意識的な人間の共同体、グループを形成し、後の社会へ残すということが宗教家たちの使命であるかもしれない。しかし、社会と隔絶された空間で伝統を維持することは、人を救うことにはつながらない。何らかの形で社会へと意識的な影響を与えることで。これらの宗教が意味を成してくるのである。
私たち人間が平和的に共存できない理由は、自己意識を持たないからである。自分が今、何をしているのかを感じていないし、意識もしていない。無意識のうちに事は成っていくのだが、それでも私たちは意義のある目的にしたがって、生きているのだという催眠術にかけられている。
意識したなら、自分が何をしているのか分かるだろう。自分を意識しながら悪いことができる人間はいない。何らかの対象に興味を奪われて、正常な理性を持てなくなった時に、人は過ちを起こしている。
自己意識を獲得するためには、今まで私だと思っていたものを再度、詳細に観察してみることである。それは自らの身体の動きを、思考、感情、動作、本能、性という各機能へと区別していくことである。日々の中で、私を対象として観察し、各機能の働きを区別し続けるのだ。観察するために、私はそれらと離れなくてはならないと分かるだろう。例えば、感情的になっている私と同一化すると、できないのだが、感情の動きを私から突き放して、客体化すればできるのである。
それらすべてが、私のおかれている身体環境なのである。私は身体ではないが、身体とともにあり、そこに住まう魂なのである。そして身体環境は、自然現象として働いている。風が吹くのと同じように自然と感情が動くのであって、そこには私の意志など特別なものはひとつもない。これらの流れに抵抗して、初めて意志が機能するのである。
人間は、私が何々をしていると思いたがるが、実際は、刺激と反応の繰り返しを生きている機械なのである。ただ普通に考えられている機械とは違い、驚異的に複雑な反応をする機械なのだ。本来、人間は意識的であり、個性があると考えられている。つまり自由に行動できると思われている。しかし、この自由は、私の意志が機械の自然な動きに意識的に関与し、抵抗をしていくということで初めて生まれるのである。身体機能が自分勝手な欲望で動かぬように操縦するのだ。そうすることで、自らの望む目的へと導いていくのが、自由意志のある人間である。つまり、機械ではなく、正真正銘の人間なのだ。
自己意識の元では、内面の私や、潜在意識としての私などは語られない。そこから私という言葉を除かなければならない。私であると思っているそれらを、自然を見るように切り離すのである。私であるという考え、観念を手放すだけなので、別に傷つきもしない。痛くもかゆくもない。
仏教の話で、座禅をして心身脱落したということを語る人がいるが、心身脱落とは恐怖心をあおる言葉だ。だが、それは、私の身体と心が、私ではないと理解する、その変化を達成したよという意味である。自然現象である身体だという認識を持つのだ。
世界は身体機能から生まれているのであり、身体機能イコール世界内に住んでいる魂が私なのだ。人体は自然環境に置かれているが、この自然環境に心も体も含まれているのである。それを、内面の私とか、潜在意識的な私だとか、私の自由にできる身体だと思っているのが個別的生の幻想だ。それらは神の創造物であり、私ではない。
体や心は魂の宿っている住み家であり、魂そのものとはまったくの別物なのではあるが、それらが現実に姿を現すと痛みや恐怖によって、生命を守る必要がある。でなければ、貴重なこの生命はすぐに失われてしまい、必要な体験を得ることができないからだ。自然は自殺などで貴重な生命が失われないように守っているのである。
では、実際に自分自身を自然界の一部機能だと客体化してみよう。つまり観察したり、感じたり、意識の中に全体とともに包括したりするのだ。
どのような困難があるだろうか。愛着のある私の身体や心が単なる自然現象であるとして突き放して観察するのに抵抗を感じるのではないだろうか。それらを切って捨ててしまうことが世を離れるということである。
第四の道では最重要であるこの活動を「自己想起」という。
自己想起の最大の敵はうそをつくこと、想像、思わくである。
うそをつくことは「知ったかぶりのおおぼらぶき」と言われる。知らないことを知っていると言うことがうその定義だ。
想像は日常あらゆるところで私たちの意識がくっついている白昼夢や、ありとあらゆるくだらない考えである。
