の文章も、明治以降は欧文の影響を受けて、かたちの上ではパラグラフを立てて書くようになってきている。しかし、かたちといっしょにパラグラフというものの内容も輸入されたかは疑わしいと木下はみている。日本では「だいぶ続けて書いたから、このへんで切るか」というだけの人が多数派ではあるまいか。
一方、欧米のレトリックの授業では、文章論のいちばん大切な要素としてパラグラフの意義、パラグラフの立て方を徹底的に教えるものらしい。文章はどこで切ってパラグラフとすべきか、パラグラフの構成はどんな条件をみたすべきか、といったことを考えて、文章を書く心得としてパラグラフの概念をきちんと取り入れることが必要であると木下は主張している(木下、1981年、60頁~61頁)。

パラグラフには、そこで何ついて何を言おうとするのかを一口に、概論的に述べた文がふくまれるのが通例である。これをトピック・センテンスという。
パラグラフにふくまれる、トピック・センテンス以外のその他の文は、
ⓐトピック・センテンスで要約して述べたことを具体的に、くわしく説明するもの(これを展開部の文という)
ⓑあるいは、そのパラグラフと他のパラグラフとのつながりを示すもの
でなければならない。

一つの区切り(パラグラフ)にふくまれるいくつかの文は、ある条件をみたしていなければならないということを意識している人は少ない。
要するに、トピック・センテンスはパラグラフを支配し、他の文はトピック・センテンスを支援しなければならない。
理科系の仕事の文書を書く初心の執筆者は、各パラグラフに必ずトピック・センテンスを書くように心がけるほうがいい。文章を書きながら絶えず読みかえして、各パラグラフにトピック・センテンスがあるか、展開部の文はトピック・センテンスとちゃんと結びついているかと、点検する習慣をつけることを木下は勧めている。

トピック・センテンスは、パラグラフの最初に書くのがたてまえである(現実の文章はそうなっているとはかぎらない)。 
トピック・センテンスは各パラグラフのエッセンスを述べたものだから、それを並べれば、文章ぜんたいの要約にならなければならないと。

木下も、理科系の仕事の文書に関するかぎり、重点先行主義にしたがって、トピック・センテンスを最初に書くことを原則とすべきだと考えているが、しかしこの原則を忠実に守りぬくことはむずかしいともいう。
その理由として、3つ挙げている。
①先行するパラグラフとの<つなぎ>の文をトピック・センテンスより前に書かなければならない場合がある。
②これは仕事の文書にとっては致命的なことではないが、トピック・センテンスを第1文とするパラグラフばかりがつづくと、文章が単調になるきらいがある。
③日本語の文の組立てがこれに向かない。
③は定説ではないが、木下は英文を書く場合にくらべて、日本語でものを書くときにはトピック・センテンスをパラグラフの第1文にもってきにくい場合が多いと考えている。それは次の理由によると木下は指摘している。
ⓐ英語では主語と述語が密接して文頭にくる(したがって文のエッセンスが文頭に書かれる)のが通例であるのに反して、日本語では術語が文末にくる。
ⓑ英語では、修飾句・修飾節が修飾すべき語の後にくるのが通例であるのに反して、日本語では修飾句・修飾節が前置される。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、61頁~66頁、68頁、78頁)

原著論文(original scientific papers)の標準的な構成


①論文の書き出しの部分には、「その論文では何を問題にするか、どこに目標を置いてどんな方法で研究したか」を示す(少なくとも1~2パラグラフの序論がなければならない)
②本論にはいって、研究の具体的な手段・方法を述べ、それによってどんな結果がえられたかをしるす。
③最後に、その結果を従来の研究結果と比較し検討し、自分はそれについてどう考えるか、何を結論するかを書く。これは、論議または考察(discussion)として独立の節を立てて扱われる重要な部分であるという。著者はここでいったん立場を変えて、自分の研究に残っている問題点を吟味し、その上ではじめて結論をまとめるという(木下、1981年、197頁、202頁~203頁、205頁)。

論理展開の順序について


理科系の仕事の文書で、情報の伝達を目的とする記述・説明文とならんで主役をつとめるのは、論理を展開する文章である。これは、①理論の叙述と②説得を目的とする叙述に大別できるとする。
①理論を述べる文章では、内容(論理の組立て)によって記述の順序がきまってしまうので、文章論としてはほとんど議論の余地がない。
ただし、同じ前提から出発して同じ結論に到達する論理の筋道は必ずしも一つでない。研究者が最初にその結論にたどりついた筋道が最短径路であることはむしろ例外で、多くの場合に、結論に到達してから振り返って道をさがすと、もっとまっすぐな、わかりいい道がみつかる。論文は読者に読んでもらうものだから、自分がたどった紆余曲折した道ではなく、最も簡明な道に沿って書くべきだという。

もう一つ配慮すべきは、理論の基礎にある仮定を浮き立たせて書くことである。経験事実(観察、実験の結果)は多少ともあいまいな、あやふやなもので、誤差のない測定はないので、そのままでは論理になじまない。
理論の出発点となるのは、これを整理し、理想化したモデルである。そのモデルをつくる段階でどれだけのことを仮定したか、また理論を展開する段階でどんな仮定をつけくわえたか、それらの仮定が目立って見えるように、書く順序を考え、書き方を工夫してほしいという。

②説得を目的とする議論の文章の場合には、上述の純粋理論の叙述にはない恣意性がある。それだけ叙述の順序の自由度が増し、順序のえらび方によって説得の効果がちがうことにもなるようだ。
相手により、機に応じて、次のようなものから選択するほかにない。
ⓐ従来の説、あるいは自分と反対の立場に立つ人の説の欠点を指摘してから、自説を主張するか、あるいは、その
逆にまず自分の説を述べ、それにもとづいて他の説を論破するか。
ⓑいくつかの事例をあげて、それによって自分の主張したい結論をみちびくか。その逆に、まず主張を述べてからその例証をあげるか。
ⓒあまり重要でない、そのかわり誰にでも受け入れられる論点からはじめてだんだんに議論を盛り上げ、クライマックスで自分の最も言いたいこと(多少とも読者の抵抗の予期される主張)を鳴りひびかせるか、その逆に最初に自分の主張を強く打ち出して読者に衝撃を与えるか。

要するに、説得型の叙述の順序として
ⓐ従来説・反対説→自説の主張。逆に自説→他説の論破
ⓑ事例→主張。逆に主張→例証
ⓒ論点提示→議論の盛り上げ→クライマックス(自分の主張)。逆に、自分の主張を最初に提示
というのがあるという(木下、1981年、48頁~50頁)。

辞書について


作家と呼ばれる人たちの座右には、いつも何種類かの辞書が置いてあるらしい。書くことを一生の仕事とする以上、ことばを厳しく吟味し、字を確かめるのは当然の心掛けだろう。
ただ、書くことを本業とは心得ない理科系の人たちにしても、自分の書くものを他人に読んでもらおうとするからには、同じ心掛けが必要であると木下は主張している。他人に見せるものを書くときには必ず机上に辞書をおき、疑問を感じたら即座に辞書をひらく習慣をつけるべきであるという。
この手間を惜しむ、惜しまぬが筆者に対する評価を左右する場合があることを、心の片隅に留めておくといいともアドバイスしている(木下、1981年、154頁)。

学会講演の要領について


物理・応用物理の分野で原著講演(オリジナルな研究の口頭発表)の標準時間が10分である場合、それに対して、400字詰め原稿用紙6枚が目安であるという。
しかし、講演で原稿を「読む」のは禁物である。というのは、原稿を読みあげるのについていくには、聞く者に非常な努力がいるからである。例えば、複文の場合、読めばスラスラとわかっても、聞く段になると抵抗が大きい。つまり眼で読むための文章と耳で聞くための文章とは構成に差がある。また、読むときにはいつでも読みかえしができるが、講演では、一度聞き逃したら聞き手の側ではどうしようもない。ひとに聞いてもらう話には、適度のくりかえしが必要である。
書いた原稿をそのまま読みあげて聴衆をうなずかせるためには、シナリオ・ライターの才能と俳優の訓練がいるので、通りいっぺんの努力ではできないとも付言している。とにかく一生懸命に話しかける努力をしたほうがいいようだ(木下、1981年、214頁~215頁)。

「歯切れのいい」といわれる人の講演は、次の3つの条件をみたしているという。
①事実あるいは論理をきちっと積み上げてあって、話の筋が明確である
②無用のぼかしことばがない。ズバリと事実を述べ、自分の考えを主張する。
 例えば、「これらの事実は……が……であることを暗示しているのではなかろうかと思われます」と言わず、
「これらの事実は……が……であることを(暗)示しています」と言う。日本人は話を必要以上にぼかしたがるので、特に注意が必要だという。
③発音が明晰。発音を明確にし、ことばの切り方に気を配って、聞きとりやすくすることにも心すべきである。これにはニュース担当のラジオ(テレビよりラジオ)のアナウンサーの発声法や抑揚が参考になる(木下、1981年、229頁~230頁)。

英語講演の原稿について


木下是雄がある国際学会で、40分の招待講演で話をした際、原稿は65ストローク、ダブル・スペース、26行、13枚で、ゆっくりしゃべって、35分の講演だったという。
木下は英語の場合、原著講演や講義のときには、メモ片手のことが多い。一方、総合講演だと原稿を手にして話すという。実際の「英語講演の原稿の例」が引用してある。そこには記号を使って、語尾を下げる場合、切らずにつづける場合、ストレスをおいて特にはっきりとやや間をおいていうべきことばの場合などが示されている(木下、1981年、230頁~233頁)。


