(2020年8月30日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
【はじめに】
今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十四章から第十六章および終章の内容を紹介してみたい。
「第十四章 微笑む永遠」では、『モナ・リザ』の構図などの影響関係を解説している。たとえば、バルドヴィネッティ『聖母子』(1460年頃、100×75㎝ ルーヴル美術館)は、少年レオナルドのヴェロッキオ入門の少し前の1460年前後に制作されているが、広大な風景をバックに聖母子を描く構図は驚くほど『モナ・リザ』に似ている。そして、最遠景に重層する山脈を配し、手前に丘陵を描き、中景を蛇行する河に橋が架かり、左に大きな山塊、右に水面越しに山脈を遠望する背景に、人物が椅子に座っている。その構図は『モナ・リザ』と一致する。
また、『モナ・リザ』の微笑の意味について考える上で、釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事が、格好のヒントを含んでいると西岡氏はみている。
「第十五章 ラファエロの涙」では、『モナ・リザ』とラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(1515年頃、カンヴァスに油彩、82×67cm、ルーヴル美術館)との関係について論じている。『モナ・リザ』とは似ても似つかぬ髭面の男性の肖像ながら、ラファエロのレオナルドへの憧れを結晶させて、これほど胸を打つ作品はないといわれる。
この『カスティリオーネの肖像』と『モナ・リザ』が、なにやら似て見えてくるあたりから、『モナ・リザ』鑑賞は真の意味での佳境に入ると西岡氏は説いている。『カスティリオーネの肖像』は、個人の肖像画でありながら、『モナ・リザ』にも通じる「はかりがたさ」をただよわせている。
ラファエロは、レオナルドとミケランジェロを折衷して、ルネッサンスを完成させた画家であるが、そのラファエロがフィレンツェで『モナ・リザ』を見たのが、21歳の時である。『カスティリオーネの肖像』は、ラファエロが32歳の時で、死の5年前の作品である。フィレンツェの衝撃以来10年、『モナ・リザ』の画境に肉薄することを夢見たラファエロが、カスティリオーネというレオナルド的な人格を夢見た哲学者をモデルに得てはじめて、「はかりがたき」境地に迫ることができたようだ。
人物画に「はかりがたさ」というものが表出するためには、そこに単なる似顔絵を超えた描写の普遍性が備わっていなくてはならなかった。レオナルドはこのことを説明して、人物の似顔をそのまま描くことは、「個」のために「普遍」を捨てることだし『絵画論』に書いている。この深遠とも見えるレオナルドの主張は、私たちが人物画を眺める際に自明の前提としていることであると西岡氏は解説している。
『モナ・リザ』は「個」のために「普遍」を捨てることを諫めたレオナルドが、「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品である。つまり、『モナ・リザ』は、人物画というジャンルを確立した作品である。単なる似顔絵を超えた「個」の画像のなかに、人間としての「はかりがたさ」を描き出すことで、ルネッサンスの肖像画を、普遍的な人間像の表現に高めることに成功した作品であると西岡氏は理解している。
これを時代のバロックに受け継いで、究極の「個」ともいうべき「自己」の肖像のなかに「はかりがたさ」を描き出すことで、自画像というジャンルを確立したのが、レンブラントであった。このレンブラントの崇高ともいうべき画境へと至る、晩年への歩みの折り返し地点となったのが、『カスティリオーネの肖像』を模して描かれた自画像であった。
「はかりがたさ」において、『モナ・リザ』に通じるひとりの普遍人の肖像にその範を見出して、究極の「個」としての「自己」のなかに「普遍」を描くレンブラントの自画像は誕生したと解説している。
「第十六章 レオナルドの水鏡」では、『モナ・リザ』という作品の人物と風景の筆致の違いに注目して、解説している。レオナルド以前には、消去不能の「筆」の跡であった筆致は、レオナルドの登場以降、画家がそれを残すか残さぬかを選択し得る「手」の跡として、絵画の持ち味のひとつになった。近代絵画の足どりは、この「手」の痕跡としての筆致がひらいたものであるといわれる。モネの躍るような筆致も、ルノワールの柔和なタッチも、燃え立つようなゴッホの筆触も、強烈な個性を発揮する「手」の痕跡の、生命感で人々を魅了している。『モナ・リザ』は、その背景に、早くもこの近代の筆致を予見している。
その画面は、謎の微笑に、筆の跡をいっさい残さぬスフマートの神技を見せつつ、遠方の山岳には、近代絵画を予告するかのような奔放なるインパストの筆致を見せている。
また、レオナルドは『絵画論』に、画家は鏡を師にせよと、しきりに書いている。筆致を消したスフマートの驚くべき写実性は、磨き抜かれた鏡を思わせるが、西岡氏は「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉で説明している。レオナルドのスフマートは、この明鏡止水の画境を目指す技法であったという。
5世紀半に及ぶ油彩絵画の歴史上、最初の1世紀も経ぬうちに、『モナ・リザ』は描かれた。にもかかわらず、すでに画面は精妙なるスフマートから奔放なインパストに至る、油彩の筆致の両端を示している。
この筆致の振幅に注意を払いつつ、西岡氏は絵画の歴史を概観している。
レオナルドの背景からラファエロの画面に波及した筆致のさざ波が、ヴェネツィアの運河の夕陽に、アレティーノを嘆息させたティツィアーノを経て、1世紀後のレンブラントの夜に至る足どりを思い、もう1世紀少しの後、レンブラントの背景の闇を払拭し、水面に反射するモネの日の出となって、印象派のめくるめく筆致を招来すると捉えている。西岡氏は、ルネッサンス期のレオナルドから近代の印象派までの、筆致の変遷をまとめている。
近代の筆致は、細部において『モナ・リザ』の遠景と酷似しており、レオナルドの筆致の先駆性を物語っている。とりわけターナー『吹雪』の濃密な大気感は、『モナ・リザ』の大気感を思わせるという
『モナ・リザ』の背景の山岳に見えるインパストという筆致は、ラファエロ、ティツィアーノから印象派へ継承されることが予見されるとし、「はかりがたき」微笑といった内面描写は、バロックのレンブラントから後期印象派のゴッホにまで影響を及ぼしているとみられる。内面的にも、外面的にも、絵画という美の旅において、この『モナ・リザ』は、始発駅であり、終着駅であるという。
「終章 カフェにて」では、レオナルドの流転との軌跡と『モナ・リザ』について、西岡氏は、次のように、要約している。
未完の『東方三博士の礼拝』をフィレンツェに残して、30歳でミラノに発ったレオナルドが、故郷に帰ったのが、50歳を間近に控えた頃である。
『最後の晩餐』の巨匠は、敬意をもって迎えられるが、サヴォナローラ処刑の2年後のフィレンツェは、レオナルドの知る、かつてのフィレンツェではなかった。
師ヴェロッキオは他界し、ボッティチェルリはサヴォナローラの火刑の痛手から画業を放棄し、時代の主役は、レオナルドとは親子ほども歳の離れたミケランジェロにとって代わられようとしていた。
ほどなくこの二人の巨匠は、フィレンツェ政庁の一室の向かい合わせの壁面に、フィレンツェ共和国史上記念すべき戦闘の場面を描くことを委嘱され、文字通り「世紀の対決」を演じることになる。レオナルドの壁面『アンギアーリの戦い』は、彼のフレスコ嫌いがたたって流れ出し、ミケランジェロの壁画『カッシーナの戦い』は、彼のヴァティカン招聘で、中途で放棄され、世紀の対決は、決着のつかぬままに終わる。
