豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

無我の境地

2020-06-14 10:20:00 | 日記
おはようございます

あいも変わらず体の調子が優れませんが、ブログ更新したいと思います

さっきは、円覚寺の横田南嶺さんの法話ライブを視聴してました

因幡の源左さんの、ようこそ、ようこそっていうてた話

何があっても、ようこそっていうてた人が昔におったらしい

身内が死んでも、騙されても、雨に降られても、なんでも、受け入れてたって、すごいことやなあ

別段、修行とかした人じゃないんやろうし、あんま、よくわからんけど、いい人やったんやろなと思うた

昨日は疲れてたから、めちゃんこ寝て、夜から好きな人のツイキャス視聴からの、人狼殺プレイのいつものパターン

人狼殺好きなんやけど、あんまし、勝てんのよなあ

ほんで、今日は朝から麻婆豆腐とか、アイスとかたべてゴロゴロしてた

昨日のツイキャスの人もゆーてたけど、何かに集中してる時は、悩みがないけど、暇な時は、ボワーって出てきたりする

家にいてひとりなのに、心配ごとに疲れ果てているとかいうのは、ぼくもあるけど、ちょっともったいない

誰もいないと自由に解放されてる感覚になったりできるし、なんもかも忘れてボーってやることもできる

内側の悩みの世界ではなく、外と内を貫通しているビーイングの世界に浸る

おっきなお風呂に入ってるみたいに集中してるところを変えるとリラックスする時間になれる

いまここに生きるとゆーけど、この見たり聞いたりしてるものが、それしかないとでもゆーのか、一つに浸透してる感覚が、悩みの世界の消滅を実現するという

それだから、何かに集中してる時は、悩みがないのだ

暇な時には心配事がいろいろ出てくるというけども、これが、自己同一化というものなのである

その、自己から離れるというのは、内側が虚空にして、外の事実のみになることであると言う人もいる

心配ごととか不幸とか、そーゆーものが、外の世界と一つになってると離れてなくなってしまう

風があれば風があるがお前はいない

鏡にあったら映ってる方しかなくて、こちら側には誰もおらん

とかとか、ゆー人もいる

この、お前とか、私とか、言われているものは、さてさて、体のことでしょうか、心のことでしょうか?

そのどちらでもありません

そう、あの、暇になると現れてくる、心配事やイライラやっている、皆さんおなじみの、あの、私の想い、とゆーやつなのです

そーなると、その無我の境地なんてゆーていかにも高尚そうなイメージを沸かせて、さも、長年修行しなくては、真の悟りはありせんと思わせる人もいますが

僕からしますと、無我の境地というのは、内の世界から、外の世界に意識がフィットしていることでしかないのですw

分離がないという、一如であるという、二つないとゆー

それは長年修行しなくては得られない無我の境地ではなく

いますぐ、だれでも、できる、いやむしろ、すでにやっている無我の境地なのです

あー、単純w

ほなまた!

逆説的存在

2020-06-12 14:09:00 | 日記
こんにちは

さっきまで爆睡しておりましたがブログ更新をしたいと思います

今週は夜勤なのですが、両親と親戚とオカンの友達とコンビニの店員さんとすれ違う人たち、職場の人々しかあっておりませんw

昨夜は帰ってから阿部敏郎さん最新のYouTube録画Liveを見てました

あんまり期待してなかったんだけど、めちゃくちゃよかったw

ただし歌い出すまで50分くらい喋ってますので、Liveだけ聞くならそれくらいから聞いてもいいかもしれません

何がよかったって、自然に歌う感じもそうなんだけど、あの作ってるんだけど、作ってない感が出てるという感じなのだw

作りあげてるんだけど、作ってない

言葉としておかしいけど、そういうナチュラルさのようなものが、見える

いや、ナチュラルじゃないナチュラルさというのかな

いずれにしても、よかよかですたいw

自然体というのは、その人の自然体なのであるからして、その作りあげるところの世界も含まれるのだな

力が入ってるんだけど、力が入ってない

こういう逆説のようなものに、キラリと光るものがあるのかもしれないと思うた

仏教でもあるやん

AはAではない、それだからAである

澤木興道さんの言葉を思い出した

自分が自分している

その人らしさというものには美しさがあるが、そこには美しくないものも含まれているのである

ほなまた!

