こんばんは!
ただいま深夜ですけど寝てません。
感情の重さと風邪の咳で、えらい苦しむ。
いろいろ精神世界の動画見たり、掲示板見たりしてました。
相変わらずですなw
とにかく背中らへんと胸の辺りの苦しみようが、半端なくて、やばいww
まあ悟ってない僕が書くのもへんですが、昨今はやりの悟りについて、受け取っている感じを書き残しておこうと思います。
まず、パターン1の場合は、なんらかの偉大なる存在を根底におきます。
この場合、ひとつとか分離がないとゆーのは、このベースがあった上での話で、このところを空とか真我とか永遠の命とか、その他、様々な名称で呼んでいます。
本人は気がついてませんが、それはイメージの中にしかありませんwwww
それを知っている、体験を持ち運んでいる。
そこから発展してパターン2の場合は、このようなベースはどこにもありません。
ひとつとか分離がないとゆーのは、ほんとに、ひとつで分離がないのです。
このことを理解するのは、自己から世界に向けられている意識が、世界から自己に反転する時ですね。
そして、その世界意識の一部として自己があるわけですが、この今までの自己は、対象になっていますwwww
思考も感情も感覚も、また対象としての世界も、繋がっていて、動いているのですね。
これが、べつに意識的になされるわけではなくて、そのまんま、そーなのです。
すべては、ありのままです。
こーゆーことを人にゆうと批判の対象にされますが、まあ、リアルがすべてとゆーことですね。
そこにベースとしての仮定された存在がないのであります。
そして、パターン3はこのリアルの前に、行ってしまうとゆーか、そこと、リアルの両方が、ひとつになっている悟りです。
これは!
はっきりいって、ほとんど誰も言ってません。
まあ病院へ行けとか酷いことゆわれますwwww
大和田さんは、たぶんパターン3やと思うんやけど、それは、僕の勝手な印象かも笑
でね、僕は散々リアルに開くことを書いてきたわけですけど、これと、今ぼくが感情的に苦しみまくってる問題は、リンクしているのです。
全体としてのわたしを分割しているのが、我欲や分別で、その、想念としての我を手放すとゆーのは、だいたいの人が思ってる。
それに対してリアルに開くのは、この目の前の現実がわたしである。
つまり、我欲や分別も含めて、認識対象に消えた、融合したところ。
これだと、感情が置いてけぼりになるwwww
近ごろ散々、思っていた思いやりとゆーものは、全く生じないのです。
そして感情問題が解決されない限り、苦しみもあり続けます。
ちょっと話が、それますがグルジェフさんの手法では、体の緊張感を解放し、否定的な感情を現さないことを延々とします。
ここで想起される自己は、真我のことです。
しかし、このやり方だと、大変に精神が強い人でないと抵抗に勝てない。
常に我欲と思いやりの闘いになります。
そして観察者としての自我が立ってしまうので、そこを落とすことの理解が非常に難しくなります。
さて、世にたくさんいる覚者の方々は、こー言います。
無我である。
無心になることである。
意味を解体する。
大いなるものに手放す。
等々ですが、これらは既になされている。
そして、問題は、この解放に至ったときの経験が、すごい呪縛になっていて、そのイメージが、ずっとあることなのです。
そーなると、その、意味、つまり今は悟りとか解放なんかで現されている言葉の指す体験への、執着心が生まれて、それこそが真理だ、どーのこーのと言って、他者を導こうとします。
この場合、本人は非常なる親切心で、それはダメだ、ここは、こーしたらいい等々のアドバイスをしますが、その指してるところが、イメージの世界なのです。
その前とゆーのは、言葉にできませんから、必ずそーなってしまいます。
そして、こーだあーだと日々、宗教的テーマに於ける争いが、彼らの、まあ、ぼくも含めて、心の中で展開されていくわけです。
大和田さんが何も起こってないけど、すべてが起こっていると言う。
そこの両方の分離がない。
感情は、この、認識対象としての自己を愛さなければならないのだ。
『人の思いは何処へも赴くことができる。けれど、何処へ赴こうとも、人は己よりも愛しきものを見出すことはできない。それと同じで、他の人々も、すべて己はこの上なく愛しい。されば、自己の愛しいことを知るものは、他のものにも慈しみをかけねばならぬ』
by釈迦
とゆーわけで、このリアルに溶けるとか、無の、つまり、未知の認識以前の自己に溶けるとかにしても、自己を排除してはならないのだ。
ここが無我と矛盾するよーで難しく、安易に批判されてしまうところなのだか、自己の拠り所は、自己でしかないと釈迦自身が言っているのである。
仏道とは自己なり!
