初めましての方は、目次も見てみてね!
こんにちは。
あらゆる意味において完璧に存在している皆様。
ただいま、だらだらと母親の家でブログ更新を始めました豊田です。
相変わらず時計の秒針の音がガガガガガガガと大きな刻みをしていて気にかかる。
なんか手紙が来たと言って外で動いている母親。
今日は曇り空なので部屋の中も、どこかしら陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
ポテトチップスをほおばる。
《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
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体の全体を感じて力を抜こうとするが、瞬間だけ可能で、すぐに注意は彼方此方と彷徨いだす。
スズメが鳴いていて隣家の人々の声が、それに交じって届いてくる。
空間の外にあると思われる「あの、触れられないスペース」を意識してみる。
これは妄想なのか事実なのか、確認することはできない。
しかし、意識の外というのか認識外の自己とゆーものはスピリリュアルでよく語られる。
天の王国とか高次のエネルギーと表現される場合もあり、空と呼ばれる場合もある。
この意識のできないスペースが、この対立する世界の第3部分として機能しているのである。
さて、本日は7時ごろに目が覚めました。
昨夜は家へ帰ってからディズニーツムツムをしたりフェイスブックを見たりしていたら、知らずに寝ていた。
疲れてたんだろうね。
で、起きてきて、お風呂も入ってなくて気持ち悪いので、母親の家で追い炊きしてもらって入る。
入る前に食事。
ごはんと、みそ汁と、サラダと海苔だったと思う(自信なしw)
で、お風呂を出てからは、家へ戻って、またディズニーツムツムwwww
下手なので、ぜんぜん点数が稼げない。
なんかでも、無心でやってると、考えることが無いので、心が落ち着く気がします。
しばらくやってから見るとラインで会話があったので、少しだけ参加する。
テレビをつけるとNHKでボートレーサー親子のドキュメンタリーがやっていた。
娘が母親と同じレースに出て、ターンで抜き去って優勝するのだが、これは泣いたw
涙出ますな。
なにしろ、それまで失格したり、転覆したり、様々に失敗してきて、徐々に努力して初優勝が母親と初めて一緒走るレース。
ドラマチックすぎるやろww
まあ人生はドラマよりもドラマチックだと言いますからね。
僕にも、なんか、奇蹟でもあるといいんだけどなあとか妄想してしまう、笑
で、お腹がすいたのでコンビニへ行って、カレーラーメンとポテチを買ってきました。
帰ってから、ここで、ブログの更新をしている感じですね。
坐禅もしていないし読書もしていませんww
なんか、外へ出る気もあんまり起こらないので、野球のユニフォームも取りに行ってない。
明日、練習があるんだけど、雨って言ってるし、どうなるやら。
ここまで書いたところで昼食にみそ焼きうどんを食べる。
亀山みそ焼きうどんって、昔は全くなくて、急に宣伝しだしたので違和感があるw
亀山ラーメンも、何それって感じ。
急に誰かが考案したんだろうなあとしか思えない。
伝統と言えば、まあ『亀トン』があるから、みそ焼きうどんぽいのは昔からあったわけだけれどね。
って、今日はどうでもいいことしか出てこないなあ笑
えーっと、僕が意識がどうのこうのといつも書いていることを少し細かく書いてみよう。
まず、普段の生活では思考にしろ感情にしろ無意識に湧き上がっているとゆー認識を持つことが最初の段階ですね。
自分が思うとゆうより、思いが湧き上がっている、怒ろうと思って怒っているのではなく、怒りが込みあげてくる。
これは、つまり状況とか環境の奴隷になっているとゆうことです。
良い表現をすれば縁によってあるみたいな。
でも、何かしたいと思ったときに、欲望だけが起点になってしまうのが、ここの問題点ですね。
そうとう強い欲望がないと、思考と感情を制御できない。
制御とゆうと不自然なので「我慢」とか「忍耐」ができないわけです。
ところが欲望とゆうのは叶うこともあれば、叶わないこともあります。
叶えば嬉しいが、叶わなければ絶望ですね。
この喜びに束縛されている状況が、煩悩に惑っている、迷っている状態なのです。
ですから仏教では「足るを知る」とか言って、まあ、色んな事に感謝して生きるわけです。
神道なんかでも「お蔭さま」とか言って、目に見えない力に、感謝して生きていく感じですよね。
まあ神様です。
でも、実質の人間の気持ちが状況に左右されるものなので「困ったときの神頼み」と言って、自分が不都合な時だけ、そーやって、神様とか目に見えない力とか愛とか空とかを持ち出して祈願するのは、どうも違うような気がしません?
