歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-08-30 19:35:01 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年8月30日投稿)




【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十四章から第十六章および終章の内容を紹介してみたい。
 
「第十四章 微笑む永遠」では、『モナ・リザ』の構図などの影響関係を解説している。たとえば、バルドヴィネッティ『聖母子』(1460年頃、100×75㎝ ルーヴル美術館)は、少年レオナルドのヴェロッキオ入門の少し前の1460年前後に制作されているが、広大な風景をバックに聖母子を描く構図は驚くほど『モナ・リザ』に似ている。そして、最遠景に重層する山脈を配し、手前に丘陵を描き、中景を蛇行する河に橋が架かり、左に大きな山塊、右に水面越しに山脈を遠望する背景に、人物が椅子に座っている。その構図は『モナ・リザ』と一致する。
 また、『モナ・リザ』の微笑の意味について考える上で、釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事が、格好のヒントを含んでいると西岡氏はみている。

「第十五章 ラファエロの涙」では、『モナ・リザ』とラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(1515年頃、カンヴァスに油彩、82×67cm、ルーヴル美術館)との関係について論じている。『モナ・リザ』とは似ても似つかぬ髭面の男性の肖像ながら、ラファエロのレオナルドへの憧れを結晶させて、これほど胸を打つ作品はないといわれる。
この『カスティリオーネの肖像』と『モナ・リザ』が、なにやら似て見えてくるあたりから、『モナ・リザ』鑑賞は真の意味での佳境に入ると西岡氏は説いている。『カスティリオーネの肖像』は、個人の肖像画でありながら、『モナ・リザ』にも通じる「はかりがたさ」をただよわせている。

ラファエロは、レオナルドとミケランジェロを折衷して、ルネッサンスを完成させた画家であるが、そのラファエロがフィレンツェで『モナ・リザ』を見たのが、21歳の時である。『カスティリオーネの肖像』は、ラファエロが32歳の時で、死の5年前の作品である。フィレンツェの衝撃以来10年、『モナ・リザ』の画境に肉薄することを夢見たラファエロが、カスティリオーネというレオナルド的な人格を夢見た哲学者をモデルに得てはじめて、「はかりがたき」境地に迫ることができたようだ。

人物画に「はかりがたさ」というものが表出するためには、そこに単なる似顔絵を超えた描写の普遍性が備わっていなくてはならなかった。レオナルドはこのことを説明して、人物の似顔をそのまま描くことは、「個」のために「普遍」を捨てることだし『絵画論』に書いている。この深遠とも見えるレオナルドの主張は、私たちが人物画を眺める際に自明の前提としていることであると西岡氏は解説している。

『モナ・リザ』は「個」のために「普遍」を捨てることを諫めたレオナルドが、「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品である。つまり、『モナ・リザ』は、人物画というジャンルを確立した作品である。単なる似顔絵を超えた「個」の画像のなかに、人間としての「はかりがたさ」を描き出すことで、ルネッサンスの肖像画を、普遍的な人間像の表現に高めることに成功した作品であると西岡氏は理解している。

これを時代のバロックに受け継いで、究極の「個」ともいうべき「自己」の肖像のなかに「はかりがたさ」を描き出すことで、自画像というジャンルを確立したのが、レンブラントであった。このレンブラントの崇高ともいうべき画境へと至る、晩年への歩みの折り返し地点となったのが、『カスティリオーネの肖像』を模して描かれた自画像であった。
「はかりがたさ」において、『モナ・リザ』に通じるひとりの普遍人の肖像にその範を見出して、究極の「個」としての「自己」のなかに「普遍」を描くレンブラントの自画像は誕生したと解説している。

「第十六章 レオナルドの水鏡」では、『モナ・リザ』という作品の人物と風景の筆致の違いに注目して、解説している。レオナルド以前には、消去不能の「筆」の跡であった筆致は、レオナルドの登場以降、画家がそれを残すか残さぬかを選択し得る「手」の跡として、絵画の持ち味のひとつになった。近代絵画の足どりは、この「手」の痕跡としての筆致がひらいたものであるといわれる。モネの躍るような筆致も、ルノワールの柔和なタッチも、燃え立つようなゴッホの筆触も、強烈な個性を発揮する「手」の痕跡の、生命感で人々を魅了している。『モナ・リザ』は、その背景に、早くもこの近代の筆致を予見している。
その画面は、謎の微笑に、筆の跡をいっさい残さぬスフマートの神技を見せつつ、遠方の山岳には、近代絵画を予告するかのような奔放なるインパストの筆致を見せている。

また、レオナルドは『絵画論』に、画家は鏡を師にせよと、しきりに書いている。筆致を消したスフマートの驚くべき写実性は、磨き抜かれた鏡を思わせるが、西岡氏は「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉で説明している。レオナルドのスフマートは、この明鏡止水の画境を目指す技法であったという。
5世紀半に及ぶ油彩絵画の歴史上、最初の1世紀も経ぬうちに、『モナ・リザ』は描かれた。にもかかわらず、すでに画面は精妙なるスフマートから奔放なインパストに至る、油彩の筆致の両端を示している。

この筆致の振幅に注意を払いつつ、西岡氏は絵画の歴史を概観している。
レオナルドの背景からラファエロの画面に波及した筆致のさざ波が、ヴェネツィアの運河の夕陽に、アレティーノを嘆息させたティツィアーノを経て、1世紀後のレンブラントの夜に至る足どりを思い、もう1世紀少しの後、レンブラントの背景の闇を払拭し、水面に反射するモネの日の出となって、印象派のめくるめく筆致を招来すると捉えている。西岡氏は、ルネッサンス期のレオナルドから近代の印象派までの、筆致の変遷をまとめている。

近代の筆致は、細部において『モナ・リザ』の遠景と酷似しており、レオナルドの筆致の先駆性を物語っている。とりわけターナー『吹雪』の濃密な大気感は、『モナ・リザ』の大気感を思わせるという
『モナ・リザ』の背景の山岳に見えるインパストという筆致は、ラファエロ、ティツィアーノから印象派へ継承されることが予見されるとし、「はかりがたき」微笑といった内面描写は、バロックのレンブラントから後期印象派のゴッホにまで影響を及ぼしているとみられる。内面的にも、外面的にも、絵画という美の旅において、この『モナ・リザ』は、始発駅であり、終着駅であるという。

「終章 カフェにて」では、レオナルドの流転との軌跡と『モナ・リザ』について、西岡氏は、次のように、要約している。
未完の『東方三博士の礼拝』をフィレンツェに残して、30歳でミラノに発ったレオナルドが、故郷に帰ったのが、50歳を間近に控えた頃である。
『最後の晩餐』の巨匠は、敬意をもって迎えられるが、サヴォナローラ処刑の2年後のフィレンツェは、レオナルドの知る、かつてのフィレンツェではなかった。
師ヴェロッキオは他界し、ボッティチェルリはサヴォナローラの火刑の痛手から画業を放棄し、時代の主役は、レオナルドとは親子ほども歳の離れたミケランジェロにとって代わられようとしていた。
ほどなくこの二人の巨匠は、フィレンツェ政庁の一室の向かい合わせの壁面に、フィレンツェ共和国史上記念すべき戦闘の場面を描くことを委嘱され、文字通り「世紀の対決」を演じることになる。レオナルドの壁面『アンギアーリの戦い』は、彼のフレスコ嫌いがたたって流れ出し、ミケランジェロの壁画『カッシーナの戦い』は、彼のヴァティカン招聘で、中途で放棄され、世紀の対決は、決着のつかぬままに終わる。
この時期、着手されたのが、『モナ・リザ』であったのである。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】
第十四章  微笑む永遠
・ルーヴル美術館の諸作品
・バルドヴィネッティ『聖母子』とレオナルドの『モナ・リザ』
・レオナルド作品の「はかりがたさ」と『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』の微笑と「拈華微笑」

第十五章  ラファエロの涙
・ラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』
・『モナ・リザ』の「はかりがたさ」
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレオナルドの『モナ・リザ』
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレンブラント
・レンブラントの自画像 と『カスティリオーネの肖像』

第十六章  レオナルドの水鏡
・絵画の筆致
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』
・ティツィアーノの『田園の奏楽』
・印象派のマネの『草上の昼食』とモネの『印象 日の出』
・英国風景画の巨匠ターナー
・ルネッサンス期からの筆致の変遷
・内面告白の系譜としてのレンブラントとゴッホ
・「第十六章 レオナルドの水鏡」のまとめ

終章     カフェにて
・レオナルドの流転の軌跡と『モナ・リザ』

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。





第十四章  微笑む永遠


ルーヴル美術館の諸作品


フィレンツェからパリへの道は、『モナ・リザ』のたどった道でもある。万感の去来したであろう天才レオナルドの心中に西岡氏は思いを馳せている。

ところで、パリのルーヴルには、ボッティチェルリのフレスコ画がある。
「サモトラケのニケ」の踊り場を右折して、階段を登ったところの回廊の、入ってすぐ左側の壁に、それらは掛かっている。
〇ボッティチェルリ『ヴィーナスと三美神に贈物を授かる婦人』1484年頃、ルーヴル美術館
〇ボッティチェルリ『自由七学芸の集いに導かれる青年』1485年頃、ルーヴル美術館
これらは、フィレンツェ郊外のレンミ荘という館の壁面を移植した作品で、一対になっている。

この表面の質感を、グラン・ギャルリーの『モナ・リザ』やサロン・カレの『岩窟の聖母』の緻密な画面と比べてみれば、フレスコという技法が、いかにレオナルドの画風から隔たっているかがわかる。
ちなみに、右側の『自由七学芸の集いに導かれる青年』に車座で描かれた7人の女神は、当時の正統的学問の擬人像である。手前から、音楽、天文学、幾何学、文法、数学、論理学、修辞学を表わしている。レオナルドが超えようとした旧学問体系の象徴である。

このボッティチェルリの作品を眺めた後、回廊を直進すると、レオナルド礼拝堂ことサロン・カレの仕切り壁の裏手に出る。この部屋には、理想の母性を描く『岩窟の聖母』をはさみ、官能的な男性像を描く『聖ヨハネ』と、女性嫌悪も露骨な『貴婦人の肖像』が並ぶ。
ここに並ぶ諸作品には、レオナルドの人生の縮図を見出すことができると西岡氏はみている。つまり、若き日に男色のかどで告発され、生涯を通じて、身近に美少年を置いたレオナルドであった。
(西岡、1994年、186頁~187頁)

バルドヴィネッティ『聖母子』とレオナルドの『モナ・リザ』


さて、この部屋を右折すれば、『モナ・リザ』の掛かるグラン・ギャルリーである。その前に、この大回廊をもう50mほど進んだところの右側の壁に掛かる、バルドヴィネッティの聖母子像に西岡氏は注意を促している。
〇バルドヴィネッティ『聖母子』1460年頃、100×75㎝ ルーヴル美術館
作品は、100×75㎝で、『モナ・リザ』より、ふたまわりほど大きい。
制作は、少年レオナルドのヴェロッキオ入門の少し前の1460年前後とされる。そして、広大な風景をバックに聖母子を描く構図は驚くほど『モナ・リザ』に似ている。
例えば、最遠景に重層する山脈を配し、手前に丘陵を描き、中景を蛇行する河に橋が架かる。左に大きな山塊、右に水面越しに山脈を遠望する背景に、人物が椅子に座っている点まで同じである。
手前のイエスが座るバルコニーを、合掌する聖母の後ろに置けば、構図は『モナ・リザ』と完全に一致する。
そして、レオナルドの、バルドヴィネッティとの類似は、『受胎告知』の樹木にもある。

探究癖が画歴を阻害している点でもバルドヴィネッティは、レオナルドに先駆している。バルドヴィネッティは、40年余りにわたって日記を綴り、テンペラ絵の具と油彩の混合技法の研究に没頭し、しばしば画面を損なった。
このバルドヴィネッティは、その画風と“未完”の性癖を継承しているのかもしれないと西岡氏は推測している。

バルドヴィネッティの『聖母子』やレオナルドの『モナ・リザ』の背景に共通する、高い位置から風景を遠望する構図は、「高台(たかだい)構図」と呼ばれる。この構図は、フランドル絵画の巨匠で、油彩技法の完成者でもあるヤン・ファン・アイクの創案とされる。重層した山脈を空気遠近法の濃淡で描き分け、遠大な距離を表わすのに適している。

なにより、画中の人物に高山の頂きからの眺めのような背景を与えることでかもしだされる、超越的なたたずまいが、その特色であるとされる。
バルドヴィネッティの聖母子にしても、この「北」を代表する巨匠ヤン・ファン・アイクの創案になる構図法の背景を得て、やさしさのなかにも、俗人の母子にはない高貴さをたたえている。
ただし、その風景の描写そのものは、いかにも「南」風の箱庭的な性格が顕著で、地形も建物も、模型のように見える。

一方、同じ高台構図で描いた『モナ・リザ』は、「北」にも例がないほどの写実性で、深遠で幽玄な空間を描き出している。同じ構図であるだけに、両者の対比はあざやかであると西岡氏は評している。
その対比を確認した上で、グラン・ギャルリーをサロン・カレ方向に戻り、約40年を経て出現することになる、その深遠なる絵画空間を描き出した『モナ・リザ』を鑑賞してほしいという。
(西岡、1994年、187頁~190頁)

レオナルド作品の「はかりがたさ」と『モナ・リザ』


『モナ・リザ』の神秘の微笑を描くスフマートに到達するために、ヨーロッパ絵画は、テンペラから油彩への長きにわたる研鑽の道をたどった。また、この幽玄の風景を描くために、中世絵画の背景は黄金を捨て、「南」の理想に「北」の写実を導入して、画中に風景を懐胎したといわれる。
そして、この描かれた哲学としての至高の境地に到達するために、ルネッサンス芸術は、ブルネルスキが古代研究を経てドゥオモを設計案コンクールの雪辱戦で果たした、「技」から「学」への飛翔を遂げる必要があったそうだ。

『モナ・リザ』の画面は、レオナルドの『受胎告知』(1475年頃、フィレンツェのウフィッツィ美術館、単独作品としてはレオナルド最初の作品とされる)の採光をさらに徹底、遠景が明るく近景の暗い薄暮の空間に、黒い衣装をまとわせた人物をシルエット状に描き出している。
ほとんど輪郭線に頼らずに描かれた四分の三正面像は、静かな姿勢を「静止」させずに、「維持」し続けている。
本来、四分の三正面像は、フロンタルやプロフィルのように不自然に姿勢を固定せず、自然な印象の人物を描くためのものであった。この偶発的な姿勢を、レオナルドは、永遠に「維持」する状態に描き出している。永遠の微笑が、超人的な印象をたたえ、画面に、名状しがたい永遠のイメージが見えるのは、そのためであると西岡氏は説明している。

加えて『モナ・リザ』の背景の地形の描写も、画面に悠久の時間をかもしだしている。
写実的に描かれながらも、手前に平野部、奥に山岳を置き、河川を配した風景は、水の浸食作用による、地形の造成衰退の模式図を想起させる。
レオナルドの手記によれば、地形の状態を通して悠久の時間に思いを馳せることは、人間精神の最も豊かな営みであるという。この地形観を反映しているとみる解釈もある。つまり河の流れや地形に勢いのある左の背景を原初の地形、荒涼とした右の背景を衰弱した地形と見て、地形の生と死を表わしたものとみる。
(ウフィッツィの『東方三博士の礼拝』の背景も、そうであるが、歴史の推移を、左右の背景で象徴することは、中世来の伝統的な手法であった。)

また、レオナルドの手記には、人間が小宇宙であるように、大地は山岳を骨とし、河川を血管とし、潮の干満で呼吸する、とも書かれている。人間の生涯とは比較にならぬ悠久の時を経て、生成死滅を繰り返す、生命体としての地形を背景に、小宇宙としての人間を描くことで、画面は永遠の相を宿していると西岡氏は解釈している。この超越的な空間のなかで微笑する人物を描いたレオナルドの意図には、「はかりがたさ」がつきまとう。

この「はかりがたさ」は、レオナルド作品に一貫して見られる特徴であると西岡氏は主張している。
例えば、ヴェロッキオ『キリストの洗礼』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)に、すでにこの特徴は顕著であるとする。これは、レオナルド最初の師ヴェロッキオの助手を務めた20歳の頃の作品である。
師ヴェロッキオの天使も、愛くるしい動作や表情であるが、優美なるレオナルドの天使の隣では、作為的で類型的な「無垢」や「清純」を表わす媚態と映ると西岡氏は評している。つまり、表現の意図が露骨に過ぎて、「はかりがたさ」というものがないという。
対照的に、レオナルドの天使には、無垢と清純と共に、不思議な老成が同居し、男とも女ともつかぬ、まさに人間を超越した「はかりがたき」イメージが現出していると高く評価している。
(この天使を見て、師ヴェロッキオが自身の画才に絶望し、以後、二度と絵筆をとらなかったというヴァザーリの挿話は有名である。)

同じ「はかりがたさ」は、ルーヴル美術館のサロン・カレに掛かる『岩窟の聖母』(1486年)や『聖ヨハネ』(1515年)にも見えている。30代前半に描かれた『岩窟の聖母』では、幼子イエスに無類の品格が感じられる。このイエス像は無垢の幼児性と老成した気品とが見事に同居している。
一方、最晩年の作品『聖ヨハネ』では、身にまとう毛皮も手にした十字架も、闇の中に沈み込み、ただ頭上を指す指と、不思議な微笑のみが浮かび上がる。聖書の人物を描きながら、謎めいた微笑に、教義的な解釈を拒否するかのような、軽侮の表情を宿している。
(その「はかりがたさ」のかもしだす神々しき天使性ゆえに、同性愛者としての自画像との解釈も生じたようだが。)

『モナ・リザ』は、このレオナルドの「はかりがたさ」の極致を示す作品である。
ここには、特定の個人の、特定の感情は、いっさい描かれていない。誰とも知れぬ女性の、名状しがたい表情のみが描かれている。喜びと悲しみ、若さと老い、官能と禁欲と、相反するはずのものが不思議の微笑のなかに、渾然と渦を巻いている。
『モナ・リザ』をめぐる無数の論評が、必ずや身にまとうことになる神秘性は、この「はかりがたさ」の、言葉による表出であると西岡氏は理解している。

なかでも、謎めいた論評として、ウォルター・ペイター(19世紀英国の唯美主義運動の主導者)の一文が有名である。
〇ギリシアの獣欲主義、ローマの快楽主義、中世の神秘主義等々、世界のすべての思想と事件が、この作品の中には刻みこまれている。
〇異教徒の世界が再現され、ボルジア家の罪業を宿し、モナ・リザは、彼女を取りまく岩山よりも長い歳月を生き、吸血鬼のように幾度も墓に眠り、死後の世界を見てきたのである。
〇モナ・リザは、レダと同様にトロイアのヘレネーの母親であり、聖アンナと同様にマリアの母親でもあった。
(摩寿意善郎監修『巨匠の世界・レオナルド』タイムライフ刊より)

これは、厳密な意味では批評ではなく、作品に触発された夢想を綴る随筆であると西岡氏はコメントしている。こと『モナ・リザ』に関しては、こうした随筆まがいの論評でなくては、歯の立たない部分があると付言している。
そして、微笑を浮かべた四分の三正面像という、おそろしく中途半端な状態を、永遠の相のもとに「維持」し続けている点で、『モナ・リザ』は、見る者の焦燥を喚起するともいう。
(西岡、1994年、190頁~196頁)

『モナ・リザ』の微笑と「拈華微笑」


本来、微笑は特権的な表情である。
なにごとかを密かに知る者が、以心伝心の暗黙裡の伝達をはかる時、決まって浮かべるのが微笑であるという。この微笑の特権的な性格を象徴するのが、釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事であると西岡氏は考えている。
(一般に「拈華微笑」は、禅宗で以心伝心で法を体得する妙を示すときの言葉である。)
『モナ・リザ』の微笑の意味を考える上で、格好のヒントを含んでいるとみている。

さて、釈迦の「拈華微笑」の故事とは、次のような内容である。
ある時、釈迦が一輪の花を摘んで弟子たちと会衆に示した。人々が、その意味を理解できずにいる中で、釈迦の高弟である摩訶迦葉(まかかしょう)のみが微笑し、これに応えて、釈迦が摩訶迦葉を、自分の教えを継ぐ者としたという故事である。

釈迦が示したものは、一輪の花の中にひそむ、宇宙と生命の実相といわれる。ただし、これを言葉という手段を使わず、現物の花をもって示したところ、その意味を解したのが摩訶迦葉のみであった。摩訶迦葉は了解のしるしに、これも無言で、得心の笑みのみをもって応えた。これが師弟の間の、究極の以心伝心のコミュニケーションとして作用する。
こうして、釈迦の開いた仏法の教えが、すでに摩訶迦葉の中に言葉を超えた次元で体得されていた。
日本人には、感覚的にこの「拈華微笑」を了解できる心性というものはあるようだ。
相互にかわされる無言の微笑、以心伝心の視線の交歓は、第三者を激しく疎外するが、こうした疎外感を経験したことは、誰しもあるという。

西岡氏によれば、『モナ・リザ』の微笑の前に立つ私たちの味わう心境は、この疎外感であるとみている。それは、「拈華微笑」の故事における、摩訶迦葉の立場の対極にある。釈迦の真意を解せずに呆然とする、他の弟子たちの心境に近いという。
以心伝心の微笑を画中から送る『モナ・リザ』の真意は、見る側の私たちには秘匿されたままである。「わかる者にのみわかる」とでも言いたげな、以心伝心の微笑は、その裏に冷笑を宿し、挑発の相さえ帯びている。

しかし、いかに言葉を綴ろうとも、『モナ・リザ』の微笑の本質を語ることはできない。謎めくのみで、実際にはなにひとつ語っていないペイターの『モナ・リザ』論は、そのことを証明していると西岡氏は強調している。
もし、この絵の前で、唯一、可能な論評というものがあるならば、それは「拈華微笑」の沈黙の中にしかないとみている。
(西岡、1994年、196頁~198頁)

第十五章  ラファエロの涙


ラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』


ラファエロ晩年の傑作として、『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』がある。
〇ラファエロ『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1515年頃、カンヴァスに油彩、82×67cm、パリ、ルーヴル美術館
ルーヴル美術館のサロン・カレ、「レオナルド礼拝堂」の壁面の斜め向かい側に、この肖像画が掛かっている。
『モナ・リザ』とは似ても似つかぬ髭面の男性の肖像ながら、ラファエロのレオナルドへの憧れを結晶させて、これほど胸を打つ作品はないといわれる。
この『カスティリオーネの肖像』と『モナ・リザ』が、なにやら似て見えてくるあたりから、『モナ・リザ』鑑賞は真の意味での佳境に入ると西岡氏は説いている。

ラファエロは、レオナルドとミケランジェロを折衷して、ルネッサンスを完成させた画家である。その画風は、「考え過ぎ」のレオナルドと「力み過ぎ」のミケランジェロの過剰な部分を抑制して、最良の部分を調和させたものといえる。
調和がとれているだけに、二巨匠の作品と較べれば、「整い過ぎ」で、もの足りない部分もある。
しかし、19世紀までのアカデミズムは、このラファエロの画風を神格化し、両巨匠をしのぐ地位を与えていた。生前の栄達においても、ラファエロは二巨匠のはるかに上をいき、「王侯のごときラファエロ」と称されている。レオナルドとミケランジェロが共に屈折した女性観の持ち主であったのと違い、ラファエロは恋多き人生を謳歌した。ただ、享年37歳という早過ぎた死も、その「王侯のごとき」遊蕩が原因といわれる。

ところで、このラファエロが、21歳の大志を胸にフィレンツェにやって来たのが、1504年である。30歳のミケランジェロが『ダヴィデ』を完成し、50歳のレオナルドが『モナ・リザ』に着手した頃のことであった。
若きラファエロは、そのフィレンツェで『モナ・リザ』を見て衝撃を受け、以降、晩年に至るまで、その女性像の大半を『モナ・リザ』の影響下に描くことになる。
(イタリア国営放送制作のレオナルド伝のなかに、ラファエロが『モナ・リザ』を見る場面があるそうだ。ラファエロは、レオナルドの画室で『モナ・リザ』を憑かれたように眺め、言葉を失い、ただ涙している若者として描かれているとのことである。演出の真偽は別として、ラファエロのレオナルドに対する視線に、こうした憧憬が満ちていたであろうと西岡氏も想像している。)

ただ、ラファエロの初期の模倣作は、拙劣のきわみを示していた。
表情もポーズも硬直した画面は、単なる似顔絵に『モナ・リザ』の構図とポーズを引用したものであった。それは、レオナルドの「はかりがたき」画風にはほど遠いものであった。
(西岡、1994年、199頁~201頁)

『モナ・リザ』の「はかりがたさ」


人物画に「はかりがたさ」というものが表出するためには、そこに単なる似顔絵を超えた描写の普遍性が備わっていなくてはならなかった。
レオナルドはこのことを説明して、人物の似顔をそのまま描くことは、「個」のために「普遍」を捨てることだし『絵画論』に書いている。
この深遠とも見えるレオナルドの主張は、私たちが人物画を眺める際に自明の前提としていることであると西岡氏は解説している。
私たちは人物画を見る際に、モデルが誰であるかにほとんど頓着しない。また作品の価値を、モデルと似ているかどうかで判断する鑑賞者もほとんどいない。
例えば、美人画の価値は、誰か特定の美女に似ているかどうかではなく、「美人というもの」のイメージが描けているかどうかで判断される。つまり、描写の普遍性の有無で判断されている。大半の人物画が誰ともわからないモデルを描き、鑑賞者もこれに異議を唱えないことは、人物画に「個」というものの似顔絵ではなく、まさにレオナルドいうところの「普遍」というものを期待しているからである。
そして、『モナ・リザ』は「個」のために「普遍」を捨てることを諫めたレオナルドが、「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品であると西岡氏は理解している。しかも、単なる女「らしさ」や、貴婦人「というもの」のイメージの普遍性をはるかに超えて、人間という存在そのものの普遍的なイメージを「はかりがたき」微笑のうちに描いてみせた作品であるという。
(シュワルツのCG解析がレオナルドの自画像を見出し、ペイターの解説が聖母と同時に吸血鬼を見出したのが、この『モナ・リザ』の「はかりがたさ」の超絶したスケールゆえのことであったようだ)
この作品『モナ・リザ』が終生レオナルドの手もとに置かれることになったのも、それが特定個人の「肖像画」ではなく、画家自身の「人間像」の表明であったからと西岡氏はみている。
(西岡、1994年、201頁~203頁)

ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレオナルドの『モナ・リザ』


先述したように、ラファエロには『カスティリオーネの肖像』という傑作がある。
〇ラファエロ『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1515年頃 カンヴァスに油彩 82×67㎝ パリ ルーヴル美術館
この絵が『モナ・リザ』に似て見えてくれば、絵画を見る眼も超一流と西岡氏は説いている。

『モナ・リザ』の驚くべき特徴は、人間「というもの」、そのものの「はかりがたさ」を描きつつ、なお人物に特定の個人を描いたとしか思えぬ実在感を与えていることであるという。
この矛盾を含んだ両義性においてレオナルドを凌駕した画家はいない。

