豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

無駄な時間はない

2014-12-22 14:18:19 | 読者に人気の記事
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こんにちは!

今日から夜勤だけど少し早く起きて暇しています。

こういう時はブログ更新(笑い)

土曜日は嫁様と息子を実家へ送り届けて、夕飯に美味しい鍋をいただきました。

嫁はファイナルファンタジーをダウンロードして、僕はサガをダウンロードしていた。

無駄遣い。

結局、最後までやらないだろうけど、ちょっとやってみたいなと思うと、すぐにやる癖。



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そのあとで亀山へ戻って、友人と食事という名の遊びで、また無駄遣い。

楽しかったけど、あんまり頻繁にはよろしくない。

どうにも救いようのない駄目さ加減を相変わらず発揮しております私、僕です。


日曜日は妹や姪っ子たちが帰省していたので、だらだらしながら、会話したり、アイス食べたり、ほかにもいろいろと食べあさりながら、ゴロゴロ。

夜中にはFF14を長時間プレイして、これも、それなりに楽しかった。


けどね。

ここで、こう思うわけです。

「こんなことやって無駄な時間を過ごした」とか(笑い)

もっと有益なことをしたいとか、いう、考えがあとから起こってきて、苦しむのでありますね。

この、あとから「いいとか悪い」とか言っているのは何でしょう?

もう過ぎ去ったことでしかないことに対して執着して、そこから考えてみる。

しかし、考えたところで、何かが出てくるわけではない。

現実は事実、いまこの場所で、起こり続けているのであるから、当然ですね。

そのことに「計らい」「計算」がないなら幸せです。


僕も散々はまりましたが、あの、遠くのほうにある「幸せ」は空想ですよ。

事実は目の前にあるので、これは、もう何かする前に、差し出されているわけです。

だから、目の前に饅頭があって、それを食べずに、頭の中の饅頭を手に入れる「計算」に必死になっているのが、僕たちなのであります。

いや、まあ、僕たちというと語弊がありますね。

僕だったのです。


それで、昨今のスピリチュアル分野での、お話なんかでも、同じ傾向があって、つまり、こうやる、ああやるという方法があって、それをしたり、会ったり、してたら、気づきがあって等々は、これは無理。

無理だと僕は思うのであります。

でも、この無理を無理と知るためには、やってみなくてはならないという矛盾もあるわけですね。

人間、自分の目で確かめたことでなければ、勉強なんて実質、できないですもん。


あの手の話では「漠然とした結果」が頭の中に想像されて、そこに至る道が、さまざまに提供される。

この抽象的な結果が、よくわからないというところが肝です。

そのことを知りたい、掴みたい、または「ある状態」になりたいと思わせるのです。

そうしておいて、そこにいたるには「瞑想だ」とか「禁欲だ」とか、まあ、いろいろある。

でも、そうした方法は「自然」「事実」に触れるための方法ではないんです。

もう既に触れている「回答」に気が付いていないのを、そこに目を向けるためにあるわけです。


だから練習したらうまくなるとか、徐々に成長するとかいう、習い事とは違います。

もう達成していること!

これが、なぜ理解できなくなったかといえば、自己の行い(意志)が我であると無明によって思ったからです。

それまでは行い(意志)に我がなかったのです。

つまり幼児期には、我が行為とかいう認識が、まだ自我の発達前だったのでなかった。

今度は発達してきた自我が、我が行いと他者の行いと分断させて、いろいろ計算するようになる。

その計算している「いい悪い」が、また、手放されたときに、渾然一体の自然としての生命に帰るでしょう。


山や森に癒しを感じるのは、その、自己が溶けて、解放されていくからだと思います。


それは、頭の中にしかないではないですか。

もちろん、それは超絶、重要事項であるには違いないのですよ。

自己があるのは、その自然(色)と意識(識)の縁起によっているわけですから、重要ですが、そこに、我がものという意識があることだけが苦しみの元なのであります。


誰がやった、自分がやった、あいつがやったと言って喧嘩するでしょう(笑い)


とか、まあ、いろいろ。


だから「獄舎」と「自由」の違いと考えてみると「獄舎」というのは自己の執着に捕えられている。

ああすれば、こうすれば、あそこにいけるのかみたいな感じが「獄舎」

自由というのは開け放たれているのですが、これは、いま、この事実に満足していることです。

諸行無常の中に静けさがあるということの、その、有と無の同居したところが、この事実、いま、です。


ところが、また、ややこしいことにですね!

