豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

世界のスライド

2014-06-30 07:31:32 | 日記
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おはようございます!

天の王国からの光シャワーで心を洗い流す皆様。


今日から仕事でテンション上がらない豊田です、笑


眠りから目覚めると、あっという間に、世界の重力がやってきて、記憶を蘇らせます。

この重力、世界の記憶が、鏡の汚れですね。

鏡の汚れを見た、思考センター、連想センターが、感情に影響を及ぼします。

ああ、疲れたねと、笑


『聖なる予言』という本に、人間の幼少期の反応が大人になっても続いているという話がありました。

自己保存のシステムとして4つに別れていたと思います。

もう何だったか、忘れてしまいましたが、被害者意識とか尋問者意識とかあった。

この反応の元にあるのが鏡の汚れ、マハルシが、心の潜在的傾向と呼んだものではないでしょうか。


よく見てみると、これはメンタル体にあります。

肉体(物質界)、アストラル体(欲界)、メンタル体(無意識界)でしょうか?

まあ、これは無理矢理すぎるかな。

メンタル体が無意識界ではない気がするけれども、鏡は普段は無意識だから、そうかもしれない。


この鏡に気が付くと、ずっと気が付くことが出来ることが判明しました。

これは、頭の下から背骨の下にかけて、ある、意識の反映版のようなものでしょう。

ここに穢れが、あり、この穢れを見ることが潜在意識的に安心してしまう。

普段の思考や願望が、幸せでありたいと思っていても、潜在意識の側が常に、鏡に穢れを残すと見れない。


だから、この箇所を綺麗に洗い流して、また、平和と安心を垣間見たら、そちらに意図的に移動することである。


同じ世界でありながら、全く違う世界に住んでいるのが、人間ではないでしょうか。

ある人は常に幸せを見て暮らしているのに、他の人は常に不正を見て怒っているとか、様々です。

様々に心の反映があるということです。

これが、観念の大本ではないでしょうか。


だから、観念をすり替えるというのは、心の鏡が、何を反映するかを自ら選択するということです。

この観念は、普通は思考センターの領域にある、連想の中に、記憶の中にあると考えられていますが、本当は、この鏡にあったのです!

ここは、普段の意識は触れていない箇所です。

だから、いくら思考の中で、一生懸命、考え方を変えても無駄ですね。

本来の元である、鏡、つまりは心の傾向が変わらなくてはならないからです。

これは見る先を変えること。


だれもが傾向を持っていて、ある見方に固執しています。

これを光の側にスライドさせてしまうのであります。

まず感情と思考を見て、その根本の鏡を見て、これで、この不浄を発見したら、今は居心地の悪いかも知れない光の側にスライドさせる。

天の王国から第3の眼を打つ光の側に、鏡を向けて、浄化してしまおう。


こういったものは、真我実現においては、別に必要は無いと思いますが、しかし実際の生活においては役に立つ。

せっかく発見したものは、どんどん使っていこうじゃないか。


真我は、常に実現されているが、混乱しているのは現在自己意識、記憶の側である。




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たいしたことないさ!

2014-06-29 20:55:51 | 日記
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こんばんは!

愛の波動の中で生きている皆様。


嫁様に怒られている豊田です、苦笑。

「ハイは一回! 食べたら片付けて! 返事!!!!」

と今は怒鳴られています。

しかもタイミングよく警察のサイレンが「ウーウー」と鳴りだして走っていった(爆笑)


もう物を投げるのはいい加減にやめてほしいですが、まあ、短気なんでしょう。

僕も人のことは言えません。


さてさて、このところは真我の探求に重さを持ち込んでしまいました。

本来は無性の、空性の我と言われるように、まあ、軽い波動なわけです。

エゴの側からすると重く感じられてしまいますが、軽い、軽やかな状態であるでしょう。


悠聖(長男)を見ていますと、嫁様が暴走してもニコニコと笑ったり、気にしていない様子ですw

今も言葉にならない言葉を発しつつ、おもちゃを持って転がっている。


これですな!


