豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

新しい世界のルールが始まっている

2015-06-30 06:41:28 | 日記
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おはようございます。

ちょっぴり元気になりつつある豊田です。

昨日の動画は、なんとなく、やってしまった感、満点ですが、笑


大和田菜穂さんと、阿部敏郎さんの講演会があるみたいですね。

僕は申し込みませんでしたが、おもしろいだろうなあと想像できます。

なんか時代が変わってきている。


一方でテロや戦争の足音が聞こえて、経済崩壊の予兆が見えている中で。



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この世界の、こちら側では、平和の音楽が鳴り響きだしているのが、見えてくる。

嘘の世界は、崩壊してしまうかもしれない。

まあ、それは、そんなに直ぐに、は、起こらないだろうが、傾向として、そちらの方へ行っている。

過去から現代まで、このような、精神の探求が、世界的に注目された時代は、稀だろう。

初めてかもしれない。


たくさんの人が興味を持って、様々な道を歩んでいる。


もちろん、全く、興味のない人もいるのだが、その人たちも、違う形で、変化をしていかざるをえなくなっている。

もう、嘘の人格の中で、生きることは、苦しすぎて、不可能な時代なのだ。

もう、嘘が、見え見えなのだ、笑


ハートの奥にある安心は、そこに意識的につながることで、エネルギーを外側に放つ。

それは目には見えないが、確かに、心に感じられるものである。

ここで、この、僕が、この、向こうのエネルギーと不断につながっていることである。

もう、こっち側の粗雑なエネルギーは、浮かせてしまって、切る。

そうしないと、心理的なバランスが、崩れてしまうように、現象が傾向を変えてきているのだ。


敏感な人は、この変化に、もっと先に、気が付いていたのかもしれない。

世界は明らかに、波動的に、変化してきている。

崩壊と新たな笑顔の、匂いが、すごくしてきた。


偽の、表層の、リアルは、そろそろ、見抜かれるだろう。

その時、もはや、自由を押しとどめる者は、誰もいなくなってしまう。

誰もが、そこへ向かっている。

誰もいないのだが、誰もが向かっているのだwwwww


ここは、意識のエネルギーが影響をすごく及ぼしている。

それは心と体に、つまり、感情と感覚に顕著に現れている。

そして、この意識のエネルギーのチューナーが、新しい段階に移行してしまったのだ。

間違いない!


だから、今までのやり方は、通用しなくなり、人格レベルで、問題解決ができないようなことが、もっと、ドンドンと起こってくるだろう。

個人レベルでも、社会レベルでも、そうなってくる。

もう、この苦しみを、解決するには、平安の地点に、意識が昇華せざるを得なくなるのだ。


これが、もう、すでに始まっている。

だから、同じような日常でも、今まで通りだと、苦しくなってくるかもしれない。

そして、ある段階を超えると、この新しい世界のルールが判明するだろう。


素晴らしすぎる、神からの、プレゼントが、ここに用意されているのだ(爆笑)

プレゼントの中身は、開けてからの、お楽しみってことだねえ♪

天国への階段

2015-06-29 00:32:31 | ラジオ
余りに暇すぎて、u-streamの放送をしてました。

だれも聞きに来てくれませんでしたが、録画したので、アップします、笑

まあ、ラジオと一緒で、超グダグダですよ。

昔、ラジログというサイトで、放送していた時のタイトルであります。


お釈迦様は有とも無ともひとつとも多様とも説かないので、非二元(ノンデュアリティ)とも説かないだろう。

2015-06-28 03:23:34 | 日記
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おはようかな?

こんばんは、でしょうか。

昨晩は、疲れて眠ってしまって、変な時間に目が覚めました。

ブログを見たり、お風呂に入ったり、しながら、悶々と考え尽くしていた。


昨日はYくんと会って、様々な、会話をしました。

エゴの苦悶に関しては、まあ、初歩的なことだという指摘をいただきました、笑

非二元に関しては、余り、驚きがない。



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まあ、ね。

もともと、ひとつであるいうことは、前から、語っていたことではあります。

結局、僕としては、精神的には、かなり驚嘆していましたが、まあ、それも落ち着いてくるだろう。


ひとつである。

多様である。

有である、無である。

等々ということは、お釈迦様は説かなかった。


縁によって生ずる。

これあるによって、これあり、である。

無明によって行がある。

無明とは如実知見、智慧のないことである。

では、智慧とは何なのか。


この世界は自作でも他作でもなく、自作にして他作でもなく、自作でもなく他作でもなく因なくして生ずるものでもないとある。

これあるによって、これある。

誰かのコレとは言っていない。

誰かの無明とも言わないし、誰かの触とも言わない。

身体のある間は、その感覚を感じ、冷たくなれば、それを感じる。

そして生の滅したものに、苦はあるか?

