歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その6  私のブック・レポート≫

2020-03-14 19:08:12 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年3月14日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。


≪前回その5の執筆項目≫

ルーヴル美術館について
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ルネサンス期における聖母像の変化
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルドの『岩窟の聖母』に対するヴェルフリンの評価
レオナルドの『カーネーションの聖母子』の特色
ラファエロについて

≪今回その6の執筆項目≫
美術作品のランキング
ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ
ミケランジェロの「奴隷」について
ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」

ギリシア神話のテセウスと西洋絵画
『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎








【読後の感想とコメント】


美術作品のランキング


井出洋一郎氏による著名画家のオーダー表


井出洋一郎氏は『美術の森の散歩道』(小学館、1994年)の「第10章 西洋絵画の巨匠 「絵の巨人群(ジャイアンツ)」のベスト・ナイン見立て」と題して、西洋絵画史上屈指の画家を9人に絞り、リストアップしている。井出氏はプロ野球のファンであるそうで、西洋美術の巨匠たちをオーダーに組む試みをしている。
(井出、1994年、135頁~145頁)。

ところで、井出氏の尊敬する指揮者で評論家の宇野功芳氏は、その著『クラシックの名曲・名盤』(講談社現代新書)の中で、交響曲や名指揮者で野球チームのベスト・オーダーを組んでいる。そこでは、次のようになっている。

≪交響曲と名指揮者ベストナイン≫
<交響曲>           <名指揮者>
1 モーツァルト「ジュピター」   シューリヒト
2 モーツァルト「第四十番」    ワルター
3 ベートーヴェン「エロイカ」   トスカニーニ   
4 ベートーヴェン「第九」     フルトヴェングラー
5 ブルックナー「第八」      クナッパーツブッシュ
6 ブルックナー「第九」      クレンペラー
7 マーラー「大地の歌」      マタチッチ
8 ベートーヴェン「田園」     クライバー
9 モーツァルト「プラハ」     ムラヴィンスキー

※一見して、下位に大物を配置した重量パワー打線で、終盤に強いチーム作りを目指したようだ。6番には変則バッターのベルリオーズ「幻想」を、指揮者では一応カラヤンを言えるべきだろうという。

さて、井出氏が選んだ「オールド・マスターズ」のオーダーは、次のようになる。
(印象派以後の画家たちやピカソ以下20世紀の面々では、とても一軍入りは難しく、実力、貫禄不足であり、当分ファームで鍛えておくということらしい)

≪画家の「オールド・マスターズ」のオーダー≫
 
1 ショート      ルーベンス 1577-1640
2 キャッチャー    アングル 1780-1867
3 サード       ベラスケス 1599-1660
4 ファースト     ミケランジェロ 1475-1564
5 センター      レンブラント 1606-1669
6 セカンド      ドラクロワ 1798-1863
7 レフト       ゴヤ 1746-1828
8 ライト       ターナー 1775-1851
9 ピッチャー     レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519

※このオーダーはピッチャーに左腕のベテラン超変化球投手レオナルドをもってきたところがミソだという。サウスポーでしかも鏡文字を使ってサインを出すこの投手には、敵のバッターも眩惑されることであろう。しかし絵を未完成にほうっておく癖のあるレオナルドは完投型ではない。だから、若手で速球派のカラヴァッジオと、はったり精神旺盛なクールベを救援に用意する必要がある(二人とも性格が過激で乱闘要員にも使える)。

以下、井出氏は、このオーダーの各選手を解説している。
1番のオランダ・バロックの巨匠ルーベンスは多作主義で、筆が速いから足も速く、出塁率が高い。画題にもむらがなく、何でも描くから守備範囲が広い。外交官でもあって、サードのベラスケスともマドリード訪問の際、親交を保って、三遊間の守りも連携がスムーズで、理想のトップ・バッターだという。

2番を打つ19世紀新古典派のアングルは、作風からして几帳面で、確実にバントで送る技術は最高である。アカデミー院長兼任のキャッチャーとして、チームを冷静に管理する性格も心強い。アングルはピッチャーのレオナルドにも、その臨終の際の想像画を描いたくらいだから、常々尊敬心を抱いており、リードも細心である。

3番ベラスケスは打率、守備、走塁とも完璧主義のテクニシャンで、頭脳派のパワー・ヒッターである。ベラスケスの宮廷肖像画あ、野球でいえば、華麗な三塁打であるそうだ。

4番は神様ミケランジェロである。ホームラン王だから、ローマ法王とは対等な口をきくほど気位が高い。

5番のレンブラントは人気をよいことにして贅沢三昧したつけが回り、かなり借金を背負っているらしく、ボーナス次第で見違えるほどの働きをする。

6番ロマン派のドラクロワは守備要員、壁でも天井でもどこでもこなせるし、話題性のある絵が多いから、時にタイムリー・ヒットが期待できる。

下位の7・8番にゴヤとターナーという大物を置いたのは、宮廷画家であると同時に、反体制の表現をする、したたかなゴヤの方は、相手に応じてバットを左右に換えるスイッチ・ヒッター的な打撃ができる。
旅行好きな風景画家ターナーは、フット・ワークが軽く、盗塁王のねらえるグランド・ツーリストである。いずれも、相手ピッチャーには気が抜けない、嫌なバッターであると井出氏は想像している。

ここまでは、井出氏の半ば“お遊び”のオーダーおよび査定であるが、次に紹介するのは、フランス17世紀の美術批評家によるものである。

ロジェ・ド・ピールによる著名画家の査定


フランス17世紀の美術批評家ロジェ・ド・ピール(1635-1709)の『絵画の原理講義』(1708年、パリ)にみえるランキングを紹介しておこう。
         <構想><デッサン><色彩><表現><合計>
ラファエロ    17    18     12   18   65
ルーベンス    18    13     17   17   65
カラッチ     15    17     13   13   58
ル・ブラン    16    16      8   16    56
コレッジオ   13 13 15 12 53
プッサン    15 17 6 15 53
ティツィアーノ 12 15 18 6 51
レンブラント 15 6 17 12 50
レオナルド 15 16 4 14 49
ジョルジョーネ 8 9 18 4 39
ミケランジェロ 8 17 4 8 37
カラヴァッジオ 6 6 16 0 28


ド・ピールは絵画の世界で、上記の選手への査定を行った人物である。
ド・ピールは、ルネサンスから当時の著名画家を構想、デッサン、色彩、表現の四分野でそれぞれ20点満点、合計80点で査定しているそうだ。
井出氏はそれを抜き書きしている(現代の評価と全く違った結果となって興味深い)。

例えば、井出氏がピンチ・ヒッターにも入れなかったラファエロがルーベンスと並んで堂々1位となっている。それに比べ、なんと神様の4番打者ミケランジェロがビリから2番目である。デッサンだけの評価とは、勝負に関係のないホームランが多いと見なされたようだ。
レンブラントは大砲が期待されたのに、ポテンヒットばかりとみなされた。カラヴァッジオなど、デッド・ボールが過ぎると判断されて、表現は零点である。
しかし、ド・ピール球団社長の友人で、選手会アカデミーの会長ル・ブランは当然か意外な高得点をもらい、4位につけ、にっこりハンを押したと井出氏は想像している。
1708年のこのシーズン、大物トレードがありそうだと結んでいる。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、135頁~145頁)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)


ミケランジェロの「奴隷」について


ミケランジェロは、「モーセ」と「奴隷」という彫刻で何を表現しようとしたのであろうか。
「モーセ」には、なにか沈鬱な影が強く宿っており、モーセが前途の困難と使命の重大さを十分に意識していることを表現したものだといわれる。あるいは「モーセ」に託してミケランジェロが祖国フィレンツェの、そしてイタリアの運命のきびしさを示したものだともいわれる。
一方、「奴隷」の姿も、虜囚のユダヤ人を、あるいは外国勢力の支配のもとのイタリアを、あるいはメディチ独裁下のフィレンツェ民衆の苦痛を示すものとも、解釈されている。
(会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』新潮社、1966年[1977年版]、174頁~175頁)。
【会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』はこちらから】


『ミケランジェロ―その孤独と栄光』


ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ


ミケランジェロは、1475年3月6日、フィレンツェ近くの小邑カプレーゼに生まれた。父はその町の大法官であった。
ミケランジェロは6歳で学校に通い始めたが、出来の悪い生徒で読み書きの習得も遅く、古典語にも親しめず、絵を描くことにのみ異常な意欲を示して、父を絶望させたようだ。また、6歳の時、母を亡くしている。

13歳の時、当時最高の流行画家ギルランダイオの工房に入り、徒弟となった。工房の仲間が酒場などで憂さを晴らしている時、ミケランジェロは紙と鉛筆を携えてフィレンツェの町を逍遥し、聖堂や彫像の類を綿密に写生した。

1490年、15歳の時、ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつんだ。ミケランジェロはみずからに娯楽を許さず、友人を求めず、若い娘に目もくれず、陰鬱寡黙で喧嘩早かったそうだ。ある時、トリジアーノという男といさかい、こっぴどく殴られて、鼻が曲がってしまった。それ以来ますます人間嫌いになり、性格がひねくれた。
(恩人ロレンツォに敵対するサヴォナローラを熱烈に崇拝するようになったのは、主としてこの狷介な性格の類似のためと、モンタネッリはみている。1492年、ロレンツォは世を去る)

ミケランジェロは、1495年、20歳となる。この20代はミケランジェロの人生にとって、かけがえのない時代であったようだ。フィレンツェでレオナルド・ダ・ヴィンチと会う。そして1498年、23歳の時、「ピエタ」(サン・ピエトロ大聖堂)を、1504年、29歳の時、「ダヴィデ像」(アカデミア美術館)を制作した。
「ピエタ」は、ローマ駐在フランス大使ジャン・ド・ヴィリエが制作を依頼し、1年で完成し、ミケランジェロの最高傑作の一つとなった。23歳のミケランジェロは、この一作で名声を得た。
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、369頁~381頁。羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』岩波新書、1939年[1998年版]、83頁~160頁)


ヴェルフリンは、「ピエタ」のマリアの態度について、次のように叙述している。
「なお一層に驚くべきものはマリアの態度である。泣き腫れた顔、苦痛のしかめ面、力なき崩折れ、といったものが以前の作家たちの表わしたところである。しかるにミケランジェロは、「神の母は地上の母のように泣くべきでない、」といっている。全く静かに彼女は顔を垂れ、顔つきには感動がなく、ただ沈められた左手のみが雄弁である。それは半ば開かれて、苦痛のおし黙った独白に伴奏している。」
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、65頁~66頁)

ミケランジェロは、「ピエタ」のマリアの悲しみを表現するにあたり、「神の母は地上の母のように泣くべきでない」と考えていたようだ。以前の作家が、その悲しみを泣き腫れた顔、苦痛のしかめ面などで表わしたのに対して、ミケランジェロは、静かに顔を垂れ、感動がない顔つきにした。そして、左手にその悲しみを雄弁に語らせたとヴェルフリンはみる。「それは半ば開かれて、苦痛のおし黙った独白に伴奏している」と捉えている。

さて、ミケランジェロは、上品で社交的で身ぎれいなレオナルド・ダ・ヴィンチとは対照的な人物であった。
歴史家モンタネッリは、20代のミケランジェロについて次のように叙述している。
「相変わらず友人を作らず、酒場や遊郭に通わず、女に目をくれず、汚れた服を着、髪はくしけずらず、めったに身体を洗わず、着のみ着のまま、長靴もはいたままで寝た。態度は粗暴だし、容姿も美しいとは言えなかった。背は平均より低く、肩だけが不釣合にがっちりと張り、若いのにひたいに皺が刻まれ、頬骨が尖り、口が歪み、鼻もトリジアーノの拳骨で曲げられたままになっていた。それでもミケランジェロには、どこか人をひきつけるところがあったのであろう。かれに会った人はすべて、その魅力に打たれたと言う。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、372頁)

【モンタネッリ、ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』中央公論社はこちらから】


『ルネサンスの歴史(下) - 反宗教改革のイタリア』 (中公文庫)


一方、レオナルドの20代について、モンタネッリは次のように述べている。
「かれは疲れを知らぬ働き手で、描き彩る他に数学、物理、天文、植物、医術の論文を貪り読み、飽きれば馬を森へ乗り入れて長い散策を娯しみ、あるいはリュートを弾いて歌った。女性には関心を示さなかったが、優雅に着こなし、長い髯を蓄え、物腰が柔らかく、心遣いが細やかだった。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、265頁)

レオナルドも、女性に関心を示さなかったが、ミケランジェロと違い、服装のセンスはよく、優雅に着こなした。ミケランジェロやレオナルドと対照的な人柄、性格であったが、ラファエッロ である。モンタネッリは、10代後半から20代初めのラファエッロ について、次のように述べている。
「若い画家は昼夜兼行で制作に当った。かれを仕事から引き離すことができたのは、女性の魅力だけだった。かれは、褐色の髪の愛らしい感じの女を特に好んだ。美青年で、粋で、気前がよかったから、女はいくらでも集まって来た。自画像を見ると、やや繊細な感じで、顔色は蒼く、口と目が大きく、鼻はがっちりしていて、褐色の長髪を肩に垂らしている。服を優雅に着こなし、指に高価な指輪をはめていた。溢れるばかりの才能がある上に、物腰が柔らかだったから、同僚の好感を買った。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、280頁~281頁)。

ラファエッロ は美青年で、粋で、気前がよかったようだ。「かれを仕事から引き離すことができたのは、女性の魅力だけだった」とあるように、女好きでもあり、女性にもてた。三拍子も四拍子も揃っており、ミケランジェロとは全く対照的な人物像である。

さて、ミケランジェロの名声は、フィレンツェ共和国の依頼で、3年の年月を費やして完成させた『ダヴィデ』で決定的となった。
この完成後、フィレンツェは、ミケランジェロに市庁舎大広間の壁画を依頼し、ダ・ヴィンチと競作させようとした。ダ・ヴィンチは50歳、ミケランジェロは30歳であった。この壁画の制作については、ダ・ヴィンチが途中で放棄し、ミケランジェロもローマに呼ばれ、壁画は完成されなかった。
(柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年、103頁~104頁)。

ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」


システィナ礼拝堂の天井画に挑むミケランジェロを描いた映画に「華麗なる激情」(THE AGONY AND THE ECSTASY)がある。1965年のアメリカ映画(20世紀フォックス)である。

この映画は、天井画に挑むミケランジェロと、パトロンの法王マリウス2世との葛藤と友情を描いた大作である。
監督のキャロル・リードはイギリスの名匠で、「第三の男」(1949年)などの名作で知られる。主演のミケランジェロ役には、「ベン・ハー」(1959年)のチャールトン・ヘストン、ユリウス2世役には、「クレオパトラ」(1963年)のレックス・ハリスンが扮した(ルックス・ハリスンは「クレオパトラ」でシーザーを演じただけあって、威厳があり、魅力的な人物であると柳澤一博氏は評している)。
監督のキャロル・リードは、華麗なルネサンスの時代を背景とした芸術家ミケランジェロの“苦悩と恍惚”(英語の原題)を描きだしたといわれる。

この映画の焦点は、パトロン(法王)と芸術家との対立と葛藤である。
当時の芸術家によってパトロンは不可欠な存在だった。レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯パトロンを求めてイタリアを転々とし、ミラノのスフォルツァ公やチェーザレ・ボルジア、最後はフランス国王フランソワ1世に仕えた。
一方、ミケランジェロは当時イタリアでは最大のパトロンであるローマ法王ユリウス2世以来の歴代法王に仕えた。
この映画では、ユリウス2世はせっかちで、天井画制作中のミケランジェロを何度もせっつく。すると、ミケランジェロは「私が満足した時が完成です」と答える。パトロンと芸術家は、顔を合わせるごとに言い争いをする。ヘストンのミケランジェロは、たとえ相手が法王でも自分の主張を押し通そうとする。ふたりとも気性が激しく、頑固である。

この映画には、やはりユリウスに重用された画家ラファエッロ(トーマス・ミリアン)も登場する。ミケランジェロよりも8歳年下のラファエッロ は、ミケランジェロとは対照的に穏やかな性格で、優雅な物腰の人物である。ラファエッロは若いのに自分の立場を心得ていて「芸術家はパトロンの召使に過ぎない」ということを知っている。

この映画でも、ミケランジェロとラファエッロ は対照的な人物像として描かれている。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画に着手したのは、1508年5月10日であった。天井画に着手した時、ミケランジェロは33歳、完成したのは37歳の時だった。
ミケランジェロは1000平方メートル近い天井にほとんど一人で絵を描いた。これは気の遠くなるような仕事である。

モンタネッリは、次のように記している。
「この言語に絶する苦闘の四年間は、ミケランジェロを二十年分も老け込ませ、その身体を変形させ、視力を弱め、性格をさらにねじ曲げた」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、376頁)

天井画が完成すると、ローマ中の人々が見物に押し寄せた。絵が完成して数か月後、ユリウス2世は逝去したが、念願の大作を目にすることができた。
このシスティナ礼拝堂の天井画から23年後、ミケランジェロは時の法王パウルス3世の依頼で、「最後の審判」の制作に取りかかった。この時、ミケランジェロは59歳である。これは6年の年月を費やして完成した。

晩年のミケランジェロは、ルネサンス最大の巨匠として、王侯並みの扱いをされ、若い芸術家からは神のように崇められた。
だが、彼は病気を患い、孤独だった。1564年2月18日、死去し、数え年89歳であった。
(柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年、100頁~113頁)。

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ギリシア神話のテセウスと西洋絵画


【テセウスについて】
井出洋一郎氏の『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)には、ギリシア神話のテセウスを主題とした絵画を解説している。

2020年1月から、TBSテレビ・ドラマ『テセウスの船』が話題になっている。主人公の父・佐野文吾が無差別殺人事件の犯人として死刑判決が下ったが、冤罪を主張し続けている中、息子の田村心(竹内涼真)が、事件当時の28年前にタイムスリップしてしまうという設定である。Uruさんの歌うウィスパー・ボイスの主題歌「あなたがいることで」も、しっとりとしたバラードで、ドラマに奥行きを与えている。

さて、ギリシア神話のテセウスは、牛頭人身のミノタウロスを倒した英雄として知られている。井出氏も『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)の「第2章 英雄と半神、人類と怪物たち」において、テセウスを取り上げている(118頁~123頁)。簡単に紹介しておこう。

テセウスはアテネの最高の英雄で、人気はヘラクレスに次ぐ。ヘラクレスは野蛮で何をするかわからないところがあるが、テセウスははるかに紳士的かつ常識的である。
アテネ王のアイゲウスが友人の娘アイトラとなした子という説と、実父はポセイドンだったという説があるようだ。

美術では主に三つの物語に主人公として表現される。
① 「アテネに戻るまでの武勇伝」
テセウスの父アイゲウスは生まれる子のために、剣とサンダルを大岩の下に隠し、母となるアイトラに、子がそれを取り出せたら、アテネに寄こすように言い残した。
成長したテセウスはそれを難なく取り出すと、徒歩でアテネの父のもとに向かった。その間、行く手を阻む強盗や害獣を次々と退治し、テセウスはアテネに入った。アイゲウス王の妻で魔女のメデイアは、自分の子を世継ぎにしようとして、テセウスを毒殺しようとするが失敗し、アテネから逃げ去る。

② 「ミノタウロス退治」
エウロペの子でヘレタ王ミノスは、ポセイドンとの誓約を破り、妃パシファエが牛頭の怪物ミノタウロスを産むという天罰を受ける。
ミノス王は名士ダイダロスに命じて迷宮を作らせ、ミノタウロスを封じ、クレタとの戦いに敗れたアテネの少年少女をミノタウロスの生贄として要求した。そこにテセウスが志願して、生贄を運ぶ船に乗り込み、クレタ島に向かう(その船は、悲しみを表す印として黒い帆が張られていた)。
ミノス王の娘アリアドネはヴィーナスの導きでテセウスを愛し、テセウスに迷宮から糸をたぐって脱出する方法を教える。見事、ミノタウロスを退治したテセウス一行はアリアドネを連れてクレタ島を去る。

