二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。
『マタイによる福音書』 / 18章 20節 新約聖書 新共同訳
困った時には手を差し伸べ
苦しい時には励まし
嬉しい時には
互いに手をとり合って喜ぶ
そういう人間関係を築きなさい。
あなた方が互いに
愛し合う、高め合う時
そこに神の国が造られるのです。

上流川町一帯の廃虚。
手前は広島流川教会 (日本基督教団)
写真家林重男さんが1945年10月、旧中国新聞本社から撮影。

■2013年1月20日 中国新聞社
(写真) 左上は被曝十字架。
広島流川教会は1887年5月、現在の大手町に創設され、移転を数回繰り返した後、上流川町で被爆。当時の建物は倒壊した。
1970年12月に現在地に移転した。
広島市中区上幟町の広島流川教会が来年2月中旬、建て替わる。
原爆で親を失った子どもの支援などに尽くした故谷本清牧師が率いた歴史を継承。新礼拝堂でも、焼け野原に残った木で作った「被爆十字架」を掲げ、平和の祈りを続ける。今月22日には「お別れ記念礼拝」を開催。来月から解体工事に入る。

「被爆十字架」を広島流川教会へ戻す準備を進める
奈良文化財研究所の担当者ら(奈良市で)
★被爆十字架に保存処理 広島流川教会 奈文研に依頼
◆平和願う象徴 再び礼拝堂へ
■読売新聞2013年2月8日
奈良文化財研究所(奈良市)が行っていた広島流川教会(広島市中区)の「被爆十字架」の保存処理が7日、終了した。十字架は、教会の礼拝堂で再び戦争犠牲者の追悼と平和希求のシンボルとして掲げられる。(今村真樹)
広島への原爆投下によって黒く焦げた木を組んで作られており、炭化した表面がもろくなったため、同教会が広島平和記念資料館(広島市中区)を通じて同研究所に対策を依頼。高妻洋成・保存修復科学研究室長(50)ら5人が筆やはけでアクリル樹脂を染みこませ、補強する作業を続けていた。
十字架は、樹脂の影響で表面に少しつやが出たが、触っても表面がはがれ落ちないようになった。梱包(こんぽう)して教会に送る準備をした高妻室長は「万全の処理ができたので、数十年はもつだろう。今後も状態を確かめ、必要な処理をそのつど行いたい」と話した。
沖村裕史牧師(57) ( 注 日本基督教団)は「被爆の惨禍を伝える遺物は次第に少なくなっており、処理が無事に終わって本当に感謝している」と話し、「原爆の悲惨な歴史とともに、今回の保存の経緯も語り継ぎたい」としている。
わたしもその中にいるのである。
『マタイによる福音書』 / 18章 20節 新約聖書 新共同訳
困った時には手を差し伸べ
苦しい時には励まし
嬉しい時には
互いに手をとり合って喜ぶ
そういう人間関係を築きなさい。
あなた方が互いに
愛し合う、高め合う時
そこに神の国が造られるのです。

上流川町一帯の廃虚。
手前は広島流川教会 (日本基督教団)
写真家林重男さんが1945年10月、旧中国新聞本社から撮影。

■2013年1月20日 中国新聞社
(写真) 左上は被曝十字架。
広島流川教会は1887年5月、現在の大手町に創設され、移転を数回繰り返した後、上流川町で被爆。当時の建物は倒壊した。
1970年12月に現在地に移転した。
広島市中区上幟町の広島流川教会が来年2月中旬、建て替わる。
原爆で親を失った子どもの支援などに尽くした故谷本清牧師が率いた歴史を継承。新礼拝堂でも、焼け野原に残った木で作った「被爆十字架」を掲げ、平和の祈りを続ける。今月22日には「お別れ記念礼拝」を開催。来月から解体工事に入る。

「被爆十字架」を広島流川教会へ戻す準備を進める
奈良文化財研究所の担当者ら(奈良市で)
★被爆十字架に保存処理 広島流川教会 奈文研に依頼
◆平和願う象徴 再び礼拝堂へ
■読売新聞2013年2月8日
奈良文化財研究所(奈良市)が行っていた広島流川教会(広島市中区)の「被爆十字架」の保存処理が7日、終了した。十字架は、教会の礼拝堂で再び戦争犠牲者の追悼と平和希求のシンボルとして掲げられる。(今村真樹)
広島への原爆投下によって黒く焦げた木を組んで作られており、炭化した表面がもろくなったため、同教会が広島平和記念資料館(広島市中区)を通じて同研究所に対策を依頼。高妻洋成・保存修復科学研究室長(50)ら5人が筆やはけでアクリル樹脂を染みこませ、補強する作業を続けていた。
十字架は、樹脂の影響で表面に少しつやが出たが、触っても表面がはがれ落ちないようになった。梱包(こんぽう)して教会に送る準備をした高妻室長は「万全の処理ができたので、数十年はもつだろう。今後も状態を確かめ、必要な処理をそのつど行いたい」と話した。
沖村裕史牧師(57) ( 注 日本基督教団)は「被爆の惨禍を伝える遺物は次第に少なくなっており、処理が無事に終わって本当に感謝している」と話し、「原爆の悲惨な歴史とともに、今回の保存の経緯も語り継ぎたい」としている。