と、問うているのである。


接触のないもの、感覚のないものに苦はあるのか?

それは自作に寄らない、他作でもない、自作にして他作でもない、自作でもなく、他作でもなく、因なくして生ずるものでもない。

苦の滅尽である。


世人は歓喜によって縛られているとは、このことである。


なのですから、まあ、生も死も、感覚から生じているものであり、それは、身と、口と、意の動き、つまり行から来ているのであり、それは、誰のものでもなく、無明から生じているのである。

無明は、苦について知らず、苦の原因を知らず、苦の滅尽することをしらず、苦の滅尽の道を知らない。

智慧は、この無明を滅することによって、生死が滅することを言っているのである。


しかし一体、この無明というものは、なんなのだ。

という疑問が、ここまで説かれても、判然としませんね。

ある弟子、というか、バラモンの高僧に対して、お釈迦様は、問われて、

「無明が頭であると知れ、頭の裂け落ちることが解脱である」

というようなことを言っていたと思います。


つまり、頭の中で、あれこれと、己の利益のために動いているわけですが、諸行無常の世界では、すべては失われてしまうのです。

その、世界の中で、ただ、感受を離れていることが、死を超越したことになる。

生も、老も、病も、死も、すべてですね。

誰に対して、起きているわけでもない、と、同時に、無明によって老死があるのです。


これは自分を守るというものでもなく、愛に溢れたわたし、なんかでもなく、ただ、この世界を嫌い、離れ去っていることなのですよ。

そうして、ハートの喜びが、感ぜられたなら、それが、すでに愛である。

永遠の愛。

それは、触が、ないところで、感覚の向こうにあるものである。

ニルヴァーナとは、この、エネルギーの中に、完全に、移行していることである。

肉体から、この、涅槃に、渡っていることなのだ!

