(2021年12月31)
【はじめに】
澤田昭夫氏は、1928年生まれで、1951年東京大学西洋史学科卒業で、筑波大学名誉教授であった。近代イギリス史、ヨーロッパ史の専攻である。
以前のブログで、澤田昭夫『外国語の習い方―国際人教育のために―』(講談社学術文庫、1984年)を通して、英語学習の方法を考えてみた。
今回は、次の澤田昭夫氏の著作を通して、「文章の書き方」について考えてみたい。
〇澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]
〇澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]
【澤田昭夫『論文の書き方』(講談社学術文庫)はこちらから】
論文の書き方 (講談社学術文庫)
【澤田昭夫『論文のレトリック』(講談社学術文庫)はこちらから】
論文のレトリック (講談社学術文庫)
【澤田昭夫『外国語の習い方―国際人教育のために―』(講談社学術文庫)はこちらから】
外国語の習い方―国際人教育のために (講談社学術文庫 (666))
書くことのふたつの側面
澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]では、書くことには、ふたつの面があるという。
①資料を組み立てる技術的形式的な面
②集まったデータをもとに解釈する、理論化する、広い意味で説明するという内容面
両者は互いに密接につながっているが、澤田昭夫は第6章では第一の面をとりあげている。
トピック確定の5条件
選んだトピックを論文のトピックとして確定する前に、次の5点を確認しておかねばならないと澤田は忠告している。
①このトピックの研究に必要な資料があるか
②自分の力で扱い切れるか
③新しい研究トピックであるか
④自分はこのトピックに興味、関心をもっているか
⑤意義のある研究トピックか
とりわけ、①について、経験科学の領域でトピックを考える場合には、まずどんな種類の資料があるかを調べる必要がある。その際に、自分で抽象的にトピックを考えて後で資料をおしつけるというのではなく、資料のなかからトピックをうかび上らせるというふうでなければいけないという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、24頁~25頁)。
幹線のわかる構造
書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なことであると澤田は強調している。
イギリスの物理学者レゲットは、日本の物理学者が書く英語論文を直していたそうだ。日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドトラック)がたくさんあって、何が幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べている。これは構造的思考の欠如を指摘した批評だと澤田は解釈している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、103頁~104頁)。
起承転結ではこまる
『論文の書き方』と称するハウ・トゥーものの中には、わかりやすい文章を書くようにすすめる文章作法論が多いが構造についてふれたものは少ないようだ。たまに構造にふれているものがあると、「『起承転結』の法を用いよ」と記してあったりする。「起承転結」とうのは、「書き出し→その続き→別のテーマ→もとのテーマ」という漢詩の構成法」である。しかし、それを使って論文を書けば、レゲットが批判したように、何が幹線なのかよくわからないものが出来上がってしまうと澤田は戒めている。
澤田は次のような具体例を挙げている。
①起承転結の典型
「この川べりで昔AがBと別れた」→「Bは悲壮な気持だった」→「昔の人はもういない」→「この川の水は今もつめたい」。これは「此地別燕丹、壮士髪衝冠、昔時人已没、今日水猶寒」(「駱賓王」)をもじったものという。
②この論法で論文を書くと次のようになるという。
序論「天皇制は問題である」→第2章「天皇制についてはいろいろの見方がある」→第3章「イギリスの王制はエグバートから始まる」→結論「天皇制はむずかしい」
起承転結は、詩文の法則としては立派に役を果たす原則だろうが、これを論文に応用してもらっては困ると澤田はみなしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、104頁~105頁)。
構造的なアウトラインのある論文
やさしいことば、わかりやすい文章ということは間違っていないが、論文にとって大切なのは論文全体がやさしく、わかりやすく書けていることで、それは何かというと、構造的に組みたてられているということであると澤田は強調している。
「日本語は主語や目的語がはっきりしないことばだから、論理的にはっきりしたものが書けない」という意見についても、澤田は批判的である。日本語はたしかに、よく主語が省略されたりするが、前後の関係から主語が何であるかは推察される。問題はあくまで文章の問題ではなく、全体構造の問題であり、日本人でも、そして日本語を用いても、訓練さえすれば、構造的に整った論文を書くことができるはずであるという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、104頁~105頁)。
また、自然にアウトラインを発酵させることが大切であるという。論文の構造をチェックするために紙にアウトラインを書きだしてみることを勧めている。ちなみに絶対に避けるべきことは、何のアウトラインもなしに、猪突猛進、書き始めることであると注意している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、107頁)。
理解する読み方~「第10章 読む」より
澤田がいう「読む」ということは、単に情報や一時的娯楽のために「読む」ことではなく、感受性、想像力、思想を豊かにするために「読む」ことをさす。広く深く「読む」ことは、よく「書く」ことの大前提で、優れた論文や著作は、「読む」ことによって豊かにされた精神からのみ生まれてくるという。
「読む」には「書く」と同様に、一定の技術、「読む技術」(art of reading)が必要である。よく「読む」ことは「速読」と混同されがちである。「速読」も大切ではある。例えば、1分間に日本語なら少なくとも800字、横文字なら400語位を読みこなすというのは決して悪いことではなく、特に外国に留学する人にとっては不可欠の条件であろうという。
しかしそれより大切なのは、文字をことばとして理解するだけでなく、ことばの裏にある思想を理解する「読み」であると澤田は述べている。
「読む」ことを文法、論理、レトリックの立場からクローズ・アップして取り上げている。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、166頁~168頁)。
各部分の配分
論文の各部分、「序」「本体」「結論」の各スペースについては、きまった答えはないが、澤田は次のような大まかな目安を指摘している。「序」は5パーセント、「本体」は約85パーセント、「結論」は10パーセント。
「序」が「本体」の半分を占めたり、ひとつの章が「序」の半分になったりするのはつりあいの点から見て、あるべからざることである。このような過度の不均衡は論じ方の欠陥に由来しているという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、156頁)。
アドラーの三段階の読書法
アドラーは、1「分析的読み」、2 「総合的読み」、3「批判的読み」という三段階の読書法
この三つの「読み」で、構造的に「読む」つまり深く理解する習慣を身につけたら、それでももっとも堅実な「速読」の技術を体得したことにもなる。
文芸作品を「読む」について
ノン・フィクションの書物や論文は、歴史哲学、経済、自然科学などの専門分野別によって多少読み方の違いはあっても、先述した3つの「読み」で読めるとする。