わずかにラファエロを含む少数の画家が、かろうじてその画境に追随し得たのみであった。
『カスティリオーネの肖像』は、この意味で、ラファエロの作品中、最も『モナ・リザ』の境地に接近し得た作品と西岡氏はみている。すなわち、『カスティリオーネの肖像』の陽気と不機嫌、笑顔と泣き顔の共存する微妙な表情は、『モナ・リザ』の微笑に通じるという。そして、老いと若さ、男性的な風貌と女性的な風貌の共存は、レオナルド的な「はかりがたさ」を現出しているとみる。

ラファエロは、甘美なる中庸の画風で一世を風靡したが、人間観の深さ、描写の普遍性において、遠くレオナルドに及ばなかった。ただ、『カスティリオーネの肖像』については、なぜ、かくも堂々たる人間像を描くことができたのであろうかという疑問がわく。この壮挙は、ラファエロの筆力の向上もさることながら、モデル自身の人格に負うところ大であったと西岡氏は解している。

カスティリオーネは、マキャヴェリの『君主論』と並び称される古典的書物『廷臣論』(1528年)で、宮廷人の理想を説いた文人である。傑出した外交官でもあった。
『廷臣論』では、真の宮廷人は、武芸と忠誠心に加えて、文学的教養や雄弁術、さらには絵画、音楽等、芸術の諸分野の識見を持つことが必要であると説いている。
カスティリオーネ自身、優雅なる言動や中庸の人格をもって、これを実践し、晩年は僧籍に入っている。
その目指したところの人間像は、「普遍人」と呼ばれるもので、芸術家レオナルドが体現していたものを、宮廷人として体現しようとしたようだ。

もともと、自分自身の人格や風貌を、芸術作品のように自分で創造しようという発想そのものが、ルネッサンス的な精神の、人間哲学への発露であったとされる。
この発想は当時の処世哲学から作法書にまで、一貫して見られるものであった。たとえば、『モナ・リザ』の少し後にフィレンツェで出版された作法書では、『モナ・リザ』のとっているポーズが、そのまま優美なる婦人のたたずまいの理想として紹介されているという。人間が自身の言動を、芸術作品や文学作品のように、創造行為の対象としたのが、この時期だった。

カスティリオーネの風貌は、『モナ・リザ』に通じていたはずであると西岡氏はみている。この宮廷人が模索した普遍人というあり方に望まれる外見として、晩年のレオナルドに見る、芸術家と哲学者の共存の風貌にまさるものはなかったはずだという。
『モナ・リザ』は晩年のレオナルド自身の風貌を宿している説もあるくらいである。

カスティリオーネの目指した普遍人の理想が、晩年のレオナルドの風貌の哲学的完成に通じている以上、彼の風貌はそのまま、「はかりがたき」人間像の普遍性を描いて無類の名画『モナ・リザ』の面影を宿すことにもなる。『モナ・リザ』に似てくるはずであると西岡氏は解説する。
いわば、画家の筆とモデルの風貌の「合作」によって出現したからこそ、『カスティリオーネの肖像』は、個人の肖像画でありながら、『モナ・リザ』にも通じる「はかりがたさ」をただよわせることになったという。

ラファエロが、フィレンツェで『モナ・リザ』を見たのが、21歳の時である。
『カスティリオーネの肖像』は、ラファエロが32歳の時で、死の5年前の作品である。
フィレンツェの衝撃以来10年、『モナ・リザ』の画境に肉薄することを夢見たラファエロが、カスティリオーネというレオナルド的な人格を夢見た哲学者をモデルに得てはじめて、
「はかりがたき」境地に迫ることができた。その作品こそが、『カスティリオーネの肖像』であった。

レオナルドには、妄執ともいうべき探究癖があり、ミケランジェロには、狂おしいまでの激情があった。ラファエロは、巨匠とはいえ処世と社交の術に長けており、普遍人というよりは「普通人」というにふさわしかった。
しかし、そうしたラファエロであるだけに、『カスティリオーネの肖像』で成し得た偉業は、レオナルドへの届かぬ思いを結晶させていて、胸を打つと西岡氏は述べている。
つまり、普遍人カスティリオーネの風貌との「合作」とはいえ、普通人ラファエロが『モナ・リザ』への憧憬を指標に歩んできた道の遠さを思い、届かぬものに届かぬがゆえにこそ憧れ続ける時に、人が成し得ることの大きさを思わせ、胸を打つという。
(西岡、1994年、203頁~206頁)

ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレンブラント


ラファエロの『カスティリオーネの肖像』という作品は、人物画において絵画史上でただ一人、レオナルドと比肩し得る境地をひらいたレンブラントに、決定的な影響を与えた点においても、特筆すべきものであった。

レンブラントが、この作品を見たのは、1世紀と少し後のことである。
アムステルダムで競売にかけられた『カスティリオーネの肖像』を、骨董品マニアだったレンブラントがスケッチしており、欄外には3500ギュルテンという価格までが記されている(レンブラント『「カスティリオーネの肖像」の素描』、アルベルティーナ素描版画館、ウィーン)。
(当時、アムステルダムで最も成功した画家であるレンブラントが、同じ年に購入した豪邸[現レンブラント美術館]の値段が1万3000ギュルテンであったというから、その約4分の1に相当するこの絵の価格の高騰ぶりがわかる)

レンブラントは1639年、強い感銘を受け、このスケッチそのままの構図で版画の自画像を制作した。
(レンブラント『自画像』1639年、銅版画、大英博物館)
翌年1640年には、これを左右反転した構図で油彩の自画像を描いている。
ただし、版画は印刷で左右が反転するので、この油彩の構図は銅版画の自画像の原版に描いた図柄に完全に一致していることになる。
(レンブラント『自画像』1640年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
そして、その30年後、レンブラントは、死の直前にも自画像を描いている。粗末な衣装と年輪を深く刻んだ表情が歳月を物語ってはいるものの、構図は『カスティリオーネの肖像』そのままで、手のポーズなどは、先の自画像よりもラファエロに近づいている。
このことからも、『カスティリオーネの肖像』がレンブラントに及ぼした影響の深さがわかる。
(レンブラント『自画像』1669年[最晩年]、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
(西岡、1994年、206頁~209頁)

レンブラントの自画像 と『カスティリオーネの肖像』


自画像は、レンブラントが確立したジャンルであると西岡氏は主張している。
その制作点数は、油彩、版画、素描で総100点に上る。これだけ多くの自画像を描いた画家は、彼以前には、いない。
レンブラントの肖像画に特有の、驚異的な存在感は、自身の観察で鍛えた筆力が支えている。実際に見るこの存在感は、圧倒的で、レンブラントの肖像画の前で思わずどきりとして立ち止まってしまうほどである。

レンブラントは、自画像を終生のテーマとしたが、前半期と後半期の2つに分けられるといわれる。
① 前半期の自画像は、さまざまな表情、ポーズ、扮装を工夫して、人間の感情や性格や階層を視覚化する術を模索した、習作的な側面が目立つ。
② 後半期の自画像は、対照的に、動作や扮装の演出を排し、「はかりがたき」表情のなかに、自身の人間性そのものを描出しようとしている。

習作的な自画像の表情が一変するのが、30代のなかばである。3人の子供と妻を相次いでなくし、画家としての成功の頂点から、不遇の晩年への岐路となったのが、この時期でもあった。『カスティリオーネの肖像』をもとにした自画像は、この時期の作品である。
レンブラントの後半生は、家族との死別、人気の衰退、多額の負債と、苦難の連続であった。この時期の自画像はほとんど同じ表情で描かれている。そして、その同じ表情が、徐々に内省的な深みを帯び始め、晩年には孤高の境地に達する。ルーヴルのリシュリュー翼2階の自画像は、レンブラントの50代なかばの作品である。

相次ぐ家族の死と破産を経た画家の視線には、静かな哀しみが孤独と共に宿っていると西岡氏は評している。そして、自身の容貌を美化することなく描いており、虚心坦懐な画家の視線には、不思議な安息感があるとみている。
そして、『カスティリオーネの肖像』そのままの構図で描かれたのが、死の年、1669年に描かれた63歳の自画像である。すでに、画家は、2人目の妻と最愛の息子にも先立たれている。画面は、安息と悲哀、諦観と希望の同居する、「はかりがたき」表情を見せている。ただし、この「はかりがたさ」は、『モナ・リザ』のそれとは一線を画するものであると、断っている。

西岡氏は次のように考えている。
『モナ・リザ』は、人物画というジャンルを確立した作品である。単なる似顔絵を超えた「個」の画像のなかに、人間としての「はかりがたさ」を描き出すことで、ルネッサンスの肖像画を、普遍的な人間像の表現に高めることに成功した作品である。
これを時代のバロックに受け継いで、究極の「個」ともいうべき「自己」の肖像のなかに「はかりがたさ」を描き出すことで、自画像というジャンルを確立したのが、レンブラントであった。
しかし、この「はかりがたさ」は、レンブラントが自身の姿に、普遍人という理想の人格を見出したために生じたものでは、決してなかった。人間としての弱さも迷いも持ち合わせた画家が、絶望と希望とが不思議な均衡を保つ心境をそのまま描いているがゆえの、「はかりがたき」表情だったという。

ルネッサンスのレオナルドやラファエロの描いた人物像が、人間としての「在り方」の理想を語って普遍性を発揮していた。それに対して、バロックのレンブラントの描いた人物像は、むしろ人間の「生き方」の現実を物語って、その普遍性を発揮しているとみる。
レンブラントの描く「はかりがたさ」は、人生そのものの持つ「はかりがたさ」であるようだ。
画家の人生を回顧し内面を告白するかのような自画像が、見る者もまた直面している人生の現実というものに照らして、深い共感を誘うことになったのは、このレンブラント以降のことである。

このレンブラントの崇高ともいうべき画境へと至る、晩年への歩みの折り返し地点となったのが、『カスティリオーネの肖像』を模して描かれた自画像であった。
「はかりがたさ」において、『モナ・リザ』に通じるひとりの普遍人の肖像にその範を見出して、究極の「個」としての「自己」のなかに「普遍」を描くレンブラントの自画像は誕生したと解説している。

そして、レオナルド、ラファエロそしてレンブラントの3人との関係について、次のように付言している。
ラファエロ晩年の肖像画は、まさに「拈華微笑」しつつ、師レオナルドが『モナ・リザ』において開いた画境を、次代の巨匠レンブラントへと継承している。
なお、薄塗りの極致としてのグレーズ(透明な絵の具を重ね塗りすること)を完成したのが、ルネッサンスのレオナルドであり、厚塗りの極致としてのインパスト(絵の具を盛り上げる描き方)を完成したのが、バロックのレンブラントである。

ところで、1913年、『モナ・リザ』盗難から1年後、作品の帰還をあきらめたルーヴル当局は、空いたままになっていた壁に、一点の絵を掛けることを決断する。それが『カスティリオーネの肖像』だった。それはいわば、ついにフランスがその迷える姫の帰還を断念したことを、世界中に向かって宣言するという、痛ましい決断であった。

この作品を見て、当時の美術評論家シゼランヌはこう書いた。
「サロン・カレのほぼ中央、やさしい微笑(どんな微笑よりも一番女性的であった微笑)のあった場所、堂々とした顎ひげをたくわえ、壮麗な黒い法冠を頭にしっかりとかぶり、大きな青い目であなたを静かに見つめる男を見れば、どうしようもなく心がふさいでしまう。ジョコンダがもう二度と見られないことはよく承知している。だが、彼女がかくも長きにわたって安んじていた場所は、とても神聖なものに思え、かの男に尊大な顔で居座られていることが、なぜか許せないように思えるのだ。」
(セイモア・V・ライト(金塚貞文訳)『モナ・リザが盗まれた日』中公文庫、1995年、153頁~154頁)

【ライト(金塚貞文訳)『モナ・リザが盗まれた日』中公文庫はこちらから】

モナ・リザが盗まれた日 (中公文庫)


このように『モナ・リザ』の空白はうめられ、ラファエロは、その師ダ・ヴィンチの座を奪い、フランスはその交替を冷静に受け入れた。『モナ・リザ』を惜しむ心情はわかるが、この評論家は、絵画の鑑識眼に関しては不名誉な言説を残したと西岡氏はみなしている。
というのは、ルーヴルの全収蔵品30万点(ママ)の中で、『モナ・リザ』なき後の壁を占めるのに、この「尊大」と称された男の肖像、すなわち『カスティリオーネの肖像』以上にふさわしい作品はなかったからであると、その理由を明記している。
西岡氏も、これほどまでに『カスティリオーネの肖像』も名画であるとみている。
(西岡、1994年、207頁~213頁)

第十六章  レオナルドの水鏡


絵画の筆致


レオナルドの登場以前、絵画は筆致を残さずに、ものを描くことができなかった。
レオナルドの神技と油彩という新技術を得てはじめて、絵画は筆致を残さずに、ものを描くことができるようになった。
レオナルド以前には、消去不能の「筆」の跡であった筆致は、レオナルドの登場以降、画家がそれを残すか残さぬかを選択し得る「手」の跡として、絵画の持ち味のひとつになった。
近代絵画の足どりは、この「手」の痕跡としての筆致がひらいたものであるといわれる。
モネの躍るような筆致も、ルノワールの柔和なタッチも、燃え立つようなゴッホの筆触も、強烈な個性を発揮する「手」の痕跡の、生命感で人々を魅了している。

さて、『モナ・リザ』は、その背景に、早くもこの近代の筆致を予見している。その画面は、謎の微笑に、筆の跡をいっさい残さぬスフマートの神技を見せつつ、遠方の山岳には、近代絵画を予告するかのような奔放なるインパストの筆致を見せている。
5世紀半に及ぶ油彩絵画の歴史上、最初の1世紀も経ぬうちに、『モナ・リザ』は描かれた。にもかかわらず、すでに画面は精妙なるスフマートから奔放なインパストに至る、油彩の筆致の両端を示している。
この筆致の振幅に注意を払いつつ、西岡氏は絵画の歴史を概観している。

レオナルドは『絵画論』に、画家は鏡を師にせよと、しきりに書いているそうだ。筆致を消したスフマートの驚くべき写実性は、磨き抜かれた鏡を思わせるが、西岡氏は「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉で説明している。この言葉は、『荘子』にあり、「人は流れる水ではなく、止まっている水を鏡にする」という孔子の言葉から出たものである。静謐で澄みきった心境を表わしている。

レオナルドのスフマートは、この明鏡止水の画境を目指す技法であったという。写実描写として人間の描き得る最高の境地をきわめ、完全に画家の「手」の痕跡を抹殺している。
(西岡、1994年、214頁~215頁)

ラファエロの『カスティリオーネの肖像』


そして、このスフマートの神技が、謎の微笑を描き出す『モナ・リザ』の、明鏡止水そのままの画面に、ラファエロが筆致のさざ波を立て、自身の「手」の痕跡を記してみせた作品が、『カスティリオーネの肖像』(1515年頃、ルーヴル美術館)である。その画面に躍る筆致の精彩が、次代の絵画を予想させる名品であると絶賛している。微妙な表情を筆触もあらわな小さな面の集積で表現する筆力は驚異的である。
とりわけ、カンヴァスの布目にかすれた筆致が、額のわずかな起伏を描写して、かすかに寄せた眉根に、名状しがたい憂愁をかもしだしているあたりが、見事であると評している。
両の瞳に一点ずつ置かれた白の輝点が濡れた輝きを放つ青い眼の生彩も素晴らしいとする。部分単独では『モナ・リザ』の描写をも凌いでいるとさえいう。
さらに大胆な筆致を見せるのが、黒に統一された衣服の部分である。両袖の毛皮の豪快な筆さばきは、『モナ・リザ』の画面には見られない。それは、マネ、モネの近代絵画も顔負けである。

『モナ・リザ』は、その背景には奔放の筆致を見せつつも、画面前面の人物には、まさに明鏡止水、人間の「手」の介在を思わせぬスフマートの神技を駆使している。
これに対して、『カスティリオーネの肖像』は、『モナ・リザ』遠景に胎動していたインパストを全面化し、その「はかりがたき」表情にまで、ラファエロの「手」の痕跡を記し、みずみずしい生彩を放っていると西岡氏は捉えている。
(西岡、1994年、215頁~217頁)

ティツィアーノの『田園の奏楽』


同じく筆致の近代の予見を示すのが、ルーヴル美術館のサロン・カレ奥、正面の壁に掛かる『田園の奏楽』(1511年頃、ルーヴル美術館)である。
作者はティツィアーノ・ヴェチェリオである。豪放なレンブラントの筆触や、軽快な印象派の筆致に先駆けて、画面に躍るインパストを絵画技法として確立した画家であるとされる。

なかでも、この『田園の奏楽』は、その最初期の筆触を見せて貴重である。つまり、この作品は、インパストの創始者とされる画家の貴重な初期作品である。
筆の跡を抑えたおだやかな画面の、右と左の端の細部に、大胆なインパストが胎動しているのが確認できる。
例えば、右側では、裸身の女性の背中のすぐ右、遠景の羊の背の陽の当たった部分に、こってりと白い絵の具を盛ったインパストが見える。
また、左側の女神が持った水差しの、陽光を反射したガラスの輝きには、大胆奔放なインパストがなされている。それは、モネやゴッホと見まがうばかりである。
(この筆触は、ティツィアーノ晩年に至って、色彩の乱舞と化している)

間近では、筆致の奔流としか見えぬ人物や風景が、離れて見ると的確無比の写実を見せる。その魔術的効果は全ヨーロッパの王侯貴族を魅了し、ティツィアーノのもとには膨大な量の注文が寄せられた。
ティツィアーノの友人である文人アレティーノは、ヴェネツィアの運河に沈む夕陽が水面に乱反射するさまを見て、「ああティツィアーノは、お前は何処にいるのか」と叫んだそうだ。まさにティツィアーノの筆致は水面にうつろう光の描写に始まる、3世紀半の後の印象派を先駆していた。
(西岡、1994年、218頁~220頁)

印象派のマネの『草上の昼食』とモネの『印象 日の出』


ところで、印象派のマネの『草上の昼食』(1863年、オルセー美術館)は、このティツィアーノの『田園の奏楽』を翻案したものである。マネの作品は、ルーヴル美術館のサロン・カレの窓から望むセーヌの対岸に、印象派の殿堂オルセー美術館にある。
(駅を改造した館内は、ガラス張りの天井からの光に、近代の筆致が照り映えて、「光の宮殿」を現出している。うつろう光を描く印象派の作品群に、これほどふさわしい展示空間はないようだ)

その1階左奥に掛かるのが、マネの『草上の昼食』である。オルセーの館内散策の序章をなすこの作品は、近代絵画をスキャンダラスに開幕した。
『田園の奏楽』の画中に見える二人の女性は、音楽の感興を象徴する詩神である。中央で音楽に興じる若者二人には、この女神は見えないことになっているそうだ。若者二人が、全裸の女性に無関心に見えるのは、そのためである。

一方、マネは、この趣向を当世風に翻案し、近代絵画最大のスキャンダルを巻き起こした。つまり、女神を世俗の女性に置き換えて、その裸身を強調するように、着衣の男性と並べて、パリ郊外の森を背景として描かれ、この画面は非難された。当時は、神話の女神か聖書の場面を借りなくては、ヌードを描けなかったからである。
また、マネの筆致も批判を浴びた。べったりと塗った絵の具の跡も生々しく、明暗のコントラストを激しく強調しているからである。旧画壇勢力からすれば、繊細なる筆致で神話や歴史や聖書の名場面を描くことが正統的であり、大胆不敵な筆致で描かれたこの当世風俗は、不遜そのものの挑戦状としか映らなかったようだ。
このマネの変革を追って、うつろう光に刹那の風景を描く印象派が登場する。ルーヴルの『田園の奏楽』から、オルセーの『草上の昼食』へと、セーヌに架かる橋を渡る時、この3世紀半の筆致の足どりを駆け抜けることなると、西岡氏は捉えている。

印象派を、その名も『印象 日の出』(1872年、マルモッタン美術館[パリ])という作品で創始したのは、モネであった。
モネは、水面にゆらぐ朝日と、朝霧に霞む風景を、即興的な筆致で描いた。しかし、「単なる印象に過ぎない」と評論家から酷評され、その言葉から、この絵画の新様式は命名された。
ともあれ、うつろう光、揺らぐ水面、そしてめぐる季節、街路を行き交う人々など、印象派の画家たちが描き続けたものは、変化する世界の様相であった。

それはルネッサンス絵画が描こうとした永遠なる時間や普遍なる人間像とは、あまりに対照的な世界であった。古代の造形に「完全」を求めたルネッサンスに対して、未来への進歩を尊んだ近代が、時代の証言として要請した芸術は、「普遍」ではなく、「変化」をこそ主題とした。

モネの別の作品に、『明るい陽光、青と金のハーモニー』(1894年、オルセー美術館)がある。数世紀を経た石造の大聖堂を、刻々と変容する色彩の伽藍として描き出している。このモネの画面は、印象派の果たした歴史的な意義を象徴していると西岡氏は理解している。
印象派では、絵画そのものが、色彩と陰影の表現において劇的な「変化」を待ち望んでいた。

ところで、「影は、光より大きな力を持つ」という言葉を、レオナルドは残している。この言葉の通り、ルネッサンスが完成した陰影表現は、レオナルドが理想とした「薄暮」の光線を経て、劇的な明暗を演出するレンブラントの「闇」へと行き当たる。
このバロックの夜の到来は、影の暗さとの対比でしか光の明るさを表現できない絵画の、ひとつの帰結であったといわれる。この暗鬱なる袋小路を打開したのが、印象派の登場である。
その印象派の画家たちは、1840年代に考案されたチューブ入り絵の具を手に、カンヴァスを屋外に持ち出した。そして、直射日光のもと、眼前にうつろいゆく光のドラマを描く手法を模索し始めた。これ以前の画家たちは、ビン入りの顔料を現地の油で溶くか、あらかじめ溶いた絵の具を豚の膀胱などに入れて持ち歩くしかなかった。
(西岡、1994年、220頁~224頁)

英国風景画の巨匠ターナー


屋外で油彩を制作することが今日より困難であったこの時代に、いち早く自然を前に制作することを重視し、屋外で油彩を用いた最初期の画家がターナーである。
印象派の光明は、この英国風景画の巨匠の筆致に差しているといわれる。

ターナーの代表作としては、次の作品がよく知られている。
〇ターナー『雨・蒸気・速度』1842年、ナショナル・ギャラリー[ロンドン]
〇ターナー『吹雪』1844年、テート・ギャラリー[ロンドン]
ターナーは、前者の『雨・蒸気・速度』においては、豪雨の中を疾駆する機関車を、そして後者の『吹雪』においては、嵐の海に翻弄される汽船を、躍動感のみなぎるタッチで描いた。
その画風は、「モップで描いた」と揶揄されるほどに革新的なものであった。絵の具のにじみやぼかしを多用した晩年の筆致に至っては、水墨画と見まごうばかりである。

人々を当惑させた近代の筆致は、細部において『モナ・リザ』の遠景と酷似しており、レオナルドの筆致の先駆性を物語っていると西岡氏は指摘している。とりわけ『吹雪』の濃密な大気感は、『モナ・リザ』の大気感を思わせるという。
そして、ターナーの『雨・蒸気・速度』は、「速度」という主題と筆致の躍動において印象派に先駆する作品であると位置づけている。フランスに印象派の画家たちが登場するのは、この英国のターナーに少し遅れてのことであった。先に紹介したマネの『草上の昼食』は、1863年に、そしてモネの『印象 日の出』は1872年に描かれている。

ところで、大づかみな描線、点描による混色という、印象派に特有の即興的な筆致は、短時間に風景の印象を画面に定着することを迫れられる屋外制作から、必然的に導き出された手法であると考えられている。この筆致を得て、近代絵画は、影より大きな力を持つ光を得ることができた。
また、ターナーにせよモネにせよ、近代の筆致を確立した画家たちは、決まって晩年、水の描写に魅せられている。変幻自在の水の表情に、うつろう光と色彩の交響詩を見出している。
(ルーヴルからオルセーへと渡る橋の中途では、セーヌの流れに目を落としてみることを西岡氏はすすめている)
(西岡、1994年、224頁~226頁)

ルネッサンス期からの筆致の変遷


流れに揺らぐ水面に照り映える両岸の、ルーヴルとオルセーの景観に、時代の波動に網膜を振動させて、画面に筆致の波紋を刻印した、画家たちの足どりを、西岡氏は次のように追憶している。
レオナルドの背景からラファエロの画面に波及した筆致のさざ波が、ヴェネツィアの運河の夕陽に、アレティーノを嘆息させたティツィアーノを経て、1世紀後のレンブラントの夜に至る足どりを思い、もう1世紀少しの後、レンブラントの背景の闇を払拭し、水面に反射するモネの日の出となって、印象派のめくるめく筆致を招来する。このように、西岡氏は、ルネッサンス期のレオナルドから近代の印象派までの、筆致の変遷をまとめている。

ところで、明鏡止水のスフマートの水面に、「手」の痕跡としての筆致の波が立った時、ルネッサンス絵画は生身の人間の心理と生理を反映した、震える画像にこそ宿る生彩というものを発見するそうだ。
この波がうねりとなって、水面下から人間の深い内面描写を呼び起こしたレンブラントの筆致には、17世紀バロックの時代精神が如実に反映している。
(西岡、1994年、226頁~227頁)

内面告白の系譜としてのレンブラントとゴッホ


ルネッサンスにおける肖像画の確立は、「個人」の自覚の産物であったが、同様に、内面を告白するかのようなレンブラントの自画像の登場は、バロックにおける「自我」の確立の産物であった。
「我思う、ゆえに我在り」という定理によって、近代哲学の機軸を自我に据えたデカルトは、レンブラントを最初に見出した激励した思想家ホイヘンスの友人であった。
「我描く、ゆえに我在り」を信条としたバロックの画家であるからこそ、レンブラントは、その「描く我」のみを、世界を闇に封じた背景のなかに描くことができたと西岡氏は捉えている。つまり、画家の「手」の痕跡としての筆致は、このレンブラントの豪放のインパストにおいて、まさしく「描く我」の刻印として、鮮烈なる自我の表現形式に到達することになったそうだ。

そして、この自我と個人の危機に、絵画の筆致が苦悶し始めたのが、後期印象派から世紀末の時代であった。管理化の進む社会が抑圧する人間性の不安に揺らぐ筆致の波紋は、ゴッホの画面に渦巻き、ムンクの画面を歪ませることになる。

ゴッホは、レンブラントの作品の前での2週間と引換えならば、10年の寿命を縮めてもかまわないと言った。ゴッホは、40点以上の鮮烈な自画像を残すことで、この同国の巨匠の跡を近代に継いでいる。
しかし、その自画像の背景は、深遠なる内面への視線を暗示するレンブラントの闇とは対照的である。それは、病的なまでの感受性を反映する強烈な色彩と、不安と焦燥に渦巻く筆致に満ちている。
例えば、ゴッホの『自画像』(1890年、オルセー美術館)は、筆致が渦巻く苦悩の自画像である。狂気にも似た画家の熱情と焦燥を物語って、画家にのたうつゴッホの筆致にまさるものはないといわれる。
ルネッサンス芸術を象徴する万能の天才レオナルドであったように、近代芸術を象徴する、苦悩する天才の典型がゴッホであった。
レオナルドは、みずからの万能の理解と庇護を求めて放浪を続け、異郷に死んだ。一方、ゴッホは、みずからの情熱の発露を求めて職業を転々とした結果、画家として非業の死を遂げた。
この二人の生涯は、天才が天才であるがゆえの苦悩を物語り、「芸術家の生涯」という神話的な物語の祖型を成している。

