随分と更新してませんので今日は書こうと思って両親の家へ行ったらお客さんの伯母が来ていたのでパソコンは断念してスマホからの更新です。
このところは忙しい毎日でした。
仕事も工程が変わったし、休みは頼まれごともあったりして、あまり自由にはしてません。
千鶴さんと悠聖を連れて京都観光へ行って来たのが、一番、楽しかったです。
伏見稲荷と東寺、金閣寺へ行ったのですが、息子はあまり興味なさそうでした笑
東寺の仏像には、こわい、こわいと連発。
「こわ〜い」と高音で繊細そうな声がw
まあしかし、電車とエスカレーターには大喜びしていたし、楽しそうにはしてくれてた。
さてさてメインの宗教研究ですw
このところ、いろんな人たちに怒られて気がついたのですが、自分を混乱させている特徴は、恐怖だと思います。
この恐怖が発生すると、視野が狭くなり、頭も働かないので、失敗することがあり、そこから、脳内引きこもりになるのです。
すると、かの有名なる自己正当化、つまり、言い訳がショックを妨げるために、機能しだし、このリアルな生から、自己を分離させてしまう。
そして、よく言われるように、この恐怖を霧散させるのは、怒りでありますので、いきなり怒りだし、なにもかもを台無しにしてしまうのです。
これが、よくあるパターン。
で、このところの気づきです。
怒りには、実は、同時に、迷いをとって目を覚まさせる効果も付随しています。
つまり非常に悪いものでありながらも、注意を澄ませるところもあるのです。
そこで、この悪い部分を受けずに、良い面だけを見ると、気が強く出るところです。
つまり通常では、出ないような気合が、発散されるのですが、その時に、怒りをのぞいて、つまり、このネガティヴな感情を排除して、そのエネルギーだけを、覚醒に使うことができます。
それは、その個人的なモード、つまり主観性の中に入り込むのを阻止して、現在に止まりながら、そのエネルギーを利用することになります。
そこで、実は、かの有名なる、リラックスをぶつけるのです。
この相反するエネルギーが、同時に、あるときに、良質の、手放しが起きて、迷いなく、怒りなく、怠けることもないという、人間の苦しみの生じない状況へと移行できるのであります。
つまり、気合と緊張、リラックスと怠惰が、普通は同居しているのを、良い面だけを残して、そのネガティヴな面を、なくしてしまうのであります。
まあ、しかし、それと悟りは、あまり関係なさそうですかww
これは気合が入りながら緩んでいるという状態で、集中しながら手放しているというときなのですが、そのときに、すべての前にある、縁に触れて発生する、この如来に乗れるのです。
それは、実質的に生活の中で、実現可能で、脳内で考えられた信念や、宗教家の教えなどのような、頭の中の世界ではなく、実地に、そこにあることで、ほんとうに、解放されるときなのであります。
たとえば、何かする前にすべてがあっても、それを、頭で認識して、あー、そうだそうだとやっているのでは、苦しみは、そのままなのですが、この究極の、シャキシャキリラックスでは、何かする前にある、その、本来の姿、つまり、如来そのものに、成っているのでありますよw
これは自己を客体化することと、その、自己を忘れることが、同時にあることなのです。
実は、自己はないというのは、わざわざ、することでも達成することでもないんですw
もともとないところに、大変な努力をして、自己を形成したのが、わたし、つまり、この主体といわれている頭脳なのです。
しかし、実は、毎日、ほとんどの時間は、自己などありません。
あるのは、わざわざ作り出したときなのですw
そこで、そのネガティヴエネルギーを、すべてとるときに、つまり恐怖と怒りを、自己のものからなくしてしまうときに、もともとの、よくわからないところへ行く。
よくわからない。
つまり、これと言えない。
知らないところ。
そこが、純粋性の世界であり、子供の目線であり、解放であり、もともとの仏性のところなのであります。
実質に、そこにいることは、価値判断、良い悪いなどとは全く、関係なく、そこには宗教の教えさえありませんww
もともといなかったのに、お前と呼ばれて、わたしが出てきただけなのですww
しかし、でてきたからには、無視することもできませんので、それを超えて、つまり、わたしを超えて、ふたたび、根源へ行くのであります。
これは、子供のようにあるとしても、子供になるわけではなく、もう罠には落ちない子供になるのでありますねw
うーん、いまんとこ、こんな感じです。
相反するものを、ひとつにするのが、調和なのであり、つまりプラスとマイナスを同居させるための努力がいるのでありますが、その、努力は、シャキシャキリラックスなのです爆笑
