豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

腹の底から笑いたいねww

2015-08-22 08:10:25 | 日記
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『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

本日、8月22日(土)は菅野美穂の誕生日ですね。

そして北川景子の誕生日でもあるらしいです。

ついでに嫁様も同じ日に生まれたとか、生まれてないとか、笑

うーん、美女軍団だなあ。

ちなみに、僕は鈴木紗理奈と同じ日に生まれてます。

まあ、同じ日に生まれたからと言って、運命が同じようになるわけではないですね。



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占星術さん、さよーなーらー。


っと、いうわけで、もはや、読まれていないであろうブログですが、一応、嫁様にも、おめでとうと書いておきます。

おめでとうございます!

32歳、笑


今日は多気の方で夏祭りがあるらしく、行ってくるかもしれません。


あ、そうだ。

いきなり会話が変わりますがね。

僕はですね。

このブログに来る読者のことや、覚醒なんかについて、書いているブロガーの方なんかを、ちょいと勘違いしていたような気がしてきました。

つまりですね。

グルジェフさん、なんて、名前を出しても、誰も知らないだろうとか、止観法なんて、とか、自己想起なんて、とか、注意力なんてとか、客観視点、鑑賞者なんて、とか、まあ、つまり、この手の話題というのは超マイナーで、誰にも相手にされないと思っていたのです。

ところが、どっこい。

昨夜から『笑えるスピリチュアル』の過去記事を読んでいたらですね……。

なんとピンと来ている人ばかりではないですか!!

よく考えたら、僕が、色々と情報を仕入れてパクっている人々の書籍や、ブログ、なんかも何万人もの人に受け入れられているわけです。


つまりマイナーで相手にされないことだと思っていたのは、僕だけで、今や、この手の情報は、大流行らしいのです!!

びっくりですよね?

僕の周りで、この手の話をする人がいないのは、たぶん、まあ、こういう話をすることに抵抗があるので、しないだけで、本当は、色々と知っているのです。

たぶんね。


この間も、居酒屋で、アホなことをホザイテ、怒られてしまいましたがですねえ。

しかし、このような話題は、みんな、すごくしっかりとしたものを持っているのです。

なんということでしょう。

驚き、桃の木、サンショウウオの木というやつです。


うーん……。


まあ、驚いたのは、それだけです、笑


なにしろ『私はいない』というのは超メジャーな情報だったのです。

だから、今更、私はいない、無我だどうのとハシャイデモ出遅れなのです、笑

まあ超有名人も現れましたので尚更ですね。


そこで、これからは、この『私はいない』以上のことを書かねばなりません、笑

なぜなら、それでこそ、このヘンコツブログの意味があるだろうからです。


私はいないというのは=最初からあるということなのです。

最初からあるというのは、生きる前に、生きているということです。

そして、その生命の働きが、この世界で自動演奏しているのです。

だから、全部が起きているとなります。

しかしながら、この、思考としての現象、現れは、そうは思いません。

いわゆる、内面の自己というやつです。

内面の『自己』というやつは、まあ、いうたら、いろいろな思考と感情です。

そして思考というのは比較で、感情というのは、フィーリング、からくる、喜怒哀楽です。

そして、この感情というやつが、思考と仲良くできないのです。



いいですか?

私はいなくても、思考と、感情は、湧いてくるのです。

そして、身体も、触れたり、味わったり、嗅いだり、見たり、聞いたり、意識したりしているのです。

だから『私がいない』くてもいても、どっちでも一緒なのです(爆笑)

そして、この○鏡の世界で、私が消失していようが、存在していようが、それは、まあ、関係ないのです。

いようがいまいが、身体も、感情も、思考も機能しているのです。

機能していないという人がおられますでしょうか?

絶対に、この世には、いないでしょう。

なぜなら、これらの機能の一つでも止まれば、生存していないだろうからです。


で、この内面の自己というやつは、思考と感情なのです。

そして、これは過去と未来であり、また、快楽と不快なのです。

その思考が感情の声を聴くことがないというのが、苦しみの原因なのです。

いいですか?