この時期、着手されたのが、『モナ・リザ』であったのである。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】
第十四章 微笑む永遠
・ルーヴル美術館の諸作品
・バルドヴィネッティ『聖母子』とレオナルドの『モナ・リザ』
・レオナルド作品の「はかりがたさ」と『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』の微笑と「拈華微笑」
第十五章 ラファエロの涙
・ラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』
・『モナ・リザ』の「はかりがたさ」
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレオナルドの『モナ・リザ』
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレンブラント
・レンブラントの自画像 と『カスティリオーネの肖像』
第十六章 レオナルドの水鏡
・絵画の筆致
・ラファエロの『カスティリオーネの肖像』
・ティツィアーノの『田園の奏楽』
・印象派のマネの『草上の昼食』とモネの『印象 日の出』
・英国風景画の巨匠ターナー
・ルネッサンス期からの筆致の変遷
・内面告白の系譜としてのレンブラントとゴッホ
・「第十六章 レオナルドの水鏡」のまとめ
終章 カフェにて
・レオナルドの流転の軌跡と『モナ・リザ』
※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。
第十四章 微笑む永遠
ルーヴル美術館の諸作品
フィレンツェからパリへの道は、『モナ・リザ』のたどった道でもある。万感の去来したであろう天才レオナルドの心中に西岡氏は思いを馳せている。
ところで、パリのルーヴルには、ボッティチェルリのフレスコ画がある。
「サモトラケのニケ」の踊り場を右折して、階段を登ったところの回廊の、入ってすぐ左側の壁に、それらは掛かっている。
〇ボッティチェルリ『ヴィーナスと三美神に贈物を授かる婦人』1484年頃、ルーヴル美術館
〇ボッティチェルリ『自由七学芸の集いに導かれる青年』1485年頃、ルーヴル美術館
これらは、フィレンツェ郊外のレンミ荘という館の壁面を移植した作品で、一対になっている。
この表面の質感を、グラン・ギャルリーの『モナ・リザ』やサロン・カレの『岩窟の聖母』の緻密な画面と比べてみれば、フレスコという技法が、いかにレオナルドの画風から隔たっているかがわかる。
ちなみに、右側の『自由七学芸の集いに導かれる青年』に車座で描かれた7人の女神は、当時の正統的学問の擬人像である。手前から、音楽、天文学、幾何学、文法、数学、論理学、修辞学を表わしている。レオナルドが超えようとした旧学問体系の象徴である。
このボッティチェルリの作品を眺めた後、回廊を直進すると、レオナルド礼拝堂ことサロン・カレの仕切り壁の裏手に出る。この部屋には、理想の母性を描く『岩窟の聖母』をはさみ、官能的な男性像を描く『聖ヨハネ』と、女性嫌悪も露骨な『貴婦人の肖像』が並ぶ。
ここに並ぶ諸作品には、レオナルドの人生の縮図を見出すことができると西岡氏はみている。つまり、若き日に男色のかどで告発され、生涯を通じて、身近に美少年を置いたレオナルドであった。
(西岡、1994年、186頁~187頁)
バルドヴィネッティ『聖母子』とレオナルドの『モナ・リザ』
さて、この部屋を右折すれば、『モナ・リザ』の掛かるグラン・ギャルリーである。その前に、この大回廊をもう50mほど進んだところの右側の壁に掛かる、バルドヴィネッティの聖母子像に西岡氏は注意を促している。
〇バルドヴィネッティ『聖母子』1460年頃、100×75㎝ ルーヴル美術館
作品は、100×75㎝で、『モナ・リザ』より、ふたまわりほど大きい。
制作は、少年レオナルドのヴェロッキオ入門の少し前の1460年前後とされる。そして、広大な風景をバックに聖母子を描く構図は驚くほど『モナ・リザ』に似ている。
例えば、最遠景に重層する山脈を配し、手前に丘陵を描き、中景を蛇行する河に橋が架かる。左に大きな山塊、右に水面越しに山脈を遠望する背景に、人物が椅子に座っている点まで同じである。
手前のイエスが座るバルコニーを、合掌する聖母の後ろに置けば、構図は『モナ・リザ』と完全に一致する。
そして、レオナルドの、バルドヴィネッティとの類似は、『受胎告知』の樹木にもある。
探究癖が画歴を阻害している点でもバルドヴィネッティは、レオナルドに先駆している。バルドヴィネッティは、40年余りにわたって日記を綴り、テンペラ絵の具と油彩の混合技法の研究に没頭し、しばしば画面を損なった。
このバルドヴィネッティは、その画風と“未完”の性癖を継承しているのかもしれないと西岡氏は推測している。
バルドヴィネッティの『聖母子』やレオナルドの『モナ・リザ』の背景に共通する、高い位置から風景を遠望する構図は、「高台(たかだい)構図」と呼ばれる。この構図は、フランドル絵画の巨匠で、油彩技法の完成者でもあるヤン・ファン・アイクの創案とされる。重層した山脈を空気遠近法の濃淡で描き分け、遠大な距離を表わすのに適している。
なにより、画中の人物に高山の頂きからの眺めのような背景を与えることでかもしだされる、超越的なたたずまいが、その特色であるとされる。
バルドヴィネッティの聖母子にしても、この「北」を代表する巨匠ヤン・ファン・アイクの創案になる構図法の背景を得て、やさしさのなかにも、俗人の母子にはない高貴さをたたえている。
ただし、その風景の描写そのものは、いかにも「南」風の箱庭的な性格が顕著で、地形も建物も、模型のように見える。
一方、同じ高台構図で描いた『モナ・リザ』は、「北」にも例がないほどの写実性で、深遠で幽玄な空間を描き出している。同じ構図であるだけに、両者の対比はあざやかであると西岡氏は評している。
その対比を確認した上で、グラン・ギャルリーをサロン・カレ方向に戻り、約40年を経て出現することになる、その深遠なる絵画空間を描き出した『モナ・リザ』を鑑賞してほしいという。
(西岡、1994年、187頁~190頁)
レオナルド作品の「はかりがたさ」と『モナ・リザ』
『モナ・リザ』の神秘の微笑を描くスフマートに到達するために、ヨーロッパ絵画は、テンペラから油彩への長きにわたる研鑽の道をたどった。また、この幽玄の風景を描くために、中世絵画の背景は黄金を捨て、「南」の理想に「北」の写実を導入して、画中に風景を懐胎したといわれる。
そして、この描かれた哲学としての至高の境地に到達するために、ルネッサンス芸術は、ブルネルスキが古代研究を経てドゥオモを設計案コンクールの雪辱戦で果たした、「技」から「学」への飛翔を遂げる必要があったそうだ。
『モナ・リザ』の画面は、レオナルドの『受胎告知』(1475年頃、フィレンツェのウフィッツィ美術館、単独作品としてはレオナルド最初の作品とされる)の採光をさらに徹底、遠景が明るく近景の暗い薄暮の空間に、黒い衣装をまとわせた人物をシルエット状に描き出している。
ほとんど輪郭線に頼らずに描かれた四分の三正面像は、静かな姿勢を「静止」させずに、「維持」し続けている。
本来、四分の三正面像は、フロンタルやプロフィルのように不自然に姿勢を固定せず、自然な印象の人物を描くためのものであった。この偶発的な姿勢を、レオナルドは、永遠に「維持」する状態に描き出している。永遠の微笑が、超人的な印象をたたえ、画面に、名状しがたい永遠のイメージが見えるのは、そのためであると西岡氏は説明している。
加えて『モナ・リザ』の背景の地形の描写も、画面に悠久の時間をかもしだしている。
写実的に描かれながらも、手前に平野部、奥に山岳を置き、河川を配した風景は、水の浸食作用による、地形の造成衰退の模式図を想起させる。