≪【雑感】小林秀雄とその文章≫

2021-06-16 17:24:38 | 文章について
≪【雑感】小林秀雄とその文章≫
(2021年6月16日投稿)
 

【はじめに】


 以前に、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)の【読後の感想とコメント】を書いた際に、小林秀雄について述べたことがあった。今回の記事は、その時の記事に加筆したものである。参考文献などにリンクを貼っておいたので、参照していただきたい。
 なお、高田宏『エッセーの書き方』(講談社現代新書、1984年[1988年版])を読み直して、作家の文章読本についての記事を加筆してみた。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄の文章観について
・殺し文句の小林秀雄
・「人生観」という言葉
・小林秀雄の文章は悪文か?
・小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ
・小林秀雄と『本居宣長』
・小林秀雄の批評
・小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について
・小林秀雄の文章の魅力
・小林秀雄の歴史観について
・小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について
・【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より
・【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト







小林秀雄の文章観について


小林秀雄は、言葉に対する考え方について、たとえば、「様々なる意匠」の冒頭で、次のように述べている。
「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾(しそう)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、202頁。新潮社編『人生の鍛錬』新潮社、2007年、12頁)。

※【引用者の注釈】
・指嗾(しそう)とは、「人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。指図してそそのかすこと。」
・「嗾」は、「けしかける」「そそのかす」の意味。◆「しぞく」と読むのは誤り。
・<例文>「生徒を指嗾して騒ぎを起こす」

【『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】

現代日本文学大系 (60)

【新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

つまり、言葉というものは、人心眩惑の魔術を持っているというのである。
ところで、より実務的、体験的アドバイスとしては、批評家小林秀雄のそれが有用かもしれない。
小林は「文章について」の中で、評論を書き始めた頃は、自分の文章が平板で一本調子な点に不満を覚えていたことを記している。
同じ問題を色々な角度から眺めて、豊富な文体を得ようとしたが、どうしたらよいかわからなかったので、仕方がないから、ある問題の一面をできるだけはっきり短い文章を書き、そして連絡を考えずに、反対な面から眺めたところをまたはっきりと短い文章を作り上げたという。
それはちょうど切籠(きりこ)の硝子(ガラス)玉を作るような気分であったようだ。そうした短章を原稿用紙に芸もなく2行開きで並べていった。そんなことを暫くやっているうちに、玉を作るのにまず一面を磨き、次に反対の面を磨くという様な事をしなくても、一と息でいろいろの面で繰り展(の)べられる様な文が書ける様になったというのである(新潮社編、2007年、91頁)。

たとえば、「骨董」というエッセイの中で、骨董の所有について次のような文があるのが、小林のいう「切籠の硝子玉」でも作る気分の文章であったのであろう。
「美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である」(新潮社編、2007年、124頁)。ただ、これは、出典年譜によれば、1948年、46歳のときの作品であるので、書き始めた頃の文章ではない。
また、「批評」というエッセイでは、「批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。」(新潮社編、2007年、211頁)。
これも、「切籠の硝子玉」のような文章であるといえよう。「批評」は、1964年1月の作品で、62歳の目前のエッセイであるので、老年に至っても、この文章作法は維持されていたのであろう。
ちなみに、小林秀雄は「徒然草」という批評の中で、
「文章も比類のない名文であつて、よく言はれる枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見さうは言えないのは、彼が名工だからである」と述べている。つまり『徒然草』の文章は「比類のない名文」であり、「正確な鋭利な文体」であると、小林は高く評価している。
そして、その著者の吉田兼好は、詩人ではなく、批評家であったと捉えている。つまり「物狂ほしい批評精神の毒を呑んだ文学者」であったというのである。兼好は、よく引き合いに出される、『方丈記』を著した鴨長明なぞには似ておらず、フランスのモンテーニュに似ているという。モンテーニュが生まれる200年も前に、兼好は遥かに鋭敏に簡明に正確にやったというのである。つまり『徒然草』が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたというような事ではなく、純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件として理解している。『徒然草』の二百四十幾つの短文は、すべて兼好の「批評と観察との冒険」であったというのである(小林、1969年、256頁~257頁)。

殺し文句の小林秀雄


殺し文句にかけて海内無双の名手といえば、これはもう知れたこと、小林秀雄であると向井敏はいう。
大正末年、24歳の秋に、発表したランボー論にはじまって、晩年の大作『本居宣長』にいたる、およそ半世紀間のその著作歴は殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を呈したとみる。この人の生涯は、人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を工夫することに明け暮れたと向井は評している。小林秀雄ほど、殺し文句に憑かれた人はいないという(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、105頁)。

【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本

「人生観」という言葉


たとえば、「人生観」という言葉がある。われわれはこの言葉を解かり切ったように使っているが、この言葉について、評論家小林秀雄は、「私の人生観」という講演の中で、改めて注意を促している。この言葉が日本で普通に使われ出したのは、やはり西洋の近代思想が入ってきて、人生に対する新しい見方とか考え方がおこった時からであろうという。しかしそうかといって、人生観という言葉は外国にはないようで、観という言葉には日本人独特の語感があると指摘している。この「観」という言葉に非常な価値を置いたのは、仏教の思想であったとして、『無量寿経』などをもとに解説している(小林、1969年、305頁~306頁)。
なお、西洋史家で小林の従弟(いとこ)である西村貞二によれば、小林自身の口から、「やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツァルト』ぐらいかなア」と語られたということである。
「私の人生観」というのは、昭和23年(1948年)、新大阪新聞社主催の講演会で行なった「私の人生観」と題する講演記録に手を加えたものであるが、小林秀雄自らが会心の文章というだけあって、読み応えがある(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、305頁~329頁、西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、74頁、川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、176頁~177頁)。

【西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂はこちらから】

小林秀雄とともに

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

 読み応えのする箇所を具体的に挙げてみると、たとえば小林は批評活動について、次のように記している。
「批評しようとする心の働きは、否定の働きで、在るがまゝのものをそのまゝ受納れるのが厭で、これを壊しにかゝる傾向である。かやうな働きがなければ、無論向上といふものはないわけで、批評は創造の塩である筈だが、この傾向が進み過ぎると、一向塩が利かなくなるといふをかしな事になります。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、317頁)

批評活動のもつ否定的傾向について触れ、それが向上に役立つ半面、度が過ぎればいたずらに観念上の混乱に陥りやすいことを指摘している。このことを小林は「批評は創造の塩」という巧妙な比喩を用いて表現している。つまり、批評というものは、ものごとをつくり出す上で、料理の味をつける塩のような役割を果たすもので、向上心を刺激し創造に役立つという本来の意味がはたされるはずのものであるという。

小林秀雄の文章は悪文か?


小林の文章は難解である。このことは誰もが認めるところであろう。ただ、小林の文章は悪文かというと、この点については見解が分かれる点であろう。このことに関連して、小林自身にまつわる面白いエピソードがある。小林自身も、自らの文章を“悪文”と評したことがあるのである。
小林秀雄の言葉を拾い集めた簡便な本として、新潮社編『人生の鍛錬』(新潮社、2007年、179頁)があるが、この本に次のように記してある。
「あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。へえ、そうかい、とあきれたが、ちかごろ家で、われながら小言幸兵衛(こごとこうべえ)じみてきたと思っている矢先き、おやじの面目まるつぶれである。教育問題はむつかしい」(出典「国語という大河」)

このエピソードは、小林自身の身内でも、よく知られたエピソードであったらしく、妹の高見澤潤子も、引用している(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、226頁)。
話の内容は、娘の国語の試験問題を見せられた親父である小林秀雄が、意味のわからない悪文だから、わかりませんと書いておけばいいと答えたら、実はお父さんの本から引用した文章であると先生が言われたと娘が笑い出し、親父の面目がまるつぶれになってしまったというのである。これは小林秀雄が自分の文章を悪文と思わず評してしまい、娘に一本を取られてしまった笑い話である。
小林は、日常生活では、うっかりした性格のところがあったらしい。たとえば、旅行先でパスポートをなくしたと騒いでいたら、ちゃんとホテルに置いてあったり、カフェのテラスにカメラを置き忘れたりと、「忘れものの名人」であった。また、講演旅行の時には、ホームに荷物を置いたまま、列車に乗り込んでしまったことなどもあったようだ。これらのことは、従弟の西村貞二や妹の高見澤潤子が証言している(西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、31頁、119頁。高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、232頁~233頁)。

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ


小林秀雄は「私小説論」の中において、漱石と鷗外を次のように位置づけている。
「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである。彼等の洞察は最も正しく芥川龍之介によつて継承されたが、彼の肉体がこの洞察に堪へなかつた事は悲しむべき事である。芥川氏の悲劇は氏の死とともに終つたか。僕等の眼前には今私小説はどんな姿で現れてゐるか」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、216頁)。
つまり、鷗外と漱石は抜群の教養をもっていたので、自然主義小説の不具を洞察しており、私小説運動と運命をともにしなかったと理解している。彼らの洞察は芥川龍之介に継承されたものの、その芥川は夭逝してしまう。

森鷗外と本居宣長についての小林秀雄の言及


鷗外と宣長について、小林秀雄は『無常といふ事』において、次のように記している。
「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。」(小林、1969年、253頁~254頁。新潮社編、2007年、108頁)。