実際は、そこに働いている力学は、明々白々に無意識であるところから来ているのです。
無意識であるからこそ、自分を見失って、馬鹿なことをしてみる。
まるで、僕のようにw
だけど、ここで、苦しいので、ここから自己脱却を遂げようとしたときに、どのような方法が思い浮かびますか?
坐禅。
念仏。
瞑想。
マントラ。
読書。
滝に打たれる?w
お寺に出家
千日回峰行とかもあるよ?w
なんか怪しいけどセミナーとか受講する?
パワースポットめぐり?
いろんなアクセサリーなんか集めて見たりする人もいるよね?
ACIMだっけ?
とか、まあ、その他、様々な団体に加入したら、無意識性から脱却できるのかw
僕のパット思い浮かぶだけでも、いろいろありますが、この他にも引き寄せやら非二元やら、悟りやら、いぱーいww
いっぱいあるけど、目的は、この喜びと苦しみの連鎖からの脱出なのです。
これ、快と不快の連続から、スーッと離れてみることができれば、そこで幸せとゆーわけです。
お茶を飲んでホッとしたとか、そんな単純なものです。
その時、仏教でゆー、無我の境地ですw
そして、なぜ、そこに抜けれないかとゆうと否定的感情、ネガティブエモーションに巻き込まれているからなのですね。
この自動的に沸き起こってくる警戒心、恐怖心、不安とゆーやつは、まああって当然なのですが、そこから思考が引っ張られて、連想を喚起し、その連想の中で苦しめられているので、この連想をぶった切ったらOKなのです。
その方法として、体をリラックスさせるのが効果的とゆーわけですね。
坐禅にしても、リラックスすることが目的かもしれませんwwww
念仏もね。
感受性と本能の世界は、思考と感情の世界を鎮めて、能動的にさせます。
つまり否定的な反応をする以前のスペースへ誘うのです。
それが空―空間なのですw
いま、この瞬間、目の目に広がる意識と五感の世界だけに存在してみることですね。
ここがやっかいで、何回かいても伝わらないのですが(一部の人には伝わるけど、それは、その人が他で気が付いているからw)
この意識と五感の世界は最初から混じりけなく、そこだけなのです。
これ以上も、これ以下もなく、ここにしか我々は生きていないのですよ、ずっと。
でも、なぜ、じゃあ、わざわざ意識と五感の世界とゆ~かと言うと、さっき書いた連想機関、つまり我々が「こころ」とか呼んでいるものが、自分だという誤った世界に迷い込んでいるからなのです。
この心とゆーやつは、現実世界には全く存在していません!!!!!!
マジで!
