豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

最初からある、最後まである

2015-02-28 07:26:36 | 読者に人気の記事
おはようございます。

本日もブログ更新できそうであります。

今週は月曜日から6時に起きて23時に就寝する。

起きて直ぐに洗面して座禅を15分間する。

そのあとで読書をコーヒーと煙草を楽しみながら1つの章。

ブログの更新をしてトイレを済ませ、着替えをして出社。

という風に、以前の計画生活風に過ごしました。

中々、効果抜群であります。

このところ、非常に、調子が悪かったので、やはり、多少は「健全」なる生活を取り戻さなければ疲れると思ったのです。

そこで「健全か?」と度々、考えるようにしました(笑い)

良心の声が、機能しやすくなるのではないでしょうかwwwww

これでいいのかではなく「それは健全か?」と聞いているのです(爆笑)


さて、悟りと修行についてですが「衆生本来仏なり、仏なりといえども、修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」という風な言葉があったと思います。

道元さんだったか、白隠さんだったか、いまいち記憶に無いですが・・・・・・。

これは頭で本来仏であると分かっても、実際に、仏の世界に身を投じていかなければ、実際に明確なる理解が生まれないということですね。

しかし理解が生まれないからといって、本来、仏である衆生が、そうでなくなっているわけではないのであります。

本来は! 仏なのでありますね。

これも実際には「自分に帰る」ことの必要性を説いている言葉なのです。

事実、目の前に在る、このリアルに触れていく。

そこが悟りの場であり、また修行の場であり、これは、同じことなのです。


超越的なお話しがあったりしますが、それも、もちろんあったりするのですが、仏教で言っているのは徹底的に「自分自身」に帰ることなのであります。

この自分自身を分析しだせば、たくさんの事柄が出てくるわけですが、そうではなくで、自己に帰るというのは「いまここ」にいることなのです。

「思い」が自然に沸いてきますが、それを追いかけずに、目の前の現実での必要性に対応していくのであります。

まあ簡単に言ってしまえば「精神集中」しているということになります。

で、こういった色々な方法があるわけですが、これは、本当は「方法」なんかではありません!

もう既に、そこで、そのままに現前している「私自身の生」を、そのままに受け入れているということなので、達成されているものを確認しているだけなのです。


僕が、ある老師に質問をさせていただいた時に、これらの問題について、問うたわけですが、つまり「縁起というものは、目の前に、こういった自然があり、また鳥の声がしているわけですが、それが認識されないと忘れている、そこに意識的になったり、また自己意識を高めたりしながら、気づきを増やしたり成長したり、することなのか」と、いう風なことを、まあ短い言葉でだったと思いますが、聞いたのです。

「最初っから、あるじゃん」と微笑みながら言われたのです。

その時に気がついたのですが「何もしなければ」最初っから縁起しているではないですか。

この最初っからある場所に、最期までいるのです!!!!

一定の境地を目指すものではない

2015-02-27 07:12:54 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



おはようございます。

本日も座禅をちょっとだけしてブログの更新です。

人間、本能的なことに妨げられると、怒りがこみ上げてきますが、それも、相手と自分の関係であって、その縁起も、自分自身のことなのである。

そうして、その、ただ起こって来ている、今、また自己が迷い、何やら、あがいている、その時、その時、が、もう、悟りの瞬間なのだ。

それは「思い」が渦巻いている己は、いつも、ただ、この現実にしかいないからである。

昨日はどこにもない、未来もどこにも無い。

他者はどこにもいない、自分もどこにもいないのである。



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ただ、毎瞬、毎瞬、一切の環境が自己なのであるが、この一切の環境というものは、普段の認識における自己だけではないという意味である。