それは、しかし、特別なことではなく、誰しもが最初から、そこにしかいないのである。

そこから、この幻想世界を楽しんでいる。


そして、カルマというのは、愛着のことであり、この愛が、世界を輪廻、回転させているのだ。

この、愛と、永遠の愛は、全くの別物である。

この意味でいうならば、愛は消失してしまわなければならず、まあ、廃人同然な感じに一度落ちなければならない。


だから絶望が必要だと書いているのである。


それに対して、どうも、この手をつかもうという意図が感ぜられる情報がある。

放つ手をもって、どこかへ、導こうということだが、どこにも導かれるものはないのである。


お釈迦様が、触がないときに、苦があるであろうか。

と弟子に聞いたときに、もう、それ以上の、何ものも、でることは不可能なのだ。

これ以外に、苦の滅尽はないのだし、愛、渇愛は、感受を喜ぶものである。

感受の喜び、感覚の悪魔ではなく、感受から解放されている喜びなのである。

感受が、ここにある、それで、感受が失われるのが、死である。

であるからして、この、感受に執着する心を、遠ざけて、あればよし、なくてもよし。


執着しないというのは、断つことではない。

あれば、あるがままにしておくことなのだ。

これは、最初から、自然が、天が、齎したものであり、それが、ただ巡っているのである。

そこには、これあるによって、これありがあるだけである、笑


掴まる場所は、どこにもないのである。

また、この意見とか主義とか、まあ、様々な宴会なんかにも、その裏に、なにやら、個の存在場を感じてしまう。


Yくんには、僕は、それを【穴倉】と表現したら、笑っていましたがwwwww


とにかく、今、ここで、ある、身体の感覚は、客体化して、意志が、機能できるようにしてしまわなければならない。

それが修業かもしれない。

上でも下でも横でも、中央でも、感受できるすべては執着のもとであると、正しく、見て、世間の迷妄に陥るな。


とお釈迦様が言っています。

すべてが、あるがままにある。

ただ、それだけであり、そこに、何らかの掴まる場所や、穴倉はないのである。

意見とか、見解とかを持ち歩いてはいけない。


それはイメージに張り付いた【牢獄】である。

このような、言葉は、必要ないのだ。

あるがままが、今、あるのは、それは自分にとって都合がいいとか悪いとかを超えて、あるがままである。

そして肉体が冷たくなれば、死んでしまうのだ。

だが、この世間の触が滅べば、もはや、二度と苦しむことはなく、執着が滅していれば、再び、生まれくることがないのである。

真我が、魂が、転生しないのだ。

もう、夢を見るのは、飽き飽きだ!


と言っているのである。


そして、この僕も、もう、夢の中で苦しんでいるのは、飽き飽きしたのであるwww

必要ありません。

しかし、苦しみは、その、中に、縁があるから、起こっているだけである。

頭があるから、苦しむのだ。


そうして、それをもっと、簡略にして、人に伝わりやすくすれば【思惑】を手放すことで、人は、あるがままであることに気が付くのだ。

あるがままとは、もう、あるがままなのだ。

どこにいようと、なにをしようと、すべてが、あるがままなのだ。

だから、説くことも、本来は、ないはずなのだが、僕の執着が、まだ、残っているので、こういうことになってしまうのである。


それがエゴである。

エゴの死は、歓迎すべきものなんかじゃない。

それは、感受の死なのである。

感覚の、断念のことである。


サーリープッタさんが後ろから殴られても「なにかありましたか?」と優しく聞いたり、ラマナ・マハルシが盗賊に殴られても沈黙していたり、する。

またキリストが右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せという。

このようなことが、起こるのは、この世間で、世界の中で、エゴが滅しているからである。

感受が、自己ではないのだ。

だからと言って、苦がないというわけではない。

苦があるのだが、それを受け取っていないのである。

いりません。

で、ある、笑


こういったことは教えの中や、概念の中や、本の中や、イベントの中にあるわけではない。

そういったもの、すべて、が、頼りにならなくなり、否定され、それでもまた、個人が救われない時に、この個人を滅してしまうことである。

それは、独りですることなのだ。

誰からも教わることができないので、自分が、自分に教えているのである。

それが、まあ、人生なのだ。


だから、みんなが一生懸命生きていることが、実際は、分け隔てなく、教えなのであり、究極の修業なのであるからして、なんらかの形を、そこに当てはめて、これだけが真実で、あとは嘘なんてことはありえないのである。

これあるによって、これありである(爆笑)


そして【思惑】が落ちた時には、この目の前の、瞬間、瞬間の、あるがままの諸行無常は、ただ、現れては消えていく儚い、ただの、誘惑者なのだ。

そして、この世界は、認識がない、触覚がないところでは、涅槃なのである。

そこに、魂があるか、ないかは、確かめようもないことであるし、肉体の死後にどうなるかも、確かめようもないのではあるが、しかし、生老病死の苦の滅尽に関しては、これ以上は、ありえないだろう。

無明が滅するによって行が滅する!


言い方を変えれば、これこそが、放てば手に満てりである。

流れ去る川の、流れは、もとの水ではないが、しかし、そこに、何とも言えない慈悲が起こるのだ!!!!

真理について甘い言葉で誘惑するものに流されるな・・・・・・これは、あの人には依存できないのだ!

2015-06-26 15:25:17 | 日記
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ああ、朝から暴言を吐きまくる、最低なる男、豊田です。

「ありがとう」を毎日、唱えていた結果、こうなったのでしょうか、笑

とにかく、まあ、ありとあらゆる呪詛の言葉の洗礼であります。

まあ、単に、ストレスが溜まっているだけでしょうが、我ながら酷いですね。

昨夜も仕事から帰って、お風呂出てから、手足をバタバタさせて、気が狂っておりました(爆笑)

相当、重症ですな……。


まあ、ね。



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僕は気が付いたのですが、この、自然の働きの中で生かされているのは、本当ですが、そういうものをイメージとして持ち運んではいけないのです。

