[書籍紹介]
今、死刑制度の廃止が世界の潮流で、
死刑を「すべての犯罪に対して廃止」している国は108カ国、
「通常犯罪のみ廃止」している国は8カ国、
「事実上の廃止」をしている国は28カ国。
つまり、死刑を実質的に廃止している国は計144カ国に及ぶ一方、
死刑制度を維持する国は、発展途上国や独裁国家を中心とする56カ国になる。
先進民主主義国家で死刑制度が残っているのは、
アメリカのおよそ半分の州と日本だけだ。
日本には、欧州各国から、死刑制度廃絶の圧力が常にかかっている。
題名の「死刑のある国で生きる」というのは、そういう意味で、
多くの国が死刑廃止を決めている潮流の中で、
日本がその実現に向かわない理由、
更に、その潮流の乗る必要があるのかどうか、
を問う。
死刑制度があるべきか否か、
犯罪の抑止力はあるのか、
遺族の感情はどうか。
日本独特の死生観の中で、
日本はどうあるべきかを、
豊富な取材によって解きあかそうとする試み。
スペインに拠点を置くジャーナリストだからこそ
書くことができた渾身の書である。
目次
プロローグ 処刑まで、あと一カ月
第一章 生きた目をした死刑囚(アメリカ)
第二章 廃止する勇気(フランス)
第三章 憎む遺族と守られる加害者(スペイン)
第四章 死刑の首都にて(アメリカ)
第五章 失われた記憶と死刑判決(日本)
第六章 償いのために、生きたい(日本)
第七章 死刑は被害者遺族を救うのか(日本)
第八章 現場射殺という名の死刑(フランス)
エピローグ 死に向き合って、生きる
あとがき
まず、驚かされるのは、筆者・宮下洋一氏の恐るべき取材力。
アメリカでは、処刑日が決まっている死刑囚に直接会って質問を問いかけ、
その死刑囚の処刑には立ち会えなかったものの、
執行を目撃した遺族に、言いにくい質問をぶつける。
フランスでは、死刑廃止に尽力して実現させた
元法相にインタビューして、その考えを聞く。
スペインでは、死刑にならず出所してきた人物が
被害者遺族と同じ村、
しかも50mの近くに暮らしているのを取材し、
被害者遺族の感情を問う。
そして、日本では、3人の死刑判決事件の周辺で、
被害者遺族が加害者の死刑を望んでいるのか、
執行によって救われるのか、という究極の問いについて
被害者家族を取材していく。
アメリカの死刑囚は、
妊娠中の妻と5歳の娘、義父をバットやナイフで殺害し、
家に火をつけた男。
本人に会うと、罪を認め、死刑を受け入れ、
信仰によって救われた姿をしている。
筆者は書く。
死刑の存在は、死刑囚の人間性を高めるのか。
彼は、死刑を言い渡されたことにより、
罪を悔い改め、反省し、
祈りを捧げる日々を送ることで、
人間らしさを取り戻していったのではないだろうか。
アメリカでは、死刑執行を専門に取材する記者がいるということに驚く。
AP通信社のその記者は、既に450人の死刑執行に立ち会った。
また、死刑の執行は被害者家族、加害者家族を呼んで、
公開で執行する。
(両者は接触しないように隔てられている)
しかも、その後、被害者家族は記者会見さえ開き、質疑応答に応じる。
被害者家族は、薬物の注入によってなされる処刑が
あまりにあっさりしたもので失望の様子だ。
筆者との会話。
「首を吊るとか、電気椅子にするとか、銃殺とか、
もっと残酷な死刑のほうが
あの男には相応しいと思った」
「死刑は、あなたがたが想像していたものとは
違った印象を受けたということですか」
「あまりにも簡単だったと思います。
もッと痛みを伴う刑だと思っていました。
彼はまったく痛みを感じていませんでした。
手術で麻酔を打たれてノックアウトになった患者・・・
私の目に映ったのはそれだけでした」
「つまり、彼がもっと苦しんで逝くところを期待していたということですね」
遺族は不機嫌になる。
筆者は更に訊く。
「今は幸せな気持ちですか。それとも残念な気持ちですか」
「幸せな気持ちではありませんが、
ホッとした気持ちではあります。
これで終わりました。
私たちも、先に進むことができる気がしています。
正義が実行されたのですから」
筆者の取材は日本に向かう。
次のような疑問のもとで。
死刑を廃止できるのかどうかは、
