こんばんは。
ふたたび仏教熱というか読書熱が戻ってきている豊田です。
病院からは退院してきました。
治ったわけではないですが、通院でいったん様子見のようであります。
しかし、この病というものは、死を予感させますね。
死を予感した人が感じる「惜愛」というものが仏教で説かれているそうです。
①まだ余裕がある時
財産、名誉等周囲の物を惜しむ
②体が衰弱してもうダメになった時
わたしひとりだけでもいい、何も要らない
③体が衰弱してもうダメになった時
人の役に立てなかった自分は死後どうなるのか
と、このように煩悩の極限が現生してくるのです。
これは、まあ、よく分かる話ですね。
で、それが何が原因かと言えば有名なる「貪り、怒り、愚痴」なる三毒と言われているものです。
この三毒を滅すれば安らかになる。
その三毒を滅するには「いまここ」にあることという教えが仏教なのです。
この苦集滅道という言葉は四諦と言って、ほんとに仏教の教えなのですよ。
それで生死ということが仏教の一番大事なこととして浮かび上がってくるのです。
つまり生老病死の苦しみを「生死」を見極めることで解決するのが釈迦の目覚めた道とも言えませんか。
では具体的に「いまここ」を生きるとは何なのか。
この生きているというのは目、耳、鼻、舌、体、想いが、働いているということなのです。
これが「いまここ」の事実であり、この働きのままにいることが仏道ですね。
つまり「ある」がままです。
「ただある」これが「いまここ」を生きていることです。
だれもが、そこにいるのに、なぜ「三毒」という煩悩が人を苦しめるのか。
それは自我があるからです。
この問題解決に当たって最も重要なのが「自我」であって有名な禅僧は「仏道は自己なり」と言い切っています。
つまり、この自我、自己が、自分と言うものを認めた「三毒」であるか、働きとしての先ほどの「いまここ」であるかです。
この自己が「主人公」になるとも言われます。
これは、つまり己はたった一人です。
ここまでの事実もすべて一人のことで「自分」でしかないのです。
この自分が自分になる道こそが仏道でしょう。
自分になるには自己を証することが必要です。
それを見性とか悟りと呼んでいるのであり、何も完璧な人格者のことを言っているわけではありません。
さてでは、この自分の問題を解決するには、どうすればいいのか。
それは「我」と「生命」の関係性を解決することなのです。
この二つが分裂していることが迷いであり、分裂しながらも一つであるのが仏教の道です。
つまり普段「我」が「生命」を生きていると、つまり逆に言えば生命が無くなれば「我」が死ぬと人は捉えているのです。
ところが、この「我」が見ることを止めると、生命が働いているのが「我」であるとなるのです。
つまりいまここの万法、神羅万象の動き、それこそ生命活動、そのものが我、主人公なのです。
それをどうして知ることができないのか。
ここが大きな仏教の問題なのですが、それは、我を用いて、今を知ろうとするからです。
「真実を求めることを求めず、ただ見を止むべし」
つまり、今はないのです。
これが事実であり、その我にとっては無い、今この生きている事実を楽しく精一杯、それなりに生きているのが悟りです。
あー、仕事がwwwww
遅刻しそうなんで行ってきます(笑)
ふたたび仏教熱というか読書熱が戻ってきている豊田です。
病院からは退院してきました。
治ったわけではないですが、通院でいったん様子見のようであります。
しかし、この病というものは、死を予感させますね。
死を予感した人が感じる「惜愛」というものが仏教で説かれているそうです。
①まだ余裕がある時
財産、名誉等周囲の物を惜しむ
②体が衰弱してもうダメになった時
わたしひとりだけでもいい、何も要らない
③体が衰弱してもうダメになった時
人の役に立てなかった自分は死後どうなるのか
と、このように煩悩の極限が現生してくるのです。
これは、まあ、よく分かる話ですね。
で、それが何が原因かと言えば有名なる「貪り、怒り、愚痴」なる三毒と言われているものです。
この三毒を滅すれば安らかになる。
その三毒を滅するには「いまここ」にあることという教えが仏教なのです。
この苦集滅道という言葉は四諦と言って、ほんとに仏教の教えなのですよ。
それで生死ということが仏教の一番大事なこととして浮かび上がってくるのです。
つまり生老病死の苦しみを「生死」を見極めることで解決するのが釈迦の目覚めた道とも言えませんか。
では具体的に「いまここ」を生きるとは何なのか。
この生きているというのは目、耳、鼻、舌、体、想いが、働いているということなのです。
これが「いまここ」の事実であり、この働きのままにいることが仏道ですね。
つまり「ある」がままです。
「ただある」これが「いまここ」を生きていることです。
だれもが、そこにいるのに、なぜ「三毒」という煩悩が人を苦しめるのか。
それは自我があるからです。
この問題解決に当たって最も重要なのが「自我」であって有名な禅僧は「仏道は自己なり」と言い切っています。
つまり、この自我、自己が、自分と言うものを認めた「三毒」であるか、働きとしての先ほどの「いまここ」であるかです。
この自己が「主人公」になるとも言われます。
これは、つまり己はたった一人です。
ここまでの事実もすべて一人のことで「自分」でしかないのです。
この自分が自分になる道こそが仏道でしょう。
自分になるには自己を証することが必要です。
それを見性とか悟りと呼んでいるのであり、何も完璧な人格者のことを言っているわけではありません。
さてでは、この自分の問題を解決するには、どうすればいいのか。
それは「我」と「生命」の関係性を解決することなのです。
この二つが分裂していることが迷いであり、分裂しながらも一つであるのが仏教の道です。
つまり普段「我」が「生命」を生きていると、つまり逆に言えば生命が無くなれば「我」が死ぬと人は捉えているのです。
ところが、この「我」が見ることを止めると、生命が働いているのが「我」であるとなるのです。
つまりいまここの万法、神羅万象の動き、それこそ生命活動、そのものが我、主人公なのです。
それをどうして知ることができないのか。
ここが大きな仏教の問題なのですが、それは、我を用いて、今を知ろうとするからです。
「真実を求めることを求めず、ただ見を止むべし」
つまり、今はないのです。
これが事実であり、その我にとっては無い、今この生きている事実を楽しく精一杯、それなりに生きているのが悟りです。
あー、仕事がwwwww
遅刻しそうなんで行ってきます(笑)