徹底的に自分になりきっている。
自己こそが主人公である。
自己の思いが清らかであれば平安である。
等々。
自己は排除されないのだ。
それが、リアルの中に消失する際に自己を排除しようとすると、凄まじい抵抗に合う原因である。
そして慈悲が生まれないのは、自己を愛そうとしていないからである。
自己を愛するならば、執着を棄てよとゆーことが本来であって、この自己は除外できないのだ。
では、無我との矛盾をどーするのか?
と、とーぜん、指摘するひとがいる。
無我とゆーのは、自分ではないとゆーことである。
体は自己ではないとゆーのが、その主たる指摘なのだ。
的確にこれだと指し示すような自己はない。
しかしながら、自己は存在する。
この、存在するのは、普段の知的な自己ではなく、何でもないものである。
それを空と色の混合体として描くのだ。
この時に、この普段の自己を排除してはならないのである。
それは、そのままあって、そして、ないのだ。
解放されるのは、この自己の方であって、感情が、この自己を愛さなければならない。
そうでないと分離する。
この自己が不要物として、分離されているのだ。
そこも内包した、解放でなければならない。
私があって初めて、無我が成り立つ。
意味不な言葉やな笑
グルジェフさんも、その最後の著作のタイトルは、生命は私が存在して初めてリアルになるとしています。
僕が感情の問題をいつまでも引きづるのは、つまり他者を大事にできないのは、この私である存在を無視しようとしたからでしょう。
それは融合されるべきで、消えるべきだが、しかし、そこにまだ在るのである。
吹き消えたとしても、リアルのみだとしても、如何にしても、この私は、在る!
なぜなら、それは、存在している万物を超えているからだが、実質のそれは無、もしくは、空、認識以前である。
しかし、あるのだ!
しつこい?wwww
とにかく、この肉体としての我も、空としての全体的融合も、どちらも、そのままにして排除してはならないのである。
それは両方あって、いいのだ。
このわたしを排除して、それ以外のすべてを愛することなど絶対に不可能であるだろう。
そーおもいませんか?
この私と全体的生命の世界の両方があって、しかも、それがひとつになるから慈悲が生まれる。
どちらもある。
その二つが融合する、中和する、調和するところが無我なのである。
どちらかによって、どちらかを消したら破綻する。
自己が立ち世界も立ち、そして、その両方の前に、つまり、言葉では指し示せない名称も形もない、そこ、その微妙なる、そこ。
その分離しないそこにあるチカラが、この対立した両方の中和となる。
ぼくの今考えるには、自己をコカそうとしたことが、無我を妨げたのだ。
全体に調和しなければ消えない。
両者がこの、以前たる未知の無相において、統一されることが無我なのであり、それが、風があれば風のみであるの意味である。
これしかないの意味である。
分離しないのだ。
これが自己をこかすわけではない。
もしくは自己がこれを内包するわけでもない。
両者はひとつなのだ。
そして、それは、実際にはあるけどない。
空である。
間違いなくあるけれども、あると言った時には消えている。
うーん、思いに任せて書いてしまったけど、どんなもんやろ?w
病院へ行けはなしでお願いします笑
あー、いつになったら、まともになるかのー。
とにかくリアルがある。
これは認識以前であり、そして、自己はそれと分離していないのだ。
とゆーより、自己とゆーか、その、そこは分離していない。
しかし、そこは、ない。
そして、その時に自己を否定してはならない。
肉体は自己ではないが、自己は在る。
私は存在するのだ!!!!!!!!