個人が台頭したルネッサンスが、芸術家に、神のごとき万能が、「個」に結晶した普遍人を求めた。それとは対照的に、管理社会が個人を圧殺する近代社会は、その反動として、芸術家に逸脱と狂気を求めたようだ。
歪む風景に時代そのものの不安を視覚化した作品として、ムンクの『叫び』(1893年、オスロ国立美術館[ノルウェー])が挙げられる。つまり、ムンクが波うつように歪んだ背景に、不安に揺らぐ人間を描いた。
(古代の『荘子』が鏡にはならないとした「流れる水面」を、さらに波立たせ歪ませることで、これらの画面は、「描く我」としての近代画家の精神の病弊(びょうへい)を映す鏡としたという)
時代的には、精神分析の父フロイトの誕生は、ゴッホ誕生の3年後のことである。また、神の死を説き、超人の誕生を夢見た哲学者ニーチェが、プラハの街頭で発狂したのは、ゴッホ自殺の前年のことである。
そして、みずからの胸に銃弾を撃ち込んだゴッホの死を看取った精神科医ガッシェは、『草上の昼食』で絵画の近代を開いたマネを長年にわたって治療し続けた医師でもあった。
(ゴッホの最期を看取ることになる医師の肖像をゴッホは残している。ゴッホ『ガッシェの肖像』(1890年、オルセー美術館)がそれである)
かつては、神と同義であったはずの天才が狂気と同義になったのは、この頃からのことだといわれる。
(西岡、1994年、227頁~230頁)

「第十六章 レオナルドの水鏡」のまとめ


このように、近代絵画までの流れを略述したあと、西岡氏は再び『モナ・リザ』について語っている。
すなわち、神技スフマートをもって、それ以前、いかなる画家も描き得なかった「はかりがたき」微笑を描出した『モナ・リザ』は、外見のみならず、精神までを描く人間像の、最初期にして最高の作品であると評している。
その内面描写は、次代のレンブラントから近代のゴッホへと至る、深い内面の告白の系譜を準備することにもなった。
同時に『モナ・リザ』は、背景の山岳に躍るインパストに、ラファエロ、ティツィアーノを経て印象派に開花する、筆致の近代を予見する作品でもあると位置づけられる。
西岡氏は、このことを要約して、次のように述べている。
「かりに私たちが、『モナ・リザ』の背景の、この世のものとも思えぬ、峻厳なる山岳に登ることがかなうならば、その絵画史上最高とされる画境の高みから遠望されるのは、まさにこの絵画の未来への足どりに違いない。
そして、また、この世の人とも思えぬ神秘の微笑に対面することがかなうならば、その絵画史上、最も「はかりがたき」表現を宿す瞳に映るのが、さらなる人間性の洞察へと向かう、絵の内面への旅の足どりであることに気づくに違いない。
内面に向かうにせよ、外を向くにせよ、絵画という美の宇宙への旅は、この『モナ・リザ』に始まり、『モナ・リザ』に終わることになるのである」と。
西岡氏は仮定を用いた形で表現することによって、「第十六章 レオナルドの水鏡」で述べてきたことを要約している。
『モナ・リザ』の背景の山岳に見えるインパストという筆致は、ラファエロ、ティツィアーノから印象派へ継承されることが予見されるとし、「はかりがたき」微笑といった内面描写は、バロックのレンブラントから後期印象派のゴッホにまで影響を及ぼしているとみられる。
内面的にも、外面的にも、絵画という美の旅において、この『モナ・リザ』は、始発駅であり、終着駅であるという。
(西岡、1994年、230頁~231頁)

終章 カフェにて


レオナルドの流転の軌跡と『モナ・リザ』


絵画は、画家の生きた時代と生涯の縮図である。
作品の中に堆積した時間は、魂を共振させ、震わせている。この共振が、美術館の散策を、濃厚な時間にしていると西岡氏は考えている。

サロン・カレから、「サモトラケのニケ」の踊り場へ戻り、ダリュ・ギャルリーを経て、ピラミッド下の入口交差点をホールに出ると、帰ってきた、という気がすると感想を述べている。
ルーヴルを訪れる人の過半の目当てが、『モナ・リザ』にある。その『モナ・リザ』を通して、ルネッサンスという時代の様相と、レオナルドという画家の生涯に、西岡氏は思いを馳せてきた。

レオナルドの流転との軌跡と『モナ・リザ』について、西岡氏は、次のように、要約している。
未完の『東方三博士の礼拝』をフィレンツェに残して、30歳でミラノに発ったレオナルドが、故郷に帰ったのが、50歳を間近に控えた頃である。
『最後の晩餐』の巨匠は、敬意をもって迎えられるが、サヴォナローラ処刑の2年後のフィレンツェは、レオナルドの知る、かつてのフィレンツェではなかった。
師ヴェロッキオは他界し、ボッティチェルリはサヴォナローラの火刑の痛手から画業を放棄し、時代の主役は、レオナルドとは親子ほども歳の離れたミケランジェロにとって代わられようとしていた。
ほどなくこの二人の巨匠は、フィレンツェ政庁の一室の向かい合わせの壁面に、フィレンツェ共和国史上記念すべき戦闘の場面を描くことを委嘱され、文字通り「世紀の対決」を演じることになる。
しかし、レオナルドの壁面『アンギアーリの戦い』は、彼のフレスコ嫌いがたたって流れ出し、ミケランジェロの壁画『カッシーナの戦い』は、彼のヴァティカン招聘で、中途で放棄される。結局、世紀の対決は、決着のつかぬままに終わる。
この時期、着手されたのが、『モナ・リザ』である。

いったんは、ミラノに身を寄せたレオナルドが、ロレンツォ・デ・メディチの息子の法王即位を機にローマ入りしたのが、60歳を過ぎた頃である。
仕事らしい仕事もない無為の日々であった。法王庁は、ラファエロに月額数千ドゥカーティの給金を支払ったが、レオナルドには、月額わずか33ドゥカーティに過ぎなかった。
(かつて執拗にレオナルドに肖像画をねだったイザベラ・デステも、若きラファエロを追い回すのに夢中で、ローマにありながら、レオナルドには連絡を取っていない)

そして、フランソワ1世の宮廷芸術家として、フランスへ招かれたが、65歳の時である。
ミケランジェロとラファエロは、多忙を理由に、このフランス王の誘いを断ったが、卒中で手の麻痺し始めたレオナルドはアンボワーズへと向かう。
未完の画業の帰結となった3点の絵画と、浪費された万能を刻印した膨大な手記を携えての、臨終の地への旅立ちであった。
(途上、美少年の弟子サライは行方をくらまし、レオナルドは自分を看取ることになるメルツィのみを連れて、アルプスを越える)

この最後の旅で、『聖アンナと聖母子』と『聖ヨハネ』とともに持参した『モナ・リザ』は、3年後のレオナルドの死により、フランソワ1世の秘宝となる。
この秘宝をセーヌ河畔の古城に移したところから、ルーヴルはその歩みを始めている。
(巨大なる美の殿堂は、あまりに巨大なるがゆえに未完に終わった才能の、最後の凝結を種子にして、その芽をふいたという)

ところで、レオナルドの手記には、「樹は、みずからが滅びることで、伐採者に対して復讐する」という一文があるそうだ。
この一文に対して、西岡氏は、次のようにコメントして、結びとしている。
れおの、あまりに豊かに繁った才能という樹から、時代が採取し得たものは、容赦ないまでに多いようでいて、じつは、取り返しがつかぬほどに少なかった。
この樹が、その滅びのまぎわに、最も豊かに実らせた果実が、『モナ・リザ』であったと西岡氏は理解している。
(西岡、1994年、232頁~235頁)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-08-29 18:19:38 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年8月29日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章までの内容を紹介してみたい。
 
「第十一章 フィレンツェに還る」では、『モナ・リザ』が描かれた芸術都市フィレンツェについて解説すると同時に、芸術庇護者メディチ家とレオナルドとの関係などについて説明している。
 たとえば、ルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎなかった。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。
レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。

「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説している。
 たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
 ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
 側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。

 ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。

この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。

「第十三章  風景の『受胎告知』」では、『モナ・リザ』の背景の風景にまつわる問題を『受胎告知』の絵を素材にして考えている。
『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。
ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。

レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。

フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できる。
全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】
第十一章 フィレンツェに還る
・フィレンツェという街
・フィレンツェの三人の巨匠の作品――ブルネルスキ、マザッチオ、ドナテルロ
【ブルネルスキのドゥオモ】/【マザッチオの『聖三位一体』】/【ドナテルロ『ダヴィデ』】
・レオナルドとメディチ家のフィレンツェ

第十二章 『モナ・リザ』誕生
・ウフィッツィ美術館
・ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』
・マザッチオの『聖三位一体』
・ボッティチェルリの 『メダルを持つ若者の肖像』
・ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』
・3種類の人物画
  正面像(フロンタル)/側面像(プロフィル)/斜方像(四分の三正面像)
・ヨーロッパの精神風土と肖像画
・ポライウォーロの『婦人の肖像』という名品
・ボッティチェルリとサヴォナローラ
・フィレンツェに帰ったレオナルドと『モナ・リザ』

第十三章 風景の『受胎告知』
・ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』
・マルティーニとレオナルドの『受胎告知』
・バルドヴィネッティとレオナルドの『受胎告知』
・ボッティチェルリの『受胎告知』
・レオナルドの『受胎告知』
・レオナルドの陰影表現
・レンブラントの『東方三博士の礼拝』

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。







第十一章 フィレンツェに還る


フィレンツェという街


フィレンツェは、街中が美術館であるといわれる。
ただ、パリやローマを見慣れた目には、この街の第一印象は、あまりにも無愛想であるそうだ。フィレンツェ中央駅前に降り立っても、壮麗な聖堂もなければ宮殿もない。

しかし、駅前のホテルの最上階などから、窓外に目をやると、フィレンツェ独特の赤煉瓦の屋根が、海のように広がっている。その中で、ひときわ高く、花の聖母大聖堂の巨大な円蓋(ドゥオモ)がそびえている。
ドゥオモの丸屋根は赤煉瓦色、建物は白と緑の大理石である。壮大な大聖堂が、精緻な工芸品のように美しい。
隣には、象牙細工のようなジオットの鐘楼が寄り添う。その右手の遠景に、褐色の石積みのヴェッキオ宮の時計台が見え、背景はトスカナの山々である。
フィレンツェは、街中が美術館であるというより、むしろ、街そのものが、ひとつの美術品なのである。
そして、フィレンツェは書物でいえば、おそろしく地味な装丁の画集であると喩えている。絢爛たる名品の数々を収め過ぎ、かえって表紙にする作品の選びようがないからだという。
(西岡、1994年、142頁~143頁)

フィレンツェの三人の巨匠の作品――ブルネルスキ、マザッチオ、ドナテルロ


駅前に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会があり、そこにはマザッチオの代表作『聖三位一体』(1427年頃)が展示されている。
ルネッサンスを開幕した絵を1点挙げるなら、迷わず選ばれるのが、この作品である。

ルネッサンスは、建築のブルネルスキ、彫刻のドナテルロ、絵画のマザッチオを始点として開幕している。
そのブルネルスキの代表作が、花の聖母大聖堂のドゥオモ(1436年)であり、ドナテルロの代表作が、『ダヴィデ』(1435年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)である。
(駅前5分の圏内で、この三巨匠の代表作のうち、ドゥオモと『聖三位一体』の2点は見たことになる。街中が美術館であるのも事実である)

ところで、西岡氏は、フィレンツェを『モナ・リザ』の故郷として散策するならば、そのルネッサンスという時代を開いた三人の巨匠の作品を眺める必要があるとして、それらを解説している。

【ブルネルスキのドゥオモ】


市街の中心に、ドゥオモがそびえる。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ、世界第三位の威容である。
このドゥオモ完成から1世紀半の後、ローマ法王がミケランジェロに、これを超える円蓋をサン・ピエトロ大聖堂に作ることを命じた時、ミケランジェロは「いかに法王様のご命令でも、あれより美しいものを造ることは不可能です」と答えたという。

さて、建築のルネッサンスを開いたブルネルスキの作品ドゥオモは、建築よりは、丘を思わせるといわれる。この花の聖母大聖堂は、駅からウフィッツィ美術館へ向かう道の途中にそびえている。街が小ぶりであるだけに、その威容が強調される大聖堂の向かい側に、小別館風に建つ八角形のサン・ジョヴァンニ洗礼堂がある。その扉を黄金色に飾るのが、ギベルティ作の通称『天国の門』(1452年)である。
これは、旧約聖書の名場面を描く浮き彫り彫刻10面で構成されている。ミケランジェロが『天国の門』と絶賛したことから、この名がついた。

1401年に、この浮き彫りの作者を決めるコンクールが行なわれたが、ギベルティと共に最終選考に残ったのが、後にドゥオモの設計者となるブルネルスキであった。
甲乙つけがたい二人の作品に、主催者側は二人の合作という提案をしたが、ブルネルスキは辞退し、作品はギベルティに一任される。
彫刻のコンクールの勝ちを譲ったブルネルスキが、建築家としての雪辱を果たしたのが、この『天国の門』が正面に見上げる、ドゥオモの設計案コンクールであった。
120年前に建築の始まったこの大聖堂は、直径40m、高さ100mを超える天蓋が、実際の工事の段階に至って、建造不可能と判明し、新たに設計案を公募することになった。そのコンクールに、ブルネルスキは、足場の不要な二重構造の設計案で、応募する。これが採用されて、巨大なドゥオモは16年で完成される。

ブルネルスキによって、建築は職人の「技」から、芸術家の「学」へと大きく飛躍した。彫刻家ブルネルスキは、全芸術のルネッサンスを築き上げる、総合芸術家としての一歩を踏み出していた。つまり、職人から作家へという、ルネッサンス期の全芸術が果たすことになる飛躍の序曲となった。
天にそびえるドゥオモの威容は、「学」としての建築の成し得たことの巨大さを象徴しつつ、半世紀と少しの後、同じく「学」としての絵画を大成することになるレオナルドの、知的宇宙の巨大さをも予見していたと西岡氏は理解している。
このブルネルスキのドゥオモ設計案の約10年後、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃)が描かれ、その約10年後に、ドナテルロの『ダヴィデ』像(1435年頃)が作られる。
(西岡、1994年、143頁~148頁)

【マザッチオの『聖三位一体』】


マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)は、ルネッサンス最初期の透視図法の完成例として知られている。
透視図法は、遠近法と通称されるものである。つまり、画面深奥の一点に向かって集中する線に沿って、近くのものを大きく、遠方のものを小さく描いて、画面に三次元的な広がりを与える図法である。図法の原理は、ブルネルスキが遺跡測量の記録のために確立したものという。
(現代もなお、絵画の空間表現の基本は、このルネッサンス期のイタリアで開発された透視図法によっている)

中世の平板な絵画を見慣れた人々の眼には、この図法で描かれた画面は、立体視の衝撃をもたらしたはずである。
ヴァザーリは、「まるで壁そのものに穴があいているようだ」と記した。
(西岡、1994年、148頁)

【ドナテルロ『ダヴィデ』】


ドナテルロの『ダヴィデ』(1453年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)は、人体から直接に型取りしたとしか思えぬと人々を驚かせたそうだ。
ブルネルスキの遺跡調査に同行したドナテルロが、聖書の英雄をギリシア彫刻風の裸体で表現した作品である。官能的な写実性もさることながら、建築物の添え物だった中世彫刻から脱し、独立した作品として作られた点に、古代彫刻の思想を復興していると西岡氏は評している。

この作品は、ドゥオモ裏手からヴェッキオ宮に抜ける道の途中にあるバルジェロ美術館にある。これは、古代ギリシア彫刻で完成された「コントラポスト」と呼ばれるポーズである。つまり、片足に重心をかけ、片足を流し、全身でかすかにSの字形を描くポーズである。それにより、直立不動の彫刻では表現し得ない生気に満ちている。
このコントラポストこそは、ルネッサンス彫刻が動感と安定の均衡の理想形としたものである。4半世紀後に、少年レオナルドをモデルに作られたヴェロッキオの『ダヴィデ』(1475年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)も、見事なコントラポストを見せている。
(同じバルジェロ美術館の3階に飾られているので、若きレオナルドの風貌をしのぶ意味でも鑑賞を勧めている)

そして、コントラポストの完成形を示すのが、ヴェロッキオ作品のさらに4半世紀後に登場することになる、ミケランジェロの『ダヴィデ』(1504年、アカデミア美術館、フィレンツェ)である。
(西岡、1994年、148頁~150頁)

レオナルドとメディチ家のフィレンツェ


メディチ家は、15世紀初頭、フィレンツェ北郊ムジェロの農家から製薬業で、身を起こした一族である。金融業で莫大な富を築き、フィレンツェを支配する一大財閥となる。
医術・薬剤をいうイタリア語MEDICINA(英語のMEDICINE)から、メディチMEDICI
を名乗り、丸薬を表わす6つの球を家紋とした。丸薬をデザインしたといわれるメディチ家の家紋は、ヴェッキオ宮内の壁画装飾などに見られる。
メディチ家の最盛期には、法王庁から全ヨーロッパ、アジア、アフリカにまで及ぶ領域をその勢力下に収めた。

なかでも、フィレンツェ建国の父といわれるコジモ・デ・メディチと、その孫の、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチは、巨額を投じてフィレンツェの文化振興につとめ、ルネッサンス芸術に経済的基盤を提供することになった。
例えば、ボッティチェルリ『東方三博士の礼拝』(1479年、フィレンツェ美術館)には、メディチ家の人々が描かれている。
この絵は、誕生したキリストを東方の三博士が礼拝する場面であるが、聖母子の前にひざまずく老人がコジモであり、左端に立つのが豪華王ことロレンツォである。なお、右下部分には、ボッティチェルリの自画像が見える。

さて、今日、フィレンツェが芸術都市の代名詞となり、メディチが企業の文化振興の代名詞となっている。
ただ、このルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。
最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎない。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。

レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。この手記の言葉はそのことへの繰り言なのか、その真意は今となっては謎である。

レオナルドは50歳で帰郷したが、再びフィレンツェを去ることになる。その直接の原因は、市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の、フレスコ嫌いによる失敗をめぐる訴訟であったといわれる。
この点に関して、西岡氏は想像をめぐらしている。つまり、もしフィレンツェがこの技術的失敗について、もう少し寛大さを示したり、晩年のヴァティカンにおけるレオナルドの不遇に援助の手を差し伸べたりしていたならば、『モナ・リザ』がレオナルド自身によって国外に持ち去られることはなかったかもしれないという。
非の大半は、レオナルドの性癖にあったのであろうが、フィレンツェは晩年のレオナルドに安息の地を与え得なかった。そのことで、この地で描かれた『モナ・リザ』という世紀の名画を永遠に失ってしまったのは、メディチ家の芸術都市としては手痛い損失であった。

『モナ・リザ』に至る絵画史の回廊としては、世界最高の美術館であるウフィッツィに、当の『モナ・リザ』がないのはそのためであると西岡氏はみている。
(西岡、1994年、151頁~154頁)

第十二章 『モナ・リザ』誕生


ウフィッツィ美術館


ウフィッツィ美術館は、ルネッサンス絵画の至宝が並んでおり、文字通り、“歩く「列伝」”として絵画史を散策できるよう設定されている。

ウフィッツィ美術館は、シニョーリア広場からアルノ河岸に抜ける全長140m、幅18mの中庭を、古代風の柱廊でコの字型に囲んで建っている。中庭の奥、突き当たりのアーチ越しには、アルノ対岸の風景が見える。
(入場券売り場は、田舎の郵便局を思わせ、エレベーターは都心のマンションほどもなく、質素な建物らしい。その3階にルネッサンス絵画が展示されている)

このウフィッツィ美術館で、第一回廊のなかほどにある特別室「トリブーナ」だけは、先に見ておくことを西岡氏は勧めている。この「トリブーナ」は、赤い壁面の八角形の典雅な小空間である。18世紀の英国貴族子弟がこぞって出かけた大陸漫遊「大修学旅行(グランド・ツアー)」では、ヴァティカンと並ぶクライマックスとされたそうだ。

この「トリブーナ」には、その中央に大理石製の「メディチのヴィーナス」が飾られている。これは紀元前1世紀、古代ローマ時代の模刻である(原作は、紀元前4世紀の古代ギリシア彫刻の代表作である)。
17世紀末に発掘され、18世紀初頭に、ウフィッツィに入っている。胸と腰を隠すポーズは、「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれる。隠すしぐさで逆に裸身を強調する、古代来のヌードの演出法である。
(西岡、1994年、155頁~156頁)

ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』


「トリブーナ」の「メディチのヴィーナス」を鑑賞してから、回廊に戻り、一方通行の順路をたどり、ボッティチェルリの部屋に入ると、代表作『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)が、すぐ左側の壁に掛かっている。

画面は、古代の「恥じらいのヴィーナス」の大理石の肌を、ルネッサンスの人間色に染め上げて、2000年の時の彼方から復活させている。その強調されたコントラポストは、軽快な躍動感において古代のヴィーナスを凌駕する。甘美にして流麗な描線がボッティチェルリの特徴であるといわれる。画面は綴れ織りのように豪奢で、清楚なヌードが美しい。ルーヴルの「ミロのヴィーナス」と並ぶ、ヴィーナス・イメージの決定版である。ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネッサンスの代名詞的作品である。

海の泡から誕生したヴィーナスに、春の女神プリマヴェーラが、右の浜辺からマーガレット文様のマントを着せかけている。天界のめぐみ、美の化身の降誕によって、愛と豊饒に潤される大地の寓意像といわれる。
一方、画面左の中空から息を吹きかけているのが、春の西風の精ゼフュロスである。その腰に手を回すのは花の女神フローラである。黄金の髪をひるがえし、美神の誕生を告げる愛の風が吹き抜け、祝福のバラが舞っている。

制作された1485年頃といえば、若きミケランジェロの傑作『ダヴィデ』(1504年、大理石、高さ410㎝、アカデミア美術館、フィレンツェ)が、盛期ルネッサンスの官能性に先駆けること20年ほどである。初期ルネッサンスの清冽な乙女の裸身として、この『ヴィーナスの誕生』という作品の右に出るものはないと西岡氏は評している。
『モナ・リザ』の前に立つことが、パリにいることの証(あかし)であるように、このヴィーナスを眼前にすることは、フィレンツェにいることの、何よりの証であるといわれる。

近世の開幕であるルネッサンス期の以前の時代、すなわち中世には、『ヴィーナスの誕生』のように神話を題材にした絵画は、ほとんど見当たらない。
というのは、ヨーロッパに美術における古代と中世を区別するものは、キリスト教美術の成立にほかならないからである。ヨーロッパにおける中世美術とは、近世以前のキリスト教美術の総称である。これに先立つ、ギリシア・ローマの神話を描く美術が古代美術である。
ボッティチェルリのヴィーナスは、古代以来初めて描かれた「異教」の女神の等身大の画像として、まさに「復興」の時代精神を高らかに宣言している。
(西岡、1994年、156頁~159頁)

マザッチオの『聖三位一体』


中世とルネッサンスの違いについて、西岡氏は次のように説明している。
中世は、肉体ではなく精神を重んじ、人間ではなく神を讃えた時代である。中世では、肉体を欲望の器として否定し、人間の存在を神の従僕として卑下した。
そして女性のヌードや個人の肖像画という絵画ジャンルの存在する余地はない。裸像は、イヴなど、聖書に記された女性に限られ、肖像は、神や聖人の図像ないしは王侯貴族の肖像という、礼拝を目的にしたものに限られた。
これに対して、ルネッサンスは、肉体を精神の表出として重んじ、人間を神の芸術作品として讃えた時代である。裸身を讃美し、個人を記念する、古代美術の様式を復興することで、ヌードと肖像画という近世以降の絵画の主軸となるジャンルが確立された。

たとえば、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)はルネッサンスを開いた絵画として知られる。
画面には、この壁画を教会に寄付した夫妻の肖像が描き込まれている。聖母マリアや聖ヨハネより一段低く、ひざまずく姿で描かれたとはいえ、その大きさは、画中の神や聖人とほとんど同じである。こうした処置は、中世絵画では考えられなかったようだ。俗人である寄進者は、画中の神や聖人よりはるかに小さく描かれるのが普通だった。寄進者が同等の比重を占める画面は、絵画が神と教会に独占される時代の終幕と、人間が絵画の主題となる時代の開幕とを象徴していると西岡氏は考えている。
この寄進者の肖像が、一枚の絵として独立した時に、個人肖像画の歴史は開幕するという。
(西岡、1994年、159頁~160頁)

ボッティチェルリの 『メダルを持つ若者の肖像』


個人肖像画のもうひとつのルーツを示す作品が、ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)である。
この小品は、『ヴィーナスの誕生』と並ぶボッティチェルリの代表作『春』の右側の壁に掛かっている。作者ボッティチェルリの自画像ともいわれる若者が持つのは、フィレンツェ建国の父コジモ・デ・メディチのメダルで、実際に画面上に石膏を盛り上げて作られているそうだ。

メダルもまた、ルネッサンスが古代から復興したもののひとつである。メダルは神像や皇帝の肖像を刻んだ古代のコインを起源とするが、戦勝や遠征の記念品としての性格を確立したのが、古代ローマ時代である。
中世期に、いったん衰微したメダルが、君主、貴族、文人の間で再びブームを呼んだのが、ルネッサンス期であった。
メダルは、個人の容貌を業績と共に刻印する記念品である。個人というものが、神の威光の前に否定された中世にメダルが衰微したのに対して、ルネッサンス期には、個人意識というものが強く自覚され、メダルが再び愛好されるようになった。
(西岡、1994年、160頁~161頁)

ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』


肖像画は、いわば「描かれたメダル」として、この時期に急速に発達する。そのことを物語るのは、ピエロ・デラ・フランチェスカの一対の典雅な肖像画『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃、ウフィッツィ美術館)である。これは、ウフィッツィ美術館の第7室の窓際に飾られ、裏表から鑑賞できるように木製の台の上に立てられた作品である。

その画面は、表に向かい合わせの夫婦の肖像を、メダル風の横顔で描き、裏に夫婦それぞれの人徳を表わす擬人像や女神を従えた、古代風の凱旋式を描いているという。
夫婦一対の肖像画が、表裏からの鑑賞用に、豪華な紙芝居の枠を思わせる額縁に入って立っている。同時代、裏に凱旋式を描いたメダルが多いことから見て、この絵は「描かれたメダル」を意図している。

『ヴィーナスの誕生』は描かれた古代彫刻として、『ウルビーノ公夫妻の肖像』は描かれたメダルとして、古代の人間礼讃を復興し、近世美術の地平を開くものであったと西岡氏は理解している。
また、『メダルを持つ若者の肖像』において、誇らしげにメダルを示す若者は、そうした古代美学の復興者としての、ボッティチェルリの自画像であるようだ。そして、この作品は、イタリア肖像画史上、最も早い時期に描かれた斜め向きの顔としても、歴史的に大きな意義を持つと指摘している。
(西岡、1994年、161頁~162頁)

3種類の人物画


西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。

① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
 人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
 ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。  
 また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
 なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。

真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡、1994年、162頁~164頁)

