初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
天地の道理に自法を持ち込まない、手を付けない、流れるままに自由な、皆様。
嫁様が鈴鹿ベルシティへ買い物へ行ったので、ちょっと寂しいけど、自由な豊田です、笑
本日は朝の11時くらいに1度、悠聖に起こされて、また寝入り、午後12時半ごろに再び起きてきました。
起きるなり「お母さんとベルシティ行ってくるでキャッシュカードちょうだい」と千鶴様が仰います。
「入ってへんで」と僕。
「はあ?」
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と言いながらも、一応、持って行ったようだ。
このダメ人間ダメマは、飲み食い代を馬鹿のように使っていたのだった……orz
まあ誘われすぎなんだよねえ、誰かさんに、苦笑
まあ、このような頭の中の独り言とは関係なく、千鶴さんはサッサと出かけて行きました。
それから僕は洗面を済ませて、座禅を15分間、行います。
身体の固くなっている部分や、注意の続かない傾向、姿勢の悪さに、僅かに、気が付くようになってきた。
また、想念の流れに惹かれていた時のことと、また新たに、注意を向ける瞬間にも気が付く。
これは、もっとやっていくと、全然ダメダメだなあと分かるようになるのだ。
そして、この、全然ダメダメだなあと気が付いている状態こそ、良い状態なのである、実は、笑
座禅を終えると、コーヒーを入れて、読書ですね。
ああ、懐かしや、この習慣。
やっぱり、この生活が一番いいのだが、なぜか、嫁様がいなくなると崩壊するのであるww
玄関脇で読むのだが、隣家の畑から、草刈の音がブイイイイインと鳴ってくるので、煩い。
しかし、このイライラの中心に注意を向けると、というか、逆に、苛々に突っ込んで、それを感じてみると、すり抜けてしまうのである。
安心が一番大切であって、教えは様々にあるが、別にどれが偉いとかないのだと書いてある。
それは、そうなのかもしれない。
僕も、真我の安心の中にいるのと、天地の道理の中にあるのと、どちらが本当だろうと迷うが、やっぱり、どっちも本当に違いないのだ。
認識外、つまり、内が虚であるときに、内部に注意を向けると、真我と感じ、外部に目を向けると天地の道理の、そのまんまと感じているだけである。
しかも、それも、あとからの認識なのだ。
認識の以前に、もはや、行為は成立しているのである。
これを科学では『受動意識仮設』というらしいが、まるでグルジェフさんの指摘していたことと一緒だな、笑
まあ、でも、動作中枢という概念がないだけなんだろうけどね。
脊髄自体に、記憶し、判断する、反射する、機能が、あるわけで、そこが、刺激を受けて動くわけだ。
もちろん思考中枢は後から、それを認識しているのだが、一般的に無意識と言われている、首の後ろにある大円鏡、
つまり高次の思考センターは、活動して、それを、管轄している。
だから、無意識が、意識に上った人は、この機械的人間を卒業できるのだ。
具体的には、理性が、それを捉え続けることで、行為を止めたり、始めたりできるようになる。
その理性の燃料が、忍耐力なのである。
忍耐することで理性が鍛えられて、次第に、自動的ではなくなるのだが、その前に、この体を感じ取っている、また感情の揺らぎを感じ取っている必要がある。
超スピーディなのである、感情は、とくに微細である。
だから、様々な、注意と努力が必要なのだ。
お釈迦様も、完全なる注意と、完全なる努力によって、解脱すると言います。
しかし、もっと行くと、この世界は、実は、最初から、自由なのだと気が付くのであって、これらは方法、教えなのであります。
ところが、このような、何らかの教えで、自分が何かに気が付く、または感情が解放されると、この方法、手段、教えに執着するということが起こるのです。
山を登るのに方法は、たくさんあるはずですが、頂上に上った人が、自分の道だけを正しいと思う。
また、悟りというものを言葉にして、また、体験の記憶として持ち運ぶ。
このようなことで、常人では考えられないほどの、凄まじい執着心が生まれてきます。
また、自分は正しくて、他者の説く法は誤りだとなります。
そして敬虔なる心を持つ宗教者たちの戦争が、世界各地で今日も繰り広げられるのでした。
阿部さん VS MAKIさんのようにね、笑
って、なんの話だったかな。
ああ。
そー、煙草とコーヒーを楽しみながらの読書を終えると、台所で、嫁の作ったサンドイッチを2切れ食べ、母親の家へ行って、ブログを更新しているのでありました。