レオナルドの手記によれば、地形の状態を通して悠久の時間に思いを馳せることは、人間精神の最も豊かな営みであるという。この地形観を反映しているとみる解釈もある。つまり河の流れや地形に勢いのある左の背景を原初の地形、荒涼とした右の背景を衰弱した地形と見て、地形の生と死を表わしたものとみる。
(ウフィッツィの『東方三博士の礼拝』の背景も、そうであるが、歴史の推移を、左右の背景で象徴することは、中世来の伝統的な手法であった。)
また、レオナルドの手記には、人間が小宇宙であるように、大地は山岳を骨とし、河川を血管とし、潮の干満で呼吸する、とも書かれている。人間の生涯とは比較にならぬ悠久の時を経て、生成死滅を繰り返す、生命体としての地形を背景に、小宇宙としての人間を描くことで、画面は永遠の相を宿していると西岡氏は解釈している。この超越的な空間のなかで微笑する人物を描いたレオナルドの意図には、「はかりがたさ」がつきまとう。
この「はかりがたさ」は、レオナルド作品に一貫して見られる特徴であると西岡氏は主張している。
例えば、ヴェロッキオ『キリストの洗礼』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)に、すでにこの特徴は顕著であるとする。これは、レオナルド最初の師ヴェロッキオの助手を務めた20歳の頃の作品である。
師ヴェロッキオの天使も、愛くるしい動作や表情であるが、優美なるレオナルドの天使の隣では、作為的で類型的な「無垢」や「清純」を表わす媚態と映ると西岡氏は評している。つまり、表現の意図が露骨に過ぎて、「はかりがたさ」というものがないという。
対照的に、レオナルドの天使には、無垢と清純と共に、不思議な老成が同居し、男とも女ともつかぬ、まさに人間を超越した「はかりがたき」イメージが現出していると高く評価している。
(この天使を見て、師ヴェロッキオが自身の画才に絶望し、以後、二度と絵筆をとらなかったというヴァザーリの挿話は有名である。)
同じ「はかりがたさ」は、ルーヴル美術館のサロン・カレに掛かる『岩窟の聖母』(1486年)や『聖ヨハネ』(1515年)にも見えている。30代前半に描かれた『岩窟の聖母』では、幼子イエスに無類の品格が感じられる。このイエス像は無垢の幼児性と老成した気品とが見事に同居している。
一方、最晩年の作品『聖ヨハネ』では、身にまとう毛皮も手にした十字架も、闇の中に沈み込み、ただ頭上を指す指と、不思議な微笑のみが浮かび上がる。聖書の人物を描きながら、謎めいた微笑に、教義的な解釈を拒否するかのような、軽侮の表情を宿している。
(その「はかりがたさ」のかもしだす神々しき天使性ゆえに、同性愛者としての自画像との解釈も生じたようだが。)
『モナ・リザ』は、このレオナルドの「はかりがたさ」の極致を示す作品である。
ここには、特定の個人の、特定の感情は、いっさい描かれていない。誰とも知れぬ女性の、名状しがたい表情のみが描かれている。喜びと悲しみ、若さと老い、官能と禁欲と、相反するはずのものが不思議の微笑のなかに、渾然と渦を巻いている。
『モナ・リザ』をめぐる無数の論評が、必ずや身にまとうことになる神秘性は、この「はかりがたさ」の、言葉による表出であると西岡氏は理解している。
なかでも、謎めいた論評として、ウォルター・ペイター(19世紀英国の唯美主義運動の主導者)の一文が有名である。
〇ギリシアの獣欲主義、ローマの快楽主義、中世の神秘主義等々、世界のすべての思想と事件が、この作品の中には刻みこまれている。
〇異教徒の世界が再現され、ボルジア家の罪業を宿し、モナ・リザは、彼女を取りまく岩山よりも長い歳月を生き、吸血鬼のように幾度も墓に眠り、死後の世界を見てきたのである。
〇モナ・リザは、レダと同様にトロイアのヘレネーの母親であり、聖アンナと同様にマリアの母親でもあった。
(摩寿意善郎監修『巨匠の世界・レオナルド』タイムライフ刊より)
これは、厳密な意味では批評ではなく、作品に触発された夢想を綴る随筆であると西岡氏はコメントしている。こと『モナ・リザ』に関しては、こうした随筆まがいの論評でなくては、歯の立たない部分があると付言している。
そして、微笑を浮かべた四分の三正面像という、おそろしく中途半端な状態を、永遠の相のもとに「維持」し続けている点で、『モナ・リザ』は、見る者の焦燥を喚起するともいう。
(西岡、1994年、190頁~196頁)
『モナ・リザ』の微笑と「拈華微笑」
本来、微笑は特権的な表情である。
なにごとかを密かに知る者が、以心伝心の暗黙裡の伝達をはかる時、決まって浮かべるのが微笑であるという。この微笑の特権的な性格を象徴するのが、釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事であると西岡氏は考えている。
(一般に「拈華微笑」は、禅宗で以心伝心で法を体得する妙を示すときの言葉である。)
『モナ・リザ』の微笑の意味を考える上で、格好のヒントを含んでいるとみている。
さて、釈迦の「拈華微笑」の故事とは、次のような内容である。
ある時、釈迦が一輪の花を摘んで弟子たちと会衆に示した。人々が、その意味を理解できずにいる中で、釈迦の高弟である摩訶迦葉(まかかしょう)のみが微笑し、これに応えて、釈迦が摩訶迦葉を、自分の教えを継ぐ者としたという故事である。
釈迦が示したものは、一輪の花の中にひそむ、宇宙と生命の実相といわれる。ただし、これを言葉という手段を使わず、現物の花をもって示したところ、その意味を解したのが摩訶迦葉のみであった。摩訶迦葉は了解のしるしに、これも無言で、得心の笑みのみをもって応えた。これが師弟の間の、究極の以心伝心のコミュニケーションとして作用する。
こうして、釈迦の開いた仏法の教えが、すでに摩訶迦葉の中に言葉を超えた次元で体得されていた。
日本人には、感覚的にこの「拈華微笑」を了解できる心性というものはあるようだ。
相互にかわされる無言の微笑、以心伝心の視線の交歓は、第三者を激しく疎外するが、こうした疎外感を経験したことは、誰しもあるという。
西岡氏によれば、『モナ・リザ』の微笑の前に立つ私たちの味わう心境は、この疎外感であるとみている。それは、「拈華微笑」の故事における、摩訶迦葉の立場の対極にある。釈迦の真意を解せずに呆然とする、他の弟子たちの心境に近いという。
以心伝心の微笑を画中から送る『モナ・リザ』の真意は、見る側の私たちには秘匿されたままである。「わかる者にのみわかる」とでも言いたげな、以心伝心の微笑は、その裏に冷笑を宿し、挑発の相さえ帯びている。
しかし、いかに言葉を綴ろうとも、『モナ・リザ』の微笑の本質を語ることはできない。謎めくのみで、実際にはなにひとつ語っていないペイターの『モナ・リザ』論は、そのことを証明していると西岡氏は強調している。
もし、この絵の前で、唯一、可能な論評というものがあるならば、それは「拈華微笑」の沈黙の中にしかないとみている。
(西岡、1994年、196頁~198頁)
第十五章 ラファエロの涙
ラファエロ晩年の傑作『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』
ラファエロ晩年の傑作として、『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』がある。
〇ラファエロ『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1515年頃、カンヴァスに油彩、82×67cm、パリ、ルーヴル美術館
ルーヴル美術館のサロン・カレ、「レオナルド礼拝堂」の壁面の斜め向かい側に、この肖像画が掛かっている。
『モナ・リザ』とは似ても似つかぬ髭面の男性の肖像ながら、ラファエロのレオナルドへの憧れを結晶させて、これほど胸を打つ作品はないといわれる。
この『カスティリオーネの肖像』と『モナ・リザ』が、なにやら似て見えてくるあたりから、『モナ・リザ』鑑賞は真の意味での佳境に入ると西岡氏は説いている。
