昨日は1時間くらいしか眠らず朝の6時頃に起きる。
当然だるい。
あと少ししか仕事へ行かないのでやる気も低下していた。
眠る前、朝方に食事していたので朝食は摂らず出かけます。
煙草が切れていたので近くのファミマで温かいハチミツの飲み物と一緒に購入する。
職場について千鶴さんにメールをします。
休憩時間は、またツイッターとブログの閲覧。
食事休憩では他部署のKさんと話す。
パチンコの話。
明日は休みでKさんも有休でお出かけするらしい。
お金がないので津ボートでも行ったらおもしろいんじゃないかと提案される。
1000円で遊べるぞ、というお話。
仕事が終わってから、南くんから電話があったので少し話す。
今日は一緒にジムでボクササイズというプログラムを受ける予定でしたが、用が出来てこれない。
僕も睡眠不足だったので丁度良い。
家へ帰って食事をします。
鰈(かれい)だったと思うけど、魚の種類を覚えられないので間違えてるかも。
千鶴さんに電話してお話しするけど、テンションが低い。
ご飯食べる前だったらしく待ってもらって、タイミング悪かったかな。
あとでブログ見たら疲れているみたいで心配です。
それから横になったら、昨日寝ていないから、そのまま夢の中へいってしまいました。
23時半過ぎに起きてくると千鶴さんからメール&電話が……。
ごめん! おもっきり寝てたよー。
ブログを更新出来ていなかったので書く。
坂口恭平さんの『PRACTICE FOR A REVOLUTION』をエンドレスで流す。
諸法無我って最高だねの記事がいつもの閲覧数よりも多い。
なんでかなと思い、いろいろ研究した。
お風呂を追い炊きして入る。
お風呂入らずに寝たから、起きたとき気持ち悪かった。
普段気にしないのに、なぜか今日は気になった。
お風呂出てから相変わらず坂口さんの歌聴きながら、PCを閲覧する。
そういえば昨日、10月29日はグルジエフさんの命日でした。
僕が、人生で1番感銘を受けた教え。
それで昨日は気になって『人間に可能な進化の心理学』を読んだのかもしれない。
彼の生涯はとてもドラマチックです。
『Gurdjieffグルジェフ』(YouTubeの本人動画)
彼の最期に棺の前で唱えられた言葉が『グルジェフと共に』という僕の1番大好きな本に書いてあります。
少しだけ引用させて下さい。
埋葬式では、個人の徳をしのぶ追悼文を読むということを司祭が言っていたので、マダム・ド・ザルツマンと私たち夫婦が司祭の家へ行った。
司祭は、祭壇の幕が閉じた瞬間に、どういうわけか電燈が消え、追悼者たちを暗闇のなかに立たせたことを詫びた。
彼がおかしなことを言ったりしたらまずいと案じたド・ハートマンは、自分で用意しておいた追悼文を司祭に渡した。
夫はロシア教会のしきたりをよく知っているので、グルジェフの棺の前で唱える最期の言葉が、『魔術師たちの闘争』からの引用で終わるように書いておいた。
「神とすべての天使たちが、いつでもどこでも自己を想起するように人々を助け、悪行から守ってくれている。」
『グルジェフと共に』(トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン共著 前田樹子訳)より
この、いつでもどこでも自分を思い起こすということは仏陀の最期の教えである自分自身を灯火とせよと同じである。
僕は人間は元々、良心を持っているのであり、それらは何らかの行為や、思想によって形成されるものではないと理解した。
元々持っている、その仏性(自分)が眠ってしまっていることに人間生活の悲しみがある。
自分を思い起こしながら悪いことはできないのだとGは言っているんだと思う。
神とすべての天使が、いつでも、どこでも自己を想起するように人々を助け、悪行から守ってくれているとは、なんて素晴らしい言葉。
愛が溢れているってのがとても感じられる。
人間元々優しさでできているんだよね。
衆生本来仏なり。
自分自身を思い出すだけでいいんだ。
参考にグルジェフさんの生涯をウィキペディアより引用します。
時間あるときに読んでみて下さい。
グルジエフは、ギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)のアレクサンドロポル(ギュムリ)に生まれた。
生年については、公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。
グルジエフは少年時代のこととして、父から受けた独自の教育について語っている。
父は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。
グルジエフは少年時より、家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。
グルジエフの生い立ちをめぐるこのような基本的な事項や家族に関係することは近親者の証言によって確認されているが、その後のこととして、グルジエフが1910年代にロシアにあらわれるまでの前半生は、グルジエフの三冊の著作[1, 2, 3]における自伝的な記述からしかうかがい知ることができない。
しかし、それらの自伝的な記述は物語の一部でもあり、すべてを事実として読ませるように意図して書かれたとは受け取りにくい。
したがって、グルジエフの前半生に関する以下の記述をどの程度まで物語的なものと受け取るかは各人に任されている。
父は吟遊詩人でもあり、グルジエフの自伝[2]によると、父からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。
ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動になった。
グルジエフの家族はやがて、1877年の露土戦争後にロシア領となりロシアが要塞の建設を進めていたカルスへと移る。
グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学に励むとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。