『古事記』といえば、因幡の白兎、国引き、オロチ退治、海幸山幸、天の岩屋戸の話など、親しみやすい古典である。
ところで、西郷信綱は、『古事記伝』という宣長という縦糸と、イギリス社会人類学の横糸とを交錯させる新しい問題意識にたって、古事記を読み解いた。西郷は、『古事記』を、そのいわゆる潤色・作為とかをふくめて、古代人の経験のあらわれとして読んでいった(西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、1967年、12頁)。

【西郷信綱『古事記の世界』岩波新書はこちらから】

古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)

小林秀雄と『本居宣長』


本居宣長という人物について、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)でも、言及されていた。
「「棄民」としての角屋七郎兵衛―ベトナムにあだ花を咲かせた松阪商人」の中で、
伊勢松阪にまるわる歴史上の有名人として、
1)江戸時代の偉大な国学者で、生涯をかけて著した『古事記伝』が有名な本居宣長
2)呉服商や両替商として巨万の富を築き、財閥三井家の基礎を築いた三井高利
3)松阪の城主でもある戦国の武将蒲生氏郷(後に会津92万石の大名となった名将)
こうした有名人の他に角屋七郎兵衛(かどや しちろうべえ)という松阪商人を挙げておられた。角屋七郎兵衛は、伊勢を基点として、堺、長崎そしてホイアンを結ぶ海外貿易圏を確立した商人である。
(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年、233頁~240頁)
【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ

それ以来、私も、本居宣長に関心を抱くようになった。
ところで、昭和53年(1978)、小林は『本居宣長』という大著で、日本文学大賞を受賞した。その時に、次のような挨拶をしたといわれる。
その挨拶の中にも、小林の文章観の一端が如実にあらわれているといえよう。
その挨拶とは、
「どんな本でも売れなくっちゃ話になりません。これは本居宣長さんの根本思想で、医者だった宣長さんは、自家製滋養丸の広告などうまいものでした。私も宣長さんの教えにならって、本の広告をしましたが、私の文章は、読み進むうちに、立ちどまったり、前へ戻ったりしないとわからないように工夫がこらしてあります。知らず知らず、二度三度読むような文章になっています。定価は四千円ですが、長さからいえば、一万二千円クラスの本で、大変な割引になっております。」(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、214頁)。

つまり、小林の文章は、立ちどまったり、前へ戻ったりしないと文意が辿れないように工夫してあるので、「知らず知らず、二度三度読むような文章」だと自ら語っている。
なお、『本居宣長』という本の見返しには、日本画家の奥村土牛(おくむらどぎゅう、1889~1990)が描いた山桜の絵が載せてあり、花好きの小林を想起させるようになっている(高見澤、1985年、195頁)。

小林が推敲して、文章を削っていったことについて、妹高見澤潤子も次のように証言している。
「兄は原稿をよみ返し、書き直している間に、だんだん原稿がへって行く。私などよみ返すたびに書き足すので、原稿がふえる方が多いが、「本居宣長」など毎月の原稿を書いているうちに、はじめは十何枚かあったのに、だんだん減って、三枚ぐらいになってしまうこともある。それほど煮つめ、凝縮させてしまう。大抵の人が原稿半枚ぐらい書くところを、二、三行ですましてしまう。言葉を運び、文章を工夫し、表現にみがきをかけるために苦しむ。そのために難解にはなるが、詩のように言葉に盛られた内容は重い。詩の評論とも、評論の詩ともいえるのではないだろうか。」(高見澤、1985年、223頁)。

これによれば、普通の人は、原稿を読み返すと、文章を書き足すのだが、小林は逆で、煮つめて、凝縮させる方向に向かう。原稿半枚ぐらいを2~3行ですますくらい、言葉を選び、文章を工夫し、表現にみがきをかける。だから、小林の文章は、「詩のように言葉に盛られた内容は重い」というのである。小林の評論を、「詩の評論」もしくは「評論の詩」と形容されるのは言い得て妙であろう。
また、兄小林秀雄が色紙を頼まれた時に、よく書いた言葉として、「批評とは無私を得んとする道なり」というのがあることを妹は記している。この言葉は確かに形而上的である(高見澤、1985年、225頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長(上) (新潮文庫)

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長

小林秀雄の批評


<文学>観念を所有しているにもかかわらず、具体的な場に即すことで、<文学>というオブセッションを超克し得た例があり、近代の評論の実質が形成されてきた。一例が小林秀雄の場合である。
小林の批評的営為は、批評を文学として自立させた最初の試みとして位置づけられることが多い。その意味では、彼の努力は<文学>に向かって行われており、<文学>自体を撃つことはなかったともいえるのだが、小林にはその登場のはじめから、自らの<言葉という体験>に対する稀有のつきとめといったものがあったといわれる。それを手離しては、どのような観念にも上昇しなかった点に特色があり、その点で<文学>という観念にも問われなかったと樫原はみている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、263頁)。

小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について


「一見平凡に見えて読了して考へてみるとやつぱり名著だと思つた。
文学志望の知人がこれを読んで、やゝ心外の面もちで、一向面白くない、と言つた。僕も同感である。読みやうによつては一向面白くもない本だと思ふ。(中略)
氏は通俗を旨として書いた、文人や専門家に見せるものではない、と断つてゐる。僕は文人でも専門家でもないから、色色教訓を得た。この書の説く処は通俗かも知れないが、空論といふものが一つもなく、実際上の助言にみち、而もあれだけ品格のある通俗書といふのは、到底凡庸な文人や、専門家の能くするところではない。」(小林秀雄『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年、75頁)。
小林秀雄は、「菊池寛論」の中で、「僕が会った文学者のうちでこの人は天才だと強く感じる人は、志賀直哉氏と菊池寛氏とだけである」と述べている。二人の鋭敏さは端的で少しも観念的な細工がないという(新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、57頁~58頁)。

小林秀雄の文章の魅力


小林秀雄のエッセイ集『無常といふ事』に対して、批評家河上徹太郎は推賞文として、次のように記している。
「本書の文章は、リズムが明確で、感覚が冴えていて、知性の強い筋金がしっかりと入っている。繰り返して読んで飽きることがなく、また繰り返して読むことによって始めてその含蓄の深さに驚く。言葉の最もすぐれた意味における作品である。」
川副は、小林秀雄独特の思考が随処にひそめられており、それだけに難解な点も少なくないともいう(川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、64頁)。

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

小林秀雄の歴史観について


小林のいう歴史は、近代的歴史観、あるいは知の枠組そのものに鋭く対立するものであるという理解を樫原修はしている。しかもそう考える小林自身、近代的語彙で語らざるを得ないところから、問題は二重に解きがたくなっている。
同様のことは、歴史に限らず、『無常といふ事』の全体を通していえることだというのが樫原の理解である。小林の文章の難解さを吉田熈生は「文体の問題」に帰したのに対して、樫原は、意味から切り離されたところの文体などというものに求めてはならないと主張している。そして小林の文章は、一見平明な論理をたどりつつ、常識に逆らう冥(くら)いものを表現しているとみる。その意味で中村光夫の「合理的手段以外に表現の技術を知らぬミスチック」という把握は至当の言だと考えている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、206頁~207頁)。

【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

ところで、『無常といふ事』の諸篇は、古典を生き生きと現代に蘇らせた鮮明な論として注目された。中でも「当麻(たいま)」では、「無用な諸観念の跳梁」する近代と対照して、乱世といわれる室町時代を「現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑はなかつたあの健全な時代」と呼んでいるが、これが小林の中世像の基調となっている。そこに、それぞれの中世人の生と文学の形が描かれているとした。
また小林の描いた実朝像は、対象の実像の鮮明といったことからは遠いものであり、小林の描いた中世像は、小林の反近代の志向が生んだ幻像であるとするのが、一般の傾向であると樫原はみている(樫原、2002年、199頁~201頁)。

小林の得た歴史の方法として、有名だが誤解された部分として、次のような箇所がある。
「子供が死んだといふ歴史上の一事件の掛替への無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい」
小林はここで、「生き物が生き物を求める欲望に根ざす」本来の歴史発生の場に居つづける母親の智慧について悟り、それを自己の方法とするといっている。
「客観的」な歴史観に対立する主観的歴史観を提出しているわけではないと樫原はみる(樫原、2002年、231頁~239頁)。

国立国語研究所室長をへて、早稲田大学の教授でもあった中村明の『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)でも指摘しているように、小林秀雄独特の修辞が用いられている点は注意しておいてよい。
たとえば、「ゴッホの手紙」(昭和26~27年)において、
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない。」
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。」
これらは反復否定で、「~ではない」と一度打ち消したあと、「決して~ではない」「絶えて~ない」と強く念を押し、強調的に駄目を押す文の展開である。これは批評家小林秀雄が多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞であるが、小林は恐れずに用いていると中村明は解説している。
また極言は、人を驚かす内容にふさわしい形式であるともいう。たとえば、「当麻」で、世阿弥の美論に言及した際には、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という表現がこれに相当する(小林、1969年、252頁。新潮社編、2007年、106頁)
これは「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものといわれる。小林という批評家は、こうした方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されるべきだと中村は説く。強調すべき点の見定めに、小林は天才的な冴えを示す批評家であったというのである(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)。

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)

