・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは!
今日から夜勤だけど少し早く起きて暇しています。
こういう時はブログ更新(笑い)
土曜日は嫁様と息子を実家へ送り届けて、夕飯に美味しい鍋をいただきました。
嫁はファイナルファンタジーをダウンロードして、僕はサガをダウンロードしていた。
無駄遣い。
結局、最後までやらないだろうけど、ちょっとやってみたいなと思うと、すぐにやる癖。
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そのあとで亀山へ戻って、友人と食事という名の遊びで、また無駄遣い。
楽しかったけど、あんまり頻繁にはよろしくない。
どうにも救いようのない駄目さ加減を相変わらず発揮しております私、僕です。
日曜日は妹や姪っ子たちが帰省していたので、だらだらしながら、会話したり、アイス食べたり、ほかにもいろいろと食べあさりながら、ゴロゴロ。
夜中にはFF14を長時間プレイして、これも、それなりに楽しかった。
けどね。
ここで、こう思うわけです。
「こんなことやって無駄な時間を過ごした」とか(笑い)
もっと有益なことをしたいとか、いう、考えがあとから起こってきて、苦しむのでありますね。
この、あとから「いいとか悪い」とか言っているのは何でしょう?
もう過ぎ去ったことでしかないことに対して執着して、そこから考えてみる。
しかし、考えたところで、何かが出てくるわけではない。
現実は事実、いまこの場所で、起こり続けているのであるから、当然ですね。
そのことに「計らい」「計算」がないなら幸せです。
僕も散々はまりましたが、あの、遠くのほうにある「幸せ」は空想ですよ。
事実は目の前にあるので、これは、もう何かする前に、差し出されているわけです。
だから、目の前に饅頭があって、それを食べずに、頭の中の饅頭を手に入れる「計算」に必死になっているのが、僕たちなのであります。
いや、まあ、僕たちというと語弊がありますね。
僕だったのです。
それで、昨今のスピリチュアル分野での、お話なんかでも、同じ傾向があって、つまり、こうやる、ああやるという方法があって、それをしたり、会ったり、してたら、気づきがあって等々は、これは無理。
無理だと僕は思うのであります。
でも、この無理を無理と知るためには、やってみなくてはならないという矛盾もあるわけですね。
人間、自分の目で確かめたことでなければ、勉強なんて実質、できないですもん。
あの手の話では「漠然とした結果」が頭の中に想像されて、そこに至る道が、さまざまに提供される。
この抽象的な結果が、よくわからないというところが肝です。
そのことを知りたい、掴みたい、または「ある状態」になりたいと思わせるのです。
そうしておいて、そこにいたるには「瞑想だ」とか「禁欲だ」とか、まあ、いろいろある。
でも、そうした方法は「自然」「事実」に触れるための方法ではないんです。
もう既に触れている「回答」に気が付いていないのを、そこに目を向けるためにあるわけです。
だから練習したらうまくなるとか、徐々に成長するとかいう、習い事とは違います。
もう達成していること!
これが、なぜ理解できなくなったかといえば、自己の行い(意志)が我であると無明によって思ったからです。
それまでは行い(意志)に我がなかったのです。
つまり幼児期には、我が行為とかいう認識が、まだ自我の発達前だったのでなかった。
今度は発達してきた自我が、我が行いと他者の行いと分断させて、いろいろ計算するようになる。
その計算している「いい悪い」が、また、手放されたときに、渾然一体の自然としての生命に帰るでしょう。
山や森に癒しを感じるのは、その、自己が溶けて、解放されていくからだと思います。
それは、頭の中にしかないではないですか。
もちろん、それは超絶、重要事項であるには違いないのですよ。
自己があるのは、その自然(色)と意識(識)の縁起によっているわけですから、重要ですが、そこに、我がものという意識があることだけが苦しみの元なのであります。
誰がやった、自分がやった、あいつがやったと言って喧嘩するでしょう(笑い)
とか、まあ、いろいろ。
だから「獄舎」と「自由」の違いと考えてみると「獄舎」というのは自己の執着に捕えられている。
ああすれば、こうすれば、あそこにいけるのかみたいな感じが「獄舎」
自由というのは開け放たれているのですが、これは、いま、この事実に満足していることです。
諸行無常の中に静けさがあるということの、その、有と無の同居したところが、この事実、いま、です。
ところが、また、ややこしいことにですね!
ほんとに人間というものはやっかいなのですが、こう「いま」とか名づけたり、状態を定義したりすると、つまり字義で表現すると、そこへ向かおうとしてしまうのですよ!!
だから「事実」とかいうと、事実がどこにあるのかと頭が空想する。
いまにいなければらなない!
とか言い出して、これがまた、新しい「獄舎」を形成するという有様です。
認識を放つとか、放心するとか、ありのままでとか、まあ言葉にすれば、すべて「獄舎」にもしてしまうわけです。
しかしこの言葉の本義は、ほんとうに理解した人が発した言葉であって、ズレテイナイわけですが、それを僕なんかは勘違いして「獄舎化」して苦しんでいたわけですね。
どうして、辿り着けないのか。
辿り着くものではないから、辿り着けないわけです(笑い)
こころは、生まれた時から、ずっと、その触れ合いの中にいるわけですから、そのこころが安心すれば、何の問題もなくなるというところ。
「こころ」の触れ合いがあって、そこに「幸せ」もあるわけです。
これを妨害するのが「計算思考」であります。
どうして計算思考が生まれるのかというと「わが物」という「自我」の認識があるからです。
自他が分かれているから自だけをとっていこうとする。
自他不ニとは「対象」と「自己」には差がないということで、これは「環境」はイコール「自分」であるということであります!