そして、頭の理解もいらないし、頭に伝えることもいらないのです。

なぜなら、ひとは、様々な解釈で、このような情報をイメージとして捉えていくのですが、その答え合わせが、真実かどうかは知りようがないのです。

なぜなら「真実なのか?」と問うているのが、まさしく、頭だからなのです。

答え合わせをしているのは、頭脳、知性の中枢なのですが、やつらの性能と言えば、単なる比較しかないのです。

つまり4つを同時に比較する能力です。

しかし、その4つの中で、ひとつだけが真実だと、確証することは絶対に不可能です。

なぜならば、真理というのは、頭の証明の介入を許さないからなのです。

ただ、その、中に、在ることだけしかできないのです


だから、このように、色んな事を、情報として伝えたり、解釈していることは、変な方向に行くのです。

それが、散々、声を大にして、伝えている【憧れ】というものです。


誰かが言いますね。

すべては、あるがままで、もう、すでに起こっている。

そう、それは、そうであるのだが、これは、頭の方から見た解説ですね。

実際に、あるがままに在る時には、このような解説は入らない。

ただ、あるがままの、自然が、そこで縁起してきているだけです。

そこを見ていたり、解釈していたり、監視したり、コントロールしたり、感じたり、している、あなたは不在になっているんです。

そこから、後で、認識をして、解釈をする。


そうして、その解釈した情報のやりとりをしているのですね。

しかし、人生と言うのは、解釈の通りに起きていくわけではありません。

自己の見方の奥にある、創造の力が働いているのです。

それは自由であって、型とか、解釈とかには収まりきらないのです。

だから【真理と思われる情報】を、事実に当てはめていけば、必ず外れてしまうのです。


ここが気が狂ってしまうところですね、笑


たとえばですよ。

あなたは、とでも美しい調べを奏でる覚者のイベントに参加します。

そこでは【ヒーリングミュージック】なんかが流れていますね。

そうして美しい言葉が、彼、または、彼女の口から流れ出るのです。

静かに座ったり、また、激しく感情を放出したりしながら、あなたは本来の自己に帰っていきます。

素晴らしい!

まるで、生まれたてのような、透明なME!

そこへ帰ると、信じられないような喜びが、心から溢れんばかりです。

さあ、ここまでは、問題ありません。

完璧なのですが、ここで、頭君が、このことを、体系化して、自分の持ち物にするのです。


そうして、あなたは会場を出ました。

先ほどまでのイベントで感じた温かみが胸を溶かし、満員電車の喧騒にも、こころは平安です。

目の前にいる人々が愛おしく見えて、仕方がありません。

ああ、我々は、ともに、生命を謳歌している、それで、この我々の宇宙は、完璧なる愛だ!

と、頭が言い出しますwwww


さて、家へ帰ると喜びの気持ちと共に、眠りました。


翌朝、目覚ましが鳴り、ルンルン気分で、あなたは日常を開始します。

そうして、様々な生活が始まっていくのですが、あなたは、すでに【愛】を持ち運んでいることに気が付いていません。

それで、その、愛に反することが、起こってきました。

何が、愛に反することかというと、あなたの表面的な感情が害されることです。

例えば、あなたは仕事で、些細な失敗をします。

もちろん、故意にしたことではなく、避けようもないことでした。

ところが、それを見た上司は、あなたを罵倒しました。

「このアホ! 役立たず!!」

その瞬間に、あなたは湯沸かし器のように、瞬時に気分を害します。


さあ、ここが、ポイントですよ。

この時、怒りを鎮めるように、動いたり、まあ、相手を許す様に動いたりするようになります。

なぜなら、すべてが【愛】という概念をあなたは持ち歩いてしまっていたからなのです!!!!!

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


わかりますか?


そして、その、ことが、また、愛の分かち合い、やら、なんやらのイベントへ向かわせるのです。

そして、同じ【概念】を持ち運んでいる、楽しい仲間たちと経験を分かち合いながら、まあ、言ってしまえば、仲間と飲み会をしている、その辺の、サラリーマンと同じことをしてしまうのですwwwwwww

