空飛ぶ自由人・2

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電動アシスト自転車

2024年12月24日 23時00分00秒 | 身辺雑記

電動アシスト自転車を買いました。

以前、レンタサイクルで
柴又に行ったり、
沼津から戸田へ、
また、しまなみ海道を走破したりで、
その性能は知っていましたが、
市内のホームセンターに安価なもの↓が出ていたので、

購入しました。

左のハンドル近くに切り換えるところがあり、
バッテリーの残量表示と
エコ・平坦・坂道の3つのモードの切り換えスイッチがあります。


エコモードで40㎞の走行が可能だと書いてあります。

こいでみると、スイッと前に出ます。
初動の力が強すぎて車道に出てしまう、
という危険が言われていましたが、
そこは改善されたようで、
あまり強くは出て行きません。
後ろから押されるよりは、
前に引っ張られる感じで
スイスイと快適。
とにかく楽。

時速10㎞までは、
ペダル対モーターの比は1対2。
時速10㎞を過ぎると
補助力は徐々に減少し、
時速24㎞を越えると、
補助力はゼロになります。

毎日の買い物に使い、
10日ほど乗ると、
バッテリーの表示が一つになり、点滅。


バッテリーは取り外せて、


↓の充電器につなげて充電。

赤いランプ点灯は、充電中。

消えると、充電終了。

インジケーターに表示されます。

このタイプでは充電に3時間30分かかります。

あと、盗難保険が自動的についており、
1年以内に盗難にあった場合は、
半額で同製品を提供してくれるそうです。

NHKの「新・プロジェクトX」
取り上げられた時の録画があったので、
観てみました。


これが感動モノ。

開発したのはヤマハ
当時の事業開発主任の菅野信之という人が着想。
ただ、既に類似の商品があった。
それは電動自転車


こがずにモーターの動力だけで運転でき、
「原動機付き自転車」に分類されるため、
免許が必要で、今一つ売れなかった。
なにしろ、バイクがありますからね。

菅野は自動車の電動パワーステアリングに着目。
人が回すと、
モーターの力で合力して、
車輪を動かす。
そこで、パワーステアリングに使うモーターを取り寄せて
自転車に装着。
1年ほどして試作機が完成。
乗ってみると、快適で感動する。
「感動を届けてこそ」という
物作りする者の心に響く出來だった。
試しに乗った事業開発室長の藤田武男は、
「これはすごいことになりそうだ」
と直感。

道筋が見えたのを見定めて菅野は
「新しいことをやりたい」と、身を引き、
仕事は新しい事業開発主任の小山裕之にバトンタッチされた。
(菅野は後に電動アシスト車椅子を開発)

しかし、周囲は
「原付だ」「売れない」と否定的。
指摘のように、原付とは違うかどうかという、
乗り越えるべき大問題があった。

「道路交通法」には、
自転車は「人の力により運転する」と定義されている。
モーターが付けば、
それは原則「原動機付き自転車」に分類されてしまう。


その問題の大きな山場を迎えた。
1961年6月28日、
運輸省・警察庁合同試乗会を開催。


ネクタイ姿のお役人たちが試乗。

坂道に来た時、笑みがこぼれた。
「これは楽だ」と。

ほどなく、「自転車の範疇ではある」との見解が出され、
難題をクリアした。


免許なしに乗れるのだ。

しかし、もう一つ難題があった。
製造コストが高すぎる
それでは、買い物帰りに坂道を難儀して上る
主婦層には買えない。


そこで、藤田が事業開発部長の長谷川武彦に申し出た。
「特許は独占しません」


様々な企業が参入し、価格が下がれば、
必要とされる人に、きっと届く。
しかし、それは、会社としての利益を優先しないことだ。
すると、開発部長は「分かった」と。
「俺も行くぞ」。
そして、二人はブリジストンを訪ねる。


自転車の圧倒的な製造ラインとノウハウを持っている会社だ。
その相手を前に長谷川は
「世のため人のため、どうか力を貸して下さい」
と頭を下げた。


(この長谷川という方、
 後にヤマハの社長になる人物。
 やはり器が大きい。)

この特許の公開には前例がある。
オランダのフィリップス社は、
自社が開発したオーディオカセット
互換性厳守を条件に基本特許を無償公開したため、
多くのメーカーの参入を得て事実上の標準規格となり、
世界的に普及した。


辛子明太子を開発したふくやの社長・川原俊夫は、
製造法を独占せずに他企業へ教えたことから
辛子明太子は様々なメーカーが参入し、
福岡の一大産業になった。


(ついでに言うと川原俊夫は、
 節税の方法を伝授する会計士に対して、
 そんなことをするな、と、こう言ったという。
 「橋は誰が作るんですか。
  道路は誰が作るんですか。
  税金でしょう。
  会社が利益を上げて税金を納めて、
  それが橋になり、道路になる。
  これほど名誉なことはない」)

1993年、新車発表会


予想に反して、1000台の予定が3000台売れた。


翌年には3万台。
開発者たちを何より喜ばせたのは、
購入者からの手紙だった。
「拝啓 社長様
 おじいさんのお墓は
 坂が続く丘の上にあり、
 登ることができませんでした。
 この自転車を買ってから、 
 毎日おじいさんに会えるようになりました」

今では年間80万台が作られ、
普通の自転車より多いという。
町でも、主婦層やママたちが
使っているのをよく見かける。
日本発の発明品は世界に広がっている。

世のため、人のためになるもの、
それまでに無かった製品を作る。
それこそものづくりの人の冥利だろう。

安価になり、
21年たって、ついに我が家にも届いた。
来年の菖蒲の季節には、
水元公園に遠征しようと思っています。