心が「いたい、いたい、いたいよー」と言っている時に無視るのです、思考君がwwww

そして、また思考君が「右へ行きたまえ」という時に、怒るのです感情君がwwww

そして、その崩壊した連携の中で、不信感というものが生まれるのです。

この不信感というやつは、俺は愛されていないというものです。

そして、その原因をいろいろとコサエマス。

しかし、その原因は、本当はないのです。

なぜなら、その、人は、愛されているからなのです。

しかし、それは、思考が感情のお世話をしたときに限ります。

つまり、自分の気持ちに蓋をしているのを開けるだけなのです。


こっぱずかしい感じで、開けるわけですね。

おお、いたのか、おぬし、おぬしがわしじゃなあとね、笑

そして、その時から『私は存在している』のです。

ホッホッホ。

私はいないに対して、私は存在するというのも本当のことなのです。

そして、真の私と呼べるものがないという釈迦の教えは、つまりは、ひとつの感性を語っているのです。

その感性が捉えたものは、存在しているとも言えるのです。

それは頭では理解できないと言うだけのことで、つまり、何も言えないし、定義できないということだけなのです。

たぶん……ね。


で、コンガラガッテきましたが、もう少し続けると、この感情君が笑えばいいのですwwwww

なんと単純なのでしょう。

この、心の、つまり、内面に自然に湧き上がっている、感情君が、笑えば、本気で笑えれば、幸せなのです。

そして、その瞬間に、苦しみがないのですwwwww

たった、それだけのことなのです。


それには、光を入れる必要があります。

つまり、思考が湧き上がっている、感情が湧き上がっていることを見るのです。

この見るという行為が、光です。

そして、そこで苦があれば、滅してしまえばいいのです。

いろいろな理由が思い浮かび、また、身体の、苦痛が感情を刺激したりします。

そして、過去の傷とかも、苦痛を湧き起こします。

恐怖なんかもありますね。

恐怖というのは、信頼の欠如です。


で、これらを見たら、離れます。

どんどん見ます。

強烈に見ます。

まるで、目の前の対象物を見ている時のように、自分の内面を見るのです。

いや、まあ、目の前の世界が自分の内面を見ているでもいいかもしれません。

とにかく、見るのです。


さあ、ここで、マル秘テクニックをご紹介しましょう。

これは、僕しか書いてないんじゃないでしょうか?

見えたら、そこで、息を全身に広がるように、広げていきます。

丹田にストーンと入った息が、身体全身に、巡ると共に、体中が精気に満ちていくのを感じるのです。

血の巡りと共に、酸素が、体中に巡っています、

もちろん、私の体ではないのかもしれませんが、この際、そんな哲学的なことなど、どうでもいいのです、笑

身体の感覚に視点を移すのです。

今まで、全部、見えていたものは、内面の感情、思考は、今や、遠くなりにけりです。

想いが湧いても、不快感が湧いても、強烈に無視wwww

そして、身体の底から、気持ちいい呼吸、空気を巡らせていくのです。

まるで頭の頂点から、快楽の液体が、降り注ぐかのように、全身に多幸感が広がるまでやってください。

そして、その呼吸のめぐりが、身体の感覚を通して、感情の、幸せにまで響かせてください。



なんか文章が、むちゃくちゃな感じがしますが、まあ、それくらいがちょうどいいでしょうw

なにしろ秘儀なのですからwwww

というか、秘儀、秘儀、と書きすぎて、どれが、本当の秘儀なのか分かりませんが、笑


そうして、全身を無理やり笑わせたら、もう、そのままリラックスであります。

想いが湧いてくる、感情が湧いてくる。

ハイ!

身体の感覚に、呼吸を通して、究極の快楽物質が流れてくる。

頭頂から、まるで、液体が流れるように。

そして、それは、丹田から広がる呼吸と共に、全身に広がっていく。

リアルな感覚を感じられるはずです。

ちゃんとやればですけどね、笑

呼吸を意識するヒントはですね。

鼻の感覚を強烈に意識して、それから肺、胃、丹田と流れるように落とすのです。

これが7の法則、オクターブ第2ですねwwww


この第2オクターブのショックは非常に、秘儀です(爆笑)


でも、僕のように、嫁様に、怒られるだけのダメ人間の情報ですので、たかが知れています(ごめん)

基本は、見る、感じるなのです。

そこに私はいないが、それでも、世界も私も、見て、感じるわけです。

そして自動機械である私を見たら、その、自動性を遮断するのです。

その時に、私のエネルギーが、この全体性の中にめぐり、感情が開くことで、全体との信頼関係が生まれるのです。

腹の底から笑うのは、無理やり、先にやってしまうのです。

つまり自動性の独走を遮断して、自己の意志を、そこに投入するのです。

究極技法無駄努力ww

2015-08-09 14:56:02 | 日記
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こんにちわんこそば。