ほんとに人間というものはやっかいなのですが、こう「いま」とか名づけたり、状態を定義したりすると、つまり字義で表現すると、そこへ向かおうとしてしまうのですよ!!

だから「事実」とかいうと、事実がどこにあるのかと頭が空想する。

いまにいなければらなない!

とか言い出して、これがまた、新しい「獄舎」を形成するという有様です。


認識を放つとか、放心するとか、ありのままでとか、まあ言葉にすれば、すべて「獄舎」にもしてしまうわけです。

しかしこの言葉の本義は、ほんとうに理解した人が発した言葉であって、ズレテイナイわけですが、それを僕なんかは勘違いして「獄舎化」して苦しんでいたわけですね。


どうして、辿り着けないのか。

辿り着くものではないから、辿り着けないわけです(笑い)

こころは、生まれた時から、ずっと、その触れ合いの中にいるわけですから、そのこころが安心すれば、何の問題もなくなるというところ。

「こころ」の触れ合いがあって、そこに「幸せ」もあるわけです。

これを妨害するのが「計算思考」であります。

どうして計算思考が生まれるのかというと「わが物」という「自我」の認識があるからです。

自他が分かれているから自だけをとっていこうとする。

自他不ニとは「対象」と「自己」には差がないということで、これは「環境」はイコール「自分」であるということであります!


それは色があって識がある、識があって色があるという縁起しているわけです。

その縁起が「滅する」つまり我がものではないのです。

自分と世界には最初からズレがなくて、最後までズレナイわけです。


えーっと、なんか堂々巡りになりそうなので、このあたりで……。

自己を超えた自己などない!

2014-12-17 19:26:34 | 読者に人気の記事
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こんばんは!

今日はいつもより少し早く帰宅できました。

息子を嫁と母親がお風呂に入れてますが、僕は時間があるのでブログ更新をしようと思います。

といっても、これと言って話題があるわけではありません。


ランキングや閲覧数なんか見ていると、やっぱり更新していないと、人が来ない。

かと言って、更新してみても、たいして増えるわけではない(笑い)


えーっと、悟りとか、どうでもよくなりつつあるんですが、まあ、そのことしかネタがないので書いてみます。



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色受想行識が我ではないと、頭が聞いて、真っ先にやることは、それ以外の場所を想定して、そこに絶対安心の境地を持ち込むことです。

これは僕も、だいぶん長いこと嵌りました。

○←これが世界だとして、この○の中と外に共通した、透明な存在体があって、つまり、これが、心の我だとか、真我だとか『頭』が妄想しだすわけです。

そうしておいて、その我は不滅だとか、世に属さないとか言い出します。


しかしお釈迦様は、識があるによって色がある、色があるによって識がある。

この縁起の法の他には何もない。

また、無常でないものは、ひとつもない、諸行無常である。

諸行無常であるがゆえに、一切が苦しみである。

一切が苦しみであるがゆえに、それは我ではない。

諸法が無我であるがゆえに、涅槃に到達することが可能である。

というふうなことを、仰っておられます。


この無常でないものが、ひとつもないがゆえに、清浄の行が成るのであると!


このことを知って、この知った自分が、分析しだすと、このような、無我の境地というものが、どこかにあって、そこに到達しなければならないという誤った展開が生まれるのです。

到達するというよりも、元々、そうであることに対する気づきが智慧なのであります。


ええ、もちろん、そんなもんではないかもしれませんから、ご注意くださいね。

あくまで、僕の理解です。


俺はやったぞ!