この、何とも言えない寛ぎMAX感。

このような状態が日常の中で発揮できれば、無敵になるに違いありません。


リラックスできるときというのは、何も考えていないときですね。

空性の側とか、エゴとか、他にも様々な対象物を想定して活動している思考がない。

単に今、在るだけ。

そこに意味とか、重要性とか、昨日とか、明日とかが何もない。

こうしたらどうなる、ああしたらどうなるとか、これを纏めなくてはとか、これではいけないとかがない。


単に今、生きているだけで幸せである。

この生きているだけで幸せであるのは状態を指し示す言葉ではあるが、実際は、この言葉は考えられていない。

実質としての生きることと幸せであることがある。


しかし、いつもこのように行くとは限りませんね。

なぜなら、我というものは、自分だけではなく周囲にいる人たちもみんな持っているからです。

我は『オレは凄い』『私って素敵』と言いながら、行為と言葉によって主張をされてくるのです。

また、依頼という形で、人々の元気を貰おうとやってきます。


人間は空気を吸って吐いてしていますが、ここに気というものが身体に溜まるようです。

この気と言われているものはアストラル体のことでしょう。

このアストラル体の触れ合いが、感情の接触になっているのですが、これは言葉と行為の向こう側で無意識に起こっています。

ひとりが怒ると、もうひとりも怒る。

ひとりが笑うと、もうひとりも笑う。

親切にすると、要求されるとか、もう、様々な感情的反応が、ここで起こっています。


最近観察したとおり、これは、身体の疲れと、思うようにならないことから『怒り』が降ってくる。

この状態に置かれると人は『怒り』の支配下に置かれて、どうしようもなくなります。


ここで必要とされているのは、メンタル体、つまり思考、精神の側が、理性の側が、無視することなのです。

怒りのパワーは個人差を無視して、ある領域を支配します。

これは重々しい空気として、つまり、気、として、関わる人、全体に影響を及ぼしている。

この気を吸い込んだ人は、なんだか知らないけど、急にムカムカとしてしまう。

いつもなら、怒らないところで、怒りゲージがMAXになって、プンプンとやってしまいます。


この時、実はメンタル体、つまり背骨の位置から頭の下の位置にある『鏡』は、このアストラル領域の反応に、自らの意志を奪われているのであります。

ビックリ仰天おったまげる!

なんとですよ、自分が怒っていると心底思っている人は、実は、怒らされていることに気が付いていないのです(爆笑)


これは僕自身が、まだ、未熟なので確信を持って言えないところが残念ですが、この発見は大きいですよ!

僕が知っている間では、このような記述がされている本は見たことがありません、笑


肉体、アストラル体、メンタル体、真我があるわけですが、このメンタル体が人間の主要な生の領域でしょう。

これは、思考体とか想念体とか言えるでしょうか。

この頭の後ろにある鏡のような意識は、個我の、根本的な迷いの大本であり、これは、よく超自我と表現されています。

しかも、超越的意識だとか、なにやら、素晴らしいもののように書かれているときもあります。

この超越的意識は、個の角度から世界を見ている、この映像を放っている、場所ですね。

だから、この場所に、怒りやら、欲望、迷いが反映されて、蜘蛛の巣のように自己を絡めて取っている。


どうしても、ここを外すのは難しいのです。

難しい!!!!


しかし、気を散らすと言いますか、無意味なことをすると意外に効果があるようです。

なんでもない、関係のないことに没頭してみるとか、考えるのを止めてみるとかすると効果があった。

敏感に反応しているメンタル体を見ないようにして、注意を逸らしてみるということです。


想定されない領域にある『真我』を『個我』が想定して、想起しようとしていると失敗します。

想定された真我は偽物だからです。

本来の自己である真我は、いつ、いかなる時も、自らである。

それが本来の姿を現すのは、意図的活動ではなく、活動の休止によって生まれるのです。


悟るための修業はなく、元々、悟った人が修業している。


これは努力の全くない休止ですので、この、真我があるときは、現在自己意識は滅している。

しかし記憶はされていくわけです。

滅しているという言葉が極端なので、止まっていると言う方が近いでしょう。


止まっている意識の側に自らが入っていくには、目の前の問題を飲み込んでしまわなければならない。

たいしたことないさ、とね(爆笑)


この、たいしたことないさ、は、エゴの怒りを買うので表現しない方がいいですが、心の中で『たいしたことないさ』

それで、どうしたの? っていう感じで、自他の怒りを超えるわけです。

真我のポイントに来たら、もう、この、怒りエネルギーは問題にならなくなってしまう。


ただあるがままに在る、この本来の自己は、眠り、夢見、目覚めに共通しているのだ。

意識の分断、居場所が幽界や、無意識界に及んでも、この真我は、常に、その根底として存在している。

現在自己意識だけが、混乱して、すべてを見ることが出来ないでいる。


ただ落ちて、このハートの覚醒、魂の覚醒の次元にいることである。

何も変わらないままに。




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あなたの我

2014-06-28 21:47:49 | 日記
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こんばんは!