ヨーロッパの精神風土と肖像画


元来、ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。
「南」の温暖で平穏な地中海気候は、屋外での議論や集会を容易にし、論争的な学問を形成し、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。
これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、ドイツ中世の神学や、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。

こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。

イタリアにおける、最初期の四分の三正面像である『メダルを持つ若者の肖像』は、ボッティチェルリが、こうした「北」のリアリズムを学んだことを物語っている。
画面は、上部の肖像画における「北」の視点と、下部のメダル(そこには横顔が描かれている)における「南」の視点が出会う、ヨーロッパの人物描写の視点の地図を成している。
(西岡、1994年、164頁~165頁)

ポライウォーロの『婦人の肖像』という名品


ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、「南」風のプロフィルを、「北」風のリアリズムで描いて、人物描写にいきいきとした新境地を開いた作品であると西岡氏はみなしている。

絵画には、印刷では再現不可能の魅力というものがあるが、このポライウォーロの肖像画ほど、その美しさを印刷物にできない作品も珍しいという。
例えば、背景のブルーの解放感、人物の頬にさした赤みの生命感、軽快な色彩と繊細な筆致が、優雅この上なく調和しているのが、この画面の魅力であると説く。人を魅惑する力を持った作品であるが、なにより注目すべきは、その横顔に浮かんだ微笑の生彩である。

ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』の横顔と比べると、数年後の作品であるにもかかわらず、このポライウォーロの肖像画には、人間としての生命感がみなぎっている。モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。このポライウォーロの「側面像」の生彩の前では、先の『ウルビーノ公夫妻の肖像』なども、むしろ「側面図」的な冷たさを感じさせてしまう。

宗教的ないし政治的な目的を持って描かれた中世的な「図像」が、生きた「絵画」へと生まれ変わった時代がルネッサンスであると西岡氏は理解している。画中の人物もまた、確かな存在感と生命感を持って再生した。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。つまり、ポライウォーロのこの肖像画は、生彩に富んだ微笑が『モナ・リザ』を予見する名品であるというのである。
(西岡、1994年、165頁~166頁)

ボッティチェルリとサヴォナローラ


1492年、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチが他界する。ボッティチェルリと共にルネッサンスの春を謳歌した、この豪華王の死後まもなく、フィレンツェの気風は激変する。
激烈な説教で知られる修道僧サヴォナローラが出現する。
「すべての黄金と虚飾もろとも、人間は地獄へ堕ちるのだ」と狂信的な説教をしたが、人々は戦慄して、華美な衣装とともに、絵画、写本の類まで焼き捨てた。
以降、5年余りにわたって、芸術の都フィレンツェは、芸術排撃の地に一変する。しかし、このサヴォナローラの禁欲は「フィレンツェの美徳」とはなり得なかった。この激情の季節は、サヴォナローラ自身の火刑によって幕を閉じる。
芸術の受難の時代は去ったものの、以降、二度とフィレンツェ絵画がボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』のような甘美な画面を生むことはなかった。激情の季節と共に、ルネッサンスの春も終わった。
(西岡、1994年、166頁~168頁)

フィレンツェに帰ったレオナルドと『モナ・リザ』


50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。
師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。
官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。

「青春はうるわし、されど短し、いざ楽しまん、明日は知れじ」とロレンツォ・デ・メディチは有名なカーニヴァル詩で記した。
ロレンツォ自身の死とフィレンツェの変貌をこの詩句は予見している。そして、ルネッサンスの舞台も移っていた。メディチの都フィレンツェから、法王庁のヴァティカン、そして国際貿易都市ヴェネツィアへと。

この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。
レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。
(西岡、1994年、168頁~169頁)

第十三章  風景の『受胎告知』


ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』


『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。
レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。

ところで、今日でこそ、風景画は、人物画や静物画と並ぶ絵画の代表的なジャンルとなっているが、ヨーロッパ絵画における、その成立は意外なほど遅い。
例えば、中国の山水画がすでに11世紀に全盛期を迎えている。一方、ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。
(西岡、1994年、170頁~171頁)

マルティーニとレオナルドの『受胎告知』


例えば、マルティーニの『受胎告知』(1333年、ウフィッツィ美術館)が、ウフィッツィ美術館の第三室に展示されている。
この作品では、金地で塗りつぶされた背景は風景も建築も描かれていない。加えて、場面が屋内であるのか屋外であるのかも判然としない。風景のない黄金の背景が中世キリスト教的な自然観を反映している。
この中世後期の『受胎告知』と、レオナルドの『受胎告知』(1475年、ウフィッツィ美術館)を比べてみれば、1世紀と少しの間の、絵画の背景の激変ぶりがわかる(このレオナルドの『受胎告知』は、単独作品としてはレオナルド最初の作品とされる)。
同じ祭壇画でありながら、レオナルドの画面には、マルティーニにはなかった草花にあふれた庭園と、遠方にひろがる自然の風景がある。

マルティーニの『受胎告知』は、礼拝堂のような壮麗な装飾パネルに、右に聖母、左に処女懐胎を告げる天使ガブリエルが描かれている。
画面が背景を描いていないのは、中世が自然というものに価値を見出していなかったからであるといわれる。
当時のキリスト教的な価値観が重んじたものは、不滅の霊性であり、超越的な精神である。うつろい変化する自然や、これに喜びを見出す感覚というものは、ものごとの本性を見誤らせる迷妄の種として、否定されていた。

こうした価値観の中にあっては、絵画は、神や聖人の姿を絵文字のように単純な形と線で「記述」すれば充分であったようだ。人間や自然の姿を主題にする写実的な「描写」は、むしろ迷妄の元凶たる感覚の快楽を供するものとして、避けられてさえいたと西岡氏は説明している。
この「描写」の拒否が中世の絵画に、「上手さ」を見出せない理由であるという。

このことは、レオナルドの作品と比較すれば、わかる。
自然という主題と、描写という手段を得て、画面は、「上手く」なっている。木立の間に見える遠方の風景は、遠くの山を薄く、手前の山を濃く描いている。この手法は、大気の厚みを風景の色彩の濃淡で表しており、「空気遠近法」と呼ばれる。幾何学的な遠近法である透視図法がイタリアで理論的に発明されたのに対して、「空気遠近法」は、フランドル等の北方絵画の写実主義が発展させたものであるらしい。

「北」において現実主義的、「南」において理想主義的という、南北ヨーロッパの気質の違いは、遠近法という空間描写にも反映している。
(ちなみに日本でいう自然主義は、この「北」の精神に近い)
風景や人間のあるがままの姿を描くのが、「北」のフランドル的なリアリズムであり、そこでは、表現は、無作為に見えるほど「自然」の実相に近いものとみなされている。
これに対して、風景や人間を「あるがまま」ではなく、「あるべき」姿に描くのが、「南」のイタリア的な理想主義であると西岡氏は説明している。

「南」のイタリア的絵画では、自然を分析し解体した上で、あるべき理想の姿に再構成することこそが、美の探究者としての画家の責務であり、描写は図鑑的ないしは模型的になる。
ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)や、ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)の背景が、地形や建物の描写において、箱庭のように模型的なのはそのためである。

対照的なのが、フランドル絵画の巨匠ヒューホ・ファン・デル・フース『ポルティナーリ祭壇画』(1440年頃)の背景である。この作品は、フィレンツェの商人ポルティナーリが注文して描かせた。その写実描写の見事さは、フィレンツェ画壇に衝撃を与えている。
祭壇画の左右の開閉式の両翼に描かれた風景は、くっきりとした近景の背景に、遠方の景観を青みがかった薄い色で描き、大気の存在感を描き出し、写実性において、同時代のイタリア絵画を凌駕している。

ちなみにレオナルド作品については、どうか。
レオナルド中期の傑作『最後の晩餐』は、「南」的な透視図法による、迫真の室内空間の表現例である。晩年の傑作『モナ・リザ』は、「北」的な空気遠近法による、北方絵画にも類例のない幽玄なる野外空間の表現例であると西岡氏はみている。
イタリア・ルネッサンスは、その伝統の「南」的な理想主義に、「北」のリアリズムを総合してはじめて、レオナルドにおける絵画的な完成に到達したという。
(西岡、1994年、171頁~176頁)

バルドヴィネッティとレオナルドの『受胎告知』


バルドヴィネッティの『受胎告知』(1450年頃、ウフィッツィ美術館第8室)の背景は、レオナルドのそれと酷似しているそうだ。
シルエットで描いた樹木は、絵画というよりは図鑑に近い。「南」ならではの理知的な描写は、レオナルド『受胎告知』の背後の樹木そのままである。

バルドヴィネッティは、レオナルドの親の世代の、フィレンツェ画壇の指導的な画家である。いち早く北方絵画のリアリズムを取り入れている。そして、長年にわたる絵の具の研究を、細かに記した日記を残して、レオナルドと似た性癖を見せているそうだ。
こうしたことから、両者の『受胎告知』が酷似している点は、暗示的であるという。先輩の画風を摂取し、レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。
(西岡、1994年、176頁)

ボッティチェルリの『受胎告知』


ボッティチェルリの『受胎告知』(1490年頃、ウフィッツィ美術館)は晩年の作品である。
サヴォナローラの感化で、古代神話の甘美な描写を捨てて、謹厳なキリスト教的な画題ばかりを描き始めた。
画風の衰微は驚くばかりで、風景にも人物にも、ほとんど生気がない。サヴォナローラによる「改宗」の影響もさることながら、この生気の乏しさには、ボッティチェルリが本来持っていた造形的な本質が露呈している。
聖母や天使も大きなポーズを取っていながら、硬直して見えるのは、金銀細工師出身のボッティチェルリの、輪郭線を明確に描き過ぎる癖のためであるようだ。

ところで、輪郭線は、自然界には存在しない。というのは、ものと背景の、色の違いや明暗差、目の焦点距離の違いで、視覚的に形成される線である。あくまで「見える」線であって、ものと背景の境目に実際に「在る」線ではない。
見る向きや、ものの位置が変われば、輪郭線は必ず変わる。したがって、明確に引かれた輪郭線は、視点を固定し、描かれたものを「止める」作用を発揮してしまうと西岡氏は説明している。
たとえば、古代エジプト絵画は、単純化された形体をシャープな輪郭線が囲んでいる。そして、中世のモザイクやステンド・グラスは、単純化された色面を、簡潔な太い輪郭線が囲んでいる。人物は輪郭線によって、アップリケのように画面に縫い付けられ、立体感にも動感にも欠けている。
ボッティチェルリ『受胎告知』の硬直も同様に、明確に過ぎる輪郭線が人物を平面化して切り抜き、画面上に「止めて」しまった結果だという。
(西岡、1994年、176頁~177頁)

レオナルドの『受胎告知』


輪郭線の実体は「稜線(りょうせん)」であるといわれる。「稜線」とは、ものの外縁部に見える、限りなく線に近い陰影をさす。
この稜線として描かれない限り、輪郭線は、ものの形を切り取って画面に貼りつけるばかりで、画中に空間というものを描き出すことはできない。
レオナルドは誰よりも早く、このことに気づいた画家であると西岡氏はみている。

最初の単独制作とされる『受胎告知』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)ですでにレオナルドは輪郭線を抑制し、限りなく線に近い陰影として描こうとしている。
聖母と天使の身振りは、ボッティチェルリの劇的なポーズに比べれば、きわめておとなしい。にもかかわらず、この聖母と天使には、「止まっている」という印象がない。
人物は、画中の空間に、自然な状態で「じっとしている」ように見える。静かな姿勢は、「静止」ではなく「維持」として描かれ、人物には生気が満ちている。この「維持」ということが、動きを「止める」輪郭線には、決して描き得ないそうだ。稜線というものだけが、描くことができるとする。

この稜線としての輪郭線の表現を支えたのが、レオナルドの好んだ油彩という新技術であった。その微妙な表現力があって、はじめて限りなく線に近い陰影としての稜線は描き得たという。

一方、ボッティチェルリはどうか。
ボッティチェルリの『受胎告知』は対照的である。その硬直した人物像は、テンペラで描かれた明確に過ぎる輪郭線に起因している。
同じボッティチェルリの作品でも、『ヴィーナスの誕生』にはこの硬直感がない。その理由は、人物の輪郭線の周辺で髪や衣がひるがえり、華麗なる草花文様が衣服と背景を覆い、画面全体に色と形のリズムを与えているからであるとされる。しかし、「改宗」後のボッティチェルリはまた異なる。ひるがえる長髪も豪華な衣装も捨てた画面には、生来の明確な輪郭線の、ものを「切り取る」効果を和らげる要素が何もない。
画面は、芝居の書き割りのような風景の前に、切り紙細工のように厚みのない人物を、瞬間写真のように硬直したポーズで並べている。
最盛期のボッティチェルリは、「線の詩人」と賞賛される。しかし、さしものボッティチェルリの流麗なる描線も、絢爛たる装飾のリズムの伴奏なくしては、その甘美なる旋律を奏でることはできなかったようだ。このように、ボッティチェルリの画風や人物像の変化およびその原因について、的確に捉えているのが西岡氏である。

さて、レオナルドは、絵画を描くための理想的な採光は、薄暮にあるとしている。夕刻の光線は、事物の陰影を柔和にするからである。同時に、山の端に夕陽の当たる光景に代表されるように、薄暮の風景には、明るい遠景と暗い近景が共存している。
『受胎告知』の画面でも、遠景は明るく、近景は暗い。そのおかげで人物は、ほとんど輪郭線の助けを借りずに、その姿を描き出している。不自然とも見えるこの採光が、輪郭線を抑制し人物に生気を与えるには、絶好の設定なのであるそうだ。

これが高じてか、晩年の『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)では、いっさい輪郭線が見えないかわりに、背景は闇と化している。画面は、1世紀半後のレンブラント晩年の自画像(1660年、ルーヴル美術館)の、背景の闇を思わせる。劇的な光の効果を期するあまり、影の描写に腐心することになる、バロック絵画の行く末を、レオナルドの画面が予見しているとみている。
(西岡、1994年、178頁~181頁)

レオナルドの陰影表現


陰影とは、事物に差す光の状態のことである。
ただし、絵画は、スライドなどと違い、実際に輝く光というものを表現することはできない。表現し得る最高の明るさは、絵の具の白の色である。この白を、輝きに見せるには、その周囲の暗さとの対比によって表現するしかない。

文字通り、「陰」と「影」からなる陰影によってしか、光というものを描くができないのが、絵画であるといわれる。陰影表現というものに頼る限り、絵画における光の強調は、そのまま周囲や背景の暗さの強調を意味する。
レオナルドの『絵画論』の一節に、「影は光より大きな力を持っている」とある。
ルネッサンスに完成した陰影表現が、光を強調しようとするあまり、次代のバロックに至って、背景を極端に暗くせざるを得なかった理由であると西岡氏は解説している。

ルネッサンスの春を告げたボッティチェルリの画面は、その輪郭線への依存ゆえに、陰影の描写に腐心することはなく、最盛期の、その画面には光輝が満ちていた。
ところが、レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。
『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。

ボッティチェルリに見るルネッサンスの夜明けが、レオナルドの薄暮に至る道程をたどるのが、ウフィッツィ美術館の第一回廊であるそうだ。
これに続く、レンブラントの闇へ至る足どりを見せてくれる「闇の回廊」は、前述の通り、現在封鎖中である。
とはいえ、ウフィッツィはその第一回廊のみで、古代からルネッサンスへの人間像の復権と、中世から近世への風景画の誕生を、明快に見させてくれるそうだ。
そして、フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できるという。
(全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという)
(西岡、1994年、181頁~183頁)

レンブラントの『東方三博士の礼拝』


ウフィッツィのレオナルド・コレクションの代表作が『東方三博士の礼拝』(1482年、ウフィッツィ美術館)である。
レオナルド“未完の旅路”の起点となった作品であると、西岡氏は捉えている。レオナルドを育て、レオナルドを滅ぼしたという、メディチ一族の都と、レオナルドとの疎遠に終わった関係は、この未完のまま故郷に放置された作品に象徴されているとみる。
この作品を中途で放棄して出かけたミラノから、レオナルドの流転は始まる。
(西岡氏は、フィレンツェ・ルネッサンスの散策は、この作品で締めくくっている)

『東方三博士の礼拝』の正面は、本番の画面に直接に下絵を描いている点で、当時としては異例である。当時の絵画は、別の画面で下絵を完成した後、本番に着手するのが普通だったからである。
(着手まもない画面で、逡巡も生々しい筆致には、レオナルドの苦悩が刻印されている)
中央に聖母子、周囲に救世主の誕生を祝福する人々を配し、明るい部分、暗い部分、その中間を、おおよそ三段階の陰影で描いている。
右手遠景の岩山などは、下書きの線でしかないが、画面左の中央付近の馬の頭部や、中央右寄りの棕櫚(しゅろ)とオリーヴの樹の葉に、卓抜した描写力を見せていると評している。
この二本の樹は、キリスト教会の平和と正義を象徴し、反対側の背景に描かれた廃墟は、ローマ世界の衰退を表わしているとされる。
ボッティチェルリの『東方三博士の礼拝』(1479年、ウフィッツィ美術館)の背景の左側にも廃墟が描かれ、右側には救世主と教会の不滅を象徴する孔雀が描かれている。
背景の左右の意味づけ、画面右下の自画像と思われる若者などに、先輩ボッティチェルリの同名作品との類似が見られる。
(こうした画面背景の左右での象徴性の違いは、中世来の伝統的なもので、『モナ・リザ』の背景を考えるにあたって、重要な意味を持っているという)

フィレンツェに放置された、このレオナルドの『東方三博士の礼拝』の呻吟の痕跡を眺めた後、その“未完の旅路”の帰結となった『モナ・リザ』の待つ都、パリへと再び還ることにしている。
メディチの芸術都市フィレンツェと、ヴァザーリの“歩く「列伝」”ウフィッツィの散策を経て、パリの『モナ・リザ』に再会すると、その魅惑の深奥をのぞかせてくれると西岡氏はいう。
(西岡、1994年、183頁~184頁)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-08-25 17:14:01 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年8月25日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


  今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第二部に相当する【第二の回廊 レオナルド流転の生涯】、第七章から第十章までの内容を紹介してみたい。
 「第七章 処女懐胎の子」では、晩年のレオナルドが、『モナ・リザ』にいかなる思いを託していたか。このことを知るために、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。
たとえば、画家と女性モデルの問題について、西岡文彦氏は興味深い論を展開している。レオナルドの女性観と女性モデルの関係について、絵画を通して、具体的に解説している。
レオナルドが“女嫌い”であったことはよく指摘されるが、『貴婦人の肖像』(1495年頃)は、女性に対するレオナルドの冷淡な視線を雄弁に物語る作品である。
ところが、レオナルドの描く聖母像となると違ってくる。『岩窟の聖母』(1486年)は、慈愛に満ちた聖母の表情であり、理想化された母性への極端な憧憬が見られる。そこには、レオナルド自身の出生の事情が反映していると西岡氏は推測している。

レオナルドの場合、「聖なる母」「処女懐胎」のイメージから生涯、訣別することができなかったと西岡氏は解している。レオナルドの描く聖母像は、少年の抱く理想の母のイメージの域を出ていない。一方、ラファエロの聖母が、愛人の肖像と噂されるのとは、あまりに対照的である。ちなみに、ラファエロの『小椅子の聖母』(1514年 ピッティ宮 フィレンツェ)において、聖母のモデルはラファエロの伝説的な愛人フォルナリーナといわれる。

 「第八章 少年愛のルネッサンス」においては、レオナルドとミケランジェロの比較論が興味深い。母性を理想化したレオナルドに対して、ミケランジェロが父なる神のイメージを追求したと主張する。ミケランジェロの作品は、その後のキリスト教文化圏における、父性の理想像を決定し、現代の映画に至るまで参照され続けているようだ。また、レオナルドの男性像は、この迫真のミケランジェロの描写の対極にあると評し、レオナルドの『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)の半裸の肉体は、むしろ女性的な恥じらいに満ちている。聖ヨハネ像に、ミケランジェロとレオナルドの男性像の対比が如実に表わしている。前者は、神の子の洗礼者としての父権的なイメージの、ミケランジェロ的な風貌の俳優による体現である。一方、後者は、古代ギリシアの神を思わせる官能的な両性具有性の、レオナルド的な男性像による絵画化であると西岡氏は考えている。これらの事例は、二巨匠の男性像の理想の対比を示している。
このように、作風は両極端を示しているが、ただ、女性との関係を忌避した点で、レオナルドとミケランジェロは共通している。
 
 「第九章 失われた『最後の晩餐』」において、『岩窟の聖母』の10年後に手がけた『最後の晩餐』(1497年)を、ヴァザーリの列伝などをもとに解説している。ここでも、ミケランジェロとレオナルドの絵画・壁画の技法の違いに焦点をあてて、説明している。
 ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井と壁画の大画面は、フレスコという伝統的な壁画の技法で描かれている。耐水性は、壁画には不可欠のもので、これがないと、室内の湿気や人間の肌との接触が色落ちや汚れの原因となり、耐用年数が短くなってしまうようだ。フレスコの画面は、耐水性を得るために、漆喰の乾燥前に描き上げなくてはならず、往々にして、その筆致は大雑把なものになる。このフレスコの制作工程や筆致は、レオナルドの絵画の理想からは、ほど遠いものであった。
だから、レオナルドはこの技法を嫌い、新技法を試みる。レオナルドは、『最後の晩餐』を描くにあたって、樹脂を混入した漆喰で壁面を下塗りし、鉛白(えんぱく)という白い顔料をひいた上に、テンペラ絵の具で描いている。しかし、この新技法は絵の具を壁面に定着させることができないという欠点があり、失敗してしまう。完成後10数年を経ずして、絵の具が砕片となって、壁面から剥落し始めた。

 「第十章 万能の悲劇」において、西岡氏が「レオナルド流転の生涯」を解説している中で、レオナルドは、一時期、ロマーニャ公チェーザレ・ボルジアの軍事顧問を務めたことがある点にも言及している。チェーザレは、聖職者から軍人政治家に転身し、蛮勇で聞こえた冷酷非情の暴君であり、マキャヴェリの名高い政治哲学『君主論』のモデルでもあった人物である。チェーザレの幕営で知り合ったマキャヴェリとレオナルドは、互いの知性に魅かれ、意気投合したようだ。フィレンツェ市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の依頼の背景には、市の要職にあったマキャヴェリの尽力があったとみられている。

レオナルドの『モナ・リザ』と、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井に、フレスコで描いた旧約聖書『天地創造』とを比較している。ミケランジェロの方は、「光の創始」から「ノアの洪水」に至る、その総面積は、約520㎡であるのに対して、油彩の『モナ・リザ』の面積は、わずか0.4㎡であり、1300分の1の大きさである。しかし、この小画面にレオナルドは、その巨大な思索を結集し、まさしく『天地創造』のスケールを上回る、遠大な宇宙観と深淵な人間観を濃縮し、自身の哲学の縮図であると西岡文彦氏はみている。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


【第二の回廊 レオナルド流転の生涯】
第七章 処女懐胎の子
・レオナルドの女性観と『貴婦人の肖像』
・レオナルドの『岩窟の聖母』に関連して
・レオナルドの『モナ・リザ』に関連して

第八章 少年愛のルネッサンス
・レオナルドの美貌
・レオナルドとミケランジェロ

第九章 失われた『最後の晩餐』
・フィレンツェからミラノへ
・ミラノの『最後の晩餐』
・フィレンツェ帰還後のレオナルド

第十章 万能の悲劇
・絵画という「学」
・レオナルドの『絵画論』
・レオナルドの万能
・『モナ・リザ』 に関する評言

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






第七章 処女懐胎の子


レオナルドの女性観と『貴婦人の肖像』


絵画史上最も著名な女性像の作者でありながら、レオナルドは、女嫌いであった。
これは、画中の女性像に明白であると西岡氏は主張している。
ルーヴル、サロン・カレで、『岩窟の聖母』の右側に掛かる『貴婦人の肖像』(1495年頃)は、その典型であるという。その画面は不機嫌としか言いようのない表情を描いている。つまり、それは女性に対するレオナルドの冷淡な視線を雄弁に物語る作品である。

ところで、元来、画中の女性というものは、画家との間にあらぬ噂を立てられがちであるといわれる。
例えば、ラファエロの聖母がそうである。
〇ラファエロ『小椅子の聖母』(1514年 ピッティ宮 フィレンツェ)
聖母のモデルはラファエロの伝説的な愛人フォルナリーナといわれる。のちに、アングルは、このラファエロの恋物語を作品として残している。
〇アングル『ラファエロとフォルナリーナ』(1814年 ハーバード大学美術館)

そして、ゴヤの着衣と裸体の『マハ』もそうであった。モデルは画家の愛人と噂される。
〇ゴヤ『着衣のマハ』(1805年頃 プラド美術館 マドリッド)
〇ゴヤ『裸体のマハ』(1805年頃 プラド美術館 マドリッド)

なぜ、このような噂が生まれるのか。この点について、西岡氏は次のように答えている。
モデルの最良の部分を写し取るために画家が注ぐ、熱く執拗な視線に反応してか、モデルも熱い視線で画家を見返すことになり、この視線がそのまま画面に定着されるからであるという。これは、そのまま現代のカメラマンとモデルの関係にも当てはまるとする。
そして、一時的な、疑似-恋愛関係に入らないことには、「いい絵」は生まれないらしい。

ところが、レオナルドの描く女性像には、『モナ・リザ』をのぞけば、画面にその種の画家とモデルの共感がいっさい感じられず、視線は決まって冷淡そのものである。
なかでも、『貴婦人の肖像』は、モデルに対する視線の冷淡さが顕著である。この視線に反応してか、画中の女性も敵意に近い眼差しを見せている。
(肖像画というより、手配写真のような顔に仕上がっている)
モデルは、『最後の晩餐』の発注者ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛人、ルクレツィア・クリヴェリといわれる。

この作品に先立ち、レオナルドはルドヴィコの別の愛人、チェチェリア・ガッレラーニを描いている。このチェチェリアの肖像が『白テンを抱く婦人像』(1490年 ツァルトリスキー美術館 クラクフ[ポーランド])である。
同じく冷淡な筆致ながら、こちらには、ルクレツィアのような敵意めいた表情はない。スフォルツァ家を意味する白テンを抱く手にも、それなりに情愛がこもっている。
チェチェリア自身も、この絵が気に入っていたらしく、イザベラ・デステへの手紙では、作品に比べて自分の容色があまりに衰えていることを嘆いているそうだ。
絵を見て感嘆したイザベラ・デステが、レオナルドに肖像画を依頼し続けた。

ところで、最初に描いたチェチェリアに義理立てしたわけでもなかろうが、レオナルドがルドヴィコのために描いた2点目の愛人の肖像は、うってかわって不機嫌な顔に描かれている。しかし、皮肉なことに、絵の出来は、情愛よりは敵意のただよう『貴婦人の肖像』の方が格段に上であると西岡氏は評している。
ともあれ、レオナルドはよほど女性が嫌いであるらしい。
(西岡、1994年、98頁~101頁)

レオナルドの『岩窟の聖母』に関連して


次に、サロン・カレで、不機嫌な表情の『貴婦人の肖像』から、隣の『岩窟の聖母』(1486年)に目を移してみよう。
こちらは、慈愛に満ちた聖母の表情である。だから、そのギャップに驚かされる。
この理想化された母性への極端な憧憬と、現実の若い女性への拒否的な感情には、精力的だった父親と、レオナルド自身の出生の事情が反映していると西岡氏は推測している。