曰く、あいつは、分かっていない。

曰く、社会は、まだまだである。

曰く、悟りを広めなければならない。

曰く、仲間を増やしたい。

曰く、この問題に、対処するには、瞑想の時間を、テクニックを、どう弄ればいいのか。

曰く、彼女が欲しい、彼氏が欲しい。

曰く、お金を稼ぎたいね。

曰く、病気を治したいね。


という、ただのレストランでの食事会になるのです。

そして、もちろん、またしても、そこには【愛】が溢れているのですが、この【愛とは似ても似つかない愛】は単なる自己欺瞞なのです。

真実を見るならば、もしも、あなたの本質が、すべてを許すなら、どこに、いても同じなのです。

もちろん覚醒者も同じです。

どこにいようが、どこで会おうが、すべて在るがままなのです。

愛というのは、そのような、透明な風のような、不在の空間が、ハートに空いていることなのです。

って、書くと、またこれを、頭で分析するwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


というわけなのです。


そうして、あなたの声高に叫ぶ愛は、仲間内でしか発生しない愛であったり、ある居酒屋さんだけで、発生するものであったり、まあ、誰かと一緒の時だけ発生するのです。


さあ、イベントに出かけなければ!

愛に帰るためには、お金を払って、みんなと饅頭でも食べながら、会話して、座禅しなければwwwww


いいですか?

ここにあるのは、ただの性欲ですよ。

つまり、そこにたくさんの男女がいたりすることが重要なのです。

たくさんでなくても、男と女がいることが重要です。

しかも、セットで、美味しい食事会なんかが、あると最高ですね。


男女が出合い、映画を見た後で、レストランでの食事を楽しむのです。

正に、愛が、溢れてきます(爆笑)

しかし、まあ、実際の生活は、そんなものではなかったのです。


当たり前だろう!!!!!!


だから、このようなことと、真理は無縁ですよ。

たった一人で、この、心の奥の、透明性に浸っていくことですが、それが、まあ、実際の生活の中で、あなた自身を救っているということが大事なのです。

あなたの情緒、感情を、他者のイメージに与えてはいけないのです。

答え合わせはいらない!!!!

あなたが、本当に、解決されたら、それでOKなのです。

あの人が、こう言っている、ああ言っている、こんなことがあった、あんなことがあったはほっとけwwwww


真の、理解というのは、別に、他者に承認される必要なんかありません。

実際に、そこに入り込んでしまえば、そんな欲求が生まれてこないからです。

しかし、体験を、所有して、概念にして、持ち運び、その概念化されたアイデアを人に伝えようとすると、無理なのです、笑

だから気が狂うわけですが、まあ、そんなのも、もう、ほっとけですwww

知らぬ、ほっとけw

知らぬが仏。


だからね、イマジネーションが全てに浸透しているというのは、あまたが、それをイメージすることではなくて、もう、すでに、そこに体験をしていることなんです。

その他の、ことも、全部、そうなんです。

だから、そこに決まりとか、それこそ、みんなが言っている【愛】なんてないんですよ。

その出来事の全てが、風のように、胸を通り過ぎていく時、に、愛もくそもないんですよwwww

ただ、平安で、まあ、何があっても、個人は、ニコヤカなのです。

それが、相手の言動や、世界の満ち欠けに、影響されないのですよ。

なぜ、影響されないのかと言えば、この客体化された自己の悲嘆や、気狂いが、単なる、表現であることが分かるからで、しかも、その表現の奥には、どんなものでも愛が溢れているからなのです。

しかし、それを、投影なんかしてないんです。


ただ、いま、ここで、ただ、起こっているところに、ただ、わたしはいないのです。

そして、それは、何かをしたからではなく、誰かが偉いからでもなく、もう、ぜんぶそれなんです。

だから、教わる必要なんかありません。

あんなものは、全部、だましか、勘違いか、まあ、そこでしか役に立たないものなのです。

そのうちに、分かりますよ。

相手の理解に、自分を合わせているのは、解決になりませんからね。

自分が、自分を、自分している。

それが、自己を通り抜けた時に、自分としての、理解が、感ぜられて、そして、その理解が、淡々と行なわれているところへいればいいんです。

そこではね。

気が狂って呪詛の言葉を吐きまくる豊田君も、愛の中にあるんですよ!?


大爆笑

この世界を、創造しているのは、本来の、あなた(イマジネーション)です!