≪ミノタウロス退治の絵画≫
この「ミノタウロス退治」関連の美術品としては、次のようなものがある。
・ギュスターヴ・モロー「クレタ島の迷宮のミノタウロスに捧げられるアテネの若者たち」
(1855年、油彩・画布、アン美術館[フランスのアン])
・作者不詳「ミノタウロスを倒すテセウス」
(紀元前5世紀初め、陶器画、赤絵式スタムノス、大英博物館[イギリスのロンドン])
・二コラ・プッサン「父の武器を発見するテセウス」
(1633-34年、油彩・画布、ウフィツィ美術館[イタリアのフィレンツェ])
・ヨハン・ハインドリッヒ・フュースリ「アリアドネから糸を受けるテセウス」
(1788年、油彩・画布、チューリヒ美術館[スイスのチューリヒ])
・フランソワ・ジョゼフ・エム「ミノタウロスを退治するテセウス」
(1807年、油彩・画布、国立高等美術学校[フランスのパリ])
・パブロ・ピカソ「ミノタウロス」
(1928年、木炭、紙・画布、ポンピドゥー・センター国立近代美術館[フランスのパリ])

③ 「アマゾン族との戦い」
アテネ王となったテセウスは、黒海沿岸のアマゾン族を退治するため戦い(アマゾマキア)、女王ヒッポリテの妹アンティオペを拉致してアテネに連れ帰った。
アマゾン族は復讐のためアテネを襲ってアクロポリスを包囲するが、テセウスの働きで撃退された。

井出氏は、「ギャラリートーク」というコーナーで、さらにテセウスについて詳しく説明している。
テセウスはヘラクレスに次ぐ英雄のはずなのに、絵ではミノタウロス退治くらいしかない。不思議なことに、ギリシア・ローマ美術だと壺絵や壁画でたくさん登場するが、ルネサンス時代にはほとんど名画がない。17世紀になって、やっと英雄として歴史画に顔を出してくる新顔である。

そもそも15、16世紀ルネサンス時代の名画に描かれた神話というのは、実はイタリアに伝わったローマ神話なので、本家本元のギリシア神話ではないといわれる。ギリシア神話自体に興味が持たれたのは、ギリシア本土に考古学的な興味が出てきた17世紀の古典主義時代からで、本格的に遺跡が発掘されてヨーロッパ中が古代史ブームにわいた18世紀になってからである。
だから、アテネの王子で周辺の怪物退治で名をはせたといっても、アッティカ地方のローカルな英雄テセウスの美術デビューはかなり遅れたと井出氏は考えている。

ところで、テセウスの最期は悲惨で、ヘラクレスが天上のオリンポスに迎え入れられたのとは対照的である。すなわち、アマゾン族の妻に産ませた子のヒッポリュトスに、後妻のパイドラが不倫の恋情を寄せ、振られた腹いせに義理の息子に誘惑されたと嘘をついて自殺する。テセウスはそれを信じて息子を死なせてしまう。
(エウリピデスやラシーヌの悲劇になった有名な話である)
ここらあたりが、テセウスの運の尽きである。あげくはアテネからも追われ、亡命を受け入れたスキュロス島の王に殺害されてしまう。
(井出洋一郎氏『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、118頁~123頁)

【井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出はこちらから】


井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)



『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎


井出洋一郎氏は『美術の森の散歩道』(小学館、1994年)の「第12章 ミロのヴィーナス 美の女神像の失われたポーズを求めて」と題して、『ミロのヴィーナス』の欠けた二本の腕の謎について解説している(このブログでも以前言及したが、ここで補足しておく)。

まず最初に、ルーヴル美術館のギリシア・ローマ部長アラン・パスキエ氏が、1985年のルーヴル発行の解説書で述べた見解を紹介している。
「左手は上方、右手は下に体を交差して左腰の高さに、それ以上のことは無謀な推量に過ぎない」と。
これがパスキエ氏の結論である(身も蓋もない結論と井出氏は評している)

1820年の発見時から、165年を経てこの結論に至るまでが、諸説紛々の時代であったが、井出氏は主な見解を紹介している。
≪有力なフルトヴェングラー説≫
各種の説の中でも横綱的風格を保っているのが、ドイツの美術史家アドルフ・フルトヴェングラーの説である。
クラシック音楽のファンなら周知のとおり、彼は往年の大指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーの父上である。ミュンヘン大学の教授として、ギリシア・ローマ美術史に優れた業績を残した。

フルトヴェングラーの学説(1893年)以前には、この『ミロのヴィーナス』はその古典的な格調のゆえに、紀元前5-4世紀の制作年代と考えられてきた(すなわち。古典期後期からヘレニズム初期の古い時代)。
古い方が有難みが増すし、等身大以上の丸彫りのヴィーナス像で首の付いたギリシア彫刻は、今でも『ミロのヴィーナス』しかないので、当時の学会の過剰な期待がかかったともみられる。

しかし、フルトヴェングラーは、その様式や彫刻技術、銘文の書体などが、古典期より下ったヘレニズム末期(紀元前2世紀末)のものであることを明らかにした。今日の研究の進歩によって、その時代推定は広く認められている。

フルトヴェングラーの復元図では、右手は左腰にあてがい、石柱に支えられた左手は、丸い果物が描かれている。ヴィーナスとともに発見された腕の断片を、リンゴをもったヴィーナスの手とみなし、前に出したその腕の重さを支えるために、当時よく使った石柱を補った。その台座として、ルーヴル美術館に入ったばかりの『ミロのヴィーナス』を写生した、画家ドベェのデッサンに描かれた銘文入りの台座を当てた。

古来ヴィーナスにリンゴは付き物で、女神アテナやヘラと一緒に美人コンテストを開いたときの審判パリスが、優勝の賞品としてヴィーナスに与えたのが金のリンゴである。リンゴを持ったヴィーナス像は、「勝利のヴィーナス」としてあがめられ、ほかにも『アルルのヴィーナス』など、ローマ時代の模刻に例がある。

また、このミロ島の古代名は「メロス」、ギリシア語でリンゴは「メーロン」で、ますます『ミロのヴィーナス』が持つにふさわしい。また、図の台座の銘記からは、少なくとも紀元前3世紀末以降に建設された町であるアンティオケア出身の何とかアンドロスが作者と読め、この像のヘレニズム末期様式と文の内容、書体が一致した。これで万事解決と思われた。
ところが、このフルトヴェングラーの復元案には、かなり疑問が残る。
・まず、ルーヴルに保存されているリンゴを持つ左手や腕の断片を、ヴィーナスのものと考えたが、この断片は大理石の素材や仕上げの点で本体とは異なり、本来ヴィーナスの付属品とは必ずしもいえない。
・また、台座もヴィーナスが踏まえるドベェのデッサンとは違う、ヴーティエの写した若い男のヘルメ柱の台座である可能性が大きい(肝心の台座がルーヴル内で行方不明となる)。
このように、フルトヴェングラーは発掘品のすべてをヴィーナス本体に同一のものと考え過ぎた。
・この発掘現場の洞穴は、中世には石灰製造工場の資材置場だったとする説があるようで、信仰の失せた大理石像など、石灰の原料にされてしまう。そしてヴィーナス像の周りに、像と関係のない断片があってもおかしくない。

完璧と思われたフルトヴェングラー説にも欠点があり、その欠点が共通した学説として、イギリスのクローディアス・タラルが、いち早く1860年に発表した案がある。
タラルは、失われた台座に若い男のヘルメ柱を立て、左手を宙に浮かせてリンゴを持った手を下にかざすように考えた(ヘルメ柱を従えたヴィーナス像も実在するが、少なくとも、左腕のポーズは不自然であると井出氏は評している)。

≪その他の諸説 ハッセ、ファレンティン≫
その他の諸説も紹介している。ハッセやファレンティンは、問題の多いヘルメ柱や支柱を取り除き、単体像として新説を出した。
ハッセ案は、タラル案と同じようなポーズであるが、ヴィーナスは左手で髪を解こうとしており、その手に持つのはリンゴではなく、ヘアバンドの飾りであろうとする。
また、ファレンティン案は、水浴中にのぞき見されて驚いたヴィーナスがはっとして左手を挙げたところと考え、後にはこれはヴィーナスではなく、狩人アクタイオンにのぞかれる女神アルテミスであると改めている。
(これらの案に対して、髪を解くポーズというのも無理が多く、またアルテミスは処女神なので、この像のイメージとは合わないと井出氏は批判している)

≪その他の諸説 ミリンジェン、クララック、ミュラー≫
ところで、19世紀前半の英、仏、独を代表する学者(ミリンジェン、クララック、ミュラー)は、ヴィーナスの両手に金属製の丸い盾を持たせて、盾に映る自らの姿にうっとり見入るポーズを考えた。

これらの案に対して、井出氏はかなり可能性が感じられるという。神話での夫役である軍神アルス(ローマ名はマルス)の盾を持つヴィーナス像は実例があり、ナポリの『カプアのヴィーナス』などには、『ミロのヴィーナス』と少なくとも血縁めいた親近さがあるとみている。
ただ、両者の決定的な違いが、カプアのうつむいた視線は、今日失われた盾に完全に向かっているのに対して、ミロの像はむしろ上を向き、遠くを眺めている点にある。
(とすると、どうしてヴィーナスは、盾を持たなくてはいけないのかと素朴な疑問を抱くことになる)

≪群像説≫
このヴィーナスは群像の一つであったとする説がある。
ヴィーナスの姿勢が左に開かれていることから、それは単身像ではなく、左に何かの像を伴ったカップル、あるいはグループ像だと考える案である。
事実、ローマ時代には、ヴィーナスとその夫アレスを並べた例が残っている。時代の近いヘレニズム末期の『ミロのヴィーナス』にも、隣にアレス像を組み合わせる意見がある。
例えば、アレス像として『ボルゲーゼのアレス』(紀元前5世紀末の原作によるローマ期のコピー)を横に置くと、戦に出かける夫を優しく見送る若妻、といった風情がよくにじみ出ている。しかし、ここでも問題となるのが、ヴィーナスの視線である。やはり、この若妻は遠くを見過ぎている。

さて、ヴィーナスが発見された現場近くには、ギリシア時代の体育館の遺跡があるが、このヴィーナス像は、元来は体育館の記念彫刻であると仮定する説もある。今は失われた大理石板の銘文には、体育館次長なるバッキオスという人物が、ヘルメスとヘラクレスに奉献するとあり、ヴィーナス像がヘルメス像やヘラクレス像と群像となっていたとする考えである。

そこからは計3体のヘルメ柱が発見されているので、真ん中の像は青年ヘラクレス、右は美徳の女神、左はヴィーナス像と考える。つまり、神話にある「別れ道のヘラクレス」の物語を群像として表したものという説である。
英雄ヘラクレスが若いころ道を歩いていると、美しい女(=欲望)と質素な女(=美徳)に同時に誘われ、迷った挙句に質素な女の指す厳しい道を選び、未来の苦難と栄光が約束されるといった教訓がテーマになっているそうだ。

ヴィーナスは美とともに欲望の女神であり、左手にリンゴをかざし、右手は若いヘラクレスを指して誘惑するポーズをとったとする。ヘラクレスはレスリングの神様だから、美女の誘いに負けずに練習に励めという意味合いになるという。ルーヴルのパスキエ氏が紹介した案であるそうだ。

井出氏としては、ここまで他の像を補う必要があるのか疑問だし、ヴィーナスの表情がそんなに誘惑的に見えないのが弱点であると評している。
井出氏は個人的な意見としては、「無謀な推量」ならば、大胆な最後の群像説に食指が動きながら、最初のフルトヴェングラー説も捨て難いとみている。
ともあれ、二本の腕が失われたおかげで、この『ミロのヴィーナス』の美が永遠のものになったことだけは否めない。彫刻の美しさは、なんと言ってもトルソ(胴体)にあるからとこの12章を結んでいる。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、161頁~174頁)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)



≪参考文献≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年
井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年
井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年
井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年
井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年
フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年
塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年
H.ヴェルフリン『古典美術――イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]

会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]
高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年
(本書は、ルネサンスの美術作品を時代の精神的風土のなかに読み解こうとした著作で、昭和46年度の芸術選奨文部大臣賞を受けた名著)
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』岩波新書、1939年[1998年版]
会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』新潮社、1966年[1977年版]
佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年
柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年
モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 上下巻』中央公論社、上巻1981年、下巻1982年
フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]

【井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版はこちらから】


井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)

【井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出はこちらから】


井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)

【井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版はこちらから】


井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』 (プレイブックス・インテリジェンス)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)


【モンタネッリ、ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』中央公論社はこちらから】


『ルネサンスの歴史(下) - 反宗教改革のイタリア』 (中公文庫)

【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】


ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)



≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-03-14 18:51:17 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年3月14日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。
(なお、2回に分けて述べることにする)


≪その5の執筆項目≫

ルーヴル美術館について
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ルネサンス期における聖母像の変化
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルドの『岩窟の聖母』に対するヴェルフリンの評価
レオナルドの『カーネーションの聖母子』の特色
ラファエロについて

≪その6の執筆項目≫
美術作品のランキング
ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ
ミケランジェロの「奴隷」について
ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」
ギリシア神話のテセウスと西洋絵画
『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎







【読後の感想とコメント】


ルーヴル美術館について


井出洋一郎氏の監修した『世界の博物館 謎の収集』(青春出版、2005年)において、第2章で、ルーヴル美術館について紹介している(29頁~48頁)。

ルーヴル美術館は、パリを横切るセーヌ川の東岸にある。川を挟んで西岸には、オルセー美術館の優美な建物が見え、北西に向かうコンコルド広場があり、さらに北へ向かうと凱旋門にぶつかる。

さて、ルーヴル美術館は巨大なカタカナの「コ」の字型の建物である。3つの部分に分かれて、それぞれにリシュリュー翼、シュリー翼、ドゥノン翼という名前が付けられている。
ここを訪れた人は、まず「コ」の字型の建物に囲まれた中庭にあるガラスのピラミッドに入り、地下の受付で入場券を手に入れた後、それぞれの翼へと足を運ぶことになる。
35万点にも及ぶ展示物は、「古代オリエント美術・イスラム美術」部門、「古代エジプト」部門から「彫刻」部門、「絵画」部門まで7つのパートに分けられる。さらにルーヴルそのものの歴史を語る「中世のルーヴル/ルーヴルの歴史」部門が付け加えられている。

ただ、部門ごとにひとつの部屋にまとまっているわけではなく、内容によっては分散しているので、すべてを系統立てて見るのは難しい。それはまるで芸術品の迷宮である。
だから、自分が見たいもの、有名なものはあらかじめ目星をつけて、まっすぐそこに向かって進んでいくのが良いとされる。
例えば、ルーヴル美術館を訪れた人の多くが真っ先に足を運ぶのが、ドゥノン翼の2階である。そこには、かの『モナ・リザ』があるからである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~30頁)

ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン


今回紹介した井出洋一郎氏の『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)のコラム「初代館長ヴィヴァン・ドゥノン」において、ルーヴル美術館の初代館長について述べている。
ドミニク・ヴィヴァン=ドゥノン男爵(1747-1825年)は、ルーヴルの前身ナポレオン美術館の初代館長であった。その名は、セーヌ川寄りのドゥノン翼として今でも記念されている。
ルーヴル美術館の他の翼の名リシュリュー、シュリーはルーヴル宮殿の拡張に功績があった王の重臣に過ぎない。
ドゥノンは美術館の実質的な初代館長(1802-1815年)であり、一番の功績者であった。
ナポレオンの台頭とともに、エジプト遠征に考古学者、記録画家として随行して、1802年に版画入りの報告書を提出したことが、後の皇帝に認められた。このことにより、初代館長に任命される。
(井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年、129頁)

『モナ・リザ』の展示場所の変遷について


現在でこそ、『モナ・リザ』はルーヴル美術館に展示されているが、歴史的にみると、この名画をフランソワ1世が入手して以来、その展示場所は色々と転々としている。この点を簡潔に説明しておきたい。

ルーヴルの建物は、もともと1190年にパリを守る要塞として建てられたが、フランソワ1世によって華麗な王宮として、1550年に生まれ変わる。
またフランソワ1世は名画『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの死後に買い取ったが、すぐにルーヴルに持ち込んだわけではない。まず、それをフォンテーヌブロー城に持ち運んだ。その時多くの人の目に触れる機会が生まれ、誰かが「これはジョコンダ夫人である」と言い出した。それ以降『モナ・リザ』=ジョコンダ夫人だという説が生まれたと井出氏は解説する。

1683年にはルイ14世のコレクションに加えられ、1695年にはヴェルサイユ宮殿に飾られた(一時的にルーヴルに移された時期もあったが、18世紀末まではほとんどヴェルサイユ宮殿に飾られていた)。

その後、この作品を手にしたのは、かのナポレオンだった。彼もまた、この微笑に魅せられ、居住していたチュイルリー宮に『モナ・リザ』を移し、自分の寝室の壁にかけた。そして、その後、ナポレオンが手に入れた美術品を一堂に集め、「ナポレオン美術館」といわれたルーヴルに移されることになる。最終的に『モナ・リザ』がルーヴル美術館の正式な収蔵品となるのは、1804年のことである。
自分の寝室に『モナ・リザ』を飾ったナポレオンは、ルーヴルの歴史を語る上で欠かせない人物のひとりである。そのナポレオンがその権力の象徴のひとつとしていたルーヴルだが、今は『モナ・リザ』がそのルーヴルの象徴として君臨し続けているのも、運命の不思議な巡りあわせである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~48頁)

【井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』はこちらから】


井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』 (プレイブックス・インテリジェンス)


レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ


レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人は、細密な写実という隘路を通って、理想的に表現することを完成した、まさにルネサンス美術の完成者であったと評される。
しかもこの完成された美術は、必ずしも宗教と無関係であるのではない。ラファエロの聖母像でも「システィンの聖母」のごときは、威儀美容の人間美を兼ね備え、そのうえ喜怒哀楽の現世を越えた価値の表現であり、人間の慈母として人々の心からなる礼拝にたえるものである。それはまさに祭壇画であって、展覧会や大広間に飾られるべき装飾的な性格を持つものではない。
ミケランジェロの芸術も、人間的自覚と信仰を合一しようとする苦悩の中から生まれ、それにより深化させられた。
(会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]、74頁)

また、レオナルドも、ミケランジェロも、ラファエロも、フィレンツェの育て上げた天才たちでありながら、ミラノやローマにおいてその天才にふさわしい活躍ぶりを見せた。これらのフィレンツェの子たちは、ヴァザーリの言う通り、「町を去って他国で作品を売」り、それによってフィレンツェの「町の名声を広く世界に伝えた」のである。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、92頁~93頁)

ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』


ヴァザーリの『芸術家列伝』は、その題名の示す通り、個々の芸術家の伝記を集大成したものである(1550年の初版本と1568年の再版本と2種の版がある)。

ヴァザーリが意図したのは、単に個々の芸術家の生涯を羅列的に並べるということではなく、ひとつの「芸術の歴史」を書くことであったようだ。ヴァザーリは、芸術にはひとりひとりの芸術家の創造力を超えた大きな流れのあることを信じ、「列伝」というかたちでその流れを明らかにしようとした。
ヴァザーリは『芸術家列伝』の序文のなかで、ギリシアの芸術家たちのことを語っているが、芸術はまず古代ギリシアに生まれ、育ち、繁栄の絶頂に達し、そして亡んでしまい、その後、ルネサンス期において(具体的にはチマブエ以降)、再び生まれ変わってきたと考えている。
このように、「再生」した芸術は、ミケランジェロにおいてその絶頂に達するものとヴァザーリは考え、そのような芸術の「歴史の流れ」を書き残した。
したがって、『芸術家列伝』は、ミケランジェロにおいて頂点に達する芸術史ともいえる。ヴァザーリは「ミケランジェロ伝」を書くためにあれだけ多くの芸術家の伝記を書いたと言ってもよいと高階氏は極端な言い方をしている。

少なくとも、1550年の初版本においては、その意図は明確だったそうだ。だから、ヴァザーリはその「ミケランジェロ伝」を、他のどの芸術家の伝記よりも桁違いに長く書いたのみならず、当時まだ活躍していた芸術家は、ミケランジェロ以外全部切り捨ててしまった。

ただし、1568年の再版においては、事情が変わっていた。ヴァザーリにとっていわば「神」にも等しい存在だったミケランジェロはすでに世を去っていた。新しい世代の芸術家たちが、ミケランジェロやラファエロに代表される古典主義芸術の大家たちに代わって、その地位を確立していた。
だから、『芸術家列伝』の再版本では、その「歴史」をミケランジェロで終わりにすることはできず、新しく多くの現存(当時)の芸術家たちの伝記をつけ加えた。
「ティツィアーノ伝」もそのひとつである。この伝を書くためにヴァザーリはフェラーラに旅行までして、ティツィアーノに会って話を聞いている。それだけに『芸術家列伝』のなかでも、この「ティツィアーノ伝」の信憑性は高いとされる。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、348頁~350頁)