それに対して、文芸作品には、論理的整合性などを要求することはできないから、その読み方はノン・フィクションものの読み方とは違うはずである。
それにもかかわらず、1「分析的読み」の3つの着眼点は次のようにいいかえて応用することができるという。
①「これは文学のなかのどういうジャンルの作品か」(小説、抒情詩、劇作など)
②「作品の統一原理は何か」(小説ならプロット)
③「どういう部分にわかれているか」(危機、クライマックスなど)
2 「総合的読み」の①、②、③つまりノン・フィクションものの「概念」「命題」「論議」に対応するものは、
①挿話、事件、登場人物、会話、感情、しぐさ、行動など
②場面、状況、背景
③プロットの展開ということになる。
(ただし、こういう対応は小説や戯曲に見られるもので、詩文にはあてはまらない)
3「批判的読み」の批判の尺度は、文芸作品の場合
「真実」が「事実」ではなくて「美」であるから、その「読み」の内容も変わってくるかもしれない
もちろん、偉大な文学といわれるものは、美的形式だけでなく、その裏に人生の真理のようなものを示唆している作品であろう。その限りにおいては、「真理」も文芸作品と無関係ではなく、したがってノン・フィクションの「読み」がもっと直接に生かされる。
しかし、いかに深い思想を内包した作品でも、文学作品である限り「美」の尺度によって測らねばならない。
そこで、次の5つが審美的批評の着眼点として考えている。
①「どれだけ統一、まとまりがあるか」
②「どれほど複雑、微妙であるか」
③「どれほど詩的真実性があるか」
④「読者の意識や感情を、日常性の渾沌から、どれだけはっきりと目覚めさせるか」
⑤「どれだけ完全に読者を想像の新しい世界にひきこむか」
「分析」「総合」「批判」の3つの「読み」で、構造的に「読む」つまり深く理解する習慣を身につけたら、堅実な「速読」の技術を体得したことにもなると澤田はみている。
結局ほんとうの「技術」、ハウ・トゥーは「やり方」(how to do)ではなく、「思考法」(how to think)、「理解法」(how to know)だからであると澤田は説いている。これは「読み」についてだけでなく、「書く」「話す」「聞く」のすべてについていえる真理だという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、180頁~182頁)。
総合的読みの中で、文章から命題・判断で大切なのは、判断を示す命題を含む文章を見出すことである。
例えば、アードラーの『本の読み方』に出てくる重要な命題を表現するのは「読むとは学ぶことである」という文章であると澤田は解説している。そういう文章は、段落の初めのほうにトピック・センテンスとして出てくることが多いので、戦術的には「段落の初めの方に注意を集中せよ」と「速読法」でいわれるわけである(173頁)。
文献カードについて
文献カードの存在理由のひとつは、一度使った資料を後でもう一度検証したいというときに、すぐにその所在を明らかにしてくれるということであるようだ。研究者は常に文献カードを携帯していて、資料が見つかり次第、それをカードにメモしていく習慣をつけるべきことを勧めている。
そして文献カードには批評・コメントといった情報を加えるとよいとする。批評・コメントというのは、利用した書物や論文に関する簡単な読後感のことである。
例えば、
・ 「根本史料による裏づけ優秀」
・ 「A点に関して詳しいが、B点について弱い」
・ 「教条的、公式的マルクシズム」
・ 「民族主義、ファシズム的宣伝」
・ 「学問的に無価値」
というような具合であるという。
長い文章でなく、英語でいう「電報文体(デモグラフィック・スタイル)」で、カードの下のほうに書いておくとよい。雑誌などに、自分の使った資料に関する書評がでていたら、その所在についての情報も記しておくと便利である。
この種の批評・コメントは、資料の用い方について貴重なコメントを与えてくれるし、いわゆる研究史的論文(ビブリオグラフィック・エッセイ)を書く場合に特に役立つ(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、55頁~56頁、61頁)。
「書く」ということ
「書く」というのは内容的には、資料に即して確立された正確なデータを、データに即して構成した一般概念によって説明、解釈することであると澤田は理解している。この基本的ルールを無視し、先験的な目的や主観的確信をすべてに先行させると、マルクスの『資本論』のように、1750年までにすべてのヨーマン(自作農民)が土地を失ったとか、18世紀の囲い込みが耕地から牧羊地への転換を命じたとか主張し、事実に適合しない「疎外」というような哲学的一般概念をたよりに、誤った因果関係を導き出すことになるという。同様なことは、マルクスと対決しながらも、歴史を社会学の理論に従属させたマックス・ウェーバーについてもいえるとする(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、140頁)。
よく「読む」技術は、「話し方教室」で教えているような心理的技術の問題ではないと澤田はみている。「人前で恐怖心をもたないように」、「相手の気持を察して話せ」というような心理学的勧告も間違いではないが、「話す」ことはやはり第一に文法、論理、レトリックの問題であると捉えている。
ただ、話をわかり易く「面白く」するために、論文を文字で書くとき以上にやさしい単語や文章を用いることが必要である。「書かれた論文」と違い「話された論文」では、「読者」が単語の意味を前後関係をゆっくり調べ直して探索することができないからであるとアドバイスしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、183頁、194頁)。
5W1Hについて
データの整理、説明のひとつの手がかりになるのは、現代のジャーナリズムでいわゆる5W1Hである。
5Wと1Hというのは、①who、②what、③where、④when、⑤why、⑥howである。
①who(誰)というのは、
「誰がやったか」「誰がすべきか」「誰が必要としているか」「誰がもっているか」「誰がしてよいか」ということ。
②what(なに)は、
「なにが問題か」「Aはなにか」「Aはどういう意味か」
③where(どこ)は、
「どこで起こったか」「どこで生まれたか」「どういう場合に有効か」「どういう場合に可能か」「どこから生まれたか」「どこへ行くか」「どこをねらうべきか」
④when(いつ)は、
「いつだったか」「今はどうか」「昔はどうだったか」「将来どうなるか、どうあるべきか」「時は熟していたか、いるか」
⑤why(なぜ)は、
「Aはなぜそういったか」「Bはなぜそうだったか、そうであるか」「なぜここで、なぜ今、なぜあのとき」
「なぜ知らなければならないか」「なぜ失敗したか」「どういう動作からか」
⑥how(どういうふうに)は、
「どういう経過でそうなったか」「今はどうなっているか」「どういう手段で実現したか」「そのためにはどういう手 段が必要か」ということ。
5Wと1Hは、時間的アプローチと分析的アプローチの両方を別の形で表現したものといえるとする(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、125頁~126頁)。
ハウ・トゥーものについて
『論文の書き方』という同名の本には、有名な清水幾太郎のもの(『論文の書き方』岩波新書、1967年)があり、これはどちらかというと高尚な理論書である。それに対して、澤田は「序」において、自らの本を「もっと低俗な実用中心のハウ・トゥーもの」と謙遜している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、15頁)。
講演・講義についての澤田昭夫のアドバイス
講演・講義の準備には次の6点が必要であるという。
①聴衆と機会(おり)についての情報
②トピック選定
③資料集め
④資料の整理・組み立て
⑤ノート・メモ作り
⑥視聴覚設備の点検