んじゃ、またー!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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こんにちは。
天地の道理に自法を持ち込まない、手を付けない、流れるままに自由な、皆様。
嫁様が鈴鹿ベルシティへ買い物へ行ったので、ちょっと寂しいけど、自由な豊田です、笑
本日は朝の11時くらいに1度、悠聖に起こされて、また寝入り、午後12時半ごろに再び起きてきました。
起きるなり「お母さんとベルシティ行ってくるでキャッシュカードちょうだい」と千鶴様が仰います。
「入ってへんで」と僕。
「はあ?」
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このダメ人間ダメマは、飲み食い代を馬鹿のように使っていたのだった……orz
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まあ、このような頭の中の独り言とは関係なく、千鶴さんはサッサと出かけて行きました。
それから僕は洗面を済ませて、座禅を15分間、行います。
身体の固くなっている部分や、注意の続かない傾向、姿勢の悪さに、僅かに、気が付くようになってきた。
また、想念の流れに惹かれていた時のことと、また新たに、注意を向ける瞬間にも気が付く。
これは、もっとやっていくと、全然ダメダメだなあと分かるようになるのだ。
そして、この、全然ダメダメだなあと気が付いている状態こそ、良い状態なのである、実は、笑
座禅を終えると、コーヒーを入れて、読書ですね。
ああ、懐かしや、この習慣。
やっぱり、この生活が一番いいのだが、なぜか、嫁様がいなくなると崩壊するのであるww
玄関脇で読むのだが、隣家の畑から、草刈の音がブイイイイインと鳴ってくるので、煩い。
しかし、このイライラの中心に注意を向けると、というか、逆に、苛々に突っ込んで、それを感じてみると、すり抜けてしまうのである。
安心が一番大切であって、教えは様々にあるが、別にどれが偉いとかないのだと書いてある。
それは、そうなのかもしれない。
僕も、真我の安心の中にいるのと、天地の道理の中にあるのと、どちらが本当だろうと迷うが、やっぱり、どっちも本当に違いないのだ。
認識外、つまり、内が虚であるときに、内部に注意を向けると、真我と感じ、外部に目を向けると天地の道理の、そのまんまと感じているだけである。
しかも、それも、あとからの認識なのだ。
認識の以前に、もはや、行為は成立しているのである。
これを科学では『受動意識仮設』というらしいが、まるでグルジェフさんの指摘していたことと一緒だな、笑
まあ、でも、動作中枢という概念がないだけなんだろうけどね。
脊髄自体に、記憶し、判断する、反射する、機能が、あるわけで、そこが、刺激を受けて動くわけだ。
もちろん思考中枢は後から、それを認識しているのだが、一般的に無意識と言われている、首の後ろにある大円鏡、
つまり高次の思考センターは、活動して、それを、管轄している。
だから、無意識が、意識に上った人は、この機械的人間を卒業できるのだ。
具体的には、理性が、それを捉え続けることで、行為を止めたり、始めたりできるようになる。
その理性の燃料が、忍耐力なのである。
忍耐することで理性が鍛えられて、次第に、自動的ではなくなるのだが、その前に、この体を感じ取っている、また感情の揺らぎを感じ取っている必要がある。
超スピーディなのである、感情は、とくに微細である。
だから、様々な、注意と努力が必要なのだ。
お釈迦様も、完全なる注意と、完全なる努力によって、解脱すると言います。
しかし、もっと行くと、この世界は、実は、最初から、自由なのだと気が付くのであって、これらは方法、教えなのであります。
ところが、このような、何らかの教えで、自分が何かに気が付く、または感情が解放されると、この方法、手段、教えに執着するということが起こるのです。
山を登るのに方法は、たくさんあるはずですが、頂上に上った人が、自分の道だけを正しいと思う。
また、悟りというものを言葉にして、また、体験の記憶として持ち運ぶ。
このようなことで、常人では考えられないほどの、凄まじい執着心が生まれてきます。
また、自分は正しくて、他者の説く法は誤りだとなります。
そして敬虔なる心を持つ宗教者たちの戦争が、世界各地で今日も繰り広げられるのでした。
阿部さん VS MAKIさんのようにね、笑
って、なんの話だったかな。
ああ。
そー、煙草とコーヒーを楽しみながらの読書を終えると、台所で、嫁の作ったサンドイッチを2切れ食べ、母親の家へ行って、ブログを更新しているのでありました。
んじゃ、またー!