【高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』はこちらから】


高階秀爾『ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土』 (中公文庫)



ルネサンス期における聖母像の変化


14世紀、初期ルネサンスの絵画は、平面の二次元的表現を超えて、立体的な三次元的深みを出そうとする努力がなされ、15世紀前半は、その三次元的表現が、より現実的形態と人間的表情を持つ工夫をともなうようになった。そして15世紀後半、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍するルネサンス最盛期を迎える。

その歩みを、14世紀のジョット、15世紀前半のマザッチョ、そしてレオナルドと、それぞれが描いた聖母像を青木昭氏は比較している。
・ジョット「荘厳の聖母」1310年頃
抽象的、図式的な中世・ビザンチン様式を抜け出して、人物の輪郭線が明暗によってぼかされ、聖母の表情や衣服の柔らかさは、画面にふくよかな立体感をもたせている。

・マザッチョ「聖母子」1426年頃
一見、中世的様式を踏襲しているかのようにみえるが、右手で、幼子キリストのあごをくすぐる聖母マリアは、まるで当たり前の母親であり、親子の情愛がほのぼのと感じられる。

・レオナルド「ブノワの聖母」1478年頃
レオナルドの最初期の作品の一つである。聖母の髪形は、師ヴェロッキオの影響が濃いが、豊かな丸みのある愛らしい聖母の表情は、レオナルド自身のものであるといわれる。この表情がその後のレオナルドの聖母像のパターンとなったと青木氏はみている。

上記三者のうち、ジョットの聖母では、いかに立体的に表現するのかに精一杯であり、その表情はまだ固い。マザッチョにおいて、その聖母の顔に温かい血が流れているのを感じることができるようになる。そしてレオナルドの聖母では、その生き生きとした表情に加えて、心の動きまで伝わってくるのがよくわかる。この表情、この手法こそ、ルネサンス精神そのものを具現していると青木氏は理解している。
レオナルドは、ルネサンスの先人たちの足跡の上に、ルネサンス精神の頂点を極めた。
(佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年、7頁~8頁)

レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化


塚本博氏は、レオナルドの聖母の顔の表情に注目して、初期フィレンツェ時代とミラノ滞在期以降では、その類型が異なることを指摘している。
「カーネーションの聖母」や「ブノワの聖母」では、フィレンツェの美術家の影響がまだ顕著であった。一方、「岩窟の聖母」や「聖アンナと聖母子」では、女性の面相に深みのある心理的起伏が生じているという。

① 「カーネーションの聖母」1475年頃、62×47.5㎝、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)
・初期フィレンツェ時代に描かれた、早い時期の聖母子図である。
・ほぼ正面を向いて量感ある上半身を見せるマリアの姿には、レオナルドの師であったヴェロッキオの彫像が反映されているとされる。
・また背景の幽遠な風景は、すでに聖アンナとモナ・リザの構成を予告していると塚本氏はみている。

② 「ブノワの聖母」1475-1478年頃、48×31㎝、エルミタージュ美術館)
・これも初期の聖母像の特色を示している。
・マリアと幼児キリストをともに斜めに組み合わせた、空間性の豊かな配置に、レオナルド独自の群像表現が見られる。
・しかし、ほほ笑みのマリアの初々しい姿には、フィレンツェの彫刻家デジデリオ・ダ・セッティニャーノの雰囲気が残っていると塚本氏は指摘している。
・このマリア像は、三王礼拝や猫を抱くイエスにも共通して現れているという。

③ 「岩窟の聖母」、ルーヴル美術館)
・ミラノに移ってからのレオナルドによる聖母像は、ヴェロッキオやデジデリオの影響が後退し、うつむくような内省的な表現を見せるようになる。ミラノ時代初期の『岩窟の聖母』はその変化をもっともよく示す作品である。
・この作品はまた、構図の観点からも独創的である。すなわち、三王礼拝に見られたような群衆の喧噪が静まり、岩山を背景にして、聖母と天使が二人の幼児を見守るような穏やかな所作で、画面の空間的広がりを規定している。
・アルベルティが推奨した動きの活発な物語画を目指した15世紀イタリア絵画は、この「岩窟の聖母」という作品の登場で、古典的様式に進路を変えたと塚本氏は理解している。
(塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、145頁~147頁)

レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』


レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」
1483-86年頃/油彩・板(後にカンヴァス)/199×122㎝ Denon 2F

ミラノのフランチェスコ派の無原罪懐胎教団は、レオナルドならびにミラノ在住の2人の画家デ・プレディオス兄弟に、当時完成したばかりの無原罪懐胎の祭典のために建てられた礼拝堂に飾る大祭壇画を注文した。

指物師がすでに1482年に完成した大型のリテーブル(祭壇背後の飾り壁)の中央パネルを、レオナルドは描いた(これは、レオナルドがミラノで完成した最初の絵画である。1483-1486年頃とされる)。
中央パネルに描かれた絵は2つのヴァージョンがある。
古い方は、今日、パリのルーヴル美術館にある。
後年制作された新しい方は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある(こちらの「岩窟の聖母」は1493-1495年頃と1507-1508年、195.5×120cm。このヴァージョンの方には、光輪や洗礼者ヨハネのアトリビュートである杖が加えられた)

ところで、リテーブルの中央にある壁龕(ニッチ)には、無原罪懐胎を表す木彫の礼拝像である聖母子像が置かれていた。レオナルドの「岩窟の聖母」は、この壁龕の前にある可動の絵として置かれ、年間364日、この無原罪懐胎の聖母子を覆い隠していた。無原罪懐胎の祭日である12月8日だけ、この板絵はずらされ、これによって本来の礼拝像である聖母子像は姿を現し、直接拝むことができた。「岩窟の聖母」は、」本来の礼拝像を隠してしまう「覆い絵」であったようだ。

この絵で、レオナルドは処女マリアを、幼児の洗礼者ヨハネやキリスト、そして天使といっしょに洞穴のなか、あるいは前に描いた。今日、広く呼ばれる「岩窟の聖母」という名前はここに由来する。

「岩窟の聖母」の両ヴァージョンで、岩あるいは石からなる床部が画面の前縁で突然途絶えてしまったように見える。レオナルドはこうすることで、この場所が人里離れた場所であることを暗示しているとツォルナー氏は解釈している。

水やまばらな若木から放たれる後景の鈍い光は、岩地の荒涼とした雰囲気を和やかにする。また宗教的なシンボルという視点から、マリアのマントを留めている真珠とクリスタルガラスは、マリアの純潔のしるしと理解できる。このように理解したとすれば、「岩窟の聖母」の掛けられた礼拝堂が、無原罪懐胎の教理に奉献されたこととの関連も生じてくるとする。
宗教文学から抜き出された、似たようなトポスに関連しうる岩山も、マリアの象徴的表現という意味で解釈できるようだ。
(この岩山の含意は、後に制作された「聖アンナと聖母子」(1502-1516年頃、板に油彩、168×130cm、ルーヴル美術館[パリ])に描かれた岩山に当てはまるとツォルナー氏は考えている。聖母マリアは、人間の手によって引き裂かれていない山とされた)。

ところで、レオナルドが無原罪懐胎教団のために制作した「岩窟の聖母」では、明らかに幼児ヨハネは重要な役割を担っている。しかし、画面にヨハネが描出されていることは、イコノグラフィーでは珍しい特異なケースであるそうだ。

ヨハネとキリストの幼児期での出会いは、聖書に書かれた一般の話ではなく、いわゆる聖書外典、つまり公的にはあまり認証されていない聖書の追記に叙述されている。
そこでは、マリアとキリストがエジプトへ避難する途中に、荒野でヨハネに出会うという記述がある。

この出来事を「岩窟の聖母」の登場人物や、やや荒涼とした岩場は表しているのかもしれない。ヨハネとキリストとの荒地での出会いを、ここで見事に描出する根本的な意味は、注文主の宗教上の思想に基づくとツォルナー氏はみている。
「岩窟の聖母」の祭壇画の寄進者は、フランチェスコ派の教団であり、この教団の崇拝対象は、キリストと聖フランチェスコ、そして洗礼者ヨハネも含まれた。このため寄進者たる教団は、直接キリストを拝むと同時に、キリストから祝福され、また処女マリアにも庇護を与えられた幼児ヨハネであることが可能であった。

マリアはヨハネの上に手を戴せており、また彼女のマントの一部もヨハネの体に触れている。そのため、ヨハネと教団の会員は、聖母の保護下にあるように見える。ヨハネに掛かるマリアのマント以外にも、岩が避難所とみなされるゆえ、画面に描出された場所自体が、保護を意味するモティーフでもある。
そして、おそらく岩を避難所に仕立て上げるために、レオナルドは後景の岩山や衣装を描くのに大変苦労したであろうとツォルナー氏は想像している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、28頁~33頁)。

【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】


ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

レオナルドの「岩窟の聖母」に対するヴェルフリンの評価


ハインリヒ・ヴェルフリンは、ブルクハルトのルネサンス研究を継承して、名著『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』を若くして刊行した。
ヴェルフリンの関心は、主としてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ に向けられ、ルネサンスにおける「古典」の内実を明らかにしている。

ヴェルフリンはレオナルドの「岩窟の聖母」について次のように述べている。
「しかしレオナルドとヴェルロッキオとの間にはまた一種の内面的親近性が存立していたように思われる。われわれはヴァザーリの叙述から、この二人の関心がどんなに親しく触れあい、またヴェルロッキオが紡いだ、どんなに多くの糸をレオナルドが取りあげたか、ということを知る。それにもかかわらず、この弟子の年少時代の諸作を見ることは一つの驚異である。もしすでにヴェルロッキオの<洗礼図>(フィレンツェ、アカデミア)における天使(この天使のみはレオナルドの筆である。なおこの図はいまウフィツィに蔵せられる)がある他の世界からの声のようにわれわれの心を動かすならば、<巖窟の聖母>のような図はフィレンツェの千四百年代の諸々の聖母との関連において、いかに全く比較を絶するもののように思われることであろうか。(中略)
一切がここでは意味深くて新しい。モティーフそのものも、形式上の取りあつかいも。細部における運動の自由と、全体における集群の法則性とがある。」

フィレンツェの1400年代の諸々の聖者像と比べてみても、「全く比較を絶するもの」と評している。
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、36頁~37頁。なお、このヴェルフリンの著作に対する評価は、塚本博『イタリア・ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、237頁~238頁を参照のこと)。

【ヴェルフリン『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社はこちらから】


『古典美術―イタリア・ルネサンス序説』 (1962年)


『カーネーションの聖母子』の特色


『カーネーションの聖母子』について、ツォルナー氏も、師匠ヴェロッキオとの密接な関連性がみられると主張している。
中景の小さな柱や後景の風景などは、フランドル絵画の絵画要素であり、聖母や幼児キリストの形態はヴェロッキオの工房で発展させられたタイプであるという。
この種の聖母像は、家の装飾や個人的な祈祷を目的に作られたもので、15世紀のフィレンツェで広く出回ったようだ。

レオナルドは聖母子の深い愛のきずなを表すと同時に、ふさわしいシンボルを使って、キリスト教の教義内容を描き出したとされる。例えば、幼児キリストは、おぼつかない手つきで、受難のシンボルである赤いカーネーションをつかもうとしている。このことで無邪気で罪のない姿に、後に起こる救世主の十字架上の死がすでに暗示されている。
同様に、シンボルと判断されるのは、画面右下の花の生けられたガラスの花瓶であり、これはマリアの純潔と処女性を明示する。

これらのカーネーションやガラスの花瓶といった描出の難しい要素を描くことで、画家は自分の力量を印象的に証しているとツォルナー氏はみている。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、17頁)

ラファエロについて


ラファエロは、イタリア中部の美しい中世の町ウルビーノに生まれたが、幼児期に父母と死別する。実母は8歳、父を11歳で亡くし、すぐに継母側との間で財産争いに巻き込まれるなど、小さいころから人間的な苦労をしている。しかし、ラファエロはおおらかさを保ち、画家であった父の血を引いて絵画の才に恵まれ、10代半ばで師ペルジーノの助手となるも、数年で技量を凌駕したといわれる。
師を追い越し、花の都フィレンツェに出て、当時最前衛をゆくレオナルド」やミケランジェロのスタイルを貪欲に取り入れ、自らの理想の中庸の美を作り上げる。
数々の聖母子画や、ヴァティカン宮の署名の間の『アテネの学堂』を初めとする壁画群は、その天分を遺憾なく発揮した。

ヴァザーリ(1511-74)の『美術家列伝』(初版1550年、第2版1568年)には、「ラファエロはたいへん女好きで惚れやすい人であった」と記されている。ここらへんの評判が、女嫌いのレオナルドやミケランジェロと比べて軽くみられる理由にもなっている。

例えば、当時のラファエロの恋人の一人を描いた『ラ・フォルナリーナの肖像』(国立美術館[ローマ])がある。左腕の腕輪にラファエロの署名を入れ、いかにも親しそうにこちらを見ている。このかわいいローマ美人は、一説にヴァティカン近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルーティといわれる(ラファエロを崇拝していたフランス19世紀の画家アングルも、彼女がラファエロの絵のモデルとなっているところを空想して描いたほど有名な恋人である)。

その面影は、『小椅子の聖母』(ピッティ美術館[フィレンツェ])や『サン・シストの聖母』(ドレスデン国立絵画館)などのマドンナ像にも表れている。
当時はネオ・プラトニズムの思想の最盛期であったから、こうした身近な美の再現を通して神の美を表すラファエロの方法は、まさにトレンディーであったようだ。

しかし、女たちを愛し愛されたこの恵まれたラファエロは、37歳で亡くなるまで独身を通した。結婚に至らなかった理由は何かという点については、ヴァザーリも伝えているのは、ラファエロには野心があったという。つまり自分が枢機卿になりたいとの一念が結婚を避け通した理由であったそうだ。
(井出氏によれば、大それた野心で、現実的でもないので、何か他の理由があるのではと推測している。例えば、特定の女性に縛られない自由な身でいたかったとか、理想が高すぎて、本当に気に入った女性がこの世にいないとか)。

ラファエロは、友人のカスティリオーネにあてた1516年の手紙の中で、理想のモデルについて次のように語っている。
「一人の美しい女性を描くには、何人もの美しい女性を見て、閣下が私とともに選んでくださることが必要です。しかしそう美しい女性は多くありませんし、正しい鑑識眼も私にはありませんので、私は自分の頭にひらめく、ある『アイディア』を利用します」

この手紙を井出氏は、「ラファエロの描く美しいマドンナやヴィーナスは、彼の全女性体験が昇華された内的なイメージであり、一人のモデルからは理想の美は得られない」と解釈している。
そして、このラファエロの慎重な言葉の裏には、彼のマザー・コンプレックスが隠されていると推測している。つまり、早くから実母を亡くし、継母との確執があり、一人の女性に裏切られることへの恐れがあり、複数の女性から愛されていないと気が済まない苦労性の人格ができてしまったのではないかという。それは、ラファエロの芸術の折衷主義的で、影響を受けやすいところに通ずるとも、井出氏はみている。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、119頁~133頁)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)




≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-03-08 17:29:28 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年3月8日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






執筆項目は次のようになる。



第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画 
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>
ラ・トゥール 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
ル・ナン兄弟 「農民の家族」
プッサン    「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
シャンパーニュ 「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」

<6時間コース>
ボージャン   「チェス盤のある静物」
プッサン    「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
ロラン     「夕日の港」

10時代概説 フランス絵画 
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>
ヴァトー    「シテール島の巡礼」
シャルダン   「食前の祈り」
ルブラン    「ルブラン夫人と娘ジュリー」
コロー     「真珠の女」
<6時間コース>
ブーシェ    「ディアナの水浴」
フラゴナール  「かんぬき」
アングル    「トルコ風呂」
ジェリコー   「エプソムのダービー」
シャセリオー  「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
コロー     「モルトフォンテーヌの思い出」








第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画 
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>

ラ・トゥール


ラ・トゥール(1593-1652) 
① 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F

② 「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F

「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F
【光と闇のマジック巧みな画家の心の明暗を読む】
ラ・トゥールは、おそらくオランダで修業し、30歳でロレーヌ公に絵が買い上げられ、1639年にはパリに進出している。国王ルイ13世から“王の常勤画家”に任命されてからは、宗教画を納めている。ロレーヌ地方がフランスに合併されてからは、パリから派遣された美術好きの知事のため、6回も作品が発注されて高額の画料が支払われた人気画家であった。

没後、作品は散逸し、息子や工房の模作が多いが、今日、約40点しか真作がない(5点もルーヴルは所蔵し、まさに宝庫である)。

その内の風俗画の代表、若者に賭け事の危険を教える「いかさま師」がある。ラ・トゥールの光と闇のマジックにはファンも多い。
アメリカに同じ構図のクラブのカードをすり替える絵もあるが、出来はルーヴルのダイヤのカードを持つ、この「いかさま師」の方が良いといわれる。いかさま男女3人の関連した表情に心理的緊張感が増して、完璧な構図となっていると評される。

「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F

【「戦う画家」が描く慈愛の聖女】
光と闇の画家の絶頂を示す晩年作が「聖女イレーヌ」である。それは、矢で射られたローマ時代の殉教者を慈愛で救った聖女の物語である。
セバスティアヌスは、伝承には、3世紀ローマ帝国の軍人で、禁教下に仲間を助けようとして露見し、弓で射殺刑となったが急所を外れて、瀕死のところをイレネという女性に看護されて救われる。
布教に復帰したセバスティアヌスは再逮捕され、今度は棍棒で打たれて殉教した(遺体は、ローマの下水道に投げ込まれたといわれる)。
このラ・トゥールの絵は、瀕死のセバスティアヌスがイレネ(仏語イレーヌ)たちに発見される感動の名シーンである。

このような絵を描いた画家だから、さぞ本人も慈愛の精神にあふれていたと想像される方も多いだろうが、実際はそうではない。17世紀の文献によると、ラ・トゥールは地元ロレーヌでは欲に固まった金満家で市民に恨まれ、目下には横柄、脱税、暴力で裁判所に訴えられてもいる(絵もそうだが、性格も明暗の激しいカラヴァッジョに似ていると井出氏はみている)。

それでは、この性悪な画家の絵から、なぜこんな聖なるメッセージが発せられるのか。
17世紀のロレーヌ地方は宗教戦争のただ中にあり、画家の住んだ町が火災で壊滅、その上飢饉とペストの流行で、生き抜くだけでも困難な時代であった。ラ・トゥールは、フラ・アンジェリコのように安穏な修道院生活の画家を目指すわけにはいかなかったようだ。むしろ植民地を切り開いていく反宗教改革時代の“戦う画家”となってしまった。画家はその作品において、信仰の力が人の魂を動かすことを見せつけ、その戦いに勝つことでしか救われないと考えたと井出氏は想像している。
(井出、2011年、202頁~206頁)

ル・ナン兄弟


ル・ナン兄弟(1600/1610頃-1648頃) 
「農民の家族」
1640-45年頃/油彩・カンヴァス/113×159㎝  Sully 3F

【ブルジョワのために描いた質素で粋な農民画の傑作】
ル・ナン兄弟は、フランス北東部、美しいゴシック様式の大聖堂で有名なラン出身である。兄弟はパリで共同の工房を持ち、たくさんの顧客を抱えていた。
(ただし、Lenainとしか署名しないので、とくに農村を主題とした絵の多い長男アントワーヌと次男ルイの絵画は区別が難しいようだ)

再評価は、1850年代、評論家シャンフルーリがラン出身で、このル・ナン兄弟を記事で紹介したことから、ブームが起こる(その点、フェルメールも事情が似ていた)。
シャンフルーリは、クールベやミレーらの農民画が注目を浴びた時代に写実主義を推進した。

ル・ナン兄弟の作品は早くからルーヴル入りを果たした。「農民の家族」という作品は、暖炉に向かう子たちを入れると、合計8人の農民の家族が猫や犬とともに、記念写真のように描かれている。大人たちの視線は、私たち(鑑賞者)の方に向けられている。
奥のご主人は、大きなパンを大事に抱え込んでおり、一方で左の老女の瞳は慈愛にあふれ、当時は高価なワイングラスを手にしている。貧しいはずの農家にとってあまりに威厳に満ちた肖像が描かれている。

この絵は、聖体のパンと受難の血のワインを使って家庭でミサをあげる、農村部の新しいキリスト教信仰を写したものとする説が出されたようだが、単なる深読みとされた。というのも、ル・ナン兄弟の農民画は純粋にパリで描かれ、パリの貴族やブルジョワのために描かれた空想の農民画であるから。