例えば、③資料集めでは、「話す」場合も「書く」場合と同様に、資料集めが必要であり、話し手の主張には資料的裏付けがなくてはならないという。資料集めの時間が足りないときにものをいうのは、平生の読書で頭に入っている資料である。よく「話す」ことのできる人は、平生からよく読み、考える、知識や思想の豊かな人であると説いている。
また④資料の整理・組み立てに関しては、「口で書いて聞かせる論文」は「目で読ませる論文」よりも具体性を必要とするから、具体例をなるべく多くあげるようにするとよいとアドバイスしている。
よい話は「命題、根拠づけ、具体例」の集合である。「話し方」についてのある手引きは、よい「話し」の構成法としてPREPと称するものがあるという。Pはポイント(命題)、Rはリーゾン(根拠)、Eはエクザンプル(実例)を指す。もう一度Pがくるのは、よい「話し」は最後にもう一度論者の主張・命題を要約して繰り返すということである。
⑤ノート・メモ作りについては、一言一句すべてを書いたノートにせよ、メモにせよ、番号や見出しをつけて、主要命題や段落が何であるかを見やすいようにしておくことは大切である。
与えられた時間にうまくおさめるためのめどとして、一言一句を書き出したテキストなら、日本語で約300字~350字、英文で100~150語が1分間の話の分量だといってよいとする(189頁)。
日本語の場合、1分間の350字位が適当なスピードで、それをあまり越えると聴衆がついていけなくなり、ノートをとりたい人でも、ついペンを放棄してしまうと注意を促している(195頁)。
弁解がましい前置きは省略してなるべく早く「話の核心」(メディアス・レース)に入るのがよい。とりわけひとりの持ち時間が10分から20分しかないような自然科学系の学会などでは、余計な前置きは禁物であるばかりか、実験過程についての説明さえも省いたほうがよい場合があるようだと、木下是雄のみならず、澤田昭夫も述べている(192頁)。
研究・論文書きの時間表
研究・論文書きのしごとの段取り、時間表について澤田は興味深いことを記している。時間配分として、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)にもち時間の約3分の2を、論文書き(下書き、書き直し、総点検、清書)に残りの3分の1を使うのが原則であるという。
資料集め期間の8割強は資料研究にあてるのが普通で、これが論文を書くしごとの中核であると記している。つまり資料に沈潜して、それを研究し処理するのが論文書きの中心的しごとだという。
そして重要さの点でそれにまさるとも劣らないのは、トピック選びである。研究する、論文を書くというしごとの第一の課題は、何について研究し、書くかというトピック選びである(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、22頁)。
水もれのない論議・噛み合う反論
美しい論争、討論の前提は、論議の整合性、鋭さということである。
よくまとまった、説得力のある議論について、英語で「水もれしない」(hold water)という比喩的形容があるという。証拠資料データから主張命題への発展、一命題から次の命題への、前提から結論への発展がきちんとスキ間なくまとまっていて「水もれ」箇所がないことを意味すると説明している。
そして鋭い論議は、決して大胆で一般的な命題から成り立つものではなく、例外や限定条件をも考慮した、きめのこまかい命題から成り立っている。
論争における反論は、相手の主題命題にピッタリより添って、マークし、常に「水もれ箇所」がないかと気をくばり、あったらただちにそこを突くようなものでなくては反論にならないという。
澤田は例えば、次のような点を考えて「水もれ箇所」を発見、攻撃しなければならないとする。
①「主張命題の根拠となるデータは正確か、信憑性があるか」
②「資料は党派的偏見のあるものではないか、もう古くなってはいないか」
③「例証の例は典型的、代表的例か」
④「概念の定義が不充分ではないか」
⑤「命題は一般化できるものか、特殊ケースではないか」
⑥「あげられた原因は唯一の原因か」
⑦「示された因果関係と矛盾する実例はないか」
⑧「大前提は正しくても小前提が間違ってはいないか」
⑨「この命題は論議と無関係なものではないか」
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、202頁)。
「聞き上手」
話を構造的に理解しようとする人が「聞き上手」であるが、それには次のような点に留意するとよいという。
①「どういう種類の話であるか」
②「どういう問い、何についての話か」
③「どういう目的をもった話か」
④「どういう概念が重要か」
⑤「どういう主張、命題が、どういう根拠をもって提出されているか」
⑥「出発点と結論はどういう筋で結ばれているか」
⑦「概念や命題から見て、話し手の立場はどういうものか」
こういう構造的聞き方ができなければ、外国語の音声の「ヒアリング」がいかに上手になっても、「理解する聞き方」をマスターしたとはいえないという。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、205頁)。
ノート、メモをとる
批判的に理解しよう、あとでもういちど「聞いた話」についてじっくり考えようとする人は、ノートやメモをとる。要領よくノートするとは、たびたび出てくる単語や句に適当な略号をあてるというだけではなく、全体の構造、発展の筋が、あとで読んで容易にわかるようにノートするということであると説く。
「聞く」場合には、問題、用件の構造をしっかり聞きとり、要領よくメモをとることが肝心である。
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、206頁~207頁)。
「記憶」について
弁論・レトリックの5つの構成要素として、
①構想、②配列、③修辞、④記憶、⑤発声・所作が挙げられる。
レトリックの第4の構成要素の「記憶」について澤田は面白いことを記している。
古代の弁論家は絶えず記憶力を磨く練習を行なっていた。記憶力のよい人は在庫品の豊かな倉庫のようなもので、記憶力の弱い人よりはるかに優れた弁論家になるからである。
もちろん、イスラーム文化圏や中国文化圏での伝統的教育のように、経典や戒律をただ丸暗記させるだけなら、ものごとの真の理解を欠いた、したがって応用能力のない人間を作り出す危険があるという。
今日先進国の教育界では暗記を無視する傾向が強いようだ。これはかつての「理解なしの丸暗記」に対する反動かもしれないが、「理解を伴った暗記」は教育においても学問研究においても大切であると記憶の意義を強調している。
澤田の母はフランス語でラ・フォンテーヌの『寓話』の主なものをすべて暗記していたが、同時にそれをよく理解していたので、折りにすれてそれを日常生活の具体的問題に応用することができたと回想している(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、214頁、221頁~222頁)。
⇒ブログ「フランス語の学び方」へ
最後の総点検
清書をする前の下書きの段階で、全体を読み直して、最後の総点検(チェック)をするのがよいという。
その際に、澤田も
・ 各段落はトピック・センテンスでまとめられているか
・ 一段落が長すぎはしないか
・ 段落の切り方が不適当ではないか
・ 一段落から次の段階への流れはスムースか
これらの諸点に注意して、論文全体が明瞭で、正確で、無駄なく整理され、淀みなく流れるようにでき上っているかをチェックすることが肝心である(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、152頁)。
文章論を通しての日本人論
澤田昭夫は「はしがき」において、日本人は外国語に弱いといわれるが、日本人が必ずしも生れつき外国語学習能力に欠けているとは思われないといっている。日本人が外国語に弱い最大の理由は、体系的な練習を勤勉に続けないということであるとみている。しかし、勤勉な日本人の場合でも、外国語の体得を妨げている教育環境がある。それは日本人が自分の考えをまとめて有効に表現するという訓練を日本語でも受けていないということであると澤田は考えている。