小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について


西村貞二は、小林秀雄の批評を皮肉って、アテネの歴史家ツキジデスを例に出して、次のように記している。
「歴史は神話である。史料の物質性によって多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」(『ドストエフスキイの生活(序)』)なんて聞いたら、トゥーキュディデスは吹き出すかもしれない。」
「歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知してゐるところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ」なんて聞いたら、トゥーキュディデスは呆れるだろう。」と。
つまり、「歴史は神話である」という小林秀雄の言い方をもしツキジデスが聞いたら、吹き出し呆れるというのだ。というのは、ツキジデスは、神話・伝承と事実を峻別することが歴史の始まりであると主張したからである(西村、1994年、172頁~173頁)。
樫原も指摘しているように、小林の歴史観について探ろうとすると、困難な問題が存在する。つまり「彼は<歴史>について、核心の部分ではいつも、曖昧とさえいえるような含みの多いいい方をするのだし、明瞭な歴史観を再構成しようとすると、互いに矛盾するようにみえる言葉が存在するのである。その点で、小林の<歴史>は、まだ十分に明らかにはされていないと思われる。」(樫原、2002年、159頁)。

また、小林秀雄は西村の文章に対しては、厳しかったようである。間延びした拙劣な文章を書いた西村に対して、「あゝいふ短文ででもカッチリしたものを書かうと心掛けてゐないと文章はいつまで経つても上手にならないものである。(中略)つまらぬ短文ででも文章を作る覚悟をしてゐなければ、文章上達の機を逸して了ふ」と手紙を送っている(西村、1994年、140頁)。
小林の歴史観には問題があったものの、文章に対する姿勢には当代随一の評論家らしく、従弟に対してまで厳しかったことがわかろう。

【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より


井上ひさしの『自家製文章読本』にも「冒頭と結尾」という一章があって、井上はここで、
「文章とは、冒頭から結尾にいたる時間の展開である」ことを語っている。
ここにいう結尾というのは、結論という大袈裟なことではなくて、ただの終わりのことである。重点は冒頭のほうにある。
井上が引用している時枝誠記(ときえだもとき)の一行を引用しておく。つまり、国語学者・時枝誠記の『日本文法・文語篇』のなかの一行である。
「文章は、冒頭文の分裂、細叙、説明等の形において展開するので、冒頭文の展開の必然性を辿ることは、正しい文章体験の基礎である。」
いかにも学者らしい堅苦しい書き方だが、ここにも最初の一行が分裂し展開してゆくことが語られている。
言葉が言葉を呼ぶのである。
そこには言葉の力、ひろい意味の論理がはたらく。文章を書くということは、その展開の必然性を辿ることであると、高田宏は主張している。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁)

【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト


似たようなことを、谷崎潤一郎が自分の体験から語っている。
谷崎の『文章読本』のなかで、少々遠慮がちに言っているが、ここが谷崎読本のハイライトであるといわれている。
最適な言葉をえらぶという話を書いたあとに、こう書いている。
「然(しか)らば、或る一つの場合に、一つの言葉が他の言葉よりも適切であると云うことを、何に依って定めるかと申しますのに、これがむずかしいのであります。第一にそれは、自分の頭の中にある思想に、最も正確に当て嵌(は)まったものでなければなりません。
しかしながら、最初に思想があって然る後に言葉が見出だされると云う順序であれば好都合でありますけれども、実際はそうと限りません。その反対に、まず言葉があって、然る後にその言葉に当て嵌まるように思想を纏(まと)める、言葉の力で思想が引き出される、と云うこともあるのであります。一体、学者が学理を論述するような場合は別として、普通の人は、自分の云おうと欲する事柄の正体が何であるか、自分でも明瞭には突き止めていないのが常であります。そうして実際には、或る美しい文字の組み合わせだとか、または快い語調だとか、そう云うものの方が先に頭に浮かんで来るので、試みにそれを使ってみると、従って筆が動き出し、知らず識らず一篇の文章が出来上る、即ち、最初に使った一つの言葉が、思想の方向を定めたり、文体や文の調子を支配するに至ると云う結果が、しばしば起るのであります。(中略)
私の青年時代の作に「麒麟(きりん)」と云う小篇がありますが、あれは実は、内容よりも「麒麟」と云う標題の文字の方が最初に頭にありました。そうしてその文字から空想が生じ、あゝ云う物語が発展したのでありました。ですから、一つの単語の力と云うものも甚だ偉大でありまして、古(いにしえ)の人が言葉に魂があると考え、言霊(ことだま)と名づけましたのもまことに無理はありません。これを現代語で申しますなら、言葉の魅力と云うことでありまして、言葉は一つ一つがそれ自身生き物であり、人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのであります。」(谷崎潤一郎『文章読本』)

谷崎潤一郎の言うことに素直に耳を傾ける必要がある。その話が理屈に合っているかどうかなどとは考えず、言葉についての谷崎の作家としての体験をまるごと受け入れることが大切であると、高田は説いている。

谷崎は「言霊」ということまで言っている。言いかえれば、「言葉の魅力」「言葉の力」と言っている。
言葉には不思議な力がある。
高田によれば、その力を信じて原稿用紙に立ち向かうのが、書くということであるとする。
そのとき、一見偶然に使ったかに見える一つの言葉が、いつか必然になってくるものらしい。
(上記に引用したように、谷崎も「麒麟」という青年時代の作品を例に挙げている)

谷崎の言うように、書くこと、つまり言葉の力を信じて書くことは、新しい自分の発見でもあるようだ。自分には見えていなかった自分が、書くことによって姿をあらわしてくる。その自己発見のよろこびが、書くという行為にはともなっていると、高田はいう。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁~29頁)

【高田宏『エッセーの書き方』はこちらから】

エッセーの書き方 (講談社現代新書 (743))


≪粟津則雄の小林秀雄論 その2≫

2021-06-14 18:24:42 | 文章について

【はじめに】


今回のブログも、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
 今回は、小林秀雄の『モオツァルト』、バルザック論、ドストエフスキー論、ラスコーリニコフとムイシュキンを中心に述べてみたい。



【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)




粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈
・小林秀雄のバルザック論
・小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界
・ラスコーリニコフとムイシュキン
・小林秀雄の批評の信条






小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈


小林は、「モオツァルトの音楽の深さと彼の手紙の浅薄さとの異様な対照」という問題について、次のように述べている。
「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露する様な友は一人もいなかつたのは確かだらうが、若し、心の底などといふものが、そもそもモオツァルトにはなかつたとしたら、どういふ事になるか。(中略)彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはゐまい。不器用さは隠すといふ事ではあるまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己も大した事を引出し得まいといふ事だ」

モオツァルトは、不思議な孤独をかかえていたとする。つまり、閉じることによってではなく開くことによって、他人に対して鎧うことによってではなくいかなる鎧もつけえぬことによって孤独であるような孤独。つねにおのれの全身をわれわれにさらしていながらわれわれを超えた謎であるような孤独。
このように、粟津は説明している。そして、この孤独こそ、小林が『モオツァルト』で、渾身の力をもって描きあげようとしたものであったと、粟津は理解している。

『モオツァルト』の第一稿が書き始められたのは、昭和18年末から昭和19年6月に至る中国旅行中であるといわれる。(新潮社版全集の吉田熙生の解題による)
つまり、『実朝』執筆に続く時期であることに粟津は注目する。そして、『モオツァルト』には、実朝でとりあげた主題をさらに純化拡大したようなところがあるという。

『実朝』のなかで、小林は、実朝について、次のように語っていた。
「奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持つて生れた精妙な音楽のうちに、すばやく捕へられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたふ」と。

また、実朝と西行について、次のように語る。
「成る程、西行と実朝とは、大変趣の違つた歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれ乍ら、これに執着せず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾を透して遠い地鳴りの様な歴史の足音を常に感じてゐたところに思ひ至ると、二人の間には切れぬ縁がある様に思ふのである。二人は、厭人や独断により、世間に対して孤独だつたのではなく、言はば日常の自分自身に対して孤独だつた様な魂から歌を生んだ稀有な歌人であつた」と。

小林は、実朝や西行のうちに、このような孤独を見定めた。
小林は、『モオツァルト』のなかで、「モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)といふものだ」というスタンダールの評言や、ゲオンの「tristesse allante」という評言に共感を示している。
そして、次のように語る。
「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。(中略)まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせつてもゐないし急いでもゐない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺つてゐないだけだ。彼は悲しんではゐない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのまゝの命であり、でつち上げた孤独に伴ふ嘲笑や皮肉の影さへない」と。

『実朝』から『モオツァルト』へという道は、小林にとっては、ごく自然な純化の道であったようだ。
小林は、『西行』『実朝』『モオツァルト』という順序で書いていった。
この順序は、孤独がついに言葉から離れ去るにいたる順序であると、粟津は捉えている。ここに小林の孤独の観念の特質を見てとる。
小林がこのような順序をとったのは、ひとつには、イデオロギーに対する激しい嫌悪のせいであるようだ。そして、「十九世紀の文学が、充分に注入した毒に当つた告白病者、反省病者、心理解剖病者等」に対する激しい嫌悪のせいであった。
こういったことに対する嫌悪が、また否応ない歴史の流れのなかで、小林が味わっていた孤独が、小林の孤独の観念を、モーツァルトの孤独にまで純化拡大することを要求したと、粟津はいう。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、369頁~374頁)

小林秀雄のバルザック論


小林秀雄は、『私小説について』(昭和8年10月)および『文学界の混乱』8昭和9年1月)において、私小説を論じている。

久米正雄は、次のような意味のことばを残した。
芸術は、真の意味で別の人生の「創造」ではなくせいぜいその人びとの踏んできた一人生の「再現」としか思われない、バルザックの大小説も結局作りものとしか思われず彼が制作の苦痛を語った片言隻語ほども信用が置けぬ。

この久米のことばを引いて、小林は記す。
「極く普通に読めば、かういふ考へ方は自然主義の影響がいかにも強く現れてゐるので、一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるといふ明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至つてはじめて持つたのである」