ここで、西岡氏は、レオナルドの生い立ちについて解説している。
レオナルドは、1452年、フィレンツェ近郊ヴィンチ村に、公証人セル・ピエロ(26歳)の私生児として生まれている。
生みの母カテリーナは、この時、25歳である。父はまもなく、フィレンツェの良家の娘アルビエーラ・アマドーリ(16歳)と結婚し、レオナルドは4歳まで、生母と共に暮らす。父とアルビエーラとの間に子供ができなかったため、レオナルドは5歳の時に、父の家に引き取られる。
この年齢での生母との離別は、心理的には痛手であったに違いないと西岡氏はみている。
レオナルドの聖母像には、わが子との死別を予見した、哀しいあきらめのにじむ微笑が見られ、レオナルド特有のものである。その聖母像の微笑は、レオナルドのこの生い立ちと無縁ではないとする。

アルビエーラが難産で死亡したのが、1464年であった。レオナルドが13歳の時のことである。自分の子供に恵まれなかったこともあり、この若い継母はレオナルドを可愛がったといわれる。彼女の死はレオナルドにとっては、2度目の「母」の喪失だったようだ。
精神分析の父フロイトは、この「2人の母」の面影を、『聖アンナと聖母子』に描かれた、聖母とその母である聖アンナの慈愛に満ちた姿に見出そうとした。『聖アンナと聖母子』は、レオナルドが終生手離さなかった3点の作品のひとつでもある。

さて、継母アルビエーラの死の翌年、父が後妻に迎えた名門ランフレディーニ家の娘は、レオナルドとはわずか3歳違いであった。
辛辣な事業家だったレオナルドの父は、大変な精力家であった。78歳で死亡するまでに4度結婚し、3番目と4番目の妻との間に11人の子供をもうけた。
(最後の子供は、彼の死後に誕生している。当初、姉ほどの年齢であったレオナルドの「母」たちは、父の再婚と共に、徐々に妹や娘にあたる年齢へと若返った。レオナルドの24歳下の弟から始まって52歳下の末弟に至る、11人の子供を産んだことになる。この12人兄弟姉妹のうち、長男レオナルドのみが私生児であった)

当時、大家族が珍しくなく、私生児もさして特異な存在ではなかったが、こうした経緯には、レオナルドなりに複雑な心境があったに違いないと西岡氏は想像している。
そして、レオナルドの手記にある「肉欲を抑制しない者は獣の仲間になれ」という言葉と結びつけて解釈している。

また宮廷での座興に創案したクイズには、「最も美しきものの、最も醜悪なる部分を求めて狂奔した後に、わざわいと後悔のうちに正気にかえり、われながらあきれる」ものが、肉欲であるとしている(「最も美しきもの」は女性を指すという)。
このレオナルドの性に対する嫌悪感には、少なからず父親の影が差していると西岡氏はみている。そして、聖母以外の地上の若い女性に対して、レオナルドが示した一貫した冷淡さには、父に嫁いできた若き「母」たちへの複雑な思いが、投影しているとする。

レオナルドは、ルドヴィコ宮廷の通俗性と性的な頽廃を、軽蔑と冷淡をもって日記に書き残した。そのルドヴィコのために描いた2点目の愛人の肖像に、冷淡な筆致を示したのは無理からぬことと西岡氏は説明している。
(西岡氏は、巨匠デヴィッド・リーンによる『ライアンの娘』(1970年)という白眉の作品を例に挙げつつ、若い女性の恋愛問題について言及している)
(西岡、1994年、102頁~105頁)

レオナルドの『モナ・リザ』に関連して


すべての子供は潜在的に、母親が自分を妊娠した事実を「処女懐胎」とみなしているといわれる。レオナルドの場合、この「聖なる母」のイメージから生涯、訣別することができなかったと西岡氏は解している。
だから、レオナルドの描く聖母像は、少年の抱く理想の母のイメージの域を出ていないという。そしてラファエロの聖母が、愛人の肖像と噂されるのとは、あまりに対照的である。

ところで、レオナルドの手記には、個人的な記述の少ないことを知られているが、例外的に、ミラノ宮廷滞在時代の1493年7月16日、「カテリーナ来る」との一行が書き込まれている。
これが、生母カテリーナの来訪を意味するものか否かは不明である。しかし、後日の手記に、このカテリーナの葬儀の費用がこと細かに書かれている。そのことから、彼女が死の日までレオナルドの身近にいたことがわかる。レオナルドの生涯中、身近に女性の姿が見えるのは、この時だけである。

生涯にわたって、女性と無縁であったレオナルドが、生母の面影を宿した聖母以外に、共感をもって描いた、ただひとりの「地上の女」が『モナ・リザ』であるという。

ただ、レオナルドが、なにゆえに、この『モナ・リザ』のみに心を開いたのか。
この疑問については、明快な解答は示されていない。
西岡氏は、この疑問に2つの解答が考えられるとする。
① 母にまつわる解答
② 父にまつわる解答

① 母にまつわる解答の説明
『モナ・リザ』が、聖母とは別の意味で、やはり生母の面影を宿している可能性はあるとみる。理由は、推定されるモナ・リザの年齢と境遇である。
ヴァザーリ説をとれば、モデルのリザは、当時、20代の後年ということになる。この年齢は、幼少のレオナルドが共に暮らした時期の生母の年齢と一致している。
加えて、モナ・リザは、この数年前に幼い娘を亡くしている。生別、死別の違いはあるものの、わが子との離別の哀しみに沈んでいる点と、その年齢において、モナ・リザはレオナルドの生母に重なる部分が、きわめて大きいといえる。
その哀愁を帯びた微笑に、レオナルドは、生母カテリーナの面影を託したのかもしれないという。となれば、この女性像に、レオナルドに特有の冷淡な視線がないのは当然である。これが、『モナ・リザ』とレオナルドの共感の謎を解く、解答の第一である。

② 父にまつわる解答の説明
第二の解答は、『モナ・リザ』の着手時期と、父親の死の時期の一致にある。
父の死は、1504年7月9日である。
「わが父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ死す。奉行庁づき公証人。八十歳なり。十男二女を残す」と、手記にあっさりと記す。
信じがたいことだが、万能のレオナルドは、この父親の世俗的な能力に根深いコンプレックスを抱いていたという。
(事業家として活躍する世知にたけた父の世俗の権力と精力は、学究肌の芸術家としてのレオナルドを圧倒していたようだ)
この父の死が、レオナルドを支配していた抑圧の解消となったのではないかと西岡氏はみている。
興味深いことに、確認されるレオナルド唯一のヌード『レダ』は、父の死の数年後に描かれている。模写のみが残るこの絵は、レオナルドの作品とも思えぬ官能的な裸婦が、白鳥に化身したゼウスと交わって産んだ卵から、二組の双子が生まれる場面を描いている(レオナルド『レダのための習作』1515年頃、デヴォンシャー・コレクション・チャッツワース[イギリス])。

この作品に、わずかに先行して着手されたのが、『モナ・リザ』である。
その画面が、レオナルドの女性観の変貌を反映し、それまではレオナルドの作品には見られなかった女性との共感を示していても、時期的には不思議はないとする。
これが、西岡氏の解答の第二である。

いずれを取るか、あるいは双方を斥けるか、その判断は読者にゆだねている。

また、『モナ・リザ』と『聖アンナと聖母子』と共に、レオナルドが終生手離さなかった作品に、サロン・カレで『岩窟の聖母』の左側に掛かる『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)がある。

『モナ・リザ』にも似た不可思議な微笑を浮かべつつも、画中の半裸の男性像は、官能性において、女性の『モナ・リザ』をはるかに上回っているという。
(この作品を、同性愛者としてのレオナルドの告白的自画像と見る解釈があるのは、そのためである。事実、20代の初めに男色のかどで告発された)
(西岡、1994年、106頁~110頁)

第八章 少年愛のルネッサンス


レオナルドの美貌


「フィレンツェの悪徳」という言葉があるそうだ。
ルネッサンス期のフィレンツェ市における同性愛の蔓延にちなんで、フランス人が命名した。人口7万人のフィレンツェで、1432年から1502年までの70年間に、男色の罪で告発された者の数は1万人を超えたという。

レオナルド自身も、1476年の4月と6月の2度にわたって告発を受けている。17歳の金銀細工師ヤコポ・サルタレッリの男色の相手をしたとされる4人の人物に、24歳のレオナルドの名が挙げられた。その後、容疑者4人は証拠不充分で釈放された。
もともとレオナルドの入門したヴェロッキオ工房そのものが、独身の同性愛者の小共同体であったといわれる。同門の先輩ボッティチェルリも、2度にわたって、男色の罪で告発されている。

ところで、レオナルドの美貌は、生前すでに伝説化していた。ヴァザーリは「列伝」の中で、次のように書いている。
「彼は、この上なく美しい容貌と精神の輝きによって、どのような陰気な人の心をも晴れやかにした。また、その言葉によって、どのような頑迷な人の心をも和らげた」

他にもレオナルドの美貌を伝える文献は残っており、少年期のレオナルドをモデルにしたといわれる作品も2点残されている。
〇ヴェロッキオ『ダヴィデ』(1475年、バルジェロ美術館、フィレンツェ)
〇ボッティチーニ『トビアスと三人の天使』(1470年頃、ウフィッツィ美術館、フィレンツェ)~ヴェロッキオの影響を受けた画家ボッティチーニの描いた天使像

いずれ劣らぬ美少年ぶりである。後者のボッティチーニの描く天使の繊細な顔の輪郭、くっきりとした目鼻だちは、むしろ美少女というにふさわしい。
少年期の美貌の常として、レオナルドの風貌にも、両性具有的な天使性が強かったようだ(レオナルドの同性愛者としての風聞を裏付けている)。
哀愁を含んだ美貌である点は、2作品とも共通していると西岡氏は評している。
(西岡、1994年、111頁~113頁)

レオナルドとミケランジェロ


レオナルドをモデルにしたというヴェロッキオの『ダヴィデ』(1475年頃)の4半世紀のち、ミケランジェロの『ダヴィデ』(1504年、大理石、高さ410㎝、アカデミア美術館、フィレンツェ)が登場する。
レオナルドが『モナ・リザ』に着手したのが、この頃であった。
この2作品は、期せずして、同時期に制作されたことになる。それらは、絵画と彫刻の描写技術の極限を示している。
この2作品以前に、ここまで精緻な写実描写をきわめた絵画も彫刻も存在せず、また、今後の美術史がこの2作品を凌駕する表現を生み出す見込みもないと西岡氏はみている。
(この『ダヴィデ』にも、少なからず、「フィレンツェの悪徳」の香りは、ただよっているようだ。ルネッサンス期のフィレンツェは、古代ギリシアから、その理想主義的な人体造形と共に、「ギリシア風の愛」すなわち少年愛をも復興させていたらしい)

現在、フィレンツェで見られるミケランジェロの『ダヴィデ』は3点ある。
アカデミア美術館にあるのが、巨匠ミケランジェロが手ずから彫ったオリジナル作品である。あとの2点は模刻(原寸大の複製)である。シニョーリア広場のヴェッキオ宮前と、アルノ河対岸のミケランジェロ広場に置かれている。
まったく同じ大きさ、同じ形でありながら、模刻とオリジナルの仕上げはまさに雲泥の差がある。オリジナルにおいては、筋肉や肌の精妙緻密な美しさは想像を絶している。『ダヴィデ』像の見どころは、腹部と太股の境目に深々と刻まれた溝にあるとされる。

ちなみに、大半の美術書には、正面から撮った『ダヴィデ』の写真が載っている。しかし、これでは、真の魅力は決してわからないと西岡氏は強調している。
つまり、4メートルをゆうに超えるこの作品は、もともと見上げられることを前提に造形されている。上半身は大きめに、下半身は小さめに作られており、下から見上げなくては、上半身と下半身のバランスがとれないようになっている。
柔和な股の部分と、腹部と胸の隆々たる筋肉の描写の対比が真価を発揮するのも、下から見上げた時であるという。この角度で眺めるダヴィデの肉体は、臨場感に満ちている。
肌の仕上げも絶妙で、湿り気を帯びた粘着感を錯覚させるほどに精妙緻密である。迫真の写実的技量が『ダヴィデ』像にはみなぎっているという。

一方、レオナルドの男性像は、この迫真のミケランジェロの描写の対極にあると評している。例えば、レオナルドの『聖ヨハネ』の半裸の肉体は、むしろ女性的な恥じらいに満ちている。

このように、作風は両極端を示している。ただ、女性との性的な関係を忌避した点で、レオナルドとミケランジェロは共通している。
壮年期以降のレオナルドの身辺に、常に美少年の姿があった。なかでも美貌で知られるのは、サライ(小悪魔)とあだ名された弟子ジャン・ジャコモ・カプロッティである。38歳のレオナルドに弟子入りした時、この美少年は10歳であった。レオナルドの手記には、「泥棒で、嘘つきで、強情で、大食い」とある。以降、サライは盗癖にもかかわらず、レオナルド晩年に至るまで20余年にわたり、寛大な保護を受けている。
(晩年のアンボワーズ行きの途中でサライは行方をくらます。この不実にもかかわらず、レオナルドは遺言で葡萄園の権利を与えている)

女性に冷淡であったレオナルドとは逆に、激情家のミケランジェロは女性を理想化するあまり、かえってプラトニックな恋慕に走る性分があったようだ。
美少年を身辺に置いた老レオナルドに対して、晩年のミケランジェロが生涯ただ一度の恋愛に選んだ相手は、なんと尼僧であった。
(この二人に限らず、巨匠と呼ばれる芸術家に、恋愛運や家族運に恵まれた人物はほとんどいないといわれる。芸術上の成功と個人的な幸福とは、両立しないのが普通なのであると西岡氏はみている)

母性を理想化したレオナルドに対して、ミケランジェロが父なる神のイメージを追求した。
例えば、次の作品は、その後のキリスト教文化圏における、父性の理想像を決定し、現代の映画に至るまで参照され続けている。
〇彫刻の代表作『モーゼ』(1515年、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会、ローマ)
〇システィナ礼拝堂の大天井画『天地創造』に描かれた神の姿「太陽と月を創造する神」(ヴァティカン宮殿内システィナ礼拝堂、ローマ)

現代の映画では、その典型例として、トーキー初期のハリウッド映画『十戒』(1956年)が挙げられる。主役のチャールトン・ヘストンは、ミケランジェロの『モーゼ』に似ているということで抜擢され、この一作で大スターとなった。
そのヘストンが、ハリウッド最後のオールスター大作『偉大な生涯の物語』(1965年)で、髭面の男性的イメージを強調して、聖ヨハネを演じている。
聖ヨハネ像に、ミケランジェロとレオナルドの男性像の対比が如実に表わしていると西岡氏は強調している。すなわち、男性的な映画版『聖ヨハネ』と、女性的なレオナルド版『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)のイメージの対比においてである。
前者は、神の子の洗礼者としての父権的なイメージの、ミケランジェロ的な風貌の俳優による体現である。一方、後者は、古代ギリシアの神を思わせる官能的な両性具有性の、レオナルド的な男性像による絵画化であると西岡氏は考えている。
これらの事例は、二巨匠の男性像の理想の対比を示している。

ところで、ミケランジェロの実際の父親ロドウィコは、名門意識の高い執政官であった。利己的で虚栄心の強い、理想からはほど遠い父親であった。
息子の才能にも無理解で、ミケランジェロの才能を見込んだロレンツォ・デ・メディチの説得で、やっと息子が彫刻家ギルランダイオに入門することを許した。
(フィレンツェでの政治力を生かして、息子のために作品の受注を斡旋したという、レオナルドの父とは対照的である)

ところが、この父親は、ミケランジェロが成功した後は一転して、その名声と富を利用することしか考えなかった。はては息子に嫉妬するかのように誹謗中傷して歩き、父子の間には確執が絶えなかった。ミケランジェロが父に宛てた手紙には、哀願にも近い苦情が綴られているという。
ミケランジェロもまた、レオナルドの母とは別の意味で、父を「喪失」している。

この第八章の最後に、西岡氏は、レオナルドの聖母像とミケランジェロの神の像について、次のように述べている。
母を喪失したレオナルドが傾斜した少年愛は、みずからが永遠の少年となって、母に愛された日々を哀惜する試みでもあったのかもしれないと想像している。レオナルドの描く聖母像が、永遠の少年の理想の母としての慈愛に満ちているのも不思議ではない。
一方、ミケランジェロの描く父なる神の像が、永遠の少年の理想の父としての威厳に満ちているのも自然であるという。
芸術とは、つまるところ、失われたものを奪い返す試みなのであろうと、西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、114頁~122頁)

第九章 失われた『最後の晩餐』


フィレンツェからミラノへ


レオナルドの画歴は、そのまま未完成作品の歴史であるといわれる。
美術史上最も高名な画家でありながら、今日残されたレオナルドの作品は驚くほど少ない。現存する作品はかろうじて20点を数えるに過ぎない。しかも代表作『モナ・リザ』を含めて、その大半は未完成のままである。
(ただし、この極端に完成品が少なく、移り気とも見える制作歴は、職業画家としては致命的な欠陥であった)

最初の大作となるはずであった『東方三博士の礼拝』(1482年、ウフィッツィ美術館)の受注が、レオナルド29歳の時である。
30か月の制作期限を限定した代金を受け取っていたにもかかわらず、レオナルドは7か月後にミラノへ旅立ち、作品は未完のまま放置される。

このミラノ行きは、ロレンツォ・デ・メディチが、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァが構想中の騎馬像の作者に、レオナルドを推したためとも、竪琴の演奏の腕を買われたためともいわれる。
ただ、この少し前、メディチ家が法王に推挙した芸術家の選に洩れていたことから、フィレンツェでの未来に希望が持てなくなっていたらしい。

しかし、この転進の地ミラノで、レオナルドは、ルドヴィコに依頼された青銅製の巨大騎馬像の、習作と技術研究に15年余を費やし、なお完成することができなかった。
着手より10年、ようやく作られた粘土製の原寸模型は、スフォルツァ家の婚礼祝典に公開され、その威容で人々を圧倒する。しかし、数年後ミラノに侵攻したフランス軍が射手の標的にしたため破壊されてしまう。騎馬像としては、美術史上最大の作品であった。
騎馬像と同時期に着手した『岩窟の聖母』は3年で完成する。しかし注文主の教会の意向に合わず、20年余の訴訟の後に、レオナルドの弟子による改作の納品でやっと落着する。
(西岡、1994年、123頁~124頁)

ミラノの『最後の晩餐』


この『岩窟の聖母』の10年後に手がけたのが、『最後の晩餐』(1497年)である。
『最後の晩餐』は、サンタ・マリア・デル・グラーツィエ修道院の食堂の壁に描かれた。この作品の制作風景は、同時代の説話作家マッテオ・バンデッロによって記録されている。
これによれば、レオナルドは、ある時は、終日、食事も忘れて描き続けるかと思えば、ある時は、何日も作品に手をつけようとせず、画面を子細に点検し、自分の描いた人物を論評していたという。
騎馬像の制作中に、突然、修道院に向かい、画面に2、3のタッチを加えて、すぐに立ち去ってしまうというようなことも、再々であったらしい。

他方、ヴァザーリは、次のように書いている。
修道院長は、レオナルドが時に半日、作品の前で沈思黙考する姿に業を煮やして、ルドヴィコに苦情を申し立てた。庭師が庭を掃く箒の手を休めぬように、画家も絵筆を休めず、仕事に励むべきだと院長は言った。
レオナルドは、督促するルドヴィコに、真の才能は、なにもしていない時にこそ、より多くの仕事をしているものだと説いたそうだ。
頭の中に完全な構想が描けぬ限り、手は動かせるものでないと説き、イエスとユダにふさわしい顔がみつからないのも遅延の原因であると説明した。切羽詰まった折りには、ユダには頑迷な修道院長の顔を参照したいと言って、ミラノ公を笑わせたとある。
以後、修道院長は、庭師の仕事の催促に専念するようになったという。

ルドヴィコの督促が功を奏してか、『最後の晩餐』は3年という例外的な短期間で完成された。
しかし、レオナルドはフレスコという伝統的な壁画の技法を嫌い、新技法の試みが失敗してしまう。完成後10数年を経ずして、絵の具が砕片となって、壁面から剥落し始めた。

ところで、フレスコは、2000年来の伝統を持つ壁画の技法である。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井と壁画の大画面は、この技法で描かれている。『天地創造』は、ヴァティカン宮殿内システィナ礼拝堂天井に描かれたミケランジェロ畢生の超大作である。その中でも、『アダムの創造』は最も知られた場面である。
塗りたての生乾きの漆喰に水性の絵の具で描かれ、漆喰の乾燥と共に画面の耐水性を得るところから、英語の「FRESH(新鮮な)」にあたるイタリア語「フレスコFRESCO」の名がついた。

耐水性は、壁画には不可欠のもので、これがないと、室内の湿気や人間の肌との接触が色落ちや汚れの原因となり、耐用年数が短くなってしまうようだ。
フレスコの画面は、耐水性を得るために、漆喰の乾燥前に描き上げなくてはならず、往々にして、その筆致は大雑把なものになる。このフレスコの制作工程や筆致は、レオナルドの絵画の理想からは、ほど遠いものであった。

さて、レオナルドは、『最後の晩餐』を描くにあたって、樹脂を混入した漆喰で壁面を下塗りし、鉛白(えんぱく)という白い顔料をひいた上に、テンペラ絵の具で描いている。
漆喰の乾燥に急かされずに描くために、壁画に板絵の技法を応用しているものらしい。
ただ、この新技法は絵の具を壁面に定着させることができないという欠点がある。だから、画面は完成後十数年で無数の亀裂を生じ、絵の具の細片を剥落させてしまう。
(絵の具の層を分析した結果、原画はフレスコでは不可能な、驚くべき色彩の鮮度と透明感を示していたことが確認されたという)
『最後の晩餐』は、完成直後から神格化された評価を確立したといわれる。フランス国王ルイ12世に至っては、修道院を壊し、壁を切り取ってでも持ち帰りたいと望んだという。しかし、『最後の晩餐』は、この技術的な失敗によって、画面に定着されることなく終わる。

結局、世紀の名画『最後の晩餐』は、性急なフレスコの制作過程を嫌ったがゆえに誕生し、まったく同じ理由によって、失われることになったと西岡氏は説明している。
(西岡、1994年、124頁~128頁)

フィレンツェ帰還後のレオナルド


フランス軍のミラノ侵攻で、ルドヴィコが失墜し、レオナルドはミラノを去る。
そして、17年ぶりに故郷フィレンツェに帰還する。
騎馬像と『最後の晩餐』で、巨匠の名声は故郷にも届いていた。少し後、ある修道院でレオナルドが公開した『聖アンナと聖母子』の素描(1499年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)には見物客が殺到している。素描にもかかわらず、この絵を展示した部屋は、レオナルドの神業をひと目見ようという老若男女であふれ、祭礼のようであったという。
(しかし、盛況に気をよくした修道院側の思惑をよそに、本番の絵の方は完成することなく終わる)

また、フィレンツェ市からの依頼で、市庁舎の向かい合わせの壁面にミケランジェロと競うことになる。それが壁画『アンギアーリの戦い』(1503年頃)である。
(なお、この作品にはルーベンスによる模写がよく知られている)
この壁画も、技法的な失敗から、制作は続行不能となる。またもやフレスコを嫌ったレオナルドの新工夫から、画面が中途で溶解してしまったようだ。
フィレンツェ市はレオナルドに、代金を返還するか、画面を修復するかの選択を迫る。しかし、ルドヴィコを放逐したミラノのフランス総督ダンボワーズの丁重な招きを受け、フランス国王の後ろ楯を得て、レオナルドはこの訴訟を逃れることができた。そして再びミラノに発つ。
(ヴァザーリ説によると、『モナ・リザ』の着手時期が、この少し前の時期にあたる。油彩によって描かれた画面は、晩年の15年余りにわたって加筆され続けることになる)

10年を経ずして、ダンボワーズも失墜する。そして今度はレオナルドは、法王となったロレンツォ・デ・メディチの息子を頼って、ローマに旅立つ。しかし、意気込んで、ローマ入りしたレオナルドの予想に反して、待っていたのは冷遇の日々であった。つまり、ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を得て、小額の給金とヴァティカン宮殿内の居室は保証されるが、レオナルドの期待したような仕事が依頼されることはなかった。
これまで見てきたように、レオナルド・ダ・ヴィンチは契約の日限を守らず、技術上の実験から画面を損ない、しばしば中途で作品を放棄した。もはや壮大な失敗作と未完の作品の作者として、過去の人となっていた。

ここで西岡氏は、レオナルドの絵画観について付言している。
レオナルドにとって、絵画とは、人間と自然のあり方を解き明かすものであり、画家のすべての知識と技術を投入すべきものであった。手記には、絵画は、画家が知識を持てば持つほど称賛に値するものになると記す。
しかし、この考え方が、1点の絵画の完成への道のりを遠いものにしてしまったらしい。というのは、人体の描写のために解剖学をきわめ、樹木の描写のために植物学をきわめ、
風景の描写のために、地質学から気象学までをきわめることが要求されるからである。
(西岡、1994年、128頁~132頁)

第十章 万能の悲劇


絵画という「学」


レオナルドは、「完全」を求めるがゆえに、「完成」を拒否し続けた。
その姿勢は、芸術的な創造よりは、むしろ学問的探究にこそふさわしいものであったと西岡氏はみる。つまり、万能の科学者でもあったレオナルドの関心は、個々の作品の完成よりは、絵画という「学」の完成にあったと推測している。レオナルド以前、絵画は「技」ではあっても、「学」ではなく、さらに驚くべきことには、「創造」とさえみなされていなかった。

ところで、美術館や博物館のことを「ミュージアム MUSEUM」という。「ミューズ MUSE」は、詩的霊感と創造の女神である。この女神の住む館がミュージアムであり、ミューズのなせるわざがミュージックである。
意外なことに、古代より伝わる9人のミューズに、絵画の女神は含まれていないそうだ。9人のミューズの担当は、音楽、舞踏、叙事詩、叙情詩、悲劇、喜劇、歴史、天文、英雄詩の9分野である。つまり、絵画の女神も、彫刻の女神もいない。絵画も彫刻も、単なる手技とみなされ、「学」たり得なかった。

古代以来、ヨーロッパの知的伝統は、「学」と「技」を区別している。「学」の領域は、「自由七学芸」すなわち、文法、修辞学、論理学、天文学、数学、幾何学、音楽に限られていた。「自由七学芸」の「自由」は、奴隷的な肉体労働から解放された自由人にふさわしい教養を意味していた。絵画や彫刻は、しょせんは職工的な熟練による「技」であり、自由人にはふさわしからぬ、奴隷的な技能とみなされていた。
例えば、『最後の晩餐』を督促した修道院長が、画家も庭師を見ならうべきだという言い分は、当時のこうした絵画観の反映でもあろうといわれる。
(西岡、1994年、133頁~134頁)