澤田と分野は違うが、工学・技術関係の論文翻訳をしている人によると、提出される和文論文の中でそのまま英訳できるのは5パーセントにも及ばず、その理由はそもそも和文の原文がまともに書かれていないことにあるそうである。つまり、日本人の外国語学習問題は、外国語以前の問題だというのである。
一方、日本人は余韻、余情、言外の意味を特徴とする俳句的詩文の領域では世界に誇る伝統と才能をもっている。ヨーロッパではfeuilleton(草の葉)と呼ばれる。徒然草的随筆にかけては、日本人は天才的才能に恵まれている。ところが、あまりにそのような才能に恵まれているために、日本人は学問的、理論的主張をする場合にも、それを俳句的、徒然草的なものにしてしまう傾向がある。その好例が『朝日新聞』の「天声人語」であり、あの欄には、文学的には優れており、日本人の読者なら読んでなんとなくわかったような気になるけれども、外人にはチンプンカンプンの論評がよく見られるという(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、4頁~5頁)。
だいたい日本人は感情的、情緒的な作文や随筆を書くのが得意な文学的民族であるが、理知的、論争的な説得のまずい民族である。言い換えれば、日本人は作文的民族、非論文的民族とでもいえると澤田はみている。
だから、昔から大学の先生でも、学生に対しても作文的発想で論文の指導をする人が多かったようだ。そういう指導を受けた昔の学生が今大学の教官になり、再び作文的論文指導を行い作文的な論文テーマを出している。論文的な設問のしかたを知らない先生は高校にも大学にも少なくないと澤田は批判している。
論文と作文の違い
論文も作文も広い意味での作文、コンポジションに違いないが、論文は論議し、主張し、分析し、判断することを主眼にしている。それに対して、作文は情景、印象、体験などの描写を中心にしている。論議は問いと答えで成立するから、その題は根本的に問いになるという。
例えば、「ドイツ人について」というのは作文のテーマには結構だが、論文の題ではない。問いになっていないからと澤田は説明している。「ドイツ人が明治の日本に与えた影響の利害を論ぜよ」であったら、論文の問いらしい問いである。「・・・はなぜか」「・・・を論ぜよ」というようなのが論文の問いであるとしている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、247頁~249頁)。
澤田が付録の「誤った論理」の中で、歴史学者らしい例を挙げている。
「不当な因果関係設定の誤り」の一つとして、時間的前後関係を論理的因果関係と混合する場合を指摘している。その例として「産業革命の後に欧州列強による植民地征服が起こったので、後者の原因は前者である」とする例を挙げている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、137頁)。
論文は主に一定の問いに対して答え、論議するものである。理由を分析説明し、ものごとを比較し、評価する、要するに考え、判断するという知的活動の表現である。
歴史的な問題を扱う場合、過程描写が因果の分析と密接につながってくることが多い。さまざまな個性を持った人間が作り出す歴史のできごとは、個性のない自然界のできごととは違い、「Aなら必ずBになる。Bになったから必ずAが原因していた」というように普遍法則によって説明できないからである。特定の状況、過程から生まれた特定の因果関係があるからである(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、248頁~249頁)。
資料批判について
資料批判というのは、簡単にいえば、手にいれた情報資料がほんものか、信頼できるものかというテストである。正しく、信頼すべき情報だとわかったら、初めてそれを用いて、できごと、現象についての理論的説明ができるようになる。
自然科学は理論的説明のたしかさを実験で検証できるが、自然科学以外の領域では実験によって理論の確認や修正ができない。またそれだからこそ、人文科学・社会科学の領域では、資料批判がことさら重要になる。人文科学・社会科学の領域での学問の進歩は、新しい資料の発見とか資料の読み直し、批判のし直しによる進歩であると澤田は理解している。
資料批判には次の2つのテストがあるという。
①正真正銘の資料か=外的批判(external criticism)
②どれほど信頼できるか=内的批判(internal criticism)
①外的批判の検証箇所
・ 「この資料にまちがっているところはないか」
・ 「盗用部分はないか」
・ 「改ざんされた部分つまり本来なかったものをつけ加えたり、本来あったものを落としたりした部分はないか。いやこれは偽作ではないだろうか」
・ 「出所不明の資料については、誰が書いたか。いつ、どこで書かれたか」
これらの点を調べる。外的批判によって正真正銘の資料を確保するには、筆蹟とか単語や文章表現とか文書様式、さらに紙やインクの質などをチェックすることが必要になる。
②資料の信憑性についての内的批判は、資料分析ともいわれ、次の9点に関するテストである。
1.ことば・文章の意味
2.由来
3.無理・矛盾
4.可能性・蓋然性・確実性
5.正確度・批判性
6.報道能力
7.意図
8.偏見
9.研究者自身の偏見・能力
以上、資料批判のしごとは、専門の歴史家以外には不必要な七面倒くさい手続だと思われるかもしれないが、外的批判の対象である資料改ざんも、内的批判の対象である資料の歪曲も、重大な結果を招き得ると注意している。
資料の提供者がどれだけ真実を報告し得る状況にあるか、という内的批判の原則を知っていれば、全体主義国家の四民相手のインタービューにどれだけ資料価値があるかがわかる。
例えば、4.と9.について澤田は次のように述べている。
4.可能性・蓋然性・確実性について
この資料の記述や説明は現実に「ありそうなこと(プロバブル)」だろうか、合理的に「可能(ポシブル)であろうか」という問いがくる。理論的にあり得ることとあり得ないこと、理論的にあり得ても実際にはありそうもないこと、理論的に可能だけでなく実際にありそうなこと、これらを「確かにあったこと」と区別しながら資料を見ることが必要である。
9.研究者自身の偏見・能力
研究者が、偏見によって、一定の種類の資料や一定のできごとを無視してはいないか、こういう自己批判を忘れないことが必要である。また研究者の能力については、澤田は次のように考えている。すなわち、自分の研究は、トピック選定の時点で、一応今の自分の能力で扱えるものときめたはずであるが、研究の過程で、さらに知識を広め、深める必要があるのに気づくかもしれない。自分の能力の限界というのは、ある程度相対的なものである。何についての知識が足りないか、常に自問しながら、隣接学問分野や新しい分野の学習を体系的に進めていけば、能力の限界はある程度まで克服されるはずであると澤田は励ましている(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、92頁~97頁)。
答案を書くための6つのポイント
①「問いは何か」をはっきり見きわめ、それに正面からぶつかる
②論理的に首尾一貫した、骨組みを考える
③単語、表現、いいまわしを明確にする
④単細胞的思考ではなく、きめの細かい複雑(難解ではない)思考を働かせる
⑤内容を正確に、豊かに、独創的にする
⑥出された題が作文的テーマだったら、自分でそれを論文的な問いに直して答える
とりわけ③について、論文に最も大切なのは明確さで、それは第一には骨組み、筋書の明確さに依存するが、第二には、表現の明確さに依存する。わかりにくい、あるいはあいまいで多義的な表現を避けるとコメントしている。
イギリスの大学入学資格試験の問題を2例あげている。
「なぜイギリスは1918年にドイツと戦うことになったか」
「イギリスは1950年代の国際政治に指導的役割を果たしたか」
(澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]、251頁~252頁)。
澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]
澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]
第3章 だめな「論文の書き方」参考書
市井に氾濫している「論文の書き方」参考書のだめな理由を、澤田は分析して、次の6つの理由を指摘している。
①論文の書き方とうたいながら結局は文章作法、表現中心の作文論になっていること
②参考書の理論篇と実践篇との間の食違い、ないし矛盾
③理論のあいまいさ、非論理性と複雑さ
④具体性のない、抽象的アドバイスが多すぎること
⑤模範解答が支離滅裂で、どう見ても模範にはなっていないこと
⑥構造的な論文を書くための単純で本質的根本的な原則を示さず、その代りに小手先の姑息な(結局あまり便利でない)便法を伝授しようとしていること
①について
論文論が文学的文章論にすり替えられる結果、起承転結という詩作の原理が論文書きの原則としてすり替えられることになると澤田は批判している。この点、某国立大学の入試実施委員長までが起承転結をすすめるのだから、参考書出版社がそれをすすめるのも当然かもしれない。しかし、起承転結を論文書きの原則としてすすめる参考書は落第であると澤田はみなしている。
また起承転結が論文書きの原則として宣伝広告されると、論文書きの真の構成原則である「序・本論・結び」までがいつの間にか起承転結に転化されてしまうという。例えば、序は起に、本論(一)(二)が分けられて、本論(一)が承、本論(二)が転、結びが結に転化される。
序・本・結の序は本来問であり、結はそれに対する答である。起承転結の原則で去勢された序・本・結の原則は本来の応答のアウンの呼吸を忘れた骸(むくろ)と化してしまうという。序はたんなる思いつきの導入部、結びはそれと直接関係のない思い入れになってしまうと澤田は危惧している(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、30頁~39頁)。
澤田昭夫の基本的視点について
①澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年[2004年版]
②澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]
①は、かなり体系的であり、②はさほど体系的ではなく、もっとインフォーマルで、どの章も独立しているので、どの章を先に読んでもかまわないという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、4頁)。
基本的視点は同じである。
①論文書きというのは、文章作法の細かい戦術よりも、内容構造の大局的戦略が大切だという視点。つまり論文論はことがらの内容に立ち入った構造的論文構成の戦略論であるという視点。
②論文書きはレトリックの問題だという視点。次の4点がレトリックとしての論文論の主張であるという。
ⓐいわゆる文章作法が修辞(エロキューション)に関する戦術であるのに対し、構造的論文書きの戦略とは構想(インヴェンション)と配置(ディスポジション)の戦略だということ。
ⓑ構想、配置を中心に論文論を展開すると、それは問答篇(erotematic エロテマティック)になる。いかに問を考え出し、いかにそれに答えるかという問答論になるということ。澤田は本書でとくに強調している。
ⓒレトリックとしての論文論は、話す、聴く、書く、読むの4機能を統一的に考える。
ⓓ問答論としてのレトリックという立場からは、人文科学の論文、社会科学の論文、自然科学の論文であろうと、論文は論文であるかぎりすべて一定の共通構造をもつ。
③日本人が学問、外交、政治、経済、技術の分野で、世界的に競争、協力して行くためには、このレトリックとしての論文書き技能を体得すべきだという政策的視点。そしてレトリックに長ずれば、論文書きだけでなく外国語にも強くなる、レトリックがだめだと日本語を用いてさえも説得力をもって語ることも書くこともできない。
④本書は、『論文の書き方』と同じように、科学方法論やレトリックの理論的問題に関わりながらも、純粋な理論書ではなく、論文や報告をどうまとめるかについての実用書である。たとえていえば、ヘクスターの「歴史のレトリック」に近い、理論的実用書として書かれたものであるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、4頁~7頁)。
なお、澤田はわからぬ論文を書くフランス人大学者もいるとして、フランスの「新しい歴史」「アナル・グループ」の大長老F.ブロデルBraudelを挙げている。その大著『地中海とフィリップ二世時代の地中海世界』は、眼もくらむような壮大な規模と博学と名文で特徴づけられる作品ではあるが、フィリップ二世時代の地中海世界について要するに何をいおうとしているのかわからないと澤田は批判している。
詳しくは、澤田昭夫「More about maps than chaps―ブロデルの地史的構造史批判―」(酒井忠夫先生古希祝賀記念の会編『歴史における民衆と文化』国書刊行会、1982年、915頁~931頁を参照せよという。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、8頁注5)。
歴史学者としての澤田昭夫の立場・見解について
論文書きの大前提は、問題の場から問を切り出すことである。
その問いかけと理論と実証とは相互にどういう関係にあるか、歴史論文は本来、できごとの初めと終りに到る経過についての物語である。そこでは必要な問の「手がかり」はまず「どうして」「いかに」である。しかし同時に「いつ」「どこ」でもあり、「何」「なぜ」でもある。
歴史論文は物語であると同時に描写、説明、論証でもあるという多面性をもっているわけである。だが、歴史学はまず「いかに」を中心に考える学問である。なぜかというと、「なぜ」を先にもってくると、歴史学は社会学的ないし哲学的理論に先立って、非現実的になる危険があるからである。
「何が、どう起きたか、どういう経緯でなぜ今の姿になったか」という歴史的問いかけの対象になる。これは歴史学だけに関わる話ではなく、歴史的側面を扱うかぎり、歴史的問いかけをするすべての学問に関係する話である。問いかけの具体例になじみ、なれるのがよい論文書きの必要条件である(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、84頁~85頁)。
ヴェーバーの理論は修正を迫れてくる。事実を理論に優先させるのが経験科学の原則だからである。プロテスタンチズムと資本主義の因果連関理論だけでなく、基本名辞、基本概念つまり「ピューリタニズム」「資本主義」などの概念の内容も修正されねばならない。これらの概念は大ざっぱで、多義的過ぎることが明らかになってきた。
このように問、仮説としての理論をたずさえて現象に向かい、事実によって理論を修正して行くというのは、歴史学だけでなく、すべての経験科学の基本的方法である。この方法によって、統合的な真実像に近づく。真実接近のための有意義な役割を果すために理論は常に現実に密着し、現実のなかから抽象され構成されねばならない。
ヴェーバーの諸概念(理念型といわれる観念型)やそれによって構成された理論は、根本史料への沈潜のなかからにじみ出てきた概念や理論ではなく、後世のいくつかの二次史料を読んで浮かんできた天才的思いつきをもとに組み立てられたものであるように見える。つまり現実との密接な接触の産物ではなく、むしろ主観的観念的操作の結果であるように見える。
ふつう社会学のアプローチである、この能動的積極的な抽象化に対して、歴史学本来のアプローチプは後者の受動的な抽象化である。ヴェーバーはその意味で歴史学者よりもむしろ多く社会学者だったといえる。