このところは忙しい毎日でした。
仕事も工程が変わったし、休みは頼まれごともあったりして、あまり自由にはしてません。
千鶴さんと悠聖を連れて京都観光へ行って来たのが、一番、楽しかったです。
伏見稲荷と東寺、金閣寺へ行ったのですが、息子はあまり興味なさそうでした笑
東寺の仏像には、こわい、こわいと連発。
「こわ〜い」と高音で繊細そうな声がw
まあしかし、電車とエスカレーターには大喜びしていたし、楽しそうにはしてくれてた。
さてさてメインの宗教研究ですw
このところ、いろんな人たちに怒られて気がついたのですが、自分を混乱させている特徴は、恐怖だと思います。
この恐怖が発生すると、視野が狭くなり、頭も働かないので、失敗することがあり、そこから、脳内引きこもりになるのです。
すると、かの有名なる自己正当化、つまり、言い訳がショックを妨げるために、機能しだし、このリアルな生から、自己を分離させてしまう。
そして、よく言われるように、この恐怖を霧散させるのは、怒りでありますので、いきなり怒りだし、なにもかもを台無しにしてしまうのです。
これが、よくあるパターン。
で、このところの気づきです。
怒りには、実は、同時に、迷いをとって目を覚まさせる効果も付随しています。
つまり非常に悪いものでありながらも、注意を澄ませるところもあるのです。
そこで、この悪い部分を受けずに、良い面だけを見ると、気が強く出るところです。
つまり通常では、出ないような気合が、発散されるのですが、その時に、怒りをのぞいて、つまり、このネガティヴな感情を排除して、そのエネルギーだけを、覚醒に使うことができます。
それは、その個人的なモード、つまり主観性の中に入り込むのを阻止して、現在に止まりながら、そのエネルギーを利用することになります。
そこで、実は、かの有名なる、リラックスをぶつけるのです。
この相反するエネルギーが、同時に、あるときに、良質の、手放しが起きて、迷いなく、怒りなく、怠けることもないという、人間の苦しみの生じない状況へと移行できるのであります。
つまり、気合と緊張、リラックスと怠惰が、普通は同居しているのを、良い面だけを残して、そのネガティヴな面を、なくしてしまうのであります。
まあ、しかし、それと悟りは、あまり関係なさそうですかww
これは気合が入りながら緩んでいるという状態で、集中しながら手放しているというときなのですが、そのときに、すべての前にある、縁に触れて発生する、この如来に乗れるのです。
それは、実質的に生活の中で、実現可能で、脳内で考えられた信念や、宗教家の教えなどのような、頭の中の世界ではなく、実地に、そこにあることで、ほんとうに、解放されるときなのであります。
たとえば、何かする前にすべてがあっても、それを、頭で認識して、あー、そうだそうだとやっているのでは、苦しみは、そのままなのですが、この究極の、シャキシャキリラックスでは、何かする前にある、その、本来の姿、つまり、如来そのものに、成っているのでありますよw
これは自己を客体化することと、その、自己を忘れることが、同時にあることなのです。
実は、自己はないというのは、わざわざ、することでも達成することでもないんですw
もともとないところに、大変な努力をして、自己を形成したのが、わたし、つまり、この主体といわれている頭脳なのです。
しかし、実は、毎日、ほとんどの時間は、自己などありません。
あるのは、わざわざ作り出したときなのですw
そこで、そのネガティヴエネルギーを、すべてとるときに、つまり恐怖と怒りを、自己のものからなくしてしまうときに、もともとの、よくわからないところへ行く。
よくわからない。
つまり、これと言えない。
知らないところ。
そこが、純粋性の世界であり、子供の目線であり、解放であり、もともとの仏性のところなのであります。
実質に、そこにいることは、価値判断、良い悪いなどとは全く、関係なく、そこには宗教の教えさえありませんww
もともといなかったのに、お前と呼ばれて、わたしが出てきただけなのですww
しかし、でてきたからには、無視することもできませんので、それを超えて、つまり、わたしを超えて、ふたたび、根源へ行くのであります。
これは、子供のようにあるとしても、子供になるわけではなく、もう罠には落ちない子供になるのでありますねw
うーん、いまんとこ、こんな感じです。
相反するものを、ひとつにするのが、調和なのであり、つまりプラスとマイナスを同居させるための努力がいるのでありますが、その、努力は、シャキシャキリラックスなのです爆笑