というのが残っている限り、それは、想定された何者かに依存しているのであって、それは必ず対象化されるもののはずなのです。

認識→対象の働きがあって、この対象に自己を投影するのです。

それは例えば識の他に、自己の原因体を見出して、そこに我を投射する等々の方法論でも同じです。

結局は、この対象と自己の働きについて知っていくことこそが重要で、どこまでいっても、対象と自己は不断であって、縁起しているんですね。


これあって、これありです。

そのこれあって、これありから外れたところに我がいるのではなく。

我は、これあって、これありなのです。

そうして、その外界と自己との抵触している、こころ、こそが涅槃の行き着く場所です。

実際に、事実のことで、このことは成すものではない。


だから誰にとっても、同じように、もう、そうであることなのです。


どうもはっきりした表現ができていません。

問題にしたいのは、自己を超えた自己を想定することです。

そんなものはありません(爆笑)

ここにある自然なる事実の移り変わりの内に、私という存在があるだけなのです。

そうして自然と私は分断されていないのです。


これあって、これありなのです。

俺! 俺!? 俺?俺?俺?俺?

2014-12-10 13:25:17 | 読者に人気の記事
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連続投稿ですみません。

どうも僕の書いた文章だと誰も信じてくれないので、本家本元、史上初の悟りを開かれたお釈迦様が、言ったとされている阿含経に書かれていた言葉を書いてみます。

極端に端折りますが「色受想行識は我ではない」と正しく見て、と仰っております。


色とは、まあ、色のあるもののことでしょう。

対象のことですね。

物質界、霊界、神界、○○界、まあ、ありとあらゆる形あるもののことでしょう。


受とは感覚受容のことですね。



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舌とか鼻とか耳とか目とか肌とか心とかが色を受け取る活動をしていることでしょう。


想は(表象)とか書かれていますが、僕はアホなので表象なんていう言葉はわかりません。

これは、現れのことでしょう、まあ、意識の内容のことででしょう。

想いは、色と受が内容ですが、それは想いとなって表れている。


行は意志のことです。

これをしようとか、あれをしようとか、まあ行いのことですね。

字のとおり、この行(意志)があって、人間は行動するわけです。

女の子と仲良くなろうとかね、笑


識とは、識別能力なので、まあ単純に意識のことでしょう。


まあ定義は間違っているかもしれませんが、こういったものは、我ではないと、間違いなく、お釈迦様、自身がおっしゃっているのです。

僕ではありませんよ!!!!(笑い)


どうも人は、僕からではなく、だれか高貴なる身分の方の話だと真摯になるというw

あたりまえか!


で、どうして我ではないのかというと、それは無常だからと言われているのです。

どのようにしたいと思っても、それは、自然に起こっている現象なので、どうしようもない。

そこに「わがもの」であると、執着して苦しんでいる。

だから、あなたたち、この活動は、自己ではないと正しく見て、厭い、離れていなさいとまで言っています。


しかし、僕は思うのですが、こう努力を誘う言葉は逆効果ではないかなと思います。

自然現象である、この、生きている自然である我々は、差別なく、一体で、それは、分断されていない。

つまり私が生きているのではなく、自然があるのであって、その働きが、いま、この自分として表れてきているということなのです。

ですから、願ってもないのに生まれて、思うように生きられないのは、その願ったり、思ったりしている「我」が、実は、分析する能力というか機能だからです。

この「我」は人間にある、成長してきた、機能なのです。

もちろん超絶、たいせつな機能であるには違いないのですが、それが、「俺! 俺! 俺俺俺俺、あーあー」

と言い出し、その「俺」という思いが故に、苦しんでいるわけです。


ここでまた、もうひとつ、こう書くと突っ込まれるので、あとひとつ!

ここで問題になっているのは、色受想行識は我ではないという真実のことなのです。

ぜんぶ自然の活動なのです。

生かされているのであって、人格(知識)が、それを振り回していかなければ、みんな自然に大切なのです。

どうして、そうなっていくかというと、人格(知識)が落ちて、自然の一部に自我が落ちていったときに、私は、思いの中にしかないと気が付き、この私が出しゃばらなくなると、なにもかもが、自己と対象の縁によってあるのだと気が付くからなのです!


これもお釈迦様が、仰ったとされていることですが、このことを悟れば、悟ったという知恵が生まれるのです。

この智慧は全体意識のことですが、そこに、我がないのです。

悟った私は、どこにもいないのです。

つまり私は、悟ることなどできないのです。


「心身脱落いたしました」と報告する道元さんに「心身脱落、脱落心身」と言い直した師匠。

心身が脱落したのではない、もともと脱落しているのが心身だとなぜ言い直したのか!