7月に入ってからも、大暴走機関車のごとく、遊び呆けてしまったウツケモノ、豊田です。

まあ先月、と今月の冒頭は、延々と劇鬱でしたね。

で、まあ、なんともなりませんな、このダメ人間は、と自覚が始まりました、笑

そりゃあ、まあ、嫁様が怒るのも無理はないですなあ。

で、思ったのですが、悟りっていうのは、まあ、精神的な解決にはなりますが、別に、人間性が向上するわけではないです。

まあ、あるがままの、実際に気が付くだけのことですので、まあ、逃げ場がないと知ることなのですね。



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だから、この、ことと生活のことは、全く繋がっていないのではないでしょうか?

よくわかりませんが、笑

とにかく、様々なお勉強をして、座禅や、瞑想体験を深めたとして、それが、人間としての資質に影響するということは、あまりないような気がします。

で、実際の、仕事や人間関係での付き合いの中で学ばせてもらう事の方が、100万倍役に立つわけですね。


でも、そのような考えの世界のない場所で、自己が解放されていると、もう、それは、それで、そこにしかないのであって、苦しかろうが、楽しかろうが、そこが、そこなのです(意味不明、笑)

だから一切行苦という言葉には、深い意味があるのだと思います。

苦というのは、生老病死の四苦が代表的ですが、その他にも、いろいろとあるようです。

分かれる悲しみとかもそれですね。

で、そのような苦しみが、実は、逃げ場がなく、その苦の集積が、滅するのは、苦の中に居座っている状態というか、もう突き抜けている状態なのです。

つまり、これが超努力(僕はこれを無駄努力と読んでいます、笑)


人間が余裕がある場合は、ゆったりと様々なことを考えていたりして、眠りの中にいますが、この眠りというのは、単に想像世界のことです。

これに対して、現在が抜き差しならぬ状況を生み出した場合は、そんな悠長に、想像世界に埋没することは許されずに、現在の問題点に意識が集中します。

手元の仕事が、何をしなければいけないのか、なぜしているのか。

そこに切迫感が発生して、瞬時に、判断していかなければいけないのです。

それで、身体を適切に動かしながら、判断して、また次のことへとやっている。

すると、感情は知らずして開放的になっており、世界の印象は瑞々しさを取り戻します。

つまり瞑想している時のような状態に突入するのです!


このことから思うに、現在の手の付けようもない状況は、一切行苦を思い知らせるために、神の仕組んだドラマではないのかということですwwww



その苦しみの中で、自覚をもって、何かをすることで、考えの世界から、現状の世界へ意識点が移行するのです。


前から思っていたのですが、例えば「いま・ここ」という有名な言葉がありますが、それを「いまここ、いまここ」と頭の中でコントロールしてやっているのは、いまここにはいないのです。

実際は、全員が、いまここから外れたことはないのですが、もちろん、思いも含めて、すべてが完全に、ここでしか起こっていないことではありますが、それでも、想像世界と現実とリンクした世界の差はあります。

そして、この現実世界に接点を移すのに最高の方法は、感受する印象を強烈にすることなのです。

この印象を強烈にするためにできることが、自覚、つまり、グルジェフさんが自己想起、セルフリメンバリングと名付けたことなのです。

しかし、晩年のグルジェフさんは、セルフリメンバリングという言葉が、思考による「いまここ」になってしまい精神疾患的な傾向を弟子が見せるようになったので、言葉を変えたそうですね。