19世紀のミレーのように、郊外の農村に住んで、現地取材したわけではない。ひょっとして、画家はこの絵を発注したパリのお金持ちの一家を農民に見立てたのかもしれないともいわれる。
井出氏の解釈では、ローマで流行のカラヴァッジョ様式の宗教画をフランスの農村に移し替えてみようとしたのではないかという。画家の機知と自信が感じられ、ありえない設定だけれど、存在感があり、質素を装いながら粋を貫くフランス絵画の傑作であると評している。
(井出、2011年、207頁~209頁)

プッサン


プッサン(1594-1665) 
「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
1638-40年頃/油彩・カンヴァス/185×121㎝ Richelieu 3F

【若い牧人たちが読んでいる文章の意味は?】
プッサンは1594年、ノルマンディー地方のレザンドリの名家に生まれる。各地で画家修業した後、30歳でローマに到着し、以後パリに戻った2年間を除き、枢機卿や貴族のパトロンを得てローマで活躍し、当地で没している(だから、ローマ滞在の方がフランスより長い)。

しかし、1639年、プッサン45歳のときに、本国のルイ13世からパリに帰って、首席宮廷画家になるようお声がかかった。ローマで結婚した最愛の妻マリーが27歳で家付き娘であったことなどから、画家は逡巡する。とはいえ王様の要望となれば命令のようなものであったから、1640年、単身赴任でパリに到着する。まもなく、パリの画家たち、とくにライバル宮廷画家シモーヌ・ヴーエ一派から敵対され、ローマと残した妻が恋しくなる。
その頃描いたのが、この「アルカディアの牧人たち」なのである。
この絵の欝々としたメランコリーの世界は、画家がパリに帰る直前の不安感が反映したものと井出氏は考えている。

Et In Arcadia Ego.「われ、アルカディアにもあり」という古代の石棺の銘文、つまり死はどんな理想郷にもある。お前たちの青春もはかない一瞬に過ぎない、というきつい言葉を若い牧人たちが読んでいて、それぞれに意味を探っている。
(この絵については、パノフスキー(E. Panofsky)の名解釈が『視覚芸術の意味』(岩崎美術社)で読めるので、お勧めであるという)

ここから、プッサンはローマのカラヴァッジョの影響から抜け出て、フランス人自らの古典主義に目覚めた内省と思索の時代に入ることは後年の名作群が証明してくれると井出氏は指摘している。
(井出、2011年、210頁~211頁)

シャンパーニュ


シャンパーニュ(1602-1674) 
「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」
1662年/油彩・カンヴァス/165×229㎝ Sully 3F

【愛娘を奇跡的に癒した祈りと神の愛を伝える】
シャンパーニュはブリュッセル生まれで、フランスに帰化した画家である。パリでルイ13世やリシュリュー枢機卿の宮廷画家として、肖像画や宗教画に腕を振るった。とくにフランドルで学んだ細密描写による布のテクスチャーの見事さは他の追随を許さない。

肖像画では、ルーヴルのリシュリュー枢機卿一人の肖像が厳格と繊細さを兼ね備えて、宰相としての個性をよく捉えている。
(ただ、リシュリューという人は、ルーヴルのリシュリュー翼の名前を冠している偉い政治家というよりも、デュマの小説『三銃士』のせいもあって、策謀家としての陰険なイメージがありすぎる)。

そこで、この画家の代表作としては、二人のシスターを描いた奉献画の方を井出氏は挙げている。
パリのポール・ロワイヤル修道院は当時厳格な高等教育で有名で、画家は娘カトリーヌを修道女として預けている。
ところが、彼女は足が麻痺して動けなくなってしまう。
(原因は粗食で栄養が悪かったのか、陽に当たらなかったのが悪いのか。今日でもパリでは脚気が風土病であるという)
そこで、カトリーヌ=アニエス・アルノー修道院長は、9日間の勤行を彼女のために尽くして、病は奇跡的に治癒した。父の画家シャンパーニュは感激して、さっそく画筆をとり、この絵を仕上げて修道院に寄贈した(そのいわれが画面の背景左上に事細かに描いてある)。
ベージュ色と黒と十字架の赤というシンプルな配色に、横たわる娘と祈る院長の二人だけの構成は、この修道院のモットーである清貧にふさわしい。

もともとこの修道院は、1632年からフランスにおけるキリスト教の厳格派であるヤンセン主義の神学校となっていた。その教理は、人間の原罪の深さを強調し、人間は善をなしえないとされ、禁欲的なものであったそうだ(だから、哲学者パスカルや劇作家ラシーヌも学んだ校風は贅沢が禁止されたものであった)。
美は神の愛を通じて表現に至ることを、この絵は教えてくれるようだ。
(井出、2011年、213頁~215頁)

<6時間コース>

ボージャン


ボージャン(1612頃-1663) 
「チェス盤のある静物」
1630-35年頃/油彩・板/55×73㎝ Sully 3F

【現世を否定し信仰へ向かうヴァニタス画の最高傑作】
絵画における禁欲的なヤンセン主義の影響は、先のシャンパーニュが典型である。そして物質を描くはずの静物画でも、現世を否定し来世のために、身を律するという「メメント・モリ」(死を想え)の考え方が17世紀には流行した。

一般に「ヴァニタス(現世の虚しさ)画」と呼ばれるジャンルで、このボージャンの作品「チェス盤のある静物」が最高傑作であるとみられている。とくにこの絵は、「五感の寓意」とも呼ばれている。
まず、リュートと楽譜は聴覚、パンとワインは味覚、カーネーションは臭覚、鏡は視覚、チェス盤や財布、カードは触覚を表す。
一見、何気なく配置しただけに思えるが、そこから手前の賭け事や音楽の遊興生活を否定し、奥の聖体を表すパンとワイン、三位一体の3本のカーネーションの宗教生活へと向かう構図が読める。
そして結局は壁の鏡(そこには何も映っておらず、死、あの世の象徴)へと人間は導かれてしまう運命にあることを暗示している。
このように、ボージャンはローマに学んだ優れた宗教画家である。
(静物画は4点しか遺されていないが、ルーヴルのもう1点「巻菓子のある静物」も見事である)
(井出、2011年、216頁~217頁)

プッサン


プッサン(1594-1665) 
「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
1660-64年/油彩・カンヴァス/118×160㎝ Richelieu 3F

【聖書から描いた四季に人間の人生を思う】
プッサンは2年で宮廷画家の職を投げて、パリからローマに帰ってしまう。その一時帰宅の言い訳が、妻を迎えに行ってくるからとのことであったが、結局二度と故国の土は踏まなかった。

リシュリューの甥の公爵が、ローマに直接注文した画家プッサン最晩年の傑作が、この「四季連作」である。
プッサンはここで四季の自然を、聖書の主題において、また幼青壮老の人生と一日の移り変わりにおいて俯瞰した。
(昔はただ春夏秋冬が横一列に並んでいたが、改装後は八角形の間でぐるりと見回せるので、画家の宇宙観がよくわかるという)

「春」はアダムとエヴァの楽園で朝を表す。この「夏」は、寡婦のルツに地主のボアズが落ち穂拾いの許可を与える出会いの場面で、後に二人は結婚してダビデの家系を作る。時は真昼、人生も成年期である。
「秋」はモーセが約束の地の葡萄を選ばせる収穫図で、夕映えの空である。「冬」は夜の大洪水が描かれる。ただし人類は終わりではない。冬の洪水から春の再生へと循環する。
(井出、2011年、218頁~219頁)

ロラン


クロード・ジュレ、通称ロラン(1600-1682) 
「夕日の港」
1639年/油彩・カンヴァス/103×137㎝ Richelieu 3F

【後輩画家も真似できない「夕景の巨匠」が描く夕焼け】
クロード・ジュレ、通称ロランという画家も、17世紀にローマに憧れ住み着いてしまったフランス人である。プッサンとは仲が良く、一緒に郊外に写生に出たようだ。

ロランは数々の風景素描を構成し、聖書や神話の物語性も盛り込んで、現実よりも理想的な風景画を創り出した。17世紀のオランダでは、人物抜きの自然そのままに近い風景画が人気であったが、フランスの宮廷人も憧れのイタリア風景を欲しかったようだ。

そこでサービス精神のあるロランは、2枚ひと組で朝と夕方、都会と田園という対照的な情景を描いて大評判となる。この「夕日の港」という作品も、ルーヴルにある朝の田園風景「村の祭り」と対幅であるそうだ。

やはりロランは夕景の巨匠で、ピンクとオレンジの豊かな諧調こそが画家の命である。この絵の遠近法上の消失に位置する夕日が船と建築と群衆の舞台を統一している。
19世紀風景画の大家ターナーやコローが何とか再現しようとしたロランの夕景だが、真似できなかったようだ。
(井出、2011年、220頁~221頁)

10時代概説 フランス絵画 
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>

ヴァトー


ヴァトー(1684-1721) 
「シテール島の巡礼」
1717年/油彩・カンヴァス/129×194㎝ Sully 3F

【ルーヴルが作品名を改題した理由とは?】
この絵はかつて「シテール島への船出」と呼ばれて有名な絵であった。いつのまにか今の「シテール島の巡礼」に改題された。

ヴァトーという画家は、長わずらいの結核により37歳という若さで病没した、いかにも細面で優男であった。
画筆のタッチは繊細でパステル画のようである。絵に根源的な迫力はなくとも、その上品な艶っぽさ、賑やかだけど哀しいはかなさが魅力的である。

「シテール島の巡礼」のシテールとは、縁結びの神社のような島である。つまり、古代ギリシアではキテラといい、愛の神ヴィーナスが住み、ここに巡礼すれば、片思い、失恋、不倫なんでも恋愛問題は片付くという島である。様々なカップルが船でやってきては、それなりの解決を見て帰っていく。

ロココ時代にはこの絵ばかりでなく、田園の恋愛劇やオペラがはやって、ひとまとめに」して<フェート・ギャラント>(日本語で<雅な宴>)と呼ばれる。
(ただし、本来のgallenteは、和風の<みやび>というより色気が濃い)

この絵ではヴィーナス像の下にいる3組のカップルが主役である。衣裳は違っても意味的には、同一人物と考えてよいと井出氏はいう(異説があるので、要注意だが)。
一番右の男性はまだ気のない女性に愛を告白する。真ん中は、愛を受け入れた女性は手を取られて起き上がる。左は、男性が女性の腰に手を回して、早く愛の儀式を終えて立ち去ろうとするが、女性はこれまでの自分を名残惜しそうに振り返っている。このとき、もう二人は夫婦というわけである。足元に犬がいるのは忠実のシンボルである。

上記の分析は、この絵のファンだった彫刻家のロダンによるものであるそうだ。まさに恋愛のフルコースがここにある。こうして大勢の恋人たちが楽しそうに船に乗り込んで、キューピッドたちに導かれて帰路につく、つまりここが「シテール島」である。

正確には、この絵は「シテール島からの船出」である。「シテール島へ」としてきた長年の慣習は誤りということを、ルーヴルとはライバルの、イギリスの国立美術館長が論文で指摘した。悔しいがルーヴルは仕方なく、「シテール島の巡礼」とまでは改題し、お茶を濁しているそうだ。
(井出、2011年、226頁~228頁)

シャルダン


シャルダン(1699-1779) 
「食前の祈り」
1740年/油彩・カンヴァス/49×38㎝ Sully 3F

【ルイ15世も惚れ込んだフランス家庭の風景】
シャルダンは若い頃からリアルな静物画に優れていた。
同じくルーヴルにある「赤エイ」などの数点には17世紀フランドルの巨匠画家の風格がある。まだ29歳で王立アカデミーの会員に迎えられた。

数年に1度ルーヴル宮殿で開かれたサロン展に次々と名作を出品し、わざわざ地味な日常的モチーフ、台所の片隅や市民風俗を得意にして、ブームを巻き起こした。

そして、ルイ15世までがシャルダンのファンになってしまう。この「食前の祈り」などに惚れ込んで献呈させ、ヴェルサイユ宮殿の書斎に飾って喜んでいたそうだ。この王様の趣味は料理と刺繍と錠前直しといわれているので、意外と下々の暮らしの情報に通じていたかもしれないという。

原題は、Le Bénédicitéという。「主のお恵みあれ」Bénissezの意味のお祈りである。下の小さい子には発音が難しくて言うのに時間がかかるらしく、画面ではお母さんとお姉さんが睨んで待っているところである。フランス人家庭の今でも通じる躾の厳しいところがこの絵にも表れているらしい。また、視線の方向によって、うまく三角形の幾何学的な構図で描いている点も、評価が高い。

そしてシャルダンのすごいところは、描く時代風俗がロココなのに、造型は先に進みすぎて近代に突入している点にあると井出氏はみている。そのギャップが超個性的で、こんな画家は18世紀には他にいないという。
ただ、今の感覚で絵を解釈できない点も付言している。例えば、このお祈りをしている下の小さい子であるが、一見スカートをはいて女の子のようでも、実は男の子 le garçonnetである。

フランスでは20世紀初めまで男の子も物心がつくまで女の子の衣装を着せて育てる風習があった(例えば、ルノワールの絵にも息子Jeanが女の子として描かれる)。

この子の椅子にかけてある太鼓も男児の遊び道具であり、1744年のこの絵の複製版画には、「そのお姉さんはこっそりと小さい弟のことを笑っている」と説明文もついているという。
また、この母親も実は家政婦兼家庭教師 gouvernanteという説もある。この絵の前にシャルダンは最初の妻を亡くし、やもめ暮らしで9歳の長男は家政婦任せだったから、その生活の反映かもしれないともみられている。
(井出、2011年、229頁~231頁)




【補足 シャルダンの「食前の祈り」】


姉と似た形の服を着せられている弟が女の子でないことについては、鈴木杜幾子氏も言及している。
このことは、やはり椅子にぶら下げられた太鼓と床に転がる撥(ばち)からわかるという。
太鼓は軍隊で用いられることからの連想か、伝統的に男の子のアトリビュート(その人物が誰であるかを示すために一緒に描かれる品物)であった。
少年がある年齢に達するまで少女の服装で育てられる習慣は、歴史家アリエスは『<子供>の誕生』の中で、ルイ13世が7歳8ヵ月まで「ローブ」(長いドレスのような型の衣装)を着せられていたと記している。
(フィリップ・アリエス[杉山光信・杉山恵美子訳] 『<子供>の誕生』みすず書房、1980年、53頁)
この点について、鈴木氏は、次のようにコメントしている。こうした風習の根拠ははっきりしないが、ズボン類よりも「ローブ」型の衣服の方が歴史が古いため、子供服に一種の「アルカイスム(古風趣味)」が残存したとも考えられるとする。また一般に家父長制社会においては男児の方が女児よりも大切な存在と考えられていたから、病魔や死神などの男児の命を脅かすものの注意を逸らすという呪術的な発想もあったかも知れないと鈴木氏は述べている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、12頁~15頁、221頁)

【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』はこちらから】

鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)




ルブラン


ルブラン(1755-1842) 
「ルブラン夫人と娘ジュリー」
1786年/油彩・カンヴァス/105×84㎝ Sully 3F

【優美な自画像で名声を得た女性画家】
マダム・ルブランは、画家の父ルイ・ヴィジェから学んだ後、グルーズやヴェルネという当代一流の画家に私淑し、恵まれた才能を開花させた肖像画家である。

ルイ16世の妃マリー・アントワネットに同じ歳の女性ということもあって、親友並みの庇護を受け、“ヴェルサイユの薔薇”風の肖像画が描いた。おかげで、当時女性に門戸を開いていなかった王立美術アカデミーにも入会した。成功した画商とも結婚して、順風満帆かと思われた矢先に、1789年、フランス大革命に遭遇する。

王と王妃はギロチンにかかり、マダム・ルブランも寵愛された故に故国から追われ、ヨーロッパ各地を転々とする。ただ、これまでの経験と優美な姿形がものをいって、イタリア、ロシア、ウィーンなどの宮廷で大歓迎され、全欧的な名声を得た。
1802年に帰国を許されるが、また政治的に疎まれて出国し、故国に安住の地を得たのは、王政復古後のことである。

波瀾万丈の人生を送った割に、画風は古典的で安定しており、女性はあくまで可愛らしく、男性は理知的で頼もしく描く。とくに自画像が評判高く、ルーヴルの娘との自画像2点は有名である。
1786年作の31歳の時のものと、1789年作の34歳の時のものがある。
前者は、初々しいお母さんで、ラファエロの聖母子のようで、しかも衣装は東洋風である(レンブラントの絵も研究した形跡が認められている)。この娘リュシー・ルイーズ、通称ジュリーは、当時6歳、第一子が早世したので、大変可愛がられたようだ(ただし、成人して母に背き、30代で先立ってしまう運命であった)。
この「ルブラン夫人と娘ジュリー」はシュリー翼3階にある。
一方、後者の1789年の娘との自画像は、ドゥノン翼2階にある。こちらは、革命時代のファッションで、古代ローマ風の肩出しドレスを着ている。

さて、この1780年代は、思想家ルソーの影響もあって、乳母任せの子育てを母親自ら行なうのが流行した時代でもあった。ここでマダム・ルブランはいち早くリーダー役を買って出ている。今日の女性芸術家のパイオニアとしての貫禄があると井出氏は評している。
(井出、2011年、232頁~234頁)

コロー


コロー(1796-1875) 
「真珠の女」
1868年頃完成/油彩・カンヴァス/70×55㎝ Sully 3F

【イタリアとルーヴルへの画家の感謝を読む】
日本で開かれたコロー展では、「真珠の女」が絵はがき人気ナンバー1だったそうだ。
コローは風景画家で、人物画は余技のはずだが、「真珠の女」はコロー画集の表紙写真にも選ばざるをえない魅力がある。

ところで、「真珠の女」というタイトルであるにもかかわらず、le parle(真珠)をこの絵にいくら探してもない。
コローはこの絵を売らなかったので、このタイトルが付けられたのは、没後14年たった1889年のことである。つまりパリ万博で開かれた40数点のコロー回顧展での初公開の際といわれる。

おそらくモデルの額にかかる草の冠が真珠色に見えたか、あるいはこのモデル自体が真珠のような美しさを発したか、あるいはフェルメールの「真珠の耳飾りの女」と比べられたかもしれないと井出氏は推測している。

X線写真によると、この絵は画家コローが長期にわたって手を入れた絵であることがわかり、頭部や胸を何度も加筆修正している。
制作年代については、以前は1868~72年と晩年の作に推定されていたが、最近では、画家がモデルに着せるイタリアの民族衣装を送ってもらった1857年コロから、制作が始まり、1868年にまでまたがるものとされている(緻密なデッサンや精確な色彩のトーン・バランスは、この絵が最晩年の融通無碍な境地にはまだないことを示すとされる)。約10年間は長いので、画家にとってよほど大切な思い出が込められているようだ。
モデルについては、この頃画家のお気に入りだったベルト・ゴールドシュミット嬢とされる。

この絵のポイントは2つある。
1つは、このモデルのポーズで、ルーヴルの「モナ・リザ」にそっくりであり、とくに手と指に注目したい。
もう1つは、顔の表情で、ラファエロの「美しき女庭師」の聖母によく似ている。

井出氏は、この絵は、コローが若い頃学んでいたイタリアへの感謝のオマージュであり、そしてパリで日頃お世話になっているルーヴル美術館へのオマージュでもあると理解している。
(井出、2011年、235頁~237頁)

<6時間コース>

ブーシェ


ブーシェ(1703-1770) 
「ディアナの水浴」
1742年頃/油彩・カンヴァス/57×73㎝ Sully 3F

【永遠に男たちを魅了するエロカワイイ美女たち】
ブーシェは、ヴァトーを受け継ぐ「雅なる宴」の画家から、さらに官能的な裸体表現へと展開した画家である。
ルイ15世とポンパドゥール侯爵夫人の宮廷画家として、ロココ絵画を“エロ可愛い”ものにした画家であると井出氏はみている。

真面目な革命時代には顰蹙を買ってお蔵入りになり、この画家の絵でルーヴルに展示されたのは、この絵が初めてで、1852年のことであるそうだ。

この絵は、ギリシア神話の狩りの女神ディアナの水浴シーンが描かれている。ブーシェの描くロココ美女たちは、華奢で小顔である。また、森の青緑の新鮮さが風景画の要素となり、獲物のジビエが静物画、ディアナたちを守って警戒する犬が動物画となっている。ブーシェのエンターテナーとしてのプロ意識が隅々に発揮された名品であると評している。
(井出、2011年、238頁~239頁)