これも自伝によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。
自伝によると、友人のポゴジャンを伴った最初の旅は、アルメニア民族運動を支援する結社からの密使としての役割を引き受けることで実現され、旅の途上での偶然の発見から、ふたりは旅の目的地を変更し、エジプトへと向かう。
グルジエフはそこで、みずからと目的を同じくする年配の探求者、プリンス・ルボヴェドスキーとスクリドロフ教授に出会う。
グルジエフは、みずからと目的を同じくする仲間たちと「真理の探求者たち」(Seekers of Truth)というグループを結成し、中央アジアの奥地などへの探検行をくりかえし、古代的名叡智の痕跡や隠された教えの源泉を求めて、遺跡の発掘にあたったり、隠された僧院や精神的な共同体をめぐったりし、さらには伝承・象徴・音楽・舞踏などの研究にもあたった。
グルジエフは、人間の精神に見られる各種の不可解な傾向の解明に資するものとして、催眠という現象に注目するようになる。
グルジエフは、この現象をめぐる卓越した知識と技量ゆえに「魔術師」を演じることもあったとされるが[2]、この関心の背後には、顕在意識と下意識の間での分断と、両者間の隠れた関係を探るという目的があった[1]。
それはまた、とくに戦争や内乱などのなかで顕著にあらわれる集団心理への脆弱性(suggestivity)に関する研究でもあった。
グルジエフが語るには、この放浪の時代に好んで動乱の地にみずからを置いたのは、人間の集団心理の異常性をめぐる謎の解明を目指してのことであった。
グルジエフは、ここにおいて、みずからの探求の目標が二つになったと語っている[3]。
人間にとっての生きることの意味と目的をあらゆる側面から究明し、それを正確に理解すること。
人々を容易に「集団催眠」の支配下に陥れる要因としての「外部からの影響への弱さ」を人々から取り除くための手段なり方法なりをどんな代償を払ってでも見つけること。
グルジエフはその前半生において、三回にわたって被弾し、瀕死の重傷を負ったことを回想している[3]。
それによれば、一回目は希土戦争 (1897年)の1年前のクレタ島で、二回目は1903年にイギリスによる侵攻を受ける1年前のチベットで、三回目は1904年に内乱のなかにあるトランスコーカサス地方で起きたという。
このような記述は危険な任務を想像させ、グルジエフが外部的な支援や政治的な保護にまったく頼らずにこれらの探検行を実現できたとも考えにくいため、アルメニア人あるいはギリシア人の民族運動との関係、イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐるグレート・ゲームとの関係、あるいはダライラマ13世との関係でグルジエフが果たしたかもしれない役割については憶測が絶えず、複数の研究家が自説を発表しているが、決定的な確証には乏しい。
1912年、グルジエフは遍歴の時代を終え、モスクワで小さなグループを指導するようになる。
また、同年にユリア・オストワスカと結婚する。
やがてサンクトペテルブルクでも活動するようになる。
1915年、グルジエフは、すでに神秘思想家として名の知られていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。
1916年、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。
このころのグルジエフは、みずからの教えを理論的にまとめあげることに力を入れ、のちにウスペンスキー『奇跡を求めて』に収録されて一般に知られるようになった理論や概念は、このころのグルジエフの講義に基づいている。
1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフはコーカサス山中のエッセントゥキに移り、7月から8月にかけて、そこに十数人の生徒たちを集めて、身体的な性格を増した訓練を指導する。
1918年、アレクサンドロポルに留まっていたグルジエフの父がトルコ軍に射殺される。
同年の夏までには、ロシア国内の内戦がエッセントゥキにも波及する。
グルジエフは「インダク山に金鉱を発見するための科学的探検」を偽装して、政府から許可と物資の提供を受けると、同年の8月6日、妻と主要な弟子たち(ウスペンスキーは含まれない)を連れて、エッセントゥキを脱出する。
一行は、その途上で武装勢力に足止めをされたりなどの危険を冒しながらも、5回にわたり前線を越え、徒歩でコーカサスを越えて、黒海沿岸の保養地であるソチにたどり着く。
ウスペンスキーは、グルジエフの思想に強い執着をもっていたが、グルジエフの主導する取り組みが現実的あるいは身体的な性格を増すなか、不満をつのらせるようになる。
1919年、グルジエフはグルジアのチフリス(トビリシ)に活動の拠点を移し、学院を設立する。
アレクサンドル・ド・ザルツマンとその妻のジャンヌ・ド・ザルツマンがグループに加わり、舞台芸術の分野で造詣の深い同夫妻の協力を得て、グルジエフはこの夏、のちにムーヴメンツと呼ばれるようになる神聖舞踏の初めての公演をする。
1920年、グルジアの情勢も不穏なものとなる。
5月、グルジエフは妻および30人ばかりの主要な弟子を連れて、チフリスを徒歩で脱出。
ふたたびコーカサスを越え、黒海沿岸のバトゥムの港に着く。
そこから一行は船でコンスタンチノープル(イスタンブール)に向かう。
グルジエフは、コンスタンチノープルで小規模ながら学院の再開を試み、活動を展開する。
また、作曲家のトーマス・ド・ハートマンやウスペンスキーを連れて、スーフィーの修行場を訪れたりしたことが記録されている。
ウスペンスキーはグルジエフの一行とは別行動でコンスタンチノープルに到着していたが、グルジエフとの関係は優柔不断なものであった。
1921年8月、グルジエフの一行は、コンスタンチノープルを離れてベルリンに向かう。
グルジエフの舞踏の一部のレパートリーと似た性格をもつ「リトミクス」の創始者であるエミール・ジャック=ダルクローズからの招待を受け、ドイツに学院を設立することが当初の目的であった。