つまり、故郷を失い、青春をも失ったという、そのことが、人びとに、こういう明瞭な自覚や意識を持つことを可能にした。
小林は、このような自覚や意識にもとづいて、次のように断言する。
「バルザックの小説はまさしく拵へものであり、拵へものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服し棄て切れたからこそ拵へものの裡に生きる道を見つけ出したのである」

小林は人びとにこのような自覚や意識を強いた重要な契機として、マルクス主義の到来をあげている。粟津は、この点に着目している。
小林は、その登場以来、当面の敵として、マルクス主義文学の抽象性と観念性とを、終始一貫して攻撃し続けてきた。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、148頁~149頁)

小林は、「文学は絵空ごとか」(昭和5年9月)において、正宗白鳥とバルザックとドストエフスキーについて、次のように論じている。
「若し散文的精神といふものが、言語上の観念美は勿論の事、世のあらゆる造型美に誑かされない精神を指すとすれば、正宗氏の精神は正しく生れ乍らの散文精神である。氏は深刻な雑文家である。ドストエフスキイとかバルザックとかの、普通の小説概念では律し切れない茫漠たる小説家には、この深刻な雑文精神が見られる。正宗氏は恐らく生れ乍らの最も散文的な小説家だ、この点で、現在の作家の中で氏に最も近い作家は、人々は奇妙に思ふかも知れないが、私は宇野浩二氏だと思つてゐる」

小林は、正宗白鳥の「深刻な散文精神」のうちに、ある解放を味わっているようだ。
(そこにおのれの批評性がもっとものびやかに吸収しうる場所を見出していると、粟津は見ている)
白鳥の「散文精神」は、ドストエフスキーやバルザックのうちに見られるものとつらなっている。つまり、小林は、大正期の作家のひとりである正宗白鳥の「散文精神」のうちに、ドストエフスキーやバルザックと直接つながる契機を見てとっている。
(ただ、白鳥は、これらの大作家たちのように、巨大なロマネスクを編みあげはしなかったのだが)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、116頁~117頁)

小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界


小林の『ドストエフスキイの生活』の重要な特色として、ドストエフスキーの生きた社会がはらむ「矛盾」に強い光をあてている点を、粟津は指摘している。

「理想と現実との大きなひらきの為に、西欧の浪漫主義はロシヤの文学界に鮮やかな姿をとつて実現されなかつたのみならず、当然複雑な混乱を巻き起した。だが、当時やうやく貴族階級の手を離れて、職業化しはじめたロシヤの文学に生気を与へたものは、又この混乱に外ならなかつたのである。ロシヤの社会が浪漫派文学を生んだのでも、受け入れたのでもなく、西欧の浪漫派文学の輸入によつて、ロシヤに文壇といふ一社会がはじめて出来上つたのだ、と、やや逆説的だが言ふ事が出来るだらう」と小林はいう。

ロシヤが19世紀を通じて苦しまなければならなかった独特の矛盾として、次のものを挙げている。
〇ブルジョアジイの発達にとって、君主政体のみならず君主独裁すら必要とする矛盾
〇皇帝の独裁を甘受せざるを得なかった当時の薄弱な工業資本主義も、その市場の獲得とともに、産業の組織に必須なインテリゲンチャを必要とした
〇ロシヤのインテリゲンチャの頭脳にまず棲息したものが、西欧の革命的ブルジョアジイの夢であった
〇ロシヤのインテリゲンチャが、西欧派と国粋派の両派に分れて論戦をした時、ナロオドという農民の姿があった

この農民の姿とインテリゲンチャとの関係について、小林は次のように記す。
「尚インテリゲンチャは足許にナロオドといふ深淵を感じて思索する不安を無くする事は出来なかつた。この不安は、ロシヤ十九世紀思想家等に独特なものであり、彼等の天才と偉大と悲惨との心理的苗床であつた。彼等は遂に西欧の十九世紀思想家等の抱いた知識に対する教養に対する毅然たる自信を獲得する事は出来なかつた。自分達の知識や修養は借り物である、ナロオドの土地から育つたものではない、といふ意識が絶えず彼等を苦しめたのだ」

この小林の叙述は、19世紀ロシヤの社会や思想界ではなく、20世紀日本の社会や思想界であるような錯覚を覚えると、粟津はいう。
(もちろん細部においてはちがいがあると断りつつ)

〇皇帝の独裁と工業資本主義との結びつきは、天皇制と明治の資本主義との結びつきに通じる
〇西欧の浪漫主義文学の輸入によってはじめて文壇という一社会が出来たという指摘について、浪漫主義文学に自然主義文学を付け加えれば、日本に適用しても、見当外れでない
〇ナロオドのかげにおびえ、おのれの思考の架空性に苦しむ西欧派と国粋派の対立も、日本における西欧派と国粋派の対立に(さらに「ブルジョア文学者」と「プロレタリア文学者」の対立に)あてはめることができる

なお、小林は、『私小説論』において、明治にいたるまで持続した文学伝統が、西欧文学を輸入するに当たって、いかに独特の変形を行ったかを、精到に分析している。
そして、日本独特の事情と、19世紀中ばのロシヤの若い作家たちが直面したものとのちがいについて、小林は次のように記す。
「新しい思想を育てる地盤がなくても、人々は新しい思想に酔ふ事は出来る。ロシヤの十九世紀半ばに於ける若い作家達は、みな殆ど気狂ひ染みた身振りでこれを行つたのである。併し、わが国の作家達はこれを行はなかつた。行へなかつたのではない、行ふ必要を認めなかつたのだ。彼等は西欧の思想を育てる充分な社会条件を持つてゐなかつたが、その代りロシヤなどとは比較にならない長く強い文学の伝統を持つてゐた」

ただ、日本の場合、このような事態を生み出した文学の伝統は、急激な近代化を通して解体し四散した。もはやそれは「育つ力のない外来思想」を平然と無視しうるほどの力を持たなかった。ただ、その外来思想は、新たなる伝統を形作るには程遠かった。こうして、混乱そのものが社会の特質となったとする。

一方、ロシヤの場合も、19世紀中葉のロシヤ社会の混乱が、混乱そのもののもっとも純化されたありようとして、なまなましくよみがりえた。このような混乱のなかで生きたロシヤの作家が、当時の小林にも緊急の問題となりえた。

小林は、『ドストエフスキイの生活』のなかの『作家の日記』を論じた章で、ドストエフスキーとフローベルを比較して次のように記す。
「フロオベルに孤独なクロワッセが信じられたのも、己れの抱懐した広い意味での教養に、衆愚を睥睨する象徴的価値が信じられたが為だ。併しドストエフスキイには、信ずるに足るクロワッセの書斎がなかつた。ロシヤの混乱を首を出して眺める窓が彼にはなかつた」

この点、粟津はコメントしている。
信ずるに足る書斎も、社会の混乱を首を出して眺める窓も持たぬ点は、ドストエフスキーも小林も同様であっただろう。小林もまた、文芸時評における伝統の欠如というかたちで、このことを思い知らされていたはずだろう。
小林にとって、ドストエフスキーとは、どんな人物であったのか。
にわか普請の書斎や抽象的な窓を作ることなく、むしろ進んで混乱のなかに身を横たえ、混乱をおのれの特権と化したような人物として、映ったようである。

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、180頁~183頁)

ラスコーリニコフとムイシュキン



「人生の門出に際して、ムイシュキンは、その清らかな視力、無垢な生命感を、どう取扱ふべきかを知つてゐない。併し作者にはそれで充分だつた。それだけで既に充分に晴朗なものであり、同時に威嚇的なものと見えたに違ひない。凡そ人間的可能性を剝奪されたともみえるムイシュキンの極度の無抵抗性の上に、無気味な独特な人間観照の世界が自ら開けて行く様を見給へ。人々は彼を白痴と呼びながら、知らず識らずのうちに、この世界に足をとられる。ムイシュキンは己れの善良の故に亡びるのだが、人々の平安は又ムイシュキン故に、破れるのである」
と小林は記す。

ラスコーリニコフは、その孤独を抱いてシベリヤにまで追いやられたのに対して、ムイシュキンの孤独は、その「清らかな視力」と「無垢な生命感」をもって、人びとのなかに立ち戻る。
しかし、ムイシュキンの孤独が、人びとと融和するに至ったということではなく、ムイシュキンもまた、ラスコーリニコフと同様、人びとのあいだにあって充分に孤独である。
ただ、ムイシュキンには、ラスコーリニコフにはまだあったような、人びとを拒むという動機が、最初から欠けていた。つまり、ムイシュキンは、彼をとりまく人びとをそのままに受け入れながら、充分に孤独であった。

ラスコーリニコフが、殺人という架空の行為やソーニャとの出会いを通して、孤独をわがものとしたのに対して、ムイシュキンの孤独は、そのまま日常感になっている。そのために、ムイシュキンの孤独は、一見いかにも日常的でありながら、魔的である。

小林は、『白痴』を、「一種の比類ない恋愛小説」と評した。
ドストエフスキーが描いた奇妙な恋愛関係を次のように分析した。
「三人の男女はムイシュキン無しには生きてゐない。彼等はムイシュキンといふ不可解な男を糧としてわづかに生を享けてゐる。而もムイシュキンには人々に働きかける能力が全くかけてゐる。彼等はムイシュキンの極端な無抵抗性のうちに、自分等の姿を、自ら限定せざるを得ない。彼等にとつてムイシュキンは空気の様に無色であり必須である。四人の関係に、恋愛関係、いや人間関係とすら言ひ切れぬものの存するのは、この関係を宰領するムイシュキンの言はば魔性によるのだが、彼自身、自分の魔性を、明らかに意識してはゐない」