悟りの窓のように見える

2020-06-11 11:38:00 | 日記
おはようございます

仕事量が増えて疲れ果ててる私です

だるい

エーッと、さっきまでは、柿ピーぼりぼりかじりながらツイキャスの視聴をしておりました

時間があるので更新したいと思います

このごろ、やることなすこと飽きてきつつあるというのか、新鮮味を感じなくなってるので、ブログでブツブツやるのに、ストレス解放を求めようかなとw

そう言えば思い出したけど、昨日やったかな、大府の叔母さんが、家へ来ていた

父親にお菓子あげるみたいで、これは、お父さんの分やでなと言って、置いてた

ちづちゃんにたまに会っとんのかて聞かれたけど、正月から会ってない気がする

まあ、何ヶ月かに一回は様子伺いの電話はしてます

何事も思い通りにならないのが人生って言うけれど、人によって孤独なものと、そうでないものがいる

ひとりでいると孤独
ふたりでいると嫉妬
さんにんでいると疎外感

て、あるお店のトイレに昔、貼られてたけど、無い物ねだりが、人のサガ

人といると、一人の孤独が愛おしいのに、やっと一人になると喋る相手がほしくなるということの繰り返し

この孤独感とかいうのは、けっこう、人の行動に影響してるように思える

人は皆、孤独であるし、ひとり静かにしてる方がよいと釈迦は言ってるが、人に期待してしまう

阿部敏郎さんが、大空へって曲を歌ってたけど、あれって誰の曲なんだろう

心のドアに鍵をかけたのは一体いつのことだろう

鍵をかけたことさえ鍵のありかさえ忘れてしまった

って、なんか、言い当ててるよね現代社会の人間関係w

まあみんながみんな、そーなわけじゃないのはわかってる

鎌倉円覚寺の横田南嶺さんが、江戸時代の禅僧、盤珪さんの話をしてるのが、YouTubeにアップされてる

貪ったり、怒ったり、愚痴をこぼしたりしなかったら、仏なんです、だれもが

禅の話だと平常心是道っていうのもあるから、怒りや憎しみが無ければ、もう、なんかせんでも、仏なのかもしらんw

こういう美しい世界観の話を聞いてると、心が救われるような気分になれる

しかし、貪り、怒り、愚痴という三毒が、癖のようになってしもうてる僕なんかは、すぐに、ネガティブになってるから、ありのままと言っても、平常心というても、これが難しい話ではある