ただいま深夜ですけど寝てません。
感情の重さと風邪の咳で、えらい苦しむ。
いろいろ精神世界の動画見たり、掲示板見たりしてました。
相変わらずですなw
とにかく背中らへんと胸の辺りの苦しみようが、半端なくて、やばいww
まあ悟ってない僕が書くのもへんですが、昨今はやりの悟りについて、受け取っている感じを書き残しておこうと思います。
まず、パターン1の場合は、なんらかの偉大なる存在を根底におきます。
この場合、ひとつとか分離がないとゆーのは、このベースがあった上での話で、このところを空とか真我とか永遠の命とか、その他、様々な名称で呼んでいます。
本人は気がついてませんが、それはイメージの中にしかありませんwwww
それを知っている、体験を持ち運んでいる。
そこから発展してパターン2の場合は、このようなベースはどこにもありません。
ひとつとか分離がないとゆーのは、ほんとに、ひとつで分離がないのです。
このことを理解するのは、自己から世界に向けられている意識が、世界から自己に反転する時ですね。
そして、その世界意識の一部として自己があるわけですが、この今までの自己は、対象になっていますwwww
思考も感情も感覚も、また対象としての世界も、繋がっていて、動いているのですね。
これが、べつに意識的になされるわけではなくて、そのまんま、そーなのです。
すべては、ありのままです。
こーゆーことを人にゆうと批判の対象にされますが、まあ、リアルがすべてとゆーことですね。
そこにベースとしての仮定された存在がないのであります。
そして、パターン3はこのリアルの前に、行ってしまうとゆーか、そこと、リアルの両方が、ひとつになっている悟りです。
これは!
はっきりいって、ほとんど誰も言ってません。
まあ病院へ行けとか酷いことゆわれますwwww
大和田さんは、たぶんパターン3やと思うんやけど、それは、僕の勝手な印象かも笑
でね、僕は散々リアルに開くことを書いてきたわけですけど、これと、今ぼくが感情的に苦しみまくってる問題は、リンクしているのです。
全体としてのわたしを分割しているのが、我欲や分別で、その、想念としての我を手放すとゆーのは、だいたいの人が思ってる。
それに対してリアルに開くのは、この目の前の現実がわたしである。
つまり、我欲や分別も含めて、認識対象に消えた、融合したところ。
これだと、感情が置いてけぼりになるwwww
近ごろ散々、思っていた思いやりとゆーものは、全く生じないのです。
そして感情問題が解決されない限り、苦しみもあり続けます。
ちょっと話が、それますがグルジェフさんの手法では、体の緊張感を解放し、否定的な感情を現さないことを延々とします。
ここで想起される自己は、真我のことです。
しかし、このやり方だと、大変に精神が強い人でないと抵抗に勝てない。
常に我欲と思いやりの闘いになります。
そして観察者としての自我が立ってしまうので、そこを落とすことの理解が非常に難しくなります。
さて、世にたくさんいる覚者の方々は、こー言います。
無我である。
無心になることである。
意味を解体する。
大いなるものに手放す。
等々ですが、これらは既になされている。
そして、問題は、この解放に至ったときの経験が、すごい呪縛になっていて、そのイメージが、ずっとあることなのです。
そーなると、その、意味、つまり今は悟りとか解放なんかで現されている言葉の指す体験への、執着心が生まれて、それこそが真理だ、どーのこーのと言って、他者を導こうとします。
この場合、本人は非常なる親切心で、それはダメだ、ここは、こーしたらいい等々のアドバイスをしますが、その指してるところが、イメージの世界なのです。
その前とゆーのは、言葉にできませんから、必ずそーなってしまいます。
そして、こーだあーだと日々、宗教的テーマに於ける争いが、彼らの、まあ、ぼくも含めて、心の中で展開されていくわけです。
大和田さんが何も起こってないけど、すべてが起こっていると言う。
そこの両方の分離がない。
感情は、この、認識対象としての自己を愛さなければならないのだ。
『人の思いは何処へも赴くことができる。けれど、何処へ赴こうとも、人は己よりも愛しきものを見出すことはできない。それと同じで、他の人々も、すべて己はこの上なく愛しい。されば、自己の愛しいことを知るものは、他のものにも慈しみをかけねばならぬ』
by釈迦
とゆーわけで、このリアルに溶けるとか、無の、つまり、未知の認識以前の自己に溶けるとかにしても、自己を排除してはならないのだ。
ここが無我と矛盾するよーで難しく、安易に批判されてしまうところなのだか、自己の拠り所は、自己でしかないと釈迦自身が言っているのである。
仏道とは自己なり!