レオナルドの『絵画論』


レオナルドが、絵画の技術と思想を大成した『絵画論』は、死後、手記より編纂され、19世紀までに、ヨーロッパの国々で、60回以上にわたって出版されているそうだ。
その冒頭で、絵画と音楽や文芸とを比較し、詩や音楽に対する絵画の優位を論証し、「自由七学芸」を超える「学」の地位を与えようとしている。
(そうでないと、画家は奴隷の身分から脱却できず、絵画は「学」としての「自由」を得ることができなかったから)
絵画が画家の哲学の表明であることは、今日では自明であるが、この絵画観も、レオナルドの論考なくしては、今日ほど自明になり得なかったであろう。

『絵画論』は、万能を画家の必須の素養としているという。装飾工芸から軍事にまで及んだ当時の芸術家の万能性は、職工の身分ゆえの雑役性の反映でもあったと西岡氏は考えている。この職業的な雑役性と、画家の素養としての万能性は、レオナルド自身においても、多分に未分化の状態にあった。レオナルドは、宮廷の余興に舞台装置をデザインし、音楽家までを演じ、軍事技術、機械工学、建築、数学、解剖学など、あらゆる領域に興味を拡げ、飛行機、ヘリコプターなどの発明に没頭した。

万能のレオナルドが、画家を画中の造物主として、宇宙の君主に任じた書物が『絵画論』であった。『絵画論』は、画家と作品の関係を、神と自然の関係に等しいものとしている。
絵画は、神聖なる「学」であり、画家は、気象、地形から、鉱物、動植物に至る、世界の全様相を描くことで、その主になるという。
これは、画家に限りなく神に近い座を与えると同時に、限りなく神に近い全知全能を要請するものであった。レオナルドの慢性化した未完成は、この神に近づくための遠い道程を、あまりにも真摯に歩んだがゆえの、必然的な結果であったと西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、134頁~135頁、138頁~139頁)

レオナルドの万能


レオナルドは、一時期、ロマーニャ公チェーザレ・ボルジアの軍事顧問を務めたことがある。チェーザレは、ローマ法王アレクサンデル6世の息子で、聖職者から軍人政治家に転身し、蛮勇で聞こえた冷酷非情の暴君であった。またマキャヴェリの名高い政治哲学『君主論』のモデルでもある。

従軍中、チェーザレの幕営で知り合ったマキャヴェリとレオナルドは、双方、互いの知性に魅かれ、意気投合したようだ。
フィレンツェ市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の依頼の背景には、市の要職にあったマキャヴェリの尽力があったともいわれる。

また、1485年、ミラノで人口の半分を奪う疫病が発生した折り、レオナルドは、ゴミ収集システムから街路敷設の規制法案までも含む都市計画を提案している。しかし、ロドヴィコはこの案に関心を示さなかった。
(ただ、数世紀後のロンドン議会で、街路設計の理想として、この案は認定され、近代ロンドン都市計画の基本を成す法案に取り入られているそうだ)
そして、発明マニアでもあったレオナルドは、ミラノの産業に貢献する種々の工業機械を提案するが、これにもルドヴィコは関心を示さなかった。

ただ、人間であるには万能に過ぎたとはいえ、やはりレオナルドは能力も寿命も限られた人間には違いない。そこに、「学」としての絵画を追求するレオナルドの孤独と焦燥があったと西岡氏はみている。
知のほとんど全領域を網羅し、2万ページにも及んだ手記は、この居ても立ってもいられぬ焦燥の刻印でもあるという。
(西岡、1994年、136頁~139頁)

『モナ・リザ』 に関する評言


ウィーンの美術史家マックス・ドヴォルシャックは、『モナ・リザ』について次のように評した。
『モナ・リザ』は、レオナルドの創作の頂点であると同時に、中世以降300年にわたるヨーロッパ芸術の総決算である。
ドヴォルシャックは現代の美術史学のパイオニアのひとりで、美術史を精神の表出の歴史として説いた。
西岡氏も、『モナ・リザ』の画面を見ていると、これに先立つ絵画史の歩みが、あたかもこの一点の高みに至ることを目指していたかのような感慨をおぼえるという。そして以降の絵画史が、この高みからの下降、ないしはその成果の否定でしかなかったことも事実である。

したがって、この高みに立って、絵画の足どりを眺めることは、全絵画史を展望することにも通じている。謎の微笑のスフマートに、過去数世紀の絵画技術の精華を見出し、遠景の峩々たる山脈のインパストに、はるか未来の絵画の革新を予見することに通じている。

ところで、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に、フレスコで、旧約聖書『天地創造』を描いた。「光の創始」から「ノアの洪水」に至る、その総面積は、約520㎡であるそうだ。
これに対して、油彩の『モナ・リザ』の面積は、わずか0.4㎡であり、1300分の1の大きさである。
しかし、この小画面にレオナルドは、その巨大な思索を結集し、まさしく『天地創造』のスケールを上回る、遠大な宇宙観と深淵な人間観を濃縮し、自身の哲学の縮図とした。
この壮観を画中に見出し、その幽玄の絵画空間を探索するために、フィレンツェに足を運ぶ必要があると西岡氏はいう。フィレンツェは、「絵画史の回廊」ウフィッツィ美術館のある街であり、そしてレオナルドの故郷でもある街である。
(西岡、1994年、139頁~140頁)

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その2 私のブック・レポート≫

2020-08-16 17:46:37 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年8月16日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第四章から第六章までの要約を紹介しておく。

 「第四章 自分の眼で見る」では、『モナ・リザ』のよさを知るために、その類似品との相違を具体的な作品を列挙しつつ、解説している。
 そして、「第五章 画家の眼で見る」においては、絵画の鑑賞者として、考え得る最もきびしい眼を得るための訓練、画家の筆力の不備を見抜く眼を養うための訓練について、『モナ・リザ』を素材として、説明している点は参考となろう。
 また、「第六章 謎の貴婦人」においては、『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題を解説している。諸説を検討した結果、レオナルドが『モナ・リザ』を最後まで手元に置いた事実を受けて、「この作品は誰か特定の個人の肖像であることをやめてしまったと見るべきであろう」と、西岡氏はみている。
 西岡氏の興味は、むしろこの「誰でもない」肖像に、晩年のレオナルドが、いかなる思いを託していたかということの方にある。このことを知るために、レオナルドの女性観というものを知っておく必要があるといい、次章以下、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第四章 自分の眼で見る
・人間の美意識と『モナ・リザ』のよさ
・『モナ・リザ』の類似品との相違

第五章 画家の眼で見る
・グレーズとインパスト
・テンペラとフレスコと油彩という技法
・スフマートという手法
・絵画の描写の基本
・レオナルドの『岩窟の聖母』について
・レオナルドの『モナ・リザ』について

第六章 謎の貴婦人
・『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題
・ヴァザーリの「列伝」にある『モナ・リザ』の記述
・枢機卿秘書官ベアティスの記述
・西岡文彦氏による解釈
・『モナ・リザ』と、レオナルドの他の肖像画との比較
・イザベラ・デステ説について
・レオナルドの自画像説について
・西岡文彦氏の見解

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






第四章 自分の眼で見る


人間の美意識と『モナ・リザ』のよさ


『モナ・リザ』は、フランスの歴代の国王や皇帝が眺めた名品である。
フランソワ1世が、フォンテーヌブロー宮の浴室で眺め、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿の画廊で眺め、ナポレオン1世がルーヴル宮(ママ)の寝室で眺めた。
また、17世紀には、英国大使バッキンガム公が英国王の結婚祝いに入手を画策し、ルイ13世の側近に阻止されている。
かつて、この絵の前に立つことは、至上の特権であった。

ところで、現在、この名画は分厚いガラス越しに見ることができるが、レオナルドがその手で描いた実物として実感すること自体がかなりむずかしいと西岡氏はいう。ガラスの反射で画面の筆触が見えにくいこともあるが、何より画面を印刷物で見慣れ過ぎていることにもよるらしい。ルーヴルを訪れても、最初は『モナ・リザ』の複製が飾ってあるようにしか見えないのではないかと危惧している。

もともと名画は名画であるほど、その「よさ」がわかりにくいといわれる。レオナルドに限らず、ゴッホ、レンブラントにせよ、一流の名画とされる作品は、画集などの印刷物を通して、私たちの眼に触れ続け、そのイメージを脳裏に焼きつけてしまっている。
名画としての真価を理解できる以前から、「いいもの」として見せられ過ぎた結果、画面は「暗記」されてしまっている。受験勉強で機械的に暗記した古典や漢文が鑑賞の対象になりにくいように、教科書でなじんだ名画の「よさ」に、自分なりに感動することは、かなりむずかしいと西岡氏は憂慮している。

ところで、人間の美意識や審美眼の成長は、一種の不可逆反応であるといわれる。いったん変化してしまうと、もとの状態へは戻れない。一度いいものを見てしまった目や、一度いい音を聴いてしまった耳は、二度とそれより劣ったものに惑わされることはないものらしい。

西岡氏によれば、感覚というものは、徐々に「肥える」のではなく、いいものに触れた時に、一瞬にして高度化してしまい、以降、それより劣ったものを、頑として受け付けなくなってしまうという。感覚というものに多くを依拠した人間の営みは、この不可逆反応の原則に貫かれているとみている。
絵を見る眼にも、この不可逆反応は起きる。

実物の『モナ・リザ』の前に立ち、その名画としての「よさ」に、実感として感動したいのであれば、対面に先立って、自分自身の鑑識眼の実態を知っておく必要があるそうだ。この自覚を得るのに効果的な方法が「類似品」の鑑賞であるという。
(西岡、1994年、48頁~52頁)

『モナ・リザ』の類似品との相違


絵画史上、『モナ・リザ』ほど、多くの画家に模写され模倣された作品はない。その構図とポーズは、人物画における最も完成した様式として、同時代から現代に至るまで、模倣が繰り返されている。
その類似品を6点紹介している。
① 作者不詳『モナ・リザ』模写 17世紀 ヴァーノン・コレクション アメリカ
② 作者不詳『モナ・リザ』模写 16世紀 プラド美術館 マドリッド
③ サライ『裸のモナ・リザ』16世紀 エルミタージュ美術館 レニングラード
④ ラファエロ『若い婦人の肖像』1505年頃 ボルゲーゼ美術 ローマ
⑤ ラファエロ『マッダレーナ・ドーニの肖像』1506年 ピッティ美術館 フィレンツェ
⑥ コロー『真珠の女』1870年頃 ルーヴル美術館 パリ

① 作者不詳『モナ・リザ』模写(ヴァーノン・コレクション アメリカ)は17世紀の模写である。神秘的な『モナ・リザ』の微笑が、なぜか小ずるい含み笑いにしか見えない。同じ微笑を浮かべていても、表情に微妙さというものが乏しいと評される。
一方、『モナ・リザ』の顔が、左右で別個の表情を浮かべていることはよく指摘される。
『モナ・リザ』の顔を半分ずつ隠して見ると、右半分の表情は楽しげであり、左半分の表情は、憂いを含んでいる。この表情の分裂が微笑を微妙きわまりないものにしているとされる。
原画の微妙な表情を再現するには、この左右の表情の分裂を描く必要があるのだが、これがほとんどの模写では描き切れていないそうだ。大半の『モナ・リザ』の模写が表情の微妙さに欠けているのは、そのためであるという。
② 作者不詳『モナ・リザ』(模写 16世紀 プラド美術館 マドリッド)は、16世紀の模写である。
原画にあった背景の壮大な風景を省略して、ただの黒バックにしているために、画面は一見して、スケールの小さい無思想な印象を与えると評される。
一方、『モナ・リザ』は、背後の風景においても、画面の左右で表情を変えて描かれている。左側の地形の起伏の激しさに比べると、右側の風景の地形はずいぶんとおだやかである。そして、右の風景に見上げる視点で描かれた水面と、左の風景に見下ろす視点で描かれた水面との不一致が、左右の空間に不連続感を与えている。この不連続感が、単なる実景の写生にはない微妙な雰囲気をかもしだし、風景に幽玄なるイメージを与えている。
この背景を失っては、『モナ・リザ』の神秘的な魅力も半減してしまう。

③ サライ『裸のモナ・リザ』(16世紀 エルミタージュ美術館 レニングラード)は、レオナルドの「愛人」とも噂される弟子サライによる、裸のモナ・リザである。
無理に正面を向けたために、ねじれて見える首といい、贅肉のついた二の腕の露出といい、悪趣味としか見えぬ趣向である。それでも、さすがに背景は、師レオナルドの画風の片鱗を残している。景観は原画とは違っているが、達者な筆致で、それなりにスケール感のある空間を描き出し、直接に指導を受けた者の強みを見せていると、背景については高く評価している。

④ ラファエロ『若い婦人の肖像』1505年頃 ボルゲーゼ美術 ローマ
⑤ ラファエロ『マッダレーナ・ドーニの肖像』1506年 ピッティ美術館 フィレンツェ
この2作品は、レオナルド、ミケランジェロと並ぶルネッサンスの巨匠ラファエロの作品である。
モナ・リザ様式で描かれているが、描写は、拙劣の一語に尽きると西岡氏は酷評している。微妙さに欠けた表情は、よそよそしく、眺める視点の低すぎる背景は、空ばかりが広く見え、荒野か廃墟のように殺風景である。

もともとラファエロは、巨匠と呼ばれる画家たちの中では、その初期作品の拙劣さで群を抜いているようだ。レオナルドやミケランジェロが、その初期作品において、超絶した技巧を見せているのに対して、ラファエロの初期の作品は、凡庸そのものであると西岡氏は評している。
(ただ、このラファエロがいかなる習練の賜物か、その晩年に、絵画史上ほとんど唯一『モナ・リザ』の画境に匹敵する作品『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(1515年頃 ルーヴル美術館)を残したとも付言している。詳しくは、第十六章参照のこと)

⑥ コロー『真珠の女』(1870年頃 ルーヴル美術館)は、近代写実主義を代表する画家コローの作品である。
気品のある表情と質素な衣装の組み合わせが好感の持てる画面を演出し、ファンも多い
佳品ではある。
しかし、やはり表情の描写は一面的で、なにやら重苦しい気分を感じさせると評している。
顔の仕上げのていねいさに比べて、体や背景の筆づかいが荒いため、全体が均一に仕上がった印象がなく、未完成作品に見えるという。
採光といい、背景の空間の閉塞感といい、同時期(1870年代)急速に発達してきた写真(肖像写真初期の巨匠ナダール『ジョルジュ・サンドの肖像』1877年、国際写真美術館、ニューヨーク)に酷似している。これは時代の反映であるようだ。
モデルの神秘性が、コローの画面では皆無である。画面は、単なる「無名」のモデルの肖像としか見えない。描かれた人物の素性について、人々の好奇心を喚起する、品格と神秘性が欠けているためであると説明している。

さて、『モナ・リザ』のモデルはなお不明である。
※この西岡氏の本は、1994年の出版である。2016年に出版された近著、西岡文彦『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の「第3章 モデルの正体――解明された美術史上最大のミステリー」(44頁~61頁)において、「モデル論争に決着」と題して、ハイデルベルク大学図書館で発見された文書について言及している。

詳しくは、【読後の感想とコメント】を参照してもらいたい。
また、中野京子氏も、この件について触れていた。中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社、2016年[2017年版]、233頁~235頁)を参照のこと。
【私のブログはこちらから】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


このように、実物の『モナ・リザ』とその類似品との差異を確認することを通して、鑑識眼を高度化させていけばよいようだ。
「暗記」してしまった『モナ・リザ』との対面には、さしたる感動はない。この実物をじっくり眺めて、写真や印刷では、絶対に復元できない部分を、さがしてみる。
(さがすまでもなく、思っていたより大きいとか、逆に小さいといった印象があれば、すでに自分なりの印象を得たことになる。この印象が感動への第一歩であるという)

ここで、西岡氏は、初めてのルーヴルで、初めて『モナ・リザ』を実見した時の印象録を紹介している。
□まず驚くのは、小さいことである。基本的に、すぐれた絵画ほど、印刷物では実物より大きく見えるので、これは当然のことである。
□続いて驚くのは、モナ・リザが、印刷で見るよりかなり痩せていることである。
□印刷物で見るモナ・リザは、どっしりと広い肩幅の持ち主である。ところが、実物で見ると、画面に向かって右の肩の線に見えているのが、肩に掛けたレースのマントであることがわかる。印刷物ではわかりにくいが、実際の肩の線は、このマントのかなり内側に、ほっそりと描かれている。
□印象よりはるかに、モナ・リザのポーズは横を向いているのである。
□やはり見事なのが表情の描写で、とりわけ有名な微笑を浮かべる口もとは、どれだけ眼をこらしてみても、人間が筆で描いたものとは思えない。
□どうしても、写真か印刷にしか見えないのである。

以上が、西岡氏の印象録である。『モナ・リザ』が実物であることを、自分なりに実感できずに終わり、かなりの打撃であったそうだ。しかし、日本へ帰国後しばらくして、実物でありながら実物に見えない点こそ、『モナ・リザ』の真価が発揮されていることに気づいたという。
つまり、『モナ・リザ』の真価は、手描きでありながら手描きに見えない点にこそ、発揮されている。これは、レオナルドの絵画が歴史的に担った役割から必然的に導かれ出された、画風上の特色であるという。
『モナ・リザ』の鑑賞は、実物を前にしながら実物に見えない、そのはがゆさを実感することからしか始まらない。このはがゆさを真に実感できた時点で『モナ・リザ』の鑑賞は、絵を描く側からの視点をも含む、広く深い奥行きを得ることになると西岡氏は主張している。
次の第五章では、その理由と具体的な鑑賞の方法を説明している。
(西岡、1994年、52頁~63頁)

第五章 画家の眼で見る


グレーズとインパスト


『モナ・リザ』の画面には、モネやゴッホやルノワールのような、画家の手の温もりを感じさせる、いきいきとした個性的なタッチがないと西岡氏は評している。
油絵に特有の絵の具の盛り上がりもなく、人間の手で描かれたという実感に乏しい。そのせいで、画面は間近で眺めても複製に見えてしまうともいう。

そもそも実物の油絵と印刷された複製の最大の違いは、絵の具の盛り上がり加減にあるといわれる。
ただ、油絵は最初からこの絵の具の盛り上がりの迫力を売り物にしたわけではない。油絵に独特の絵の具を盛り上げる描き方は、「インパスト( IMPASTO)」と呼ばれる。
もとはイタリア語で、イン( IM)は強調用の接頭語、パスト( PASTO)は英語のペースト(ねりもの)を指す(小麦粉をねったスパゲッティをパスタというのも、語源は同じ)。
絵の具をペースト状に厚塗りすることから、この名がついた。

一方、正反対の技法が、透明な絵の具を重ね塗りする「グレーズ( GLAZE)」である。まるで写真のように筆跡が見えない『モナ・リザ』のぼかしは、このグレーズの極致である。

薄塗りの極致としてのグレーズを完成したのは、ルネッサンスのレオナルドである。そして、厚塗りの極致としてのインパストを完成したのが、バロックのレンブラントである。

ここで西岡氏は、レオナルドの『モナ・リザ』と対照的な作品であるレンブラント晩年の『自画像』(1660年、ルーヴル美術館)を取り上げている。
レンブラントの『自画像』は、ルーヴルで、『モナ・リザ』のあるドゥノン翼のちょうど反対側、『モナ・リザ』の位置から約100メートルほど西北に寄ったリシュリュー翼の2階第3室にある。

レンブラントの晩年の作品は、絵の具の厚塗りで知られている。
そして、ルーヴルの自画像は、レンブラント晩年の「黄金期」の名品である。暗い背景に、白い頭巾をかぶった自画像である。ひときわ目を引くのが、頭上からの光を受けた頭巾の輝きである。
遠くから見ると、布の結び方までわかるこの頭巾が、近くに寄ると、豪快なインパストで描かれている。つまり厚塗りの絵の具の量感を誇示している。
筆の跡も生々しく画面に置かれた白い絵の具が、離れて眺めると、見事に頭巾の形を描き出し、画家の筆の冴えを見せつけるという。
つまり、間近で見れば荒々しく盛り上がった絵の具が、渾身の筆勢を伝え、距離を置いて眺めれば、的確無比の写実性を発揮している。その筆致は、画家の妙技を誇示するアクロバティックな手法として、現代にまで愛用されているようである。

ここで、西岡氏は、近世絵画と近代絵画の特徴について考えている。
近代絵画の歩みは、このインパストによって、絵柄(えがら)以上に、画家の絵筆の跡が強調されるところから始まっている。
近代絵画の名画の筆致は、描かれたもの以上に、画家の「手」そのものの痕跡を画面に刻むことを、目的として描かれている。ここに近代絵画の最大の特徴があるといわれる。
例えば、ゴッホ、ルノワールのタッチについて言及している。
〇ゴッホ『自画像』1890年 オルセー美術館
〇ルノワール『陽のあたる裸婦』1876年 オルセー美術館
ゴッホ『自画像』では、筆致が渦巻く苦悩の肖像である。ルノワールの『陽のあたる裸婦』では、その柔和なタッチで、人物の輪郭が周囲に溶け込んでいる。また、モネの作品は、光のうつろいを軽やかな筆触で描いている。

これに対して、レオナルドが完成した近世絵画の目的は、むしろ画面から「手」の痕跡を排除することにあったと西岡氏はみる。
これが近代と近世の絵画の違いである。
可能な限り筆致を画面から消すことで、自然を自然以上に自然に描くことこそが、レオナルドの挑戦した課題であった。
(近代絵画のタッチに見慣れた者にとって、レオナルドの画面が「手」の温もりを感じさせないのは、このためであるという)
(西岡、1994年、64頁~68頁)

テンペラとフレスコと油彩という技法


奔放なインパストの登場以前、レオナルドの時代にあっては、油絵の魅力は、むしろ画面に、筆の跡を残さず描ける点にあった。
油彩はレオナルドの誕生の少し前、当時の北ヨーロッパ絵画の中心、フランドル(現ベルギー)地方で完成された技法である。

それまでの絵画は、板絵(いたえ)がテンペラ、壁画がフレスコという技法で描かれていた。
テンペラは、絵の具を卵黄で溶く技法である。フレスコは水性の絵の具を漆喰(しっくい)に塗り込める技法である。いずれも、油絵にくらべると、絵の具の伸びが悪いために、ぼかしがきれいに描けず、絵の具の混ぜ合わせも不自由であった。
〇ボッティチェルリ『若い婦人の肖像(美しきシモネッタ)』1485年頃、丸紅本社、東京
これはテンペラ画である。

これに対して、油彩は絵の具の伸びがよく、細かい筆の運びが可能で、精密な描写に向き、混色も自在であった。なにより画期的なのが、溶き油の量を調整することで、絵の具の濃度を自由に変えられる点であった。油彩の絵の具は溶き油を多くすれば透明になり、溶き油を少なくすれば不透明になる。

透明絵の具を塗り重ね、下地の色を生かしながら、極薄(ごくうす)のガラスを重ねたような微妙な階調を描くことができるのは、油彩のみである。逆に、真っ黒に塗った上から真っ白の絵の具で描いて、ほとんど白が濁らないのも、油彩の特徴である。ハイライト技法というのがある。暗部の要所に白く輝く点を描き、ガラスや宝石のきらきらした光の反射を表わす技法で、不透明の油彩の特性を最大限に生かした手法である。
例えば、油絵の創始者とされるファン・アイクのハイライト技法を使った作品として、『ゲント祭壇画』(1432年、聖バヴォン大聖堂、ゲント[ベルギー])がある。
その聖母の宝冠部分は、テンペラで描かれたボッティチェルリの『若い婦人の肖像』よりは、宝石の輝きの迫力がある。

透明と不透明の絵の具を使い分け、画面の色彩や陰影の微妙な階調と鮮烈な対比によって、人物や静物の質感や立体感、風景の遠近感の描写に、油彩ほど効果的な絵の具はない。
レオナルドは、この油彩の表現を極限まで追求した画家である。そして、その境地をあますところなく示すのが、『モナ・リザ』の画面である。
(西岡、1994年、68頁~70頁)

スフマートという手法


『モナ・リザ』の神秘的な表情は、「スフマート」という手法によって描かれている。
これは、透明に近い絵の具を、柔らかい筆で、数十回、数百回にわたって塗り重ね、筆の跡を残さず、無限の階調を描き出す、究極のグレーズ手法であると西岡氏は説明している。

そもそもスフマート(SFMATO)は、煙をいうイタリア語FUMOに由来する言葉で、ただよう煙のように微妙なぼかしを意味している。従来のテンペラやフレスコが、画面から消すことのできなかった筆の跡は、このスフマートの出現によって、完全に画面から排除されることになった。

レオナルドは、画面に画家の手の痕跡をいっさい残さず、描かれた人物や自然が、あたかもそこに実在するかのように見える絵画を描こうとした。
近代の画家たちが、独自の筆致で個性を主張したのに対して、レオナルドは、筆致そのものを画面から消そうとした。
これが、『モナ・リザ』に、人間の手で描いた実感の乏しい理由の第一であるという。
そして、実物の『モナ・リザ』が複製に見える第二の理由として、レオナルドの写実的な描写が、文字通り人間わざの域を超えている点を指摘している。
(西岡、1994年、70頁~71頁)

絵画の描写の基本


上記のことを実感するには、絵画の描写の基本を知っておく必要があると西岡氏はいい、この点について解説している。
絵の勉強は、デッサンというものから始まる。石膏像や静物やモデルを、木炭や鉛筆で正確に写生する勉強である。
このデッサンの不備をいうのに、「汚れに見える」という言葉があるそうだ。描かれた影が、影ではなく「汚れ」に見えることを指す。
デッサンの基本は紙に塗った木炭や鉛筆の黒い色が、「汚れ」ではなく、きちんと影に見えるように、ものの形と陰影の状態を観察し、写生することにある。これができていない陰影の表現が「汚れに見える」と批判される。
逆にいうならば、巧妙に描かれた陰影は、人間が描いたものに見えない。レオナルドの画面に手の跡が見えないのは、このためであるという。同時代すでに「奇跡」と賞された、レオナルドのスフマートが精妙に過ぎる。

ただし、この精妙な画面も、背景は違うとみる。つまり背景には、後世のインパストを予見するような、厚塗りの筆が自在に躍るタッチを見せている。
例えば、山岳や雲の細部には、19世紀英国ロマン派の巨匠ターナーや印象派の開祖モネの画面を思わせる、奔放なタッチが見られる。

このように、『モナ・リザ』の画面は、筆の跡を残さぬグレーズの完成型を示しつつ、奔放な近代の筆致を予見し、油彩の表現力の幅の広さを見せつけていると西岡氏は鑑賞している。
(西岡、1994年、71頁~72頁)

レオナルドの『岩窟の聖母』について


グラン・ギャルリーを『モナ・リザ』の右に50mほど行った奥に、「サロン・カレ」という部屋がある(盗難当時、『モナ・リザ』が掛かっていた部屋である)。
この部屋のなかほどの仕切り壁に、4点のレオナルドの作品が展示されている。この部屋では、ガラス越しの『モナ・リザ』ではわからないレオナルドの「生」の迫力を味わえる(4点のうち、2点はガラスなしの至近距離で眺められる)。