思わくは他人が何を考えているのかに始まり、様々な人間関係について気にしていることである。基本的に自分が傷つけられたとか、相手を傷つけてしまったとか、そういった思いに満たされている。
こういったものは各センターの欲望から生まれている。
このような働きに意識を向けることなく、忘れてしまうことである。つまり、私は知らないのであり、私の内面などない。それらは私の機械的反応が産んだ諸世界である。
こういった自己を客体化する努力は生きるためには全く必要とされない。
だが自分の世界に置かれた状況に疑問がある人が回答を欲するときにやってみると効果的な方法であると思う。
人は生きるのに忙しくて、そんな不安定で怪しいものには興味がないかもしれないが、それでも私は最大級に興味を持ってきたし、何とか理解できないかと考え続けて、試し続けてきたのだった。同じように思う人がどこかにいるかもしれず、私の体験が間違ってきていたとしても、何らかの役に立つ情報もあるだろうと思う。
では、ここで『超個人的疑問』に問題点を移して、更に考えてみよう。
世界が演技であるとは、つまり私たちの行動は常には意識的ではなく、実際に存在しているのは世界の中ではない広大な空であるということが理解できないときに、他者の意識の不在を感じ取って思うことだ。彼ら眠れる民は、演技させられている存在である。
私たちは意識の状態で存在するレイヤーを選択できるのであり、夢の中、泥酔状態、睡眠、自覚、自己意識、客観意識、などなど様々な場所で体験をしている主体である。
だが、夢である場所が、現実に現れるという疑問には、どういった回答が用意できるだろうか。しかも気付いた場合は、その後のストーリーが必ず実現しないのである。
これは並行世界や、拡大し続ける世界という概念を持ち込めば納得できる回答になるが、確証することが不可能だ。
世界の出来事は刺激と反応の中で起こっていて、実際に時間が幻想であるとすると、歴史のあけぼのから、終えんまですべての出来事が同時に存在しているということになる。
私は、それらすべてを体験しているのだが忘れている。そして夢が何らかの経緯で、忘れていた記憶へアクセスさせ、未来の出来事を見せるのだ。
しかし、夢で見たと気付く瞬間が訪れた時に変化が生じ、刺激とパターンの中で作られていた一つの宇宙が成立しなくなり、その後のストーリーは続くことがなく、新しいパターンの全歴史が生まれていることになる。
そうなると私たちは意識的に生きることができた場合、幾つもの歴史を創造している神のような存在だと考えることもできる。
しかし、本当に天文学的に多数の世界があるのだろうか。
同じ世界が何度も循環して、そのたびに新しい歴史が誕生しては死滅しているという考え方もある。
私が今回何度目の人生を生きているのか知らないが、何らかの原因で夢という形で前回の人生の経緯と出会うことがあり、それらは現実の出来事ではまだ起こっていない。刺激と反応のパターンが前回の歴史と余り変わっていない場合、出来事が予定どおり到来して、私は夢で見た瞬間と出会う。デジャブすること自体が、全体の歴史にとって大きな変化を産まないため、多少のストーリーの展開は歴史の流れを覆すことなく、また忘れられたまま、規定の人生を生きていく。
こちらの方が、現実味のある考え方だと思うが、どちらにしても、これを確証する方法は思いつくことができない。
だが、意識的関与をすることで、自然のつくり出した出来事に変化を加えられるのだ。その瞬間、未来も過去もすべて書き換えてしまうのだから、すさまじいことだが、アイデアとして、本やインターネットなどで、またYとの会話などでも頻繁に出てくることである。意識的な人間が百人いれば世界のすべてを変えることができるとGが言っているのを考えると、多数の自覚した人間が意識的に動くことで変わるのだろう。
最重要課題である、自己を意識することの問題に話を戻そう。
自己を観察して、ある程度の距離がとれるようになったら、今度は感じなければならない。私の身体の感覚を抱くのである。女と抱き合うように私の感覚を慈しみ、愛して、包み込むのだ。もちろん意識が常にあるわけではないので、ずっとできない。もしも、私は常に身体感覚があるという人がいれば、それは何一つとして知らない人だ。
私が悟るために、私は常に身体機能を観察しながら、感じていようと努力するのである。