昨日の記事に書いた、時間と他者の、問題だ。

これは、ただいまの現在における、自己を中心とした横軸の展開だが、これ、が、実際問題として、機能しているのは、思いにおける分離、分別の中なのである。


事実は、他者と自己、昨日と明日は、一切すべて、現在において繋がっている。

現実は意識しようが、しまいが、諸行無常に動いており、いくら分別してみても、対象と自己は一体であることから離れないのである。


そうしてみると、なにやら企みが、生まれてきても、そのまま、放っておく。

ああしないと、こうしないと、と計算が働いても、そのまま、目の前にいる。

心の中で悩みが、沸き起こってきても、目の前の現実に戻る。

怒りに我を忘れても、そのままに、流していく。

悩まない、悩まない、計算しない、競争しない、何もしない。

ただ、何もしないことが、そのまま、あるがままを生きていることなのである。


これに対して、悟りとか人格の向上とか、世間的成功だとか、評価だとか、まあ社会の中のあらゆる動機は反していく。

自己を改造しようという働きは失敗する。

なぜなら最終的には、私はいないからである。

それらは自然の働きの中で、一体となって在るのであるから、自己だけというものは、どこにも存在しない。

一方が良くなれば、一方が悪くなり。

怒らなくなれば、喜びもなくなり。

なにごとか手をつければ、必ず、分別が生まれてしまうのである。


こうしなければならない。

怒ってはならない、雑念が沸いてはいけない等々。

そのような計らいが、働いている時に、真に極楽なはずが、ないのである。

涅槃とは静粛のことだ。

しかし、それは目指された、企まれたものではなく。

ただ、いま、この目の前の事実に、いる、だけのことなのである。


善くても悪くても、成功しても失敗しても、怒っても喜んでも、それをただ、流していくのだが、これも、実際には流れているのである。

ただ、何もしなければいいのだ。

しかし、何もしないというのは、もちろん精神的なお話しで、実際の生活は、何もしないという精神の中で、ただ仕事するとか、ただ料理するとか、人それぞれに、何でも出来るのである。

苦の滅尽と、たいそうな言葉ではあるが、要するに忘れてしまうことなのである。

目の前の事実しか覚えていないのが覚醒、目覚め、悟りなのであるwwwww

時間と他者

2015-02-26 07:28:50 | 日記
おはようございます!

本日も出勤まで時間が有りませんが、更新です。


天上天下唯我独尊という言葉があり、これは、自我の強い人の言葉だと考えられておりますが、実際は、時間と他者というものは、この世界の現れ、無常であって、それは自己の内面に映っているのみであるということなのであります。

現在、目の前の事実を生きるに従って、問題となってくるのが、この時間と他者の問題なのであります。

たとえば宇宙的自己、つまりは身体と世界との同一性に眼が覚めて、そこに帰るにしても、度々、脳内から疑問が、つまり迷いが、巻き起こってきて、この目の前にある自由意志をもった他者が、同一的自己であるとは到底思えないと批判してくるのである。

また、明日も有るし昨日も有るではないかと、時間に関しても同じく疑問が沸きあがって、それに関して、延々と悩み続ける始末である。

なぜ、このようになってくるかというと「思い」が綺麗に流れていかないからだ。

つまりは、禅定瞑想をしているといっても、実際には、思いを掴んで離さないでいるから、事実、眼前に映り来る他者が、また、時間が、全く、個人的な形成物であるということに気がつかないでいる。

この我々が認知できるものは、必ず、自己があっての対象であり、対象があっての自己であり、と縁起しているのです。

この縁起の中に、人生があるのですから、他者は、自己から見た他者でしかなく、また時間も自己から見た時間でしかないのです。

それは現在に現れた、事実に対して、思いが反映される形で、認知されている。

その他者、時間、世界という対象と、自己という個人性は実は、同じものであるという理解が生まれた時に「天上天下唯我独尊」なのである。

つまり、この言葉は悟りの内容を指しているのであって、「我という思い」を完全に手放ししているということなのであります。

このような、実際の日常を生きていく上での障害は、無数にありますが、集約していくと、最期まで、他者の問題が残るはずだと思います。

なにしろ「思い」が執着する対象としては、世界や時間よりも「他者」の方が多いからであります。

怒りが沸くという場合でも「時間」とか「世界」の問題よりも「他者に関する」問題の方が、はるかに「怒る」

あの野郎、許さん!

となるのです(爆笑)

しかし、その、あの野郎は事実の「あの野郎」ではなく、自分の「思い」から形成された「あの野郎」であるwwwwww

実際の目の前の出来事に対して虚心であれば、思いが流れていれば、それは、そこに自己しかいないのであって自他の分離はないのである。

そこのところで、究極的には「思い」と「事実」の行ったり来たりが悟りの内容であり、そのこと自体が修行なのです。


であるからして、毎日、その「目の前の事実」に対して「解釈し続ける」あなたは、絶対に事実に触れないのである。

それが、僕やあなたは悟れないという意味であり、自己が消失するという意味なのであって、実際の自分、自己というものは残っているので有るが、それは全一の自己、つまりは時間や他者を超越した自己なのです。

自分という「思い」が沸いても流れていく。

客観視されている、その客観視している自己ですら、いないのです。

それが諸法無我の実体であり、一切清浄のことなのです!!!!

常に帰る

2015-02-25 07:21:50 | 日記
おはようございます。

本日も追い込まれておりますが、ブログ更新ですw

毎日、毎日、過ごしていく中で、迷いや疑いが、思いの中に現れて、撹乱されていくわけですが、その度に、この事実の生命の流れに、帰る。

例えば、内面世界にさ迷い出て、腹が立つということは普通にあります。

その腹が立ったのを捉えて、ああ、怒ってしまった。

怒ってしまったという事に、あれこれ、言っている時には、この事実の今が、見失われてしまっています。

怒ってしまった自分というのは、そういう風に、あったのであり、最早、それは失われているわけですが、そこに「思い」が継続することによって、いつまでたっても、同じ「怒り」が続いてしまうわけです。