フラゴナール


フラゴナール(1732-1806) 
「かんぬき」
1777年頃/油彩・カンヴァス/74×94㎝ Sully 3F

【扇情的な危な絵が宗教画と対だったワケは?】
フラゴナールはロココの最後の世代の画家である。
ローマに留学してデッサンを修業し、速筆で一気に肖像画を仕上げる早業は伝説的である。
帰国後は宮廷やアカデミーに入らずに独立し、富裕層の邸宅装飾や風俗画に活躍し、一世を風靡した。ただし、大革命により一気に凋落し、晩年は忘れ去られた画家である(ルノワールがその女性表現を再評価した)。

この絵はちょっと危な絵に近いと井出氏はいう。というのは、ブルジョワ夫人と使用人階級の青年が密会して内鍵を下ろし、扇情的なシーンであるから、ベッドや深紅のカーテンが描かれ、闇と光が交差して、レンブラントのような効果がドラマを盛り上げている。
フランス大革命まであと10年余りなので、民衆が旧体制の階級差を侵犯するという政治性も感じられるようだ。

この絵は1974年に購入品でルーヴルに入り、たちまち人気作品となった。この絵は、ルーヴルに1988年に寄贈された同じサイズの宗教画「羊飼いの礼拝」と対幅であったようだ。ベッドサイドテーブルのリンゴが原罪を表すので、それを濯ぐためにキリストが生誕するという理屈であるそうだ。
(井出、2011年、240頁~241頁)

アングル


アングル(1780-1867) 
「トルコ風呂」
1862年頃/油彩・板に貼付けたカンヴァス/108×110㎝ Sully 3F

【老巨匠が夢見たハーレムは大胆すぎて非公開だった】
アングルは、ドラクロワとは違い、中近東には行ったこともないはずである。
「トルコ風呂」は、82歳の老画家が夢見たハーレムの美女たちが描かれている(井出氏がアングル作品で最も好きな作品という)。
アングルは、イスタンブールの英国大使夫人によるハーレムの女風呂探訪記を参照したそうだ。

この絵をよく見ると、手前の背中を向けたポーズは、ルーヴルにある「浴図」と同じ構図である。この他、既作品からのポーズがいくつも見受けられ、これが画家アングルの集大成であることがわかる。とはいえ、あまりに大胆なポーズばかりのため、ナポレオン3世が購入するはずが、皇后に拒否されてしまった曰く付きの問題作である。

以後長いこと公開がはばかられ、やっと1905年のアングル回顧展で日の目を見る。その時、若きピカソが大激賞した。そしてピカソ晩年のエロチカシリーズもアングルの世界である。二人の老巨匠のパワフルさには、井出氏は脱帽している。
(井出、2011年、242頁~243頁)

ジェリコー


ジェリコー(1791-1824) 
「エプソムのダービー」
1821年/油彩・カンヴァス/92×122.5㎝ Sully 3F

【大の馬好き画家が遺した競馬風景】
ジェリコーは騎兵隊にいたせいもあって、大の馬好きであった。乗るのも描くのも、また賭けるのも熱心ということで、サラブレッドの聖地、英国のエプソンまで旅してダービーを取材した。

井出氏は、この絵は、絵というよりもアニメを見ているような時間性を感じるという。というのは、馬身が引き延ばしていることと、すべての馬が四本脚を伸ばして宙に浮かせていることによる。跳躍でなく普通に走るだけなら、これはあり得ない。

ところで、馬の走行を初めて連続写真に撮ったのが英国人写真家マイブリッジで、1878年のことだそうだ。それによれば、馬が浮遊する瞬間は四本脚を全部引き付ける時だけで、伸ばしている時は少なくとも1本は脚を地に付けている。ジェリコーの時代の画家はまだこの事実は知らない。

ただジェリコーほどファンタスティックに描いた画家はおらず、雲と芝の描写も素晴らしい。落馬事故がもとで早世したこの画家も、この傑作を遺したことで瞑目すべきかもしれないと井出氏はみている。
(井出、2011年、244頁~245頁)

シャセリオー


シャセリオー(1819-1856) 
「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
1841年/油彩・カンヴァス/45×35㎝ Sully 3F

【ユダヤ人を救った美しき聖書のヒロイン】
シャセリオーはもとアングルの弟子であったが、途中で師のライバルのドラクロワに私淑して傾倒する。いわゆる折衷的なスタイルを持っている。つまり、アングルの冷たい無機質の女体に、ドラクロワの熱い血を注ぎ入れたと井出氏はとらえている。
二人の師の中近東趣味、オリエンタリスムの画風を受け継いだが、この絵が代表作である。

この絵の女性には、次のような物語がある。
旧約聖書のユダヤのヒロイン、エステルは、バビロニアのアハシュエロス王にその美貌で召し出され、王妃となって拉致されたユダヤ人奴隷たちを救う。
その召し出される時に、エステルは髪をとかし、宝飾をまとい、美しさに磨きをかけて、王を陥落させようとする。エステルの抜けるような白い肌と、ブロンドの髪がこの絵の見どころであるという。
(井出、2011年、246頁~247頁)

コロー


コロー(1796-1875) 
「モルトフォンテーヌの思い出」
1864年/油彩・カンヴァス/65×89㎝ Sully 3F

【モザイクのような緑と光が織りなすヴァーチャルな風景】
この絵の地名モルトフォンテーヌは、パリの北東の近郊にある沼の公園に由来し、画家コローは何度も通って鉛筆でスケッチを重ねている。
しかし、この絵は決して現実の風景ではないと井出氏は強調している。
画題の原文に、Souvenir de Montefontaineとあるように、この絵はあくまでも現地の「想い出」「回想」の産物であるという。コローが画筆とパレットのすべての巧みを奮って構成したヴァーチャルな空間である。そこでは、コローの特訓と感性のおかげで、完成した20色にも及ぶ緑のグラデーションが、モザイクのように散りばめられ、そして銀灰色の靄が軟焦点の写真のような効果をもたらしている。コローは、17世紀のロランの伝統を革新して、幾何学的な古典構図と光と大気の調和の美をこの絵で成し遂げている。
サロン展で見た皇帝ナポレオン3世がすぐに官費での購入を決めた。
(井出、2011年、248頁~249頁)

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-03-08 17:04:06 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年3月8日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)







執筆項目は次のようになる。



第2章リシュリュー翼へ
6時代概説 フランドル絵画
油彩で全欧の美術をリード 15-17世紀 フランドル、中世末期からバロック
<3時間コース>
ファン・エイク 「宰相ロランの聖母」
ボス      「阿呆船(ママ)」
マセイス    「金貸しとその妻」
ルーベンス   「マリー・ド・メディシスの生涯」連作から「マリーのマルセイユ上陸」
<6時間コース>
ウェイデン   「ブラック家の祭壇画」
ブリューゲル  「乞食たち」
ウテウァール  「アンドロメダを救うペルセウス」

7時代概説ドイツ、オランダ絵画 
肖像画と風景画のブーム到来 16-17世紀 ドイツ、オランダ
<3時間コース>
デューラー   「自画像、もしくはあざみを持った自画像」
ホルバイン   「エラスムス」
レンブラント  「ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴」
「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」
フェルメール  「レースを編む女」
<6時間コース>
クラナハ    「風景の中のヴィーナス」
グリーン    「騎士と乙女と死」
ホーホストラーテン 「室内の情景、もしくは部屋履き」

8時代概説 フランス絵画 
「冷たい美女」の誕生を見る 15-16世紀 中世末期からルネサンス
<3時間コース>
カルトン   「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」
フーケ    「ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサンの肖像」
クーザン   「エヴァ・プリマ・パンドラ」
フォンテーヌブロー派 「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」

<6時間コース>
ベルショーズ 「聖ドニの祭壇画」
クルーエ   「エリザベート・ドートリッシュの肖像」
カロン    「アウグストゥスとティブルの巫女」









第2章6
<3時間コース>

ファン・エイク


ファン・エイク(1390頃-1440/41) 
「宰相ロランの聖母」
1435年頃/油彩・板/66×62㎝ Richelieu 3F

【聖と俗をつなぐ橋が意味するものとは?】
この「宰相ロランの聖母」の左に跪く二コラ・ロランは、ブルゴーニュの都市オータンの出身で、弁護士あがりであるが、ブルゴーニュ公国のジャン無怖公に見いだされて宰相に任じられる。続くフィリップ善良公の統治期は、ロランの働きもあって、隣のフランス、イギリスを凌ぐほど、繁栄を見せた。今のベルギーであるフランドル地方もその領地であった。

宰相ロランは古都ブルージュで活躍中の巨匠ヤン・ファン・エイクに、自分が聖母と救世主キリストに祝福してもらう絵を描かせた。そしてこの名画を故郷のオータンの教会礼拝堂に奉納し、故郷に錦を飾る。
(キテイル毛皮と金刺繍の豪華な衣裳を見ると、幼い頃故郷で貧しかった境遇からいかに立身出世したか想像できる)

ロマネスク様式の柱頭には彫刻に人間の原罪を表す図像が選ばれている。また回廊の外の花壇にも聖母を表す白百合をはじめ30種類もの草花があるそうだ。
背景の風景に注目すると、高い塔のある右岸がキリスト側の聖域であり、左岸の住居区がロラン側の俗界である。そして両界を橋で相互に通行できる=熱心な祈りが神に通じるとの例えであるとみられている。
(井出、2011年、134頁~136頁)

なお、中野京子氏は、カルトン「アヴィニョンのピエタ」(1455年頃、ルーヴル美術館)やボッティチェリ「東方の三博士の礼拝」(1475年頃、ウフィツィ美術館)よりも、「もっと不遜な寄進者」が描かれた作例として、この「宰相ロランの聖母」を挙げている。
(中野京子『はじめてのルーヴル』集英社、2016年、170頁~174頁)

ボス


ボス(1450-1516) 
「阿呆船(ママ)」
1510-15年頃/油彩・板/58×33㎝ Richelieu 3F

【ユーモアあふれる中に批判精神を読もう】
このパネル画は、ボスの得意とした三連祭壇画の上部断片である。3枚のうち、中央パネルは失われ、右翼は「守銭奴の死」(ワシントンのナショナルギャラリー蔵)と考えられている。

この画題は、「愚者の舟」や「阿呆船」と訳される。当時のドイツの人文主義者セバスティアン・ブラント著のベストセラー『阿呆船』(1494年バーゼル初版)がそのテクストであると長く考えられてきたそうだ。
そこには、世俗の快楽にふける描かれた12人には、あらゆる階級の人間の愚かさを暴く内容であったが、今日の民俗学的研究の結果、このような舟に乗った愚者たちの出し物が当時のカーニバル行列にもあり、ボスがテクストを読まなくとも、この絵は描けたようだ。

この絵の場面を見ると、テーブルを挟んで鼻の赤い修道士と、リュートを弾く修道女たちが、ロープから吊るされたクレープをパン食い競争のように、大口を開けて噛みつこうとしている。
マストの天辺仮面は「虚偽」のシンボルである。三日月の三角フラッグはトルコの旗で、キリスト教国では悪魔のシンボルとされた。

この絵の主人公は、やはり中央の修道士と修道女であり、聖職者批判がこめられているとみられている。これには、この絵の制作年代が絡む。1500年には、ヴァティカンのローマ教皇庁では免罪符を発行し、これに異を唱えたルターが宗教改革ののろしを上げたのが、1517年である。この絵の制作年代がちょうどその間に入る。
ボスの故郷のブラバント地方は、この後一斉にプロテスタントに改宗した。ボスの鋭い批判精神はユーモアをもって時代の先端を走ったとみられている。
(井出、2011年、137頁~139頁)

マセイス


マセイス(1465/66-1530) 
「金貸しとその妻」
1514年/油彩・板/71×68㎝ Richelieu 3F

【金貸し夫婦に道徳を語る聖書の聖母子と鏡】
マセイスは、15世紀末までに常套化したフランドル絵画を、新しい視覚をもって16世紀のルネサンス絵画に繋いだ中興の祖として名高い。
イタリアに旅していないのに、レオナルドそっくりの聖母像やカリカチュアを描いているが、それにはアントウェルペンで入手した複製版画が頼りになったと考えられる。

この画家の聖画も流行した。当時航路で取引の多かったポルトガルの教会に行くと、地方でも祭壇画はほとんどこのマセイスか、弟子のものであるようだ。
そのマセイスの代表作は、この「金貸しとその妻」である。描き込まれた一つひとつのものに寓意を象徴が込められ、画面は魅力に満ちている。

この二人は夫婦で、男は金貸しと両替商を営む、貿易都市アントウェルペンでは最先端の金融業者であった。奥さんも毛皮の縁の付いた立派な服を着ている。海外の様々な金貨を天秤で量り、金の含有量を調べて値踏みをしている。指輪や真珠やクリスタルの瓶など貴重品がテーブルに所狭しと並べられている。
これには隣で聖書の写本を読んでいた奥さんも、マリア像のページのところで思わず手を止め、真珠の方に目をやっている(それは忘我の心境か)。

これには聖と俗の道徳的寓意が込められている。ただし、単純に、地上の富よりも天の栄光を選びなさいといっているのではないという。ここでは金の重さをごまかさないという商業道徳の遵守が求められているようだ。
手前には、凸面鏡(とつめんきょう)があるが、これには窓と人が映っており、男の作業が監視されていることを示し、奥さんの写本には聖母子像がしっかりとお見通しであることを示しているとみられている。
(井出、2011年、140頁~141頁)

ルーベンス


ルーベンス(1577-1640) 
「マリー・ド・メディシスの生涯」連作から「マリーのマルセイユ上陸」
1621-25年/油彩・カンヴァス/394×295㎝ Richelieu 3F

【画家の共感が生んだすさまじい迫力】
ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の24枚の連作を一通り見て歩くだけでも30分はかかるので、どれか1枚を堪能したいなら、この「マリーのマルセイユ上陸」を井出氏は選んでいる。

この連作の由来は、フランス王アンリ4世にフィレンツェのメディチ家からお輿入れしたマリー王妃の苦難の半生を、新築なったリュクサンブール宮殿の自室に掲げようと、王妃はわざわざ異国のフランドル画家ルーベンスに制作依頼したことにある。

王妃は莫大な持参金付きで稼いだが、アンリ4世は王妃を妾の一人くらいにしか見ないし、貴族たちも「太った銀行家の娘」と軽蔑される。
しかしアンリ4世が暗殺されると、マリーは幼い息子の摂政として政治に口を出し始める。王妃のイタリア人家臣派と、もともとの宮廷派に分かれて権力闘争を繰り広げたが、即位した息子のルイ13世がフランス派に抱き込まれ、母は背かれて追放された。
結局許されて、都には帰れたものの、無力な晩年を送ることになる。この連作のすさまじい迫力の底には、マリーの満たされない欲望が渦巻いていると井出氏はみている。

この絵にあるように、マリーがマルセイユ港に上陸するところから、マリーの闘争が始まる。姉や叔母に付き添われたマリーは、名声の擬人像が到着のラッパを鳴らし、フランスやマルセイユの擬人像に歓迎されて、船を下りる場面である。マリーは出迎えに会釈もせず、視線を遠くに向けて、威厳を保って凛とした風情である。また、下の海を象徴する神々や妖精の群像は、ドラクロワやルノワールが絶賛したほどの輝かしい肉体を誇っている。
(確かに太っていたマリーをほっそり見せる効果もあって、これは画家の気配りかもしれないと井出氏はみている)。

ところで、ルーベンスは若き日にフィレンツェにも学び、1600年、マリー17歳のドゥオーモでの結婚式(新郎はフランスから派遣された代理夫)にも偶然出席していた。だから画家のマリーに対する共感が筋金入りだった。普通、ルーベンスの大作は工房で弟子たちに分業させるのだが、この24枚の連作はほとんど一人で描き上げた渾身の労作であるようだ。
(井出、2011年、142頁~145頁)

<6時間コース>

ウェイデン


ウェイデン(1399/1400-1464) 
「ブラック家の祭壇画」
1452年頃/油彩・板/40×全長136㎝ Richelieu 3F

【マグダラのマリアに見る夫に先立たれた妻の面影】
ウェイデンは、描いたマグダラのマリアに史上初めて涙を流させた悲劇的な「十字架降下」(1435年、プラド美術館)で有名である。「ブラック家の祭壇画」の3枚の絵でも、その哀愁のトーンは変わらない。

その3枚のうち、中央には救世主キリスト、右の聖ヨハネ、左の聖母マリア、そして右扉にはマグダラのマリア、左扉には洗礼者ヨハネが描かれている。それらの悲痛な表情とただならぬ緊張感には、強い霊的なものが感じられる。

折りたたんだケースの裏に注文主ジャン・ブラックと妻のカトリーヌ・ド・ブラバンの紋章と十字架、頭蓋骨が描かれており、夫妻の私的な祭壇画として制作された。ところが、夫のジャンがこの絵の完成と同時期に急逝してしまう。新婚わずか2年たらずのことだった。

研究者はこの祭壇画のマグダラのマリアに、妻カトリーヌの面影を見るようである。他の4人が宗教画としての類型的な人物構成なのに対し、この女性だけは鮮やかな生命感があるとみる。一つの可能性として、同情した画家がすでに描いた他の聖人聖母のパネルと交換したのではないかとも、井出氏は指摘している。
(井出、2011年、146頁~147頁)

ブリューゲル


ブリューゲル(1525/30-1569) 
「乞食たち」
1568年/油彩・板/18.5×21.5㎝ Richelieu 3F

【物乞いたちの服に付いたキツネのシッポの意味は?】
ルーヴルにはフェルメールは2点あるのに、ブリューゲルはこの小品「乞食たち」1点のみである。
この作品は、晩年の力強い人物像の傑作として、また特異な民俗的テーマとしても世界に名高い逸品である。

施療院か修道院の庭に5人の杖をついた足の不自由な者たちが集合し、右の皿を持った女に連れられて出かけるところであるようだ。絵の5人は、それぞれ司教、貴族。士官、市民、農民の役を演じて、市や縁日でグロテスクな踊りをさせられ、その女が皿で見物人から集金する。

ブリューゲル研究者の森洋子氏によれば、当時のフランドルでは、こうした障碍者や物乞いたちは決して同情の対象ではなく、悪人や欺瞞の象徴にされたそうだ。服に狐の尻尾の毛を付けているのも、虚偽のアレゴリー(寓意)であるという。
(17世紀のジョルジュ・ド・ラトゥールも偽の盲目音楽師を描いている。要するに、騙されてはいけないという教訓らしい)
(井出、2011年、148頁~149頁)

ウテウァール


ウテウァール(1556-1638) 
「アンドロメダを救うペルセウス」
1611年/油彩・カンヴァス/180×150㎝ Richelieu 3F

【フランドル絵画史の最後を飾る記念作】
ウテウァールは、画風が16世紀フランドル絵画の様式上にある画家である。
(ウテウァールはユトレヒト生まれなので、厳密にはオランダ人)
この画家はフランスやイタリアに学んだ、いわゆる北方マニエリスム画家の最後の世代である。

画題は王女アンドロメダが、あまりの美貌を女神に厭われて竜に襲われる寸前、天馬に乗ったペルセウスがおりてきて退治するというギリシア神話である。
この画家は、アンドロメダを描くにあたり、小顔にして身体を引き延ばし、真珠色の肌に輝かせている。その代わりに、足元には骸骨や貝殻を細密に描いている。これは、15世紀フランドル絵画の伝統を受け継いでいる。ただ、背景の青くかすむ海景や空は、オランダ風景画に繋がる新しい要素であるようだ。
しかし、これからの17世紀オランダ絵画はレンブラント、フェルメール、ライスダールらの身近な自然と向き合う新世代の活躍を迎える。ウテウァールのこの作品は、フランドル絵画史200年の最後を飾る記念作として井出氏は位置づけている。
(井出、2011年、150頁~151頁)


7時代概説ドイツ、オランダ絵画 
肖像画と風景画のブーム到来 16-17世紀 ドイツ、オランダ
<3時間コース>

デューラー


デューラー(1471-1528) 
「自画像、もしくはあざみを持った自画像」
1493年/油彩・羊皮紙を貼ったカンヴァス/56.5×44.5㎝ Richelieu 3F

【自画像に込めたプライドと意気込み】
デューラーは生涯に少なくとも3枚の油彩の自画像を遺している。当時の画家としては珍しいことである。それまでは自画像はあったとしても祭壇画の中に群衆の一人として描き込むのが通例であった。
(ここにデューラーの職人ではない、近代的芸術家としてのプライドを井出氏は感じている)