2015-06-24 14:36:40 | 日記
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こんにちは。

絶望と悲嘆に明け暮れる、ボヤキマン、豊田真大です、笑

久しぶりにPCから書き込みをしています。

母親が、韓流ドラマを見ているので、とても、嫌な環境ですww

で、まあ、今朝も夢から覚めて、だらだら、ゴロゴロしていました。

ああ、ご飯だけは、食べましたね。


で、寝転びながら、絶望への対処法をネットで調べていました。



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そうしたら自殺が、自殺がと、そんなことを書いてあるではないですか。

オイオイ、勝手に俺を、そういう風に、見てくれるなよ。

まあ、別に、僕が、相談しているわけではないですが、人生に絶望した=自殺するかもしれないという考え方は、どうなんでしょうね。

そんなことしても意味ないではないですかwwwww

絶望しているというのは、言うなれば、我欲が強いということであり、しかも、生に対する希望を、期待を、たくさんもっているということなのですよ!?

あなたよりwwww


まあ、でも色々と見ていると、面白いものです。


曰く、自分より下の奴と比べろだとか、カウンセリングや心理療法を受けろだとか、人生は山あり谷ありだとか、死んでも楽になるとは限らんぞとか、そういうことですな。

まあ、だいたい一緒です。

ああ、現実逃避するのがいいとか、発展途上国へ海外旅行に行くのがいいというのもありました。

これは、いいですね、具体的です。

まあ、インドなんかへぶらっと旅をしようということですね。


絶望して、なんか人生止めようとしている人は、是非、海外旅行へ行きましょう。

どうせ、どうなってもいいんですからね、笑


で、まあ、ひとつ気に入らない意見もありましたね。

想像している不安は、現実には、ほとんど起こらないという意見の人ですね。

このほかの意見には、すべて、まあ、僕自身も思ったりしますが、不安が現実には起こらないというのは、完璧に嘘でしょうwwww

何しろ、絶望している人、というものは、人よりも欲望が強く、しかも、我がままなのです。

だから、絶望していない人に比べると、不安になっていることが、ああ、起こりうることなわけですよ。

例えば、些細な怒られ方をしたとかで、それだけとか、そういうことなんです。

まあ、子供と言ってしまえば、そうなわけですが、中には、行くとこまで、行ってしまう人もいるわけですね。

まさか、自分が、傲慢だ、などとは、夢にも思わないのです、笑


って、何が書きたいのか、分からなくなってきましたが、まあ、そういう絶望への対処法は、一時しのぎとしては役に立つでしょう。

一旦立ち直って、もう一度、絶望するチャンスを与えてくれるのです(苦笑)

なぜなら、やつらは、完璧だからです。

やつら、宇宙と人間の、働きは、完璧なので、見事に、あなたのくだらない夢を破壊するのです。

そのとき、心の中で「お見事!」と叫ぶでしょうwww

そうして、もう、この世界も自分も、まあ、ちょっとお休みして、その奥にある真のハートがムックリト起きてくるのであります。

おお、俺じゃないかあ(爆笑)


で、その俺は、なんと熟睡中の私なのですね。

その熟睡中の私は、知覚、感情を通して、夢を見たり、現実を生きたりしているのです。

その無個性の、存在が、ただ、この世界を、楽しんでいる。

で、この、現在、絶望している、豊田真大くんという可愛そうな人物は、まあ、言ってしまえば、映像の中身なのです。

映像というのか、まあ、そういう軽々しいものではないですが、その真実の自己は、全然知らない人なのですww

真実の自己は、豊田真大くんを認識していないのです(爆笑)

そして、豊田真大くんも真実の自己を認識していないのです。

ですが、お互いに、存在していて、そこで相互関係が成り立っています。


ラマナ・マハルシが、あなたが熟睡している時、あなたの今、話している問題は、どこにありましたか?

と言っています(爆笑)

それが人生劇場なのです。

つまり、問題は、実際は、全く起こっていないのです。

しかし、それは、真実の自己の側の話であって、この豊田真大くんには、関係ないのです。


ですから、豊田真大くんという、この、大和田菜穂さん的に言えば【見掛け上の自己】を助けるためには、この問題が全く起こっていない真実の自己を、登場させないといけないのです。

そして、その真実の自己が、完全に、あなたになるときに、世界は、夢となる。

そして、そのエネルギーが、全体に溢れている時に、心は微動だにせず、平安であり、また、この存在しない、空間のハートの核が、永遠に、私である、そして、それしかないと知るのですね。

それが夢見ているのです、色んな世界を見ているのです。

今回は、豊田真大というDVDテープを回しているのですが、それを創造したのも、この真実の私なのです。

しかも、この真実の私は、豊田真大の奥にありながらも、全生命体の中にあるのです。

つまり、感情を有する、すべての生命が、この真の私の、創造した、夢見るジェットコースターなのです。

笑えるでしょう?