ラファエロは、レオナルドとミケランジェロを折衷して、ルネッサンスを完成させた画家である。その画風は、「考え過ぎ」のレオナルドと「力み過ぎ」のミケランジェロの過剰な部分を抑制して、最良の部分を調和させたものといえる。
調和がとれているだけに、二巨匠の作品と較べれば、「整い過ぎ」で、もの足りない部分もある。
しかし、19世紀までのアカデミズムは、このラファエロの画風を神格化し、両巨匠をしのぐ地位を与えていた。生前の栄達においても、ラファエロは二巨匠のはるかに上をいき、「王侯のごときラファエロ」と称されている。レオナルドとミケランジェロが共に屈折した女性観の持ち主であったのと違い、ラファエロは恋多き人生を謳歌した。ただ、享年37歳という早過ぎた死も、その「王侯のごとき」遊蕩が原因といわれる。
ところで、このラファエロが、21歳の大志を胸にフィレンツェにやって来たのが、1504年である。30歳のミケランジェロが『ダヴィデ』を完成し、50歳のレオナルドが『モナ・リザ』に着手した頃のことであった。
若きラファエロは、そのフィレンツェで『モナ・リザ』を見て衝撃を受け、以降、晩年に至るまで、その女性像の大半を『モナ・リザ』の影響下に描くことになる。
(イタリア国営放送制作のレオナルド伝のなかに、ラファエロが『モナ・リザ』を見る場面があるそうだ。ラファエロは、レオナルドの画室で『モナ・リザ』を憑かれたように眺め、言葉を失い、ただ涙している若者として描かれているとのことである。演出の真偽は別として、ラファエロのレオナルドに対する視線に、こうした憧憬が満ちていたであろうと西岡氏も想像している。)
ただ、ラファエロの初期の模倣作は、拙劣のきわみを示していた。
表情もポーズも硬直した画面は、単なる似顔絵に『モナ・リザ』の構図とポーズを引用したものであった。それは、レオナルドの「はかりがたき」画風にはほど遠いものであった。
(西岡、1994年、199頁~201頁)
『モナ・リザ』の「はかりがたさ」
人物画に「はかりがたさ」というものが表出するためには、そこに単なる似顔絵を超えた描写の普遍性が備わっていなくてはならなかった。
レオナルドはこのことを説明して、人物の似顔をそのまま描くことは、「個」のために「普遍」を捨てることだし『絵画論』に書いている。
この深遠とも見えるレオナルドの主張は、私たちが人物画を眺める際に自明の前提としていることであると西岡氏は解説している。
私たちは人物画を見る際に、モデルが誰であるかにほとんど頓着しない。また作品の価値を、モデルと似ているかどうかで判断する鑑賞者もほとんどいない。
例えば、美人画の価値は、誰か特定の美女に似ているかどうかではなく、「美人というもの」のイメージが描けているかどうかで判断される。つまり、描写の普遍性の有無で判断されている。大半の人物画が誰ともわからないモデルを描き、鑑賞者もこれに異議を唱えないことは、人物画に「個」というものの似顔絵ではなく、まさにレオナルドいうところの「普遍」というものを期待しているからである。
そして、『モナ・リザ』は「個」のために「普遍」を捨てることを諫めたレオナルドが、「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品であると西岡氏は理解している。しかも、単なる女「らしさ」や、貴婦人「というもの」のイメージの普遍性をはるかに超えて、人間という存在そのものの普遍的なイメージを「はかりがたき」微笑のうちに描いてみせた作品であるという。
(シュワルツのCG解析がレオナルドの自画像を見出し、ペイターの解説が聖母と同時に吸血鬼を見出したのが、この『モナ・リザ』の「はかりがたさ」の超絶したスケールゆえのことであったようだ)
この作品『モナ・リザ』が終生レオナルドの手もとに置かれることになったのも、それが特定個人の「肖像画」ではなく、画家自身の「人間像」の表明であったからと西岡氏はみている。
(西岡、1994年、201頁~203頁)
ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレオナルドの『モナ・リザ』
先述したように、ラファエロには『カスティリオーネの肖像』という傑作がある。
〇ラファエロ『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1515年頃 カンヴァスに油彩 82×67㎝ パリ ルーヴル美術館
この絵が『モナ・リザ』に似て見えてくれば、絵画を見る眼も超一流と西岡氏は説いている。
『モナ・リザ』の驚くべき特徴は、人間「というもの」、そのものの「はかりがたさ」を描きつつ、なお人物に特定の個人を描いたとしか思えぬ実在感を与えていることであるという。
この矛盾を含んだ両義性においてレオナルドを凌駕した画家はいない。
わずかにラファエロを含む少数の画家が、かろうじてその画境に追随し得たのみであった。
『カスティリオーネの肖像』は、この意味で、ラファエロの作品中、最も『モナ・リザ』の境地に接近し得た作品と西岡氏はみている。すなわち、『カスティリオーネの肖像』の陽気と不機嫌、笑顔と泣き顔の共存する微妙な表情は、『モナ・リザ』の微笑に通じるという。そして、老いと若さ、男性的な風貌と女性的な風貌の共存は、レオナルド的な「はかりがたさ」を現出しているとみる。
ラファエロは、甘美なる中庸の画風で一世を風靡したが、人間観の深さ、描写の普遍性において、遠くレオナルドに及ばなかった。ただ、『カスティリオーネの肖像』については、なぜ、かくも堂々たる人間像を描くことができたのであろうかという疑問がわく。この壮挙は、ラファエロの筆力の向上もさることながら、モデル自身の人格に負うところ大であったと西岡氏は解している。
カスティリオーネは、マキャヴェリの『君主論』と並び称される古典的書物『廷臣論』(1528年)で、宮廷人の理想を説いた文人である。傑出した外交官でもあった。
『廷臣論』では、真の宮廷人は、武芸と忠誠心に加えて、文学的教養や雄弁術、さらには絵画、音楽等、芸術の諸分野の識見を持つことが必要であると説いている。
カスティリオーネ自身、優雅なる言動や中庸の人格をもって、これを実践し、晩年は僧籍に入っている。
その目指したところの人間像は、「普遍人」と呼ばれるもので、芸術家レオナルドが体現していたものを、宮廷人として体現しようとしたようだ。
もともと、自分自身の人格や風貌を、芸術作品のように自分で創造しようという発想そのものが、ルネッサンス的な精神の、人間哲学への発露であったとされる。
この発想は当時の処世哲学から作法書にまで、一貫して見られるものであった。たとえば、『モナ・リザ』の少し後にフィレンツェで出版された作法書では、『モナ・リザ』のとっているポーズが、そのまま優美なる婦人のたたずまいの理想として紹介されているという。人間が自身の言動を、芸術作品や文学作品のように、創造行為の対象としたのが、この時期だった。
カスティリオーネの風貌は、『モナ・リザ』に通じていたはずであると西岡氏はみている。この宮廷人が模索した普遍人というあり方に望まれる外見として、晩年のレオナルドに見る、芸術家と哲学者の共存の風貌にまさるものはなかったはずだという。
『モナ・リザ』は晩年のレオナルド自身の風貌を宿している説もあるくらいである。
カスティリオーネの目指した普遍人の理想が、晩年のレオナルドの風貌の哲学的完成に通じている以上、彼の風貌はそのまま、「はかりがたき」人間像の普遍性を描いて無類の名画『モナ・リザ』の面影を宿すことにもなる。『モナ・リザ』に似てくるはずであると西岡氏は解説する。
いわば、画家の筆とモデルの風貌の「合作」によって出現したからこそ、『カスティリオーネの肖像』は、個人の肖像画でありながら、『モナ・リザ』にも通じる「はかりがたさ」をただよわせることになったという。
ラファエロが、フィレンツェで『モナ・リザ』を見たのが、21歳の時である。
『カスティリオーネの肖像』は、ラファエロが32歳の時で、死の5年前の作品である。