知らぬが仏と言いますが、そんなことは知らぬと、流してしまう。

どこに流れていくかと言うと、この、目の前の事実の人生であります。

事実の人生とは、諸行無常に変幻していくわけですが、しかし、当の今、その夢幻の如くの変幻の一片が常にあり続けるわけです。

思いが持ち運ばれなければ、そこには、事実の、この発現だけがある。


その中に煩悩もあり、また、仏もあり、その両方が常に活動しているわけです。


そうして、この、迷っては引き戻すという活動が、延々と続いていくところが、修行が悟りである。

もともと悟っているということがあるのであります。

何やら深遠な考えがあって、それに則って、信じて行ずると言うわけではありません。

ただ、目の前に在る事実が、その通り、自己であり、その自己と事実の縁起している中に、禅生命があるのだと確認すること、確認したら、そのままでいることが、何もしないことであり、それが、悟りであり、修行であるわけです。

ですから、全く難しいことではないし、自分をどうにかする必要も無いのです。

色があるから識がある、識があるから色がある。

この不二の全一の自己の、ありのままの、姿に、ただ、帰る、帰る。

思いをなくそうとするのでもなく、有る思い、煩悩、これらを、ただ、流していくのである。


仏典にも涅槃に触れていないと書いてあります。

涅槃に身が触れているわけではない、そこを、智慧によって悟ったのである。

この智慧とは、現在に、ただ、帰っていることの繰り返しのことである。

事実への気づきの力。

つまり注意している力のことを言っているのである。


常に抵抗があって、それは煩悩であったり、迷いであったり、怒り、欲であったりするのであるが、それが、気がついて、また、現在自己に帰ってくる。

その個人と世界の行ったり来たり。

しかし、そのような中に、実際の事実は、見失われずに常にあるわけです。

涅槃とは、これらの諸活動の中に「我と言う思い」がなくなった状態であるわけですが、そのなくなったということは、実際には、有るのだが、自己が見て、それを有るということがないと言う意味なのです。

それが有るけど無い。

有るけど無い、無いけど有るというのは、この現在の、来るままの事実。

在るがままの事実のことなのです!

自他共通の心

2015-02-24 07:13:25 | 日記
おはようございます!

本日も時間に追われておりますがブログ更新したいと思います。

座禅、少しだけで出来て、気分が良いですw


ああ、思いを離れるということと自他一如とか不二とかは同じ意味であります。

また客観的な意識とか、宇宙的自己とか、一切が仏性であるとかも同じです。

また祈りとか救いとか、信仰、希望、愛、等々もすべて同じ意味なのであります。

それは、この場で生きている我々が、皆、神の子供であるという意味です。

この神というのは分けの分からないものではありますが、その創造の働きが我々の心臓を動かしたり、地球や、宇宙や、また我々の想像も及ばないような果てまで行き通っているところに我々の人生があるわけです。


そういった一切合切に現在流れている、この力は、皆平等であり、それらの生命、また物質においても創造された力のうちに、我々があるという意味においてひとつなのです。


ですから思いを離れたところでは、我々は自他に差別が無いのです。

我が思いを他者に投影するところに、差別が生まれて、戦いが起こってくるのです。

ですから、思いを手放しして、この自他の差別の無いところへ還るわけですね。

そういったことは気がついた人は、みんな、同じ事を言っているのです。

しかし、その、単純明快なる、目の前の事実に対して、我が思いを投影した人たちが、勝手な意見を上塗りしたりして、事実とかけ離れた妄想スピリチュアルが横行しているわけであります。


だいたい天照にしても、天のこの同一生命意識のことを指しているのだと、僕なんかは思うわけです。


その事実、目の前にある、この、自他共通の場である、神の御心こそが、我々の思いを離れたところの本体であり、それは不死であるわけですが、個体としての、記憶としての個の部分は、その、向こう側に吸収されてしまうわけです。

ですから永遠の生命とは、我々の、差別なしの共有された永遠なわけですね。

そこは、完全に、繋がっているわけです。

もっと平たく言っても、人間なんて、たいていが、同じように出来ているんですw

そこに執着が沸いてきても、流して流していく。

思いが沸いたら、流していく。

その手前の事実に帰っていく。

生命が流れている、物質が変幻していく、その、ここ、これ、こそが不二一切の、共有した心なのです。

思いが空っぽの心のことです。

思いが空っぽの心は、しかし、実際には無いのではなく、一切合切があるのです。

しかし個人という意味では、これは、なくなってしまうかもしれません。

無くなってしまうといっても、それは、自己の側からみたら、ないようになるだけのはなしで、その働きは、自己の体の上に流れているわけですから、実際在るのです。


そういった実際の事実の中に、宗教が在るのであって、想像の中や、思念の中で形成されてきたようなオリジナルな宗教などないのです。

元を辿れば、すべて、同じことに繋がるのです。

ただ、目の前の事実を、あるがままに見ているということです。

思いを通さずに、他者との関係を、構築していくということです。

それが、自由であり、即断の生き方であり、仏教の目指すところなのです。