豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

跡形

2014-10-16 19:21:14 | 日記
跡形もない。

これは真実です。

真実というのは達成するものではなく。

もうすでにそのようであることを述べている。

これを理解しようという働きが理解を阻む。

老師が思いも立ち消えであるとおっしゃいました。

明日、どうしよう。

明日、

どうしよう。

どうしように来たときにはもう、明日は消えている。

思いが、立ち消えていくのである。

泡のよう。

達成する前から、そこ、何もしないでも、そこ。

そこを外れた生はないのだ。

跡形もなく、立ち消えている。

既にそうである

2014-10-15 19:29:13 | 日記
内、虚にして
外、事あるのみ

これは真実である。
真実というのは見解によらずに体験によらずに、もう、既にそうである事実を述べている。

ところが、これに到達しなければならないと、僕なんかは考えてしまったのだ。
動かしがたい事実に、到達する必要はない。

その通りだね、で安住してすっきりして、心の迷いが疑念が晴れたら終わりのことだったのです。

到達すべきものではなく、もうそうであることだったのだ。

縁による私

2014-10-14 15:30:01 | 日記
こんにちは。

本日はさっきまで寝ていました。


座禅をする時に、そのままの自己の働きが現れるのは、内面が静まるからですね。

勝手に向こうのほうから、様々な事象があります。

グルジェフさんは、これを『リアル世界からの眺め』と言いました。

そして道元さんは、『万法に証せられる』と言いました。

お釈迦様は『自灯明、法灯明』と言われました。


自分と言うものの活動は、法の中にあるということです。

自分と法には違いが無いと言うことです。

連続した縁によって、縁ってあること。

そこにある自己というのは、最初から、そうあるのです。


この最初から、そうあるということが、最大の壁になっていた。

最初から、そうあるものを、そうではないと思い込んで、必死になっていたのだ。

様々な一過性の体験を繰り返すが、どうしても心がスッキりしない。

心がスッキリしたら、そこで、万物のみがあるという。

この何も努力をしないということが、何も努力をしないという努力になる(爆笑)