フィレンツェの衝撃以来10年、『モナ・リザ』の画境に肉薄することを夢見たラファエロが、カスティリオーネというレオナルド的な人格を夢見た哲学者をモデルに得てはじめて、
「はかりがたき」境地に迫ることができた。その作品こそが、『カスティリオーネの肖像』であった。
レオナルドには、妄執ともいうべき探究癖があり、ミケランジェロには、狂おしいまでの激情があった。ラファエロは、巨匠とはいえ処世と社交の術に長けており、普遍人というよりは「普通人」というにふさわしかった。
しかし、そうしたラファエロであるだけに、『カスティリオーネの肖像』で成し得た偉業は、レオナルドへの届かぬ思いを結晶させていて、胸を打つと西岡氏は述べている。
つまり、普遍人カスティリオーネの風貌との「合作」とはいえ、普通人ラファエロが『モナ・リザ』への憧憬を指標に歩んできた道の遠さを思い、届かぬものに届かぬがゆえにこそ憧れ続ける時に、人が成し得ることの大きさを思わせ、胸を打つという。
(西岡、1994年、203頁~206頁)
ラファエロの『カスティリオーネの肖像』とレンブラント
ラファエロの『カスティリオーネの肖像』という作品は、人物画において絵画史上でただ一人、レオナルドと比肩し得る境地をひらいたレンブラントに、決定的な影響を与えた点においても、特筆すべきものであった。
レンブラントが、この作品を見たのは、1世紀と少し後のことである。
アムステルダムで競売にかけられた『カスティリオーネの肖像』を、骨董品マニアだったレンブラントがスケッチしており、欄外には3500ギュルテンという価格までが記されている(レンブラント『「カスティリオーネの肖像」の素描』、アルベルティーナ素描版画館、ウィーン)。
(当時、アムステルダムで最も成功した画家であるレンブラントが、同じ年に購入した豪邸[現レンブラント美術館]の値段が1万3000ギュルテンであったというから、その約4分の1に相当するこの絵の価格の高騰ぶりがわかる)
レンブラントは1639年、強い感銘を受け、このスケッチそのままの構図で版画の自画像を制作した。
(レンブラント『自画像』1639年、銅版画、大英博物館)
翌年1640年には、これを左右反転した構図で油彩の自画像を描いている。
ただし、版画は印刷で左右が反転するので、この油彩の構図は銅版画の自画像の原版に描いた図柄に完全に一致していることになる。
(レンブラント『自画像』1640年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
そして、その30年後、レンブラントは、死の直前にも自画像を描いている。粗末な衣装と年輪を深く刻んだ表情が歳月を物語ってはいるものの、構図は『カスティリオーネの肖像』そのままで、手のポーズなどは、先の自画像よりもラファエロに近づいている。
このことからも、『カスティリオーネの肖像』がレンブラントに及ぼした影響の深さがわかる。
(レンブラント『自画像』1669年[最晩年]、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
(西岡、1994年、206頁~209頁)
レンブラントの自画像 と『カスティリオーネの肖像』
自画像は、レンブラントが確立したジャンルであると西岡氏は主張している。
その制作点数は、油彩、版画、素描で総100点に上る。これだけ多くの自画像を描いた画家は、彼以前には、いない。
レンブラントの肖像画に特有の、驚異的な存在感は、自身の観察で鍛えた筆力が支えている。実際に見るこの存在感は、圧倒的で、レンブラントの肖像画の前で思わずどきりとして立ち止まってしまうほどである。
レンブラントは、自画像を終生のテーマとしたが、前半期と後半期の2つに分けられるといわれる。
① 前半期の自画像は、さまざまな表情、ポーズ、扮装を工夫して、人間の感情や性格や階層を視覚化する術を模索した、習作的な側面が目立つ。
② 後半期の自画像は、対照的に、動作や扮装の演出を排し、「はかりがたき」表情のなかに、自身の人間性そのものを描出しようとしている。
習作的な自画像の表情が一変するのが、30代のなかばである。3人の子供と妻を相次いでなくし、画家としての成功の頂点から、不遇の晩年への岐路となったのが、この時期でもあった。『カスティリオーネの肖像』をもとにした自画像は、この時期の作品である。
レンブラントの後半生は、家族との死別、人気の衰退、多額の負債と、苦難の連続であった。この時期の自画像はほとんど同じ表情で描かれている。そして、その同じ表情が、徐々に内省的な深みを帯び始め、晩年には孤高の境地に達する。ルーヴルのリシュリュー翼2階の自画像は、レンブラントの50代なかばの作品である。
相次ぐ家族の死と破産を経た画家の視線には、静かな哀しみが孤独と共に宿っていると西岡氏は評している。そして、自身の容貌を美化することなく描いており、虚心坦懐な画家の視線には、不思議な安息感があるとみている。
そして、『カスティリオーネの肖像』そのままの構図で描かれたのが、死の年、1669年に描かれた63歳の自画像である。すでに、画家は、2人目の妻と最愛の息子にも先立たれている。画面は、安息と悲哀、諦観と希望の同居する、「はかりがたき」表情を見せている。ただし、この「はかりがたさ」は、『モナ・リザ』のそれとは一線を画するものであると、断っている。
西岡氏は次のように考えている。
『モナ・リザ』は、人物画というジャンルを確立した作品である。単なる似顔絵を超えた「個」の画像のなかに、人間としての「はかりがたさ」を描き出すことで、ルネッサンスの肖像画を、普遍的な人間像の表現に高めることに成功した作品である。
これを時代のバロックに受け継いで、究極の「個」ともいうべき「自己」の肖像のなかに「はかりがたさ」を描き出すことで、自画像というジャンルを確立したのが、レンブラントであった。
しかし、この「はかりがたさ」は、レンブラントが自身の姿に、普遍人という理想の人格を見出したために生じたものでは、決してなかった。人間としての弱さも迷いも持ち合わせた画家が、絶望と希望とが不思議な均衡を保つ心境をそのまま描いているがゆえの、「はかりがたき」表情だったという。
ルネッサンスのレオナルドやラファエロの描いた人物像が、人間としての「在り方」の理想を語って普遍性を発揮していた。それに対して、バロックのレンブラントの描いた人物像は、むしろ人間の「生き方」の現実を物語って、その普遍性を発揮しているとみる。
レンブラントの描く「はかりがたさ」は、人生そのものの持つ「はかりがたさ」であるようだ。
画家の人生を回顧し内面を告白するかのような自画像が、見る者もまた直面している人生の現実というものに照らして、深い共感を誘うことになったのは、このレンブラント以降のことである。
このレンブラントの崇高ともいうべき画境へと至る、晩年への歩みの折り返し地点となったのが、『カスティリオーネの肖像』を模して描かれた自画像であった。
「はかりがたさ」において、『モナ・リザ』に通じるひとりの普遍人の肖像にその範を見出して、究極の「個」としての「自己」のなかに「普遍」を描くレンブラントの自画像は誕生したと解説している。
そして、レオナルド、ラファエロそしてレンブラントの3人との関係について、次のように付言している。
ラファエロ晩年の肖像画は、まさに「拈華微笑」しつつ、師レオナルドが『モナ・リザ』において開いた画境を、次代の巨匠レンブラントへと継承している。
なお、薄塗りの極致としてのグレーズ(透明な絵の具を重ね塗りすること)を完成したのが、ルネッサンスのレオナルドであり、厚塗りの極致としてのインパスト(絵の具を盛り上げる描き方)を完成したのが、バロックのレンブラントである。
