こんにちは。
本日はさっきまで寝ていました。
座禅をする時に、そのままの自己の働きが現れるのは、内面が静まるからですね。
勝手に向こうのほうから、様々な事象があります。
グルジェフさんは、これを『リアル世界からの眺め』と言いました。
そして道元さんは、『万法に証せられる』と言いました。
お釈迦様は『自灯明、法灯明』と言われました。
自分と言うものの活動は、法の中にあるということです。
自分と法には違いが無いと言うことです。
連続した縁によって、縁ってあること。
そこにある自己というのは、最初から、そうあるのです。
この最初から、そうあるということが、最大の壁になっていた。
最初から、そうあるものを、そうではないと思い込んで、必死になっていたのだ。
様々な一過性の体験を繰り返すが、どうしても心がスッキりしない。
心がスッキリしたら、そこで、万物のみがあるという。
この何も努力をしないということが、何も努力をしないという努力になる(爆笑)
自分が忘れられる体験をしたときに、それをあとから認識する。
この認識した時に、その体験が、とても特別なものだと思い込み。
自我は、それを特殊な努力で手に入れようとする。
そうなると修行が始まる。
修行は、自己が、まだ、そこにいないという前提がある。
このままではダメだと、ここから、何かを手に入れなければならない。
しかし実際は、誰もが実現していることなのである。
マハルシも誰もが真我を実現している、実現する必要はないのだ、ただ、それに気がつくだけのことであると言っている。
これは確かに心を静かにすることではある。
だから、心を静かに『すること』があるではないかと思ってしまう。
沈黙『すること』があるではないかとなる。
このことは『既にそうである』ということがあって可能なのだ。
そこに『迷い』が生じて『疑問』が生じて、騒がしくなっているだけなのである。
阿部敏郎さんの言葉で『悩まない秘訣は悩まないことだ』というものがあります。
これがもう、すでに答えなのですが、これを方法だと思ってしまうのです。
今ここを生きる。
これは、もう、既に今ここにしか生きていないということの理解です。
じゃあ、仏教とかニューエイジ、精神性に関する学びが意味が無いではないかと思われるかもしれませんが、そうではないです。
一番必要なことなのです。
自分と言うものが私的所有物であるという思い込みから戦争が起こるからです。
世界の混乱の大本は『私』を知らないことにあるのです。
この『私』を見つけることを『自分探し』と言って馬鹿にされたりしますが、これは、本当に大切なことだと思います。
自分と世界、自分と対象は不二であって『私』なのである。
縁によって私が立っている。
見解が落ちれば、そこに、ただ、そのままに、みんながいるのだ。
あなたはわたしで、わたしはあなた。
これは、心のありようの話しである。
心が触れ合っていることが、このことの意味なのだ。