自分が忘れられる体験をしたときに、それをあとから認識する。

この認識した時に、その体験が、とても特別なものだと思い込み。

自我は、それを特殊な努力で手に入れようとする。

そうなると修行が始まる。

修行は、自己が、まだ、そこにいないという前提がある。

このままではダメだと、ここから、何かを手に入れなければならない。


しかし実際は、誰もが実現していることなのである。

マハルシも誰もが真我を実現している、実現する必要はないのだ、ただ、それに気がつくだけのことであると言っている。

これは確かに心を静かにすることではある。

だから、心を静かに『すること』があるではないかと思ってしまう。

沈黙『すること』があるではないかとなる。


このことは『既にそうである』ということがあって可能なのだ。

そこに『迷い』が生じて『疑問』が生じて、騒がしくなっているだけなのである。


阿部敏郎さんの言葉で『悩まない秘訣は悩まないことだ』というものがあります。

これがもう、すでに答えなのですが、これを方法だと思ってしまうのです。

今ここを生きる。

これは、もう、既に今ここにしか生きていないということの理解です。


じゃあ、仏教とかニューエイジ、精神性に関する学びが意味が無いではないかと思われるかもしれませんが、そうではないです。

一番必要なことなのです。

自分と言うものが私的所有物であるという思い込みから戦争が起こるからです。

世界の混乱の大本は『私』を知らないことにあるのです。

この『私』を見つけることを『自分探し』と言って馬鹿にされたりしますが、これは、本当に大切なことだと思います。


自分と世界、自分と対象は不二であって『私』なのである。

縁によって私が立っている。

見解が落ちれば、そこに、ただ、そのままに、みんながいるのだ。

あなたはわたしで、わたしはあなた。

これは、心のありようの話しである。

心が触れ合っていることが、このことの意味なのだ。

認識よりも速き感応ーこころー

2014-10-13 23:22:08 | 日記
注意の働きは認識よりも速いです。

ですから、認識が起こる前に、もう、それは触れ合っている。

この5感と意識(心)の働きは仏心の中にあるのです。

この仏心、または神というのは概念化されないが、心の触れ合いの中にある。

これあって、これあり。

つまり縁起の世界ですね。

この縁起の世界は、自分だけでなりたっているものはひとつもありません。

また自分が欠けてしまうことでも成り立たなくなるのです。

しかし、ここに『思い』『煩悩』が沸き起こってくることで、あーでもない、こーでもないという苦しみがある。

本来は、誰一人として、完璧でない人はいないのです。

ただ、この、目の前の触れ合いの中に自己を投入しているかどうかだけです。

このことをマハルシは明け渡しと呼んだのです。

沈黙というのは、悩みが無いということです。

心の虚空の中に、対象があり、この対象がまた自己を生み、この諸行無常の変転の中で、瞬間の感応を生じていく。

その凄まじいスピードの中で、何もかもが、行われている。


それは、自分が何かする前に、もう、起こっているのです。

なので、その機能のままにしていることで、心がクリアになり、そのクリアになった心の触れ合い、鏡に映った自分自身が、その目の前の現実であるわけです。

だから対象と自己は同一である。

つまり不二であるということですね。


生じてくる出来事が、すべて自己に還るというのは、そこにあるものは、元々、自己の活動であるからです。

自己の心がハッキリとすれば、そこに、世界も有る。

そして他者と自己には、特別に、何の差異もないということがわかる。

差異を生むのは「思い」が沸き起こってくるからですね。

その沸き起こってきた思いを静かにさせておくことができれば、気がつくということですが、つまりそれは、何もしないということなのです。


何もしないのが、それで、何もかもが行われている。

そうして、その、心の接合点に、触れ合いの中に、投入された自己は、仏です。

つまり仏道とは自己なり。

この仏の心と自己の心とは不可分なのです。


ですから、心が、触れ合う一期一会だけがあって、それだけなのです。

何の問題もないのですが、そこに問題を作ったのが自我です。

この自我というのは「こうでなくてはならない」という思いのことです。

実際はすべてが、問題なく、あるということでしょう。


ですから仏心の復活こそが、様々な問題を解決する手段になりえます。

それは、この対象と自己は不可分のひとつであるという理解なのです。

注目すべき老師との出会い④

2014-10-13 12:47:51 | 小旅行
車へと戻る道で祭り神輿を担ぐ大人と子供、僧侶の方々。

笑顔で清めの塩をまく。

おそらく家族なのだろう、楽しそうに会話をして手を振る。

日常の一シーン。


車へと戻ってどうしようか考えた。

カフェに前日電話をしているので、翌日の法話があるか確認しよう。

母親が心配しているので家へ帰らなければならないが、この、時間は、自分の時間としてやらなければならないことがあるのだ。

またナビで、カフェへと向かいます。

丁度おなかも減っていたので食事をしようと思っていましたが、ケーキのカフェでした。

焼チーズケーキとホットコーヒーを注文する。

しばらく落ち着いてから「昨日電話したものですけど、明日の予定はどうですかね?」と聞いてみる。

「あ、今日こられたんですか?」

「ええ、今日は、あの、朝の座禅会に参加してきました」

「そうなんですね、明日はあると思いますが、一応、聞いて見ますね」

と言ってくれました。


老師の語録が本棚に置かれていたので、読んでみる。

どうも、老師のお父さんも有名な方らしく、その新聞記事か何かの切り抜きがファイリングされていた。

パラパラと眺めているとカフェの方が「これ、もらいました」と老師の言葉が書かれた小さなパンフレットのようなものを見せてくれた。

「いや、ないです」

「じゃあ、あげます」

「ありがとうございます」

と、いうことで、それを読みながら時間をすごす。


しばらくすると老師に聞いてくれたようで、今から会って来たらどうですかと言われました。

「え!? それは、ちょっと一体一は勇気が・・・・・・汗」

「そんな怖い人ではありませんから、大丈夫ですよ」ニコッと優しい。

「あ、じゃあ、行ってみます」

「そうしたら、明日も来てもらっても大丈夫ですし、台風が不安でしたら、帰ることもできますね」という、なんという親切心!

これぞ仏の心ではないのだろうか。


ということで、予想外の展開で、その日に会うことになりました。


またもやナビで設定して向かいます。

お寺へ着いて、お邪魔すると奥様が出て見えていたので「あの、老師が会ってくれると聞いたのですが・・・・・・」と超テンパッタ状態で、話します。

「ああ、そうですか」と言って「老師」と中へ入られます。

「どうぞ」と呼ばれたので、恐る恐る中へと入らせていただきます。

縁側にテーブルと椅子が2脚置かれており、そこに案内されました。

奥様がお茶を出してくれます。


「あの、悟りについてですが」と本題を切り出しました。

そのあとで2時間半くらいの会話で様々に教えてくださり、帰りには、DVDも貸してもらえるという恐れ多い、というか、めちゃめちゃ優しい人でした。

しかも車まで見送りに来てくださって「お気をつけて!」と言ってもらいました。

なんという親切心!

しかも突然、なんの約束も無く、ただカフェに現れた、この僕に、この心遣いと、しかも、僕の人生での最難関の疑問であった、真理についても諭してくれるという。

正に老師!

あまりの感動に、我を忘れてしまいましたw


要するにスッキリとして、問題が無く、特にやるべきこともなくなるという、ただ、この生かされている自己であるしか、元々ないのだという、そのところです。


僕が聞いた主なことは、

無我とは何か。

死の恐怖とは如何に克服すべきか。

この2点が個人的には主な疑問でしたが、もちろん会話の流れの中で、この問題を切り抜けていくことが、目的でした。

様々な話しをしていたので、正確な記憶はできていませんが、その話をしている時に、普通に話している、その話しているだけのときがあります。

あれ?

いま話しているだけですよね?

老師「そうだ」

僕「理解しようという働きがなければ、そこですよね」

老師「そうそう」

僕「てことは、何も問題はないということですか」

老師「そうそう、悟りだ、なんだって、全部、考え方の世界じゃない」


そういう認識が働く前に、もう、あるじゃない。

生まれてからずっと。


縁によってあるんですね?


そうそう、お釈迦様が言ったことは縁によってあるってそれだけじゃない。

縁起って言うけど、そこがね。


ということは認識がこけたらそこだけってことですね。


そうそう。

思いも、ただ起こっているんじゃない。


え? 思いもですか?


そうそう、それを自分の思いだと思ってる。

自分の思いだと思うから、良いとか悪いとか判断してるんじゃない。

ただそれだけのことじゃない。


じゃあ、この外の世界に証されるというだけではないのですか。


思いは難しいからね。

とりあえず、5感のことを言うわけで、最初はね。


思う前に思いがあるんじゃない。

それに対して、いいとかわるいとかやってるわけでしょう。


はい。


ということは、何もしないこと?


そうそう、この機能は機能のままにあるんだから、それに手を加えない。


なるほど!

腑に落ちましたw


めっちゃすっきり爽快です。


悟るも何も最初から悟ってる。

それが僕の最終回答です。

ああ、すっかり、その、解けましたw



<おわり>