ところで、1913年、『モナ・リザ』盗難から1年後、作品の帰還をあきらめたルーヴル当局は、空いたままになっていた壁に、一点の絵を掛けることを決断する。それが『カスティリオーネの肖像』だった。それはいわば、ついにフランスがその迷える姫の帰還を断念したことを、世界中に向かって宣言するという、痛ましい決断であった。
この作品を見て、当時の美術評論家シゼランヌはこう書いた。
「サロン・カレのほぼ中央、やさしい微笑(どんな微笑よりも一番女性的であった微笑)のあった場所、堂々とした顎ひげをたくわえ、壮麗な黒い法冠を頭にしっかりとかぶり、大きな青い目であなたを静かに見つめる男を見れば、どうしようもなく心がふさいでしまう。ジョコンダがもう二度と見られないことはよく承知している。だが、彼女がかくも長きにわたって安んじていた場所は、とても神聖なものに思え、かの男に尊大な顔で居座られていることが、なぜか許せないように思えるのだ。」
(セイモア・V・ライト(金塚貞文訳)『モナ・リザが盗まれた日』中公文庫、1995年、153頁~154頁)
【ライト(金塚貞文訳)『モナ・リザが盗まれた日』中公文庫はこちらから】
モナ・リザが盗まれた日 (中公文庫)
このように『モナ・リザ』の空白はうめられ、ラファエロは、その師ダ・ヴィンチの座を奪い、フランスはその交替を冷静に受け入れた。『モナ・リザ』を惜しむ心情はわかるが、この評論家は、絵画の鑑識眼に関しては不名誉な言説を残したと西岡氏はみなしている。
というのは、ルーヴルの全収蔵品30万点(ママ)の中で、『モナ・リザ』なき後の壁を占めるのに、この「尊大」と称された男の肖像、すなわち『カスティリオーネの肖像』以上にふさわしい作品はなかったからであると、その理由を明記している。
西岡氏も、これほどまでに『カスティリオーネの肖像』も名画であるとみている。
(西岡、1994年、207頁~213頁)
第十六章 レオナルドの水鏡
絵画の筆致
レオナルドの登場以前、絵画は筆致を残さずに、ものを描くことができなかった。
レオナルドの神技と油彩という新技術を得てはじめて、絵画は筆致を残さずに、ものを描くことができるようになった。
レオナルド以前には、消去不能の「筆」の跡であった筆致は、レオナルドの登場以降、画家がそれを残すか残さぬかを選択し得る「手」の跡として、絵画の持ち味のひとつになった。
近代絵画の足どりは、この「手」の痕跡としての筆致がひらいたものであるといわれる。
モネの躍るような筆致も、ルノワールの柔和なタッチも、燃え立つようなゴッホの筆触も、強烈な個性を発揮する「手」の痕跡の、生命感で人々を魅了している。
さて、『モナ・リザ』は、その背景に、早くもこの近代の筆致を予見している。その画面は、謎の微笑に、筆の跡をいっさい残さぬスフマートの神技を見せつつ、遠方の山岳には、近代絵画を予告するかのような奔放なるインパストの筆致を見せている。
5世紀半に及ぶ油彩絵画の歴史上、最初の1世紀も経ぬうちに、『モナ・リザ』は描かれた。にもかかわらず、すでに画面は精妙なるスフマートから奔放なインパストに至る、油彩の筆致の両端を示している。
この筆致の振幅に注意を払いつつ、西岡氏は絵画の歴史を概観している。
レオナルドは『絵画論』に、画家は鏡を師にせよと、しきりに書いているそうだ。筆致を消したスフマートの驚くべき写実性は、磨き抜かれた鏡を思わせるが、西岡氏は「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉で説明している。この言葉は、『荘子』にあり、「人は流れる水ではなく、止まっている水を鏡にする」という孔子の言葉から出たものである。静謐で澄みきった心境を表わしている。
レオナルドのスフマートは、この明鏡止水の画境を目指す技法であったという。写実描写として人間の描き得る最高の境地をきわめ、完全に画家の「手」の痕跡を抹殺している。
(西岡、1994年、214頁~215頁)
ラファエロの『カスティリオーネの肖像』
そして、このスフマートの神技が、謎の微笑を描き出す『モナ・リザ』の、明鏡止水そのままの画面に、ラファエロが筆致のさざ波を立て、自身の「手」の痕跡を記してみせた作品が、『カスティリオーネの肖像』(1515年頃、ルーヴル美術館)である。その画面に躍る筆致の精彩が、次代の絵画を予想させる名品であると絶賛している。微妙な表情を筆触もあらわな小さな面の集積で表現する筆力は驚異的である。
とりわけ、カンヴァスの布目にかすれた筆致が、額のわずかな起伏を描写して、かすかに寄せた眉根に、名状しがたい憂愁をかもしだしているあたりが、見事であると評している。
両の瞳に一点ずつ置かれた白の輝点が濡れた輝きを放つ青い眼の生彩も素晴らしいとする。部分単独では『モナ・リザ』の描写をも凌いでいるとさえいう。
さらに大胆な筆致を見せるのが、黒に統一された衣服の部分である。両袖の毛皮の豪快な筆さばきは、『モナ・リザ』の画面には見られない。それは、マネ、モネの近代絵画も顔負けである。
『モナ・リザ』は、その背景には奔放の筆致を見せつつも、画面前面の人物には、まさに明鏡止水、人間の「手」の介在を思わせぬスフマートの神技を駆使している。
これに対して、『カスティリオーネの肖像』は、『モナ・リザ』遠景に胎動していたインパストを全面化し、その「はかりがたき」表情にまで、ラファエロの「手」の痕跡を記し、みずみずしい生彩を放っていると西岡氏は捉えている。
(西岡、1994年、215頁~217頁)
ティツィアーノの『田園の奏楽』
同じく筆致の近代の予見を示すのが、ルーヴル美術館のサロン・カレ奥、正面の壁に掛かる『田園の奏楽』(1511年頃、ルーヴル美術館)である。
作者はティツィアーノ・ヴェチェリオである。豪放なレンブラントの筆触や、軽快な印象派の筆致に先駆けて、画面に躍るインパストを絵画技法として確立した画家であるとされる。
なかでも、この『田園の奏楽』は、その最初期の筆触を見せて貴重である。つまり、この作品は、インパストの創始者とされる画家の貴重な初期作品である。
筆の跡を抑えたおだやかな画面の、右と左の端の細部に、大胆なインパストが胎動しているのが確認できる。
例えば、右側では、裸身の女性の背中のすぐ右、遠景の羊の背の陽の当たった部分に、こってりと白い絵の具を盛ったインパストが見える。
また、左側の女神が持った水差しの、陽光を反射したガラスの輝きには、大胆奔放なインパストがなされている。それは、モネやゴッホと見まがうばかりである。
(この筆触は、ティツィアーノ晩年に至って、色彩の乱舞と化している)
間近では、筆致の奔流としか見えぬ人物や風景が、離れて見ると的確無比の写実を見せる。その魔術的効果は全ヨーロッパの王侯貴族を魅了し、ティツィアーノのもとには膨大な量の注文が寄せられた。
ティツィアーノの友人である文人アレティーノは、ヴェネツィアの運河に沈む夕陽が水面に乱反射するさまを見て、「ああティツィアーノは、お前は何処にいるのか」と叫んだそうだ。まさにティツィアーノの筆致は水面にうつろう光の描写に始まる、3世紀半の後の印象派を先駆していた。
(西岡、1994年、218頁~220頁)
印象派のマネの『草上の昼食』とモネの『印象 日の出』
ところで、印象派のマネの『草上の昼食』(1863年、オルセー美術館)は、このティツィアーノの『田園の奏楽』を翻案したものである。マネの作品は、ルーヴル美術館のサロン・カレの窓から望むセーヌの対岸に、印象派の殿堂オルセー美術館にある。
(駅を改造した館内は、ガラス張りの天井からの光に、近代の筆致が照り映えて、「光の宮殿」を現出している。うつろう光を描く印象派の作品群に、これほどふさわしい展示空間はないようだ)
その1階左奥に掛かるのが、マネの『草上の昼食』である。オルセーの館内散策の序章をなすこの作品は、近代絵画をスキャンダラスに開幕した。
『田園の奏楽』の画中に見える二人の女性は、音楽の感興を象徴する詩神である。中央で音楽に興じる若者二人には、この女神は見えないことになっているそうだ。若者二人が、全裸の女性に無関心に見えるのは、そのためである。