忘れる、思い出すの繰り返しが大事であって、それを毎日やっている内に、思い出す場所や境遇というのがパターン化されてくる。そうしたら、またもっと思い出せるように、様々な刺激を利用する。次第に身体環境を知ることができるだろう。
私たちは真剣に興味を持ったことでも簡単に忘れてしまう。複数の欲求のどれが支配的地位を持つかによって変わるのだ。様々な条件が、人体に刺激を与えて行動を促す。であるから、常に油断せずに、何度も目的を思い出して、自分に帰り、身体を感じ、脱力するのだ。これ以上に重要なことは人生に一つもない。
脱力するというのは、私が夕日を見たときにクリアに印象をとらえた経験や、リーラで感情エネルギーを発散したあとに、静粛が訪れるという機械的、自然現象的に空に触れる方法だろうと思う。これは、自己意識が伴っていないと、なぜ自分がこれほどに解放されているのか理解できないので簡単に失われてしまう。自己を感じ、思い出すという経緯がこれに加わることで、誠に効率よく空体験に結びつくだろう。
だが、問題は自己を感じ、思い出したいという願望をどのようにして、通常のセンターに強いるかということである。
強烈な意志がないと絶対に続かない。
自然現象である、思考、感情、動作、本能、性の各センターがそれぞれの欲求を持っていて、一番強い欲望を元に人は機械として動いていく。自己意識が関与することで、それらをコントロールすることができるが、いまだ自己意識は発展していない。
だが、とても大きなショックを受け、人生が苦しみを抱えているときは、自己意識に対する願望を維持しやすいだろう。そういう状態で人は、ハッと我に返り、何事においても真剣さが生まれてくる。だから、どうしても忘れることのできない苦しみを人に与えることが、自覚へと導くことになるのである。死というフィクションが用意されているのは、このためではないかとすら思う。Gは著書の中で、人間を目覚めさせるには、他人ではなく、間違いなく、この私自身が死ぬのだということを忘れられなくする新しい器官を人間に植え付けることであると言っている。仏陀も生老病死の苦しみから人々を救いたいと思い、その意志が自覚体験へと結びついたのだった。
つまるところ、この意志を作り上げるのは悲しみである。様々な人も言っているように、悲しみのない人間は異常である。通常の感情の中で一番『愛』に近い感情が悲しみなのであって、非常に肯定的かつ高度な感情だ。
この悲しみの粒子が、感情センターを突き抜けることによって愛が生まれる。
愛がなければ、他人の立場に身を置くことは不可能であるので、仮に自己意識の状態に頻繁に出会えるようになっても、客観意識のひらめきに触れることはない。他者と自己の壁を打ち破るのは『愛』あり、それは悲しみという人間感情が発達したものである。
私は自らの欲望に執着して愛と愛情の問題で破滅的に苦しんだことがあった。愛情や愛着という感情は、自己の快不快の感覚と結びついているので、快いものは愛する、不快なものは憎むと二元的にコロコロと変化してしまう。
また愛情を大切にする人間は自己中心的な感情からも脱却できない。悲しみこそが感情センターで最大の解放へのかぎなのだ。通常感じられる人間感情の中には『愛』は存在していない。非人間的感情こそ『愛』である。
では、こういった有益な考えを実践して、人々の生活の中で共有できるように提示するには、どうしたらいいだろうかと考える。
これは個々人が態度を表明することであるという坂口恭平の『個人が貨幣だ』という考え方を実践してみることだろう。私がこれらの考えを書いてみたところで、人には理解されない。それは今までの人生で何度もざ折してきたことだ。
なぜ、ざ折してきたのかというと敵を勘違いしてきたからだと気が付いた。敵は社会や他者ではない。私自身の成長不足だけなのだ。
芸術とは生きることであると坂口恭平が言う。
書くことや、音楽を奏でること、写真でも何でも、日々の仕事であっても、すべて生きることこそが芸術なのである。そこに表現されてあるのは私という存在であり、魂の反映である。悲しいかな、そこに意志がないのが現代人だ。
しかし、今日、私が自己を想起することで、だれかに優しさを与えられたなら、それがレイヤーを拡大したことになる。
慈しみ、受け入れるということに対して、自己の理解を深めていく。また世界理解という概念について、学んでいくことが、すべてにつながっていく。
個人の本質がある段階を越えるまで成長した時に、私は世界を変えることができる!