煩悩の支配を超克して、あるがままに生きる皆様。


迷い、怒り、欲望の支配を受けている、豊田です。


今日は史上最大の夫婦喧嘩中の妻が家へやってきました。

しかし僕の『自己愛氏』は暴走中でありまして、また、どうしても煩悩喧嘩になります。

お金の問題、家事、育児の問題、等々、様々にあるわけですが、難しいですね。

まあ、人間として最低ランクの豊田君は、もう少し、やられる必要があると皆様、おっしゃられる。


しかし、まあ、こういう風になると、自己保存本能から、自己主張を始めるのが僕なのですね。

ああ、情けない。


どのような心境の人が、何もかもを受容するなどという素晴らしい状態になるのか。


今日も玄関脇で煙草を吹かしながら、この、怒り煩悩と戦っておりました。

すると背中、頭の下くらいから背骨の下までの間に精神の反響版があるのではないかと感じます。

チャクラの話でも少し触れましたが、胸から血液の流れに従ってアストラル体が身体と同じに広がっていて、メンタル体が背骨の位置にあるのではないだろうか。

そして、この、メンタル体というものが、自己に向けられた行為に対して、反応している。

この頭の後ろから背骨にかけて、反応している部分への注意力が、全体性、真我、の無、空性に移動すると、反応が止みます。


しかし、この怒り煩悩は、すぐに復活しおる。

自分を守らなくてはならないという『プライド』のようなものが、あって、これが、起こるところに意識を向けると、もう巻き込まれている。


対象を捨て去るという意識状態に持っていかないと、私に向けられた意識が、私のメンタル体に作用する。


うーん、難しいです。


迷い、怒り、欲望は、自己内部で猛威を振るっているから、この内部が、真我の内に入り込まないといけない。

真我は常に目覚めて、夢を夢と認識していると、恐らく、無反応になるだろう。


これは、相手の『我』を否定することになる。

誰も彼もが『我』を持っていて、勿論僕の我もいますが、相手の我と僕の我の両方を超越している必要があるのではないか。


ここに僕がいてあなたがいるから喧嘩になる。

僕もあなたも存在していないとなれば、喧嘩にはならないだろう。

では、僕とあなたは、存在していないのにある、この、眠りの中の本来の自己が常に起動している必要がある。


我とは『オレは凄い』とか『私って豊か』とかでしょう。

これをみんなが、様々な方法で主張しているわけですが、これに自分の我を合わせてしまうと喧嘩勃発。


相手の我が見えた瞬間に「ああ、我、我」と呟いて、自分の我が反応しても無視するw

無視するには、このメンタル体、頭の後ろの鏡が、落っこちてしまうことになるのだろう。

意識から落っこちている。


それで現れの世界が浮き上がって、夢のようになり、我も人も夢の中になれば、もはや怒りはない。

幻影に対して怒る人もいないだろう。

まあテレビに向かって怒っている人も、いるか(爆笑)



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サーリープッタさん

2014-06-27 16:56:53 | 日記
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こんにちは。

無我の境地へと驀進する、皆様。


エゴの大騒ぎに執着している豊田です、笑


先ほど、スマナサーラさんという方の『怒らないこと』を読んでいましたら、凄い逸話が紹介されていました。

サーリープッタさんという釈尊の右腕であられた方がいたそうです。

この方が、謙虚で怒らないことで有名だったらしいですが、人間なんだから、我があるだろうと確かめた人がいる。

しかも確かめた方法は、後ろから、いきなり殴ったらしいw

酷いなあ。

そしたらサーリープッタさん、振り向きもせずに、そのまま歩いている。

え!?

マジで?

「あー、痛っ!」とか「なにさらしとんじゃあぼけえ」とか反応がないとは!?