心身が脱落したのは「我」「俺」が、そこにいるからです。

我が「心身脱落」したのではない。

「脱落した心身である」


とか、まあ、この手の話題は、もちろん、僕の個人的見解ですので、くれぐれもご注意ください……orz

「あるがまま」は無分別

2014-12-10 12:26:37 | 読者に人気の記事
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こんにちは!

今朝は7時ごろに就寝したと思うのですが、記憶が定かではありませんw

気が付いたら布団にいて千鶴さんが悠聖に付き添ってタブレットを見ている。

この因縁のタブレット端末は、何か月も画面が割れたままになっていましたが、ようやく先日、修理が終わって帰ってきたのであります。

「お父さんくるよ」(千鶴)

「え!」

早く起きたからFF14の木工師やって楽しめたのに……。



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息子が発熱しているというのに、そう思ってしまう僕なのであります。

そうして母親に連絡しておこうと電話すると、

「もしもし」

「もしもし!!」(母親)

「もしもーし」

もしもし! もしもし!!  もしもし!!」(母親)

もしもーーーーーーーーし!!!!

耳悪いんか!!!!

と切れてしまうというw


朝からどうも調子くるうと思いながら食事して、久しぶりにブログをPCから覗きました。

案の定、来てくれる人は激減しております(笑い)

更新しても、そんなに、たくさんの人が来てくれるわけじゃないけど、気になるんですよねー。


で、何があるわけでもないですが、やることもないので更新です。


いろいろ、気になることがあるのですが「あるがまま」についてのブログ記事を読んだので、それに関して思ったことを書いてみようと思います。


息子が発熱しているのにFF14をしたいと思ったことは、後から、生まれてきたのです。

事実は、流れるように起きてきて、ああ何か気分が悪い、なぜだ、ああFF14がしたいのだと認識しますw

これは自分でしょうか?

自己の行い(意志)でしょうか?

この自己というやつは、自己の指令を待たずに、待ったなしでFF14がしたいと状況を考えずに思っている。

これは!?

気分が悪いと思った後に考えてみたらFF14がしたいと思ったわけです。

そんな気がします。

もちろん、僕が、そう思っているだけですので、勘違いのないようにお願いします。


どうでもいいわい! と言われる皆様、ごめんなさい。

この「あるがまま」という言葉は、到達するものではないのです。

つまり、僕は「あるがまま」だけど、君はまだ練習が足りないから「あるがまま」じゃないねーとか言えないんです。

だって「あるがまま」じゃないときなんて、生まれてから一回もないんですもん。

よーく考えてみたら、当たり前です。

それを、君も頑張って「あるがまま」に成りなよとか言う場合の心理には興味が沸きますね?

この根底には何があるでしょう?


そう!

かの有名なる分別さんです。

そして「あるがまま」は無分別なのです。

その違いがあってもなくても、あるがままは、あるがままでしかない。

だから「あるがまま」である人に「あるがままに」と言う人の心理を想像するとどうなりますか?

つまり現状に抵抗をする人に、また分別する人に、それはそれでOKですぜー(心配しなさんな)

と、いうことが言いたいだけなのですね。

たぶん……、たぶんね……、そのはず。

冷たいことじゃない

2014-12-09 18:06:34 | 日記
こんばんは!

夜勤明けからゲームで睡眠不足ぎみです。

息子は朝方は熱が下がりましたが夜になって、また上がってきました。

病院ではインフルエンザとかRSウイルスではないとのことで普通の風邪引きのようです。

執着を解きなさいとお釈迦様が言うのは、冷静でクールな、冷めた気持ちになることではない。

ここまでが大切で、ここからがどうでもいいなどの区分、分別、またいい、悪いの判断が執着によって起こるので、それを無くせば、苦しい思いを滅尽できますよーと、言われた。

頭の世界での評価、また、こだわり、こういった自己からの眺めが、客体、からの眺めに移り、最終的にはそのような計略さえも、ぜーんぶ放って、からっぽであることです。