徹底的に自分になりきっている。
自己こそが主人公である。
自己の思いが清らかであれば平安である。
等々。
自己は排除されないのだ。
それが、リアルの中に消失する際に自己を排除しようとすると、凄まじい抵抗に合う原因である。
そして慈悲が生まれないのは、自己を愛そうとしていないからである。
自己を愛するならば、執着を棄てよとゆーことが本来であって、この自己は除外できないのだ。
では、無我との矛盾をどーするのか?
と、とーぜん、指摘するひとがいる。
無我とゆーのは、自分ではないとゆーことである。
体は自己ではないとゆーのが、その主たる指摘なのだ。
的確にこれだと指し示すような自己はない。
しかしながら、自己は存在する。
この、存在するのは、普段の知的な自己ではなく、何でもないものである。
それを空と色の混合体として描くのだ。
この時に、この普段の自己を排除してはならないのである。
それは、そのままあって、そして、ないのだ。
解放されるのは、この自己の方であって、感情が、この自己を愛さなければならない。
そうでないと分離する。
この自己が不要物として、分離されているのだ。
そこも内包した、解放でなければならない。
私があって初めて、無我が成り立つ。
意味不な言葉やな笑
グルジェフさんも、その最後の著作のタイトルは、生命は私が存在して初めてリアルになるとしています。
僕が感情の問題をいつまでも引きづるのは、つまり他者を大事にできないのは、この私である存在を無視しようとしたからでしょう。
それは融合されるべきで、消えるべきだが、しかし、そこにまだ在るのである。
吹き消えたとしても、リアルのみだとしても、如何にしても、この私は、在る!
なぜなら、それは、存在している万物を超えているからだが、実質のそれは無、もしくは、空、認識以前である。
しかし、あるのだ!
しつこい?wwww
とにかく、この肉体としての我も、空としての全体的融合も、どちらも、そのままにして排除してはならないのである。
それは両方あって、いいのだ。
このわたしを排除して、それ以外のすべてを愛することなど絶対に不可能であるだろう。
そーおもいませんか?
この私と全体的生命の世界の両方があって、しかも、それがひとつになるから慈悲が生まれる。
どちらもある。
その二つが融合する、中和する、調和するところが無我なのである。
どちらかによって、どちらかを消したら破綻する。
自己が立ち世界も立ち、そして、その両方の前に、つまり、言葉では指し示せない名称も形もない、そこ、その微妙なる、そこ。
その分離しないそこにあるチカラが、この対立した両方の中和となる。
ぼくの今考えるには、自己をコカそうとしたことが、無我を妨げたのだ。
全体に調和しなければ消えない。
両者がこの、以前たる未知の無相において、統一されることが無我なのであり、それが、風があれば風のみであるの意味である。
これしかないの意味である。
分離しないのだ。
これが自己をこかすわけではない。
もしくは自己がこれを内包するわけでもない。
両者はひとつなのだ。
そして、それは、実際にはあるけどない。
空である。
間違いなくあるけれども、あると言った時には消えている。
うーん、思いに任せて書いてしまったけど、どんなもんやろ?w
病院へ行けはなしでお願いします笑
あー、いつになったら、まともになるかのー。
とにかくリアルがある。
これは認識以前であり、そして、自己はそれと分離していないのだ。
とゆーより、自己とゆーか、その、そこは分離していない。
しかし、そこは、ない。
そして、その時に自己を否定してはならない。
肉体は自己ではないが、自己は在る。
私は存在するのだ!!!!!!!!
これはわかりやすいです!