そして、この心の正体は、さっきの喜びと苦しみの連鎖を、感情がシャットダウンする機能なのです。
つまり、この穴倉(個人)の世界に迷い込むと安心なのです。
そして、その穴倉(個人)が脅威に晒されないように、穴倉の出口穴から、外界を見ているのです。
しかし、本当は、その個人は、人工的に形作られたもので、自然界にはなく、人間だけにしかないものなのです。
ここを滅脚することと、外の世界とゆーか自然と繋がる脱却をすることはイコールです。
長くなってしまったので、このあたりでw
ここを、感じて、ここに、帰っていることが、解脱なのです。
風があって風のみである、お前はどこにもいないではないかと釈迦がゆいます笑
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
こんにちは。
あらゆる意味において完璧に存在している皆様。
ただいま、だらだらと母親の家でブログ更新を始めました豊田です。
相変わらず時計の秒針の音がガガガガガガガと大きな刻みをしていて気にかかる。
なんか手紙が来たと言って外で動いている母親。
今日は曇り空なので部屋の中も、どこかしら陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
ポテトチップスをほおばる。
《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
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体の全体を感じて力を抜こうとするが、瞬間だけ可能で、すぐに注意は彼方此方と彷徨いだす。
スズメが鳴いていて隣家の人々の声が、それに交じって届いてくる。
空間の外にあると思われる「あの、触れられないスペース」を意識してみる。
これは妄想なのか事実なのか、確認することはできない。
しかし、意識の外というのか認識外の自己とゆーものはスピリリュアルでよく語られる。
天の王国とか高次のエネルギーと表現される場合もあり、空と呼ばれる場合もある。
この意識のできないスペースが、この対立する世界の第3部分として機能しているのである。
さて、本日は7時ごろに目が覚めました。
昨夜は家へ帰ってからディズニーツムツムをしたりフェイスブックを見たりしていたら、知らずに寝ていた。
疲れてたんだろうね。
で、起きてきて、お風呂も入ってなくて気持ち悪いので、母親の家で追い炊きしてもらって入る。
入る前に食事。
ごはんと、みそ汁と、サラダと海苔だったと思う(自信なしw)
で、お風呂を出てからは、家へ戻って、またディズニーツムツムwwww
下手なので、ぜんぜん点数が稼げない。
なんかでも、無心でやってると、考えることが無いので、心が落ち着く気がします。
しばらくやってから見るとラインで会話があったので、少しだけ参加する。
テレビをつけるとNHKでボートレーサー親子のドキュメンタリーがやっていた。
娘が母親と同じレースに出て、ターンで抜き去って優勝するのだが、これは泣いたw
涙出ますな。
なにしろ、それまで失格したり、転覆したり、様々に失敗してきて、徐々に努力して初優勝が母親と初めて一緒走るレース。
ドラマチックすぎるやろww
まあ人生はドラマよりもドラマチックだと言いますからね。
僕にも、なんか、奇蹟でもあるといいんだけどなあとか妄想してしまう、笑
で、お腹がすいたのでコンビニへ行って、カレーラーメンとポテチを買ってきました。
帰ってから、ここで、ブログの更新をしている感じですね。
坐禅もしていないし読書もしていませんww
なんか、外へ出る気もあんまり起こらないので、野球のユニフォームも取りに行ってない。
明日、練習があるんだけど、雨って言ってるし、どうなるやら。
ここまで書いたところで昼食にみそ焼きうどんを食べる。
亀山みそ焼きうどんって、昔は全くなくて、急に宣伝しだしたので違和感があるw
亀山ラーメンも、何それって感じ。
急に誰かが考案したんだろうなあとしか思えない。
伝統と言えば、まあ『亀トン』があるから、みそ焼きうどんぽいのは昔からあったわけだけれどね。
って、今日はどうでもいいことしか出てこないなあ笑
えーっと、僕が意識がどうのこうのといつも書いていることを少し細かく書いてみよう。
まず、普段の生活では思考にしろ感情にしろ無意識に湧き上がっているとゆー認識を持つことが最初の段階ですね。
自分が思うとゆうより、思いが湧き上がっている、怒ろうと思って怒っているのではなく、怒りが込みあげてくる。
これは、つまり状況とか環境の奴隷になっているとゆうことです。
良い表現をすれば縁によってあるみたいな。
でも、何かしたいと思ったときに、欲望だけが起点になってしまうのが、ここの問題点ですね。
そうとう強い欲望がないと、思考と感情を制御できない。
制御とゆうと不自然なので「我慢」とか「忍耐」ができないわけです。
ところが欲望とゆうのは叶うこともあれば、叶わないこともあります。
叶えば嬉しいが、叶わなければ絶望ですね。
この喜びに束縛されている状況が、煩悩に惑っている、迷っている状態なのです。
ですから仏教では「足るを知る」とか言って、まあ、色んな事に感謝して生きるわけです。
神道なんかでも「お蔭さま」とか言って、目に見えない力に、感謝して生きていく感じですよね。
まあ神様です。
でも、実質の人間の気持ちが状況に左右されるものなので「困ったときの神頼み」と言って、自分が不都合な時だけ、そーやって、神様とか目に見えない力とか愛とか空とかを持ち出して祈願するのは、どうも違うような気がしません?