「歴史学の本来のアプローチ」とは違い、史料への沈潜という歴史学本来のアプローチから遠ざかって、社会学的観念論に走る傾向が、フランスのアナール・グループやドイツの社会史学派のなかに見られる。社会学であれ、歴史学であれ、学問が学問であるための、学問を詩から真実に近づけるための第一そして至上条件は、現実との密接な接触、史料やデータによる理論の絶えざる検証であるはずである。
歴史学も問の学であり、問は命題であり、仮説としての理論であり、仮説としての理論は根本史料を通じての現実との接触から生まれ、常にそれによって育まれ真実に接近する。そして問自体も決して「やぶから棒に」観念的に生まれるべきものではなく、史料への沈潜を通じて浮かび上ってくるはずのものである。これがヴェーバー批判かたがた澤田が言いたかったことである。
澤田は、歴史学の問は「いかに」中心でなければいけないという。ヴェーバーはそれに反し「なぜ」中心に理論を展開した。
しかし「いかにして起こったか」と問いかけながら、経済史のできごとの現実の経過をつぶさに調べて見ると、まず「なぜ」中心に展開された「プロテスチズムと資本主義」の理論は誤っていることが解った。「なぜ」の問に答える因果関係の理論は必要ではあるが、それは「いかに」という問に答える現実感覚によって導かれ補正されねばならない。
ここで澤田は、歴史的事件たとえば「ヒトラーの権力掌握は何に起因するか」という問を取り上げている。1933年1月30日のヒンデンブルク大統領の決定(ヒトラー首相任命)にまつわるミクロの政治取引過程(いかに)の解明を怠り、権力国家思想や民族主義の漠然としたマクロの精神史的ルーツ(なぜ)をたどると、領主権力の絶対主義と反ローマのドイツ民族主義を煽ったルターに答を見出すというグロテスクな結果になるという。
歴史学の、歴史的アプローチが「いかに」中心でなければならないということの意味はここにあると澤田は主張している。歴史 historyは何よりも「ものがいかにAからBへと移り変っていったか」というstoryを物語にすることであり、ストーリーは連続する事実経過の詳細抜きでは成り立たないからであるとする。それがないと歴史は理論倒れになり、真実から詩の世界への逃避行が始まるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、91頁~96頁)。
歴史論文について
描写、物語を中心にものを書くのは文学者の仕事であるが、歴史論文も根本的に物語である。ただ文学の物語は虚構を用いてもよろしいのに対し、歴史論文の物語は真実でなければならない。学術論文は物語だけでなく、描写も含んで書いてよいのだが、学術論文はあくまで真実の説明や論証であるから、そこで用いられる描写や物語は真実でなくてはいけない。
よい歴史論文はクロノロジー(年代的経過報告)と分析とを適当に兼備したものだといわれる。つまり物語と説明ないし論証を巧みに綾なしたのがよい歴史論文だということである。
一方、古典的レトリックの法廷弁論は論証中心、審議弁論は説得中心といえる。論証中心というと今日でも法学関係の論文が多いわけであるが、争点(issues、イッシューズ)について論ずるかぎり、どの学問分野でも論証はある。
ただし、ホテル火災の責任問題を論じる法律的な論証論文でも、ことがらの経過をたどる物語が必要でしょう。
問の歴史を顧みながら新しい問、新しい答に向かうというのはすべての学問研究の定石であるが、歴史学の場合には最初の問いかけも、昔の問に対する批判的問いかけも、常に史料との絶えざる対決を通して、史料の読みのなかから、にじみ出てくるものでなくてはいけないと澤田は厳しい見方をしている(また他の学問の場合は「史料」のかわりに「現実のデータ」といったらよいだろう)。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、69頁~71頁、106頁)。
比較読書法について
比較読書法はアドラーが『本を読む本』(外山滋比古・槙未知子訳、日本ブリタニカ、1978年)の中で、論文を書く研究者のために必修の読書法としてすすめているものである。アドラーはシントピカル(共通主題の)またはコンパラティヴ(比較的)読書法といっている。その要点は以下のような5段階である。
①関連箇所を見つけること
②著者と折り合いをつけさせる
③質問を明確にすること
④論点を定めること
⑤主題についての論考を分析すること
比較読書法というのは、自分がかかえている特定の問に関係したことについて何人かの人がものを書いている場合、同様な問に異なった人々がどのように違った形で答えているかを調べるための読書である。
澤田は次の5つの段階にまとめている。
①重要箇所を発見する
②名辞を決定する(タームズ・ディサイド)
③著者たちへの問を準備する
④争点(イッシューズ)を明らかにする
⑤論議の分析
①について
目を通したいくつかの本(あるいは論文)のなかで、自分のニーズにとって大切な箇所はどこか、それを見い出すこと。例えば、「科学方法論史」について調べていたら、5点の書物ないし論文のうち、Aの25ページ、Bの126ページ、Cの320~350ページ、Dの2ページ、Eの302ページと、必要な箇所だけをそれぞれの作品から拾い出すことが第1段階のしごとである。
②について
理解するための読書のひとつの大切な条件は、著者がどういう名辞(具体化された概念)を使っているかを調べることである。研究者が5人なら5人の著者の考えを参照したうえで、自分なりの議論を展開しようとする場合には、5人のそれぞれが使っている名辞を、自分なりにまとめて共通の統一名辞を作り出すことが必要になる。
相手を理解するだけの読書の場合には受動的に読んでいたが、相手の所論を利用して独自の考えを展開しようという場合には、自分の方が能動的になり、5人の著者に、自分の調子に合わせてもらうことになる。
例えば、著者Aは「理想型」、Bは「モデル」、Cは「パターン」、Dは「観念型」、Eは「パラダイム」と異なった名辞を用いて同様なことを意味している場合、自分はそのすべてを「モデル」という名辞で統一して議論を展開するということである。
③について
統一名辞が決まったら、それを用いて各著者に対し統一共通の命題を疑問文の形で提示するということである。例えば、「モデル」という統一名辞が決まったとすると、科学方法論史に関係ある論述を残した5人の著者に対し、「モデルは実在のなかに基盤をもっているかどうか」という共通の問を向けることである。
④について
自分が提示した共通の問に対して5人の著者がそれぞれに返す答、L、M、N、O、Pを確かめることである。共通の問に対して違う答が出てくれば、そこに争点があるわけである。例えば、さきの問に対し、Aは「モデルはまったく主観的な約束事でしかない」と答え、それに対してBは「モデルは実在の模写である」と答え、Cは「実在に近づくための仮説である」と答えたという場合である。
⑤について
同じ問に対して出された異なった答、争点を整理し、なぜAはL、BはM、CはNというふうに違った答を出したのか、その理由を考察し、その結果、L、M、N、O、Pいずれもできればそれらすべてを超える新しい独創的、綜合的立場Qを考え出す道を備えることである。
Qを発見できなくとも、L、M、N、O、Pのうちどれがもっとも真実に近いか、それはなぜかを明らかにすることができれば、「論議の分析」は成功したといえる。
自分のニーズに従って、多くの資料のなかの必要な箇所だけに集中する。これは澤田の『論文の書き方』のなかで、「自分の研究目的Bに関係あるAの部分、BとAとの交叉部分だけを大切にせよ」と述べたのと対応するという。比較読書法というのは、研究カードによる資料の整理法と対応するものであり、比較読書法は論文を書く研究者のための必修の読み方なのである。
そもそも統一的概念と統一的問という、いわば熊手をひっさげて、多くの資料の山をさらってみるのが研究(リサーチ)である。そしてその作業の整理手段が「一カード一項目」のあの項目になる。
比較読書法は何人かの著者の論文を読む場合だけでなく、一人の著者の一冊の著作や論文を、ひとつの特定な観点から体系的に読もうとする場合にも必要になる。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、178頁~182頁)。