30代半ばの作品『岩窟の聖母』を中心に、右に40歳前後の『貴婦人の肖像』、左に60代半ばの『聖ヨハネ』、上にレオナルドが下絵のみを描いたと見られる『バッコス』が掛かる。『岩窟の聖母』が祭壇画であることも手伝って、小規模ながら礼拝堂の祭壇を思わせる展示になっている。
実際に、現存作品が極端に少ないレオナルドの完成作品を、これだけ揃えて見られるのは、世界中でここのみである。その意味では、この一角は、「レオナルド礼拝堂」と呼ぶにふさわしい。
(ただし、上に掛かる『バッコス』は、位置が高すぎる上に、ガラスが反射するので、画面をじっくり眺められない。左側に掛かる『聖ヨハネ』も表面の光沢が強過ぎ、暗い画面が鏡のように反射して、見やすくはない。右側の『貴婦人の肖像』は、額にガラスが入っているので、『モナ・リザ』同様、画面をじかに見れない)

自然に、視線は中心の『岩窟の聖母』に集中することになる。この『岩窟の聖母』の制作年は、『モナ・リザ』の約15年前で、1486年である。板に油彩で描かれている。
この絵で、レオナルドの「手」を実感させるのが、画面に散在する植物の描写であると西岡氏は注意を促している。暗い背景に明るい色で、下描き風の線描が走り、筆の運びがよくわかるという。
ともかく流麗であるが、意外に装飾的である。正確な観察に基づきながら、単なる写生ではなく、「文様」としての工芸的な洗練がなされている。

しかし、こうした線の生彩や地肌の迫力に反して、人間の顔や体の陰影描写は、精緻に過ぎる(画面に顔が触れるほどの至近距離でも、筆づかいが見えてこない)。
とりわけ、幼児イエスの描写は見事であると評している(陰影描写の精緻さは写真なみだが、実際の写真に、この品格は望めない。この品格に満ちたイエスの前では、ルーヴルのいかなる作品の幼児イエスや天使といえど、早熟な子供の媚態としか映らないそうだ。)

西岡氏は、レオナルドの実物を見ることの真の醍醐味について述べている。つまり、画面の間近に顔を寄せ、板の凹凸や亀裂の迫力に「実物」を実感しつつも、絵柄に人間の筆触を実感できないというはがゆさにあるという。
もしガラスのケースを出たなら、『モナ・リザ』の画面は、この『岩窟の聖母』の幼児イエスをはるかに上回る、はがゆさを喚起するとみている。

ところで、『岩窟の聖母』は、レオナルド30代はじめの作品である。『モナ・リザ』のおよそ15年前に描かれている(だから、15年分の描写の未熟も見せているという)。
聖母マリアの顔を見ると、鼻の下には影があるが、かすかながら、この影は「汚れ」に見えると、西岡氏は評している。無論、並みの画家には及びもつかぬ描写ながら、それでも「汚れ」に見えるという。
一方、『モナ・リザ』の鼻の下の影が、「汚れ」に見えることはあり得ないとも付言している。
(この違いが、はっきりと見えてくれば、読者の視線は、画家なみの精度を得たことになるようだ)
(西岡、1994年、73頁~76頁)

レオナルドの『モナ・リザ』について


『モナ・リザ』の顔は、人間の描き得た、最も精妙なる顔である。

ただ、画面で、未完成が歴然としているのは、背景であるといわれる。そして、背後のバルコニーの手すりは、輪郭が定かではなく、陰影も粗雑であるそうだ。左の柱は暗過ぎ、右の柱は透き通っている。手すりの上あたり、風景の前景も、かなりラフである。ただし、遠景の風景のインパストは、未完ではなく、意図した奔放の筆致であると断っている。

そして、『モナ・リザ』で見きわめたいのが、スフマートの粋を結集した人物の、手の部分の未完成である。すなわち、右手は輪郭線の決め込みにおいて未完成であり、左手は陰影の描き込みに未完成であると指摘している。衣服の袖の部分の仕上げも、ラフである(最初は、なかなかこの顔と手の仕上げの違いが見えてこない)。

この違いを、人間の鑑識眼の不可逆反応を利用して、確認してみることを勧めている。
まず、『モナ・リザ』の顔の部分をじっくりと眺めてみると、口の両側から頬にかけての陰影の微妙なスフマートは、人間が描いたものとは思えないほどである。
この奇跡の描写力を堪能した後で、すばやく画面下側の手の部分に眼を転じてみると、この手の描写はいささか大雑把に映るそうだ。つまり『モナ・リザ』の顔と比較すると、欠点が見えてくる。

例えば、わかりやすいのが、下側に置かれた手の人差し指の描写である。やさしく握るように中指の先にのぞくこの指は、明らかに太過ぎる。というより、陰影が不完全で、円筒ではなく肉厚の板が、中指の向こう側に立っているように見える。
試みに、その人差し指の下側に、暗部を加筆すれば、もはや人差し指は、肉厚の壁のようにそそり立たず、指の丸みを持って、折れ曲がるはずだという。
そして、明らかに『モナ・リザ』の右の手の描写は不完全である。
(右手人差し指の輪郭線と、ドラペリ(襞)の描線の1本が微妙に接していて、まぎらわしい。西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、86頁~87頁を参照のこと)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)

さて、描写の不足は、中指にも薬指にも小指にもあるそうだ。中指も板状に見え、藥指は付け根と第二関節の間が不自然に長く、小指には立体感が乏しい。
加えて、両手首から肘にかけての袖の襞の描写もラフである。上にある左の袖は、陰影の仕上げが不完全であるために、襞を描く黒々とした線が目につく。
右袖は、襞全体の方向が不自然にそろい、全体が「流れた」ような造形に見え、腕の丸みを包んでいるようには見えない。しかもその右袖の襞一本は、左の手の人差し指と微妙に接して、見方によっては、人差し指の描き損じの輪郭線にさえ見えるという。描線が下描きの域を出ていないと西岡氏は評している。

ただ、これらの欠点は、『モナ・リザ』の顔と比較してこそ、初めて見えてくる。大半の絵画は、この『モナ・リザ』の未完成部分にも遠く及ばぬ域である。
『モナ・リザ』の顔の描写に眼を慣らすことは、同じ画面の手の描写に限らず、画家の筆力の不備を見抜く眼を養うための訓練になる。つまり絵画の鑑賞者として、考え得る最もきびしい眼を得るための訓練になってくれるはずだという。

そして、手の不備がはっきりと見えてきたならば、さらに『モナ・リザ』の顔の眉間のあたりを見ると、わずかながらのデッサンの不備があるとつけ加えている。つまり、精妙に描かれたものは存在しないはずのこの顔の描写にも不備がある。
左の眼と鼻の間の影の部分、鼻筋の明るい部分から、眼の窪みの影への階調に、わずかながら不連続が生じている。きびしく見れば、この部分の陰影は、影というよりは濃いめのアイシャドウに見える。デッサンが「汚れ」に見えていると西岡氏は述べている。
このように、この絵画史上最高の作品にも、筆力の不備があり、こうした不備を見抜く眼力を獲得することが大切であるようだ。この眼力の獲得は不可逆反応である。
(西岡、1994年、76頁~81頁。)


第六章 謎の貴婦人


『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題


『モナ・リザ』のモデルは、現在なお不明であると西岡氏は記している。
このモデル問題については、西岡氏は、まず2つを取り上げている。
① ヴァザーリ説
② 枢機卿秘書官べアティス説

① ヴァザーリは伝記集『画家・彫刻家・建築家列伝』(通称『美術家列伝』、1550年)を出版した。レオナルドの死の30年後のことである。
その中で『モナ・リザ』という作品は、「モナ・リザ」こと「リザ夫人」の肖像という。
そして、『モナ・リザ』は1505年頃にフィレンツェで制作されたことになる。
② レオナルドを死の直前に訪れた枢機卿(法王最高顧問のこと)秘書官は、本人の口から、この作品はジュリアーノ・デ・メディチの愛人の肖像だと聞いたと書いている。
ジュリアーノは、ルネッサンス芸術のパトロンとして名高い、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチの息子である。
枢機卿秘書官の説では、それより10年ほど遅い1515年頃にローマで制作されたことになる。

両者にも弱点がある。ヴァザーリの「列伝」の弱点は、ヴァザーリ自身が『モナ・リザ』を実際に見ていない点にある。
一方、枢機卿秘書官の説の弱点は、制作年代に疑問が残る点にある。

この他にも、次のような説がある。
③ マントヴァ公妃イザベラ・デステの肖像とする説
彼女は同時代有数の芸術の庇護者でモードの女王でもあった。
④ レオナルドの自画像説
⑤ 弟子サライ(レオナルドの愛人と噂される美少年)の面影を見出す試み
記録マニアのレオナルドは、このサライが、財布からくすねる小銭の額まで綴っている。しかし、そのレオナルドは『モナ・リザ』に関する記述は一行も残していない。

このように、『モナ・リザ』のモデルについては、無数の推理、憶測が重ねられてきた。
作品自体にも、タイトル、日付、署名のいずれも書かれておらず、モデルや制作年代を確定する決定的な証拠は何一つない。
(西岡、1994年、82頁~83頁)

ヴァザーリの「列伝」にある『モナ・リザ』の記述


ヴァザーリの「列伝」は、ルネッサンス期の芸術家の生涯と作品を網羅し、ルネッサンス美術史研究には必須の文献として知られている。
ヴァザーリ自身は画家・建築家でもあったが、その芸術家肌を反映してか、挿話には脚色が目立つ。年代にも誤記が多く、史料というより、説話集として読むべき書物といえると西岡氏はみなしている。

ちなみに、建築家としてのヴァザーリの代表作品は、総合庁舎ウフィッツィである。今日、このウフィッツィが、まさに「列伝」を地で行く美術館になっている。それは“歴史の奇遇”ともいえる。

ヴァザーリの「列伝」は、『モナ・リザ』について、次のように記す。
「レオナルドは、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザの肖像を描いたが、四年を費やしても完成することができなかったので、作品は画家の手もとに残されることになった。
この作品は、現在、フォンテーヌブロー城のフランス王フランソワのもとにある。

文中のフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻のフルネームは、エリザベッタ・ディ・アントン・マリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニである。
エリザベッタの愛称がリザで、これに貴婦人の敬称モナをつけた『モナ・リザ』で、「リザ夫人」を意味している。

着手時期と推測される1503~5年にエリザベッタは、幼い娘を亡くしている。この事実と、レオナルドが彼女を楽しませようと楽士と道化を雇ったとの「列伝」の記述を合わせて、『モナ・リザ』の微笑の、喜びとも哀しみともつかぬ表情の由来が説明されることは多い。

ラファエロによる『モナ・リザ』様式の作品も、ヴァザーリ説を裏付けている。明らかに『モナ・リザ』の影響を思わせる素描と油絵を、1505年前後にラファエロが描いている。これが『モナ・リザ』を1515年前後の制作とする枢機卿秘書官の説と矛盾している。
(西岡、1994年、83頁~84頁)

枢機卿秘書官ベアティスの記述


レオナルドを死の2年前に訪ねた枢機卿ルイジ・タラゴーナは、レオナルドから3点の作品を見せられている。
この3点が、現在ルーヴルにある『聖アンナと聖母子』、『聖ヨハネ』、『モナ・リザ』であることは、ほぼ確実と見られている。
この時、随行した枢機卿秘書官アントニオ・デ・ベアティスが、レオナルド自身が、『モナ・リザ』を「ジュリアーノ・デ・メディチの依頼で描いたフィレンツェのさる夫人」と説明したと書いている。これが、1515年前後のローマ制作説である。

ジュリアーノの愛人としては、フランカヴィラ公妃コンスタンツァ・タヴァロスが知られている。しかし、レオナルドがジュリアーノの庇護のもと、ローマにあった1515年前後だと、彼女はすでに45歳になる計算である。画面の女性は、これより若いので、ジュリアーノと縁浅からぬ、別の知られざる女性の肖像ということになる。
しかし、この説では、10年先行する『モナ・リザ』様式のラファエロ作品の説明がつかない。

ところで、ヴァザーリは、レオナルド本人にも、『モナ・リザ』にも未見に終わったが、レオナルドの死を看取った晩年の弟子フランチェスコ・メルツィには会っている。
メルツィは、レオナルドの最も忠実な弟子であり、師の遺言により、膨大な手記のすべてと絵画と素描(デッサン)全点を贈られている。フランソワ1世は、このメルツィから『モナ・リザ』を買い上げている。

メルツィはレオナルドの手記を聖遺物のように保管していたが、ヴァザーリがこのメルツィに会ったのが、1566年である。「列伝」の『モナ・リザ』に関する記述に誤りがあれば、2年後の1568年の改訂版で、ヴァザーリがこれを正さなかったとは考えにくい。
(レオナルドに関する他の記述に削除と修正を加えている改訂版に、『モナ・リザ』に関する訂正がないのは、間接的とはいえ、メルツィの了承したものと西岡氏は解釈している)

そうすると、ベアティス説は、聞き間違い以外に説明がつかなくなる。
実際にベアティスはレオナルドが左利きであることに気づかず、卒中の後遺症で麻痺した右手を見て、レオナルドが制作不能の状態にあると見誤っている。
また当時65歳のレオナルドを、70歳以上と見誤っていることもあり、ベアティス説を、聞き間違い、記憶違いとする見方もある。

結論は、ヴァザーリ説を創作と見るが、ベアティス説を誤記とするにかかってくる。
(西岡、1994年、84頁~86頁)

西岡文彦氏による解釈


この二説の対立について、西岡氏自身は、いずれも正しいと思っている。
以下、暴論のそしりは覚悟の上で、その理由を述べている。

もし、レオナルド自身が故意に作品の来歴を偽ったとすれば、ベアティス説は聞き間違いではないことになるという。
フランソワ1世の庇護により、アンボワーズ近郊の館と生活の安定は得たといえ、この枢機卿と面会した時期のレオナルドは、結局は不遇に終わった画家としての人生の、最晩年期にさしかかっている。
これに先立つ、レオナルドの画家としての最後のチャンスが、ベアティス説にいう『モナ・リザ』制作時期の1515年前後の、ローマ滞在期であったと西岡氏は捉えている。

ロレンツォ・デ・メディチの息子ジョヴァンニの法王レオ10世即位を機に、レオナルドは仕事の依頼を期待してローマ入りした。すでに60歳を過ぎていた。
その当時、40歳前のミケランジェロはヴァティカン宮殿内のシスティナ礼拝堂の天井画『天地創造』(1511年)という畢生の超大作を描き、また30歳前のラファエロはヴァティカン宮殿の法王執務室の壁画『アテネの学堂』(1510年)を描いていた。二人とも、ヴァティカン宮殿で、生涯の代表作を描いていた。それに対して、レオナルドはほとんど顧みられることなく、無為の日々を過ごしている。
法王の弟ジュリアーノ・デ・メディチの口利きで、ヴァティカン宮殿内の居室とわずかな給金を得たものの、このローマにおける不遇が、レオナルドに失望を与えたであろうと西岡氏は想像している。

やがて、庇護者ジュリアーノは他界し、レオナルドは法王庁にとどまる理由がなくなった。そしてレオナルドは、ミケランジェロやラファエロが多忙を理由に断ったフランソワ1世の招きに応じ、このローマ暮らしに見切りをつけて渡仏する。
ここで、西岡氏は、画家レオナルドの心理について、次のように推測している。
「そのレオナルドが、フランソワ1世の庇護のもとに晩年を送る異国の地で、晩年ルネッサンス芸術の中心であり、キリスト教世界の中心であるローマで依頼された、架空の仕事について語ったとしても、画家の心理としては不自然ではない」と。

そして、枢機卿との会見で、レオナルドは自身の手記の出版について語っており、「営業的」な意味で、さりげなく法王の弟の名前が語られた可能性は否定できないと付言している。
西岡氏、自らの解釈について、万能の天才レオナルドのイメージを、著しく損ねる解釈とも見られるかもしれないが、当時の芸術家の生活は、そうした俗事から超然とするには、あまりに逼迫していたという。
巨匠らしからぬ目端(めはし)の利き方という点で、レオナルドが30歳の時に、ミラノ公に宛てた有名な自薦状を例として挙げている。レオナルドは、ミラノ到着後、まもなく口述した自薦状は、抜け目なく自身の軍事的才能を強調している。
レオナルドに限らず、当時の画家は建築家や工芸家、商業デザイナーを兼ね、彫刻家はその鋳造技術で武器製造家を兼ねていた。レオナルドのこの自薦状は、当時の芸術家のそうした処世の苦労をしのばせている。

また、手記の出版は、死を2年後に控えた老レオナルドの唯一の希望であった。この出版の意義を説くレオナルドの言動に、ルネッサンスの事業家としての側面がのぞいたとしても、不思議はないともいう。

以上が、西岡氏が、ベアティス説を聞き間違いでないとする推測の論拠である。つまり、『モナ・リザ』はリザ夫人の肖像としてフィレンツェで描き始められ、その未完成ゆえか画家の心境の変化のゆえか、レオナルドの手もとに残り、晩年の枢機卿との面談の折りに、法王の弟ジュリアーノからの依頼と説明されたと、西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、86頁~91頁)

『モナ・リザ』と、レオナルドの他の肖像画との比較


上記の憶測は限られた資料によるこじつけの域を出るものではないと断りつつ、真の解答は、むしろ画面そのものにこそ、求められてしかるべきだと主張している。
改めて『モナ・リザ』を観察してみると、画面に、人物を特定する情報がいっさい描き込まれていないことに気づく。
喪服を思わせる黒い服のみが、ヴァザーリの「モナ・リザ」説を裏付けている。
一般の肖像画であれば、描き込まれていなくてはならないはずの、人物特定のヒントになる紋章や衣服や持ち物類が、いっさい見当たらない。髪すらも結っていない。
これは、レオナルドの他の肖像画と比較しても、異例の処置であるようだ。

ここで西岡氏は、次の肖像画と比較している。
〇レオナルド『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』(1475年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
〇レオナルド『白テンを抱く婦人像』(1490年 ツァルトリスキー美術館 クラクフ[ポーランド])
〇レオナルド『音楽家の肖像』(1490年 アンブロジアーナ図書館 ミラノ)

『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』は、レオナルドが20代前半で描いた作品で、背景の木の名前「ジネブロ(杜松)」がモデルの名前の語呂合わせになっている。
『白テンを抱く婦人像』は、30代前半の作で、ルドヴィコ・スフォルツァの愛人の肖像である。画面には、スフォルツァ家の紋章である白テンが描かれている。
『音楽家の肖像』は、30代終盤に描いた作で、モデルが手に持つ楽譜とそこに書かれた詩句が、職業と人名を特定するヒントになっている。モデルはミラノ大聖堂楽長と推測されている。

こうしたヒントが、『モナ・リザ』の画面には一切見当たらない。
(西岡、1994年、91頁~93頁)

イザベラ・デステ説について


そうなると、唯一の材料である顔を、視覚的な論拠に、イザベラ・デステ説を主張するむきもある。
当代きっての才媛イザベラ・デステは、レオナルド筆のルドヴィコの愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』に感嘆し、再々にわたって肖像画を依頼している。レオナルドの素描も残っている。
〇レオナルド『イザベラ・デステの肖像』(1500年)
素描のみ現存する、このイザベラ像の完成作こそが、『モナ・リザ』とする説である。その論拠のひとつに、素描のイザベラ像と『モナ・リザ』の画面の一致がある。
事実、横顔のイザベラの素描と、斜め向きの『モナ・リザ』を並べると、顔の位置、手の位置、目鼻だちの比率はほぼ一致している(顔も、そういわれれば似ていなくもない)。
しかし、この一致は、身体の比率から顔の表情まで、厳密な理想型を定め、50歳前後からは、全作品がその理想の追求と化した感のあるレオナルドの画歴を考慮すれば、同一人物とする根拠としては、やや弱いと西岡氏はコメントしている。
(西岡、1994年、92頁)

レオナルドの自画像説について


『モナ・リザ』をレオナルドの自画像と見る説もある。
この説は以前からあったが、1986年に米国ベル研究所のリリアン・シュワルツが、画像処理コンピュータで『モナ・リザ』を反転し、レオナルドの自画像と重ねて、目鼻だちから髪の生え際までが完全に一致することを証明して、にわかにその説得力を増した。

ただ、このシュワルツ解析は、『モナ・リザ』のモデルの特定ではなく、むしろレオナルドの絵画論の視覚的な実証に貢献したといえる。レオナルド自身が、画家の描く人物は画家の分身であると書いているからであると西岡氏は解説している。

画家の描写は本来的に自己の身体を反映するもので、画家本人の持っている長所も短所も、すべての画家の描く人物に現れるといわれる。
(この言い分からすれば、すべてのレオナルドの人物画は、潜在的にレオナルドの自画像であり、完成度の高い分、『モナ・リザ』の自画像度も高いということになる)

シュワルツ解析は、この自画像度の高さを立証しており、レオナルドの絵画論を知る上では興味深いものの、モデル探しに関しては、あまり意義を持たない解析であると西岡氏はみなしている。
(西岡、1994年、92頁~95頁)

西岡文彦氏の見解


以上のように、『モナ・リザ』のモデルに関する仮説を西岡氏は説明する。
ヴァザーリ説をくつがえすには至らず、この作品は、とりあえず、『モナ・リザ』すなわち「リザ夫人」と呼ばれ続けている。
誰の肖像から出発したにせよ、最終的にはモデルにも発注者にも手渡されず、高額の提示にもレオナルドが売却を拒否し続けた以上、途中から、この作品は誰か特定の個人の肖像であることをやめてしまったと見るべきであろうと、西岡氏はみている。

西岡氏の興味は、むしろこの「誰でもない」肖像に、晩年のレオナルドが、いかなる思いを託していたかということの方にあるという。このことを知るために、レオナルドの女性観というものを知っておく必要があるといい、次章以下、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。
(西岡、1994年、96頁)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その1 私のブック・レポート≫

2020-08-07 19:10:26 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年8月7日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 これまで、ルーヴル美術館の作品を取り扱った著作を紹介してきた。
 今回からは、西岡文彦『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)を取り上げて、その内容を要約した上で、【読後の感想とコメント】を述べてみたい。

まず、西岡文彦氏のプロフィールを記しておきたい。
西岡文彦氏(1952年~)は、日本の版画家で、多摩美術大学教授である。
 今回、紹介する本が出版された1994年当時は、多摩美術大学特別講師であったようだ。
 1952年、山口市に生まれ、18歳で、版画家森義利氏に師事し、徒弟制10年の修業を経て、日本古来の伝統的版画技法「合羽刷り(かっぱすり)」の数少ない継承者となった。1977年以降、日本版画協会、国展で受賞し、海外展で注目を集めた。
 1980年、出版界に転進し、以降、画業と並行して、編集者、デザイナー、プロデューサーとして出版から映像までの広いジャンルで活躍する。
 画家の視点と編集者の発想をいかした絵画鑑賞入門のベストセラー『絵画の読み方』(宝島社、1992年)では、美術出版界に新風を巻き起こした。

 さて、今回は、その西岡文彦氏の著作『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の序章から第三章までの要約を記しておきたい。





西岡文彦『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の目次は次のようになっている。
【目次】
序章 カフェにて
第一の回廊 名画『モナ・リザ』の謎
第一章 『モナ・リザ』対面
第二章 パリの奇跡
第三章 盗まれた世紀の名画
第四章 自分の眼で見る
第五章 画家の眼で見る
第六章 謎の貴婦人
第二の回廊 レオナルド流転の生涯
第七章 処女懐胎の子
第八章 少年愛のルネッサンス
第九章 失われた『最後の晩餐』
第十章 万能の悲劇
第三の回廊 絵画史のスペクタクル
 第十一章  フィレンツェに還る
 第十二章  『モナ・リザ』誕生
 第十三章  風景の『受胎告知』
 第十四章  微笑む永遠
 第十五章  ラファエロの涙
 第十六章  レオナルドの水鏡
終章     カフェにて
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


序章 カフェにて
・フィレンツェのウフィッツィ美術館
・『モナ・リザ』の物語を読み解くために
・≪架空美術館としての本書の見取図≫

第一の回廊 名画『モナ・リザ』の謎
第一章 『モナ・リザ』対面
・ルーヴル美術館
・ルーヴル美術館の主な展示品

第二章 パリの奇跡
・ルーヴルの『モナ・リザ』
・芸術作品の受難の歴史

第三章 盗まれた世紀の名画
・『モナ・リザ』の盗難
・『モナ・リザ』盗難事件の内実
・事件解決後の『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』の帰属について
・レオナルドとフランソワ1世

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






序章 カフェにて


フィレンツェのウフィッツィ美術館


フィレンツェで最高のエスプレッソは、ウフィッツィ美術館のカフェで飲んだという体験から、西岡文彦氏は書き始めている。
そして、絵を見ること、美術館を歩くことを心から楽しめたのは、この美術館が初めてであったそうだ。

このウフィッツィが、西岡氏とレオナルドの初体験の地であった。
30歳の時、このウフィッツィで、29歳のレオナルドが描いた、未完の大作『東方三博士の礼拝』と出会い、生身の画家に「神」が宿ることを知ったと記す。
完成作品では決して見ることのできない生々しい筆の跡は、まさに神がかった技量を示していたが、生きた人間の手で描かれたことも、実感したようだ。つまり、まさしく神がかって見える筆致になお、レオナルドの焦りと迷いの跡までを、刻印していた。それは、人間レオナルドの「肉体」の痕跡を間近に見る、衝撃的な体験であったらしい。

ウフィッツィは、比較的小規模の美術館である。
ボッティチェルリのヴィーナスで知られる、このルネッサンスの宝庫は、パリのルーヴルやニューヨークのメトロポリタンのように、うんざりするほど大きくはない。
コの字型の回廊式の部屋の配置も、ひと通りの順路しかとれない。適量の名画を、時代順、地域別に味わうことになる。
回廊奥のカフェのテラスの右手には、ヴェッキオ宮の時計台がそびえる。そして正面には、フィレンツェ一の名所サンタ・マリア・デル・フィオーレ、すなわち花の聖母大聖堂の巨大なドゥオモ(円蓋)の赤煉瓦色と、ジオットの鐘楼の白と緑の大理石色があざやかな対比を見せる。また、廊下の窓からは、アルノ河に架かるヴェッキオ橋の景観が一望できる。

ウフィッツィ UFFIZIは、英語でいえば、オフィス OFFICEである。
フィレンツェ政府の総合庁舎として16世紀に建築された建物である。それだけに、間取りは単純、建築意匠は質実剛健である。展示はシンプルであるが、ボッティチェルリ、レオナルド、ミケランジェロ等々のルネッサンスの名品がある。

加えて、ウフィッツィの楽しさは、絵を眺めて歩くプロセスが、そのまま絵画の歴史をたどる道筋になっている点にあると西岡氏は強調している。つまり、地域別、年代順に作品を並べた順路は、まさに「歩く美術書」というにふさわしいそうだ。

西岡氏は、展示品について、次のように概括している。
まず、コの字型回廊の最初の一翼で、中世からルネッサンスへの絵画の変貌があざやかに示される。古代のヴィーナスの大理石に人間の肌の色がさし、中世の黄金祭壇の背景にルネッサンスのコバルト・ブルーがさす、この回廊の終点近くに、レオナルドの作品群がある。

渡り廊下をはさんだ反対側の一翼では、ルネッサンス期の光を失った、バロック絵画の闇への回廊がある。つまり、輝くようなヴィーナスの裸体が告げたルネッサンスの夜明けは、薄暮を絵画の採光の理想としたレオナルドを経て、バロックの夜を迎えることになる。
かつて絵画の背景がこれほど暗く描かれた時代はなく、昼間の光景を描きながら『夜警』とあだ名されたレンブラントの代表作は、バロック時代の象徴である。
回廊の終点近く、カフェ手前のレンブラントの自画像に至っては、明るい部分のスポットライトのような効果を強調するあまり、背景はほとんど真っ暗である。