偉大な先人たちも、そうであったということを考えなければならない。慈悲のない仏陀は存在しえないのだ。
生活での態度を意志によって変えていくことで社会が広がる。
それでは、実際に私の『生活』の中で、どのようにして超個人的疑問が生まれていったのかを振り返ってみたい。こうすることで私は人生最大の敵である、私自身をより明確に意識することができるだろう。人生とは戦いである。敵は私自身という神の与えた自然機能なのである。幻想を取り払うことが可能となったとき、すべての理解が得られるだろうが、私はこれから、存在を高める努力を第一にしなければならないだろう。
超個人的疑問は、二〇一二年の夏、うつになった私が、ブログに自分の半生を書き殴ったものを元にして再編集したものである。
私たち人間が平和的に共存できない理由は、自己意識を持たないからである。自分が今、何をしているのかを感じていないし、意識もしていない。無意識のうちに事は成っていくのだが、それでも私たちは意義のある目的にしたがって、生きているのだという催眠術にかけられている。
意識したなら、自分が何をしているのか分かるだろう。自分を意識しながら悪いことができる人間はいない。何らかの対象に興味を奪われて、正常な理性を持てなくなった時に、人は過ちを起こしている。
自己意識を獲得するためには、今まで私だと思っていたものを再度、詳細に観察してみることである。それは自らの身体の動きを、思考、感情、動作、本能、性という各機能へと区別していくことである。日々の中で、私を対象として観察し、各機能の働きを区別し続けるのだ。観察するために、私はそれらと離れなくてはならないと分かるだろう。例えば、感情的になっている私と同一化すると、できないのだが、感情の動きを私から突き放して、客体化すればできるのである。
それらすべてが、私のおかれている身体環境なのである。私は身体ではないが、身体とともにあり、そこに住まう魂なのである。そして身体環境は、自然現象として働いている。風が吹くのと同じように自然と感情が動くのであって、そこには私の意志など特別なものはひとつもない。これらの流れに抵抗して、初めて意志が機能するのである。
人間は、私が何々をしていると思いたがるが、実際は、刺激と反応の繰り返しを生きている機械なのである。ただ普通に考えられている機械とは違い、驚異的に複雑な反応をする機械なのだ。本来、人間は意識的であり、個性があると考えられている。つまり自由に行動できると思われている。しかし、この自由は、私の意志が機械の自然な動きに意識的に関与し、抵抗をしていくということで初めて生まれるのである。身体機能が自分勝手な欲望で動かぬように操縦するのだ。そうすることで、自らの望む目的へと導いていくのが、自由意志のある人間である。つまり、機械ではなく、正真正銘の人間なのだ。
自己意識の元では、内面の私や、潜在意識としての私などは語られない。そこから私という言葉を除かなければならない。私であると思っているそれらを、自然を見るように切り離すのである。私であるという考え、観念を手放すだけなので、別に傷つきもしない。痛くもかゆくもない。
仏教の話で、座禅をして心身脱落したということを語る人がいるが、心身脱落とは恐怖心をあおる言葉だ。だが、それは、私の身体と心が、私ではないと理解する、その変化を達成したよという意味である。自然現象である身体だという認識を持つのだ。
世界は身体機能から生まれているのであり、身体機能イコール世界内に住んでいる魂が私なのだ。人体は自然環境に置かれているが、この自然環境に心も体も含まれているのである。それを、内面の私とか、潜在意識的な私だとか、私の自由にできる身体だと思っているのが個別的生の幻想だ。それらは神の創造物であり、私ではない。
体や心は魂の宿っている住み家であり、魂そのものとはまったくの別物なのではあるが、それらが現実に姿を現すと痛みや恐怖によって、生命を守る必要がある。でなければ、貴重なこの生命はすぐに失われてしまい、必要な体験を得ることができないからだ。自然は自殺などで貴重な生命が失われないように守っているのである。
では、実際に自分自身を自然界の一部機能だと客体化してみよう。つまり観察したり、感じたり、意識の中に全体とともに包括したりするのだ。
どのような困難があるだろうか。愛着のある私の身体や心が単なる自然現象であるとして突き放して観察するのに抵抗を感じるのではないだろうか。それらを切って捨ててしまうことが世を離れるということである。
第四の道では最重要であるこの活動を「自己想起」という。
自己想起の最大の敵はうそをつくこと、想像、思わくである。
うそをつくことは「知ったかぶりのおおぼらぶき」と言われる。知らないことを知っていると言うことがうその定義だ。
想像は日常あらゆるところで私たちの意識がくっついている白昼夢や、ありとあらゆるくだらない考えである。