史料の引用について
長文の史料を引用するのが、わが国の日本史、東洋史学界の風習だが、同じ日本史、東洋史の研究論文でも、国際学界で通じるような論文だと、ほんとうに大切な部分の史料引用が数行あって、あとは自分のことばで要約し、論文全体が滞りなく読めるようになっている。とにかく論文は、渋滞のない語りになっていて、すらすら読めるものでなければならない(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、250頁~251頁)。
注のつけ方と注の数について
注は出典を照会する場所である。英語では注でレフェランス reference(参照、照会)が示されるといわれる。ある主張や解釈の根拠が何であるか、どういう資料や権威に基づいているか、その出典を照会するのが注の大きな機能のひとつである。
また注はお世話になった人へのお礼(英語でいう acknowledgement)を述べる場でもある。注は証拠だてや感謝の場だけでなく、さらに読者への情報提供の場でもある。必要最小限の情報は主として本文で提供するが、それを補足する情報、本文に入れると場所をとり過ぎたり、読みの流れを滞らせたりするが本文の理解に役立つ情報、読者がさらに詳しく調べたいときに役立つ情報、そのような情報を提供する場が注である。たとえば、自分の扱う問題について従来どのような研究がなされてきたか、そのような研究史の概要は、本文とくに序の部分で述べるが、くわしいことは注に委ねるわけである。
このように読者に役立つ情報の注が多いことは、論文の価値を高める。「この論文には有益な注が多い it has many informative footnotes.」といわれて好評を博すことになるという(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、248頁~250頁)。
論文の注を適度に押さえる工夫が必要である。哲学や神学論文で特に独創的なものになると注は少なくなる。一次史料を用いた、国際的に通じるヨーロッパ史の論文の場合、400字原稿用紙50枚程度の論文に、50から100位の注があるのが普通であるという。
一方、新資料をもとにした独創的論文ではなく、論文書き能力訓練のための学部学生期末レポート(25枚程度、英語なら3000語程度)であれば、10点位の単行本や雑誌論文を参照し、注の数は25前後というのがひとつのメドになるという。
根本は論文の信頼性、論証・説得力を保証するために適当な注をつけることである(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、251頁~252頁)。
ブック・リポートと書評論文
ブック・リポートは一冊の書物の紹介論文である。つまりブック・リポートは読者の結果を小論文にしたものである。
ブック・リポートは一冊の本がどういう本であるかを一般的に紹介、説明するものであるのに対し、書評は評価、価値判断を含んだ、より批判的な読書の報告である。読みの報告でも「批判的読み」の報告が書評である。
書評には、原稿用紙2~3枚のものから、20~30枚のものもある。
一冊の本を評するものも、同様なテーマを扱った数冊の本を同時に評するものもあり、厳密には前者が書評であり、後者が書評論文(レビュー・アーティクル)である。書評となるとブック・リポートとは違い、準研究論文であり、書評論文は研究史回顧や研究報告と同類のれっきとした研究論文である。
新刊紹介やブック・リポートは学部の一年生でも簡単に書けるはずであるが、書評や書評論文はかなり年期の入った研究者でないと書けない。なぜかというと、書評や書評論文が問う問は、「この本ないしこれらの論文はどれだけ価値のあるものか」という評価に関する問だからである。それに答えるにはかなり広く、深い視野と知識が必要だからである。
書評が答えるべき問には、次のようにブック・リポートにも出てくるものもある。
・ 「この著作の主要トピックは何か」
・ 「著者の意図、目標は何であったか」
・ 「どういう概念を用いているか」
・ 「どういう資料、材料を用いているか」
・ 「どう構成されているか」
・ 「解釈の中心点は何か」
しかし本来書評に期待される問は、次のようなものであるという。
・ 「他の研究者はこの点についてどう考えているか」
・ 「用いうる資料をすべて用いているか」
・ 「新しい資料を用いたか」
・ 「作品の構成は問題の解決に適しているか」
・ 「著者の意図は十分実現されたか、目標はどれだけ達成されたか」
・ 「何が重大な欠点か」
・ 「何がこの本の貢献か。どの点でわれわれの知識を豊かにし、従来の定説をくつがえしたか」
・ 「残された課題は何か」
・ 「この作品のメリットとデメリット、損益の差引計算はどうなるか」
きびしくも公正な書評技能を身につけるためのひとつのよい方法は、国際的に通用する学界誌にでてくる大家の書評につねづね目を通しておくことである(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、197頁~199頁)。
答案の書き方
答案もひとつの論文である。論文ではあるけれど、きわめて短時間でまとめねばならないという特殊な制約をもったのが答案論文である。答案は迅速に要領よくまとめなければならないが、受験雑誌社がばらまく「答案の書き方」的チラシには「自信をもって」「虚心(きょしん)になって」「温かい心をもって」という心理的アドバイスを見かける。しかしこれでは始まらないと澤田は否定している。
試験答案を迅速に要領よくまとめるためにもっとも肝心なことをひとつあげよといわれたら、「問題の問が何か、どういう種類の問かをよく確かめ、それに答えること」と澤田は言い切る。問をたしかめ、それに十分に答えるには、問の姿、問の背景や歴史、前後関係を知ることも必要になる。十分に答えるには、主問から派生してくる副問にも答えねばならない。ひとつの主問にいくつかの答が可能なら、それらを比較考察し、もっとも合理的と思われるものを、最終的答として論証することになる。
答案を書き出す前には必ず別紙に、見出し(トピック)アウトラインで結構だから、アウトラインを作り、序の問と本論での展開、結びの答の相互のつながりの大筋をはっきりさせることが大切であるという。
アウトラインを作るためには、持ち時間の少なくとも4分の1をあてがいたいものである。40分で800字という論文試験なら、少なくとも10分をアウトライン作りのためにとっておく(800字をきれいに書き上げるには30分が必要である)
書き終ったらば、結論は問に答えているか、本論はその答を肉づけているか、それをアウトラインに照らしてチェックする。
よい答をかくための基本準備は、平生、広い分野にわたる基礎的事実や情報を暗記、蓄積しておくこと、そしてもうひとつ、細かいこと、偶有的なことを大きい筋、根本的、本質的、原理的なものと関連させて見る習慣を平生から身につけておくことである。平生からそういう準備をしておいて、いざ答案を書くという時には、何が問であるか、それをたしかめ、見出して、それに答えるならば、その答には味と深みさえ出てくる(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、51頁~57頁)
難解な文章とやさしい文章について
論文論は戦略論であって、戦術的な作文論ではなく、論文書きの枢軸は文章(センテンス)作りではなく、文段(パラグラフ)作りであると澤田は主張している。文章論については多くの著述が出ているので、本書では文章の問題は深入りしたくないが、第21章を文章論にあてることにしたという。
いくつかのアドバイスの1つとして、抽象的な概念とくに動詞や形容詞の名詞化も文章を不必要に難解にするので、注意せよとしている。例えば、「このことは生産様式論の問題として固有に主題化され、厳密化されるべきことである」という抽象的な文は、「これは生産様式の問題として別に考察せねばならない」といい直せば、具体的にやさしくなるという。