この「光を描くための闇」という逆説こそが、ルネッサンス以降のヨーロッパ絵画が行き当たった袋小路の本質といえると西岡氏は理解している。
そして、この袋小路の暗さを実感してはじめて、印象派にはじまる近代絵画が、ヨーロッパ絵画にもたらした解放感の大きさも実感されるという。
したがって、パリでオルセーとルーヴルの両美術館へ出かけるのなら、ルーヴルを先にして、『モナ・リザ』の「薄暮」とレンブラントの「夜」だけでも、実感しておくのが得策であるそうだ。そして、駅を改造したガラス張りの天井に照り映える「光の殿堂」、オルセー美術館である。その名も『印象 日の出』というモネの作品にはじまった印象派の絵画の歓びは、これに先立つヨーロッパ絵画の「闇」を実感して、はじめて理解される。
つまり、ウフィッツィで絵画史の回廊を歩いた後に、ルーヴルの『モナ・リザ』を経て、オルセーに至るのが、理想のコースであるらしい。
(西岡、1994年、12頁~16頁)

『モナ・リザ』の物語を読み解くために


ルーヴルの至宝『モナ・リザ』は絵画史上、最高の名画である。
ヨーロッパ絵画史の縮図ともいわれる。
この小さな画面は、その神秘の微笑のうちに、『モナ・リザ』以前の絵画の足どりを濃縮し、背景の山岳からは、『モナ・リザ』以降の絵画のゆくえを遠望させてくれると西岡氏は捉えている。

西岡氏のこの著作は、そうした壮大な「美の地図」としての『モナ・リザ』を読み解くために、ウフィッツィとルーヴルを結び、ミラノとローマを遠望しつつ展開する「絵物語」であると自称している。
この著作が、『モナ・リザ』の物語を、フィレンツェから始めたのには、理由があるそうだ。というのは、中世からルネッサンスへの絵画史を展望する上で、ウフィッツィは必見の美術館であるとする。そして、フィレンツェ駅前からウフィッツィまでの1キロにも満たない道の途上では、ルネッサンスをひらいた建築、絵画、彫刻のドラマのすべてを展望できるからである。その物語は、ウフィッツィにならって、コの字型に仕立てた架空の美術館を巡るように展開するという。

≪架空美術館としての本書の見取図≫


西岡氏は、架空美術館を想定している。その内容は、章立てに反映されているが、次のようなものである。
最初の一翼は、『モナ・リザ』の波瀾万丈の物語を綴る回廊である。
フィレンツェで描かれた『モナ・リザ』がルーヴルにある理由と、20世紀初頭、一大スキャンダルとなった『モナ・リザ』盗難の顚末、さらには最大の謎、『モナ・リザ』のモデル問題(ただし、出版年1994年までの状況であることに注意――筆者注)を解明していく。

反対側の一翼(第三の回廊 絵歴史のスペクタクル)は、芸術都市フィレンツェのウフィッツィから、祝祭都市パリのルーヴル、オルセーへと至る、全絵画史の回廊である。
中世から脱却し、古代の美学をよみがえらせたヨーロッパ絵画が肖像画と風景画を生み出していくさまを眺め、『モナ・リザ』の画面内を美的かつ知的に遊覧してみたいという。

そして、その両翼をつなぐ渡り廊下(第二の回廊、レオナルド流転の生涯)では、故郷フィレンツェからミラノ、ローマを経て、異国フランス人で没することになる、レオナルドの流転の人生を追っている。この回廊では、万能であるがゆえに不遇に終わり、完全を求めるがゆえに未完に終わった、天才レオナルドの悲劇的な生涯を見出すという。そして、複雑な出生ゆえに、男性としての自己を否定し、少年愛に慰めを見出し、聖なる母のイメージを追い続けた、レオナルドの孤独な魂の流転を見出せるとする。

この架空の回廊の随所には、さまざまな角度からの『モナ・リザ』の見方を西岡氏は紹介している。全回廊を一巡した後、見慣れたはずの『モナ・リザ』に、自分なりの新鮮な感動を見出すことのできる柔軟な鑑賞眼を得るであろう。加えて、完璧に見える『モナ・リザ』の、その未完部分を正確に見出すことができる、画家なみの鑑識眼を得るであろうという。
(西岡、1994年、18頁~20頁)

第一章 『モナ・リザ』対面――ガラスのピラミッドから、名画の回廊グラン・ギャルリーへ


ルーヴル美術館


ルーヴルは巨大で、収蔵作品は30万点を超える。
その面積は、東京上野の国立西洋美術館の20倍に及ぶ。
ウフィッツィは1981年に400周年を迎えたのに対して、ルーヴルは1993年で200周年である。美術館としての歴史は、ウフィッツィのちょうど半分であるが、アメリカ合衆国くらいの歴史は持っている。
この巨大なルーヴルも、発端は、16世紀にフランス国王が蒐集したささやかなコレクションにあった。それはイタリア絵画19点と古代ギリシア・ローマ彫刻の石膏模型像であった。

「カルーゼルの小門」をくぐると、ルーヴルの中庭に出る。左手が中央に凱旋門を置く「カルーゼルの中庭」、右手が、中央にガラスのピラミッドを置く「ナポレオンの中庭」である。合わせて150m×500mほどの空間を、三方からコの字型に宮殿が取り囲む。
宮殿のない西北側には、隣接するチュイルリー庭園の散策路や植え込みが幾何学模様を描く。そしてコンコルド広場で巨大な針のように天を指すオベリスクから、シャンゼリゼの並木道を経て、シャルル・ド・ゴール広場の大凱旋門に至る壮観が、一直線に展開している。
(ミシュランのパリ・ガイドが、最上級三つ星で推薦する眺望である)

この幾何学的な景観を、ルーヴル中庭から凱旋門越しに一望する位置に建てられたのが、ガラスのピラミッドであるとされる。
その完成は、1989年である。200周年を機に、宮殿内にあった大蔵省事務局が退去し、展示面積を一挙に6割増しの5万7千㎡に拡充する新装ルーヴルの象徴として設計された。設計者は、中国系アメリカ人建築家I.M.ペイである。モニュメンタルな建築では、当代一の名手と知られる。
伝統あるルーヴル宮の中庭に出現したステンレス・スティールとガラスの幾何学形体には、賛否両論が渦を巻いたが、このピラミッドを通って美術館に入場する人の数は、1日平均2万人弱になり、パリの新名所として定着した。

美術館へは、ピラミッドを通って地下から入る。
見学者は、中央入口ホールで、シュリー翼、ドゥノン翼、リシュリュー翼の三方向に分かれた展示棟への順路の選択を迫られる。
(三翼ともに、並みの美術館四つか五つ分のスケールである。巨大なデパートの入口が三方向から口を開けたような迫力であると西岡氏は表現している。この巨大さには心身ともに圧倒されてしまう)

ウフィッツィと違い、ルーヴルは同じコの字型でも、回廊と中庭の入り組んだ巨大な道路のような空間を三階分重ねた大美術館である。
そこに、エジプト、オリエント、ギリシア、ローマ等の古代の発掘品、中世から近代までの全ヨーロッパの美術品が、ひしめきあっている。
(短時間に、地域別、年代順の代表作を眺めて歩くことは不可能である。単に『モナ・リザ』だけを目当てに歩き始めても、絵の前にたどり着くまでに、10分や20分はかかってしまう)
(西岡、1994年、22頁~25頁)

ルーヴル美術館の主な展示品


『モナ・リザ』は、セーヌ河沿いのドゥノン翼の二階「グラン・ギャルリー(大回廊)」、第八区画に置かれている。
(順路は、『モナ・リザ』の写真入りの案内板が矢印で教えてくれる)

「ミロのヴィーナス」と並ぶ、名物彫刻「サモトラケのニケ」は、ピラミッド下からドゥノン翼入口へ直行、古代ギリシア彫刻と石棺の並ぶダリュ・ギャルリーを直進して、大階段を登ると、それが置かれた踊り場に出る。
「サモトラケのニケ」は、はるか頭上のドーム天窓から光を受け、古代ローマの勝利の女神が翼をひろげるさまは、まさに美の殿堂ルーヴルのプロローグというにふさわしい。

「サモトラケのニケ」を右にUターンして階段を登ると、19世紀ロマン派の超大作が壁面を埋める部屋「ダリュの間」である。
実際の漂流事件を描く、ジェリコー作『メデューズ号の筏』や、歴史の本でおなじみのドラクロワ作『民衆をひきいる自由の女神』のフランス革命の名場面の、大画面を横目に、部屋を横切り左に折れると「三部会の間」に出る。
晩期ルネサンスの絵画が並ぶこの大広間は、芸術の都パリの総本山ルーヴルの奥の院といわれる。それは、荘重な雰囲気の部屋である。
(1993年の新装オープン以前は、『モナ・リザ』はここに展示されていた。日本のガイドブックには、この以前の展示位置を書いてあるものも多いので要注意とのこと)
(西岡、1994年、25頁~26頁)

第二章 パリの奇跡――『モナ・リザ』は、現存していること自体が奇跡である


ルーヴルの『モナ・リザ』


『モナ・リザ』が掛かっている回廊は意外なほど狭い。基本的に、『モナ・リザ』の前はつねに混んでいる。ただ、混んでいるわりには、この作品の前に10分以上立っている人も団体も滅多にいない。だから、何十分か待つ気になれば、世紀の名画の最高の鑑賞位置に立つことができる。

作品は見るからに頑丈そうな枠つきの防弾ガラスのケースに、額縁ごと入っている。大半の作品が、ガラスなしの額縁で飾られているルーヴルでは、異例の待遇である。ケース内部は厳重な監視下に置かれ、つねに一定の気温と湿度を保っている。絵が木製パネルに描かれており、乾燥すると木が反って、画面にひび割れが生じるためである。
(1960年代の点検で、作業場に移された『モナ・リザ』は、エアコンによる湿度の急変で、2、3時間のうちに反り始め、あやうくひび割れるところであったそうだ。)

『モナ・リザ』が海外展のためにルーヴルを出たのは、J.F.ケネディの熱望による1963年の米国展と、1974年の日本―ソ連巡回展の2回である。
今後、この絵がルーヴルを出ることもないといわれるから、『モナ・リザ』の前に立つことは、自分自身がパリにいることを実感する、最も感動的な方法のひとつである。
(西岡、1994年、27頁~29頁)

芸術作品の受難の歴史


『モナ・リザ』をガラスのケースに入れるとの決定は、20世紀初頭の1910年になされている。当時、歴史的な名画が、その権威を否定する人々に硫酸をかけられたり、ナイフで切りつけられたりする事件が頻発したためであるという。
その後も、作品の保安と公開の両立は、いまなお世界中の美術館の悩みの種である。ウフィッツィは1993年の爆弾テロで、死傷者を出し、収蔵品と建築物に多大な被害を受けた。
1991年、ウフィッツィのアカデミア美術館にあるミケランジェロの『ダヴィデ』像にハンマーで殴りかかって左足を砕いた人物がいた。シチリア出身の挫折した画家であった。
また1972年、ヴァティカンにある同じミケランジェロの傑作『ピエタ』の顔と左手をハンマーで打ち砕いたのは、キリストを自称する人物であった。
事件以降、両作品は防弾ガラスで見学者から隔離されている。

芸術作品の受難には、こうした悪意の他に、忘却や無関心、さらには戦災や天災という不可抗力が加わる。
その代表例が、レオナルドの『最後の晩餐』であるという。
この壁画は、レオナルド自身の技法上の失敗で、完成後まもなく画面が剥落し始めた上に、16世紀と19世紀の2度にわたって洪水に遭う。また17世紀には画面中央下部に扉を開けられ、18世紀末には部屋そのものが、ナポレオン軍の馬屋に使用されている。
そして、第二次世界大戦下の連合軍の爆撃で、壁画のある修道院はほぼ全壊に近い打撃を受けている。瓦礫の山の一角に、『最後の晩餐』を描く壁のみが、破壊を免れて立っていた(1943年)。作品が現存していること自体、奇跡としか言いようがない。

『モナ・リザ』についても、16世紀なかばに、左右を数センチずつ切断されている。額縁のサイズに合わせるための切断であったとみられている。

さらには、美術館そのものにも受難はある。
ルーヴルにしても、その長い歴史は決して平穏なものではない。18世紀の宮廷のヴェルサイユ移転と共に、大道芸人の小屋と居酒屋の群居する浮浪者の巣窟として、なかば廃墟化し、あやうく取り壊されるところであった。
18世紀末のフランス革命時には武器庫とされ、19世紀なかば、自治政府パリ・コミューンの時には、放火されている。中庭から、はるか凱旋門までを望む現在のルーヴルの眺望は、この時の西北側宮殿チュイルリー翼の焼失によって開けたものである。

20世紀の最大の危機は、第二次世界大戦のナチス・ドイツのパリ侵攻であった。ナチス副総統ゲーリングは美術品の略奪魔で、一級品は「H」の印を押してヒットラーに献上し、自分用には「G」の印を押して、特別列車でベルリンに移送していたそうだ。
略奪をおそれたルーヴル側は、『モナ・リザ』等の主要作品を、レジスタンスの協力を得て、フランス各地の極秘の場所に分散疎開させた。収蔵品の引き渡しを要求してきたゲーリングに対しては、交渉の引き延ばし作戦に出る。そして、ドイツ軍の撤退でルーヴルは略奪をまぬがれる。
(もし『モナ・リザ』がヒットラーの手に渡っていれば、ベルリン陥落と共に、どのような運命が待っていたかわからない)

『モナ・リザ』に限らず、歴史的な美術品は、無数の災厄を生き抜いてきた。こうした芸術の受難の歴史を眺めれば、『モナ・リザ』のケース入りも止むを得ない。ただ、この専用ケースを作ったイタリア人大工によって、『モナ・リザ』は、まんまとルーヴルから盗み出されることになる。
(西岡、1994年、29頁~32頁)

第三章 盗まれた世紀の名画――フィレンツェで描かれた『モナ・リザ』が、パリにある理由


『モナ・リザ』の盗難


『モナ・リザ』盗難の第一発見者は、模写画家のルイ・ブルーであった。1911年8月22日のことである。
ブルーは、『モナ・リザ』の掛かる展示風景を描いた絵が好評で、画商に催促されていたようだ。ブルーがその日の仕事にかかろうとセーヌ河を渡った時、ルーヴル対岸のオルセーはまだ美術館でなく駅であり、その壁の大時計は午前9時を指していたという。
当時のルーヴルでは、贋作の制作を防ぐために、オリジナルと同サイズの模写のみが禁じられていた以外は、制限らしい制限もなかった。模写の道具を預かる倉庫までが完備されていたようだ。

犯人のイタリア人大工ペルージアは、この倉庫に潜んで、『モナ・リザ』盗み出しの機をうかがっていた。ペルージアは、『モナ・リザ』のケースの取付け工事を請け負った4人の大工のひとりであり、館内の様子は熟知していた。
まず、日曜日の閉館直前に見学者を装って館内に入る。閉館と同時に、共犯の仕事仲間ランチェロッティ兄弟2人と倉庫に忍び込む。中で一夜を明かし、翌月曜日の休館日を待つ。
明けた月曜日の朝、休館日に館内に入る清掃業者を装って倉庫から出た3人は『モナ・リザ』の部屋に向かう。
周囲に人目のないことを確認し、壁から『モナ・リザ』をケースごと外し、職員用階段の隅にケースと額を隠す。

額縁を外した正味の『モナ・リザ』の寸法は、80cm弱×50cm強である。世紀の名画を作業着でくるんだ犯人一味は、休日のルーヴルから逃走する。この間の所要時間は、ほぼ1時間だったようだ。

そして翌火曜日の朝9時、画商にせかされた画家ブルーが、道具一式を携えて、『モナ・リザ』のあるはずの壁の前に立った時には、すでに盗難から24時間が経過していた。壁に『モナ・リザ』がないのに気づいたブルーは、警備員に「ジョコンダは?」とたずねる。
(「ジョコンダ」は『モナ・リザ』の通称で、欧米ではこちらの方が通りがいい)

行方をくらましたジョコンダに、警備員はさして驚いた様子もなく、写真撮影のためのスタジオ入りだろうと説明した。数時間待って、しびれを切らしたブルーが再度、苦情を申し立て、盗難自体が確認されたそうだ。事件後なんと30時間近く経過してしまう。
(実は、前日の月曜の盗難直後に、警備主任自身がすでに『モナ・リザ』が壁にないことに気づいているが、やはり写真撮影のためのスタジオ入りと思ったらしい)

明けた水曜日の朝、フランスを代表する新聞「ル・マタン」の第一面は、“想像を絶する!”と報じた。「ニューヨーク・タイムズ」のトップも、“ラ・ジョコンダ、パリで盗まる”の大見出しを揚げる。ジョコンダは、この時から2年半の間、完全に行方不明となる。

2週間後、フランス警察が最初の容疑者として拘引したのは、天才の誉れ高き詩人アポリネールと画家ピカソであった。ピカソは、“最初の20世紀絵画”と賞される傑作『アヴィニヨンの娘たち』を描き上げたばかりだった。
ルーヴルの発掘品倉庫からの窃盗の常習犯で、ベルギー人作家ピエレが、この2人に盗品の古代彫刻の小品を売っていたことを自白したことが、拘引のきっかけとなった。
ポーランド人アポリネールと、スペイン人ピカソは、国外追放を何より恐れた。涙ながらに『モナ・リザ』事件との関係を否定した2人は、証拠不充分により釈放された。
(結局、『モナ・リザ』発見までの2年間に、フランス警察が容疑者として正式に拘引したのは、このアポリネールとピカソのみであったそうだ)
(西岡、1994年、33頁~38頁)

『モナ・リザ』盗難事件の内実


この世紀の盗難事件の首謀者は、アルゼンチンの詐欺師ヴァルフィエルノであった。
ペルージアとランチェロッティ兄弟は、わずかな金で雇われたに過ぎない。実は、ヴァルフィエルノのねらいは、実物の『モナ・リザ』にはなかったようだ。
彼の主眼は、『モナ・リザ』の贋作を、ルーヴルよりの盗品と称して秘密裡に売りさばくことにあった。これは実物の売却よりはるかに危険が少ない上に、何点もの「モナ・リザ」を売れるという利点がある。こうした盗品に見せかけた贋作の売却がヴァルフィエルノの専門で、美術館から盗み出したと偽っては、名画の贋作を売りさばいていた。

『モナ・リザ』の盗難の成功を確認すると、ヴァルフィエルノは渡米し、贋作の売却にとりかかる。アメリカは好景気の絶頂で、成金趣味が蔓延しており、6点の贋作が売却され、40億円を彼は手にした。
哀れなペルージアは、自分が利用されたことも知らず、その後2年にわたって、貧乏暮らしのなかでヴァルフィエルノの連絡を待ち続ける。
盗み出した『モナ・リザ』は、ペルージアの安トランクの二重底に隠され、これが幸いして『モナ・リザ』は変色もせず、反りもせず、無傷で保管される。ペルージアの困窮が最小限の暖房しか許さなかったことも、作品の保管上からは幸運であったようだ。

盗難から1年後、ついに作品の帰還を絶望視したルーヴル当局は、事件後空いたままになっていた壁に、レオナルドの後輩にあたる画家ラファエロの晩年の肖像画を掛ける。
(この作品が、『モナ・リザ』の占めていた聖なる場所を侵害するものとして、少なからぬ反感の的となった)

狡猾なヴァルフィエルノは、最初から本名を告げずにペルージアに接触した。連絡のないことにしびれを切らしても、ペルージアの側からは連絡のとりようがなかった。
ついに、ペルージアが『モナ・リザ』の処分を決意したのが、2年後の1913年の12月である。処分先に選ばれたのは、ルネッサンス美術のメッカ、フィレンツェの画商であった。
ペルージアのぼろトランクの底に隠されて、列車で国境を越えた『モナ・リザ』は、実に400年ぶりにイタリアに帰郷することになった。

その前の月、ウフィッツィ美術館館長ポッジは、地元フィレンツェの画廊主ジュリから奇妙な相談を持ちかけられた。パリ在住の「レオナルド」というイタリア人から、ナポレオン時代にイタリアから強奪された財宝を故国に持ち帰りたい、との手紙を受け取ったという。
(その財宝とは『モナ・リザ』のことらしく、差出人は法外な要求をするつもりはないが、現在、生活に困窮している旨が書かれている)
ポッジもジュリも半信半疑であった。しかし、ことが『モナ・リザ』に関するだけに慎重を期し、パリの差出人との手紙と電報のやりとりを繰り返す。

12月9日、ペルージアがフィレンツェに入ったことを告げる電報が、画廊主ジュリに届く。翌々日、ジュリとポッジ館長は、ペルージアの滞在する安宿「トリポリ=イタリア」の一室で、トランクの底からまさかと思った『モナ・リザ』が取り出されるのを目の当たりにする。あまりの衝撃に、二人は、しばし口もきけなかった。ペルージアは、満足げに微笑んだ。

この時、討議された報酬の額は10万ドルといわれる。
しかし、公共の美術館が盗品の買い入れに応じるはずはなく、鑑定のためにと『モナ・リザ』を無事預かった時点で、ポッジ館長が警察に通報する。ペルージアは逮捕され、『モナ・リザ』発見の大ニュースが全世界に打電される。
パリを絶望させた『モナ・リザ』の盗難劇は、フィレンツェを熱狂させる『モナ・リザ』帰還のニュースで、その幕を閉じた。

ペルージアは、逮捕直後から『モナ・リザ』強奪は自分の単独犯行であり、動機はイタリアの国宝を故国に返還することにあったと主張し始める。
これを真に受けた庶民の間で、ペルージアは国民的英雄となり、スター的な存在になる。
詐欺師ヴァルフィエルノは、このペルージアのひとり芝居を複雑な心境で眺めていた。彼は、モロッコ駐在の新聞記者に、秘密厳守を条件に、事件の真相を明かしている。新聞記者は、その後17年にわたり、この約束を守った。
そのおかげで、『モナ・リザ』盗難は愛国心にかられたイタリア人の犯行であるという伝説が定着してしまう。
(ヴァルフィエルノの死後、記者は真相を出版する。しかし事件当時とは一転して世界規模の恐慌下では、名画盗難のミステリアスな顚末も、さしたる反響は呼べずに終わっている)
(西岡、1994年、38頁~42頁)

事件解決後の『モナ・リザ』


ウフィッツィ美術館は、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』の無事を報告し、返還を申し出ると同時に、イタリア国内での公開の許可を求め、快諾を得る。
フィレンツェに「帰還」した『モナ・リザ』は、1913年12月14日、公開される(午前9時から午後1時までの間に、3万人が押し寄せたという)。

続いてローマ、ミラノと巡回展示され、その年の大晦日、ミラノ―パリの特急列車に乗ってルーヴルへ帰還する。
2年半ぶりに『モナ・リザ』は、パリに帰還し、新年のパリは、ラ・ジョコンダ・フィーバー、一色に彩られる。ルーヴルで再公開された最初の2日間で、見学者は10万人を超えたという。

一方、この熱狂に反比例するように、犯人ペルージアの「人気」は衰えていく。
初公判の傍聴人は数えるほどであった。事件翌年の春の判決は有罪で1年と15日の懲役である。同年夏の控訴審の判決が、特赦による減刑7か月であった。既に7か月以上拘留されていたので、裁判終了と同時に釈放される。
ペルージアは、フィレンツェで初めて泊まったトリポリ=イタリア・ホテルへ戻ろうとするが、すでにその名のホテルは存在しなかった。『モナ・リザ』発見にちなんで、ホテル・ラ・ジョコンダと改名していた。
(西岡、1994年、43頁~44頁)

『モナ・リザ』の帰属について


こうして、「愛国者ペルージア」は事件の舞台から姿を消す。
このイタリア人による“『モナ・リザ』奪還”という英雄伝説の筋書に水を差す最大の要因は、『モナ・リザ』が強奪された作品ではなく、フランス王室によって正規に買い取られた作品だという事実である。
しかも、国外への持ち出しはレオナルド自身によって行なわれている。

ところで、ギリシアの文化大臣メリナ・メルクールが、ルーヴルの収蔵品の大半は、フランス帝国主義の収奪の所産にほかならず、文化遺産の当事国に返還すべきであると主張したことがある。
ルーヴル側の担当者の感想に関して、小島英煕氏の著作を引用している。
――もしギリシアの「サモトラケのニケ」を返せ、ということになると、世界中の美術館で同じような問題が起こり、解決不能な状態になるでしょう。もし、すべてを強行すれば、フランスにはフランスだけ、日本には日本だけ、エジプトにはエジプトだけ、ギリシアにはギリシアだけの芸術品しか見られないことになる。これは誰にとっても望ましからざる結果でしょう。『モナ・リザ』をイタリアに返すことが現実的でしょうか――
(小島英煕氏『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリー、1994年、160頁)

【小島英煕『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリーはこちらから】

ルーヴル・美と権力の物語 (丸善ライブラリー)

この担当者は、ルーヴルにありながら、ペルージアと同じ誤解をしていると西岡氏はみている。
『モナ・リザ』は、もともと「返す」必要はない作品だからである。『モナ・リザ』は確かにフィレンツェで描き始められたが、レオナルド自身によってミラノへ持ち去られ、その後、ローマから臨終の地フランス、アンボワーズまで、終生レオナルドの手もとに置かれた作品である。

レオナルドの遺言で、弟子メルツィに託され、このメルツィからフランス宮廷が正式に買い上げ、以降、フランス王宮の秘宝となっている。以上が、その理由である。
(西岡、1994年、44頁~45頁)

レオナルドとフランソワ1世


臨終の地アンボワーズにレオナルドを招いたのは、国王フランソワ1世である。
フランソワ1世は、フランスに、イタリアに匹敵する芸術をもたらそうとして、ミケランジェロ、ラファエロも招聘している。しかし、両者は本国での仕事が忙しく、本国で不遇であった晩年のレオナルドのみが、この招きに応じることになった。
フィレンツェ、ミラノ、ローマと、みずからの才能の理解と庇護を求めて、放浪し続けた失意のレオナルドは、このアンボワーズで、平穏を得る。レオナルドの他界は、その3年後のことであった。

晩年のレオナルドに安息の地を提供したフランソワ1世は、この万能の天才を父のごとく慕い、彼と会話することを好んだという。
ルネッサンス芸術家の伝記集として名高いヴァザーリの「美術家列伝」は、レオナルドはこのフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと書いている。この記述は歴史的には正確ではないが、生涯不遇であったレオナルドが、晩年に初めて得た厚遇を象徴している。
フランソワ1世が、レオナルドの死の知らせに落涙したのは事実らしい。

レオナルドの死後、フランソワ1世は、『モナ・リザ』をはじめとする絵画19点を、古代ギリシア・ローマ彫刻の石膏像と共に、最初のフランス王室コレクションとした。これらの作品は、フランソワ1世の居城フォンテーヌブロー宮に置かれ、王室の賓客をもてなした後、フランソワ1世が修復したセーヌ河畔の古城に移されることになる。
ルーヴル収蔵品目録は、『モナ・リザ』の収蔵年を、1519年としているそうだ。目録中、最古のこの収蔵年はレオナルドの没年である。
(西岡、1994年、44頁~47頁)