思わくは他人が何を考えているのかに始まり、様々な人間関係について気にしていることである。基本的に自分が傷つけられたとか、相手を傷つけてしまったとか、そういった思いに満たされている。
こういったものは各センターの欲望から生まれている。
このような働きに意識を向けることなく、忘れてしまうことである。つまり、私は知らないのであり、私の内面などない。それらは私の機械的反応が産んだ諸世界である。
こういった自己を客体化する努力は生きるためには全く必要とされない。
だが自分の世界に置かれた状況に疑問がある人が回答を欲するときにやってみると効果的な方法であると思う。
人は生きるのに忙しくて、そんな不安定で怪しいものには興味がないかもしれないが、それでも私は最大級に興味を持ってきたし、何とか理解できないかと考え続けて、試し続けてきたのだった。同じように思う人がどこかにいるかもしれず、私の体験が間違ってきていたとしても、何らかの役に立つ情報もあるだろうと思う。
では、ここで『超個人的疑問』に問題点を移して、更に考えてみよう。
世界が演技であるとは、つまり私たちの行動は常には意識的ではなく、実際に存在しているのは世界の中ではない広大な空であるということが理解できないときに、他者の意識の不在を感じ取って思うことだ。彼ら眠れる民は、演技させられている存在である。
私たちは意識の状態で存在するレイヤーを選択できるのであり、夢の中、泥酔状態、睡眠、自覚、自己意識、客観意識、などなど様々な場所で体験をしている主体である。
だが、夢である場所が、現実に現れるという疑問には、どういった回答が用意できるだろうか。しかも気付いた場合は、その後のストーリーが必ず実現しないのである。
これは並行世界や、拡大し続ける世界という概念を持ち込めば納得できる回答になるが、確証することが不可能だ。
世界の出来事は刺激と反応の中で起こっていて、実際に時間が幻想であるとすると、歴史のあけぼのから、終えんまですべての出来事が同時に存在しているということになる。
私は、それらすべてを体験しているのだが忘れている。そして夢が何らかの経緯で、忘れていた記憶へアクセスさせ、未来の出来事を見せるのだ。
しかし、夢で見たと気付く瞬間が訪れた時に変化が生じ、刺激とパターンの中で作られていた一つの宇宙が成立しなくなり、その後のストーリーは続くことがなく、新しいパターンの全歴史が生まれていることになる。
そうなると私たちは意識的に生きることができた場合、幾つもの歴史を創造している神のような存在だと考えることもできる。
しかし、本当に天文学的に多数の世界があるのだろうか。
同じ世界が何度も循環して、そのたびに新しい歴史が誕生しては死滅しているという考え方もある。
私が今回何度目の人生を生きているのか知らないが、何らかの原因で夢という形で前回の人生の経緯と出会うことがあり、それらは現実の出来事ではまだ起こっていない。刺激と反応のパターンが前回の歴史と余り変わっていない場合、出来事が予定どおり到来して、私は夢で見た瞬間と出会う。デジャブすること自体が、全体の歴史にとって大きな変化を産まないため、多少のストーリーの展開は歴史の流れを覆すことなく、また忘れられたまま、規定の人生を生きていく。
こちらの方が、現実味のある考え方だと思うが、どちらにしても、これを確証する方法は思いつくことができない。
だが、意識的関与をすることで、自然のつくり出した出来事に変化を加えられるのだ。その瞬間、未来も過去もすべて書き換えてしまうのだから、すさまじいことだが、アイデアとして、本やインターネットなどで、またYとの会話などでも頻繁に出てくることである。意識的な人間が百人いれば世界のすべてを変えることができるとGが言っているのを考えると、多数の自覚した人間が意識的に動くことで変わるのだろう。
最重要課題である、自己を意識することの問題に話を戻そう。
自己を観察して、ある程度の距離がとれるようになったら、今度は感じなければならない。私の身体の感覚を抱くのである。女と抱き合うように私の感覚を慈しみ、愛して、包み込むのだ。もちろん意識が常にあるわけではないので、ずっとできない。もしも、私は常に身体感覚があるという人がいれば、それは何一つとして知らない人だ。
私が悟るために、私は常に身体機能を観察しながら、感じていようと努力するのである。
忘れる、思い出すの繰り返しが大事であって、それを毎日やっている内に、思い出す場所や境遇というのがパターン化されてくる。そうしたら、またもっと思い出せるように、様々な刺激を利用する。次第に身体環境を知ることができるだろう。