そう言えば、円覚寺の名前で思い浮かんだけど、悟りの話では、よく円が出てくる

大円鏡智とか、十牛図の円とか、普通に書で丸を書いたりとか、京都の寺の悟りの窓とか

ぼくは、自己に集中するグルジェフさんのテクニックをしていると、頭の後ろから視覚の世界が円の中にあるように見える

丁度、あの京都の寺の、悟りの窓とまったく同じように、円の中に風景があり、自分は真っ暗なところにいるように見えるのだ

これが、何なのか、まったく情報がないから、変になってるだけかもしれないが、なにしろ、この円を見ている感には、不思議な力があると思うている

ほなら、またです



悟りのテクニック

2020-06-10 09:49:00 | 日記
おはようございます

さて、ちかごろ、恒例の、超久しぶりの更新をしたいと思います

今週は夜勤ですが、睡眠がうまく取れてないので疲れてます

それに食べすぎて太ってるので普通にいても疲れてます

13キロも増えてるからなあ、、、二十歳のころと比べたら

非常に不味いのですが、なにしろ、酒は飲むし、お菓子は食べるし、ご飯も満腹になってるから、痩せるはずもありません

しかも、運動も仕事以外、まったくだし

持病のこともあるので、何かをしないといかんのですが、いつも疲れてるのでやる気のないという

そんな、ろくでもない状況であるのですが、まあ、生きてはいますよ

えー、それでですね、何をしてるかと言いますと、あんまりすることも変わってないような気がするのですが、ツイキャスの視聴にも久しぶりにはまってます

夜に飲み配信してる女の子がいて、おもしろいキャラだから楽しんでる

人狼殺のプレイもたまにやっていて、たまたま聴いたツイキャスの配信者さんとも遊んでた

初心者の人たちと軽い感じでやるのはギスギスしてなくていいね

YouTubeで、人狼、将棋、法話など見てることも多いです

小出遥子さんの丹田チャンネルとか、大和田菜穂さんのチャンネルもたまに見る

掲示板の閲覧投稿もやることなさすぎる時はしてるけど、ちと飽きてきた

本を読むことも、音楽を聴くことも、少なくなっている

クリアボールだっけ? あれの音楽とゆーのか癒し系のものは少し聞いた

最近の曲だと、あいみょんのマリーゴールドは好きだけど周りに理解者が少ない、笑

本は奇蹟を求めてを一つの章だけ読んだりしたけど、ほとんど読まなくなってる

ブログとかも、前はいろいろ、毎日見てたのに、このごろはまったくです

今はソファでゴロンしながら、外の鳥のさえずり、車の走る音を聞き、天井方向の風景をぼんやり見たりしながら、思い出してる

暑くなってきたから朝晩の方が過ごしやすい

ノンデュアリティブームは落ち着いて、批判する人たちもいるけど、ほんとは誰もいなくて、何も起きてないところに、全体の表現としての今だけがあるというのは、究極の話だと今でも思う

こういう説明が、そういう視野を持ち込ませてしまって、新しい分離を生むという弊害があるかもしれないから、余分な説明だと言うんなら、そーかもしれないけども、今でもノンデュアリティがブームになったことはすごいと思う

グルジェフさんの方法の、体に帰ってリラックスしつつ、内側で考慮することをやめてしまうというものも、今ある事実が跡形もなく過ぎてゆくところの、本来の自己を思い出させるテクニックだと今は思えるし

禅のいうてる一期一会や、日々是好日とかも、ノンデュアリティの起きていることしかない、いいもわるいもないとゆーてることと同じである

まあ、僕如きが思ってるだけなんで間違えているのかもしれないが、いまは、そんなふうに思っているのだ

さとりというものは、見ている自分が落ちることだ

分離のない全体の表現だけがあると説明されるけれども、そのように見ているものはいないのである

しかし、、、ここで思うのだが、どのようにしたら悟れるのかというと、なんと、自分を見ることによってとなってしまう気がするw

グルジェフさんの自己想起の説明に、こんなのがあったと思う

普通の状態では道路を見ている

しかし、自己を思い起こすなら、道路を見ているし、それに、その道路を見ている自分をも見ている

この視野が新たなショックとなるダブルアテンションというやつだ

これのコツは、ブログを更新している方向の視野も失わずに、同時に、その更新している自己への視野も生ずることで、ダブルで注意しているとウスペンスキーが言っていたような記憶がある

スマホを見て感じている

同時に、スマホを見て感じている自分自身も見られ感じられる

自分自身←→世界

世界からの視野が、つまり、逆方向からの視野が、客観的、向こうからの視野が、普通はない

それと同時に、内側でブツブツやってるやつ、つまり、考慮をやめるという

なんか複雑だが、禅の老師が、内、虚にして、外、事あるのみとシンプルに言っている

ノンデュアリティで、分離がないと言っている

その、分離がないというのが、目的なのだ

つまり、悟りのテクニック、それが、自分自身を思い起こすことなのであると、ぼくは思っている


ほな、またw