この小林のことばは、この恋愛関係の特質を簡潔に要約している。
そして、さらに記す。
「彼らの演ずるものは、外見はどう見えようとも、恋愛劇でも心理劇でもない、悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何の責任も持たない。言行に責任を持たぬ人間等の手によつて凡そ劇は出来上らないのである。繰り拡げられるのはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」

この小林のことばは、『白痴』という作品の見事な分析である。
そればかりではないと粟津はみている。
ラスコーリニコフの孤独にその身を重ねあわせた小林の批評意識が、ムイシュキンを通して、その批評意識の新たな、危機をはらんだ相を確認しているという。

小林はまた記す。
「ムイシュキンは常に不安であるが、これは殆ど不安な意識とさへ呼び難いもので、彼が不断に人前に曝してゐるものは、言はば生れたばかりの命の動揺であり不均衡である」
このような小林のことばから、小林が批評に際して、ムイシュキンのように、対象の前でおのれが、「生れたばかりの命の動揺」や「不均衡」と化するのを覚えたのではないかと、粟津は推察している。そして、ムイシュキンをこのような姿にまで追いつめたドストエフスキーの歩みが、小林自身の批評の歩みの背後でなまなましく響いていたとする。
いわば、小林は、ラスコーリニコフとムイシュキンとのうちに、小林自身の批評の危機にあふれた両極を見たという。そして、ドストエフスキーが、この二人の人物を、ある感覚や予覚と化しながらその生の精髄を描き出したことのうちに、小林自身の批評の可能性を見たとする。

小林は、『白痴』論の冒頭で、ドストエフスキーの作家的特質について語っている。ドストエフスキーが「何を置いても深刻な生活人」であり、「その表現とは、その生活情熱の分析に他ならなかつた」と小林は記す。

そして、フロベールとドストエフスキーとを比較して、次のように正確な指摘をしている。
「例へば、フロオベルの様な何を置いても冷酷な観察家であつた人が、若しドストエフスキイの様な絶望的な境遇にあつて制作を強ひられたなら、自分の仕事を守るために専ら境遇と戦つたであらう」

そしてドストエフスキーの場合は、
「絶望的な境遇を彼がいかに嘆かうが、実際には境遇は彼の仕事にかけがへのない内容を提供してゐるのである。動かし難い必要物と化してゐるのだ。こゝからフロオベルの均整のとれた静観的リアリズムとは凡そ反対な荒々しい実践的な彼のリアリズムは発してゐる」
ドストエフスキーとフロベールのリアリズムに関して、荒々しい実践的なリアリズムと、均整のとれた静観的なリアリズムを対比して捉え、ドストエフスキーの場合、絶望的な境遇がその小説の内容を提供したという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、217頁~219頁)

小林秀雄の批評の信条について


「重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういふ具合に生きるかといふ事だ」と小林は記す。
これは、批評家として出発した当初からの小林の批評の信条にほかならなかったと、粟津は捉えている。
この信条を、ラスコーリニコフという危険な存在を通して確かめることに、『罪と罰』論における小林の批評的冒険があったとする。


老婆殺しを犯した大学生ラスコーリニコフは、反逆児だが、19世紀文学がばらまいたどの反逆児にも似ていないと小林は言う。
「彼は飽くまでも見すぼらしい。どういふ意味ででも彼を理想化する余地はないのだ。彼が好んでかぶるニヒリスト、乃至はマニヤックの仮面も、その効用を彼に説く力はない。むごたらしい自己解剖が彼を目茶々々にしてゐる」という。
そしてこの奇妙な反逆児にとっての、この事件の空想性、架空性を精妙に分析している。

小林は、『罪と罰』という作品の内部に閉じこもり、次のようなラスコーリニコフ像を描いている。
ラスコーリニコフとは、「自分の行動が確然たる自分の思索の結果である事を、はつきり知つてゐる一方、自分が行動に引摺られる単なる弱虫である事もはつきり知つてゐる」といった男である。
(小林は、こういう男が「どの様な身振り」で老婆を殺すかということについて、眼をこらした)

小林は、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの孤独の独創性に注目した。
(J.M.マリーは、ラスコーリニコフのあいまいさと不徹底とを見た。ラスコーリニコフの行為の架空性に飽き足りず、「寧ろスヴィドリガイロフにこの小説の真の主人公、この作者の真に新しい言葉を見付け出さう」としたと、小林自身も触れている)

ラスコーリニコフにとって、「孤独はあらゆる意味で人生観ではない、人生にのぞむ或る態度たる意味はない。彼は孤独の化身なのである」と小林は言う。
「彼は自分の孤独をどういふ意味ででも観念的に限定してゐないのである。彼にとつて孤独とは『啞で聾なある精神』だ。彼は孤を抱いてうろつく。そして現実が傍若無人にこの中を横行するに委せるのだ。彼はたゞこれに堪へ忍ぶ」という。

このような小林の評言は、のちに書く『実朝』や『西行』のなかにあっても、さしつかえないようなものであると、粟津は理解している。
つまり、小林が、その後の文章のつねに変わらぬ主調音となった感のある「孤独」という観念を、ラスコーリニコフの孤独を通して確認したように思われるという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、204頁~209頁)



≪粟津則雄の小林秀雄論 その1≫

2021-06-13 18:34:11 | 文章について
≪粟津則雄の小林秀雄論 その1≫
(2021年6月13日投稿)

【はじめに】


 今回と次回のブログでは、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
 今回は、小林の批評や歴史観の特色、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』および本居宣長論などを中心に述べてみたい。
 


【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)




粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・粟津則雄の著作について
・小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より
・小林秀雄の歴史観 
・美しい『花』と『花』の美しさ
・「倫理と無垢」
・小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』
・小林秀雄の本居宣長論
・宣長の『源氏』論と『古事記伝』







粟津則雄の著作について


「あとがき」にあるように、若年期の粟津則雄にとって、小林秀雄は、「決定的な意味を持った文学者」であったようだ。
戦争中、中学生の頃に読んだランボオについての翻訳と評論や『ドストエフスキイの生活』に接して以来、この批評家の強い魅力の渦中に引きこまれたという。
粟津則雄の『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)という著作は、粟津が雑誌「海」の昭和53年4月号から昭和55年12月号まで、25回にわたって連載したものである。小林秀雄の伝記的部分への言及は、必要最少限にとどめ、能うかぎり、小林秀雄の作品そのものに即しながら、その思考の展開を跡づけたという。

そこには、さまざまな事件や問題に対する小林の分析や判断が見てとれるようだ。小林の時代的限界や、その思考の歪みをあげつらうことはせず、この批評家の仕事のあるがままの姿を見定めようとしたという。
(わが国の近代文芸批評がはらむ深い不幸や宿命を粟津は痛感しているが、小林の仕事との苦い対話を重ねることによって、この不幸を乗りこえる必要性を、粟津は説いている)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、452頁~456頁)

小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より


粟津による小林秀雄像としては、一方では、「理智の極端な速度」の持主であり、「知的倦怠」を嚙み続けてきた人物であり、今一方では、その意識を「生活欲情」と結びつけずにはおかぬ「生ま生ましくド強(ぎつ)い眼」の持主でもあったといえる。
このように、一見両立しがたい、このふたつの特質が共存していたようだ。
小林は、この両者を、ともにおのれの精神の機能として受け入れた。単なる共存であったものを、鋭く緊迫した精神の劇にまで高め、このような諸機能の全体的な活動のうちに、おのれの個性を現前させようとした。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、115頁~116頁)

小林の批評は、次の二つの柱を展開しているとされる。
〇無秩序で混沌とした現実のありようの無私な受容
〇そういう現実に耐える「思想」

小林にとって、「読者」や「大衆」は「思想」の体現者といってもいい。
(両刃の剣とも化すのだが)

小林は、「純文学に新しい命を吹き込む」手段として、純文学が「健全な物語性、通俗性を取返す」べきだと主張している。
また、「小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいといふ、実に通俗な人情に、その源を置いてゐる。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである」と述べている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、266頁~267頁、270頁)

小林は、『アシルと亀の子 Ⅰ』では、中河与一や大宅壮一の著書に、『アシルと亀の子 Ⅱ』では三木清の評論に、辛辣な論難を加えている。
これらの著書や評論が、その立場も方法も異なっているにもかかわらず、「虚無」に身を焼くこともなく、それゆえに個物としての人や作品を受け入れることもない、中途半端で観念的な代物という点で共通しているからである。

たとえば、中河与一の著書は、「形式の動的発展性図式」なるものを核として文学を形式の展開としてとらえたものらしい。小林の「虚無」は、「己れの芸術活動を、己れの他の活動と同一水準面に並列させて眺め始める事が出来ない様な自意識が、芸術理論を築かうとするのは無意味なわざだ」という評言として現われる。
(「虚無」にまでいたりつくことによって具体的な個物としての人や作品を受け入れるという小林の批評の構造とかかわってくると、粟津は捉えている)

『アシルと亀の子 Ⅱ』という評論には、「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」という、あまりにも有名になりすぎたことばがある。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、102頁~104頁)

小林秀雄の歴史観


小林は、歴史が新しい解釈などでびくともするものではないことを合点するに応じて、「歴史はいよいよ美しく感じられた」という。
ところで、森鷗外はその晩年の厖大な考証を始めることによって、「恐らくやつと歴史の魂に推参した」。『古事記伝』にこめられた「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という思想こそ、「宣長の抱いた一番強い思想」である。このように、小林は主張する。
そして、「解釈だらけの現代には一番秘められた思想である」という。

