おはようございます!
みぞおちの左側付近が不調の豊田です
今日は朝からバタバタ準備して、スーパーへ頼まれていたものを預かりに行ってました
走ってる途中に携帯電話を忘れたことに気づいたのですが、途端に不安になる
携帯を持っているのが当たり前になると、それに縛られてしまうこともありますね
それからO先輩のところへ届けて、また、スーパーへ返品のものだけ持って行き、帰ってきた
お菓子食べて、血圧の薬飲んで、水飲みながら更新してます
玄関の脇に、知らない植物があったので、こんなんあったんだと母親に聞く
前から植えてあって、もう花も咲き終わったらしいが、全く気が付かなかった
毎日、通り過ぎているのに、そこにあるものに気が付かないというのは、よくありますね
視野の持ち方の癖が、言い方を変えれば、興味を惹かれるもの、目がいくものの傾向が、習慣があるので、同じような風景にだけ、気づいて、それ以外は、そこにあっても、ないように、存在に気が付かないのです、笑
例えば、自分のもの思いに耽っていると、周りに人がいても、全く見えてないかのよう
この視野が広がると、同じ場所でも、違う発見があったりするので、ここを変えると新鮮になる
宗教もこのようなものだと思います
しかし、携帯電話がなくなると不安になるように、今度は宗教的視野に縛られてしまう人が、いるんです
別に信仰は自由なので、神道、仏教、キリスト教、儒教と、何を心の糧にしても、いいと思いますが、それを違う目的に利用したりするのは、まったくもって嫌いです
個人的な話ね
例えば、自己の見解の優れたことを、自己の価値観の尊重されるように利用してしまう
1番よく見かける風景
こーいうのは、本質を知らない人間であると、感じてしまうんですね
別に人にどうこうではなくて、自分の思いが、宗教の説くものによって解放され、そして、それが、人との関係性においても、自分がすくわれていことが大事だと思う
5歳の娘さんを、虐待して殺害したというニュースが流れてましたし、連日のように、邪悪な人間が、正義の名において、同胞を殺害しているわけですが、このようなものを形成していったのは、情操教育であるはずです
教育と言っても、学校で習うような、机に座って頭に叩き込むようなものではなくて、人と触れ合う中で、行動基盤となるような、常識、礼儀などと呼ばれるもの、その、生活の暗黙のルールが、人間の生命よりも、大切であると、考える人が、たくさんいるから、喧嘩になる
戦争になる
社会的に、世界的に、宗教、政治の世界は、喧嘩ばかりです
下っ端が喧嘩しているのならいいんですが、トップにいるような人間が、あれは、間違えている
間違えてる、間違えてるとして
その間違えを正すのは、正義だからではない
正義というものは、慈悲を基本にしてなければ、いけない
つまり、相手が痛い思いをするのを事前に防ぐなどのことならわかるが、そうでもないのに、制裁を加えるような発想
まあ、碌でもない世の中であるわけですが、しかし、欲することをしないなら、個人的には、救われることが可能になる
あるものを遠ざけたり、近づけたりしない
ないものを取ろうとしたり、それに、思い悩んだりしない
悩まなければ、悩みはないw
思いが、悩ませるからである
思いを手放すとは、思いがなくなることではなくて、思いとは欲することから苦しみになると知って、何かマイナスな感情がから発した思いがあるなら、それを見抜いて、くっつかないことだ
宗教的体験も、それを利用して、違う目的に使うなら、相手を苦しめる
本来の目的は、人と人が、苦しみから解き放たれる素晴らしいものでなければいけない
間違えたら殺してしまう
このような発想、こんなものは、いらない
自分の命より大切なものはない
そうであれば、生きとし生けるもの、すべてが、命が、非常に大切なものである
それを傷つけるような行為を叱りつけるのは素晴らしいこと
だけれども
命を守るために、命を奪うことは間違えている
ということを人類は、未だに、理解できず
それでいて、相手の頭を叩き割りながら、我々は生物の王であるとでもいう顔をしているw
まあ、みんながみんな、そんなふうではないのだけれど、、、
なんか南伝仏教の坊さんとか、が、大乗仏教はダメダメだとか言ったりしてるのを聞くと、アホらしくなる
それ以外にも、教えが、その目的を、排泄していることはよくあると思うけども
まあ、ダメマくんが、書いても、怒られるだけかもしれませんw
ほいでは、よき、日曜日を