それは色があって識がある、識があって色があるという縁起しているわけです。
その縁起が「滅する」つまり我がものではないのです。
自分と世界には最初からズレがなくて、最後までズレナイわけです。
えーっと、なんか堂々巡りになりそうなので、このあたりで……。
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嫁はファイナルファンタジーをダウンロードして、僕はサガをダウンロードしていた。
無駄遣い。
結局、最後までやらないだろうけど、ちょっとやってみたいなと思うと、すぐにやる癖。
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楽しかったけど、あんまり頻繁にはよろしくない。
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日曜日は妹や姪っ子たちが帰省していたので、だらだらしながら、会話したり、アイス食べたり、ほかにもいろいろと食べあさりながら、ゴロゴロ。
夜中にはFF14を長時間プレイして、これも、それなりに楽しかった。
けどね。
ここで、こう思うわけです。
「こんなことやって無駄な時間を過ごした」とか(笑い)
もっと有益なことをしたいとか、いう、考えがあとから起こってきて、苦しむのでありますね。
この、あとから「いいとか悪い」とか言っているのは何でしょう?
もう過ぎ去ったことでしかないことに対して執着して、そこから考えてみる。
しかし、考えたところで、何かが出てくるわけではない。
現実は事実、いまこの場所で、起こり続けているのであるから、当然ですね。
そのことに「計らい」「計算」がないなら幸せです。
僕も散々はまりましたが、あの、遠くのほうにある「幸せ」は空想ですよ。
事実は目の前にあるので、これは、もう何かする前に、差し出されているわけです。
だから、目の前に饅頭があって、それを食べずに、頭の中の饅頭を手に入れる「計算」に必死になっているのが、僕たちなのであります。
いや、まあ、僕たちというと語弊がありますね。
僕だったのです。
それで、昨今のスピリチュアル分野での、お話なんかでも、同じ傾向があって、つまり、こうやる、ああやるという方法があって、それをしたり、会ったり、してたら、気づきがあって等々は、これは無理。
無理だと僕は思うのであります。
でも、この無理を無理と知るためには、やってみなくてはならないという矛盾もあるわけですね。
人間、自分の目で確かめたことでなければ、勉強なんて実質、できないですもん。
あの手の話では「漠然とした結果」が頭の中に想像されて、そこに至る道が、さまざまに提供される。
この抽象的な結果が、よくわからないというところが肝です。
そのことを知りたい、掴みたい、または「ある状態」になりたいと思わせるのです。
そうしておいて、そこにいたるには「瞑想だ」とか「禁欲だ」とか、まあ、いろいろある。
でも、そうした方法は「自然」「事実」に触れるための方法ではないんです。
もう既に触れている「回答」に気が付いていないのを、そこに目を向けるためにあるわけです。
だから練習したらうまくなるとか、徐々に成長するとかいう、習い事とは違います。
もう達成していること!
これが、なぜ理解できなくなったかといえば、自己の行い(意志)が我であると無明によって思ったからです。
それまでは行い(意志)に我がなかったのです。
つまり幼児期には、我が行為とかいう認識が、まだ自我の発達前だったのでなかった。
今度は発達してきた自我が、我が行いと他者の行いと分断させて、いろいろ計算するようになる。
その計算している「いい悪い」が、また、手放されたときに、渾然一体の自然としての生命に帰るでしょう。
山や森に癒しを感じるのは、その、自己が溶けて、解放されていくからだと思います。
それは、頭の中にしかないではないですか。
もちろん、それは超絶、重要事項であるには違いないのですよ。
自己があるのは、その自然(色)と意識(識)の縁起によっているわけですから、重要ですが、そこに、我がものという意識があることだけが苦しみの元なのであります。
誰がやった、自分がやった、あいつがやったと言って喧嘩するでしょう(笑い)
とか、まあ、いろいろ。
だから「獄舎」と「自由」の違いと考えてみると「獄舎」というのは自己の執着に捕えられている。
ああすれば、こうすれば、あそこにいけるのかみたいな感じが「獄舎」
自由というのは開け放たれているのですが、これは、いま、この事実に満足していることです。
諸行無常の中に静けさがあるということの、その、有と無の同居したところが、この事実、いま、です。
ところが、また、ややこしいことにですね!
ほんとに人間というものはやっかいなのですが、こう「いま」とか名づけたり、状態を定義したりすると、つまり字義で表現すると、そこへ向かおうとしてしまうのですよ!!
だから「事実」とかいうと、事実がどこにあるのかと頭が空想する。
いまにいなければらなない!
とか言い出して、これがまた、新しい「獄舎」を形成するという有様です。
認識を放つとか、放心するとか、ありのままでとか、まあ言葉にすれば、すべて「獄舎」にもしてしまうわけです。
しかしこの言葉の本義は、ほんとうに理解した人が発した言葉であって、ズレテイナイわけですが、それを僕なんかは勘違いして「獄舎化」して苦しんでいたわけですね。
どうして、辿り着けないのか。
辿り着くものではないから、辿り着けないわけです(笑い)
こころは、生まれた時から、ずっと、その触れ合いの中にいるわけですから、そのこころが安心すれば、何の問題もなくなるというところ。
「こころ」の触れ合いがあって、そこに「幸せ」もあるわけです。
これを妨害するのが「計算思考」であります。
どうして計算思考が生まれるのかというと「わが物」という「自我」の認識があるからです。
自他が分かれているから自だけをとっていこうとする。
自他不ニとは「対象」と「自己」には差がないということで、これは「環境」はイコール「自分」であるということであります!
それは色があって識がある、識があって色があるという縁起しているわけです。
その縁起が「滅する」つまり我がものではないのです。
自分と世界には最初からズレがなくて、最後までズレナイわけです。
えーっと、なんか堂々巡りになりそうなので、このあたりで……。