私たちは真剣に興味を持ったことでも簡単に忘れてしまう。複数の欲求のどれが支配的地位を持つかによって変わるのだ。様々な条件が、人体に刺激を与えて行動を促す。であるから、常に油断せずに、何度も目的を思い出して、自分に帰り、身体を感じ、脱力するのだ。これ以上に重要なことは人生に一つもない。
脱力するというのは、私が夕日を見たときにクリアに印象をとらえた経験や、リーラで感情エネルギーを発散したあとに、静粛が訪れるという機械的、自然現象的に空に触れる方法だろうと思う。これは、自己意識が伴っていないと、なぜ自分がこれほどに解放されているのか理解できないので簡単に失われてしまう。自己を感じ、思い出すという経緯がこれに加わることで、誠に効率よく空体験に結びつくだろう。
だが、問題は自己を感じ、思い出したいという願望をどのようにして、通常のセンターに強いるかということである。
強烈な意志がないと絶対に続かない。
自然現象である、思考、感情、動作、本能、性の各センターがそれぞれの欲求を持っていて、一番強い欲望を元に人は機械として動いていく。自己意識が関与することで、それらをコントロールすることができるが、いまだ自己意識は発展していない。
だが、とても大きなショックを受け、人生が苦しみを抱えているときは、自己意識に対する願望を維持しやすいだろう。そういう状態で人は、ハッと我に返り、何事においても真剣さが生まれてくる。だから、どうしても忘れることのできない苦しみを人に与えることが、自覚へと導くことになるのである。死というフィクションが用意されているのは、このためではないかとすら思う。Gは著書の中で、人間を目覚めさせるには、他人ではなく、間違いなく、この私自身が死ぬのだということを忘れられなくする新しい器官を人間に植え付けることであると言っている。仏陀も生老病死の苦しみから人々を救いたいと思い、その意志が自覚体験へと結びついたのだった。
つまるところ、この意志を作り上げるのは悲しみである。様々な人も言っているように、悲しみのない人間は異常である。通常の感情の中で一番『愛』に近い感情が悲しみなのであって、非常に肯定的かつ高度な感情だ。
この悲しみの粒子が、感情センターを突き抜けることによって愛が生まれる。
愛がなければ、他人の立場に身を置くことは不可能であるので、仮に自己意識の状態に頻繁に出会えるようになっても、客観意識のひらめきに触れることはない。他者と自己の壁を打ち破るのは『愛』あり、それは悲しみという人間感情が発達したものである。
私は自らの欲望に執着して愛と愛情の問題で破滅的に苦しんだことがあった。愛情や愛着という感情は、自己の快不快の感覚と結びついているので、快いものは愛する、不快なものは憎むと二元的にコロコロと変化してしまう。
また愛情を大切にする人間は自己中心的な感情からも脱却できない。悲しみこそが感情センターで最大の解放へのかぎなのだ。通常感じられる人間感情の中には『愛』は存在していない。非人間的感情こそ『愛』である。
では、こういった有益な考えを実践して、人々の生活の中で共有できるように提示するには、どうしたらいいだろうかと考える。
これは個々人が態度を表明することであるという坂口恭平の『個人が貨幣だ』という考え方を実践してみることだろう。私がこれらの考えを書いてみたところで、人には理解されない。それは今までの人生で何度もざ折してきたことだ。
なぜ、ざ折してきたのかというと敵を勘違いしてきたからだと気が付いた。敵は社会や他者ではない。私自身の成長不足だけなのだ。
芸術とは生きることであると坂口恭平が言う。
書くことや、音楽を奏でること、写真でも何でも、日々の仕事であっても、すべて生きることこそが芸術なのである。そこに表現されてあるのは私という存在であり、魂の反映である。悲しいかな、そこに意志がないのが現代人だ。
しかし、今日、私が自己を想起することで、だれかに優しさを与えられたなら、それがレイヤーを拡大したことになる。
慈しみ、受け入れるということに対して、自己の理解を深めていく。また世界理解という概念について、学んでいくことが、すべてにつながっていく。
個人の本質がある段階を越えるまで成長した時に、私は世界を変えることができる!
偉大な先人たちも、そうであったということを考えなければならない。慈悲のない仏陀は存在しえないのだ。
生活での態度を意志によって変えていくことで社会が広がる。
それでは、実際に私の『生活』の中で、どのようにして超個人的疑問が生まれていったのかを振り返ってみたい。こうすることで私は人生最大の敵である、私自身をより明確に意識することができるだろう。人生とは戦いである。敵は私自身という神の与えた自然機能なのである。幻想を取り払うことが可能となったとき、すべての理解が得られるだろうが、私はこれから、存在を高める努力を第一にしなければならないだろう。
超個人的疑問は、二〇一二年の夏、うつになった私が、ブログに自分の半生を書き殴ったものを元にして再編集したものである。