みぞおちの左側付近が不調の豊田です
今日は朝からバタバタ準備して、スーパーへ頼まれていたものを預かりに行ってました
走ってる途中に携帯電話を忘れたことに気づいたのですが、途端に不安になる
携帯を持っているのが当たり前になると、それに縛られてしまうこともありますね
それからO先輩のところへ届けて、また、スーパーへ返品のものだけ持って行き、帰ってきた
お菓子食べて、血圧の薬飲んで、水飲みながら更新してます
玄関の脇に、知らない植物があったので、こんなんあったんだと母親に聞く
前から植えてあって、もう花も咲き終わったらしいが、全く気が付かなかった
毎日、通り過ぎているのに、そこにあるものに気が付かないというのは、よくありますね
視野の持ち方の癖が、言い方を変えれば、興味を惹かれるもの、目がいくものの傾向が、習慣があるので、同じような風景にだけ、気づいて、それ以外は、そこにあっても、ないように、存在に気が付かないのです、笑
例えば、自分のもの思いに耽っていると、周りに人がいても、全く見えてないかのよう
この視野が広がると、同じ場所でも、違う発見があったりするので、ここを変えると新鮮になる
宗教もこのようなものだと思います
しかし、携帯電話がなくなると不安になるように、今度は宗教的視野に縛られてしまう人が、いるんです
別に信仰は自由なので、神道、仏教、キリスト教、儒教と、何を心の糧にしても、いいと思いますが、それを違う目的に利用したりするのは、まったくもって嫌いです
個人的な話ね
例えば、自己の見解の優れたことを、自己の価値観の尊重されるように利用してしまう
1番よく見かける風景
こーいうのは、本質を知らない人間であると、感じてしまうんですね
別に人にどうこうではなくて、自分の思いが、宗教の説くものによって解放され、そして、それが、人との関係性においても、自分がすくわれていことが大事だと思う
5歳の娘さんを、虐待して殺害したというニュースが流れてましたし、連日のように、邪悪な人間が、正義の名において、同胞を殺害しているわけですが、このようなものを形成していったのは、情操教育であるはずです
教育と言っても、学校で習うような、机に座って頭に叩き込むようなものではなくて、人と触れ合う中で、行動基盤となるような、常識、礼儀などと呼ばれるもの、その、生活の暗黙のルールが、人間の生命よりも、大切であると、考える人が、たくさんいるから、喧嘩になる
戦争になる
社会的に、世界的に、宗教、政治の世界は、喧嘩ばかりです
下っ端が喧嘩しているのならいいんですが、トップにいるような人間が、あれは、間違えている
間違えてる、間違えてるとして
その間違えを正すのは、正義だからではない
正義というものは、慈悲を基本にしてなければ、いけない
つまり、相手が痛い思いをするのを事前に防ぐなどのことならわかるが、そうでもないのに、制裁を加えるような発想
まあ、碌でもない世の中であるわけですが、しかし、欲することをしないなら、個人的には、救われることが可能になる
あるものを遠ざけたり、近づけたりしない
ないものを取ろうとしたり、それに、思い悩んだりしない
悩まなければ、悩みはないw
思いが、悩ませるからである
思いを手放すとは、思いがなくなることではなくて、思いとは欲することから苦しみになると知って、何かマイナスな感情がから発した思いがあるなら、それを見抜いて、くっつかないことだ
宗教的体験も、それを利用して、違う目的に使うなら、相手を苦しめる
本来の目的は、人と人が、苦しみから解き放たれる素晴らしいものでなければいけない
間違えたら殺してしまう
このような発想、こんなものは、いらない
自分の命より大切なものはない
そうであれば、生きとし生けるもの、すべてが、命が、非常に大切なものである
それを傷つけるような行為を叱りつけるのは素晴らしいこと
だけれども
命を守るために、命を奪うことは間違えている
ということを人類は、未だに、理解できず
それでいて、相手の頭を叩き割りながら、我々は生物の王であるとでもいう顔をしているw
まあ、みんながみんな、そんなふうではないのだけれど、、、
なんか南伝仏教の坊さんとか、が、大乗仏教はダメダメだとか言ったりしてるのを聞くと、アホらしくなる
それ以外にも、教えが、その目的を、排泄していることはよくあると思うけども
まあ、ダメマくんが、書いても、怒られるだけかもしれませんw
ほいでは、よき、日曜日を