一方、マネは、この趣向を当世風に翻案し、近代絵画最大のスキャンダルを巻き起こした。つまり、女神を世俗の女性に置き換えて、その裸身を強調するように、着衣の男性と並べて、パリ郊外の森を背景として描かれ、この画面は非難された。当時は、神話の女神か聖書の場面を借りなくては、ヌードを描けなかったからである。
また、マネの筆致も批判を浴びた。べったりと塗った絵の具の跡も生々しく、明暗のコントラストを激しく強調しているからである。旧画壇勢力からすれば、繊細なる筆致で神話や歴史や聖書の名場面を描くことが正統的であり、大胆不敵な筆致で描かれたこの当世風俗は、不遜そのものの挑戦状としか映らなかったようだ。
このマネの変革を追って、うつろう光に刹那の風景を描く印象派が登場する。ルーヴルの『田園の奏楽』から、オルセーの『草上の昼食』へと、セーヌに架かる橋を渡る時、この3世紀半の筆致の足どりを駆け抜けることなると、西岡氏は捉えている。
印象派を、その名も『印象 日の出』(1872年、マルモッタン美術館[パリ])という作品で創始したのは、モネであった。
モネは、水面にゆらぐ朝日と、朝霧に霞む風景を、即興的な筆致で描いた。しかし、「単なる印象に過ぎない」と評論家から酷評され、その言葉から、この絵画の新様式は命名された。
ともあれ、うつろう光、揺らぐ水面、そしてめぐる季節、街路を行き交う人々など、印象派の画家たちが描き続けたものは、変化する世界の様相であった。
それはルネッサンス絵画が描こうとした永遠なる時間や普遍なる人間像とは、あまりに対照的な世界であった。古代の造形に「完全」を求めたルネッサンスに対して、未来への進歩を尊んだ近代が、時代の証言として要請した芸術は、「普遍」ではなく、「変化」をこそ主題とした。
モネの別の作品に、『明るい陽光、青と金のハーモニー』(1894年、オルセー美術館)がある。数世紀を経た石造の大聖堂を、刻々と変容する色彩の伽藍として描き出している。このモネの画面は、印象派の果たした歴史的な意義を象徴していると西岡氏は理解している。
印象派では、絵画そのものが、色彩と陰影の表現において劇的な「変化」を待ち望んでいた。
ところで、「影は、光より大きな力を持つ」という言葉を、レオナルドは残している。この言葉の通り、ルネッサンスが完成した陰影表現は、レオナルドが理想とした「薄暮」の光線を経て、劇的な明暗を演出するレンブラントの「闇」へと行き当たる。
このバロックの夜の到来は、影の暗さとの対比でしか光の明るさを表現できない絵画の、ひとつの帰結であったといわれる。この暗鬱なる袋小路を打開したのが、印象派の登場である。
その印象派の画家たちは、1840年代に考案されたチューブ入り絵の具を手に、カンヴァスを屋外に持ち出した。そして、直射日光のもと、眼前にうつろいゆく光のドラマを描く手法を模索し始めた。これ以前の画家たちは、ビン入りの顔料を現地の油で溶くか、あらかじめ溶いた絵の具を豚の膀胱などに入れて持ち歩くしかなかった。
(西岡、1994年、220頁~224頁)
英国風景画の巨匠ターナー
屋外で油彩を制作することが今日より困難であったこの時代に、いち早く自然を前に制作することを重視し、屋外で油彩を用いた最初期の画家がターナーである。
印象派の光明は、この英国風景画の巨匠の筆致に差しているといわれる。
ターナーの代表作としては、次の作品がよく知られている。
〇ターナー『雨・蒸気・速度』1842年、ナショナル・ギャラリー[ロンドン]
〇ターナー『吹雪』1844年、テート・ギャラリー[ロンドン]
ターナーは、前者の『雨・蒸気・速度』においては、豪雨の中を疾駆する機関車を、そして後者の『吹雪』においては、嵐の海に翻弄される汽船を、躍動感のみなぎるタッチで描いた。
その画風は、「モップで描いた」と揶揄されるほどに革新的なものであった。絵の具のにじみやぼかしを多用した晩年の筆致に至っては、水墨画と見まごうばかりである。
人々を当惑させた近代の筆致は、細部において『モナ・リザ』の遠景と酷似しており、レオナルドの筆致の先駆性を物語っていると西岡氏は指摘している。とりわけ『吹雪』の濃密な大気感は、『モナ・リザ』の大気感を思わせるという。
そして、ターナーの『雨・蒸気・速度』は、「速度」という主題と筆致の躍動において印象派に先駆する作品であると位置づけている。フランスに印象派の画家たちが登場するのは、この英国のターナーに少し遅れてのことであった。先に紹介したマネの『草上の昼食』は、1863年に、そしてモネの『印象 日の出』は1872年に描かれている。
ところで、大づかみな描線、点描による混色という、印象派に特有の即興的な筆致は、短時間に風景の印象を画面に定着することを迫れられる屋外制作から、必然的に導き出された手法であると考えられている。この筆致を得て、近代絵画は、影より大きな力を持つ光を得ることができた。
また、ターナーにせよモネにせよ、近代の筆致を確立した画家たちは、決まって晩年、水の描写に魅せられている。変幻自在の水の表情に、うつろう光と色彩の交響詩を見出している。
(ルーヴルからオルセーへと渡る橋の中途では、セーヌの流れに目を落としてみることを西岡氏はすすめている)
(西岡、1994年、224頁~226頁)
ルネッサンス期からの筆致の変遷
流れに揺らぐ水面に照り映える両岸の、ルーヴルとオルセーの景観に、時代の波動に網膜を振動させて、画面に筆致の波紋を刻印した、画家たちの足どりを、西岡氏は次のように追憶している。
レオナルドの背景からラファエロの画面に波及した筆致のさざ波が、ヴェネツィアの運河の夕陽に、アレティーノを嘆息させたティツィアーノを経て、1世紀後のレンブラントの夜に至る足どりを思い、もう1世紀少しの後、レンブラントの背景の闇を払拭し、水面に反射するモネの日の出となって、印象派のめくるめく筆致を招来する。このように、西岡氏は、ルネッサンス期のレオナルドから近代の印象派までの、筆致の変遷をまとめている。
ところで、明鏡止水のスフマートの水面に、「手」の痕跡としての筆致の波が立った時、ルネッサンス絵画は生身の人間の心理と生理を反映した、震える画像にこそ宿る生彩というものを発見するそうだ。
この波がうねりとなって、水面下から人間の深い内面描写を呼び起こしたレンブラントの筆致には、17世紀バロックの時代精神が如実に反映している。
(西岡、1994年、226頁~227頁)
内面告白の系譜としてのレンブラントとゴッホ
ルネッサンスにおける肖像画の確立は、「個人」の自覚の産物であったが、同様に、内面を告白するかのようなレンブラントの自画像の登場は、バロックにおける「自我」の確立の産物であった。
「我思う、ゆえに我在り」という定理によって、近代哲学の機軸を自我に据えたデカルトは、レンブラントを最初に見出した激励した思想家ホイヘンスの友人であった。
「我描く、ゆえに我在り」を信条としたバロックの画家であるからこそ、レンブラントは、その「描く我」のみを、世界を闇に封じた背景のなかに描くことができたと西岡氏は捉えている。つまり、画家の「手」の痕跡としての筆致は、このレンブラントの豪放のインパストにおいて、まさしく「描く我」の刻印として、鮮烈なる自我の表現形式に到達することになったそうだ。
そして、この自我と個人の危機に、絵画の筆致が苦悶し始めたのが、後期印象派から世紀末の時代であった。管理化の進む社会が抑圧する人間性の不安に揺らぐ筆致の波紋は、ゴッホの画面に渦巻き、ムンクの画面を歪ませることになる。
ゴッホは、レンブラントの作品の前での2週間と引換えならば、10年の寿命を縮めてもかまわないと言った。ゴッホは、40点以上の鮮烈な自画像を残すことで、この同国の巨匠の跡を近代に継いでいる。
しかし、その自画像の背景は、深遠なる内面への視線を暗示するレンブラントの闇とは対照的である。それは、病的なまでの感受性を反映する強烈な色彩と、不安と焦燥に渦巻く筆致に満ちている。