本気で気が付いてないので、おかしいなと思って、後を付けていっても全く振り返らない。

そこで、怖くなった、この人は謝ったらしいです。

ごめんと言ったら「え? 何かあったんですか」と聞かれたらしい(爆笑)

これは、マジな話でしょうか。

それで、いや、さっき、あんた殴ったけどごめんと言ったら、

「全然気にしていないのでいいですよ。赦して差し上げます」と言ったというのですよ。

この時点で、この殴った人は、感極まって、仏教徒になったらしい。


スマナサーラさんの解説では、阿羅漢の境地に達した人は、無意識にも我が無いらしい。

だから、何が起こっても「あ、ここに痛みがある」で終わって、我が起動しないw

もはや確実に人間を超越していること間違いなし!


まあ死を超越しているくらいだから、感覚も完全に放棄されているんだろうな。


でも、この話を聞いたら、完全に方向性が分かりますよね。

想念と感覚が、完全に我でなくなってしまうということが解脱なんでしょう。

つまり肉体から抜け出ているということだ。

ブッダさんの例え話でも、蛇が脱皮するように、この世もかの世も捨て去るとか書かれているし、そういうことなんでしょう。

まあ、もしかしたら幽体すらないのかもしれません。

だから幽体離脱ですらなく、幽体、肉体共に、我でなく、一切無我。

こんなことが、本気で可能だったとは、マジで信じられませんが、そんな人がいたようです。

もはや人ではないとも言えますが……。


眠っているときですら、我は保持されていて、反応するというのに、殴られても反応しないとは不思議すぎる。


そういえば、ラマナマハルシも盗賊か誰かに殴られても無反応だったらしい。

あと、瞑想中に子供が悪戯で、頭から何かかけたときも不動であったらしいし、同じ事のような気がする。


これは……普通に、無理でしょう、笑


しかし、方向性としては、無の側に脱皮してしまうことで間違いないですね。

もしも完全に、この現れとの分断が無くなっていたら、感覚は単に対象でしかなくなっているはずだ。

全く、拘りが無くなっているということだろうね。


昔、武田信玄に肉体を燃やされた僧が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言ったそうですが、本当にそうだったのかもしれません……。


何という凄まじさでしょうか……。

とても、ここまでの境地には達することはできないですが、まあ、出来るだけ無心に帰って、真我の目覚めを促していきたいと思います。

南無!




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越えて、越えて!

2014-06-26 17:51:01 | 日記
こんにちは!

明るい太陽のように光と闇を照らす、皆様。

肉体、感情機能の訴えに思考が、記憶をロードして、連想作用から、妄想しつつ、あれ、これ、やっているのを見てしまう豊田であります、笑

愛の光は不浄を洗い流し、空の理解は魂の覚醒を促す。

僕は思ったのですが、現れの自分を成り立たせている肉体、感情機能に対しての距離が大事なのではないでしょうか。

肉体、感情機能が、相互に影響しあって、言葉と行為が生まれている。

苦楽が、これに、付随してくるのは生きている限り、当然ですが、この、苦に対しての関わり方の問題。

真我の至福を記憶した自我は、個人的肉体、感情機能の苦に対する療法として、これを利用しようとし始める。

真我の至福は、ただいることでしか溢れないので、自我の連想作用が、あれこれ騒々しいと、迷い、リンクから外れてしまう。

現在自己意識が、心に作用しようと執着をつくると、こうなる。

苦があると、やはり、騒々しく沈黙を破るので、このときに、感情にではなく、魂と存在の側に、離れてしまうことだ。

無常が自我を飲み込む時点で目覚めた真我が、完全に超越状態を維持しなくてはならない。

目覚めた真我は現れを現れとして見る。

この時点で手段を捨てて、真我が無常を逆に飲み込み出すのを見る。

心の至福は、心を意識せずに、また存在を意識せずに、ただ真我の覚醒の副産物のようにある。

至福を目的にしないで、いることを目的にしないで、目覚めた状態を維持しなくてはならない。

あるがままに明け渡して、自己活動に執着しないことである。

鮮明な体験に執着するから体験がなくなる。

鳥が自分になって鳴いているが、その、心地よい瞬間に注意力を固定化させると感情が喜び、真我は眠っている。

凄まじいスピードで、このように起こっている。

例え、圧倒的な存在感が私に至福を見せても、ここに目覚めた状態でいる。

これらを常に飲み込む。

印象の向こう側、が、常に全体を浮かび上がらせるように、意識のチューニングを魂の次元に上げきってしまうことだろう。

このとき現在自己意識は開かれた窓のようになり、その動きを失う。