不動産の取得をめぐる法律的な問題からこの計画は思うようにいかなかった。
1922年の2月と3月、グルジエフは二度にわたりロンドンを一時的に訪問するが、ここにおいてウスペンスキーとの間での対立は決定的なものとなった。
やがてウスペンスキーは、イギリスとアメリカにて、グルジエフの名前を表に出すことなく、グルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。
1922年7月、グルジエフの一行はパリに移る。
同年の秋、トルコ軍によるアルメニア人大虐殺により、グルジエフの妹のひとりであるアンナとその子供たちが犠牲となる。
1922年秋、グルジエフは、パリ近郊のフォンテーヌブローにある歴史的な城館、シャトー・プリオーレに居を定める。
グルジエフはここで「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。
学院が本格的な活動に入った直後、ニュージーランド生まれの著名な作家であるキャサリン・マンスフィールドが学院を訪れる。
彼女は結核の末期にあったため、グルジエフは彼女が学院に滞在することを最初は断るが、それによる彼女の落胆ぶりを見て、彼女からの再度の願いを受けてこれを認める[4]。
1923年1月12日、彼女は学院で生涯を終える。
その日は偶然、グルジエフが生徒たちを指揮して学院の敷地に建設した「スタディハウス」の落成を祝う日であった。
飛行船格納庫の廃材を利用して建設され、東洋風の絨毯や織物で飾り付けられたこの建物は、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである「ムーヴメンツ」の練習と演舞に使われた。
その演舞は、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。
グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカの作家や芸術家の間での反響が大きかった。
学院の活動はジャーナリズムの関心を呼び、当初、その内容は興味本位ではあっても基本的に好意的なものであったが、キャサリン・マンスフィールドがそこで死を迎えた怪しい学院という、悪意ある風評にもさらされるようになった。
1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で注目を集める。
しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。
怪我から回復したグルジエフは、外面的な活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。
『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。
これらが正式に出版されたのはグルジエフの死後である。
1926年、妻のユリア・オストワスカを癌で失う。
時期を同じくして、プリオーレに暮らしていた母もなくなる。
ふたりはフォンテーヌブローに隣接するアヴォンの墓地で、キャサリン・マンスフィールドの眠るそばに葬られた。
グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断ち、執筆に専念する。
しかし、アメリカを頻繁に訪れるようになり、パリではやがて、ソリタ・ソラノやキャサリン・ヒュームをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に新しいアプローチを試しだす。
このようにして、1930年代の後半までには、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとは趣が異なるグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれてきた。
その一方で、欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きがいっそう強まった。
1940年6月から、パリはドイツ軍の占領を受ける。
グルジエフは占領下のパリに留まり、凱旋門の近くにある自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。
グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナイン・シリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。
『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増していった。
この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国議会図書館に保存されている。
その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。
グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。
終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。
1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。
出典/参考:
グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson
グルジエフMeetings with Remarkable Men
グルジエフLife Is Real Only Then, When I Am
T. Tchechovitch Tu l'Aimeras - Souvenirs sur Georgii Ivanovitch Gurdjieff
※ウィキペディア「ゲオルギイ・グルジエフ」より引用。
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