その土地に住む人々の正義の感覚に関わってくる。
ならば、死刑を維持する日本の正義とは、一体何か。
私にはまだ、その正体が分からない。
想像が許されるならば、
日本を構成する社会の縮図は、
アメリカ型でもヨーロッパ型でもない気がしていた。
日本で取材した小松博文は、
睡眠中の妻子を複数回刺し、
自宅に火をつけて殺害した男。
子供は11歳・7歳・5歳・3歳・同3歳の5人。
この事例の特殊なのは、
逮捕されてから1年後、
持病の肺高血圧症による心不全で意識を失い、
一時心肺停止に陥り、
一命をとりとめたものの、
犯行の一部始終が記憶から消えてしまったのだ。
誰もが記憶喪失は嘘ではないか、と思うだろう。
しかし、面会した筆者の印象では、
本当に記憶を喪失しているようだという。
面会した小松は、淡々と死刑を受け入れていた。
日本では、日弁連が死刑廃止を表明している。
会長の荒中(あらただし)の談話の中に、次のような部分がある。
OECDに加盟する38カ国のうち、
現在も死刑を執行しているのは
日本と米国の一部の州だけになっている。
日本はこれまで、国際人権(自由権)委員会から、
世論調査の結果(注:8割が死刑に「賛成」)にかかわらず
死刑制度の廃止を考慮するよう
何度も勧告を受けている。
このように、死刑制度の廃止せ世界的な潮流となっているのであって、
日本においても、もはや、
このまま死刑制度を維持し続けていくことは許されない」
これについて、筆者は次のように書く。
私はまず、この声明文に、違和感を覚える。
文化や歴史、とりわけ死生観が異なる欧米に、
それが「潮流」であるという理由で、
日本が本当に追随すべきなのか。
長い欧米生活の結果、
欧米が唱える普遍性が絶対的に正しいという考えを
根本的に持たなくなっている私は、
むしろその「普遍性」によって
日本の文化や死生観が揺らぐことのほうを危惧してしまう。
日弁連に所属していながら、死刑存続を公言する弁護士に取材すると、
日弁連の死刑廃止の宣言について、
思いがけない事実が判明する。
「当時、日弁連の会員は3万7600人。
大会に参加したのは、786人だけでした。
そのうち、死刑廃止賛成が546人、反対が96人、棄権が144人でした。
日弁連の問題は、
これだけで日弁連の意志と言ってしまったことです。」
私はこの事実を知るまでは、
日弁連のほぼ全会員が死刑に反対しているとの印象を持っていた。
別の弁護士は、こう言う。
「妻や娘が強姦されて殺されたら、
私は弁護士バッジを捨てて
そのまま刺しに行こうと思う。
実際に刺すかどうかは別にして、
犯人は死刑にしてもらうしかないと思う。
それは日本人の感覚なのではないですか。
死刑はよくないとおっしゃるお坊さんには、私は、
『もしあなたの家族が殺害されたとしても、
死刑はよくないと言い切れますか』と
意地悪な質問をします。
すると、大抵のお坊さんは黙ってしまうのです」
もう一人の死刑囚は、奥本章寛(おくもとあきひろ)。
赤ん坊の首を絞めた上、浴槽で溺死させ、
妻の首を包丁で刺した後、ハンマーで頭を叩いて殺害。
義母も同じように撲殺した。
妻と義母から精神的圧迫を受けての犯行で、
この死刑囚には、周囲は同情の色を隠さない。
しかし、まだ5カ月の赤ん坊まで手にかけるとは。
更にもう一人の死刑囚は西口宗宏(むねひろ)。
ショッピングセンターで主婦を拉致して、
現金とキャッシュカードを奪い、
顔をラップフィルムで巻いて窒息死させ、
死体をドラム缶で焼却。
その一週間後、84歳の資産家宅に押し入って金を奪い、
またもラップフィルムで窒息死させたもの。
筆者は主婦の遺族に会って話を聞く。
息子は言う。
「生きたまま溶鉱炉に落としたい。
お袋が殺されて、焼かれたわけでしょ。
だからお前は、生きたまま苦しみを味わって死ねという感覚ですよ」
夫は言う。
「私は、事件が起きてから、
死刑廃止論者の本もたくさん読みました。
それも一理あるとは思うのですが、
ほんならあんたの家族が同じことになっても、
同じことを言えるんかい、と。
それが私の本心ですよね。
だからこの国から死刑制度がなくならないことを、
ずっと望んでいます」
最後に、核心部分の会話。