この点には、粟津は異論はない。しかし、このようなことを主張する小林には、『渋江抽斎』や『古事記伝』の作がなことが気にかかるという。粟津は、小林が史伝小説や古典註釈を行なうべきだったと、言っているのではない。鷗外や宣長にとっての『渋江抽斎』や『古事記伝』に相当するものは、小林にとっては『無常といふ事』という書物であったとは言い得ないとする。
この『無常といふ事』には、『渋江抽斎』や『古事記伝』のような書物で支えられることによって、はじめてのびやかに展開する思考を、それだけで虚空に浮かびあがらせているようなところがあると、粟津は評している。

小林にとって、歴史とは、「人間の生死に関する思想」から、さまざまな「夢」をぬぐい去り、『当麻』で叙述したような「単純な純粋な形」に収斂する場にほかならない。

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、337頁、341頁)

美しい『花』と『花』の美しさ


小林は、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」ということばを引き、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と言う。
これは、小林の思考を端的に示すことばとして有名になった。
(粟津によれば、これは『当麻』で述べた中将姫とルソーとの対照のヴァリエーションであるとする)

たしかに、「『花』の美しさという一般化が、人びとを現に在る「美しい『花』」から遠ざけるとは言いうる。物数を極め、工夫を尽すのは、そういう一般化から「美しい『花』」を救い出すための、必須の手段にほかならない。

ここで粟津は、次のように、解説している。
だからといって、「『花』の美しさ」を、現代の美学者がもてあそぶ一般概念に解消してしまうのは、「美しい『花』」そのものを、痩せた、孤立した存在としてしまうことになりかねないと。

かつてマラルメは語った。
「私が『花』と言う。すると、現実のどんな花束でもないような純粋な花の観念そのものが、音楽的に立ちのぼる」と。
粟津は言う。
この「花」も、まさしく「美しい『花』」であるが、「『花』の美しさ」は、ここでは、「美しい『花』」を支える要素にほかならない。それはたしかに、「美しい『花』」を消し去りかねないが、そういう危うい性質を通して、「美しい『花』」に、充実した豊かさを与える。

一方、小林は、世阿弥が言いたいのは、「肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙も深淵だから」ということだと言う。
世阿弥の思想としてはそう言いうるだろうが、それを、小林のように、われわれすべてがとるべき態度となしうるかどうかは、粟津は疑問とする。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、345頁)

「倫理と無垢」



評論集『無常といふ事』には、『当麻』と『無常といふ事』のほかに、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』という四篇のエッセーがおさめられている。執筆はこの順序になっている。このような対象を選び、こういう順序で書いたということは、小林秀雄の批評の質と構造を端的に示していると、粟津は考えている。
(『無常といふ事』は、「文学界」(昭和17年6月号)に、『平家物語』は翌月の「文学界」に発表された)

『無常といふ事』の末尾で、
「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である」という。
こうした言い方のなかに、小林の姿勢をはっきりと見てとることができる。

そして、『平家物語』は、「無常」のなかで生きる人びとの生そのものを見定めようとした試みであったという。この平家物語論においても、「平家のあの冒頭の今様風の哀調」を、人びとにとってのつまずきの石であるとする。
そこには、平家の作者の思想や人生観がこめられているにはちがいないが、平家の作者は優れた思想家ではない点が肝腎だと指摘する。そして、作者を動かし導いたものは、叙事詩人の伝統的な魂であったと、小林は主張する。
(平家の作者が優れた思想家ではなく、「たゞ当時の知識人として月並みな口を利いてゐたに過ぎない」という。もちろん、この点には、異論もある)

このとき、小林は、平家物語に関する観念的解釈を乗りこえようとしていたようだ。小林の動機の一つには、ある史観によって過去を再構成しようとする志向に対する嫌悪があったといわれる。

「平家の哀調」は、仏教思想などに由来するものではなく、「この作の叙事詩としての驚くべき純粋さ」から来ると小林はいう。つまり「平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢ない意匠に過ぎぬ」とする。無常の思想が、「時代の果敢ない意匠」にすぎない、「厭人も厭世もない詩魂」は、さまざまな思想が次々と脱落していったのちに現われ出るものであった。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~348頁)

粟津則雄は、「心理と倫理」において、「無垢」な「私」という観念は、小林の仕事のなかで、さまざまに転調しながら、独特の成長をとげると述べている。
たとえば、ドストエフスキーに関する仕事においても、もっとも本質的な観念としてそれが見られる。
また、『無常といふ事』や『モオツァルト』において、それが美しい結晶を示す。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、131頁)

小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』


小林は、思想を超えたものを、思想に迷いこむことによってではなく、思想から醒めることによって見ようとする。
平家の作者の思想は当時の知識人の常識であり、無常の思想は「時代の果敢ない意匠」にすぎぬというような言い方は、そういったことの現われであると、粟津はみる。

『平家物語』に続いて、翌8月号の「文学界」には、『徒然草』が発表される。
このエッセーで小林が描き出している兼好には、小宰相が見たような自然を見てしまった批評家とでも言いたいようなところがあるという。小林は、このエッセーの冒頭で、兼好にとっての「つれづれ」ということばの意味について触れている。このことばのなかに、兼好ほど辛辣な意味を見出した者は、兼好以前にも以後にもなかったとする。

小林によれば、「兼好にとつて徒然とは『紛るゝ方無く、唯独り在る』幸福並びに不幸」であった。そして、そのような徒然に身を置いた兼好のうちに、何かを書いたところで心が紛れるわけではなく、「紛れるどころか、眼が冴えかへつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」を見てとっている。

このことは、当時の小林にとっての批評が置かれた場所を端的に示していると、粟津は捉えている。小林にとっての批評の辛さは、彼があらゆる物の根底にあの自然を見てしまうという、まさしくその点から発しているとする。

あの自然を見た小宰相は、やがて「南無ととなふる声共に」海に身を沈める。一方、小林は、このような自然を心に抱きながら、なおも生き続けなければならない。
このような自然そのものから現に在る物を見返さねばならない。
それに際しての複雑な工夫、それが小林にとっての批評にほかならないと、粟津はいう。

小林が『徒然草』のなかの「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」という文章を引いて、兼好は「利き過ぎる腕と鈍い刀の必要を痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然
草の文体の精髄である」と評する。
このことは、さらには小林自身のことをいっているようだ。

『徒然草』に続いて、小林は『西行』を書き、次いで『実朝』を書く。
小林は、『平家物語』で「自然」を、『徒然草』で「批評」を主題とした。そして、西行と実朝という二人の歌人を通じて、小林の精神のもっとも本質的な構成要素である「倫理」と「無垢」という主題をとりあげた。

小林の西行論の特質は、この生得の歌人のうちに、内省的な一人の倫理家を見ているという点にある。つまり、生得の歌人とこういう倫理家とが、西行の歌の姿と調べのなかで、独特の均衡を作りあげているさまを、見定めようとしている点にある。

小林は、西行という存在の意味について、次のように述べている。
「平安末期の歌壇に、如何にして己れを知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、饑饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた。彼の天賦の歌才が練つたものは、新しい粗金であつた。事もなげに古今の風体を装つたが、彼の行くところ、当時の血腥い風は吹いてゐるのであり、其処に、彼の内省が深く根を下してゐる(後略)」

これは、西行のもっとも深いところを的確にとらえた評言であると、粟津はみなしている。つまり、この評言は、小林自身の精神のありようをも、あざやかに照らし出しているという。
西行はこういう歌人であった。
そのような歌人でありえたのは、西行の内省が、ただおのれの内部だけに閉じた運動ではなく、おのれをこえたものによってつらぬかれ、突き動かされていたためであるようだ。

俊成や定家とくらべた場合、西行の歌のはらむ強い倫理性は直ちに見てとりうる。
そして、西行の倫理性もまた、いわば倫理をこえたものによって激しくゆり動かされた。内省が内省をこえようとし、倫理が倫理をこえようとする、そういう点に、小林は西行の歌が生れ出る立場を見ていた。(これは、小林自身の中心的な主題だった)

兼好の批評は、自然と倫理とをおのれのなかで、はげしく衝突させるところから生れたと小林は見ている。西行の歌もまた、同様の衝突を、その内的動機としていた。
小林の西行像は、「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者」という姿で描かれた。
烈しい内省がきわまるところに、ある自由と化する一点を目標とし、この一点を純粋なかたちで体現する存在が西行であったようだ。

このような小林の西行像について、粟津はコメントを付している。
内省と自由が結びつく一点に、性急に西行を現前させようとしているようなところが、小林にはあると、粟津はいう。
たとえば、西行の歌に、次のものがある。
「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」
これに対して、小林は次のように言う。
「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る鋭敏多感な人間を素直に想像してみれば、作者の自意識の偽らぬ形が見えて来る。西行とは、かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み、前人未到の境に分入つた人である」

この点、粟津は、「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る」ことと、「かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃」むこととを結ぶものが、気にかかるとする。
西行は、そのようにして前人未到の境に分け入ったにはちがいないが、西行がえた自由には、「やつかいな述懐」がはらんでいた生のざらついた雑駁な手触りを、あまりにも見事におのれのなかにとかしこみすぎているようなところがあるという。