例えば、ゴッホの『自画像』(1890年、オルセー美術館)は、筆致が渦巻く苦悩の自画像である。狂気にも似た画家の熱情と焦燥を物語って、画家にのたうつゴッホの筆致にまさるものはないといわれる。
ルネッサンス芸術を象徴する万能の天才レオナルドであったように、近代芸術を象徴する、苦悩する天才の典型がゴッホであった。
レオナルドは、みずからの万能の理解と庇護を求めて放浪を続け、異郷に死んだ。一方、ゴッホは、みずからの情熱の発露を求めて職業を転々とした結果、画家として非業の死を遂げた。
この二人の生涯は、天才が天才であるがゆえの苦悩を物語り、「芸術家の生涯」という神話的な物語の祖型を成している。
個人が台頭したルネッサンスが、芸術家に、神のごとき万能が、「個」に結晶した普遍人を求めた。それとは対照的に、管理社会が個人を圧殺する近代社会は、その反動として、芸術家に逸脱と狂気を求めたようだ。
歪む風景に時代そのものの不安を視覚化した作品として、ムンクの『叫び』(1893年、オスロ国立美術館[ノルウェー])が挙げられる。つまり、ムンクが波うつように歪んだ背景に、不安に揺らぐ人間を描いた。
(古代の『荘子』が鏡にはならないとした「流れる水面」を、さらに波立たせ歪ませることで、これらの画面は、「描く我」としての近代画家の精神の病弊(びょうへい)を映す鏡としたという)
時代的には、精神分析の父フロイトの誕生は、ゴッホ誕生の3年後のことである。また、神の死を説き、超人の誕生を夢見た哲学者ニーチェが、プラハの街頭で発狂したのは、ゴッホ自殺の前年のことである。
そして、みずからの胸に銃弾を撃ち込んだゴッホの死を看取った精神科医ガッシェは、『草上の昼食』で絵画の近代を開いたマネを長年にわたって治療し続けた医師でもあった。
(ゴッホの最期を看取ることになる医師の肖像をゴッホは残している。ゴッホ『ガッシェの肖像』(1890年、オルセー美術館)がそれである)
かつては、神と同義であったはずの天才が狂気と同義になったのは、この頃からのことだといわれる。
(西岡、1994年、227頁~230頁)
「第十六章 レオナルドの水鏡」のまとめ
このように、近代絵画までの流れを略述したあと、西岡氏は再び『モナ・リザ』について語っている。
すなわち、神技スフマートをもって、それ以前、いかなる画家も描き得なかった「はかりがたき」微笑を描出した『モナ・リザ』は、外見のみならず、精神までを描く人間像の、最初期にして最高の作品であると評している。
その内面描写は、次代のレンブラントから近代のゴッホへと至る、深い内面の告白の系譜を準備することにもなった。
同時に『モナ・リザ』は、背景の山岳に躍るインパストに、ラファエロ、ティツィアーノを経て印象派に開花する、筆致の近代を予見する作品でもあると位置づけられる。
西岡氏は、このことを要約して、次のように述べている。
「かりに私たちが、『モナ・リザ』の背景の、この世のものとも思えぬ、峻厳なる山岳に登ることがかなうならば、その絵画史上最高とされる画境の高みから遠望されるのは、まさにこの絵画の未来への足どりに違いない。
そして、また、この世の人とも思えぬ神秘の微笑に対面することがかなうならば、その絵画史上、最も「はかりがたき」表現を宿す瞳に映るのが、さらなる人間性の洞察へと向かう、絵の内面への旅の足どりであることに気づくに違いない。
内面に向かうにせよ、外を向くにせよ、絵画という美の宇宙への旅は、この『モナ・リザ』に始まり、『モナ・リザ』に終わることになるのである」と。
西岡氏は仮定を用いた形で表現することによって、「第十六章 レオナルドの水鏡」で述べてきたことを要約している。
『モナ・リザ』の背景の山岳に見えるインパストという筆致は、ラファエロ、ティツィアーノから印象派へ継承されることが予見されるとし、「はかりがたき」微笑といった内面描写は、バロックのレンブラントから後期印象派のゴッホにまで影響を及ぼしているとみられる。
内面的にも、外面的にも、絵画という美の旅において、この『モナ・リザ』は、始発駅であり、終着駅であるという。
(西岡、1994年、230頁~231頁)
終章 カフェにて
レオナルドの流転の軌跡と『モナ・リザ』
絵画は、画家の生きた時代と生涯の縮図である。
作品の中に堆積した時間は、魂を共振させ、震わせている。この共振が、美術館の散策を、濃厚な時間にしていると西岡氏は考えている。
サロン・カレから、「サモトラケのニケ」の踊り場へ戻り、ダリュ・ギャルリーを経て、ピラミッド下の入口交差点をホールに出ると、帰ってきた、という気がすると感想を述べている。
ルーヴルを訪れる人の過半の目当てが、『モナ・リザ』にある。その『モナ・リザ』を通して、ルネッサンスという時代の様相と、レオナルドという画家の生涯に、西岡氏は思いを馳せてきた。
レオナルドの流転との軌跡と『モナ・リザ』について、西岡氏は、次のように、要約している。
未完の『東方三博士の礼拝』をフィレンツェに残して、30歳でミラノに発ったレオナルドが、故郷に帰ったのが、50歳を間近に控えた頃である。
『最後の晩餐』の巨匠は、敬意をもって迎えられるが、サヴォナローラ処刑の2年後のフィレンツェは、レオナルドの知る、かつてのフィレンツェではなかった。
師ヴェロッキオは他界し、ボッティチェルリはサヴォナローラの火刑の痛手から画業を放棄し、時代の主役は、レオナルドとは親子ほども歳の離れたミケランジェロにとって代わられようとしていた。
ほどなくこの二人の巨匠は、フィレンツェ政庁の一室の向かい合わせの壁面に、フィレンツェ共和国史上記念すべき戦闘の場面を描くことを委嘱され、文字通り「世紀の対決」を演じることになる。
しかし、レオナルドの壁面『アンギアーリの戦い』は、彼のフレスコ嫌いがたたって流れ出し、ミケランジェロの壁画『カッシーナの戦い』は、彼のヴァティカン招聘で、中途で放棄される。結局、世紀の対決は、決着のつかぬままに終わる。
この時期、着手されたのが、『モナ・リザ』である。
いったんは、ミラノに身を寄せたレオナルドが、ロレンツォ・デ・メディチの息子の法王即位を機にローマ入りしたのが、60歳を過ぎた頃である。
仕事らしい仕事もない無為の日々であった。法王庁は、ラファエロに月額数千ドゥカーティの給金を支払ったが、レオナルドには、月額わずか33ドゥカーティに過ぎなかった。
(かつて執拗にレオナルドに肖像画をねだったイザベラ・デステも、若きラファエロを追い回すのに夢中で、ローマにありながら、レオナルドには連絡を取っていない)
そして、フランソワ1世の宮廷芸術家として、フランスへ招かれたが、65歳の時である。
ミケランジェロとラファエロは、多忙を理由に、このフランス王の誘いを断ったが、卒中で手の麻痺し始めたレオナルドはアンボワーズへと向かう。
未完の画業の帰結となった3点の絵画と、浪費された万能を刻印した膨大な手記を携えての、臨終の地への旅立ちであった。
(途上、美少年の弟子サライは行方をくらまし、レオナルドは自分を看取ることになるメルツィのみを連れて、アルプスを越える)
この最後の旅で、『聖アンナと聖母子』と『聖ヨハネ』とともに持参した『モナ・リザ』は、3年後のレオナルドの死により、フランソワ1世の秘宝となる。
この秘宝をセーヌ河畔の古城に移したところから、ルーヴルはその歩みを始めている。
(巨大なる美の殿堂は、あまりに巨大なるがゆえに未完に終わった才能の、最後の凝結を種子にして、その芽をふいたという)
ところで、レオナルドの手記には、「樹は、みずからが滅びることで、伐採者に対して復讐する」という一文があるそうだ。
この一文に対して、西岡氏は、次のようにコメントして、結びとしている。
れおの、あまりに豊かに繁った才能という樹から、時代が採取し得たものは、容赦ないまでに多いようでいて、じつは、取り返しがつかぬほどに少なかった。
この樹が、その滅びのまぎわに、最も豊かに実らせた果実が、『モナ・リザ』であったと西岡氏は理解している。
(西岡、1994年、232頁~235頁)