「もし西口の死刑が執行されたら、
心の平安は訪れると思いますか」
「ひと段落したと思うでしょうね、きっと」
「もし、遺族の心に平安が訪れないとなると、
死刑は何のためにあるんでしょうか」
「僕の中では、何も解決しません。
西口が死のうが生きようが、
母親は帰ってこないわけですから」
「ならば、死刑でなくとも、
仮釈放のない終身刑という考え方もあると思うのですが」
「それやっから、まだ分からなくないです。
一瞬にして死刑を受けるよりも、
きっと苦しくて、それが死ぬまで続くことを考えればですがね」
どうやら、筆者の着地点は、このあたりにありそうだ。
気がつけば、私は、
被害者遺族の感情にび寄り添う死刑維持の立場でもなければ、
人道主義から唱える死刑廃止の立場でもなかった。
両者の正義はいずれも正しく、
反発し合う磁石のように、和解する奇跡は起こり得ない。
そして、
刑法学者の重松一義の、次の言葉を引用する。
「私は死刑制度は人類と獣類とを区別するレフリー、
分岐点として存在すべきものとの認識にあり、
たとえ千年、万年凶悪犯罪が起こらぬとも、
人類自身の戒めとして、錘として、
法として掲げつづけて置くことが、
人類の叡知であり、見識であり、
人間の尊厳と考えるからに他ならない。
法は存在すること、すなわち、
たとえ適用されずとも厳然として在ることに意味があり、
これほど重大な存在価値ある死刑制度を、
時に試行、時に一時停止、時に暫定的廃止、
そして復活すること自体に誤りがあるといわねばならない」
最後に、こう書く。
私は、人の命の大切さに重きを置くならば、
重大犯罪に手を染めた者たちが、
「より良く生きる」ためにも、
極刑に向き合うべきだと
改めて考えるようになった。
死刑囚は、そうすることで、
生の尊さを知ると思うのだ。
死刑制度はなくさなくとも、
処刑は回避できる。
そこに、今後の日本が進むべき道のヒントがある気がした。
現在日本には、死刑が確定しながら、執行されていない死刑囚が105人いる。
法律では、特別な理由のない限り、
死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならないのだが、
事実上、空文となっている。
また、再審請求がある場合は、執行が停止されることから、
再審請求を繰り返して、執行逃れをしている者もいる。
死と向き合って、「よい人生」になっている例ばかりではないのも事実だろう。
そして、こうした未執行死刑囚にかかる経費は
税金でまかわれているという事実も着目しなければならない。
私は、死刑制度はあるべきだと思っている。
犯罪抑止効果とか、被害者遺族の感情もあるが、
それ以上に、
人間は自分のした行為については、
しっかり責任を取るべきだと思うからだ。
人の命を奪ったのだから、
自分の命で償うのは当然だ。
まして、残酷な殺し方をした人間には情状酌量の余地はない。
命を奪われた人は、望まない形で命を断たれ、
後の人生全てを失ったのだから。
死刑囚の命も大切という論もあるが、
なればこそ、大切な命でつぐなってもらうのは当たり前だ。
どうして日本の社会は、加害者にこんなに甘いのだろう。
私は、人間だから、殺意を抱くことはあっても、
それを実行するのは、深い淵を飛び越えることだと思っている。
加害者の心の闇を理解しようとしても、
どうやっても理解不能だ。
日本の二人の死刑囚が、幼い自分の子供を残虐に殺しているのを見ると、
悪魔に魅入られたとしか思えない。
また、主婦を殺した後、ドラム缶で焼却するなど、
人間のすることではない。
死刑廃止を主張する人は、
次の声に真摯に答えなければならないだろう。
「自分の娘が殺されたのに、なぜ犯人は刑務所でのうのうと生きているのか」
そして、この声も。
「自分の子供が殺されても、裁判官は犯人に同じ判決を下せるのか」
白黒の判断が難しい問題に真正面から切り込んだ
素晴らしいノンフィクション。
宮下洋一氏の、ものすごい筆力に圧倒された。
この方、スペイン在住で、
著作もまだ数冊ほど。
どうやって取材費を捻出しているのだろうと心配したら、
ちゃんと資金援助してくれる人がいた。
こういうお金の使い方を、お金持ちにはしてもらいたい。