これにマジで気が付いたときに、大爆笑しているわけです。

しかし、まあ、それには絶望が、必要です。

絶望というのは、飛躍する、チャンスなのです。

なぜなら、今までは、この現実だけが、すべてだと捉えていた、頑なな思考が落ちるからなのです。

ぼけーっとして、放心しましょうwwww

この世界は、どこにありますか?

どこに映っているのですか?

そして、あなたは、どこにいますか?

そのあなたは、どこに映っているのですか?

そして、すべてを内包する、夢の、熟睡している、真のあなたのハートは、その核は、どこにありますか?


そこに悲しみが、存在したことがあるでしょうか?


なぜ、そこに、存在がないのかと言えば、すべての中枢が分解されているからなのです。

つまり、思考、感情、動作、本能の各中枢部は連結をしなくなったのです。

それが、解放です。

開放というのは、この、自己コントロールからの開放なのです。


そして、これらは、豊田真大くんにとってだけ必要なものなのです、笑

つまり、ハートの奥にある、真我くんは、常に、不干渉で、問題が、常にないのです。

永遠にある、エネルギーなのです。

無個性な、エネルギーです。


このエネルギーの中に、自己が溶け去ること、これがニルヴァーナです。

それが、起こるまで、何度でも、何度でも、夢見ているのですwwwww

今回は、どのような体験が、できるだろうかとワクワクしながら、楽しんでいるのかもしれません。


で、このようなアイデアは、真実かどうかはどうでもいいのです(爆笑)

実効があるかどうかが重要なのです。

実際問題として、豊田真大くんの感情、情緒の問題が、解決されてしまうかどうかだけが重要なのです。

これらは、宗教にしろ、心理学にしろ、非二元にしろ、アイデアなのです。

実際に、必要なのは、そのエネルギーが、自己の掴んでいる苦しみを手放させることなのです。


それをするためには、何度も、絶望させるしかないでしょうwwww

なにしろ絶望して、初めて、人は、自分の、囚われに気が付くのであり、そして、それを乗り越えていくことができるからなのです。

だから、現実世界は、情け容赦なく、裏切りと喪失の物語なのです!

逃げても無駄です、笑

なぜなら、この裏切りと、喪失の物語を、招いているのは、正に、あなた自身の拘りだからなのです。

そこが、落ちるまで、永遠の時間と共に、夢見続けるのです。

人間は、この魂と、の合一を達成するまでは、永遠に、真の平安に辿り着けないのです。


心の奥底にある、絶望を見るには、表面的な世界のことから、離れて、自分一人でじっくりと内省しないと、無理でしょう。

だれが、何を言ったとか、あんなことがあった、こんなことがあった。

そういった想いを一度空っぽにして、真剣に、自分に問うてみたら、何が、帰ってくるのか。


まあ、もう、それは、分かりませんが、その人なりの反省や、真実が浮かび上がってくる。

それが座禅や瞑想の効果です。

一度、頭の中の、情報を空っぽにしてから、自分を見ないと、冷静でなく、ただの勘違い自己分析をする。

自己執着をする。

徹底的に自己を切るには、まず、痛みや、患いを外してしまわなければならない。

言葉遊びは、いらないのである。

この、こころの絶望が、叫びが、咆哮が、魂の爆発が必要なのだ。

そうして、真に、私が、落ちてしまったとき、世界は、しんとしている。

沈黙している。

ただ、沈黙して、そこにあるがままにあるのだ、笑


最初から、そうであったし、いつも、そうだったのだwwww

自分が苦しもうが、楽しもうが、世界は沈黙して、そこに、その自然の姿を現していた。

そして、その自然の力、創造の力の、源が、わたしだったのだ!!!!!!

これほどに感動して、涙することが、あるだろうか(僕は泣きませんでしたが、笑)

なんと、あなたが、あなたのイマジネーションが、この世界を、創造しているのだ。

在らしめているのだ!