なるべく動詞を多く用いていい直すと、行為の内容がより具体的、明確になり、文章も力強くなる。学問とは抽象に他ならないが、学問に必要な抽象とは必要以上に抽象的なことばや言いまわしを使うことではないと釘をさしている。
読者にとって解りやすい論文とは、声を出して読むと耳に快くすらすら速く読める、つまり読書をリズムに乗せて運んでくれる論文である。優れたもの書きの文章には必ずリズムがある。わかりやすい文章は、明確な論理的構造でまとまり、やさしく正確なことばやいいまわしと快いリズムに支えられて、自然に淀みなく、そして力強い流れる文章であると澤田は理解している(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、231頁、239頁、244頁~245頁)。
創造性とは
真の革新、創造の新しい発見は、したがって断片的な新奇さを追うことでなく、久遠(くおん)の真理探求の流れと関係づけられるものでなければならない。単に新奇さだけを追って、それを伝統と関係づける、伝統のなかに位置づけることを忘れると、新奇を追うその営みは創造にはつながらないでしょう。
革新は真理を革新することではなく、「真理において革新する」ことだからである。
日本人は新奇を追うことに優れているが、それが必ずしも創造と結びついていないのは、伝統との関係づけという面がおろそかにされているからではないか。だから哲学でも、新しい哲学者が紹介されて哲学史の書き加えがふえるが、必ずしも哲学的創造は生まれないということになる。新奇を追うのは創造性の一面で、それ自体結構なことだが、それだけでは不十分なのである。
真理の歴史性と久遠性、進歩と伝統の関係を巧みに表現したのはトマス・アクイナスの次のことばでわる。「いかなる時代のことばといえども、永遠の真理を完全に現在化することはない」
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、223頁~224頁)
語学力
語学でも、たとえば英語でも、自然科学英語とか医学英語、文学英語、歴史学英語という区別は本来なく、どの学問分野にも共通な基礎英文法と基礎英単語があるのと同じようなことである。
それゆえ自然科学や医学の分野で英語を用いて国際的に競争や協力をしたい人は、何よりも基礎語学力を身につけるべきである。
基礎文法と基礎単語を用いての「話し・聞き・読み・書く」の基礎的運用力なしに、いくら専門外国書購読とか専門語学に専心しても何の役にもたたない。日本の大学の教養課程は基礎語学力を教えずに、「教養語学」の名のもとに文学書の講釈を行なうことを建前としているために、学生は基礎語学力体得の機会を失しているが、真に基礎語学力が身についていれば、いわゆる「専門語学力」は容易に身につけられると澤田はいう(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、65頁~66頁、72頁~73頁注2)。
問をたしかめ、あるいはよい問を見出して、それに対する十分な肉づけがある。よい答を書くためには、付焼刃(つけやきば)ではだめである。問題を想定し、それに対する答を暗記するなどというのは、ちょうど一連の英語文句を暗記しても英語の伝達力は上達しないのと同じである。人工的に作られた文章を暗記しても、話しのなかでそれにピタリの状況が訪れることはまずないからである。必要なのは、基本文型や基本文法を基本単語とともに、絶えざる応用練習で体得しておくことである。基本をほんとうに練習で体得しておけば、どんな新しい状況でも容易に応用できると澤田は説いている(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、56頁~57頁)。
日本人とレトリック
「今日の日本で論理的論証的レトリックがいまだに育たないのはなぜか」「論証的レトリックの発達を妨げている具体的理由は何か」について、澤田は3つの理由を挙げている。
①日本人の抒情的文学性
②議会弁論の欠如
③教育における弁証的レトリックの無視
これらはいずれも倫理的、感情的レトリック過多現象と関係している。
①について
日本人が伝統的に、そして今日でもあまりにも抒情性豊かな文学的人間であることを示している。抒情的描写力、文学性が日本文化のすみずみにまでも充溢している。だから「論文の書き方」の指南書の大部分が文章作法、狭義の修辞に集中してくるのも当然であろうともいう。
②について
論証的レトリックの最大の推進機関であるべき議会討論(パーリアメンタリー・ディベート)がないがしろにされているということ。つまり議会討論、会議での討議によって重要な決定を行なうという伝統が確立されていないということ。
会議での審議は重要視されず、重要な決定は「根まわし」で舞台裏の談合の場でなされるから、会議場での論証的レトリックは発達しないと澤田はみている。
有効な審議を行なうには「何のために、どういう手順で、まずどういう問をたてて、どういう選択を論ずるのか」という体系的論理的構想が議長(司会者)と会議の参加に明らかになっていなければならない。論理的レトリックのルールを皆が体得していなければ、合理的な選択と決定の積み重ねとしての会議の運営はできない。会議は単なる意見の羅列に終ってしまう(多くの日本人学者の論文が事実の羅列に終って論文の形をなさないのと対応する特徴である)。
参加者が論証レトリックの進め方を知らないので会議はうまく機能しない。機能しないから議会や会議は軽んぜられる。したがって論証レトリックは発達しない。こういう悪循環が起こっているという。
③について
教育における論証的レトリックの不在、論証的レトリックの基本である生きた問答のやりとりが教育の場において、とくにそれなしでは成り立たないはずの語学教育の場においてさえも尊重されていないこと。日本の外国語教育は今日でも「実用よりも教養」という誤った選択の旗じるしのもとで、訳読つまり教師による外国語テキストの日本語訳と講釈中心で、英語のような生きた現代語でさえも死語のように扱われていると澤田は批判している。
以上のように、抒情的文学性もすばらしいし、談合や根まわしや意見の羅列も外国語テキストの日本語講釈も、何らかの意義はあるであろうが、それだけが強調されて、論証的論理的レトリックが無視され続けるならば、日本人が学問や政治やビジネスの世界で十二分な国際的協力や貢献をなすことは難しいと澤田は憂えている(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、289頁~293頁)。
サッチャーのスピーチ
1982年に東京で、サッチャー夫人が、日英協会共催の歓迎レセプションの席上で行なった5分間の即席スピーチ(メモなし)の原文と澤田訳が掲載されている。
このスピーチ「日英両国の友好と協力」は、「なぜ日本の友好、協力が必要か」という問で貫かれ、よく整理され、深い政治哲学がにじみ出ているが具体的であり、しかもユーモアで味つけられ、軽やかできびきびしたリズムに乗ったすばらしい論証、説得の論文であると澤田は絶賛している。
要旨を紹介しておくと、「われわれが協力と友好を深めようとしているのは、3つの主要な理由」が考えられるという。
①両国は自由と正義の原則に結ばれた民主主義国
②壮大で前向きの科学技術
③相手の芸術と文化に非常な関心を寄せていること
そのほかに2つの理由があるという。
④両国は王室をもっており、友好の関係にある
⑤両国の民衆は多くの点で同じような気持をもっていること(これはわれわれが一緒にならねばならぬ、たぶんもっとも深い理由)
④と⑤の原文は次のようにある。
There are, perhaps, two others : we both have a royal family and they are great friends ;
and our peoples have very many feelings in common, which is perhaps the deepest reason why we should get together.
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、1989年[1995年版]、317頁~324頁)