とくにこの像は、22歳の時の作で、最初の作例である。故郷ニュルンベルグから諸国行脚の修業の旅に出た頃で、意気込みとパワーが暗い背景から迫ってくる。長髪の頭には房の付いた赤い帽子を被り、刺繍の入ったシャツや青緑の上着なども洗練された趣味を思わせる。引き締まった表情と太い鎖骨やがっしりした首も、画家の栄光の未来を象徴していると井出氏はみる。

手には葉アザミを持っていることから、この絵の翌年に結婚した妻アグネスへの、夫の忠実の寓意とする説が従来大勢を占めていた。しかし、近年、当時父親が息子の結婚を取り決めていた慣習によって、この絵の制作時にはまだデューラーの結婚は知られなかったはず、とする意見が出ている。だから、別の解釈をする必要に迫られる。

そこで、葉アザミのもう一つの寓意であるキリストの受難の意味をこの自画像に負っていると考えられている。事実、3番目の1500年の自画像では、自身を光輪のある正面像のキリストになぞらえて描いている。だから、創造の苦悩を背負った芸術家のデビューとしてふさわしいイメージであるとする。
また別の解釈もある。
デューラーは銅版画「メランコリア」のように、後年アリストテレス以来の四性論(自然と人間を4つの要素に分類する哲学)を自らの絵画に応用したことから、この自画像も、多血質、黄胆汁質、粘液質、憂鬱質の四気質から、若さと帽子の赤という情熱的な色彩が象徴する多血質の自画像ではないかともいう。

いずれにせよ、この自画像は、ルネサンスという近代の幕開けに真の個性ある芸術に立ち向かう若者の記念碑的な名作として、井出氏は理解している。
(井出、2011年、156頁~158頁)

ホルバイン


ホルバイン(1497-1543) 
「エラスムス」
1523年頃/油彩・板/43×33㎝ Richelieu 3F

【駆け出しの画家による品格ある名品】
エラスムス(1469-1536年)はロッテルダム生まれのヨーロッパ随一の宗教学者、人文」学者である。『痴愚神礼賛』などで当時の封建社会の腐敗を風刺したユーモリストとしても有名である。

英国に渡り政治家トマス・モアと親交を結んで、ホルバインが後年チャールズ8世の宮廷画家になれたのも、このモアの紹介による。だから、画家ホルバインにとって、エラスムスは生涯の恩義ある人物であった。
この肖像画の出会いがなければ、画家の代表作「大使たち」(1533年)も描かれなかったかもしれないといわれる。

3点遺るエラスムス像のうち、本作はバーゼルに滞在したエラスムスから英国のモアに贈られたと考えられている。のち17世紀にルイ14世の所蔵になり、今日のルーヴルでも肖像画でトップクラスの人気を保っている。絵自体の品格も、油彩の技術も、とりわけ優れている。

モデルのエラスムスは、宗教戦争時代、カトリックと新教徒の分裂を調停し、キリスト教徒の融和を目指した国際人だった。ロンドンのナショナルギャラリーに前向きの公式風な肖像画はあるが、ルーヴルの横向きで執筆中のこの絵の方が、本人を彷彿とさせて好ましいと井出氏は評している。画中の文字は、1523年にバーゼルでエラスムスが刊行したマルコによる福音書の注解であるとされる。

実は、エラスムスは、当時20代で駆け出しのホルバインよりも、本当は巨匠デューラーに油彩肖像画を描いてもらいたかったようだ。1520年にオランダで出会ったエラスムスとデューラーは意気投合し、ルーヴルに遺る未完の素描や銅版画までは生まれた。しかし、油彩となると時間がかかるし、互いに忙しい身でスケジュールが合わず、実現しなかった。
(デューラーの画風は剛直なリアリズムで、モデルの気持ちなど斟酌しないので、体面を気にするインテリのエラスムスとしては強引に依頼できなかったであろうと井出氏は想像している)
(井出、2011年、159頁~161頁)

レンブラント


レンブラント(1606-1669)
① 「ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴」
1654年/油彩・カンヴァス/142×142㎝ Richelieu 3F
② 「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」
1654年/油彩・カンヴァス/74×61㎝ Richelieu 3F

【道ならぬ恋に悩むバテシバの苦悩を読む】
この2作は、レンブラント後期48歳の傑作であり、ルーヴルの至宝ともいえる。

バテシバの話は、旧約聖書のダビデ王がこの人妻に横恋慕して身ごもらせた上、夫ウリヤを戦地に赴かせて死なせてしまう罪深いものである。
ダビデ王からのラブレターをもらい、召し出される前に身を装うバテシバの思いを、黄金色のトーンの中に浮かび上がらせている。ここにレンブラントの才能は完熟のきわみに達している。
バテシバの重苦しく悩ましげな表情から、井出氏はさまざまな思いを読み取っている。夫を裏切るべきか、王妃の座を勝ち得るべきか、寡婦のような生活にこれ以上耐えていくのか、ダビデ王の情けに応えなければ、わが身はどうなるのかなど。
(複雑な女性心理の綾を描いて面目躍如たる傑作であるとして、「ヘンドリッキエの肖像」について言及している。井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、79頁、82頁参照のこと)

ところで、モデルとなったヘンドリッキエの肖像が同じルーヴルの展示室にある。それが
「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」(1654年/油彩・カンヴァス/74×61㎝ Richelieu 3F)である。
同年1654年のバテシバ像と同じ万感の思いがとくに瞳の表現に込められていると井出氏はみる。
前妻サスキアを亡くして、荒れていた画家の生活を立て直したのは、家政婦として入った当時20歳のヘンドリッキエであった。
資産家の娘だった前妻の遺言が、夫が再婚すると遺産が半減する理由とはいえ、画家は彼女を家政婦のまま入籍せず、その結果、娘コメリアが生まれたこの絵の1654年、二入の関係は教会によって不道徳との告発を受けた。
(その後、ヘンドリッキエは1663年、38歳の若さで画家に先立つ。井出氏は、彼女の包容力の奥深さに感嘆している)
(井出、2011年、162頁~164頁)


フェルメール


フェルメール(1632-1675) 
「レースを編む女」
1669-70年/油彩・板の上にカンヴァス/24×21㎝ Richelieu 3F

画家フェルメールの再発見者は、フランスの美術批評家テオフィール・トレ(1807-69年)である。晩年の論文で、フェルメールという画家の存在を明らかにした。またクールベやミレーの写実主義も高く評価し、その上日本美術愛好のジャポニザンであった。
日本でも、フェルメールの人気は高い。絵が数点あれば、展覧会は100万人も入るそうだ。小林頼子氏は世界的なフェルメール学者であるし、指揮者で音楽評論家の宇野功芳氏も熱烈な愛好家である。

フェルメールは寡作で完璧主義の小品ばかりで、36点ほどの現存作品があるそうだ。
画家は生涯に大作や力作も含め、何百も描いてこそ、評価されるという見地に立てば、実力はレンブラントが遥かに上であるかもしれない。しかし、日本人の琴線に触れる何かがフェルメールにはある。井出氏はこの点について、今も昔も日本文化のキーワードである「カワイイ」ではないかと、現代風に解釈している。すなわち、小さいこと、一生懸命なこと、純粋なことというこの3点がそろって、可愛いいとされる(何かジブリのアニメみたいともいう)。この3点の魅力がそろっている作品が、フェルメールの「レースを編む女」であると井出氏はみている。

画寸は、24×21㎝で、13インチのノートパソコンより小さい。そして主題はデルフト伝統のレースを一心に編んでいるだけである。そして、色彩としては、パールグレイを背景にして、レースの輝く城は別格として、ラピスラズリの青とレースの糸の赤、少女の服の黄色の三原色という単純な色彩を使っている。
その彩色が、いったん女の指先の白糸にピントが合わされて、遠ざかるに従い微妙にボケてくるという、一眼レフカメラのような距離感の精確さを帯びている(カメラ好きの日本人には好まれているとみる)。

なお他にもフェルメールの作品1点「天文学者」(51×45㎝)がある(ただし、こちらはルーヴルの展示室ではあまり人気がない)。
(井出、2011年、165頁~167頁)

<6時間コース>

クラナハ


クラナハ(1472-1553) 
「風景の中のヴィーナス」
1529年/油彩・板/38×25㎝ Richelieu 3F

【小悪魔的なヴィーナスにご用心】
クラナハは、ドイツの東、ヴィッテンブルクのザクセン選帝侯に長く宮廷画家として仕えた。
また、当地の大学神学教授だった宗教改革のヒーロー、ルターとも家族ぐるみの親友であった。だから、複雑な政治的立場にあった。
幸いに、歴代のザクセン公はカトリックのハプスブルク家に対抗する意味でもルターに好意的で、画家クラナハもカトリックとプロテスタント、双方の注文をうまくこなした。双方問題のない画題、つまりイタリア・ルネサンスの人文主義に基づく神話画、とくに裸体のヴィーナス像では北方画家随一の人気を得た。

そのヴィーナス像の特徴は、小顔で胸も小さめで、ちょっとおなかがふっくらとして、極端に足が長い。これは同時代フィレンツェ画家のマニエリスムの影響であるといわれる。
1520-30年代のクラナハは、アダムとエヴァでもヌードで描いている。この「風景の中のヴィーナス」も、エヴァと同じく、男性を陥れる魅力ある悪女の性格が濃い。
遠景の湖畔に建つゴシック風の建物の町に対して、手前の鬱蒼としたドイツの森に女神は立っている。この女神は北方の自然の守護神と井出氏は解釈している。
(井出、2011年、168頁~169頁)

グリーン


グリーン(1484/85頃-1545) 
「騎士と乙女と死」
1505年/油彩・板/35×29㎝ Richelieu 3F

【死神から乙女は助かるのか】
ハンス・バルドゥング・グリーンはニュルンベルクでデューラーの弟子となり、当時ドイツ領ストラスブールで主に木版挿絵画家として有名であった。
油彩画でも死神を主題とした中世的な絵画でユニークな存在感を示す。この「騎士と乙女と死」はその代表作である。

この絵では、馬上の騎士が、骸骨の死神から乙女を奪い取り、救おうとしている。愛による生命の復活劇という伝統的な物語である。
この絵の骸骨は丈夫な前歯で乙女のガウンをしっかり食いしばり、片足は馬の足に引っ掛けようとして、しぶとく粘っている。

師デューラーの銅版画の騎士像は、死神を圧倒する迫力があった。それに対して、グリーンの場合、騎士には神通力はなく、死神にやがては再び乙女は奪い去られる運命にある。このたくましい死神のイメージは、「死の舞踏」に表されたドイツ中世末期のペシミスティックな民衆的終末観があると井出氏は推測している。
調和的でない、どぎつい原色のコントラストも、20世紀ドイツのキルヒナーやマルクの表現主義絵画に通じる革新性があるという。
(井出、2011年、170頁~171頁)

ホーホストラーテン


ホーホストラーテン(1627-1678) 
「室内の情景、もしくは部屋履き」
1654-62年/油彩・カンヴァス/103×70㎝  Sully 3F

【誰もいない部屋に残された物たちが語るミステリー】
この絵に描かれた部屋には誰もいない。ただし、部屋の持ち主の痕跡が至るところにあり、それを推理するところに、ミステリーの面白さがあると井出氏はみている。
その仕掛けについて、例えば、奥の壁の2点の画中画に注意を向けると。右は「父の叱責」という売春婦の娘の罰を描いたものであるらしく、この部屋の持ち主が女であることを暗示している。
また、読みかけの本、開かれたドアと挿しっぱなしの鍵、消えたロウソク、脱ぎ捨てられたスリッパ、壁の箒は、すべて家事を捨てて男との密会のために家を飛び出した主婦の不在の証拠だと解釈する説を紹介している。
(なお、この「室内の情景、もしくは部屋履き」は、1993年、神戸、横浜のルーヴル誕生200周年展に出品されて、日本人にとって俄然、人気の名画となったそうだ)
(井出、2011年、172頁~173頁)


8時代概説 フランス絵画 
「冷たい美女」の誕生を見る 15-16世紀 中世末期からルネサンス
<3時間コース>

カルトン


カルトン(1415頃-1466) 
「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」
1455年頃/油彩・板/163×218㎝ Richelieu 3F

【キリストを抱く3人の見事なデッサン力】
「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」は、通称「アヴィニョンのピエタ」である。ピエタとは、慈悲の意で、亡きキリストを抱いた聖母像のことである。

正式地名ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンは、14~15世紀に教皇庁のあった大都市アヴィニョンのローヌ川沿いの対岸にある小さな町であるそうだ。中世そのままの町で、枢機卿たちの邸宅や聖アンドレの要塞、フィリップ4世の建てた塔が遺る町である。

その町の礼拝堂にひっそりと伝えられたこの板絵を発見したのは、メリメであった。メリメは、フランス・ロマン派の作家で、『カルメン』の原作者である。当時、メリメは歴史記念物保存官として、フランス各地を巡察していた。
この板絵
は、以後展覧会で評判となり、ルーヴル入りを果たして、作者についても当地で活躍していたラン市出身のアンゲラン・カルトンと確定した。圧倒的な表現力と希少性もあって、フランスの国宝扱いとなった。

ゴシック様式の祭壇画に多い板を繋いだ金地の絵である。聖母に抱かれたキリストの亡骸を哀悼する弟子のマグダラのマリアと聖ヨハネ、そして左にはこの絵を寄進した教会の参事会員の肖像が描かれている。

造形的には、このキリストの折れ曲がった遺体や聖母の構造が鋭角的な北方ゴシックの木彫像のようであり、作者の出身ランの大聖堂を想起させるそうだ。
それ以外の3人が堂々とした人体像と顔の表情に見事なデッサン力を発揮している。これはイタリア14世紀のシエナ派から15世紀初めのフィレンツェ絵画に範があるようだ。
このように、北の造形要素と南の要素をこの画家は巧みに調合させ、そこに気品と格調を付加している

(ここに、フランス的国民画家の誕生と井出氏はみている。
また史上初めて涙を描いたとされるのはウェイデンであるが、この絵のマグダラのマリアも2粒の涙が見える。この画家は北フランスの故郷での修業時代、ウェイデンの画風に触れた可能性があると推測している。)
(井出、2011年、178頁~180頁)

フーケ


フーケ(1415~20頃-1478~81) 
「ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサンの肖像」
1460年頃/油彩・板/93×73㎝ Richelieu 3F

【肖像画を引き立てる背景の3D空間にも注目】
フーケは、中世の無名職人ではない最初のルネサンス的芸術家であり、フランス人で最初の自画像を描いた。
フーケは、ロワール川の美しい古都トゥールに生まれた。その写生素描の腕前は、フランス王シャルル7世の肖像(ルーヴル蔵)や、1440年代にイタリアに旅行して描いたローマ教皇の肖像画からわかる。

シャルル7世といえば、救国のヒロイン、ジャンヌ・ダルクを見殺しにした王様として知られている。フーケの描いたその肖像は、歴史家木村尚三郎氏によれば、「ネクラ的なふてぶてしさ」は良く描けているが、その顔つきが貧相なので好きになれないという。
そこで、井出氏は、フーケの代表作として、このジュルサンの肖像を挙げている。彼は、シャンパーニュ地方の名門貴族出身で、シャルル7世に仕えた宰相で、大法官である。

その顔を見ると、福耳で、鼻梁、鼻の下の広さに豊かな顎をしている。晩年には、位人臣(くらいじんしん)を極める福相であると井出氏は評している。
この肖像画は、斜めから見た祈りの姿である。このことから、もとは三連祭壇画の左翼であって、中央の聖母子を礼拝する寄進者であると仮定されている。右翼には、ジュルサンの妻が描かれていたらしい。
フランドル発祥の油彩画の最高技術が発揮されていることは、彼の毛皮付きの豪華な赤い衣裳や、金刺繍の大きな財布を見ればわかる。
また人物周辺の3D空間は、ルネサンス遠近法の成果であり、ひときわ目立つのは、背景の黄金色の木彫壁面である。
ここには、ジュルサンと画家フーケのイタリア装飾好みがあらわれており、壁の柱頭には、ジュルサン家の家紋が可愛い2頭の熊によって支えられている。ほかにも聖書を載せたクッションのデザインもイタリア風でセンス抜群であるそうだ。

ところで、ジュルサンは、あのシャルル7世に仕えて百年戦争を乗り切り、そして父王と敵対していた息子ルイ11世にも引き続いて重用された。そのルイ11世は、ブルターニュ公国を手に入れ、フランスの中央集権化と近代化に大きく貢献した。
ジュルサンは、大変な権謀術数の持ち主であり、宮廷画家フーケにふさわしい超大物であると井出氏はみている。
(井出、2011年、181頁~183頁)

クーザン


クーザン(1490頃-1560頃) 
「エヴァ・プリマ・パンドラ」
1550年頃/油彩・板/97×150㎝ Richelieu 3F

【エヴァとパンドラの2つのイメージを背負う女】
ジャン・クーザンは、1540年からパリに定住し、フォンテーヌブロー宮殿装飾の仕事に携わり、フィレンツェ画家ロッソの影響を受けた。そして、クーザンはこのフランス絵画初の優美なヌードを誕生させた。

暗い洞窟の奥に高山の幻想的な風景という設定は、レオナルドの「岩窟の聖母」のようであると井出氏は指摘している。フランスに晩年を過ごした大巨匠レオナルドが、まいた種がここに開花したとみる。

この絵の上部に描かれた銘板のタイトルは、「エヴァは最初のパンドラである」という意味である。この仄白いヌードの美女には、聖書による最初の誘惑のリンゴを食べたエヴァと、ギリシア神話によるゼウスが男の勢力を弱めるために作らせた最初の女パンドラの2つのイメージを背負わせたそうだ。

彼女のエヴァとしての持物は髑髏とリンゴの枝で、死ぬべき運命と原罪を表し、パンドラとしてはゼウスからの贈り物の壺と蛇が腕に巻き付いて、これからの人類(男たち)に降り掛かる不幸を表しているという。
(なぜ、こんなに女が悪者にならなければいけないのかという理由は、井出氏の前著『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』の「パンドラ」の項を参照のこと)

日本では英語のPandra’s Boxの翻訳で「パンドラの匣(はこ)」というが、この絵では「パンドラの壺」となっている。
もともとのギリシア神話では、これは「壺」(ピトス)、それがラテン語に訳されたりする過程で、16世紀オランダの学者エラスムスが「匣」(ピクシス)と誤訳したのがPandra’s Boxの始まりであるそうだ。
(だから、17世紀以降のアルプス以北の国の絵ではパンドラは匣を持ち、イタリアでは相変わらず壺を持つことになった)
(井出、2011年、184頁~186頁)

フォンテーヌブロー派


フォンテーヌブロー派 
「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」
1594年頃/油彩・板/96×125㎝ Richelieu 3F

【多くの謎に包まれた一押しの「冷たい美女」二人】
「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」は、井出氏の一押しの「冷たい美女」であるそうだ。
有名な絵なのに、作者は誰かは特定できない。
絵を見ると、人体やカーテンのデッサン、色彩にヴェネツィア派やレオナルド・ダ・ヴィンチも研究した跡があり、イタリア画家に近いことがわかるそうだ。ただし、奥の部屋の空間には少しフランドル風の素朴さがのこるとされる。そこで、当時のフォンテーヌブロー派による作だと判定されている。

この絵の最も謎めいたところは、この美女たちが誰であるのか。そしてお風呂で何を見せているのかという主題にかかわるものである。伝承として、右の金髪美人は、フランス王アンリ4世の愛人ガブリエル・デストレ、左の茶髪の婦人はその妹でビヤール公爵夫人とされている。
二人は、ガブリエルが王の初子を懐妊したアレゴリー(寓意)として、妹が姉の乳首をつまみ、姉が婚約指輪を見せびらかし、奥の部屋の侍女が生まれてくる幼児の産着を編んでいると理解された。つまり、世継ぎを巡る当時の宮廷政治の寓意とされている。
(一方で、この二人はティツィアーノの「聖なる愛と俗なる愛」にあるような「双子のヴィーナス」であり、フィレンツェの新プラトン主義のフランス宮廷版と田中英道氏は主張している。つまりお風呂に入っているのは実は海の意味で、二人は天上のヴィーナスと地上のヴィーナスだと考えている。井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、210頁~211頁も参照のこと)

そもそもこの絵の卵形美女の顔は、ガブリエルの姉妹どちらにそっくりというわけではないようだ(ガブリエルの肖像の素描がパリ国立図書館に遺っている。渡辺一夫氏の名著『世間噺後宮異聞』(筑摩書房)でも、ガブリエルは「絶世の美人かどうか」と疑問を呈している)。

