[書籍紹介]
江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門を描く小説。
吉川永青著。
紀伊国屋文左衛門については、
紀州から江戸にミカンを運んで大儲けし、
吉原で派手な遊びをした、
くらいの知識しかなかったが、
ああ、こういう人だったのか、
という読後感。
といっても、ほとんどが作者の創作であることに注意。
紀伊国屋文左衛門については、
著作や記録は残っていないので、
作者の想像で作った紀伊国屋文左衛門像だ。
紀州湯浅で育った文左衛門は、小さい頃文吉といい、
長じて文平と称して
和歌山城下の材木問屋の手代となり、
宮司の娘・汐と婚約するが、
不幸な事件で汐を失い、
江戸に出る決心をする。
江戸では、河村屋十右衛門を頼り、
木材不足に対して下総から材木を調達して河村屋を助け、
その助力で紀伊国屋を開業、
時化で届かないミカンを故郷から船で運んで
大儲けし、材木商の基礎を築く。
その後、汐の妹・凪と所帯を持つ。
側用人柳沢吉保、勘定奉行の荻原重秀らと関係を繋ぎ、
公儀の普請の入札に参加するようになる。
特に寛永寺根本中堂の普請の入札では、
経費の綿密な計算で落札し、
材木商としての立場を確立する。
両替商への転身を図るが、
反発を受けて実現せず、
荻原の依頼で引き受けた
貨幣改鋳で作った十文銭の不評で
損を出し、将軍が代わって、
柳沢らの後ろ楯を失い、
紀伊国屋の屋台骨が壊れていく・・・
という顛末を、
いくつかの史実を織り込みながら、
創作で文左衛門の人物像を作り上げていく。
船頭の玄蔵、俳諧師の甚次郎、元は樵で後に手代となる長次郎らが
周辺を彩る。
公儀が寺社など様々な建物の普請を企画するのは、
火事が起きやすいという江戸の特徴から
火事後の再建のための大工の口を賄い、
技術を温存するためだった、
という解説は、ほう、と思わせるものがあった。
文左衛門は言う。
「あたしはそれを助けたい。
世の中を前に進ませる力になたたいんです」
これが文左衛門の商人としての根となっている、
と、作者は描く。
凪の言葉。
「おまえさんは、自分の役目を果たそう、
何とかしようって、いつも懸命にやってきました。
女は、夫がそういう人でいてくれる限り、
一緒に苦労できるのが嬉しいんですよ」
また、米中心の経済が破綻するのは、
江戸の人口が増えすぎたためだ、
という説もなかなかのものだ。
文左衛門は、店を閉めるのを、
「まだ力があるうちに」として、
余力がある時に廃業する。
そして、奉公人に十分な金を与えてやる。
奉公人たちには、
勤め上げた年季と店での役割に応じて
金子を渡し、暇を出した。
たとえ小僧でも、
奉公した年月と同じだけの間は
十分に食っていける金を手にしていた。
「店から渡す金をどう使うか、
よく考えておくれ。
あたしは思うんだ。
皆が食い繋いで、
何か世の役に立つ人になってくれたら、
こんなに嬉しいことはないってね」
小説なのだから、当然だが、
実像の文左衛門とは違うかもしれない。
だが、筆者の造形した文左衛門像のままなら、
大した人物だという気がした。
紀伊國屋文左衛門については、生年、没年共にはっきりしておらず、
人物伝には不明な点が多く、架空の人物であるとする説もあるが、
実在したとする説が主流だ。
享年は66歳であるという説が有力。
最後は乞食同然の生活となり哀れな晩年を送った、
という説もあれば、
閉店した後も、深川富岡八幡宮に
総金張りの神輿三基を奉納したり、
大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進したりと、
潤沢な資産を持っていたとも言われる。
なお、紀伊国屋文左衛門は、「紀文」と呼ばれたが、
今現存する食品会社の「紀文」とは何の関係もない。
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