小林は、『西行』の末尾で、次の有名な歌を引いている。
「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」
そして、小林は次のように述べている。
「一西行の苦しみは純化し、「読人知らず」の調べを奏でる。人々は、幾時とはなく、こゝに「富士見西行」の絵姿を想ひ描き、知らず知らずのうちに、めいめいの胸の嘆きを通はせる。西行は遂に自分の思想の行方を見定め得なかつた。併し、彼にしてみれば、それは、自分の肉体の行方ははつきりと見定めた事に他ならなかつた」

これは、西行の肉体もまた、そのあるがままの姿で、その自由のなかでの純粋なヴィジョンと化したと、粟津は解釈している。そのような西行のありようは、このまま小林の極点をなしているとする。

西行の歩みは、倫理がきわまるところ無垢に達したといえる。
若年期のランボオ論以来、小林の批評の中心にあった無垢という主題は、『西行』に続いて書かれた『実朝』において、そのもっとも純粋な表現を与えられたと、粟津はみている。

小林は、『実朝』の冒頭で、「僕等は西行と実朝とを、まるで違つた歌人の様に考へ勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである」と述べている。西行と実朝を結びつけているのは、倫理と無垢との美しい合体であった。
もちろん、そのあらわれようは、それぞれにおいて異なっている。
(この点、西行の場合、ラスコーリニコフを思わせるようなところがあり、実朝の場合、ムイシュキンを思わせるようなところがあると、粟津はみている。)

そして、西行も実朝も、その生や制作は、ある強い倫理的動機につらぬかれていて、たとえ彼らが、いかに新古今風の美学に近づいているように見えても、その歌の姿ははっきりと異なると付言している。
たとえば、実朝には、西行のように、ひたすらおのれに執した執拗な内省の動きは感じられないとする。「やつかいな述懐」にのめりこみながら、それを「歌の唯一の源泉と恃」むというようなところは見られない。

実朝の場合、その倫理性は、彼の感覚にとけこんでしまっているようにさえ見える。
小林は、実朝について、次のように述べている。
「頼家が殺された翌年、時政夫妻は実朝殺害を試みたが、成らなかつた。この事件を、当時十四歳の鋭敏な少年の心が、無傷で通り抜けたと考へるのは暢気過ぎるだらう。彼が、頼家の亡霊を見たのは、意外に早かつたかも知れぬ。(中略)さういふ僕等の常識では信じ難く、理解し難いところに、まさしく彼の精神生活の中心部があつた事、また、恐らく彼の歌の真の源泉があつた事を、努めて想像してみるのはよい事である」

そして、小林は、このような源泉から生れる実朝の歌について記す。たとえば、
「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめたまへ」の歌について、
「彼は、たゞ、『あめやめたまへ』と一心に念じたのであつて、現代歌人の万葉美学といふ様なものが、彼の念頭にあつた筈はない」という。
さらに「殊更に独創を狙つて、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、たゞ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまゝ彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだらうか」という。

小林のこのような分析は、実朝の生と制作をつらぬく、無垢と倫理性との合体と、その独特のありようを、的確に示している。
実朝に世間一般の歌人に見られるような成熟は見られない。
小林は、西行について、「彼の歌は成熟するにつれて、いよいよ平明な、親しみ易いものとなり、世の動きに邪念なく随順した素朴な無名人達の嘆きを集めて純化した様なものとなつた」と評している。

実朝には、そのようなかたちでの成熟さえなかった。実朝のなかには、人生の時間は流れていなかったとさえ言えると、粟津はいう。何ひとつ拒むことなく、すべてを受け入れる実朝の無垢は、ランボオと同様、おのれを沈黙の状態において、おのれのうえを人生の時間を通過させただけだとも表現している。

そして、西行を論じた小林が、次いで実朝を論じたのも、よくわかるとする。
西行には、無垢と倫理性とのあいだの激しいドラマが見られたが、実朝には、それが消え、すべてがただあるがままに実朝のなかに流れこんでいる。ここには無垢の観念のひとつの極限がある。

次に、実朝の歌の鑑賞について、小林の記述を粟津は紹介している。
実朝の歌「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」について、小林は次のように言う。
「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあつたといふより寧ろ彼の孤独が独創的だつたと言つた方がいゝ様に思ふ。自分の不幸を非常によく知つてゐたこの不幸な人間には、思ひあぐむ種はあり余る程あつた筈だ。これが、ある日悶々として波に見入つてゐた時の彼の心の嵐の形でないならば、たゞの洒落に過ぎまい」

もうひとつの歌
「うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」
この歌について、小林はいう。
「実に暗い歌であるにも拘らず、弱々しいものも陰気なものもなく、正直で純粋で殆ど何か爽やかなものさへ感じられる。暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌はうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、こゝには鳴つてゐる」

これらの小林の鑑賞は、従来の通念を一挙に打ち破った精妙な鑑賞であると、粟津は評価している。鑑賞にともないがちな迂路に迷いこむことなく、また考証といった作業にのめりこむことなく、集中力をもって、ある中心へ向かっているという。
(それは実朝の中心であると同時に、小林自身の中心でもある。それは小林の批評に一貫する態度である)

ところで、小林は、『平家物語』『徒然草』『西行』について、その思考を推し進めてきた。
〇平家の作者における、無常の思想と厭人も厭世もない詩魂との結びつき
〇兼好に見られる「自然」と生の結びつき
〇西行に見られる無垢と倫理性との結びつき
そして、実朝にいたって、小林の思考はひとつの円を結び終ったように見えると、粟津は理解している。

小林は、実朝について、次のように記す。
「彼には、凡そ武装といふものがない。歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何等の術策も空想せず、どの様な思想も案出しなかつた。さういふ人間には、恐らく観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ様な歴史の動きが感じられてゐたのではあるまいかとさへ考へる」

小林もまた、「歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける」のに耐えていた。そのことによって、観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ歴史の動きを感じていた。
それは、小林が『実朝』で、実朝と彼をとりまく社会との微妙な交感について、精妙な分析を行っていることからもうかがいとれると、粟津はいう。
小林の場合、このようにして、歴史の動きを感じとることが、歴史をあまりに内面化することとなった。小林としては、このようなかたちで、おのれを純化するほかなかったようだ。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~360頁)



小林秀雄の本居宣長論


小林秀雄は、昭和40年の6月号から、雑誌「新潮」に『本居宣長』の連載を始めている。
それ以前、小林は、昭和33年から5年にわたって、ベルクソンの思想を綿密に分析していた。

小林は、ベルクソン批評になおもつきまとう合理的分析の作業を、宣長を論ずることによって、さらに乗りこえようとしたと、粟津は捉えている。
ベルクソンを論ずるにあたって、その遺書から小林は始めているが、同様に、宣長論でもまず宣長の墓と遺言書について語っている。粟津はこの点に注意を促している。

宣長は、遺言書のなかで、墓の作りを図解入りで綿密に指定し、おのれの葬式、法事、墓参についても事こまかに指図している。小林は、この遺言書が宣長の「人柄を知る上での好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言ひたい趣きのもの」であるという。

そして、そのような宣長を「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家」と小林はみた。宣長にとって、遺言書は、その思考の徹底がおのずから生み出したものであったようだ。だから、「遺言書と言ふよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」と小林は記している。
この点、粟津は次のように解釈している。
死に対する宣長のこのような姿勢には、宣長自身に対する小林秀雄の姿勢と微妙に対応するところがある。小林は、宣長を論ずるに当って、死に対する宣長の姿勢を模倣することで始めたと解している。そして、宣長論は、小林自身の遺言書といった色合いを帯びると、粟津はみる。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、421頁~428頁)

小林は、宣長の思想の具体的な分析に入るに先立って、契沖、藤樹、仁斎、徂徠といった国学者や儒家について語っている。
小林が目指しているのは、思想史的な影響関係の解明でなく、彼らの肉声に耳をかたむけることである。

契沖は、激しい理想主義と事実に対するきわめて即物的な眼をあわせ持っていた。藤樹も、外部の劇をそのままおのれの内部の劇と化した孤立した意識を持っていた。
仁斎も、一徹な内省によって、『論語』や孔子の動かしようのない「姿」に直面し、それを「見て見抜き」、「『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と、こちらが相手に動かされる道」を行った。
徂徠の学問の支柱には、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向ふ『史学』との交点の鋭い直覚があると、小林は評している。

この徂徠像には、小林の歴史観が濃厚にかげを落としていると、粟津はみている。
小林もまた、人生如何に生くべきかという問いと、歴史を深く知ることとの交点に、その思考を注いできた。
契沖から徂徠の像は、小林の思考を鋭く体現しており、それぞれが小林の自画像であるともいえる。
(たとえば、画家がさまざまな人間の肖像画を描いた場合、それぞれ異なった人相をしていながら、不思議に画家自身に似通ってくるのに類似していると、粟津は説明している)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、432頁~437頁)

宣長の『源氏』論と『古事記伝』


「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」が極まるところ、われわれは「死の観念」に出会う。
われわれに持てるのは、死ではなく「死の予感」だけである。ただ、われわれは、愛する者を亡くしたとき、「死んだのは己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれる」。
このように、「他人の死を確める」ことによって、われわれの死の観念は完成する。
そして、小林は、このとき「彼は、どう知りやうもない物、宣長の言ふ、『可畏(カシコ)き物』に、面と向つて立つ事になる」と言う。
(これは、宣長の『源氏』論と『古事記伝』をつなぐ、もっとも本質的な流れであると、粟津は解している)

小林秀雄は、われわれが歴史に出会う契機として、子供を失った母親の悲しみについて、くりかえし語っていた。
小林は、この「可畏き物」に触れることによって、小林の批評の究極に触れたと、粟津は捉えている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、450頁~451頁)