しかし、この絵の描かれた当時のガブリエルは、アンリ4世の後宮のうちで準王妃として最も権勢を誇っており、懐妊した余勢を駆って、画家に命じて自分を思い切り理想化した可能性もあると井出氏はみている。
ともあれ、この絵から5年後ガブリエルは4人目の王の子を懐妊しながら28歳で急死してしまう(毒殺をも疑われる悲劇を迎える。翌年アンリ4世は財政的な理由でメディチ家からトスカナ大公の姪マリーを選んで結婚する)。
(井出、2011年、187頁~189頁)

ベルショーズ


ベルショーズ(1415-1445活躍) 
「聖ドニの祭壇画」
1415-16年/テンペラ、金地・板からカンヴァスで裏打ち/162×211㎝ Richelieu 3F

【三位一体の神のもとで首を切られる聖人の物語】
ブルターニュ公国の宮廷画家ベルショーズの名のわかる唯一の作品が、「聖ドニの祭壇画」
である。これは、ディジョン近郊の修道院教会のための祭壇画である。

いかにも中世末期の国際ゴシック様式で、オール金地にラピスラズリのブルーが映えている。中央には、三位一体の父なる神と聖霊の鳩にキリスト磔刑像がある。左には、ローマ時代、3世紀のガリア地方、パリの初代司教の聖ドニが、入牢した窓からキリストによって聖体拝受をしてもらっている。右では、弟子とともに役人に首を切られる場面が描かれる。

もう一つのポイントは、背景の地面が坂になっていて、この場所がパリのモンマルトル(殉教者の山の意)の丘であることを示している。首を切られた聖ドニは、なんと自分の首を持って歩き出し、倒れたところがパリ北郊外、歴代のフランス王の墓所サン・ドニ大聖堂が建った場所である。
(井出、2011年、190頁~191頁)

クルーエ


クルーエ(1520頃-1572) 
「エリザベート・ドートリッシュの肖像」
1571年頃/油彩・板/36×26㎝ Richelieu 3F

【悲劇の王妃エリザベートの束の間の幸福を伝える肖像】
「エリザベート・ドートリッシュの肖像」は、ウィーンの皇帝マクシミリアンの娘の肖像画である。その兄がルドルフ2世というハプスブルク家のお姫様である。1570年に、16歳でフランスにお輿入れして、シャルル9世の妃となる。
この絵は王妃の即位式に記念として描かれたとされる。作者は当時フランスで最高の宮廷画家フランソワ・クルーエである。

芳紀17歳、香るがごとき名花を、クルーエはまるで宝飾品のように繊細緻密に扱って描いていく。真珠やダイヤ、サファイアなどの描写はもちろん、金糸のような髪の毛、薔薇色の素肌、立ち襟の刺繍までも熟練の極みが見られ、画家クルーエが王妃を心から歓迎して親密に描いたことがわかる。

ただし、この王妃のその後は悲劇的であった。夫のシャルル9世が病弱で、母カトリーヌ・ド・メディシスに実権を奪われ、わずか4年たらずで王妃は夫と死別する。一人娘を得たが早世してしまい、エリザベートは再嫁も断り、故郷ウィーンで寂しく38歳の若さで散ってしまう。
この絵の頃が、希望に満ちた最も幸せな時期だったことになる。「小さな天使」と呼ばれた純粋な優しいお人柄だったそうだ。この肖像画がある限り、エリザベートの美徳は永遠に讃えられるであろうと井出氏は評している。
(井出、2011年、192頁~193頁)

カロン


カロン(1521-1599) 
「アウグストゥスとティブルの巫女」
1575-80年頃/油彩・カンヴァス/125×170㎝ Richelieu 3F

【天に現われた聖母子と地上の親子の対比も一興】
カロンはフランス人ではあるが、イタリア的な本格マニエリスム様式を見せてくれる画家である。
というのは、フォンテーヌブロー宮殿装飾で、イタリア人画家プリマティッチョやニコロ・デッラバーテの弟子を長く勤めたからである。フィレンツェから輿入れしたカトリーヌ・ド・メディシス王妃がお気に入りの宮廷画家として、肖像画やフィレンツェ好みの凝った寓意画を遺した。

「アウグストゥスとティブルの巫女」では、古代ローマと16世紀パリを強引につなげて舞う不思議な世界を描いている。
前景では、「ソロモンの円柱」と呼ばれる2本の捻り円柱の下でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが跪いてティヴォリ(仏語ティブル)の巫女の託宣を受ける。巫女は幼児キリストと聖母像が現れた天を指し、将来のローマ帝国におけるキリスト教の勝利を予言する。

後景では、当時のパリのチュイルリー庭園を騎馬試合、セーヌ川で競艇が開かれていて、観客席はそちらに興じている。中央の貴婦人一行が振り向いて古代ローマの奇跡を見守っている。

このアウグストゥスはシャルル9世、後ろの貴婦人が母で王太后カトリーヌ・ド・メディシス、右の若者が息子で次の王アンリ3世たちであるそうだ。
(井出、2011年、194頁~195頁)


≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫

2020-03-07 10:30:42 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年3月7日)
 



※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)





執筆項目は次のようになる。


≪「第1章ドゥノン翼へ」の続き≫
4時代概説 フランス絵画大作 
「新古典主義」VS「ロマン主義」 19世紀 フランス 
<3時間コース>
ダヴィッド 「ナポレオンの戴冠」「レカミエ夫人」
ダヴィッド 「サビニの女たち」
アングル  「グランド・オダリスク」
ジェリコー 「メデューズ号の筏」
ドラクロワ 「7月28日 民衆を導く自由の女神」「サルダナパールの死」
<6時間コース>
グロ    「エイローの戦場におけるナポレオン」
プリュードン 「皇妃ジョゼフィーヌ」
ジロデ・トリオゾン 「エンデュミオン、月の印象、通称エンデュミオンの眠り」

5時代概説 ルネサンス、バロック彫刻 
ルーヴルの中庭を飾る彫刻 16-17世紀 イタリア、フランス
<3時間コース>
ミケランジェロ 「瀕死の奴隷」「抵抗する奴隷」
ピュジェ    「クロトナのミロ」
チェッリーニ  「フォンテーヌブローのニンフ」
<6時間コース>
作者不詳    「アネットのディアナ」
グージョン   「ニンフ」







第1章4時代概説 フランス絵画大作 
「新古典主義」VS「ロマン主義」 19世紀 フランス

 
イタリア・ルネサンス絵画を見て、奥に進むと、2部屋続きの赤い壁の大広間が全部フランス絵画の大作に使われている。その1枚1枚の大きさに驚かされる。

この大作中心主義は、フランスがサロン展という政府主催の展覧会を国策として世界に誇示しようとした18世紀の革命時代に始まるようだ。1789年からの革命政府は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを死刑にした過激な共和主義であった。
まだ旧体制にあったヨーロッパ諸国は、革命の火を消そうと対仏連合を組んだが、ナポレオン・ボナパルト将軍一派はそれに立ち向かう。のちに皇帝にまで成り上がったナポレオンにふさわしい美術とは、古代ギリシア・ローマの英雄的な歴史を再現するダヴィッドや弟子のグロらの新古典主義である。ダヴィッドは皇帝ナポレオンの宮廷画家として、肖像画や式典を記録するとともに、美術のアカデミー制度を整備する。

ナポレオンの敗北、退位から王政復古の時代となっても、ローマ留学から帰ったアングルがその画壇を引き継ぎ、ダヴィッドの画風を維持した。同時に、アングルは画題をしばしば中近東のハーレムの女「オダリスク」などに求め、東方への異国趣味「オリエンタリスム」の動きを進めた。

ところが、ジェリコーやドラクロワのロマン主義の画家が、ダヴィッド一派に対抗して、自由な想像力と大胆な色彩と筆遣い、力動的構図を主張した。
ジェリコーは実際の事件を大画面で再現し、絵画に現実的な衝撃性を与え、その後継者ドラクロワはモロッコ旅行で得た強烈な色彩表現によって、デッサン中心のアングルに挑戦した。そして印象派へと続く若い世代の画家たちに指針を与えた。
(同時代の英国ではターナー、スペインではゴヤ、ドイツではフリードリヒがロマン主義に連動した。個性尊重の近代絵画の扉を開いた)
(井出、2011年、88頁~89頁)



ダヴィッド


ダヴィッド(1748-1825) 
「ナポレオンの戴冠」
1806-07年/油彩・カンヴァス/629×929㎝ Denon 2F

「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F

【ダヴィッドの気苦労】
1804年12月2日、ナポレオンはパリ、ノートル・ダム大聖堂で皇帝としての戴冠式を挙行する。
これを公式に見事な記録画としたのが宮廷画家ダヴィッドである。皇帝はこの仕上がりを見て、「これは絵ではない。中を歩き回ることができるのではないか!」と画家をねぎらったといわれる。

しかし、この絵は戴冠の事実そのままを描いたものではない。そもそも皇帝は跪いて、ローマ教皇に冠を戴せてもらうのがいやなので、自分で頭に載せてしまった。教皇はあきれて、祝福の指のサインをしなかった。

はじめダヴィッドは、その通りに描いたが、余りにおかしいので、皇妃ジョゼフィーヌに皇帝が戴冠する場面とし、教皇も祝福のポーズを描き変える。その他にも、次のような虚構がある。
・この席には、皇帝の母親は欠席したのに、背後の上席に描き入れた
・小男のナポレオンを大きく見せるように、構図を工夫した
・皇妃に嫉妬する皇帝の妹たちの表情を喜びに輝かせたりした

こうしたダヴィッドの気苦労がこの絵にはあった。それを偲んで見るのが、この絵の鑑賞法であると井出氏は説く。
(井出、2011年、90頁~91頁)

【美貌のマダム像が未完に終わったワケ】
「レカミエ夫人」
1800年未完/油彩・カンヴァス/174×244㎝ Denon 2F

「ナポレオンの戴冠」を背にして、ルーヴル山の谷間に咲く白百合のような可憐な肖像がこの「レカミエ夫人」であると井出氏は形容している。

当時流行の古代ローマの貴婦人のようなファッションで、古代風の寝台に横たわり、こちらをもの問いたげに見つめている。マダムと呼ばれているが、彼女の夫は実の父であると井出氏は説明している。革命の混乱期に銀行家だった父は財産を没収されないように、娘なのを隠して妻として入籍してしまったと井出氏は記す(今ではあり得ない話だが)。

レカミエ夫人はこの美貌だったので、マダムを賛美する芸術家たちも集まって一大サロンをなした。ダヴィッドとしては、若い美女は描きづらかったのか時間がかかりすぎ、モデルは他の画家に依頼し直すと聞いて、やる気が失せたようで、この絵は未完に終わる(一説には、マダムのきれいな裸足を描いてしまって、気分を損ねられたともいわれる)。

ともあれ、この「レカミエ夫人」は、ダヴィッドの裏の代表作として永遠に愛すべき名品と井出氏は評している。
(井出、2011年、92頁~93頁)

ダヴィッド


ダヴィッド(1748-1825) 
「サビニの女たち」
1799年/油彩・カンヴァス/385×522㎝ Denon 2F

ダヴィッドの「サビニの女たち」を解説するにあたって、塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社)を読んだ感想から、井出氏は初めている。

ローマは国家制度(王、皇帝と元老院、市民集会)として現代までその規範を作ったが、美術でもそうであった。15世紀のルネサンス、マザッチョやドナテッロから、現代画家のバルテュスまで、「古典主義」という枠を与えたのがローマであった。
そして、フランスでは、17世紀のプッサンと18-19世紀のダヴィッドが歴史的ローマに惹かれた画家であった。その2人の絵に共通する「ローマ人の物語」が「サビニの戦い」であると井出氏はいう。

まず、ルーヴルにあるプッサンの「サビニの女たちの掠奪」(1637-38年)では。ローマ建国の雄ロムルスの命令下に、荒くれ男の集団だったローマへ隣国サビニの若い女たちを略奪して拉致しようとの作戦を遂行している乱闘シーンが描かれている。

そしてダヴィッドの絵は、後日サビニの軍隊が女たちを取り戻しにローマを攻めた戦いに、略奪された女たちが割って入り、サビニの親兄弟と今のローマの夫に和平をもたらしたという感動シーンである。
右の槍を構えるロムルスと、左の剣を持つサビニの剣士の間に、両手を広げて止めているのは、ロムルスの妻になった左の剣士の娘ヘルシリアである。子連れもいる彼女たちの身体を張った英雄行為を礼賛するこの絵には、画家ダヴィッドの苦節が表されているといわれる。

ところで、革命政府の左派議員だったダヴィッドは、盟友ロベスピエールが右派に粛清されたテルミドール反動(1794年)の時には5カ月投獄され、ギロチンにかかる寸前、貴族出身だった妻の尽力で釈放された。
この体験によって、ダヴィッドはこの絵を構想したといわれる。つまりギロチンから画家ダヴィッドを救った愛妻への賛辞の意味合いがあるという。奥さんに頭が上がらない体験によって、この絵が誕生した。

それと同時に、この絵は、ダヴィッドのローマへの5年の留学体験が込められている。例えば、その線的な人物像のデッサンや甲冑や武具、女性の衣装など、古代ローマの浮彫装飾を研究した成果が見えるようだ。
この絵を、「ダヴィッドの愛妻と古代ローマ芸術への大いなる賛辞がなした名画」と井出氏は評している。
(井出、2011年、94頁~96頁)

アングル


アングル(1780-1876) 
「グランド・オダリスク」
1814年/油彩・カンヴァス/91×162㎝ Denon 2F

【「変な絵」に隠された画家の願望とは?】
アングルという画家について、井出氏は次のような印象を抱いている。
この画家は、その世界だけに酔っていると、とんでもない天才だと思うが、ドラクロワなどと比べると、あまりの冷徹な観察者ぶりに目が覚めてしまうという。
音楽評論家の宇野功芳氏の言葉を借りて、「情熱を氷漬けにした」ムラヴィンスキーの指揮の統制者タイプが、絵画ではアングルであったとみる。つまりアカデミーの弟子にも徹底的に忠誠をアングルは誓わせた。弟子の絵が師の方針に背くと、「この裏切り者!」と怒鳴ったそうだ。
井出氏は、アングルのようなタイプの画家は嫌いらしいが、この「グランド・オダリスク」だけはその魅力に参ってしまうと記している。このタイトルにある「オダリスク」とは、ハーレムの奴隷女のことをいい、この絵は中でも大きいので、「グランド」というようだ。

アングルが留学していたローマからこの絵を1819年のサロン展に送ったとき、観衆はあの優等生のアングルが、なぜこんな変な絵を描いたのか訝しがったそうだ。中には「この絵の女は解剖学的には脊椎が3本多い」と指摘した評論もあった。美術史家のケネス・クラークは、「昔の評論家はちゃんと仕事をしていた」と皮肉っている。

この絵を見ると、オダリスクの何か言いたげな瞳と表情、例の長すぎる背中と巨大なお尻、西洋でははばかれるむき出しの足の裏が描かれている。そして、オリエンタルな小物、例えば、ターバンや孔雀の扇やパイプ、カーテンがある。これらは、すべて当時のアングルの願望を語っていると井出氏はみている。
アングルはこの絵で「ここには無い場所」ネヴァーランドを目指し、この絵をロマンティックの心情で描き上げた。いわば、この「隠れロマン派」の情熱をあえて公開してしまったのが、この絵であると井出氏は理解している。
だから、形式的な「氷結」が幾分か溶けてしまったので、当時のパリの観衆は訝しがったようだ。

井出氏は、この絵を「アングル36歳のはじけた怪作」と評している。そして、アングルが晩年にはじけた怪作として、「トルコ風呂」(1862年)があり、こちらはルーヴル美術館のシュリー翼で見られると付言している。
(井出、2011年、97頁~99頁、243頁)


ジェリコー


【古さを一刀両断する画期的な構図に注目】

ジェリコー(1791-1824) 
「メデューズ号の筏」
1819年/油彩・カンヴァス/491×716㎝ Denon 2F

国家的スキャンダルを大衆の面前に告発する。ほぼ200年前のパリのサロン展の会場で、しかも等身大以上の大画面の油絵でこれを、ジェリコーは行なった。

ことの発端は、1816年の難破事件である。アフリカ沖を南下していたフランス海軍の軍艦メデューズ号が難破し、助かった150名の人員が筏で13日間漂流し、15人しか救出されなかった。
海軍の汚職があって、賄賂をとって密航者を大勢乗せていた事実を国家は隠蔽したかったが、生存者をインタビューしたジェリコーはこれを絵画で告発した。
サロン展の会場は大騒ぎとなり、ジェリコーは一躍時の人となる。新しいロマン派芸術の幕開けとなった。

この絵の構図も画期的である。筏は左下から右肩上がりに対角線構図をなしている。垂直と水平線しか認めないダヴィッド一派の旧弊さを、一刀両断するような鮮やかさであると井出氏は評している。
(井出、2011年、100頁~101頁)

【補足 ジェリコーとドラクロワ】


ジェリコーとドラクロワは、ロマン主義絵画の画家である。
二人の師匠は、古典主義の画家で国立美術学校教授ピエール=ナルシス・ゲランのもとに弟子入りをしている。ドラクロワは1816年に弟子入りした。このとき、兄弟子にテオドル・ジェリコー(1719-1824)がいた。ジェリコーは、1816年に起きた難破事件を描いた「メデューズ号の筏」を1819年に発表する。実は、この難破者のモデルをドラクロワがつとめている(このことは、美術史ではよく知られていることだそうだ)。

ところで、ドラクロワが修業時代を終えて、最初にサロンに出品した作品は、1822年の「ダンテの小舟」(ルーヴル美術館蔵)である。当初ドラクロワは古典古代主題か、ギリシアの独立戦争(1821-29)の主題によって画壇デビューを果たすつもりであったが、結局最初に完成したのは、ダンテの『神曲』を主題とするこの作品であった。

当時歴史画の主題は、正統的にはギリシア・ローマの歴史や神話、そして王政復古時代の新しい流行としては、中世や近代の歴史や文学であったから、ドラクロワが最初に計画した中に古典古代主題が含まれていたことは当然であった。ドラクロワの所属するゲランのアトリエは、正統的な歴史画家の養成を目的とする機関であった。

だがその一方で、ドラクロワが同時代の出来事であるギリシアの独立戦争の主題を意図していたことは、ジェリコーの「メデューズ号の筏」がほとんど少年といってよい年齢であったドラクロワに与えた強烈な印象をものがたっているようだ。若いドラクロワは、この「メデューズ号の筏」によってあらためて時事的な主題を大画面の歴史画として描く勇気を得たと鈴木杜幾子氏はみている。
そして、ドラクロワは2年後のサロンに「キオス島の虐殺」(1824年、ルーヴル美術館蔵)を出品し、「ギリシア独立戦争の主題」制作の夢を果たすことになる。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、126頁~127頁)。


ドラクロワ


【絵筆で革命に参加する画家の力作】【豪華な宝石箱のような虐殺もの】

ドラクロワ(1798-1863) 
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F

「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F

【絵筆で革命に参加する画家の力作】
「7月28日 民衆を導く自由の女神」
1830年/油彩・カンヴァス/260×325㎝ Denon 2F

ナポレオン追放後、フランスはルイ18世、シャルル10世の王政復古時代に戻り、その旧弊な圧政に耐えられず、パリ市民が7月27日から3日間市街戦を繰り広げ、ついに国王を亡命させて革命に勝利し、立憲王政を樹立する。これが七月革命である。

画家ドラクロワは市街戦の様子を建物の陰で見守りながら、「祖国のため、せめて革命に絵筆で参加しよう」と心に誓う。3ヶ月でこの大作を仕上げ、翌年のサロン展に出品した。その絵画の構図は、死体の累々と重なる中、自由の女神が三色旗を掲げ、戦う市民の先頭に立つという勇ましいものであった。この絵は観客の熱狂的な歓迎を受けて、ルーヴル入りを果たす。

ところで、三色旗はもとは大革命からナポレオン時代に用いられ、王政復古時代は禁じられた国旗であった。そのせいか言論弾圧を始めたルイ・フィリップは、この作品を危険視してお蔵入りさせた。再び公開されたのが、25年後のナポレオン3世の時代である(どの為政者にとっても、この絵は永遠に「怖い絵」であろうと井出氏は付言している)。



【補足 ドラクロワ「民衆を率いる「自由」」】


この絵の中央を占めているのは、「自由」の擬人像である。
彼女は右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を持って、かたわらを振り返りつつバリケード上を大股に進んでいる。

