1ヶ月近く更新してなかったんだね。
この間に様々なことがありました。
僕にとっては人生で、そーそーないようなことが、バタバタと起こった。
2月からずっと、そんな雰囲気で、いまでも、過去の出来事を連想させるようなこと、過去に出会った大切な人たちとの、奇妙な、偶然の一致があるのだが、それが、なぜか、僕でしか分からないような形で、関係性とか、状況とか、名前とか、顔とか、僕の心理状態とか、はたまた心理学とか、神秘主義とか、オープンな関係性とか、友達付き合いとか、僕の気の弱さだったり、人にうまく接することができない傾向とか、まあ、親には負担かけたり、っていう、他にも、ほんと様々に、ある。
ほんと、奇妙な感じがする。
前回の、心のそこで、の、記事を書くきっかけは、その、僕でしか分からない、繊細に隠された心の深いところに、触れるような人に出会ったからだが、それ以外にも、違った部分で、そのような心的問題が、現実で、しっかりと現れて、深いところに触れる瞬間が、なんどもある。
そこで、僕が必要としているのは、以前から、信頼とか、ゆるし、愛とかだと思って、そのように自分を高めないといけないと感じたわけだけれど、なにもうまくいってない。
このような、愛とか、優しさのようなことについて、書いていて、それは、まあ、ほんとに、大事なことだと、感じるのだが、それを僕が、自分で書いているようには、できない。
言葉では、たいそーなことを言うけれども、じゃあ、あなたはどうなの?
と、問われる。
まったくもって、そのとおり。
ほんとに不思議な人っているんだなあ。
人って僕が思っている以上に優れているのだと思うけれど、そのような、素晴らしい質が、どのように形成されたのだろう。
深みのある心。
表面には、現れてないのかもしれないけど、みんな、なにかしら、優しさをもっている。
僕が宗教で、勉強したりしていたことは、人との関係の問題とか、生きることに対する姿勢の問題なんかを、その枠を通していくことで、知的にら理解することだったのかもしれない。
感情の問題は非常に複雑で、すぐには、理解してくれない。
もちろん概念で救われることもある。
考え方、見方をもつことで、あーこれは、このようなことだったのか、と、知って、そのようにして頭は安心する。
でも、感情は、そーはいかない。
たとえ、理解していたとしても、感情的には、自尊心や虚栄心でいっぱいだったりする。
これは、嘘をついている状態だ。
そうなると、実際に優しい行いを見せることがあっても、そこに魂がこもっていないのだ。
心とは裏腹に、このようにすることが良いと、頭が、感情を抑えている。
感情は、頭の方針には反対である。
馬はエサがなくて暴れるww
ここの質の改善をしなくてはならないが、どうしたものか、手探り状態になっています。
まあ、ゆっくり考えるしかない。
いろんなことが崩壊してしまったけど、これは、この僕の問題が表面に出たからだろう。
自己を変えるというのは、非常に難しい。
ゆったそばから、もう、嘘が始まる。
人を疑うのか信じるのか。
どこの時点で、自分が有益に関係することができるのか。
まあ、ほんと、めいわくばっかりかける割には、言葉だけは、でかいよなー僕って。
宗教はいると、それでも、この大きな生命としての流れには、何の問題もない。
と、なって、個人の心理としては、救われるんだけど、人間は、ひとりで生きているわけじゃあないからなあ。
くしくも、このブログの副題は、僕たちはひとりではないだった、爆笑
どのように、自分を救うか。
この今の、現実に対する、ぼくの心理的防衛を作るのではなく、心理が、人に対して好影響をだせるようになり、行為も、それに従わなくてはならない。
とりあえず、座禅と読書を復活させよ。
またブログも書いていけるようにしよう。
短文になるかもだけどw
この間に様々なことがありました。
僕にとっては人生で、そーそーないようなことが、バタバタと起こった。
2月からずっと、そんな雰囲気で、いまでも、過去の出来事を連想させるようなこと、過去に出会った大切な人たちとの、奇妙な、偶然の一致があるのだが、それが、なぜか、僕でしか分からないような形で、関係性とか、状況とか、名前とか、顔とか、僕の心理状態とか、はたまた心理学とか、神秘主義とか、オープンな関係性とか、友達付き合いとか、僕の気の弱さだったり、人にうまく接することができない傾向とか、まあ、親には負担かけたり、っていう、他にも、ほんと様々に、ある。
ほんと、奇妙な感じがする。
前回の、心のそこで、の、記事を書くきっかけは、その、僕でしか分からない、繊細に隠された心の深いところに、触れるような人に出会ったからだが、それ以外にも、違った部分で、そのような心的問題が、現実で、しっかりと現れて、深いところに触れる瞬間が、なんどもある。
そこで、僕が必要としているのは、以前から、信頼とか、ゆるし、愛とかだと思って、そのように自分を高めないといけないと感じたわけだけれど、なにもうまくいってない。
このような、愛とか、優しさのようなことについて、書いていて、それは、まあ、ほんとに、大事なことだと、感じるのだが、それを僕が、自分で書いているようには、できない。
言葉では、たいそーなことを言うけれども、じゃあ、あなたはどうなの?
と、問われる。
まったくもって、そのとおり。
ほんとに不思議な人っているんだなあ。
人って僕が思っている以上に優れているのだと思うけれど、そのような、素晴らしい質が、どのように形成されたのだろう。
深みのある心。
表面には、現れてないのかもしれないけど、みんな、なにかしら、優しさをもっている。
僕が宗教で、勉強したりしていたことは、人との関係の問題とか、生きることに対する姿勢の問題なんかを、その枠を通していくことで、知的にら理解することだったのかもしれない。
感情の問題は非常に複雑で、すぐには、理解してくれない。
もちろん概念で救われることもある。
考え方、見方をもつことで、あーこれは、このようなことだったのか、と、知って、そのようにして頭は安心する。
でも、感情は、そーはいかない。
たとえ、理解していたとしても、感情的には、自尊心や虚栄心でいっぱいだったりする。
これは、嘘をついている状態だ。
そうなると、実際に優しい行いを見せることがあっても、そこに魂がこもっていないのだ。
心とは裏腹に、このようにすることが良いと、頭が、感情を抑えている。
感情は、頭の方針には反対である。
馬はエサがなくて暴れるww
ここの質の改善をしなくてはならないが、どうしたものか、手探り状態になっています。
まあ、ゆっくり考えるしかない。
いろんなことが崩壊してしまったけど、これは、この僕の問題が表面に出たからだろう。
自己を変えるというのは、非常に難しい。
ゆったそばから、もう、嘘が始まる。
人を疑うのか信じるのか。
どこの時点で、自分が有益に関係することができるのか。
まあ、ほんと、めいわくばっかりかける割には、言葉だけは、でかいよなー僕って。
宗教はいると、それでも、この大きな生命としての流れには、何の問題もない。
と、なって、個人の心理としては、救われるんだけど、人間は、ひとりで生きているわけじゃあないからなあ。
くしくも、このブログの副題は、僕たちはひとりではないだった、爆笑
どのように、自分を救うか。
この今の、現実に対する、ぼくの心理的防衛を作るのではなく、心理が、人に対して好影響をだせるようになり、行為も、それに従わなくてはならない。
とりあえず、座禅と読書を復活させよ。
またブログも書いていけるようにしよう。
短文になるかもだけどw
僕もすごく共感します!
応援してます!
読んでもらって共感してもらえる人がいるってことは、とても嬉しいです。
コメントをいただけて、そうやって、優しい言葉をもらえると、安心する。
また、きてくださいねー