この辺りは確かめたわけではなくうわさで聞いたにすぎませんが、これは、自分に帰るという言葉になっていったのだろうと思います。


この自己が現実に触れていて、その自己の客体化された、身体、感情、思考を洞察していくと、これらすべてが一体として世界と縁起していると気が付きます。

つまり個人というものは、思いの中にしかなく、実際には世界というものが縁によって起こっている。

個人←→世界ではなく。

世界と言う○鏡の中に、私がいるのです。

そして、実際には世界には私しか存在せず、世界は、私なのです。

その、鏡の世界は、実は、連続した法則のように連なっており、出来事は、すべて、そこにあるわけです。

だから自由意志の欠如を指摘したお話も、この視点に立てば、事実となります。


ですから、悟りを目指すのであれば、ただ、この瞬間において、自己と対象(外界)とを分けずに同時に、強烈に感受しなくてはいけません。


ところが、ここの【頭】くんが介入してくると非常にやっかいなのです。

頭は、常に分析して、結果を求めているのですが、その頭君自体が、客体化されなければならないわけです。

そのためには中心点が必要です。

つまり、この意識を反映している核に、焦点が合わないと、頭を客体化できないのです。

そして、それがハートなのです。


そのハートに繋がるには、まず、感覚に繋がる必要性があります。

五感が捉える情報が、より鋭敏になって、初めて、ハートが開放されていくのですが、そのためには、普段の自分が追い込まれて、崩壊しなくてはいけなくなります。

つまり、どーでもいいわい、笑

と、なってしまわなくてはならないのです。

というか、もう、どーでもいいわい、すら出てこなくなる必要があるのですね。

だからこそ、無駄努力、つまり自己を追い込むトラブルこそが、人間を解放させる餌となっているのです。


一切行苦であるからこそ、その苦の上に、自らが、消滅、し、世界が、そのリアルな姿を見せるのであります。

そうして、自らを完全に、手放したときに、一時的な、解放と、世界と自己の同一性、また、自己しかいないこと、夢の世界で、夢を見ていること、輪廻とは、個人がしているわけではないことなどなどが瞬時にしてわかります。



しかしですよ。

ここからが肝心要なのですが、だからと言って人生が終わるわけではありません(当たり前ですが)

つまり、個人としての私は、相変わらずの、ダメ人間であるわけですねwwwww

ですから、このような究極的な理解は、実際の生活においては、全く効力を発揮しないのです。

この理解が効力を発揮しているのは、自己がぶっ飛んでいる時だけで、しかも、その自己がぶっ飛んでいる時は、思いが無効化されているので、なんというか、普通の理性が働いていないような、自己意識がないような状態になってしまうのです。

だから、普通に会話したり、仕事したり、生活していくには、その状態でいることなんてできません、笑

で、実際には、その思いがあったり、苦しんだり、生活したり、生老病苦の中にいる自己が、ぜんぜん悪いものでもないし、悟りなんて、実際は、みんなが、そこにいることを思い出すだけで、誰もが達成していることだと分かるので、今度は、そんな特別な意識でいたいという思いがなくなるのです。


すると目標がなくなってしまいます(爆笑)

それで、自堕落なダメ人間、ダメマは余計に自堕落になるということが起こるのです。


なので、人生において求められていることに適切に対応するには、競争社会であるという認識は、捨ててはいけないのであります。

例えば、このようなメッセージが世界で共有されて、とか、そういうのは、全部、もう、すでに成っていることを再確認するだけのことなので、それが、理想郷を地球に実現するとか、そういうことは起こらないのです。


そして、様々な人が、このようなメッセージを伝えていますが、実は、その人たちも、教えている側も、教えられている側も、どちらもが、もう、その理想郷にしかいないのですね。

で、これを【知りたい病】が妨げているだけなのです。


つまり【頭】が現実から離れて【私】を見ているというのが、この人類の集団的眠りの解答なのです!


そこに対処するためには、コントロールを外すということが有効なので、様々な、メソッドを使って、悟りなんかを目指したりすると逆効果なのです(爆笑)

自己ではコントロール不能なものが突入してこなくてはいけないのだと思います。

そこで、初めて、人は、現実の中に、目覚めて、周りを見回して、ああ、最初から、ただ、これだけ、ただ、自己もなく、夢のようなこの世界が、縁によって、鏡の世界が、あるだけで、それは意識がもたらしており、その意識は、名づけようもない光によって生まれ、その光も、なにもかもが、ただハートで眠っている、真の私の、見ている夢なのかもしれないと気が付くのです。

あくまで、かもしれないですよ?

つまり【頭】はどこまで行っても、これを、理解しないのです。

だから理解しようとするのではなくて、そこにいることが、もう達成なのですね。

そして、実は、もう達成していることを、確認する作業が、この悟りと言うやつなのです。


だから、よーく、自分を感じる事、つまり自己の感覚と世界との接点を見失わずに、いることなのですが、それが、頭がコントロールするのではなく、超、努力、つまり、無駄努力の中で発生することが肝心なのです。

たぶんね!