実際は、そこに働いている力学は、明々白々に無意識であるところから来ているのです。
無意識であるからこそ、自分を見失って、馬鹿なことをしてみる。
まるで、僕のようにw
だけど、ここで、苦しいので、ここから自己脱却を遂げようとしたときに、どのような方法が思い浮かびますか?
坐禅。
念仏。
瞑想。
マントラ。
読書。
滝に打たれる?w
お寺に出家
千日回峰行とかもあるよ?w
なんか怪しいけどセミナーとか受講する?
パワースポットめぐり?
いろんなアクセサリーなんか集めて見たりする人もいるよね?
ACIMだっけ?
とか、まあ、その他、様々な団体に加入したら、無意識性から脱却できるのかw
僕のパット思い浮かぶだけでも、いろいろありますが、この他にも引き寄せやら非二元やら、悟りやら、いぱーいww
いっぱいあるけど、目的は、この喜びと苦しみの連鎖からの脱出なのです。
これ、快と不快の連続から、スーッと離れてみることができれば、そこで幸せとゆーわけです。
お茶を飲んでホッとしたとか、そんな単純なものです。
その時、仏教でゆー、無我の境地ですw
そして、なぜ、そこに抜けれないかとゆうと否定的感情、ネガティブエモーションに巻き込まれているからなのですね。
この自動的に沸き起こってくる警戒心、恐怖心、不安とゆーやつは、まああって当然なのですが、そこから思考が引っ張られて、連想を喚起し、その連想の中で苦しめられているので、この連想をぶった切ったらOKなのです。
その方法として、体をリラックスさせるのが効果的とゆーわけですね。
坐禅にしても、リラックスすることが目的かもしれませんwwww
念仏もね。
感受性と本能の世界は、思考と感情の世界を鎮めて、能動的にさせます。
つまり否定的な反応をする以前のスペースへ誘うのです。
それが空―空間なのですw
いま、この瞬間、目の目に広がる意識と五感の世界だけに存在してみることですね。
ここがやっかいで、何回かいても伝わらないのですが(一部の人には伝わるけど、それは、その人が他で気が付いているからw)
この意識と五感の世界は最初から混じりけなく、そこだけなのです。
これ以上も、これ以下もなく、ここにしか我々は生きていないのですよ、ずっと。
でも、なぜ、じゃあ、わざわざ意識と五感の世界とゆ~かと言うと、さっき書いた連想機関、つまり我々が「こころ」とか呼んでいるものが、自分だという誤った世界に迷い込んでいるからなのです。
この心とゆーやつは、現実世界には全く存在していません!!!!!!
マジで!
そして、この心の正体は、さっきの喜びと苦しみの連鎖を、感情がシャットダウンする機能なのです。
つまり、この穴倉(個人)の世界に迷い込むと安心なのです。
そして、その穴倉(個人)が脅威に晒されないように、穴倉の出口穴から、外界を見ているのです。
しかし、本当は、その個人は、人工的に形作られたもので、自然界にはなく、人間だけにしかないものなのです。
ここを滅脚することと、外の世界とゆーか自然と繋がる脱却をすることはイコールです。
長くなってしまったので、このあたりでw
ここを、感じて、ここに、帰っていることが、解脱なのです。
風があって風のみである、お前はどこにもいないではないかと釈迦がゆいます笑