この絵がどうしても市庁舎占拠に向かう民衆を表しているように感じられてしまうのは、「自由」の掲げる三色旗が市庁舎占拠の際に勝利の象徴として立てられた、それを連想させるからであろうとされる(ただし、7月28日というタイトルがついているにもかかわらず、「栄光の三日間」の間のいつであるか、また場所はどこかについては正確には不明らしい)。

「自由」の擬人像は、豊かな胸から上を諸肌脱ぎにしている逞しい女性である。かぶっている帽子は、フリギア帽と呼ばれる布製の三角帽で、古代ローマの解放奴隷が同型のものを着用したため、自由の象徴となった。17、18世紀の図像表現の伝統においては、「自由」はこの帽子を頭や手に持った槍に載せた、成熟した女性とされている。またフランス革命のときには、市民たちはこれと三色の記章を革命派の印として着用した。

その「自由」の顔を見ると、額から鼻梁にかけてのまっすぐな線はギリシア美術に見られるものである。それがこの像の場合、逞しい上半身の感じと下半身のみを被う衣の印象とあいまって、「ミロのヴィーナス」を連想させると鈴木氏はいう。
また、このような体格の女性が堂々と歩む姿は、ルーヴル美術館の大階段の踊り場に立つ「サモトラケのニケ」を思わせるという。
これらは二つともヘレニズム彫刻である。「ミロのヴィーナス」の方が1820年に発見され、翌1821年以来ルーヴル美術館に所蔵されている。一方ニケ像の方は、1863年発見でルーヴル入りは1867年であったから、「民衆を率いる「自由」」にそれが直接模倣されているわけではない。 
とはいえ、同じタイプの古代彫刻をドラクロワが知っていた可能性は高いとされる。
このようにドラクロワの「自由」像は、自由の観念の擬人像であり、非現実の存在であることを明示している。だが、その一方でこの女性像は、「ミロのヴィーナス」にみられるような、完璧な理想化をほどこされていない。
当時のサロン評は、彼女の肌が粗く、毛深い(腋毛が描かれている)ことを批判した。伝統的な擬人像の肌は大理石のように白く、なめらかに表現されるものであったからである。また批評家たちは、彼女を「魚売りの女」や「下層階級の娼婦」にたとえたりもしたようだ。

ドラクロワの「自由」像が「自由」の観念の擬人化でありながら、その一方で連想させずにはいない、バリケードを乗りこえて進む庶民階級の女性に関しては、画家がイメージソースとして用いた可能性のある、現実のできごとが存在するそうだ。それはおそらく、「1830年7月の知られざるできごと」と題された小冊子で、これにはドラクロワが次のような挿話からこの像のイメージを得ていると記されている。
つまり、一人の若い洗濯女が革命の騒乱の中で弟を見失い、ペティコートだけを身につ」けた姿で探し回った末、スイス兵に射殺された遺骸をみつけた。その後、復讐を誓ったが、結局、兵士のサーベルで殺されてしまったという。

このエピソードが本当にドラクロワにインスピレーションを与えたかは判断すべくもない。だが、大革命以来、民衆の革命的行動の盛り上がりの度に、庶民の間の語り草として伝えられる、こうした勇敢な女性についての伝説と結びつけられるほど、ドラクロワの「自由」像が「写実的」なものと感じられたようだ。この像における「観念性」と「現実性」の共存は、ロマン主義における擬人表現の新しいあり方を示すものとして重要であると鈴木氏は考えている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、145頁~153頁)


【豪華な宝石箱のような虐殺もの】
「サルダナパールの死」
1827年/油彩・カンヴァス/395×495㎝ Denon 2F

画家ドラクロワは、当時のフランス画家では一番のインテリで、ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。
ゲーテからシェイクスピアまで原語で親しんだそうだ。中でも画家のお気に入りが英国ロマン派詩人バイロンであった。前作の「キオス島の虐殺」から始まった“虐殺もの”として、画家はバイロンの詩劇「サルダナパール」を選んだ。

それは次のような歴史絵巻であった。
古代アッシリアの王サルダナパールが栄華を極めたニネヴェの宮殿に、敵軍が迫る。もはやこれまでと思い定めた王は愛妾や小姓、愛馬までを兵士に皆殺しにさせ、一人寝台に横たわって殺戮の情景を眺め、孤独のうちに炎に包まれていく、というストーリーである。
この場面をドラクロワは1枚の絵にした。
寝台の赤を基調に原色が過剰にちりばめられ、遠くから見ても、目もあやな宝石箱のようであると井出氏は形容している。
1828年のサロン展に出品されたとき、「これでは絵画の虐殺だ」と悪評を被った。一方では次第にボードレールら新世代の芸術家に強い支持を勝ち得て、ロマン主義の代表作に讃えられた(井出氏はドラクロワの絵画ではこの絵が一番好きらしい)。
(井出、2011年、102頁~105頁)



【補足 新古典主義対ロマン主義】


井出氏も言及しているように、画家ドラクロワは、英国のロマン派の詩人バイロンを好んだ。そして詩劇「サルダナパール(サルダナパロス)」がその絵画にインスピレーションを与えたであろうが、この点について鈴木杜幾子氏は、次のような解説を添えている。

紀元前7世紀のアッシリア王サルダナパロスについて記述している歴史書や文学作品は多数存在するが、ドラクロワが特定のどれかに依拠した形跡はないと鈴木氏は理解している。
例えば、バイロンの戯曲『サルダナパロス』は1821年発表で年代的にも近く、また青年時代のドラクロワはイギリスびいきでバイロン愛読者であったから、その主題を選ぶ際にその影響を受けなかったはずはないが、両者に大きな相違があることを指摘している。
つまり、バイロンの戯曲の大団円のサルダナパロスの最期の場面と、ドラクロワの絵との間には、違いがあり、ドラクロワの作品がただちにバイロンの作品の絵画化であったということはできないとする。

具体的には、バイロンではサルダナパロスは薪の山の上に一人で座り、寵姫ミュラがそれに火を放つことになっている。またドラクロワの描き出している虐殺の挿話は、この戯曲には登場しない。
そして、サロンの観客に販売される「リヴレ」(解説つきカタログ)の説明に名前を挙げられ、寝台の向こうの画面中央あたりに描かれているアイシェ(バクトリアの女)にいたっては、バイロンだけではなく、知られているいかなる文献に記述がないとされる。
(アイシェは奴隷の手にかかることを望まず、丸天井を支える円柱で首を吊った場面で画面中央に描かれている)

このことから、ドラクロワは恐らく古代美術品の版画などの視覚資料や、歴史書・文学作品に扱われているサルダナパロス像を参考にして、独自にその最期の場面を構想したものと鈴木氏は考えている。

ドラクロワは、この大作「サルダナパロスの死」を1827年の秋から冬にかけて制作し、翌1828年2月にサロンに出品した。
この作品は、1票差で審査を通ってサロンに出品されたものの、この年の出品作の中で最も多くの批判を受けた。批判の内容は、「デッサンがいい加減である」、「遠近法が誤っている」、「空間表現が正確でない」、「前景が混乱している」などというものであった。

これらの批判をそっくり逆にすると、新古典主義的ないしアカデミックな評価規準になる。同じ年のサロンには、アングルの「ホメロス礼讃」(1827年、ルーヴル美術館)が高く評価された。ドラクロワ作品の先の「欠点」をそのまま裏返した特徴をもち、新古典主義の規範に合致するものであった。

19世紀フランス画壇のアカデミズム対ロマン主義の対立の図式がこの1827~1829年のサロンにおいて顕在化した(これは美術史上の定説となっている)。アングルはルーヴル美術館の天井画として委嘱されたこの作品「ホメロス礼讃」をきっかけとして、アカデミー陣営の指導者への階梯を登り始めたとされる。それに対し、ドラクロワは在野ロマン派の領袖としての道をたどることになる。

一方、この1827年には、ユゴーの戯曲『クロムウェル』が、文学におけるロマン主義宣言として名高い、古典主義的作劇法を批判する内容の序文を付して発表されている。
ユゴーはまた「「サルダナパールの死」を次のような言葉で擁護している。
「サルダナパロスは素晴らしいものだ。あまりに偉大なので、矮小な視野の中には入ってこない。この立派な作品は、偉大で力強い作品の例にもれず、パリの公衆に対しては成功を収めなかった。愚か者の野次は栄光のファンファーレである」
こうした背景を考慮にいれると、「サルダナパールの死」に対する先の批判も、当時の「前衛」=ロマン主義者に対する、保守派=古典主義者の警戒心の表れと解釈できると鈴木氏はみている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、131頁~138頁)

【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』はこちらから】

鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)



<6時間コース>

グロ


グロ(1771-1835) 
「エイローの戦場におけるナポレオン」
1808年/油彩・カンヴァス/521×784㎝ Denon 2F

【ナポレオンの慈悲を描いて喜ばれた出世作】
グロはダヴィッド門下のジロデとジェラールともに3Gと謳われた三傑のトップである。
ナポレオンの戦功を記念する大作を取り組み、息をのむ迫真作を生み出した。

この絵は今はポーランドのエイローの雪原で、プロシア・ロシア連合軍に大苦戦した時のものである。1812年のロシアでの敗北を予感させるだけに悲壮感がある。テーマは命乞いをする生き残りロシア軍の兵たちを勝者の余裕で許すナポレオンである。
(その日は2万5千人が犠牲に壮絶な殺戮戦で、そのような暇があったかはわからない)

グロはナポレオンを本当に尊敬していたようだが、この絵によって、男爵に推挙された。この絵は、出世作となる。
グロはナポレオンの没落後、ダヴィッドの後継者として王政復古後の宮廷画家に抜擢されるが、とたんに絵が委縮してしまう。晩年、セーヌ川に投身自殺してしまう。この絵を描いた37歳頃がグロの頂点であった。
(井出、2011年、106頁~107頁)

プリュードン


プリュードン(1785-1823) 
「皇妃ジョゼフィーヌ」
1805年/油彩・カンヴァス/244×179㎝ Denon 2F

【優美な皇后の心に秘められた悲哀を読む】
プリュードンの「皇妃ジョゼフィーヌ」は、マルメゾンの暗い木立の中で岩に腰掛け、戦乱に明け暮れる夫と、これからの自分の不安な人生を思って沈み込んでいる。事実この絵から4年後には跡継ぎを生めないことで、離縁されてしまう。このメランコリックな表情と優雅な物腰に心を動かされる。

画家プリュードンは、ジョゼフィーヌのお絵かきの師もつとめた皇后の賛美者である。プリュードンは、ローマに留学して、イタリア・ルネサンス絵画、とくにレオナルド、ラファエロ、コレッジョを学んだので、まさに優美(グラツィア)の画家といえる。ルーヴルにあるレオナルドの「岩窟の聖母」「洗礼者ヨハネ」などを思い起こさせる高貴な気品があり、逸品であると評している。
井出氏は、皇帝ナポレオンは心底嫌いだが、皇后ジョゼフィーヌは大ファンで、暴君に振り回されたその境遇にも同情すると述べている。ジョゼフィーヌの大ファンなのも、プリュードンのこの絵の存在が大きかったようだ。
(井出、2011年、108頁~109頁)

ジロデ・トリオゾン


ジロデ・トリオゾン(1767-1824) 
「エンデュミオン、月の印象、通称エンデュミオンの眠り」
1791年/油彩・カンヴァス/196×261㎝ Denon 2F

【みずみずしい感性で月光を描いた若き画家の傑作】
ジロデは、ダヴィッドの弟子の中で最も文学趣味を持っていた画家である。

この絵はギリシア神話の牧童で美少年のエンデュミオンがヘラの罰で長い眠りについたとき、狩りの女神で月を司るディアナがその寝姿に恋し、自らの光で彼の身体を照らしたものである。西風の神ゼフュロス、またはアモールが月桂樹の葉を分けて光を通してやっている。
従来の伝統では、女神を見える女体として描くが、これを月光のニュアンスだけで描き出そうというのは、野心的な試みであったようだ。画家24歳の出世作だけにこうした冒険が可能だったのだろう。

神話によるこの絵の他にも、ルーヴルの「アタラの埋葬」ではシャトーブリアンの小説をテーマにしている。ジロデの絵には、スタンダールやボードレールも賛辞を捧げているので、時代よりも一歩進んだロマン主義の香りがするといわれる。
(井出、2011年、110頁~111頁)


第1章5時代概説 ルネサンス、バロック彫刻 
ルーヴルの中庭を飾る彫刻 16-17世紀 イタリア、フランス

<3時間コース>

ミケランジェロ


ミケランジェロ(1475-1564) 
「瀕死の奴隷」「抵抗する奴隷」
1513-15年頃/高さ209㎝/大理石 Denon 1F

【ルーヴルの「瀕死の奴隷」と「抵抗する奴隷」の由来】
フィレンツェの彫刻家ミケランジェロは教皇ユリウス2世にローマに招聘され、お門違いのシスティナ礼拝堂の天井画を描かされるはめになる。
さんざん苦労させられたが、その好餌となったのが、ユリウス2世廟の彫刻である。
教皇が生前の第1案では3階建てのビルに墓碑彫刻が40体もぐるりと付属する膨大な設計のモニュメントであった。しかし、教皇が亡くなると、遺族は資金難を理由に、規模の縮小を迫り、第4案まで後退をした。

ミケランジェロは40年もたって、やる気が失せ、現在の墓はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂にあるモーセ像のある壁面に納まっている。そして計画縮小の都度、不要になったいくつもの未完の人体像がアトリエに遺されることになる。第2案の2体がフランスに贈られて、革命後、国家の所蔵になった。これらが、現在、ルーヴルにあるミケランジェロの2体の彫像である。

【なぜ「奴隷」なのか?】
青年の方は「瀕死の奴隷」、中年の方は「抵抗する奴隷」と呼ばれて、対照的な動きをしている。なぜ「奴隷」なのかという理由について、井出氏は次のように説明している。

ミケランジェロは若い時からメディチ家で育てられ、その新プラトン主義の教養を一身に受けているので、人間とは、肉体の牢獄に閉じ込められた魂と考えていた。その肉体に縛られた低次の人間像が奴隷なのである。

青春期は若く美しいが、力は弱く、肉体の枠から出ることも諦めてしまう。中年期はその枠を自覚し、もがいて逃れようとするが、それも虚しい。しかし人間は魂を肉体から解脱させ、天使の段階を目指して、上昇しなければならない。

ミケランジェロは大理石の塊から人体を彫り出す自らの彫刻制作に、肉体から魂を解放するための人間の高貴な苦悩を実感していたといわれる。
後世の「神のごとき人」(il divino)と讃えられた天才の苦労の刻印が、この2体の未完作のあちこちにあるノミやヤスリ跡が細部に発見されるそうだ。
(井出、2011年、116頁~118頁)

ピュジェ


ピュジェ(1620-1694) 
「クロトナのミロ」
1670-82年/大理石/高さ270㎝ 幅140㎝ Richelieu 1F

【ライオンが王の庭に格調を添える】
「クロトナのミロ」は、リシュリュー翼1階にあるピュジェの中庭に鎮座する大彫刻の中でも、最もダイナミックで勇壮な作品である。

古代ギリシアの植民都市南イタリアのクロトナ出身のミロは、数々のオリンピック競技で優勝した老アスリートである。若い頃なら簡単だった枯れ木の幹を手で裂いてみようとすると、これが手に挟まって抜けなくなる。もがいているうちに後ろから、腹をすかせたオオカミが尻をガブリとかまれ、哀れミロは餌食となる。

ピュジェはヴェルサイユ宮殿の庭園に置くため、オオカミをライオンに変えたそうだ。その結果、王の庭にふさわしい格調が高まり、人間の傲慢さを戒める古典悲劇のような普遍性が漂うことになった。
この彫刻を宮殿で初めて見たルイ14世王妃マリ・テレーズは、かわいそうにと息をのんだといわれる。ミロの表情がいかにも苦痛に満ちている。
(しかし、この彫刻は結構ユーモラスであると井出氏はいう。幹の間の手はすぐ外せそうだし、彫刻の後ろから見るとライオンがじゃれているように見えるから)
(井出、2011年、119頁~120頁)

<6時間コース>

チェッリーニ


チェッリーニ(1500-1571) 
「フォンテーヌブローのニンフ」
1542-43年/ブロンズ/高さ205㎝ /幅409㎝ Denon 1F

【泉に憩うニンフと動物に王への忠誠心がこもる】
「フォンテーヌブローのニンフ」というレリーフは、ミケランジェロの間の奥の壁上に掲げられている。これは、16世紀フィレンツェ最高の金工師チェッリーニのフランス滞在期の代表作である。

フランソワ1世に招聘されたチェッリーニは、王の居城としたフォンテーヌブロー宮殿の正面扉装飾の注文を受けた。その上部の半円形レリーフとして泉に憩うニンフと鹿や動物たちを表す大構図を考案した。ブロンズの完成品はいくつかの部分に分けてパリで鋳造し、仕上げはフランス人の助手たちに任せたそうだ。

チェッリーニのアイディアで面白いのは、王室狩猟犬ブリオが発見した泉が、Fontainbleau(フォンテーヌブロー)の語源となったという「ブリオの泉」のいわれが、右下の犬に「よってここに示されているそうだ。
さらには、立派な角を持つ牡鹿の首はフランソワ1世のエンブレムである。それをフォンテーヌブローのニンフが愛撫するという王への心配りをしている。チェッリーニは『自伝』において、この雛形を見た王の喜びぶりを得々と記している。

しかしこの完成品は実際には取り付けられず、チェッリーニが帰郷してしまい、王も没してしまう。後に1550年代に世継ぎのアンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城の門扉上に納まった。以来、このニンフは居城の主ディアヌ=狩りの女神ディアナに見立てられて大事にされた。
(フランス革命時に貴族のコレクションとして没収されてルーヴル入りした)
(井出、2011年、121頁~123頁)

作者不詳


作者不詳(16世紀半ば) 
「アネットのディアナ」
16世紀半ば/大理石/高さ211㎝ 幅258㎝ 奥行き134㎝ Richelieu 1F

【画家たちがこぞって描いたディアヌの美を実感できる】
「アネットのディアナ」はリシュリュー翼にあるが、便宜上ここで紹介するとのこと
「アネットのディアナ」は、アンリ2世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエの住むアネット城で庭園の泉を飾っていた彫刻である。高さ211㎝と大きな裸婦像であり、出来も素晴らしいので、作者については、チェッリーニからグージョン、ジェルマン・ピロンら大物が考えられてきたが、今日すべて疑わしいとされ、不詳のままである。

ところで、ディアヌ・ド・ポワティエは、イタリア、メディチ家から輿入れした王妃カトリーヌ・ド・メディシスと宮廷を二分する勢力を持つ実力者であった。だから、そのオマージュであるこの彫刻の作者は、純粋なフランス人であることには推測できるようだ。
様式もチェッリーニのブロンズの先例の跡を残してはいるが、さらに穏和で雅やかである。この彫像は、フランス・ルネサンスのシンボルと目されている。

この牡鹿もアンリ2世になぞらえると、首を抱く狩猟の女神ディアナは愛妾ディアヌである。王よりも20歳年上だったが、その美しさは衰えを知らなかったそうだ。フォンテーヌブロー派の画家たちはこの肖像をこぞって描いた。
(井出、2011年、124頁~125頁)

グージョン


グージョン(1510頃-1565頃) 
「ニンフ」
1549年頃/石板/74×195㎝ Richelieu 1F

【ルノワールもお気に入り、優美を極めたニンフたち】
今はパリのレ・アール広場にある階段状上のお堂の泉「幼子の泉」の下の3面を飾る浅浮彫パネルがルーヴルのリシュリュー翼1階に展示されている。

1549年、アンリ2世のパリ入城の際、建築家レスコーの設計により、王の行進するサン・ドニ通りに建てられた柱廊が移され改築されたといわれる。その後、この3枚が取り外されて、1810年にルーヴル入りした。

ジャン・グージョンは「王の彫刻家」と呼ばれた16世紀最高のフランス彫刻家である。おそらくイタリアに旅して、ミケランジェロや古代ローマ彫刻に学んだ。ルーヴルの中庭が面した壁面装飾や、ルーヴルのローマ彫刻室となっている「カリアティードの間」の4つの女人柱などで有名である。

この作品は浅いレリーフであるが、ローマ風の古典主義に自国のゴシック彫刻伝統の繊細さを加味した優美の極みというべき傑作である。泉のニンフなので水に関係したトリトンや海馬も表されている。
これは印象派のルノワールも気に入り、それに倣って横長のパネルに好みのヌードを描いている(オルセー美術館蔵)。
(井出、2011年、126頁~128頁)